騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨がる者は、陵とその幕僚数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極みというほかはない。その歩兵も僅か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山は、最も近い漢塞の居延からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ちはじめると決って漢の北辺には、胡馬に鞭うった剽悍な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠められ、家畜が奪略される。五原・朔方・雲中・上谷・雁門などが、その例年の被害地である。大将軍衛青・嫖騎将軍霍去病の武略によって一時漠南に王庭なしといわれた元狩以後元鼎へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病が死んでから十八年、衛青が歿してから七年。野侯趙破奴は全軍を率いて虜に降り、光禄勲徐自為の朔北に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋ぐに足る将帥としては、わずかに先年大宛を遠征して武名を挙げた弐師将軍李広利があるにすぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉を出た。しきりに西辺を窺う匈奴の右賢王を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重のことに当たらせようとした。未央宮の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉・張掖に在って射を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出で、側面から匈奴の軍を牽制したいという陵の嘆願には、武帝も頷くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手好きな武帝は大いに欣んで、その願いを容れた。李陵は西、張掖に戻って部下の兵を勒するとすぐに北へ向けて進発した。当時居延に屯していた彊弩都尉路博徳が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙いことになってきた。元来この路博徳という男は古くから霍去病の部下として軍に従い、離侯にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波将軍として十万の兵を率いて南越を滅ぼした老将である。その後、法に坐して侯を失い現在の地位に堕されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴の馬は肥え、寡兵をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒には些か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉・張掖の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河に侵入したとあれば、汝はさっそく陵を残して西河に馳せつけ敵の道を遮れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北に至り東は浚稽山から南は竜勒水の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、野侯の故道に従って受降城に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈しい詰問のあったことは言うまでもない。寡兵をもって敵地に徘徊することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引力と、冬へかけての胡地の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋の煬帝や始皇帝などと共通した長所と短所とを有っていた。愛寵比なき李夫人の兄たる弐師将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛から引揚げようとして帝の逆鱗にふれ、玉門関をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自ら乞うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
浚稽山の山間には十日余留まった。その間、日ごとに斥候を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下の陳歩楽という者が身に帯びて、単身都へ馳せるのである。選ばれた使者は、李陵に一揖してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨ると、一鞭あてて丘を駈下りた。灰色に乾いた漠々たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
十日の間、浚稽山の東西三十里の中には一人の胡兵をも見なかった。
彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師将軍はいったん右賢王を破りながら、その帰途別の匈奴の大軍に囲まれて惨敗した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂は彼らの耳にも届いている。李広利を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※[#「木+于」、U+6745、10-7]将軍公孫敖が西河・朔方の辺で禦いでいる(陵と手を分かった路博徳はその応援に馳せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴の主力は現在、陵の軍の止営地から北方居水までの間あたりに屯していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々たる一面の平沙、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹か隼かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵をも見ないのである。
山峡の疎林の外れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星が、青白い光芒を斜めに曳いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨が見るともなくこの爛々たる狼星を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
歩哨の報告に接した李陵は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷のごとき鼾声を立てて熟睡した。
翌朝李陵が目を醒まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟と盾とを持った者が前列に、弓弩を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾んだ二つの山はまだ暁暗の中に森閑とはしているが、そこここの巌蔭に何かのひそんでいるらしい気配がなんとなく感じられる。
朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴は、単于がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧いた。天地を撼がす喊声とともに胡兵は山下に殺到した。胡兵の先登が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声が響く。たちまち千弩ともに発し、弦に応じて数百の胡兵はいっせいに倒れた。間髪を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者らが襲いかかる。匈奴の軍は完全に潰えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首を挙げること数千。
鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡いていた旗印から見れば、紛れもなく単于の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城へという前日までの予定を変えて、半月前に辿って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
南行三日めの午、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句、いつかは最後の止めを刺そうとその機会を窺っているのである。
かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執って闘わしめ、両創を蒙る者にもなお兵車を助け推さしめ、三創にしてはじめて輦に乗せて扶け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体はすべて曠野に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車中に男の服を纏うた女を発見した。全軍の車輛について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮に遇ったとき、その妻子等が逐われて西辺に遷り住んだ。それら寡婦のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客とする娼婦となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間の凹地に引出された女どもの疳高い号泣がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体三千余。連日の執拗なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄かに奮い立った形である。次の日からまた、もとの竜城の道に循って、南方への退行が始まる。匈奴はまたしても、元の遠巻き戦術に還った。五日め、漢軍は、平沙の中にときに見出される沼沢地の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘も脛を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原が続く。風上に廻った匈奴の一隊が火を放った。朔風は焔を煽り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿りついたとたんに、先廻りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。人馬入乱れての搏兵戦である。騎馬隊の烈しい突撃を避けるため、李陵は車を棄てて、山麓の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于とその親衛隊とに向かって、一時に連弩を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍をまとった胡主はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
この日捕えた胡虜の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于は漢兵の手強さに驚嘆し、己に二十倍する大軍をも怯れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還そうということに決まったという。これを聞いて、校尉韓延年以下漢軍の幕僚たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微かに湧いた。
翌日からの胡軍の攻撃は猛烈を極めた。捕虜の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴らは遮二無二漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体を遺して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚一同些かホッとしたことは争えなかった。
その晩、漢の軍侯、管敢という者が陣を脱して匈奴の軍に亡げ降った。かつて長安都下の悪少年だった男だが、前夜斥候上の手抜かりについて校尉・成安侯韓延年のために衆人の前で面罵され、笞打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間で斬に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣に亡げて単于の前に引出されるや、伏兵を懼れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋を極めている。漢軍の中心をなすものは、李将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟をもって印としているゆえ、明日胡騎の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅するであろう、云々。単于は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
翌日、李陵韓延年速かに降れと疾呼しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟を失ったものは車輻を斬ってこれを持ち、軍吏は尺刀を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭くなる。胡卒は諸所の崖の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍と石とでもはや前進も不可能になった。
その夜、李陵は小袖短衣の便衣を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡から覗いて谷間に堆い屍を照らした。浚稽山の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡の斜面は水に濡れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺った。遠く山上の敵塁から胡笳の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀に腰を下した。全軍斬死のほか、途はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏の一人が口を切り、先年野侯趙破奴が胡軍のために生擒られ、数年後に漢に亡げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵をもって、かくまで匈奴を震駭させた李陵であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途を知りたもうであろうというのである。李陵はそれを遮って言う。陵一個のことはしばらく措け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様では、明日の天明には全軍が坐して縛を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞に辿りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は汗山北方の山地に違いなく、居延まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途はないではないか。諸将僚もこれに頷いた。全軍の将卒に各二升の糒と一個の冰片とが頒たれ、遮二無二、遮虜に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗を倒しこれを斬って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧れのあるものも皆打毀した。夜半、鼓して兵を起こした。軍鼓の音も惨として響かぬ。李陵は韓校尉とともに馬に跨がり壮士十余人を従えて先登に立った。この日追い込まれた峡谷の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早い月はすでに落ちた。胡虜の不意を衝いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬に鞭うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵はまた峡谷の入口の修羅場にとって返した。身には数創を帯び、自らの血と返り血とで、戎衣は重く濡れていた。彼と並んでいた韓延年はすでに討たれて戦死していた。麾下を失い全軍を失って、もはや天子に見ゆべき面目はない。彼は戟を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰って失神した。馬から顛落した彼の上に、生擒ろうと構えた胡兵どもが十重二十重とおり重なって、とびかかった。
九月に北へ立った五千の漢軍は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞に辿りついた。敗報はただちに駅伝をもって長安の都に達した。
武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利の大軍さえ惨敗しているのに、一支隊たる李陵の寡軍にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛」の報をもたらした陳歩楽だけは(彼は吉報の使者として嘉せられ郎となってそのまま都に留まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕えられて虜に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈しさは壮時に超えている。神仙の説を好み方士巫覡の類を信じた彼は、それまでに己の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑を植えつけていった。李蔡・青霍・趙周と、丞相たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀のごとき、命を拝したときに己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢汲黯が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣にあらずんば酷吏であった。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉が常に帝の顔色を窺い合法的に法を枉げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを詰ったところ、これに答えていう。前主の是とするところこれが律となり、後主の是とするところこれが令となる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相公孫賀、御史大夫杜周、太常、趙弟以下、誰一人として、帝の震怒を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵る。陵のごとき変節漢と肩を比べて朝に仕えていたことを思うといまさらながら愧ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟に当たる李敢が太子の寵を頼んで驕恣であることまでが、陵への誹謗の種子になった。口を緘して意見を洩らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有つものだったが、それも数えるほどしかいない。
ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃をあげて、その行を壮んにした連中ではなかったか。漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃えたのもまた同じ連中ではないのか。恬として既往を忘れたふりのできる顕官連や、彼らの諂諛を見破るほどに聡明ではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫の一人として朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠に国士のふうありというべく、今不幸にして事一度破れたが、身を全うし妻子を保んずることをのみただ念願とする君側の佞人ばらが、この陵の一失を取上げてこれを誇大歪曲しもって上の聡明を蔽おうとしているのは、遺憾この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮まるに至るもなお全軍空弩を張り、白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向こう見ずなその男――太史令・司馬遷が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子の臣」の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故あって弐師将軍と隙あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞して功のなかった弐師将軍を陥れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀を司るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉に下された。刑は宮と決まった。
支那で昔から行なわれた肉刑の主なるものとして、黥、(はなきる)、(あしきる)、宮、の四つがある。武帝の祖父・文帝のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。
司馬氏は元周の史官であった。後、晋に入り、秦に仕え、漢の代となってから四代目の司馬談が武帝に仕えて建元年間に太史令をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律・暦・易のほかに道家の教えに精しくまた博く儒、墨、法、名、諸家の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見をもって綜べて自己のものとしていた。己の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子の遷に受嗣がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
元封元年に武帝が東、泰山に登って天を祭ったとき、たまたま周南で病床にあった熱血漢司馬談は、天子始めて漢家の封を建つるめでたきときに、己一人従ってゆくことのできぬのを慨き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集のみで終わってしまったのである。その臨終の光景は息子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起ちがたきを知るや遷を呼びその手を執って、懇ろに修史の必要を説き、己太史となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟を空しく地下に埋もれしめる不甲斐なさを慨いて泣いた。「予死せば汝必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾それ念えやと繰返したとき、遷は俯首流涕してその命に背かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷は太史令の職を継いだ。父の蒐集した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記の編纂に着手した。遷、ときに年四十二。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝や国語になると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子に倣って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異にした述而不作である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝の反文化政策によって湮滅しあるいは隠匿されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興らんとする気運が鬱勃として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。司馬遷個人としては、父の遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然たるものを生み出すべく醗酵しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀から夏殷周秦本紀あたりまでは、彼も、材料を按排して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩ヲ為リテ曰ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何ニセン」ト。歌フコト数、美人之ニ和ス。項王泣数行下ル。左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノ莫シ……。
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
調子のよいときの武帝は誠に高邁闊達な・理解ある文教の保護者だったし、太史令という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周の擠陥讒誣による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年ののち、突然、この禍が降ったのである。
薄暗い蚕室の中で――腐刑施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬に遭うこと、死を賜うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死する己の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵を褒め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋な宮刑にあおうとは! 迂闊といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判ってくるのだと。司馬遷は自分を男だと信じていた。文筆の吏ではあっても当代のいかなる武人よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂の刑なら自分の行く手に思い画くことができたのである。それが齢五十に近い身で、この辱しめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉を破った。
痛憤と煩悶との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢から異なった彼の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨んだ。一時はその怨懣だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨のために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく措くとするも、仁君文帝も名君景帝も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷は極度の憤怨のうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の作せる疾風暴雨霹靂に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤りへと駆ったが、また一方、逆に諦観へも向かわせようとする。怨恨が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心の高い彼にとって、彼ら小人輩は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪しからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相公孫賀のごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛迎合を事としても、杜周(最近この男は前任者王卿を陥れてまんまと御史大夫となりおおせた)のような奴は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
司馬遷は最後に忿懣の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別拙かったとは考えぬ。阿諛に堕するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解されようと腰斬にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒えることもあろうが、己が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
茫然とした虚脱の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一月狂乱にとり紛れて己が畢生の事業たる修史のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻む役目を隠々のうちにつとめていたことに気がついた。
十年前臨終の床で自分の手をとり泣いて遺命した父の惻々たる言葉は、今なお耳底にある。しかし、今疾痛惨怛を極めた彼の心の中に在ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡しい態のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然として自らを恃する自覚ではない。恐ろしく我の強い男だったが、今度のことで、己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張ってみたところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
当座の盲目的な獣の呻き苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫たる太史令司馬遷は天漢三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡きものと思い込む必要があったのである。
五月ののち、司馬遷はふたたび筆を執った。歓びも昂奮もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打たれて、傷ついた脚を引摺りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令に取立てたが、官職の黜陟のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊にでも取り憑かれているようなすさまじさを、人々は緘黙せる彼の風貌の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
凄惨な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌の中のすさまじさも全然和らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者とか閹奴とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌してくると、たちまちカーッと、焼鏝をあてられるような熱い疼くものが全身を駈けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。
乱軍の中に気を失った李陵が獣脂を灯し獣糞を焚いた単于の帳房の中で目を覚ましたとき、咄嗟に彼は心を決めた。自ら首刎ねて辱しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償うに足る手柄を土産として――か、この二つのほかに途はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
単于は手ずから李陵の縄を解いた。その後の待遇も鄭重を極めた。且侯単于とて先代の犁湖単于の弟だが、骨骼の逞しい巨眼赭髯の中年の偉丈夫である。数代の単于に従って漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強い敵に遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広の名を引合いに出して陵の善戦を讃めた。虎を格殺したり岩に矢を立てたりした飛将軍李広の驍名は今もなお胡地にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴のふうであった。ここでは、強き者が辱しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧と数十人の侍者とを与えられ賓客の礼をもって遇せられた。
李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳穹盧、食物は羶肉、飲物は酪漿と獣乳と乳醋酒。着物は狼や羊や熊の皮を綴り合わせた旃裘。牧畜と狩猟と寇掠と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于直轄地のほかは左賢王右賢王左谷蠡王右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐って土地を変える。
李陵には土地は与えられない。単于麾下の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙があったら単于の首でも、と李陵は狙っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地にあって単于と刺違えたのでは、匈奴は己の不名誉を有耶無耶のうちに葬ってしまうこと必定ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于の幕下には、李陵のほかにも漢の降人が幾人かいた。その中の一人、衛律という男は軍人ではなかったが、丁霊王の位を貰って最も重く単于に用いられている。その父は胡人だが、故あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉李延年の事に坐するのを懼れて、亡げて匈奴に帰したのである。血が血だけに胡風になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且侯単于の帷幄に参じてすべての画策に与かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人の降って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞うたことがある。それは東胡に対しての戦いだったので、陵は快く己が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
単于の長子・左賢王が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目な青年である。強き者への讃美が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧い。ことに、裸馬を駆る技術に至っては遙かに陵を凌いでいるので、李陵はただ射だけを教えることにした。左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広の射における入神の技などを語るとき、蕃族の青年は眸をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅かの供廻りを連れただけで二人は縦横に曠野を疾駆しては狐や狼や羚羊やや雉子などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙かに駈抜いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀をもって見事に胴斬りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕の中で今日の獲物を羹の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜るとき、李陵は火影に顔を火照らせた若い蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋に匈奴がまたもや雁門を犯した。これに酬いるとて、翌四年、漢は弐師将軍李広利に騎六万歩七万の大軍を授けて朔方を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉路博徳にこれを援けしめた。ひいて因※[#「木+于」、U+6745、39-13]将軍公孫敖は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃将軍韓説は歩三万をもって五原を、それぞれ進発する。近来にない大北伐である。単于はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水(ケルレン河)北方の地に移し、自ら十万の精騎を率いて李広利・路博徳の軍を水南の大草原に邀え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵に師事する若き左賢王は、別に一隊を率いて東方に向かい因※[#「木+于」、U+6745、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己を発見して愕然とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打破られた公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉で牢に繋がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から降った李将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※[#「木+于」、U+6745、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西(李陵の家は隴西の出である)の士大夫ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致された一漢卒の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶の呻きを洩らした。陵の手が無意識のうちにその男の咽喉を扼していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房の外へ飛出した。
めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇させてしまうのであろう。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広の最期を思った。(陵の父、当戸は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹てながら、君側の姦佞に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位封侯を得て行くのに、廉潔な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下の一軍吏が虎の威を借りて李広を辱しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自ら首刎ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶えている。……
陵の叔父(李広の次男)李敢の最後はどうか。彼は父将軍の惨めな死について衛青を怨み、自ら大将軍の邸に赴いてこれを辱しめた。大将軍の甥にあたる嫖騎将軍霍去病がそれを憤って、甘泉宮の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
司馬遷の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于の首でも持って胡地を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒という者がある。元、塞外都尉として奚侯城を守っていた男だが、これが匈奴に降ってから常に胡軍に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵は思った。同じ李将軍で、李緒とまちがえられたに違いないのである。
その晩、彼は単身、李緒の帳幕へと赴いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃れた。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要らぬと単于は言う。だが母の大閼氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾のすべてをそのまま引きついで己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山(額林達班嶺)の麓に身を避けた。
まもなく問題の大閼氏が病死し、単于の庭に呼戻されたとき、李陵は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与らなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王に任じ、己が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇なく妻としたのである。ちょうど酒泉張掖の辺を寇掠すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山の麓を過ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌、太始元年、且侯単于が死んで、陵と親しかった左賢王が後を嗣いだ。狐鹿姑単于というのがこれである。
匈奴の右校王たる李陵の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅された怨みは骨髄に徹しているものの、自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬を駆って曠野に飛び出す。秋天一碧の下、々と蹄の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸に下り、馬に飲かう。それから己は草の上に仰向けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落の潔さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子のみ、なんぞまた漢と胡とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨がり、がむしゃらに駈け出す。終日乗り疲れ黄雲が落暉にずるころになってようやく彼は幕営に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
司馬遷が陵のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初め一概に野卑滑稽としか映らなかった胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精力を貯えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて先代の且侯単于の言った言葉を李陵は憶えている。漢の人間が二言めには、己が国を礼儀の国といい、匈奴の行ないをもって禽獣に近いと看做すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を嫉むこと、漢人と胡人といずれかはなはだしき? 色に耽り財を貪ること、またいずれかはなはだしき? 表べを剥ぎ去れば畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉相喰む内乱や功臣連の排斥擠陥の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人たる彼は今までにも、煩瑣な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗の粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
彼の妻はすこぶる大人しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝に匍上がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然とするのであった。
陵が匈奴に降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将蘇武が胡地に引留められていた。
元来蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚えられることになってしまった。単于は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅かしてこれを降らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯んじないばかりか、辱しめを避けようと自ら剣を取って己が胸を貫いた。昏倒した蘇武に対する胡の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎をつくり火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈んで血を出させたと漢書には誌されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶したのちにまた息を吹返した。且侯単于はすっかり彼に惚れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復すると、例の近臣衛律をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈に遭い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖の中に幽閉されたとき旃毛を雪に和して喰いもって飢えを凌いだ話や、ついに北海(バイカル湖)のほとり人なき所に徙されて牡羊が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵が悶々の余生を胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵までその葬を送った。蘇武の妻が良人のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁した噂を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、はからずも自分が匈奴に降るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙か北方に遷されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己の家族が戮せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐鹿姑単于が父の後を嗣いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
姑且水を北に溯り居水との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海の碧い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被った鬚ぼうぼうの熊のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監蘇子卿の俤を見出してからも、先方がこの胡服の大官を前の騎都尉李少卿と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武のほうでは陵が匈奴に事えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に在って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
陵の供廻りどもの穹廬がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙った。
己が胡服を纏うに至った事情を話すことは、さすがに辛かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※王[#「革+干」、U+976C、49-11]が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、U+976C、49-12]王の死後は、凍てついた大地から野鼠を掘出して、飢えを凌がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が剽盗どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人、自分は売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍の色を、豪奢な貂裘をまとうた右校王李陵はなによりも恐れた。
十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎に残してきた。
李陵は単于からの依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱めるには当たらないと思ったからである。
南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる。
李陵自身、匈奴への降服という己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
数年後、今一度李陵は北海のほとりの丸木小舎を訪ねた。そのとき途中で雲中の北方を戍る衛兵らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守以下吏民が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪に相違ない。李陵は武帝の崩じたのを知った。北海の滸に到ってこのことを告げたとき、蘇武は南に向かって号哭した。慟哭数日、ついに血を嘔くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯さを疑うものではない。その純粋な烈しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬えようもなく清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出る最も親身な自然な愛情)が湛えられていることを、李陵ははじめて発見した。
李陵は己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝の死と昭帝の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵の故人・隴西の任立政ら三人であった。
その年の二月武帝が崩じて、僅か八歳の太子弗陵が位を嗣ぐや、遺詔によって侍中奉車都尉霍光が大司馬大将軍として政を輔けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己の刀環を撫でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応えるべきかを知らない。
公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令が降り万民は太平の仁政を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟・上官少叔が主上を輔けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律をもって完全に胡人になり切ったものと見做して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚った。ただ霍光と上官桀との名を挙げて陵の心を惹こうとしたのである。陵は黙して答えない。しばらく立政を熟視してから、己が髪を撫でた。その髪も椎結とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字を呼んだ。少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟と上官少叔からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易い。だが、また辱しめを見るだけのことではないか? 如何?」言葉半ばにして衛律が座に還ってきた。二人は口を噤んだ。
会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧れたためではない。
後五年、昭帝の始元六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑中で得た雁の足に蘇武の帛書がついていた云々というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地に来た常恵という者が漢使に遭って蘇武の生存を知らせ、この嘘をもって武を救出すように教えたのであった。さっそく北海の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭につれ出された。李陵の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡に降ったときの己の志が那辺にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
径万里兮度沙幕
為君将兮奮匈奴
路窮絶兮矢刃摧
士衆滅兮名已
老母已死雖欲報恩将安帰
為君将兮奮匈奴
路窮絶兮矢刃摧
士衆滅兮名已
老母已死雖欲報恩将安帰
歌っているうちに、声が顫え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった。
蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
司馬遷はその後も孜々として書き続けた。
この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである。あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは藺相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。楚の屈原の憂憤を叙して、そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
稿を起こしてから十四年、腐刑の禍に遭ってから八年。都では巫蠱の獄が起こり戻太子の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史がひととおりでき上がった。これに増補改刪推敲を加えているうちにまた数年がたった。史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝の崩御に近いころであった。
列伝第七十太史公自序の最後の筆を擱いたとき、司馬遷は几に凭ったまま惘然とした。深い溜息が腹の底から出た。目は庭前の槐樹の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉の声に耳をすましているようにみえた。歓びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷い虚脱の状態が来た。憑依の去った巫者のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄けた。武帝の崩御も昭帝の即位もかつてのさきの太史令司馬遷の脱殻にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
前に述べた任立政らが胡地に李陵を訪ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡かった。
蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年に胡地で死んだということのほかは。
すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑単于は死に、その子壺衍単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王、右谷蠡王の内紛があり、閼氏や衛律らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難くない。
漢書の匈奴伝には、その後、李陵の胡地で儲けた子が烏籍都尉を立てて単于とし、呼韓邪単于に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝の五鳳二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。