「土」に就て
漱石
「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。
 當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫ぎりに打ちつたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
 冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
 すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
 余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
 尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
 人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特ユニークである。其獨特ユニークな點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特ユニークなのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
 作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度アクセレレーシヨンの興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土のしたへ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧からして來るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所々ところ/″\」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
 長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
(明治四十五年五月)
[#改丁]



         一

 はげしい西風にしかぜえぬおほきなかたまりをごうつとちつけてはまたごうつとちつけてみなやせこけた落葉木らくえふぼくはやしを一にちいぢとほした。えだ時々とき/″\ひう/\と悲痛ひつうひゞきてゝいた。みじかふゆはもうちかけて黄色きいろひかり放射はうしやしつゝ目叩またゝいた。さうして西風にしかぜはどうかするとぱつたりんでしまつたかとおもほどしづかになつた。どろ拗切ちぎつてげたやうなくも不規則ふきそくはやしうへ凝然ぢつとひつゝいてそらはまださわがしいことをしめしてる。それで時々とき/″\おもしたやうにえだがざわ/″\とる。世間せけんにはかこゝろぼそくなつた。
 おしな天秤てんびんおろした。おしなたけみじか天秤てんびんさきえだこしらへたちひさなかぎをぶらさげてそれで手桶てをけけてた。おしな百姓ひやくしやう隙間すきまにはむらから豆腐とうふ仕入しいれてては二三ヶそんあるいてるのがれいである。手桶てをけすだけのことだから資本もとでいらないかはりにはまうけうすいのであるが、それでも百姓ひやくしやうばかりしてるよりも日毎ひごとえた小遣錢こづかひせんれるのでもうしばらくさうしてた。手桶てをけ一提ひとさげ豆腐とうふではいつものところをぐるりとまはれば屹度きつとなくなつた。かへりには豆腐とうふこはれでいくらかしろくなつたみづてゝ天秤てんびんかるくなるのである。おしな何時いつでものあるうちになべになはわらみずけていたり、落葉おちばさらつてたりそこらこゝらとうごかすことをめなかつた。天性丈夫ぢやうぶなのでおしな仕事しごとくるしいとおもつたことはなかつた。
 それがこの自分じぶんでもひどいやであつたが、冬至とうじるから蒟蒻こんにやく仕入しいれをしなくちやらないといつて無理むりたのであつた。冬至とうじといふと俄商人にはかあきうどがぞく/\と出來できるのでいそいで一ぺんあるかないと、その俄商人にはかあきうどせんされてしまふのでおしなはどうしても凝然ぢつとしてはられなかつた。蒟蒻こんにやくむらにはいので、仕入しいれをするのには田圃たんぼえたりはやしとほつたりしてとほくへかねばならぬ。それでおしなその途中とちうあきなひをしようとおもつて豆腐とうふかついでた。生憎あいにくよるからつてそらにははげしい西風にしかぜつて、それにさからつてくおしな自分じぶんひど足下あしもとのふらつくのをかんじた。ぞく/\と身體からだえた。さうして豆腐とうふたびみづ刺込さしこむのがふるへるやうにみた。かさ/\に乾燥かわいたみづへつけるたびあかくなつた。ひゞがぴり/\といたんだ。懇意こんいなそここゝでおしな落葉おちば一燻ひとくいてもらつてはかざしてやつあたゝまつた。蒟蒻こんにやく仕入しいれてときはそんなこんなでひまをとつて何時いつになくおそかつた。おしなはやしいくつもぎて自分じぶんむらいそいだが、つかれもしたけれどものういやうな心持こゝろもちがして幾度いくたび路傍みちばたおろしてはやすみつゝたのである。
 おしな手桶てをけよこたへたたけ天秤てんびんけてどかりとひざつた。ぐつたりつたおしなはそれでなくても不見目みじめ姿すがたさら檢束しどけなくみだれた。西風にしかぜ餘波なごりがおしなうしろからいた。さうして西風にしかぜうしろくゝつたきたな手拭てぬぐひはしまくつて、あぶられたほこりだらけのあかかみきあげるやうにしてそのあかだらけの首筋くびすぢ剥出むきだしにさせてる。それともはやし雜木ざふきはまだ持前もちまへさわぎをめないで、路傍みちばたこずゑがずつとしなつておしなうへからそれをのぞかうとすると、うしろからも/\はやしこずゑが一せいくびす。さうしてしばらくしてはまたせいうしろへぐつともどつて身體からだよこ動搖ゆさぶりながらわら私語さゞめくやうにざわ/\とる。
 おしな身體からだ變態へんたいきたしたことを意識いしきするととも恐怖心きようふしんいだきはじめた。三四どうもなかつたから大丈夫だいぢやうぶだとはおもつてても、凝然ぢつとしてるととほくのほう滅入めいつてしまやう心持こゝろもちがして、不斷ふだんからいくらか逆上性のぼせしやうでもあるのだがさうおもふとみゝるやうで世間せけんかへつしづかにつてしまつたやうにおもはれた。不圖ふといたときしなははき/\として天秤てんびんかついだ。はやしきて田圃たんぼした。田圃たんぼせばむらで、自分じふんいへ田圃たんぼのとりつきである。あをけぶりがすつとのぼつてる。おしな二人ふたり子供こどもおもつてこゝろをどつた。はやしはづれから田圃たんぼへおりるところわづかに五六けんであるが、勾配こうばいけはしいさかでそれがあめのあるたびにそこらのみづあつめて田圃たんぼおとくちつてるので自然しぜんつちゑぐられてふかくぼみかたちづくられてる。おしな天秤てんびんなゝめよこけて、みぎまへ手桶てをけひだりうしろ手桶てをけけて注意ちういしつゝおりた。それでもほとんど手桶てをけぱいさう蒟蒻こんにやく重量おもみすこしふらつくあしあやうたもたしめた。やつとひとちがふだけのせま田圃たんぼをおしなはそろ/\とはこんでく。おしな白茶しらちやけたほどふるつた股引もゝひきへそれでもさきほうだけした足袋たび穿いてる。おほきな藁草履わらざうりかためたやうに霜解しもどけどろがくつゝいて、それがぼた/\とあしはこびをさらにぶくしてる。せまつらなつてたて用水ようすゐほりがある。二三株にさんかぶ比較的ひかくてきおほきなはんつてところわづか一枚いちまいいたはしなゝめけてある。おしなはしたもと一寸ちよつとどまつた。さうしてちかづいた自分じぶんいへた。村落むら臺地だいちるのでおしないへうしろすぐなゝめ田圃たんぼへずりさうはやしである。なら雜木ざふきあひだみじかたけまじつてる。いゝ加減かげんおほきくなつたならみなつくしてるので、その小枝こえだとほしてくぼんだやのむねえる。しろはねにはとりが五六、がり/\とつめつちいてはくちばしでそこをつゝいてまたがり/\とつちいては餘念よねんもなく夕方ゆふがた飼料ゑさもとめつゝ田圃たんぼからはやしかへりつゝある。おしな非常ひじやう注意ちういもつなゝめはしわたつた。四足目よあしめにはもう田圃たんぼつちつた。そのときとうぼつして見渡みわたかぎり、からはやしから世間せけんたゞ黄褐色くわうかつしよくひかつてさうしてまだあかるかつた。おしな田圃たんぼからあがるまへ天秤てんびんおろしてひだりまがつた。自分じぶんいへはやしとのあひだにはひと足趾あしあとだけの小徑こみちがつけてある。おしなその小徑こみちはやしとの境界さかひしきつて牛胡頽子うしぐみそばたつた。にはとりつめあと其處そこあたらしいつちらしてあつた。おしなつちあつめて草履ざうりそこでそく/\とならした。おしな姿すがたにはえたときには西風にしかぜわすれたやうにんでて、庭先にはさきくりにぶつけた大根だいこからびたうごかなかつた。しろにはとりはおしなあしもとへちよろ/\とけてなにさうにけろつと見上みあげた。おしな平常いつものやうににはとりなどかまつてはられなかつた。おしな戸口とぐち天秤てんびんおろして突然いきなり
「おつう」とんだ。
「おつかあか」とすぐにおつぎの返辭へんじ威勢ゐせいよくきこえた。それと同時どうじかまどがひら/\とあかくおしなうつつた。あさから雨戸あまどけないのでうちはうすくらくなつてる。そとひかりたおしなにはぐにはおつぎの姿すがたえなかつたのである。戸口とぐちからではおつぎの身體からだかまどおほうてた。返辭へんじするととも身體からだねぢつたのでそのあかえたのである。
 おつぎの與吉よきちはおしなこゑきつけると
「まん/\ま」と兩手りやうてしてりようとする。おしなはおつぎがおびいてるあひだ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらそば蒟蒻こんにやく手桶てをけを二つならべた。與吉よきちはおふくろふところかれてろくもしない乳房ちぶささぐつた。おしなかまどまへこしけた。しろにはとり掛梯子かけばしごかはりけてある荒繩あらなはでぐる/\まきにしたたけみき各自てんでつめけて兩方りやうはうはねひろげて身體からだ平均へいきんたもちながらあわてたやうにとやへあがつた。さうしてあをけむりなか凝然ぢつとしてぢてる。
 おしないへかへつていくらかあたゝまつたがそれでも一にちえた所爲せいかぞく/\するのがまなかつた。さうしてのち近所きんじよ風呂ふろもらつてゆつくりあつたまつたら心持こゝろもちなほるだらうとおもつた。かまどにはちひさななべかゝつてる。しるふたたゞよはすやうにしてぐら/\と煮立にたつてる。そともいつかとつぷりくらくなつた。おつぎはかまどしたからのついてる麁朶そだひとつとつてランプをけてあががまちはしらけた。おしなはおつぎが單衣ひとへ半纏はんてんけたまゝであるのをた。平常いつもならそんなことはないのだが自分じぶんひどくぞく/\として心持こゝろもちわるいのでついになつて
「おつう、そんな姿なりわりさむかねえか」といた。それから手拭てぬぐひしたからえるおつぎのあどけないかほ凝然ぢつた。
さむかあんめえな」おつぎはこともなげにいつた。與吉よきちふところなかしきりにせがんでる。おしな平常いつものやうでなくなにつてなかつたので、ふとこまつた。
「おつう、そこらに砂糖さたうはなかつたつけゝえ」おしなはいつた。おつぎはだまつて草履ざうり脱棄ぬぎすてゝ座敷ざしきけあがつて、戸棚とだなからちひさなふる新聞紙しんぶんしふくろさがして、自分じぶんひらすこ砂糖さたうをつまみして
「そら/\」といひながら、してつて與吉よきちつた。おつぎは砂糖さたういた自分じぶんめた。與吉よきちその砂糖さたうをおふくろふところへこぼしながらあぶさうにつまんではくちれる。砂糖さたうきたとき與吉よきちそのべとついたをおふくろくちのあたりへした。おしな與吉よきち兩手りやうてつかまへてねぶつてやつた。おしななべふたをとつて麁朶そだほのほかざしながら
「こりやいもなんでえ」といた。
「うむ、すこいもしてあつたけえしたんだ」
「おまんまはつめたかねえけ」
「それから雜炊おぢやでもこせえべとおもつてたのよ」
 おしなあつものなら身體からだあたゝまるだらうとおもひながら、自分じぶんひどものういのでなんでもおつぎにさせてた。おつぎはねばのないむぎつたぽろ/\なめしなべれた。おしな麁朶そだ一燻いとくつ込んだ。おつぎはなべおろして茶釜ちやがまけた。ほうつとしろ蒸氣ゆげなべなかをお玉杓子たまじやくしで二三てゝおつぎはまたふたをした。おつぎは戸棚とだなからぜんしてあががまちいた。はしらけてあるランプのひかりとゞかぬのでおつぎは手探てさぐりでしてる。おしな左手ひだりていた與吉よきちくちはしさきすこママふくませながら雜炊ざふすゐをたべた。おしないもを三つ四つはしてゝ與吉よきちたせた。與吉よきちいもくちつていつてぐにあついというていた。おしな與吉よきちほゝをふう/\といてそれからいも自分じぶんくちんでやつた。おしな茶碗ちやわんうしてえた。おつぎはつめたくなつたときなべのとかへてやつた。おしなしくもない雜炊ざふすゐを三ばいまでたべた。いくらかはらなかあたゝかくなつたのをかんじた。さうしてやうや水離みづばなれのした茶釜ちやがまんでんだ。おつぎは庭先にはさき井戸端ゐどばたなべへ一ぱい釣瓶つるべみづをあけた。おつぎがもどつたとき
「おつう、今夜こんやでなくつてもえゝや」とおしなはいつた。おつぎはだまつてたわらそば手桶てをけけて
これへもみづせえかなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが大變たえへんだらえゝぞ」
 おしながいひらぬうちにおつぎはにはた。ぐにあらつたなべ手桶てをけつてくら庭先にはさきからぼんやり戸口とぐち姿すがたせた。しきゐ一寸ちよつと手桶てをけいておしなかほ見合みあはせた。手桶てをけみづ半分はんぶん兩方りやうはう蒟蒻こんにやくみづつた。
 おしなは三人連にんづれ東隣ひがしどなり風呂ふろもらひにつた。東隣ひがしどなりといふのはおほきな一構ひとかまへ蔚然うつぜんたるもりつゝまれてる。
 そとやみである。となりもりすぎがぞつくりとえたそらんでる。おしないへ以前いぜんからもりめに餘程よほどみなみまはつてからでなければにはひかりすことはなかつた。おしな家族かぞく何處どこまでも日蔭者ひかげものであつた。それがのちつてから方方はう/″\陸地測量部りくちそくりやうぶの三角測量臺かくそくりやうだいてられてそのうへちひさなはたがひら/\とひらめくやうにつてからそのもり見通みとほしにさはるといふので三四ほんだけらせられた。すぎ大木たいぼく西にしたふしたのでづしんとそこらをおそろしくゆるがしておしなにはよこたはつた。えだくぢけてそのさきにはつちをさくつた。それでもとなりではその始末しまつをつけるときにそこらへらばつた小枝こえだその屑物くづものはおしないへあたへたのでおもけないたきゞ出來できたのと、もひとつはいくらでもひがしいたのとで、となりでは自分じぶんうでられたやうだとしんだにもかゝはらずおしないへではひそかよろこんだのであつた。それからといふものはどんな姿なりにもあさからすやうになつた。それでも有繋さすがもりはあたりを威壓ゐあつしてよるになるとこと聳然すつくりとしてちひさなおしないへべたへふみつけられたやうにえた。
 おしなやみなかえた。さうしてとなり戸口とぐちあらはれた。となり雇人やとひにんなべのなはつてた。いたはし胡坐あぐらいてあしおさへたなははしわら/\ママしてちより/\とひたひうへまであげてはみぎしりまはしてくつとなはうしろく。なはそのたび土間どまちる。おしないたちひさくなつてた。やがわらきると傭人やとひにん各自てんでそのなはあしからけて迅速じんそくかずはかつては土間どまから手繰たぐげながら、つながつたまゝばうママゝにくゝつた。やがて彼等かれらいた藁屑わらくづ土間どまきおろしてそれから交代かうたい風呂ふろ這入はひつた。おしなはそれをながらだまつてつてた。おしな此處こゝるとういふ遠慮ゑんりよをしなければならぬので、すこしはとほくても風呂ふろほかもらひにくのであつたがそのばんはどこにも風呂ふろたなかつた。おしなは二三けんそつちこつちとあるいててからとなりもんくゞつたのであつた。傭人やとひにん大釜おほがましたにぽつぽといてあたつてる。風呂ふろからても彼等かれらゆだつたやうなあかもゝしてそばつた。
「どうだね、一燻ひとくべあたつたらようがせう、いますぐくから」と傭人やとひにんがいつてくれてもおしなしりからえるのを我慢がまんして凝然ぢつ辛棒しんぼうしてた。ふところねむつた與吉よきちさわがすまいとしてはあししびれるので幾度いくど身體からだをもぢ/\うごかした。やうや風呂ふろいたときはおしな待遠まちどほであつたので前後ぜんごかんがへもなくいそいで衣物きものをとつた。與吉よきちさいはひにぐつたりとつておふくろふところからはなれるのもらないのでおつぎがちひさないた。おしな段々だん/\身體からだあたゝまるにれてはじめて蘇生いきかへつたやうに恍惚うつとりとした。いつまでもしづんでたいやうな心持こゝろもちがした。與吉よきちきはせぬかと心付こゝろづいたときろくあらひもしないでしまつた。それでもかほがつや/\としてかみ生際はえぎはぬぐつても/\あせばんだ。さうしてしみ/″\とこゝろよかつた。おしな衣物きものけるとぐと與吉よきち内懷うちふところれた。おしなあとへは下女げぢよ這入はひつたので、おつぎはそのあひだたねばならなかつた。おつぎがときはおしな身體からだけてた。おしな自分じぶんあとではママればよかつたのにと後悔こうくわいした。
 おしな自分じぶん股引もゝひき足袋たびとをおつぎにげさせてかへつたときつきひそかとなりもり輪郭りんくわくをはつきりとさせてそのもり隙間すきまことあかるくひかつてた。世間せけんがしみ/″\とえてた。おしなうすあかじみた蒲團ふとんへくるまると、身體からだまたぞく/\としてひざママしらがこほつたやうにつてたのをつた。

         二

 つぎあさしなはまだ隙間すきまからうすあかりのしたばかりにめた。まくらもたげてたがあたましんがしく/\といたむやうでいつになくおもかつた。せばいへうち羽叩はばたにはとりこゑがけたゝましくみゝそこひゞいた。おつぎはまだすや/\としてねむつてる。隙間すきままぶたひらいたやうにあかるくなつたときにはとり甲走かんばしつていた。おしなはおつぎを今朝けさゆつくりさせてやらうとおもつてた。それでもおつぎはにはとりまたいたときむつくりきた。いつもとちがつてあまりひつそりしてるのでおどろいたやうにあたりをた。さうしておふくろがまだ自分じぶんそば蒲團ふとんへくるまつてるのをた。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、今朝けさすこ工合ぐえゝわりいからゆつくりすつかんなよ」おしなはいつた。おつぎはしばらくもぢ/\しながらおびしめ大戸おほどを一まいがら/\とけてをこすりながらにはた。井戸端ゐどばたをけにはいもすこしばかりみづひたしてあつて、そのみづにはこほりがガラスいたぐらゐぢてる。おつぎはなべをいつもみがいて砥石といし破片かけこほりたゝいてた。おつぎは大戸おほどはなしていたのであささむさが侵入しんにふしたのにがついて
「おつかあ、さむかなかつたか、らねえでた」いひながら大戸おほどをがら/\とめた。くらくなつたいへうちにはかまどのみがいきほひよくあかく立つた。おつぎは
「おゝつめてえ」といひながらかまどくちからまくれて※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのほかざして
今朝けさいもみづこほつたんだよ」とおふくろはういていつた。
「うむ、しもつたやうだな」おしなちからなくいつた。戸口とぐちうしろにしておしなかまどのべろ/\とあがるのをた。
何處どこでも眞白まつしろだよ」おつぎはたけ火箸ひばし落葉おちばてながらいつた。
夜明よあけにひどく冷々ひや/\したつけかんな」おしなはいつて一寸ちよつとくびもたげながら
今朝けさはたべたかねえかんな、われかまあねえで出來できたらたべたはうがえゝぞ」おしなはいつた。またこほつためし雜炊ざふすゐられた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは茶碗ちやわんをおふくろ枕元まくらもとした。雜炊ざふすゐげついたやうなにほひがぷんとはないたときしなはしつてようかとおもつて俯伏うつぶしになつてたが、すぐいやになつてしまつた。おしなうごいたのでふところ與吉よきちした。おしな俯伏うつぶしたまゝ乳房ちぶさふくませた。さうしてまたいもくしこしらへてたせた。
 おしなおもて大戸おほどけさせたときがきら/\と東隣ひがしどなりもりしににはけてきつかりと日蔭ひかげかぎつてのこつたしもしろえてた。庭先にはさきくり枯葉かれはからも、えだけた大根だいこからもしもけてしづくがまだぽたり/\とれてる。にはいてある庭葢にはぶたわらたゞぐつしりとしめつてる。ふゆになると霜柱しもばしらつのでにはへはみんな藁屑わらくづだの蕎麥幹そばがらだのが一ぱいかれる。それが庭葢にはぶたである。霜柱しもばしらにはからさき桑畑くはばたけにぐらり/\とたふれつゝある。
 おしな蒲團ふとんなかでも滅切めつきりあたゝかくつたことをかんじた。時々とき/″\まくらもたげて戸口とぐちからそとる。さうしては麥藁俵むぎわらだはらそばいた蒟蒻こんにやく手桶てをけをどうかすると無意識むいしきつめる。よこつてからは東隣ひがしどなりもりこずゑめうかはつてえるので凝然ぢつつめてはつかれるやうにるのでまた蒟蒻こんにやく手桶てをけうつしたりした。おしなはどうかしてすこしでも蒟蒻こんにやくらしてきたいとおもつた。おしなそのうちきられるだらうとかんがへつゝ時々とき/″\うと/\とる。
切干きりぼしでもつたもんだかな」おつぎがにはからおほきなこゑでいつたときしなはふとまくらもたげた。それでおつぎのこゑ意味いみわからずにかすかにみゝつた。
 しばらくたつてからおしなにはでおつぎがざあとみづんではまたあひだへだてゝざあとみづんでるのをいた。おつぎは大根だいこあらつた。おつぎは庭葢にはぶたうへむしろいてあたゝかい日光につくわうよくしながら切干きりぼしりはじめた。大根だいこよこいくつかにつて、さらにそれをたてつて短册形たんざくがたきざむ。おつぎは飯臺はんだいわたした爼板まないたうへへとん/\と庖丁はうちやうおとしてはその庖丁はうちやうしろきざまれた大根だいこ飯臺はんだいなかおとす。おしな切干きりぼしきざおといたとき先刻さつきのは大根だいこあらつてたのだなとおもつた。おしなは二三にちこのかたもう切干きりぼしらなければならないと自分じぶんくちについてつてたことをおもして、おつぎが機轉きてんかしたとこゝろよろこんだ。庖丁はうちやうおと雨戸あまどそとちかきこえる。おしな身體からだ半分はんぶん蒲團ふとんからずりしてたら、手拭てぬぐひかみつゝんですこ前屈まへかゞみになつてるおつぎの後姿うしろすがたえた。
大根だいこわかつたのか」おしないた。
わかつてるよ」おつぎは庖丁はうちやうとゞめてよこむい返辭へんじした。おしなまた蒲團ふとんへくるまつた。さうしてまだ下手へた庖丁はうちやうおといた。おしなふところ與吉よきち退屈たいくつしてせがみした。おつぎはそれいて
「そうら、ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、24-7]とこへでもろ」といひながらせはしくぽつと一燻ひとく落葉おちばもやして衣物きものあぶつて與吉よきちせた。
よき利口りこうだからねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、24-9]とこるんだぞ」おしなはいつた。おつぎは自分じぶんむしろうへいてつた。おつぎの落葉おちばほこりよごれてた。ふたゝ庖丁はうちやうつたとき大根だいこにはゆびあとがついた。おつぎはその半纏はんてんぬぐつた。與吉よきちそばきざまれた大根だいこす。
危險あぶねえよ、さあこれでもつてろ」おつぎはけの大根だいこをやつた。與吉よきちすぐにそれをぢつた。
からくてやうあんめえなよきは」おつぎはあまやかすやうにいつた。おしなにはそれがきこえて二人ふたりがどんなことをしてるのかゞわかつた。おしなみゝにはつゞいて
「ぽうんとしたか、そらそつちへつちやつた」といふこゑがしたかとおもふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふこゑやそれからまた
「それすんぢやねえ、かねえとこれつてやんぞ、あかまんまがるぞおゝいてえ」などとおつぎのいふのがきこえた。そのたび庖丁はうちやうおとむ。おしなには與吉よきち惡戯いたづらをしたり、おつぎがいたいといつてゆびくはへてせれば與吉よきち自分じぶんくちあてるのがえるやうである。おしなはおつぎを平常ふだんから八釜敷やかましくしてたので餘所よそよりも割合わりあひうごけるとおもつてるけれど、與吉よきち巫山戯ふざけたりしてるのをるとまだ子供こどもだといふことが念頭ねんとううかぶ。自分じぶん勘次かんじあひつたのは十六のあきである。おつぎはうして大人おとならしくるであらうかと何時いつになくそんなことをおもつた。おつぎは十五であつた。
 午餐ひるもおしなしくなかつた。自分じぶんでも今日けふあきなひられないとあきらめた。明日あすつたらばとおもつてた。しかしそれは空頼そらだのみであつた。おしな依然いぜんとしてまくらはなれられない。有繋さすが不安ふあんねんさきつた。おしなはつい近頃ちかごろつた勘次かんじことしきりにおもされて、こつちであれほどはたらいてつたのに屹度きつとやすみもしないで錢取ぜにとりをしてるのだらうとおもふと、さむくてもシヤツひとつになつて、のちにはそのシヤツのはししてへそることや、よるになるとほねがみり/\するやうだといつたことがまへにあるやうでなんだかひたくてたまらぬやうな心持こゝろもちがするのであつた。
 勘次かんじ利根川とねがは開鑿工事かいさくこうじつてた。あきころから土方どかた勸誘くわんいう大分だいぶうまはなしをされたので近村きんそんからも五六にん募集ぼしふおうじた。勘次かんじ工事こうじがどんなことかもらなかつたが一にち手間てまが五十せん以上いじやうにもなるといふので、それがその季節きせつとしては法外はふぐわい値段ねだんなのにんでしまつたのである。工事こうじ場所ばしよかすみうらちか低地ていちで、洪水こうずゐが一たんきしくさぼつすと湖水こすゐ擴大くわくだいしてかはひとつにたゞ白々しら/″\氾濫はんらんするのを、人工じんこうきづかれた堤防ていばうわづか湖水こすゐかはとを區別くべつするあたりである。勘次かんじ自分じぶん土地とち比較ひかくして茫々ばう/\たるあたりの容子ようすまれた。さうして工夫等こうふら權柄けんぺいにこき使つかはれた。
 勘次かんじいよ/\やとはれてくとなつたとき收穫とりいれいそいだ。冬至とうじちかづくころにははいふまでもなくはたけいもでも大根だいこでもそれぞれ始末しまつしなくてはならぬ。勘次かんじはおしなきてかまどけるうちには庭葢にはぶたもみむしろしたりそれからひとりで磨臼すりうすいたりして、それから大根だいこしたりつちけたりしてくらいからくらいまではたらいた。それでももみすこしとはたけすこのこつたのをおしながどうにかするといつたのでつたのである。
 工事こうじ箇所かしよへは廿もあつた。勘次かんじけばすぐぜにになるとおもつたのでやうやく一ゑんばかりの財布さいふふところにした。辨當べんたうをうんと背負しよつたので目的地もくてきちへつくまでは渡錢わたしせんほかには一せんらなかつた。
 勘次かんじよるついてそのつぎにはつかれた身體からだ仕事しごとた。かれ半日はんにちでも無駄むだめしふことをおそれた。しかつぎ過激くわげき勞働らうどうからぞくそら手というてすぢいたんだので二三にち仕事しごとられなかつた。それから六七にちたつてはげしい西風にしかぜいた。勘次かんじうす蒲團ふとんへくるまつてうちからえてたあしあたゝまらなかつた。うと/\と熟睡じゆくすゐすることも出來できないで輾轉ごろ/\してながやうやあかした。
 つぎかれこはばつたやうにかんずるうごかしてつめたいシヤブルのつてどろにくるまつてた。さうしてところむら近所きんじよのものがひよつこりたづねてたのでかれきつねにでもつままれたやうにたゞおどろいた。近所きんじよもの大勢おほぜいたゞどろのやうになつてうごいてるのでどれがどうとも識別みわけがつかないでこまつたといつて、勘次かんじうたことを反覆くりかへしてたゞよろこんだ。途中とちゆう一晩ひとばんとまつたといふやうなことをいつて勘次かんじこゝろせはしくまで理由わけをいはなかつた。勘次かんじやうやくおしなたのまれてたのだといふことをつた。勘次かんじはおしな病氣びやうきかゝつたのだといふのをいて萬一もしかといふ懸念けねんがぎつくりむねにこたへた。さうして反覆くりかへしてどんな鹽梅あんばいだといた。はなし容子ようすではそれほどでもないのかとおもつてもたが、それでも勘次かんじくちくにもつばのどからぐつとかへしてるやうで落付おちつかれなかつた。
 夜中よなか彼等かれらつた。勘次かんじ自分じぶんいそぐし使つかひつかれたあしあるかせることも出來できないのでかすみうら汽船きせん土浦つちうらまちた。よる汽船きせんけたがどうしたのか途中とちう故障こしやう出來できたので土浦つちうらいたのは豫定よてい時間じかんよりははろかおくれてた。土浦つちうらまち勘次かんじいわし一包ひとつゝつて手拭てねぐひくゝつてぶらさげた。土浦つちうらからかれつかれたあしあとてゝ自分じぶんちからかぎあるいた。それでもならへはひつたときちがひとがぼんやりわかくらゐ自分じぶん戸口とぐちつたとき薄暗うすくらランプがはしらかゝつてくすぶつてた。勘次かんじはひつそりとしたいへのなかにすぐ蒲團ふとんへくるまつてるおしな姿すがたた。それからおしなあしさすつてるおつぎにうつした。
 勘次かんじ大戸おほどをがらりとけてしきゐまたいだときなにもいはずにたゞ
「どうしてえ」といふのがさきであつた。おしな勘次かんじこゑいておもはずまくらうごかして
勘次かんじさんか」といつてさら
みなみのおとつゝあはちげえにでもならなかつたんべかな」といつた。
行逢いきやつたよ。そんだがおめえどんな鹽梅あんべえなんでえ」
らそれほどでねえとおもつてたが三四日さんよつかよこつたきりでなあ、それでも今日等けふらはちつたあえゝやうだからこのぶんぢやすぐけえすかともおもつてんのよ」
「そんぢやよかつた、たゞぢやあるいてもよかつたが、みなみことまたあるかせちやまねえから同志どうし土浦つちうらまで汽船じようきけたんだが、みなみ草臥くたびれたもんだからさきたんだがな、みなみもあのぶんぢや今夜こんやもなか/\容易よういぢやあんめえよ、それに汽舩じようきまたおくれつちやつてな」
 勘次かんじはいひながら草鞋わらじをとつた。手拭てぬぐひはしくゝつていわしつゝみをかさりとおしな枕元まくらもとげて、くびへつけて風呂敷ふろしき包をどさりといて勘次かんじにはあしあらつた。勘次かんじはおしな枕元まくらもとめた。
「そんなにわるくなくつちやそれでもよかつた、らどうしたかとおもつてな」勘次かんじあらためてまたいつた。
「おしなおまんまはべてか」勘次かんじはつけした。
先刻さつきおつうにこめのおけえいてもらつてそれでもやつとんだところだよ」
「それぢやどうした、途中とちゆう見付みつけてたんだから一ぴきやつてねえか」勘次かんじランプをおしな枕元まくらもとつていわしつゝみいた。いわしランプのひかりできら/\とあをえた。
「ほんによなあ」おしな俯伏うつぶしになつてういつた。
「おつう、其處そこでもつたけてねえか」勘次かんじはいつた。
勘次かんじさんそら大變たいへんだつけな、らそんなにやらなかつたな」
いまだから何時いつまでもつよ、さうしておめえちからつけろな」
汽船じようきつてたつてぽど費用かゝりかゝつたんべな」
「さうよ、二人ふたりで六十せんばかりだがこれおれしたのよ、みなみさせるわけにもかねえかんな」
「それぢやかせえだぜねそれだけ立投たてなげにしつちやつたな」
「そんでも財布せえふにやまあだるよ、七日なぬかばかりはたらえてそれでも二りやうのこつたかんな、そんでまたはず前借さきがりすこししてたんだ、こつちのはうからつてる連中れんぢう保證ほしようしてくれてな」勘次かんじほこがほにいつた。
今日けふてえだらえゝが、ひど行逢いきやひたくなつてなあ」おしな俯伏うつぶしたひたひまくらにつけた。
「どうせ此處ここらの始末しまつもしねえでつたんだから、一遍いつぺん途中とちうけえつてなくつちやらねえのがだからおなことだよ」勘次かんじはおしなのぞこむやうにしていつた。
「それでもたはらにしちやいたな」勘次かんじ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらていつた。おしなはまだ俯伏うつぶしたまゝである。
「あつちにちやぜにらねえな、煙草たばこぷくふべえぢやなし、十五日目にちめ晦日みそかでそれまでは勘定かんぢやうなしでそのあひだこめでもまきでもみんな通帳かよひりてくれえなんだから、十五日目にちめらなくつちや財布せえふふくれねえが、またひやくでもつこはねえかんな」勘次かんじさら出先でさきのことをおしなかせた。
こめばかりえても毎日まいにちしようづゝはくれえだからほね隨分ずゐぶんれんがせえすりや二くわんと三ぐわんのこせつから、けえるまでにやおれもどうにかるとおもつてんのよ、さうすりや鹽鮭しほびきぐれえあことも出來できらな」
「そんぢやよかつた、土方どかたなんちやろく奴等やつらねえつていふからどうしたかとおもつてな」おしなくびもたげた。
「そんな奴等やつら交際つきえゝしたにやかぎりはねえが、すみはうにちゞまつてりやなんともゆはねえな」勘次かんじがついてあひだにおつぎは枯粗朶かれそだをつ火鉢ひばちおこした。勘次かんじ火箸ひばしわたしていわしつばかりせた。いわしあぶらがぢり/\とれてあをほのほつた。いわしにほひうすけむりとも室内しつない滿ちた。さうしてそのにほひがおしな食慾しよくよくうながした。おしな俯伏うつぶしたなりで煙臭けぶりくさくなつたいわしべた。
「どうした鹽辛しよつぱかあんめえ」
有繋まさか佳味うめえな」
これでもこゝらの商人あきんどつちやねえぞ」勘次かんじ一心いつしんながらいつた。
 おしな二匹にひきをつけてはしきながらふところねむつて與吉よきちのぞいて
きてたら大騷おほさわぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」勘次かんじはいつた。
澤山たくさんだよ、おつうげもやつてくろうな」
おれめしでもはうかえ」勘次かんじ風呂敷包ふろしきづゝみから辨當べんたうのこりしてつめたいまゝぷす/\とかぢつた。
「おうつ、おちやめたくなつたつけかな」おしなはいつた。
えらねえぞ仕事しごとりや毎日まえんちかうだ」勘次かんじ梅干うめぼしすこしづゝらした。辨當べんたうきてから勘次かんじいわしをおつぎへはさんでやつた。さうして自分じぶんでも一くちたべた。
りや佳味うめえこたあ佳味うめえがあんまりあまくつておらがにやむねわるくなるやうだな」勘次かんじめた幾杯いくはいかたぶけた。勘次かんじ風呂敷ふろしきからふくろしておしな枕元まくらもといて
こめこれだけのこつたからつてたんだ、あつちにればえゝが幾日いつかでもけるとかれつちやつてもやうねえかんな、そんぢやりやおつうげやつてくんだ」
 勘次かんじこめちひさなふくろをおつぎへわたした。
ふくろなんぞまたなんだとおもつたよ」おしなかるくいつた。
「それでもまきつてわけにもかねえからいてつちやつた」勘次かんじみづかあざけるやうにからくちけてつめたいわらひうごいた。
「おしなあしでもさすつてやんべぢやねえか」勘次かんじはおしなすそはうつた。
「えゝよ勘次かんじさん、今日けふのうちから心持こゝろもちえゝんだから、先刻さつきもおつうがさすつてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつてつたところだよ、こんぢや二三日にさんちぎたら勘次かんじさんはまたけべえよ」おしなこゝろよげにいつた。
今夜こんやはひどく心持こゝろもちえゝんだよ、えゝよ本當ほんたうだよ勘次かんじさん、おめえ草臥くたびれたんべえな」さらにおしな威勢ゐせいがついていつた。
 けた。そとやみこほつたかとおもふやうにたゞしんとした。蒟蒻こんにやくみづにもかみごとこほりぢた。

         三

 つぎあさしもしろ庭葢にはぶたわらにおりた。切干きりぼしむしろ三枚さんまいばかりその庭葢にはぶたうへいたまゝで、切干きりぼしにはこほり粉末ふんまつにしたやうなしもつてて、ひがしもり隙間すきまからとほ朝日あさひにきら/\とひかつた。しろ切干きりぼしさずにしたのであつた。切干きりぼしあめらねばほこりだらけにらうがごみまじらうがひるよるむしろはなしである。
 勘次かんじ霜柱しもばしらたつてる小徑こみちみなみつた。昨夜ゆうべおそかつたことやらなにやらはなしをしてひまどつた。庭先にはさきからつゞちひさな桑畑くはばたけむかふいへえるので、平生へいぜいそれを勘次かんじいへでもたゞみなみとのみいつてる。かれこもつくこかついでかへつてとき日向ひなたしもすこけてねばついてた。おしな勘次かんじ一寸ちよつとなくつたのでひどさびしかつた。あさになつてからもおしな容態ようだいがいゝので勘次かんじはほつと安心あんしんした。さうしてなゝめとほくからふゆびながら庭葢にはぶたうへむしろいてたはらみはじめた。こもつくこは兩端りやうたんあしいてる。丁度ちやうど荷鞍にぐらほねのやうな簡單かんたん道具だうぐである。そのあしからあしわたしたぼうわら一掴ひとつかみづゝてゝは八人坊主はちにんばうずをあつちへこつちへちがひながらなはめつゝむのである。八人坊主はちにんばうずといふのはそのなはいたいはゞちひさなおもりである、やつつあるので八人坊主はちにんばうずといつてる。小作米こさくまいれる藁俵わらだはらを四五俵分へうぶんつくらねばらぬことがかせぎにときからかれには心掛こころがかりであつた。すぐつたわらなはべつつてきながらたゞせはしくて放棄うつちやつてつたのである。
 おしな毎日まいにちつておもて雨戸あまどを一まいだけけさせた。からりとしたあをそらえて自分じぶん蒲團ふとんちかくまでつた。おしなれまではあかるいそとようとおもふにはあまりにこゝろうつしてた。おしな庭先にはさきくりかられた大根だいこ褐色かつしよくるのをた。おつぎも勘次かんじよこむしろいてまた大根だいこつてる。その庖丁はうちやうのとん/\とあひだせはしく八人坊主はちにんばうずうごかしてはさらさらとわらしごおとかすかにまじつてきこえる。おしな二人ふたり姿すがたまへにしてひど心強こゝろづよかんじた。くりけた大根だいこうごかぬほどおだやかなであつた。おしなぶんけば一枚紙いちまいがみがすやうにこゝろよくなることゝ確信かくしんした。勘次かんじ藁俵わらだはらへて、さうしてはししばつたちひさなわらたばまるひらいて、それをあしそこんでかゝと中心ちうしんあしとを筆規ぶんまはしのやうにしてぐる/\とまはりながらまるたはらぼつちをつくつた。勘次かんじはおしながどうにか始末しまつをしていた麥藁俵むぎわらだはらけて仕上しあげたばかりの藁俵わらだはらこめはかんだ。こめにはあかつぶもあつたがあらすこまじつててそれがつた。
あらすこたかゝつたな勘次かんじはふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも唐箕たうみつよてたつもりなんだがなよ、今年ことしあか夥多しつかりだが磨臼するすかたもどういふもんだかわりいんだよ」とおしなすこうごかして分疏いひわけするやうにいつた。
もつとこのくれえぢや旦那だんな大目おほめてくれべえから心配しんぺえはあんめえがなよ」勘次かんじすぐにおしな病氣びやうき心付こゝろづいてういつた。壁際かべぎはにはわら器用きようたはら規則正きそくたゞしくかへられた。おしなはそれを一しんた。それもおしなこゝろよくするひとつであつた。勘次かんじたはらそばママ手桶てをけふたをとつて
りや蒟蒻こんにやくだな」といつた。
らそれ仕入しいれたつきりおきられねえんだよ」おしなまくらうごかしていつた。勘次かんじまたふたをした。
 しづかなそらをぢり/\とうつつてかたぶいたかとおもふと一さんちはじめた。ふゆはもうみじか頂點ちやうてんたつしてるのである。勘次かんじはまだるからといつてくはかついで麥畑むぎばたけた。しかいくらもたがやさぬうちにちてにはかにつめたくつた世間せけん暗澹あんたんとしてた。おしな勘次かんじしてひど遣瀬やるせないやうな心持こゝろもちになつて、雨戸あまどひかせてくらはうむいぢた。
 冬至とうじはもうあひだが二日しかくなつた。あさうち勘次かんじ蒟蒻こんにやくふたをとつて
「どうしたもんだかな、おれでもかついてあるつてんべかな、かうしていたんぢややうねえかんな」おしな相談さうだんしてた。
「さうよな、それよりからどつちかつちつたら大根だいこでもつけもれへてえな、毎日まいんちくり干過ほしすぎやしめえかとおもつて心配しんぺえしてんだからよ」おしなうつたへるやうにいつてさうしてさら
自分じぶん丈夫ぢやうぶでせえありやとつくにやつちまつたんだが」と小聲こごゑでいつた。おしなはどうも勘次かんじすのがいやであつた。しかなんだかさう明白地あからさまにもいはれないのでういつたのであつた。
勘次かんじさんしほてくんねえか、大丈夫だえぢよぶるとおもつてたつけがなよ、それからこつちのをけぬかがえゝんだよ、そつちのがにや房州砂ばうしうずなまじつてんだから」おしなはいつた。
「おうい」勘次かんじはいつて、
房州砂ばうしうずなでもなんでもかまあめえ、どうでぬかふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結こごつてら」
勘次かんじさんそんでもえんなよ、どくだつちんだから、おれ折角せつかくべつにしてたんだから」おしなすこおこけていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それからしほあらためて
「どうしてれだけ使つかれるもんけえ」と勘次かんじはいつた。おしな勘次かんじ梯子はしごけてひとつ/\に大根だいこはずすのも小糠こぬかむしろはかるのもしろしほ小糠こぬかぜるのも滿足氣まんぞくげた。
 おしな勘次かんじほかるのがいやなのでさうはいはずに時々とき/″\おつぎにあしをさすらせた。さうすると勘次かんじ
「どうしたいくらかわるいのか」と自分じぶんも一しん蒲團ふとんすそける。勘次かんじにはからそとへはられなかつた。
 それでも冬至とうじ明日あすせまつた勘次かんじ蒟蒻こんにやくつてた。おしなもそれはめなかつた。もう幾人いくにんあるいたあとなので、おもふやうにはけなかつたがそれでも勘次かんじはおしなにひかされて、まだのこつて蒟蒻こんにやくかついでかへつてしまつた。
蒟蒻こんにやくはおしながもんだから、ぜにはみんなおめえげつてくべ」勘次かんじ銅貨どうくわをぢやら/\とおしな枕元まくらもとけた。おしな銅貨どうくわを一つ/\勘定かんぢやうした。さうして資本もとでいてもいくらかの剩餘あまりがあつたので
勘次かんじさんおもひのほかだつけな、まあだあと餘程よつぽどあんべえか」といつた。
いくらでもねえな、はあ此丈これだけぢやまたほどのこつてもあんめえよ」勘次かんじはいつた。おしな自分じぶんぜに蒲團ふとんしたれた。しな勘次かんじしてなさけないやうな心持こゝろもちがしてたのであるが、おもつたよりはあきなひをしてれたので一にち不足ふそくまつた恢復くわいふくされた。さうして
はたけきつぱなしだつけべな」勘次かんじがいつたときしなおどろいたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、おくれつちやつたつけなあ、わすれてたつけが大丈夫だえぢよぶだんべかなあ」といつた。
「そんぢやいまつからでもけるだけくべ」勘次かんじはおつぎをれてた。冬至とうじになるまではたけ打棄うつちやつてくものはむらには一人ひとりもないのであつた。勘次かんじ荷車にぐるまりて黄昏ひくれまでに二くるまいた。青菜あをな下葉したばはもうよく/\黄色きいろれてた。おしな二人ふたり薄暗うすぐらくなつたいへにぼつさりしててもはたけ收穫しうくわく思案しあんしてさびしい不足ふそくかんじはしなかつた。
 夏季かきいそがしいさうして野菜やさい缺乏けつばふしたときには彼等かれら唯一ゆゐいつ副食物ふくしよくぶつしほむやうな漬物つけものかぎられてるので、大根だいこでも青菜あをなでも比較的ひかくてき餘計よけいたくはへをすることが彼等かれらには重大ぢゆうだい條件でうけんひとつにつてるのである。
 冬至とうじしづかであつた。ごろになつてから此處ここばかりはわすれたかとおもふやうに西風にしかぜんでる。ひるひとしきりはつめたい空氣くうきとほしてあたゝかにけた。おしなあさから心持こゝろもち晴々はれ/″\してのぼるにれて蒲團ふとんなほつてたが、身體からだちからいながらにめうかるつたことをかんじた。自分じぶん蒲團ふとんそばまでさそされたやうに、雨戸あまど閾際しきゐぎはまで與吉よきちいてはたふしてたり、くすぐつてたりしてさわがした。
 勘次かんじはおつぎを相手あひて井戸端ゐどばた青菜あをな始末しまつをしてる。つてをけあらつた青菜あをなは、べたへよこたへた梯子はしごうへに一まいはづしてつてせたその戸板といたまれた。あらをはつたとき枯葉かれはおほいやうなのはみなかまでゝうしろはやしならみきなはわたして干菜ほしなけた。自分等じぶんら晝餐ひるさいにも一釜ひとかまでた。おしなわづか日數ひかずよこつてたばかりにおとろへたものかやゝまぶしいのをかんじつゝひかり全身ぜんしんびながら二人ふたりのするのをた。さうして茹菜ゆでな一皿ひとさらいくらかかつおぼえた所爲せゐ非常ひじやう佳味うまかんじた。
 青菜あをなみずれたので勘次かんじをけしほつては青菜あをなあしでぎり/\とみつけてまたしほつてはみつける。おしなしほ加減かげんやらなにやら先刻さつきからしきりにくちしてる。勘次かんじはおしなのいふとほりにはこんでる。
 おしなきててもべつつかれもしないのでそつと草履ざうり穿いてうしろ戸口とぐちからならつた干菜ほしなた。それからはやしなゝめはたへおりてまた牛胡頽子うしぐみそばつて其處そこをそつとかためた。それからしばら周圍あたりつてた。おしな庭先にはさきから勘次かんじおほきなこゑいた。たけみきけながらなゝめにはやしをのぼつてうしろ戸口とぐちからうちへもどつたときさらさけんだ勘次かんじこゑくとともに、天秤てんびんかついだまゝぼんやりつて商人あきんど姿すがた庭葢にはぶたうへた。
「おしなたまごしいと」勘次かんじつぎをけ青菜あをなしほけながらいつた。
いくらかつたつけな」おしな戸棚とだな抽斗ひきだしからしろかはたまごを廿ばかりした。
「おつう、四五日ねえでたつけがとやにもいくらかつたつけべ、あがつてねえか」おつぎに吩附いひつけた。おつぎは米俵こめだはらのぼつてそのうへひくつた竹籃たけかごとやのぞいたとき※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)めんどりが一けたゝましくしてうしろならなかんだ。にはとりも一しきりともやかましくいた。おつぎはばしてはたまごを一つ/\につてたもとれた。おつぎはたもとをぶら/\させて危相あぶなさう米俵こめだはらりた。其處そこにもたまごは六つばかりあつた。商人あきんどおろした四かくなぼてざるから眞鍮しんちうさらかぎつるされたはかりした。
かけいくらだね」おしないた。
「十一はんさ、近頃ちかごろどうもやすくつてな」商人あきんどはいひながらあさ目笊めざるたまごれて萠黄もえぎひもたどりつてはかりさをにして、さうして分銅ふんどういとをぎつとおさへたまゝ銀色ぎんいろかぞへた。玩具おもちやのやうなちひさな十露盤そろばんして商人あきんど
皆掛みながけが四百廿三もんめだからなそれ」はかりをおしなせて十露盤そろばんたまはじいた。
風袋ふうたいくと四百八もんめか、どうしたいくつだ廿六かな、さうするとひとつが」商人あきんどのいひをはらぬうちにおしな
いくらなんでえ、風袋ふうたいは」といた。
「十五もんめだな」
大概てえげえもんめぢやねえけえ」
「そんだらさつせえそれ、十五もんめだんべ、おらがな他人たにんのがよりやけえんだかんな」商人あきんど目笊めざるけてせて
「はて、一つ十五もんめづゝだ、つぶちひせえはうだな」商人あきんどはゆつくり十露盤そろばんたまはじいて
「四十六せんりんまうしゆるんだが、りや八りんとしてもらつてな」と商人あきんど財布さいふから自分じぶんぜにけた。
「おしなおめえ自分じぶんでもつたらよかねえけ、いくつでもつてけな」勘次かんじしほだらけにしためてとほくから呶鳴どなつた。
ぜにほかものつてつたはうがえゝからだけるとすべえよ、折角せつかく勘定かんぢやうもしたもんだからよ、大層たえそよくなつたんだから大丈夫だえぢよぶだよ」おしなはいつた。
「そんなこといはねえでいくつでもつてけよ、なほぎはけねえぢやえかねえもんだから」勘次かんじ漬菜つけなはなして檐下のきしたた。あしでたやうにあかくなつてる。
「それぢやちつとものこしたものかな」おしなちひさなのを二つつた。
「そんなんぢやねえのとれな」勘次かんじおほきなのをえらんで三つとつた。たまごかはにはしほすこいた。
「そんぢやそれけてんべ」商人あきんど今度こんど眞鍮しんちうさらたまごせて
「こつちなんぞぢや、あといくらでも出來できらあな」といひながらたどりつた。たまごすこうごくとはかりさをがぐら/\と落付おちつかない。
誤魔化ごまくわしちやだぞ」おしなさびしくわらひながらいつた。
「どうしておめえ、はかりなんざあ檢査けんさしたばかりだもの一でもとほねたりれたりして、どうしてんだはなしだ」商人あきんど分銅ふんどうおさへてまたんだ。
「五十もんめだな、さうすつとひとつ十六もんめづゝだ、けえからな」
しほがくつゝいてつからしほ目方めかたもあんぞ」勘次かんじそばからいつてわらつた。商人あきんど平然へいぜんとしてる。
「五せんりんまういくらつていふんだ、さうすつと先刻さつきのはいくらの勘定かんぢやうだつけな」
「四十六せんりんいくらとかいつたつけな」おしなすぐにいつた。
「それぢや差引さしひき四十一せんりん小端こばしか、こつちのおつかさま自分じぶんでもあきねえしてつから記憶おべえがえゝやな」商人あきんど十露盤そろばんつて
「どうしたえ、鹽梅あんべえでもわりいやうだが風邪かぜでもいたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、すこわるくつてやうねえのよ」おしなはいつて
小端こばしいくらになんでえ」とさらいた。
勘定かんぢやうにやんねえなどうも、近頃ちかごろやうねえよ文久錢ぶんきうせんだの青錢あをせんだのつちうのが薩張さつぱりなくなつちやつてな、それから何處どこつてもかうしてくんだ」商人あきんどがぼてざるから燐寸マツチさうとすると
また燐寸マツチぢやあんめえ」おしな微笑びせうした。
「こまけえ勘定かんぢやうにや近頃ちかごろ燐寸マツチめてくんだが、何處どこ商人あきんどもさうのやうだな」商人あきんどたまござるれながらいひつゞけた。
ひどやすくなつちやつたな、さむつちや保存もちがえゝのにけえつやすいつちうんだからまる反對あべこべになつちやつたんだな」勘次かんじ青菜あをなをけならべつゝいつた。
上海シヤンハイがへえつちやぐつとさがつちやつてな、あつちぢやどれほどやすいもんだかよ、しなすくねえときやすくなるつちうんだから商人あきんどまうからねえ」天秤てんびんかついでかれまたさら
相場さうば氣味ぎみときにやうつかりすつと損物そんものだかんな、なんでも百姓ひやくしやうしてこくんでものが一とうだよ、卵拾たまごひろひもなあ、赤痢せきりでも流行はやつててな、看護婦かんごふだの巡査じゆんさだの役場員やくばゐんだのつちう奴等やつら病人びやうにんくちでもひねつてみつしりつてゞもんなくつちや商人あきんど駄目だめだよ」商人あきんどけて
「まためていておくんなせえ」今度こんどすこ叮寧ていねいにいひてゝつた。
 おしなぜに蒲團ふとんした巾着きんちやくれた。さうして※(「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)わくだなからまるめ箱をおろして三つのしろたまごれた。以前いぜん土地とちでも綿わたれたので、なべにはをんなみな※(「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)たかわくいといた。綿打弓わたうちゆみでびんびんとほかした綿わたはしのやうなぼうしんにして蝋燭らふそくぐらゐおほきさにくる/\とまるめる。それがまるめである。まるめから不器用ぶきよう百姓ひやくしやう自在じざいいといた。ごろでは綿わたがすつかりれなくなつたので、まるめばこすゝけたまゝまれ保存ほぞんされてるのも絲屑いとくづぬの切端きれはしれてあるくらゐぎないのである。おしなはそれからふくれた巾着きんちやくめにねあげられた蒲團ふとんはしおさへた。それからまたよこになつた。先刻さつきから疲勞ひらうしたやうな心持こゝろもちつてたがよこになると身體からだけるやうにぐつたりしてかすかにこゝろよかつた。
 ばん年中ねんぢう臟腑ざうふ砂拂すなはらひだといふ冬至とうじ蒟蒻こんにやくみんなべた。おしな明日あすからでもきられるやうにおもつてた。さうして勘次かんじ仕事しごとらちいたのでまた利根川とねがはかれることゝこゝろしてた。

         四

 おしな容態ようだいから激變げきへんした。勘次かんじやうやねむりちたときしな
くちけなくつてやうねえよう」となさけないこゑでいつた。おしなあご釘附くきづけにされたやうにつて、つばむにものどせばめられたやうにかんじた。それで自分じぶんにもどうすることも出來できないのにおどろいた。勘次かんじ吃驚びつくりしてきた。
「どうしたんだよ大層たえそわりいのか、あさまでしつかりしてろよ」とちからをつけてたが、自分じぶんでもどうしていゝのかわからないのでたゞはら/\しながらあかした。勘次かんじたゞしな心配しんぱいになるので、近所きんじよものたのんであへ醫者いしやはしらせた。さうして自分じぶん枕元まくらもとへくつゝいてた。彼等かれら容易よういなことで醫者いしやぶのではなかつた。しかそのもつとおそれをいだくべき金錢きんせん問題もんだいそのこゝろ抑制よくせいするには勘次かんじあまりにあわてゝかつおどろいてた。醫者いしや鬼怒川きぬがはえてひがしる。
 勘次かんじ草臥くたぶれやしないかといつてはおしなあしをさすつた。それでもおしな大儀相たいぎさう容子ようすかれおくしたこゝろにびり/\とひゞいて、とて午後ごゞまでは凝然ぢつとしてることが出來できなくなつた。近所きんじよ女房にようばうれたのをさいはひに自分じぶんあとからはしつてつた。鬼怒川きぬがはわたしふね先刻さつき使つかひと行違ゆきちがひつた。ふねからことば交換かうくわんされた。勘次かんじ醫者いしやと一しよかへるからさういつておしな安心あんしんさせてれといつて醫者いしやもんたゝいた。醫者いしや丁度ちやうどそつちへついでつたからと悠長いうちやうである。屹度きつとつてはれるにしてもあといてくのでなくては勘次かんじには不安ふあんたまらないのである、さうしてかれはぽつさりと玄關げんくわんうづくまつてつてることがせめてもの氣安きやすめであつた。醫者いしやちひさな手鞄てかばんを一つつてふる帽子ばうしをちよつぽりいたゞいてた。手鞄てかばん勘次かんじ大事相だいじさうつた。醫者いしや特別とくべつ出來事できごとがなければくるまにはらないので、いつも朴齒ほうば日和下駄ひよりげたみじか體躯からだをぽく/\とはこんでく。それで車錢くるませんだけでもいくたすかるかれないといふので貧乏びんばふ百姓ひやくしやうからよばれてるのであつた。勘次かんじ途次みち/\しな容態ようだいかたつて醫者いしや判斷はんだんうながしてた。醫者いしやは一おうなければわからぬといつて五月蠅うるさ勘次かんじ返辭へんじしなかつた。おしな病體びやうたいけると醫者いしや有繋さすがくびかたぶけた。それが破傷風はしやうふう徴候てうこうであることをつて恐怖心きようふしんいだいた。さうして自分じぶん注射器ちうしやきたないからといつて辭退じたいしてしまつた。勘次かんじまたあわてゝ醫者いしやけつけた。醫者いしや鉛筆えんぴつ手帖ててふはし一寸ちよつときつけて、それではすぐこれ藥舖くすりやつてるのだといつた。それから自分じぶんうちこれせばわたしてれるものがあるからとこれ手帖ててふはしいた。勘次かんじまたかはえてはしつた。藥舖くすりやではびんれたくすり二包ふたつゝみわたしてれた。一罎ひとびんが七十五せんづゝだといはれて、勘次かんじふところきふにげつそりとつた心持こゝろもちがした。かれ蜻蛉返とんぼがへりにかへつてた。醫者いしやうちからは注射器ちうしやきわたしてくれた。ほか病家びやうか醫者いしや夕刻ゆふこくた。醫者いしやはおしな大腿部だいたいぶしめしたガーゼでぬぐつてぎつとにくつまげてはりをぷつりとした。しばらくしてはりいてゆびさきはりあとおさへて其處そこ絆創膏ばんさうかうつた。それがすべ薄闇うすくらランプのひかりおこなはれた。勘次かんじランプをちかづけさせて醫者いしやはやつと注射ちうしやをはつた。
 翌日よくじつ午前ごぜん醫者いしやまた注射ちうしやをして大抵たいていれでよからうといつてつた。しかしおしな容態ようだい依然いぜんとして恢復くわいふく徴候ちようこうがないのみでなく次第しだい大儀相たいぎさうえはじめた。おしな夕刻ゆふこくからにはかに痙攣けいれんおこつた。身體からだがびり/\とゆるぎながらあしめられるやうにうしろつた。痙攣けいれん時々ときどき發作ほつさした。そのたびごと病人びやうにんられないほど苦惱くなうする。かほめうしがんでくち無理むりよこられるやうにえる。勘次かんじはたつた一人ひとりのおつぎを相手あひてしやうもなかつた。さうしてしら/\けといふとすぐまた醫者いしやけつけた。醫者いしやまた藥舖くすりやつていといつた。勘次かんじまたんでつた。しかの二がう血清けつせい何處どこにも品切しなぎれであつた。それはある期間きかん經過けいくわすれば効力かうりよくくなるので餘計よけい仕入しいれもしないのだと藥舖くすりやではいつた。それに値段ねだん不廉たかいものだからといふのであつた。勘次かんじはそれでもいくぐらゐするものかとおもつていたら一罎ひとびんが三ゑんだといつた。勘次かんじ例令たとひ品物しなものつたところで、自分じぶん現在いまちからでは到底たうていそれはもとめられなかつたかもれぬと今更いまさらのやうに喫驚びつくりしてふところれてた。
 醫者いしやさら勘次かんじ藥舖くすりやはしらせた。勘次かんじたゞ醫者いしやのいふがまゝいきせきつてけてあるあひだが、屹度きつとどうにかふせぎをつけてくれるだらうとのたのみもあるのでわづか自分じぶんこゝろなぐさゆゐ一の機會きくわいであつた。醫者いしやは一がう倍量ばいりやう注射ちうしやした。しかしそれは徒勞とらうであつた。病人びやうにん發作ほつさあひだみじかくなつた。病人びやうにんそのたび呼吸こきふ壓迫あつぱくかんじた。近所きんじよものも三四にん苦惱くなうする枕元まくらもとみな憂愁いうしうつゝまれた。おしな突然とつぜん
野田のだへはらせてくれめえか」といた。勘次かんじ近所きんじよもの卯平うへいらせることもわすれてたゞ苦惱くなうする病人びやうにんまへひかへてこまつてるのみであつた。
明日あした屹度きつとるやうにいつてつたよ」勘次かんじはおしなみゝくちあてていつた。今更いまさらのやうに近所きんじよものたのまれて夜通よどほしにもくといふことにつた。
 つぎ午餐過ひるすぎ卯平うへい使つかひともにのつそりと長大ちやうだい躯幹からだおもて戸口とぐちはこばせた。かれしきゐまたぐとともに、そのときはもうたゞいたい/\というて泣訴きふそして病人びやうにんこゑいた。
何處どこいたいんだ、すこしさすらせてつか」勘次かんじいても
背中せなかやうがねえんだよ」と病人びやうにんはいふのみである。
「おしなさん、おとつゝあたよ、確乎しつかりしろよ」と近所きんじよ女房にようばうがいつた。それをいておしな暫時しばししづかにつた。
しなどうしたえ、大儀こはえのか」寡言むくち卯平うへいこれだけいつた。
「おとつゝあつてたよ、やうねえよ」おしななさけなささうにいつた。
「うむ、こまつたなあ」卯平うへいふかしわしがめていつた。さうしてあとは一ごんもいはない。おしな病状びやうじやう段々だん/\險惡けんあくおちいつた。醫者いしやはモルヒネの注射ちうしやをしてわづか睡眠すゐみん状態じやうたいたもたせて苦痛くつうからのがれさせようとした。それでもしばらくすると病人びやうにん意識いしき恢復くわいふくして、びり/\と身體からだふるはせて、ふとなはでぐつとつるされたかとおもふやうにうしろそりかへつて、その劇烈げきれつ痙攣けいれんくるしめられた。
先生せんせいさん、わたしやれでもどうしたものでがせうね」おしな突然とつぜんいた。醫者いしやたゞ口髭くちひげひねつてだまつてた。
「どうでせうね先生せんせいさん」勘次かんじいた。
「まあ大丈夫だいぢやうぶだらうつて病人びやうにんへだけはいつてたらいゝでせう」醫者いしや耳語さゝやいた。
「おしな大丈夫だいぢやうぶだとよ、それから我慢がまんして確乎しつかりしてろとよ」勘次かんじ病人びやうにんみゝ呶鳴どなつた。
「そんでも明日あすまではとつてもたねえとおもふよ。本當ほんたう大儀こはママゝなあ」おしなせつさうにいつた。あひだやうやくにれるこゑかなしいひゞきつたへてかも意識いしき明瞭めいれうであることをしめした。醫者いしやつひ極量きよくりやうのモルヒネを注射ちうしやしてつた。
 になつて痙攣けいれん間斷かんだんなく發作ほつさした。熱度ねつど非常ひじやう昂進かうしんした。液體えきたいの一てきをも攝取せつしゆすることが出來できないにもかゝはらず、みだれたかみごとつたひておちるかとおもふやうにあせたまをなしてれた。蒲團ふとんぬらあせくさみはないた。
勘次かんじさん此處ここてくろうよ」おしなくるしいうちにも只管ひたすら勘次かんじしたつた。
「おうよ、こゝにたよ、何處どこへもゆきやしねえよ」勘次かんじそのたびみゝくちあてていつた。
勘次かんじさん」おしなまたんた。
怎的どうしたよ」勘次かんじのいつたのはおしなつうじなかつたのか
「おとつゝあ、らとつてもなあ」とおしな少時しばしあひだいて、さうして勘次かんじつた。
「おつうわれはなあ、よきもなあ」といつてまた發作ほつさ苦惱くなうおちいつた。
勘次かんじさん、おらんだらなあ、棺桶くわんをけれてくろうよ……」勘次かんじかうとするとしばらあひだへだてて
うしろくろになあ、牛胡頽子うしぐみのとこでなあ」おしなれ/″\にいつた。勘次かんじほゞ了解れうかいした。
 おしなはそれから劇烈げきれつ發作ほつささへぎられてもういはなかつた。突然とつぜん
風呂敷ふろしき、/\」
理由わけわからぬ囈語うはごとをいつて、意識いしきまつた不明ふめいつた。つひには異常いじやうちからくははつたかとおもふやうにおしなあし蒲團ふとんけつ身體からだ激動げきどうした。枕元まくらもと人々ひと/″\各自てんでくるしむおしなあしおさへた。うして人々ひと/″\刻々こく/\運命うんめいせまられてくおしな病體びやうたい壓迫あつぱくした。おしな發作ほつさんだときかすかな呼吸こきふとまつた。
 しんとしてた。雨戸あまどかすかにうごいて落葉おちばにははしるのもさら/\とかれた。おしな身體からだあしはうからつめたくなつた。おしなんだといふことを意識いしきしたとき勘次かんじもおつぎもみんなこらへたじやうが一激發げきはつした。さうして遠慮ゑんりよをする餘裕よゆうたない彼等かれらこゑはなつていた。枕元まくらもとのものはみなともいた。與吉よきちひとんだおしなそば熟睡じゆくすゐしてた。卯平うへいあへずおしなむねあはせてやつた。さうしてはた道具だうぐひとつである蒲團ふとんせた。ねこ死人しにんえてわたるとけるといつてねこ防禦ばうぎよであつた。せてけばねこわたらないとしんぜられてるのである。
 ます/\けてつてた。いへうちには一くわい※(「火+畏」、第3水準1-87-57)おきたくはへてはなかつた。枕元まくらもと近所きんじよ人々ひと/″\勘次かんじとおつぎのむまでは身體からだうごかすことも出來できないで凝然ぢつつめたいふところあたゝめてた。おつぎはやうやかまど落葉おちばべてちやわかした、みんなたゞぽつさりとしてちやすゝつた。
勘次かんじかせえてらせやがればえゝのに」卯平うへいがぶすりとつぶやこゑひくくしかもみんなのみゝそこひゞいた。卯平うへい未明みめい使つかひるまではおしな病氣びやうきはちつともらずにた。おどろいてればもうこんな始末しまつである。卯平うへいいた。かれ煙管きせるんではたゞ舌皷したつゞみつてつばんだ。勘次かんじたゞいてた。かれはおしな發病はつびやうからどれほど苦心くしんしてそのらうしたかれぬ。おしな病氣びやうきあんずるほかかれこゝろにはなにもなかつた。その當時たうじには卯平うへい不平ふへいをいはれやうといふやうな懸念けねん寸毫すこしあたまおこらなかつたのである。
 おしな卯平うへいをもいた落膽らくたんせしめた。卯平うへいは七十一の老爺おやぢであつた。一昨年をととしあきから卯平うへい野田のだ醤油藏しやうゆぐらばんやとはれた。卯平うへいはおしなが三つのときに、んだおふくろところ入夫にふふになつたのである。五つのときからあまへたのでおしな卯平うへいなづいてた。おふくろきてるうちは卯平うへいもまださかりであつたが、おふくろくなつて卯平うへいしわふかきざまれてからは以前いぜんからくなかつた勘次かんじとのあひだ段々だん/\へだつて、おしなもそれにはこまつた。到頭たうとうむら紹介業せうかいげふをしてものすゝめにまかせ卯平うへいがいふまゝ奉公ほうこうしたのであつた。
 病人びやうにん枕元まくらもと近所きんじよものは一ぱいちやすゝつてむら姻戚みよりらせにるものもあつた。それから葬式さうしきのことにいて相談さうだんをした。葬式さうしきはほんの姻戚みより近所きんじよとだけで明日あすうちすますといふことにめた。があけると近所きんじよ人々ひとびとてらつたり無常道具むじやうだうぐひにつたり、他村たそん姻戚みよりへのらせにつたりしていへには近所きんじよ女房にようばうが二三にん義理ぎりをいひにた。姻戚みよりといつてもおしなめにはたなくてはらぬといふものはないので勘次かんじはおつぎとともむしろまくつて、其處そこたらひゑておしな死體したいきよめてつた。劇烈げきれつ病苦びやうくめにそのちからない死體したいはげつそりとひどやつれやうをしてた。卯平うへいたゞぽつさりとしてそれをた。死體したいまたきたな夜具やぐよこたへられた。たらひけがれた微温湯ぬるまゆうへからつちそゝがれた。さうしてれたにはくつたむしろまたかれた。あさから雨戸あまどはなたれてあるけばぎし/\とうへむしろ草箒くさばうきかれた。さうして東隣ひがしどなりからりてござが五六まいかれた。それから土地とち習慣しふくわん勘次かんじきよめてやつたおしな死體したいは一さい近所きんじよまかせた。
 近所きんじよ女房等にようばうらは一たん晒木綿さらしもめん半分はんぶんきつてそれでかたばかりのみじか經帷子きやうかたびら死相しさうかく頭巾づきんとふんごみとをつてそれをせた。ふんごみはたゞかくにして足袋たびかはり爪先つまさき穿かせるのであつた。脚絆きやはんきれまゝあさあしくゝけた。れも木綿もめんつた頭陀袋づだぶくろくびからけさせて三かは渡錢わたしせんだといふ六もんぜにれてやつた。かみあさむすんで白櫛しろぐし※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してつた。おしな硬着かうちやくした身體からだげて立膝たてひざにして棺桶くわんをけれられた。くびふたさはるのでほねくぢけるまでおさへつけられてすくみがけられた。すくみといふのはちゞめたまゝかたちたもたれるやうに死體したいしたから荒繩あらなはまはしていて首筋くびすぢところでぎつしりとくゝることである。麁末そまつ松板まついたこしらへた出來合できあひ棺桶くわんをけはみり/\とつた。ういふ無残むざんあつかひはどうしても他人たにんまかせられねばならなかつた。いたまゝばら/\につて棺臺くわんだいつててから近所きんじよ釘付くぎづけにされた。其處そこにはあさはこさかさにしたものが出來できた。棺臺くわんだいうへには死體したいれた棺桶くわんをけせられた。
 勘次かんじそのあさ未明みめいにそつといへうしろならあひだはしへおりて境木さかひぎ牛胡頽子うしぐみそば注意ちういしてた。唐鍬たうぐはなにかでうごかしたつちあといた。勘次かんじにしてつた草刈鎌くさかりがまでそく/\とつちをつゝくやうにしてつた。さうしてそのやはらかにつたつちさらつた。襤褸ぼろつゝみた。かれ其處そこちひさな一塊肉くわいにく發見はつけんしたのである。勘次かんじはそれを大事だいじふところれた。惡事あくじ發覺はつかくでもおそれるやうな容子ようすかれ周圍あたり見廻みまはした。かれさらふる油紙あぶらがみつゝんで片付かたづけていて、おしな死體したい棺桶くわんをけれられたときかれはそつとおしなふところいだかせた。おしなつた勘次かんじのするまゝにそれを確乎しつかめて、ほねばかりのほゝが、ぴつたりとりつけられた。葬式さうしき赤口しやくこうといふであつた。
 勘次かんじ近所きんじよ姻戚みよりとのほかには一ぱんさなかつたがそれでもむらのものはみなせんづゝつてくやみにた。さうしてさつさとかへつてつた。とほはなれたてらからは住職ぢうしよく小坊主こばうずとが、めた萠黄もえぎ法被はつぴとも一人ひとりれて挾箱はさみばこかつがせてあるいてた。小坊主こばうずすぐ棺桶くわんをけふたをとつてしろ木綿もめんくつてやつれたほゝ剃刀かみそり一寸ちよつとてた。形式的けいしきてき顏剃かほそりんでからふたくぎけられた。荒繩あらなはが十文字もんじけられた。晒木綿さらしもめんのこつた半反はんだんでそれがぐる/\とかれた。をけにはさら天葢てんがいせられた。天葢てんがいというても兩端りやうたんわらびのやうにまかれたせま松板まついたを二まいあはせたまでのものにすぎない簡單かんたんなものである。すゝけたかべにはれもふるぼけたあか曼荼羅まんだら大幅おほふくかざりのやうにけられた。くわんわづかひとはうむられた。それでも白提灯しろぢやうちん二張ふたはりかざされた。だけ格子かうしんでいゝ加減かげんおほきさにるとぐるりと四はうを一つにまとめてくゝつた花籠はなかごも二つかざされた。れも青竹あをだけけられた。かごへはひげのやうにだけてゝだけにはあかあを色紙いろがみきざんだはなかざつた。花籠はなかごまたそこかみいてんだものゝ年齡としかずだけ小錢こぜにれて、それをかざしたひと時々ときどきざら/\とつてはかごから小錢こぜにおとした。むら小供こどもあらそつてそれをひろつた。提灯ちやうちん花籠はなかごさきつた。あとからはむら念佛衆ねんぶつしうあかどう太皷たいこくびけてだらりだらりとだらけたたゝきやうをしながら一どうこゑあげいてつた。ひつぎ小徑こみちけて大道わうらいつた。むらもの自分じぶんかどからそれをのぞいた。棺桶くわんをけすわりがわる所爲せゐ途中とちうまずぐらり/\と動搖どうえうした。勘次かんじはそれでも羽織はおりはかま位牌ゐはいつた。それはみなりたので羽織はおりひもには紙撚こよりがつけてあつた。
 はかあなけたやう赤土あかつちが四はううづたかげられてあつた。其處そこには從來これまで隙間すきまのないほどあなられて、幾多いくたひとうづめられたのでほねあしほねがいつものやうにされてげられてあつた。法被はつぴてらとも棺桶くわんをけいた半反はんだん白木綿しろもめんをとつて挾箱はさんばこいれた。やが棺桶くわんをけ荒繩あらなはでさげてあかつちそこみつけられた。麁末そまつ棺臺くわんだいすこうづたかつたつちうへかれて、ふたつの白張提灯しらはりちやうちんふたつの花籠はなかごとがそのそばてられた。おしな生來せいらいつちまないはないといつていゝぐらゐであつた。さうしてそれはてるふゆ季節きせつのぞいては大抵たいてい直接ちよくせつあしそこつちについてた。おしなかうしてつめたいかばねつてからもあしそこ棺桶くわんをけいたまいへだてただけでさら永久えいきうつちあひせつしてるのであつた。
 ちひさな葬式さうしきながらひつぎあと旋風つむじかぜほこりぱらつたやうにからりとしてた。手傳てつだひ女房等にようばうらはそれでなくても膳立ぜんだてをするきやくすくなくてひまであつたから滅切めつきり手持てもちがなくなつた。それでもちながらわんはしとをつてくちうごかしてるものもあつた。膳部ぜんぶきまつたとほさらひらつぼもつけられた。それでも切昆布きりこぶ鹿尾菜ひじき油揚あぶらげ豆腐とうふとのほか百姓ひやくしやうつくつたものばかりで料理れうりされた。さらにはこまかくきざんでしほんだ大根だいこ人參にんじんとのなますがちよつぽりとせられた。さういふ残物のこりものつめたくつた豆腐汁とうふじるとをつゝいてもむぎまじらぬめしくちにはうへもない滋味じみなので、女房等にようばうら強健きやうけんかつ擴大くわくだいされたれるかぎりはくちこれむさぼつてまないのである。彼等かれら裏戸うらどかげあつまつて雜談ざつだんふけつた。
「どうしたつけまあ、ひど棺桶くわんをけぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
そのはずだんべな、あと心配しんぺえやうねえほとけはあゝえにいごくんだつちぞおめえ」
勘次かんじさんことしくつてあとのこしてくのがつれえんだごつさら」
「そんだがよ、あんましがられつとしめえにやむけえかれつとよ」
「おゝら」
れてつてくろつちつたつておめえこたむけえるものもあんめえな」
 口々くちぐちんなことが遠慮ゑんりよもなく反覆くりかへされた。あひだ少時しばし途切とぎれたとき
「おしなさんも可惜あつたらいのちをなあ」と一人ひとりおもしたやうにいつた。
本當ほんたう他人ひとのやらねえこつてもありやしめえし」女房にようばう相槌あひづちつた。
風邪かぜいたなんてか、今度こんだ風邪かぜつええからきらんねえなんて、しらばつくれてな」
もの貧乏びんばふなんだよ」
「そんだがおしなさんは自分じぶんのがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、けえこゑぢやゆはんねえが、五十錢ごくわんとか八十錢はちくわんとかつて他人ひとのがもつたんだとよ」
八十錢はちくわんづゝもつちやおめえ、をんなぢやたえしたもんだがな、今度こんだ自分じぶんんちまあなんて、んねえこつたなあ」
つみつくつたばつぢやねえか」
 遠慮ゑんりよもなくそれからそれとうつるのである。
「そんなことゆつて、いまほとけのことをおめえ、とつゝかれつからろよ」
 一人ひとり女房にようばうがいつたときはなし暫時しばらく途切とぎれてしづまつた。一人ひとり女房にようばうさら大根だいこつまんでくちれた。
「さうえとこ他人ひとられたらどうしたもんだえ」そばからいはれて
てやあしめえな」とその女房にようばう裏戸うらどくちからにははうた。さうして
てえなばゞあはどうでれからよめにでもくあてがあんぢやなし、かまあねえこたあかまあねえがな」といつてわらつた。
 一同みんなどつと笑聲わらひごゑはつした。
 ひつぎおくつた人々ひとびとが離れ/″\にかへつてるまでは雜談ざつだんがそれからそれとまなかつた。平日へいじつ何等なんら慰藉ゐしやあたへらるゝ機會きくわいをもいうしてないで、しかきたがり、りたがり、はなしたがる彼等かれらは三にんとさへあつまれば膨脹ばうちやうした瓦斯ガスふくろ破綻はたんもとめてごとく、つひには前後ぜんご分別ふんべつもなくそのしたうごかすのである。たま/\抽斗ひきだしからしたあかかぬ半纏はんてんて、かみにはどんな姿なりにもくしれて、さうしてくやみをすますまでは彼等かれら平常いつもにないしほらしい容子ようすたもつのである。それはあらたまつて不馴ふなれ義理ぎりべねばならぬといふ懸念けねんが、わづかながら彼等かれらこゝろ支配しはいしてるからである。しか土間どまへおりて、たすきけられて、ぜんわんあらつたりいたりそのいそがしくうごかすやうにれば、彼等かれらこゝろはそれにかされてきたがり、りたがり、はなしたがる性情せいじやう自然しぜんかへるのである。假令たとひ他人たにんためにはかなしいでもの一じつだけは自己じこ生活せいくわつからはなれて若干じやくかん人々ひとびとと一しよ集合しふがふすることが彼等かれらにはむし愉快ゆくわいな一にちでなければならぬ。間斷かんだんなく消耗せうまうして肉體にくたい缺損けつそん補給ほきふするために攝取せつしゆする食料しよくれうは一わんいへどこと/″\自己じこ慘憺さんたんたる勞力らうりよくの一いてるのである。しか他人たにんいたむ一にち其處そこ自己じこのためには何等なんら損失そんしつもなくて十ぶん口腹こうふくよく滿足まんぞくせしめることが出來できる。他人たにん悲哀ひあいはどれほど痛切つうせつでもそれは自己じこ當面たうめん問題もんだいではない。如斯かくのごとくにして彼等かれらあつまところにはつね笑聲せうせいたないのである。
 おしなういふ伴侶なかま一人ひとりであつた。それが今日けふ笑聲せうせいあとにしてつめたいつちしたのである。

         五

 おしな自分じぶん自分じぶんころしたのである。おしなは十九のくれにおつぎをんでからそのつぎとしにもまた姙娠にんしんした。とき彼等かれら窮迫きうはく極度きよくどたつしてたので胎兒たいじんだおふくろで七月墮胎だたいしてしまつた。それはまだあきあつころであつた。強健きやうけんなおしなは四五にちつとはやしなか草刈くさかりをしてた。それでも無理むりをしたためその大煩おほわづらひはなかつたが恢復くわいふくするまでにはしばらくぶら/\してた。それからといふものはどういふものかおしな姙娠にんしんしなかつた。おつぎが十三のとき與吉よきちうまれた。とき勘次かんじもおしなはら大切たいせつにした。をんなが十三といふともうやくつので、與吉よきちそだてながら夫婦ふうふは十ぶんはたらくことが出來できた。與吉よきちが三つにつたのでおつぎはよそ奉公ほうこうすことに夫婦ふうふあひだには決定けつていされた。ころ十五のをんなでは一ねん給金きふきん精々せい/″\ゑんぐらゐのものであつた。それでもそれだけ收入しうにふほか食料しよくれうげんずることが貧乏びんばふ世帶しよたいには非常ひじやう影響えいきやうなのである。それがいね穗首ほくびれるころからおしな思案しあんくびかしげるやうになつた。身體からだ容子ようすへんつたことを心付こゝろづいたからである。十ねんあまりたなかつたはら與吉よきちとまつてからくせいたものとえてまた姙娠にんしんしたのである。おしな勘次かんじもそれには當惑たうわくした。おつぎを奉公ほうこうしてしまへば、二人ふたりいておしな從來これまでのやうにはたらくことが出來できない、わづかかせぎでもそれが停止ていしされることは彼等かれら生活せいくわつためには非常ひじやう打撃だげきでなければならぬ。うちいねつたり、もみしたりいそがしい收穫しうくわく季節きせつて、えたそらした夫婦ふうふ毎日まいにちほこりびてた。有繋さすがつみなやうな心持こゝろもちもするので夫婦ふうふたゞこまつてすごしてた。それもよるつてつかれた身體からだよこにし甘睡かんすゐおちいるまでの少時間せうじかん彼等かれらたがひけつがた思案しあん交換かうくわんするのであつた。從來これまで夫婦ふうふあひだいづれが本位ほんゐであるかわからぬほど勘次かんじには決斷けつだんちから缺乏けつばふしてた。
「どうでもおめえのはらだからきにしたはうがえゝやな」勘次かんじういふのである。しかしそれは怎的どうでもいゝといふなぐりではなくて、すべてがおしなたいして命令めいれいをするには勘次かんじこゝろあまはばかつてたのである。
「そんでも、おれがにもこまんべな」おしなけるやうにいふのである。勘次かんじはおしなうするつもりだときつぱりいつてしまへばけつして反對はんたいをするのではない。といつておしな獨斷どくだん決行けつかうするのにはあま大事だいじであつたのである。さうしてそれは決定けつていされる機會きくわいもなくて夫婦ふうふ依然いぜんとして農事のうじ忙殺ばうさつされてた。
 あひだそらわたこがらしにはかかなしい音信おどづれもたらした。けやきこずゑは、どうでもうれまでだといふやうにあわたゞしくあかつた枯葉かれは地上ちじやうげつけた。られたかろちひさな落葉おちばは、自分じぶんめてれるかげもとめて轉々ころ/\はしつてはしたわらあひだでももみむしろでも何處どこでもたくした。周圍あたりすべてがたゞさわがしく混雜こんざつした。うち勘次かんじあきから募集ぼしふのあつた開鑿工事かいさくこうじひとまかせてつたのである。
たゞかうしてぐづ/\しててもやうあんめえな」おしなとき勘次かんじ判斷はんだんうながしてた。
おれもさうゆはれてもこまつから、おめえきにしてくろうよ」勘次かんじたゞういつた。
 勘次かんじつてからおしなその混雜こんざつしたしかさびしい世間せけんまじつて遣瀬やるせのないやうな心持こゝろもちがして到頭たうとう罪惡ざいあく決行けつかうしてしまつた。おしなはらは四つきであつた。ころはらが一ばん危險きけんだといはれてごとくおしなはそれが原因もとたふれたのである。胎兒たいじは四つきぱいこもつたので兩性りやうせいあきらかに區別くべつされてた。ちひさいまたあひだには飯粒程めしつぶほど突起とつきがあつた。おしな有繋さすがしい果敢はかない心持こゝろもちがした。だい一にこと發覺はつかくおそれた。それで一たん世間せけんをんなのするやうにゆかしたうづめたのをおしなさらはた牛胡頽子うしぐみそば襤褸ぼろへくるんでうづめたのである。
 おしな身體からだ恢復くわいふくするまで凝然ぢつとして蒲團ふとんにくるまつてればあるひはよかつたかもれぬ。十幾年前いくねんまへには一さいんだおふくろ處理しよりしてくれたのであつたが、今度こんど勘次かんじないしでおしな生計くらし心配しんぱいもしなくてはられなかつた。ひとつにはそれを世間せけん隱蔽いんぺいしようといふ念慮ねんりよかららぬ容子ようすよそほためひてもうごかしたのであつた。しかしながらころした黴菌ばいきんがどうして侵入しんにふしたであつたらうか。おしな卵膜らんまくやぶ手術しゆじゆつ他人たにんわずらはさなかつた。さうしてその※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さうにふした酸漿ほゝづき知覺ちかくのないまでに輕微けいび創傷さうしやう粘膜ねんまくあたへて其處そこ黴菌ばいきん移植いしよくしたのであつたらうか、それとも毎日まいにちけぶりごとあびけたほこりからたのであつたらうか、それをあきらめることは不可能ふかのうでなければならぬ。しかいづれにしても病毒びやうどくつちもたらしたのでなければならなかつた。
 葬式さうしきつぎまた近所きんじよひとた。勘次かんじりた羽織はおりはかま村中むらぢう義理ぎりまはつた。土瓶どびんれたみづつて墓參はかまゐりにつて、それから膳椀ぜんわんみなかへして近所きんじよ人々ひと/″\かへつたのち勘次かんじ※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)けいぜんとしてふるつくゑうへかれた白木しらき位牌ゐはいたいしてたまらなくさびしいあはれつぽい心持こゝろもちになつた。二三にちあひだ片口かたくち摺鉢すりばちれた葬式さうしきとき残物ざんぶつべて一たゞばんやりとしてくらした。雨戸あまどはいつものやうにいたまゝ陰氣いんきであつた。卯平うへいくはへて四にんはおたがひたゞひやゝかであつた。卯平うへい薄暗うすぐらうちなかたゞ煙草たばこかしてはおほきな眞鍮しんちう煙管きせる火鉢ひばちたゝいてた。卯平うへい勘次かんじとはあひだろくくちきかなかつた。勘次かんじ自分じぶん身體からだ自分じぶんこゝろとが別々べつ/\つたやうな心持こゝろもち自分じぶん自分じぶんをどうすること出來できなかつた。それでも小作米こさくまいのことは念頭ねんとうからぼつることはなかつた。貧乏びんばふ小作人こさくにんつねとして彼等かれら何時いつでも恐怖心きようふしんおそはれてる。こと地主ぢぬしはゞかることは尋常じんじやうではない。さうして自分じぶんつくきたつた土地とちんでもかぢいてたいほどそれををしむのである。彼等かれら最初さいしよんだつち強大きやうだい牽引力けんいんりよく永久えいきう彼等かれらとほはなたない。彼等かれら到底たうていつちくるしみとほさねばならぬ運命うんめいつてるのである。
 勘次かんじはおしな葬式さうしきむとすぐあたらしいたはられた小作米こさくまい地主ぢぬしはこんでかねばらぬとそれがこゝろくるしめてた。しかときあたらしいたはらの一つはつたなはからけて、こめたゝいてもいくらもなかつた。勘次かんじつぎとしにはほとん自分じぶん一人ひとり農事のうじはげまなくてはならぬ。例年れいねんのやうにいそがしい季節きせつ日傭ひようくことも出來できまいし、それにはおふくろてられた二人ふたり子供こどもることだし、いまからこく用意よういもしなくてはらぬとおもふと自分じぶん身上しんしやうから一ぺうこめげんじては到底たうていけぬことをふか思案しあんしてかれねむらないこともあつた。しか方法はうはふもないのでかれ地主ぢぬし哀訴あいそして小作米こさくまい半分はんぶんつぎあきまでしてもらつた。地主ぢぬし東隣ひがしどなり舊主人きうしゆじんであつたのでそれも承諾しようだくされた。かれさらわづかこめの一いてぜにへねばならぬほどふところきうしてたのである。
 勘次かんじはそれから利根川とねがは工事こうじかねばならないとおもつてた。それはかれわづかあひだ放浪者はうらうしやおそろしさをおもつて、假令たとひどうしてもその統領とうりやうあざむいて僅少きんせう前借ぜんしやくかねたふほど料簡れうけんおこされなかつたのである。うち張元ちやうもとから葉書はがきた。かれ只管ひたすら恐怖きようふした。しか二人ふたり見棄みすてゝくことが出來できないので、どうしていゝか判斷はんだんもつかなかつた。さうするうちにおしなの七日もぎた。かれ煩悶はんもんした。たゞ一つ卯平うへい野田のだくのをしばら猶豫いうよしてもらつて自分じぶんあひだすこしでも小遣錢こづかひせんかせいでたいとおもつた。しかしそれも直接ちよくせつにはせないので、れい桑畑くはばたけまいへだてたみなみたのんだ。數日來すうじつらいかれ卯平うへいおほきな體躯からだ火鉢ひばちそばゑて煙管きせるんではむつゝりとしてるのをると、なんとなくはゞかつてるべく視線しせんけるやうにとほざかつてることを餘儀よぎなくされるのであつた。
 勘次かんじとおしな相思さうし間柄あひだがらであつた。勘次かんじ東隣ひがしどなり主人しゆじんやとはれたのは十七のふゆで十九のくれにおしな婿むこつてからも依然いぜんとして主人しゆじんもとつとめてた。かれその當時たうじしなうちへはとなりづかりといふので出入でいつた。ひとつにはかたちづくつてたおしな姿すがたたい所爲せゐでもあつた。かれあき大豆打だいづうちといふばんなどには、唐箕たうみけたりたはらつくつたりするあひだに二しようや三じよう大豆だいづひそかかくしていておしなうちつてつた。さうして豆熬まめいりかじつては夜更よふけまではなしをすることもあつた。おしなうちからは近所きんじよ風呂ふろたぬときた。いそがしい仕事しごとにはやとはれてもた。さういふあひだ彼等かれら關係くわんけい成立なりたつたのである。それはおしなが十六のあきである。それから足掛あしかけねんつた。勘次かんじには主人しゆじんうち愉快ゆくわいはたらくことが出來できた。かれ體躯からだむし矮小こつぶであるが、そのきりつとしまつた筋肉きんにく段々だん/″\仕事しごと上手じやうずにした。
 假令たとひどんなもの彼等かれらあひだへだてようとしても彼等かれらあひちかづく機會きくわい見出みいだしたことは鬱蒼うつさうとしてさへぎつて密樹みつじゆこずゑとほしてどこからか地上ちじやうひかりげてるやうなものであつた。彼等かれらこゝろたゞあかるかつたのである。
 おしなは十九のはる懷胎くわいたいした。自分じぶんでもそれはしばららずにた。季節きせつ段々だん/\ぽかついて、仕事しごとには單衣ひとへものでなければならぬころつたので女同士をんなどうしかくしおほせないやうにつた。おふくろはおしなをまだ子供こどものやうにおもつて迂濶うくわつにそれを心付こゝろづかなかつた。本當ほんたうにさうだとおもつたときはおしなもなくかたいきするやうにつた。さうして身體からだがもうてゝけない場合ばあひつたので兩方りやうはう姻戚みよりものでごた/\と協議けふぎおこつた。勘次かんじもおしなそのときたがひあひしたこゝろ鰾膠にべごとつよかつた。彼等かれら惡戲者いたづらものみづをさゝれてあわてた機會はづみあるしてしまつた。それは、まゝでは二人ふたりてもはされぬ容子ようすだからどうしてもひとつにらうといふのならば何處どこへか二人ふたりかくすのである。さうしていよ/\となればおれがどうにでも其處そこ始末しまつをつけてるから、なんでも愚圖ぐづ/\してちや駄目だめだとおしなこゝろ教唆そゝつたのであつた。おしなから一しん勘次かんじせまつた。勘次かんじころからおしなのいふなりにるのであつた。二人ふたりとほくはけないので、隣村となりむら知合しりあひとうじた。兩方りやうはう姻戚みよりさわした。ういふ同志どうしへのこんな惡戲いたづら何處どこでも反覆くりかへされるのであつた。さうして成功せいこうした惡戲者いたづらもの
仕事しごとなんでも牝鷄めんどりでなくつちやうまかねえよ」といつてはかげわらふのである。
外聞げえぶんさらしやがつて」と卯平うへいおこつたがそれがためこと容易よういはこばれた。勘次かんじ婿むこつたのである。簡單かんたんしきおこなはれた。にはか媒妁人ばいしやくにんさだめられたものが一人ひとり勘次かんじれてつた。卯平うへいはむつゝりとしてそれをけた。平生へいぜいきつけたうちなので勘次かんじきま惡相わるさうすわつた。おしな不斷衣ふだんぎまゝ襷掛たすきがけ大儀相たいぎさう體躯からだうごかして勘次かんじそばへはすわらなかつた。媒妁人ばいしやくにんたゞさけんでさわいだだけであつた。おしなもなくをんなんだ。それがおつぎであつた。季節きせつくれつまつたいそがしいときであつた。おふくろはおしないてるので、勘次かんじ不足ふそく婿むこおもつてはなかつた。勘次かんじそのくれまた主人しゆじんまかせるはず前借ぜんしやくした給金きふきんを、おしなうちんだのでおふくろかへつよろこんでた。卯平うへいたゞ勘次かんじむしすかなかつた。自分じぶんそのおほきな體躯からだでぐい/\と仕事しごとをしつけたのに勘次かんじちひさな體躯からだでちよこ/\とあるいたり、ただ吩咐いひつけばかりいてるので自分じぶん機轉きてんといふものが一かうなかつたりするのでひど齒痒はがゆおもつてた。しか自分じぶん入夫にふふといふ關係くわんけいもあるしそれに生來せいらい寡言むくちなので姻戚みよりあひだ協議けふぎにもかれ
「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅あんべいめておくんなせえ」とのみいふのであつた。
 勘次かんじ百姓ひやくしやうもつとせはしいころの五ぐわつ病氣びやうきつた。かれくつわけた竹竿たけざをはしつてうまぎよしながら、毎日まいにちどろだらけになつて代掻しろかきをした。どうかするとそんな季節きせつ東南風いなさいてふるへるほどえることがある。勘次かんじえがさはつたのであつたらうか心持こゝろもちわるいというてからもどつてるとそれつまくらあがらぬやうになつた。うま病氣びやうきませる赤玉あかだまといふくすり幾粒いくつぶんでかれ蒲團ふとんへくるまつてた。かれはどうにか病氣びやうきしのぎがつけば卯平うへいそばへはきたくなかつた。それとひとつには我慢がまんして仕事しごとればろくにははたらけなくても一にちつとめをはたしたことにるけれども、まるやすんでしまへばだけの割當勘定わりあてかんぢやう給金きふきんから差引さしひかれなければらぬのでかれはそれをおそれた。しか病氣びやうきうまませるくすり赤玉あかだまではすぐにはなほらなかつた。それでかれはおしな厄介やくかいつもりで、つぎあさはや朋輩ほうばいはこばれた。卯平うへいしぶつたかほむかへた。おしな蒲團ふとんいてつたので勘次かんじはそれへごろりと俯伏うつぶしになつてひたひ交叉かうさしたうづめた。うちものみななければならなかつた。病人びやうにんかまつてることは仕事しごとゆるさなかつた。おふくろときおもて大戸おほどてながら
はらつたら此處こゝにあんぞ」といつてばたりと飯臺はんだいふたをした。あと勘次かんじ蒲團ふとんからずりしてたら、むぎばかりのぽろ/\しためしであつた。時分じぶんしなうちではさういふ食料しよくれう生命いのちつないでたのである。勘次かんじ奉公ほうこうにばかりたのでそれほど麁末そまつものくちにしたことはない。それでどうしてもさうといふこゝろおこらなかつた。午餐ひるうちものからもどつてめしべた。ちつとはどうだとおふくろすゝめられても勘次かんじたゞ俯伏うつぶしつてた。
野郎やらうこんなせはしいときころがりみやがつてくたばるつもりでもあんべえ」と卯平うへい平生へいぜいになくんなことをいつた。勘次かんじあとひといた。かれはおしながこつそり蒲團ふとんしたいれれた煎餅せんべいかぢつたりして二三にちごろ/\してた。ころ駄菓子店だぐわしみせ滅多めつたかつたのでだけのことがおしなには餘程よほど心竭こゝろづくしであつたのである。勘次かんじはどうも卯平うへいいやおそろしくつてやうがないのですこ身體からだ恢復くわいふくしかけるとみんなあとでそつとけてむらうち姻戚みよりところつて板藏いたぐらの二かいかくれてた。になつたらどうしてつたかおしなはおつぎを背負せおつてにはとりを一つてた。
勘次かんじさんわるおもはねえでくろうよ、おらわるくするつもりはねえが、やうねえからよ」とおしなうつたへるやうにいふのであつた。おしな毎晩まいばんのやうに板藏いたぐらさるうちからおろしてとまつてつた。それでも勘次かんじ卯平うへいそばいやなのでもどらないといふつもり村落むら漂泊へうはくした。また土地とちかへつてると、はたけてもてもおしなせまつてるので、かれ農具のうぐてゝげることさへあつた。それが如何どうしたものか何時いつにやらひど自分じぶんからおしなそばきたくつてしまつて、他人たにんからかへつ揶揄からかはれるやうにつたのである。
 勘次かんじ奉公ほうこう年季ねんきつとめあげてかへつたとつたとき卯平うへいとはひとうちかまどべつにすることにつた。夫婦ふうふ乳呑兒ちのみごと三にん所帶しよたい彼等かれら卯平うへいから殼蕎麥からそばが一しようむぎが一と、あとにもさきにもたつただけけられた。正月しやうぐわつ饂飩うどんてなかつた。有繋さすがにおふくろ小麥粉こむぎこかくしておしなつた。それでも勘次かんじおそろしい卯平うへいひとかまどであるよりもかへつ本意ほんいであつた。おふくろんでからいた卯平うへい勘次かんじひとつにらなければならなかつた。そのときはもう勘次かんじあるじであつた。さうしてとう自分じぶんんで土地とちまでが自分じぶん所有ものではなかつた。それは借錢しやくせんきまりをつけるためひとつて東隣ひがしどなり格外かくぐわいたせたのである。それほどかれいへきうしてた。勘次かんじには卯平うへいおそろしいよりもそのときではむしいや老爺おやぢつてた。二人ふたり滅多めつたくちかぬ。それをなければらぬおしな苦心くしん容易よういなものではなかつたのである。
 勘次かんじたのまれてみなみ亭主ていしゆはなしをしたとき卯平うへいはどうしたものかとあんじたほどでもなく「子奴等こめらこまるといへばどうでもざらによ、ねえでどうするもんか」と煙管きせるつてくせ舌皷したつゞみちながらいつた。みなみあんじながら挨拶あいさつつて勘次かんじいきほひづいて
「そんぢや、おとつゝあおれつから」といつた。ときばかりはおだやかな挨拶あいさつ交換かうくわんされた。
 勘次かんじなくつてから卯平うへいはむつゝりしたかほ微笑びせうかべては與吉よきちいてかれることもあつた。與吉よきちよるにはかしてまぬことがある。おしなぬまで蒲團ふとんなかにおつぎは與吉よきちいてくるまるのであつた。與吉よきち夜泣よなきをするとき卯平うへい枕元まくらもと燐寸マツチをすつて煙草たばこうつしてはえさしをランプへけて
「おつかあがえんだかもんねえ、さうらあかるくつた。りやねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、69-12]かさつてんだ。可怖おつかねえことあるもんか」卯平うへいおも調子てうしでいふのである。與吉よきちかべ何處どこともなくてはいたやうにふるはしていてひしとおつぎへきつく。おつぎは與吉よきちひざいてむまでは兩手りやうておほうてる。それがしたら毎夜まいよのやうなのでおつぎは、玉砂糖たまざたう蒲團ふとんしたれていてときにはめさせた。それでもつのつたときくちれた砂糖さたうしてはいよ/\はげしくくのである。おつぎはれて邪險じやけん與吉よきちをゆさぶることもあつた。それで與吉よきちしまひには砂糖さたうくちにしながらすや/\とねむる。卯平うへい與吉よきちしづかにるまではよこつたまゝおつぎのはういて薄闇うすぐらランプにひからせてる。
 與吉よきちはおつぎにかれるときいつもくおつぎの乳房ちぶさいぢるのであつた。五月蠅うるさがつて邪險じやけんしかつてても與吉よきちあまえてわらつてる。それでもときにおしなのしたやうにふところけて乳房ちぶさふくませててもちひさな乳房ちぶさ間違まちがつてもはなかつた。砂糖さたうけててもあざむけなかつた。おつぎは與吉よきちはららしてときにはこめみづひたしていて摺鉢すりばちですつて、それをくつ/\と砂糖さたういれめさせた。與吉よきち一箸ひとはしめては舌鼓したつゞみつてそのちひさなしろして、あたまうしろへひつゝけるほどらしておつぎのかほ凝然ぢつてはあまえたこゑたてわらふのである。與吉よきちはそれがほしくなればちひさなすゝけた※(「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)わくだなした。其處そこにはかれこの砂糖さたうちひさなふくろせてあるのであつた。
 おつぎは勘次かんじ吩咐いひつけてつたとほをけれてあるこめむぎとのぜたのをめしいて、いも大根だいこしるこしらへるほかどうといふ仕事しごともなかつた。あひだには與吉よきち背負せおつてはやしなかあるいてたけ竿さをつくつたかぎ枯枝かれえだつては麁朶そだたばねるのがつとめであつた。おつぎは麥藁むぎわら田螺たにしのやうなかたちよぢれたかごつくつてそれを與吉よきちたせた。卯平うへいはぶらりとつてはかへりには駄菓子だぐわしすこたもとれてる。さうして卯平うへい菓子くわしつたみぎひだり袖口そでくちからして與吉よきちせる、與吉よきちはふら/\とやうやあるいてつては、あたさう卯平うへいつかまつてたもとさがす。さうすると菓子くわしつたさら卯平うへいひだりたもとからる。與吉よきちあぶさう卯平うへい身體からだつたひつゝひだりまはつてく。さうすると卯平うへい與吉よきちあたまうへつて菓子くわしあたまおとされる。與吉よきちあたまをやるとき菓子くわし足下あしもとへぽたりとちる。與吉よきちあわてゝ菓子くわしひろつてはこゑてゝわらふのである。菓子くわし何時いつまでもらないやうに砂糖さたうかためたくろ鐵砲玉てつぱうだまあたへられた。あたまからちてころ/\と鐵砲玉てつぱうだまとほころがつてくのを、たふれながらけて與吉よきち卯平うへいのむつゝりとしたかほけるのである。與吉よきちつまづいてたふれてもそのときけつしてくことがない。鐵砲玉てつぱうだま麥藁むぎわらかごへもれられた。與吉よきちはそれを大事相だいじさうつては時とき/″\のぞきながら、おつぎが炊事すゐじあひだ大人おとなしくしてすわつてるのであつた。

         六

 はるそらからさうしてつちからかすかうごく。毎日まいにちのやうに西にしからほこりいて疾風しつぷうがどうかするとはたととまつて、空際くうさいにはふわ/\とした綿わたのやうなしろくもがほつかりとあたゝかい日光につくわうびようとしてわづかのぼつたといふやうに、うごきもしないで凝然ぢつとしてることがある。みづちかしめつたつちあたゝかい日光につくわうおもふ一ぱいうてそのいきほひづいたつちかすかな刺戟しげきかんぜしめるので、田圃たんぼはん地味ぢみつぼみたぬすこしづゝびてひら/\とうごやすくなる。刺戟しげきからかへるはまだ蟄居ちつきよ状態じやうたいりながら、まれにはそつちでもこつちでもくゝ/\とすことがある。そらからひかりはそろ/\と熱度ねつどして、つちはそれをいくらでもうてまぬ。つちすべてを段々だん/\刺戟しげきしてほりほとりにはあしやとだしばやくさそらあひえいじてすつきりとくびもたげる。やはらかさに滿たされた空氣くうきさらにぶくするやうに、はんはなはひら/\とまずうごきながらすゝのやうな花粉くわふんらしてる。かへる假死かし状態じやうたいからはなれてやはらかなくさうへいては、おどろいたやうな容子ようすをしてそらあふいでる。さうして彼等かれらあわてたやうにこゑはなつてそのなが睡眠すゐみんから復活ふくくわつしたことをそらむかつてげる。それでとほとき彼等かれらさわがしいこゑたゞそらにのみひゞいてこゝろよげである。
 彼等かれらさらはるいたつたことを一さい生物せいぶつむかつてうながす。くさこゝろづいて活力くわつりよく存分ぞんぶん發揮はつきするのをないうちはくことをめまいとつとめる。田圃たんぼはんとうはなてゝ自分じぶんさき嫩葉わかば姿すがたつてせる。黄色味きいろみふくんだ嫩葉わかばさわやかでほがらかな朝日あさひびてこゝろよひかりたもちながらあをそらしたに、まだ猶豫たゆたうて周圍しうゐはやしる。みさきのやうなかたちうて水田すゐでんかゝへて周圍しうゐはやしやうや本性ほんしやうのまに/\勝手かつてしろつぽいのやあかつぽいのや、黄色きいろつぽいのや種々いろ/\しげつて、それがいたときいそいでひとつのふかみどりるのである。雜木林ざふきばやし其處そこ此處こゝらに散在さんざいして開墾地かいこんちむぎもすつとくびして、蠶豆そらまめはな可憐かれんくろひとみあつめてはづかしさうあいだからこつそりと四はうのぞく。雜木林ざふきばやしあひだにはまたすゝき硬直かうちよくそらさうとしてつ。そのむぎすゝきしたきよもとめる雲雀ひばり時々とき/″\そらめてはるけたとびかける。さうするとその同族どうぞくこゑのみが空間くうかん支配しはいして居可ゐべはずだとおもつてかへるは、そのさへづこゑあつらうとしてたがひ身體からだえ飛び越えてるので小勢こぜい雲雀ひばりはすつとおりてむぎすゝきひそんでしまふ。さうしてはかへるかぬ日中につちうにのみ、これあふげばまばゆさにへぬやうにはるかきらめくひかりなかぼつしてそのちひさなのど拗切ちぎれるまでははげしくらさうとするのである。かへるいよ/\ます/\ほこつてかしのやうなおほきな常緑木ときはぎ古葉ふるはをも一にからりとおとさせねばまないとする。
 ときすべての樹木じゆもくやそれから冬季とうきあひだにはぐつたりといてすべての雜草ざつさう爪立つまだてしてたゞそらへ/\とあたゝかなひかりもとめてまぬ。つちがそれを凝然ぢつきとめてはなさない。それで一さい草木さうもくつち直角ちよくかくたもつてる、冬季とうきあひだつち平行へいかうすることをこのんでひとてつはり磁石じしやくはれるごとつち直立ちよくりつして各自てんで農具のうぐる。こん股引ももひきわらくゝつてみなたがやはじめる。みづしいとひとおもときかへるは一せいけるかとおもほどのどふくろ膨脹ばうちやうさせてゆるがしながら殊更ことさらてる。しろ※(「糸+圭」、第3水準1-90-3)すがいとのやうなあめみづ滿つるまではそゝいでまたそゝぐ。くべきときためにのみうまれてかへる苅株かりかぶかへし/\はたらいて人々ひと/″\周圍しうゐから足下あしもとからせまつて敏捷びんせううごかせ/\とうながしてまぬ。かへるがぴつたりとこゑときには日中につちうあたゝかさにひともぐつたりとつて田圃たんぼみじかくさにごろりとよこる。さらかへるはひつそりとしづかなよるになると如何いか自分じぶんこゑとほかつはるかひゞくかをほこるものゝごとちからきはめてく。雨戸あまどづるときかへるこゑ滅切めつきりとほへだつてそれがぐつたりとつかれたみゝくすぐつて百姓ひやくしやうすべてをやすらかなねむりにいざなふのである。熟睡じゆくすゐすることによつて百姓ひやくしやうみなみじか時間じかん肉體にくたい消耗せうまう恢復くわいふくする。彼等かれら雨戸あまど隙間すきまから夜明よあけしろひかりおどろいて蒲團ふとんつてそとると、今更いまさらのやうにみゝせまかへるこゑ覺醒かくせいうながされて、井戸端ゐどばたつめたいみづまつたあさ元氣げんきかへすのである。草木くさきとほはるかひゞけとこゑゆすられつゝよるあひだ生長せいちやうする。くぬぎならその雜木ざふきかへるけばほどさうしてそれが季節きせつまではいくらでも繁茂はんもすることを繼續けいぞくしようとする。其處そこには毛蟲けむし淺猿あさましい損害そんがいあるひるにしても、しと/\としば/\こずゑあめそらあをさをうつしたかとおもふやうに力強ちからづよふかいみどり地上ちじやうおほうてさわやかなすゞしいかげつくるのである。
 鬼怒川きぬがは西岸せいがんにもうしてはるきたかつ推移すゐいした。うれひあるものもいものもひとしく耒※らいし[#「耒+巨」、74-15]つておの/\ところいた。勘次かんじ一人ひとりである。
 勘次かんじはるあひだにおしなの四十九にちすごした。白木しらき位牌ゐはいこゝろばかりの手向たむけをしただけで一せんでもかれ冗費じようひおそれた。かれふたゝ利根川とねがは工事こうじつたときふゆやうや險惡けんあくそら彼等かれら頭上づじやうあらはした。みぞれゆきあめときとして彼等かれら勞働らうどうおそるべき障害しやうがいあたへて彼等かれらを一にちそのさむ部屋へやめた。一にち工賃こうちん非常ひじやう節約せつやくをしてもつぎ仕事しごとなければ一せん自分じぶんにはのこらなくなる。それは食料しよくれうまきとの不廉ふれん供給きようきふあふがねばならぬからである。勘次かんじはおしな發病はつびやうから葬式さうしきまでにはかれにしては過大くわだい費用ひようえうした。それでも葬具さうぐ雜費ざつぴには二せんづつでもむらすべてがつて香奠かうでんと、おしな蒲團ふとんしたいれてあつたたくはへとでどうにかすることが出來できた。それでも醫者いしやへの謝儀しやぎ彼自身かれじしん懷中ふところはげつそりとつてしまつた。さうして小作米こさくまいつたくるしいふところからそれでもかれ自分じぶんないあひだ手當てあてに五十せんたくしてつた。それも卯平うへい直接ちよくせつではなくてみなみたのんで卯平うへいわたしてもらつた。勘次かんじつてからぜにされたとき卯平うへい
「さううたぐるならわしはあづかりますめえ」といつて拒絶きよぜつした。
「まあ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことゆはねえで折角せつかくのことに、勘次かんじさんもわる料簡れうけんでしたんでもなかんべえから」となだめても到頭たうとう卯平うへいかなかつた。
 勘次かんじはどうにかかせしてかへりたいとおもつて一生懸命しやうけんめいになつたがそれはわづか生命せいめいつなたにすぎないのであつた。近所きんじよ村落むらからつたものはしのれないで夜遁よにげしてしまつたものもあつた。それでも勘次かんじわづかつて財布さいふぜにらさなかつたといふだけのことにつなめた。
「おとつゝあれたなあ」とびるやうにいつて自分じぶんうちしきゐまたいだときあし知覺ちかくのないほどかれ草臥くたびれてよるくらくなつてた。有繋さすが二人ふたりよろこんで與吉よきち勘次かんじすがつた。卯平うへいがしたやうに鐵砲玉てつぽうだま勘次かんじからることゝおもつたらしかつた。勘次かんじくるしいふところからなにつてはなかつた。かれ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなにしても無邪氣むじやきためちひさな菓子くわし一袋ひとふくろつてなかつたことをこゝろいた。
「まんま」というてちひさな與吉よきち勘次かんじもとめた。
「そんぢやぢい砂糖さたうでもめろ」とおつぎは與吉よきちだい※(「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)わくだなふくろをとつた。寡言むくち卯平うへい一寸ちよつと見向みむいたきりでかへつたかともいはない。勘次かんじ草臥くたびれた容子ようすをしてるのがわざとらしいやうにえるので卯平うへいにがかほをして、えた煙管きせるをぎつとみしめてはおもしたやうに雁首がんくび火鉢ひばちたゝけた。吸穀すひがらがひつゝいてるのでかれちからぱいたゝきつけた。勘次かんじにはそれがてつけにでもされるやうにこゝろひゞいた。
「おつぎみんなでもめさせろ、さうしてわれめつちめえ、おとつゝあかせえでたから汝等わつられからよかんべえ」卯平うへいはいつた。勘次かんじやうやかへつた箭先やさきにかういふことで自分じぶんうちでもひど落付おちつかない、こそつぱくてらない心持こゝろもちがするのでかれあしあらはずに近所きんじよ義理ぎりすからといつてつた。
明日あしただつてえゝのに」卯平うへいあとつぶやいた。かれはぶすり/\とくちくのであつたがそれでも先刻さつきからのやうにひねくれまがつたことはれまではいつたことはなかつた。
 かれんだおしなのことをおもつて二人ふたりあはれになつて勘次かんじないあひだ面倒めんだうつた。かれわづか菓子くわしふくろからちひさな與吉よきちしたはれてると有繋さすがにく心持こゝろもちおこらなかつた。あひだかれなんにも不足ふそくおもつてはなかつた。それを勘次かんじかへつてると性來しやうらいきでない勘次かんじたちまちに二人ふたりなびいてしまつた。かれこれまでの心竭こゝろづくしを勘次かんじうばはれたやうで、ふつと不快ふくわいかんじをおこしたのである。それもどんな姿なりにも勘次かんじ義理ぎりのべればそれでもまだよかつたが、勘次かんじめうひけてそれがのどまでてもおさへつけられたやうでこゑはつすることが出來できなかつたのである。
 ふところのさむしい勘次かんじはさうしてがひけるのを卯平うへいにはかへつ餘所よそ/\しくされるやうなかんじをあたへた。勘次かんじ卯平うへいにも子供こどもにもすまぬやうながしたので近所きんじよ義理ぎりすというて菓子くわし一袋ひとふくろふところれてた。とき與吉よきちはもうねむつてた。卯平うへいへんなことをするとおもつてた。さうしてまたさら自分じぶんひどへだてられるやうにおもつた。かれは五十せんぜにのことをおもして忌々敷いま/\しくなつた。
勘次等かんじらふところはよかつぺ」卯平うへいはぶつゝりといた。
「おとつゝあ、らえゝところなもんぢやねえ、やつとのことでげるやうにしてたんだ、あんなところへなんざあけつしてくもんぢやねえ、とつても駄目だめなこつた、おらりつちやつたよ」勘次かんじあわてゝいつた。かれひとごとかならずよからう/\といはれるのを非常ひじやうおそれてた。
「うむ、さうかなあ」卯平うへいのないやうにいつた。
「どうで餘計者よけいものだ、やしねえからえゝや、いくもつてたつてかまやしねえ」かれさら獨語つぶやいた。勘次かんじあをくなつた。卯平うへい勘次かんじ屹度きつとぜにかくしてるのだとおもつたのである。かれはそんなこんなが不快ふくわいへないのでつぎ野田のだつてしまつた。
 野田のだ卯平うへい役目やくめといへばよるになつておほきな藏々くら/″\あひだ拍子木ひやうしぎたゝいてあるだけ老人としよりからだにもそれは格別かくべつ辛抱しんぼうではなかつた。ひる午睡ひるねゆるされてあるので時間じかんいて器用きようかれには内職ないしよく小遣取こづかひどりすこしは出來できた。きな煙草たばことコツプざけかつすることはなかつた。あつときにはさつぱりした浴衣ゆかたけてることも出來できた。其處そこかれにはづらところでもなかつた。たゞてのひどふゆなどには以前いぜんからの持病ぢびやうである疝氣せんきでどうかするとこしがきや/\といたむこともあつたが、ときだけ勘次かんじとまづくなければおしなそばでおとつゝあといはれてたい心持こゝろもちもするのであつた。生來せいらいつたことのないかれはおしな一人ひとり手頼てたのみであつた。おしななれてかれまつた孤立こりつした。さうして老後らうご到底たうてい勘次かんじたくさねばならぬことにつてしまつたのである。それでも不見目みじめ貧相ひんさう勘次かんじ依然いぜんとしてかれにはむしかなかつた。かれ野田のだけば比較的ひかくてき不自由ふじいうのない生活せいくわつがしてかれるので汝等わつら厄介やくかいにはらねえでもおれはまだたつかれると、うして哀愁あいしうおほはれたこゝろの一ぱうには老人としよりひがみと愚癡ぐちとがおこつたのであつた。卯平うへいこゝろなみだんだ。
 勘次かんじ悄然せうぜんとしてた。與吉よきちたびかれこまつた。さうして毎日まいにちしなのことをおもしては、天秤てんびん手桶てをけかついだ姿すがたにはにも戸口とぐちにもときとしては座敷ざしきにもえることがあつた。そばるやうながしておもはずかへりみることもあるのであつた。かれはおしなおもすと與吉よきちいては「なあ、おつかあはねえんだぞ、おつかあが乳房ちつこしがんねえんだぞ」と始終しじういつてかせた。おしなないと殊更ことさらにいふのはそれは一つには彼自身かれじしん斷念あきらめためでもあつたのである。
 おしな豆腐とうふかついでとき麥酒ビール明罎あきびん手桶てをけくゝつてつた。それでかへりの手桶てをけかるくなつたとき勘次かんじきなさけがこぼ/\とびんなかつてた。おしな酒店さかだな豆腐とうふいてはそのぜにだけさけれてもらふので豆腐とうふまうけだけやすさけつて勘次かんじよろこばせるのであつた。それはおしなとしのことだけである。おしなやうやあきなひおぼえたといつてたのはまだなつころからである。はじめはきまりがわるくて他人たにんしきゐまたぐのを逡巡もぢ/\してた。くらゐだからへんあかかほもして餘計よけい不愛想ぶあいさうにもえるのであつたが、のちには相應さうおう時候じこう挨拶あいさつもいへるやうにつたとおしな勘次かんじかたつたのである。勘次かんじ追憶つゐおくへなくなつてはおしな墓塋はかいた。かれかみあめけてだらりとこけた白張提灯しらはりちやうちんうらめしさうるのであつた。
 勘次かんじしをれたくびもたげて三にんくちのりするために日傭ひようた。かれとなり主人しゆじん使つかつてもらつた。こめ屹度きつとかれかせられた。上手じやうずかれらさないでさうしてしろいた。かれときとしては主人しゆじんのうつかりしてくらから餘計よけいこめはかして、そつとかくしていてよる自分じぶんいへつてることがあつた。それもわづか二しようか三じようぎない。くらゐでは主人しゆじん注意ちういくにはらなかつた。さうしてこめ窮迫きうはくしたかれくりや少時しばしうるほすのである。ときれは主人しゆじんこめをそつとかすめて股引もゝひきれてにつかぬやうにたきゞんだあひだんでいた。傭人やとひにんがそれを發見はつけんしてひそか主人しゆじん内儀かみさんにげた。内儀かみさんはわづかなことだからてゝいてれといつたがしか傭人やとひにんは一つには惡戯いたづらからこめけてかはりに一ぱいつちれていた。勘次かんじ發覺はつかくしたことをおそぢてつぎにはなかつた。それから數日間すうじつかん主人しゆじんうち姿すがたせなかつた。内儀かみさんは傭人やとひにん惡戯いたづらいてむしあはれになつてまたこちらから仕事しごと吩咐いひつけてやつた。さらふくろこめ挽割麥ひきわりむぎとをぜたのをれて、それかられは傭人やとひにんにもいてやれないのだからおまへがよければつてつてあきにでもなつたら糯粟もちあはすこしもかへせと二三はひつた粳粟うるちあはたわらとを一つにつた。勘次かんじ主人しゆじんために一所懸命しよけんめいはたらいた。以前いぜんからもかれたゞとなり主人しゆじんから見棄みすてられないやうとこゝろにはおもつてるのであつた。しか非常ひじやう勞働らうどう傭人やとひにん仲間なかまにはまれた。それは傭人やとひにんかれならつて自分じぶん勞力らうりよくぬすむことが出來できないからである。
 さうするうち世間せけんまたはるうつつてあめいそがしく田畑たはたみづ供給きようきふした。勘次かんじ自分じぶんうしろ刈株かりかぶかへしてはたがやした。おつぎも萬能まんのうつて勘次かんじあといた。勘次かんじはおしなつただけはおつぎを使つかつてどうにか從來これまでつくつた土地とち始末しまつをつけようとおもつた。ことすぐうしろなので※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなにしても手放てばなすまいとした。一たん地主ぢぬしかへしてしまつたらふたゝ自分じぶんしくなつても容易よういれることが出來できないのをおそれたからである。いまにおつぎを一人前にんまへ仕込しこんでると勘次かんじこゝろおもつてる。勘次かんじ萬能まんのうをぶつりとんではぐつとおほきなつちかたまり引返ひきかへす。おつぎはやうやちひさなかたまりおこす。勘次かんじすみやかに運動うんどうしてずん/\とさきすゝむ。おつぎは段々だん/\おくれてちひさなかたまりあさおこしてすゝんでく。さうすると
「そんなに可怖おつかなびつくりやんぢやねえかうすんだ」勘次かんじ遲緩もどかさうにおつぎの萬能まんのうをとつてんでせる。
「そんでもおとつゝあ、おらがにやさういにや出來できねえんだもの」
「そんな料簡れうけんだから汝等わツら駄目だめだ、本當ほんたうにやつてつもりでやつてろ」
 おつぎは勘次かんじおくれつゝちからおよかぎはたらいた。
 與吉よきち田圃たんぼほりほとりむしろいて其處そこいてある。
「えんとしてろ、いごくんぢやねえぞいごくとぽかあんとほりなかおつこちつかんな、そうらけえるぽかあんとおつこつた。いごくなあ、此處こゝぼうあつた、そうらこれでもつてろ、くんぢやねえぞ、ねえなかんだかんな、くとおとつゝあにあつぷつておこられつかんな」おつぎはほゝりつけてくいひふくめた。與吉よきちつちだらけのみぢかぼうきしつちたゝいてる。さうして時々とき/″\あといてはあね姿すがた安心あんしんしてぼうでぴた/\とたゝいてる。ぼうさきみづつので與吉よきちよろこんだ。それも少時しばしあひだいた。おつぎは與吉よきちがまたときにはむかふはしつてた。
ねえよう」と與吉よきちんだ。おつぎは返辭へんじしなかつた。與吉よきちまたんだ。さうしてした。おつぎはつてかうとすると
かまあねえでけ、うなつてあつちへつてからにしろ」勘次かんじ性急せいきふきびしくおつぎをめた。おつぎは仕方しかたなくくのもかまはずにたがやした。
 勘次かんじさきへ/\とたがやしてほりそばまでた。
くな、いまねえあとかららあ」勘次かんじはかういつて、與吉よきちに一べつあたへたのみで一しんうごかしてる。與吉よきちはおつぎがやうやちかづいたとき一しきりまたいた。
よきはどうしたんだ」おつぎはきしあがつてどろだらけのあしくさうへひざついた。與吉よきち笑交わらひまじりにいて兩手りやうてしてかれようとする。
ねえどろだらけでやうあんめえな、よごれてもえゝのかよきは」いひながらおつぎは與吉よきちいた。
「どうした、蛙奴けえるめねえか、ぼうでばた/″\とはたいてやれ、さうしたらいてえようつて蛙奴けえるめくべえな、くなけえるだよう、よきかねえようつてなあ」おつぎは與吉よきちいたまゝ勘次かんじほう
「おとつゝあ、あつちへつちやつた、ねえかなくつちやなんねえ、おとつゝあにおこられつかんな、またえんとしてろ」おつぎはそつと與吉よきちむしろおろした。
「かせえてやれ、なにしてんだ、えゝ加減かげんにしろ」勘次かんじうしろいて呶鳴どなつた。
「それろなおこられつから、そら此處こゝにえゝものがつた」おつぎは田圃たんぼにある鼠麹草はゝこぐさはな※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしつてむしろのせつた。さうしてまたあぶないやうにそうつとへおりた。與吉よきちたゞ鼠麹草はゝこぐさはないぢつてた。
 ほりあめあとみづあつめてさら/\ときしひたしてく。あをしげつてかたむいて川楊かはやなぎえだが一つみづについて、ながちからかるうごかされてる。みづわづかれてそのえだため下流かりう放射線状はうしやせんじやうゑがいてる。あしのやうでしかきはめてほそ可憐かれんなとだしばがびり/\とゆるがされながらきしみづつてる。お玉杓子たまじやくしみづいきほひにこらへられぬやうにしては、にはかみづひたされてぎんのやうにひかつてきしくさなかかくれやうとする。さうしてはまたすべてのをさないものゝ特有もちまへ凝然ぢつとしてられなくて可憐かれんをひら/\とうごかしながら、ちからあまみづいきほひにぐつとられつゝおよいでる。與吉よきち鼠麹草はゝこぐさはなみづげた。はな上流じやうりういてちると、ぐるりと下流かりうけられてずんずんとはこばれてく。きしくさなかかはづ剽輕へうきんそのはないて、それからぐつとうしろあしみづいてむかふきしいてふわりといたまゝおほきな※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつてこちらをる。鼠麹草はゝこぐさはなみなつくされて與吉よきちまたおつぎをんだ。
「おうい」とおつぎのじやうふくんだこゑとほくからいつた。おつぎの返辭へんじいては與吉よきち口癖くちぐせのやうにねえよとぶ。そのたびごとにおつぎはいそがしいうごかしながらそれにおうずるのである。
 正午ひるにはまだがあるうちに午餐ひる支度したくいそいでおつぎは田圃たんぼからちやわかしにのぼる。與吉よきちよろこんでおつぎのかぢりついた。勘次かんじあとひとたがやした。あをけむりならからつてやが
いたぞう」とおつぎのこゑばれるまでは勘次かんじいそがしいめなかつた。
 午餐過ひるすぎからおつぎは縫針ぬひばりいととほして竿さをけて與吉よきちたせた。與吉よきちほか子供こどものするやうにはりげててはまたみづげて大人おとなしくしてる。しばら時間じかんつとまたねえようとぶ。おつぎはほりちかくへたがやしてときると與吉よきち竿さをいとがとれてた。おつぎはきしあがつた。
「どうしたんでえ、よきは」おつぎはるとはりむかふきしからひく川楊かはやなぎえだまつはつていとはしみづについて下流かりういてる。おつぎは二ちやうばかり上流じやうりう板橋いたばしわたつてつて、やうやくのことでえだげてそのはりをとつた。さうしてまた與吉よきちぼうけてやつた。
「はあけんぢやねえぞ大變たえへんだかんな」おつぎはきはめてかるしかつてまたへおりた。勘次かんじまた呶鳴どなつた。
「そんでもよきいとつちまつたんだもの」
 おつぎはあやぶむやうにしてひかこゑてゝいつた。おつぎはだまつてうごかしてる。與吉よきち返辭へんじがなくてもなつかしさうねえようと數次しば/\けた。おつぎの姿すがたとほくなればむしろくちのつくほどかゞんでこゑかぎりにんだ。
 ばん勘次かんじ二人ふたりれて近所きんじよ風呂ふろもらひにつた。おつぎは其處そこあつまつた近所きんじよ女房にようばう自分じぶんせて
らこんなに肉刺まめつちやつたんだよ」とつぶやいた。
「ほんによな、いたかつぺえなそりや、そんでもおつかあがねえからはたらかなくつちやなんねえな」女房にようばうなぐさめるやうにいつた。
「おつかあのねえものはだな」おつぎはいつて勘次かんじるとすぐくびたれた。勘次かんじそば凝然ぢつとそれをいてた。
「おつうだつていまえこともあらな、そんだがおつかゞくつちや衣物きものしくつてもこればかりはやうがねえのよな」女房にようばうはいつた。勘次かんじ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことははずにれゝばいゝのにとおもひながらむづかほをしてだまつてた。
肉刺まめとがめめえか」おつぎはひら處々ところ/″\肉刺まめ心配相しんぱいさうにいつた。
なんでとがめるもんか」勘次かんじ抑制よくせいしたあるもの激發げきはつしたやうにすぐ打消うちけした。
 勘次かんじいへもどると飯臺はんだいそこにくつゝいてめしなかから米粒こめつぶばかりひろしてそれを煙草たばこ吸殼すひがら煉合ねりあはせた。さうしてはりさきでおつぎのからたばかりでやはらかくつた肉刺まめをついて汁液みづして其處そこへそれをつてつた。
「しく/\すんな」おつぎはつた箇所かしよていつた。
液汁みづしたばかりにやちつたえてえとも、そのけえしすぐなほつから」勘次かんじはおつぎを凝然ぢつてそれからもういびきをかいて與吉よきちた。
肉刺まめなんぞたらばたつておとつゝあげいふもんだ、他人ひとのげなんぞせたりなにつかするもんぢやねえ、汝等わツらなんにもらねえからやうねえ、田耕たうねはじまりにやおとつゝあてえなだつてかうえにんだかろ。それいてえの我慢がまんしい/\りせえすりやかたまつちあんだ」勘次かんじ自分じぶんをおつぎへしめした。
「おつかゞくなつてこまんなわればかしぢやねえんだから」勘次かんじしばらあひだおいてぽつさりとしていつた。
身上しんしやうためだからわれ我慢がまんするもんだ、汝等處わツらとこぢやねえ、武州ぶしうはうへなんぞられていてるものせえあら」とかれまたからうじていつた。大人おとなしくだまつてたおつぎは
武州ぶしうツちやどつちのはうだんべ」むしろあどけなくいた。
「あつちのはうよ、われあしぢや一日にやあるけねえところだ」勘次かんじ雨戸あまどはういて西南せいなんしめした。
とほいんだな、其處そこつたらどうすんだんべ」
機織はたおりするものもあれば百姓ひやくしやうするものもあんのよ」
機教はたをされぢやよかんべな」
なんでえゝことあるもんか、うちへなんざあ滅多めつたられやしねえんだぞ、そんであさから晩迄ばんまでみつしら使つかあれて、それどこぢやねえ病氣びやうきつたつて餘程よつぽどでなくつちや葉書はがきもよこさせやしねえ」
「そんぢや、さうえとこつちやひでえな、げてることも出來できねえんだんべか」
つかめえられつちあからそんなにげられつかえ」
巡査じゆんさつかまんだんべか」
「さうなもんか、巡査じゆんさでなくつたつてせばつかめえるやうにひとばんしてんのよ、なあ、そんでもなくつちやとほくのものばかりたのんでくんだものやうあるもんか」
「そんでもだつちつたらどうすんだんべ」
だなんていつたくれえひでえとも立金たてきんしなくつちやなんねえから」
「どういにすんだんべそら」
「そらなあ、いくつとめたつて途中とちうだからなんてつちめえば、りただけ給金きふきんはみんなつくるえされんのよ、なあ、それからき/\もなくつちやなんねえのよ」
「そんぢやらさうえとこかねえでよかつたつけな」おつぎは熱心ねつしんにいつた。
「そんだから汝等わツらこたりやしねえ。われこと奉公ほうこうにやればぜね借金しやくきんくなるし、よきことだつて輕業師かるわざげでもしつちめえばそれこそらくになつちあんだが、おつかゞくつちやつれえつてあとかれんのだからちゝかぢつてもそんな料簡れうけんさねんだ」
「おとつゝあ、奉公ほうこうすれば借金しやくきんなくなんだんべか」
「おつかせえればわれことも奉公ほうこうして、おとつゝあもえゝぜねつかめえんだが、おつかゞくなつておとつゝあだつてこまつてんだ、それからわれだつて奉公ほうこうつたつもり辛抱しんばうするもんだ、なあ、汝等わツらげみじめせてえこたありやしねんだから」
 勘次かんじはしみ/″\と反覆くりかへした。
 勘次かんじはおつぎに身體からだ不相應ふさうおう仕事しごとをさせてることをつてる。それで自分じぶんあさ屹度きつとさききてかまどしたける。ときつかれた少女せうぢよはまだぐつたりと正體しやうたいもなくまくらからこけてる。しろ蒸氣ゆげかまふたからいきほひよくれてやがてかれてからおつぎはおこされる。おびしめまゝよこになつたおつぎは容易よういかないをこすつて井戸端ゐどばたく。蓬々ぼう/\けたかみくしれてつめたいみづれたときおつぎはやうや蘇生いきかへつたやうになる。それでもはまだあかくて態度たいどがふら/\と懶相だるさうである。
「さあ、おまんま出來できたぞ」勘次かんじかまから茶碗ちやわんめしうつす。さうして自分じぶん農具のうぐつておつぎへたせてそれからさつさとすのである。
 籾種もみだねがぽつちりとみづげてすとやうやつよくなつた日光につくわうみどりふかくなつた嫩葉わかばがぐつたりとする。やはらかなかぜすゞしくいてまつ花粉くわふんほこりのやうにしめつたつちおほうて、小麥こむぎにもびつしりとかびのやうなはないた。百姓ひやくしやうみな自分じぶん手足てあし不足ふそくかんずるほどいそがしくなる。勘次かんじは一たゞ仕事しごと手後ておくれになるのをおそれた。草臥くたびれてもつかれてもかれ毎日まいにち未明みめいきてまで手足てあしうごかしてまぬ。おつぎもあといて草臥くたびれた身體からだきずられた。晩餐ゆふめし支度したく與吉よきちうてさきかへるのがおつぎにはせめてもの骨休ほねやすめであつた。
 勘次かんじむぎあひだ大豆だいづいた。畦間うねまあさほりのやうなくぼみをこしらへてそこへぽろ/\とたねおとしてく。勘次かんじはぐい/\と畦間うねまつてく。あとからおつぎがたねおとした。おつぎのまだみじか身體からだむぎ出揃でそろつたしろからわづかかぶつた手拭てぬぐひかたとがあらはれてる。與吉よきちみちはたこもうへ大人おとなしくしてる。おつぎのしろ手拭てぬぐひ段々だん/\むぎかくれると與吉よきちねえようとぶ。おつぎはおういと返辭へんじをする。おつぎのこゑきこえると與吉よきち凝然ぢつとしてる。勘次かんじ畦間うねまつくりあげてそれから自分じぶんいそがしく大豆だいづおとはじめた。勘次かんじ間懶まだるつこいおつぎのもとをうねをひよつとのぞいた。たねたねとの間隔かんかく不平均ふへいきんで四つぶも五つぶも一つにちてるところがあつた。
のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計くらし出來できつか」と呶鳴どなりながらかれ突然とつぜんおつぎをなぐつた。おつぎはむぎからともたふれた。おつぎはたふれたまゝしく/\といた。
大概てえげえわかさうなもんぢやねえか、こんなざまぢやたねばかしつてやうありやしねえ」勘次かんじあとつぶやいた。となりはたけこれ大豆だいづいて百姓ひやくしやうけてた。
勘次かんじさんどうしたもんだいまあ、※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなあらつぺえことして」と勘次かんじおさへた。
「おつぎかねえでさあきて仕事しごとしろ、おとつゝあげはおれ謝罪あやまつてやつかんなあ、與吉よきちねえてら、さあつてさつせ」百姓ひやくしやうさらにおつぎをすかした。與吉よきちはおつぎの姿すがたえないのでしきりにんだ。それでもおつぎのこゑきこえないのでいたやうにしたのである。おつぎはすゝきしながら與吉よきちいた。
「おふくろもねえのにおめえいゝ加減かげんにしろよ、可哀想かあいさうぢやねえか、そんなことしておめえいくつだとおもふんだ、さう自分じぶんのやうに出來できるもんぢやねえ、ほとけさはりにもんべぢやねえか」隣畑となりばたけ百姓ひやくしやうはいつた。勘次かんじだまつてしまつてなんともいはなかつた。與吉よきちはおつぎにかれたので、おつぎの目がまだうるうてるうちにやんだ。
 勘次かんじ夕方ゆふがたおつぎが晩餐ゆふめし支度したくつたとき自分じぶんひとつにうちもどつた。
 かれひざがしらでばひあるきながら座敷ざしきへあがつて財布さいふふところんでふいとた。かれ風呂敷包ふろしきづゝみつてかへつた。かれ戸口とぐちつたときうちなか眞闇まつくら一寸ちよつともの見分みわけもつかなかつた。
 草臥くたびつた身體からだかれその二人ふたりれて、自分じぶん所有ものではないそのしげつたちひさな桑畑くはばたけえてみなみ風呂ふろつた。其處そこにはいつものやうに風呂ふろもらひに女房等にようばうらあつまつてた。
くなあ、おつうはよきこと面倒めんだうんな、をんなうだからいゝのさな、やくつかんな」女房にようばう一人ひとりがいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、今夜こんやひどく威勢ゐせえわりいな」女房にようばうがいつた。
先刻さつきおれつとばされたかんでもあんべえ」勘次かんじ苦笑くせうしながらいつた。
なんでだつぺなまあ、おめえそんなにねえで面倒めんだうてやらつせえよ、れがおめえをんなでもなくつてさつせえ、こんなちひせえのだけえてやうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでもくつちやそだたなかつたかもんねえぞ、それこそ因果いんぐわなくつちやなんねえや、なあおつう」女房等にようばうらはいつた。
おらがとこちつともこらはなんねえんだよやうねえやうだよ本當ほんたうに」おつぎはもう段々だん/\あまつて與吉よきちひざにしていつた。
いまぢや、まるつきしおつかのやうながしてんだな、屹度きつと女房にようばうらはまた與吉よきちていつた。勘次かんじそばたゞ屡叩しばたゝいた。
 うちもどつてから勘次かんじ
「おつう、ランプつてせえ、われせるものあんだから」
 おつぎはとき吹消ふつけしたブリキのランプをけて、まだ容子ようすがはき/\としなかつた。勘次かんじ先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみいた。ちひさくたゝんだ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへた。
われこれんべとおもつてつてたんだ。んでもなよ、おつかゞ地絲ぢいとつたんだぞ、いまぢやいとなんぞくものなあねえが、おつか毎晩まいばんのやうにいたもんだ、こんもなあうくまつてつから丈夫ぢやうぶだぞ、おつかはいくらもかけねえつちやつたから、まあだまるつきりあたらしいやうだろ、どうしたランプまつとこつちへしてせえまあ」勘次かんじ單衣ひとへすこひらいてはなあてにほひいでた。
「ちつたあ黴臭かびくさくなつたやうだが、そんでもこのくれえぢや一日いちんちせばくさえななほつから」勘次かんじ分疏いひわけでもするやうにいつた。
 おつぎは左手ひだりてかへランプをかざして單衣ひとへいぢつては浴後よくごのつやゝかなかほ微笑びせうふくんだ。勘次かんじはおつぎのかほばかりた。さうして機嫌きげん恢復くわいふくしかけたのを
「どうした、それでもりやにつたか、おつかゞものはみんなわれがもんだかんな、がだとなりやいくこまつたつて、はあけつしてしちになんざかねえから、大事でえじにしてわれうくしまつていたえ」とかれ滿足まんぞくらしくえた。おつぎはランプをいて勘次かんじがしたやうにはなてゝにほひいでたり、ひだりだけをそでとほしてたりした。
おらがにやんぢやきじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれからるしてたりした。
しまつていて、らいまつとえかつてからべかな」
「どうでもわれがもんだからわれきにしろな」勘次かんじはおつぎのうごくにしたがつてうつした。ランプのぼうと油煙ゆえんがほぐれたかみなびかゝるのもらずにおつぎはそつちこつちへ單衣ひとへいぢつてた。
われうつかりして、そうれえつちまあぞ」勘次かんじ油煙ゆえんかたむいたときあわてゝおつぎのかみてゝいつた。

         七

 勘次かんじ田畑たはた晩秋ばんしう收穫しうくわくがみじめなものであつた。それは氣候きこうわるいのでもなく、また土地とちわるいのでもない。耕耘かううん時期じきいつしてるのと、肥料ひれう缺乏けつばふとでいく焦慮あせつても到底たうてい滿足まんぞく結果けつくわられないのである。貧乏びんばふ百姓ひやくしやうはいつでもつちにくつゝいて食料しよくれうることにばかり腐心ふしんしてるにもかゝはらず、作物さくもつたはらになればすで大部分だいぶぶん彼等かれら所有しよいうではない。所有しよいうでありるのは作物さくもつもつはたつちつてあひだのみである。小作料こさくれうはらつてしまへばすでをつけられたみじか冬季とうきしのけのことがともすればやうやくのことである。彼等かれら自分じぶん田畑たはたいそがしいときにもおはれる食料しよくれうもとめため比較的ひかくてき收入みいりのいゝ日傭ひようく。百姓ひやくしやうといへば※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな愚昧ぐまいでもすべての作物さくもつ耕作かうさくする季節きせつらないことはない。村落むらはしからはしまでみなどう一の仕事しごと屈託くつたくしてるのだから季節きせつ假令たとひ自分じぶんわすれたとしてもまつたわすることの出來できるものではない。しかしもう季節きせつだとつてても/\の食料しよくれうもとめるめに勞力らうりよくくのと、肥料ひれう工夫くふうがつかなかつたりするのとで作物さくもつ生育せいいくからいへば三日みつかあらそふやうなときでもおもひながらないのである。以前いぜんのやうに天然てんねん肥料ひれうることがいまでは出來できなくなつてしまつた。何處どこはやしでも落葉おちばくことや青草あをぐさることがみなぜに餘裕よゆうのあるものゝしてしまつた。それとともはやし封鎖ふうさされたやうな姿すがたつてる。ふゆごと熊手くまでつめおよかぎいてくので、くさしたがつてみじかくなつてこしぼつするやうなところ滅多めつたにない。くささらつちからつてくので次第しだいつちせてく。だから空手からてでは何處どこつても竊取せつしゆせざるかぎり存分ぞんぶんやはらかなくさることは出來できない。貧乏びんばう百姓ひやくしやう落葉おちばでも青草あをぐさでも、他人ひと熊手くまでかまつたあともとめる。さうしてせてつちさらほねまでむやうなことをしてるのである。一ぱんには落葉おちば青草あをぐさ缺乏けつばふかんずるととも便利べんり各種かくしゆ人造肥料じんざうひれう供給きようきふされる。しかしそれも依然いぜんとして金錢きんせんいくらでも餘裕よゆうのあるひとにのみ便利べんりなのであつて、貧乏びんばふ百姓ひやくしやうにはうしうま馬塞棒ませぼうさへぎられたやうなかたちでなければならぬ。さうかといつて肥料ひれうなしには到底たうていぱんさだめられてある小作料こさくれう支拂しはらだけ收穫しうくわくられないので慘憺さんたんたる工夫くふう彼等かれらこゝろ往來わうらいする。さうしてまた食料しよくれうもとめるため勞力らうりよくくことによつて、作物さくもつ畦間うねまたがやすことも雜草ざつさうのぞくことも一さい手後ておくれにる。季節きせつあつくなればあめがあつて三ないうちには雜草ざつさうおどろくべき迅速じんそく發育はついくげる。それがいちじるしく作物さくもつ勢力せいりよく阻害そがいする。それだけ收穫しうくわく減少げんせうきたさねばならぬはずである。えうするに勤勉きんべん彼等かれら成熟せいじゆく以前いぜんおいすで青々せい/\たる作物さくもつ活力くわつりよくいでつてるのである。收穫しうくわく季節きせつまつたをはりをげると彼等かれら草木さうもく凋落てうらくとも萎靡ゐびしてしまはねばならぬ。草木さうもくねむりにすくなくとも五六十にちあひだは、彼等かれらまれ冬懇ふゆばりというてむぎ畦間うねまたがやすことやはやしあひだ落葉おちばたきゞもとめることがあるにぎぬ。自分じぶん食料しよくれうかへだけぜにることが期間きかん仕事しごとおいては見出みいだされないのである。へびかへる蟲類むしるゐ假死かし状態じやうたいあひだ彼等かれら目前もくぜんせまつて未來みらいくるしみをまねために、過去くわこくるしかつた記念きねんである缺乏けつばふしたこめむぎごと消耗せうまうしてくのである。彼等かれら内職ないしよくつてらぬ。自分じぶん使用しようすべきためにのみはむしろ草履ざうりもつこ草鞋わらぢのものもわらつくることをつてれども、大抵たいていおくれになつたわらでは立派りつぱ製作せいさくられないのである。それであるのに彼等かれら肥料ひれう缺乏けつばふうつたへつゝ藁屑わらくづ粟幹あはがらのものがにはらばつてても容易よういにそれを始末しまつしようとしない。他人ひと注意ちういけてもそれでもあらためることをしない。彼等かれらくるしいときくるしむことよりほかなんにもることがないのである。
 勘次かんじ彼等かれら仲間なかまである。しかしながらかれ境遇きやうぐう異常いじやう刺戟しげきから寸時すんじ安住あんぢゆうせしむる餘裕よゆうたなかつた。かれ貧乏びんばふ百姓ひやくしやうのするやうにふゆ季節きせつになればたきゞつてかべんでくことをした。かれ近來きんらいつてからとなり主人しゆじんはやし改良かいりやうするため雜木林ざふきばやしを一たん開墾かいこんしてはたけにするといふことにつたのでの一擔當たんたうした。かれちひさな身體からだである。しかかれ重量ぢうりやうある唐鍬たうぐはかざして一くはごとにぶつりとつちをとつてはうしろへそつとげつゝすゝむ。かれその開墾かいこん仕事しごと上手じやうずきである。のきりつとしまつた身體からだちひさいにしてもそれが各部かくぶ平均へいきんたもつて唐鍬たうぐはるときにはかれ唐鍬たうぐはとはたゞたいである。唐鍬たうぐはひろ刄先はさきときにはかれ身體からだひとつにぐざりとつてとほるかとおもふやうである。つちおこすことの上手じやうずなのはかれ天性てんせいである。それでかれとほ利根川とねがは工事こうじへもつたのであつた。かれ自分じぶん伎倆うでたのんでる。かれ以前いぜんからもすこしづつ開墾かいこん仕事しごとをした。賃錢ちんせんによつて土地とちふかくもあさくもはやくもおそくも仕上しあげることをつてた。竹林ちくりん開墾かいこんしたときかれぢたまゝつぼおほきさをたゞつのかたまりおこしたことがある。それでもころまではさういふ仕事しごといくらもかつたので、賃錢ちんせん仕事しごとはじめるときらした唐鍬たうぐは刄先はさきたせる鍛冶かぢ手間てまと、異常いじやう勞働らうどうためつひや食料しよくれうのぞいてはいくらもなかつたのである。
 かれ主人しゆじん開墾地かいこんちはるぱい仕事しごとには十ぶんであることをよろこんだ。ぜにほかかれこめむぎとの報酬ほうしうけることにした。おつぎはべつ仕事しごとといつてはなかつたがかれはおつぎを一人ひとりではうちかなかつた。與吉よきちれておつぎは開墾地かいこんちつてた。勘次かんじ鍛錬たんれんした筋力きんりよくふるつてにおつぎはそこらのはやしから雀枝すゞめえだつてちひさな麁朶そだつくつてる。ちひさなえだ土地とちでは雀枝すゞめえだといはれてる。かれ雀枝すゞめえだることは何處どこはやしでも持主もちぬし八釜敷やかましくいはなかつた。
 勘次かんじあめでもらねば毎日まいにちかなら唐鍬たうぐはかついでた。あるかれかぶ唐鍬たうぐはつよ打込うちこんでぐつとこじげようとしたとききたへのいゝ白橿しらかしとはつよかつたのでどうもなかつたが、てつくさびさきめた唐鍬たうぐはの四かくあなところにはかゆるんだ。其處そこはひつといはれてる。ひつにおほきなひゞつたのである。がやがてがた/\にうごいた。
「えゝ、箆棒べらぼう一日いちんち手間てま鍛冶屋かぢやんちあなくつちやなんねえ」かれつぶやいた。
 つぎあさかれ未明みめい鍛冶かぢはしつた。
「わしつてあんすから、此等こつらことてゝおくんなせえ」おつぎと與吉よきちとをみなみ女房にようばうたのんだ。
ほかへはくんぢやねえぞ、えゝか、よきはかさねえやうにしてんだぞ」かれはおつぎへもいつてた。おつぎは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんな注意ちうい人前ひとまへでされることがもうはづかしくいや心持こゝろもちがするやうになつた。
 勘次かんじ鬼怒川きぬがはわたしえて土手どてつたひて、のない唐鍬たうぐはつてつた。鍛冶かぢとき仕事しごとつかへてたが、それでもういふ職業しよくげふくべからざる道具だうぐといふと何處どこでもさういふれいすみやかこしらへてくれた。
隨分ずゐぶんあれえことしたとえつけな、らも近頃ちかごろになつてくれえな唐鍬たうぐは滅多めつたつたこたあねえよ、」鍛冶かぢあかねつした唐鍬たうぐはしばらつちたゝいて、それから土中どちうゑたをけどろいたやうなみづへぢうとひたして、さらまたちひさなつちでちん/\とたゝいて
「こんだこさ大丈夫だいぢようぶだ、せんにやどうしてひゞなんぞいつたけかよ」鍛冶かぢあせひたひ勘次かんじけて
つちよれねえうちはいごきつこねえから」といつてまた
身體からだわりにしちやえな」と鍛冶かぢ微笑びせうした。てつにほひのする唐鍬たうぐはげて勘次かんじまた土手どてはしつた。
 西風にしかぜ枯木かれきはやしから麥畑むぎばたけからさうして鬼怒川きぬがはわたつていた。鬼怒川きぬがはみづしろなみつて、とほくからはそれがあはしやうじたはだへのやうにたゞこそばゆくえた。西風にしかぜかはちるとき西岸せいがんしのをざわ/\とゆるがす。さら東岸とうがん土手どてつたうてげるとき土手どてみじか枯芝かれしば一葉ひとはづゝはげしくなびけた。枯芝かれしばあひだにどうしたものかまぐれな蒲公英たんぽ黄色きいろあたまがぽつ/\とえる。どうかすると土手どてしづかであたゝかなことがあるので、つひだまされて蒲公英たんぽがまだとほはる遲緩もどかしげにくびしてては、またさむつたのにおどろいてちゞまつたやうな姿すがたである。
 勘次かんじ唐鍬たうぐはつて自分じぶん活力くわつりよく恢復くわいふくたやうに、それからまたにち仕事しごとおこたれば身内みうちがみり/\してなんだからぬが仕事しごと催促さいそくされてらぬやうな心持こゝろもちがした。
 鬼怒川きぬがはみづちて此方こちら土手どてからつらなつておほきなながれを西岸せいがんしのしたまでちゞめてる。ひろかつとほにはたゞ西風にしかぜわづかかわいたすなをさら/\とくやうにしていてる。それでしろ乾燥かんさうしたたゞからりと清潔せいけつえる。さういふあひだにどうしたものかれもまぐれなひとが、とほくはすなからえたやうにえてちらほらとらばつてすこしづゝうごいてる。勘次かんじ土手どてからおりてた。うごいて人々ひと/″\萬能まんのうすなつてるのであつた。西風にしかぜかわかしてはさらさらといててもにはなほいくらかなみあとがついてる。そのすななかからはみじか木片もくへんる。二三すんから五六すんぐらゐまれには一しやくぐらゐなものもおこされる。みなへらしたやうな木片もくへんのみである。人々ひと/″\つめたくつたくちてゝしろあたゝかいいきけながら一しんさきさきへとおこしつゝく。
「どうするんだね」勘次かんじ一人ひとりそばつていた。ひよつとくびもたげたのはばあさんであつた。ばあさんはこしをのしてつよ西風にしかぜによろけるあしふみしめて
していてすのさ」ときたな白髮しらが手拭てぬぐひとをかれながらしかめていつた。
「どうしてもつちやべろ/\えて飽氣あつけなかんべえね」勘次かんじいた。
あけはひつてな、えのさ、そんでも麁朶そだあよりやえゝかんな、松麁朶まつそだだちつたつてこつちのはうちやなまで卅五だのなんだのつて、ちつちえくせにな、らやうなばゝあでも十ぐれえ背負しよへんだもの、近頃ちかごろぢやもうものが一ばん不自由ふじようやうねえのさな」ばあさんはいつた。
松麁朶まつそだで卅五ぢや相場さうばはさうでもねえが、商人あきんどがまるきなほすんだからちひさくもなるはずだな」勘次かんじくびかたむけていつた。
「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處どこだね」萬能まんのうつゑにしてばあさんはいつた。
川向かはむかうさ」
「そんぢやもうとこだね」ばあさんはさら勘次かんじ唐鍬たうぐは
「たいした唐鍬たうぐはだがぽどすんだつぺな」
「さうさいまたせちや三十掛さんじふがけ屹度きつとだな」
三十掛さんじふがけツちやいくらするごつさら、目方めかたもしつかりかゝんべな」
一貫目いつくわんめもねえがな」勘次かんじ自慢じまんらしくばあさんへ唐鍬たうぐはたせた。
「おういや、らがにやつたゝねえやうだ、おめえさん自分じぶん使つかあのけまあ、なにしたごつさらよんな道具だうぐなあ」
毎日まいんち木根きねおこしてたんだが、唐鍬たうぐはのひついためつちやつたからなほとこさ」
「そんぢやおめえさんもうものにや不自由ふじいうなしでえゝな」ばあさんはうらやましさうにいつた。さうしてちひさな木片もくへんいれためもつあさきたなふくろ草刈籠くさかりかごからした。
 わづか鬼怒川きぬがはみづへだてゝ西にしはやしつらなつてる。村落むらはたけはやしつゝまれてる。ひがしたゞひく水田すゐでんはたけとで村落むらあひだ點在てんざいしてる。其處そこいへかこんでわづかな木立こだちるばかりである。したがつてたきゞ缺乏けつばふから豆幹まめがらわらのやうなものもみな燃料ねんれうとして保存ほぞんされてることは勘次かんじつてた。しかたきゞ缺乏けつばふから自然しぜんにかういふすななか洪水こうずゐもたらした木片もくへんうづまつてるのをつてこれもとめてるのだといふことはかれはじめてはじめてつた。かれ滅多めつたかはえてることはなかつたのである。
 勘次かんじ自分じぶん壁際かべぎはにはたきゞが一ぱいまれてある。そのうへ開墾かいこん仕事しごとたづさはつてなんといつてもたきゞ段々だんだんえてくばかりである。さら開墾かいこんだい一の要件えうけんである道具だうぐいま完全くわんぜんして自分じぶんげられてある。かれういふ辛苦しんくをしてまでも些少させう木片もくへんもとめて人々ひとびとまへほこりかんじた。かれ自分じぶん境遇きやうぐう※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなであるかはおもはなかつた。またういふ人々ひとびとあはれなこともおもひやるいとまがなかつた。さうしてかれ自分じぶん技倆うで愉快ゆくわいになつた。かれふたゝ土手どてからおろした。萬能まんのうつてるのはみなをんなで十三四のまじつてるのであつた。人々ひと/″\おこしたあとはたけつち蚯蚓みゝずもたげたやうなかたちに、しめつたすなのうね/\とつらなつてるのがかれうつつた。
 かれうちかへるととも唐鍬たうぐはつけた。なた刀背みねてつくさびんでさうしてつてうごかしてた。つぎあさからもう勘次かんじ姿すがたはやし見出みいだされた。
 主人しゆじんからあたへられた穀物こくもつかれの一あたゝめた。かれ近來きんらいにないこころ餘裕よゆうかんじた。しかしさういふわづかかれさいはひした事柄ことがらでもいくらか他人たにん嫉妬しつとまねいた。百姓ひやくしやうにも悶躁もがいてものいくらもある。さういふ伴侶なかまあひだにはわづかに五ゑん金錢かねでもそれはふところはひつたとなればすぐ世間せけんつ。彼等かれらいくらづゝでも自分じぶんためになることを見出みいださうといふことのほかに、そばたてゝ周圍しうゐ注意ちういしてるのである。彼等かれら他人ひと自分じぶん同等どうとう以下いかくるしんでるとおもつてあひだ相互さうごくるしんでることに一しゆ安心あんしんかんずるのである。しか一人ひとりでもふところのいゝのがにつけば自分じぶんあとてられたやうなひどせつないやうなめう心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとねんおこるのである。それだから彼等かれら蹉跌つまづきるとそのひがんだこゝろうちひそか痛快つうくわいかんぜざるをないのである。
 勘次かんじいへにはたきゞやまのやうにまれてある。それが彼等かれら伴侶なかま注目ちうもくいた。それとはなしに數次しばしばかれ主人しゆじんげられた。開墾地かいこんちいたそのはひをもいへはこんだといふことまで主人しゆじんみゝはひつた。勘次かんじ開墾かいこん手間賃てまちん比較的ひかくてき餘計よけいあたへられるかはりにはくぬぎは一つもはこばないはずであつた。彼等かれら伴侶なかまはさういふことをもつてた。晝餐ひるあとつめたくつたときなどにはかれはそこらのあつめてやす。くすぶつていつでもあをけむりすこしづゝつてる。かれそのけむり段々だんだんとほざかりつゝ唐鍬たうぐはんでる。毎日まいにちべつところかれた。かれ屹度きつとはひいでつたのである。しか壁際かべぎはんだはそこには不正ふせいなものがまじつてるにしても、大部分だいぶぶんかれ非常ひじやう勞苦らうくからたものである。かれはやし持主もちぬしうてつたのである。それでもあまりにひとくち八釜敷やかましいので主人しゆじんたゞ幾分いくぶんでも將來しやうらいいましめをしようとおもつた。以前いぜんから勘次かんじあきになれば掛稻かけいねぬすむとかいふ蔭口かげぐちかれて巡査じゆんさ手帖ててふにもつてるのだといふやうなことがいはれてたのであつた。主人しゆじんはそれでもひそかひともつはこんだかどうかといふことをかせてた。かれこゝろづいて謝罪しやざいするならばそれなりにしてらうとおもつたからである。かれ主人しゆじんこゝろよしはなかつた。
何處どこでもはうがようがす、わしはけつしてはこんだおぼえなんざねえから」かれおそろしい權幕けんまくできつぱりことわつた。
 主人しゆじんむら駐在所ちうざいしよ巡査じゆんさ耳打みゝうちをした。巡査じゆんさあるぶらつと勘次かんじうちつた。あさからあめなので勘次かんじ仕事しごとにもられず、火鉢ひばちすこしづゝべてあたつてた。
あめこまつたな、勘次かんじ大分だいぶ勉強べんきやうするさうだな」巡査じゆんさ帶劍たいけんさやつかんでいつた。
「へえ」勘次かんじきふひざなほした。おもて戸口とぐちへひよつこりあらはれた巡査じゆんさの、外套ぐわいたう頭巾づきんふかかぶつてかほ勘次かんじにはたゞおそろしくえた。さうしてこゑとげふくんでひゞいた。巡査じゆんさはぶらりといへ横手よこてつて壁際かべぎはた。勘次かんじ巡査じゆんさあとからいてつた。
大分だいぶるな、れはまたわしのるまでうごかしちやならないからな」巡査じゆんさはいつた。勘次かんじあをくなつた。
らわしがもらつてつたんでがすから何處どこ何處どこつてあなまでちやんとわかつてんでがすから」かれあわてゝいつた。
「そんなことはどうでもいゝんだ、うごかすなといつたらうごかさなけりやいゝんだ」
 巡査じゆんさ呼吸いききりのやうにすこれた口髭くちひげひねりながら
くぬぎ大分だいぶあるやうだな」といひてゝつた。勘次かんじあめたれつゝ喪心さうしんしたやうににはつてる。戸口とぐちかげかくれていてたおつぎは巡査じゆんさつたのちやうや姿すがたあらはした。
「おとつゝあ」と小聲こごゑんだ。
「そんだからつてんなつてゆつたのに」さら小聲こごゑでおつぎはいつた。
「おとつゝあ、どうしたもんだべな」おつぎはいた。
旦那だんな見放みはなされちや、とつてたすかれめえ」勘次かんじやうやれだけいつた。
「おとつゝあ、それぢや旦那だんな謝罪あやまつたらどうしたもんだんべ」
「そんなことゆつたつて、くかかねえかわかるもんか」
みなみのおとつゝあげでもたのんでたらどうしたもんだんべ」
汝等わつらたのまなくつたつてえゝから」
「そんぢやおとつゝあ、くぬぎせえなけりやえゝんだんべか」
「そんだつてわれ駐在所ちうざいしよられつちやつたものやうあるもんか」
 勘次かんじはそれでも分別ふんべつもないので仕方しかたなしに桑畑くはばたけこえみなみわびたのみにつた。かれふる菅笠すげがさ一寸ちよつとあたまかざしてくびちゞめてつた。主人しゆじん挨拶あいさつかく明日あすのことにするからといつただけだといふ返辭へんじである。勘次かんじはげつそりとしてうちかへると蒲團ふとんかぶつてしまつた。おつぎは自分じぶん毎日まいにちつてたので開墾地かいこんちからはこんだくぬぎみなつてる。おつぎはくぬぎひとりでひそかした。さうして黄昏時たそがれどきにおつぎはそれを草刈籠くさかりかごれてうしろ竹藪たけやぶなか古井戸ふるゐどおとした。古井戸ふるゐどくらくしてかつふかい。おつぎはつめたいあめれてさうしてすこちゞれたかみみだれてくつたりとほゝいてあしにはちたたけがくつゝいてる。
「おとつゝあ」おつぎは勘次かんじおこした。
くぬぎうつちやつたぞ」おつぎはさらこゑころしていつた。勘次かんじはひよつこりきてなにもいはずにおつぎのかほ凝然ぢつつめた。くらうちなかにはやうやランプがともされた。勘次かんじもおつぎもたゞひかつてえた。
 つぎ巡査じゆんさとなり傭人やとひにんれて壁際かべぎはしらべさせたがくぬぎ案外あんぐわいすくなかつた。それでもおつぎのではれなかつたのである。
りやくぬぎがもつとつたはずぢやないか勘次かんじはどうかしやしないか」巡査じゆんさういつてあたりをたが勘次かんじちひさな建物たてもの何處どこにもそれは發見はつけんされなかつた。さういつても實際じつさい巡査じゆんさにはくぬぎほか雜木ざふきとを明瞭めいれう識別しきべつなかつたのである。
勘次かんじ、それぢやれをつていてるんだ」巡査じゆんさはいつた。勘次かんじふるへた。
草刈籠くさかりかごでもなんでもいゝ、れをれてあとからいて」
「へえ、何處どこまでつてくんでがせう」勘次かんじ逡巡ぐつ/\してる。
何處どこまでゝもいゝんだ」巡査じゆんさ呶鳴どなつてぴしやりと横手よこて勘次かんじほゝたゝいた。
 勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおつて巡査じゆんさあといて主人しゆじんいへ裏庭うらにはみちびかれた。巡査じゆんさ縁側えんがは坐蒲團ざぶとんこしけたとき勘次かんじかご脊負せおつたまゝくびれてつた。それはあまりにいた仕事しごとなので有繋さすが分別盛ふんべつざかり主人しゆじんなかつた。内儀かみさんがた。勘次かんじます/\しほれた。
勘次かんじ、おまへまあそれをいて此處こゝけてたらどうだね」内儀かみさんはいつた。勘次かんじはそれでもたゞつてる。
品物しなものこれだけなんでしたらうか」内儀かみさんは巡査じゆんさいた。
くらゐのものらしいやうでしたな、案外あんぐわいすくなかつたんですな」巡査じゆんさ手帖ててふ反覆くりかへしながらいつた。
「さうでございますか」内儀かみさんは巡査じゆんさ會釋ゑしやくしてさうして
「どうしたね勘次かんじうしてれてられてもいゝ心持こゝろもちはすまいね」といつた。藁草履わらざうり穿いた勘次かんじ爪先つまさきなみだがぽつりとちた。
「こんなことでおまへ世間せけんさわがしくてやうがないのでね、わたしところでも本當ほんたうこまつてしまふんだよ」内儀かみさんは巡査じゆんさ一寸ちよつとてさうして
れから屹度きつとやらないなら今日けふところだけは大目おほめいたゞいて警察けいさつれてかれないやうにうかゞつててあげるがね、どうしたもんだね」と勘次かんじへいつた。
何卒どうぞはあ、けつしてやりませんから、へえお内儀かみさんどうぞ」勘次かんじ草刈籠くさかりかご脊負せおうて前屈まへかゞみになつた身體からだ幾度いくどかゞめていつた。なみだまたぼろ/\ときものすそからねてほつ/\とにはつちてんじた。
如何いかゞなもんでござんせうねれは」内儀かみさんは微笑びせうふくんで巡査じゆんさむかつていつた。
「さうですなあ」巡査じゆんさくびかたむけていつてさら帶劍たいけんさやひざへとつて
「どうだ勘次かんじ以來いらいつゝしめるか、つぎにこんなことがつたら枯枝かれえだ一つでもゆるさないからな、今日けふはまあれでかへれ、くぬぎ此處こゝいてくんだぞ」勘次かんじ草刈籠くさかりかごおろさうとした。
「そんなものにはけといふんぢやないんだ、ところつてるんだろう、わからないやつだな、それうつかりしないで足下あしもとをつけるんだ」巡査じゆんさしかつた。勘次かんじはそつとつちんでにはた。
 もんそとにはおつぎが與吉よきちれて歔欷すゝりなきしてる。與吉よきちはおつぎのくのを自分じぶんこゑはなつ。おつぎはこゑれぬやうにたもとでそれをおほうてる。
「よきかねえでえれ」勘次かんじ與吉よきちつた。三にんだまつてあるいた。傭人等やとひにんらわらつて勘次かんじ容子ようすた。
「おとつゝあ、どうしたつけ」おつぎはうちかへるとともいた。
「そんでもまあ大丈夫だいぢやうぶになつた、くぬぎなくつてたすかつた」勘次かんじはげつそりとちからなくいつた。
昨日きにやうおもたくつてひどかつたつけぞ、所爲せゐ今日けふかたいてえや」おつぎはよろこばしげにいつた。
おらこゝでなくなつちや汝等わツら大變たえへんだつけな」勘次かんじあひだしばらいてぽさ/\としていつた。
 ことがあつてからも勘次かんじ姿すがたすぐ唐鍬たうぐはつてはやしなか見出みいだされた。
 五六にちつて勘次かんじ針立はりだて針箱はりばことをつてた。
「おつう、われれからおはりにいけつかんな、そらつてぐんだ、おつかゞつてたふるいのなんざあ外聞げえぶんわるくつてだなんていふから、んでもおとつゝあひでぜねつてたんだぞ、それからえだのわりいだのつてふくれたりなにつかすんぢやねえぞ、なあ」勘次かんじまた
「よきわれはおとつゝあがそばママんだぞ、えゝか、ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、109-8]これからわれ衣物きものこせえんでおはりくんだかんな、かねえとひでえぞ」と與吉よきちいてくいひふくめた。
 おつぎはそれから村内そんない近所きんじよむすめともかよつた。おつぎは與吉よきちちひさな單衣ひとへもの仕上しあげたとき風呂敷包ふろしきづゝみかゝへていそ/\とかへつてた。おつぎははりつやうにつてからはき/\としてにはかにませてたやうにえた。おつぎはもう十六である。辛苦しんくあひだだけ去年きよねんからではほど大人おとなびて勘次かんじたすけるかれない。ことあきころつてからは滅切めつきり機轉きてんくやうになつて、んだおしなたと他人ひとにはいはれるのであるが、毎日まいにちひとつに自分じぶんにもさういへば身體からだ恰好かつかうまでどうやらさうえてたと勘次かんじこゝろおもつた。おつぎはいまあそびたいさかりに這入はひつたのであるが、勘次かんじからは一日いちにちでもたゞ一人ひとりはなされたことがない。むら休日ものびには近所きんじよ女房にようばうれられてることもあるが、屹度きつと與吉よきちがくつゝいてるのと、自分じぶん炊事すゐじかすことが出來できないのとで晝餐ひるでも晩餐ばんでも他人ひとよりはやかへつてなければならない。
らいつそものなんざはうがえゝ、さうでせえなけりやてえたおもはねえから」おつぎはつく/″\つぶやくことがあつた。
「どうにからだつてつから」おつぎのつぶやくのをいて勘次かんじ有繋さすがこゝろせつなくなる。それでひやうがくてはうぶすりとつてしまふのであつた。
 與吉よきちよつつにつた。惡戯いたづらつててそれだけおつぎのはぶかれた。それでも與吉よきち衣物きものはおつぎのには始末しまつ出來できないので、近所きんじよ女房にようばうたのんではどうにかしてもらつた。おしなきてればそんな心配しんぱいはまだ十六のおつぎがするのではない。おつぎはさら自分じぶん衣物きものこまつた。みじかくなるばかりではなくほころびにさへおつぎは當惑たうわくするのである。
「おはり出來できなくつちや仕樣しやうねえなあ」おつぎは何時いつでも嘆息たんそくするのであつた。
「おはりにでもなんでもれるときにやつから、奉公ほうこうにでもつてろ、いくつにつたつてろくなこと出來できるもんか、十六ぐれえぢや貧乏人びんばふにんはまあだけねえたつてやうがあるもんか、さうわれてえに痩虱やせじらみたかつたやうにしつきりなしふもんぢやねえ」
「おとつゝあはそんだつて奉公ほうこうにでもつてるものげはうちこせえてやんだんべな」
「そんだつてなんだつてれつときでなくつちやれねえから」
 十六ではまだはりたなくつてもいゝといふのはそれは無理むりではない。しか勘次かんじいへでおつぎの一かうはりらぬことは不便ふべんであつた。勘次かんじもそれをらないのではないが、いまところ自分じぶんには餘裕よゆうがないのでおつぎがさういふたびかれこゝろへずくるしむのでわざ邪慳じやけんにいつてしまふのであつた。ふゆになつてからもおつぎは十六だといふうちすぐ十七になつてしまふとつぶやいたのであつた。
はるにでもなつたらやれつかもんねえから」と勘次かんじたびにいつてた。おつぎは到底たうていあてにはならぬとこゝろ斷念あきらめてたのであつた。それだけおつぎの滿足まんぞくふかかつた。
 あるばんどうして記憶きおく復活ふくくわつさせたかおつぎはふいといつた。
井戸ゐどおつことしたくぬぎ梯子はしごけてもれめえか」
何故なぜそんなこといふんだ」勘次かんじおどろいて※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
「そんでも可惜あつたらもんだからよ」
われ自分じぶん梯子はしごけて這入へえんのか」
可怖おつかねえからだがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、また拘引つゝてかれたらどうする、そんときわれでもくのか」勘次かんじういつて苦笑くせうした。
 そのばんれつ二人ふたりあひだはなしはなかつた。

         八

 與吉よきちいつつのはるつた。ずん/\と生長せいちやうしてかれ身體からだはおつぎの重量ぢうりやうぎてる。しがみいてたけのこかは自然しぜんみきからはなれるやうに、與吉よきち段々だん/\おつぎのからのぞかれるやうにつた。それでもたけのこかはたけみきまつはつてはよこたはつてるやうに、與吉よきちがおつぎをなつかしがることにかはりはなかつた。
 與吉よきち近所きんじよ子供こども田圃たんぼた。あたゝかいにはかれ單衣ひとへかへて、たもとうしろでぎつとしばつたりしりをぐるつと端折はしよつたりしてもら待遠まちどほねてる。
ほりそばへはぐんぢやねえぞ、衣物きものよごすとかねえぞ」おつぎがいふのをみゝへもれないで小笊こざるにしてはしつてく。田圃たんぼはんはだらけたはなちて嫩葉わかばにはまだすこひまがあるので手持てもちなささうつて季節きせつである。わづかうるほひをふくんであしそこ暖味あたゝかみかんずる。たがやひとはまだたぬ。しろつぽくかわいた刈株かりかぶあひだには注意ちういしてれば處々ところ/″\きはめてちひさなあながある。子供等こどもらあなさがしてあるくのである。彼等かれらちひさなねばつち※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしこんでは兩手りやうてちからめてかへす。其處そこにはどぜうがちよろ/\と跳返はねかへりつゝそのあわたゞしくうごかしてる。さうすると彼等かれらいづれこゑてゝさわぎながら、ちひさなどろだらけのとらへようとしてはげられつゝやうやくのことでざるれる。どぜうのこそつぱいざるなかしばらうごかしては落付おちつく。どぜうまたれられるとき先刻さつきどぜうが一つにさわいでは落付おちつく。彼等かれらうしてそのちひさなあなもとめてからうつつてあるく。土地とちではそれを目掘めぼりというてる。與吉よきちにはいくどろになつてもどぜうれなかつた。仲間なかまおほきなはそれでも一ぴきぐらゐづつ與吉よきちざるにもれてるのであつた。それでかれおくれながらも子供こどもいてあるかずにはられなかつたのである。
 ほりにはうごかないみづそらうつしてたゝへてところがある。さうかとおもへばあるひみづは一てきもなくてどろうへすぢのやうにながれたすなあとがちら/\とはるわづか反射はんしやしてところがある。子供等こどもらまばらな枯蘆かれあしほとりからおりて其處そこにも目掘めぼりをこゝろみる。おほきな子供こども大事だいじざるをそつともつておりる。ちひさな子供こどもほりへおりながらざるかたぶけてどぜうこぼすことがある。おほきな子供こどもはそれつといつて惡戯いたづらそれとらうとする。子供等こどもら順次じゆんじみなそれにならはうとする。さうするとちひさな小供こどもたゞいたやうにく。それと同時どうじどぜうちひさな子供こどもざるかへされて子供こどもそのどぜうのぞくとともこゑがはたととまつてしまふのである。ほりねばついたどろはうつかりするとちひさなあしけてはなさない。さうするとみんながげるやうにきしあがつてゆびしてさき屈曲くつきよくさせながらさわぐ。ちひさな子供こどもざるにしたまゝにはあてずにこゑはなつてく。與吉よきちうしてかされた。かれには寸毫すこし父兄ふけいちからかうぶつてない。頑是ぐわんぜない子供こどもあひだにも家族かぞくちから非常ひじやういきほひをしめしてる。その家族かぞくが一ぱんから輕侮けいぶもつられてるやうに、子供こどもあひだにもまたちひさい與吉よきちあなどられてた。それでも與吉よきちかへりには小笊こざるそこどぜうがあるのでよろこんでた。いた當座たうざしをれてもかれすぐ機嫌きげんて、そのわづか獲物えものざるほこつておつぎのそばとき何時いつものあまえた與吉よきちである。かれ何處どこへでもべたりとすわるのでしり丸出まるだしに※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)かかげてやつても衣物きものどろだらけにした。それでしかられてもどろかわいたそのしりたゝかれても、おつぎにされるのはかれにはちつともおそろしくなかつた。かれ小言こごとみゝへもれないで「ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、114-8]ようろよう」と小笊こざるげてはちよこ/\とねるやうにして小刻こきざみにあしうごかしながらおつぎのめることばうながしてまない。
 かれあまりによろこんでさわいでひよつとするとあぶなもとでどぜうにはおとことがある。どぜうかわいたにはつちにまぶれてくるしさうにうごく。與吉よきちおさへようとするときにはとりがひよつとくちばしつゝいてけてつてしまふ。にはとりがそれをける。與吉よきちはさうするとまたひとしきりくのである。
われあんまりうつかりしてつかんだわ」おつぎはわらひながら、つてる與吉よきちあたまいてそれから手水盥てうづだらひみづんでどぜうれてる。與吉よきちみづれてはどぜうさわぐのをすぐこゑててわらふ。おつぎはさうしていてどろだらけの手足てあしあらつてやる。
 與吉よきち時々とき/″\どぜうつてた。おつぎは衣物きものどろになるのをしかりながらそれでも威勢ゐせいよく田圃たんぼしてやつた。たびほか子供等こどもらうしろから
かさねえでよきこともれでつてくろうな」といふおつぎのこゑけるのであつた。わづかどぜう味噌汁みそしるれてはしほねしごいて與吉よきちへやつた。自分じぶんではほねあたまとをしばらくちふくんでそれからてた。
 がそろ/\とたがやされるやうになつた。子供等こどもらまたひとつ/\のかたまりたがやされたわたつて、そのかたまりうへすべりながらえながら、きはめてちひさい慈姑くわゐのやうなゑぐのをとつた。それは土地とちではなまつてゑごとばれてる。そこらのにはゑぐがおほいのであきころるとしげつたいねかげちひさなしろはなく。與吉よきち子供こどものするやうに小笊こざるもつた。どぜうとはちがつてれはかれにもわづかづゝはることが出來できた。すこしづゝとつては毎日まいにちのやうにたくはへた。おつぎはちやわかたびにそれをはひなかんでいてやる。いぢることがあぶないので與吉よきちひとりでかまどをつけることはきんぜられてる。はひなかれたばかりで與吉よきち
「よう/\」といつておつぎにせまる。與吉よきちけるあひだ遲緩もどかしいのである。
「そんなにけめえな、そんぢやねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、115-14]かまあねえぞ」とおつぎはゑぐをしてる。與吉よきちくちれてもまだがり/\でかつにがいのでしてしまふ。
「そうらろ、けえ姿なりしていふことかねえから」おつぎはおこつたやうな容子ようすをしてせる。
ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、116-2]よ、よう」と與吉よきちまた強請せがむ。ときはもうかはしわつてけたゑぐが與吉よきちせられる。
われあつえぞ」とおつぎがいへば與吉よきちいてゑぐは土間どまちる。それをまたせてやると與吉よきちはおつぎがするやうにふう/\とはひく。與吉よきちあとあともとおつぎにせがんで、勘次かんじ呶鳴どなられてはめるのである。
 たくはへられたゑぐが小笊こざるに一ぱいつたときおつぎは小笊こざるつて
「よきげこれてやつぺか、砂糖さたうでもせえたら佳味うまかつぺな」獨語ひとりごとのやうにいつた。
てくろうよう」與吉よきちはそれをいてまたせがんでおつぎへびついて、かぶつて手拭てぬぐひつた。おつぎは
「おゝいてえまあ」とかほしかめてかれるまゝくびかたぶけていつた。みだれたかみ三筋みすぢ四筋よすぢ手拭てぬぐひともつよかれたのである。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなものしほでゞもゆでてやれ」勘次かんじにはか呶鳴どなつた。
砂糖さたうだなんて、だまつてればらねえでるもの、かれたらどうすんだ、砂糖さたうだの醤油しやうゆだのつてそんなことしたつくれえなんぼそんだかれやしねえ、おとつゝあそんなぜねなんざ一錢ひやくだつてつてねえから、しほだつて容易よういなもんぢやねえや、そんな餘計よけいなものなんになるもんぢやねえ」勘次かんじ反覆くりかへしてしかつた。與吉よきちはおつぎのかげまはつてきついた。
「どうしたもんだんべまあ、ぢつきおこんだから」おつぎは小言こごといてつぶやいた。
「そんだつて、おとつゝあそんなとこぢやねえから」勘次かんじはがつかりこゑおとしていつた。さうして沈默ちんもくした。
 おつぎもおしなんでからくるしい生活せいくわつあひだに二たびはるむかへた。おつぎは餘儀よぎなくされつゝ生活せいくわつ壓迫あつぱくたいする抵抗力ていかうりよく促進そくしんした。餘所よそをんなのやうに長閑のどかはるられないでおつぎは生理上せいりじやうにもいちじるしい變化へんくわげた。おしなんだときはおつぎはまだ落葉おちばべるとてはたけ火箸ひばしさきぐにやしてしまほど下手へたであつた。それがよこにもたてにもおほきくなつて、肌膚はだもつやゝかにえてかみながくなつた。おつぎのいへうしろがけのやうにつたところからはむらのものが黄色きいろ粘土ねんどつた。かみねばるやうになるとおつぎは粘土ねんどをこすりつけて、はだぬぎになつたまゝ黄色きいろまつたあたま井戸ゐどそばあらふのである。さうしてのふつさりとしたかみは二ところは三くやうにつた。おつぎはまたかみへつける胡麻ごまあぶら元結もとゆひしばつたちひさなびんれて大事だいじしまつてくのである。みじか期間きかんではあるがはりつやうになつてからはあかたすきけた。半纏はんてん洗濯せんたくした。どうにか自分じぶん仕上しあげた身丈みたけりる衣物きものておつぎはにはか大人おとなびたやうにつた。はたけときにはまだのりのぬけない半纏はんてんあかたすきかたからけて勘次かんじうしろいてく。おつぎは仕事しごとにかゝるときには半纏はんてんはとつてえだける。おつぎの姿すがたやうやむら注目ちうもくあたひした。
 はるかざつて黄色きいろぬのおほうたやうなはなも、はるらしいあめがちら/\とつてしもけたやうな滅切めつきりあをみをくはへてころそのひらいた心部しんぶにはたゞわづか突起とつき見出みいだす。しかしそこにはつぼみあきらかにかたちしてるのである。そらからはあたゝかい日光につくわうまねいてつちからはなががずん/\とさしげてはさらながくさしげるので派手はではなむぎ小麥こむぎにも沒却ぼつきやくされることなくひろめるのである。おつぎも心部しんぶえるつぼみであつた。しかそのつぼみはさしげられないのみではなくおさへるつよちからくはへられてある。勘次かんじ寸時すんじもおつぎを自分じぶんそばからはなすまいとしてる。したがつてそら日光につくわうまねくやうにをんなこゝろうながすべきむら青年せいねんとのあひだにはおつぎはなん關係くわんけいつながれなかつた。おつぎが十七といふ年齡としいていづれも今更いまさらのやうに注意ちうい惹起ひきおこしたのである。ふゆ季節きせつほこりいて西風にしかぜ何處どこよりもおつぎのいへ雨戸あまど今日けふたぞとたゝく。それはむら西端せいたんるからである。位置ゐちがさういふひやられたやうなかたちつてうへに、生活せいくわつ状態じやうたいから自然しぜんある程度ていどまでは注意ちういかられて日陰ひかげるとひとしいものがあつたのである。勘次かんじ監督かんとくつぼみ成長せいちやうとゞめるひやゝかな空氣くうきで、さうしてこれねらふものを防遏ばうあつする堅固けんご牆壁しやうへきである。しかはる季節きせつ地上ちじやう草木さうもくつた時、どれほどしろしもむすんでも草木さうもく活力くわつりよくうごいてまぬごとく、おつぎのこゝろ外部ぐわいぶからくはへる監督かんとくもつうばることは出來できない。
 おつぎは勘次かんじあといてはたけ往來わうらいする途上とじやうこん仕事衣しごとぎかためたむら青年せいねんときには有繋さすがこゝろかされた。かたにしたくはへおつぎは兩手りやうてけてる。そのにぎつたほゝたせるやうにして、おつぎはいくらかくびかたむけつゝ手拭てぬぐひしたからくろひとみ青年せいねんるのであつた。勘次かんじあとからいてるおつぎの態度たいどまでることは出來できなかつた。おつぎは數次しば/\さうしてむら青年せいねんた。しかし一交換かうくわんする機會きくわいたなかつた。おつぎはどうといふこともなくむしほとん無意識むいしき青年せいねんるのであつたが、手拭てぬぐひしたひかあたゝかいふたつのひとみにはじやうふくんでることが青年等せいねんらにも微妙びめう感應かんおうした。うしておつぎもいつかくちのばつたのである。それでも到底たうてい青年せいねんがおつぎとあひせつするのは勘次かんじ監督かんとくもと白晝はくちう往來わうらいで一べつしてちがその瞬間しゆんかんかぎられてた。それゆゑぱん子女しぢよのやうではなくおつぎのこゝろにもをとこたいする恐怖きようふまく無理むり引拂ひきはらはれる機會きくわいかつ一度ひとたびあたへられなかつた。おつぎは往來わうらいくとては手拭てぬぐひかぶりやうにもこゝろくばたゞをんなである。それがいへかへればたゞちくるしい所帶しよたいひとらねばならぬ。そこにおつぎのこゝろ別人べつにんごと異常いじやうめられるのであつた。
 またさわやかな初夏しよか百姓ひやくしやうせはしくなつた。おつぎはんだおしな地機ぢばたけたのだといふ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつた。はりつやうにつたときおつぎはこれ自分じぶん仕上しあげたのであつた。それそばてはあぶさうもとで幾度いくたびはりはこびやうを間違まちがつていたこともあつたが、しまひには身體からだにしつくりふやうにつてた。んだおしなはおつぎがうまれたばかりにすぐかまどべつにして、不見目みじめ生計くらしをしたので當時たうじはれ衣物きものであつた單衣ひとへつゝんで機會きくわいもなくむなしくしまつたまゝになつてたのである。それにころこん七日なぬかからもたねばわかないやうな藍瓶あゐがめそめられたので、いま普通ふつう反物たんもののやうなみづちないかとおもへばめるといふのではなく、勘次かんじがいつたやうに洗濯せんたくしてもかへつえるやうなので、それに地質ぢしつもしつかりと丈夫ぢやうぶなものであつた。おつぎがあらざらしのあはせてゝ辨慶縞べんけいじま單衣ひとへるやうにつてからは一際ひときはひと注目ちうもくいた。れいあかたすきうしろ交叉かうさしてそでみじかこきあげる。そのきあげられたかた衣物きものしわすこつて身體からだ確乎しつかとさせてせる。あらはれたうでにはこん手刺てさし穿うがたれてある。やうやあついとうておつぎはしろ菅笠すげがさいたゞいた。しろ菅笠すげがさあめさらされゝばそれでやぶれてしまふので、なつのはじめには屹度きつと何處どこでもあたらしいのにかへられるのである。おつぎは勘次かんじかれてむぎ畦間うねまたがやした。くはれるのが手後ておくれになつたむぎしろる。時々とき/″\つてくはいたつちあしそこきおろすおつぎの姿すがたがさや/\とかすかなひゞきてゝうごしろうへえる。餘所よそ一寸ちよつとたびおほきな菅笠すげがさがぐるりとうごく。菅笠すげがさけるのみではなくをんなためには風情ふぜいあるかざりである。かみにはしろ手拭てぬぐひかぶつてかさ竹骨たけぼねかみおさへるとき其處そこにはちひさな比較的ひかくてきあつ蒲團ふとんかれてある。さういふ間隔かんかくたもつて菅笠すげがさ前屈まへかゞみにたかゑられるのである。女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。さうしてあつ笠蒲團かさぶとんあかきれまるしろかさ中央まんなかくろ絎紐くけひも調和てうわたもつのである。おつぎの笠蒲團かさぶとんあかあをちひさなきれあつめてつたのであつた。しかしおつぎのおびだけはふるかつた。餘所よそをんな大抵たいてい綺麗きれいあかおびめて、ぐるりと※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)からげた衣物きものすそおびむすしたれて只管ひたすら後姿うしろすがたにするのである。一杯いつぱいあをしげつた桑畑くはばたけなどしろおほきな菅笠すげがさあかおびとの後姿うしろすがたが、ことにはそらからげるつよ日光につくわう反映はんえいしてあかおびえるやうにえたり、菅笠すげがささらおほきくしろひかつたりするときには有繋さすがひとかねばならぬ。彼等かれら姿すがたくしてとほへだてゝるべきものであるがしかしながらちかづいたときでも、ねあげられたかさうしろには兩頬りやうほほれてさうしてくろ絎紐くけひもめられた手拭てぬぐひ隙間すきまからすこみだれたかみのぞいて其處そこにも一しゆ風情ふぜい發見はつけんされねばならぬ。
 あめふくんだくも時々とき/″\さへぎるとはいへ、あつのもとに黄熟くわうじゆくしたむぎられたときはたけはからりとつて境木さかひぎうゑられてある卯木うつぎのびつしりといたしろはな其處そこにも此處こゝにもつて、にはか濶々ひろ/″\としたことをかんずるとともさゝへるものがくなるだけをんな姿すがたえるのである。彼等かれら少時しばし休憩きうけいにもかならたふしたむぎしりいてしろ卯木うつぎしたわづかでもける。
 到底たうてい彼等かれらしろ菅笠すげがさあかおびとはひろかざ大輪たいりんはなでなければならぬ。ひとつの要件えうけんがおつぎにはけてた。
 あつ氣候きこう百姓ひやくしやうすべてをその狹苦せまくるし住居すまゐからとほさそうて、相互さうごその青春せいしゆんのつやゝかなおもかげ憧憬あこがれしめるのに、さうしてとげえた野茨のばらさへしろころもかざつてこゝろよいひた/\とあふてはたがひ首肯うなづきながらきないおもひ私語さゝやいてるのに、おつぎはかつ青年せいねんとのあひだに一まじへることさへその權能けんのうおさへられてた。いづれにしてもおつぎのこゝろには有繋さすがかすかな不足ふそくかんずるのであつた。勘次かんじあらざらしの襦袢じゆばんふんどし一つのはだかかけて、船頭せんどうかぶるやうな藺草ゐぐさ編笠あみがさあさひもけてる。
 勘次かんじみちびかれておつぎは仕事しごといちじるしく上手じやうずになつた。おつぎがはたけ往來わうらいするときむら女房等にようばうらくいつた。
なんちう、おつかさまにたこつたかな、あるきつきまでそつくりだ」
雀斑そばかすがぽち/\してつとこまでなあ」おしなにははなのあたりに雀斑そばかすすこしあつたのである。おつぎにもれがそのまゝ嫣然にこりとするときにはそれがかへつしなをつくらせた。
勘次かんじさんわけのねえもんだな、まあだ此間こねえだだとおもつてたのにな、よめにやつてもえゝくれえぢやねえけえ、おしなさんもおめえこのくれえときぢやなかつたつけかよ」女房等にようばうらまた揶揄半分からかひはんぶんういふこともいつた。おつぎは勘次かんじがさういはれるとき何時いつあかかほをして餘所よそいてしまふのである。勘次かんじはおしなのことをいはれるたびに、おつぎの身體からだをさうおもつては熟々つく/″\たびに、おしな記憶きおく喚返よびかへされて一しゆがた刺戟しげきかんぜざるをない。それと同時どうじ女房にようばうしいといふせつない念慮ねんりよかすのである。遠慮ゑんりよ女房等にようばうらにおしなはなしをされるのはいたづらに哀愁あいしうもよほすにぎないのであるが、またぼうにははなしをしてもらひたいやうな心持こゝろもちもしてならぬことがあつた。
勘次かんじさんどうしたい、えゝ鹽梅あんべえのがんだがあとつてもよかねえかえ」とかれ女房にようばう周旋しうせんしようといふものはおしなんでからもなくいくらもあつた。勘次かんじたゞしなにのみこがれてたのであるが、段々だん/\日數ひかずつて不自由ふじいうかんずるとともみゝそばだてゝさういふはなしくやうにつた。しか※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなはなしをしてかせる人々ひと/″\勘次かんじひど貧乏びんばふなのと、二人ふたりるのとで到底たうてい後妻ごさいつかれないといふ見越みこしさきつて、心底しんそこから周旋しうせんようといふのではない。たゞひましがる勘次かんじ何處どこへでもくはかまてゝ釣込つりこまれるのでつひ惡戯いたづらにじらしてるのである。ことにおつぎがおほきくなればなるほどはたらきがてばほど後妻ごさいには居憎ゐにくところだとひとおもつた。貧乏世帶びんばふじよたい後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさいろくものいといふのが一ぱん斷案だんあんであつた。他人ひとたゞかれこゝろ苛立いらだたせた。さうしてかれ尋常外なみはずれた態度たいどが、かへつ惡戯好いたづらずきのこゝろ挑發てうはつするのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次かんじ小聲こごゑうたうてくのがどうかするとひとみゝにもひゞくやうにつた。
 ころ勘次かんじにはくりこずゑも、それへ繁殖はんしよくして残酷ざんこくあら栗毛蟲くりけむしのやうな毒々どく/\しいはなやうやしろつて、何處どこ村落むらにもふつさりとした青葉あをばこずゑからくり比較的ひかくてきおほいことをしめしてしろはなについた。村落むらうづめてこずゑからふわ/\と蒸氣ゆげあがらうといふかたちくりはなは一ぱいである。そららないながらにひくくもわだかまつて、時々とき/″\あざやかでかつくろずんだ青葉あをばうへにかつと黄色きいろあかるいひかりげる。何處どことなくしめつぽくあたまおさへるやうに重苦おもくるしいかんじがする。
 こと/″\はたはしつた村落むらうちにはまれにさういふ青葉あをばあひだ鯉幟こひのぼりがばさ/\とひるがへつてはぐたりとつて、それがあさからながを一にち、さうして家族かぞくぼつしたにしても何時いつになくまだあかるいうちゆあみをしてをんなまでがいた菖蒲しやうぶかみいて、せはしいあひだをそれでも晴衣はれぎ姿すがたになる端午たんごるのをものうげにつてる。さういふ青葉あをば村落むらから村落むらをんな飴屋あめや太皷たいこたゝいてあるいた。明屋あきやばかりの村落むらあめらねばをんなはしからはしうたうてあるく。勘次かんじうたうたのはをんなうたである。をんなこゑたかうたうてはまたこゑひくくして反覆はんぷくする。うたところ毎日まいにちたゞの一かぎられてた。をんな年増としま一人ひとりうてる。鬼怒川きぬがは徃復わうふくする高瀬船たかせぶね船頭せんどうかぶ編笠あみがさいたゞいて、あらざらしの單衣ひとへすそひだり小褄こづまをとつておびはさんだだけで、あめはこれてかたからけてある。あつかさ編目あみめとほしてをんなかほほそつよせんゑがく。をんなかほやつれてた。おほむねむつてた。みゝもとで太皷たいこやかましいおととおふくろうたこゑとがいつとはなしにさそつたのであつたかもれぬ。くびむしさかさまれてひたひがいつでもあつられてあせばんでた。百姓ひやくしやうみな見窄みすぼらしいをんなかへりみなかつた。村落むらから村落むらわたときをんな姿すがた人目ひとめくべき要點えうてんが一つもそなはつてなかつた。しかしいつのにかひととほくよりるやうにつた。ちが女房等にようばうらひたひママれてねむつて痛々敷いた/\しいおもふのであつた。をんなうたはなくても太皷たいこ村落むらとほくからさそふのにらぬうたひやうをしてたゞの一反覆くりかへすのである。をんな背中せなかねむつてるのをよろこんで※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな姿なりであるかは心付こゝろづかない。たゞちひさな銅貨どうくわつてはしつて村落むらちつゝさそひつゝあるくのである。をんな何處どこからてどうくといふこともせはしくたゞ田畑たはた勞働らうどうして百姓ひやくしやうあひだにはられなかつた。毎日まいにちさうしてあるいてをんなりたがりきたがる女房等にようばうらあひだに、各自てんで口喧くちやかましい陰占かげうらなひたくましくされるともなく、ある村外むらはずれの青葉あをばなか太皷たいこおとうたこゑとがとほかすかにぼつつたり、やが梅雨つゆおびたゞしく毒々どく/\しいくりはなくさるまではとしたのでをんなきたなげなやつれた姿すがたふたゝられなかつた。
 勘次かんじみゝそこひゞいたひとかんへたやうにうたうてはくのである。かれ自分じぶんこゑたかいとおもつたとき他人ひとかれることをづるやうに突然とつぜんあたりをることがあつた。まがかどでひよつとときそれが口輕くちがる女房にようばうであれば二三すごしては
「どうしたえ、勘次かんじさん彼女あれこがれたんぢやあんめえ、もつと年頃としごろつゝけだからつれ一人ひとりぐれえ我慢がまん出來できらあな、そんだがあれつなくなつちやつてこまつたな」と遠慮ゑんりよもなく揶揄からかうては、すこへだたるとわざこゑてゝうたつたりする。さうすると勘次かんじうちかへるまで一うたはない。しかかれしばらくそれをうたふことをめなかつた。
 かれたゞ女房にようばうほしい/\とのみおもつた。

         九

 勘次かんじ依然いぜんとしてくるしい生活せいくわつそとに一のがることが出來できないでる。おしなんだとき理由わけをいうてりた小作米こさくまいとゞこほりもまだ一つぶかへしてない。大暑たいしよ井戸ゐどみづまでらしてりつけるころはそれまでに幾度いくたび勘次かんじ※桶こくをけ[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、126-10]からるのである。かれは一ぱん百姓ひやくしやうがすることはなくてはらないので、ことには副食物ふくしよくぶつとして必要ひつえうなので茄子なす南瓜たうなす胡瓜きうりやさういふもの一通ひととほりはつくつた。かれ村外むらはづれの櫟林くぬぎばやしそばたので自分じぶんいへちかくにはさういふものつくはたけが一まいもなかつた。それでも胡瓜きうりだけは垣根かきね内側うちがはへ一れつゑてうしろはやしまじつたみじかたけつててた。たけつてるはやしかれ所有しよいうではないけれど、かれうして必要ひつえうたびごとひてはかくさないぬすみをあへてするのである。南瓜たうなすにはすみ粟幹あはがらかこうたかはやそばゑた。それからにはくりへもからませた。茄子なすだけはとほはたけむぎ畦間うねまゑた。かれ甘藷さつまいもほかには到底たうていさういふすべてのなへ仕立したてることが出來できないので、また立派りつぱなへひにだけ餘裕よゆうもないので、容子ようすかられば近村きんそんではあるが何處どことも確乎しかとはれない天秤商人てんびんあきうどからそれをもとめた。天秤商人てんびんあきうどつてるのは大抵たいていくづばかりである。それでも勘次かんじやすいのをよろこんだ。かれわづかぜに幾度いくたび勘定かんぢやうしてわたした。
 むぎられてたば兩端りやうはしいだたけぼうとほしてはたけそとかつされたときあとには陸稻をかぼ大豆だいづがひよろ/\とあをばんだはたけ勘次かんじ茄子なすみじかうねが五うねばかりになつてつてた。下葉したは黄色きいろくなつてたがそれでもむぎしばらおほうたのでみなづいて生長せいちやうしかけてた。假令たとひせさせないまでもこやしてくことをしないはたけつち茄子なす干稻ひねびてそれで處々ところ/″\ひとづゝはなつてた。勘次かんじあさのまだすゞしい、しめりのあるあひだかまどはひつてつてけてだけ手數てすうつくしたのである。それでいくらでも活溌くわつぱつ運動うんどうする瓜葉蟲うりはむしふせがれた。それははねあかいので赤蠅あかばへ土地とちではいつてる。はひでは油蟲あぶらむしくのはどうも出來できなかつた。それからまた根切蟲ねきりむし残酷ざんこくかたくきもとからぷきりとたふしてうゑかずるにもかゝはらず、かれとほはたけつち潜伏せんぷくしてそのにくむべき害蟲がいちうさがしてその丈夫ぢやうぶからだをひしぎつぶしてだけ餘裕よゆう身體からだにもこゝろにもつてない。垣根かきね胡瓜きうり季節きせつみなみいて、あさもやがしつとりとかわいたにはつちしめしておりるとなにひがんでかかげさがうりが、しぼんだはなのとれぬうちにしりまがつてたちまちにつるもがら/\にかれしまつたのであつた。たゞ南瓜たうなすだけは特有もちまへおほきなをずん/\とひろげてつるさきたちまちにかはやひくひさしかられた。ことくりからんだのは白晝ひるまわすれるほどながあひだ雨戸あまどぢたまゝで、假令たとひ油蝉あぶらぜみりつけるやうに其處そこらのごとにしがみいてこゑかぎりにいたにしたところで、すべてがあつさにつかれたやうでむしきはめて閑寂かんじやくにはのぞいては、かげながら段々だん/\けつゝふとりつゝしりへそしてどつしりとえだからさがつた。それがわづかには威勢ゐせいをつけてる。
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 與吉よきち貧乏びんばふ伴侶なかま佳味相うまさう青物あをものかじつてるのをておつぎに強請せがむことがあつた。勘次かんじうちではどうかするとあさつておほきな南瓜たうなす土間どまころがつてることがある。それでには南瓜たうなすひとつもつてない。
「こらどうしたんでえおとつゝあ」與吉よきちよろこんであぶさういてはく。
いぢんぢやねえ」勘次かんじたゞおそろしいをしてしかるやうにおさへる。勘次かんじはまだはだしろかつ薄赤味うすあかみびた人形にんぎやう手足てあしのやうな甘藷さつまいもめしむことがあつた。
佳味うめえな」とおつぎがいつたとき
〆粕しめかすつくつからよ」勘次かんじはいつた。
旦那だんなぢや、〆粕しめかすばか使つかあんだつぺか」おつぎは自分じぶんらぬ不廉ふれん肥料ひれうのことにいていた。勘次かんじがついて
甘藷さつまくつたなんていふんぢやねえぞ」與吉よきちいましめた。勘次かんじかれ大豆畑だいづばたけちかくにとなり主人しゆじん甘藷畑さつまばたけとそれから途中とちう南瓜畑たうなすばたけがあつたので、はたけのものよりも自然しぜんにそれをつた。すこしづつつた。南瓜たうなす晝間ひるまいてよるになるとそつとつるいて所在ありかさがすのである。甘藷さつまいもつちいてさがりにするのはこゝろせはぎるのでぐつとく。かれ日中につちう甘藷畑さつまいもばたけそばぎては自分じぶんあらしたあとこゝろひどいとはおもふのであるがそれをうめくにはこゝろとがめた。ういふ伴侶なかま千菜荒せんざいあらしといふ名稱めいしようもとばれた。
 與吉よきちひとりむらあそんであるいた。あきけて甘藷さつまいもされるやうにつた。與吉よきちくさういふところつてはさうかほをしてだまつてるので何處どこでもあつ甘藷さつまいもあたへられるのであつた。あるときかれ
らあうち甘藷さつまくつたなんてゆはねえんだ」甘藷さつまいもつてづ/\いつた。かれたゞうれしかつたのである。
何故なぜゆはねえんだ」あたへたひといた。
何故なぜでもだ」
「そんぢやえゝ、その甘藷さつまけえしつちまあから」とおどろかされて
「そんでも俺家おらぢのおとつゝあ甘藷さつまつたなんてゆふんぢやねえぞつてつたんだ」與吉よきちびるやうな容子ようすでいつた。
「よきら甘藷さつまうめえか」
旦那だんなのがはうめえつてつたんだ」
「おとつゝあゆつたのかねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、131-15]ゆつたのか」
ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、132-1]ぢやねえ、おとつゝあだ」
「おとつゝあはうち甘藷さつまくつて旦那だんなのがうめえつちつたのか」
「さうなんだわ」無心むしん與吉よきちさそされるまゝにいつてしまつた。しか相互さうごはたけあらしては、せた骨身ほねみかじうてるやうな彼等かれらあひだにこんなことがければ殊更ことさら勘次かんじばかりが注目ちうもくされるのではなかつたのである。

         一〇

 あきあさひやゝかにつた。いねきたけばみなみいたり、みなみけばきたいたりして重相おもさうくびまずうごかしてはさら/\とさびしくわらひはじめた。つよあきあめが一ざあ/\とつた。つぎにはそらいさゝか微粒物びりふぶつとゞめないといつたやうにすごほどれて、やま滅切めつきちかつてた。しつとりと落付おちついた空氣くうきとほして、日光につくわうめう肌膚はだむやうにあたゝかであつかつた。はるのやうなだまされて雲雀ひばりは、そつけない三稜形りようけいたねふくれつゝまだ一ぱいしろ蕎麥畑そばばたけやそれから陸稻畑をかぼばたけうへさへづつた。それでもいくらかはね運動うんどうにぶつてるのかはるのやうではなくひく徘徊さまようて皺嗄しやがれたのどらしてる。周圍しうゐ臺地だいちからは土瓶どびんふたをとつて釣瓶つるべをごつとかたむけたやうに雨水あまみづが一ぱいあつまつていね穗首ほくびすこひたつた。田圃たんぼほりひとつにつたみづ土瓶どびんくちからすやうにおもむろひくへとおちる。村落むら子供等こどもらは「三ぺいぴいつく/\」と雲雀ひばり鳴聲なきごゑ眞似まねしながら、小笊こざるつたり叉手さでつたりしてぢやぶ/\とこゝろよい田圃たんぼみづわたつてあるいた。其處そこにはまたれもはるのやうなだまされて、とうからかなくつてかへるがふわりといてはこそつぱいいねつかまりながらげら/\といた。一ぱいふさがつていねしたをそろ/\とひながらみづひくつたときあきけた。さうして※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなときでも本能ほんのう衝動そゝ機會きくわいがあればくのだといつてつてかへるもひつそりとした。大雨おほあめあとはたけへは百姓ひやくしやう大抵たいていひかにしてなかつた。
 勘次かんじ黄昏たそがれちかくなつてからひとり草刈籠くさかりかご背負せおつてた。かれ何時いつものみちへはないでうしろ田圃たんぼからはやしへ、それからとほ迂廻うくわいして畑地はたちた。はまだほんのりとあかるかつたので勘次かんじはそつちこつちとから草刈籠くさかりかご背負せおつたまゝあるいた。かれれでも良心りやうしん苛責かしやくたいして編笠あみがさかほへだてた。がとつぷりとれたときかれ道端みちばた草刈籠くさかりかごおろした。其處そこにははたけ周圍まはり一畝ひとうねづつにつくつた蜀黍もろこしたけたかつてる。草刈籠くさかりかごがすつと地上ちじやうにこけるとき蜀黍もろこしおほきれてがさりとつた。さらその何處どこにもかんじない微風びふう動搖どうえうして自分じぶんのみがおぢたやうにさわいでる。なにさわぐのかといぶかるやうにすこ俯目ふしめおろしてる。勘次かんじ菜切庖丁なきりばうちやう取出とりだして、そのたか蜀黍もろこしみきをぐつとまげては穗首ほくびちかなゝめつた。勘次かんじとまつてみききふかへつた。さうして戰慄せんりつした。勘次かんじおもつた草刈籠くさかりかご背負せおつて今度こんどらのみち一散いつさん自分じぶんうちかへつた。つぎあさ勘次かんじ軒端のきばたよこたけわたして、ゆつさりとするしばつてちがひにけた。みなみひくくなつたれをのぞくやうにけた。
 いづれもいひあはせたやうにはたけた。一にちつたのではたけ大抵たいていぱさ/\にかわいてる。蜀黍もろこしりにむら一人ひとり自分じぶんはたけがぞつくりとあらされてるのを發見はつけんしておどろいた。かれはたけたなりは一ぽんらないでまゝ駐在所ちうざいしよけつけた。巡査じゆんさはそれでもぐに官服くわんぷく被害者ひがいしやと一しよ現場げんぢやうられたかずあらためて手帖ててふめた。被害者ひがいしや駐在所ちうざいしよけつけるに、はたけとほくにはなれ/″\にらばつて百姓等ひやくしやうらことごとれをつた。被害者ひがいしや途次みちみち大聲おほごゑして呶鳴どなつてつたからである。なんでも昨夜さくやおそらからかへるものがつたといふがそれぢやれに相違さうゐないだらうといふことがつたへられた。勘次かんじはたけさわぎにりはじめたのをつた。かれすぐんでかへつてことごと蜀黍もろこしはづして、そつとちかくのはやしかくしてむしろを二まいばかりおほうた。
くせになつから、みつしらりらかしたはうがえゝ、俺方おらはうはたけ五月蠅うるさくつて本當ほんたうやうねえ」
せしめにときにや、こつぴどくんなくつちやえかねえよ」
村落むらうちようくせえすりやすぐわからな、蜀黍もろこしなんぞ何處どこかくせるもんぢやねえ」
などちか畑同士はたけどうし呶鳴どなつた。こゑ被害者ひがいしやみゝにも這入はひつてむか/\とげきしたこゝろいきほひをけた。
かずわかつたらもうあとけてもえゝ」巡査じゆんさはたけつた。
「わしもつてあんせう、自分じぶんはたけのがは一目ひとめりやわかりあんすから」ういつて被害者ひがいしや蜀黍もろこしを二三ぼんつて村落むらもどつた。巡査じゆんさ其處そこ此處ここらと二三げんあるいて勘次かんじにはつた。それは勘次かんじは二三のものとも巡査じゆんさ注意人物ちういじんぶつであつたからである。しかかれまづしい建物たてもの何處どこにも隱匿いんとくされる餘地よち發見はつけんすることが出來できなかつた。とき勘次かんじ餘所よそはこんだあとなのである。巡査じゆんさのきわたしたたけぼう
りやどうするんだい」といた。被害者ひがいしや先刻さつきから雨垂あまだれみづつちくぼんだあたりをたが
「はてな」とくびかたぶけて
蜀黍粒もろこしつぶおつこつてあんすぞ、さうすつと此處ここけたのまた何處どこへかつてつちやつたな」被害者ひがいしやはいつた。巡査じゆんさ首肯うなづいた。
つぶでがすから、わしがに相違さうゐありあんせん、彼等あつらがなんなに出來できつこねえんですから、それ證據しようこにや屹度きつと自分じぶんはたけのがなひとでもつちやねえからさつせ、わしがんでも〆粕しめかすえてつくつたんでがすから」被害者ひがいしや熱心ねつしんにいつた。勘次かんじそのとき不安ふあん態度たいどでぽつさりと自分じぶんにはつた。かれすで巡査じゆんさ檐下のきしたつてるのを悚然ぞつとした。
勘次かんじたけはどうしたんだな」巡査じゆんさ横目よこめ勘次かんじていつた。
「わしらあ、蜀黍もろこしつてけべとおもつたんでがす」
「うむ、つぶこぼれたのはどうしたんだ、蜀黍もろこしなんだらうれは」
「へえ、なに、わしが一攫ひとつかいてたの打棄うつちやつたんでがした」勘次かんじういつてあをつた。巡査じゆんささら被害者ひがいしや勘次かんじはたけ案内あんないさせた。悄然せうぜんとしてあといて勘次かんじえうはないからと巡査じゆんさ邪慳じやけんしかつてひやつた。勘次かんじはたけ蜀黍もろこし被害者ひがいしやがいつたやうに、なさけないやうな見窄みすぼらしいがさらりとつてそれでも恐怖心きようふしんられたといふやうに特有もちまへな一しゆさわがしいひゞきてつゝあつた。ひとつもつてはなかつた。
れだからわしつたんでがす、ねえそれ、つぶでがすかんね」被害者ひがいしや威勢ゐせいた。
いねたばかつぐんだつて、わしくちしちやはねえが、ちやんとつてんでがすから、さうつちやなんだが※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことするもなあ、きまつたやうなもんですかんね」被害者ひがいしやさら手柄てがらでもしたやうにいつた。
「もうわかつたから、それぢや自分じぶん仕事しごとをするがいい、のちにわしが申報書しんぱうしよこしらへてるから、それへ印形いんぎやうせばそれで手續てつゞきむんだからな」巡査じゆんさはさういつてさうして被害者ひがいしや
「そんぢや、わし蜀黍もろこしかくしてとこ見出めつけあんすから、屹度きつとんにきまつてんだから」といふこゑあとにしてはたけ小徑こみちをうねりつゝつた。
今度こんだこさあ、捕縛つかまつちや一杯いつぺえらあんだんべ」畑同士はたけどうし痛快つうくわいかんじつゝ口々くち/″\ういふことをいつた。
「おつうらとつても今度こんだあ駄目だめだよ」勘次かんじ果敢はかない自分じぶん心持こゝろもちゆゐ一の家族かぞくであるおつぎの身體からだけるやうにしをつていつた。勘次かんじ衷心ちうしんから恐怖きようふしたのである。ほどならば何故なぜかれ蜀黍もろこしることをあへてしたのであつたらうか。かれれまでもはたけものつたのは一や二ではない。れは些少させうであつたがかれりたくなつたとき機會きくわいさへあれば何時いつでもりつゝあつたのである。かれころさうとまで薄弱はくじやく意思いしすこしのことにもかれくるしめるときかれ衝動そそつて盜性たうせいがむか/\とくびもたげつゝあつたのである。勘次かんじはもう仕事しごとをするどころではない。かれ到底たうてい寸時すんじいへへられなくつて、となりかれ主人しゆじんすがらうとした。しきゐすことがかれにはどれほどつらかつたかれぬ。主人しゆじん不在ふざいであつた。
「お内儀かみさん、わしもまた間違まちがえしあんしてどうもれお内儀かみさんとこへはしきゐたかくつてなんでがすが、わしなくでもつちや子奴等こめらやうがあせんから、たすかれるもんならわしもはあ……」とかれはぐつたりくびれた。
 主人しゆじん内儀かみさんは勘次かんじ蜀黍もろこしつたことはもうつてた。まだくせまないかと一はらたててもたりあきれもしたりしたが、しか何處どこといつて庇護かばつてくれるものがいのでうしてるのだと、目前もくぜんそのしをれた姿すがたると有繋さすがあはれつてしかどころではなかつた。それではどうか心配しんぱいしててやらうといはれて勘次かんじかほ蘇生いきかへつたやうにつた。かれなんでも主人しゆじん盡力じんりよくしてれゝば成就じやうじゆするとおもつてるのである。それでも自分じぶんいへにはられないので、どうかかくしてくれとかれ土藏どざうれてもらつた。勘次かんじ其處そこでも不安ふあんへないので其處そこしばら使つかはずにしまつてある四尺桶しやくをけへこつそりともぐつてた。
 巡査じゆんさ午後ごご申報書しんぱうしよいんりに勘次かんじいへつてた。勘次かんじ何處どこつたと巡査じゆんさかれておつぎはたゞらないといつた。さうして巡査じゆんさ後姿うしろすがた垣根かきねときひそかいた。
 被害者ひがいしや到頭たう/\隱匿いんとくした箇處かしよ發見はつけんして巡査じゆんさみちびいた。雜木林ざふきばやし繁茂はんもしたあひだの、もうこはつたくさなか蜀黍もろこししばつたまゝどさりといてあつたのである。其處そこにはもうそつけなくなつた女郎花をみなへしくきがけろりとつて、えだまでられたくりひくいながらにこずゑはうにだけはわづかんでる。ちひさな芝栗しばぐり偶然ひよつくりちてさへおどろいてさわぐだらうとおもふやうに薄弱はくじやく蟋蟀こほろぎがそつちこつちでかすかにいてる。一寸ちよつと他人ひとにはれぬ場所ばしよであつた。おほうたむしろ勘次かんじ所業しわざであることを的確てきかく證據立しようこだてゝた。
 主人しゆじん内儀かみさんは一おう被害者ひがいしやはなしをつけてた。被害者ひがいしや家族かぞく律義者りちぎものみなげきつてる。七十ばかりに被害者ひがいしや老人ぢいさんこと頑固ぐわんこ主張しゆちやうした。
泥棒どろぼうなんぞするやざあ、わし大嫌だえきれえでがすから、わしはたけ茄子なす※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もぎつたんだつてちやんとつちやんでがすから、いやまつたくでがす、お内儀かみさんとこ甘藷さつまりあんしたとも、ぐうづらつるつこいて打棄うつちやつて、いや本當ほんたうでがす、わしやちくなんざあいふなきれえでがすから、どこぢやがあせんお内儀かみさん、よるつてて、あさつぱらにつたらはあけたに相違さうゐねえつちんでがすから、なにわしもむしろけたところあんした、むしろわかるから駄目だめでがす、いやまつたひで野郎やらうでがすどうも」内儀かみさんはれは豫期よきしてた。
「そりやさうさね、まへわたしところすくつてつたのにそれにたかうなんだから、まあ病氣びやうきさねこれも、こまつたもんだがしかしあれを懲役ちやうえきつてところ子供等こどもらくばかりだからね、それにまあ本當ほんたういへばひと村落むらうしてるんだからさきこまつてるうち勘辨かんべんしてつたとると一しやうさきがひけて道理だうりだがそれが一ぱいつみにでもおとしてると、さきでは帳消ちやうけしにでもつたやうなつもりまいものでもなし、さうするとかたき一人ひとりこしらへてくやうなものだしね、他人ひとたゝかれたのではねむれるが、たゝいたのではねむれないとさへいふんだから、なんでも後腹あとばらめないはういやうだがどうだね」
「そんでもお内儀かみさん、わしや卯平うへいことみじめせてんのが他人ひとのこつても忌々敷いめえましいんでさ、わしや血氣けつきころから卯平うへいたあ棒組ぼうぐみ仕事しごともしたんでがすが、卯平うへいはあんでもあれが嚊等かゝあらそだ時分じぶんことなんぞおもつちや疎末そまつにやんねえんでがすかんね、それお内儀かみさん卯平うへいいくつにりあんすね、わしだらなあに、あゝた野郎やらうなんざあやりでゝもなんでもしつちあんでがすがね」老人ぢいさん憤慨ふんがいへぬやうにかためたこぶしひざがしらへてゝいつた。
もつともさねそりや、それだがはら時分じぶんにくやつだとおもつても後悔こうくわいするときいともママひないしね、すこしのことで二だいも三だい仲直なかなほりが出來できないやうな實例ためしいくらも世間せけんにはるもんだからね」内儀かみさんは反覆くりかへしていつた。しか容易ようい彼等かれらこゝろ落居おちゐない。しばらはなし途切とぎれた。
とほくのはうつたなんていつたつけがおりせはまたまご出來できさうだね、今度こんどのはをとこだつてそれでもかつたねえ」
 内儀かみさんはそば老母ばあさんいて突然とつぜんういひけた。さうして内儀かみさんはつめたくつて茶碗ちやわんにした。れを被害者ひがいしや女房にようばう土間どまけおりてかまどくちけてふう/\と火吹竹ひふきだけいた。
「はあいさうでござりますよ、お内儀かみさんの厄介やつけえりあんしたつけが、あれもいまぢや大層たえそうえゝ鹽梅あんべいでがしてない、四人目よつたりめやつとそんでもをとこでがすよ、お内儀かみさんにあれたときにやわしもはあしびれえてたんでがしたが、身上しんしやうもあんときかんぢやよくなるしね、兄弟中きやうでえぢういまぢやりせが一ばんだつてつてつとこなのせ、お内儀かみさんあれなら大丈夫でえぢよぶだからつてゆつれあんしたつけが婿むこ心底しんていくつてね、爺婆ぢゝばゝあげつて、わしうたものよこしあんしたよ」老母ばあさんかまへてゞもたやうに小風呂敷こぶろしきつゝみいて手織ておりのやうにえる疎末そまつ反物たんものして手柄相てがらさうせた。内儀かみさんは仕方しかたないといふ容子ようす反物たんものけて
「それでもまごきにはつたかね」
「ほんに、わしや今日けふらお内儀かみさんとこくべとおもつてたら、なんちこつたかんなさわぎではあくも出來できねえで、わしや昨日きのふけえつてところなのせえ、お内儀かみさん」老母ばあさんいくらでもいきほひづいて饒舌しやべらうとする。あつちややうや内儀かみさんのまへまれた。被害者ひがいしや老父ぢいさん座敷ざしきすみ先刻さつきからこそ/\とはなしをしてる。さうしてさら老母ばあさんんだ。
「うむ、さうだともよ」といふ老母ばあさんこゑがするとみななほつて
「それぢや、お内儀かみさん、先刻さつきのがなお内儀かみさんえゝやうにつてておくんなせえ」被害者ひがいしやはいつた。
「わしや、一剋者いつこくものだからお内儀かみさんわるおもはねえでおくんなせえ」老父ぢいさんもいつた。
「どうぞねえお内儀かみさん」老母ばあさんもいつた。内儀かみさんはそれからまたしばら雜談ざふだんをしてみんなわらつてかへつた。はらるだけのことをいはしてしまへば彼等かれらはそれだけこゝろ晴々せいせいとしていきほひ段々だん/\にぶつてるので、そのあひだ機嫌きげんもとつてて、さうしてきまつた理窟りくつ反覆はんぷくしてかせてるうちにはころりとちてしまふといふ呼吸こきふ内儀かみさんはつてるのである。
 おつぎは内儀かみさんにばれてとなりとまつた。内儀かみさんはおつぎと與吉よきちたゞ二人ふたりいへくにはしのびなかつたのである。になつてから勘次かんじ土藏どざうからされて傭人やとひにんそばに一あかした。かれ未明みめいまた土藏どざうかくれた。内儀かみさんは傭人やとひにんくちかたいましめてそとれないやうと苦心くしんをした。巡査じゆんさ勘次かんじいへのあたりを徘徊はいくわいしたがそれでも東隣ひがしどなりもんたゝいて穿鑿せんさくするまでにはいたらなかつた。内儀かみさんは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなにしてもすくつてりたいとおもしたら其處そこ障害しやうがいおこればかへつてそれをやぶらうと種々しゆじゆ工夫くふうこらしてるのであつた。それで被害者ひがいしやはうはなしきまつたのだからうへ警察けいさつ手加減てかげんつよりほかみちいのであるが、不在ふざいであつた主人しゆじんかへらない。勘次かんじ只管ひたすら主人しゆじんちからつてのみすくはれるものとねんじてる。内儀かみさんも主人しゆじんちあぐんでる。さうしてまたよるた。内儀かみさんはもう凝然ぢつとしてはられない。それでおつぎをれて、提灯ちやうちんけてひそか土藏どざうの二かいのぼつた。
「おとつゝあ」おつぎはこゑころしながらちかられていつた。勘次かんじ返辭へんじがない。おつぎはさら幾度いくたびんでそれからお内儀かみさんがんだときよごれた身體からだをけなかからあらはした。
旦那だんながまだかへらないのでね、警察けいさつはうはなし出來できないでこまつてるんだが、どうだねおまへ警察けいさつてもらないといひれるかね、さうすりやわたし始末しまつをしてるがね」内儀かみさんはいつてかせた。
「へえ」勘次かんじたゞくびれてる。
「どうだね」内儀かみさんは反覆くりかへした。
「わしがにや、とつてもれあんせん」勘次かんじしをれてふるへてる。
「おとつゝあはなんちんだんべな」おつぎは齒痒相はがいさうにいつて一せいさら
「おとつゝあ」とちかられて
らねえつてへよ、おとつゝあ」
 おつぎは熱心ねつしん勘次かんじた。
「そんでもおら、あすこへちや、とつても白状はくじやうしねえわけにやかねえよ」
「そんな料簡れうけんでなくわたし自分じぶんのがつたんですつていへば、そんでいゝやうに始末しまつしてやるだから」内儀かみさんがちからけてても勘次かんじただくびれてる。
「さうへせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」おつぎは落膽がつかりしたやうにいつた。内儀かみさんとおつぎはうして熟睡じゆくすゐした身體からだ直立ちよくりつせしめやうと苦心くしんするほどむだちからつくしたのであつた。
 傭人やとひにんもすつかりねむりにちたとおもころ内儀かみさんとおつぎとのくろ姿すがたひそかうら竹藪たけやぶうごいた。ちてたけえだあししたにぽち/\とれてつた。いぬゐはう垣根かきねそばとき内儀かみさんは、垣根かきねつちいたところ力任ちからまかせにぼり/\とやぶつた。おつぎも兩手りやうてけてやぶつた。幾年いくねんとなしに隙間すきましやうずれば小笹をざさし/\しつゝあつたたけ垣根かきねは、つちところがどす/\にちてるのですぐおほきなあないた。おつぎは其處そこからくぐつてた。突然とつぜんぱた/\とけたゝましい羽音はおとすぐあたまうへさわいだ。たけこずゑとまつてはとにはかおどろいてとほげたのである。
「さむしかないかい」内儀かみさんは垣根越かきねごしにいた。
大丈夫だいぢやうぶですよ、お内儀かみさん」おつぎはすこあるけていつた。
「おやもうそつちのはうつたのかい、それぢや彼處あすこたゝくんだよ」内儀かみさんはいつてわかれた。おつぎはすぐ自分じぶん裏戸口うらどぐちつた。そつとけて這入はひつてると、自分じぶんうちながらおつぎはひやりとした。とやにはとりくらなか凝然ぢつとしてながらくゝうとほそながめうこゑした。ねずみが二三びきがた/\とさわいで、なにかでおさへつけられたかとおもふやうにちう/\とくるしげなこゑたていた。おつぎは手探てさぐりに壁際かべぎは草刈鎌くさかりがまつた。またそつとてゝとき頸筋くびすぢかみをこそつぱい一攫ひとつかみにされるやうにかんじた。おつぎはそと壁際かべぎは草刈籠くさかりかご脊負せおつた。どうした機會はずみであつたかこれ壁際かべぎはけた竹箒たけばうきたふれてがかちつと草刈籠くさかりかごつた。おつぎはひよつとかへりみた。
 よるやみである。すごえたそらへぞつくりとつたとなりもりこずゑにくつゝいてあまがはひく西にしかたぶきつゝながれてる。
 しばらくしておつぎは自分等じぶんらつくつた蜀黍もろこしそばつた。せた蜀黍もろこしねむつたかとおもふやうにしつとりとしてては、やがてざわ/\とつた。おつぎは草刈鎌くさかりがまでざくり/\とつた。さうしてぎつとんでおもつた草刈籠くさかりかご脊負せおつた。其處そこらのはたけにはつちひらいたやうに處々ところ/″\ぽつり/\と秋蕎麥あきそばはなしろえてる。おつぎは足速あしばや臺地だいちはたけから蜀黍もろこしのざわつく小徑こみち低地ていちはたけへおりてやうやくのことで鬼怒川きぬがは土手どてた。おつぎはばひつてしばつかまりながらのぼつた。ときおつぎのこゝろにはなゝめ土手どて中腹ちうふくへつけられた小徑こみち見出みいだしてほど餘裕よゆうがなかつたのである。土手どて内側うちがは水際みづぎはからしのが一ぱい繁茂はんもして夜目よめにはそれがごつしやりと自分じぶんあつしてえる。しのあひだからみづがしら/\とえて、しのあらつてみづひゞきがちろ/\とみゝちかきこえる。おつぎはみぎはへおりようとおもつてしのけてると其處そこがけつて爪先つまさきからちたちひさなつちかたまりがぽち/\とみづつた。おつぎはさらしのけておりようとすると、其處そこがけまへにひよつこりと高瀬船たかせぶね帆柱ほばしらやみいてたつる。みづちかくこそ/\とひと噺聲はなしごゑきこえる。黄昏たそがれやうや其處そこかゝつた高瀬船たかせぶねが、其處そこらで食料しよくれうもとあるいておそ晩餐ばんさんすましてまだねむらずにたのであつたらう。それは高瀬船たかせぶね船頭夫婦せんどうふうふが、りてもりなくても自分じぶん家族かぞく唯一ゆゐいつ住居すまゐであるへさきつくられたはこのやうなせばいせえじのなかはなしてこゑであつた。乳呑兒ちのみごこゑまじつてきこえた。おつぎはあと退去すさつた。おつぎはほとんど無意識むいしき土手どてみなみはしつた。處々ところ/″\だれかゞ道芝みちしばしばあはせていたので、おつぎは幾度いくたびかそれへ爪先つまさきけてつまづいた。
 土手どてしの段々だん/\まばらにつてみづが一ぱいえてた。鬼怒川きぬがはみづ土手どてよりはるかひくやみそこにしら/\とうすひかつてる。よる對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげみづげて、川幅かわはゞわづか半分はんぶんせばめられてえる。蟋蟀こほろぎ其處そこらあたり一ぱいきしきつて、あつまつたこゑそらにまでひゞかうとしてはしづみつゝ/\、それがゆつたりとおほきな波動はどうごと自然しぜん抑揚よくやうしつゝある。おつぎは到頭たうとう渡船場とせんばまでた。おつぎはそれから水際みづぎはへおりようとするとみづわたつてしづかにしかちかひとこゑがして、時々ときどきしやぶつといふひゞきみづおこる。不審ふしんおもつて躊躇ちうちよしてると突然とつぜんまへ對岸たいがん松林まつばやし陰翳かげからしろひかつてみづうへへさきふねあらはれた。わたぶね深夜しんやひとせたのでしやぶつといふひゞき舟棹ふなさをみづたびつたのである。おつぎはまた土手どてもどつておほきな川柳かはやなぎそばけた。二三交換かうくわんしてひとつたやうである。船頭せんどうくら小屋こやをがらつとけてまたがらつとぢた。おつぎはしばらつててそれからそく/\とふねつないだあたりへりた。おつぎはそばでかさ/\となにかがうごくのをくとともに、ゐい/\とぶたらしい鳴聲なきごゑのするのをいた。
くのかあ」とまだねむらなかつた船頭せんどう突然とつぜん特有もちまへ大聲おほごゑ呶鳴どなつた。おつぎはおどろいてまたさん土手どてはしつた。船頭せんどうはがらつとけて、ひとはしつたやうなひゞきがあきらかにみゝかんじたので、はるかくら土手どてすかしててぶつ/\いひながらかれさら豚小屋ぶたごやちかづいて燐寸マツチをさつとつてて「油斷ゆだんなんねえ」とつぶやいてまたぢた。かれ内職ないしよくつたぶた近頃ちかごろんだので他人たにんねらひはせぬかと懸念けねんしつゝあつたのである。おつぎは何處どこでもかまはぬと土手どてしのけてひとつ/\に蜀黍もろこしちからかぎみづとうじた。おつぎはから草刈籠くさかりかご脊負せおつていそいでかへつた。
 おつぎがこと/\とたゝいたとき内儀かみさんはすぐけて
「どうしたい、大變たいへんおそかつたね」といた。
「お内儀かみさんいふとほりにしあんしたよ」
蜀黍もろこし何處どこつたい」
「わたしやどうしてえゝかんねえからかはつてつて打棄うつちやりあんした」
「さうかい、つてたね、まああがりな」内儀かみさんはランプを自分じぶんあたまうへげて凝然ぢつくびひくくしておつぎの容子ようすた。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、衣物きものは」
本當ほんたうにまあ」おつぎははじめて心付こゝろづいたやうで
先刻さつき土手どてときほりとこすべつたんですが、ときかうえによごしたんでせうよ」とおつぎはどろつたこしのあたりへてた。
「お内儀かみさん、わたしやんだことをあんした」おつぎはまたいつた。
「どうしたんだえ」
「わたしや、かま何處どこつちやつたかわかんなくつちやつたんでさ」
今夜こんやつてつたのかえ」
「さうなんでさ、わたしや蜀黍もろこし打棄うつちやときまでつとおもつてたらえねえんでさ、私等家わたしらぢのおとつつあは道具だうぐつちとひどおこんですから」
草刈鎌くさかりがまの一ちやうや二ちやうまへどうするもんぢやない、あつちへまはつてあしでもあらつてさあ」内儀かみさんのくちもとにはかすかなわらひがうかんだ。
 つぎやうや主人しゆじんかへつた。巡査じゆんさはなしをしてたがときはもう被害者ひがいしやからの申報書しんぱうしよ分署ぶんしよ提出ていしゆつされてあつたのでさら分署長ぶんしよちやう懇請こんせいしてた。さうして被害者ひがいしやから事實じじつ相違さうゐしたといふ意味いみ取消とりけしせばそれでいといふことにまではこびがついた。微罪びざいといふのでそのすぢ手加減てかげん出來できたのである。内儀かみさんは被害者ひがいしやうちつてだけ筋道すぢみちかせたが、どうしても今度こんどはうんといはない。
「どうもわし分署ぶんしよへなんぞんな、なんぼにもでがすかんね、屹度きつとおこられんでがすからはあ」とのみいふのである。
「さうだがね、此處ここまではなしがついてるんだから此方こつちでそれだけのことはれなくつちやれまでのことがみづあわなんだからね」と道理だうりかせても
らつたうへうしてひまつぶして、おまけに分署ぶんしよおこられたりなにつかすんぢや、こんなつまんねえこたあ滅多めつたありあんせんかんね、それに書付かきつけだつてどうしてえゝんだかわかんねえし」かれたゞいかめしくえる警察官けいさつくわんおそろしくてどうしてもあしすゝまないのである。
「そりや書付かきつけなんぞは、旦那だんないてるから心配しんぱいにやらないがね」内儀かみさんはやうや近所きんじよもの一人ひとりいてくやうにしてるといふことにしたので被害者ひがいしやおもつてることにつた。彼等かれらかへつたとき反對あべこべ威勢ゐせいがよかつた。
「どうしたつけね」かれて
ひげのかうえた部長ぶちやうさんだつていふ可怖おつかねひとでがしたがね、ぬすまつたなんてとゞけしてゝさうして警察けいさつ餘計よけい手間てまけて不埓ふらちやつだなんて呶鳴どならつたときにやどうすべかとおもつて、そんぢや書付かきつけつてけえりますべつてふべかとおもひあんしたつけ、さうしたらしばら書付かきつけてたつけがこれれがいたつてくから、わしはう旦那だんなでがすつてつたら、さうかそんぢやよし/\けえれなんていふもんだからほつといきつきあんした、おこりちたやうでさあはあ、そんだからわしなんぼにもあゝいところへはんなで」
 かれ少時しばしあひだいて
「そんだが、旦那だんなはたいしたもんでがすね、旦那だんないたんだつてつたらなあ」とかれさらいてつた近所きんじよものかへりみていつた。
 事件じけん如此かくのごとくにして一けんめうしかもつと普通ふつう方法はうはふんで終局しうきよくげられた。被害者ひがいしや損害そんがいたいする賠償ばいしやうわづかであるとはいひながら一主人しゆじんからてそれが被害者ひがいしやわたされた。
「わしもれからはけつして他人たにんものちりぽんでもりませんからどうぞ」
 と勘次かんじ有繋さすがいた。かれはまだおしなんだとし小作米こさくまいとゞこほりもはらつてはないし、加之それのみでなく卯平うへいからゆづられた借財しやくざいのこりもちつともきまりがついていのにまた今度こんど間違まちがひからわづかながらあらた負擔ふたんくははつたのである。かれ懸命けんめい勞働らうどうきうばいしていちじるしくひとつた。
 ある主人しゆじん内儀かみさんは偶然ひよつとした機會はづみがあつて勘次かんじはなしをした。
「あれでなか/\おつぎにもおどろいたもんだね」内儀かみさんはいつた。
「はあどうかあんしたんべか、お内儀かみさん」勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてかつつらいやなことでもいひされるかとあんずるやうにづ/\いつた。
「どうしたつていふんぢやないが、あひだばんのことをつてるかね」
なんでがせうね、お内儀かみさん」
夜中よなかにあの蜀黍もろこしらせたことだがね、じつはあのときはね、警察けいさつはうはなければおまへらないと何處どこまでもいはしていて、さうして旦那だんなかへつてからのこととおもつたもんだから、それにやおまへ白状はくじようしてしまつてもこまるし、自分じぶんはたけがそつくりしてても不味まづいからね、それもいまつちやなにもそんなことなくつてもかつたやうなものだが、ときわたしもどうかしてとおもつてね、それだがおつぎが度胸どきようのあるのぢやわたし喫驚びつくりしたよ」内儀かみさんはいつた。
「へえわしもおつうにきあんした、かまちやうえねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀かみさんいふからつたんだなんて、そんでもかまさゝなかりあんしたつけや」
「さうかい、どんなかまだかおつぎは心配しんぱいしてたからね」
「なあにはあ、つちやつたかまだからしかあねえんですがね」
「おつぎのことはそんなことでは無闇むやみおこらないやうにしなよ、面倒めんだうてね」
「それからわしもお内儀かみさん、うしてひとり辛抱しんばうしてんでがすが、わしかゝあときにや子奴等こめらこたあ心配しんぺえしたんでがすかんね、それからわしもおつうがきてえつちもんだからおはりにもりあんすしね、たすきなんぞもほしい/\つちもんだからわしてえな貧乏人びんばふにんにや餘計よけいなもんぢやありあんすがあけえのつてつたんでがさ、これさうだことしてお内儀かみさんとこへも小作こさくさがりつてねえでまねえんですが、かゝあ單衣物ひてえものしちえてたのしてつたんでがすがね、はたけへなんぞんのにやあんまものなんだが、それ一めえりだからわしもかまあねえでてんのせ、そんだがお内儀かみさん奇態きたえよごしあんせんかんね」勘次かんじ最後さいごの一ちかられていつた。
「さうだよ、さうしてればはげみがちがふからね」内儀かみさんはいつてまた
「おつぎもはたらけるやうにつたね、それだがあひだのやうなところるとんだおしなうつつたかとおもふやうさね」
「わしもはあ、あれがこたあ魂消たまげてつことあんでがすがね」
「さういつちやなんだがおしな隨分ずゐぶんまへぢや意地いぢいて苦勞くらうしたこともるからね」
「へえ、わしやはあ可怖おつかなくつてやうねえんですから、わしらんねえところへはかゝあばかりえ/\たんでがすから」
「さうだつけねえ」内儀かみさんは微笑びせうして
「おつぎは心持こゝろもちまでおふくろはうだね、おまへあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、153-2]だがおつたはあゝいふ性質たちなのに一つはらからてもちがふもんだね」
「わしあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、153-4]はお内儀かみさん、ろくでなしですかんね」かれぢてさうして自分じぶん庇護かばふやうにあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、153-4]といふのを卑下くさしてひがんだやうな苦笑くせうあへてした。
「おつたはいま何處どこるね」
しもほうあんすがね、わしは往來いきゝなしでさ、同胞きやうでえだたあおもはねえからつてわしことわつたんでがすから、わしかゝあんだときだつてもしねえんですかんね、お内儀かみさんさうえもなりあんすめえね」
「さうだつけかね」
「わしや、あね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、153-11]にや到頭たうとう小作こさくつてくべとおもつてたの一ぺうぺてんにけられたことあんですから、自分じぶんのが始末しまつすればすぐけえすからつてつてつてそれつりなんでさ、わしかゝあきてるころなもんだから、かゝあとろつぴ催促せえそくき/\したんだが、くつちやらんねえからつて喧嘩けんくわかけるつちんだからかゝあ忌々敷えめえがしがつてたがさき不法ふはふなんだから駄目だめでさね、それどこぢやねえ、盲目めくらつた自分じぶん餓鬼がきぜにせえだましてはたくんだから」
盲目めくらといふのはどうしたんだねそれは」
野田のだ醤油屋奉公しやうゆやばうこうつてゝあんまめしぎたの原因もとたなんていふんですが、廿位はたちぐれえつぶれつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄うつちやつて夜遁よにてえせまるで、自分じぶん村落むらにだつてらんなくつたんでがすから」
「さういふことがねえ、出來できたもんだね、自分じぶん本當ほんたうをねえまあ、おつたはひどいといふことはいちやたがねえ」内儀かみさんはおどろいた容子ようすでいつた。
「そんだがお内儀かみさんその盲目めぐら奇態きたえで、麥搗むぎつきでも米搗こめつきでも畑耕はたけうねえでもなんでも百姓仕事ひやくしやうしごとんでさ、うすあかりにやえんだなんていふんだがそんでも奇態きたえなのせどうも、そんでてえもんだから他人ひとにも面倒めんどうられてくれえだからぜにつてんでさ、さうしたら何處どこいたかだましてれてつてね、えゝわしらあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、154-10]せお内儀かみさん」かれそばだてた。
盲目めくら有繋まさかふくろだから畸形かたわつちや他人ひととこなんぞよりやえゝとおもつたんでがせうね、さうしたらお内儀かみさん盲目めくらぜにはたいつちやつたらまた打棄うつちやつて、いてちやでえはなしなのせ本當ほんたうに、そんときにや盲目めくらもわしがとこきついてて、わしもはあ、二十先はたちさきにもつていくらなんだつてだまさつるなんて盲目めくらことも忌々敷えめえましいやうでがしたが、わしもときかゝあなれた當座たうざなもんだからさう薄情はくじやうなことも出來できねえとおもつて、そんでも一ばんめて、わしもこまつちやたがこく[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、154-15]もちつたあつたのせ、わしやお内儀かみさんかゝあおつころしてからつちものは乞食こじきげだつて手攫てづかみでものしたこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあことわつてくんでがすから、わしやお内儀かみさんだけ心掛こゝろがけてんでがすよ」勘次かんじ内儀かみさんの心裡こゝろ伏在ふくざいして何物なにものかをもとめるやうな態度たいどでいつた。
「さうだともさね、さういふ心掛こゝろがけさへすりやけつして間違まちがひはないからね」内儀かみさんはいつてさら以前いぜんからのはなしいくらかまれてるやうで
「そりやさうとその盲目めくらはどうしたね」
村落むらあんさ、何處どこつちつたつて場所ばしよはねえんですから、なあにひとりでせえありやけえつてふところはえゝんでがすから」
「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次ひこじはどうしたんだね、わたしもおつたのことはしばらまへたつきりだが」
「お内儀かみさん、夫婦ふうふそろつてなくつちやれるもんぢやありあんせんぞ、親爺おやぢだつてお内儀かみさん自分じぶんあま女郎ぢよらうつて百五十りやうとかだつていひあんしたつけがそれけえりに軍鷄喧嘩しやもげんくわかゝつて、七十りやうられてたつちんでがすからはなしにやんねえですよ、そつからわしや※等夫婦あねらふうふ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、155-13]のこたあ大嫌だえきれえなんでさあ」
本當ほんたうとはおもへないやうなことだね」
「お内儀かみさん本當ほんたうですともね、わしあちくなんざママ内儀かみげいひあんせんから」
「そりや本當ほんたうにや相違さうゐないだらうがね」
「そんだがお内儀かみさん、そのあますぐげてつちめえあんしたね、いまぢやなんとかつてだらかまあねえさうでがすね」
わたしもそんなことはらないが、新聞しんぶんさわぎはあつたやうだつけね」内儀かみさんは何處どこかさういふはなしにはのらぬやうで
「おつたもところぢや體裁ていさいがよくてね」
「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭たうとうこめぺうそんさせられちやつて」勘次かんじはそれをいふたびさう容子ようすえるのである。
「さういつちやおまへあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、156-10]のことわるくばかりいふやうだが、しうと鬼怒川きぬがはちてんだなんて大騷おほさわぎしたことがつたつけねえ」
「さうでさ、ぽどりあんすがね、ありや鬼怒川きぬがはのみはたくつてつてそれつりにつちやつたのせ」
彦次ひこじ實子じつしなんだね」
「えゝ、しばら不自由ふじいうべつちひさくつくつて隱居いんきよしてたんですが、のみ容子ようすなんでがすね、一なんざあはたけそばたてえたら其處そことほつたひとみんなぞよ/\あがられてでえつたちんですから、そんで其處そこらでたてえちややうねえからなんてはれたんでがせうね、それからなんでもござつて鬼怒川きぬがはつもりつたんでがすね、鬼怒川きぬがはまでは有繋まさがぽどありあんさね、あしもとが本當ほんたうぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當ほんたう飽氣あつけねえはなしで、それお内儀かみさんわしあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、157-5]他人ひと死骸しげえ見付めつけて大騷おほさわぎしてらせにたら、すぐはあ死人しにん衣物きものから始末しまつしてかゝつたつちんですから」
自分じぶんつてしまつもりなんだね」
兄弟等きやうでえらけてなんざあんねえつむりなんでさね」
衣物きものだつていくらもいんだらうがね、それにまあどうしてかはへなんて※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなとほくへござばかりつてね、くうちにやのみもみんなんでしまふだらうがね、まあさういのもめぐあはせだね」
「はあ耄碌まうろくしてたんでがすから、あんまり耄碌まうろくしちやがられあんすかんね」
いやがられるつておまへそんなものぢやないよ、しうとだもの、婿むこだのむすめだのといふものは餘計よけいをつけなくちやらないものなんだね」内儀かみさんはたしなめるやうにいつた。
「そりやさうですがね、お内儀かみさん」勘次かんじなんだが隱事いんじでもあばかれたやうにあわてゝいつてさうして苦笑くせうした。
「おつたは本當ほんたうしうとくしなかつたさうだな、自分等じぶんらはう※(「滔」の「さんずい」に代えて「飮のへん」、第4水準2-92-68)あんへは砂糖さたうれてもしうとはうへは砂糖さたうれなかつたなんてしばらまへいたつけが」内儀かみさんはひとり低聲こごゑにいつた。
「どうでがしたかねそれは」勘次かんじ先刻さつき容子ようすとはちがつて、にはか庇護かばひでもするやうな態度たいどでいつた。
「そんなになくつたつていくらもきやしない老人としよりのことをな」内儀かみさんはつくづくまたいつた。勘次かんじ餘計よけいしをれた。
勘次かんじぜに自分じぶんからわかすやうにして辛抱しんばうしてりやつらいことばかりいから、なんでも人間にんげん子供次第こどもしだいだよ、あと厄介やくかいらなくちやらないんだから子供こども面倒めんだうないな間違まちがひだよ」内儀かみさんははげますやうにさうしてしんみりといつた。しばらはなし途切とぎれたとき勘次かんじ突然とつぜん
「お内儀かみさんへんなことくやうでがすがおびにする布片きれはどのくれえつたらえゝもんでがせうね」といた。
「おつぎにでもめさせるのかい」
「へえ、いまのがふるくつてだなんて強請ねだれんで、何時いつでもわしおこるんでがすが、お内儀かみさんとこへも不義理ふぎりばかりしてそんなところぢやねえつてつてかせても、みんなあけえのめてるもんだからしくつてやうねえんでさ」
「さうだね、おびはまあ一ぢやうつていふんだが、其處そこらのめるのは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなものだかさね」
「わしらおつうはそれ四しやくもあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀かみさんにでもかねえぢやわかんねえとおもつて」
「さうさ成程なるほどそとところだければいんだから、それにや四しやくもあつたら澤山たくさんだね、うこつちばかりければね」内儀かみさんは自分じぶんおびてゝていつた。
「それお内儀かみさん、兩方りやうはうけんだつてういにしばつてなかへたぐめたはじあかくなくつちやつともねえつてね、そんなところどうでもよかんべとおもふんだが、もつと其處そこは一しやくでえゝなんていふんでさ」
成程なるほどね、私等わたしらいままでさういふことにやかなかつたが、むす仕事しごとするんだから※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなおほきくなくつたつてかまはないし、四しやくすんもあればまるあたらしいやうにえるんだね」
「そんでお内儀かみさん、どのくれえしたもんでがせうねぜには、たんとんぢやはあやうねえが」勘次かんじあやぶむやうにいつた。
いくらもしないね、だけぢや」
「そんでも大凡おほよそまあどのくれえしたもんでがせうね」勘次かんじまた反覆くりかへしてうながした。
唐縮緬たうちりめん近頃ちかごろぢややすくなつたから一しやく十二三錢位せんぐらゐのものかね、上等じやうとうで十四五せんしかしないだらうね」
「さうでがすか、わしやまた大變たいへんんだとばかしおもつてあんした」
「それも反物たんものつてるのをらしてさうだよ、それからもつとやすくも出來できるのさ、むらみせなんぞぢやぜにばかりとつてしらみもぐさうなのでね」内儀かみさんは微笑びせうした。
「さういふみじかいのは端布片はしぎれふにかぎるのさ、いくらにもつかないもんだよ、わたし近頃ちかごろついでもあるからつてつてもいよ」
「さうですか、そんぢやお内儀かみさんどうかさうしておくんなせえ、お内儀かみさんにもれえせえすりや大丈夫だえぢようぶでがすから、なあにあかくせえありや※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなんでもかまあねえんでがすがね」
「一にちまへ日傭ひようさへすりやそれだけしまふから、しいといふものならこしらへてるがいよ、そりやしいはずさおつぎもければ十八にるんだつけね」内儀かみさんは同情どうじやうしていつた。
「わしにおこらつるもんだからかげでぐず/\つてこまんでさ」勘次かんじさら
「そんぢやまあかつた、わしそんなこたあちつともわかんねえから、それからはあお内儀かみさんにいてんべとおもつてたのせ」といつて何處どことなくそわ/\とよろこばしさをきんないものゝごとくである。
をんなれでかざりだから他人ひとにもられるからね」内儀かみさんはねんごろにいつた。
「わし自分じぶんぢや※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな襤褸ぼろだつてかまあねえがれであまにやねえ、わしもこんでお内儀かみさんにまでにや心配しんぺえしあんしたよ」勘次かんじわづかおびのことがおほきな事件じけん解決かいけつでもあたへられたやうにこゝろそこからいきほひづいて内儀かみさんのまへ感謝かんしやした。

         一一

 勘次かんじきはめてせま周圍しうゐいうしてる。しかかれせたちひさな體躯からだは、せま周圍しうゐ反撥はんぱつしてるやうな關係くわんけい自然しぜん成立なりたつてる。かれけつして他人たにん爭鬪さうとうおこしたためしもなく、むしきはめて平穩へいをん態度たいどたもつてる。たゞ彼等かれらのやうなまづしい生活せいくわつもの相互さうご猜忌さいぎ嫉妬しつととのそばだてゝる。勘次かんじ異常いじやう勞働らうどうによつて報酬はうしうようとする一ぱうに一せんいへど容易よういふところげんじまいとのみ心懸こゝろがけてる。彼等かれらのやうなひく階級かいきふあひだでも相互さうご交誼かうぎすこしでもやぶらないやうにするのには、其處そこにはかならそれたいして金錢きんせん若干じやくかん犧牲ぎせいきようされねばならぬ。絶對ぜつたいその犧牲ぎせいをしむものは憎惡ぞうをふにいたらないまでも、相互さうごあひだ疎略そりやくにならねばならぬ。しか※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことは勘次かんじくるしめてのさもしいこゝろあるもの挽囘ばんくわいさせるちからいうしてないのみでなく、ほとんどなんひゞきをもかれこゝろつたふるものではない。かれたゞ/\の生活せいくわつ自分じぶんこゝろいくらでも餘裕よゆうあたへてれればとのみ焦慮あせつてるのである。かれこゝろ滿足まんぞくせしめる程度ていどは、たとへば目前もくぜんひくたけ垣根かきね破壤はくわいして一あしその域内ゐきないあとつけるだけのことにぎないのである。しかたけ垣根かきねちてる。ちたひくたけ垣根かきねつよ筋力きんりよくもつ破壤はくわいするになん造作ざうさもないはずであるが、先端せんたんれしめることさへ出來できないでるのである。かれなが時間じかん氷雪ひようせつあひだわたつたのち、一ぱいつめたい釣瓶つるべみづそゝぐことによつてこゝよよい暖氣だんきあかつたあしかんずるやうに、僅少きんせうあるものかれ顏面がんめんひがんだすぢのべるに十ぶんであるのに、かれ冷水れいすゐの一ぱいをさへむなしくもとめつゝあつたのである。自然しぜんかたちづくられて階級かいきふ相違さうゐいうしてものまたながあひだかれ生活せいくわつ内情ないじやう知悉ちしつしてものからはかれ同情どうじやうまなこもつられてるけれども、こせ/\とした態度たいどと、狐疑こぎしてるやうなその容貌ようばうとは其處そこあへ憎惡ぞうをすべき何物なにもの存在そんざいしてないにしても到底たうてい彼等かれら伴侶なかますべてと融和ゆうわさるべき所以ゆゑんのものではない。かれ彼等かれら伴侶なかまつては、幾度いくたびかいひふらされてごとみづおとした菜種油なたねあぶらの一てきである。みづうごときあぶらしたがつてうごかねばらぬ。みづかたむときあぶらまたかたむかねばらぬ。しかみづ平靜へいせいたもときあぶらさらおそれたやうに一しよ凝集ぎようしふする。兩者りやうしやあひだには何等なんら性質せいしつ變化へんくわせしむべき作用さようおこるでもなく、れはみづあぶら疎外そぐわいするのか、あぶらみづ反撥はんぱつするのかつひ機會きくわいいのである。これ攪亂かうらんするちからくはへられねば兩者りやうしやたゞ平靜へいせいである。村落むら空氣くうき平靜へいせいであるごとく、勘次かんじすべてとのあひだきはめて平靜へいせいでそれであひいれないのである。勘次かんじ菜種油なたねあぶらのやうに櫟林くぬぎばやしあひせつしつゝ村落むら西端せいたん僻在へきざいして親子おやこにんたゞ凝結ぎようけつしたやうな状態じやうたいたもつて落付おちついるのである。
 偶然ぐうぜんおこつたかれ破廉耻はれんち行爲かうゐにはか村落むら耳目じもく聳動しようどうしても、にもかくにも一處理しよりしてかねばならぬすべてのものは、彼等かれら共通きようつうきたがりりたがる性情せいじやうられつゝも、むし地味ぢみ移氣うつりぎこゝろ際限さいげんもなくひとつをふには年齡ねんれいあまり彼等かれら冷靜れいせい方向はうかうかたむかしめてる。それでなくてもりたがりきたがる性情せいじやう刺戟しげきすべきことは些細ささいであるとはいひながらあひつい彼等かれらみゝきこえるので勘次かんじのみが問題もんだいではくなるのである。しかしながらわかしゆしようする青年せいねんの一勘次かんじいへ不斷ふだん注目ちうもくおこたらない。れはおつぎの姿すがたわすることが出來できないからである。苟且かりそめにも血液けつえき循環じゆんくわん彼等かれら肉體にくたい停止ていしされないかぎりは、一たんこゝろうつつたをんな容姿かたち各自かくじむねから消滅せうめつさせることは不可能ふかのうでなければならぬ。しか彼等かれらは一ぱういうして矛盾むじゆんした羞耻しうちねんせいせられてえるやうな心情しんじやうからひそか果敢はかないひかりしゆとしてむかつてそゝぐのである。
 彼等かれら世界せかいである。
 熟練じゆくれん漁師れふし大洋たいやうなみまかせてこべりからなはいだつぼしづめる。なはさぐつてしづめたあか土燒どやきつぼふたゝこべりきつけられるとき其處そこには凝然ぢつとしてたこあしいぼもつ内側うちがはひついてる。うして漁師れふし烱眼けいがんもつ獲物えものあやまたぬみちなみあひだきはめてるのである。わづか村落むらうち毎日まいにちすべてのじゆくしてをんな所在ありかねらふことは、蛸壺たこつぼしづめるやうな※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなむしろあてどもないものではない。陰翳かげとしてれぬふゆにはねらうてある彼等かれら自分じぶん羞耻心しうちしんあたまから褞袍どてらおほうてる。みじかころでも、あさねむたさが覿面てきめん自分じぶんたしなめるにもかゝはらずうそ/\とあるいてねばくさふるぼけた蚊帳かやなかあきらめてそのよこたへることが出來できないのである。彼等かれらをんな所在ありかねらふのはきはめて容易よういなもののやうではありながら蛸壺たこつぼすこしのさまたげもなくしづめられるやうではなく、父母ふぼやみにさへひかりはなつてをんな彼等かれらから遮斷しやだんしようとしてる。彼等かれらはそれでひかりおよ範圍内はんゐないには自分じぶんあらはさないで目的もくてきげようと苦心くしんする。たとへれば彼等かれらせばいとはいひながらはねてはせぬほりへだてゝ、かも繁茂はんもした野茨のばら川楊かはやなぎぼつしつゝをんなやはらかいらうとするのである。れは到底たうていあひれることさへ不可能ふかのうである。焦燥あせつてほりえようとしては野茨のばらとげ肌膚はだきずつけたり、どろ衣物きものよごしたりにが失敗しつぱいあぢめねばならぬ。ゆゑ彼等かれら隱約いんやくあひだ巧妙かうめう手段しゆだんほどこさうとして其處そこ工夫くふうこらされるのである。
 すで漁師れふし生命せいめいにぎられてたこちからきはめてつぼ内側うちがは緊着きんちやくすれば※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなつよちからふくろのやうなあたまつてかうとも、へび身體からだの一あな※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さうにうしたやうに拗切ちぎれるまでもはなれない。刄物はものもつつあしてもどう一である。蛸壺たこつぼそこにはかならちひさなあな穿うがたれてある。しりからふつといきけるとたこおどろいてするとつぼからげる。それでも猶旦やつぱりだまされぬときちひさなあなから熱湯ねつたうをぽつちりとしりそゝげばたこかならあわてゝ漁師れふしまへをどす。あつい一てきによつて容易よういたこだまされるのである。假令たとひ監視かんしから※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれてをんな接近せつきんしたとしても、んだをんなじやうこはければ蛸壺たこつぼたこだまされるやうにころりとおと工夫くふうのつくまではをとこ忍耐にんたいむし危險きけんとをあわせてしのがねばらぬ。さうしてわづかあひせつした兩性りやうせいこゝろからあひときあひたがひすべてにたいして恐怖きようふねんいだきはじめるのである。
 そら夕日ゆふひひかり西にしそこふかとざしてしまつて、うすよひひくおほうていたつたときをんな井戸端ゐどばた愉快ゆくわいうたひながら一しゆ調子てうしつたうごかしやうをしてこめぐ。をんな研桶とぎをけうたとの二つのこゑ錯綜さくそうしつゝあるあひだにも木陰こかげたゝずをとこのけはひをさとほどみゝ神經しんけい興奮こうふんしてる。れがすゞしいなつをんなをとこときには毎日まいにちあせよごやすいさうしてかざりでなければらぬ手拭てぬぐひ洗濯せんたくひまどるのである。には木陰こかげけてしんみりとたがひむね反覆くりかへとき繁茂はんもした※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきくり彼等かれらゆゐ一の味方みかた月夜つきよでさへふか陰翳かげ安全あんぜん彼等かれらつゝむ。そらえたつき放棄はうきしてある手水盥てうづだらひのぞいてはひやゝかにわらうてる。彼等かれらあまりにひまどつてればつきはこつそりとくびかたむけてあひだからのぞいてる。れでもなほ彼等かれら屈託くつたくしてれば、彼等かれら庇護ひごして※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきであればこずゑからまだあをげて、瞬間しゆんかんおどろやす彼等かれらあざむかれて、彼等かれら伴侶なかま惡戯あくぎであるかをうたがうてはあわてゝ周圍しうゐとき繁茂はんもしたおほきなすゞしいかぜにさや/\と微笑びせうする。彼等かれらはかうしていへうちからこゑてゝはげしくばれるまではおそれ/\も際限さいげんのないはなしふけるのである。
 彼等かれらがさういふ苦辛くしんあひだつぎ身體からだつかれを犧牲ぎせいにしてまでもわづか時間じかんあひたいしてながらたがひかほることが出來できないでひくころしたこゑにのみ滿足まんぞくするほかに、彼等かれらはやしなかはなたれたときおもおもはぬすべてが只管ひたすらあまあぢむさぼるのである。はやし彼等かれら天地てんちである。落葉おちばくとて熊手くまでれるとき彼等かれらあひともなうて自在じざい※(「彳+尚」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよふことが默託もくきよされてある。しか熊手くまでつめすみやかに木陰こかげつちあとつける運動うんどうさへ一は一みじかきざんでやうふゆ季節きせつあまりにつめたく彼等かれらこゝろめてる。
 いたところはたけ玉蜀黍たうもろこしあひだからもさ/\とあかいて、おほきながざわ/\とひとこゝろさわがすやうると、男女なんによむれ霖雨りんうあと繁茂はんもしたはやし下草したぐさぎすました草刈鎌くさかりがまれる。はじめあさまだきにうままぐさの一かごるにすぎないけれど、くやうなのもとにはたやうやきまりがついて村落むらすべてがみな草刈くさかりこゝろそゝやうれば、わか同志どうしあひさそうてはとほはやし小徑こみちわけく。さうして自分じぶん天地てんちそのはねを一ぱいひろげる。何處どこてもたゞふかみどりとざされたはやしなか彼等かれらうたこゑつてたがひ所在ありかつたりらせたりする。彼等かれらのしをらしいものはそれでも午前ごぜん幾時間いくじかん懸命けんめいはたらいてちゝなるものゝ小言こごとかぬまでにうまやそばくさんでは、午後ごご幾時間いくじかん勝手かつてつひやさうとする。一でもしめやかにかたうた兩性りやうせい邂逅であへば彼等かれらは一さいわすれて、それでも有繋さすが人目ひとめをのみはいとうて小徑こみちから一あひだける。繁茂はんもした青草あをぐさそばひとにもられぬやうかゞんだ彼等かれらいくらでもおほかくす。彼等かれらきまつたなんはなしつてないのにこゝろよくつめたいつちすわつて、つひにはにしたかま刄先はさきすこしづゝつちをほじくりつゝをんなしろ手拭てぬぐひはし微動びどうさせては俯伏つゝぷしなから微笑びせうしながら際限さいげんもなく其處そこ凝然ぢつとしてようとする。りつけるやう油蝉あぶらぜみこゑ彼等かれらこゝろゆるがしてははなのつまつたやうなみん/\ぜみこゑこゝろとろかさうとする。藪蚊やぶか彼等かれらけたあかあしはりして、しりがたはら胡頽子ぐみやううてふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきあたへられたときあわてゝはたとたゝくのみでげようともらぬかほである。あつくさいきれであせびつしりにつて彼等かれら身體からだ時刻じこくぎたとえだあひだからつよひかり投掛なげかけてうながまでは、まれにはしびれたあし投出なげだしてきもかせもしなくてはなし反覆はんぷくしてのみるのである。彼等かれらうして時間じかんむなしくつひやしてはとほちかひぐらしこゑが一せいいそがしく各自かくじみゝさわがして、おほきなしやおほうたかとおもやううす陰翳かげ世間せけんつゝむと彼等かれらあわてゝみな家路いへぢく。どうかしてあまりにおくれるとから草刈籠くさかりかごさかしま脊負せおつて、あるけばざわ/\とやうに、おほきなかごなら雜木ざふきえだ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して黄昏たそがれにははこんで刈積かりつんだ青草あをくさちかかごおろす。ちゝなるものは蚊柱かばしらたつてるうまやそばでぶる/\とたてがみゆるがしながら、ぱさり/\としりあたりたゝいてうままぐさあたへてる。はゝなるものはあをけぶり滿みちかまどまへつてはうづくまりつゝ、燈火ともしびける餘裕よゆうもなくをぶつ/\とつてる。うしていそがしさになら雜木ざふきえだあざむいた手段しゆだん發見はつけんされないのである。うしろめたいをんなだまつてなによりもから手桶てをけつて井戸端ゐどばたけてつてはざあとみづんでそれからしるでもれてなければあわたゞしくとん/\と庖丁はうちやうひゞきてゝ、すこしづゝでもはゝなるものゝ小言こごとからのがれようとする。せまには垣根かきね黄色きいろてふいくつもとまつてしきりにはねうごかしてるやうに一つ/\にひらり/\とひらいては夜目よめにもほつかりとにほうて月見草つきみさう自分等じぶんらよるたと、あるいてをんなたいしてなつかさう※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるのである。彼等かれらあるものさらよるねむりにまへ戸口とぐちちか蚊帳かやすそにくるまつてはひそか雨戸あまどそとおとづるゝをとこたうとさへするのである。をとこ雨戸あまどけてしのときつきてさへ躊躇ちうちよせぬ。かれはそれでもた々みうへひかりいとうてひさしちかむしろる。ゆがんだがぎし/\とるのにそれが彼等かれら西瓜すゐくわうりはたけおそころであれば道端みちばた草村くさむらから轡蟲くつわむしつてつて雨戸あまど隙間すきまからはなつ。轡蟲くつわむしくらいなかへはなたれゝば、たゞちこゑそろへてく。土地とちれが一ぱんにがしや/\といふ名稱めいしようあたへられてるだけやかましくたゞがしや/\とく。がしや/\がせば彼等かれらやすんじて雨戸あまどをこじるのである。それからまたはこころがしたやうな、へだての障子しやうじさへちひさないへをんなをとこみちびくとて、如何どうしても父母ちゝはゝ枕元まくらもとぎねばらぬときは、めばぎし/\と床板ゆかいた二人ふたり足音あしおとはゞかつてをんなやみをとこ脊負せおふのである。其處そこには假令たとへ重量ぢゆうりやうくはへられても、それはたくみつかれてねむ父母ちゝはゝみゝあざむくのである。
 一ぱん子女しぢよ境涯きやうがい如此かくのごとくにしてまれにはいたしかられることもあつてそのときのみはしをれても明日あすたちま以前いぜんかへつてその性情せいじやうまゝすゝんでかへりみぬ。おつぎは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんな伴侶なかまと一にちでも一つにそのはなたれたことがないのである。
 勘次かんじ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんな八釜敷やかましくおつぎをおさへてもおつぎがそれでせいせられても、勘次かんじむら若者わかものがおつぎにおもひけることに掣肘せいちうくはへるちからをもいうしてらぬ。すべての村落むら若者わかものをんなねらはうとするとき隨分ずゐぶん執念しふねれは丁度ちやうどへばたちまちにげるとりがどうかしてせま戸口とぐちひらいてある※倉こくぐら[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、169-5]この餌料ゑさ見出みいだして這入はひらうとするときせま戸口とぐちるゝにりなければいたづらにくび※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んでは足掻あがいて/\さうしてほかつてしまふ。れが一斷念だんねんすればまでであるけれど、二度ふたたび三度みたび戸口とぐちつて足掻あがはじめれば、つてはきたり、つてはきたり、首筋くびすぢかはけて戸口とぐちしたゝあといんしても執念しふね餌料ゑさもとめてまぬやうなかたちでなければならぬ。各自かくじこゝろにおつぎをほどふかおもはうともそれは各自かくじいうする權能けんのうぞくしてる。しかしながらおつぎへくはへようとするその極端きよくたん防遏ばうあつしようとすることも勘次かんじいうする權能けんのうである。相互さうご權能けんのうえて領域りやうゐきをかとき其處そこにはかなら葛藤かつとうともなはれるはずでなければらぬ。若者わかものあひあつまればみな不平ふへいじやうかたうて、勝手かつて勘次かんじ邪魔じやまなこそつぱいものにしてた。そのくせ彼等かれらみなたがひ自分じぶんひとりのみがおつぎをようとしておよばぬばしてるのである。まん目的もくてきげられたことがつたとしてもれはたゞにんかぎられてて、爾餘じよ幾人いくにんむなしくしかきはめてかる不快ふくわい嫉妬しつととから口々くちぐちそのにんむかつて厭味いやみをいうてまねばらぬ。しかしながらつひそのにん彼等かれらあひだ發見はつけんされなかつた。彼等かれら怨恨うらみすべ勘次かんじの一しんあつまつた。それでも淡白たんぱく彼等かれら怨恨うらみは三にん以上いじやうあつまつてくちひらけばかなら笑聲せうせいたぬほどのものであつた。怨恨うらみといふよりも焦燥じれつたさであつた。おつぎの身體からだにはうして事件じけんおこすべき機會きくわいあたへられなかつた。それでもたつた一人ひとりおつぎとつてかたることにまでちかづきたものがあつた。勘次かんじはどれほど嚴重げんぢうにしてもおつぎがかはやかよ時間じかんをさへせまにはなかはなつことをこばむことは出來できなかつた。執念深しふねんぶかい一にん偶然ぐうぜんさういふ機會きくわい發見はつけんした。かれは、まだ羞恥はぢ恐怖おそれとが全身ぜんしん支配しはいしてるおつぎをとらへてたゞ凝然ぢつうごかさないまでには幾度いくたびかへ苦心くしんした。勘次かんじうちからんでもかはやそば返辭へんじをするおつぎのこゑ最初さいしよあひだ疑念ぎねんいだかせるまでにはいたらなかつた。れでも彼等かれらこゝろふかたがひじやうきざむまで猜忌さいぎ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつて勘次かんじあざむきおほせることは出來できなかつた。
 あるばん勘次かんじはがらつとけてた。はげしくけたやゝけたしきゐみぞはづれようとしてぎつしりと固着こちやくした。かれ苛立いらだつてたゝいてみぞふくすとまゝした。かれすぐ自分じぶんちか手拭てぬぐひかぶつたおつぎの姿すがたおもむろにうごいてるのをた。それ同時どうじひそか草履ざうりおと勘次かんじみゝひゞいた。かれそれみゝかんずる瞬間しゆんかんみぎ壁際かべぎはかゝつて、かれちからぱい木陰こかげやみとうぜられた。はどさりととほちてにはつちをさくつて餘勢よせい幾度いくどかもんどりをつた。勘次かんじつゞいてなげうつた。曲者くせものすでちたけれどかれ不意ふい襲撃しふげきあわてゝふしくれつた※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきつまづいてたふれた。かれつきあしひきずらねばあるけぬほど足首あしくび關節くわんせつ疼痛とうつうかんじたのであつた。勘次かんじはぽつさりとつてるおつぎをきのめすやう戸口とぐちおくつてがらりとぢて掛金かけがねけた。
 そのはまだおの/\が一つくははつた年齡ねんれいかずほど熬豆いりまめかじつておにをやらうたから、いくらもへだたらないので、鹽鰮しほいわしあたまとも戸口とぐち※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)したひゝらぎ一向いつかうかわいた容子やうすえないほどのことであつた。おつぎは十八じふはちというても年齡としたつしたといふばかりで、んな場合ばあひたくみつくらふといふ料簡れうけんさへ苟且かりそめにもつてないほどめんおいてはにごりのない可憐かれん少女せうぢよであつた。おつぎはしをれてたゞぽつさりとつてる。勘次かんじ薄闇うすくらランプにひかつた。
「おつう」と一せい呶鳴どなつてじやうげきした勘次かんじ咄嗟とつさつぎことばせなかつた。
なにしてけつかつたんだ」勘次かんじはおつぎをにらみつけた。おつぎは俯向うつむいてだまつてる。
「さあつてろ、ちくつたつてつてつゝお」勘次かんじなほはげしくたずねた。
りや何時いつでもなんちつた、おとつゝあげはけつして心配しんぺえけねえからつてつたんぢやねえか、そんでもりや心配しんぺえけねえのか、けねえつちんだらつてろ」かれ忌々敷相いま/\しさうやいばもつ心部むねとほされるくるしさをしのんだかとおもふやうな容子ようすでわく/\するむねからこゑしぼつていつた。かれしばらあひだいてはまたんで/\噛締かみしめてもれぬあるものたいするやうな焦燥じれつたさと、期待きたいしてあるものにはかうばられたやう絶望ぜつばうとが混淆こんかう紛糾ふんきうした自暴自棄やけ態度たいどもつておつぎをめた。かれ擧動きよどうほとん發作的ほつさてきであつた。おつぎのこゑころしてこゑ隙間すきまだらけなそとえ/″\にれた。
 從來これまでとてもおつぎは假令たとひ異性いせいした性情せいじやうやうや發達はつたつしてたとはいひながら、ひそかそのられたときは、あとではむしいるまでも羞恥はぢ恐怖おそれとそれから勘次かんじはゞかることからつてきた抑制よくせいねんとがあわてゝ※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)もきらせるのであつた。れが段々だん/\いやでない誘惑いうわくつてあまあぢわづかかんずる程度ていどまでちかづいた刹那せつなさい破壞はくわいられたのである。おつぎは以前いぜんかへつて恐怖きようふふか沒却ぼつきやくせねばならなくつた。ふか罪惡ざいあく包藏はうざうしてない事件じけんはそれでんだ。勘次かんじ依然やつぱりおつぎにはたゞひとつしか大樹たいじゆかげであつた。しか勘次かんじ自身じしんには如何どん種類しゆるゐものでも現在げんざいかれこゝろあた滿足まんぞく程度ていどは、うしなうたおしな追憶つゐおくすることからける哀愁あいしうの十ぶんの一にもおよばない。かれ最早もはやそれ以上いじやうかれ心裏しんり残存ざんぞんしてものをまでうばられることにはへないのである。かれわづかに三にん家族かぞくあぶらごとみづはじかれても疎外そぐわいされてもたゞ凝結ぎようけつしてることにのみ、假令たとひ慰藉ゐしやされないまでも不安ふあんかんずることなしに/\ときざんでくらしてくことが出來できるのである。かれは一でもおつぎが自分じぶんはなれたことを發見はつけんあるひ意識いしきしては一しゆ嫉妬しつとかんぜずにはられなかつた。かれはさうして悲痛ひつうかんさいなまれた。村落むら若者わかものかれためには仇敵きうてきである。それと同時どうじ若者わかものためにはかれ蝮蛇まむし毒牙どくがごときものでなければらぬ。れでありながら威嚴ゐげん勢力せいりよくもないかれすべての若者わかものからかれ苛立いらだたしめる惡戯いたづらもつむくいられた。青草あをくさなかぼつして毒蛇どくじや直接ちよくせつれようとするものは一にんもないけれど、とほくから土塊どくわいつたり、ぼうさきでつゝいたりいたづらにおこきばふるはせることは彼等かれらこのんでするところであつた。勘次かんじけづつたやうなせたかほ何時いつでもひがんでさうしておこやすいのを彼等かれら嘲笑てうせうまなこもつとほくからのぞくのである。彼等かれらよる垣根かきねそばつてゆびくちくはへてぴゆう/\とはげしくらしてたり、戸口とぐちちかひそか下駄げたあとけていたり、勘次かんじねむりちようとするころ假聲こはいろ使つかつておつぎをんだりした。勘次かんじたびこゝろ苛立いらだつたけれど、きりでもつかやうな、たれ所爲しよゐとも判明はんめいしない惡戯いたづらをどうすることも出來できなかつた。しか表面へうめんあらはれた影響えいきやう惡戯いたづらなが持續ぢぞくしなかつた。
 はるふゆとほくしてまたふゆあひとなりしてる。季節きせつ變化へんくわ反覆くりかへしつゝ月日つきひ容赦ようしやなく推移すゐいした。

         一二

 ふゆひくうてしづんだ。舊暦きうれきくれちかつて婚姻こんいんおほおこなはれる季節きせつた。まち建具師たてぐし店先みせさきゑられた簟笥たんす長持ながもちから疎末そまつ金具かなぐひかるのをるやうにつた。おつぎがかようたはり師匠ししやううちでもよめきまつた。當日たうじつると針子はりこいづれもしまつていた半纏はんてんあかたすきけて、其處そこらの掃除さうぢやら、いも大根だいこんあらふことやらあさから大騷おほさわぎをしてわらひながら手傳てつだひをした。おつぎもつてみんなと一しよはたらいた。おつぎは赤絲大名あかいとだいみやう半纏はんてん萌黄もえぎたすきけてた。針子等はりこら毎年まいねんはるやうやあたゝかくつて百姓ひやくしやう仕事しごといそがしくなるとまたふゆまでひまをとるとて一にちみんなくはつてはたけ仕事しごと手傳てつだひく。ひろくもないはたけのこらずが一くはれるのでおの/\たがひ邪魔じやまりつゝ人數にんずなかば始終しじうくはつゑいてはつてとほくへくばりつゝわらひさゞめく。彼等かれらしろ手拭てぬぐひあつまつてはるかひとほか師匠ししやううち格別かくべつ利益りえきもなく彼等かれら自分等じぶんらのみが一にちたのしくらるのである。れだから彼等かれら婚姻こんいん當日たうじつにも仕事しごと割合わりあひにしてはあまりに多人數たにんずぎるので、ひと仕事しごとあつまつては屈託くつたくない容子ようすをして饒舌しやべるのであつた。
「どうえ嫁樣よめさまだんべな」
をんなだんべえな」
はやればえゝな、てえな」
 彼等かれらはさういふことをすら口々くち/″\反覆くりかへしつゝ密々ひそ/\耳語さゝやいた。
白粉おしろいけてんだな」一ばんとしすくながいつた。
「どうしたもんだえ、白粉おしろいけんだんべかとまあ」年嵩としかさわらつた。
水白粉みづおしろいつてんだかんねえぞ」
たゞみづてえな白粉おしろいんだつてつけぞ」
 彼等かれらはさういふつみのない穿鑿せんさくからそれから
らお給仕きふじなくつちやんねえかんねえが、はづかしくつてだな」
嫁樣よめさままつとはづかしかつぺな」
「そんだが嫁樣よめさま衣物きものどういんだかてえもんだな」半分はんぶんのぞむやうな半分はんぶん氣遺きづかふやうなたがひこゝろかたるのであつた。
 つていた娘等むすめら座敷ざしきはうかれたころ勝手口かつてぐち村落むら若者わかものが五六にんつた。彼等かれら婚姻こんいんには屹度きつときまつたためし饂飩うどんもらひにたのである。ひるあひだ用意よういされた饂飩うどん彼等かれらあたへられた。彼等かれらには饂飩うどんおほきなざると二升樽しようだるとそれから醤油しやうゆ容器いれものである麥酒罎ビールびんとがげられた。垣根かきねそととき彼等かれら假聲こわいろしてどつとはやてゝまたはやした。彼等かれら途次みちみちさわぐことをめないで到頭たうとう村落むら念佛寮ねんぶつれうひきとつた。其處そこにはこれ褞袍どてらはおつた彼等かれら伴侶なかま圍爐裏ゐろり麁朶そだべてあたゝまりながらつてた。念佛衆ねんぶつしゆう使つかつてなべ土瓶どびん茶碗ちやわんたゞごた/\とされてあつた。だいつきのランプは近所きんじよからりてたのであつた。麁朶そだほのほランプにひかりへてた。婚姻こんいん席上せきじやうではさけあとにはながつながるやうといふ縁起えんぎいはうて、ひとつには膳部ぜんぶ簡單かんたんなのとで饂飩うどんもてなすのである。蕎麥そばみじかれるとて何處どこでもいとうた。どんな婚姻こんいんでもそれをわかしゆもらひにく。貧乏びんばふ所帶しよたいであれば彼等かれらいく少量せうりやうでも不足ふそくをいはぬ。しか多少たせう財産ざいさんいうしてると彼等かれらみとめてうちでそれををしめば彼等かれら不平ふへいうつたへてまぬ。どうかするとくら木陰こかげ潜伏せんぷくしてよめくるまちかづいたとき突然とつぜんくるま顛覆てんぷくさせてやれといふやうな威嚇的ゐかくてき暴言ばうげんをすらくことがある。しか從來じゆうらい※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことは滅多めつたになく、別段べつだんみとむべき弊害へいがいともなふのでもないのであつた。それで普通ふつうどのうちでも彼等かれら滿足まんぞく分量ぶんりやう前以まへもつ用意よういしてるのである。
 彼等かれらはさういふ褞袍どてらかぶつて他人たにん裏戸口うらどぐちたねばらぬ必要ひつえう條件でうけんひとつもつてない。たゞ彼等かれらすべてはわらつてなはふべきよるつとめをすて公然こうぜんしよ集合しふがふする機會きくわい見出みいだすことをもとめてる。集合しふがふすることがたゞち彼等かれら娯樂ごらくあたへるからである。兩性りやうせいしか他人たにんりてひとつに婚姻こんいん事實じじつ聯想れんさうすることから彼等かれらこゝろ微妙びめう刺戟しげきされる。彼等かれらすべてはことごと異性いせいまたらんとしてる。彼等かれら他人たにんぬすむのには幾多いくた支障さはり、それはためあひした念慮ねんりよむしかへつさかん永續えいぞくすることすらりながら、當事者たうじしやたる彼等かれらには五月繩うるさ支障さはりをこつそりとはら退けねばらぬ焦燥じれつたいかんまないのに、周圍しうゐすべてがさかづきげてくれる當人同士たうにんどうし念頭ねんとううかべるとき彼等かれらあは嫉妬しつとかさねばらぬ。それで彼等かれらこゝろにはつてやれ、んでやれ、さうしてらねばはらえぬといふ觀念くわんねんせずして一致いつちするのである。ざるはこんだ饂飩うどん多人數たにんずう彼等かれら到底たうていぶん滿足まんぞくあたるものではない。しか彼等かれら※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことに頓着とんぢやくたぬ。
 さけすゝけた土瓶どびんかされた。彼等かれら各自かくじ茶碗ちやわんいでぐいとんだ。其處そこにはかん加減かげんなにかつた。各自かくじのどがそれを要求えうきうするのではなくて一しゆ因襲いんしふ彼等かれらにそれをひるのである。彼等かれらはじり/\とのどげるやうかんじてもにがかほしかめつゝんでものさへある。比較的ひかくてき少量せうりやうさけたびにするたびむしろうへこぼれても彼等かれらをしまない。彼等かれらはそれから茶碗ちやわんはしもべたりとむしろうへいて、單純たんじゆんみづ醤油しようゆした液汁したぢひたして騷々敷さう/″\しく饂飩うどんすゝつた。
 彼等かれら平生へいぜいでもさうであるのにさけため幾分いくぶんでも興奮こうふんしてるので、各自かくじくちからさらくにへぬ雜言ざふごんされた。不作法ぶさはふ言辭げんじ麻痺まひして彼等かれらはどうしたら相互さうご感動かんどうあたるかと苦心くしんしつゝあつたかとおもやう卑猥ひわいな一唐突だしぬけあるにんくちからるとの一にんまたそれにおうじた。彼等かれらあひだには異分子いぶんしまじへてらぬ。彼等かれらときによつてはおそれて控目ひかへめにしつゝ身體からだ萎縮すくんだやうにつてほどものおくする習慣しふくわんがある。しかうして儕輩さいはいのみがあつまればほとんど別人べつじんである。饂飩うどんきて茶碗ちやわん亂雜らんざつされたときよるおそいことに無頓着むとんぢやく彼等かれらはそれからしばらめどもなく雜談ざつだんふけつた。彼等かれらつひ自分じぶん村落むら野合やがふ夫婦ふうふ幾組いくくみあるかといふことをさへかぞした。そつちからもこつらからもれがかぞへられた。左手さしゆゆびが二げて二おこされてもつくせなかつた。勿論もちろんしまひには配偶はいぐうけたものまで僂指るしされた。夫婦ふうふあひだうまれたもの幾人いくにん彼等かれらあひだ介在かいざいしてた。有繋さすが幾人いくにん自分じぶん父母ふぼばれるのでにがわらひんでひかへてる。さうするとものはそれをきようあることにがや/\とはやてた。
 はなしすこしだれたとき
勘次かんじさんてえなゝ、ありや勘定かんぢやうにやへえんねえもんだんべか」と呶鳴どなつたものがあつた。唐突たうとつ發言はつげんしばら靜止せいしして彼等かれらにはか威勢ゐせい拍手はくしゆした。
勘次かんじさんにいてろ」といふこゑすみはうからた。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことつたつくれえなぐらつら篦棒臭べらぼうくせえ」こゑきこえた。
「そんぢや、おつぎにいてろ」
あしでも打折ぶつちよられんなえ」
薪雜棒まきざつぽうふられてか」
 笑聲せうせい雜然ざつぜんとしてれううちは一そうさわがしくつた。
今日けふらもろ、かどみせ自棄酒やけざけんでおこつてたつけぞ」一人ひとり自慢じまんらしくあらた事實じじつ提供ていきようした。
「どうしてよ」一どうみゝそばだてた。
「おつぎことおはり子等こらと一しよ手傳てづでえつたのつてべな」
つてらなそら」
「そんでよ、手傳てづでえつてゝも、はあ、日暮ひぐれつたら、あつかもつかして凝然ぢつとしちやらんねえんだ、そんで愚圖ぐづ/\つてんの面白おもしれえからいてたな、丁度ちやうどえゝ鹽梅あんべえおれ草履ざうりひにつてつかせてな」
毎日暮まいひぐれぢやねえけ徳利とつくりおつてゝんな」
「さうなんだ、近頃ちかごろ唐鍬たうぐは使つけほねおれつからつて仕事しごとしまつちや一がふぐれえけてつちやあんだつちけが、それ今日けふはやくからてたんだつちきや、みせのおとつゝあにいたなら」噺手はなして自分じぶんきようつたやうまたいつた。
今日けふうめえとこいつちやつたな」
なんだつてつけ」
でえ阿魔あまだ、夕飯ゆふめしなにやうありやしねえなんてな、ひとりでぐうづ/″\つてな、そんで與吉よきちこと何遍なんべんむけえつてな、さうすつとあの與吉よきち野郎やらうまた、いますぐ饂飩うどんふるまつてよこすとう、なんてのたくり/\けえつてんだ、さうすつとまた駄目だめりやつてう、すぐうつてふんだぞなんておこつたてえになあ、可笑をかしくつて仕樣しやうかつたつけぞ」噺手はなして左右さいうきつゝいつた。みな拍子ひやうししてはやてた。
「そんぢやぐよこしたつぺ」
「うむ、途中とちう行逢いきやつたんだんべ、たつきや」
「あつちだつてくれえつてらな」
「おつぎはみせへよつたつけか」二人ふたりが一にいつた。
んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあばつたんだ、たいしたこゑしてな、そんでもおつうはつちまあのよ、さうしたらまた、おつうなんて呶鳴どなつてな、勘定かんぢやうすんのにもあわくつてぜにつことしたりなんかしてあとからけてつたんだ、五がふんだつぺつちけな、可怖おつかねつきしつちやつてな、そんだがおつぎはかねえぞなか/\、つツ/\とつちやつてな」噺手はなして暫時しばしくちとざした。
今日けふわけ衆等しらくとおもつてはあ、よるまでけねえんだな」
きまつてらあな」
「そんだつて箆棒べらぼうわけ衆等しらだつてさうだことばかりするものぢやねえ、つまんねえ」憤慨ふんがいしてかういふものも
外聞げえぶんわりいもなんにもんねえんだな」嘲笑てうせう意味いみではあるが何處どことなくしづんでまたういふものつた。
「おつぎはそんだが頭髮あたまてか/\ひからかせたとこつちやつたつけぞ」にはかおもしたやう先刻せんこく噺手はなしてがいつた。
「そんで、おとつゝあ餘計よけいやうくなつちやつたんだんべえ」しりくぎ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してだいつてランプの油煙ゆえんがそつちへこつちへなびひかりもと茶碗ちやわんはしたゝきながらまたわあつとさわした。
 勘次かんじいま開墾かいこん仕事しごとためはるまでには主人しゆじんから三四十ゑんかねあたへられるやうにまでつた。大部分だいぶぶん借財しやくざいふるあなめてもかれふところ窮屈きうくつかんじない程度ていどすゝんだ。一ゑんぜにえず財布さいふるならば彼等かれらなげところいのである。かれたゞ主人しゆじんつてさへすればいとおもつてる。ういふ遠慮ゑんりよのない蔭口かげぐちかれるまでにはくるしいあひだの三四ねんすごしてたのである。かれ生活せいくわつはほつかりと夜明よあけひかりたのであつた。おつぎはこのとき廿はたちこゑいてたのである。

         一三

 初秋しよしうかぜ吊放つりはなしの蚊帳かやすそをさら/\といて、とうから玉蜀黍たうもろこしかまどはひなかでぱり/\と威勢ゐせいよくえる麥藁むぎわらかれて、からがそつちにもこつちにもてられる。はたけ仕事しごと暫時ざんじきまりがついて百姓ひやくしやういへにはぼんた。晝過迄ひるすぎまで仕事しごとをして勘次かんじはそれでもあわたゞしくにははうきれてくさかま刄先はさきつた。障子しやうじもないすゝつた佛壇ぶつだんはおつぎを使つかつて佛器ぶつきその掃除さうぢをして、さいきざんだ茄子なすつたいもと、さびしいみそはぎみじかちひさな花束はなたばとをそなへた。みそはぎそばには茶碗ちやわんへ一ぱいみづまれた。夕方ゆふがたちかつてから三にん雨戸あまどしめて、のない提灯ちやうちんつて田圃たんぼえて墓地ぼちつた。おしな塔婆たふばまへにそれから其處そこら一ぱい卵塔らんたふまへ線香せんかうすこしづゝ手向たむけて、けてほつかりとあかつた提灯ちやうちんげてもどつた。冥途めいどからほとけ宿やどつたしるしだといつてかなら提灯ちやうちん墓地ぼちからけられるのである。おつぎは勘次かんじふところいくらかあたゝかにつたので、廉物やすものではあるが中形ちうがた浴衣地ゆかたぢこしらへてもらつた。おつぎはもう十九のあきであつた。おつぎは浴衣地ゆかたぢておしなはかつたのである。かみひるうち近所きんじよ娘同士むすめどうし汗染あせじみた襦袢じゆばんひとつの姿すがたたがひうたのである。おつぎは浴衣地ゆかたぢあかおびめた。勘次かんじこん筒袖つゝそで單衣ひとへやけあしみじかすそからた。おつぎのよそほひはそばでは疎末そまつであつても、處々ところ/″\ちらり/\としろ穗先ほさきのぞいて大抵たいていはまだえ/″\としてたゞまい青疊あをだゝみいたやう田圃たんぼあひだをくつきりと際立きはだつてつのであつた。三にん田甫たんぼ往復わうふくしてからしばらつて村落むらうちからは何處どこいへからも提灯ちやうちんもつ田甫たんぼみち老人としより子供こどもとがぞろ/″\とほつた。勘次かんじ提灯ちやうちん佛壇ぶつだん燈明皿とうみやうざらうつした。すゝつた佛壇ぶつだん菜種油なたねあぶらあかりはとほくにからでもひかつてるやうにぽつちりとかすかにえた。おふくろのよりも白木しらきまゝのおしな位牌ゐはいこゝろからの線香せんかうけぶりなびいた。勘次かんじもおつぎもみそはぎちひさな花束はなたばさき茶碗ちやわんみづひたしてみづをはらりといもつた茄子なすかけけた。勘次かんじ雨戸あまどを一ぱいけた。おつぎは浴衣ゆかたをとつて襦袢じゆばんひとつにつて、ざるみづつていた糯米もちごめかまどはじめた。勘次かんじはだかうすきねあらうて檐端のきばゑた。彼等かれらはさういふ仕事しごとがあるのではかくにもひとよりも先立さきだつて非常ひじやういそいだのであつたが、それでもこめせるまでにはいへうち薄闇うすくらつてた。のまだちないうちからにはのぞいてつきしろく、やがてそれがやゝ黄色味きいろみびてにはしげつたかきくりにほつかりと陰翳かげげた。おつぎがいそがしくどさりとうすおとしたふかしからぼうつとしろ蒸氣ゆげつた。蒸氣ゆげなかつきが一瞬間しゆんかんしかめてすぐにつやゝかな姿すがたつた。おつぎはあつふかし蒸籠せいろうから杓子しやくしうすおとしながらそばつて與吉よきちすこつた。ほどよくしたそのふかし與吉よきち甘相うまさうにたべた。おつぎもゆびいたのを前齒まへばむやうにしてくちれた。蒸氣ゆげうす勘次かんじしばらきねさきねた。きねさきねばつてはなれなくる。おつぎは米研桶こめとぎをけみづんでそれへうかべた杓子しやくしきねさき扱落こきおとしてうすなかまるかたちなほす。さうすると勘次かんじちからきはめてうす中央ちうあうつ。それが幾度いくど反覆はんぷくされた。には木立こだち陰翳かげつてつきひかりはきら/\とうすから反射はんしやした。蒸暑むしあつうちにもすべてがみづやうつきひかりびてすゞしい微風びふうつちれてわたつた。おつぎはうすからもち拗切ねぢきつて茗荷めうがせてひとつ/\ぜんならべた。すこまるみをいた十三にちつきしろの一つ/\の茗荷めうがうへひかつた。冷水れいすゐつたやう※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきがゆら/\とうごいてうしろはやしたけこずゑもさら/\とつた。
 それでもいそがしいおつぎはあせながしながら茗荷めうがもち佛壇ぶつだんそなへた。それからべつ拗切ねぢきつたもち豆粉きなこともランプのもとかれた。與吉よきちすぐ座敷ざしきすわつてつた。晩餐ばんさんをはると踊子をどりこさそ太鼓たいこおとやうやしづけた夜氣やきさわがしてきこはじめた。のきつた蚊柱かばしらくづれてやが座敷ざしきおそうた。勘次かんじ麥藁むぎわら一捉ひとつか軒端のきばげて、つた青草あをぐさをそれへけて、燐寸マツチけてさうしておさへつけた。ぷす/\といぶけぶりとほ散亂さんらんせしめる。ぽつとほのほつてえあがればみづつた。彼等かれら目鼻めはなにしみるあをけぶりなか裸體はだかまゝ凝然ぢつとしてる。けぶり餘所よそれゝばあふつていへうちむかはせた。おつぎは勝手かつて始末しまつをしてそれから井戸端ゐどばたで、だら/\とれるあせみづぬぐつた。手拭てぬぐひひたたびちひさな手水盥てうずだらひみづつきまつたかげうしなつてしばらくすると手水盥てうずだらひ周圍しうゐからあつまやう段々だん/\つきかたちまとまつてえてる。踊子をどりこさそ太鼓たいこおと自分じぶん村落むらのはすぐ垣根かきねそとやうに、とほ村落むらのは繁茂はんもしてはやし彼方あなたそらひゞいてきこえる。それが井戸端ゐどばたつてるおつぎのこゝろ誘導そゝつた。同年輩どうねんぱいみなをどりくのである。おつぎには幾分いくぶんそれがうらやましくぼうつとして太鼓たいこれてた。やはらかなつきひかりにおつぎの肌膚はだしろえてた。おつぎはみゝひゞ太鼓たいこおときながら、まだほつれぬかみすこくびかたむけつゝ兩方りやうはう拇指おやゆびまたかはがはりにたぼかるうしろいた。おつぎはあせぬぐつてさつぱりとした身體からだ浴衣ゆかたた。
「おとつゝあ、あの太鼓たいこ何處どこだんべ」おつぎはおびはしにしてうしろまはしながらいた。
「どれ、あのとほくのがゝ、わかるもんか何處どこだか」勘次かんじえたところだけがつくりとつた蚊燻かいぶしの青草あをくさそゝぎながら氣乘きのりのしないやうにいつた。
はうへはまあだ、他村ほかむらからころぢやあんめえな」
「おとつゝあがにやわかるもんかよ、そんなこと」
「そんでも、他村ほかむらからんだつてつけぞ、支度したくしてんだつて今日けふ頭髮あたまつてゝいたんだぞ」
「さうえな、さうえものよ」
つてんべ、よきもつてろなあ、ねえと一しよに」おつぎは獨語ひとりごとした。
ことばかしれつかえ」勘次かんじ突然とつぜん呶鳴どなつた。
「そんでも、みなみのおつかさんきたけりやれてくつちつたんだぞ」
箆棒べらぼう、そんなことされつかえ、をどりなんざああと幾日いくかだつてあらあ、今夜こんやらつからかねえつたつてえゝから、他人ひとはれつとはあ、れにつてあふり/\たがんだから」勘次かんじは一がいしかりつけた。おつぎはけたおびいてそばてた。
 つぎ晩餐ばんさんには例年れいねんごと饂飩うどんたれた。小麥粉こむぎこすこしほれたみづねて、それをたまにして、むしろあひだれてあしんで、ぼういてはうすばして、さらいくつかにたゝんでそく/\と庖丁はうちやうつた。饂飩うどんはしみな一寸ちよつと箇所かしよつまんで三角形かくけいこしらへてぜんならべて佛壇ぶつだんそなへた。はし翌朝よくあさ各自かくじ自分じぶん田畑たはたをぐるりとまはつてはまめいね作物さくもつほとけそなへるのであるが、ほとけあさ野廻のまはりにるのだといふのでそのほとけかさそなへるのだといふのである。
 踊子をどりこさそ太鼓たいこおとねてした。勘次かんじ蚊燻かいぶしの支度したくもしないでこん單衣ひとへへぐる/\と無造作むざうさに三尺帶じやくおびいて、雨戸あまどをがら/\とはじめた。さうして
「おつう支度したくしてろ、おれれてんから」勘次かんじ性急せいきふにおつぎをうながてた。大戸おほどかぎそとからけて三にんにはつたときつき雲翳うんえいとほざかつてしづかに※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきうへかゝつてた。
 毎年まいねんきまつたをどり場所ばしよむらやしろおほきなもみ木陰こかげである。勘次等かんじらにんつたとき踊子をどりこはもう大分だいぶあつまつてた。一足ひとあしもりはひればはげしくたゝ太鼓たいこおとが、そのいそいでとほくへひゞるのを周圍しうゐからさへぎめようとして錯雜さくざつしてしげつてみき小枝こえだ打當ぶツつかつて紛糾こぐらかつてるやうに、もり一杯いつぱいひゞいてうへへ/\とおそろしく人々ひと/″\こゝろ誘導そゝつた。男女なんによまじつて太鼓たいこ中央ちうあうゑがいてる。それが一てい間隔かんかくいては一どうふくろくちひもいたやうしぼまつて、ぱらり/\と手拍子てびやうしをとつて、また以前いぜんのやうにひろがる。さうしてはをどり反覆はんぷくしつゝおもむろに太鼓たいこ周圍しうゐめぐる。をんなそでながせるため手拭てぬぐひつて兩方りやうはうたもとさきぬひつけて、それから扱帶しごきたすきにしてむすんだながはしうしろへだらりとれてる。扱帶しごきをどりゑがたびごとたもとともにゆらり/\とれる。をとこすこ亂暴らんばうをんな身體からだにこすりつきながらをどる。をんな五月繩うるさときには一時ちよつとをどりめて對手あひてしかつたりたゝいたり、しかその特性とくせいのつゝましさをたもつて拍子ひやうしあはなが多勢おほぜいあひだまれつゝどうせん反覆はんぷくしつゝをどる。漸次ぜんじ人勢にんずえておほきな内側うちがはさらちひさゑがかれた。太鼓たいこ倦怠だれれば
太鼓たいこおろかぢやをどりもおろかだ」と口々くち/″\うながうなが交互たがひうたこゑげてをどる。太鼓たいこつかれゝばさらひと交代かうたいしてばちれよとらす。踊子をどりこみなぱい裝飾さうしよくしたかさいたゞいてる。裝飾さうしよくといつても夜目よめあざやかなやうに、饅頭まんぢうものつゝしろへぎかはおびたゞしくくゝけてくのである。れが月光げつくわうさへぎつてもみ木陰こかげいちじるしくつて、うごかすたびに一せいにがさがさとりながらなみごとうごいて彼等かれら風姿ふうしへてる。彼等かれら幾夜いくよをどつて不用ふようしたときには、それが彼等かれらあるいたみちはたほこりまみれながらいたところ抛棄はうきせられて散亂さんらんしてるのをるのである。
 をどり周圍しうゐにはやうや村落むら見物けんぶつあつまつた。混雜こんざつして群集ぐんしふすこはなれて村落むら俄商人にはかあきんどむしろいて駄菓子だぐわしなし甜瓜まくはうり西瓜すゐくわならべてる。油煙ゆえんがぼうつとあがるカンテラのひかりがさういふすべてをすゞしくせてる。ことつた西瓜すゐくわあかきれちひさなみせだい一のかざりである。踊子をどりこかつしたのどには自分等じぶんらてるほこりかゝるのも頓着とんちやくなく只管ひたすらそれを佳味うまかんずるのである。それが少女せうぢよであればすくなくとも三四にんれてかざられた花笠はながさふかかほおほはれてるのにそれでも猶且やつぱりられることをはぢらうてやうやおよ程度ていどにカンテラのひかり範圍はんゐからとほざからうとしつゝ西瓜すゐくわの一きれづつをもとめる。俄商人にはかあきんどはカンテラの光明くわうみやう木陰こかげうすやみとのあひだつた姿すがた明瞭はつきり見極みきはがたいので、しきりにしかめつゝもとめられるまゝむしろはしつて西瓜すゐくわしてる。踊子をどりこれをにしてあわたゞしく木陰こかげかくれる。其處そこにはかならおの/\くちからはつする笑聲わらひごゑかれるのである。カンテラのひかりためかへつ眼界がんかいせばめられた商人あきんど木陰こかげやみかられば滑稽こつけいほどえずしかめつゝそとやみすかしてさわがしい群集ぐんしふる。
 勘次かんじ與吉よきちもとめるまゝ西瓜すゐくわの一きれあたへて自分じぶん商人あきんどせまむしろはしこしおろした。おつぎはしばらみせそばつてたが、あかるいひかりいとうてやがもみした與吉よきちともけた。勘次かんじにはかそびやかすやうにして木陰こかげやみた。かれ其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがた凝然じつとしてるのをむしろからはなれることはなかつた。
「おつぎさんたつけな」れつはなれた踊子をどりこあせむねすこひらいて、たもとしきりにあふぎながらもみそばつていひけた。
「おゝあついやまあ、むせけえやうだ」と、たもとはしあせきながら
「おつぎさん、をどんねえか」とほか一人ひとりがいつた。
だよ、おとつゝあつから」おつぎは小聲こごゑでいつた。さそうた踊子をどりこしかめて勘次かんじ容子ようす自分じぶんにらみつけられてやうかんじたので、孤鼠々々こそ/\けた。女同士をんなどうしには姿すがたへんじた踊子をどりこみなけんして了解れうかいされるのであつた。
 をどりながら周圍しうゐつて村落むら女等をんならつゝうて勘次かんじ容子ようすてはくすくすとひそか冷笑れいせうあびけるのであつた。カンテラのひかりもみ木陰こかげ何處いづこからでも明瞭はつきり勘次かんじ容子ようすたせるやうにぼう/\と油煙ゆえんてながら、周圍しうゐまなこ首肯うなづうてあかしたをべろべろときつゝゆらめいた
 おつぎの姿すがたが五六にんつたなかえなくつたとき勘次かんじ商人あきんどむしろつてすつともみそばつた。おつぎは一二位置ゐちへただけであつたので、かれすぐにおつぎのしろ姿すがたあひせつしてつた。女同士をんなどうし勘次かんじ姿すがたすこけた。五六ぽん屹立きつりつしたもみいたやうこずゑあひつて、先刻さつきからかるいひかりいと踊子をどりこおほうて一ぱい陰翳かげげてたのであるが、凝然ぢつとしたしづかなつきいくらかくびかたむけたとおもつたらもみこずゑあひだからすこのぞいて、踊子をどりこかたちづくつての一たんをかつとかるくした。彼等かれらいたゞいて裝飾さうしよくそのひかりれゝばことごとるやうにはつきりとしろした。ほとんど疲勞ひらうといふことをかんじないであらうかとあやしまれる彼等かれら益々ます/\きようじようじてすこ亂雜らんざつけた。しろいシヤツのうへ浴衣ゆかたかたまでくつて、しり※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)からげて草鞋わらぢ穿はい幾人いくにんれつからはなれたとおもつたら、其處そこらにつて見物けんぶつして女等をんならむかつて海嘯つなみごとおそうた。女同士をんなどうしはわあとたゞわらごゑはつして各自てんで對手あひていたりたゝいたりしてみだれつゝさわいだ。突然とつぜん一人ひとりがおつぎのかみへひよつとけた。
らまあ、どうしたもんだ」おつぎがおどろいてさけんだとき對手あひてはおつぎのくしうばつて混雜こんざつした群集ぐんしふなかぼつした。おつぎはかみ惡戯いたづらされたことをきらつておもはずあてくしくなつたのをつた。
他人ひとくしまあ」おつぎはれをはうとしておぼえずあしすと、一はこんだ勘次かんじがむづとおつぎの首筋くびすぢとらへた。かれ同時どうじにおつぎの小鬢こびんよこつた。おつぎがあわてゝうしろかうとするときふたゝはげしくつたがおつぎのはなあたつた。おつぎは兩手りやうてはなおさへてちゞまつた。女同士をんなどうしもみ木陰こかげそばめてやうもなかつた。
 ひとつには平生ふだんからおつぎにたいする勘次かんじ態度たいどつて其處そこに一しゆ恐怖きようふかんじてたからでもあつた。
「どうしてりや、くしなんぞらつたんだ」勘次かんじはからびたのどからしぼやうこゑ詰問きつもんした。
「こうれ、この阿魔奴あまめ、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」勘次かんじかゞんだまゝのおつぎをぐいといた。おつぎはころがりさうにしてやうやつちいた。
なにんだな、おとつゝあ」おつぎはあわてゝかほけてすこごゑむしするどくいつた。
なにんだとう、づう/\しい阿魔あまだ、くし何故どうしてらつたんだかつてろつちんだ、んでもわかんねえのか、つてろよ」勘次かんじしばらあひだいて、またかつと忌々敷いま/\しくなつたやうに
つてろつちのに、つてろよ」と反覆くりかへしておつぎをめた。
「どうしてつちつたつて、らがにやわかんねえよ」おつぎはうらめしさうしかしながら周圍しうゐはゞかやうにして小聲こごゑでいつた。たもとかほおほうたまゝである。
わかんねえとう、なんにもらねえもの他人ひとくしなんぞつか」勘次かんじくるしいいきくやうにして
「そんだらりや」とでぎつところしたやうこゑでいつた。暫時しばらく凝然ぢつかれはおつぎをつた。おつぎはまへへのめつた。しかしおつぎはかなかつた。「おゝてえまあ」群集ぐんしふなかから假聲こわいろでいつた。をどりれつ先刻さつきからくづれてごと勘次かんじとおつぎの周圍まはりあつまつたのである。おつぎはこのこゑくとともみだけた衣物きものあはつくろうた。
くしとつたな此處ここたよう」とれものどそこからかすれてるやうなこゑ群集ぐんしふなかからはつせられた。
つてたら、やつちめえ」
だよう、おとつゝあになぐられつから、おとつゝあ勘辨かんべんしてくろよう」と歔欷すゝりなくやうな假聲こわいろさらきこえた。惘然ばうぜんとしてすべてがどよめいた。
「おとつゝああかけべえかあ」と群集ぐんしふあとから呶鳴どなるとともすべてがたどつとわらつた。
 おつぎはむつくりきてさつさとけた。
われ何處どこくんだ。こうれ」勘次かんじつかまうとしたがおつぎはねぢつてさつさとく。勘次かんじあわてゝ草履ざうり爪先つまさきつまづきつゝおつぎのあといた。
「おつう」かれこゝろもとなげにんだ。與吉よきちはどうした理由わけともわからないので先刻さつきからたゞいてた。
 太鼓たいこんでをどりまつたみだれてしまつた。それでなくても彼等かれらは一しきりをどれば田圃たんぼえて三々五々さんさんごゝをとこをんなともなうて、はた小徑こみちからはやしぎて村落むらから村落むらへと太鼓たいこおとたづねてくのである。
 勘次かんじうしろから彼等かれらはぞろ/\といてつた。あるもの足速あしばやけては
燒餅やきもちくとていてえ、でお釋迦しやか團子だんごねたあ」とてつけにうたうてずん/\つてしまふ。うしろ群集ぐんしふはそれにおうじてゆびくはへてぴう/\とらしながら勘次かんじこゝろ苛立いらだたせた。勘次かんじほどそれがげきしたこゝろ忌々敷いま/\しくくてもれをたしなめてしかつてなんがかりもつてらぬ。三にんたゞだまつてあるいた。
 やしろもりそとしろ月夜つきよである。勘次かんじ村落外むらはづれのいへかへつたとき踊子をどりこみな自分じぶんむかところおもむいて三にんのみがしづかにはにぽつさりとつたのであつた。各所かくしよ太鼓たいこおと興味きようみかへつれからだといふやうしづんだとほして一直線ちよくせんひゞいてる。うたこゑとほちかきこえる。よるまつたをどるものゝ領域りやうゐきした。彼等かれら玉蜀黍たうもろこしがざわ/\とめうこゝろさわがせて、花粉くわふんにほひがさらこゝろあるもの衝動そゝはたけあひだくとては、をどつてうたうてかつしたのど其處そこうりつくつてあるのをればひそかうり西瓜すゐくわぬすんで路傍みちばたくさなかつたかはてゝくのである。彼等かれらあひだ惡戯いたづらきな五六にんけてからそつと勘次かんじにはつてた。ときたゞ自分等じぶんら陰翳かげやゝながにはつちえいじて、つき隙間すきまだらけのふるぼけた雨戸あまどをほのかにしろせてた。周圍しうゐんだあとのやうにあまりにさびしかつた。五六にんたゞぽつさりとかへつてしまつた。
 おつぎはつきあさくしさがしにた。おな年輩ねんぱいあひだにはたれ惡戯いたづらであるかがすべてのみゝわたつてた。
くしなんざつてゐねえぞはあ、それよりやあ、けえつて※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきのざくまたでもはうがえゝと」朋輩ほうばい一人ひとりがおつぎへいつた。おつぎは自分じぶんには※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきのきみきが二またつたところくしがそつとせてあるのを發見はつけんした。くし鼈甲模擬べつかふまがひのゴムのくしであつた。が二まいばかりけてた。おつぎは損所そんしよ凝然ぢつすぐかみ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した。
 くし事件じけんれつきりをはつた。勘次かんじなにかにつけてはおつう/\となつかしげにんで一ひとほどきはめてむつましかつた。しかしかういふ事件じけん村落むらすべてのくちひさしくふせぐことは出來できなかつた。こと女房等にようばうらあひだには
勘次かんじさんもどうしたつちんだんべ、可怖おつかねえやうだつけぞ」
本當ほんたうによ、まるつきり狂氣きちげえのやうだものなあ」といふ驚異きやういこゑいたところ反覆はんぷくされた。
たゞたあおもへねえよ、勘次かんじさんもあゝいにねえでもよかんべとおもふのになあ」嘆聲たんせいはつしては各自かくじこゝろ伏在ふくざいしてあるものくちには明白地あからさまふことをはゞかやう見合みあはせてたがひわらうてはわづか
だ/\」といふそこに一しゆ意味いみふくんだ一てゝわかれるのである。ことには村落むら若者わかものあひだへは寸毫すんがう遠慮ゑんりよ想像さうざうともな陰口かげぐちたくましくせしめる好箇かうこ材料ざいれう提供ていきようしたのであつた。

         一四

 なつ循環じゆんくわんした。
 あつ刺戟しげきおどろくべき活動力くわつどうりよく百姓ひやくしやう手足てあしあたへる。百姓ひやくしやううま荷車にぐるまつてたふしたむきをせつせとはこぶ。ながわづか日數ひかずうち渺々べうべうたるはたけをからりとさせて、しばらくすると天候てんこうきはまりない變化へんくわを一ぱいひろげて、黄色きいろじゆくするうめ小枝こえだくるしめて※(「虫+牙」、第4水準2-87-34)あぶらむし滅亡めつばうしてしまほど霖雨りんうあきれもしないでつゞく。さうするとむきつたあとまめ陸穗をかぼかつしたくちつめたいみづやういきほひづいて、四五にちうちあをもつはたけつち寸隙すんげきもなくおほはれる。あめかためてある百姓ひやくしやうにはつちにも※菜いぬがしら[#「くさかんむり/(火+旱)」、195-5]石龍※(「くさかんむり/内」、第3水準1-90-67)たがらし黄色きいろ小粒こつぶはなたせて、やのむねにさへながみじかくさしやうぜしめる。自然しぜん意志いし只管ひたすら地上ちじやういたところやはらかなあをもつおほかくさうとのみちからそゝいでるのである。意志いしさからうて猶豫たゆたうてるのは百姓ひやくしやう丁寧ていねいねられた水田すゐでんのみである。なつやうやけると自然しぜんこゝろ焦燥あせらせて、霖雨りんうひくみづ滿たしめて、ほりにもしげつたくさぼつしてきしえしめる。稻草いなぐさもつ空地くうちうづめることが一にちでもすみやかなればそれだけ餘計よけい報酬はうしう晩秋ばんしう收穫しうくわくおいあたへるからとをしへて自然しぜん百姓ひやくしやう體力たいりよくおよかき活動くわつどうせしめる。さうすると百姓ひやくしやうのやうにどろ/\と往來わうらいつちをもねてうまともどろまみれながら田植たうゑにのみ屈託くつたくする。彼等かれらあめわらみのけて左手ひだりてつたなへすこしづつつて後退あとずさりにふかどろから股引もゝひきあし退く。うして宏濶くわうくわつ水田すゐでんは、一にちどろひたつたまゝでも愉快相ゆくわいさううたこゑがそつちからもこつちからもひゞくとともに、段々だん/\あさみどりおほうて、多忙たばうかつ活溌くわつぱつなつ自然しぜんさきゑられたから漸次ぜんじふかみどりめてく。すべをはつたときには畦畔くろにもみじかくさえてつちくろ部分ぶぶん何處どこにもえなくる。自然しぜんはじめて自己じこ滿足まんぞくやうにからりとこゝろよいそらぬぐうてあつひかりける。青田あをた畦畔くろには處々しよ/\萱草くわんさうひらいて、くさくとては村落むら少女むすめあかおびあつやさないでも、しぼんではひらいて朱杯しゆはいごと點々てん/\耕地かうちいろどるのである。百姓ひやくしやういそがしい田植たうゑをはれば何處どこいへでもあき收穫しうくわく準備じゆんびまつたほどこされたので、各自かくじらうねぎらため相當さうたう饗應もてなしおこなはれるのである。それ早苗振さなぶりである。
 勘次かんじとおつぎはみなみ早苗振さなぶりやとはれてつてた。勘次かんじいへからみなみ小徑こみちはさんだ桑畑くはばたけ刈取かりとつてからくさえたくらゐえだはじめてた。くはあひだには馬鈴薯じやがいもしげつてはなつてた。みなみいへではすこしばかり養蠶やうさんをしたので百姓ひやくしやう仕事しごとすべ手後ておくれにつたのであつた。村落むら大抵たいてい田植たうゑをはけたのであわてゝ大勢おほぜいやとうた。れて心持こゝろもちがよかつたのと、一どう非常ひじやう奮發ふんぱつをしたのとで仕事しごとたかうちんだ。みなみ女房にようばう仕事しごと見極みきはめがついたのでおつぎをれて、そのばん惣菜そうざい用意よういをするために一あしさきからかへつた。女房にようばういそがしいおもひをしながらむぎつて香煎かうせんふるつていた。
 田植たうゑ同勢どうぜい股引もゝひき穿いたまゝどろあしをずつとほりみづてゝ、股引もゝひき紺地こんぢがはつきりとるまで兩手りやうてでごし/\としごいた。けたどろけぶりごとみづにごらしてずん/\とながされる。さうしてから股引もゝひきいでざぶ/\とあらものつた。彼等かれらかへつていへうちきふにがや/\とにぎやかにつた。裏戸口うらとぐち※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきしたゑられた風呂ふろにはうししたしてはなめづつてやうほのほけぶりともにべろ/\とつていぶりつゝえてる。やとはれて女房等にようばうら一人ひとりふたをとつてがら/\とまはして、それから火吹竹ひふきだけでふう/\といた。ほのほあかしたがべろ/\とながつた。
 ふたゝふたをとつたときには掃除さうぢらぬ風呂桶ふろをけのなかには前夜ぜんやあかが一ぱいいてた。※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことにはかまはずに田植たうゑ同勢どうぜいはずん/\と這入はひつた。彼等かれらほとんどたゞ手拭てぬぐひでぼちや/\と身體からだをこすつてた。あし爪先つまさきまつたどろおとすことさへなかつた。
けぶつてえのそつちへおんさなくつちややうねえや」風呂ふろからまゝぬぐひもせぬあし下駄げた穿いてはだかしり他人たにんけてつた一にんうしろかへりみていつた。
「なあにかまあねえ」あとからしかめながら一人ひとり首筋くびすぢまでしづんだ。それから風呂桶ふろをけこしけてごし/\とあらひながら
りやけぶつてえ」とまたしづんだまゝごし/\とあかおとしてたが
「あゝとこだ、よう、おつぎ、ちつ此處ここまでてくんねえか」といつた。かれ百姓ひやくしやうあひだにはうまいてある村落むら博勞ばくらうであつた。
「どうしたもんだんべ、かねさん自分じぶん這入へえんのにけむつたけりや、おんしてからへえつたらかんべなあ、それに怎的どうしたもんだ一同みんなて、水汲みずくみにたものなんぞ使つかあねえたつてよかんべなあ」おつぎはかるたしなめるやうにいつて二つの手桶てをけをそつといて、いぶつてたきゞしてつた。
「おつぎにしてもらあんでなくつちやだつちからかまあねえんだな、そんでなけりやいくらでもしてらざらによ」そばからすぐにいつた。
けぶつてえのつたらひど晴々せい/\してへえつてるやうぢやなくなつた。莫迦ばかつちやつたえ」かね博勞ばくらうはがぶりと風呂ふろおとをさせてたちながらいつた。
「どうしたもんだ、他人ひとのこと使つかつて小憎こにくらしいこと、そんなことふとおつけてつから」おつぎはいぶつたたきゞかね博勞ばくらうちかくへした。かね博勞ばくらうあわてゝ
謝罪あやまつた/\」とずつといた。おつぎが手桶てをけそばもどつたら
「ああ、おつぎ/\ちつつてゝくろえ、れえゝものすから」かね博勞ばくらう口速くちばやけた。
「おゝなこつた、らねえよ」おつぎはすこかがめて手桶てをけつかんでまゝのばすと手桶てをけそこが三ずんばかりはなれた。
「えゝ、すべつちのに」かね博勞ばくらうあとからげた。それはこずゑから風呂ふろなかちたへたのないあを※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきであつた。※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かき手桶てをけみづへぽたりとちて、みづのとばちりがすこしおつぎのあしかゝつた。
にくらしいことまあ、惡戯いたづらばかして」おつぎは嫣然にこりとしてうしろた。
うしろせえすりやそんでえゝんだ」と風呂ふろそば一人ひとりがいつた。
雀班そばつかすせえすりやんでんだよ」かね博勞ばくらうあといていつた。
何程なんぼすれつからしなんだんべかねさんは、他人ひとのこと本當ほんたうに」とおつぎは手桶てをけいてみづうかんだあを※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきかね博勞ばくらうげた。
かねさんすつかりほれられつちやつた」と風呂桶ふろをけそばからいつた。おつぎはかほあかくしてあわたゞしく手桶てをけつてげた。一ぱいんだ手桶てをけみづすこ波立なみだつてこぼれた。風呂桶ふろをけそばでは四十五十に百姓ひやくしやう一同みんな愉快相ゆくわいさうにどよめいた。おつぎが手桶てをけつたとき勘次かんじ裏戸うらど垣根口かきねぐちにひよつこりとた。かれ衣物きものへに桑畑くはばたけ小徑こみちえて自分じぶんうちつたのであつた。かれ風呂ふろそばさわぎをちらとみゝにしてそれからおつぎの後姿うしろすがたにしたので怪訝けげん容子ようすをしてにはにはひつてた。一どう打合うちあはせたやうもくしてしまつた。
 けた少時しばし竹藪たけやぶとほしてしめつたつちけて、それから井戸ゐどかこんだ井桁ゐげた※(「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1-91-13)のぞんで陰氣いんきしげつた山梔子くちなしはな際立はきだつてしろくした。しばらくしてあをけむり滿ちたいへうちにはしんらぬランプがるされて、いたには一どうぞろつと胡坐あぐらいてまるかたちづくられた。
 これやとはれてわか女房等にようばうらかまどまへつてうち女房にようばうとおつぎとにしてた。徳利とくりが三四ほんぜんまへはこばれた。
「おかげでどうもはかきあんした。どうぞゆつくりつておくんなせえ」亭主ていしゆあらたまつて挨拶あいさつした。
「はい」と一どう時儀じぎをした。各自かくじぜんすみへ一つづゝわたされた茶呑茶碗ちやのみぢやわんさけがれようとしたとき
「あれつてゝくんねえか」とうち女房にようばうあわてゝいつた。
「おとつゝあん、お竈樣かまさまわすれたつけべな」女房にようばうかまどからめしかまおろして布巾ふきんにしたまゝいつた。
「さうだつけな、ほんに」亭主ていしゆはいきなり一ぽん徳利とくりにして土間どまへおりた。かまどうへすゝけたちひさな神棚かみだなへはからげてた一なへせてあつた。かれその苗束なへたば徳利とくりからすこさけいだ。
さけそつちのはうへたんとけねえでれえてえな」かね博勞ばくらうはけろりとした容子ようすをして戯談じやうだんをいつた。
さけな、さうだにしいもんだんべか」おつぎはこつそりいつた。
「そんだつてさけつちやひとくちえるやう出來できてんだから、それ證據しようこにやらがくちえりやすぐくからろえ」かね博勞ばくらうはいつた。亭主ていしゆまた苗束なへたば香煎かうせんすこけた。それはいねはな模擬なぞらつたので、いねはなが一ぱいひらやうとの縁起えんぎであつた。かね博勞ばくらうれをきふ土間どまりてつた。
「どうれ、おめえ饂飩粉うどんこなちつつてせえ、一ツ爪尻つまじりでえゝんだ、おゝえつてうな、おつぎでもえゝや、よう」とかね博勞ばくらううながした。
「どうしたもんだ、大威張おほえばりして」おつぎはつぶやきながらうち女房にようばういて小麥粉こむぎこを一つかしてつた。
「さうらけて、れが晩稻おくいねはなだ」かね博勞ばくらうにした小麥粉こむぎここと/″\けてしまつた。苗束なへたばすこしろつた。
何處どこにもさういにけるもなんめえな」女房にようばう一人ひとりていつた。
晩稻おくいねつくんだから、役場やくば奴等やつらつくつちやなんねえなんちつたつて、てえな、うつかりすつとちゝぎしまでへえるやうなふかばうえつとこぢやどうしたつて晩稻おくいねでなくつちやれるもんぢやねえな、それから役場やくば役人やくにん講釋かうしやくすつからふかばうぢやうだつちはなししたら、はつきりりいたあはねえんだから、それからくそつかんでねえやつぢや駄目だめだつちんだ」かれわらひながらひと饒舌しやべつた。
根性こんじやうねぢれてつからだあ、晩稻おくいねつくんなつちのに」女房にようばう一人ひとりまたいつた。
れか、いやどうもねぢれてんにもなんにも」かね博勞ばくらうはいつて
「そうれろえ、いねしれはなえたぞ、白坊主しろばうずはなだこりや」かれいたたゝいた。
だよ、白坊主しろばうずツちいねはあんめえな」女房にようばうまたいつた。
「そんでも勘次かんじさんにいたぞ」かれすこくびをすくめながらこゑひくめていつた。たもとくちおさへて女房等にようばうらわらひころした。かね博勞ばくらうわざわらひんでふたゝいた胡坐あぐらいた。
 勘次かんじちひさな時分じぶんからあなどられてかされた。かれおそろしい泣蟲なきむしであつた。かれ何時いつにか燗鍋かんなべといふ綽名あだなけられた。かれこゝろいくれをきらつたかれない。卅えて四十につてもかれなべといふのがひどいやであつた。村落むらではそれをらぬものはない。あるとき惡戯好いたづらずきかね博勞ばくらう勘次かんじかついねを、これなんだえといた。わざいたのであつた。れは鍋割なべわれとも、それからのげしろいので白芒しらのげともふのであつたが勘次かんじ
これ白坊主しろばうず」とそつけなくいつた。かれなべといふのがいやでさういつたのである。かね博勞ばくらうはうまくあるものとらへたやう得意とくいつて村落中むらぢゆうひゞかせた。くちわる百姓等ひやくしやうら勘次かんじがおつぎをれてるのを
白坊主等しろばうずら夫婦ふうふしてうなつてら」など放言はうげんすることすらあるのであつた。
 茶碗ちやわんには一ぱいづつさけがれた。一どうはしをらしく茶碗ちやわんくちてた。
んなものでよけりや、夥多みつしらやつておくんなせえ、まあだあとにもりやんすから」うち女房にようばうしほたかとおもやうしろつぽい馬鈴薯じやがたらいもおほきなさらぜんせて二處ふたとこいた。たちまち一ぱいして獻酬とりやりはじまつた。がれるものは茶碗ちやわんげて相手あひてもつてる徳利とくりくちけてさけこぼれるのをふせいだ。さけはじまつてからみなめう鹿爪しかつめらしくずまひをあらためた。
「さあ、何卒どうぞずん/\しておくんなせえね」亭主ていしゆうながした。
「はい」挨拶あいさつまた口々くち/″\た。
 ごろでは不廉ふれんさけ容易ようい席上せきじやうへははこばれなくつてたのでしたがつて他人たにんつたのでもみなひかにするやうつてた。みなみでは養蠶やうさん結果けつくわかつたのとすこしばかりあまつたくは意外いぐわい相場さうばんだのとで、一ゑんばかりのさけ奮發ふんぱつしたのであつた。ばん料理れうり使つか醤油しやうゆるので兩方りやうはうねて亭主ていしゆ晝餐休ひるやすみの時刻じこく天秤てんびんかついで鬼怒川きぬがはわたつた。村落むらみせでははずに直接ちよくせつ酒藏さかぐらつたのでさけ白鳥徳利はくてうどくりかたまでとゞいてた。
 各自かくじ平生へいぜいかつしてくちにはさけ非常ひじやう佳味うまかんずるとともに、痲痺まひするちからたいする抵抗力ていかうりよくおとろへてるので徳利とくりが一ぽんづつたふされてつき徳利とくりかゝつたとおもころいたでは一どうのたしなみがみだれて威勢ゐせいた。
「おめえ、さういに自分じぶんとこれえばかしかねえでせな」とよわものところさかづきあつめてこまるのをようとさへするやうつた。勘次かんじひとそばなる徳利とくりきつけて幾抔いくはいかたむけて他人ひとよりもさき小鬢こびんすぢふくれてた。
ら、かんなたねえ大工でえくだ、のみぽうつちんだから」といつて勘次かんじ相手あひてもないのにわざとらしいわらひやうをして女房等にようばうらはうた。かれさうくびおこして數々しば/\ることを反覆くりかへした。おつぎはうしろはうかくれてた。勘次かんじはしを一ぽんつて危險あぶなものにでもさはるやうに平椀ひらわん馬鈴薯じやがたらいもそのさきしては一ぱいくちいて頬張ほゝばつた。平椀ひらわんには牛蒡ごばう馬鈴薯じやがたらいもとがうづたかられて油揚あぶらあげが一まいせてある。
箆棒べらぼうかくつたつけな、馬鈴薯じやがいもはなあ」一人ひとりがいつた。
んでもくはあひだつくつたんだが、おもひのほかだつけのさ」亭主ていしゆ自慢じまんらしくそれでもわざこゑおとしていつた。
くはあひだでかう出來できつかな、そりやさうと何處どこつくつたんでえまあ」
うら垣根外くねそとさ、つちはかたであかつぽうろくだが、掃溜はきだめみつしらんでいたところだから、れがたとえんのさ、おもひのほか土地とちきらあねえもんだよ、んなもんでもつくつちやくはにやわるかんべが」
大丈夫だいぢやうぶだとも、馬鈴薯じやがいもかくやうぢやその肥料こやしくはふから、いやくはとほくへすんぢや魂消たまげたもんだから、りもしねえのに肥料こやしはう眞直まつすぐにずうつとつかんな」
れでどのくれええるものだとおもつたら一ツかぶで一しようぐれえづゝもおこせるよ」亭主ていしゆがいへば
「うむ、さうかな、さうすつとわりえもんだな」各自てんでにさういつてると
牛蒡ごぼうたせたつけな」といふものがあつた。
「なあに、がためるところけてせえけば大丈夫でえぢやうぶなものさ、田植たうゑまでるやうににはめてくのよ」亭主ていしゆ自分じぶんわん牛蒡ごぼうはさんでいつた。
「さうだが、なんぞぢや、それまでにやつちまあから一でもさういにけていたことあねえな」と一人ひとりがいへば
らなんざ、はらしまつてくからられつこなしだ」かね博勞ばくらうくちした。
牛蒡ごばうもうつかりしてなはしばつてけちや、其處そこからくされがへえつてひでえもんだな、わらぽどきれえだとえんのさな」勘次かんじ横合よこあひからいつた。
「どうしたかよ」うたがひのこゑはつせられた。
「どうしたかなもんぢやねえ、つたことんだもの」かれ相手あひてあつせられたやうこゑひくめて
「なあおつう、さうだな」と身體からだよこけていつた。いた土間どまとのさかひつてはしらかげにランプのひかりからけるやうにして一獻酬けんしう女房等にようばうらにはかにおつぎのしりをつゝいて
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からすのきんたまからんだぞこら」といつた。
りもしねえで」勘次かんじ與吉よきちあまやかすやうにしていつた。
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勘次かんじさん駄目だめだよ、學校がくこつちや半年はんとしたあはんねえから、下手へたんすつといま子奴等こめらにやめられつちやからおとつゝあつてつかなんちあれたつて、こまらなどうもなあ」そばからいつたので勘次かんじ有繋さすが嫣然にこりとした。
 白鳥徳利はくてうどくりくちそこよりもひくつたときあひだにはうまはなした。うまといふやつはあの身體からださけの二はいくちいれてやるとたちまちにどろんとして駻馬かんばでもしづかる、博勞ばくらう以前いぜんはさうしてわるうまんだものである。現在いまでもそんなことで油斷ゆだんらぬ、村落むら貧乏びんばふしたから荷車にぐるまばかりえてうまつてしまつたが荷車にぐるま檢査けんさつておどろいたなどといふことや、朝鮮牛てうせんうし大分だいぶ輸入ゆにふされたがいねころのやう身體からだ割合わりあひ不廉たかいからどうしたものだかなどといふことが際限さいげんもなくがや/\と大聲おほごゑ呶鳴どなうた。
博勞ばくらうなんちい奴等やつら泥棒根性どろぼうこんじやうくつちや出來でき商賣しやうべえだな、ちくらつぽうんぬいて、兼等かねらりや、れことせえおつめるつもりしやがつて」かね博勞ばくらう向側むかうがはから戯談じようだんらしい調子てうしでいふと
箆棒べらぼう、おつめんなもんぢやねえ、それだらぜにせよぜに、なあ、ぜにさねえつもりすんのが泥棒どろぼうよりふてえんだな、西にしのおとつゝあ躊躇逡巡しつゝくむつゝくだから、かたで」
「そんだからろえ、博勞ばくらうくらてたやつりやしねえ、ばちたかつてつから」
「どうした、そんだが此間こねえだしろかつたんべ、れさてな、あゝ西にしのおとつゝあ、しろぢや徴發ちようはつはさんねえぞ」
「えゝから、それよりか、そんなに不廉たけえことはねえで、なあ、こめぺうつべえぢやねえか」
徒勞だめだよそんぢや、あんでも六錢の横薦よこゞもつけていてたんだぞ、血統證けつとうしようまでんぞ、あゝ、はねえぞ」
んでえわれがまた、牡馬をんま牝馬めんまだけの血統證けつとうしようだんべ、そんなものなんるもんぢやねえ、らねえとおもつて、白河しらかはいちいてらあ」
博勞ばくらううまくれねえやうだな、ようしそんぢやれ一つつてやんべ」二人ふたり戯談交じやうだんまじりにはげしく惡口あくこうつてるとふとそばからういつた。
「そんぢや、それせな、かねさんもそれ」かれ二人ふたり茶碗ちやわん自分じぶん交換かうくわんさせて、それを兩方りやうはうわたしてさけいだ。
「どうだえ、博勞ばくらううまくてたんべ、どつちも依怙贔負えこひいきなしつちとこだ」相手あひて得意とくいつてつた。
「こつちのおとつゝあ、いくつだつけな、つとしろつたな」突然とつぜん一人ひとり呶鳴どなつた。
「さうよな」亭主ていしゆ頭髮あたまてゝいつたとき
「おめえ、のおとつゝあもどうしてかひどしろつたんだが、んで年齡としはさういにとつちやねえんだぞ」其處そこちひさないてすわつたうち女房にようばう微笑びせうしながらいつた。
れと同年齡おねえどしだよ」ひとりぼつちにつて勘次かんじよこからくちはさんだ。
「どうだかよ」
「なあに、どうだかなもんぢやねえ」
 勘次かんじくちつののやうにしていつた。
本當ほんたうにさうなんだよおめえ」女房にようばうそばからいつた。
「そんぢや勘次かんじさんおめえいくつでえ」相手あひて乘地のりぢになつていた。
「さうよ、らこつちのおとつゝあと同年齡おねえどしだつけな」かれ自身じしん創意さういではなくて何處どこかでいた記憶きおくまゝ反覆はんぷくしてさうして戯談じやうだんあへてした。
「えゝ箆棒べらぼうな」と相手あひてはいつてしまつた。うち女房にようばう兩方りやうはう頭髮あたまつく/″\
「そんだが勘次かんじさんは本當ほんたうけえな。のおとつゝあたあ、たえしたちげえだな」といつた。
勘次かんじさんまあだ十七だな」かね博勞ばくらうすぐあといていつた。女房等にようばうらひそかたもとくちおほうた。かね博勞ばくらうかへりみたとき女房等にようばうらつた燭奴つけぎさきけては香煎かうせんくちふくんで面倒めんだうめてたのであつた。
香煎かうせんめんのにや、わらつちやいかねえつちけぞ、おめえかね博勞ばくらうはいつた。先刻さつきからわらくせのついてた女房等にようばうらは一にぷつと吹出ふきだしてこな其處そこらにつた。乾燥かんさうしてこなためせて女房等にようばうらしきりにせきをした。彼等かれらけおりて手桶てをけみづをがぶりとんでやうやむね落附おちつけた。
「おゝ、ひでつた。粉鼻こなはなはうさへえつてはなつん/\してやうありやしねえや、本當ほんたうかねさんはひとりいや、なんぼにくらしいかれやしねえ、其處そこらに薪雜棒まきざつぽうでもればばしてりてえやうだ」なみだぬぐつてうらめしげに女房等にようばうらふのであつた。
「そんだかられ、わらつちやえかねえつてつたんだな、それかねえから」かね博勞ばくらうわざ平然へいぜんとしてつた、うしてがみ/\いふこゑ錯雜こぐらかつたとき
博勞ばくらうさん一つやつゝけつかな」かね博勞ばくらうは一こゑことおほきく呶鳴どなつたとおもつたら茶碗ちやわんさけを一くちにぐつとして兩手りやうて茶碗ちやわんせて、いたにぱか/\ぱか/\とひづめならうて拍子ひやうしつたひゞきてながら
三春みはるから白河しらかははうへこんでも横薦よこごもつけたのつないでいてとこらえゝかんな、いてせえ、にやかねえぞ」かれ自慢じまんしたから
「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」
うまへの掛聲かけごゑもつともらしくした。茶碗ちやわん拍子ひやうしれて一どうはぴつたりしづかにつた。
「はあえゝえゝえゝ」とぼうとふとこゑうたして
枯芝かれしばあえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、とまるうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありやがあゝゝゝゝえ、え、はあれえゝぬうよおうゝゝ」とかれつぶつてすこ上向うはむきくびかたむけて一ぱいこゑしぼつてきはめて悠長いうちやうにさうしてつゞきを
「えゝそばにえゝ、菜種なたねえのおゝゝゝゝえ、えゝはながあえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」とうたをはつたときかほ殊更ことさらあかつてあせるしランプにひかつてえた。かれでぐるりとぬぐつた。
箆棒べらぼう迂遠まだるつけえうただな、みじけえのにねむつたくつちやあな」そばから惡口あくこういた。
「えゝから西にしのおとつゝあ、耳糞みゝくそほじくつていてろえ」かね博勞ばくらうはいつて
「はあえゝえゝ、えゝあさのうゝゝえゝえ、はあ出掛でがけえにいゝゝゝゝえ」とまたうたした。
あさ出掛でがけにどのやまてもくもかゝらぬやまはない」とうたつて茶碗ちやわんうごかしては
「ぱか/\ぱか/\となあう、廿三さかえてとこだぜ、畜生ちきしやうあばさけんなえ」とかれさら
「ひゝいん」とうまごゑをしてそれから
「廿三さかか、白河しらかはのこつちだ、しめえさか箆棒べらぼうながくつてな」といつてまた
「はあえゝえゝえゝ」とつたらしく
おく博勞ばくらうさん何處どこけた、廿三さか七つで」と愉快ゆくわいこゑうたつた。
夜引よびきすつときにや人間にんげんねむつたくりやうまねむつたくつてな、石坂いしざかだから畜生等ちきしやうらがくたり/\はあ、なんぼにもあるかねえな、そんときにや、おうい一つどうだねつゝけちやあとばかりでなあ、博勞等ばくらうらぞろ/\つながつてんだから、みねはうでも谷底たにそこはうでも一大變たいへんだあ、さうすつとこま子奴等こめらひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\とはこびがちがつてらな、みんなおつかげばかしいてたのぱなしてんだからあし不揃ふぞろひだなどうしても、それにさかきふだつちと倒旋毛さかさつむじおつてるやうだから畜生ちきしやうなんぼにもあしねえな、其奴そいつあはせてうたあんだからゆつくりんなくつちやなんねえな」かね博勞ばくらうおびいてはだかつて衣物きものうしろなげた。おび一重ひとへひだり腰骨こしぼねところでだらりとむすんであつた。兩方りやうはうはしあかきれふちをとつてある。あら棒縞ぼうじま染拔そめぬきでそれはうまかざりの鉢卷はちまきもちひる布片きれであつた。
此處ここらのうまだつてろえ、博勞節ばくらうぶしかどつあきでやつたつくれえまやなか畜生ちきしやう身體からだゆさぶつて大騷おほさわぎだな」かれひとりで酒席しゆせきにぎはした。かれはさうしてつちのやうなあせほこりとでまつた手拭てぬぐひ首筋くびすぢから身體からだぱいぬぐつた。それから
「おゝかいい」とぴしやりたゝいた。かれうたつれ各自めいめいさらうたつた。みなはし茶碗ちやわんたゝいて拍子ひやうしあはせた。さういふさわぎにつてからさけらなかつた。勘次かんじひとりでうたふこともなくえず何物なにものかをさがすやうな土間どまのあたりをきよろ/\とたが
「おつう」と唐突だしぬけんだ。かれいきほひよくんで自分じぶん拍子拔ひやうしぬけしたやうにしてたが
れさ馬鈴薯じやがいもでもくんねえか」とわんをづうつとした。
「どうしたもんだおとつゝあは、おひら盛換もりけえするもなんめえな、馬鈴薯じやがいもめえいくらでもんのに」おつぎはさらたしなめるやうに
「おとつゝあは酩酊よつぱらつたつてそんなに顛倒ぐれなけりやよかつぺなあ」とひとつぶやいた。
つてたのよ」勘次かんじわざわらつてわんぜんいた。
「おつか樣等さまらもこつちへうな、一杯いつぺえやれな」かれさらいたすみはう女房等にようばうらにいつた。
「ほんに仲間入なかまいりしたらよかつぺ」うち女房にようばうもいつた。わか女房等にようばうら仲間なかまにはらなかつた。さうしてたゞわらつてた。うたさわこゑすべてがこゝろられてると
りやうめかじつたんべ、學校がつこ先生せんせいねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、213-12]えつけてやつから、はらいたくつたつて我慢がまんしてるもんだ」
 おつぎはねむをこすりながらしく/\いて與吉よきちよこにして背中せなかたゝいてはいたはりながらいつた。
「どうしたんだあ、はらいてえのか毒消どくけしでもませてつか、らもはあ、うめだのすもんもだの成熟できちやびや/\すんだよ、んだからつたつてかねえしなあ」うち女房にようばうはすや/\とねむつたひざひながらいつた。
うめなんぞじつて、おとつゝあはらゑぐいてやつからつてろ」勘次かんじとうからしぶつてしたでいつた。
「そんなことはねえつたつていてんのになんだつぺな、おとつゝあ」おつぎは勘次かんじしかつた。勘次かんじくちつぐんではしさき馬鈴薯じやがいもした。與吉よきちまぶたゆるんでいつかかるいびきいた。
「さあ、おまんまだえ」うたさわぎもんで一どうくちからにはか催促さいそくた。女房等にようばうらみな給仕きふじをした。うち女房にようばう
「おつぎも身體からだみつしりしてたなあ、をんな廿はたちつちややくつなあ」とおつぎをていつた。勘次かんじ茶碗ちやわんからすこ飯粒めしつぶこぼしては危險あぶなつきではしつたまゝゆびさきつまんでくちつてつた。
「おとつゝあ、さういにこぼしちや駄目だめだな」おつぎは勘次かんじ茶碗ちやわんへた。
勘次かんじさん」とうち女房にようばうけた。勘次かんじしかめてとき
勘次かんじさん、はあおつぎこたあしてもかねえけえ」女房にようばうはいつた。
よめになんざせねえよ、いまところこまつから」勘次かんじはそつけなくいつた。
不自由ふじいうところありやして、自分じぶんでもむのよ」かね博勞ばくらう遠慮ゑんりよなくいつた。
らそんなはなしかねえ、もらひたけりやいくらでもらあ」勘次かんじしりぞけた。
「そんだつておめえ、そつちこつちくちけてかねえぢや、ぢき年齡としばかしとらせつちやつてやうねえぞ、らも一人ひとりしたがおめえ容易よういぢやねえよ、さうだかうだはれねえうちだぞおめえ」女房にようばうはいつた。
「えゝよ卅までひとりぢやかねえかられげはいまにむことんだから」勘次かんじ喧嘩けんくわでもするやう容子ようすこはばつたしたでいつた。女房にようばうだまつてくちあたりひやゝかなゑみふくんでひざをそつとうごかしてぐつすりねむりこけた自分じぶんた。
「どうしたえ、まゝよ/\でもやんねえか勘次かんじさん。まゝにならぬとおはちげりや其處そこらあたりはまゝだらけだあ、過多げえむづかしいことふなえ」かね博勞ばくらうこめめしみながらいつた。はらを一ぱいふくらませた一
「どうも御馳走樣ごつゝおさまでがした」と義理ぎりべて土間どま下駄げたをがら/\さぐつてがや/\さわぎながらかへけた。
「おつう、よきことおこせ」勘次かんじはさういつて自分じぶんひとつに蹣跚よろけながらつた。おつぎは與吉よきち身體からだはげしくうごかしたが熟睡じゆくすゐしてしまつたので容易よういひらかなかつた。與吉よきち草履ざうり穿くにもおつぎのこゝろ苛立いらだたせた。
「おつう」とはげしく勘次かんじこゑうら垣根かきねそとからきこえた。さうするとまた
なにしてけつかんだ」と勘次かんじ裏戸口うらとぐちから一どうおどろかして呶鳴どなつた。
勘次かんじさん與吉よきちことおこしてたとこなんだよ」うち女房にようばう分疏いひわけしてやつた。
りや何時いつでもさうだ、ぐづ/\してやがつて」勘次かんじなほいきどほつていつた。
つてればえんだなおとつゝあ、あらひまでもねえのにどうしたもんだ」酒席しゆせきあとておつぎはつぶやいた。
かまあねえでけえれよ、おとつゝあ酩酊よつぱらつてんだから」女房にようばうはおつぎのんでやつた。あとでは亂雜らんざつらかした道具だうぐ始末しまつをしながら女房等にようばうらはいつた。
勘次かんじさんが心持こゝろもちわかんねえな」
いくかゝあ嫉妬やきもちくもんでも、あゝえもなあねえな」
「あゝえのがなんかのうまかはりつちんでもんべな、可怖おつかねえやうだよ本當ほんたうにな」
近頃ちかごろそれになんぢやねえけえ、あらほどしがつたのに後妻あともらあべえたあ、はねえんぢやねえけえ」いづれのこゝろにもくちにはいはなくて了解れうかいされてあるものすこしづつあらはさうとして有繋さすが躊躇ちうちよするやうにして噺合はなしあうた。勘次等かんじらにん垣根かきねそとつたとおもころわんいて一人ひとりあわただしくつてそとた。しばらくしてかへつてるといきなり
「どうしたものだおめえは、他人ひとあとなんぞ尾行けてつて、つみだからろよ」一人ひとりがいつた。
「さうぢやねえよ、有撃まさかおめえ、他人ひとのことおれだつて」分疏いひわけした。
「そんぢやなんつたんだ」
小便せうべんつたくつたからよ」やがおされぬわらひがかほかんで
「そんだから過多げえむなつちんだ、なんておつぎにおこられ/\んけわ」といつた。
「そうれおめえ、つみだよ」遠慮ゑんりよもなくみなどつとわらつた。
 けてた。きろ/\きろ/\と風船玉ふうせんだまこすあはせるやうかへるこゑ錯雜さくざつしてきこえてた。

         十五

 しもひそかおほうた。
 晩秋ばんしうえた空氣くうき地上ちじやうすべてを乾燥かんさうせしめる。おもひのまゝ枝葉えだはひろげた獨活うど目白めじろあつまつてくのが愉快ゆくわいらしくもあれど、なんとなくいそがしげであつて、それも少時しばし何處どこでも草木さうもくこはばつたりきずついたりして一さいたゞがさ/\と混雜こんざつしてしまつた。さういふところ季節きせつふゆいやでもわたらねばならないのであるがそれでもあたゝかいがあつたり、つめたいがあつたりしてふゆ只管ひたすら躊躇ちうちよしつゝ地上ちじやうしづまうとした。さうしてしもを一はせてた。すべての草木さうもくさらあわてた。地味ぢみ常磐木ときはぎのぞいたほかみなつぎはる用意ようい出來できるまではすご姿すがたつてまでも凝然ぢつとしがみついてる。ふゆしもはせてた。おそろしく潔癖けつぺきしも見窄みすぼらしい草木さうもく地上ちじやうにじりつけた。人間にんげんりたものはでもはたでも人間にんげんりて到處いたるところをからりとさせる。ときはたには刷毛はけさきでかすつたやうむぎ小麥こむぎほのか青味あをみたもつてる。それからふゆまた百姓ひやくしやうをしてさびしいそとからもつぱうちちからいたさせる。百姓等ひやくしやうらいそがしくわらたわらんでこめれてはる以來いらい報酬はうしう目前もくぜんんでよろこぶのである。
 彼等かれらあひだにはういふときに、さうしてふゆ本當ほんたうにまだ彼等かれらうへいてせないうちあひ前後ぜんごして何處どこ村落むらにも「まち」がるのである。れは村落毎むらごとてられてあるやしろまつりのことである。貧乏びんばふ勘次かんじ村落むらでも以前いぜんからの慣例くわんれい村落むら相應さうおうした方法はうはふもつまつりおこなはれた。
 當日たうじつしろ狩衣かりぎぬ神官しんくわんひとり氏子うぢこ總代そうだいといふのが四五にんきまりの惡相わるさう容子ようすあとつい馬場先ばゞさきすゝんでつた。一にん農具のうぐつてる。總代等そうだいらはそれでも羽織袴はおりはかま姿すがたであるが一人ひとりでも滿足まんぞくはかまひもむすんだのはない。さらあとからかゞみいた四斗樽とだるうま荷繩になはくゝつてふとぼうかついでいた。四斗樽とだるにはにごつたやうな甘酒あまざけがだぶ/\とうごいてる。神官しんくわんしろ指貫さしぬきはかまにはどろねたあとえて隨分ずゐぶんよごれてた。神官しんくわんほこりだらけないたやうやございたせま拜殿はいでんすわつてさかきちひさなえだをいぢつて、それからしよく供物くもつ恰好かつかうよくして總代等そうだいられてつた注連繩しめなはもみからもみつて末社まつしやかざりをした。
 村落むらもの段々だん/\器量きりやう相當さうたう晴衣はれぎ神社じんじやまへあつまつた。つのは猶且やつぱりをんなで、疎末そまつ手織木綿ておりもめんであつてもメリンスのおび前垂まへだれとが彼等かれらを十ぶんよそほうてる。十位とをぐらゐでもそれから廿はたちるものでもみな前垂まへだれけてる。前垂まへだれがなければ彼等かれら姿すがた索寞さくばくとしてしまはねばらぬ。彼等かれらあしはぬ不恰好ぶかつかうしわつたしろ足袋たび穿いてる。遠國ゑんごくやまからすのだといふ模擬まがひおもだいへゴムせいおもてつた下駄げたけてるものもある。彼等かれら年齡ねんれいおうじて三にんにんたがひきながら垣根かきねそばつじかどつててはおもしたとき其處そこ此處ここらとうつつてあるくのである。彼等かれらたゞ朋輩ほうばいともつてることよりほかに「まち」というてもべつ目的もくてきもなければ娯樂ごらくもないのである。れで彼等かれらすこしでもことなつた出來事できごと見逃みのがすことをあへてしないのである。
 神官しんくわんちひさな筑波蜜柑つくばみかんだの駄菓子だぐわしだのするめだのをすこしばかりづつそなへたしよくまへすわつて祝詞のつとげた。れはおほきなあつかみいたので、それをさらかみつゝんだのであつた。包紙つゝみがみ幾度いくたびふところれしたとえていたれてよごれてる。祝詞のつときはめて短文たんぶんであつた。神官しんくわんはそれをきはめて悠長いうちやうこゑげてんだがそれでもいくらも時間じかんらなかつた。
 それが一まいあれば何處どこ神社じんじやつてもやくてゝるものとえてみじか文中ぶんちう讀上よみあぐべき神社じんじやいてなくて何郡なにごほり何村なにむら何神社なにじんじやといふ文字もじうづめてある。神官しんくわん其處そこいたると當日たうじつ神社じんじやたゞくちさきでいふのである。有繋さすがかれ間違まちがふことなしに退けた。神官しんくわんしよく横手よこてかへ一寸ちよつとしやく指圖さしづをすると氏子うぢこ總代等そうだいら順次じゆんじさかき小枝こえだ玉串たまくしつてしよくまへ玉串たまくしさゝげて拍手はくしゆした。彼等かれらたゞづ/\して拍手はくしゆらなかつた。ちながらはかますそんで蹌踉よろけてはおどろいた容子ようすをして周圍あたりるのもあつた。ういふ作法さはふをも見物けんぶつすべては熱心ねつしんらしい態度たいど拜殿はいでんせまつてた。
 おつぎも與吉よきちつて群集ぐんしふまじつてつてた。勘次かんじ其處そこつたのであるがしかかれはずつとうしろもみ木陰こかげにぽつさりとしてたのであつた。簡單かんたんながら一にちしきをはつたとき斗樽とだる甘酒あまざけ柄杓ひしやく汲出くみだして周圍しうゐつて人々ひと/″\あたへられた。しゆとして子供等こどもらさきあらそうてそのおほきな茶碗ちやわんへた。彼等かれらむし自分じぶんうちつくつたものゝはう佳味うまいにもかゝわらず大勢おほぜいともさわぐのが愉快ゆくわいなので、水許みづばかりのやうな甘酒あまざけ幾杯いくはいかたむけるのである。當日たうじつからでは數日前すうじつぜん當番たうばんもの村落中むらぢうあるいて二がふづゝでも三がふづゝでも白米はくまいもらつて、になれば當番たうばん者等ものらあつまつた白米はくまい晩餐ばんさんめしを十ぶんいてそのことごと甘酒あまざけつくむ。甘酒あまざけ時間じかんみじかいのとかうぢすくないのとであつつくむのがれいである。それだからたちまちにあまるけれどもまたたちまちに酸味さんみびてる。彼等かれら當日たうじつ前夜ぜんや口見くちみだといつて近隣きんりん者等ものらつてたかつて、なべ幾杯いくはいとなくわかしてはむのでしたゝらしてしまつて、それへ一ぱいみづしてくのである。
 子供等こどもらあひだまじつて與吉よきちたがひ身體からだけるやうにしてんだ。村落むらものんでるうしろから木陰こかげたゝずんで乞食こじきがぞろ/\と曲物まげもの小鉢こばちして要求えうきうした。
「よき、それえゝ加減かげんにするもんだよりや」おつぎはまだ茶碗ちやわんはなさない與吉よきちいた。
つてろ、さうだにさはりねえで、小穢こぎたねえ」
此奴等こねやつられはぐつたこたりやしねえ、それにさうだにさわぎやがつて、五月繩うるせ奴等やつらつてるもんだ」
「そうれお前等めえらえでんのにそんな小鉢こばちなんぞをけうへ突出つんださせちやへねえな、それだらだらツらあ、柄杓ひしやくそつちへおんしてるもんだ」
 下駄げた穿いてつた氏子うぢこ總代等そうだいら乞食こじきしかつたり當番たうばん注意ちういしたりした。神官等しんくわんらいし華表とりゐつたのちしばらくしてひとつて、華表とりゐそばにはおほきな文字もじあらはした白木綿しろもめん幟旗のぼりばたたかつてばさ/\とつてた。散亂さんらんした人々ひと/″\くせ其處そこにぼつゝり此處ここにぼつゝりとかたまつてつてるのであつた。
 しばらくしてみじかかたむいた。やしろもりつゝんで時雨しぐれくもひがしそらぱいひろがつた。濃厚のうこう鼠色ねずみいろくもすごひとせまつてるやうで、しかもくつきりともりかした。かつとよこかけひかりすごくもいろやゝやはらげて天鵞絨びろうどのやうななめらかなかんじをあたへた。さらにくすんだあかけやきこずゑにも微妙びめう色彩しきさい發揮はつきせしめて、ことあひだまじつたもみぢ大樹たいじゆこれえないこずゑ全力ぜんりよく傾注けいちゆうしておどろくべき莊嚴さうごん鮮麗せんれいひかり放射はうしやせしめた。時雨しぐれくもえいずるもみぢこずゑ確然かくぜんあがつてながら天鵞絨びろうどふかんでやうにもえた。まへそらさゝへてつた二でうしろはしら幟旗のぼりばたであつた。幟旗のぼりばたまずばた/\とひるがへつた。さらにはかにごつとつたかぜもりこずゑ散亂さんらんしてあざやかなひかりたもちながら空中くうちうひらめいた。數分時すうふんじのち世間せけんたちまちに暗澹あんたんたるひかりつゝまれて時雨しぐれがざあとた。村落むら何處どこにも晴衣はれぎ姿すがたなくつた。おつぎは與吉よきちれてとつくにかへつてたのであつた。
 よるつてあめんだ。
 村落むらもの段々だん/\瞽女ごぜとまつた小店こみせちかくへあつまつて戸口とぐちちかつた。こと/″\開放あけはなつて障子しやうじはづしてある。瞽女ごぜ各自かくじ晩餐ばんさんもとめてつたあとであつた。瞽女ごぜ村落むらから村落むらの「まち」をわたつてあるいて毎年まいねんめてもら宿やどついてそれから村落中むらぢう戸毎こごとうたうてあるあひだに、處々ところ/″\一人分いちにんぶんづゝの晩餐ばんさん馳走ちそう承諾しようだくしてもらつてく。それで彼等かれらよる時刻じこくると、目明めあき手曳てびきがだんだんと家々いへ/\くばつてあるく。さうしては手曳てびきがそれをあつめてれてかへつてる。不自由ふじいう彼等かれらやうやくのことで自分じぶんもとめるいへいてもいたはしなどにぽつさりとしてぜんはこばれるのをつてるので一どうはら滿たされてふたゝつゑすがるまでには面倒めんだう時間じかんえうするのである。
 小店こみせ座敷ざしきには瞽女ごぜおほきな荷物にもつふくろれた三味線さみせんとがいてあつてさびしくえてた。たゞ一人ひとり巫女くちよせ彼等かれら特有とくいう態度たいどたもつて正座しやうざつて、何時いつでもはなさない荷物にもつまへいてしやんとすわつてるのであつた。おもてには村落むらものやうやえて土間どまから座敷ざしきあがものもあつた。彼等かれら理由わけもなしにたゞさわぎはじめた。彼等かれら沼邊ぬまべあしのやうにあつまればたがひたゞざわ/\とさわぐのである。巫女くちよせはかなりのばあさんであつたので、白粉おしろいつけた瞽女等ごぜらむかつて揶揄からかやう言辭ことば彼等かれらあひだにははつせられなかつた。
「どうしたえ、口寄くちよせひとつやつてねえかえ」大勢おほぜいうちからしたものがあつた。あし葉末はずゑ微風びふうにもなびけられるやうこのためみなぞよ/\とまたさわいだ。群集ぐんしふうちにはおつぎもまじつてた。わか衆等しゆら先刻さつきからそれに注目ちうもくしてたが
「どうした、彼奴等あいつらことせてんべぢやねえか」
「おつぎことしてんべぢやねえか」彼等かれらはひそ/\とひそかしめあはせた。
せてんべえと」群集ぐんしふうしろはうから呶鳴どなつた。
「そんぢや此方こつちさつせえな」みせ女房にようばうはいつた。群集ぐんしふは一威勢ゐせいがついて巫女くちよせひざちかくまでぎつしりと座敷ざしきふさいだ。勘次かんじもおつぎも座敷ざしき窮屈きうくつずまひをしてた。みせ女房にようばうすこげた塗盆ぬりぼんみづを一ぱいんだ飯茶碗めしぢやわんせて
「ちつとおめえ退しやつてくんねえか」といひながら人々ひと/″\あひだ足探あしさぐりにあるいて巫女くちよせばあさんのまへいた。
「そんぢやだれだんべ、せんな」女房にようばうつたまゝどう見廻みまはして嫣然にこりとしていつた。それでもしばらくはすべてがくちつぐんでた。巫女くせよせばあさんははこつゝんだ荷物にもつそのまゝ自分じぶんひざきつけてつてる。
れやんべ、そんぢや」わかしゆ一人ひとりばあさんのまへ
生口いきぐちせててえんだが、いくらだんべ一口ひとくちは」
「五せんづゝでさ」巫女くちよせばあさんは落付おちついていつた。
たゞだまつてゝえゝんだつけかな」といふと
「えゝんだよそんで、自分じぶんおもつてたのんだから」
「かんぜんよりこせえてみづまあせば、えゝんだよ」そばから巫女くちよせばあさんのいふのもたずにくちした。
「三でえゝんだつけかな」ばあさんのまへすわつた一人ひとりうしろはういていつてかれ不器用ぶきよう紙捻こよりこしらへてさき茶碗ちやわんみづひたして三丁寧ていねいまはしてまゝ紙捻こよりみづひたしていた。
ろよ、近頃ちかごろ薩張さつぱりてくんねえが、れことにでもつたんぢやねえかなんてつから」とみせ女房にようばう戯談ぜうだんまじへた。
 巫女くちよせしばらあはせてくちなかなにねんじてたが風呂敷包ふろしきづゝみまゝはこ兩肘りやうひぢいて段々だん/\諸國しよこく神々かみ/″\んで、一あつめるといふ意味いみ熟練じゆくれんしたいひかた調子てうしをとつていつた。がや/\とさわいでいへ内外ないぐわいともにひつそりとつた。
行々子よしきり土用どようえつたてえに、ぴつたりしつちやつたな」と呶鳴どなつたものがあつた。やうやしづまつた群集ぐんしふ少時しばしどよめいた。しかすぐしづまつた。
白紙しらがみ手頼たよみづ手頼たより、紙捻こより手頼たよりにい……」と巫女くちよせばあさんのこゑ前齒まへばすこけてため句切くきりやゝ不明ふめいであるがそれでも澁滯じふたいすることなくずん/\とうてつた。なゝめ茶碗ちやわんみづつた紙捻こよりがだん/\にみづうて點頭うなづいたやうにくたりとつた。
「どうせよ一つにやれぬを、わかれたいとはおもへども……」と一どうみゝひゞいたときた/\」としづまつて群集ぐんしふなかからこゑはつせられた。巫女くちよせばあさんはついひぢすこうごかして乘地のりぢつた。
れがというたとて、自由自儘じいうじまゝるならば、今日けふ巫女あづさるまいにい……」ばあさんはおなじやうな反覆くりかへした。
ところでまつと饒舌しやべらせろえ」と一人ひとりさら紙捻こよりつてみづまはした。
「かんぜんよりくた/\してふことかねえや」いひながらかれめた。
れがよこゝろはこうなれど、おこるまえぞえ見棄みすてまえ、たがひかほあはせたら、言辭ことばけてくだされよう……」巫女くちよせ時々とき/″\調子てうしげていつた。
「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあくぞ」群集ぐんしふうしろから呶鳴どなつた。群集ぐんしふ少時しばしたどよめいたが一でも巫女くちよせのいふことをはづすまいとしてしづまつた。巫女くちよせばあさんの姿勢しせいはこはなれて以前いぜんふくしたとき抑壓よくあつされたやうにつてすべてがにはかにがや/\とさわした。彼等かれらえず勘次かんじとおつぎとにたいして冷笑れいせうあびけてゐるのであつたが、しかしそれをらぬ二人ふたりたゞ凝然ぢつとしてた。すべてがさわあひだつてさうして二人ふたり容子ようすわざとらしくえるまで際立きわだつてた。巫女くちよせとなへたことだけでは惡戯いたづらわかしゆ意志こゝろらない二人ふたりには自分等じぶんらがいはれてることゝはこゝろづくはずがなかつたのである。
 群集ぐんしふうしろはうからのにはかさわぎが内側うちがはおよんだ。晩餐ばんさんまして瞽女ごぜれてところなのである。それをわかしゆ揶揄半分からかひはんぶんみちひらいてやらうとしてはるまいとしてさわいだのであつた。瞽女ごぜ危險相あぶなさうにしてやうや座敷ざしきあがつたとき
えねえのにさうだに押廻おしまはすなえ」瞽女ごぜあといて座敷ざしきはしまで割込わりこんで近所きんじよぢいさんさんがいつた。わか衆等しゆらたゞ
「ほうい/\」と假聲こわいろはやした。ぢいさんは勘次かんじそばたのをつけて
「なあ、勘次かんじさん、こんでわけえものゝところがえゝかんな」といひけた。そとではふたゝはやてゝさわいだ。しろ手拭てぬぐひまげうしろすこあらはれた瞽女被ごぜかぶりにして瞽女ごぜえたので座敷ざしきにはかいきたやうにつた。瞽女ごぜひとつにかたまつてるべくランプのあかるいひかりけようとしてる。態度たいど心憎こゝろにくおもわかしゆ
手拭てぬげかぶつてこつちいてる姐樣あねさまことせててえもんだな」ふさがつたかげから瞽女ごぜ一人ひとり揶揄からかつていつたものがある。
んちいかせてせえ」先刻さつきぢいさんはいつた。かれかほには痘痕あばたふかいんしてる。
「どうしたせてんのか、そんだられかんぜんよりこせえてやつかれえ」ぢいさんがさらにいつたとき返辭へんじがなかつた。
「えゝ、なさけねえ奴等やつらだな」ぢいさんはかけかみてた。店先みせさき駄菓子だぐわしれた店臺みせだいをがた/\とうごかすものがあつた。
菓子くわしなんぞまたつちやへねえぞ、うむ、そつちのはう酒樽さかだるとこにもつてゝぐちでもつこかねえでもらあべえぞ、みんな」と痘痕あばたぢいさんはひと乘地のりぢつていふのであつた。
「さうぢやねえんだよ、店臺みせでえ自分じぶんあるはじまつたからつかめえたとこなんだよ」
「えゝからガラスでもおつかねえやうにしろえ、此方こつちのおつかさまにおこられつから」
「そんでも店臺みせでえは四つあしなに穿いてら、土鍋どなべ片口かたくちさらだ、どれも/\けてらあ」
何處どこらかあるいてたとえてあしほこりだらけだと」二三にんこゑ戯談ぜうだんかへした。いへ内外うちそとのむつとした空氣くうきます/\ざわついた。店臺みせだいへはあつころにはありおそふのをいとうて四つのあしさらどんぶりるゐ穿かせて始終しじうみづたゝへてくことをおこたらないのであつた。
「どうれ、だれせねえけりやれでもせてんべかえ」うしろはうから一人ひとりすゝんでたものがあつた。
たゞぢや駄目だめだぞ」痘痕あばたぢいさんはぐにらぬことをいつた。
「そんぢやこまつたなあ、おめえどうしたばあさまこと死口しにぐちでもせてねえか」
だよ、つてつからはやてくろなんてはれたにや縁起えんぎでもねえから」ぢいさんはつめあたまいた。
ひどくおめえ近頃ちかごろぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだばゞあでもこがれてる所爲せゐぢやあんめえ、頭髮あたままでぬけやうだな」剽輕へうきん相手あひてぢいさんのあたまかけてゆさ/\とうごかした。乘地のりぢつてぢいさんはすこしろまくもつおほはれたやう※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつてやゝ辟易へきえきした。
大豆打でえづぶちにかつころがつたてえに面中つらぢうめどだらけにしてなあ」剽輕へうきん相手あひてます/\惡口あくこうたくましくした。群衆ぐんしふ一聲ひとこゑをはごとわらひどよめいた。
篦棒べらぼう、さうだやつけえつらかぜとこあるけるもんぢやねえ」ぢいさんはむきにつていつた。
「どうしたあけ手拭てねげかぶらせらつたんべえ」
らさうだ手拭てねげなんざあかぶつたこたねえよ」
「そんでも疱瘡神はうそうがみあけ手拭てねげきだつちげな」
「そんだつてかぶんねえよ」痘痕あばたぢいさんはすつかりしをれてしまつた。群集ぐんしふみなはらかゝへた。
「どうれ、けえつて牛蒡ごぼうでもこせえべえ、明日あした天秤棒てんびんぼうかついで支障さはりにならあ」剽輕へうきん相手あひておもしたやうにいつた。
「どうせ、おめえやうに紺屋こんや弟子でしてえな手足てあし牛蒡ごばうでもかついであるくのにや丁度ちやうどよかんべ」復讎ふくしうでも仕得しえたやうな容子ようすぢいさんはいつた。
資本もとでの二りやうぐれえでこんで餓鬼奴等がきめらまでにや四五にんいのちつないでくのにやあけ手拭てねげでもかぶつてるやう放心うつかりした料簡れうけんぢやらんねえかんな」かれぢいさんのあたまけていつてついとつてしまつた。あとではなみいはちつけるやうしばらくさわいだ。わかをんなみなぶんわらつて、また痘痕あばたぢいさんを熟々つく/″\てはおもしてたもとくちおほうた。到頭たうとうきま惡相わるさうにしてぢいさんもつてしまつた。
はこなかにやなんだねえつてんなあ、人形坊にんぎやうばうだつて本當ほんたうかね」まへはうわかしゆ巫女くちよせ荷物にもつかけていつた。
「なあにいまぢや幣束へいそくだとよ」とものがいつた。
せらんねえんでさ、られつと何程なんぼせててもあたんなくなつちやつてね、自分じぶんねえらつても屹度きつとれんでさ」ばあさんは風呂敷ふろしきまくかけわかしゆをそつとはらつていつた。さうすると
せらんねえよ、れがたねだから」呶鳴どなつたものがあつた。
 さういふさわぎをして幾度いくどかもぢ/\と身體からだうごかして勘次かんじおもつてばあさんのまへすゝんだ。
「わしげ一つせてておくんなせえ、死口しにぐちでがさ」
「そんぢやさゝつちよつてておくんなせえ」巫女くちよせばあさんはいつた。
此方こつちつちよつてんべ」と勘次かんじかけときうしろはう呶鳴どなつた。しばらくしてちひさなたけからつたへられて茶碗ちやわんみづなかかれた。一どうふたゝしづまつた。勘次かんじたけもつ茶碗ちやわんみづを三まはしてそつとはなした。ランプのひかりたけみづから部分ぶぶんあをく、みづぼつした部分ぶぶん水銀すゐぎんのやうにしろひかつた。巫女くちよせばあさんは先刻さつきおなじくはこひぢいて
してくれたぞよう……」ときまつたやうな反覆くりかへしつゝまだ十ぶん意味いみさないのに勘次かんじ整然ちやんすわつたひざ兩手りやうてぼうのやうにいてぐつたりとかしられた。おつぎもしをらしく俯向うつむいた。島田しまだうたおつぎの頭髮かみかるいランプにひかつた。おつぎはとく勘次かんじゆるされて未明みめい鬼怒川きぬがはわたしえて朋輩同志ほうばいどうしとも髮結かみゆひもとつたのであつた。まげにはあぶらつて上手じやうずけた金房きんぶさすこしざらりとして動搖ゆらめいた。巫女くちよせ漸次ぜんじうてくうちに
姿すがたかくれてれば、なにるまいとおもだろが、れはところへは、日日ひにち毎日まいにちついてるぞ、あめらねどみのり、かさりてよ……」と巫女くちよせこゑ前齒まへばすこけたにもかゝはらず、一つには一どうがひつそりとして咳拂せきばらひをもせぬせいであらうがきはめて明瞭めいれうきとられた。
「一ならず、二不思議ふしぎたせてらせたに……」ばあさんのこゑついひゞいた。勘次かんじもおつぎもたゞ凝然ぢつとしてるのみである。
れが達者たつしやるならば……」といふまれたとおもふとやが
れるよほどこゝろなら、ほんに苦勞くろでも大儀たいぎでも、つぼみはならさずに、どうかかせてくだされよう……」熟練じゆくれんしたこゑ調子てうしが、さうでなくても興味きようみつてる一どうみゝにしみじみとひゞいた。
からすかないはあれど、草葉くさばかげで……」ばあさんが自分じぶんこゑつてとき勘次かんじはぼろ/\となみだこぼした。おつぎもそつとなみだぬぐつた。
「ほんの假座かりざのことなれば、れにてれはかへるぞよう……」それからまた
からすきがそでなくもう……」と反覆くりかへしつゝ巫女くちよせばあさんのこゑかるいてそつといたやうにんだ。
まねえ」勘次かんじはぽつさりといつてまたなみだよこぬぐつた。
本當ほんたうたんだよ、可怖おつかねえやうだな」其處そこわか女房にようばうはしみ/″\といつた。それからつゞいての二三にんうへやら生口いきぐちやらをせた。さうして座敷ざしきすみ瞽女ごぜかはつて三味線さみせんふくろをすつときおろしたとき巫女くちよせ荷物にもつはこ脊負しよつて自分じぶんとまつた宿やどかへつてつた。
 三味線さみせんばちが一いとれるとしんみりとした座敷ざしききふいきほひづいてランプのひかりにはかあかるいやうにつた。勘次かんじはそれをくにへないで、かれかぎつて自分じぶん與吉よきちいて自分じぶんうちへとやみなかぼつした。わかしゆうは三にん後姿うしろすがた
きりぎりすぢやねえが、くちらさねえぢやらんねえな」といつた。
「そんだが、今夜こんやはしみ/″\いたんぢやねえけ、あんでもおしなさんこた何程なんぼしいかんねえのがだかんな」
いまだつてそのはなしすつといくらでもしてんだかんな」
「そんだがよ、先刻さつきてえにいてんのに惡口わるくちなんぞいふなつみだよなあ」とわか女房等にようばうらはそれでもしんみりといつた。
 からしばらくのあひだ勘次かんじ以前いぜんとはかはつておつぎをひとはなしてすことがやうつた。さうかとおもつてうち村落中むらぢう勘次かんじのおつぎにたいする態度たいどまつた以前いぜんかへつたことをみとめずにはられなくなつた。村落むらいきほ嫉妬しつと猜忌さいぎとそれからあらたおこつた事件じけんたいするやうな興味きようみとをもつ勘次かんじうへそゝがれねばならなかつた。

         十六

 勘次かんじほとんど事毎ことごと冷笑れいせうまなこもつられてるのであつたがしかしそれがいや感情かんじやうかれあたへるよりも、かれかれふところ幾分いくぶん餘裕よゆうしやうじてたことがすべての不滿ふまんつぐなうてなほあまりあることであつた。おしながまだきてころとなり主人しゆじん内儀かみさんにむかつて
「お内儀かみさんなんにも心配しんぺえなんざくつて晴々せい/\としてんでござんせうね」おしなはつく/″\といつたことがある。
何故なぜそんなこといふんだい」内儀かみさんはあやしんでいたら
「そんでもお内儀かみさんべる心配しんぺえなんざちつともねえんだから、わたしやさうだとおもつてせえ」おしなはいつた。内儀かみさんは成程なるほどさういふ心持こゝろもちるのかと、それから種々いろ/\身分みぶん相應さうおう苦勞くらうまぬことをはなしかせると
「さうでござんせうかねお内儀かみさん、わたしまたけてもれてもんねえの心配しんぺえばかしゝてんだから、さういことねえひと心配しんぺえなんちやねえんだとばかしおもつてたんでござんすよ、ねえ本當ほんたうに」おしなかんへたやうにいつたのであつた。おしながそれほど苦勞くらうした米※べいこく[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、234-7]問題もんだい死後しご四五年間ねんかん惨憺さんたんたる境遇きやうぐうからやうや解決かいけつげられようとしたのである。かれ毎年まいねんふゆからまだ草木さうもくさぬはるまでのうち彼等かれらにしてはおどろくべき巨額きよがくの四五十ゑんるのであつた。れはふる創痍さういあなとうぜられるにしてもかれ土間どまにはとりとやしたに三にん安心あんしんしてるだけの食料しよくれうもとめてくことが出來できやうつた。おつぎは二十はたちこゑいて與吉よきち學校がくかうやうつた。かれえずあるものさがすやうなしか隱蔽いんぺいした心裏しんりあるものられまいといふやうな、不見目みじめ容貌ようばう村落むらうちさら必要ひつえうやうやげんじてた。かれ段々だん/\彼等かれら伴侶なかまむかつて以前いぜんごとくこせ/\といたづらに遠慮ゑんりよした態度たいどがなくなつた。かれ村落むらすべてにむかつてはらつた恐怖きようふねんことごと東隣ひがしどなり家族かぞくにのみさゝげてしまつた。
 あひだかれ卯平うへいとはたゞくわいつたのみである。卯平うへいはおしなが三年目ねんめぼんにふいとてふいとつたのである。卯平うへいは八十にちかつてながらおそろしい岩疊がんでふ身體からだかみしろかつすくなつたが肌膚はだには潤澤じゆんたくがあつた。卯平うへいよるばんをしてもあつにはには※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)くさむしりをしたり、藏々くら/″\への使つかひにつたり、幾分いくぶんいそがしさをかんじても、使つかひにけば屹度きつと茶菓子ちやぐわしつゝまれたり、手拭てぬぐひもらつたり、それから主人しゆじんからは給料きふれう以外いぐわい賞與しやうよがあつたりするのですこ堅固けんごにすれば、ふところには小錢こぜにたくはへてくことも出來できるのであつたがかれくコツプざけかたむけたのでかれふところけつして餘裕よゆうそんしてはなかつた。野田のだ郷里きやうりからは比較的ひかくてきちかいので醤油藏しやうゆぐら段々だん/\發達はつたつしてくにれてやとはれて壯丁わかものえてた。郷里きやうりでは傭人やとひにん給料きふれう暴騰ばうとうしてほどどの村落むらからも壯丁わかものつた。れがしきりに交代かうたいされるので、卯平うへいは一しか郷里きやうりつちまなくても種々しゆ/″\變化へんくわみゝにした。かれは一ばんおつぎのことが念頭ねんとううかぶ。十七のあきたおつぎの姿すがたがおしなくもたことをおもしては、他人ひとうはさいて時々とき/″\つてもたい心持こゝろもちがした。しかしおしなんだとき野田のだへのぎはがよくなかつたことを彼自身かれじしんこゝろにもゆるところがあつたのでひていや勘次かんじ挨拶あいさつをして一時いつときなりとも肩身かたみせまくせねばならないのをいとうてつひ憶劫おくくふるのであつた。年齡としむにしたがつてみじかかんずる月日つきひがさういふあひだ循環じゆんくわんして、くすんでえることのおほ江戸川えどがはみづ往復わうふくする通運丸つううんまるうしえるやうな汽笛きてきみて、ふゆさむさがひどくなると以前いぜんからのくせこし疼痛いたみかんずることがあつた。くら傭人やとひにんためかゝへてある醫者いしやもらつても、老病らうびやうだからくすりんでところで、さう效驗きゝめえるのではないがそれでも、みたけりやむがいといふのみで別段べつだんみていつてくれるのでもない。卯平うへいいくんでも自分じぶんふところいたまないのだからとおもつてても醫者いしやのいふとほりどうもはき/\としないので晝間ひるまるべく蒲團ふとんにくるまるやうにしてた。
 卯平うへい年末ねんまつ出代でがはり季節きせつになれば持病ぢびやうにして、奉公ほうこうもどうしたものかと悲觀ひくわんすることもあるが、我慢がまんをすればしのげるのでつひ居据ゐすわりにつてるうちに何時いつでもはる季節きせつかへつて、郊外かうぐわい際涯さいがいもなくうゑられたもゝはなが一ぱいあかくなると木陰こかげむぎあをおほうて、江戸川えどがはみづさかのぼ高瀬船たかせぶね白帆しらほあたたかえて、おほきな藏々くら/″\建物たてものむなしくほどさい傭人やとひにん桃畑もゝばたけに一にち愉快ゆくわいつくすやうになれば病氣びやうきもけそりとわすれるのがれいであつた。
 清潔好きれいずきかれ命令めいれいされるまでもなく、にはにぽつちりでもくさえれば※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしらずにはられない。狹苦せまくるしいにしてもきちんとした傭人部屋やとひにんべや周圍しうゐつち箒目はうきめれてみづでもつてたり、其處そこらでつく朝顏あさがほなへもらつてどんな姿なりにもはちうゑたりしてると奉公ほうこうつらくもおもはないのであつた。それも二三ねんあひだ普通ふつう人間にんげんならばもう到底たうていやくにもたぬ年齡ねんれいたつしてるので、假令たとひかれ境遇きやうぐう安佚あんいつゆるさないためうして精神的せいしんてき健康けんかうたもたれてるのだとしても、かれ老躯らうく日毎ひごと空腹くうふくから疲勞ひらうするため食料しよくれう攝取せつしゆするわづか滿足まんぞく度毎たびごと目先めさきれてるかれらつしてところみちびいてるのである。
 ふゆときかれいままでのこしいたみとちがつた一しゆ疾患しつくわんしやうじたやうにかんじた。醫者いしや依然いぜん僂痲質斯レウマチスなのだといつて、さむばんをしてあるくのは絶對ぜつたいわるいといふのであつた。それでもかれ我慢がまん出來できるだけつとめた。出代でがはり季節きせつときかれはまたしきりにまどうたが、どうも其處そこつてしまふのがしい心持こゝろもちもするし、逡巡しりごみして居据ゐすわりになつた。郷里きやうりからたものにいてかれ勘次かんじ次第しだい順境じゆんきやうおもむきつゝあることをつた。かれこゝろ動搖どうえうしてもろつたこゝろひどあはれつぽくなさけなくなつた。しかながあひだ機嫌きげんそこうた勘次かんじもとかへるのにはかれ空手からてではならぬといふことをふかねんとした。かれそれからといふものるべくコツプざけ節制せつせいしてふところあたゝめようとした。從來じうらいかれとほ奉公ほうこういくらでも慰藉ゐしやみち發見はつけんしてたのは割合わりあひあたゝかなふところほとんどつひやしつゝあつたからである。それでかれいまさうがついてても身體からだ養生やうじやうをしなくてはならぬといふことが一ぱうるのでそれがおもほどにはいかなかつた。さういふ心配しんぱいまたはるあたゝかにつて病氣びやうきわすれるとかへることもまゝ消滅せうめつしてしまふのである。しかしどう我慢がまんをしててもあと幾年いくねんつとまらないといふことを周圍しうゐひとるのである。ことながあひだ野田のだ身上しんしやうつて近所きんじよくら親方おやかたをしてるのが郷里きやうりちかくからたので自然しぜん知合しりあひであつたが、それが卯平うへい引退いんたいすゝめた。かれ故郷こきやう幾年目いくねんめかでついでもあるし、さいは勘次かんじのことは村落むらうちつてたから相談さうだんをしててやらうといつた。卯平うへい近頃ちかごろ滅切めつきりくぼんだ茶色ちやいろしかめるやうにしながらかすかなゑみうかべた。
 親方おやかた勘次かんじはなしをしたとき
「わしや、なあに、うちのもんだから面倒めんだうねえたはねえね」勘次かんじあぶららぬ態度たいどでいつた。
勘次かんじさん近頃ちかごろ工合ぐあひがえゝといふはなしだが」親方おやかた義理ぎりぺんのやうにいふと
工合ぐあひえゝつちこともねえが、んでも命懸いのちがけではたれえてんだから、他人ひとのがにやけえぜねになるやうにもえべが、らにこんで爺樣ぢさまでえ借金しやくきんけねえでんだからそれせえなけりやかねえでもへんだよ、そんだがそれでばかりいごれねえな」
「そんぢや、ときにや勘次かんじさんも理由わけだね」
「そりやさうだが」勘次かんじ何處どことなく拍子ひやうしへていつた。
勘次かんじさんそれでも※類こくるゐ[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、238-12]はなか/\容子ようすだね」突込つゝこんでくと
くれえなくつちややうねえもの、此處ここ當座たうざにや病氣びやうきときでもからつき挽割麥ひきわりばかしのめしなんぞおんされて、隨分ずいぶんつれつたんだよ、こんでさうえこた、わすらんねえもんだかんな」勘次かんじ到頭たうとう要領えうりやうない返辭へんじをするのみであつた。
 くら親方おやかた勘次かんじがどういふ料簡れうけんであるといふことは卯平うへいへはいはなかつた。假令たとひどうしたところ勘次かんじもとかへらねばならぬことにきまつてるのだから、それには戸板といたせてやるやう病氣びやうきおこるまで奉公ほうこうさせてくよりも、丈夫ぢやうぶなうちにひまらせてかへしてしまへば、あるひ勘次かんじとのあひだおもつたほどのこともないだらうと、ほどよいことに卯平うへいはなした。卯平うへいもとより親方おやかたからうち容子ようすやおつぎの成人せいじんしたことや、隣近所となりきんじよのこともちくかされた。卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろあたゝかなひかりたたへた。
 卯平うへいみじか時間じかんであつたががついてから心掛こゝろがけたので財布さいふにはいくらかのたくはへもあつた。わづか衣物きものであるがそれでもすゝけたやうにめた風呂敷ふろしきおほきなつゝみが二つ出來できた。一つの不用ふようぶん運河うんがから鬼怒川きぬがはかよ高瀬船たかせぶねたのんで自分じぶん村落むら河岸かしげてもらふことにして、かれ煙草たばこの一ぷくをもわすれないやうにつけた。かれ股引もゝひき草鞋わらぢ穿いて大風呂敷おほぶろしき脊負せおつてつた。麥酒ビール明罎あきびんほんへ一ぱい醤油しやうゆ莎草繩くゞなはくゝつてげた。それからかれまた煎餅せんべいを一ふくろつた。醤油しやうゆこめとがいので佳味うま煎餅せんべいであつた。かれは三つのときわかれて五つのあき一寸ちよつと與吉よきちがもう八つか九つにつてるとかぞへて土産みやげひたくつたのである。煎餅せんべいふくろ毎日まいにち使つかつて手拭てぬぐひくゝつて荷締にじめのひもしばりつけた。かれふゆになつてまたおこりかけた僂痲質斯レウマチスおそれてきはめてそろ/\とはこんだ。利根川とねがはわたつてからは枯木かれきはやし索寞さくばくとして連續れんぞくしつゝかれんだ。かれ處々ところ/″\へのつそりとこしおろしてきな煙草たばこをふかした。荷物にもつ路傍みちばたおろときかれ屹度きつとしばりつけた手拭てぬぐひつゝみけて新聞紙しんぶんしふくろのがさ/\とるのをいて安心あんしんした。枯木かれきはやしのぼ煙草たばこけぶりれたまゝすつといそいでえだからんで消散せうさんするのもかくさずに空洞からりとしてる。卯平うへい凝然ぢつとしてると萵雀あをじしのび/\にかわいた落葉おちばんでかれちかくまでてはすいとえだんだ。かれ周圍しうゐには一さいこゝろかされることもなくたもと燐寸マツチけてはまた燐寸マツチたもといれて、さうしてからげつそりとちた兩頬りやうほゝにくさらにぴつちりと齒齦はぐきすひついてしまふまでゆるりと煙草たばこうて、煙管きせるをすつといてからまた齒齦はぐき空氣くうきうてけぶりと一つにんでしまつたかとおもふやうにごくりとつばんで、それからけぶりすのである。かれ周圍しうゐさびしいともなんともおもはなかつた。しか彼自身かれじしんるから枯燥こさうしてあはれげであつた。かれすこしきや/\といたこしのばして荷物にもつ脊負せおつてつた。てた燐寸マツチえさしが道端みちばた枯草かれくさけて愚弄ぐろうするやうながべろ/\とひろがつても、見向みむかうともせぬほどかれものうげである。野田のだからは十らぬ平地へいちみち鬼怒川きぬがは沿うた自分じぶん村落むらまでるのに、ふゆみじか雜木林ざふきばやしこずゑかれたなかつた。かれ自分じぶんいへいたとき醤油しやうゆげたいたほどえてた。かれやつとのことで戸口とぐちつた。勘次かんじばうとしてたらうちはひつそりとくらい。戸口とぐちてゝたらかぎかけてあつた。
たかえ」それでも卯平うへい呶鳴どなつてたが返辭へんじがない。卯平うへいくちうちつぶやいて裏戸口うらとぐちまはつてたら其處そこうちから掛金かけがねかゝつてる。かれはそれでも煙管きせるして隙間すきまから掛金かけがねをぐつといたらせん※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしてなかつたのですぐはづれた。かれくらしきゐまたいでたもと燐寸マツチをすつとけた。幾年いくねんなくても勝手かつてつてるのでかれはしらかけてあるランプをけて、あへ手足てあしあたゝめるため麁朶そだをぽち/\とつて火鉢ひばちべた。すゝけた藥罐やくわんを五とくかけてそれからかれ草鞋わらぢをとつた。かわいたみちあるいてたのでいくらもよごれないあしそこを二三づゝでこすつて座敷ざしきあがつた。
 勘次かんじみなみ風呂ふろつてた。かれひる寸暇すんかをもをしんで勞働らうどうをするので一つにはれがなべの仕事しごとはげないほど疲勞ひらうおぼえしめてるのでもあるが、すこふところ窮屈きうくつでなくなつてからはなが休憇時間きうけいじかんには滅多めつたなはふこともなく風呂ふろつてははなしをしながら出殼でがらちやすゝつた。
 その與吉よきちみなみ女房にようばうから薄荷はくかはひつた駄菓子だぐわしを二つばかりもらつた。うら垣根かきねから桑畑くはばたけえてあるきながら與吉よきち菓子くわししやぶつた。
「どれ、おれげもちつとだしねえか」おつぎは與吉よきちからすこいて自分じぶんくちれた。
ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、241-12]かくおつえちやだぞう」與吉よきち懸念けねんしていふと
「おゝ薄荷はくかだこら、くちなかすう/\すら、おとつゝあげもつてろ」おつぎは菓子くわしけようとすると
「えゝから、よきげめさせろ」勘次かんじはおつぎをせいした。三にん他人ひといてない闇夜やみよ小徑こみちうして自分じぶんにはもどつた。
「どうしたんだんべ、おとつゝあ」おつぎは隙間すきまからあかりをにはかどまつていつた。勘次かんじすくんだやうにつてだまつた。おつぎは隙間すきまからのぞいて
ぢいてえだな、おとつゝあ」と小聲こごゑげた。それから勘次かんじのぞいて、かぎはづして這入はひつた。與吉よきち見識みしらぬぢいさんがるのではにかんでおつぎのうしろかくれた。
ぢいだ」とおつぎはさけんで卯平うへいそばつた。
ぢい今日けふたのか」おつぎの挨拶あいさつつゞいて
「おとつゝあおそかつたな」勘次かんじもいつた。
だすのもそんなにはやかなかつたつけが、しばらあるきつけねえ所爲せゐかなんぼにもあしねえで、かういにおそくなるつもりもなかつたつけが」卯平うへいおもくちでいつた。
ぽどつてゝかぢいは」おつぎは麁朶そだしながらいつた。
ひいつたけたばかりよ」卯平うへいくぼんだ茶色ちやいろしかめるるやうにして
「おつうもかくなつたな、途中とちうでなんぞ行逢いきやつちやわかんねえな、そんだがりや有繋まさかれこたわすれなかつたつけな」
わすれめえなぢいは」おつぎは卯平うへいたいしてこそつぱい一かはあひだへだてゝるやうなかんじがしてながら、くせあまえたやうしたでいつてちう/\とした藥罐やくわんけた。卯平うへいはおつぎの挨拶あいさつ今更いまさらごとくしみ/″\とうれしくかんじた。卯平うへいはおしなんで三年目ねんめぼんとき不器用ぶきよう容子ようすかれがどうしておもひついたかおつぎへ花簪はなかんざしを一つつてた。十七のおつぎがどれほどそれをよろこんだかれなかつた。おつぎはけつしてそれをわすれなかつた。
ぢいげおちやえべえ」おつぎはつて茶碗ちやわんあらつた。卯平うへい濃霧のうむふさがれたもりなか踏込ふみこむやうな一しゆ不安ふあんかんじつゝたのであつたが、かれはおつぎの仕打しうちこゝろ晴々せい/\した。卯平うへいは、まだ菓子くわししやぶりながらかくれるやうにして與吉よきち
れことわすれたんべら、かくつたとおもつてたつけが本當ほんたうわかんねえほどかくつたな」寡言むくち卯平うへい種々いろ/\饒舌しやべつた。
んでも學校がくかうくんだもの」おつぎはちやれながらいつた。
「さうら」と卯平うへい荷物にもつしばりつけた煎餅せんべいつゝみ與吉よきちしてやつた。
「おつう、手拭てねげえてねえか、野田のだでも一ばんうめえんだから」卯平うへいはいつたがおつぎのひまどれるので自分じぶん手拭てぬぐひいて勘次かんじまへして、かれさらに一まいをとつて與吉よきちつた。
「よき、それもらあもんだ。ぢいれるつちのに」おつぎは茶碗ちやわん卯平うへい勘次かんじとのまへゑつゝいつた。
「こつちへあがつてもらあもんだ」勘次かんじもいつた。土間どまつて與吉よきちはそつと草履ざうりいで危險相あぶなさうしてとつた。さうしてぐにぬすむやうにんだ。
とほくのはうのがんだぞ、われうまかんべ」おつぎは自分じぶんも一まいかじながらいつた。
「うまかねえやそんなに」與吉よきちはおつぎのたもとかくれるやうにしていつた。甘味あまみつよ菓子くわしんだくちに、さうして醤油しやうゆあぢ區別くべつするまで發達はつたつしたしたたない與吉よきち卯平うへいとほもたらしたとかせられたほどにはかんじなかつたのである。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなこといふもんぢやねえ、そんだらねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、244-8]げよこしつちめえ」おつぎはちひさなこゑでいつて尻目しりめけた。與吉よきちはさういひながにしただけはぽり/\とんだ。乾燥かんさうしたひゞきが三にんくちつた。
 卯平うへい幾杯いくはいたゞちやすゝつた。壯健たつしやだといつてもかれがげつそりとちてやはらかなものでなければめなくなつてた。卯平うへいまたおつぎへ醤油しやうゆびんして
つてればなんぼでもわけねえんだが荷物にもつがあるもんだから、れつきりしかつちやねえつちやつた、んでもくらぢやこのうへはねえんだ、炊事かしきわれすんだんべから、われそつちへしまつてけな」
大變たえへんだつけなぢい荷物にもつあんのになあ、れだけぢやしばらくあんべよ」おつぎはびんはしらそばいた。
荷物にもつはさうでもねえが、身體からだかねえでな、どうも」卯平うへい煙管きせるんだ。
ぢいはどうしたつぺ、おまんまたべたんべか」おつぎはあへていひけるといふ態度たいどでもなく勘次かんじむかつていつた。
「おらどつちでもえゝや」卯平うへいすこ遠慮ゑんりよまじへていつた。
「どつちでもえゝつてはらつちやしやうあんめえな」おつぎは茶碗ちやわんはしとをたなからおろした。
つけたなどうしたんべ」おつぎはかへりみていた。
らねえや、わるくなつちやつてまんねえから」
「そんぢやこまかくきざんだらどうしたんべ」おつぎはとん/\と庖丁はうちやう使つかつた。
「おつけまあ、ちつともなんざねえや、よきわれみんないもすくつちやつたな」
 おつぎは鍋葢なべぶたをとつていつた。
「おつけなにらねえから一ぺえんべ」卯平うへい遲緩もどかさうにいつた。
「そんぢやこの醤油しやうゆけてんべな」おつぎは卯平うへいまへぜんゑてびん醤油しやうゆ菜漬なづけけた。
「それ、そこはうまはつてこぼれらな」勘次かんじ先刻さつきから、おこつたやうなはにかんだやうな、なんだか落付おちつきわる手持てもちのないかほをして、かへつ自分じぶんをば凝然ぢいつもせぬ卯平うへいかられるやうに、餘所よそてはまたちらと卯平うへいつゝあつたがこのときおつぎの手許てもとくちばしれた。とき醤油しやうゆがごつと菜漬なづけたゞよふばかりにつた。
「そうれろ」勘次かんじはそつけなくいつた。おつぎがびんふたゝはしらそばくと、
「まだ其處そこつくるけえしちや大變たえへんだぞ、戸棚とだなへでもえてけ」勘次かんじ注意ちういした。卯平うへい藥罐やくわんいで三ばいきつした。わづか醤油しやうゆあぢのみが數年來すうねんらいかれした好味かうみたるをうしなはなかつたが、挽割麥ひきわりむぎつた粗剛こはめし齒齦はぐき到底たうていそれを咀嚼そしやくあたはぬのでこそつぱいまゝくだした。おつぎがぜんかうとすると
醤油しやうゆ打棄うつちやらねえで大事でえじにしてけ」勘次かんじ小皿こざら數滴すうてきをしんだ。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことはねえつたつて打棄うつちやるもなあんめえな」おつぎは干渉かんせふぎた勘次かんじ注意ちういいやだとおもふよりも、たま/\つた卯平うへいそばでいはれるのがきまりがわるいのでのどそこつぶやいた。
ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、246-11]いまめえくんねえか」與吉よきちながもとうごかしてるおつぎへきはめてちひさなこゑ請求せいきうした。
りや、そつから佳味うまかねえなんていふもんぢやねえ、しくなるくせに」おつぎはこつそりしかつた。
「そうらわれつてたんだ、しけりやいくらでもつてけ」卯平うへい不器用ぶきようないひかたをしながら煎餅せんべいをとつてつた。與吉よきちはそれでもくぼんだしがめて卯平うへいがまだこそつぱくてゆびさき下唇したくちびるくちなかむやうにしながら額越ひたひごしに卯平うへいた。

         十七

 つぎあさ與吉よきちはまだみなぜんゑられぬうちから學校がくかうくとてはさわいだ。村落むら生徒等せいとら登校とうかうはやいことを教師けうしからたゞごんでもめられてたいので、あわてなくてもいのにしる煮立にたたぬうちから強請せがむのである。與吉よきちれで毎朝まいあさおつぎから五月蝿うるさがられてた。與吉よきち風呂敷包ふろしきづゝみ脊負せおつておつぎに辨當べんたうつゝんでもらひながら
煎餅せんべいくんねえか」と要求えいきうした。
「まださうだこと、そんだからわれげはせらんねえつちんだ、ぢいおこられつからろ」おつぎはしかつてかへりみなかつた。勘次かんじときそと壁際かべぎはんだをぱかり/\とつてた。卯平うへいは一にちあるいた草臥くたびれひどたやうでもあるし、また自分じぶん村落むらかへつたのでこゝろ悠長のんびりとしたやうでもあるし、それに數年來すうねんらいばんくせあさはゆつくりとしてるのがれいであつたので、かれとき蒲團ふとんなか凝然ぢついておつぎのはたらいてるのをたが
しいつちんだらしてれえ」かれはいつた。おつぎは戸棚とだなから煎餅せんべいを一まいして與吉よきちわたした。與吉よきちはすつとうばやうにしてつた。
「しらばつくれて」おつぎはなゝめ脊負せおつた書藉しよせきうへから與吉よきちをぱたとたゝいた。與吉よきちしもしろおほうにはちひさな下駄げたでから/\とらしながらげるやうにけてつた。卯平うへいくぼんだしがめて一しゆあたゝかな表情へうじやうしめして與吉よきち後姿うしろすがたた。勘次かんじつたまき草刈籠くさかりかごれてかまどまへいて朝餉あさげぜんむかつて、一わんつた。おつぎはがついたやう
ぢいことおこすべか」といつて勘次かんじ返辭へんじせぬうち
ぢい、おまんま出來できたよ」卯平うへいんだ。
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ぢい」とけてかれういつた。
ぢいてからこめしつかりつてしやうねえつてつたぞう」
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 霜解しもどけにはてゝとりがくるりとゆびいてはあしげておどろいたやう周圍あたりて、またあしみつけ/\のつそりあるいて戸口とぐちしきゐしばらつてずつとばしたくびすこかたむけて卯平うへいてついと座敷ざしきつた。卯平うへいはいきなり煙管きせるたゝきつけた。とりあわてゝ座敷ざしきむしろどろおとしてしきゐそとあししたまゝしばらころがつてたが、つひには蹌跟よろけ/\さわぎつゝとほにげた。しろけて其處そこぢうおびたゞしく散亂さんらんした。煙管きせるとりからさらつよ戸口とぐちしきゐつてにはつちとまつた。
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         一八

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「そんだつておとつゝあは、よきしいつちからしてれといたんだあ、へたくなつちやしやうあんめえな」おつぎはあまえたした言辭ことばあら勘次かんじたしなめた。勘次かんじ以上いじやうしてふたゝびおつぎをしかることはくしなかつた。わづかもちはさういふことでいくらもらないのに時間じかんつて、寒冷かんれい空氣くうきため陸稻をかぼ特色とくしよくあらはして切口きりくちからたちまちに罅割ひゞわれになつてかた乾燥かんそうした。だん/\いてふくれても外側そとがは齒齦はぐきいためるほどこはばつてた。卯平うへいの一つさへ滿足まんぞくくださうとするにはむし粗剛こはいぼろ/\なめしよりも容易よういでなかつた。さうなつてからは勘次かんじきるまでいた。卯平うへいはむつゝりとしてひたひふかきざんだおほきなしわむづ敷相しさううごかしてはかたもちしやぶつた。卯平うへいぜんにはつめたくつたもち屹度きつとのこされた。はららして學校がくかうからかへつて與吉よきち何時いつでもそれをかじるのであつた。
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ぢいよう」とんでくれゝばふいとものうくびもたげてあかるい白晝はくちうひかりることによつてなんともれぬうれしさになみだが一ぱいみなぎることもあるのであつた。
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りやそんなに夜更よふかしするもんぢやねえ」といたはるやうなたしなめるやうな調子てうしていつてるのである。さうすると、
明日あしたさはりにでもりやしめえしかまあこたあんめえな、おとつゝあは」といつておつぎは勘次かんじしつけてしまふのである。
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りやえゝよ」といふのがれいである。かれ勘次かんじ遠慮ゑんりよをするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念けねんするのであつた。それでも卯平うへいこゝろひそかにおつぎをちつゝあつた。かれなやまされた僂麻質斯レウマチス病氣びやうき性質せいしつとしてかれ頑丈ぐわんぢやう身體からだから生命せいめいうばるまでにちからたくましくすることはなく、おこつたりやはらいだりしてかれかへつてから二度目どめふゆ一日々々いちにち/\みじかきざんでつた。
 狹苦せまくるしい掘立小屋ほつたてごやかれ當初はじめおもんだほどかれためさいはひところではなかつた。

         一九

「おゝあつえ/\、なんちあつえこつたかな」おつたは前駒まへこま下駄げたつて
「おや/\まあうなあ、何處どこにもくさだらひとつなくつて、ても晴々せえ/\とするやうだ」とわざとらしいやうにいつてにはつた。さうしてから
「たんとれべえなこんぢや、からばかしでもたえした出來できだな」といつて勘次かんじちかはこんだ。勘次かんじ庭先にはさきくりかげふたつのうすよこころがしておつぎと二人ふたり夏蕎麥なつそばつてた。夏蕎麥なつそば小麥こむぎでもやうひとつかんではかたから背負せおふやうにしてうすはらたゝきつけると三稜形りようけい種子がまだすこあをともちてほとん直射ちよくしやする日光につくわうさへぎつてくりかげからとほざかつてはるかさきはうまでころがつてく。小麥こむぎちがつてしめつぽい夏蕎麥なつそばからがくた/\として幾度いくどたゝきつけねばなか/\ちない。それでも種子不規則ふきそく成熟せいじゆくをしてるので、まだあをいのはどうしてもしがみいてる。二人ふたりわらくゝつたおほきなたばいてはねばつたものでもはがやうつかつて熱心ねつしんせはしくうすはらたゝきつけた。には卯平うへい始終しじゆくさ※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしつて掃除さうぢしてあるのに、蕎麥そばまへに一たん丁寧ていねいはうきわたつたのでるから清潔せいけつつてたのである。勘次かんじあついのでこん襦袢じゆばんこしのあたりへだらりとこかして、こげたやうな肌膚はだをさらけしてる。かれさらくりしげつたあひだからはりさきくやうにぽちり/\とれてひかりけていつものごと藺草ゐぐさ編笠あみがさかぶつて、あさひもあごでぎつとむすんである。毎日まいにちかならあせでぐつしりとしめるので、強靱きやうじん纎維せんゐちからもろつて、あきつめたい季節きせつまでにはどうしても中途ちうとで一へねばならぬと勘次かんじ自慢じまんしてひもほこりくははつてよごれてた。勘次かんじはおつたの姿すがたをちらりと垣根かきね入口いりぐちとき不快ふくわいしがめてらぬ容子ようすよそほひながら只管ひたすら蕎麥そばからちからそゝいだのであつた。おつたはやゝ褐色ちやいろめた毛繻子けじゆす洋傘かうもりかたけたまゝ其處そこらにこぼれた蕎麥そば種子まぬやう注意ちういしつゝ勘次かんじ横手よこてどまつた。おつたは幾年いくねん以前まへ仕立したてえる滅多めつたにない大形おほがた鳴海絞なるみしぼりの浴衣ゆかた片肌脱かたはだぬぎにしてひだり袖口そでぐちがだらりとひざしたまでれてる。すそ片隅かたすみ端折はしよつてそとからおびはさんだ。勘次かんじ何處どこまでもらぬ容子ようすたもつことは出來できなかつた。かれはおつたのわざとらしいこゑかず、またちかつた姿すがたうつさないわけにはかなかつた。かれ蕎麥そばつかむのをめておつたのはういた。かれしがめてかほすこきまりの惡相わるさうな一しゆ表情へうじやううかべた。
なんでえ※等あねら[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、277-15]勘次かんじ無意識むいしきにさういつた。かれむねのあたりにいづあせは、わづか曲折きよくせつをなしつゝ幾筋いくすぢかのながるゝみちつくつてる。其處そこには蕎麥そばからからられぬほどづつほこりいてしめつてる。ぢり/\と汗腺かんせんからしぼいづあせあとつけられたながれのみちたないで其處そこだけ蕎麥そばほこりあらつてる。かれはおつたのまへ暑相あつさうけた。
「どうしたつちこともねえがなよ、らこつちのはうとほつたもんだから一寸ちよつくらがゝつてところさ」おつたはなに理由わけ有相ありさう口吻くちつきかるくいつた。
しばらくこつちへもなかつたつけが、らおつぎぢやあんめえか、大層たえそえゝむすめつちやつたなあ、もつともはあうい手合てえはちつとねえでちやわかんなくんなすぐだかんな、わりにしちやてえなもな年齡としはとんねえものさな」おつたはつたまゝ獨語ひとりごとやうに、さうしてすこ張合はりあひのないやうに、なにはなし端緒いとぐちでももとめたいといふ容子ようすくりこずゑからだらりとたれてる南瓜たうなすしり見上みあげながらいつた。
 おつぎはとき菅笠すげがさはし一寸ちよつとけておつたへこしかゞめた。おつぎはしろ襦袢じゆばんえりのぞかせて、單衣ひとへむねをきちんとあはせて、さうしてたすき手刺てさしとでかためて、あついのにもかゝはらずをんな節制たしなみうしなはなかつた。おつぎは蕎麥そばはなして小走こばしりにけてつた。菅笠すげがさをとつてだらりとかぶつた手拭てぬぐひはづしたときすこみだれたかみがぐつしやりとあせれてげつそりとおとろへたものゝやうおぼえた。おつたはひらいたまゝ洋傘かうもりくりそば仰向あふむけいてだまつて井戸端ゐどばたつて手水盥てうづだらひに一ぱいみづんだ。
つめたくつて本當ほんと晴々せえ/\とえゝみづぢやねえか、井戸ゐどてえに柄杓ひしやくすやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」おつたは獨語ひとりごとをいつた。勘次かんじそばつたおつたをてゝ、しからぬやうまた蕎麥そばうすちつけはじめた。おつたは汗沁あせじみた手拭てぬぐひしきりにごし/\として首筋くびすぢのあたりから一たい幾度いくたびとなくぬぐつて手水盥てうづだらひみづへた。しばらくしてうちひさしからはあをけぶりつてだん/\にうすけぶりあとから/\とあつ消散せうさんした。
「おとつゝあ、おちやいたぞ」おつぎは戸口とぐち小聲こごゑ勘次かんじげた。
「うむ」勘次かんじのどそこでいつて
あね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、279-9]、おちやいたとう」かれまたぶすりといつて蕎麥そばめなかつた。
「おちやおあがんなせえね」おつぎは勘次かんじしりいてすこ聲高こわだかにいつた。おつたはぎりつとしぼつた手拭てぬぐひひらいてばた/\とたゝいた。井戸端ゐどばたにぼつさりとしげりながら日中につちうあつさにぐつたりとしをれて鳳仙花ほうせんくわの、やつとすがつてはな手拭てぬぐひはしれてぼろつとちた。そばには長大ちやうだい向日葵ひまわりむし毒々どく/\しいほどぱいひらいて周圍しうゐほこつてる。草夾竹桃くさけふちくたうはながもさ/\としげつたまま向日葵ひまわりそばれつをなして
くまあかういにつくつたつけな、らもはあ、きはきだが自分じぶんぢやそつちだこつちだでつくれねえもんだ、れまああさつぱらすゞしいうちたらどらほどえゝこつたかよ」おつたはしめつた手拭てぬぐひいくつかにつてつかんだまゝくりそばいた洋傘かうもりつぼめてゆつくりとうち這入はひつた。おつぎはちやわかためあせさらいたのを手拭てぬぐひでふいて、それからみだれたかみくしいれさら丁寧ていねい手拭てぬぐひかぶつてさうしておつたをんだのであつた。おつたは何處どこ落付おちつかぬ容子ようす洋傘かうもりそと壁際かべぎはかけしきゐまたいだ。
「おあつうござんすねどうも」おつぎはたすきをとつて時儀じぎべながらおつたへちやすゝめた。三にんしばら沈默ちんもくしてた。
 東隣ひがしどなりにはからは大勢おほぜいそろつて連枷ふるぢむぎつてひゞきが、もりとほしてそれからどろり/\とゆすつてきこえた。自分等じぶんらてるひゞきさそはれてさわ彼等かれらきまつたはやしこゑが「ほうい/\」と一人ひとりくちからさうして段々だん/\各自めいめいくちから一せいほとばしつて愉快相ゆくわいさうきこえた。三にんみゝおなじくさそはれたやうに一しゆ調子てうしつたとなりにはひゞきみゝかたむけつゝ沈默ちんもく時間じかん繼續けいぞくした。おつたは茶柱ちやばしらつた茶碗ちやわんなかてそれから一寸ちよつと嫣然につこりとしてたり、にははうたりしてた。おつたがにはると勘次かんじ幾年いくねんはなかつたあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、280-13]容子ようす有繋さすがにしみ/″\とるのであつた。おつたは五十をいくつもえてる。小柄こがらすこしくり/\とまるみをつたかほは、年齡程としほどにはえないにしてもやうやふかしわきざんでるのに、かみおそろしくつや/\としてる。おつたはかみめてた。しかくすりちから肌膚はだとほしてしたにまでおよぼすことは出來できなかつた。かみめてからしばらつたとえて一たい肌膚はだについたわづか部分ぶぶんかみすべてをそつくりげたやうほのかにしろえてた。勘次かんじたゞひゞきてながら容易よういめぬあつ茶碗ちやわんすゝつた。おつぎも幾年いくねんはぬ伯母をばひとなづこいやう理由わけわからぬやう容子ようすぬすた。
夏蕎麥なつそばでもとれんなかうい鹽梅あんべえぢやつぶえけやうだな」おつたはにはまゝだい一にれる蕎麥そばついていつた。此方こちらいてふたつのうすはらが、まださきやはらかな夏蕎麥なつそばくき薄青うすあをまつたのがえてる。
馬鹿ばかつてばかし所爲せゐからばかしびつちやつて、そんだがとれねえはうでもあんめえが、夏蕎麥なつそばとれるやうぢや世柄よがらよくねえつちから、んなもなどうでもえゝやうなもんだが」勘次かんじのいひかたはこそつぱかつた。には油蝉あぶらぜみあつくなればあつくなるほどひどくぢり/\とりつけるのみで、閑寂しづか村落むらはしたま/\うた※弟きやうだい[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、281-11]はかうしてたゞ餘所々々よそ/\しく相對あひたいした。
本當ほんと先刻さつきからさうおもつてんだが立派りつぱはなぢやねえかな」おつたは庭先にはさき草花くさばなはなしいだ。
「うむ、そんだがろくりもしねえ肥料こやしばかし使つかあれて」
「おめえゑたんぢやねえのか」
「なあに爺樣ぢいさまそつちこつちからつてゑたてたのよ、去年きよねんはそんでも其處そこらへ玉蜀黍位たうもろこしぐれえつくれたつけが、れ、邪魔じやまだともはんねえしなあ」
しばらねえかららなかつたつけが、そんでも野田のだからつこんでか」
「うむ、はあ二ねんらえ」
ぽど年齡としだつぺが丈夫ぢやうぶけえそんでも」
丈夫ぢやうぶなこたあ、魂消たまげほど丈夫ぢやうぶだがなんでも自分じぶんきならはたら容子ようすで、其處そこらほうつきあるいちや小遣錢位こづけえぜねぐれえはとつてんだな鹽梅あんべえしきが」
「そんぢやいそがしいときにやちつたあ手傳てつだつてもらへてよかんべな」
「なんだら一つ手傳てつだあなんちやりやしめえし、それからはあ、此方こつちたのんもしねえが」
もつともさういへばさかりころでもらあつてからは仕事しごと上手じやうずるとしちやみつしらやうだつけが、きぢやねえ鹽梅あんべえだつけのさな」
どこぢやねえや、らと一しよんのせえなんだんべが、別々べつ/\つちやつたな、つまんねえ、餘計よけいぜねなんぞつかつて、らだつてえけえこと手間てまつこんだな、なあに爺樣ぢいさませえちつとそのつもりつてれせえすりや、いくらでも面倒めんだうるつちつてんだが、如何どういふ料簡れうけんのもんだからがにやわかんねえが」
「そんぢや、そば小屋こやぢやあんめえ、先刻さつきとき肥料小屋こやしごやだとばかしおもつてたな、本當ほんとにかうだとこ醉狂すゐきやうはなしよな、なんでもわたしちやたれでもおなじこと相續人さうぞくにん氣味きあぢわるくしねえやうにやんなくつちやへねえよ、そんだがそれも性分しやうぶんでなあ、ほかからぢやしやうねえものよ」
らだつてこんで一人ひとりえちやえただけ麥米むぎこめ心配しんぺえからしてかゝんなくつちやなんねえんだから、つもりてくんなくつちや、んで心持こゝろもちぢやあんま面白おもしろかねえかんな、毎日まいにち苦蟲にがむしちやしたやうなつらつきばかしされたんぢやんなつちまあぞ、本當ほんたうに」
「そりやさうにもなんにもよ、他人たにんでせえこんでやつけえ言辭ことばでもけられつと、あとぢやしくるやうなものでも料簡れうけんにもなるもんだかんなあ」おつたはういひながら先刻さつきから※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とりとやしたる二へうたわらそゝいでた。
「そんだがおめえもたえしたはたらきだとえんな、かうえにたわらまでちやんとして、大概てえげえ百姓ひやくしやうぢやおめえこのにやかねえぞ、世辭つやいふわけぢやねえが」
 勘次かんじやうやはなしまれたやうとき微笑びせうらして
らもいまんなつてからぢやこれ、はなしするやうなもんだがひとしきりやいたかんな本當ほんたうに、こんでもくらえにすんにやゝつとこせえだぞ」といつた。
「おつぎもはたらさうだな、きり/\としてなあ、先刻さつき蕎麥そばつてんのてゝも心持こゝろもちえゝやうだつけよ、仕事しごとはなんでも身拵みごしれえのえゝもんでなくつちやなあ、れもおめえが仕込しこみ所爲せゐだんべが」おつたはさういつてまた
「そりやさうとおつかさまに其儘そつくりだなあ」とそばたおつぎにうつした。おつぎはそれをくとともけるやう手桶てをけつてにはた。
らもこんでかゝあなれた當座たうざにやれもやくたねえからきぬいたよ」勘次かんじにはかにしんみりとしていつた。おつたはおしなのことが勘次かんじくちからときかすかに苦笑くせうして
「ほんに、ときにやねえつちやつたつけが、とほくのはうつてたもんだから、おめえにやはあわるおもはれべえたあおもつてたのよ」おつたはやうやくのことでしか表面へうめんこともなげにいつてしまつた。
先刻さつきからてんだが道具だうぐ大事でえじにすつとえてかまなんぞでもひかつてつことなあ、それにくかう三日月姿みかづきなりらせたもんだな、かたぽどをつけなくつちやかうは出來できねえな、道具だうぐうすりや何時いつまでゝも使つかへてやすえものさな」おつたはすこあわてたやうしかるべく落附おちつかうとつとめつゝはなしそらした。
唐鍬たうぐはもたえしたもんぢやねえかな」おつたはわざ唐鍬たうぐはそばつた。
「うむ、そんでもらがてえなゝ、滅多めつたつてるもなねえかんな」
「どうすんでえこんなえけえの、てるばかしでも大變たえへんなやうぢやねえけ」
「そんだつてあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、285-2]ろな」勘次かんじてのひらをおつたのまへした。百姓ひやくしやうにしては比較的ひかくてきちひさなれたかとおもほどぽつりとふくれて、どれほどかしつかんでもけつして肉刺まめしやうずべきでないことをあきらかにしめしてる。
んだかららねえもな手懷てぶところしてつと、如何どうしたんでえなんてくかららかういにはれつちやつていたくつてしやうねえんだなんて、そろうつとしてせつと、ほどこりやいたかんべえなんて魂消たまげらあな、唐鍬たうぐはなんざぜねしせえすりやいくらでもんが、ぴらはねえぞ、二ねんねん唐鍬たうぐはつたんぢやうはんねえかんな、らがな唐鍬たうぐはさすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年まいとし四五反歩位たんぶりぐれえ打開墾ぶちおこすんだから」勘次かんじしがめたかほすぢがゆるんだやうになつておつたのまへほこつた。
旦那だんな山林開墾やまおこしちやうめえのよ、場所ばしよによつちや陸稻をかぼつくれるし、らこんでも三四反歩たんぶりづつはつくつてんだが、今年ことしはえゝ鹽梅あんべえりだから大丈夫だえぢよぶだたあおもつてんのよ、どうえもんだか以前めえかた陸稻をかぼつちとはあ、とれねえやうなもんだつけがな」
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなつくつちや大層たえそなもんぢやねえかな」おつたはおどろいたやうにいつた。
陸稻をかぼめづらしいうち出來できるもんだわ、わりにやけねえが、そんでも開墾おこしたばかしにやくさねえから手間てまらねえしな、それに肥料こやしつちやなんぼもしねえんだから、もつとも三ねんつくつちやにやかねえが、とき以前もと山林やまになんだから可怖おつかねえこともなんにもねえのよ」
ぽどとれべえな、三四反歩たんぶりつくつちやなあ」
「こんで出際でぎはあめでもえゝ鹽梅あんべえなら、たんで四へうなんざどうしてもとれべとおもつてんのよ」
陸稻をかぼともはんねえもんだな、以前めえかたちがつていま時世ときよぢやさうだからこんで場所ばしよによつちや、百姓ひやくしやうにもたえしたころびがあるのよなあ、はうてえに洪水みづつてかれてばかしとこんのに山林やまんなかでこめとれるなんて」
「さうよ、此處こゝらは洪水みづ心配しんぺえはさうだにしねえでもえゝとこだかんな」勘次かんじ從來これまであひだがどうであつたにしても偶然ぐうぜんつたおつたにたいしてだん/\はなしてるうちにはおな乳房ちぶさすがつた骨肉こつにく關係くわんけいかれ淺猿さもしいこゝろそこ披瀝ひらいてそれを陰蔽いんぺいするのにはあまりにかれ放心うつかりとさせたのであつた。
「おつう、らつきやうでもしてせえ、土用前どようめえつてつけたんだから、はあよかんべえ」
 勘次かんじこゝろよくおつぎにめいじた。おつぎはふる醤油樽しやうゆだるから白漬しろづけらつきやう片口かたくちしておつたのそばすゝめた。勘次かんじは一つつまんでかり/\とかじつた。すこまるみがかつたほゝたえ微笑びせうふくんで勘次かんじのいふことをいてたおつたはなにさらにいはうとして一寸ちよつと躊躇ちうちよしつゝある容子ようすえた。勘次かんじもおつぎもそれはらなかつた。おつたは一ぱいいである茶碗ちやわんまたちやがうとしてにはかめた。おつたは茶碗ちやわんをぐつとした。
「こんで同胞きやうでえのえゝはなしくなわるかねえもんだよ、有繋まさか自分じぶんばかしよくつてほか同胞きやうでえにやかまあねえつちいものもねえかんな」といつてには便所べんじよつてそれからふたゝあががまちこしおろした。
らおめえにちつと相談さうだんつてもれえてえとおもふことつてたんだつけがなよ」おつたはわざあらたまつた容子ようすでなくいひけた。
なんだんべ」勘次かんじはふつとかれ平生へいぜいかへらうとしていつも不安ふあんらしい※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつておつたをた。
「なあにたえしたこつちやねえが、盲目めくら野郎やらうよめ世話せわされるもんだからどうしたもんだんべかとおもつてよ」
あね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、287-11]もらへたけりや他人ひとにやかまあこたあんめえな」勘次かんじはおつたがゆつくりといふのがをはらぬのにそつけなくいつた。
「さうつちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞きやうでえ一噺ひとはなしもねえなんてあと文句もんくはれても、だまつてちやおめえくちけめえな、そんだかららおめえげ耳打みゝうちしてくべとおもつたんだな」
なに不服ふふくいふせきはねえな」勘次かんじすこ安心あんしんしたらしく、かるくいひ退けた。
「そんだらえゝがなよ、れもはあ廿七になるんだかららもこんでまあ心配しんぺえはしてたんだが、自分じぶんでもそれんねえの心配しんぺええねえもんだから、おもつちやてもねえのよ、自分じぶん餓鬼がきのことおめえ全然まるつきりどうなつてもかまあねえたあおもへねえよこんで」勘次かんじあしさき土間どまつちこすりながらだまつておつたのいふのをいた。
あれもそれ中途ちうと盲目めくらつたんだから、それまでにはたらいて身體からだ成熟できてるしおめえもつてるとほりあんで仕事しごと出來できるしするもんだから、難有ありがてえことに不具かたわでもよめ世話せわすべつちいものもあるやうなわけさなあ、なんでも人間にんげんはたら次第しでえだよ、おめえだつてはたらくんでばかり他人ひとにやはれてべえぢやねえけえ、そんでれもをんなたが、をんなはそれりいがな、そんだつて盲目めくらだもの目鼻立めはなだちべえぢやなし、心底しんてえせえよけりやえゝとおもつてな」おつたはしきりに勘次かんじ衷心ちうしんからの同意どういようとした。
「そりやよかんべなそんぢや」勘次かんじたゞ簡單かんたんにさういつた。
「そんでよめたせるにしても折角せつかくこつちにはたらいてんだから自分じぶんとこへはれてわけにやかねえとおもつてななんちつてもそれ、しつてつとこでなくつちや盲目めくらだから面倒めんだうてくれるつちひともあんめえしなあ、それから其處そこんとこも心配しんぺえしてたんだが、丁度ちやうどこの村落むらにえゝ鹽梅あんべえしてもえゝつちうちるつちもんだから、ついでだとおもつてたが、此處こゝからぢやあつちのはうのそれつてべえ仕切しきつてすつちんだから、其處そこれてえとおもつて、おそこそいてたんだがりんのにや保證人ほしようにんくつちや駄目だめだつちから、ちかくぢやあるしおめえに保證ほしようつてもれえてえとおもつてな」
だよらそんなこと」勘次かんじあわてたやうにいつた。
「そんぢややうねえな、どうしてだんべなまた、折角せつかくあれかたまんだからさうしてれゝばえゝんだがな」おつたはがつかりけた態度たいどでいつた。
箆棒べらぼう家賃やちんでもとゞこほつたにや、辨償まよはなくつちやりやすめえし、それこさあらが身上しんしやうなんざつぶれてもにやえやしねえ、だにもなんにも」
「そんなことつたつておめえ、あれだつてひとりでゝもんぢやなしつものつてはたらくのに三十せんや五十せん家賃やちんはらへねえこともんめえな、それもなんならおめえ一月ひとつきでも二月ふたつきでも見試みためして、そんとき見込みこみなけりや身拔みぬけしてもかまえやしねえな」
「そんでもだよ、らさういはなしぢやきたくもねえ」勘次かんじ素氣すげなくいつてすいとにはつて夏蕎麥なつそばけた。
ひどいそがしいこつたな」おつたはくちめて勘次かんじ後姿うしろすがたた。
いそがしいともくさもまあだきやしねえんだ、土用どようになつてからだつていくらもりやしめえし、つてばかしつからろうあれ、となり旦那等だんなたちだつて今頃いまごろむぎつてるさわぎだあ、百姓ひやくしやうごろ時節じせつ餘計よけいひまなんざねえから」勘次かんじつぶやくやうにいつた。
 となりにはでは先刻さつきよりもさらいきほひがついたやう連枷ふるぢひゞきはやしこゑともなひつゝもりれてきこえた。
「うむ、たえした挨拶あいさつだな、らまた※弟きやうでえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、290-4]つちやさうえもんぢやあんめえとおもつてたんだつけな」おつたはすこ勃然むつとした容子ようすせた。
※等あねら[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、290-6]ふこといたつくれえどんなことされつかわかんねえから」勘次かんじ自棄やけ蕎麥そばからちつけ/\しつゝいつた。かれさうして一目ひとめもおつたをなかつた。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなことするつて泥棒どろぼうはしねえぞ、勘次かんじれた目尻めじりに一しゆ凄味すごみつておつたがつたとき卯平うへいはのつそりと戸口とぐちおほきな躯幹からだはこばせた。
 卯平うへいはおつたをいつもごとくぼんだ茶色ちやいろしがめるやうにした。
「おやこつちのおとつゝあん、しばらくでがしたねどうも、御機嫌ごきげんよろしがすね」おつたはそら/″\しいほどつてかはつた調子てうしでいつた。
「まあこつちへでもさつせえね」卯平うへい隱居いんきよへおつたをみちびいた。
らいまほかからけえつてたばかしだが、なんでがすね」卯平うへいはぶすりといた。
「ほんにはあ、他人ひとにやかせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目めくら野郎やらう一人ひとりあんだが、これ三十ちかくにもなるものをねえ、たゞ打棄うつちやつてもけねえからよめとらせべとおもつて、えゝ鹽梅あんべえのがそれくちかゝつたもんだから勘次かんじげも一はなしすべとおもつてところなのさ、わしもこんで義理ぎりくのだかんね」
「さうしたら村落むらにえゝ鹽梅あんべえうちあるもんだからりて身上しんしやうたせべとおもつて保證ほしようつてくろつちつたところがたえした挨拶あいさつなのさ、三十せんか五十せん家賃やちんをねえ、不便ふびんだんべぢやねえかねえ不具かたわおひのことをねえ、保證ほしようつたくれえ身上しんしやうつぶれるつち挨拶あいさつなのさ、ねえこれ、年齡としとつちやこつちのおとつゝあんさきみじけえのに心底しんてえのえゝものでなくつちや、萬一まさかとき心配しんぺえだからねえ、あともの厄介やくけえりてえつちなみんなおんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれよめつちのが心底しんてえのえゝをんなだつちんだからわしもしいのさ本當ほんたうはなしがねえ、さうつちや我慾がよくやうだがおんなじもんならやつけえ言辭ことばでもけてくれるよめでなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」おつたはせま戸口とぐちつたまゝ洋傘かささきつちあな穿うがちながら勘次かんじはうをぢろつとつゝいきりつていつた。
「そりや、はあ、さうだが」たゞこれだけいつて寡言むくち卯平うへい自分じぶんたといふやう始終しじうくぼんだしがめてからは煙管きせるはなさなかつた。勘次かんじにはからぬすむやうにては卯平うへいがおつたへ威勢ゐせいをつけてるやうにおもつた。かれいてつてさらわらくゝつた蕎麥そばたばをどさりととほくへはふつた。さらにぐつたりとしをれた鳳仙花ほうせんくわえだがすかりとさけさきについた。
※等あねら[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、292-2]大層たえそなことつたつて、老人としより面倒めんだうたゝへめえ」勘次かんじはぶつ/\と獨語どくごした。おつたのみゝにもかすかにそれがきこえた。おつたはきつた。
「おとつゝあだまつてるもんだ」おつぎはかる勘次かんじせいして
「お晝餐ひるだぞはあ」とおつぎはさら勘次かんじ注意ちういした。
「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷やかましがした、わしやけえりませうはあ、一こくちや邪魔じやまでがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔じやまんねえはうがようがすよねえ」おつたは洋傘かさひらいて
岡目をかめでもれまさあねえ、假令たとひどうでもたはらまでつてられて、辨償まよつてところで三十せんか五十せんのことだんべぢやねえか、出來できるも出來できねえもあるもんぢやねえ」とおつたは忌々敷いま/\しさにくちめなかつた。
「お晝餐ひるはどうでがすね」おつぎはそれでもづ/\おつたへいつた。
ら、はあらねえともね」おつたは蕎麥そば種子の一ぱいらけたには遠慮ゑんりよもなく一直線ちよくせん不駄げたあとをつけた。
勘次等かんじら親子おやこなかよくつてよかんべ、世間せけんきこえも立派りつぱだあ、親身しんみのもなあ、おかげ肩身かたみひろくつてえゝや」おつたはには出口でぐちから一寸ちよつとかへりみていつた。さうしてさつさとつてしまつた。となりには麥打むぎうち連中れんぢうは、しづかになつたこちらのにはあざけるやうにさわいではまたさわぐのがきこえた。勘次かんじただちからきはめて蕎麥そばからつてつひに一ごんかなかつた。おつぎは垣根かきねうへうかんだおつたの洋傘かさえなくなるまでしばらくぽつさりとしてにはたつた。卯平うへい煙管きせるんだまゝ凝然ぢつとしてだまつてた。卯平うへいしばらくして鳳仙花ほうせんくわれたのをつけて井戸端ゐどばたつた。かれはいきなり蕎麥幹そばがらたばおほきなあしつた。かれさらみじかたけぼうつてつてきつとちからめてとほした。れた鳳仙花ほうせんくわえだたけつゑしばりつけようとしてれたらぽろりとくきからはなれてしまつた。卯平うへい忌々敷相いまいましさう打棄うつちやつた。卯平うへいがのつそりとおほきな躯幹からだてたそば向日葵ひまはりことごとそむいて昂然かうぜんとしてつてる。向日葵ひまはりつぼみ非常ひじやうふくれて黄色きいろつてから卯平うへいゑたのであつた。ときはもうつぼみはどうしてものいふこといてうがかないので、あついさうして乾燥かんさうはげしいがそれをにくんでこは下葉したばをがさ/\にらした。それでもつよくきはすつとつて、大抵たいていはがつかりとあつさにたれて草木さうもくあひだほこつたやうにえた。の一ぱいひらいたさらやうはな庭先にはさきからいつでもひやゝかな三にんあざけるものゝやうにえるのであつた。
 たけぼうはぎつととほしたまゝいつまでもむなしく鳳仙花ほうせんくわそばつてた。

         二〇

 あきだ。
 いづれのこずゑ繁茂はんもするちから極度きよくどたつして其處そこ凋落てうらくおもかげかすかにうかんだ。毎日まいにち透徹とうてつしたそらをぢり/\ときしりながら高熱かうねつ放射はうしやしつゝあつたあまりにながひる時間じかんまうとして、そらからさうして地上ちじやうすべてがやうや變調へんてうていした。こゝろもとなげなくも簇々むら/\みなみからはしつて、そのたびごと驟雨しううをざあとなゝめそゝぐ。あめはたかわいたつちにまぶれて、やが飛沫しぶき作物さくもつ下葉したばつて、さら濁水だくすゐしろあわせつゝひくきをもとめてつた。それもわづかくはからんだ晝顏ひるがほはなに一ぱいりやうそゝいではあわてゝ疾驅しつくしつゝからりとねつしたそらぬぐはれることもるのであるが、驟雨しううあとからあとからとつてるのであかつきしらまぬうちからむぎいてにはぱいむしろほし百姓ひやくしやうをどうかすると五月蠅うるさいぢめた。土地とちでいふけは一にちまねば三とか五とかかなら奇數きすうをはつた。けがてから瓜畑うりばたけことごとつるにはかにがら/\にれて悲慘みじめつてしまつた。きはめてそつとしかさわがしさううごくもたかひく反對はんたい方向はうかう交叉かうさしつゝあるのをるとともに、枯燥こさうしかけた草木くさきあひあひつてはだん/\とやぶれつゝざわ/\とかなしげなひゞきてゝつた。すごほどえたよるそらいそがしげなくもつきんですぐうしろし/\はしつた。つき反對はんたいげつゝはしつた。秋風あきかぜだ。くぬぎなら雜木ざふきすべてが節制たしなみうしなつてことごと裏葉うらは肌膚はだかくすきがなくざあつとかれてたゞさわいだ。よるさびしさにすべてのこずゑあひ耳語さゝやきつゝ餘計よけいさわいだ。まだあつ空氣くうきつめたくしつゝ豪雨がううさら幾日いくにち草木くさきいぢめてはつて/\またつた。例年れいねんごと季節きせつ洪水こうずゐ残酷ざんこく河川かせん沿岸えんがんねぶつた。洪水こうずゐつたあとは、丁度ちやうど過激くわげき精神せいしん疲勞ひらうからにはか老衰らうすゐしたものごとく、半死はんし状態じやうたいていした草木さうもくみな白髮はくはつへんじてちからない葉先はさき秋風あきかぜなびかされた。鬼怒川きぬがは土手どて繁茂はんもしたしのまつはつてみじか鴨跖草つゆぐさからくきからどろまみれてながらなほ生命せいめいたもちつゝ日毎ひごとあはれげなはなをつけた。※(「虫+車」、第3水準1-91-55)こほろぎ滅入めいやうかげいた。そらはるかんだ椋鳥むくどりむれいくつかにわかれて、地上ちじやうひくさわいではこずゑもとめてぎい/\ときつゝ落付おちつかなかつた。いたところれたやぶはし土手どてせたしのこずゑかゝつて、これめばがこぼれるといはれてどく仙人草せんにんさういくらでものばしておもつてわだかまつたつるしろはなを一ぱいにつけて、さうして活々いき/\としたものは自分じぶんのみであることをほこるものゝごとく、秋風あきかぜかれつゝしろぬのやうにふは/\とうごいた。
 勘次かんじ村落むら臺地だいちであるのと鬼怒川きぬがは土手どてしの密生みつせいしたちからもつわづかながら崩壤ほうくわいするつちめたので損害そんがいかるんだ。それでも幾日いくにちつゞいたあめみづたくはへてひくはたしばらかわくことがなかつた。みづためひたつた箇所かしよすくなくなかつた。勘次かんじとなくとなく田畑たはたあるいて只管ひたすらこゝろなやましたが、やうや自分じぶん田畑たはた作物さくもつわづか損害そんがいをはつたことをたしかめたときかれ激甚げきじん被害地ひがいち状况じやうきやう傳聞でんぶんして自分じぶんむしさいはひであつたことをひそかよろこんだ。かれ大豆だいづいてにははこんだころはまだあつ落付おちついていがはじめたくりこずゑからにはをぢり/\とてらしてた。幾日いくにちもぐつしりとみづひたつてた大豆だいづ黄色味きいろみつた褐色ちやいろさやからどろよごれたやうくろずんでた。
 大豆だいづいたのはそれでもまれ晴天せいてんであつたので「いひがへし」にはずつてみなみ女房にようばうたのんだ。彼等かれら相互さうご便宜上べんぎじやう手間てま交換かうくわんをするのであるが、彼等かれらはそれを「いひどり」というてる。それでりた手間てまかへすのがいひがへしである。大豆だいづにははこぶととも一攫ひとつかみにしてはうへにしてさきまるいてたがひみき支柱しちうるやうにしてにはぱいてゝした。煙草たばこを一ぷくふだけの時間じかんに、成熟せいじゆくしきつた大豆だいづやうやくぱち/\とかるこゝろよひゞきてつゝはじめた。大豆だいづことごとにはつちたふされた。三にん連枷ふるぢつてはしからだん/\とからつた。おつぎとみなみ女房にようばうとはあひならんで勘次かんじたいして交互かうごおろ連枷ふるぢがどさり/\とにはつちつとこはばつた大豆だいづからはしやりゝ/\と乾燥かんさうしたかるひゞきまじへてくすんだきたなさやしろれて薄青うすあをいつやゝかなまめつぶ威勢ゐせいよくしてみんなからしたもぐんでしまふ。三にんが一ぺん大豆だいづからんでわたつたらからがぐつと落付おちついた。
 おつぎは晝餐ひる支度したくちやわかした。三にん食事しよくじあとくちらしながら戸口とぐちてそれからくりかげしばらうづくまつたまゝいこうてた。
「おや/\まあ、こつちのはうはえゝこつたなあ、大豆でえづでもかうだにとれて」おつたは小柄こがら身體からだ割合わりあひ大股おほまたはこんでめう足拍手あしびやうしりつゝ這入はひつてた。勘次かんじはちらとくりみきうしろにしたまゝ俯向うつむいてしまつた。おつたはさら介意かいいないやうな態度たいどでずつと戸口とぐちつて、なゝめかたけた風呂敷包ふろしきづゝみをおろした。
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「おやまあ、しばらくでがしたね」とおつたは、さき世辭せじをいうた。
「さういへばまあ、あつちのはうひで洪水みづだつちはなしだつけがどうでござんしたね」女房にようばう手拭てぬぐひをとつていつた。
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「そんでも此處こゝらぢやとこにや支障さはりねえんだからなんちつてもあきらめはようがさね、わしはうなんぞぢや、土手どて筵圍むしろがこひしてやつとこせしのいだものなんぼつたかせ、土手どててもあめせえなけりやえゝが、られちやひでえつちはなしでがしたよ、そんでもまあわしらあうちられんなられたんだからまあおなじにもようがしたのせ、そんでもゆかうへへ四斗樽とだるかうさかさにしてえてね、そのうへいたわたしてやつとまあ居通ゐとほしあんしたがね、煮燒にやきすんのもやつとこせで、隣近所となりきんじよつたつてつたりたりすんぢやなし、何程なんぼ心細こゝろぼせえかわかんねえもんですよ、もつともこれ、ものせえあんだからうしてられんな難有ありがてやうなもんぢやあるが、そんでも四斗樽とだるふてたがところむぐつたときや、よるよこつてたつてぢきみゝそばでさら/\つとかうみづうごいてんだから、放心うつかりねむつたらそつくりつてかれつかどうだかわかんねえとおもつてね、ぼつちりともはあはんねえでたのせえ、
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「そんでまあ、それもえゝがけえるだのへびだのがてね、けえるはなんだがへびがなんぼにもいやではあ、ぼうけてとほくのはうげてても、執念深しふねんぶけえつちのかまたぞよ/\およいでて、それもよるがねえ萬一もしものことがつちやとおもふもんだからあかけてたんだが所爲せゐ餘計よけいやうで、うすくれあかりだからぢつきそばてからでなくつちやわかんねえし、くびもちやげてんのちや本當ほんたうでねえ」おつたはいくらいつてもきない當時たうじ髣髴はうふつせしめようとする容子ようすでいつた。
 くりかげ勘次かんじはだん/\といくらづゝでも洪水こうずゐはなし興味きようみかんじてもたし、それから假令たとひどうでもたづねてあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、299-10]挨拶あいさつもせぬのは他人たにん手前てまへ許容ゆるさないのでやうやつて
※等あねら[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、299-11]隨分ずゐぶんひでえあつたんだな」かれはいひながらいへうちへおつたをみちびいた。大豆だいづほこりいとうて雨戸あまどつてあつたので、大戸おほどを一ぱいけてもうちすこくらかつあつかつた。おつぎは先頃さきごろやうすぐかまどいて柄杓ひしやくで二三ばいみづ茶釜ちやがました。
「なんちつても、かうえまめとれるなんておめえはうはえゝのよなあ、はうぢや土手どてちかくでるもなあ、畦豆くろまめつこえて土手どてちうぱらしちややうだが、まあだなんちつてもさや本當ほんたうふくれねえんだから、ほんのまめかたちしたつちくれえなもんだべな、そりやさうとまめはえゝまめだな、甘相うまさうでなあ」おつたはしきゐまたいで手先てさきまめすこつかんでていつた。それからおつたは洋傘かさと一つにいた先刻さつき風呂敷包ふろしきづゝみんでさうしてまたしりゑた。
みづなかちや仕事しごとするにも仕事しごとはなしさなあ、それからみんなぼうさきはりくつゝけて魚釣さかなつりしたのよ、にはいくらでもふなれるつちんだかららねえものがちやひどこまんねえ奴等やつらだとおもくれえなもんだんべのさ」おつたは一ぱいちやすゝつてのどうるほした。おつぎもみなみ女房にようばうゑてだまつていてた。勘次かんじむづしいかほをしてながらも熱心ねつしんいた。
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「おゝえや、たえしたもんだね、しほだんべけまあ、てえたつてらつるもんぢやねえよ、かうえものあねえ、くまあつて勘次かんじさん大變たいへんだ」
 みなみ女房にようばう食鹽しよくえんの一にしてながらうらやましげにいつた。おつぎもめづらしさうにしてみなみ女房にようばうのぞいた。勘次かんじしろ食鹽しよくえんつめさきすこしとつてくちいれた。
鹽辛しよつぺえやまさか」かれ嫣然につこりとしなが
「おつう、しまつてけ、そんぢや」
といつてさら
※等あねら[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、301-11]ひどかんべらは」とかれはおつたのめつゝあつたかみが、まじつた白髮しらがをほんのりとせるまでにくすりめてきたなくなつつたのをつゝいつた。
こめでもなんでも一粒ひとつぶもとれやしねえのよ」おつたはぽさりとしたやうにいつた。
しんなんざそんでも、どうにか出來できんのか」
「どうしてよおめえ、あをえもな土手どてくさばかしだつてつてるくれえだもの、今日けふ今日けふこまつてんだな」
「そんぢや、あね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、302-2]茄子なす南瓜たうなすでもやんべかなあ」勘次かんじ同情どうじやうすこうごいたやうにいつた。
「おやそんぢやでもねぎすこしもあげあんせう」みなみ女房にようばうはいつて桑畑くはばたけ小徑こみち小走こばしりにけてつた。
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 おつたは垣根かきねうてうしろはやしそばから田圃たんぼた。道端みちばたたけこずゑには何處どこまでもうて一ぱいかゝらねばむまいとするどくなせんにんさうがくつきりとしろほこつてる。ちひさな身體からだでありながらすこするどくちばしつたばかりに、果敢はかないすゞめ頬白ほゝじろまへにのみ威力ゐりよくたくましくするもずちひさな勝利者しようりしやこゑはなつてきい/\ときはどく何處どこかの天邊てつぺんいてた。
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りや馬鹿ばかだな本當ほんたうに、なん馬鹿ばかだんべなあ」としかつてるだけであつた。勘次かんじあまりにしかるので
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みづませてろ」かれあわてるといふことをらぬものゝごとく一ごんいつた。おつぎはすぐ柄杓ひしやくみづんだ。與吉よきちいくらでもすがつてんだ。
※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとり納豆なつとうくつたつてなねえうちみづませりやなんともねんだもの、みづませりやそんなにさわぐにやあたらねえ」卯平うへいはいつて自分じぶんでもまたませた。與吉よきち枕元まくらもとに三にん徹宵よつぴてねむらなかつた。おそろしく多量たりやうみづんだ與吉よきちつひにすや/\とねむつた。さうして翌朝よくあさけそ/\となほつてしたのであつた。
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れが南瓜たうなすれだつけかな」と不審相ふしんさうにいつた。
「それだんべな」勘次かんじやうやくこれだけいつた。淺猿さもしいかれはおつたへやつた南瓜たうなすへていたのであつた。
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 しか勘次かんじつくつた陸稻をかぼはかういふはたけではなく、こずゑすさんだ雜木林ざふきばやしあひだのみであつた。開墾地かいこんちへは周圍しうゐかくれる場所ばしよ所爲せゐか、村落むら何處どこにもにはかそのこゑかなくなつたすゞめぐんをなして日毎ひごとおそうた。かれはそれでもこんよくしろ瓦斯絲ガスいと縱横じゆうわうはたけうへつてひら/\と燭奴つけぎつておどしてた。それでも狡獪かうくわいすゞめためもみのまだかたまらないであま液汁しるごと状態じやうたいをなしてうちからちひさなくちばしんでしたゝかに籾殼もみがらこぼされた。かれからかぜさはつたとはおもつてても、ながからたふしたときはそれでも熱心ねつしんかつ愉快ゆくわいであつたが、しか乾燥かんさうしてこめにしたときにはかれなつころ豫想よさう非常ひじやう相違さうゐであることをたしかめて落膽らくたんせざるをなかつた。
 かれ淺猿さもしいこゝろわづかこめむぎあね[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、308-10]なるものゝおつたにだましてられたかとおもしてはしばらくのあひだ忌々敷いま/\しさにへなかつた。かれいきほなにかにあたらさうとするのにおつぎと與吉よきちとにたいしてはあまりにふかしたしみをつてた。うしてかれ卯平うへいたいする憎惡ぞうをねんかれこゝろきり穿うがつてさらくぎもつ確然しつかちつけられたのであつた。

         二一

 勘次かんじはしつて鬼怒川きぬがはきしつたとききりが一ぱいりて、みづかれ足許あしもとから二三げんさきえるのみであつた。きしにはふねつないでなかつた。かれ焦慮あせつていつもするやうに大聲おほごゑして對岸むかうつたはずふねんだ。「おうえ」とおうずるこゑみづわたつてつよかもちかきこえた。勘次かんじこゑあつせられてだまつた。ぐにへさきうすきりなかからえた。勘次かんじほとんどむせぶやうなきりつゝまれてふねつた。處々ところ/″\さら/\とかすかにひゞきつたひてふねそこさゝへられようとする。初秋しよしう洪水こうずゐ以來いらいかは中央ちうあうにはおほきな堆積たいせきされたので、ふね周圍しうゐうてとほ彎曲わんきよくゑがかねばらぬ。勘次かんじおほはれたやうで心細こゝろぼそきりなかに、※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことでいちじるしく延長えんちやうされた水路すゐろ辿たどつてながら、悠然ゆつくりとしてにぶさをてやうをするのにこゝろ焦慮あせらせて
「どうしたんべ、へえつちやせめえか」船頭せんどうはういてかれはいつた。
「ぶく/\やりたけりやへえつたはうがえゝや」船頭せんどうはそつけなくいつておもむろにさをてる。船底ふなぞこさはつてつて身體からだがぐらりとうしろたふさうつた。勘次かんじ船頭せんどうわざ自分じぶんきのめしたものゝやうにかんじてひど手頼たよりない心持こゝろもちがした。かれ凝然ぢつかゞんで船頭せんどうあやつまゝまかせた。中央ちうあうおほきなからつゞ淺瀬あさせさゝへられてふねいつもところへはけられなくつてる。たゞ一人ひとり乘客じようかくである勘次かんじ船頭せんどう勝手かつてところへおろされたやうにおもつた。河楊かはやなぎせて、あかかくした枸杞くこえだがぽつさりとれて、おほきなたで黄色きいろくなつてきしふねはがさりとへさきんだのである。それでも其處そこにはもう幾度いくたびふねがつけられたとえて足趾あしあとらしいのが階段かいだんのやうにかたちづけられてある。勘次かんじ河楊かはやなぎえだけて他人ひと足趾あしあとんだ。えだがざら/\とかれござれてつた。かれ三足目みあしめきしつた。きしはたけで、洪水こうずゐもたらしたはひてるえごみが一ぱいかわいておほきな龜裂きれつしやうじてる。周圍しうゐ蜀黍もろこしられたまゝすことほくはぼんやりとしてれもきりなか悄然ぽつさりつてる。勘次かんじふりかへつたときかれ打棄うつちやつたふねしづんだきりへだてられてえなかつた。かれ蜀黍もろこしからうて足趾あしあとしたがつてはるか土手どて往來わうらいた。きりが一ぺんれた。かれなにかにだまされたあとのやうに空洞からりとした周圍しうゐをぐるりと見廻みまはさないわけにはいかなかつた。かれ沿岸えんがん洪水後こうずゐじ變化へんくわ驚愕おどろき※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。偶然ひよつとかれにはか透明とうめいつた空氣くうきなかからかけつて網膜まうまくそこにひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つについたものがある。それはとほ上流じやうりうかゝつてちひさなふねであつた。
 其處そこには數本すうほん竹竿たけざをてられてあるのも同時どうじかれつた。かれぐにそれが鮭捕船さけとりぶねであることをつた。漁夫ぎよふさけ深夜しんやあみかゝるのをちつゝ、假令たとひ連夜れんやわたつてそれがむなしからうともぽつちりとさへねむることなく、また獲物えものするどみづつてすゝんでるのを彼等かれら敏捷びんせふ闇夜あんやにもかならいつすることなく、接近せつきんした一刹那せつな彼等かれら水中すゐちうをどつて機敏きびんあみもつ獲物えものくのである。彼等かれらけるとぎんごとひかつて獲物えものが一でもふねればそれを青竹あをだけつゝんで威勢ゐせいよくかついでる。さもなければ怜悧りこうさけよどみにかくれてうごかぬ白晝ひるあひだのみぐつたりとつかれた身體からだわづかに一すいぬすむにぎないので、あさあかるくしろみづにさへ凝然ぢつはなたないのである。いづれにしてもちひさなふねいまつめたいあさしづけさをたもつるのである。たゞはるかへだつた村落むら木立こだちこずゑからのぼ炊煙すゐえんえたつめたいそらひこまれてるのみで、ちひさなふね中心點ちうしんてんをなして勘次かんじには一つもうごものなかつた。かれしばらまた凝然ぢつとして上流じやうりう小船こぶねた。かれがついたとき土手どてを一さんきたいそいだ。土手どてやが水田すゐでんうてうね/\ととほはしつてる。土手どて道幅みちはゞせまくなつた。それはられてぐつしやりとしめつていね土手どてしばうへぱいされてあつたからである。いねはぼつ/\とむらがつて野茨のばらかぶのぞいてこと/″\ひろげられてある。野茨のばらはもうちてしまつて、ちひさなえださきにはあかいつやゝかなが一つづゝかざされてる。草刈くさかりかまのがれて確乎しつかそのかぶすがつた嫁菜よめなはな刺立とげだつたえだかゝりながらしつとりとあさうるほひをおびる。れたいねにほひ勘次かんじはないた。いなごがぱら/\とあしひゞきれていねわたつてにげた。かれそのされたいね穗先ほさきつかんでもみ幾粒いくつぶかをしごいてた。かれさらその籾粒もみつぶんでた。かれそれからまたさんはしつた。かれすこしのひどひまどつたやうにかんじた。あしには脚絆きやはん草鞋わらぢとを穿はいにはござうてる。ござえずかれ背後はいごにがさ/\とつてみゝさわがした。かれつひ土手どてかられてひがしへ/\とはしつた。
 村落むらがぽつり/\と木立こだちかたどつてほかには一たいたゞ連續れんぞくして水田すゐでんつらぬいてみちはるかとほく、ひつゝいたやうな臺地だいちはやしのぞんで一直線ちよくせんである。かれかつ其處そこあるいたことはあつた。しかかれつてるのは幾屈曲いくくつきよくをなして當時たうじである。かれ何時いつにか極端きよくたん人工的じんこうてき整理せいりほどこされた耕地かうち驚愕おどろき※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。かれ溝渠こうきよ井然せいぜんとしてるのに見惚みとれてしまつた。
 やうやあさはなれてそら居据ゐすわつた。すべてのものあかるいひかりへた。しかしながら周圍しうゐ何處いづこにも活々いき/\したみどりえてうつらなかつた。まだいくらもられてないは、黄褐色くわうかつしよくあかるいひかり反射はんしやして、處々しよ/\はたけくはも、しもふまではとこずゑちひさなやはらかなの四五まいうるほひをつてるのみである。ぽつ/\とむらがつた村落むら木立こだちいづれもこと/″\あかいくすんだもつおほはれてる。さうしてひくあひせつして木立こだちとのあひだ截然くつきりつよせんゑがいてそらにくほどさえる。さうだ。すべての植物しよくぶつつて緑素りよくそ悉皆みんなそらつてるのだ。はるになるとそらはそれをあめ溶解ようかいしていてやるのだ。それだからうるほうたえだはどれでもあをいろどられねばならぬはずである。それだから幾度いくたび百姓ひやくしやうたがやさうともつち乾燥かんさうしてらさぬ工夫くふうたてないかぎりは、おもはぬところにぽつり/\とくさあをて、あめればほど何處どこでも一ぱいくさつてかねばならぬはずである。それを晩秋ばんしうそら悉皆みんなるので滅切めつきりえる反對はんたい草木くさきすべてが乾燥かんさうしたりくすんだりしてしまふのに相違さうゐないのである。
 あかるいまつたひるつた。處々ところ/″\しまのやうなはたけへりからかゝつて料理菊れうりぎくはな就中なかでもばんつよ日光につくわう反射はんしやしてちかいよりはとほほどこゝろよくあざやかにえてる。勘次かんじ始終しよつちう手拭てぬぐひもついた右手めてひぢかゝへるやうにして伏目ふしめあるいた。みちうてせまほりあさみづかれはなたれた。がら/\にすさんだ狼把草たうこぎやゑぐがぽつ/\とみづひたつてる。あをそらあさみづそこからはるかにふかとほひかつた。さうして何處どこからかまよして落付おちつ場所ばしよ見出みいだねてこまつてるやうなしろくもうつつて、勘次かんじはしればはしほどさきへ/\とうつつた。勘次かんじはそれを凝視みつめてくとなんだか頭腦あたまがぐら/\するやうにかんぜられた。かれ昨夜ゆふべねむらなかつた。かれ自分じぶんひとりころしてねばならぬ忌々敷いま/\しさが頭腦あたま刺戟しげきした。かれ只管ひたすらひぢ瘡痍きず實際じつさいよりも幾倍いくばいはるかおも他人ひとにはせたい一しゆわからぬ心持こゝろもちつてた。寸暇すんかをもをしんだかれこゝろ從來これまでになく、自分じぶん損失そんしつかへりみる餘裕よゆうたぬほど惑亂わくらん溷濁こんだくしてた。白晝ひる横頬よこほゝあつほどけたが周圍あたり依然やつぱりつめたかつた。ほりあさみづにはれもつめたげに凝然ぢつしづめたかへるだまつてかれた。とほ田圃たんぼかれ前後ぜんごたゞ一人ひとり行人かうじんであつた。はるかにぽつり/\とえる稻刈いねかり百姓ひやくしやう※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)ぽつさりとしたかれからかくれようとするやう悉皆みんなずつとひくかゞめてる。あかるいひかり滿ちた田圃たんぼ惑亂わくらん溷濁こんだくしたこゝろいだいてさびしく歩數あゆみんでかれは、玻璃器はりきみづかざして發見はつけんした一てん塵芥ごみであつた。
 勘次かんじ田圃たんぼきたとき村落むらぎて臺地だいちた。村落むら垣根かきねにはいねけて人々ひとびとがあつた。みちひとたがるくせ彼等かれらみないそがしげな勘次かんじた。勘次かんじ他人ひと自分じぶんることをつたときひぢ叮嚀ていねいいた。臺地だいちにははやしあひだ陰氣いんきはたけ開墾かいこんされてあつた。かれ開墾地かいこんち土質どしつ作物さくもつとを非常ひじやう注意ちういた。また村落むらがあつてひろはたけ展開てんかいした。はたけ陸稻をかぼつたまゝところいくらもあつた。かれ陸稻をかぼ刈株かりかぶ叮嚀ていねい草鞋わらぢさきんでた。百姓ひやくしやうがちらほらとうごいてむぎくべきつち清潔せいけつたがやされつゝある。はたけくろつち彼等かれら技巧ぎかう發揮はつきして叮嚀ていねいたがやされゝばがまだそれをさないうちたゞ清潔せいけつこゝろよいかんじをひとこゝろあたへるのである。
 さういふ村落むらつゝんで其處そこにも雜木林ざふきばやしが一たいあかくなつてる。先立さきだつてきはどくえるやうになつた白膠木ぬるでくろつちとほあひえいじてる。勘次かんじ自分じぶんむぎくべきはたけ用意よういがまだ十ぶんでないことをおもつた。かれ前年ぜんねんさむさがきふおそうたときたねわづか二日ふつか相違さうゐおくれたむぎ意外いぐわい收穫しうくわく減少げんせうしたにが經驗けいけんわすることが出來できなかつた。かれ標準へうじゆんとしてをしへられたはづすことなくむぎかねばならぬものと覺悟かくごをしてるのである。それとともに一にちでもうして時間じかん空費くうひする自分じぶん瘡痍きずいてかれふかかなしんだ。しかしそれでながらかれ悲痛ひつうから憤懣ふんまんじやうが、たゞその瘡痍きず何人なんぴとにも實際じつさい以上いじやうおもせもしられもしたい果敢はかない念慮ねんりよかしむることよりほか何物なにものをもたなかつた。かれほとんど絶對ぜつたい同情どうじやう慰藉ゐしやとにかつしてたのである。
 はたけくろつちにはぽつ/\と大根だいこんしげつてる。周圍しうゐえたあをもの大根だいこんのみである。大根だいこんは、一たん地上ちじやうみどりうばうて透徹とうてつしたそら濃厚のうこうみどり沈澱ちんでんさせて地上ちじやういた結晶體けつしやうたいでなければならぬ。晩秋ばんしう只管ひたすらしづまうとのみしてる。生殖作用せいしよくさようをはつたすべての作物さくもつ穗先ほさき悉皆みんなもう俛首うなだれてる。むしこゑらうとしてる。ひとさわやかなみどりあたへられた大根だいこんも、いく成長せいちやうしてもつよめる晩秋ばんしうけてにひつゝくやうにしてやつなゝめひろがるのみで、すこしでもたかのぼることを許容ゆるされてらぬ。うしてはたけつちたゞつめたくこほるのをつてるのである。
 勘次かんじやうや整骨醫せいこついもんたつした。整骨醫せいこついいへはがらたけ垣根かきね珊瑚樹さんごじゆ大木たいぼくおほひかぶさつて陰氣いんきえてた。戸板といたを三角形かくけいあはせて駕籠かごのやうにこしらへたのが垣根かきねうちかれてあつた。たれおも怪我人けがにんはこばれたのだと勘次かんじぐにさとつてさうしてなんだか悚然ぞつとした。かれ業々げふ/\しい自分じぶん扮裝いでたちぢて躊躇ちうちよしつゝ案内あんないうた。ぽつさりとして玄關げんくわんつてるのは悉皆みんな怪我人けがにんばかりである。くびからしろ布片きれつてれもしろ繃帶ほうたいしたたせたものもあつた。其處そこあをかほをしてぐつたりとよこたはつてるものもあつた。勘次かんじ怪我人けがにんうしろかくれるやうにして自分じぶんばんになるのをちながら周邊あたりなんとなく藥臭くすりくさくておそろしいやうなかんじにとらはれた。醫者いしや一人ひとり患部くわんぶやはらかにんでやつてたが勘次かんじをちらとた。勘次かんじなんだかにらまれたやうにかんじた。醫者いしや爼板まないたのやうないたうへ黄褐色くわうかつしよく粉藥こぐすりすこして、しろのりあはせて、びんさけのやうな液體えきたいでそれをゆるめてそれからながはさみ白紙はくしきざんで、眞鍮しんちうへらそのくすりかみ塗抹つて患部くわんぶつてやつた。怪我人等けがにんらたゞ凝然ぢつとして醫者いしや熟練じゆくれんしたもとを凝視ぎようしした。勘次かんじ他人ひとうしろから爪立つまだてをした。二三にんちひさな療治れうぢんで十二三のをとこ仕事衣しごとぎまゝな二十四五の百姓ひやくしやうはれて醫者いしやまへゑられた。醫者いしや縁側えんがはあかるみへ座蒲團ざぶとんいてた。怪我人けがにん醫者いしやまへると恐怖きようふおそはれたやうににはか鳴咽をえつした。醫者いしやよこふくれたおほき身體からだでゆつたりと胡坐あぐらをかいたまゝ怪我人けがにんひだりまくつてた。怪我人けがにん上膊じやうはく挫折ざせつしてぶらりとれてた。醫者いしや怪我人けがにん患部くわんぶれて
「おまへそつちつて」と簡單かんたんあご百姓ひやくしやう指圖さしづした。百姓ひやくしやうづ/\怪我人けがにんうしろまはつてあをかほをしていた。
「えゝか、ぎつといてるんだぞ」醫者いしやあし怪我人けがにん腹部ふくぶてゝ兩手りやうて挫折ざせつしたつてかうとした。怪我人けがにんおそろしさにわつとこゑはなつていた。醫者いしやめた。
「おまへ兄貴あにきだな、そんぢやえゝ、徒勞むだだ」といたはなたしめた。百姓ひやくしやう骨肉こつにくいたはりがさけをぎつとちからめてかせない。そんなおもひきつた手段しゆだんくははることは出來できないのであつた。百姓ひやくしやうけばほどゆるめた。醫者いしやはそれで徒勞むだだといつた。百姓ひやくしやうたゞあをかほをしてぼつとしてるのみであつた。
 醫者いしやさら家族かぞくめいじて近所きんじよ壯者わかものびにやつた。
からおつこつたな」醫者いしや百姓ひやくしやういた。
「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだかわかんねえからはたけうなつてたまゝ衣物きものねえでうしておぶつてたんだが」と百姓ひやくしやうはいつて、それから
「わし※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきのぼんなてたんだつけが、おつこつたからけてつてたら、めえつゝけつちやつて、そんでもしばらつたらしたんでわしおこしてさはつたら、てえ/\つちからまくつてたら、うぶらんとつたつきりでわしもはあ、魂消たまげつちやつて」百姓ひやくしやう只管ひたすらあわてゝいつた。
本當ほんたう此處こゝちや毎日まいんちのやうにからおつこつたつち怪我人けがにんんだよまあ、しひからおつこつたのくりからおつこつたのつて、子供こども怪我けが大概てえげえさうなんだから、をとこつちや心配しんぺえさねえ、そんだがこれ、怪我けがつちやえゝまちだから、わし下駄げた穿きながらひよえつところがつただけくびをつちよれたんだなんて」とそばばあさんがいつた。
「わしがも毎日まいんちのやうに※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきのぼつてゝ木登きのぼりは上手じやうずなんだから、それもあめでもつたばかしならつる/\してあしかゝんねえもんだがあめんねえし、そんなこたねえはずなんだが、つかまつてたえだとこへびたとかつてあわくつておりべとおもつたつちんだから、いつでもはあえだなんざがさがさやつて天邊てつぺんはう呶鳴どなつたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのがひどへんおとだとおもつてうちにやおつこちんなえゝもんで、こまつたこと出來できたのせ」百姓ひやくしやう乘地のりぢになつていひつゞけた。勘次かんじ恐怖きようふ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつてみゝかたむけた。
※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきへびがあがるやうぢやあめでもまたらなけりやえゝが、百姓ひやくしやうにや大事でえじところなんだからまあ、ちつとつゞけさせてえもんだが」そばからまた一人ひとり怪我人けがにんくちへた。勘次かんじまたはなしきながらさだまりない天候てんこう變化へんくわあんじた。
 やが近所きんじよ壯者わかもの以前いぜんごと怪我人けがにんいた。醫者いしや先刻さつきのやうにして怪我けが人の恐怖きようふしたかほながらくちめてぎつといた。怪我人けがにんはぼぎつとおそろしいおとたてた。怪我人けがにんたゞさけんだ。
「よし/\なほつちやつた」醫者いしやはなつて、ふとやはらかさうゆびはらしばらむやうにしてそれからくすりつたかみを一ぱいつて燭奴つけぎのやうなうすいたてゝぐるりと繃帶ほうたいほどこした。
「どのつくれえなほつたもんでござんせうね、先生せんせいさん」百姓ひやくしやう懸念けねんらしくいた。
「さうぐにやなほらねえな」醫者いしや無愛想ぶあいそにいつた。百姓ひやくしやう依然いぜんとしてあをかほをしながら怪我人けがにん脊負しよつてかへつてつた。それから二三にん療治れうぢんで勘次かんじばんつた。
りや大層たいそう大事だいじにしてあるな」醫者いしやきたな手拭てぬぐひをとつて勘次かんじひぢた。てつ火箸ひばしつたあとゆびごとくほのかにふくれてた。
「どうしたんだえら、夫婦喧嘩ふうふげんくわでもしたか」醫者いしや毎日まいにち百姓ひやくしやう相手あひてにしてくだけて交際つきあ習慣しふくわんがついてるので、どつしりとおほきな身體からだからかういふ戯談じようだんるのであつた。
「なあにわしやはあ、かゝあなれてから七八ねんにもなんでがすから」勘次かんじすこ苦笑くせうしていつた。
「さうか、そんぢやだれたれたえ、まあださかりだからそんでも何處どこへかこしらえたかえ」輕微けいび瘡痍きずあまりに大袈裟おほげさつゝんだ勘次かんじ容子ようすこゝろから冷笑れいせうすることをきんじなかつた醫者いしやはかう揶揄からかひながら口髭くちひげひねつた。
先生せんせいさん戯談じやうだんいつて、なあにわしや爺樣ぢいさまたれたんでさ」勘次かんじ只管ひたすら醫者いしやまへ追求つゐきう壓迫あつぱくからのがれようとするやうにいつた。
 醫者いしやはそれからはもうだまつてくすりつてかたばかりの繃帶ほうたいをした。
先生せんせいさん、わしやまあだなくつちやなりあんすめえか」勘次かんじ懸念けねんらしいもついた。
くすりをやるから、自分じぶんつたはうがえゝ、れでなほるから」と醫者いしや一袋ひとふくろくすりあたへた。勘次かんじは一整骨醫せいこついもんくゞつてからは、世間せけんには※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)こんな怪我人けがにんかずるものだらうかとえず驚愕おどろき恐怖おそれとのねんあつせられてたが、珊瑚樹さんごじゆ繁茂はんもした木蔭こかげからたけ垣根かきね往來わうらいときかれこゝろにはかかるくなつたことをかんじた。かれちひさな怪我人けがにんから聯想れんさうしてれも毎日まいにちにはねらつて與吉よきちうれした。かれ脚力きやくりよくおよかぎ歸途きといそいだ。かれく/\午前ごぜんしばらわすれて百姓ひやくしやう活動くわつどうふたゝ目前もくぜんつけられてかくれて憤懣ふんまんじやう勃々むか/\くびもたげた。かれ自分じぶん瘡痍きずかる醫者いしやから宣告せんこくされたときなんとなく安心あんしんされたのであつたが、しかまた漸次だんだん道程みちのりはこびつゝ種々いろいろ雜念ざふねんくにれて、失望しつばう不滿足ふまんぞくこゝろいだきはじめた。かれいへかへつたのち瘡痍きずおもけようとするのには醫者いしや診斷しんだん寸毫すんがうかれ味方みかたしてなかつたからである。
 かれいへかへつたのは西にしつらなつた雜木林ざふきばやしうへかたむかうとしたころであつた。かれたゞそのまゝ自分じぶん怪我けがその事實じじつとをおほうてくのがのこをし心持こゝろもちがした。それでかれあしすぐみなみいへつた。脚絆きやはん草鞋わらぢとでかためた勘次かんじ容子ようす不審ふしんおもつたみなみ亭主ていしゆ勘次かんじ突然とつぜんうつたへるやうにいつた。
ら、爺樣ぢいさま鐵火箸かなひばしばさつて、骨接ほねつぎつてとこだが、いそがところひでつちやつた」勘次かんじはそれでもくちしぶつておもやうにいへなかつた。みなみ亭主ていしゆ態々わざ/\はなしをされてはてゝかへりみぬことも出來できなかつた。
「どうしたつちんでえまあ、勘次かんじさん」いくらかわざとらしくおどろいたやうにいた。
昨日きのふ日暮ひぐれらからけえつてたら爺樣ぢさま※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとり餌料ゑさえてやつてつからたら、こめぜていた食稻けしねほうしていてんぢやねえけ、それかららもそれつたんぢやをへねつちつたな、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりげやんなそつちにべつにしてんだからいてやんだらそつちのがにしてろつちつたのよ、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりげなんざ勿體もつていねえな、さうしたらいきなり鐵火箸かなひばしれことばして、りやおれはせんのせえをしいつくれえだから※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりげやつてせえ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなことへやがんだんべなんて、※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)放心うつかりしてたもんだからにやあねえで、れかうえに怪我けがしつちやつたな、いま蒔物まきものいそがしいところんで、何處どこまでもなほんねえやうでもしやうねえからあさかせぎに骨接ほねつぎつたんだが、とほいのにそれにつてつと怪我人けがにんてちよつくらぢやねえもんだから、隨分ずいぶんえそえだつもりだつけがこんなにおそくなつちやつて、なんちつてもみじかくなつたかんな、さうつても怪我人けがにんちやるもんだな、」勘次かんじやうやくさうして仔細しさいこと顛末てんまつけた。
「そんだが怪我けが大變たいへんなこたねえのか」みなみ亭主ていしゆはそれも義理ぎりだといふやうにいた。
「うむ」と勘次かんじはいひよどんだ。みなみ亭主ていしゆ理由わけさとることは出來できないのみでなく、のいひよどんだことを不審ふしんおもこゝろさへおこさぬほど放心うつかりいてた。
「そんで爺樣ぢさまはどうしたつちんでえ」みなみ亭主ていしゆはそれからさきいた。
あさつぱら出掛でかけつちやつてまあだ行逢えきやえもしねえから、どうするつちんだかわかんねえが、どうせうめ面付つらつきもしちやらんめえな、んで怪我けがなんぞさせてえゝ心持こゝろもちぢやあんめえな、さうぢやねえけ」勘次かんじはだん/\いきほひがついていつた。
「そんぢやはなしはどうゆ姿なりにもしてかなくつちやしやうあんめえな、れまあはなしはしてつから、どつちがどうのかうのつちつたつてやうねえし、まさかおめえ手越てごししたな爺樣ぢさまだつちつたつて、おやのこと謝罪あやまれつちこともはんねえから何氣なにげなしのことにしてつゝけべぢやねえか、なあ」みなみ亭主ていしゆはさういつて卯平うへいせま戸口とぐちつてた。
「こつちのおとつゝあん、わしもへんはなしだが勘次かんじさんにたのまれたやうなかたちでまあたんだがね、昨日きのふ日暮ひくれとかにそれ、そつちこつちたつちことだつけが、勘次かんじさんもそんなにりい心持こゝろもちつたんでもねえ鹽梅あんべえだし、まあてえついて謝罪あやまらせんのなんだのつちことでなく、かぎりとして仲善なかよくやつてもれえてえんだがどうしたもんだんべね、はらあたせんなこらりいかもんねえが、親子おやこつてゝれ、ちつとのことであとかんげへてちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」仲裁者ちうさいしややはらかにさうしてしかいやといはれぬやうにけてんだ。
「なあにらあどうもかうもねえんだが、野郎奴やらうめはあ、なんぢやねえ、れこと邪魔じやまなんだから、らあれだとおもつてつからかまやしねえが、れげはせるものしくつてやうねえんだから、うちもの一粒ひとつぶでもらさねえやうにほかつてりやえゝんだんべが、れえそれから、れことさうだになんだら自分じぶん何處どこさでもけつかつたはうがえゝ、だらあとからものろつちなんだから」卯平うへいくはへた煙管きせるすこふるへるつて途切とぎれながらやうやれだけいつた。
「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻さつきもいふとほはらつべえが親子おやことなつてりやれ、えゝこともるもんだからなあ、さうはねえでそれ、わしげまかせて不承ふしようしさつせえね」みなみ亭主ていしゆたゞ反覆くりかへしていつた。
うだこたれ、だまつてりや隣近所となりきんじよでもわかんねえもんだが勘次等かんじらえゝしばら味噌みそせえくしてくんだから、一杓子ひとつちやくしりやしねえんだ。去年きよねんくれにや味噌みそくつちんではたれえたぜねしほまでつたんだな、れもこえめねえから味噌みそなくつちややうねえな、さかりころつから味噌みそきで味噌みそなくつちやなんぼにも身體からだちからつかねえでこまり/\したんだから、麥麹むぎつかうぢしほまでつてんだからまめせえりやぢきなのに、それいまんなつたつてくべぢやなし、なんでもねばえゝぐれえにしてつてんだんべが、れ、味噌みそなんざいたからつてさうぐにてえつけらつるもんぢやなし、明日あすにもぬかどうだかわかりやしねえが、そんでも自分じぶんてつところきせえすりや明日あしたぬにしたつて心持こゝろもちやえゝから」卯平うへいひとつぶやくやうにしてそれから
「あんときつきせえすりや今頃いまごへばへんのに」とかれそのくせしたらした。
小忌々敷こえめえましいからばしてやつたに」卯平うへいしばらいてまたすここゑちかられていつた。
「さうかね、らそんなこたらなかつたつけが、さうえこたいく懇意こんい近所きんじよだつちつたつて一々いち/\他人ひと飯臺はんだいまでふたとつちやられねえかららもらねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌みそでもなんでもさうえ理由わけぢやこつちのおとつゝあんきなやうにかせることにしてな、大豆でえづはそれとつたしすつからつもりにせえなりやわけねえはなしだな、さうしてこつちのおとつゝあんむねでさつせえ、りいこたはねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちやだれよりも子奴等こめら可哀想かあいさうだから、それにおなじもんぢやひがし旦那等だんならみゝへはれたくねえから、さうしさつせえよなあ」みなみ亭主ていしゆはさういつてこゝろでは段々だん/\しりごみするのであつた。卯平うへいふたゝ煙管きせるくちにして沈默ちんもくした。みなみ亭主ていしゆ勘次かんじ卯平うへいせま戸口とぐちみちびいた。勘次かんじ平常いつもならば自分じぶんこゝろからけつして形式的けいしきてき和睦わぼく希望きばうしなかつたはずである。かれ反目はんもくしてるだけならばひさしくれてた。しかかれ從來じゆうらいかつてなかつた卯平うへい行爲かうゐはじめて恐怖心きようふしんいだいたのであつた。
「そんぢやねえおとつゝあん、おたげえたねえことにしてね、勘次かんじさんおめえもいそがしくつててえつけねえでたかもんねえが、かうぢしほまでつてるつちんだから、あとまめ※(「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52)るだけのことだし、味噌みそくことにしてな、うえゝ鹽梅あんべえにしてくれさつせえね、先刻さつきもいふとほりそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」みなみ亭主ていしゆ二人ふたり見較みくらべるやうにしていつた。勘次かんじ卯平うへいまへてはたゞくびうなだれた。卯平うへい凝然ぢつよこいて勘次かんじをちらりともなかつた。かれ從來これまでとは容子ようす幾分いくぶんちがつてた。かれくせしたらしてたが
畜生奴ちきしやうめ」とたゞ一言ひとこといつた。さうしてまたしばらあひだいて
畜生ちきしやうつちはれんの口惜くやしけりや、口惜くやしいちつてはうがえゝ、原因もとはつちへば己奴うの手出てだしすんのがりいんだから」とひくしかするどかれつぶやいて、すゝきいたやうにくちをぎつとぢてしまつた。勘次かんじられたくさごと悄然せうぜんとした。
「こつちのおとつゝあん、そんぢややうねえよ、先刻さつきれそつから不承ふしようしてくろうつてかたしくつたんだつけな、そんぢやれもこまつから其處そこはおたげえにかうものはねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」とみなみ亭主ていしゆは一たん橋渡はしわたしをすればあとふたゝびどうならうともそれはまたときだといふこゝろから其處そこ加減かげんつくろうてにげるやうにかへつた。かれはどちらからも依頼いらいされた仲裁人ちうさいにんではなかつた。彼等かれら漸次しば/\家族かぞくあひだこと夫婦ふうふあらそひに深入ふかいりしてかへつ雙方さうはうからうらまれるやうなそん立場たちばはまつた經驗けいけんがあるので、こはれた茶碗ちやわんをそつとあはせるだけの手數てすうたくみ方法はうはふ機會きくわいとをつてた。黄昏たそがれかれ機會きくわいあたへた。
 勘次かんじかれ輕微けいび瘡痍きず假令たとひ表面へうめんだけでもいからおもつておもてさうしてかれ同情どうじやう言葉ことばをしまないものをもとめたが、かれには些少すこしでもその顛末てんまついてくれべきものは醫者いしやみなみ亭主ていしゆとよりほかはなかつた。しかあまりに瘡痍きずそのもの性質せいしつ識別しきべつした醫者いしやは、かれその果敢はかないこゝろうつたへる餘裕よゆうあたへずにかれあたまからおさへやう揶揄からかうた。かれ其處そこ何物なにものをもないでにげるやうに珊瑚樹さんごじゆ木蔭こかげた。みなみ亭主ていしゆ殊更ことさらかれ同情どうじやうして慰藉ゐしや言辭ことばをしまぬほどそのこゝろうごかされなかつたのみでなく、かれむし仲裁者ちうさいしや地位ちゐたねばらぬことに幾分いくぶん迷惑めいわくかんじた。勘次かんじけつして仲裁ちうさい依頼いらいしなかつた。かれたゞ自分じぶん調子てうしつてはなしをしてくれることに滿足まんぞくもとめようとしたのみであつた。しかしそれはこと/″\徒勞むだであつた。勘次かんじ羞恥しうち恐怖きようふ憤懣ふんまんとのじやうわかしたがそれでも薄弱はくじやくかれは、それをひがんだ表現へうげんしてひとごと同情どうじやうしてくれとふるがごとえるのみであつた。百姓ひやくしやうすべてはかれこゝろ推測すゐそくするほど鋭敏えいびんつてなかつた。かれ自棄やけわざ繃帶ほうたいいて數日間すうじつかんぶら/\とあそんでた。いそがしい麥蒔むぎまき季節きせつせまつて百姓ひやくしやうこと/″\はたけるので晝間ひるまかれ相手あひてになるものがなかつたのみでなく、いまはたらかずにはられぬからとかげ冷笑れいせうびせてるのであつた。季節きせつむねしくつひやすことが一にちでも非常ひじやう損失そんしつであるといふ見易みやす利害りがい打算ださんからかれ到頭たうとうまかされてまた所懸命しよけんめい勞働らうどう從事じうじした。かれはもう卯平うへい一言ひとことくちかなくなつた。寡言むくちなむつゝりとした卯平うへいもとより勘次かんじかへりみようともしなかつた。おつぎはそれをこゝろくるしんでたがそれは到底たうていおよばぬことであつた。村落むらうちには卯平うへいとの衝突しようとつがぱつとまた傳播でんぱされた。しかしそれは分別ふんべつある壯年さうねんあひだにのみ解釋かいしやく記憶きおくされた。事件じけん内容ないよう勘次かんじのおつぎにたいする行爲かうゐ猜忌さいぎ嫉妬しつととのもつ臆測おくそくたくましくするやうに興味きようみ彼等かれらあたへなかつた。だれ自分じぶんから彼等かれらあひだくちばしれようとはしない。とほ以前いぜんから紛糾こゞらけてたがひ感情かんじやうざした事件じけんがどんな些少させうなことであらうとも、けつしてこゝろよく解決かいけつされるはずでないことをつて人々ひとびといくおろかでもみづかこのんで難局なんきよくあたらうとはしないのであつた。

         二二

 拂曉よあけひかりはまだわたらぬ。うす蒲團ふとんにくるまつて百姓等ひやくしやうら肌膚はだには寒冷かんれいがしみ/″\ととほつて、睡眠ねむりちてながら、すべてがあごおほふまでは無意識むいしき蒲團ふとんはしいてもぢ/\とうごころであつた。かん/\とこほつてかねしづんだ村落むら空氣くうきひゞわたつた。希望きばう娯樂ごらくとにそゝのかされてつて老人等としよりら悉皆みんなひだりげて撞木しゆもくたゝいてかねひびきおくれるないそげ/\とみゝいた。老人としより何處どこうちからも一もい念佛寮ねんぶつれうしてあつまつた。彼等かれらいづれも、まだぐつすりとねむつて家族かぞくものにはそつ支度したくをして、うごけぬほど褞袍どてらかさねて節制だらしなくひもめて、おもてけるとひやりとするあけちか外氣ぐわいきしろいききながら、おほきなかたまりころがつてくやうに姿すがたはこんだ。彼等かれらそと壁際かべぎはから麁朶そだの一つてものつた。舊暦きうれきの二ぐわつなかばると例年れいねんごと念佛ねんぶつあつまりがるのである。彼等かれらはそれが日輪にちりんたいする報謝はうしや意味いみしてるのでお天念佛てんねんぶつというてる。彼等かれらくちからさうして村落むらの一ぱんからなまつて「おで念佛ねんぶつ」とばれた。先驅さきがけひかり各自てんでかほ微明ほのあかるくして地平線上ちへいせんじやう輪郭りんくわくの一たんあらはさうとする時間じかんあやまらずに彼等かれらそろつて念佛ねんぶつとなへるはずなので、まだすべてがねむりからはなれぬうち皆悉みんなくちすゝいでつてねばならぬのである。念佛衆ねんぶつしううちにはえらばれて法願ほふぐわんばれて二人ふたりばかりのぢいさんが、むづかしくもない萬事ばんじ世話せわをした。法願ほうぐわんこほさうかねげてちらほらとおほきかたまりのやうな姿すがたうごいてるまではちからかぎつじつてかん/\とたゝくのである。念佛寮ねんぶつれう雨戸あまど空洞からりはなたれて、殊更ことさらさむさに圍爐裏ゐろりには麁朶そだほのほてた。つるのあるすゝけた鐵瓶てつびん自在鍵じざいかぎからひくれてほのほしりおさへた。ぐるりとかこんだ老人としより不恰好ぶかくかう姿すがた明瞭はつきりせた。やがて二※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)ばんどりとほちかいて時間じかんた。法願ほふぐわんしきゐそば太鼓たいこゑて、うしろ段々だん/\と一どうすわつて一せいこゑあはせた。よこゑた太鼓たいこ兩手りやうてつた二ほんばち兩方りやうはうから交互かうごつて悠長いうちやうにぶひゞきてた。ばちあはせる一どうこゑしなびてせたのどからにごつたこゑであつた。雜然ざつぜんたるこゑなみごとしづんでおこつた。太鼓たいこばちつよかるち、さらあかつたどうをそつとつて、さうしてまただらり/\とつよかるつことを反覆はんぷくした。念佛ねんぶつをはるまでには段々だん/\とほちか木立こだち輪郭りんくわくがくつきりとしてあを蜜柑みかんかはあたつた部分ぶぶんからすこしづゝいろどられてくやうにひがしそらうす黄色きいろそまつて段々だん/\にそれがつて、さうして寒冷ひやゝかなうちにもほつかりと暖味あたゝかみつたやうにあかるくつた。念佛ねんぶつにごつたこゑあかるくひゞいた。地上ちじやうおほうたしも滅切めつきりしろえてれうにはてられた天棚てんだな粧飾かざりあかあをかみ明瞭はつきりとしてた。中心ちうしんに一ぽん青竹あをだけてられて先端せんたんあをあかとのかさねた色紙いろがみつゝんである。周圍しうゐにはれも四ほん青竹あをだけてられてそれにはなはつてある。なはには注連しめのやうにきざんだあかあをかみが一ぱいにひら/\とられてある。彼等かれら昨日きのふうちに一さい粧飾かざりをして※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりくのをつたのである。その天棚てんだな以前もと立派りつぱはしら丁度ちやうどちひさないへ棟上むねあげでもしたやうなかたちまれたのであつた。現今いまではそれがつたといふのは、一おそうた暴風ばうふうために、あつ草葺くさぶき念佛寮ねんぶつれうはごつしやりとつぶされた。とき幾多いくた民家みんか猶且やつぱり非常ひじやう慘害さんがいかうむつて、村落むらすべては自分じぶんしのぎがやつとのことであつたので、ほとんど無用むようであるれう再建さいこんかへりみるものはなかつた。さういふあひだ他人たにんはやしなたれねばたきゞられぬ貧乏びんばふ百姓等ひやくしやうらがこそ/\とれう木材もくざいいた。やつとのことで現今いまれう以前いぜん幾分いくぶんの一のおほきさに再建さいこんされるまでにはたな無残むざんのこぎりかゝつてたのである。それでも、老人等としよりら念佛ねんぶつ復活ふくくわつしたことに十ぶん感謝かんしや滿足まんぞくとをつた。彼等かれらはそこに老後らうごける無上むじやう娯樂ごらく慰藉ゐしやとを發見はつけんしつゝあるのである。
 太鼓たいこばちともにぽつさりとかれて悉皆みんな窮屈きうくつ圍爐裏ゐろりあたりあつまつた。れううちあかるくつてのぼほのほひかりやゝされてた。近所きんじよ百姓ひやくしやう雨戸あまどけるおと性急せいきふにがたぴしときこえた。にはへおりた※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとり欠伸あくびでもするやうに身體からだらしながら、放心うつかりしててまだらなかつたといふ容子ようすをしてのどいたほどくのがきこえた。何處どこいへにもあをけぶりひさしうてのぼつた。
 老人等としよりら一先ひとまづ自分じぶんいへかへつた。卯平うへいとなりもり陰翳かげが一ぱいおほうてせまにはつたときは、勘次かんじはおつぎをれて開墾地かいこんちあとであつた。卯平うへいにはつたまゝ空虚からになつてさうして雨戸あまどとざしてある勘次かんじいへ凝然ぢつた。いへやつれてる。しかしながら假令たとひどうでも噺聲はなしごゑきこえてあをけぶりつてれば、わづかでも循環めぐつてるものゝやうにきてえるのであるが、靜寂ひつそり人氣ひとけのなくなつたとき頽廢たいはいしつゝあるその建物たてもの何處どこにも生命いのちたもたれてるとはられぬほどかなしげであつた。卯平うへい薄闇うすぐらにはしも下駄げたあとをつけててからもなく勘次かんじしとねつてかまどつけた。それからおつぎが朝餐あさげぜんゑるまでには勘次かんじはきりゝと仕事衣しごとぎかへさむさにすこふるへてた。おつぎもはしとき股引もゝひきはしわらくゝつていた。勘次かんじ開墾かいこん土地とち年々ねんねんとほくへすゝんでつて、現在いまでは例年いつも面積めんせきでは廣過ひろすぎたことをこゝろづいたので、かれすこしの油斷ゆだん出來できなくなつた。かれ毎日まいにちのやうにおつぎをつれて、唐鍬たうぐはおこしたつちかたまり萬能まんのうたゝいてはほぐして平坦たひらにならさせつゝあつたのである。
 卯平うへい勘次かんじ戸口とぐちちかづいた。おもて大戸おほどにはぢやうがおろしてあつた。かぎもとより勘次かんじこしはなれないことをつて卯平うへいけてなかつた。かれまた裏戸うらどくちつてたが、掛金かけがねにはせん※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)したとえてうごかなかつた。卯平うへいはそれから懷手ふところでをしたまゝくせしたらしながら悠長いうちやう自分じぶんせま戸口とぐちつた。うちたゞ陰氣いんきときはしまくつた夜具やぐつめたくつてた。かれやうや火鉢ひばち麁朶そだくべた。かれそば重箱ぢゆうばこ小鍋こなべとがかれてあるのをた。ふたをとつたら重箱ぢゆうばこにはめしがあつた。ふたうらにはすこうるほひをつてた。あさおつぎはらずにんだのであつたが、卯平うへいなかつた。それでおつぎはときめししるとを卯平うへい小屋こやいてつたのである。卯平うへいかくおつぎにばれて毎朝まいあさあたゝかいめしあつしるとにはらこしらへつゝあつたのである。かれあさ褞袍どてらてものまだけないうちからのさわぎなので身體からだえてた。それかれうちかへつたならばしるはどうでも、飯臺はんだいなかはまだ十ぶん暖氣だんきたもつてるだらうといふ希望きばういだいて、かないことにまではおもいたらなかつた。重箱ぢゆうばこはもうえてしまつた。かれ仕方しかたなしに小鍋こなべ火鉢ひばちけた。かれかすかにしろ水蒸氣ゆげなべからはじめたとき玉杓子たまじやくしてゝつてたが猶且やつぱりつめたかつた。かれ火鉢ひばち麁朶そだして重箱ぢゆうばこめしなべれた。火鉢ひばち割合わりあひにはおほきななべほゝさはるばかりにしてふう/\といた。なべのぐず/\とにごつたこゑてゝあひだかれしなびたおほきなかざしながらしかめてた。かれ凝然ぢつとほくへ自分じぶんこゝろはなつたやうにぽうつとしててはまたおもしたやうに麁朶そだをぽち/\とつてべた。
 かれ例年いつになく身體からだやつれがえた。かさ/\と乾燥かんさうした肌膚はだへが一ぱん老衰者らうすゐしや通有つういうあはれさをせてるばかりでなく、そのおほきな身體からだにくおちてげつそりとかたがこけた。かれ身體からだやつれを自分じぶんでもつた。かれこのねんあひだ持病ぢびやう僂麻質斯レウマチス執念しふねほね何處どこかをみつゝあるやうにかんじた。あつ季節きせつになればかならいきほひをひそめた持病ぢびやうかれわすれてらなかつた。
 なべなかすこしぷんとこげつくにほひがした。かれはお玉杓子たまじやくしてた。なべそこうごかすごとにぢり/\とつた。かれわづかあつ雜炊ざふすゐ食道しよくだう通過つうくわしてちつくときほかりとかんじた。さうしてはしいたのちやうや身體からだこゝろよい暖氣だんきくははつたことをつた。少量せうりやうみづつい鐵瓶てつびんくのをかれまた凝然ぢつとしてつた。かれ先刻さつきからどうかするともとをさぐるやうにして煙草入たばこいれひざにした。煙草入たばこいれ虚空からであつた。かれ自分じぶん體力たいりよく滅切めつきりへつ仕事しごとをするのにかなくなつて、小遣錢こづかひせん不足ふそくかんじたとき自棄やけつたこゝろから斷然だんぜんそのほどすき煙草たばこさうとした。かれ悲慘みじめ自分じぶん自分じぶんいぢめてやるやうな心持こゝろもちを一ぱうにはつた。一ぱうにはまた無智むち彼等かれら伴侶なかまくするやうにかれ持病ぢびやう平癒へいゆほとけいのつたのでもあつた。それが明日あすからといふかれそののこつた煙草たばこほとんど一にちつゞけた。煙草入たばこいれかますさかさにして爪先つまさきでぱた/\とはじいてすこしのでさへあまさなかつた。そののちについたくせなにかにつけては煙管きせるつかませるので、めたことをかれこゝろいることもあつた。しかかれまたすぐほとけたいしての誓約せいやくやぶることに非常ひじやう恐怖きようふいだいた。かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬこゝろくるしみをまぎらすためふきくはして煙管きせる火皿ひざらにつめてたが、どれでも煙草たばこのやうにしつとりとした一しゆうるほひがあし引止ひきとめるやうなちからはなくて一へばすぐはひになつて、煙脂やにふさがらうとして羅宇らう空隙くうげきとほしてけぶりくち滿ちるときはつんとしたいや刺戟しげきはなかんずるのであつた。葡萄ぶだう他人ひとすゝめられてたが、れも到底たうていかれ嗜好しかうあざむくことは出來できなかつた。かれ煙管きせるにすることが慾念よくねんわす方法はうはふでないことをつて、かれ丁度ちやうど他人たにんたいするある憤懣ふんまんじやうからてつけに自分じぶん愛兒あいじしたゝかにゑるもののやうに羅宇らうつぶした。しかしそれをたれてはなかつた。それでもかれ空虚から煙草入たばこいれはなすにしのびない心持こゝろもちがした。かれわづか小遣錢こづかひせんれて始終しじうこしにつけた。れも空虚からつてはくた/\としてちからのないかはつゝにはつぶれたまゝ煙管きせる※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してた。かれしばらくさうしてたがどうかしてはわすれてくせづけられた手先てさき不用ふよう煙草入たばこいれさぐらせるのであつた。
 やうやにはしもとかしてけた。かれ不快ふくわいあさしかめたたぽつさりと念佛寮ねんぶつれうやつれたはこんだ。かれ田圃たんぼそばへおりて小徑こみちつた。道筋みちすぢには處々ところ/″\はなばなれないへ隙間すきまちひさな麥畑むぎばたけがあつた。麥畑むぎばたけうね大抵たいてい東西とうざいかたちづけられてあつた。とほくからみなみまはらうとしておもひのほかあたゝかいひかりで一たいしもかしたので、何處どこでもみづつたやうなうるほひをつてた。しかうすひかりはたけうねかたちづくつてなが小山こやま頂點ちやうてんえていくらもちからおよぼさなかつた。どのうねでもそのかげ依然いぜんとしてしろかつた。卯平うへい田圃たんぼいて北側きたがはみちあるいたのでかれにはこと/″\夜明よあけごとしろつめたいしももつおほはれてはたけのみがうつつた。
 午後ごごから村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみめしつぎや重箱ぢゆうばこれうはこばれた。老人等としよりらみなそれほこりだらけな佛壇ぶつだんまへそなへた。きたな風呂敷包ふろしきづゝみ小山こやまごとまれたとき念佛ねんぶつ太鼓たいこまたつた。それからにはあつまつた子供等こどもらまへめしつぎや重箱ぢゆうばこ供物くもつ分與ぶんよされた。念佛衆ねんぶつしゆうはそれからさらさけんで各自てんで重箱ぢゆうばこめしつぎをはしでつゝいて近頃ちかごろにない口腹こうふくよくたしめた。ひとり卯平うへいさかづきにしなかつた。かれ老人としより先立さきだつて自分じぶんうち重箱ぢゆうばこつてぽさ/\とかへつた。大抵たいていうちではこめ菱餅ひしもちすのが常例じやうれいであるが勘次かんじにはさういふひまがないのでおつぎはわづか小豆飯あづきめしたい重箱ぢゆうばこもつつたのであつた。すべての老人としよりほとんきやうするばかりにさわ二日ふつかそのにち卯平うへいには不快ふくわいでさうして無意味むいみつひやされた。かれになつてから
ぢい今朝けさのおまんまつめたくつたつけべわすれてばりにつたのがよ、さうしたらぢいとつくねえのがんだもの、そんでも先刻さつきはがや/\一ぺえるやうだつけがあつちぢやうめものあつて爺等ぢいらとつけえしとつたんべなあ」とおつぎがすこあまえたやうにいつたことをかれ有繋さすがにくいとおもつてはかなかつた。

         二三

 念佛ねんぶつつぎ同一どういつ反覆はんぷくされた。午後ごごになつて村落むらのどのいへからも風呂敷包ふろしきづゝみはこばれた。子供等こどもら學校がくかうからかへつて風呂數包ふろしきづゝみ脊負しよつたのも、乳呑兒ちのみごおびくゝつたのも大抵たいていれうにはあつまつた。
「さあそんぢやまた、みんなあがれ」とばあさんがいふと閾際しきゐぎはせまつてつて子供等こどもらあらそうてせきをとつた。彼等かれら今日けふせまれう内側うちがはにぎつしりとひざすぼめてすわつた。四五にんばあさん佛壇ぶつだんまへまれてあつた風呂敷包ふろしきづゝみきながらひそ/″\と耳語さゝやいた。
りやなんだとおもつたら、すしだよ」と一人ひとりばあさんがいへば
「そんぢや、そつちへべつにしてけよおめえ」
「そんぢやこつちのがもべつにしてくべよ、なあ」ばあさんすこぶあわてたやうにもとせはしく三つ四つの風呂敷包ふろしきづゝみをそつと佛壇ぶつだんかくした。さうしてうちほかばあさん
「みんな、おとなしくなくつちや、んねえぞ」
「さうだにはならしてるものげはやんねえことにすべえ」口々くち/″\揶揄からかつた。子供等こどもらは一せいはなすゝつてさうして衣物きものよこぬぐつた。しろかみが一まいづつ子供等こどもらまへひろげられた。
子奴等こめらことつて、手洟てばななんぞかんだぢやかねえでろえ、おめえ勿體もつてえねえから」ばあさんめしつぎをひだりかゝへてつたとき、かう圍爐裏ゐろりそばから呶鳴どなつた。かれ小柄こがらぢいさんで一寸ちよつとばあさんかへりみて微笑びせうしながらいつたのである。かれのどへ二ぢゆうにした珠數じゆずいてた。かれこゑおそろしくおほきかつた。ばあさん
「はい/\、そんぢやでもあらひますべよ」といつたり
らおめえ、手洟てばなはかまねえよ」といつたりがら/\とさわぎながら、わら私語さゝやきつゝ、れた前掛まへかけいてふたゝめしつぎをかゝへた。ばあさんはしさきすこしづつ、めしつぎのものけてひろげられたかみきつゝ、はしからぐるりとまはつてく。かみ子供等こどもらかずほかにもかれてあつた。それは空虚からになつためしつぎをかへときなかれてやるためであつた。めしつぎには大抵たいてい菱餅ひしもち小豆飯あづきめしとがれられてあつた。小豆飯あづきめしはどれも/\こめけてないのでくすんでさうしてはらけた小豆あづきいて餘計よけい粘氣ねばりけのないぼろ/\なめしになつてた。それでもめしつぎのことなごと小豆飯あづきめしあかさがいくらかづつかはつてた。子供等こどもらかはつた小豆飯あづきめし一箸々々ひとはし/\えてくのがうれしくて、そところがつたのはあわてゝでとつてかみせた。小豆飯あづきめし昨日きのふことなつたことはなかつたが、菱餅ひしもち昨日きのふのやうにこめのではなくてどれでもあはばかりであつた。子供等こどもら大小だいせうことなつたあは菱餅ひしもちが一つは一つとかみうへ分量ぶんりやうしてまれるのをたのしげにして、自分じぶんかみから兩方りやうはうとなりかみからとほくのはうから、それから一つ/\にかゞんではしうごかしてばあさんせはしいもとにられるのであつた。ばあさんはそは/\としつゝせまいのでたがひ衝突つきあたつてはさわぎながら、自分じぶんいへときのやうな節制たしなみすこしもたもたれてなかつた。
「さあ、れつきりだ」ばあさん空虚からになつた最後さいごめしつぎのそこたゝいてこしばしたとき子供等こどもらあぶさうやうやかみつゝんで、がた/\とさきあらそうてつた。下駄げたとほくへばされたり、ころがつたり、紙包かみづゝみもちおとしたりしてこゑあひまじつた。彼等かれらにはへおりてからおもむろにかみひらいて小豆飯あづきめしつまんでべた。かみにくつゝいた小豆飯あづきめし彼等かれらかじるやうにしてとつた。やぶれたかみてゝ菱餅ひしもちふところれるものもあつた。にはにはそつちにもこつちにもてられたかみしろみだれてらばつてた。
 老人等としよりら圍爐裏ゐろりえずたきぎべながらさけわかはじめた。村落むらのどのうちからか今日けふ念佛衆ねんぶつしうへというてそなへられた二升樽しようだる圍爐裏ゐろりそばきつけて、しりすゝけた土瓶どびんへごぼ/\といで自在鍵じざいかぎけた。そとあまりにさむいからといふので念佛ねんぶつんでからたれかゞ雨戸あまどを二三まいいたのでれううち薄闇うすぐらくなつてた。佛壇ぶつだんまへにはばあさんが三四にんでひそ/″\とひたひあつめてる。
婆奴等ばゝあめら、そつちのはう偸嘴ぬすみぐひしてねえで、佳味うめものつたら此方こつちつてう」先刻さつきくび珠數じゆずいた小柄こがらぢいさんが呶鳴どなつた。
ぬすんだつちわけぢやねえが、ふたとつてところなんだよ」さういつてばあさん風呂敷ふろしき四隅よすみつかんで圍爐裏ゐろりそばつてた。めしつぎには干瓢かんぺうおびにした稻荷鮨いなりずしすこしろはらせてそつくりとまれてあつた。すしすこつてた。
ひとりでせしめちやえかねえから」ぢいさんは戲談じようだんらしくいつた。
ひとりぢやあんめえな、かうやつて三にん四人よつたりたんだものなあ」
「さうだとも、くれえらげよこしたつて本當ほんたうにすりやえゝんだよ、なあ、らなんざあがつたさけだつてさうだにむべぢやなし」ばあさん抗辯かうべんするやうにいつた。悉皆みんなひとつ/\とすしつまんだ。
「そりやさうと、さけどうしたえ」小柄こがらぢいさんはひよつと自在鍵じざいかぎまゝ土瓶どびんもとへひきつけて、そこてゝた。
放心うつかりしてゝ※(「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52)にたツちやあとこだつけ」といそいで土瓶どびんはづして
らさうだすしなんざ自分じぶんぢやひとつでもしかねえんだから、さうだもの滿腹はらくちくしたつくれえさけからツきうまくなくしつちやあから、」ぢいさんは土瓶どびんたゝみうへいていつた。悉皆みんながずらりとつくつた。茶呑茶碗ちやのみぢやわんひとつ/\にかれて、何處どこからかそなへられたいも牛蒡ごばう人參にんじん野菜やさい煮〆にしめ重箱ぢゆうばこまゝかれた。其處そこにはぜんだいなにもなかつた。土瓶どびんさけ徳利とくりうつされて土瓶どびんふたゝ自在鍵じざいかぎつるされた。二度目どめさけ茶碗ちやわんがれたとき
駄目だめだ、焦臭こげくさくしツちやつた、さけわかすのにやへねえどうもをつけなくつちや、さけちやはちつとでも臭味くさみうつらさんだから」小柄こがらぢいさんは茶碗ちやわんくちてゝ憤慨ふんがいへぬものゝやうにいつた。
「なあに、土瓶どびんだつて二度目どめのがすこしにねえで、先刻さつきのがより餘計よけいなツくれえぎせえすりや大丈夫だいぢようぶなんだが、それさうでねえと周圍まありがそれびつから」とそばからぐにくちた。
「そんぢや、今度こんだ澤山しつかりえびやな、ろくんもしねえで、おこられちやつまんねえな」土瓶どびんにしたばあさんはわらひながらいつた。
本當ほんたうにすりや、一ぺんごと土瓶どびんなかみづでゆすがなくつちや駄目だめなんだがな」
「そつから、はあ、鐵瓶てつびんなか徳利とつくりおしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
折角せつかくうめさけでえなしにして可惜物あつたらもんだな、らこんで餘程よつぽどえゝさけだぞ」などといふこゑ雜然ざつぜんとしてきこえた。
鐵瓶てつびんぢや徳利とつくりぽんづつしかへえんねえから面倒臭めんだうくさかんべとおもつてよ」とばあさんはいひながら、一たんたぎつた鐵瓶てつびんけた。たる空虚からになつて悉皆みんなもの銘酊よつぱらつてがや/\とたゞさわいだ。
 卯平うへい圍爐裏ゐろりそばはなれずにむつゝりとしてさかづきをとらぬばあさんにあたりながら、煙管きせるたぬ所在しよざいなさに麁朶そださきつてそのくせしたらしつゝ齒齦はぐきをつゝいてた。かれ悉皆みんなさわいで自分じぶんはらりるだけのすし惚菜そうざいやらをはしはさんでさかづきへはれようとしなかつた。老人等としよりら自分じぶんさわはうにばかりこゝろうばはれて卯平うへいのことはそつちのけにしたまゝであつた。卯平うへいはそれでも種々いろいろ百姓料理ひやくしやうれうり鹽辛しほから重箱ぢゆうばこはしをつけて近頃ちかごろになくこゝろよかつた。かれはらに一ぱいになるまでには、けた齒齦はぐきんで嚥下のみくだして、さらつぎはしくちまで悠長いうちやう運動うんどう待遠まちどほ口腔こうかう粘膜ねんまくからは自然しぜんうすみづのやうな唾液つばいてるのをおさへることが出來できないほどであつた。
 威勢ゐせいよくつた老人等としよりらあかどう太鼓たいこ首筋くびすぢからむねつて、だらり/\とたゝいてさきつとあしもともと節制だらしなくなつたすべてがあとから/\と、ことばあさんさわぎながらついる。軒端のきばから青竹あをだけたなうていてあるむしろわたつておもむろまはる。彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。相互さうご踉蹌よろけながらをどりともなんともつかぬ剽輕へうきん手足てあしうごかしやうをして、たくはへていた一年中ねんぢうわらひを一したかとおもほどこゑはなつてめどもなくどよめいた。つひにはれつみだれてたがひ衝突しようとつしてはあしんだりまれたりして、一人ひとりたふれゝばあとから/\と折重をりかさなつてひとしきりおなところまつてはがや/\とさわいだ。彼等かれらほとん冷却れいきやくしようとしつゝある肉體にくたいいづれの部分ぶぶんかにうしなはれんとしてほつちりとそのおもかげめて青春せいしゆん血液けつえきの一てきにはかいて彼等かれら全體ぜんたい支配しはいかつ活動くわつどうせしめたかとおもふやうに、枯燥こさうしつゝある彼等かれらかほにはどれでもはなやかなべにしてる。彼等かれらまつた節制たしなみうしなつてる。彼等かれら平生へいぜい家族かぞくまじつて、その老衰らうすゐがどうしても自然しぜん壯者さうしやあひだ疎外そぐわいされつゝ、各自かくじむし無意識むいしきでありながらしか鬱屈うつくつしてものう月日つきひすごしつゝあるときに、例年れいねんさだめである念佛ねんぶつはさういふすべてをはな自由境じいうきやうである。彼等かれら其處そこすこし遠慮ゑんりよをもつてらぬ。彼等かれら冬季とうきあひだながねむりにきつゝさむさにいぢめられてくるしさを、もうそら何處どこにかいきほひをひそめて躊躇ちうちよしてはずはる先立さきだつて一取返とりかへさうとするものゝごとさわいで/\またさわぐのである。さけ其處そこてんじた。にはの四ほん青竹あをだけつたなはあかあをきざんだ注連しめがひら/\とうごきながら老人等としよりらひとつに私語さゝやくやうにえた。陽氣やうきにはへ一ぱいあたゝかなひかりなげた。にはには子供等こどもら村落むらものがぞろつとたつこのさわぎをわらつてた。そのへんにはむづかしさうなものはひとつもられなかつた。彼等かれらつゝんだやはらかな空氣くうきはる徴候きざしでなければならなかつた。
 しかしながら卯平うへいたゞひとそのむれくははらなかつた。老人等としよりらいきほひがごつとにはうつつたときれううちさわぎのこゑが一ぱいおそやかましいにもかゝはらずさびしかつた。圍爐裏ゐろりはひしろおほうて滅切めつきりおとろへた。卯平うへい凝然ぢつうでこまねいたまゝしかめて退いたまきをすらさうとしなかつた。かれにはには節制だらしのないさわぎのこゑみゝ支配しはいするよりもとほかつはるかやみ何物なにものをかさがさうとしつゝあるやうにたゞ惘然ばうぜんとしてるのであつた。與吉よきち紙包かみづゝみの小豆飯あづきめしつくしてしばらくにはさわぎをたがれううち※(「煢−冖」、第4水準2-79-80)ぽつさりとして卯平うへい見出みいだして圍爐裏ゐろりちかせまつた。
ぢいくんねえか」とかれまた何時いつものやうに卯平うへいあまえた。卯平うへいそのこゑいてもしばらしがんだまゝた。
 立春りつしゆんぎてから、かへつ黄昏たそがれ果敢はかないうすひかりそらちるはず西風にしかぜなにいかつてかいて/\まくつて、わたつても幾日いくにちまぬほど稀有けう現象げんしやうともなうて、鬼怒川きぬがは淺瀬あさせこほりとざされて、やがこほりかたまりながれたといふうはさつたことがあつた。卯平うへいはそれととも乾燥かんさうした肌膚はだ餘計よけいれて寒冷かんれいほねてつしたかとおもふとにはか自由じいううしなつてたやうに自覺じかくした。かれなはふにも草鞋わらぢつくるにも、それある凝塊しこりすべての筋肉きんにく作用さよう阻害そがいしてるやうで各部かくぶ疼痛とうつうをさへかんずるのであつた。器用きようかれ手先てさき彼自身かれじしんものではなくなつた。かれ與吉よきちせま戸口とぐちごとこゝろからむかへる以前いぜん卯平うへいではなくなつてた。それでもかれ與吉よきちあいしてた。
明日あしたにしろ」とかれ簡單かんたん拒絶きよぜつしてさうしてそれつきりいはないことがるやうになつた。與吉よきちしば/\さういはれて悄然せうぜんとしてるのを、卯平うへい凝視みつめて餘計よけいしかめつゝあるのであつた。さういふことが幾度いくたび幾日いくにち反覆くりかへされたのち卯平うへい與吉よきちへ一せん銅貨どうくわあたへた。從來これまでばいしてるのとほとんまた拒絶きよぜつされるのではないかといふ懸念けねんいだきつゝある與吉よきち何時いつでもそれ非常ひじやう滿足まんぞくあらはした。その容子ようす卯平うへいいきほこゝろうごかされた。
 自分じぶん老衰者らうすゐしやであることをつたときあきらめのないすべては、もすればたがひ餘命よめい幾何いくばくもない果敢はかなさをかたうて、それが戲談じようだんいうて笑語さゞめときにさへえず反覆くりかへされて、各自かくじ痛切つうせつかんずる程度ていど相違さうゐはあるにしても、問題もんだいくるしめられてるのは事實じじつである。卯平うへいこゝろにもおなじく觀念くわんねんまず往來わうらいした。
 かれその手先てさき自由じいううしなうたとき自棄やけこゝろからかれ風呂敷包ふろしきづゝみいた。野田のだころ主人しゆじんまた主人しゆじんようでの出先でさきからもらつた幾筋いくすぢ手拭てぬぐひあはせてこしらへた浴衣ゆかたした。清潔好きれいずきかれには派手はで手拭てぬぐひ模樣もやう當時たうじほこりひとつであつた。かれはもう自分じぶんこゝろいぢめてやるやうな心持こゝろもち目欲めぼしいもの漸次だん/\質入しちいれした。かれ眼前がんぜんこほりぢては毎日まいにちあたゝかひかり溶解ようかいされるのをた。かれにはそれがたゞさういふ現象げんしやうとしてのみうつつた。かれ自由じいううしなうたその手先てさきあたゝかはるつもつて漸次だん/\やはらげられるであらうといふかすかな希望のぞみをさへおこさぬほどこゝろひがんでさうしてくるしんだ。かれ風呂敷包ふろしきづゝみからつゝあつた金錢きんせん些少すこしのものであつたが、それはときとしてかれこはばつたしたてきした食料しよくれうあるものもとめるほかに一部分ぶぶん與吉よきちちひさなおとされるのであつた。果敢はかない煙草入たばこいれかますなか懸念けねんするやうにかれ數次しばしばのぞいた。陰鬱いんうつせま小屋こやなかのぞかますそこくらかつた。わづかにまじつたちひさなしろ銀貨ぎんくわたびかれこゝろいくらかのひかりあたへた。かれ※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どんなをしんでもかますなかつてくのをふせぐことは出來できない。しか寡言むくちかれいたづらに自分じぶんひとりみしめて、えずたゞ憔悴せうすゐしつゝ沈鬱ちんうつ状態じやうたい持續ぢぞくした。かれその状態じやうたいたもつて念佛寮ねんぶつれう圍爐裏ゐろりにどつかとものう身體からだゑてた。
 にはさわぎはんで疾風しつぷうおそうたごとれううちまた雜然ざつぜんとして卯平うへいかこんだ沈鬱ちんうつ空氣くうき攪亂かくらんした。やが老人等としよりらたがひ懷錢ふところせんうた二升樽しやうだるはこばれてさけまたわかされた。さけ圍爐裏ゐろりちかかたちづくられた。ときまだ與吉よきちらなかつた。卯平うへいだまつて五りん銅貨どうくわげた。そば一人ひとり老人としよりがそれをひろはうとしてせると與吉よきち兩方りやうはうかけてそれからもつおほうた。かれはそれをかたつかんで
ぢい、いまひとつくんねえか」とさら強請せがんだ。かれは五りん銅貨どうくわ大事だいじにした。しかかれしばらく一せん銅貨どうくわれてたのでこゝろわづか不足ふそくかんじたのであつた。卯平うへいくちつぐんでる。
りや、さうだことふんぢやねえ、先刻さつきあゝだになにつもらつてるもんか、まつとしいなんちへばはら掻裂かつツえて小豆飯あづきめし掻出かんだしてやつから、りやくちばかしいごかしてつからろうそれ、からすきうゑらツてら」と先刻さつきくび數珠ずゝいたぢいさんががみ/\といつた。與吉よきちはにかんだやうにして五りん銅貨どうくわくちびるをこすりながらつてた。かれくち兩端りやうはしにはからすきうといはれてかさ出來できどろでもくつゝけたやうになつてた。
りやぜねしけりやおとつゝあにもらへ」ぢいさんはまた呶鳴どなつた。
「そんだつて駄目だめだあ、おとつゝあれやしめえし」與吉よきちやつといつた。
「おとつゝあつんぼだからきけえねんだ、おとつゝあろうつとてえに呶鳴どなつてろ、そんでなけれみゝ引張ひツぱつてやれ」
「そんだつてだあら、おとつゝあにばされつから」
「えゝからけはあ、汝等わつらてえな餓鬼奴等がきめらごや/\ちや五月蠅うるさくつてやうねえから」與吉よきち悄々しを/\つた。
「さうら」と卯平うへいあとから五りん銅貨どうくわにはげてやつた。
 さうしてに二度目どめさけあづからぬばあさんおもて雨戸あまどさらに二三まいひい餘計よけい薄闇うすぐらつた佛壇ぶつだんまへ凝集こゞつた。何時いつにか念佛衆ねんぶつしゆう以外いぐわい村落むら女房にようばうくははつて十にんばかりにつた。彼等かれらそとからの人目ひとめ雨戸あまどけて唯一ゆゐいつ娯樂ごらくとされてある寶引はうびきをしようといふのであつた。たゝみには八ほんこん寶引絲はうびきいとがざらりとされた。彼等かれらはそれをいとんでるけれども、はたつてはなした最後さいごいとはしなはのやうにつたつなである。ばあさんまるつくつて銘々めい/\まへへ二せんづつのぜにいた。おやつた一人ひとりが八ほんつなもとつかんで一ぎつとゆびからんでばらりとすと、悉皆みんなひとつづゝつかんでれもはしゆびへぎりつとからんで一くと七ほんつなむなしくすつとこける。たゞぽんつなしりには彼等かれらのいふ「どツぺ」がいててそれがどさりとたゝみつて一人ひとりもとへかれる。どつぺは一厘錢りんせんを三ずんばかりのあつさにあなとほしてぎつとくゝつたおもりである。一厘錢りんせん黄銅くわうどう地色ぢいろがぴか/\とひかるまで摩擦まさつされてあつた。どつぺをいたのがさらおやになつて一ごとにどつぺはいてつなへつける。さうするとばあさん思案しあんしつゝしかすみやかにつなひとつをつまんでははなしたりまたつまんだりきはめていそがしげにうごかす。彼等かれら丁度ちやうど※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)くじくやうに屹度きつとひとつはあたはずのどつぺを悉皆みんなこゝろあてにつかんでくのである。一ごと失望しつばう滿足まんぞくとが悉皆みんなかほにそれからそれとうつつてく。
 つなをぎつとつかねてかせるもとや、ひとつづゝに思案しあんしながらしかつかんだら威勢ゐせいよくすいともとは彼等かれらこはばつたでありながら熟練じゆくれんしてさうして敏捷びんせふ運動うんどうする。つな周圍しうゐから悉皆みんなかたちづくつてちゞまるやうにして、ひとつかんではまたひろがるやうにしつゝ容子ようす大勢おほぜいひとつのひもつてるやうなかたちにもえた。彼等かれらいそがしくうごかしてるとともこゑころしてひそ/\とかもちかられて笑語さゞめいた。彼等かれら戸外こぐわいきこえをはばからぬならば興味きようみじようじて放膽はうたんさわはずでなければならぬ。各自かくじまへぜにはどつぺをてたものひとつづゝられてたれまへにもまつたくなくなつたときまたさらかれるのである。彼等かれらはそれに熱中ねつちうしてまつたわすれてる。寶引はうびきにもさけにもくははらぬ老人等としよりらたな周圍しうゐまはつてからはかへつたものもつてれうにはいくらか人數にんずつてたが、圍爐裏ゐろりほとりゑひくははつて寶引はうびきむれかぬばあさんさけきなれも威勢ゐせいのいゝものばかりであつた。
「なあおめえ、こんでらもけえときにや面白おもしろえのがんだよなあ」とぢいさんのかたもたかゝるものもあつた。
篦棒べらぼう以前めえかたのことなんぞ、外聞げえぶんりい、らなんざこんで隨分ずゐぶん無鐵砲がしよきなこたあしたが、こんでをんなにやれねえつちやつたから」とくび珠數じゆずいたぢいさんがそばでそれを呶鳴どなつた。
「おめえ、おこんなくつてもえゝやな、さけ座敷ざしきぢやそれくれえなこた仕方しかたあんめえな」としかられたばあさんはみぎうへからひだりひらちつけて、大聲おほごゑてゝわらひながら
「どうしたんでえまあ一ぺえやらつせえね」とばあさんはさら卯平うへい茶碗ちやわんきつけた。卯平うへいは一ぱいをもくちふくまぬのに先刻さつきからたゞ凝然ぢつとして、さわぎをくでもなくかぬでもない容子ようすをして胡坐あぐらをかいてた。二度目どめさけいくらかはら餘計よけいであつた老人等としよりらはもう卯平うへい見遁みのがしてはかなかつたのである。
しばらくやんねえから」卯平うへいはそつけなくいつてくせしたらした。
なんでまたまねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢えせいつけてるもんだ、そうれ」と先刻さつきからのぢいさんは茶碗ちやわんきつけた。卯平うへいしたらして、つばをぐつとんだ。
らはあ、しばらくやんねえから、煙草たばこ身體からだ工合ぐえゝりいからつたんだからなんだが、さけぜねかせげねえし、ちつとでもめばまたみたくなつからめつちやつたな、さけもはあ以前めえかたちがつて一ぺえいくらつちんだからぜねくんのむやうで」かれはぶすりとしてしかちからのないこゑけるやうにしていつた。
「さうだことあねえで、そらたつとかうてえつんだすもんだ、倦怠まだるつこくつてやうねえ此等こツらがな」先刻さつきぢいさんはまたぱいをぐつとして呶鳴どなつた。
「さうだよ、まつせえよおめえ、めでゝえさけだから、威勢えせえつければおめえ身體からだ工合ぐえゝだつてちつとぐれえならなほつちやあよ」ばあさんまたすゝめた。
ひと勘次かんじどんにやくさんねえごつさら、こまつたもんさな、そんだつておめえさうえもなやうねえから、さうえにくよくよしねえはうがえゝよ」ばあさんもいつた。
身體からだ工合ぐえゝりいなんて、さうだ料簡れうけんだから卯平等うへいらやうねえ、此等こツらようまづだなんて、ようまづなんち病氣びやうきはらむしからんだから、なあにわきあねえだよ、へびでかうきおろすんだ、えゝか、れこすつてやつから、いや本當ほんたうだよらがなんざあ」小柄こがらぢいさんは非常ひじやういきほひでいつた。
 くび珠數じゆずかれこゑのど膨脹ばうちやうさせるのでそのたびごとすこしづゝうごいた。
へびきれえだから」卯平うへいくるさうにいつた。
へびきれえだと、さうだえけ姿なりしてあばさけたこといふなえ、らなんざへびでも毛蟲けむしでも可怖おつかねえなんちやねえだから、かうえゝか、うだぞ」といひながらぢいさんは後向うしろむきつて、十ぶん酩酊よつぱらつたあし大股おほまたんで、はだいだ兩方りやうはうをぎつとにぎつて、手拭てぬぐひ背中せなかこするやうなかたちをしてせた。
らようまづぢや八九ねんなやんだんだが、へびでこすればえゝつちから、うめえこときいたとおもつてな、えけ青大將あをだいしやうぶらんと※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきからぶらさがつたから竹竿たけざをおとすべとおもつたら、婆奴等ばゝめらかまあななんてつけが、えゝから汝等わツらだまつててろ、なんてそれからおれぐうつとあたまふんづかめえて、背中せなかこすつたな、えけ青大將あをだいしやうだから畜生ちきしやうちゞまつて屈曲えんぢぐんぢしたときかゝつて仲々なかなかいごかねえだ、それからうゝんとのばしちやこすつたな、さうしたらかたまりごりつ/\とこけんのれたつけな、さうしたらなあにけろりよ」
 かれは一どうけた背中せなかまはして
此處こゝらんとこにかたまりあつたのがだが、それつきり何處どこさかつちやつたな、それかられはあ、ようまづなんざわきあねえつちつてんだ」かれ手先てさき脊椎せきずゐちかれた。
「おゝえやまあ、えけきうあとぢやねえけえ」と一人ひとりばあさんがおどろいていつた。
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ねつたがそれでれぐつと身體からだにやちからつけつちやつたな、所爲せゐだな十五んちなほつたな、そんだからぐにむぎの八はずん/\けたな、らこんで體格なりはちつちえがつをかつたな、らがな無垢むくつええのがだから、いや本當ほんたうだよ、卯平等うへいら仕事しごとぢやつをかつたが、そりやつええとも、そんだが根性こんじやうやくざだから、疫病やくびやうくつゝいて太儀こはくつてやうねえなんて、それかられ、確乎しつかりしろツちへばどうも下痢くだつちやちからけてやうねえ、うん/\なんてうなつて、そんだがあんときにやかゝあ可哀相かはいさうなことしたな世間せけん奴等やつら卯平うへいかゝあとつつかれべえなんちから心配しんぺえすんなつてつたんだな、そんだが根性こんじやうねえから、心配しんぺえするもな大嫌だえきれえだ、それ、心配しんぺえしねえで一ぺえけろつちんだ」ぢいさんはいくらでも乘地のりぢになつてまくしかけた。
「さうだよおめえ、さけ座敷ざしきでむつゝりしてるもなるもんぢやねえ」
ばあさまのだつておめえさけぢや酩酊よつぱらあからやつてさつせえよ」ばあさんそばから交互たがひさかづきすゝめた。彼等かれらなさけなげな卯平うへいなぐさめようとするよりも、ひとりむつゝりとしてかれ伴侶なかままうといふのと、かはつてかれ容子ようすたいして揶揄からかつてもたいからとであつた。
ぜねしもしねえで、他人ひとさけなんぞ」卯平うへいくちねばつてしたこはばつたやうにいつた。
「おめえかまあもんぢやねえな、※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなこと」ばあさんまたいつた。
酒代さかでんなけりや、こつちのはう寺錢てらせん出來できてるよおめえ寶引はうびき仲間なかまがこちらをかへりみていつた。
らねえともそんなぜねなんざ、博奕ばくちなんざなんでもきれえだから」小柄こがらぢいさんはすぐ呶鳴どなつた。
らはあぜねりもしねえで」卯平うへい他人ひとさわぎにまれようとするよりも、自分じぶん心裏しんりあるものやつとのことさうとするやうにつぶやいた。
またさうだこつたからやうねえ、勘次等かんじら懷工合ふところぐえゝえゝつちんだから、らばなんでも、れよこせつとういふんだ。かまあねえから奪取ふんだくつてやれ、らだらさうだ、いや本當ほんたうだとも、むこなんぞに威張えばられてるなんちことるもんか、卯平等うへいら根性こんじよう薄弱やくざだからやうねえ」小柄こがらぢいさんはかみを一ぱいあせうるほした。
威張えばらツる理由わけぢやねえが、れでやんべとおもつてんだから」卯平うへい自分じぶん庇護ひごするやうにいつた。
むこなんぞ、承知しようちするもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎どろぼうやらうきれえだ、はたけでもでも油斷ゆだんなんねえから」
「そんだが、いまぢやふところちつたえゝ所爲せえるなんねえよ」
「なあにれ、蜀黍もろこしつたときにや勘辨かんべんしめえとおもつたんだつけがお内儀かみさんにらツたから我慢がまんしたんだ、卯平うへいだらやりしてやんだ、いやれにや本當ほんたうられつとも、家族うち奴等やつらげなんざぐづ/\はあせねえだ、ぢや元日ぐわんじつにやくれえにきて、みのて、圍爐裏端ゐろりばたいもえてくふ縁起えんぎなんだが、奴等やつら外聞げえぶんわりいからだなんてかしやがつから、れ、なんだとうだつちんだらだつていまぺんつてろ、目玉めだまくれうちやさうはえがねえぞつちんだから、いや本當ほんたうかねえだから」かれかみ餘計よけいうるほひをして悉皆みんなみゝそことほほど呶鳴どなつてせた。
「おめえてえにさうはかねえよ、他人たにんは」卯平うへいはぽさりといつた。
本當ほんたうにおめえてえなもなねえよ、けえときから毎晩まいばん酩酊よつぱらつちや後夜ごやとりでもかまあねえうまひいけえつちやれるほどたゝいて、さうしちやうま裾湯すそゆえてねえつてつちや家族うちものことしてなあ、百姓ひやくしやうはおめえ夜中よなかまでねむんねえでつちやらんねえな、そんだがおめえも相續人さうぞくにん出來でき仕合しあはせだよなあ」そば先刻さつきからいてばあさんの一人ひとりがいつた。服裝なり老人等としよりらとはちがつてた。
れにやされつとも、んでちからつをかつたかんな、仕事しごとぢや卯平うへいつをかつたが、かうだえけ體格なりして相撲すまふぢやれにやかたでぺた/\だ。らやあつちうちにやげつちやあだから、あゝ、うでばかしぢやねえ、そらつくれえだからつええだよ、麥打むぎぶちとき唐箕たうみてゝちや半夏桃はんげもゝもらつたの、ひよえつとくちえたつきり、たねまでがり/\かぢつちやつたな、奇態きたいだよそんだがもゝかぢつてつとはななかほこりへえんねえかんな、れがぢやれでも魂消たまげんだから眞鍮しんちう煙管きせるなんざ、くうええてぎり/\つとかうぴらでぶんまあすとぽろうつとれちやあのがんだから、そんだからいまでも、かうれ、とほりだ」ぢいさんはぎり/\とあはせてせた。
らそれから、喧嘩けんくわぢやけたこたねえだよ、野郎やらうなんだつちうちにやるか、ころがすかだな、ごろりころがつたところ爪先つまさきくびすつてかうぐる/\まあすとどうだえけ野郎やらうでもきらんねえだよ、から笑止をかしくつてやうねえな、えゝか、う、かうやんだよ、あゝ、本當ほんたうつええのがんだよ、それ卯平等うへいら駄目だめだなうしろはうにばかしかくれてゝからつき」とぢいさんはすこ退さがつて兩手りやうてもつ喧嘩けんくわ相手あひていぢめるやうな容子ようすをしてせた。
「そんだが旦那だんなあれてから、家族うち奴等やつらこともおこんねえはあ、れうめえとこられつちやつたな、いやあれちや勿體もつてえながす、本當ほんたう勿體もつてえねえだよ、おばあさん」ぢいさんはくびたれ滅切めつきりしづかになつていつた。さうしてかれ茶碗ちやわんさけをだら/\とこぼしながらに一口ひとくちんだ。
 ときそとから女房にようばう一人ひとりせはしくた。女房にようばう佛壇ぶつだんまへつて
駐在所ちうざいしよたよ」悉皆みんななかくびれるやうにしてそつかたつた。悉皆みんなしきりに輸※かちまけ[#「羸」の「羊」に代えて「果」、354-14]にのみこゝろうばはれてた。彼等かれらかほはにこ/\としたりまたしばらくどつぺをつかまぬものはむづかしくなつたしがめたりくちをむぐ/\とうごかしたりして自分じぶんは一かうそれをらないのであつた。彼等かれら各自めい/\つて種々いろ/\かくれた性情せいじやう薄闇うすぐらしつうちにこつそりとおもつて表現へうげんされてた。女房はようばう言辭ことば悉皆みんなかほたゞ驚愕おどろき表情へうじやうもつおほはしめた。一女房にようばう彼等かれらにはときまで私語さゞめうたおもかげがちつともなかつた。彼等かれらあわてゝ寶引絲はうびきいとふところかくしてらぬ容子ようすよそほうて圍爐裏ゐろりそばあつまつた。
「こつちのはうひど威勢えせいえゝかららも仲間入なかまいりさせてもらえてもんだ」寶引はうびきばあさんはいつた。
婆等ばゝあらればさあれば博奕ばくちなんぞするにばかしつて」ぢいさんは依然いぜんとして惡口わるくちめなかつた。
「かうだ婆等ばゞあらだつてさうだに荷厄介にやつけえにしねえでくろよ、こんでぢやまあだれなくつちやくらやみだよおめえ、よめがあの仕掛しかけだもの」ばあさんはさら
らあ仲間なかま寺錢てらせんあとあから、ひとりでむつゝりしてねえでひとつやらつせえね」と卯平うへいさかづきすゝめた。一どう威勢ゐせい漸次しだい卯平うへいこゝろてゝ到頭たうとうかれおほきな茶碗ちやわんらせた。ばあさんたもとれてかるつてた徳利とくりたふされた。ばあさんあわてゝ手拭てぬぐひでふかうとした。小柄こがらぢいさんは突然いきなりたゝみくちをつけてすう/\と呼吸いきもつかずにさけすゝつてそれからつよせきをして、ざら/\につたくちほこり手拭てぬぐひでこすつた。
婆等ばゝあら勿體もつてえねえことすつからやうねえ、いや勿體もつてえねえともこめあぶらだからこんで、それ證據しようこにやさけんだ明日あしたぢやつらあらときつる/\すつとこ奇態きてえだな、なんでも人間にんげんあぶらすやうだら身體からだ大丈夫だえぢやうぶだから、卯平うへいそうれ一ぺえめ」ぢいさんはまたくち手拭てぬぐひでこすりつゝいつた。
畜生ちきしやうだからあゝだ野郎やらうは、畜生ちきしやうとおんなじだから」ぢいさんはちひさなあたまうるほひをまたすつと手拭てぬぐひでふいた。
※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)そんなにおめえ、畜生ちきしやうだなんて、もとももしねえで」と先刻さつき服裝みなりばあさんがたしなめるやうにいつた。
「いやツ、おばあさん、もとねえつたつてさうにきまつてんだから、いや本當ほんたうだよ。ちくいふなきれえだから、そんだがあの阿魔あまもづう/\しい阿魔あまだ、此間こねえだなんざおつかこたおもさねえかつちつたら、おもさねえなんてかしやがつて」ぢいさんはまた乘地のりぢつた。
「ありやあそれ、れがにやえゝんだよ、隨分ずゐぶんつれつたから、おふくろことあねえこたねえが、悉皆みんな揶揄からけえ/\したからそんでさうだこといふやうんつたんだな、有繋まさかあれだつてこまつちやんだから、なんちつたつてあれにやつみやあねえよ」最後さいごの一をすつとひくくいつてかれやうや茶碗ちやわんそこした。
勘次かんじつらかつたんべが、らもしななつたときにやえたよ、あれこたみつつのときツからそだツたんだから」卯平うへいまたなさけなげなしたがもうこはばつてしまつた。
「ほんにおめえもおしなさんになくならつたのが不運くされだつけのさな、そんだがおめえ長命ながいきしたゞけええんだよ」ばあさん口々くちぐちなぐさめつゝいつた。
手足てあしかなくなつちやつてぜねはとれずはあ、野田のだこせえた單衣物ひてえものもなくしつちやつたな、どうせれ、來年らいねんなつまできてられつかうだかわかりやすめえし、かまあねえな」卯平うへいたゞひとりでつぶやくやうにぶすりといつた。かれほとんどしたあぢかんぜぬであらうとおもふやうにたゞ茶碗ちやわんさけかたむけるのみであつた。
「そんだがむすめ年頃としごろてんのにるとかとるとかしねえぢや可哀相かあいさうだよなあ」ばあさんくちはそれからそれときなかつた。さけいきほひつけられたばあさんなにかの穿鑿せんさくをせねばまないのであつた。
「どうするこつたか自分じぶん子供こどもでもありやすめえし、らがにやわかんねえな」卯平うへい何處どこまでもからびたいひやうである。
「そんだがよ、はなしてやつとえゝんだな、すときまりやいくらでもくちらな」
徒勞むだだよおめえ、だれがいふことだつて苦勞くらうはねえんだから」ばあさんたがひ勝手かつてなことをがや/\とかたつゞけた。
「そんぢやとなり旦那だんなにでもようくはなしてもらつたらくかもんねえぞ、それよりほかあねえぞおめえ」ばあさんの一人ひとり卯平うへいむかつていつた。
「さうすりやはあ、おたげえにえゝ鹽梅あんべえきずもつかねえんだから、れもさうはおもつちやんだが、れ、いふのもをかしなもんで」卯平うへいほゝにはやゝべにしてかればあさんにいはれたことがうれさうえるのであつた。
「なあに、さうだもかうだもるもんか、えゝから、さうだ奴等やつらばしてやれ」しばらだまつて先刻さつきぢいさんは小柄こがら身體からだかためてまた呶鳴どなつた。
「うむ、なあにれもそれから去年きよねんあき火箸ひばしばしてやつたな」卯平うへいういつてかれにしてはいちじるしく元氣げんき恢復くわいふくしてた。
「さうだとも、ぜねでもなんでもんなけりや、よこせつちばえゝんだ、ぜねねえなんちへばこめでもむぎでも奪取ふんだくつてやれ」ぢいさんは周圍あたりつばばした。
「それでもばしてからしちながれだなんち味噌みそたるつたな、麩味噌ふすまみそ佳味うまかねえがいまぢやそんでもおつけへるこたへんのよ」卯平うへい自分じぶん手柄てがらでもかたるやうないひかたであつた。
食料くひものしがるなんちごふつくばりもねえもんぢやねえか、本當ほんたうばちつたかりだから、らだらかしちやかねえ、いやまつたくだよ、おやのげあせんのをしいなんち野郎やらうしたつてまをひらつとも、らだら立派りつぱてゝせらな、卯平うへい確乎しつかりしろ、らだら勘次等かんじらぐれえなゝまたうんちあせらな、いや本當ほんたうれにかゝつちやひでえかんなこんで」ぢいさんははげしくさうしてれい自慢じまんをいひつゞけた。
「さうだことつたつておめえ、以前めえかたから他人ひとのことつたこともねえくせに」そばから服裝みなりばあさんがくさしていつた。
「そんだが、年齡としになつて懲役ちようえきぐなれも」ぢいさんはずつとれたあたまおさへてわらひこけた。ばあさんもどつと哄笑どよめいた。
勘次等かんじら、そんときかられたくちかねえや」卯平うへい他人ひとには頓着とんぢやくなしにかういつてしたらしてつばんだ。
くちかねえ、そんだらくち兩方りやうはうへふんえてやれ、さあくかかねえかとうだ」小柄こがらぢいさんは自分じぶんくち兩手りやうてゆびでぐつとひろげていつた、圍爐裏ゐろりあたりしばらさわぎがまなかつた。卯平うへいこゝろ假令たとひ時的じてきでも周圍しうゐ刺戟しげきから幾分いくぶんちからそへられてあるいきほひを恢復くわいふくしたのであつた。
確乎しつかりしろえ、えゝから」小柄こがらぢいさんはわかれるときまた呶鳴どなつた。卯平うへいあしもとはやゝちからづいてえてた。
 卯平うへい念佛寮ねんぶつれうからかへつてときどかりと火鉢ひばちまへすわつた。かれいきほひづけられてた。勘次かんじれいごととほざかつた。
「おつう、こめ挽割麥ひきわりせ」卯平うへいくと突然とつぜんかういつた。
夥多みつしらせ」あひだいてまたいつた。
なにすんでえ、ぢいは」おつぎはそれをかるうけういつた。卯平うへいしがめた。かれ闇夜あんやにずんずんとはこんだあしきふくぼみをんでがくりと調子てうしくるつたやうな容子ようすであつた。
明日あしたればしてやんびやな、爺等ぢいらどうせよるなんぞりやすめえしなあ」おつぎはまたすかすやうにいつた。卯平うへいはもう反覆くりかへしていはなかつた。かれたゞそのくせしたらしてごくりとつばむのみであつた。つぎあさつて酒氣しゆきこと/″\かれ身體からだから發散はつさんつくしたらかれ平生へいぜい卯平うへいであつた。

         二四

 卯平うへいけつして惡人あくにんではなかつた。かれ性來せいらい嚴疊がんでふおほきな身體からだであつたけれど、しかめたやうなには不斷ふだん何處どこやはらかなひかりつてるやうで、おもつてせねばらぬ事件じけん出逢であうても二や三逡巡しりごみするのがどうかといへばかれくせの一つであつた。ぶすりとにべない容子ようすでも表面へうめんあらはれたよりもあたゝかで、をんなもろところさへあるのであつた。かれ盛年さかりころ他人たにんについたのは、自分自身じぶんじしん仕事しごとにはあませいさないやうにえることであつた。大概たいがいのことでは一かうさわがぬやうなかれ容子ようすほかからではさうらしくもえるのであつた。も一つは服裝ふくさうけつしてくずさぬことであつた。かれ他人たにんやとはれてながら、草刈くさかりにでもとき手拭てぬぐひこん單衣ひとへものと三尺帶じやくおびとを風呂敷ふろしきつゝんでうま荷鞍にぐらくゝつた。そのころくさというては悉皆みんな薙倒なぎたふして麁朶そだでもしばるやうに中央ちうあうつかねてうまむのであつた。雜木林ざふきばやしあひだうまつないだまゝかれ衣物きものあらためてあてどもなくぶらつくのがきであつた。それでもかれ強健きやうけん鍛練たんれんされたうでさだめられた一人分にんぶん仕事しごとはたすのはやゝかたぶいてからでもあなが難事なんじではないのであつた。の二つのほかには別段べつだんれというてかぞへるほど他人たにん記憶きおくにものこつてなかつた。それでもかれおほきな躰躯からだ性來せいらい器用きようとは主人しゆじんをして比較的ひかくてき餘計よけい給料きふれうをしませなかつた。かれ奉公ほうこうして給料きふれう自分じぶんつひやしてころでは餘所目よそめにはうたがはれる年頃としごろの卅ぢかくまで獨身どくしん生活せいくわつ繼續けいぞくした。そのあひだかれ黴毒ばいどくんだ。一はぶら/\と懶相だるさうあをかほもしてたが、病氣びやうきしばらくしてわすれたやうに強健きやうけん身體からだ何處どこにか潜伏せんぷくしてしまつた。かれ勿論もちろんそれをなほつたことゝおもつてた。うちかれよめをとつてちひさな世帶しよたいつてかせぐことになつた。よめもなく懷姙くわいにんしたが胎兒たいじんでさうして腐敗ふはいしてた。自分じぶん他人ひとかさだといつた。二三にんうまれたがどれも發育はついくしなかつた。それでも幼兒えうじぬのはかさだからといふのみで病毒びやうどく慘害さんがいはずもなくしたがつておそれるはずもなかつた。おしなはゝ非常ひじやう貧乏びんばふ寡婦ごけで、あしつかたぬのおしなふところにして悲慘みじめ生活せいくわつをしてた。それを卯平うへいこゝろから哀憐あはれみじやうもつた。おしなはゝ百姓ひやくしやうとしては格別かくべつはたらきをたなかつたから、寡婦ごけとして獨立どくりつしてくには非常ひじやう困難こんなんでなければらぬだけ身體からだ何處どこにかやはらかな容子ようすがあつて、清潔好きれいずき卯平うへいこゝろいた。何處どこ人懷ひとなつこいところがあつて只管ひたすら他人たにん同情どうじやうかつしてたおしなはゝ何物なにものをかもとめるやうな態度たいどやうや二人ふたりちかづけた。
 ころかれ女房にようばうながあひだ病氣びやうきなやまされてた。病氣びやうきつひ恢復くわいふくしなかつた。女房にようばうあるとし姙娠にんしんして臨月りんげつちかくなつたら、どうしたものか數日すうじつうち腹部ふくぶ膨脹ばうちやうして一うちにもそれがずん/\とえる。女房にようばう横臥わうぐわすることも苦痛くつうへないで、んだ蒲團ふとんかゝつてわづかせつない呼吸いきをついてた。胎兒たいじかしめたみづ餘計よけいたまつたのである。ころ醫者いしやでさへそれをどうすることも出來できなかつた。加之それのみでなくかれ醫者いしやぶことが億劫おつくふで、大事だいじ生命いのちといふことをかんがへることさへこゝろいとまたなかつた。僥倖げうかうにも卵膜らんまく膨脹ばうちやうさせた液體みづ自分じぶんからみちもとめて包圍はうゐやぶつた。數升すうしよう液體みづほとばしつて、おどろいてよこたへた蒲團ふとんうへかさうとした。それととも安住あんぢう場所ばしようしなうた胎兒たいじ自然しぜん母體ぼたいはなれてねばならなかつた。胎兒たいじ勿論もちろんんでさうしてした。とき女房にようばう非常ひじやう疲憊ひはいしてたが、我慢がまんをするからといつたばかりに卯平うへいはぐつとちかられてした。かれ惡意あくいたぬかくごと残酷ざんこくはたらかされたのは、夫婦ふうふあひだにはわづかでも他人たにんることに金錢上きんせんじやう恐怖おそれいだかしめられたからであつた。女房にようばうはそれでもなゝかつた。しかほとんど想像さうざうされなかつた疼痛とうつう滿身まんしんわたつた。やが非常ひじやう發熱はつねつともなつた。それからといふものは三ねんふせつたまゝ季節きせつあたゝかにればまれには蒲團ふとんからずりしてわづかつゑすがつてはやはらかなはるをさへ刺戟しげきへぬやうにまぶしがつてた。
 おしなはゝとの關係くわんけい餘計よけい告口つげぐちから女房にようばうみゝはひつた。ころあつさにいて所爲せゐでもあつたが女房にようばうはそれをにしはじめてからがつかりとやつれたやうにえた。女房にようばうんだとき卯平うへい枕元まくらもとなかつた。村落むらには赤痢せきり發生はつせいした。豫防よばう注意ちういなにもない彼等かれらたがひ葬儀さうぎうてすこしの懸念けねんもなしに飮食いんしよくをしたので病氣びやうき非常ひじやういきほひで蔓延まんえんしたのであつた。卯平うへい患者くわんじやの一にんでさうしておしないへなやんでた。おしなはゝ懇切こんせつ介抱かいはうからかれすくはれた。かれはどうしても瀕死ひんし女房にようばうかたはら病躯びやうくはこぶことが出來できなかつた。やつれたうれへるのをかれるにしのびなかつたからである。かれのさういふ意志いしなが月日つきひ病苦びやうくさいなまれてひがんだ女房にようばうこゝろつうずる理由わけがなかつた。さうして女房にようばう激烈げきれつ神經痛しんけいつううつたへつゝんだ。卯平うへい有繋さすがいた。葬式さうしき姻戚みより近所きんじよとでいとなんだが、卯平うへいやつつゑすがつてつた。
 あきぼんには赤痢せきりさわぎもしづんであたらしいほとけかずえてた。墓地ぼちにはげたあかつちちひさなつかいくつも疎末そまつ棺臺くわんだいせてた。大抵たいてい赤痢せきりかゝつてやうや身體からだちからがついたばかりの人々ひと/″\例年れいねんごと草刈鎌くさかりがまつて六夕刻ゆふこく墓薙はかなぎというてた。はかほとりはえるにまかせたくさ刈拂かりはらはれてるから清潔せいけつつた。中央ちうあう青竹あをだけ線香立せんかうたてくひのやうにてられて、石碑せきひまへにはひとつづゝ青竹あをだけのやうなちひさなたなつくられた。卯平うへい墓薙はかなぎむれくははつた。かれのまだちからないつたかま刄先はさき女房にようばう棺臺くわんだいしたのぞいてからりとわたつたときかれ悚然ぞつとしていた。へび身體からだ後半こうはんかれあしもとにあらはしてしろはらせた。かま刄先はさきへびつたのである。へびしばら凝然ぢつとしてきはめておもむろに棺臺くわんだいしたかくれた。卯平うへいかほ黄昏たそがれひかりあをかつた。かれはそれから他出たしゆつすることもまれになつた。恢復くわいふくしかけた病後びやうご疲勞ひらうよるねばるやうなあせ分泌ぶんぴさせた。それから八日目かめ村落むらものほとけむかへに提灯ちやうちんつてつたときはらはれたくさあついといつてもあきらしくなつた生殖作用せいしよくさよういそがうとして聳然すつくりくびもたげてた。村落むら人々ひとびと好奇心かうきしんられてづ/\も棺臺くわんだいをそつとげてた。へび依然いぜんとしてだらりとよこたはつたまゝであつた。人々ひとびと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた見合みあはせた。村落むらものつたあとにはちひさな青竹あをだけ線香立せんかうたてからそこらの石碑せきひまへからぢり/\といてくるしんでもだえるやうにけぶりはうねりながらのぼつて寂寥せきれうたる黄昏たそがれひかりなか彷徨さまようた。それからまた日目かめほとけおくつて村落むらもの黄昏たそがれ墓地ぼちうた。へび猶且やつぱり棺臺くわんだいかげらなかつた。へび自由じいう匍匐はらばふにはあまりに瘡痍きずおほきかつた。かへつたくちびるのやうにふくれたにくほこりまみれてくろへんじてた。棺臺くわんだいかしてひとこれうかゞへば恐怖おそれいだいてすこしづゝのたくるのであつた。女房にようばうたのだといつて村落むらものらずぐちたゝいた。しばらくしておしなはゝみゝへもへびうはさつたはつた。それからといふものおしなはゝは一でも卯平うへい自分じぶんうちからはなさない。みつつにつてたおしな卯平うへいしたうて確乎しつかうちめたのはそれからもないことである。へびはなし何時いつにか消滅せうめつした。それは悉皆みんなたがひこゝろ記憶きおく反覆くりかへしてこゝろよしとするほど彼等かれらにくんではなかつたからである。そののちなが歳月としつきておしなはゝんだとき以前いぜんはなしたりいたりしてものあひだにのみわづか記憶きおくかへされた。おしなはゝこし病氣びやうきつてた。卯平うへい自分じぶんからつくつたつみといふものはほとんどられなかつた。たゞかれ盛年さかりころ傭人等やとひにんらともねこころしてべてた。もつとそのころねこでもいぬでも飼主かひぬしはなれて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりねらふのが彷徨うろついた。彼等かれらわなけてそれをつた。しか大抵たいてい家々いへ/\では※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりでさへいへうちではるのを許容ゆるさないので、うしろにはたけで三ぼんあしつくつてそれへ鍋蔓なべつるけたほどであつたから、ねこころすことがおそろしい罪惡ざいあくのやうにられたのであつた。ねこから鹽鮭しほざけあたへればこしかない病氣びやうきかゝると一ぱんにいはれてるので卯平うへいこしなやんでるのをまれにはねこたゝりだと戯談じようだんにいふものもあつた。それでもさういふうはさひろがらなかつた。かれ憎惡ぞうを嫉妬しつととを村落むらたれからもはなかつた。憎惡ぞうを嫉妬しつともない其處そこ故意わざ惡評あくひやうほど百姓ひやくしやう邪心じやしんつてなかつた。村落むら西端せいたん僻在へきざいしてかれには興味きようみもつさせるひとつの條件でうけんそなへてなかつた。たゞむつゝりとして他人たにんうつたへることももとめることもないかれは一さい村落むらとの交渉かうせふがなかつた。かれの一しん有無うむすこしも村落むらためには輕重けいちようするところがなかつた。

         二五

 初冬しよとうこずゑあわたゞしくわたつてそれからしばらさわいだまゝのちはたわすれてまれおもしたやうに枯木かれきえだかせた西風にしかぜが、雜木林ざふきばやしこずゑしろつらなつて西にしとほ山々やま/\彼方かなた横臥たのがにはか自分じぶん威力ゐりよくたくましくすべきふゆ季節きせつ自分じぶんてゝつたのにがついて、くだけかねばめられない特性とくせい發揮はつきして毎日まいにち特有もちまへちから輕鬆けいしようつちそらいた。
 拂曉あけがたからそらあまりにからりとしてにぶやはらかなひかりたなかつた。毎日まいにちくる疾風しつぷうとほ西山せいざん氷雪ひようせつふくんで微細びさい地上ちじやうおほうて撒布さんぷしたかとおもふやうにしもしろつてた。
 勘次かんじ平生いつもごとくおつぎをれて開墾地かいこんちた。おつぎは半纏はんてんうしろへふはりとけたまゝとほさないで、かたへはたすきなゝめけて萬能まんのうかついでた。しろ手拭てぬぐひとそれから手拭てぬぐひそとすこのぞいたおくあるたびにふら/\とうごくのもしみ/″\とつめさうであつた。草木さうもくおよ地上ちじやうしもまばたきしながらよこにさうしてなゝめけるとほ西にし山々やま/\ゆき一頻ひとしきりひかつた。すべてをつうじて褐色かつしよくひかりつゝまれた。とほつらなつた山々やま/\頂巓いたゞきにはぽつり/\と大小だいせう簇雲むらくもつたまゝみだされてしばらうごかなかつた。つひにはそれが一つにつて山々やま/\所在しよざいくらまして、末端まつたん油煙ゆえんごとそらむかつて消散せうさんしつゝあるやうにはじめた。其處そこには毎日まいにちかなら※(「囂」の「頁」に代えて「臣」、第4水準2-4-46)けんがう跫音あしおとひと鼓膜こまくさわがしつゝある巨人きよじん群集ぐんじゆが、からは悲慘みじめ地上ちじやうすべてをいぢめて爪先つまさき蹴飛けとばさうとして、山々やま/\彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。おどろくべき迅速じんそくあし空間くうかんを一直線ちよくせんに、さうしてわづか障害物しやうがいぶつであるべきこずゑすべてをしつけしつけはやしえて疾驅しつくしてるのはいまもうすぐである。たけつてつかねたやうに寸隙すんげきもなくむらがつて爪先つまさきられてはおびえにおびえた草木さうもくみなこゑはなつてくのである。さうしてもうかねばらぬ時間じかんせまつてる。
 勘次かんじしもしろ自分じぶんには往來わうらいると無器用ぶきようくぬぎはやしかれくべきかたしたがつてみち沿うてつらなつてる。やぶれて、毎日まいにちちつける疾風しつぷうめにかたむけられたさゝ垣根かきねには、せま往來わうらいえてくぬぎ落葉おちば熊手くまでいたやうにあつまつてつらなつてる。およくぬぎほど頑健ぐわんけんるまい。乾燥かんさうした冬枯ふゆがれくさ落葉おちば煙草たばこ吸殼すひがらあやまつててんじて、それがさかんはやしはらうてもしぶつよい、表面へうめん山葵わさびおろしのやうなくぬぎかはは、くろ火傷やけどみきぱいとゞめても、針葉樹しんえふじゆるやうではなく、はるあめ數次しば/\やはらかにうるほせばつひにはこそつぱいかは何處どこからかしろつぽいいて、粗剛そがうあつかはかこみからのがれて爽快さうくわい呼吸こきふ仕始しはじめたことをよろこぶやうにずん/\と伸長しんちやうして、つひにはつても/\、猶且やつぱりずん/\と骨立ほねだつてみきさらかたちづくられるほど旺盛わうせい活力くわつりよく恢復くわいふくするのである。彼等かれらはさういふ特性とくせいつてながら了解れうかいがたほど臆病おくびやうである。黄色きいろひかりこゝろよくあざやかに滿ちて晩秋ばんしうみづのやうなあはしもひそかにおりる以前いぜんからこと/″\くくる/\と周圍しうゐまくはじめて、雜木ざふきをからりとおとしてこずゑよりもはるかひくれて西にしそらあかるい入日いりひすかしてせるやうにまばらるのに、確乎しつかとしがみついてはなれない。彼等かれらやうや樹相じゆさうかたちづくるととものこぎり残酷ざんこくわたつてすこしでも餘裕よゆうあたへられないのである。それで彼等かれらあひだには自然しぜんたゞ恐怖きようふする性質せいしつのみが助長じよちやうされたのであるかもれない。それだからすでたきぎるべき時期じきすごして、大木たいぼくさうそなへて團栗どんぐりあささらせられるやうにれば、枯葉かれはいさぎよいてからりとさわやかに樹相じゆさうせるのである。丁度ちやうどそれは子孫しそん繁殖はんしよく自己じこ防禦ばうぎよとの必要ひつえうまつたわすれさせられたなし接木つぎきが、おほきなとげみきにもえだにもたなくつたやうに、恐怖おそれ彼等かれらつたのである。
 しかしながらはやしくぬぎいくとほのばして迅速じんそく生長せいちやうげようとしても、ひやゝかなあきふゆ地上ちじやうみちびくのである。彼等かれらふゆ季節きせつおい生命せいめいたもつてくのにはすべての機能きのう停止ていししてしまらねばらぬ。それでなければ彼等かれら氷雪ひようせつため枯死こしせねばならぬ。その季節きせつ彼等かれら最後さいご運命うんめいであるまきすみられるやうに一ばん適當てきたうした組織そしき變化へんくわすることを餘儀よぎなくされるのである。彼等かれらはそれから貴重きちよう呼吸器こきふきであつた枯葉かれはを一まいでもえだからはなすまいとしまたはなれまいとしてる。生育せいいく機能きのう停止ていしされるととも粘着力ねんちやくりよくうしなふべきはず葉柄えふへい確乎しつかりたもたれてある。そこで乾燥かんさうした枯葉かれはすこしのことにさへあひつてさや/\とたがひ恐怖きやうふ耳語さゝやくのである。しか樹木じゆもく吸收きふしうして物質ぶつしつの一つちおよ空氣くうき還元くわんげんせしめようとしてすべてのこずゑからうばつて、いたところ空濶くうくわつかつ簡單かんたんにすることをこのふゆには、くぬぎ枯葉かれは錯雜さくざつし、溷濁こんだくしてえねばならぬ。それで巨人きよじんせた西風にしかぜその爪先つまさきにそれを蹴飛けとばさうとしても、おそろしく執念深しふねんぶか枯葉かれはいてさうしてちからたもたうとする。たまたまちからりないでらされたのは、さういふとき非常ひじやう便利べんりなやうにいてあるので、どんなかげでもたくする場所ばしよもとめてころ/\ところがつてつては、自分じぶん伴侶なかまが一つにあひあひいだいて微風びふうにさへえずひゞきてゝ戰慄せんりつしつゝあるのである。
 勘次かんじういふくぬぎゑてはやしつくるべき土地とち開墾かいこんをするためにもう幾年いくねんといふあひだやとはれてちからつくした。かれやうや林相りんさうかたちづくつて櫟林くぬぎばやし沿うて田圃たんぼえてはしつた。田圃たんぼしぎなにおどろいたかきゝといて、刈株かりかぶかすめるやうにしてあわてゝとんいつた。さうしてのちしろとざしたこほり時々ときどきぴり/\となつてしやり/\とこはれるのみでたゞしづかであつた。田圃たんぼとほしてはやしあひだからえるそのとほ山々やま/\くもやゝうすくなつてそらにごしてた。やが雜木林ざふきばやし枝頭えださきすこうごいたとおもつたらごうつといふひゞき勘次かんじみゝつた。巨人きよじんあしせまつたのである。かれはむつとおもはず呼吸こきふ切迫せつぱくした。
 毎日まいにちわた西風にしかぜ乾燥かんさうしつゝあるすべてのものさら乾燥かんさうさせねばまない。あめまれにしんみりとつても西風にしかぜあさから一にちあを常緑木ときはぎをもどろなか拗切ちぎつて撒布まきちらすほどつのれば、それだけでつちはもうほとんどかわかされるのである。つち保有ほいうすべき水分すゐぶんがそれほど蒸發じようはつつくしてもわたあひだ西風にしかぜけつしてそらに一てきあめさへもよほさせぬ。それでも有繋さすがふかみづざうしてつちあかごと表皮へうひのみをはらつて疾風しつぷうためには容易よういちからうしなはないで、ければいくらでも空氣中くうきちうたもたれた水分すゐぶん微細びさい結晶けつしやうさせて一ぱいしろきつける。つち徹宵よつぴてさういふ作用さよういとなんだばかりに、拂曉あけがたそらからよこにさうしてなゝめしもかして、西風にしかぜたゞちにそれをかわかして残酷ざんこく表土へうどほこり空中くうちうくる。ちからはげしいほど拂曉ふつげうしもしろく、れがしろほどみだれてからすごと簇雲むらくもとほ西山せいざん頂巓いたゞきともなうて疾風しつぷうかけるのである。兩方りやうはう疲憊ひはいしていきほひ消耗せうまうする季節きせつ變化へんくわるまではあらそひはむことがない。
 ほこりてんこがしてつた。ほこり黄褐色くわうかつしよくきりごと地上ちじやうすべてをおほつゝんだ。雜木林ざふきばやしは一せいなゝめかたぶかうとしてこずゑ彎曲わんきよくゑがいた。樹木じゆもくみなたがひいてさゝやきながら、いくらかあかるさをもさまたげて濃霧のうむからのがれようとするやうに間斷かんだんなくさわいだ。きり悲慘みじめすべてのものたがひらせまいとしてち/\すうけん距離きよりおいては物體ぶつたい形状けいじやうをもあきらかにしめさない。雜木林ざふきばやし樹木じゆもく開墾地かいこんち周圍しうゐにも混亂こんらんした。しか勘次かんじはなつてるのはあし爪先つまさき二三じやくの、いま唐鍬たうぐはもつ伐去きりさつてはるかうしろいてそつとてたあとの一てんである。ほこりつちいくらでもうるほひをつたかれあしもとからはたなかつた。おつぎは勘次かんじおこしたかたまりを一つ/\に萬能まんのうたゝいてさらりとほぐしてたひらにならしてる。輕鬆けいしようつちから凝集こゞつてかたまりほぐせばすぐはらはれた。おつぎは當面まともほこりけるのにはとほきつける土砂どしやほゝはしつて不快ふくわいであつた。手拭てぬぐひはしくつて沿びせるほこりためかみれるのをひどきらつた。それでもそのもとは疎略そりやくではなかつた。勘次かんじ矢立やたてごと硬直かうちよく身體からだ伸長しんちやう屈曲くつきよくさせて一/\とはこんだ。かれ周圍しうゐ無數むすう樹木じゆもくいてさゝやくのをみゝれなかつた。加之それのみでなくかれ自分じぶん耳朶みゝたぶらるさへこゝろづかぬほど懸命けんめい唐鍬たうぐはつた。かれ滿身まんしんあせしてた。
 卯平うへいひましがる勘次かんじ唐鍬たうぐはとつとき朝餉あさげあとくち五月蠅うるさらしながら火鉢ひばちまへにどつかりとすわつてた。やぶれた草葺くさぶきいへをゆさぶつて西風にしかぜがごうつとちつけてときには火鉢ひばち※(「火+畏」、第3水準1-87-57)おきはまだしろはひかはかぶつてあたゝかゝつた。天井てんじやうもない屋根裏やねうらからすゝかすかにさら/\とつて、時々ときどきぽつりと凝集こゞつたまゝちた。喬木けうぼくさへぎつてこずゑあをそらせてにはへすら疾風しつぷうおどろくべき周到しうたうふくろくちいてさかさにしたやうにほこり滿ちてさら/\としづんだ。一にちさうしてもなくつて巨人きよじん爪先つまさきには平坦へいたんはた山林さんりんあひだ介在かいざいしてかく村落そんらく茅屋あばらやこと/″\落葉おちばもたげてきのこのやうなちひさな悲慘みじめものでなければならなかつた。各自かくじ直上ちよくじやう中心點ちうしんてんにしてそらゑがいた輪郭外りんくわくぐわいよこにそれからなゝめえるひろとほそら黄褐色くわうかつしよくきりごとほこりためたゞ※(「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88)ほのほかれたやうである。卯平うへい自分じぶん小屋こやすぼめた。しばら火鉢ひばちからつて、せまかべからかべ衡突ぶつかつて彷徨さまようすけぶり疾風しつぷうためぐにごうつと蹴散けちらされてしまつた。せま小屋こやうちはそれからしづんだ。卯平うへいすこひらいた戸口とぐちからちひさくしがめたそとた。せまにはさき紙捻こよりゑたやうな桑畑くはばたけ乾燥かんさうしきつた輕鬆けいしようつち黄褐色くわうかつしよくきりなかつてくのがえる。さうしてみなみうちきはめてぼんやりとして形態けいたいあらはれてまたかくれた。くりそばえだくひつてこしらへたかぎけた桔槹はねつるべが、ごうつとごとにぐらり/\とうごいて釣瓶つるべはづさうにしてははづれまいとしてあらそうてさわいでる。卯平うへいかのぼんやりしたこゝろ其處そこつながれたやうに釣瓶つるべ凝視ぎようしした。かれしばらくしてからにはつた。かれそのくせしたらしながら釣瓶つるべけた。釣瓶つるべそこにはわづかたもたれたみづほこりひたされてしづんでた。外側そとがはあをこけまゝ乾燥かんさうしてた。かれかぎくひ兩手りやうてつてそのおほきな身體からだ重量ぢうりやうくはへてたておさへてた。ちひさなくひ毎日まいにちみづためやはらかにされてつちへぐつとふかくはひつた。かぎふか釣瓶つるべ内側うちがはのぞいてたので先刻さつきよりも確乎しつか釣瓶つるべめた。かれはそれからせま戸口とぐちをぴたりととざして枯燥こさうした手足てあしきたな蒲團ふとんつゝんでごろりとよこつた。
 午餐ひる勘次かんじもどつて、また口中こうちう粗剛こは飯粒めしつぶみながらはしつたあと與吉よきち鼻緒はなをゆるんだ下駄げたをから/\ときずつて學校がくかうからかへつてた。足袋たび穿かぬあしかふさめかはのやうにばり/\とひゞだらけにつてる。かれはまだらぬ茶釜ちやがまんでしきりにめし掻込かつこんだ。粘膜ねんまくのやうにあかうるほひをつた二つの道筋みちすぢつたひてつめたくれたはなかれすゝりながら、はしよこへて汁椀しるわん鹽辛しほから干納豆ほしなつとうつまんでくちれたり茶碗ちやわんなかいたりして幾杯いくはいかのめしつた。飯粒めしつぶ茶碗ちやわんからかれむねつたひて土間どまへぼろ/\とちた。かれ土間どまつたまゝべてた。かれ飯粒めしつぶすこそこのこつた茶碗ちやわんぜんうへころがしてばたりと飯臺はんだいふたをした。卯平うへい横臥わうぐわしたまゝでおつぎがんだときなかつた。おつぎがふたゝこゑけて開墾地かいこんちてからもかれしばらものう身體からだ蒲團ふとんからおこさなかつた。かれがふとおもしたやうにせま戸口とぐちけてあかるいそとほこりしがめてつたとき與吉よきちあわたゞしく飯臺はんだいふたをしたところであつた。
りや、今日けふはどうしてさうえにはええんでえ」卯平うへいふとひくこゑいた。
「あゝ」と與吉よきちくちびるらしてはなすゝりながら
先生せんせいそんでも、明日あした日曜にちえうだかられつきりけえつてもえゝつちつたんだ」
午餐おまんまくつたか」卯平うへいはのつそりと飯臺はんだいそばちかづいた。
りや、ぢいぜんさかうだにこぼして」とかれ先刻さつきよりもひくこゑ
「おとつゝあにらつたらおこられつから」ういつてまた
おとつゝあはおこりつだから」としづんでつぶやくやうにいつた。かれぜんうへつて飯粒めしつぶを一つ/\につまんで、それから干納豆ほしなつとうれも一つ/\に汁椀しるわんなかれた。汁椀しるわんつて、わんはらひだりかるちつけるやうにして納豆なつとうたひらにした。おつぎは午餐ひるから開墾地かいこんちときさいにする干納豆ほしなつとう汁椀しるわんいれかれためぜんゑてつたのである。與吉よきち遠慮ゑんりよもなくぜんむかつたのである。卯平うへい飯臺はんだいふたけてたが暖味あたゝかみがないのでかれ躊躇ちうちよした。茶釜ちやがまふたをとつてたが、ふたうらからはだら/\としたゝりがれてわづかに水蒸氣ゆげつた。茶釜ちやがまめてたのである。それほど空腹くうふくかんぜぬかれはしるのがいやになつた。かれ身體からだ非常ひじやうえてることをつた。それにみぎかたのあたりでこはばつたやうでうごかしやうによつてはきや/\と疼痛いたみおぼえた。かれ病氣びやうき其處そこあつまつたのではないかとおもつた。それが睡眠中すゐみんちう身體からだきやうで一變調へんてうきたしたのだかどうだかわからないにもかゝはらず、かれたゞ病氣びやうきゆゑだとめてしまつた。めたといふよりもかれ果敢はかないひがんだこゝろにはさう判斷はんだんするよりほかなにもなかつたのである。かれこゝろ只管ひたすら自分じぶん悲慘みじめ方面はうめん解釋かいしやくしてればそれでんでるのであつた。かれやつれた身體からだからひど自由じいううしなつたやうにかんぜられた。かるしびれたやうになつてた。かれえた身體からだ暖氣だんきほつして、茶釜ちやがまけたかまどまへだる身體からだゑて蹲裾うづくまつた。かれらにあつちやの一ぱいみたかつたのである。かれかまどそこにしつとりとちついたはひ接近せつきんしてかざしてた。まだやはらかにしろはひかすかあたたかゝつた。かれはそれから大籠おほかご落葉おちばつかして茶釜ちやがました突込つゝこんだ。與吉よきちそばからちひさなつかんでげた。卯平うへいあしもとにははひおほうて落葉おちば散亂さんらんした。落葉おちば卯平うへい衣物きものにもとまつた。卯平うへいたけ火箸ひばしさき落葉おちばすこすかすやうにしてはひてゝてもはもうぽつちりともなかつたのである。かれはそれから燐寸マツチさがしてたが何處どこにも見出みいだされなかつた。かれ自分じぶん燐寸マツチさがしにせま戸口とぐち與吉よきちをやらうとした。與吉よきちあまえていなんだ。かれはどうしてもだる身體からだはこばねばならなかつた。
 卯平うへいもとは餘程よほどくるつてた。かれはすつと燐寸マツチつたが落葉おちばたつするまでにはかすかなけぶりてゝえた。燐寸マツチはさうして五六ぽんてられた。與吉よきち不自由ふじいうから燐寸マツチうばふやうにしてけてた。卯平うへい與吉よきちのするまゝにして、丸太まるたはしはなした腰掛こしかけ身體からだゑてやつれたやはらかなしかめてた。あわてた與吉よきち軸木ぢくぎさきからいたづらにのやうなけぶりてるのみであつた。かれ焦躁れて卯平うへいあしもとのはひ燐寸マツチはこげた。はこはからりとつた。はこそこはもうえてたのである。卯平うへいしかめたまゝ燐寸マツチをとつてまたすつとつて、ゆつくりと軸木ぢくぎさかさにしてしろ軸木ぢくぎつゝんでのぼらうとするちひさな枯燥こさうしたおほきなつゝんで、大事相だいじさうのぞいた。それがまた二三反覆くりかへされた。内側うちがはがぼんやりとしてそれから段々だん/\あかるくつてやうやたもたれた。茶釜ちやがまそこれるばかりに突込つゝこまれた落葉おちばにはうしてけられた。落葉おちばには灰際はひぎはから外側そとがはつたひてがべろ/\とわたつた。卯平うへい不自由ふじいう火箸ひばし落葉おちばすかした。迅速じんそく生命せいめい恢復くわいふくした。彼等かれらため平生へいぜいほとんどなかば以上いじやう無駄むだ使つかはれてほのほかまどくちからまくれてつた。しか餘計よけいれていづほのほかれ自由じいううしなうてこほらうとしてあたゝめた。かれよこころがした大籠おほかごからかさ/\としてはやす落葉おちば間斷かんだんなくした。
 與吉よきち卯平うへいそばからなゝめしてた。卯平うへい與吉よきちちひさなあしかふへそつとれてた。あしどつちもざら/\とこそつぱかつた。與吉よきちなゝめくのがすこ窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければたゞ惡戲いたづらをしてたいのとでそばかまどくちべつ自分じぶん落葉おちばけた。針金はりがねのやうなをちらりとつた落葉おちばひとひら/\がけぶりともかるのぼつた。落葉おちばぐにしろはひつてさらいくつかにわかれて與吉よきち頭髮かみから卯平うへい白髮かみつた。けぶりなかにはしろはひあとから/\とたつちた。與吉よきちはいつも彼等かれら伴侶なかまとも路傍みちばた枯芝かれしばてんじて、それがくろあとのこしてめろめろとひろがるのをるのが愉快ゆくわいでならなかつた。かれまた野茨のいばらかぶうつつて、其處そこしげつた茅萱ちがやいてほのほが一でうはしらてると、喜悦よろこび驚愕おどろきとの錯雜さくざつしたこゑはなつて痛快つうくわいさけびながら、つひには其處そこ恐怖おそれくははればぼうたゝいたり土塊つちくれはふつたり、また自分等じぶんら衣物きものをとつてぱさり/\とたゝいたりしてそのすことにつとめるのであつた。迅速じんそくかつ壯快さうくわい變化へんくわ目前もくぜんせる彼等かれら惡戲好いたづらずきこゝろをどれほど誘導そゝつたかれない。かれ落葉おちばつかんではかまどくちとうじてぼうぼうとえあがるほのほかざした。茶釜ちやがまがちう/\とすこひゞきてゝしたとき卯平うへいひからびたやうにかんじてのどうるほさうとしてだるしりすこおこしてぜんうへ茶碗ちやわんのばした。自由じいういてが、爪先つまさきつた茶碗ちやわんをころりとおとさせた。茶碗ちやわんそこつめたくつてすこしのみづ土間どまへぽつちりとちてはねた。飯粒めしつぶともらばつた。かれまた悠長いうちやう茶碗ちやわんをとつてよごれた部分ぶゞんでこすつて、さら茶釜ちやがま熱湯ねつたうそゝいであしもとのはひけた。ふたをとつたのでほう/\と威勢ゐせいよくつて水蒸氣ゆげがちら/\としろつてちるはひうた。かれやうやくにして柄杓ひしやくはなつてふたゝ茶釜ちやがまふたをしたときにはかにぼうつとつたほのほこゑいた。かれおもはずうしろとき與吉よきち驚愕きやうがくからはつせられたごゑみゝつた。さかんはしらちかおほうてつてた。かれまたすぐはげしい熱度ねつどかほぱいかんじた。はどうした機會はずみよこころがした大籠おほかご落葉おちばうつつてたのである。與吉よきちはじ野外やぐわい惡戲あくぎもちゐた手段しゆだんもつたゝいてさうとしまたさうとした。乾燥かんさうした落葉おちば迅速じんそく誘導いうだうしてかれ横頬よこほゝねぶつて、かれおもはずこゑはなつたのである。卯平うへいあわててふたゝ茶碗ちやわんおとした。かれ突然いきなり與吉よきちかたはら退けた。かれはさうして無意識むいしきつた落葉おちばさうとして、自由じいううしなうたのろ運動うんどうすになん功果こうくわもなかつた。かれほのほまゝかる落葉おちばかごにはげればよかつたのである。疾風しつぷうかなら落葉おちば散亂さんらんせしめて、とほえながらはしるにしても、片々へんぺんたる落葉おちばひろ區域くゐきことごとおもかげをもとゞめないで消滅せうめつしてしまはねばらぬのであつた。しかしながらあわてた卯平うへいかくごと簡單かんたんかつ最良さいりやうである方法はうはふひまがなかつた。またいかつてかれほゝねぶかれいた。かれくらんだ。一げきした落葉おちばはそれがひさしく持續ぢぞくされなくても老衰らうすゐした卯平うへいこゝろうばふにはあまりあつた。卯平うへい視力しりよくふたゝ恢復くわいふくしたときにはすで天井てんじやうはりんだ藁束わらたばの、みだれてのぞいて穗先ほさきつたひてのぼつた。乾燥かんさうした藁束わらたば周圍しうゐねぶつて、さらそのほのほ薄闇うすぐらいへうちからのがれようとして屋根裏やねうらうた。それが迅速じんそくちから瞬間しゆんかん活動くわつどうであつた。ねぶつたさられをんでずた/\に崩壞ほうくわいした藁束わらたばたもつたまゝすでいきほひをしづめた落葉おちばうへにばら/\とみだおち其處そこ火勢くわせい恢復くわいふくされた。惘然ばうぜんとして自失じしつして卯平うへいわらびた。かれあわてゝ戸口とぐちしたときすであか天井てんじやうつくつてた。けぶりは四はうからのきつたひてむく/\とはしつてた。へびしたごとくべろ/\とほのほされた。つのつて疾風しつぷうぐにそのあかした拗切ちぎらうとした。あとから/\と勢力せいりよくくはへてけぶりほのほごとなびかされた。
 瞬間しゆんかん處々ところ/″\くぼんでやつれた屋根やねまつたつゝんでしまつた。卯平うへい數分時すうふんじまへ豫期よきしなかつた變事へんじ意識いしきしたときほとんど喪心さうしんしてにはたふれた。土塊どくわいごとうごかぬかれ身體からだからはあはれかすかなけぶりつてうてえた。わら沿びたとき襤褸ぼろかれ衣物きものこがしたのである。しかきうごとあとをぽつ/\ととゞめたのみで衣物きもの心部しんぶふかまなかつた。ほこりかれえてはしつた。與吉よきち火傷やけど疼痛とうつううつたへてひとりかなしくいた。
 疾風しつぷう威力ゐりよくさへぎつてつゝんだほのほ退けようとしてその餘力よりよく屋根やね葺草ふきぐさまくつた。たゞち空隙くうげきつてます/\其處そこちからたくましくした。聳然すつくりそら奔騰ほんたうしようとするほのほよこしつけ/\疾風しつぷうつひかたまりごとつかんでげた。つぶてはゆらり/\とのみうごいて東隣ひがしどなりもりがふはりとけて遮斷しやだんした。たゞ、三角測量臺かくそくりやうだい見通みとほしにさはためはらはれた空隙すきがそれをみちびいた。東隣ひがしどなり主人しゆじん屋根やねの一かくにどさりととまつた。勘次かんじいへつゝんだ屋根裏やねうら煤竹すゝたけを一爆破ばくはさせて小銃せうじうごとひゞきてた。ひゞき近所きんじよみゝおどろかした。人々ひと/″\けつけたときむねはどさりとちて、疾風しつぷうちからしのいで空中くうちうはるかほのほげた。ときすで東隣ひがしどなり主人しゆじんいへがべろ/\とめつゝあつたのである。村落むらもの萬能まんのう鳶口とびぐちつてあつまつたときすさまじいいきほひをつてた。それでもおほきな建物たてもの燒盡せうじんするには時間じかんえうした。あひだ村落むらもの手當てあた次第しだい家財かざいつてれを安全あんぜん地位ちゐうつした。てんおい白晝はくちう動作どうさ敏活びんくわつ容易よういであつた。家財道具かざいだうぐもんそとはこばれたとき火勢くわせいすですべてのものちかづくことを許容ゆるさなかつた。いへかこんでひがしにもすぎ喬木けうぼくつてた。もりこずゑうへはるかのぼらうとして次第しだいいきほひをくはへるほのほを、疾風しつぷうはぐるりとつゝんだ喬木けうぼくこずゑからごうつとしつけしつけちた。ほのほなゝめにさうしてかたむきつゝ、群集ぐんしふみゝには疾風しつぷうひゞきうばつて轟々ぐわう/\つづいた。おと疾風しつぷう抵抗ていこうしてちからたくましくしようとするほのほふか木材もくざい心部しんぶにまで確乎しつかつめけた。さうしてほのほちかそびえたすぎこずゑからえだけて爪先つまさきいた。たびすぎ針葉樹しんえふじゆ特色とくしよくあらはして樹脂やにおほがばり/\とすさまじくつてけた。屋根裏やねうらたけ爆破ばくはした。消防せうばう群集ぐんしふほとんど皮膚ひふかれるやうなあつさをおそれて段々だん/\とほざかつた。ちひさな喞筒ポンプそのさかんほのほまへただでうほそみじか彎曲わんきよくしたしろせんゑがくのみでなん功果こうくわえなかつた。村落むら人々ひと/″\つたへて田圃たんぼはやしえて、あひだ各自かくじ體力たいりよく消耗せうまうしつゝけつけるまでにはおほきなむね熱火ねつくわを四はうあふつてちた。疾風しつぷうちかられをしつけて、周圍しうゐ喬木けうぼくこずゑへだてゝ白晝はくちうちからひかりうばはうとしてるので、そらつてえるのはとほいやうでちかいやうで一しゆ凄慘せいさんふくんだけぶりである。それでも喬木けうぼくこずゑうへ壓迫あつぱくくるしんでるやうにまれのぼつてはまたおしつけられた。徒勞むだである喞筒ポンプ群集ぐんしふみづむのに近所きんじよあらゆる井戸ゐどみな釣瓶つるべとゞかなくなつた。群集ぐんしふたゞ囂々がう/\として混亂こんらんしたひゞきなか騷擾さうぜうきはめた。ちからかくごとくにして周圍しうゐ村落そんらくをも一つに吸收きふしうした。しかしながら、群集ぐんしふ勘次かんじにはかへりみようとはしなかつた。
 黄褐色くわうかつしよくきりもつて四ふさがれつゝ只管ひたすら唐鍬たうぐはつて勘次かんじ田圃たんぼわたつてはやしえてとほつてた。かれ凶事きようじ理由わけがなかつた。開墾地かいこんちちか小徑こみちはしつてひとあわたゞしい容子ようす見咎みとがめてかれはじめてそのつた。それが東隣ひがしどなり主人しゆじんいへおこつたことをかされてかれはおつぎをうながしてつた。かれ疾驅しつくしようとして、確乎しつかゑた位置ゐちから一したとき、じやりつとその爪先つまさきつて財布さいふちた。かれかへりみたとき財布さいふは二三うしろ發見はつけんされた。かれ簡單かんたんな三尺帶じやくおびいて、ぎりつと其處そこおほきなかたまりのやうなむすつくつて財布さいふつゝんだ。
 かれほとん脚力きやくりよくおよかぎはしつた。かれはおつぎがうしろつゞかぬことを顧慮こりよするいとまもなかつた。かれ主人しゆじんおもつたのである。勘次かんじうしろ田圃たんぼとききりごとほこりへだてゝ主人しゆじんいへもりからのぼさかんけぶり今更いまさらごと恐怖きようふした。かれまたふと自分じぶんうしろはやしすこえて自分じぶんいへむねえないのにそのこゝろさわがせた。がうちからおとさぬ疾風しつぷう雜木ざふきまじつたたけこずゑひくくさうしてさらひく吹靡ふきなびけてれどむねはどうしてもえなかつた。かれまたけぶりいとごとしかすさまじく自分じぶんはやしあたりからたつてはしつけられるのをた。かれ自分じぶんにはつたときは、ふるすゝだらけの疎末そまつ建築けんちく燒盡やきつくして主要しゆえう木材もくざいわづかほのほいてつてる。執念しふね木材もくざい心部しんぶんでる。何物なにものをもはらはねばむまいとする疾風しつぷうは、あか※(「火+畏」、第3水準1-87-57)おきつゝしろはひ寸時すんじ猶豫いうよをもあたへないでまくつた。心部しんぶまれつゝある木材もくざいあかひしばつたやうな無數むすうひゞけぶりとをいてた。勘次かんじほとんど惘然ばうぜんとして急激きふげき變化へんくわた。かれあしもとが踉蹌よろけほど疾風しつぷうかれた。かれにはつていて與吉よきちた。與吉よきち横頬よこほゝいんした火傷やけどかれ惑亂わくらんしたこゝろさわがせた。勘次かんじまたそばつぶつて後向うしろむきつて卯平うへいた。卯平うへい何時いつたれがさうしたのかむしろうへよこたへられてあつた。かれすくな白髮しらがはらつていた火傷やけどのあたりをうてた。
りやどうしたんだ」勘次かんじせわしくいた。
ひいくつゝえたんだ」與吉よきちむせりながらいつた。
われでも惡戲いたづらしたんぢやねえか」勘次かんじ遲緩もどかしげにはげしく追求つゐきうした。
ぢいひいあたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」さういつて與吉よきちにはかこゑはなつていた。かれなんためにさうかなしくなつたのかむし頑是ぐわんぜない彼自身かれじしんにはわからなかつた。かれたゞなみだがこみあげてもなくかなしくさうしてしみ/″\とつゞけた。勘次かんじはそれをいた瞬間しゆんかんかた唐鍬たうぐはころがしてぶつりとつちつた。唐鍬たうぐは刄先はさき卯平うへいあたまちかむしろの一たんかすつてふかつちつた。かれはそれから燒盡やきつくして一ぱい※(「火+畏」、第3水準1-87-57)おきになつた自分じぶんうちちかつた。かれおそろしい熱度ねつどかんじて少時しばし躊躇ちうちよしてつた。うしろはやしやゝ俛首うなだれたたけ外側そとがはがぐるりとかれて變色へんしよくしてたのがかれえいじた。それとともかれとなりもりなか群集ぐんしふ囂々がう/\さわぐのをみゝにして自分じぶんいまなんため疾走しつそうしてたかをこゝろづいた。しかかれはもう群集ぐんしふあひだまじつて主人しゆじん災厄さいやくおもむこゝろおこらなかつた。かれ群集ぐんしふこゑいて、みづか意識いしきしない壓迫あつぱくかんじた。かれひど自分じぶんあはれつぽい悲慘みじめ姿すがたきたくなつた。かれ疾走しつそうしたあと異常いじやう疲勞ひらうかんじた。かれ自分じぶん燒趾やけあとてようとするのに鳶口とびぐち萬能まんのうみなそのなかつゝまれてしまつてた。かれ空手からてであつた。唐鍬たうぐはつてかれふたゝあつそばつた。あつさにへぬそばかれ退すさつてまたつた。かれ刃先はさきにぶるのをおもいとまもなく唐鍬たうぐはで、またつて木材もくざいけてたふさうとした。
 おつぎはおくれてやうや垣根かきね入口いりくちつた。おつぎはもう自分じぶんうちいことをつた。貧窮ひんきう生活せいくわつあひだから數年來すうねんらいやうやたくはへた衣類いるゐ數點すうてんすでの一ぺんをもとゞめないことをつてさうしてこゝろかなしんだ。あせがびつしりとかみ生際はえぎはひたして疲憊ひはいした身體からだをおつぎは少時しばし惘然ぼんやりにはてた。
 おつぎはそれからまたいて與吉よきち死骸しがいごとよこたはつて卯平うへいとをた。おつぎは萬能まんのういて與吉よきち火傷やけどした頭部とうぶをそつといだいた。與吉よきちまたなみだがこみあげてむせびながらしみ/″\とかなしげにいた。こゑくものをたゞきたくさせた。つかれたおつぎのにはふつとなみだうかんだ。おつぎはまたおさへた卯平うへい頭部とうぶうたがひのそゝいで、二にんかなしむべき記念かたみにおもひいたつた。おつぎは原因げんいん追求つゐきうしてかうとはしなかつた。おつぎはしみ/″\と與吉よきちこゝろいたはつてさらに、「ぢい」と卯平うへいむしろちかづいてそつとひざをついた。平生いつものおつぎは勘次かんじとのあひだつながうとする苦心くしんからのあまえた言辭ことば卯平うへいこゝろとうずるのであつた。現在いまおつぎの心裏しんりにはなん理窟りくつもなかつた。たゞしみ/″\とかなしいいたはしいこゝろからの言辭ことば自然しぜんくちからるのであつた。おつぎはえてるわすれたやうに卯平うへいえてのぞいた。卯平うへいはおつぎのこゑみゝはひつたのでうしろかうとしてわづかいた。かすつてはしりつゝあるほこりかれほゝつてかれよこたへた身體からだえた。かれすぐ以前もとごとぢた。
ぢい火傷やけどしたのか」おつぎはしづかにいつて卯平うへいをそつと退けてひだり横頬よこほゝいんした火傷やけどた。
てえか、そんでもたえしたこともねえから心配しんぺえすんなよ」おつぎははらはれたきたな卯平うへい白髮しらがへそつとあてた。卯平うへいはおつぎのするまゝまかせてすこくちうごかすやうであつたが、またごつときつける疾風しつぷうさまたげられた。おつぎはとなりには騷擾さうぜういた。しかその種々いろ/\さけびの錯雜さくざつしてきこえるこゑ自分じぶん心部むねからあるものつかんでくやうで、自然しぜんにそれへみゝすますとなんだかのないやうな果敢はかなさをかんじてなみだちた。なみだ卯平うへい白髮しらがしたゝつた。おつぎがこゝろづいたとき勘次かんじいたづらにさうして發作的ほつさてきあせらしてうごいてるのをた。おつぎのこゝろきつとしてえつゝあるうつつた。おつぎはにはか自分じぶん萬能まんのうつて勘次かんじつかませた。勘次かんじはじめてこゝろづいて、ねつした唐鍬たうぐはひやさうとして井戸端ゐどばたはしつた。かぎはなれた釣瓶つるべたか空中くうちううかんでゆつくりとおほきくうごいてた。かれながじりにずぶりと唐鍬たうぐはとうじてまた萬能まんのうつた。
 一にちいた疾風しつぷうはたちからおとしたら、西にしそら土手どてのやうなくもはしちかすわつて漸次だん/\沒却ぼつきやくしつゝまたゝいた。の一瞬時しゆんじ強烈きやうれつひかりよこひがしもり喬木けうぼくさび橙色だい/″\いろめて、さらひかり隙間すきまとほくずつとのばした。つめたくかつ薄闇うすぐらるにしたがつて燒趾やけあと周圍しうゐあかるくした。となりはほんのりとそらをぼかした。となりにはには自分じぶん村落むらから村落むらから手桶てをけ飯臺はんだいれたにぎめし數多かずおほはこばれた。消防せうばうちからつくした群集ぐんしふしろ握飯にぎりめしむさぼつた。群集ぐんしふさら時分じぶん見計みはからつてはぐら/\とはしらたふさうとした。丈夫ちやうぶはしらはまだ火勢くわせいがあたりをとほざけて確乎しつかつてた。村落むら人々ひと/″\漸次だんだんかへつた。自村むら人々ひと/″\交代かうたいのこつてさかんばんをした。かへ人々ひと/″\ついで勘次かんじには挨拶あいさつつたのみで、みなみいへからざるれた握飯にぎりめしだけであつた。かれはそれでもため空腹くうふくのがれた。となり主人しゆじんからはしばらくしてあつまつたにぎめし手桶てをけを二つ三つたせてよこした。つてから近所きんじよもの卯平うへい念佛寮ねんぶつれうはこばれた。勘次かんじ卯平うへいせた荷車にぐるまいた。かれはそれからとなり主人しゆじん挨拶あいさつたが、自分じぶんのどそこものをいうてげるやうにかへつた。かれは三にんこほつたそらいたゞいて燒趾やけあと火氣くわき手頼たよりにかした。卯平うへいよこたへたむしろたれりにはなかつた。むしろは三にんせきあたへた。勘次かんじ失火しつくわいて與吉よきちから要領えうりやうなかつた。しかしながらかれ悲憤ひふんへぬこゝろさいなまうとするには與吉よきちいてまぬ火傷やけどがそれをおさへつけた。勘次かんじつかれた。

         二六

 けるにしたがつてしもは三にん周圍しうゐ密接みつせつしてらうとしつゝちからをすらしつけた。彼等かれらめて段々だん/\むしろちかづけた。勘次かんじもおつぎもうす仕事衣しごとぎにしん/\とこほしもつめたさと、ぢり/\とこがすやうなあつさとを同時どうじかんじた。與吉よきち火傷やけどつめたさがみた。さうかといつてあたらうとするのには猶且やつぱり火傷やけど疼痛いたみくはへるだけであつた。かれ思出おもひだしたやうにいてはまたいた。つひにはつかれてしく/\とたゞこゑんだ。それがかへつ勘次かんじとおつぎのこゝろみだした。つかれた二人ふたりはうと/\としながら到頭たうとうねむることが出來できなかつた。
 燒趾やけあとよこたはつたはりはしらからまだかすかなけぶりてつゝつぎけた。勘次かんじはおつぎを相手あひて灰燼くわいじんあつめることに一にちつひやした。手桶てをけつめたい握飯にぎりめし手頼たよりない三にんくちした。勘次かんじすみのやうにつたせたはしらはり垣根かきねそばんだ。かれあたらしい手桶てをけみづんでまださうはりはしらへばしやりとみづけた。かれはひあつめて處々ところどころ圓錘形ゑんすゐけい小山こやまつくつた。かれ灰燼くわいじんなかからなべかま鐵瓶てつびん器物きぶつをだん/\と萬能まんのうさきからした。鐵製てつせい器物きぶつかたちたもつてても悉皆みんな幾年いくねん使つかはずにすててあつたものゝやうにかはつてた。かれはそれをそつと大事だいじそばあつめた。茶碗ちやわんさらすべての陶磁器たうじき熱火ねつくわねてしまつて一つでもやくつものはなかつた。勘次かんじあかけたつち草鞋わらぢそこ段々だん/\かうとしたときくろげたやうなあるもの草鞋わらぢさきかゝつた。けて變色へんしよくした銅貨どうくわすここゞつたやうになつたのがあしれてぞろりとはなれた。かれ周圍しうゐにひよつとはなつた。かれるものはこれも一しんはひ始末しまつをしてるおつぎのほかにはなかつた。かれ銅貨どうくわそつたけはやしそばつてつた。かれはぎりつとしばつた三尺帶じやくおびいて、財布さいふくゝつたむすけてやうやその財布さいふした。けた銅貨どうくわかれ財布さいふんでたぎりつとこしくゝつた。かれはさうしてふたゝびきよろ/\と周圍ぐるりた。勘次かんじいくつかの小山こやまかたちづくつたはひわら粟幹あはがらでしつかとふたをした。かれはそれをはたさうとしたので、あめたせぬ工夫くふうである。わら粟幹あはがら近所きんじよからあたへられた。かれ住居すまゐうしなつただい日目かめはじめて近隣きんりん交誼かうぎつた。みなみ女房にようばうふる藥鑵やくわん茶碗ちやわんとをつててくれた。勘次かんじ平生へいぜいなんともおもはなかつた器物きぶつにしみ/″\と便利べんりかんじた。かれ藥鑵やくわんのまだあつ茶碗ちやわんいで彼等かれらちつけるたゞまいむしろはしいこうた。にはか空洞からりとした燒趾やけあとかぎつてつてうしろはやしたけ外側そとがはがぐるりとれて、げたえだあをえだおほうてみきちかかつた部分ぶゞんあぶらいてきら/\となめらかにかはつてた。
 東隣ひがしどなり主人しゆじんにはには村落むらもの大勢おほぜいあつまつておほきな燒趾やけあと始末しまつ忙殺ばうさつされた。それでその人々ひと/″\勘次かんじにはさうとはしなかつた。彼等かれらとなり主人しゆじんたいして平素へいそむくいようとするよりも將來しやうらいおそれてる。彼等かれらみなひとしくしづかにおちついた白晝はくちうにはたつことが家族かぞくやすいことをつてるのである。勘次かんじつかれた身體からだ餘念よねんなく使役しえきした。は三にんそらいたゞいてせまむしろあかすのには、わづかでもその身體からだあたゝめる消滅せうめつしてたのである。三にんそのみなみいへみちびかれた。勘次かんじもおつぎもあせはひほこりとによごれた身體からだ風呂ふろあらおとした。こゝろよかつたその風呂ふろ氣盡きづくしな他人たにんいへ彼等かれらをぐつすりと熟睡じゆくすゐさせて二日間かかん疲勞ひらうわすれさせようとした。
 與吉よきち横頬よこほゝ皮膚ひふわづか水疱すゐはうしやうじてふくれてた。かれ機嫌きげんわるかつた。みなみ女房にようばう水疱すゐはう頭髮あたまへつける胡麻ごまあぶらつてやつた。
 勘次かんじ燒木杙やけぼつくひてゝかれだい一の要件えうけんたるかり住居すまゐつくつた。近所きんじよからあつめた粟幹あはがら僅少きんせう材料ざいれう葺草ふきぐさであつた。それはやつあめるからないだけのうす葺方ふきかたであつた。もとよりかべひまはない。そこらこゝらのはやしあひだのこされたかやしのつてて、とぼしいわらぜて垣根かきねでもふやうにそれを内外うちそとからいたたけてゝぎつとめた。かれみなみいへからりたのこぎり大小だいせう燒木杙やけぼつくひ挽切ひつきつた。しまひかれうしろからけたたけつてのやうによこたへてひくゆかつくつた。たけつたなたかれ所有ものではなかつた。かれ熱火ねつくわかれてひとりめたなたかますべての刄物はものはもうやくにはたなかつた。かれ完全くわんぜんたもたれたものはかれ自分じぶんたのんで唐鍬たうぐはのみである。かれかべもない小屋こやつくために二ばかりのあひだすこしかへりみるいとまがなかつたほどこゝろいそがしかつた。かれ悲慘みじめせま小屋こやには藥鑵やくわん茶碗ちやわんとそれから火事くわじ夕方ゆふがたとなり主人しゆじんがよこしたあたらしい手桶てをけとのみで、よるよこたへるのに一まい蒲團ふとんもなかつた。砥石といしけてみがかねば使用しようへぬなべかまかれさらせま土間どまいたづらに場所ばしよふさげてた。土間どまにはまだ簡單かんたん圍爐裏ゐろりさへなくて、かれくのに三本脚ぼんあしたけてゝそれへ藥鑵やくわんけた。
 おつぎはたゞ勘次かんじ仕事しごとたすけてた。しかあひだにも念佛寮ねんぶつれうはこばれた卯平うへいわすれてはなかつた。おつぎは火事くわじつぎ勘次かんじへはだまつて念佛寮ねんぶつれうのぞいてた。おつぎは卯平うへいえた心盡こゝろづくしをするのになん方法はうはふ見出みいだなかつた。おつぎのふところには一せんもないのである。おつぎは手桶てをけそここほつた握飯にぎりめし燒趾やけあとすみおこして狐色きつねいろいてそれを二つ三つ前垂まへだれにくるんでつてた。おつぎはこつそりとのぞくやうにしてた。卯平うへいたれがさうしてくれたかたゞ一人ひとり蒲團ふとんにゆつくりとくるまつてた。枕元まくらもとにはちひさななべぜんとがかれて、ぜんには茶碗ちやわんせてある。汁椀しるわんれも小皿こざらおほうてせてある。卯平うへいやつれたあをかほをこちらへけてた。かれねむつてた。おつぎはすや/\ときこえる呼吸いき凝然ぢつみゝすました。おつぎはそれから枕元まくらもと鍋蓋なべぶたをとつてた。なべそこにはしろいどろりとしたこめかゆがあつた。汁椀しるわんをとつてたら小皿こざらにはひしほすこせてあつた。卯平うへいめた白粥しろがゆへまだ一口ひとくちはしをつけた容子ようすがない。おつぎはいた握飯にぎりめしを一つ枕元まくらもとにそつといてげるやうにかへつてた。老人としよりさと到頭たうとうひらかなかつた。卯平うへいつかれたこゝろしづまつてやうや熟睡じゆくすゐしたところなのであつた。
 掘立小屋ほつたてごや出來できてから勘次かんじはそれでも近所きんじよなべかま日用品にちようひんすこしはもらつたりりたりして使つかつた。おつぎはあひだしんけた鍋釜なべかま砥石といしでこすつた。たけとこむしろが三四まいこれ近所きんじよふるいのを一まいぐらゐづつれた。さうしてからやうや蒲團ふとんはこばれた。それはかれがぎつしりとこしくゝつた財布さいふちからであつた。こめむぎ味噌みそがそれでどうにか工夫くふう出來できた。かれうしていのちつな方法はうはふやつつた。二三にちぎて與吉よきち火傷やけど水疱すゐはうやぶれてんだ皮膚ひふしたすこ糜爛びらんけた。勘次かんじこゝろからやうや瘡痍きずいたはつた。かれ平生いつもになくそれを放任うつちやつてけば生涯しやうがい畸形かたわりはしないかといふうれひをすらいだいた。さうしてかれ鬼怒川きぬがはえて醫者いしやもと與吉よきちれてはしつた。醫者いしや微笑びせうふくんだまゝしろいどろりとしたくすり陶製たうせいいたうへつて、それをこつてりとガーゼにつて、火傷やけどおほうてべたりとはつてぐる/\としろ繃帶ほうたいほどこした。手先てさき火傷やけど横頬よこほゝのやうな疼痛いたみ瘡痍きずもなかつたが醫者いしや其處そこにもざつと繃帶ほうたいをした。與吉よきちばかりして大袈裟おほげさ姿すがたつてかへつてた。
 與吉よきち繃帶ほうたいをしてから疼痛いたみもとれた。繃帶ほうたいまた直接ちよくせつものとの摩擦まさつふせいで、かれこゝろよく村落むらうち彷徨さまよはせた。繃帶ほうたいかわいてれば五六にちてゝいてもいが、液汁みづすやうならば明日あすにもすぐるやうにと醫者いしやはいつたのであるが、液汁みづさいはひにぱつちりとてんつたのみで別段べつだんひろがりもしなかつた。
 おつぎは燒趾やけあと始末しまつせはしいあひだにも時々とき/″\卯平うへいた。しか卯平うへいなぐさめるに一せんたくはへもないおつぎは猶且やつぱりなん方法はうはふ手段しゆだん見出みいだなかつたのである。
 おつぎは勘次かんじやうやくにしてもとめたわづかこめそつ前垂まへだれかくしてつてつた。こめには挽割麥ひきわりまじつてる。おつぎはけつして卯平うへい滿足まんぞくさせることとはおもはなかつたが、かれべてようといへばかゆにでもいてやらうとおもつたのである。しかしおつぎがぢつゝそれでも餘儀よぎなくかくしてつてつたこめ必要ひつえうはなかつた。念佛ねんぶつ伴侶なかま交互かはりがはりすこしづゝの食料しよくれうつててくれるのを卯平うへい屹度きつとあましてた。
ぢい、そんでもちつた鹽梅あんべえよくなつたやうだが、いたかねえけえ」おつぎは毎度いつものやうに反覆くりかへしていた。言辭ことばやはらかでさうしてうるんでた。卯平うへい火傷やけどへもあぶらられてあつた。水疱すゐはうはいつかやぶれて糜爛びらんした患部くわんぶを、あぶらるからいとはしくきたなくしてた。んだ細胞さいぼうしたからあざやかにあかはじめた肉芽にくげ外部ぐわいぶ刺戟しげきたいしてすこしの抵抗力ていかうりよくつてない細胞さいぼうあつまりである。朝夕あさゆふつめたさすら過敏くわびん神經しんけい刺戟しげきした。卯平うへい何時いつでもみぎ横頬よこほゝうへにしてほかはなかつた。
「さうだにかゝんなくつてもなほんべなあ」おつぎは、あぶらきたなくした火傷やけど凝然ぢつると自然しぜんしがめられて、むし自分じぶん瘡痍きず經過けいくわでもくやうに卯平うへいまくらくちをつけていつた。
「うむ」と卯平うへいひくひゞこゑけつして言辭ことばのやうな簡單かんたん意味いみのものではなかつた。
「そんでもどうにかうちこせえたから、ぢいこともれてくべよなあ」おつぎのこゑ漸次ぜんじうるんでひくくなつた。卯平うへいはそれでもおつぎのこゑくとつぶつたまゝほとん明瞭はつきりとはられぬやうなかすかなわらひがうかぶのであつた。
「どうえのてゝえ」卯平うへい有繋さすがきたかつた。
「どうえのつてぢいは、けたはしら掘立ほつたてたのよ、そんだからかべんねえのよ」
「そんぢや、わらかやでおツぷてえたんでもあんびや」
「うむ、さうだあ、そんだからさあつとがさ/\すんだよ」ういつておつぎのこゑすこ明瞭はつきりとしてた。おつぎははぢふくんだ容子ようすつくつた。卯平うへい悲慘みじめ燒小屋やけごやおもふと、自分じぶん與吉よきちとも失錯しくじつたことが自分じぶんくるしめてひどつらかつた。かれにはかしかめた。
いてえのか」おつぎは目敏めざとくそれをこゝろもとなげにいつた。おつぎはやつれてしづんだ卯平うへいそばると、つひ自分じぶんしづんでしまつてたゞ凝然ぢつすくんだやうにつてるよりほかはなかつた。それでもおつぎはなが時間じかんをさうしてむなしくつひやすことは許容ゆるされなかつた。
またつかんな」とおつぎはしづんだこゑでいつてくのを、あと卯平うへいめじりからはなみだすこれて、ちひさなたましばらやつれたしわ引掛ひつかゝつてさうしてほろりとまくらちるのであつた。
 勘次かんじは一念佛寮ねんぶつれうかへりみなかつた。五六にちぎて與吉よきち醫者いしやれられた。醫者いしやきたなつた繃帶ほうたいいてどろりとしたしろくすり陶製たうせいいたつてつた。先頃さきごろのよりもくしてつたからもうれでとほ道程みちのり態々わざ/\なくてもれを時々とき/″\つてやれば自然しぜんかわいてしまふだらうと、しろくすりとそれからガーゼとをふくろれてくれた。與吉よきちにはかいきほひづいた。かれ時々とき/″\卯平うへいそばへもつた。卯平うへい横臥わうぐわした與吉よきち繃帶ほうたいこゝろいためた。
 ある與吉よきちつたとき先頃さきごろ念佛ねんぶつとき卯平うへいさけすゝめた小柄こがらぢいさんが枕元まくらもとた。
「おめえ、さうだにちからおとすなよ、らつくれえ火傷やけどなんぞどうするもんぢやねえ、なほしてやつから、どうしたときからぢやいたかあんめえ、禁厭まじねえしめしせえすりや奇態きてえだから」さういつてぢいさんは佛壇ぶつだんすみいた燈明皿とうみやうざらしてあぶら火傷やけどつた。卯平うへいまゝまかせてうごかなかつた。
ちからおとしちや駄目だめだから、らなんざこんなところぢやねえ、こつちなうでうまかまつたときにや、自分じぶんちやえかねえつてはつたつけが、そんでも自分じぶん手拭てねげはしくええてぎいゝつとしばつて、さうしてうまいてたな、あせ豆粒まめつぶぐれえなのぼろ/\れつけがそんでも到頭たうとう我慢がまんしつちやつた、なんでもちからおとしせえしなけりやなほんなすぐだから、としつちやなほりが面倒めんだうだのなんだのつてそんなこたあねえから」ぢいさんは只管ひたすら卯平うへい元氣げんき引立ひきたてようとした。
らそんだが、さうえ怪我けがしてもうまにくかねえのよ、うまれんのがくせでひゝんとさわいだところてえよこしておさえたもんだから畜生ちきしやう見界みさけえもなくかぢツたんだからなあ」とかれさけんではなかつたのでこゑひくかつたが、それでも漸々だん/\いきほひをくはへてた。
しれくすりつたんだぞ」與吉よきち先刻さつきからあぶらつた卯平うへい瘡痍きずそゝいでてかう突然とつぜんにいつた。
「なあに、さうだもんなんざんねえツたつてがよりやこつちのはうはやなほつから」小柄こがらぢいさんはしばらもとへいたあぶらさらふたゝ佛壇ぶつだんすみしまつた。
「そんでもれこたはあ、なくつてもなほつからえゝつてくすりよこしたんだぞ」與吉よきちすこあひだへだてゝづ/\いつた。
なほるもんかえ、汝等わツらが」小柄こがらぢいさんは揶揄からかふやうにして呶鳴どなつた。
なほらあえ、そんだつていたかねえ與吉よきちおどろいたやうにいつた。
しれくすりだツちのよこしたのか」卯平うへいかすかなこゑいた。
「さうなんだわ」
りや、それねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、394-15]にでもつてもらあのか」
んねえ」
「そんぢやくすりはどうしたんでえ、りやあ」
「おとつゝあつてんだからんねえ」與吉よきちあががまちむねたせて下駄げた爪先つまさき土間どまつちたゝきながら卯平うへいうして數語すうご交換かうくわんしたとき
「えゝからそんなくすりなんぞのことかめえたてんなえ、れでなほつから」と小柄こがらぢいさんはそばからした。
乞食野郎奴こちきやらうめ親爺おやぢやがれ、われこた醫者いしやれてくぜにつてけつかつて、此處ここさは一でもやがんねえ畜生ちきしやうだから、ろう。のツくれえだからばちあたつて丸燒まるやけつちやあんだ」とぢいさんはさらひとりいきどほつた語勢ごせいもつていつた。
「おとつゝあはぢいかつたツちツてんだあ」與吉よきちいきほひにあつせられてはにかむやうにしながらやつといつた。
汝等わツら親爺奴おやぢめつたのか」ぢいさんはさら
りやなんちつたそんで」と呶鳴どなつた。與吉よきちしをれてしばら沈默ちんもくした。
ひいあたつてたらさくつゝえたんだつてつたんだあ」
「さうはつても仕方しかたねえよ」與吉よきちのいひをはらぬうち卯平うへい言辭ことばはさんだ。
箆棒べらぼう、つんしたくつて、つんすものるもんか」ぢいさんはすこげきして
過失えゝまちだものあとなんちつたつてやうあるもんぢやねえ」とひとりりきんだ。
「そんでもどくらんめえつてつたあ」與吉よきちはぽさりといつた。やゝおほきくつたかれ呶鳴どなぢいさんのまへ恐怖おそれいだいたがまたおさへられることにかすかな反抗力はんかうりよくつてた。
ぢいことらんめえつてつたのか、ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、396-5]つたのかあ」
ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、396-6]はねえ、ねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、396-6]ぢいとこぐつちとおとつゝあおこんだ、さうしたらねえ[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、396-6]おこらつたんだあ」與吉よきち自分じぶんこゝろすこしのへだてをもいうしてらぬ卯平うへいまへつてることをほこるやうにいつた。
われこたおこんねえのか」小柄こがらぢいさんは與吉よきちかくさぬ言辭ことばすこりきんだいきほひがけたやうになつてういつた。
れこたおこんねえ、おこつたつくれえげつちやあから」與吉よきちのいふのをいてぢいさんのいかりはやはらげられた。卯平うへいあをかほをして凝然ぢつつぶつたしがめていてた。圍爐裏ゐろりには麁朶そだの一えだべてなかつた。三にんしばらくぽさりとした。
ぢいくんねえか」與吉よきちあやぶむやうにいつた。
りやなにしいつちんだ」小柄こがらぢいさんは底力そこぢからこゑひくくしていつた。
一錢ひやくもねえから」と卯平うへいはこそつぱいあるもののどつかへたやうにごつくりとつばんだ。かれしわ餘計よけいにぎつとしまつた。
らまあだ、ちつたつたんだつけが、煙草入たぶこれ同志どうしえつちやつたから」かれはぽさりとしていつた。
煙草入たぶこれけたつてぜねだらへえ掻掃かつぱけばはずだ、ほかりやすめえし」小柄こがらぢいさんのひかつた。
「なあにわかんねえよ、おつう毎日まいんちてゝもはなしやねえんだから、らどうせなほつかなんだかわかりやすめえし、らねえな」
「なあに、いてなくつちやなんねえ、すもさねえもるもんか」小柄こがらぢいさんはつぶやいて
けはあ、りやけえ姿なりして、ろうのなんだのつて」と與吉よきち呶鳴どなりつけた。與吉よきち悄々すご/\つた。卯平うへいすこひらいて與吉よきち後姿うしろすがたた。なみだめどもなくた。かれはそれをぬぐはうともしなかつた。

         二七

 温度をんどいちじるしく下降かかうした。季節きせつ彼岸ひがんぎて四ぐわつはひつてるのであるが、さむさはりついたやうにはなれなかつた。夜半やはん卯平うへいはのつそりときて圍爐裏ゐろり麁朶そだべた。ちろちろと鐵瓶てつびんしりからえのぼる周圍しうゐやみつゝまれながらやつれた卯平うへいかほにほのあかるいひかりへた。かれいきほひないほのほまへつぶつたまゝたゞ沈鬱ちんうつ状態じやうたいたもつた。かれほとんどうごかぬやうにしててゝけばすつとふかしづんでしまつたやうにめてへぽちり/\と麁朶そだしてた。かれしばら自失じしつしたやうにして麁朶そだ周圍しうゐやみしつけられようとしてわづかいきほひをたもつたときかれはすつとあがつた。かれ糜爛びらんした横頬よこほゝはもうほろびようとして薄明うすあかりにぼんやりとした。はげつそりとちてかれ姿すがたらうとした。かれけて踉蹌よろけながらた。さむかぜつめたいやいばびせた。卯平うへい悚然ぞつとした。
 勘次等かんじらにん凝集こごつてうす蒲團ふとんにくるまつた。勘次かんじあし非常ひじやうつめたさをかんじて、うと/\としてねむりからめた。手足てあしのばせばくゝりつけたかやしのれてかさ/\とほどせま室内しつないを、さむさはたばねた松葉まつばさきでつゝくやうに徹宵よつぴてその隙間すきまねらつてまなかつた。勘次かんじえてしまつた。かれきたまくらしてた。うしろはやし性急せいきふさわいではまたしづまつてさうしてざわ/\とつた。北風きたかぜつたのだ。ひく粟幹あはがら屋根やねからそのくゝりつけたかやしのにはえたみゝやつきゝとれるやうなさら/\とかすかになにかをちつけるやうなひゞきまない。漸次だん/\ひゞき消滅せうめつして、隙間すきまもとめて侵入しんにふするさむさのくははつた。何處どこかでこほつてたつちひゞくやうな※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりこゑ疳走かんばしつてきこえるとよるのき隙間すきまからあかるくなつた。勘次かんじはおつぎをおこした。かれければ蒲團ふとんかたくなつてるよりもにあたつたはうはるかによかつた。かれけるのを待遠まちどほにしてた。おつぎはそとようとした。そと意外いぐわいつもけたゆきしろかつた。さらつもりつゝある大粒おほつぶゆききたからなゝめ空間くうかん掻亂かきみだしてんでる。おつぎは少時しばしすくんだ。大粒おほつぶゆきげつゝちる北風きたかぜがごつとさむさをあふつた。勘次かんじせま土間どまあつめてあつた落葉おちば麁朶そだけた。けぶりひくのきつて、ぐる/\と空間くうかん廻轉くわいてんするやうにえつゝせはしいゆきためみちさまたげられたやうにひく彷徨さまようてく。おつぎは外側そとがはいた手桶てをけつた。北風きたかぜきつけるゆきひとつの手桶てをけ半分はんぶんしろくしてた。おつぎはひくのきしたを一したら、北風きたかぜつてたといふやうに、みだれたかみまくつて、大粒おほつぶゆきあらそつて首筋くびすぢむらがおち瞬間しゆんかんえた。さうしてまた衣物きものうへかるやはらかにとまつた。おつぎは釣瓶つるべ竹竿たけざをきたからうちつけるゆきためたて一條ひとすぢしろせんゑがきつゝあるのをた。ちら/\とくらますやうなゆきなか樹木じゆもく悉皆みんな純白じゆんぱくはしらたてて、釣瓶つるべふちしろまるゑがいてる。おつぎは竹竿たけざをけるとかるやはらかなゆきはさらりとけてちた。おつぎは一ぱいんでひよつとふりかへつたときうしろたけはやしつよ北風きたかぜ首筋くびすぢしつけてはゆきつかんでぱあつとげつけられながらちからかぎりあらそはうとして苦悶もがいてるのをた。おつぎはるなときつける北風きたかぜ當面まともけて呼吸いきがむつとつまるやうにかんじてふと横手よこていた。すこはなれた※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきしたにおつぎはひつけられたやうにうたがひの※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。おつぎは釣瓶つるべはなしてすこ※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきしたちかづいた。
「おとつゝあ」とおつぎはそこねば草履ざうりてゝはげしくんでんだ。
大變たえへんだよ、おとつゝあ」と今度こんどすここゑころすやうにして勘次かんじうながした。勘次かんじ怪訝けげんするどもつておつぎをた。
「よう、おとつゝあ」おつぎの節制たしなみうしなつたあわたゞしさが勘次かんじにははしらせた。勘次かんじ戰慄せんりつした。※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきしたにはつめたい卯平うへいよこたはつてたのである。そのおほきな體躯からだすこ※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきかゝりながら、むねから脚部きやくぶまだらゆきびてた。荒繩あらなはかれけてよこ體躯からだえてた。
ぢい」とおつぎはみゝくちてゝ呶鳴どなつた。つめたい卯平うへいはぐつたりと俛首うなだれたまゝである。すこかしげたかれ横頬よこほゝ糜爛びらんした火傷やけど勘次かんじ悚然ぞつとさせた。勘次かんじよる荷車にぐるまはこんだのち卯平うへいるのははじめてゞあつた
「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」おつぎは勘次かんじしかつて、卯平うへい身體からだおこしながらしろかゝつたゆきはらつた。勘次かんじづ/\した。卯平うへいちからない身體からだやうや二人ふたりはこばれた。勘次かんじうへむしろよこたへて、喪心さうしんしたやうに惘然ばうぜんとしてつた。かれ卯平うへい糜爛びらんした火傷やけどた。かれなにおもつたかいそがしくゆき蹴立けたてゝ、桑畑くはばたけあひだぎてみなみいへはしつた。一たんけてまたそつととざしたおもて戸口とぐちから突然とつぜん
きめえか」とかれはげしく呶鳴どなつた。かれ褞袍どてらかまどまへいて女房にようばうた。
なんでえ」と亭主ていしゆおどろいていふこゑちかきこえた。勘次かんじおどろいてあががまち蒲團ふとんからくびもたげた亭主ていしゆた。
大變たえへんなこと出來できたよ、の」と勘次かんじはこそつぱいのどからやうやくそれだけをした。
てくんねえか」とかれ簡單かんたんにさういつて、おもしたやうにまたゆきつてはしつた。あわてたかれしきゐまたがなかつた。みなみいへ亭主ていしゆ勘次かんじ容子ようす尋常じんじやうでないことをつた。しかしながらかれきはめて不判明ふはんめい事件じけんおもむくには、たゞちおこ多少たせう懸念けねんまくゆきさからつて、みのかさたずにはしつてほどあわてさせるわけにはかなかつた。かれ土間どまころがつた下駄げたさがした。非常ひじやういきほひでつもらうとするゆきは、にはからには桑畑くはばたけあひだ下駄げたはこびをにぶくした。かれ勘次かんじ小屋こやのぞいたときひくかつせま入口いりぐち自分じぶん身體からだふさいでうち薄闇うすぐらくした。そとしろゆきかれしばらくらんだ。かれたゞ勘次かんじ與吉よきちしかこゑみゝそばいた。
 勘次かんじかへつたとき卯平うへいよこたへたまゝであつた。あさかゝつてゆきけて卯平うへい褞袍どてらすこれてた。かれ糜爛びらんした火傷やけどるとともに、卯平うへいふところれてるおつぎをた。
「おとつゝあ、ぬくてえんだよ」おつぎはいつてまた
呼吸いきつえてんだよ」はゞかるものゝやうにひくこゑころしていつた。勘次かんじいきほひづいた。かれ突然とつぜん與吉よきちおこした。蒲團ふとんまくつて與吉よきちうでいた。與吉よきちいつもにない苛酷かこくあつかひにおどろいてまだねむ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
かせえて、それ、衣物きもの」と勘次かんじたゞおろ/\して與吉よきちしかりつけた。
「そんぢやまあよかつた。なにしても蒲團ふとんかせたはうがえゝな、ぬくとまりせえすりや段々だん/\よくなつぺから」みなみ亭主ていしゆ數分時すうふんじまへから二人ふたり衷心ちうしんより狼狽らうばいせしめた事件じけん簡單かんたん説明せつめいいたときいつた。
衣物きものれたやうだな、ぬがせたらよかつぺ、それにひどよごれつちやつたな」亭主ていしゆはいつてまくつた蒲團ふとんあてた。
ぬくとくつてえゝ鹽梅あんべえだ、ひえさせちやえかねえ」かれ掛蒲團かけぶとんをとつぷりふたした。
「さうだな衣物きものあぶえゝだやうねえなそんぢや褞袍どてらでもからつてつとえゝな、蒲團ふとんだけぢやぬくとまれめえこら」かれすこ權威けんゐつた態度たいどでいつた。せま小屋こや焚火たきびえてた。怪訝けゞん容子ようすをしてとほざかつて與吉よきち落葉おちばしてしばらくすぶらした。
われまた、それ、おつうてやれ」勘次かんじ與吉よきち注意ちうい言葉ことばのこしてしてつた。
蒲團ふとんてらばつてはうがえゝな」みなみ亭主ていしゆこゑ段々だん/\大粒おほつぶつてんでゆきみだれのなか勘次かんじあとからけた。
 勘次かんじ二人ふたりくはへていきほひづけられた敏活びんくわつうごかして、まだあたゝまつて蒲團ふとんへそつと卯平うへいよこたへた。卯平うへいつめたい身體からだには、落葉おちばでおつぎがあぶつた褞袍どてらそれから餘計よけい蒲團ふとんとがおほはれた。卯平うへいかすかな呼吸いき段々だん/\恢復くわいふくしてる。勘次かんじはどん/\と落葉おちば麁朶そだいた。かれときゆきはやし燃料ねんれうさがすことの困難こんなんなことを顧慮こりよするいとまさへたなかつたのである。
 午後ごゝになつて例年れいねんにないゆきんだ。そらもがつかりしたやうにぼんやりした。おつぎがさわいだこゝろしづまつてまたみづみにとき釣瓶つるべそこおもつておさへたかぎからはづれようとしてた。うしろたけはやしはべつたりと俛首うなだれた。ふゆのやうにさら/\といさぎよおちやうはしないで、うるほひをつたゆきたけこずゑをぎつとつかんではなすまいとしてる。たけくるしい呼吸いきをするやうにちひさなえだひとつづゝぴらり/\とうごいて壓迫あつぱくからのがれようとつとめつゝある。きたからればしろはしらであつた樹木じゆもくみき悉皆みんな以前いぜん姿すがたらうとしてずん/\とゆきころがした。にはからさき桑畑くはばたたゞぱいしろい。地上ちじやう數寸すすんふかさにゆきつもつてた。桑畑くはばたはしはうとうつた菜種なたねすこ黄色きいろふくれたつぼみ聳然すつくりそのゆきからあがつてる。其處そこらにはれたよもぎもぽつり/\としろしとね上體じやうたいもたげた。頬白ほゝじろなにかゞ菜種なたねはな枯蓬かれよもぎかげあさゆきみじかすねてゝたいのかくはえだをしなやかにつて活溌くわつぱつびおりた。さうしてまたえだうつつた。
 うしろ田圃たんぼでは、みづこけのわるにはつてるうちからゆきけつゝあつたので、畦畔くろ殊更ことさらしろせんゑがいてたつた。其處そこにもほりほとりあかびた野茨のばらえだたてつたりよこつたりして、ずん/\とゆきよろこぶやうに頬白ほゝじろがちよん/\とわたつた。夕方ゆふがたには田圃たんぼしろせん途切とぎれ/\につた。何處どここずゑしろものとゞめないでつかれたやうにぬれた。ゆきこと/″\つちおちついてしまつた。そのおちついたゆきげて何處どこ屋根やねでもしろおほきなかたまりのやうにえた。枯木かれきあひだには殊更ことさらそれが明瞭はつきりつた。黄昏たそがれけぶりあをれたそらはれてしづかなれた。
 卯平うへいはすや/\と呼吸こきふ恢復くわいふくしたまゝくちかない。ぴしや/\と飛沫しぶきどろりつゝ粟幹あはがらのきからもゆきけてしたゝいきほひのいゝ雨垂あまだれまないでよるつた。みなみ女房にようばう蒲團ふとんを二まいかたけてつてた。ひとつには義理ぎりまぬといふので卯平うへい容子ようすたのである。れは二度目どめであつた。ランプもないくら小屋こやうちしばらかたつて女房にようばうつたのち與吉よきち卯平うへいすそもぐらせた。おつぎはの一まい蒲團ふとんけて卯平うへいうてよこたへた。勘次かんじ土間どまむしろいての一まい蒲團ふとんかぶつてくる/\とかゞめた。かれあしばしたまゝ上體じやうたいもたげて一くらゆかうへた。ぴしや/\とちる涓滴したゝりしばらかれみゝそこつた。
 つぎあさからきら/\とつた。あたゝかい日光につくわう勘次かんじ土間どままでつた。地上ちじやうすべやはらかな熱度ねつどもつされた。物陰ものかげに一たもつてゆつくりしたゆきあわてゝけた。つちがしつとりとしてちつけられた。
 卯平うへいひらいた。かれ不審相ふしんさうにあたりをた。執念しふねつちにひつゝいてふゆが、されるやうなあたゝかさにたゝまらなくつて倉皇そゝくさつたあとへ一ぺんはるひかりなかかれ意識いしき恢復くわいふくした。かれさむさがほねてつするのことを明瞭めいれうあたまうかべて判斷はんだんするのには氣候きこう變化へんくわあまりに急激きふげきであつた。かれあひだ人事不省じんじふせい幾時間いくじかん經過けいくわした。
 かれ與吉よきち無意識むいしき告口つげぐちからひどかなしく果敢はかなくなつてあとひとりいた。憤怒ふんぬじやうもやすのにはかれあまりつかれてた。しか自分じぶんでもとき自分じぶん變事へんじおこらうとすることはすこし豫期よきしてなかつた。かれ圍爐裏ゐろりそばで、よるむしつめたにあたりながらふとかはつてついとにはた。かれなにかゞあしまつはつたのをつた。つてたらそれは荒繩あらなはであつた。かれはそれからどうしたのか明瞭めいれうゑがいてようとするには頭腦づなうあまりにぼんやりとつかれてた。
 かれ勘次かんじにはつた。かれ荒繩あらなはつたことをこゝろづいたとき※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきひくえだにそれを引掛ひつかけようとしてげた。かれ不自由ふじいう暗夜あんや目的もくてきげさせなかつた。かれ幾度いくたびげても徒勞むだであつた。るやうな北風きたかぜ田圃たんぼわたつて、それをへだてようとするうしろはやしをごうつとおさへてはちて、かれ運動うんどうまつたにぶくしてしまつた。やがうしろはやしこずゑからなゝめゆききおろしてた。卯平うへい少時しばらく躊躇ちうちよして※(「柿」の正字、第3水準1-85-57)かきつかれたせた。しばらくしてかれゆきつめたく自分じぶんふところとけ不愉快ふゆくわいながれるのをつた。かれはそれから身體からだかたまるやうにおもひながら、あら白髮しらがくしけづられるのをも、かすか感覺かんかくいうした。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりこゑみゝとほきこえて消滅せうめつするのをつた。かれつひにうと/\とつてしまつた。さらすう分間ぷんかんまゝわすられてたならばかれとき自分じぶんほつしたやうにつめたいむくろから蘇生よみがへらなかつたかもれなかつた。勘次かんじえた隙間すきまからしろゆきひかりあざむかれておつぎを水汲みづくみにした。さうして卯平うへいすくはれたのである。
ぢいどうした、心持こゝろもちわるかねえか、はあ」とおつぎは卯平うへい周圍あたりときみゝくちてゝいつた。
いごかねえでろぢいべてえものでもねえか」おつぎはやはらかにいつた。卯平うへいたゞ點頭うなづいた。
「おとつゝあ、そんでもちつた確乎しつかりしてか」勘次かんじいていた。ほつといきをついたやうな容子ようす勘次かんじ衷心ちうしんからのよろこびであつた。
「おとつゝあ、火傷やけどえてえけまあだ」勘次かんじすぐあと言辭ことばつゞけた。
まくらはおつゝけらんねえな」卯平うへいやはらかなしがめるやうにした。
 勘次かんじはふいとしてしばらつてかへつてときにはしろ曝木綿さらしもめん古新聞紙ふるしんぶんがみ切端きれはしつゝんだのをつてた。かれはそれを四つにいて、醫者いしやがしたやうにしろ練藥ねりぐすりもゝうへでガーゼへつて、卯平うへい横頬よこほゝつた曝木綿さらしもめんでぐる/\といた。かれ與吉よきちにさへしろくすりしんで醫者いしやからもらつたまゝしまつていたのであつた。卯平うへい凝然ぢつとして勘次かんじまゝまかせた。不器用ぶきようすこうごけばさう繃帶ほうたいであつたがそれでも勘次かんじには心丈夫こゝろじやうぶであつた。かれ自分じぶん恐怖おそれさそうた瘡痍きずしろこゝろよいぬのもつおほかくされたのと、自分じぶんべき仕事しごとはたたやうにかんぜられるのとでこゝろにはかかるくすが/\しくなつた。卯平うへいもどうなることかしかとはわからぬながらこゝろうちではよろこんだ。
 勘次かんじまた何處どこへかた。かれたゞこゝろがそは/\として容易たやすくはおちつかなかつた。
 やはらかなはるひかりなさけふくんだまたゝきしながらかれせま小屋こやをこまやかにかやしの隙間すきまからのぞいて卯平うへいすそにもつた。卯平うへいしばらつぶつたまゝたがたぱつちりといた。そばにはおつぎがすわつてた。
「おつう」と卯平うへいひくこゑんだ。
なんでえ」おつぎはまたみゝくちてた。卯平うへいみぎして蒲團ふとんうへのばして
あつぼつてえから一めえとつてくんねえか」ちからないすがるやうなこゑでいつた。
本當ほんたうぬくとつたんだよなあ日輪おてんとさままでひどまちつぽくなつたやうなんだよ」おつぎはれいすこあまえるやうな口吻くちつきで一まい掛蒲團かけぶとんをとつた。
蒲團ふとんいたぱちてえなんだよなあ、れとつたはうぢいかるつてよかつぺなほんに、さうつてもぬくとくなるつちやえゝもんだよ、作日等きのふらてえぢやどうすべとおもつたつきや」おつぎは掛蒲團かけぶとんつにして卯平うへいすそいた。
彼岸ひがんぎてうだことつちやおべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたかられからぬくとるばかしだな、むぎ一日毎いちんちごめらこしたな」卯平うへいやゝこゝろよげにいつた。
むぎいまところぢや村落むらでもわるかねえんだぞ、らそんだがせんはたけうなあなだつけな本當ほんたうに、おとつゝあにやふかうなへ、ふかうなあねえぢや肥料こやししたつてやくにやたねえからなんておこられてなあ」
「うむ、はたきふかくなくつちや收穫んねえものよそら、らあさかりころにや此間こねえだのやうにあさうなあもんだたあねえのがんだから、現在いまぢやはあ、悉皆みんな利口りこうんなつてつかららがにやわかんねえが」
ふかうなつちや逆旋毛さかさつむじてるてえでりつけねえぢやなんぼ大儀こええかよなあ、そんだがいまぢや、われはうれよりふけえつくれえだなんておとつゝあにやはれんのよ」
大儀こええにもよそら、そんでもりやくやんな、以前めえかたをんなに三ねんつくらせちやはたけ出來できなくなるつちつたくれえだ」
「そつからいくらもうなえねえんだよらそんでもさうだに大儀こええたおもはなくなつたがならも」おつぎがいふのを卯平うへいまたやはらかにしがめるやうにしてきながら、かるつた掛蒲團かけぶとんあしさきすそはうへこかしてすこ身動みうごきをした。おつぎはときちらとした卯平うへいはじめてがついたやうに
ぢいえたくしてんだつけな、そんぢや先刻さつきくすりつてもらあとこだつけな」おつぎは卯平うへい手先てさきにしてた。
「こつちはそれだひどかねえやそんでもなあ」おつぎは安心あんしんしたやうにそつとはなした。
 勘次かんじいそがしげな容子ようすをしてかへつた。かれ蒲團ふとんを二三まいたゝんだまゝおび脊負しよつてた。
「どうしてえおとつゝあ、昨夜ゆんべはそんでもさむかなかつたつけゝえ」かれ荷物にもつ卯平うへいすそはうおろしてむねむすんだおびきながらいつた。
あつぼつてえつていま蒲團ふとんめえとつたところなんだよ」おつぎは横合よこあひからいつた。
「うむ、さうだ、蒲團ふとんけえさなくつちやなんねえから」勘次かんじ獨語どくごして
「どうしたおとつゝあ、くすりつてちつたよかねえけ」かれまたしろ曝木綿さらしもめんていつた。
「うむ、まくらおつゝかるやうにつたからえゝこたえゝに」卯平うへいのいふのをきい勘次かんじいくらかほこりもつまたしろ木綿もめんた。
「おとつゝあ、べてえものでもねえけえ、明日あした川向かはむかうつてべとおもふんだ」勘次かんじはまだいくらかこゝろわだかまりがあるといふよりも、こそつぱいところらないやうでしかつとめて機嫌きげんをとるやうな容子ようすであつた。
「うむ」と卯平うへいはいつてつばきをぐつとんだ。
格別かくべつはあ、べてえつちものもねえが」かれにはまたあらためてやはらかなひかりつた。
「そんぢやおとつゝあ水飴みづあめでもつててやつたらよかつぺな、與吉よきかくしてけばなんでもんめえな」おつぎはさら卯平うへいかへりみて
「なあぢゝはうがよかつぺ」といひけた。卯平うへいしがめるやうなかすかに點頭うなづいた。
「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗ちやづけぢやわんつから茶碗ちやわんつてそれさ水飴みづあめえてなはしばつてう、さうすつとえゝや」
「さうでもなんでもすびやな」
「それに、明日あしたつたらまたくすりもらつてう、ぢいさもつてやんなくつちややうねえぞ」
はんねえでもくすりきいついてたのよ」勘次かんじはおつぎのいふのをむかへていた。かれの三尺帶じやくおびにはときもぎつとくゝつたかたまりがあつた。その財布さいふわづかたくはへはこの數日間すじつかんにどれほどかれすくつたかれなかつた。かれはまだいくらかの日用品にちようひんもとめる餘力よりよくいうしてた。かれ開墾かいこん賃錢ちんせんにすることが出來できればといふのぞみが十ぶんにあつた。たゞかれ目下いま幾部分いくぶぶんでも要求えうきうすることが、自分じぶんいた主人しゆじんうちたいしてとてくちにするだけの勇氣ゆうきおこされなかつたのである。

         二八

 勘次かんじ午餐過ひるすぎになつてそとた。紛糾こぐらかつたこゝろつてかれすこ俛首うなだれつつあるいた。あたゝかなひかりはたけつち處々ところ/″\さらりとかわかしはじめた。殊更ことさらがつかりしたやうにしをたれたくぬぎ枯葉かれはもからからにつた。すべての樹木じゆもくいきほひづいてた。村落むら處々ところ/″\にはまだすこしたけたやうなしろ辛夷こぶしが、にはかにぽつとひらいてあをそらにほか/\とうかんでたけこずゑしてた。たゞ蒿雀あをじふゆはるわきまへぬやうに、あたゝかい日南ひなたから隱氣いんきたけはやしもとめてひく小枝こえだわたつて下手へたきやうをして、さうして猶且やつぱり日南ひなたつちをぴよん/\とねた。すべてのこゝろあたゝかなひかりなかけてしまはねばならなかつた。
 勘次かんじ依然いぜんとして俛首うなだれたまゝつひとなり主人しゆじんもんくゞつた。燒趾やけあといしずゑとゞめて清潔きれいはらはれてあつた。中央ちうあうおほきかつた建物たてものうしなつてには喬木けうぼくかこまれてる。あかけたすぎひかへてからりとしたにはは、赤土あかつち斷崖だんがいそこしづんだやうにえる。あをそらかぎつてつた喬木けうぼくこずゑさらたかかんぜられた。勘次かんじおそろしい異常いじやうかんじにあつせられた。となり主人しゆじん家族かぞく長屋門ながやもんの一たゝみいてかり住居すまゐかたちづくつてた。主人夫婦しゆじんふうふ勘次かんじからは有繋さすが災厄さいやくあとみだれた容子ようすすこしも發見はつけんされなかつた。主人夫婦しゆじんふうふくもらぬかほ只管ひたすら恐怖きようふとらへられた勘次かんじくびもたげしめた。こと内儀かみさんのむかへて態度たいどが、かれのいひたかつた幾部分いくぶぶんやうやくにけしめた。
「お内儀かみさん、こらうんわりやうありあんせんね」かれあはれにこゑけた。かれ災厄さいやくのちにしみ/″\とういふことをいてくれるもの内儀かみさんのほかにはまだなかつたのである。
「そんだがれお内儀かみさんらあからなんぞにやつめあかだからわしなんざつれえもかなしいもねえはなしなんだが」かれ自分じぶん不運ふうんうつたへるのに、自分じぶんしんのことよりほか何物なにものこゝろ往來わうらいしてはなかつた。かれはふと自分じぶんいたことをおもつたときひど自分じぶんのことのみをいつてしまつたのがまないやうな心持こゝろもちがしてならなかつた。
「まあしいといへばかみまいでもなんだが、これ、うちぐにもてればつんだが、しいことをしたつてつてるのさ、それだがれもそんなことをつたつて仕方しかたがないがね」内儀かみさんは聳然すつくりたつてはるが到底たうてい枯死こしすべき運命うんめいつて喬木けうぼく數本すうほん端近はしぢか見上みあげていつた。とほけた劃然かつきりこずゑひかつた。勘次かんじかほあをくなつてぐつたりとあたまれた。かれしばら沈默ちんもくたもつた。
「どうしたね、わたしのつかないことをしてたが、おまへ丸燒まるやけやうあるまいがすこしはぜにでもつてくかね」内儀かみさんは勘次かんじこゝろ推察すゐさつしたやうにいつた。
「へえ」勘次かんじくびさらうなだれた。かれうるんだ。
「わしもはあ、そんならなんぼたすかるかもれあんせんが、お内儀かみさんとこささうつてわけにもがねえで」と勘次かんじみだれた頭髮かみてゝびるやうな容子ようすをしていつた。
「それだがおまへにやるくらゐならどうにかるから心配しんぱいしなくつてもいよ」
「わしもれ、ばちあたつたんでがせう、さうおもふよりほかりあんせんから」勘次かんじしばらあひだいて
「わしもかゝあこと因果いんぐわせてつみつくつたのりいんでがせう」かれこゑしづんだ。
「お内儀かみさん、わしどんななりにかうちてなくつちやなんねえから、そんとき家族うちきまりもつけべとおもつてんですが、お内儀かみさんまたわしこと面倒めんだうておくんなせえ、わし野郎やらうそのうちはあえかつてつから學校がくかうもあとちつとにして百姓ひやくしやうみつしら仕込しこむべとおもつてんでがすがね」
「さうかえ」内儀かみさんはなぐさめるやうにいつた。
「お内儀かみさん親不孝おやふかうだなんちな、おや警察けいさつへでもねがつてなけりや巡査じゆんさばかしぢやどうすることも出來できねえもんでござんせうかね」勘次かんじ先刻さつきからのはなしうちにもなんだかうしろからものおそはれるやうな容子ようすまなかつたがつひういつた。
「さうさね、巡査じゆんさだつて無闇むやみにどうかするといふこともないんだらうとおもふやうだがね」内儀かみさんは意外いぐわい面持おももちでいつた。
れからはあ、わしも爺樣ぢいさまこと面倒めんだうべとおもふんでがすがね、いまツからでもお内儀かみさん間合まにやあねえこたありあんすめえね」
「さうだよ、老人としよりなんていふものはすこしの加減かげんなんだから、まあ心配しんぱいさせないやうにしたはういよ、さういつちやなんだがあといくらもきるんぢやなしねえ」
「へえさうでがすよ、昨日等きのふらツからちつとやつけ言辭ことばけつとうるしがつてんですから、それからわし野郎やらうもらつて火傷やけどくすりつてやつたんでさ、くすりんなくつちやつたから醫者樣いしやさまつてべとおもつたつけが、今日けふ午後ひるすぎめえとおもふから明日あしたにすべとおもつてめたのせ、明日あしたつたら水飴みづあめでもつててやれなんておつうもふもんでがすからね」
火傷やけどしたなんていたつけがそれでもうちれててかね」
「へえ」勘次かんじ佛曉あけがたのことをどうしてか内儀かみさんがまだらぬらしいのでほつといきをついたがまた自分じぶんからぢて、簡單かんたん瞹昧あいまいういつた。
「お内儀かみさん、こうちつとでもよくねえぜにへえつちや末始終すゑしじうはどうしてもえゝこたありあんすめえね」勘次かんじさらにまたひど懸念けねんらしい容子ようすをして突然とつぜんいた。
「さうさねえ」内儀かみさんは勘次かんじ心持こゝろもち明瞭はつきりとはわからないのでらぬやうにいつた。
「そんだがお内儀かみさんさうえぜに自分じぶんのげやくてせえしなけりやどうしてもちげえあんすべえね」勘次かんじ内儀かみさんにわかつてもわからなくても、そんなことをかんがへる餘裕よゆうがなかつた。かれたゞ自分じぶん心配しんぱいだけをそこからふたからけてしまはねばへられなかつたのである。
「さうだが、それもどういふすぢぜにだかわからないがそりや使つかつちやいかないんだらうさね」
「そんぢやお内儀かみさん他人ひとぜになくしたのなんぞ發見めつけてもらねえ容子ふりなんぞして、あとんなつたてえでをかしときや、なんでかでおつことしただけものでもやればそれでもちげえあんすべね」勘次かんじすこ自分じぶんのいふことの内容ないようけるやうにいつた。
だまつてればそれつきりなんだが」かれひとりのどそこでいつた。
「そりやそんなことしないで發見みつけたものなら其儘そつくりかへすのが本當ほんたうだよ」内儀かみさんはこゑひくかつたがきつぱりいつた。勘次かんじまどうたこゝろそこにはそれがびりゝとつよひゞいた。
「そんぢやお内儀かみさんそれけえしてまたほかにもなんとかしたら冥利みやうりりいやうなこともりあんすめえな」かれなさけなげな内儀かみさんをちらりとていつた。
「そんなこたなくつたつてなにもよかりさうなもんだね」内儀かみさんは勘次かんじあまりに懸念けねんらしい容子ようすとうからこゝろづいたことがあつた。内儀かみさんはしばらかなかつたかれ盜癖たうへきおもいたつた。しかかれ自分じぶんからはなはだしくいつゝあるらしいのをこゝろたしかめてひては追求つゐきうしようといふ念慮ねんりよおこなかつた。勘次かんじたゞ不便ふびんえた。内儀かみさんはふとおもしてすこしばかりの銀貨ぎんくわ勘次かんじそばならべて
「そりやさうと、おまへ家族うちきまりをつけるつもりだつていふんだが、まあどうするつもりなんだね」としづかいた。
「さうでござんすね」勘次かんじはぐつたりと俛首うなだれて言辭ことばしりきとれぬほどであつた。ふかうれひ顏面かほしわつよきざんだ。
「わしもれ……」とかれかすかにいつたのみで沈默ちんもくつゞけた。かれ内儀かみさんのまへにどうしてものべなければならないことにそのこゝろ惑亂わくらんした。かれはぽうつとしてくらまうとした。とほぶやうでしかちかこゑためかれわれかへつたとき
「それぢやおまへ、まあこのぜにしまつたらどうだね」と内儀かみさんがうながしたのであつた。衷心ちうしんからこまつたやうなかれむかつて内儀かみさんはもう追求つゐきうするちからもたなかつた。
まことにどうもお内儀かみさん」かれ財布さいふおびからいてしたときひどつてしまつたやうにかんじて、財布さいふそとから一寸ちよつとくびかたぶけた。かれまた財布さいふそこぜにつかしてた。燒趾やけあとはひから青銅せいどうのやうにかはつた銅貨どうくわはぽつ/\とけたかはのこしてあざやかな地質ぢしつけてた。かれはそれをちかづけてしばら凝然ぢつ見入みいつた。かれこゝろづいたときにはかおそれたやうに内儀かみさんをふりかへつてじやらりとぜに財布さいふそこおとした。(完)


底本:「長塚節名作選 一」春陽堂書店
   1987(昭和62)年8月20日発行
底本の親本:「土」春陽堂
   1912(明治45)年5月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※『管(かま)あこたあ有(あ)んめえな」勘次(かんじ)はおつたが』は底本では『管(かま)あこたあ有(あ)んめえな勘次(かんじ)はおつ」たが』となっていますが、底本に付されていた正誤表によって改めました。
※ルビ抜けは底本通りにしました。
※底本には数多くの誤植が疑われる箇所や、新字・旧字の混在がありますが、編集者の方針「初版本を底本とし、長塚家所蔵の新聞切り抜きにある修訂本文をもって校合した。」を尊重し、ファイル作成にあたっては、上記編集部の正誤表による修正以外は、完全に底本通りとしました。また校異の類も一切付けませんでした。
なお、仮名遣いや新字・旧字の混在(「わらぢ」と「わらじ」、「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」]」と「姉」等)以外で誤植を疑った箇所は以下の通りです。1912(明治45)年5月15日春陽堂発行の「土」(参照したのは1974(昭和49)年1月1日近代文学館発行の復刻本)では「【】」の中の矢印の後ろの形になっていました。
○p13-12自分(じふん)の【じふん→じぶん】 ○p16-14遺(や)つた。【遺→遣】 ○p17-8一燻(いとく)べ【いとく→ひとく】 ○p17-13頻(ほゝ)【頻→頬】 ○p27-15遙(はろか)に【はろか→はるか】 ○p27-15手拭(てねぐひ)【てねぐひ→てぬぐひ】 ○p28-1村(なら)【なら→むら】 ○p31-14おうつ【→おつう】 ○p35-11擔(かつ)いて【いて→いで】 ○p38-11地(ち)べた【ち→ぢ】 ○p44-4喰(そ)の【喰→其】 ○p44-9釘附(くきづけ)【くき→くぎ】 ○p49-10喚(よ)んた【た→だ】 ○p50-12取(と)り取(あへ)ず【取(あへ)→敢(あへ)】 ○p57-1死(し)んちまあなんて【ち→ぢ】 ○p60-13音信(おどづれ)【ど→と】 ○p62-7ばんやりとして【ば→ぼ】 ○p81-5一且(たん)【且→旦】 ○p95-15冬懇(ふゆばり)【懇→墾】 ○p102-13峙(そばた)てゝ【そばた→そばだ】 ○p106-15逡巡(ぐつ/\)【ぐつ→ぐづ】 ○p119-8上(のば)つたのである。【ば→ぼ】 ○p123-5一方(ぼう)には【ばう→ぱう】 ○p125-1暮(あつ)い【暮→暑】 ○p138-11到頭(たう/\)【たう/\→たうとう】 ○p157-3有繋(まさが)【まさが→まさか】 ○p157-8積(つむり)【つむり→つもり】 ○p157-14何(なん)だが【だが→だか】 ○p162-1、p162-2破壤(はくわい)【壤→壞】 ○p162-4快(こゝよ)よい【こゝよ→こゝろ】 ○p164-14猶旦(やつぱり)【旦→且】 ○p166-4默託(もくきよ)【託→許】 ○p168-7疊(た々み)【々→ゝ】 ○p171-2、p193-11、p203-10次(つき)【つき→つぎ】 ○p172-7(もき)らせる【もき→もぎ】 ○p174-1簟笥(たんす)【簟→箪】 ○p175-7氣遺(きづか)ふ【遺→遣】 ○p176-13、p187-2、p221-7五月繩(うるさ)い【繩→蠅】 ○p178-1そつちからもこつらからも【こつら→こつち】 ○p182-3沒(く)まれた。【沒→汲】 ○p183-2掛(かけ)けた。【《かけ》→《か》】 ○p185-13出(て)たがんだから【《て》→《で》】 ○p192-15忌々敷(いま/\しく)くても【《いま/\しく》→《いま/\し》】 ○p195-1、p195-3麥(むき)【き→ぎ】 ○p195-3跟(あと)【跟→趾】 ○p195-10限(かき)り【かき→かぎ》】 ○p203-13幾抔(いくはい)【抔→杯】 ○p207-9狗(いね)ころ【ね→ぬ】 ○p217-3有撃(まさか)【撃→繋】 ○p225-1三度(と)【と→ど】 ○p225-11句切(くきり)【き→ぎ】 ○p226-10拂(か)けて【拂→掛】 ○p227-9手拭(てぬげ)【ぬ→ね】 ○p229-10、p229-12檐(かつ)いで【檐→擔】 ○p237-4、p239-14僂痲質斯(レウマチス)【痲→麻】 ○p248-1書藉(しよせき)【藉→籍】 ○p253-7冷(ひやゝ)が【が→か】 ○p255-5壤(こは)れた【壤→壞】 ○p256-1睡(つば)【睡→唾】 ○p267-2膳(つくろ)つて【膳→繕】 ○p269-8氣藥(きらく)【藥→樂】 ○p269-14懷(いど)いては【いど→いだ】 ○p274-2陸(むつ)まじ相【陸→睦】 ○p275-8調子(てうし)て【》て→》で】 ○p277-1始終(しじゆ)【しじゆ→しじう】 ○p293-10動(うが)かないので【うが→うご】 ○p295-13崩壤(ほうくわい)【壤→壞】 ○p301-12成(なつ)つた【《なつ》→《な》】 ○p302-2小(すこ)し【小→少】 ○p310-9洪水後(こうずゐじ)【じ→ご】 ○p312-1終(た)えず【終→絶】 ○p312-9仕(あ)る【仕→在】 ○p316-9鳴咽(をえつ)【鳴→嗚】 ○p325-10加(い)い加減【加(い)→好(い)】 ○p326-11空(むね)しく【むね→むな】 ○p327-10一齊(もい)に【もい→せい】 ○p340-3惚菜(そうざい)【惚→惣】 ○p341-8長(は)つた【長→張】 ○p344-8俺(おほ)うた。【俺→掩】 ○p344-11訓(な)れて【訓→馴】 ○p350-10氣日(まいんち)【氣→毎】 ○p350-13威勢(ゐぜい)【ゐぜい→ゐせい】 ○p351-6崇(とつつか)れ【崇→祟】 ○p354-14輸※(かちまけ)[#「羸」の「羊」に代えて「果」、354-14]【※[#「羸」の「羊」に代えて「果」]→贏】 ○p355-2女房(はようばう)【は→に】 ○p357-5口(たゞ)獨(ひと)りで【口→只】 ○p358-14措(を)しがる【措→惜】 ○p371-4沿(あ)びせる、p378-14沿(あ)びた【沿→浴】 ○p374-13蹲裾(うづくま)つた。【裾→踞】 ○p375-2火箸(ひばし)の光(さき)で【光→先】 ○p375-3深(さが)して【深→探】 ○p382-2掩(お)うて【お→おほ】 ○p385-4丈夫(ちやうぶ)な【ち→ぢ】 ○p387-1掻(か)つ拂(ば)かう【ば→ぱ】 ○p395-7乞食野郎奴(こちきやらうめ)【ち→じ】 ○p405-7彼(つか)れて【彼→疲】 ○p407-14作日等(きのふら)【作→昨】 ○p408-1覺(おべ)えてからだつで【だつで→だつて】 ○p414-9佛曉(あけがた)【佛→拂】
入力:町野修三
校正:小林繁雄
2004年11月7日作成
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