ふしぎなことがある。
 左膳がこの焼け跡へかけつけたとき、いろいろと彼が、火事の模様などをきいた町人風の男があった。
 そのほか。
 近所の者らしい百姓風や商人体が、焼け跡をとりまいて、ワイワイと言っていたが。
 この客人大権現まろうどだいごんげんの森を出はずれ、銀のうろこを浮かべたような、さむざむしい三方子川さんぼうしがわをすこし上流にさかのぼったところ、小高い丘のかげに、一軒の物置小屋がある。
 近くの農家が、収穫とりいれどきに共同に穀物でも入れておくところらしいが……。
 空いっぱいにあかねの色が流れて、小寒い烏の声が二つ三つ、ななめに夕やけをつっきって啼きわたるころ。
 夕方を待っていたかのように、そのわら屋根の小屋に、ポツンと灯がともって、広くもない土間に農具の立てかけてあるのを片づけ、人影がザワザワしている。
「イヤ、これで仕事は成就したも同様じゃ。強いだけで知恵のたらぬ伊賀の暴れン坊、今ごろは、三方子川の水の冷たさをつくづく思い知ったであろうよ、ワッハッハ」
 と、その同勢の真ん中、むしろの上にあぐらをかいて、牛のような巨体をゆるがせているのは、思いきや、あの司馬道場の師範代、峰丹波みねたんば
「ほんとうにむごたらしいけれど、敵味方とわかれてみれば、これもしかたがないねえ」
 大きな丹波の肩にかくれて、見えなかったが、こう言って溜息をついたのは、お蓮様である。
 取りまく不知火しらぬい連中の中から、誰かが、
「ムフフ、御後室様はいまだにあの源三郎のことを……」
 お蓮様は、さびしそうな笑顔を、その声の来たうす暗いほうへ向けて、
「何を言うんです。剣で殺されるのなら、伊賀の暴れン坊も本望だろうけれど、お前達の中に誰一人、あの源様に歯のたつ者はないものだから、しょうことなしに、おとし穴の水責め……さぞ源さまはおくやしかろうと、わたしはそれを言っているだけさ」
「そうです」
 と丹波は、ニヤニヤ笑いながら一同へ、
「お蓮様は武士道の本義から、伊賀の源三に御同情なさっているだけのことだ。よけいな口をたたくものではない」
 と、わざとらしいたしなめ顔。
「そこへ、あの丹下左膳という無法者まで、飛びこんできて、頼まれもしないのに穴へ落ちてくれたのだから、当方にとっては、これこそまさに一石二鳥――」
 みなは思い思いに語をつづけて、
「もうこれで、問題のすべては片づいたというものだ。今ごろは二人で、穴の中の水底であがいているであろう」
 両手で顔をおおったお蓮さまを、ジロリと見やって、
「サア、これで夜中を待って、上からあのおとし穴をうめてしまうだけのことだ」
「何百年か後の世に、江戸の町がのびて、あの辺も町家つづきになり、地ならしでもすることがあれば、昔の三方子川という流れの下から、二つの白骨がだきあって発見さるるであろう、アハハハ」
 いい気で話しあっているこの連中を、よく見ると、みなあの焼け跡の近所をウロウロしていた農夫や、町人どもで、あれはすべて司馬道場の弟子の扮装だったのだ。それとなく火事の跡のようすを偵察していたものとみえる。
「サア、酒がきたぞ」
 大声とともに、一升徳利をいくつもかかえこんで、このとき、納屋へかけこんできた者がある。

 見ると、左膳に火事のことなどを話したあの町人である。
 酒を買いにいって、いま帰ったところだ。
「サア、おのおの方、これにて祝盃をあげ、深夜を待つといたそう」
 と言う彼の口調は、姿に似げなく、侍のことばだ。
 これも、司馬道場の一人なのである。
 一同は歓声をあげて、そこここにわりあてられた徳利を中心に、いくつとなく車座をつくって飲みはじめる。
 いつのまにか、浅黄色の宵闇がしのびよっていた。こころきいた者の点じた蝋燭ろうそくの灯が、大勢の影法師をユラユラと壁にもつれさせる。
 皆の心がシーンとなると、とたんに、言いあわせたように胸に浮かんでくるのは、あの、自分らが誤って斬り殺し、それを焼け跡へ放置して、源三郎と見せかけた仲間の死骸。
 かたわらにころがしておいたのは、名もない茶壺で、ほんとうのこけ猿の茶壺は、とうに峰丹波の手におさめ、本郷の屋敷に安置してある……。
 と思うから、丹波は上機嫌だが、その壺が早くもあの門之丞によって盗み出され、又その門之丞が斬りたおされて、壺はすでに左膳のもとへ――。
 その左膳の手へうつった壺もお藤姐御のために、通りすがりの屑屋へおはらいものになって。
 今は?
 どこにあるかわからない。
 ……とは、峰丹波、知らなかった。
 計略が図に当たって、源三郎をわなへ落としこんだのみならず、何かと邪魔になる丹下左膳まで、飛んで火に入る夏の虫、自分から御丁寧にも、その穴へ飛びこんでくれたのだから、これこそほんとうに一網打尽もうだじんである。
 このうえは。
 深夜までここにじっとしていて世間の寝しずまるのを待ち、一同で手早く、地面から地下へ通ずるあの三尺ほどの竪坑たてあなを埋めてしまえばいい。
 そうすれば。
 人相も知れないほどに焼けただれた、あの若侍の死骸と、壺を、源三郎とこけ猿ということにして、本郷の道場へ持って帰る。
 もうその手はずがすっかりととのって、いま、この納屋の一隅には、白布をきせたその焼死体と、焼けた茶壺とが、うやうやしく置いてあるのだ。
 峰丹波、今宵ほど酒のうまいことのなかったのも、むりはない。
 狭い物置小屋に、一本蝋燭の灯が、筑紫つくし不知火しらぬいとも燃えて、若侍の快談、爆笑……。
 さては、真っ赤に染めあがった丹波の笑顔。
 だが、その祝酒の真ん中にあって、お蓮様だけは、打ち沈んだ表情かおを隠しえなかったのは、道場を乗っ取るためとはいいながら、かわいい男をだまし討ちにした自責の念にかられていたのであろう。
 すると――。
 この騒ぎのきれ目切れ目に、どこからともなく風に乗って聞こえてくるのは、異様な子供のさけび声。
ちゃん?……父上ちちうえ! 父上!」
 一同は、フト鳴りをしずめた。
「まだ吠えておるゾ。かの餓鬼め!」
 だれかが歯ぎしりしたとき、ふたたび、悲しそうなチョビ安の声が夜風にただよって――。
「父上! 聞こえないのかい? 父上!」

 遠くのチョビ安の声に、鳴りをしずめて聞きいっていた不知火の連中は、
「伊賀のやつらは、あの子供をそのままにして行ってしまったとみえるな」
「ウム、いかに連れ去ろうとしても、あの、左膳の落ちた穴のまわりにへばりついておって、どうしても離れようとせんのだ。だいぶ手古摺てこずっておったようだが」
「そこへ、町人体に姿をやつした拙者らが、弥次馬顔に出かけていって、斬りあいを聞きつけて役人どもが、出かけてくるところだと言いふらしたら、かかりあいになるのを恐れて、そのまま逃げちっていった。アハハハハハ」
 まったく。
 高大之進こうだいのしん尚兵館組しょうへいかんぐみと、結城左京ゆうきさきょう等の道場立てこもりの一統とは、底も知れない穴へ左膳がおちこんだのをこれ幸いと、泣きさけぶチョビ安をそのままに、そうそう引きあげてしまったのだ。
 この物置小屋から出ていった司馬道場の弟子どもが、町人、百姓姿の口々から、役人きたるとさけんだのに驚いて。
 また、その左膳のおちた地中に、自分らの探しもとめる主君柳生源三郎が、同じくとじこめられていようとは、夢にも知らずに。
「父上! あがってこられない? 父上!」
 と、それからチョビ安は、こう叫びつづけて、穴の周囲を駈けてまわっているうちに。
 めっきり長くなった日も、ようやく夕方に近づき、三方子川の川波からたちのぼる薄紫の夕闇。
 穴は、ポッカリ地上に口をひらいて、暗黒やみをすいこんでいるばかり……のぞいてよばわっても、なんの答えあらばこそ。
 子供の力では、どうすることもできないのだ。
ちゃん! ああ、どうしたらいいだろうなア」
 チョビ安は気がふれたように、地団駄じだんだをふむだけだ。
 とやかくするうちに――はや、夜。
「むこうの森の権現さん
ちょいときくから教えておくれ
あたいのちゃんはどこへ行った……」
 うらさびしい唄声が、夜風に吹きちらされて、あたりの木立ちへこだまする。
「ほんとに、あたいほど不運な者があるだろうか。産みのちゃんやおふくろの顔は知らず、遠い伊賀の国の生れだということだけをたよりに、こうして江戸へ出て――」
 チョビ安、穴のふちに小さな膝ッ小僧をだいてすわりながら、自分を相手にかきくどく言葉も、いつしか、幼い涙に乱れるのだった。
「こうして江戸へ出て、そのちゃんやおふくろを探していたが、なんの目鼻もつかず、そのうちに、この丹下左膳てエ乞食のお侍さんを、仮りの父上と呼ぶことにはなったものの、その父上も、とうとう穴の中に埋められてしまっちゃア、もぐらの性でねえかぎり、どうも助かる見込みはあるめえ」
 ちょうどチョビ安が、こんな述懐にふけっている最中。
 ここをいささか離れた森かげの納屋では、峰丹波の下知で、いよいよ夜中の仕事にとりかかることになった。
 一同は二手にわかれた。丹波とお蓮様は数名の者に、源三郎の身がわりの死骸なきがらをかつがせて、泣きの涙の体よろしく、ここからただちに本郷妻恋坂の司馬道場へ帰る。
 ほかの連中が、小屋にある農具を手に、大急ぎで、あの左膳と源三郎の穴を埋めてしまおうというので。

「ほんとに、おめえみたいに親不孝な者ったら、ありゃアしない。その年になって嫁ももらわず、いくら屑屋くずやだからって、親一人子ひとりの母親を、こんな、反古ほごやボロッ切れや、古金なんかと同居さしといてサ、自分は平気で暇さえあれァ、そうやって酒ばっかりくらっていやアがる」
 ボーッと灯のにじむ油障子の中路地のなかの一軒に、いきなり、こう老婆のののしる声がわいた。
 ここはどこ?
 と、きくまでもなく。
 浅草あさくさ竜泉寺りゅうせんじ、お江戸名所はトンガリ長屋。
 その、とんがり長屋の奥に住む、屑竹くずたけという若い屑屋のうちだ。
 母ひとり子ひとりというとおり、いま、こうたんかをきったお兼というお婆さんは、この屑竹の母親なのだ。
 六畳一間ほどの家に、およそ人間の知識で考えられるかぎりの、ありとあらゆるガラクタが積まれて、……古紙、雑巾ぞうきんにもならない古着、古かもじ、焚きつけになる運命の古机、古文箱。
 古いおひつには、古い足袋たびがギッシリつまり、古いだるの横に、古い張り板が立てかけてある始末。
 身の置きどころ、足の踏み立て場もない。
 室内のすべてのものには、上に古という字がつくのだ。
 お兼婆さんも、まさに、その古の字のつく一人で、古い長火鉢の前に、古い煙管きせるを斜に構えて、
「商売に出たら最後、途中で酔っぱらって、三日も四日も家へ寄りつきゃアしない。この極道者めがッ! おふくろなんか、鼠に引かれてもかまわないっていうのかい」
 この怒号の対象たる屑竹は?
 と見ると。
 やっと二畳ほどのぞいている古だたみの真ん中に、あおむけにひっくりかえって、酒臭い息、ムニャムニャ言っている。
 二、三日前、籠を背負って、
「屑イ、屑イ、お払い物はございやせんか」
 と、駒形のほうへ出て行ったきり、この夜中に、やっと家を思いだしたようにブラリと帰って来たところだ。
 ほかには道楽はなし、邪気のない男だが、若いくせに、大の酒ッくらいなんだ、この屑竹は。
 おっかさんがおこるのも、むりはないので。
「そうして、帰ってくるかと思うと、私の言うことなんか馬の耳に念仏で、そうやって大の字なりの高いびきだ……よし! 今日は一つ、泰軒先生に申しあげて、じっくり意見をしてもらいましょう」
 と、たちあがったお兼婆さん、
「いま、泰軒先生を呼んでくるから、逃げかくれするんじゃないよ」
「ヘン! 逃げたくったッて、足腰が立たねえや。自慢じゃアねえが、宵から三升も飲んだんだ」
「マア、ほんとに、あきれて口がきけやアしない。母親を乾干しにしておいて、自分はそんなに酒をくらって歩くなんて」
 憤然として、入口の土間に下り立ったお兼婆さん、暗がりをまたいでかけ出す拍子に、
「オ痛タタタタタ!」
 何やらけつまづいたようす。
「なんだい! こんなところへこんなものころがしといて! 危いじゃないか。オヤ、茶壺だね。マア、うすぎたない茶壺だよ」
 下駄でイヤというほど蹴っておいて、お兼は、どぶ板をならして家を出た。

 これはいったい、どうしたというのだ。
 おなじトンガリ長屋の、作爺さんの家だ。
 土間から表へかけて、いっぱいに下駄がはみ出したところは、縁起えんぎでもないが、まるでお通夜のようだと言いたい景色。
 家の中には、例の泰軒居士を取りまいて、長屋の男、女、お爺さん、お婆さん、青年や若い女が、ギッシリすわって、作爺さんは、出もしない茶がらをしぼって、茶をすすめるのにいそがしい。
 かわいい稚児輪ちごわのお美夜ちゃんがねむそうな眼をして、それをいちいち配っている。
「だから、じゃ――」
 と、泰軒先生は、あいかわらず、肩につぎのあたった縦縞の長半纏ながばんてん、襟元に胸毛をのぞかせて、部屋のまん中にすわっている。合総がっそうの頭をユラリとさせて、かつぎ八百屋やおやをしている長屋の若者のほうを、ふり向いた。
「だからじゃ。そのお町という女に実意があれば、どんなに質屋の隠居が墾望しようと、また父親てておや母親おふくろがすすめようとも、さような、妾の口などは振りきって、おまえのところへ来るはずじゃが」
 先生は、チラと若者を見て、
「お町さんの家は、そんなに困っておるというのでもなかろうが」
「ヘエ、この先の豆腐屋とうふやで、もっとも、裕福というわけじゃアござんせんが、ナニ、その日に困るというほどじゃあねえので」
「しかるにお町坊は、家を助けるという口実のもとに、その伊勢屋の隠居のもとへ温石おんじゃくがわりの奉公に出ようというのだな」
「へえ、あんなに言いかわした、このあっしを袖にして……ちくしょうッ!」
 若い八百屋は、拳固の背中で悲憤の涙をぬぐっている。
「コレ、泣くな、みっともない。お前の話で、そのお町という女の気立てはよく読めた。そんな女は、思い切ってしまえ」
「ソ、その、思い切ることができねえので」
「ナアニ、お町以上の女房を見つけて、見返してやるつもりで、せっせとかせぐがいい。おれがおまえならそうする」
「エ? 先生があっしなら――」
 と八百屋の青年は、急にいきいきと問い返した。泰軒先生はニッコリしながら、
「ウム、おれがおまえなら、そうするなア。金に眼のくれる女なら伊勢屋に負けねえ財産を作って、その女をくやしがらせてやる」
「よし!」
 と八百屋は、歯がみをして、
「あっしも江戸ッ子だ。スッパリあきらめやした。あきらめて働きやす……へえ、かせぎやす」
「オオ、その気になってくれたら、わしも相談にのりがいがあったというものじゃ。サア、次ッ!」
「アノ、泰軒様――」
 と、細い声を出したのが、前列にすわっている赤い手柄の丸髷まるまげだ。とんがり長屋にはめずらしい、色っぽい存在。
 一と月ほど前に、吉原なかねんがあけて、この二、三軒先の付木屋つけぎやの息子といっしょになったばかりの、これでも花恥ずかしい花嫁さま。
「お前さんの番か。なんじゃ」
「アノ、あたしは一生懸命につとめているつもりですけれど、お姑さんの気にいらなくて、毎日つらい朝夕を送っていますけれど――」
 泰軒先生ケロリとして、
「ふん、そのようすじゃア、お姑さんの気にいらねえのはあたりまえだ。自分では勤めているつもりですけれど……と、その、けれどが、わしにも気にいらねえ」
 こうして毎日夜になると、泰軒先生の家は、このトンガリ長屋の人事相談所。

 付木屋の花嫁は、たちまち柳眉をさかだてて、
「あら、こんなことだろうと思ったよ。年寄りは年寄り同士、泰軒さんもチラホラ白髪がはえているもんだから、一も二もなくお姑さんの肩をもって」
「コレコレ、そういう心掛けだから、おもしろくないのだ。老人は先が短いもの、ときにはむりを言うのもむりではないと考えたら、お姑さんのむりがむりじゃなく聞こえるだろう」
「だって、うちのお姑さんたら、何かといえば、あたしのことをくるわあがりだからと――」
「そう言われめえと思ったら、マア、いまわしの言ったことをよく考えて、お姑さんの言うむりをむりと聞かないような修行をしなさい。そのうちには、お前さんからもむりのひとつも言いたくなる。そのおまえさんのむりもむりではなくなる。何を言っても、むりがむりでなくなれば、一家ははじめて平隠へいおんじゃ、ハハハハ。おわかりかな」
「わちきには、お経のようにしか聞こえないよ」
わちきたナ。マア、よい。明日の晩、亭主をよこしなさい。さア、つぎッ!」
「先生ッ!」
 がねのような声。グイと握った二つ折りの手拭で、ヒョイと鼻の頭をこすりながら、このとき膝をすすめたのは、長屋の入口に陣どっている左官さかんの伝次だ。
「今夜は一つ、先生に白黒をつけておもらいしてえと思いやしてね。この禿茶瓶はげちゃびんが、しゃくに触わってたまらねえんだ。ヤイッ! 前へ出ろ、前へ!」
「こんな乱暴なやつは、見たことがねえ。泰軒先生、わっしからもお願いします。裁きをつけてもらいてえもんで」
 負けずに横合いからのり出したは、その伝次の隣家となりに住んでいる独身者ひとりもののおじいさんで。
「先生も御承知のとおり、わっしは生得しょうとくいぬねこがすきでごぜえやして……」
 じっさいこのお爺さん、自分で言うとおり、犬や猫がすきで、商売は絵草紙売りなのだが、かせぎに出ることなど月に何日というくらい、毎日のように、そこらの町じゅうの捨て猫やら捨て犬をひろってきて、自分の食うものも食わずに養っているのだが。
 それがこのごろでは、猫が十六匹、犬が十二匹という盛大ぶり。
 犬猫のお爺さんでとおっている、とんがり長屋の変り者だ。
「そっちは好きでやっていることだろうが、隣に住むあっしどもは災難だ。夜っぴて、ニャアンニャアンワンワン吠えくさって、餓鬼は虫をかぶる、産前のかかアは血の道をあげるという騒ぎだ。あっしゃアこの親爺のところへ、何度となくどなりこんだんだが……」
「わが家の中で、おれがかってなことをするに、手前てめえにとやかく言われるいわれはねえ」
「何をッ! われが好きなことなら、人の迷惑になってもかまわねえと言うのかッ」
「マア、待て!」
 と泰軒先生は、大きな手をひろげて、二人をへだてながら、
「これは爺さんに、すこし遠慮してもらわなくッちゃならねえようだ。人間は近所合壁きんじょがっぺき、いっしょに住む。なア、いかに好きな道でも、度をはずしては……」
「泰軒先生ッ! 屑竹くずたけの婆あが、お願いがあって参じました」
 お兼婆さんの大声が、土間口から――。

「そら、見ろ!」
 と左官さかんの伝次が犬猫の爺さんをきめつけたとき、
「先生様ッ! ちょっと自宅うちへ来てくださいッ。竹の野郎が、また酔っぱらって来て」
 叫びながら、人をかきわけて飛びこんできたお兼婆さん、いきなり泰軒先生の手をとって、遮二無二しゃにむに引きたてた。
 大は、まず小より始める。
 富士の山も、ふもとの一歩から登りはじめる……という言葉がある。
 日本の世直しのためには、まずこの江戸の人心から改めねばならぬ。
 それには、第一に、この身辺のとんがり長屋の人気を、美しいものにしなければならない。
 と、そう思いたった泰軒先生。
 乞われるままに、長屋の人々の身の上相談にのっているうちに、いつしか、毎夜こうして、先生が居候いそうろうをきめこんでいるこの作爺さんの家には、とんがり長屋の連中が、煩悶、不平、争論の大小すべてを持ちこんできて、押すな押すなのにぎやかさ。
 嫁と姑の喧嘩から、旅立ちの相談、恋の悩み、金儲けの方法、良人おっとにすてられた女房の嘆き……いっさいがっさい。
 それをまた泰軒先生、片っぱしから道を説いて、解決してやるのだった。
 まるで、この人事相談が蒲生泰軒の職業のようになってしまったが、むろん代金をとるわけではない。
 だが。
 淳朴じゅんぼくな長屋の人達は、先生に御厄介をかけているというので、芋が煮えたといっては持ってくるしぎはぎだらけのどてらを仕立ててささげてくる者もあれば……早い話が、泰軒先生にはつきものの例の貧乏徳利びんぼうどくりだ。
 あれは、このごろちっともからになったことがない。
 と言って、先生が自分で銭を出して買うわけではないので。
 知らぬまに長屋の連中が、お礼心に、そっと酒をつめておいてくれる――。
 泰軒先生、このとんがり長屋に来て、はじめて美しい人情を味わい、世はまだ末ではない。ここに、新しい時代をつくりだす隠れた力があると、考えたのだった。
 近ごろでは、トンガリ長屋ばかりでなく、遠く聞き伝えてあちこちから、思いあぐんだ苦しみや、途方にくれた世路艱難かんなんの十字路、右せんか左せんかに迷って、とんがり長屋の王様泰軒先生のところへかつぎこんでくる。
 先生が来てから、長屋のふうは、一変したのだった。
 眼に見えるところだけでも、路地には、紙屑一つ散らばっていないようになり、どぶ板には、いつもほうきの目に打ち水――以前の、大掃除のあとのようなとんがり長屋の景色からみると、まるで隔世の感がある。
 何かというと、眼に角たてた長屋の連中も、このごろでは、
「おはようございます」
「どうもよいお天気で――何か手前にできます御用があったら、どうかおっしゃってくださいまし」
 などと、挨拶しあうありさま。
 徳化。
 その泰軒先生、いま、お兼婆さんにグングン手を引っぱられて、屑竹くずたけの住居へやってきた。

「酒は飲むのもよいが、盃の中に、このおふくろの顔を思い浮かべて飲むようにいたせ。いい若い者が、酒を飲むどころか、酒に飲まれてしもうて、そのていたらくはなにごとじゃッ」
 先生の大喝に、屑竹はヒョックリ起きあがり、長半纏ながばんてんの裾で、ならべた膝をつつみこみ、ちぢみあがっている。
 もうこれでいいだろう……と、チラと母親へ微笑を投げた泰軒、
「ほんとに先生、御足労をおかけしまして、ありがとうございました。これで竹の野郎も、どうにか性根を取りもどすでしょう。どうもお世話さまで――」
 と言うお兼婆さんのくどくどした礼を背中に聞いて、出口へさしかかると、
「オヤ……?」
 と歩をとめて、先生、足もとの土間の隅をのぞきこんだ。
「なんじゃ、これは、茶壺ではないか」
 つぶやきつつ、手に取りあげ、灯にすかしてジッとみつめていたが、「ウーム」と泰軒、うなりだした。
「ううむ、きたない壺だな。こんなきたない壺が、このとんがり長屋にあっては、長屋の不名誉じゃ。イヤ、眼ざわりになる。じつにどうも、古いきたない壺だナ」
 と、変なことを言いながら、平然として、上りがまちの屑竹をかえりみ、
「竹さん、貴公、どうしてこの壺を手にいれられたかな?」
 また叱られるのかと、屑竹はビクビクしながら、
「ヘエ、まったくどうも、こぎたねえ壺で、申しわけございません」
「イヤ、そうあやまらんでもよろしい。どこで、この壺をひろってこられたか」
「いえ、ひろってきたわけではないので。駒形の高麗屋敷の、とある横町を屑イ、屑イと流していますと、おつな年増が、チョイト屑屋さん……」
「コレコレ、仮声こわいろは抜きでよろしい」
「恐れ入ります。すると、その姐さんが、これはあまりきたねえ壺で、見ていてもしゃくにさわってくるから、どうぞ屑屋さん、無代ただで持って行っておくれと――」
「駒形の高麗屋敷?」
 と泰軒は、瞬間、真剣な顔で小首をひねったが、すぐ笑顔にもどり、
「イヤ、そうであろう。誰とても、このよごれた壺をながめておると、胸が悪くなる。こんな不潔な壺を長屋へ置くことはできん。竹さん、わしはこの壺をもらっていって、裏のどぶッ川へ捨てようと思うが、異存はないであろうな?」
「異存のなんのって、どうぞ先生、お持ちなすって、打ちこわすなり、すてるなり……ふてえ壺だ」
 と竹さん、母親のおかげで、泰軒先生に叱られたうっぷんを、土間の茶壺にもらしている。
「では、これなる不潔な壺、ひっくくってまいるぞ」
 泰軒先生は笑い声を残して、その壺を気味悪そうにさげながら屑竹の土間から一歩路地へふみ出たが。
 同時に、その表情かおは別人のように、緊張した。
 長屋の洩れ灯に、だいじそうにかかえた壺をうち見やりつつ、
「こけ猿よ、とうとう吾輩わがはいの手に来たナ。お前は知らずに、世にあらゆる災厄を流しておる。サ、もうどこへもやらんぞ、アハハハハハ」

「わしは、日夜何者か見張りのついておるからだだ。今宵一夜といえども、この壺を手もとに置くことはできぬ。それに、待っておる者に渡して、はよう喜ばしてもやりたいし――」
 ひとりごちた泰軒は、壺をさげて作爺さんの家へもどりながら、とほうにくれたのである。
 というのは。
 誰にこの壺を持たしてやろう?
 作爺さんは、いつぞやの病気以来、足腰あしこしの立たない人間になってしまった。はって、家の中のことだけはできるけれど。
 とつおいつ思案して、路地をぶらぶら歩いてくるとたん。
 とんがり長屋の角に、一丁の夜駕籠がとまったかと思うと、
だいは今やる。ちょっと待ってくんねえ」
 例によって大人おとなびた幼声は、まぎれもないチョビ安。
 とんぼ頭を垂れからのぞかせて、駕籠を出るが早いか、眼ざとく路地の泰軒先生を見つけたとみえて、
「オウ、お美夜ちゃんとこの居候いそうろうじゃアねえか」
 バタバタかけよって、
「オイ、イソ的の小父おじさん、駕籠賃をはらってくんな。酒代さかてもたんまりやってな」
 と呼吸いきをはずませている。
 泰軒先生は、星の輝く夜空を仰いで、わらった。
「ワッハッハ、子供か大人かわからねえやつ……貴様は、あの丹下左膳の小姓であったナ」
「ウム、その父上左膳のことで来たんだ。とにかく居候の小父ちゃん、銭を出して、あの駕籠屋をけえしてくんなよ」
 だが、それはむりで、泰軒先生にお金があれば、左膳に右手がある。
 しかし、血相を変えているチョビ安のようすが、ただごとでないので、泰軒先生の一声に応じ、長屋の誰かれが小銭を出しあって、チョビ安の駕籠賃をはらってやった。
 この駕籠は。
 チョビ安、さきごろからこのお美夜ちゃんの家にいる泰軒先生を思い出して、この場合、その助力を借りようと思いたつが早いか、あの司馬寮の焼け跡から、通りかかった辻駕籠をひろい、一散にとばしてきたもので。
 ふところに小石を入れてふくらまし、
「金はこのとおり、いくらでも持っている。酒代も惜しみはせぬぞヨ」
 などとチョビ安、例の調子で、ポンと胸をたたいたりして見せたものだから、子供一人の夜歩き、駕籠屋はたぶんにいぶかりながらも、ここまで乗せて来たのだった。
「それで小父ちゃん、おいらが、その、父上の落ちた穴のまわりにうろついていると、夜になって、町人やら百姓のかっこうをしたやつらが、すきくわを持ってやってきて、おいらを押しのけて、ドンドン穴を埋めようとするじゃアねえか。多勢たぜい無勢ぶぜい、あたいはスタコラ逃げ出して、駕籠でここへとんできたわけだが、もう穴は埋まったに相違ねえ。ねえ小父ちゃん。お前はとっても強い人だって、丹下の父上が始終しじゅう言っていたよ。どうぞ後生だから、おいらといっしょに現場へいって、父上を助けておくれでないか。よウ、よウ! 拝むから」
 小さな顔を真っ赤に、涙を流して頼むチョビ安を、じっと見おろしていた泰軒居士、
「ナニ? 左膳が生きうめに? それは惜しい。使いようによっては、使える男だ。よし! 心配するな。小父ちゃんが行って助けてやろう」

 けれど、この壺である。
 こけ猿の茶壺を片手に、蒲生泰軒、考えこんでいると、それに眼をつけたチョビ安、頓狂声とんきょうごえをあげて、
「ヤア、あたいと父上が、一生懸命にまもってきた壺。こないだちゃんが、どこからか持ってきたのに、どうしてここにあるんだい」
「シッ! 大きな声を出すな。この壺は、それとは違う」
「イヤ、同じ壺だ。あたいには、ちゃんと見おぼえがあらア」
「これ、この壺のことをかれこれ申すなら、左膳を助けに行ってはやらぬぞ」
「アラ、チョビ安さんだわ。チョビさんだわ」
 声を聞きつけたお美夜ちゃんが、家から走り出て来て、
「安さん! あんた、まあ、よく帰ってきたわねえ」
「オウ、お美夜ちゃんか。会いたかった、見たかった」
 なんかとチョビ安、いっぱしのことを言って、お美夜ちゃんの手をとろうとすると、ハッと何事か思いついた泰軒先生、
「コラコラ、チョビ安とやら、ただいまはそんなことを言うておる場合ではあるまい。生きうめになった丹下左膳を助け出しに……」
「オウ、そうだ! お美夜ちゃん! いずれ、つもる話はあとでゆっくり――小父ちゃん! さあ、行こう」
「待て!」
 と泰軒先生、お美夜ちゃんのそばにしゃがみこんで、
「今夜はお美夜ちゃんにも、ひと役働いてもらわねばならぬ」
 と、何事か、そっとその耳にささやけば、お美夜ちゃんは、かわいい顔を緊張させて、しきりにうなずいていた。
 それからまもなくだった。
 二組の人影が、このとんがり長屋の路地口から左右にわかれて、うるしよりも濃い江戸の闇へ消えさったのだが……。
 その一つは、泰軒先生をうながして、一路穴埋めの現場げんじょうへいそぐチョビ安。
 もう一つの小さな影は。
 大きな風呂敷でこけ猿の茶壺をしっかと背負ったお美夜ちゃん、淋しい夜道に、身長せいほどもある小田原提灯をブラブラさせて、一人とぼとぼ歩きに歩いた末。
 生まれてから、こんなに遠く家をはなれたことのないお美夜ちゃん。
 しかも、夜中。
 両側の家は、ピッタリ大戸をおろして、犬の遠吠えのみ、まっくらな風に乗ってくる。作爺さんは足がきかないので、お役にはたたず、朝まで待てない急な御用ときかされて、怖いのも、淋しいのも忘れたお美夜ちゃんは、背中にしょったこけ猿が、疲れた小さなからだに、だんだん重みを増してくるのをおぼえながら、いくつとなく辻々を曲がり、町々をへて、やがて来かかったのは桜田門さくらだもんの木戸。
 番所をかためている役人が、驚いて、
「コレコレ、小娘、貴様、寝ぼけたのではあるまいな。そんな物をしょってどこへ行く?」
 六尺棒を持ったもう一人が、そばから笑って、
「おおかた、引っ越しの手伝いの夢でも見たのであろう」
「いいえ!」
 とお美夜ちゃんは、ここが大事なところと、かわいい声をはりあげ、
「あたしね、南のお奉行様のお役宅やくたくへ行くんですの。とおしてくださいな」

「オウイ、ガラッ熊! 鳶由とびよしッ!」
 真夜中のトンガリ長屋に、大声が爆発した。
 声は、まるでトンネルをつっぱしるように、長屋のはしからはしへピーンとひびいてゆく。
 叫んだのは、この長屋の入口に巣をくって、口きき役を引き受けている石屋の金さん……石金いしきんさん。
 名前だけでも、えらく堅そうな人物。
 その堅いところが、このとんがり長屋の住民の信用をことごとく得て、まず、泰軒先生につぐ長屋の顔役なのだ。
 今。
 その石金さんが、あわてふためいて路地を飛び出して、こうどなったのだからたまらない。
 まるで兵営に起床喇叭らっぱが鳴りひびいたように、ズラリとならぶ長屋の戸口に、一時に飛び出す顔、顔、顔。
 ガラッ熊は、まっ裸の上に印ばんてん一枚引っかけて。
 鳶由とびよしは、つんつるてんの襦袢じゅばん一まいのまま。
 そのほか、灰買いの三吉。
 でろりん祭文さいもん半公はんこう
 かさはりの南部浪人なんぶろうにん細野殿ほそのどの
 寝間着ねまきの若い衆、寝ぼけまなこのおかみさん、おどろいた犬、猫まで飛び出して、長屋はにわかに非常時風景だ。
 寝入りばなを石金の濁声だみごえに起こされて、一同、何が何やらわからない。
「相手は誰だ、相手はッ?」
「なんだい、お前さん、そんなまきざっぽうなどを持ってサ」
「や! 喧嘩じゃあねえのか」
半鐘はんしょうが鳴らねえじゃねえか。火事はどこだ」
「いや、火事でもない。喧嘩でもない」
 長屋の入口につっ立った石金は路地を埋める人々へ向かって、大声に、
「オウ、おめえら、このごろすこしでも、この長屋が住みよくなり、また、困ったことがありゃア、持ち込んで行けると思って安心していられるのは、いったいどなたのおかげだか、わかってるだろうな」
 路地いっぱいの長屋の連中、ガヤガヤして、
「泰軒先生だ」
 と、いう鳶由とびよしの声についで、
「そのとおり! 泰軒先生は、おれたちの恩人だ」
「泰軒先生あっての、トンガリ長屋だ」
 みな大声にわめく。
「そこでだ――」
 群衆へ向かって話しかける石金の足もとへ、心きいた誰かが、横合いの芥箱ごみばこを引きずり出してきて、
「サア、これへ乗っておやりなせえ、声がよく通るだろう」
 石金はその芥箱のうえに立ちあがって、
「オイ、その大恩人の泰軒先生が、いま眼の色を変えて、向島のほうへすっとんでいらしった」
 と、演説をはじめた。
 期せずして、深夜の長屋会議の光景をていしている。
「この間まで、作爺さんの隣家となりに住んで、おれ達の仲間だったチョビ安が、先生を迎えに来たのだ。なにやらただならぬ出来事らしいことは、チラと見た先生の顔つきで、おらア察したんだ。先生と安の話から、渋江村しぶえむら司馬寮しばりょうの焼け跡というのを小耳にはさんだが、そこに何ごとかあって、先生はとんでいったものとみえる。おめえらも、トンガリ長屋と江戸にきこえた連中なら、よもや先生を見殺しにゃアしめえナ」

 真夜中の住民大会。
 塵埃箱ごみばこの上に立ちあがった委員長石金さんの舌端ぜったん、まさに火を発して、
「おれたちがこうしていられるのも、泰軒先生のおかげだと思やあ、これから押しだしていって、先生に加勢をするのに、誰一人異存のある者はあるめえ」
 ワーッとわいた群衆の叫びのなかに、奇声で有名なガラッ熊のたんかがひびいて、「ヤイ、石金のもうろく親爺おやじめ、オタンチンのげじげじ野郎め、わらじの裏みてえなつらアしやがって、きいたふうのことをぬかすねえ」
 イヤどうも、こういう、字引にもない言葉を連発する段になると、ガラッ熊、得意の壇場だんじょうだ。
「エ、コウ、石金め、おつうきいたふうな口をたたくぜ。異存のある者はあるめえたア、なんでえ。誰ひとり異存があっておたまり小法師こぼしがあるもんか、なあおい、みんな……棒っ切れでも、心張棒しんばりぼうでもかついでって、先生に刃向かうやつらをたたきのめしてしめぇ」
「そうだ、そうだ! 泰軒先生に助太刀するのに、文句のあるやつがあるもんか」
「石金も気をつけてものを言うがいい」
「オーイ、みんな! このままで押しだせッ」
 ワッショイ、ワッショイ……まるでお神輿みこしをかつぐような騒ぎ。
「細野先生!」
 と誰かが、この長屋のひとりで、尾羽おはち枯らして傘をはっている南部浪人なんぶろうにんへ呼びかけて、
「こういうときア、痩せても枯れてもお侍だ。竹光たけみつでもいいから一つ威勢よく引っこぬいて、先に立っておくんなせえ」
「言うにやおよぶ。泰軒氏のためとあらば、拙者水火もいとい申さぬ。ソレおのおの方ッ!」
 なんかと、細野先生、継ぎはぎだらけの紋つきの尻をはしょって、一刀を前半にたばさみ、ドンドンかけだした。
「ソレ、先生におくれるな」
「なにも獲物えもののねえやつは、かまわねえから、相手の咽喉のどッ首へくらいついてやれ」
「オイ、八百屋やおやはつさん、そんなおめえ、天秤棒てんびんぼうなどかつぎだして、どうしようってんだ」
「なあにね、これで相手のすねをかっさらってやりまさあ」
「オーオー、のり屋の婆さん、戦場に婆さんは足手まといだ。おめえはまア、家に引っこんでいなせえよ」
「何を言ってるんだよ。うちの次男坊の根性を入れかえて、悪所あくしょ通いをやめさせてくだすったのは、どなただと思う。みんな泰軒先生じゃないか。その先生の一大事に、婆あだって引っこんでいられますか。これだって、石の一つぐらいほうれらアね。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏」
 とんがり長屋の一同、どっと一団になって押しだしました。
 下帯一つにむこう鉢巻のもの、尻切れ半纏はんてん鳶口とびぐちをひっかつぐやら、あわてて十能を持ち出したものなど。
 思い思いの武器。
 文字どおりの百鬼夜行……。
「泰軒先生を助けろ!」
「チョビ安を救え!」
 深夜の町を、このわめき声が、はるか向島のほうへとスッ飛んでゆく。
 石金、ガラッ熊、鳶由とびよし、細野浪人、この四天王格。先頭にたって。
 たいへんな助勢。

「それでは、われらは、この源三郎身がわりの焼死体と、偽のこけ猿の焦げた壺を守って、お蓮の方ともども、これよりただちに道場へ引っ返し、源三郎の死んだことと、こけ猿の壺なるもののもう世の中からなくなったことを、すぐにも発表する手はずだから、よいか、そのほうどもは一刻を争い、このおとし穴を埋めてしまえ。手ぬかりのないようにいたせよ」
 戸板にのせ、白布でおおった身がわりの死骸と。
 真っ黒に焼けた、にせのこけ猿と。
 この二つを先にたてた峰丹波の一行。
 お蓮様を中に、さながら葬式の行列よろしく、闇をふくんで粛々しゅくしゅくと寮の焼け跡へさしかかった。
 月のない夜は、ふむ影もない。
 つい一昼夜前まで、このあたりにめずらしい、数寄すきをこらした寮の建物のあったあたり、焼け木が横たわり、水と灰によごれた畳、建具がちらばり……まだ焼け跡の整理もついていない。
 何一つ落ちてもいないのに、食をあさる痩せ犬も、ものさびしい。
 行列の殿しんがりをおさえて行く峰丹波ガッシリしたからだをそこで立ちどまらせて、穴埋めの役割の連中へ、そう最後の命令をくだした。
 町人体、百姓風に扮した道場の弟子ども、いま、手に手に小屋にあった農具を持って、葬列を見送りかたがた、ここまでいっしょに来たところだ。
 別れるのだ、ここで。
 丹波とお蓮様は、悲しみの顔をつくって、殊勝しゅしょうげに、これからショボショボと妻恋坂へ。
 残る穴埋め係の中から、宰領格さいりょうかく結城左京ゆうきさきょうが進み出て、
「御師範代、御心配無用」
 と丹波へ笑いかけ、
「これからすぐに埋めにかかれば、ナニ、さほどの仕事ではござりません。たちまちのうちにふさぎ得ましょうほどに、一刻ばかりの後には、途中で追いつくでございましょう」
「ウム、いそいでやってくれ。水はもう、だいぶ穴へたまっていることであろうな」
「むろん、すでに水浸しでござろう。この三方子川さんぼうしがわの川底から、細き穴をうがち、はじめは点々と水のしたたるように仕組みおきましたが、その穴がだんだん大きくなり、ドッと水が落ちこんだにきまっています。今ごろは土左衛門が二つ、この地の底に……はっはっは」
「そこをまた土葬にするのじゃ。これでは、いかな伊賀の暴れン坊も、またかの丹下左膳といえども、二つの命がないかぎり、二度とわれらの面前に立つことはなかろう。いや、これで仕事はできあがったというものじゃ。では、われら一足先へまいるからナ」
 言葉を残して、丹波の一行はそのまま、さながら悲しみの行列のように、底深い夜の道へと消えて行く。
 お蓮様のみは、これでいよいよ源三郎が地底の鬼となるのかと思うと、さすがに、心乱れるようすで、
「今となって、源様を助けようとも思わなければ、また、もう手遅れにきまっているけれど、せめては、水につかった死骸なりと引きあげて、回向えこう手向たむけ、菩提ぼだいをとむらうことにしたら……」
 その声を消そうと、峰丹波は大声に、
「御後室様、おみ足がお疲れではございませぬか。サア、出発、出発!」
 と、さけんだ。

 お蓮さまはそれでも、後ろ髪を引かれる思い。
「源様ッ!――源三郎さまッ!」
 胸をしぼるような最後のひと声。
 かけもどって、おとし穴をのぞこうとするお蓮様に、きっと眼くばせして丹波が下知。ほとんど手取り足取りにかつがんばかり……。
 前後左右からお蓮様をとりかこんで、行列は、歩をおこして去った。
 あとには、穴埋め役の一同。
 生あたたかい風の吹く深夜の焼け跡に同勢七、八人、あんまり気持よからぬ顔を見あわせて、
「穴の底におぼれてるやつを、土で埋ずめりゃア、これほど確かな墓はねえ。目印に、捨て石の一つもおっ立てておいてやるんだな」
「後年、無縁仏むえんぼとけとなって、源三郎塚……とでも名がつくであろうよ」
 しめった夜気に首をすくめて、誰かが大きなくさめ。
「ハアックショイ! そろそろ始めようではござらぬか」
「フン、気のきかねえ役割だ。こんな仕事は、早くすませるにかぎる」
「しかしなア、なるほど穴は、細いものにすぎぬが、下へいって、かなり大きな部屋に掘りひろげてあるというではないか。そこまで埋めるとなると、七人や八人では、朝までかかっても追いつくまい」
「そうだ、最初に、大きな石の二つ三つもころがしこんで、穴の途中をふさぎ、その上から土をかぶせればよいではないか」
 それは思いつきだとばかり、結城左京ゆうきさきょうをはじめ二、三人が、手ごろの石を見つけにあたりの闇へ散らばって行く。
 ほかのやつらは、すきくわをかついで、おとし穴のふちへ集まってきた。
 左膳のおちこんだときのまま、張り渡してあった、うすい焼け板が、割れ飛んでいる。
 穴の底は、一段と闇が濃く、気のせいか、轟々と水音のこもって聞こえるのは、いよいよ三方子川の底が抜けて、地下室全体、水部屋になっているのか……。
 もう、左膳も源三郎も、ふくれあがった二個の溺死体に相違ない。水に押しあげられ、土の天井にはさまれて、いかに苦しい死を……そう思うと一同、さすがに、あんまりいい気持はしないので。
 穴の中からは、うめき声ひとつあがってきません。
 濁水をのむ墓。
 チョビ安の姿も、すでに付近に見えない。人っ子ひとりいないので安心しきった七、八人、すぐ仕事にとりかかればいいのに――。
 今のいままで、物置小屋でさんざん飲んできた祝い酒。
 それが戸外そとへ出て、ドッと夜風に吹かれると同時に、一度に発した酔い。
「マア、そうせくこともあるまい」
 ひとりの言葉をいいことに、みんな穴のまわりにすわりこんでしまった。そして、足で土くれを落としてみながら、気味わるそうにだまりこくっている。
 石をさがしに行った結城左京ら二、三人は、近くの暗中をウロウロしているらしく、帰ってくるようすもない。
「結城どの、石はあったかナ?」
 穴のふちから、たれかがきいた。と、
「石でふさがず、貴様らのからだでふさげばよい」
 うしろで、暗黒やみが答えた。

 石で穴を埋めるかわりに、貴様たちのからだで埋めるから、そう思え……。
 太い濁声だみごえが、闇からわいて!……。
 ギョッとしてとびのいた、穴のまわりの連中、暗黒をすかしておよび腰だ。
「お、おい、結城殿ゆうきどの左京殿さきょうどの。何を冗談を言うのだ――」
 最初は、ほんとに、石をさがしにいった結城左京が、こっそり帰ってきて、ふざけているのだと思ったので。
「いいかげんうすッ気味のわるい役目を引き受けて、おっかなびっくりのところだ。おどかしっこなしにしようぞ」
 そんなことを言いながら、ふと思ったことは。
 どうも、声がちがう……?
 そのとたんに、
「ウフフフフフ、だいぶ胆をひやしたようじゃが、その調子では、墓埋めなどというすごい仕事はつとまるまいテ、わっはっはっは」
 また大声が、眼の前に爆発して、暗黒がったかと見える一かいの人影が、ノッソリ立ち現われた。
 それでも。
 穴のまわりのやつらは、まさかここへじゃま者が飛びこんでこようとは考えないから、あくまでも、仲間のひとりと思いこんで、
「石があったかと、きいているんだ」
「さっさと埋ずめて、引きあげようではござらぬか、結城氏ゆうきうじ
 口々につぶやきながら、こわそうに二、三歩ずつ後ずさり。
 だが。
 結城左京にしては、チトからだが大きい。
 かれ左京、突然妙な服装なりをしてここにもどってきたのか――。
 この拍子に、暗がりで何も見えない彼らも、一時に合点がいったというのは。
 眼前の大きな黒法師の横から、子供の声がして、
「居候の小父ちゃん、この穴だよ、父上が落ちこんだのは! 早くこいつらを追っぱらって助けてちょうだいよ。ねえ、イソ的の小父ちゃん!」
「ヤヤッ! この子ッ?」
「ウム! 宵の口まで、この穴のまわりをうろつき、父上ちゃん父上ちちうえ! と左膳を呼ばわっていたかの少年!」
 異口同音にさけんで、穴埋め組は、一度にすきくわなどをふりかぶって身がまえた。
 黒い影の足もとから、小さな影が走り出て、おとし穴のふちへかけ寄り、
ちゃん! 父上! ヨウ! まだ生きているの?」
「オーイ、結城殿ゥ!」
 一同は、頭のてっぺんから出るような声で、しきりに仲間を呼び集める。
「石などは、もうどうでもよい。じゃまがはいった! こっちから先に片づけねば……」
「何イ? じゃまが?」
 あちこちの暗黒に声がして、散らばっていた結城ら二、三人が、あたふたこっちへ来るようす。
 泰軒先生はどうするかと思うと、この危機におよんでも手から離さず、トンガリ長屋から飛んでくる間ぶらさげてきた、例の一升徳利をかたむけて、グビリとひと口、飲んだものだ。まず、勢いをつけて……というわけ。
「こいつらア! あの丹下左膳てえ隻眼隻腕の化け物は、なるほど世の中に役にたたぬ代物じゃが、しかし、農工商をいじめながら徳川におべっかをつかう武士という連中にあいそをつかし、世を白眼視しておる点で、吾輩わがはいと一脈相通ずるところのある愉快なやつじゃ。それをなんぞや! 腕でかなわず、この奸計かんけいにおとし入るるとは、卑怯千万……!」

 武器を持っていないのが、一の不覚だった。
 刀を帯しているのは、結城左京ゆうきさきょうほか、二、三人だけ。
 他の連中は、商人や百姓にふんしたまま、穴埋めに出て来たのだから、納屋にころがっていたくわすきをひっかついでいる……これでは、いまここへ現われた異様な人物に、対抗のしようがない。
 物置小屋へひっかえして、両刀を取ってくる――一同の頭にひらめいたのは、このことだった。
 合惣がっそうを肩までたらし、むしろのような素袷すあわせに尻切れ草履ぞうり。貧乏徳利をぶらさげて、闇につっ立っている泰軒先生――……これを泰軒先生とは知らないから、司馬道場の連中は、めっぽう気が強い。
 結城左京が一歩進み出て、
「われらは、火事に焼けた当家の者、あと片づけに来たまでのことです。どなたか存ぜぬが、何やら言いがかりをつけられるとは、近ごろもって迷惑至極――」
夜中やちゅうをえらんで焼け跡の整理とは、聞こえぬ話だ。穴でも埋める仕事があるなら、わしも手つだってやろうかと思ってナ」
 左京は、つと仲間をふり返って、
「こいつはおれが引きうけた。かまわぬから、すぐ埋めにかかれ」
「小父ちゃん、居候の小父ちゃん! 早くお父上を引き出しておくれよ。両手があってもはいあがれないのに、片手じゃアどうすることもできねえだろう。もう死んだかもしれないねえ、小父ちゃん」
 穴のまわりに立ちさわぐチョビ安をめがけて、鋤や鍬が殺到した。
「えいッ、小僧、そこのけッ!」
 その一人の横顔へ、やにわに振りまわした泰軒先生の一升徳利が、グワン! と当たって、
「オッ! なんだか知らぬが、ばかにかたい、大きな拳固だぞ」
 打たれたやつは、頭をかかえてよろめきながら、感心している。
 泰軒先生に斬りつけて、みごとにかわされた結城左京ゆうきさきょうは、さすがに十方不知火じっぽうしらぬい流の使い手、瞬間に、これは容易ならぬ相手と見破りました。
「ヤ! おれ一人では手におえぬ。おのおの方、刀を! 刀を!――」
 一同は鋤や鍬をそこへ投げすてて、もと来た森かげの物置小屋へ、一散走りに引っ返してゆく。
 みなが来るまで、なんとかしてこの場をつなごうと、左京が泰軒へ白刃をつきつけて、静かな構えにはいろうとしたとき!
 嵐のような多人数の跫音あしおとが、地をとどろかしてこっちへ飛んでくる。
 驚いたのは、左京だけではなかった。泰軒もチョビ安も、闇をすかして振りかえると、
「先生ッ、先生イッ!」
 ガラッ熊の声だ。
「トンガリ長屋が、総出で助太刀にめえりやした」
 おどりあがったチョビ安、
「ヤア、石金の小父ちゃんだ! 鳶由とびよしあんちゃんだ! ああ、長屋の細野先生もいる」
「いかがなされました、泰軒先生」
「イヤ、これはおれが引きうけたから、早くその穴を掘りかえして――」
 泰軒先生、さっき左京の言ったのと、同じ言葉をくりかえす。それをチョビ安が、いそいで説明して、
「オウイ、長屋の衆、この穴の中に、あっしのお父上が埋ずまっているんだよ。そこらに、鍬や鋤がほうってあるだろう。オウ、みんな手を貸してくんな!」

 それは、世にもふしぎな光景だった。
 浅草あさくさ竜泉寺りゅうせんじの横町からかけつけた、トンガリ長屋の住民ども、破れ半纏はんてんのお爺さんやら、まっ裸の上に火消しの刺子さしこをはおった、いなせな若い者や、ねんねこ半纏で赤ん坊をしょったおかみさん、よれよれ寝間着の裾をはしょったお婆さん――まるで米騒動だ。てんでに、そこらに散らばっていたくわすきをひろいあげて、一気にあなを掘りひろげはじめた。
「この下に、あたいのお父上が埋まっているんだよ。早く、早く!」
 と、チョビ安は、穴のまわりをおどりあがって、狂いさけぶ。
 チョビ安の父?
 と聞いて、長屋の人達は、びっくりした。
 以前チョビ安は、このこけ猿騒動にまきこまれる前までは、やはり、とんがり長屋に巣を食って、夏は心太ところてん、冬は甘酒あまざけの呼び売りをしていたのだから、その身の上は、長屋の連中がみんな知っている――。
 あたいのちゃんはどこへ行った……あの唄も、みなの耳にたこができるほど、朝晩聞かされたもので、このチョビ安には、父も母もないはず。
 遠い伊賀の国の出生とだけで、そのわからぬ父母をたずねて、こうして江戸へ出て、幼い身空で苦労していると聞いたチョビ安。
 その、チョビ安の父親てておやが、この穴の下に埋められているというんだから、とんがり長屋の人々は、驚きのつぎに、ワアーッと歓声をあげました。
「オイ、安公の親父おやじが見つかったんだとよ」
「ソレッ! チョビ安のおやじを助けろッ!」
 貧しい人たちほど、涙ぐましいくらい、同情心が深いものです。
 人の身の上が、ただちに自分の身の上なのだ。トンガリ長屋の連中は、もう一生懸命。男も女も、全身の力を腕へこめて穴を掘ってゆく。
 ふだんはめっぽう喧嘩っぱやい、とんがり長屋の住人だが、この美しい人情の発露には、チョビ安も泣かされてしまいました。
「ありがてえなア。おいらの恩人は、この長屋の人たちだ。いつか恩げえしをしてえものだなあ……――」
 うれし涙をはらって、チョビ安、ひとり言。
 穴の周囲は、戦場のようなさわぎです。糊屋のりやのお婆さんまで、棒きれをひろってきて、土をほじくっている。これは助けになるよりも、じゃまになるようだが……――うしろのほうで突然、トンツク、トンツクと団扇太鼓うちわだいこが鳴りだしたのは、法華宗ほっけっしゅうにこって、かたときもそれを手ばなさないお煎餅屋せんべいやのおかみさんが、ここへもそれを持ってきて、やにわにたたきはじめたのだ。士気を鼓舞すべく……また、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうの法力を借りて、この穴埋めの御難を乗りきるべく――。
とんつく、とんつく!
とんとん、つくつく……!
 イヤ、お会式えしきのようなにぎやかさ。
 指揮をしているのは、例の石金のおやじと、南部御浪人なんぶごろうにん細野先生だ。
 ガラッ熊、鳶由とびよし左官さかんの伝次――この三人の働きが、いちばんめざましい。鍬をふるい、つるはしを振りかぶり、鋤を打ちこんで、穴は、見るまに大きく掘りさげられてゆく。
 一同泥だらけになって、必死のたたかいだ。おんな子供は、その掘りだした石や土を、そばから横へはこんでゆく――深夜の土木工事。
 泰軒先生は?
 と見ると、やってる、やってる!
 むこうで、結城左京ゆうきさきょうをはじめ、刀を取って引っかえしてきた不知火流の七、八人を相手に、
李白りはく一斗いっと百篇ひゃっぺん――か。ううい!」
 酒臭い息をはきながら、たちまわりのまっ最中。

「李白一斗詩百篇、みずかしょうしんはこれ酒中しゅちゅうせん
 泰軒先生、おちつきはらったものです。
 思い出したように、この、杜甫とほの酒中八仙歌の一節を、朗々吟じながら――。
 棟の焼けおちた大きな丸太を、ブンブン振りまわして、だれもそばへよれない。
 のんだくれで、のんき者で、しようのない泰軒先生、実は、自源流じげんりゅう奥義おうぎをきわめた、こうした武芸者の一面もあるんです。
 トンガリ長屋の人たちは、この泰軒先生のかくし芸をのあたりに見て、ちょっと穴を掘る手を休め、
「丸太のような腕に、丸太ン棒を振りまわされちゃア、近よれねえのもむりはねえ」
「ざまアみやがれ、侍ども!」
「オウ、感心してねえで、穴掘りをいそいだ、いそいだ」
 不知火しらぬいの連中は、気が気ではない。泰軒一人でも持てあましぎみだったところへ、文字どおり百鬼夜行の姿をした長屋の一団が、まるで闇からわいたようにとびだしてきて、見る間に穴を掘りだしたのだから、結城左京らのあわてようッたらありません。
 それはそうでしょう。
 この穴を掘りさげていけば、柳生源三郎と、丹下左膳がとび出す。
 猫を紙袋かんぶくろにおしこんで、押入れにほうりこんであるからこそ、鼠どもも、外でちっとは大きな顔ができるようなものの……。
 その鋭い爪をもった猫が、しかも二匹、いまにも袋をやぶり、押入れからとび出すかもしれないのだ。
 それも、死骸であってくれれば、なんのことはないが――。
 水におぼれて、もう死んでいるには相違ないけれど……伊賀の暴れん坊と不死身の左膳のことだ、ことによると……。
 ことによると。
 まだ生きているかもしれない――。
「こいつひとりにかまってはおられぬ」
 と左京は大声に、
「早く! 早く穴のほうへまわって、あの下民げみんどもを追っぱらってしまえ」
 声に応じて、刀をふりかざした二、三人が、穴のまわりに働く長屋の連中のなかへ斬りこもうとするのだが――。
 ドッコイ!
 泰軒先生の丸太ン棒が、行く手ゆく手にじゃまをして、どうしても穴のそばへ行くことができない。
「筑紫の不知火も、さまで光らぬものじゃのう」
 泰軒先生の哄笑が、長く尾をひいて闇に消えたとき! 
 必死に穴を掘っていた群れに、突如、大声が起こって、
「ヤア! 水だ、水だ!」
水脈すいみゃくを掘りあてたぞ!」
 それじゃアまるで井戸掘りだ……しかし、冗談ではない。しばらく掘りひろげた穴から、コンコンと水が盛れあがってくるではないか。
「こりゃいけねえ。この穴は、きっと三方子川さんぼうしがわの川底につながっているに相違ねえ」
 もう、くわすきではどうすることもできない。
 一同は思案にくれてしまった。
 水は、さながら噴水のようにわきあがってくる。
「お父上! お父上! 水の力で浮きあがってこられないの? お父上!」
 チョビ安はもう半狂乱。
「オウ、野郎ども! 三尺をとけ。下帯も――」
 なかば水音に消されながら、石金さんの胴間声どうまごえがひびいた。

 穴の中から水がわき出たと聞いて、きもをつぶしたのは、結城左京の一派です。もういけない……! これ以上ここにまごまごしていたら、自分たちの身があやうい。
「だめだッ! 引きあげよう」
 ナニ、引きあげるんじゃアない。逃げるんだ。
「もうこうなったら、先へ行った峰丹波殿みねたんばどのの一行に追いついて、助勢を借りるよりほかみちはない」
 ささやきかわして不知火のやつらは、サッと刀を引くが早いか、一目散に闇の奥へ消え去った。源三郎と左膳が、生きているか死んでいるか、それを見きわめるひまもなく。
 泰軒先生は、丸太を投げすてて穴のふちへとんできながら、
「ナニ、水がわいたと」
「ハイ、このとおりです」
 なるほど、夜目にはハッキリと見えないが、泥をとかした真ッ赤な濁水が、まるで坊主頭ぼうずあたまがかさなるように、ムクムクわきあがってきて、穴は、もういっぱいの水。
 アレヨアレヨと言うまにあふれあふれて、まわりに立つ人々の足を没せんばかりの勢い……。
「ふしぎなこともあるものだ。これでチョビ安の父親てておやも、もはや命はあるめえ」
「居候の小父ちゃん、なんとかしてお父上を助けてよ。あたい、この水の中にもぐろうか」
「馬鹿言え。下から噴き上げる水へもぐっていくのは、よほど泳ぎの達者な者でも、むずかしいとされている」
 言いながら、泰軒先生が見まわすと。
 例の指揮者の石金です。帯をといているんだ。
 帯といっても三尺……そのよれよれの三尺をといた石金、大声をはりあげて、
「ヤイ、みんな、帯をとけ」
 長屋の連中のことだから、算盤そろばん絞りかなにかの白木綿の三尺――一同それをといて、つなぎ合わせてみたところで、長さはしれている。
「これじゃアしょうがねえ。下帯をときな」
 江戸っ子がそろっているから、いくら貧乏人でも、腹巻きや下帯は、切りたてのさらし木綿のりゅうとしたのを身につけている。
 それをつなぎ合わせましたから、ここに長い一本の綱ができた。
 即製の、いのち綱。
「さぐりを入れるんだ。先に、何か引っかけるものをつけなくっちゃアならねえ」
 もう、足を洗うぬかるみの中に立って、一同は死にもの狂いの働きだ。
 誰かが、焼け跡からおけのたがを見つけてきた。それを、そのつないだ帯のさきに結びつけたが、これだけでは、水のなかへ沈んでいかない。
「重りをつけろ」
 というので、そのまたたがへ、てごろの石をゆわいつけた。
 このふしぎな命綱を、静かに穴の水中へおろしてやるのだ。あせる心をおさえつつ。
 へんな夜釣りがはじまった。
「手ごたえはねえか」
 地引き網のように、五、六人で綱のはしを持ってたぐりおろしてゆくと、しばらくして、
「ウム、重くなったぞ! 何か引っかかった」
 ソレ、あげろ、引きあげろ……と言うんで、勢いこんで、ひっぱりあげてみると、何と! 大きな岩が桶のたがにひっかかっている。
 水は、いたずらにムクムクとわき出るだけ、……丹下左膳も、柳生源三郎も、影も形もあらばこそ――。

「殿――」
 伊吹大作の声だ。
 桜田門外の、南町奉行大岡越前守の役宅は、奥の書院に、まだポーッと灯がにじんで……。
 越前守様は、まだ起きていらっしゃるらしい。
 黒塗り絵散らしの文机に向かわれて、燭台を引きよせ、何やら読書をしていらっしゃる。
 書物をめくる、ひそやかな音。
 毎夜のようなお調べものなんです。
「大作か。なんです」
 しもぶくれの、柔和な越前守の笑顔が、次の間のふすまのほうへ、
其方そち、まだ起きておったのか。かまわず先にやすめと申したに。ははははは、わしのつきあいはできぬであろう」
 忠相ただすけは笑うと、キチンとそろえた小肥こぶとりの膝が、こまかくゆれる。それにつれて、かたわらの燭台も微動する。灯がチラついて、小さな影が散る――。
 ふすまの引き手のふさが、ゆらりとゆれた。細目にあいたすきから、次の間の伊吹大作の顔が現われて、
「お精が出ますことで……申しあげます。ただいま、木戸にひっかかりましたとやらで、七、八つばかりの女の子が、重内、作三郎らに引ったてられてまいりましたが――」
 忠相の眼は、いつも義眼のように無表情なのだ。何事があっても、けっして感情をあらわさない眼……そうであろう、この人間の港、大江戸の水先案内ともいうべき奉行職を勤めることは、かれ忠相、人間として修行することであった。行住坐臥ぎょうじゅうざが、すべてこれ道場である。そう自らを練ってきているうちに、かれの眼は、びいどろ細工のように、外の物は映しても、内のものは現わさなくなった。おそろしい眼だ。あの天一坊てんいちぼうも、この、またたきもしない眼に看破みやぶられたのである。
 いま、その眼をじっと大作にすえて、
「ナニ、女の子だと?」
「ハイ、それが、この夜ふけに一人歩いておりますので、不審を打ち、木戸へさしかかりましたところを、取り押えましたところが、奇怪にも、殿にお眼通りを願ってやまぬと申すことで、重内も作三郎も、ホトホトもてあまし、とにかく用人部屋まで連れてまいっておりますが」
「余に会いたい?」
「はあ、ただ、お奉行様にお目にかかるんだと申すだけで、あとは何をきいても、シクシク泣いております」
 ちょっと考えていた忠相は、
「どんな娘じゃ」
「貧乏な町家ので――何やら大きな箱を背負っております。壺だとか申すことで」
「壺じゃと?」
 あわてたことのない忠相の声に、ちょっとあわただしいものが走ったが、それは瞬間、すぐもとの、深夜の静海のような顔にかえって、
「なぜ早くそれを言わぬ」
「はア?」
「イヤ、なぜ早く壺のことを言わぬと申すのじゃ。庭へまわせ」
 大作は意外な面持おももち、
「では、あの、御自身お会いになりますので?」
「庭へまわせというに」
 くりかえした忠相ただすけは、さがっていく大作の跫音を、背中に聞きながら、
「泰軒の使いじゃな」
 と、つぶやいたまま、もうそのことは忘れたように、ふたたび、卓上の書物へ眼をおとしていると、
 広縁のそとの庭先に、二、三人の跫音がからんで、
「殿、連れてまいりましたが――」
 大作の声とともに、すすりあげる女の子の泣き声。

 もう、死んだ気のお美夜ちゃんだった。
 泰軒先生の言いつけだし、大好きなチョビ安兄ちゃんのためだとある――
 この重い壺の箱をしょって、遠い桜田門とやらの、こわいお奉行様のお宅まで行くように……と言われたとき、お美夜ちゃんは恐ろしさにふるえあがってしまった。
 ほんとに、どうしたらいいだろうと、作爺さんに相談してみたところが、そりゃあお前、どんなことをしても行かなくっちゃアならない。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのために――。
「泰軒小父ちゃんと、あのチョビ安兄ちゃんのためだもの」
 後ろには、自分のせいほどもある、重い重い壺の箱をしょい、前には、これもやはり自分の背ほどもある小田原提灯をぶらさげたお美夜ちゃんが、深夜の町を、一人トボトボ歩きながら、たえず、呪文のように口の中にくりかえしたのは、この言葉だった。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのため……。
 そうすると、小さなお美夜ちゃんに、ふしぎに、大きな力がわくのだった。
 物心ついてから、竜泉寺りゅうせんじのとんがり長屋しか知らないお美夜ちゃん。
 桜田門なんて、まるで唐天竺からてんじくのような気がする。
 何百里あるのかしら。
 何千里あるのかしら。
 江戸に、こんな静かなところがあろうとは、お美夜ちゃんは、今まで知らなかった。まるで死のような町。
 白壁の塀が、とても長くつづいていたり、その中からのぞいている銀杏いちょうの樹を、お化けではないかと思ったり、按摩あんま師の笛が通ったり、夜泣きうどんと道連れになったり――。
 人にきききき、やっとのことで桜田門という辺まで来てみると、まっ暗な中に大きなお屋敷がズラリと並んでいて、とほうにくれたお美夜ちゃんの前に、このとき、左右から六尺棒をつき出して、
「コラッ、小娘、どこへゆく」
 と、誰何すいかしたのが、越前守手付きの作三郎、重内の二人、不審訊問というやつだ。
 お美夜ちゃんはわるびれない。
「あたいね、南のお奉行様のところへ行くんだけど、小父おじちゃん、お奉行様のおうち知らない?」
「なんと御同役、お聞きなされたか。あきれたものではござらぬか。ヤイヤイ、小娘、ここが、そのお奉行様のお屋敷だが……」
「ナラ、どっちの小父ちゃんがお奉行様? この人? この人?」
「イヤ、これはどうも恐れいった。お奉行様が小倉の袴の股立ちをとって、六尺棒をしゃにかまえて、夜風に吹かれて立ってるかッてンだ。相当奇抜きばつな娘だナ、こいつは」
 取りつく島がなくなって、両手を眼に、メソメソ泣き出したお美夜ちゃんだった。
 重内も作三郎も、弱りぬいたあげく、用人部屋へ引っぱってきて、伊吹大作にまでそのむねを通じたというわけ。
 この壺を取られてはならないと思うから、お美夜ちゃんはもう一生懸命、両手でしっかり箱をかかえて泣きながら、その泣く合間合間あいまあいまに、あちこち見まわしたり、ちょっとキョトンとしたり、それからまた、急に声をはりあげたりして、畳のかたい用人部屋に待たされていると、
「コレコレ、お奉行様がお会いになるという。果報かほうなやつだ。こっちへ来い」
 大作、重内、作三郎の三人にとりかこまれたお美夜ちゃん、
「あたい、とうとう罪人になったの?」
 お爺ちゃんにまた会えるかしら……などと情けない思い、飛び石につまずきつまずき、広いお庭の奥へ――

 縁の高い書院しょいん造りの部屋が、眼の前にある。
 その明るい障子が、静かに中からあいて、デップリした人影が現われたのを見たとき、庭の沓脱くつぬぎの下にすわっているお美夜ちゃんは小さなからだが、ガタガタふるえだした。
 押しこみをおさえたり、人殺しをつかまえたり……お奉行さんなんてどんなにこわい小父ちゃんだろう!
 が。
 そのとたんに。
 お美夜ちゃんの聞いた声は、ビックリするほどやさしい、親しみぶかいものであった。
「そちら三人は、さがっておるがよい」
 お美夜ちゃんをとりまいていた大作、重内、作三郎の三人は、跫音もなく庭の闇へ消えこんでゆく。
 意地のわるい三人のお武家さん――と思っていたものの、サテ、こうしてひとり取り残されて、お奉行様と相対あいたいになってみると、恐ろしさから、その三人が急に恋しくなって、
「小父ちゃんたち、行っちゃアいや、ここにいて!」
 とお美夜ちゃん、泣き声をはなってあとを追おうとする。
 しずかな含み笑いが、お広縁の上から。
「コレ、何もこわがることはない。この縁側へ腰をかけて、わしに、その壺というのを見せてくれぬか」
 灯をしょった顔を振りあおいで見ると、眼尻に長いしわをきざんだ、柔和な笑顔……ほんとに、これが南のお奉行様かしら?
 と、お美夜ちゃんはあやしみながら、
「あのね、あたいね、浅草のとんがり長屋から来たの」
 と、一度安心すると、子供だけにもう人見しりをしないので。
 壺をかかえて、越前守と並んで、縁側にこしかけたお美夜ちゃんに、障子をとおしてほのかな燭台の灯が踊る。
 忠相はにこやかに、片手で壺の風呂敷をときながら、
「ウム、そのトンガリ長屋なら、おまえをここへ使いによこした人は蒲生泰軒がもうたいけん……泰軒小父ちゃんであろう」
「うん、よく知ってるね、この壺をお奉行様に、お渡しするようにって――」
「おお、よしよし」
 忠相はお美夜ちゃんの頭をなでて、
「よくこの夜中に、ひとりでお使いにこられたな」
 言いつつ、パラリと風呂敷をとき、桐箱の紐をほどき、箱のふたをとり、ソッと抜き出した壺から、スガリをはずして、もう、その手は壺の蓋にかかっている。
「おまえの名は、なんという」
「あたい、さくじいちゃんとこのお美夜ちゃんっていうんですの」
 壺の蓋をとった忠相は、そっと中をのぞいて見た。
 部屋の洩れ灯なので、よくは見えない……。
 なんだか底のほうに赤ちゃけた紙きれが入っているようでもあり、また、何もないようでもあり――。
 いずれ、後で明るい部屋で、ユックリ見直すことにしようと、忠相はそのまま蓋をかぶせつつ、
「ウム、お美夜ちゃんか。かわいい名じゃのう」
「ええ、みんながそう言うわ」
「何をごほうびにやろうかの? 泰軒小父ちゃんのお使いをして、この小父ちゃんのところへ、こんなりっぱな壺を持ってきてくれたお礼に、何かすばらしいものをあげたいのじゃが……」
 急に眼をかがやかしたお美夜ちゃん。
「ほんと? ほんとになんでもごほうびくれる?」
 と、念をおしました。

 忠相はうち笑って、
「念をおすには及ばないよ。嘘は泥棒のはじめという。世の中から、その泥棒をなくするのが、このおじちゃんのつとめなのだ。わかるかな?」
 お美夜ちゃんは、縁に足をブラブラさせながら、かわいい合点こっくりをする。
 越前守はニコニコつづけて、
「そのお役目のこの小父ちゃんが嘘をいうはずはないではないか」
「そうねえ。なら、あたいの言うこと、なんでもしてくれる?」
「言うまでもない、なんでもきいてやろう」
「じゃ、お願いしてみようかしら」
「オオ、いかなることでも申してみるがよい」
「じゃアね」
 と、お美夜ちゃん、仔細らしくちょっと考えて、
「あたいの仲よしにね、チョビ安さんって、とても元気な、おもしろい兄ちゃんがいるのよ。孤児みなしごなの」
 言いかけて、お美夜ちゃんがにわかに涙ぐむようすなので、越前守はやさしくのぞきこみ、
「コレ、いかがいたした。その孤児のチョビ安とやらが、どうしたというのじゃ」
 お美夜ちゃんはすすりあげて、
「あたい、自分の物なんか何もいらないの。お人形も、お着物べべもいらないから、そのチョビ安兄ちゃんのおとっちゃんとおっかちゃんを、探しだしてくださらない?」
 チョビ安を思う純真な気持……子供ながらも、それが眉のあいだに漂っているのを、忠相はじっとみつめていたが、
「ウム、このお奉行のおじちゃんが引き受けた。きっと近いうちに、そのチョビ安とやらの両親を見つけだしてやるであろう」
「ありがとうよ、小父ちゃん」
 お美夜ちゃんはもう涙声で、
「まあ、そうしたら、チョビ安兄ちゃんは、どんなに喜ぶことだろう!」
「ウム、明日あすかならずお美夜ちゃんにも、うれしいことがあるぞ」
 と忠相は、手をうって用人の伊吹大作を呼びよせた。そして駕籠を命じて、すぐお美夜ちゃんをトンガリ長屋へ送らせたのだったが……。
 この越前守様の言葉は、翌日さっそく、あのお美夜ちゃんがいらないと言ったお人形やら、美しい着物やらの贈り物となって、あのきたない作爺さんの家へ持ちこまれ、ほんとうにお美夜ちゃんを狂喜させたのだった。
 が、それは、あとのこと。
 お美夜ちゃんを帰すとすぐ、急に、忠相ただすけの顔に真剣の色がみなぎった。
「いつもながらたのもしい泰軒じゃ。言葉をつがえたことは、かならず実行する。どうして手に入れたか知らぬが、四方八方から眼の光っておるこのこけ猿、よくも泰軒の手に落ちたものじゃ」
 忠相は壺をかかえて、静かに居間へもどった。
 燭台しょくだいを引き寄せて、壺の蓋をとった。
 この壺のなかには。
 柳生の先祖がどこかに埋ずめてある、何百万、何千万両かの大財産の所在ありかを示す古い地図が、はいっているはず。
 そして。
 その秘図一つに、いまや柳生一藩の生命がかかり、また、いつの世も変わらぬ我欲妄念がよくもうねんの渦がわきたっているのだ。
 パッと壺の蓋をとった越前守、中をのぞいた。
 と、何ひとつはいっていないではないか!
 灯のほうへ壺の口を向けて、もう一度中をしらべてみた。
 狭い壺のなか、一度見てないものは、二度見てもない。すると、
「ハハア、そうか……」
 忠相のおだやかな顔が、ニッコリほころびた。

 柳の影が、トロリと水にうつって、団々だんだんたる白い雲の往来ゆききを浮かべた川が、遠く野の末にかすんでいる。
 三方子川さんぼうしがわの下流は、まるで水郷のおもかげ……。
 鳴きかわすとりの声で、夜が明けてみると、あちこちに藁葺きの家が三軒、四軒。
 渡しの船頭や、川魚をとる漁師の住いだ。
 その一つ――。
 前の庭には網をほし、背戸口から裏にかけては畑がつくってあろうという、半農半漁ののきかたむいた草屋根です。
「どうじゃな、お客人。気がつかれましたかな」
 火のない炉ばたに大あぐらをかいて、鉈豆煙管なたまめぎせるでパクリ、パクリ、のんきにむらさきのけむりをあげていたこの主人あるじ、漁師ていのおやじが、そう大声に言って、二間ふたまきりないその奥の部屋をふりかえった。
「ウウむ……」
 とその座敷に、うめき声がわいて、
「オオ! ここはどこだ!」
誰やら起きあがったようす。おやじはのそりと立って行って、奥の間をのぞく。不愛想だが、人のよさそうな、親切らしい老人だ。
「ウム、どうじゃな、気分は」
 すると……。
 ふしぎなこともあるものです。床の上にけげんな顔をしてすわっているのは、丹下左膳――この漁師の家で着せられたらしい、ぎはぎだらけのゆかたを着て、一眼をくうに見はり、ひとりごと。
「あの川床の天井が落ちて、ドッと落ちこむ水にあおられ、運よく穴から川面へ浮きあがったまではおぼえているが――」
 いぶかしげにあたりを見まわした左膳、横の床に、まだあおい顔をして死人のごとく昏々こんこんとねむっている柳生源三郎に眼が行くと、
「オオ、貴公もぶじだったか」
 まったく、奇跡というほかはない。
 一条の穴から落ちこむ水は、刻々にかさをまして、胸をひたし、首へせまり――ぬけ出るみちといっては、高い天井に、落ちてきたときの堅坑たてあなが、細くななめに通じているだけ、この生きうめの穴蔵が水びたしになっては!
 左膳も源三郎も、そう覚悟をきめた。チョビ安は地面で、一人でかけまわっているらしいが、救いの手はのびてきそうもない。
 頭の上には、三方子川の激流が流れている。
 と、このとき、まるで最期の宣告をくだすように、その川底が破れ落ちたのである……すさまじい勢いで。
 土砂と川水とが、一度にドッと落ちかかったのだが、そのあおりで流れ落ちる水に巻かれながら、左膳は無意識に三方子川へ浮かびあがったのである――たった一つの左腕に、ぐったりとなっている源三郎のからだを、しっかり抱きかかえたまま。
 これが最期と思ったのが、かえって、生へひらく唯一の道だったのだ。
 流れただようまも、左膳は源三郎をはなさなかった。この家の親爺の六兵衛が、夜の川釣りに、その下流に糸を垂れていて、浮きつ沈みつしてくる二人を見つけるが早いか、近所の者の手を借りて舟を出したのである。
 救い上げたときは、左膳も源三郎も、すっかり意識をうしなっていた。隻眼隻腕の異様な浪人姿と、由緒ゆいしょありげな美男の若侍と今夜の夜釣りには、ふしぎな獲物があったものだと、六兵衛はそのまま、二人をこの自宅に運びいれて、まず、濡れた着物を着かえさせ、一晩ねんごろに看病して、……サテ、この朝である。
「お同伴つれはまだ気を失っておるようじゃの。まあ、こんなところだが、ゆるゆる逗留とうりゅうして、からだの回復をお待ちなせえ」
「オオオ、そうだ。こけ猿――ウウム、こけ猿を……!」
 と、思い出したように、左膳がうなった。

 引き潮、満ち潮……。
 港の岸に立って、足もとの浪を見おろす人は、その干満の潮にのって、いろいろの物が流れよっているのを見るであろう。
 の切れた下駄、手のとれた人形、使いふるしたおけ、など、など、など……そのすべてが、人間の生活に縁の近いものであることが、いっそう奇怪な哀愁感をよぶ。
 港の潮は、何をただよわしてくるかしれない。
 大江戸は、人間の港なのだった。
 海に、港に、潮のさしひきがあるように、この大江戸にも、眼に見えない人間のみち潮、ひき潮――。
 お美夜ちゃんという小さな人間の一粒が、こけ猿の壺をしょって飛ぶ鳥を落とすお奉行大岡越前守様のお前に現われたのも、その人間の港の潮のなす、ふしぎなわざであったといえよう。
 また。
 自分の背中の、きたない古い茶壺のなかに、そんな何百人、何千人の大人たち――伊賀の侍たちをはじめ、こわいおさむらいさんの大勢に、こんな生き死にの騒ぎをさせるような、巨万の財宝がかくされてあろうなどとは、もとより知るよしもないお美夜ちゃん……まるで、塗りのはげた木履ぽっくりに小判がのっかって、港の石垣に流れよって来たようなもの。
 そして、一方では。
 三方子川の漁師六兵衛ろくべえの網に、隻眼隻腕の痩せ浪人と、青白い美男とが引っかかった――。
 たいへんな獲物。
 これも、人間の港のはかり知ることのできない、浪の動きというべきであろう。
 人間の港は、雨につけ風につけ、三角浪をたて、暗く、明るくさかまいて、思いもよらない運命のはしはしを、その石垣の岸へうち寄せる……お江戸八百八町の潮のふしぎ。
 千代田のほりはいかに深く、その城壁はどんなに高くとも、この、人間の港の潮を防ぐことはできない。
 お庭をわたる松風のと、江戸の町々のどよめきとが、潮騒しおさいのように遠くかすかに聞こえてくる、ここは、お城の表と大奥との境目――お錠口じょうぐち
 おもては、政務をみるお役所。大奥は将軍の住い。
 その中間の関所ともいうべき、このお錠口は、用向きはいちいちここで取り次いで、なんびとといえどもかってに出はいりを許されない。
 なんびとといえども――と言ったがただ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
 お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
 今も。
 老人腹這はらんばいになって、何か書見をしている。
 まだ宵の口。
 実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
 お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
 これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向ひなたぼっこをしている形。
 とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音あしおとがすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」

 夜分、大岡越前が、至急自分に会いたい……と聞いた愚楽老人ぐらくろうじん、スックとたちあがった。
 スックと――なんていうと、馬鹿にせいが高いようですが、三尺ほどの愚楽老人なんですから、たてになっても横になっても、たいした違いはないんで。
 壺! こけ猿!
 と、すぐピンと頭脳あたまにきたが、静かな声で女中へ、
「どうぞこれへお通しくだされ」
 と言った老人、チョコチョコと隅へ行って、衣桁いこうに掛けてある羽織をひっかけた。
 あおいの御紋これ見よがしの、拝領のお羽織。
 愚楽さんは、この羽織を着なければ人に会わないことにしているんです。子供みたいなからだに、大人おとなの羽織をはおったのだから、まるで打ちかけをひきずったよう――しかつめらしい渋い顔で、ピタリ着座して待ちかまえているところへ、
「御老人、こちらかな?」
 微笑をふくんだ越前守の声。
 つづいて、音もなくふすまがすべって、恰幅かっぷくのいい忠相ただすけの姿が、うす闇をしょってはいってきた。老人の眼は、あわただしく、この夜の訪問者の手もとへゆく。が、忠相は何も持っていない……。
 手ぶら?
 と、愚楽老人の顔に失望の色がはしったとき、
「大作、其品それをそこへ置いて、その方は溜りで待つがよい」
 忠相がうしろを振りかえって言った。用人の伊吹大作がついてきていたのだ。声に応じて大作は、大きな箱包みを室内へすべらせておいて――無言。
 平伏。愚楽老人に挨拶したのち、あとずさりにさがってゆく。
 壺の包みを引きよせた越前守忠相は、愚楽の前に静かに座をかまえて、いつまでもほほえんでいる。
「――――?」
 と、愚楽老人は、眼できいた。
「例の品でござるか、越州殿えっしゅうどの
「まあ、さようで」
「ホホウ、どうしてお手に?」
「かの泰軒が引き受けた以上、成らぬということはありませぬ」
 愚楽老人は、それを心から肯定するように、大きくうなずいたのち、
「シテ、その泰軒は、いかなる手段により、いかなる方面より壺を入手したものでござろうのう」
「サア、それは……小娘が使者となって持ってきただけで、委細のことはわかりませんが――」
 言いながら忠相は、壺の風呂敷をときにかかる。
 おしとどめた愚楽老人、
「貴公、壺をひらいてごらんになったか」
「ウム、いかにもあけてみました」
「して、紙片は? 埋宝の所在ありかを示す古図は?」
 たたみかけて、つめよるごとき愚楽老人の顔を、越前守はじっとみつめて、
「中にはござらぬ」
「中にない?――壺の中にない……とすると?」
「サ、そこでござる、御老人。壺の中にないとすれば?」
「壺に物をかくすとすれば、壺の中にきまっておる。その壺の中にないならば、こりゃ――ないのであろう」
「と、拙者も最初は考えましたが……」
「待った!」
 愚楽老人、大きな手をひろげて、越前守の言葉をさえぎった。そして、ハタと膝をうった。
「ハハア、そうか。なるほど、そうか――」

 夜詰めの近侍たちが、お次の間にしりぞいてから、もうよほどになる。上段の間に御寝ぎょしんなされた吉宗公は、うつらうつらとして夢路にはいろうとしていた。
 と、いくつかをへだてた遠くの部屋で、なにか押し問答をしているような、大きな声がする。
 上様うえさまに取り次いでくれ、いや、お取り次ぎ申すわけにはまいらぬ……そんなことを言い合っているようだ。
 はじめは、水の底で風の音を聞くような、ボンヤリした気持でいた将軍吉宗も、あまりその人声がいつまでも続くので、眠りにおちようとしていた意識を呼びもどされた。
 むろん、眠りのじゃまになるというほどではない。遠くかすかに、低く伝わってくるのだが、耳についてならないので、吉宗は、枕もとの鈴をふった。
 近習の一人が、お夜着の裾はるかの敷居際に、手をついて、
「お召しでございましょうか」
「ウム、愚楽の声がするようだが」
「ハ、お耳にとまって恐れ入ります。愚楽様と、南町奉行大岡越前守様御同道で、夜中やちゅうこの時ならぬ時刻にお目通り願いいでておりまする。おそば御用、間瀬ませ日向守様ひゅうがのかみさまが、おことわり申しあげておりますので」
「ナニ、愚楽と越前とが、余に会いたいと申すか」
「壺? こけ猿?」
 ハハア、来たな……と思うと、吉宗公は、さっとお夜着をはねのけて、起きあがった。白倫子しろりんずあおいの地紋を散らしたお寝間着の襟を、かきあわせながら、
「苦しゅうない。両人ともこれへまかり出るように、間瀬にそう申せ」
 とこの時はずれの夜中やちゅう、御寝所でお眼通りをおおせつける――よほどの大事件に相違ないと、近侍は眼をまるくしてさがってゆく。
 しばらくすると、おおいばりの愚楽老人の声が近づいてきて、
「だから、わしは言うたじゃないか。上様のお耳にはいれば、わけなくお眼通りをお許しくださるにきまっておると。何も知らぬお手前らが、中途で邪魔だてするとはけしからん」
 御座ぎょざ近くまでほとんどどなりちらさんばかりの勢いで来るのは、愚楽老人、いつもの癖が出たとみえる。
 上段の間のふすまを左右に開かせて吉宗公はじっと愚楽を見やった。たって、やっとふすまの引き手に頭のとどくほどの愚楽老人と、上背うわぜいもたっぷり、小肥りの堂々たる越前守忠相とがならんで、双方すり足でお次の間へはいってくるところは、その珍妙なこと、とうとう八代様をふきださせて、
「ウフフフフフフ……愚楽、そちの抱いておるのは、そりゃ、なんじゃ」
 愚楽老人は、大きな壺の箱を、持てあますように前に置いて、すわりながら、
「エヘヘヘヘ、とうとう伊賀のこけ猿が、大岡越前の入手するところとなりまして」
 その横に着座した越前守忠相、
「夜中をもかえりみませず、お眼通りを願い出ました無礼、おとがめもなく、かくは直々じきじきお言葉をたまわり、ありがたきしあわせに存じまする。いつもながらごきげんうるわしく拝したてまつり、恐悦至極に存じまする」
 つつしんで御挨拶申し上げているのに愚楽老人は、そういう儀礼はいっさい抜きで、いきなり、友達かなんぞのように将軍様へ話しかけて、
「どうしてこの壺が、越前の手にはいりましたか、そこらの筋道は、なにとぞおたずねなきよう」
「ホホウ、例の大金の所在を知るこけ猿とやら――どれどれ」
 乗り出す吉宗公……愚楽老人はまるで自分が悪戦苦闘ののち、やっと手に入れたような顔つきだ。

 吉宗公はせきこんで、
「愚楽、越前。お前たちはもうその壺をあけて見たであろうな」
「ハッ」
 と越前は平伏して、
「ところが、紙片などは中にはいっておりません――」
 言いかけるそばから、愚楽老人は、まるでお風呂場で背中を流しているときのように、気やすに膝をすすめて、
「それが、上様、ふしぎじゃあございませんか。何もはいっていないんで」
 吉宗公は腕組みをして、眼をつぶった。
「フウム、はいっておらぬ。スルト、柳生の埋宝というのは、ひとつの伝説……いや、とんでもない作りごとにすぎなかったのかな」
 ニヤニヤした愚楽老人、
「上様、おたずね申しあげます」
「ウ? なんじゃ」
「およそ紙きれなどを壺にかくすといたしますれば、まず、どこでございましょうな?」
「何をいう。壺に封じこめる――つまり、壺の中に決まっておるではないか」
「それが、ソノ、なんども申すとおり、はいっておりませんので」
「それならば、はじめからないのであろう」
「サ、そこです。とそう、私も考えましたが、いま一度お考え願えませんでしょうか」
「ウム、わかった! ハハハハハ、わかったぞ」
 眼をかがやかした吉宗公は、力をこめて小膝を打ちながら、
「二重底だな?」
 越前守と愚楽老人は、チラと眼を見かわす。
 沈黙におちると、もう夜のふけわたったことが、きりで耳を刺すように、しんしんと感じられます。おそば御用、近侍の者たち、ことごとく遠ざけられて、今この御寝ぎょしんの間に額を集めているのは、八代将軍吉宗様を中に、天下ごめんの垢すり旗本愚楽さんと、今をときめく南のお奉行大岡忠相の三人のみ。
 黒地くろじ金蒔絵きんまきえのお燭台の灯が、三つの影法師をひとつに集めて、大きく黒く、畳から壁へかけてゆれ倒している。
 一町奉行まちぶぎょうが、いかに重大な事件だからといって、夜間やかん将軍と膝をつきあわせて話すということなどは絶対にない……ナンテことは言いッこなし。物には例外というものがある。これがその、最も意外な例外の場合のひとつなので……正史には出ておりませんけど、このときの三人の真剣さは、じっさいたいへんなものでございました。
 愚楽老人の眼くばせを受けて、越前守は、壺の風呂敷をとき、古色蒼然たる桐の箱を取り出した。
 時代で黒光りがしている。やがてその蓋を取りのぞき、そっと御前に出したのは、すがりという赤の絹紐の網のかかった、これぞ、まぎれもないこけ猿の茶壺……。
 多くの人をさわがせ、世に荒波をかきたてたとも見えず、何事も知らぬ顔にヒッソリと静まり返っているところは、さすが大名物おおめいぶつだけに、にくらしいほどのおちつきと、品位。
 人に頭をさげさせるだけで、自分の頭をさげたことのない八だい有徳院うとくいん殿も、このとき、このこけ猿に面と向かったときだけは、おのずと頭のさがるのをおぼえたと申し伝えられております。
 ウーム、とうなった吉宗様、壺を手近に引きよせて、つくづくとごらんになり、
「りっぱなさくゆきじゃなあ。品行といい、味わいといい、たいしたものじゃナ」
 幾金いくらぐらいだろう……そんな骨董屋みたいなことはおっしゃいません。

「あけてくやしき玉手箱――スウッと煙が出て、この吉宗、たちまち其方そちのような老人になるやもしれぬぞ」
 ごきげんのいいときは、お口の軽い八代様、そんなことをおっしゃって、愚楽へ笑いかけながら、パッと壺の蓋をとった。
 何もはいっていない。
 もとより、煙も出ない。
 拍子抜けのした玉手箱……吉宗公は壺をひっくりかえして、底をポンポンとおたたきになっては、首をかしげてしきりに音を聞いてらっしゃる。縁日で桶を買うようなかっこうだ。底が二重になっているかどうか、それをあらためているのです。
 越前守と愚楽は、笑いの眼をかわしたのち、愚楽が、
「どうです、上様。底に種仕掛けはございますまい」
「イヤ、これは降参いたした」
 吉宗はそう言って、壺を畳へ置きなおし、
「この壺に秘図が入っておらんとなると、柳生の埋宝それ自身がちとあやしい話じゃな」
「そう……かもしれません」
「かもしれんではないぞ、愚楽。柳生はああいう武弁一方の貧乏藩じゃが、先祖の隠した大金がある。それをそのままにしておいては危険じゃから、日光を当てて吐き出させてしまえ――と、余に向かってそう進言したのは、愚楽、其方そちではないか」
「ヘエ、上様のおっしゃるとおりで」
「ヘエではないぞ。それで、ああして柳生の金魚を死なしたのじゃが、日光をふり当てられた柳生では、一風とやら申す茶師のげんを頼りに、それ以来、死にもの狂いでこれなるこけ猿の壺の行方をさがし求めてきた……これ、その壺をいまあけてみれば、ただ空気がはいっているだけとは、愚楽、これはすべて貴様の責任だぞ」
 むりな理屈だが、楽しみにしていた壺をひらいてみると、何も出てこないので、吉宗公、ちょっと駄々だだをこねはじめたのかもしれない。将軍をはじめ、昔の大名なんてものは、みんな、子供のようなわがまま者が多かった。
 あわてるかと思うと、さにあらず、愚楽老人は平然として、
「上様、蓋をまだお持ちでございますな」
 ときいた。
 なるほど……気がつくと、八代様はさっき蓋をあけたとき取った蓋を、そのまままだ右手に持っていらっしゃる。
「ウム、これが――これがどういたした」
 と吉宗は、つくづくその蓋をみつめている。
 御存じのとおり、茶壺の蓋は、木をまるくけずったものであります。それに、奉書の紙が、一枚一枚と貼りかためてある。
「別になんの奇もない、ただの茶壺の蓋ではないか」
 と吉宗は、それをポンと畳へほうり出した。蓋は、ころころと輪をえがいてころがりながら、越前守の膝先へ来て、ピタリと倒れた。
 手にとった忠相は、おそるおそる口を開いて、
「毎年、新茶の候になりますと、諸藩から茶壺を宇治の茶匠へつかわします。茶匠はなかなか権威のありますもので、おあずかり申した諸侯のお茶壺を、それぞれ棚がありまして、それへ飾っておくのでございますが、そのとき……」
 と、ひとくさり茶壺の説明をはじめました。
 ひっそりとした大奥の夜気に、太い、おちつきはらった越前守の声が、静かな波紋をえがく。吉宗も愚楽も、いつのまにか緊張して、聞き入っています。

 越前守は、静かな声でつづけて、
「御存じのとおり、茶壺にはいろいろの焼きがございますが、各大名の壺をあずかりました茶匠においては、禄高、城中の席順に関係なく、壺の善悪よしあしによって、棚の順位を決めるのでござります。いかに大藩の茶壺でも、壺そのものが名品でなければ、上位には据えられませぬ。また、小藩の茶壺なりとも、名器でござりますれば、上位を与えられますのが、これが、宇治の茶匠の一つの権威とでも申しましょうか? イヤ、上様の前をはばかりもせず、先刻御承知のことを、かように談義めかしておそれ入りまする」
 ひれ伏そうとする忠相を、愚楽老人がそばから、制するような手つきとともに、
「イヤ、話にはおのずと、順序というものがござる、かまわずお続けめされい」
 吉宗様も、ニッコリおうなずきになって、
「それで?」
 と、うながされる。
「ハッ……それで、各大名は、おのずと壺の順位を争いまして、万金を投じて伝来の茶壺をあがない求めまするありさま。かくして、新茶が詰まりますまで、壺はその宇治の茶匠のもとに、飾られてあるのでございます」
「すると、このこけ猿の茶壺も、柳生藩から毎年、その新茶を入れに宇治の茶匠へつかわされたものであろうかの?」
 上様の御下問に、越前守、はッと答えて、
御意ぎょいにござりまする。昔から茶匠の棚において、一の位をゆずったことのないこけ猿の茶壺――この壺あるがゆえに、わずかの禄にもかかわらず、御三家をはじめ、御譜代外様とざまを通じての大大名をもしりえにおさえて、第一の席は、ずっと柳生家の占むるところでござりました」
「この名壺めいこじゃからな、むりもない」
「それほどの壺をまた、柳生ではどうして、弟の源三郎へなどくっつけて、この江戸の司馬十方斎へゆずろうとしたのであろう……せぬ」
 と愚楽老人が、首をひねる。
「サ、それは、なんとかして弟を世に出そうという、兄対馬守つしまのかみの真情でもござりましょうか。弟の源三郎と申すは、剣をとっては稀代の名誉なれど、何分恐ろしい乱暴者で、とかくのうわさもあり、末が気づかわれますところから、天下の人間道場たる江戸へ出して、広い世間を見せてやろうとの兄のはからいに相違ござりませぬ。マ、それはそれといたしまして、サテ、宇治では、各大名の茶壺に新茶を詰め終わりますると、これなる蓋をいたし、この蓋の上から、ピッタリと奉書の紙をはりまして、壺の口に封をいたします」
「フム、それは余も存じておる」
「おそれいります。その封をした茶壺を、それぞれ藩へ持ちかえり、藩公の面前において、お抱えのお茶師が封を切り、新茶をおすすめまいらする……これを封切りのお茶事と申しまして、お茶のほうでは非常にやかましい年中行事の一つでございます」
 愚楽老人は、せっかちに、背中のこぶと膝を、いっしょにゆるがせてすすみ出ながら、
「イヤ、そこらのことは、よくわかり申した。が、わからぬことがたったひとつある。このこけ猿も、毎年宇治へ往復して新茶の詰めかえをしたものなら、中に古い地図などがはいっておったら、とうに人眼につかずにはおかぬはず。とっくの昔に誰かが見つけて、もう宝は掘り出されたあとかもしれぬテ。さようではごわせんか、上様」
「そうも考えられるが、さもなければ、その図は、はじめから壺の中ではなく、壺は壺でも他の場所に――」
 言いかける吉宗の言葉を、愚楽が横から折って、
「えらい! さすがは天下の八代様。これなる越前も、愚楽も、まず、そこらのところとにらんでおります」

 これより先。この壺をあけて、中に、あるべき古図のないことを知ったとき、越前守は、一度は驚き、失望もしたが、たちまち、何か思い当たったことがあるらしく、
「ハハア、そうか」
 と、言った……。
 そしてまた。
 愚楽老人も、さっき自分の部屋で、壺の中がからっぽと聞いて、しばらく考えたのち、これも同じように、何か考えがあるとみえて、
「ハハア、そうか」
 とうなずいたが……。
 馬鹿な人間の考えることは、たいがい同じようなものだが、知者の知恵も、また似たようなもの。
 この天下の知恵者が二人まで、ハハア、そうかと、自信ありげにほくそえんだのですから、まだ悲観するのは早い。秘密の地図は、壺のどこかにかくされてあるのだろうけれど。
 これを言いかえれば、柳生家初代の殿様もまた、相当の知恵者だったということになる。
 すると、です。
 今。
 じっと考えていらっしった八代将軍吉宗公、ニッコリ微笑をお洩らしになったかと思うと、
「ハハア、そうか」
 まるで口まねだ。
 と同時に、手にしていた壺をキッと見すえた吉宗、
「この中だな、この蓋の……」
「恐れ入りましてございます」
 越前守と愚楽老人、一度にそこへ平伏した。畳をなめそうに、忠相は口を開いて、
「新茶の封に宇治で貼りました奉書は、封切りの茶事で縁を切りますだけで、蓋の奉書はそのまま残ります。その上へ、翌年また奉書を貼り、そのつぎの年は、またその上へ……年一枚と、上から上へ奉書が貼り重ねられまして、古い茶壺の蓋は、厚さ何分にも達する奉書の層ができておりまする。上様! 御慧眼のとおり、問題の地図は、その奉書のなかに貼りこめられてあるものと察せられまする」
「なるほど、考えたものだナ」
 感心した吉宗は、一刻も早くその秘密の地図を取り出したいものだと、にわかに興奮に駆られるようす。
「誰かある。何か、この紙を剥がすものはないか」
 ヘヤ・ピンではどうで……小姓が顔を出すのを待ちかねて、吉宗は叱りつけるように、
「コレ、何か薄刃のものはないか。小刀でもよい。とく持て」
 やがて小姓の捧げて来た小刀と茶壺の蓋とを、吉宗は愚楽老人へ突きだして、
じい、貴様は手先の器用を自慢にしておる。ていねいに剥がしてみろ」
 これは、大任です。
 何しろ、毎年糊で奉書をベッタリ貼りつけて、毎年その上へ上へと貼ってきたのが、何十年、イヤ、百年の余も貼り重なっているのだから、もうスッカリかたまって、一個のかたい物質に変化しつつある。
 しかも、ただ削り落としてしまえばよいのではない。
 一枚一枚、小刀の先で上から順々に剥がすのですから、愚楽老人たいへんな役目を言いつかったものだ。
 初代の柳生が隠したのですから、どうせ下のほうであろうけれど、もし傷つけでもしては、今までの苦心が水の泡。第一、日光御造営を目前にひかえて、柳生一藩、浮かぶ瀬のないことになる……と小刀のさきで蓋の紙をせせくる老人の額には、いつのまにか玉の汗が――。

 めったに緊張したことのない愚楽老人、このときだけは、小刀で蓋の紙を剥がす手が、ワナワナとふるえたといいます。
 それはそうでしょう。
 何しろ……。
 貧乏と剣術をもって天下に鳴る柳生藩に、莫大な財産がかくされてあるとの、諸国潜行の隠密、お庭番の報告を土台に、このたびの日光大修営の建築奉行を柳生対馬守におとすべく吉宗公に進言したのは、そのお庭番の総帥そうすいたるこの愚楽老人……今この壺の蓋から埋宝の個所を明記した古図が出てこない日には、愚楽さんの責任問題だ。
 だが、しかし――百年もの長いあいだ、毎年上から上へと、糊と奉書で貼りかため、そいつがうずたかい層をなしているんだから、ちっとやそっとではうまく剥がれっこありません。
 もし小刀の先で傷つけでもしようものなら、元も子もなくなる……。
 上から削るように、紙を剥がしてゆく老人のしわ深い額には、水晶のような汗の玉が――そしてまた、その愚楽の手もとを見守る八代将軍吉宗様と、大岡越前守の手にも、いつのまにか汗が握られているので。
 壺一つを中に、当時天下をおさえた三賢人の吐く息が、刻々熱く、荒らくなる。
 物事の肝どころをツボと言いますが、それは、このこけ猿の茶壺から起こったのです。
「紙というものは……こうしてみると――わりかた……丈夫な――ものとみえる」
 愚楽老人、そう一言ひと言、切って言いながら、心気のすべてを小刀のさきに集めて、一生懸命、
「世辞をかためて浮気でこねて――じゃアねえ、糊でかためて時代がたって……まるで岩のようじゃわい」
 と愚楽、あまりに緊張しすぎた室内の空気を、笑いほごそうとするかのように、そんなことを言った。
 が、その気分の緩和策も、なんの役にもたたない。
 紙はめくり進んで、もう柳生時代のころに達したらしく、糊と紙のあいだにいつのまにか虫がわいたとみえて、模様のような虫食いの跡が見えてきた。それと同時に、息づまるような三人の力の入れ方もいっそうせまって、今はもう、部屋の空気そのものが固化したよう……緊張の爆発点。
 と! そのときでした。
「オヤッ!」
 と、愚楽老人が叫んだのです。そして、手の小刀をほうり出して、
「あった! 出てきた! ホレ、上様、越州、字が書いてある? ソラ、この下の紙に、うっすらと字が見えまするぞ」
「ドレドレ! ホホウ、なるほど、何やら墨の跡がすけて見えるわい」
「御老人、早く、その上の紙をお取りなされ」
「損じてはならぬぞ」
「心得ております。ここが千番に一番の掛け合い――」
 愚楽老人は、紙の端にそっと爪をかけて、静かに、しずかにきはじめた。上の奉書が注意深く剥がされるにつれて、下から出てきたのは、何やら文字と地図らしいものの描かれた、一枚の古びた紙!
 こけ猿の壺の秘密は、いま明るみへ出ようとしている。
 何百万、何千万両とも知れない。柳生の埋宝!
 老人の手が、上の紙を剥ぎ終わりました。六つの眼が、凝然とひとつに集まる。
 押しつぶしたような無言ののちに、声に出してその文字を読んだのは、吉宗公であった。
「常々あ○○心驕○て――」

「常々あ○○心おご○て湯水のごとくつかい、無きも○○なるは、黄金なり。よって後世一○事あるときの用に立てんと、左記の場所へ金八○○両を埋め置くもの也――」
 そこまで読んだ八代公は、紙片から顔をあげて、のぞきこんでいる愚楽と越前守を見まわした。
「ところどころ虫が食っておって、よく読めぬ。わからん個所には字を当てて、判読せねばならぬが」
 横合いから、愚楽老人がスラスラと読んだ。
「常々あれば心おごりて湯水のごとくつかい、無きも同然なるは黄金なり。よって後世こうせいちょうことあるときの用に立てんと、左記の場所へ金――サア、これはわからぬ。八百万両やら八千万両やら、それとも八十五両やら、とにかく、八の字のつく大金」
「シテ、その埋ずめある場所は?」
 忠相の問いに、八代公は、その古びた紙を灯にすかして見ながら、
「武蔵国――アア、どうしたらよいか。このとおり虫が食っておってあとは読めぬ」
 愕然として他の二人は、同時に左右から首をさしのべて、
「いや、それはたいへんなことでござります。せっかくここまでこぎつけたのに、肝腎の個所が虫食いとは……?」
「図のほうではわかりませんか」
 文字の下に、小さな地図がついているのだけれど、それはいっそう虫のくった跡がはげしく、ほとんど何が書いてあるかわからない。
 消えた線を、指先でたどっていた吉宗、
「これはハッキリ読めたところで、たいした頼りにはならぬであろう。ほんのその一個所の地図にすぎぬから……ホラ、この、山中の小みちが辻になっておるところに立って、右手を望めば、二本の杉の木があって――あとはどうにも読めぬが、苔むした大いなる捨石すていしのところより、左にはいり……とある」
「山の中の小みちが四つに合し、その辻から二本の杉が見えて、捨て石があって……これが武蔵国のどことも知れぬとは、もはや探索の手も切れたも同然」
 暗然たる愚楽老人の言葉に、越前守は、膝をすすめて、
「しかし、埋宝のあることは、事実でござりますな。だが、大さわぎをしたこけ猿の茶壺は、ただ、これだけのことであったのか」
 愚楽老人は憂わしげに、
「柳生はどうするでありましょう」
 吉宗公が、
「どうするとは?」
「イエ、さしあたっての日光修営の費用――柳生は、この壺だけを頼りにしておりますのに、武蔵国とだけでは、まるで雲をつかむような話。こうなると、剣にかけては腕達者揃いの柳生藩、苦しまぎれに天下をさわがせねばよいが」
「上様」
 と改まった声で、両手をついたのは、越前守忠相、
「柳生を救うため、また、日光御造営に関して、不祥ふしょうな出来事を防ぎますために、ここは上様、一計が必要かと存じますが」
「事、権現様の御廟に関してまいります」
 愚楽老人も、そばから口を添えるのを、聞いていた吉宗公は、ややあって、
「ウム、みなまで言うにはおよばぬ。そのように取りはからえ」
「ハッ。それでは、日光に必要なだけの金額を……」
「そうじゃ、どこかに埋めて――」
「その所在を図に認めて、これなる壺に納め、それとなく伊賀の柳生の手へ送りとどけますことに……」
 御寝の間に謀議は、いつまでも続きます。

「しかし、上様……」
 愚楽老人は何事か思いつめたように、
「ちょっと、その、張りこめてあった地図を拝見――」
「誰が見たとて同じことじゃ」
 将軍様のさしだす、古びた小さな紙片を、愚楽老人は受け取って、
「フーム、あれほど禍乱のもととなったこけ猿が、ただこれだけの物であろうとは、チト受け取りかねる。のう越前殿、この紙の虫食いの跡を、貴殿はなんとごらんになるかナ?」
「古文書に虫の食ったように見せかけるには、線香で細長く焼いて、たくみに穴をあけるということを申しますが、まさかそんなからくりがあろうとも――」
「イヤ、わからぬ。わかりませぬ――」
 と愚楽老人は、からだに不釣合いな長い腕を、ガッシと組んで、考えこみました。
「これほど用心をして、大金を隠した初代の柳生、念には念を入れたに相違ない。これはことによると、同じようなこけ猿の壺が、まだほかに、一つ二つあるのかもしれませぬぞ」
「考えられぬことではない」
 と沈思の底からうめいたのは、八代吉宗公で、
「大切な手がかりを、ただ一つの壺に納めたのでは、紛失、または盗難のおそれもある。戦国の世の影武者のごとく、同じような壺を二つ三つ作り、そのうちの一つに真実の文書を隠しておくということは、これは、ありそうなことじゃわい」
 どうやら、三人の話の模様では。
 この壺もほんとうのこけ猿かどうか、危くなってきた。
 そうすると……。
 あの、最初に婿入りの引出物として、伊賀の暴れん坊が柳生のさとから持ってきたあれも、果たして本当のこけ猿? もしあれが真のこけ猿の茶壺でないとすれば、本物はまだ柳生家にあるのか?――
 無言の三人のうえに、城中の夜の静寂が、重い石のようにおおいかぶさる。
「ま、壺の真偽は第二といたしまして、日光を眼の前に控えて、柳生は今や死にもの狂いのありさまでございますから、御造営に必要なだけの金は、さっそく、それとなく授けますように、お取り計らいを願いたいと存じまする」
 越前守の言葉に、吉宗と愚楽は、われに返ったよう。
「ウム、それはそうだ。では、さきほどの案を、取り急ぎ実行するように」
 日光着手の日が近づいている今となっては、何よりも、まず財政的に柳生をたすけて、とにかく、御修理に着手させるのが、目下の急務である。
 隠してある財産などがあっては、その子孫に、いつなんどき、謀叛骨の高いのが現われて、天下の騒ぎを起こさないともかぎらない。それを防ぐために、財産を吐き出させようと、大金のかかる日光大修営のくじを落としたのだけれど。
 今は、あべこべに。
 将軍様が機密費を出して、それで名家柳生を救わなければならないことになった。
 これじゃアまるで、天へ向かって唾をしたようなもので、あの金魚籤で死んだ不幸な金魚が、ざまアみやがれと言ったといいます。
 だが、ただ公儀から金がおりたというのでは、柳生も体面上受けとりにくいし、他の諸侯へのきこえもある。
 愚楽老人は、せかせかと手をたたいて、お小姓を呼んだ。
「料紙と硯箱、それに、線香を一本持ってきてくださらぬか」

 それから二、三日した明け方のことです。
 麻布林念寺前の、柳生の上屋敷。
 その邸内の一角、尚兵館しょうへいかんと名づけられた道場に、わざわざ伊賀から下向した壺探索の一隊を引きつれて寝とまりしている高大之進――イヤ、驚きました。
 驚いたわけです。
 春眠あかつきを覚えず……夢うつつの境で、ウトウトとしていた横っ腹を、イヤというほど蹴りつけた者がある。
「ヤッ、何やつ?」
 がばとはね起きてみると、ナニ、蹴ったんじゃアない。若い伊賀侍の一人が、何かに驚きあわてて部屋へとびこんでくる拍子に、大之進の胴ッ腹につまずいたんです。
「ナ、何をする」
「何をするじゃアございません。たいへんです。たいへんです! ふしぎなこともあるもので、いま私が、朝早く起きて、庭で……」
 と、その言うところは、こうだ。
 この若い弟子、いつも恐ろしく寝坊なんだが、今朝にかぎってすこし早起きをして、庭へ出てラジオ体操――じゃアない、木剣を振っておおいに三文のとくを味わおうとしていると、
「これが驚かずにいられますか。あのお庭の根あがり松に、何がぶらさがっていたとおぼしめす、高隊長殿」
「まさか、天人の羽衣でもあるまい」
 まわりに寝ていた連中も、ゴソゴソ起き出て、
「首くくりでもブラさがっていたのか」
「何を不吉なことを申す」
 若侍は躍起になって、
「天人の羽衣よりも、もっと貴重な品ですぞ、隊長殿。こけ猿の壺に縄がついて、あの根あがり松の下枝に、ひっかかっておるではござらぬか。それが、さわやかな朝風に吹かれて、ブラーリ、ブラリ……」
「寝ぼけたな、貴様」
「夢にもこけ猿を忘れぬゆえに貴公、かわいそうに乱心めされて、さような幻影を見るようにあいなったか」
「こけ猿が松の木などに、ぶらさがっていてたまるものか」
「嘘だと思うなら、出て来て見るのがいちばんの早道だ」
 一同はがやがや言いながらその発見者の若侍に付き従って、ゾロゾロ庭先へ立ちおりてみると、高大之進をはじめ、尚兵館の一同、イヤ、驚きました。
 驚くわけです。
 庭隅の築山のふもと、江戸家老田丸主水正もんどのしょうが、何よりの自慢にしている一本松……。
 その梢に、黒い西瓜すいかのようにブラリとひっかかっているのは、紛れもないこけ猿の茶壺でございます。
 ポカンと口をあけた高大之進、
「ああ、わが輩も、寝てもさめてもこけ猿、こけ猿と思ううちに、かような怪しの幻を見るようになったか」
 とつぶやいて、思わず眼をこすったといいますが、それはそうでしょう。何しろ、そのこけ猿のためには、今まで多勢の人間が血を流し、またそのために、いま、若き主君伊賀の源三郎は行方知れず……丹下左膳などという余計者よけいものまで飛び出して、まんじ巴の必死の争いを描きだしているその中心――こけ猿の茶壺が、ぶらりとさがって、見つけた若侍の言い草ではないが、さわやかな朝の微風にそよいでいるのですから……。尚兵館の連中、声もない。

「ウーム、皮肉な壺だナ……」
 うめいた高大之進、松の木へかけよって、壺をにらみあげながら、
「探すときには姿も見せず、とほうにくれておると、こうして松の木などにぶらさがっている。だが、いったい何者の仕業であろうナ?」
 あたりの伊賀侍たちをジロジロ眺めまわしたが、こいつだけは誰にも返事ができない。
 とにかく。
 おそろしく変わった風景です。茶壺を荒縄で縛りあげて、そいつがブランと松の枝にひっかかっているんですから。
「昨夜深更に、何奴かが忍びいって……」
「しかし、これが真のこけ猿の茶壺とすれば、そやつは、よほどわれわれに好意を持っておる者と思わねばならぬ」
 屈強の若侍達が、壺を見上げて、ワイワイ言ってる。何かからくりがありそうで、うっかり手出しのできない気持――。
「おろせ!」
 大之進の命令に、一人が、おっかなびっくり背のびをして、そっと壺を、松の根方の芝へ取りおろしました。
「誰かその蓋をあけてみろ」
 こんどは一同尻ごみして、誰も手をかける者がない。
「スーッと一筋、怪しの煙が立ち昇ったかと見るまに、空中に、変怪へんげの形をとって、うらめしや伊賀ざむらい……ナンテことになるんじゃないかな」
「世相険悪じゃから、爆弾でも入っているのかもしれぬ」
 そんなことを言うやつはありません。
 中に勇敢なひとりが、芝生に片膝ついて、壺の蓋をとりにかかった。
「御油断めさるな、おのおの方!」
 誰かが、大時代の叫びをあげた。同時に、皆はパッとそくを開き、腰の一刀の柄に手をかけて、居合の構え――これには何者かの深い魂胆があるに相違ないと思うから、ビックリ箱をあけるような緊張だ。
 最初五分ほど、そっと蓋をずらして、中をのぞいてみたが、べつに煙も出なければ格別あやしい仕掛けもなさそうなので、また一寸ほど蓋を持ちあげてようすをうかがった。それでも、なんのこともないので、安心してぐっと中をのぞき、
「オヤ! 何もはいっていない……」
「ハテナ、空の壺を、こうしていわくありげに当屋敷へ届けたとは――悪戯にしては、あまりにもらちもない。何か仔細がなくてはかなわぬところじゃが」
 何もはいっていないとわかると一同大きに強くなって、ガヤガヤ始める。
「一応御家老へ届けいでずばなるまい」
 高大之進はその壺の口をつかんで片手にぶらさげ、庭を横ぎって田丸主水正の居間のほうへと、歩きだした。
 ひとりが、あとに落ちていた壺の蓋を拾いあげて、
「高先生! 蓋が――」
「蓋などいらん、捨ててしまえ」
「しかし」
 と追いすがって、
「壺についておるものですから……」
「そうか。じゃ、まア、蓋も持って行こう」
 めんどうくさそうに受けとった高大之進、その、丸い木の上へ奉書を幾重にも貼りかためた壺の蓋を、グイとふところへねじこんで、片手の壺を大きく振りながら、主水正の居間の外へとやって来た。
「御家老様、まだおやすみですか」
「馬鹿なことを言いなさい、年よりは早く眼がさめて困るものじゃ。さきほどから庭がやかましいようじゃが、何かナ? 小判でも掘り当てたかの?」

 埋宝のことが絶えず頭にあるものだから、、何かというとすぐ、小判を掘り当てたか……なんて、まるでリュウリック号みたいなことばかり言う。
「ごめんを――」
 と大之進は、高縁のきざはしをあがって、つぎの間の障子をあけた。
 書院造りの居間。
 柳生家江戸家老、田丸主水正は、鼈甲べっこう縁の眼鏡を額部ひたいへ押しあげて何か書見をしていた経机から、大之進のほうを振りかえった。
「オ、なんじゃ。そんなうすぎたないものを座敷に持ちこみおって……」
 と小言をいいかけた主水正、二度見なおして、イヤ、驚きましたネ。
 驚くわけです。
 夢にも忘れないこけ猿の茶壺……主水正は、操り人形が糸につられるように踊るように、両手をくうに泳がせて、フワフワッとたちあがろうとした。
「こ、これ、とうとう――お壺を、手に入れてくれたか、いや、でかした、でかしたぞ! 大之進」
「いえ、御家老、落ちついてください。何者が、いかなる考えあっての仕業かは存じませんが、昨夜お庭へ忍びこんで、この壺を縄で松の木へぶらさげたやつがあるんです。いま見つけて、大騒ぎをしたうえあけてみましたところが……」
「ウム! はいっておったか?」
「ですから、落ちついてくださいと申しあげるのです。何もはいっておりませぬ」
「ナニ、壺はから……!」
 夢みるように、じっと考えていた田丸主水正――すると、です。たちまち、ニッと微笑を洩らしたかと思うと、
「ハハア、そうか」
 ここに越前守、愚楽、吉宗公の三人と同じ言葉をつぶやいた田丸老人、きっと高大之進へ眼をすえて、
「蓋がないではないか、これ、この壺の蓋はどうした」
 急にあわてだした家老のようすに、大之進もいっしょにあわてて、
「蓋……と。蓋などは、さっき捨ててしまいましたが――」
「ナ、何? 壺の蓋をすてたと? 馬鹿者めッ! 棄てたとて、まだお庭にころがっておろう。早々そうそうに拾ってまいれ、たわけがッ!」
 はッ!――とお辞儀をしようとした大之進、なんだか懐中にこわばった物がはいっているから、フト思い出して、
「あ! ここにございました。手前、受けとって懐中へ入れてまいりましたのを、とんと失念。とんだ粗忽をいたしました」
「言い訳はよい。出しなさい、早く」
 こんな壺の蓋なんか、どうでもよさそうなものだのに、お爺さん、年のせいでどうかしてるな――と大之進、心中おかしくてたまらないが、相手が家老ですから、
「中がからっぽで、おまけに蓋がなければ、これこそほんとに身も蓋もない――あいすみません」
 差し出す丸い蓋を、主水は待ちきれぬようにひったくって、しばらくジッとみつめていたが、
「うん、そうだ。この、年々上から上へと張り重ねてきた奉書の封の下に、貼りこめてあるに相違ない。イヤ、こことは誰も気がつかぬであろう。大之進! お家は助かりましたぞ。その床の間のわしの刀の小柄を取ってくれ――待っておれよ。今ここに、柳生の大財産の所在ありかをしるした、御先祖の地図を取り出してみせるからな。早く小柄を持ってまいれと言うに。えいッ。何をしておるのだ!」

 壺の蓋をおしいただいた田丸主水正、大之進の抜きとってきた小柄で、丁寧に紙を剥ぎながら、
「高、儀作は?」
 若党儀作のことです。
「おります、さっき庭へ出ておりましたが……お呼びいたしましょうか」
「イヤ、旅立ちのしたくをさせてくれ」
「どこかへ御出発になるので?」
「いま埋宝の所在が明らかになるから、そうしたら、さっそく儀作を国おもてへ知らせに走らせようと思ってな」
「しかし、まだ……」
 ハテナ? と主水正は首をひねった。なんとなく、蓋に貼り重ねてある紙に、最近手をつけたような感じが見られる。だがそれも、ちょっと変だと思っただけで、つぎの瞬間、あせりにあせって紙をめくりすすんでいくと、
「ア、あった! 出てきたぞ」
 さけんだ主水正は、喜びにふるえる手で、剥ぎとった一枚の紙片を高大之進のほうへ突き出した。
 見ると……。
 虫食いのあとのいちじるしい紙に、何やら文字と、地図らしいものがしたためてある。
 虫食いのあとは、線香で細長く焼いたので。
 蓋に貼りこんであった古い奉書の一枚に、薄墨でそれらしく、愚楽老人が書いたのを、いま言ったように線香で焼いたり、ところどころ番茶でよごしたりして、古めかしく見せたものなのです。
「常々あ○○心おご○て」
 というあたりは、原物のとおりだが……どうも巧みに作ったものです。これなら誰が見ても、御先祖の書き物としか思えない。愚楽老人、実に達者なものだ。千代田の大奥で上様のお背中なんか流しているより、ほかに商売がありそうです。
 ただ日光の金が将軍家から柳生へおりるでは、造営奉行に当たったものが費用万端を受け持つという、在来の慣習が破れてしまう。柳生も受け取ることはできなかろうと、そこで、吉宗、愚楽、大岡越前が相談のうえ、この細工をしたことは、前に言ったとおりですが、主水正、そんなことは知らないから、かぶりつくように読んでゆくと、文句は、ところどころ虫くいらしく線香で焼いてあって、よく読めないが、地図は……。
 地図のほうまでわからなくしてしまっては、なんにもなりません。
 どうやらおぼえのある地図――その下に、一行の文字が走っていて、武蔵国むさしのくに江戸えど麻布あざぶ林念寺前りんねんじまへ柳生藩やぎうはん上屋敷かみやしき
 オヤ! 主水正、大声をあげた。見おぼえがあるわけで、いま現に自分の住んでいる屋敷の図面ではないか。庭の隅の築山のかげのところに、×の印がついているのは、財産はここに埋ずめてあるというのであろう。主水正と大之進は、顔を見合わせた。双方唾をのみこむだけで、いつまでもだまっている。
 やっとのことで、大之進が、
「御家老、このお上屋敷は、御当家御初代の時代から、ずっとここにお住まいになっていたのでございましょうか」
 主水正は答えません。じっと考えこんでいるうちに、はじめて彼は、思い当たった。
「これは、真のこけ猿ではないのだ」
「えッ? 本物ではない……だが御家老、こうして古い書きつけまで現われ、埋ずめてある場所も、わかったではございませんか。しかも、この屋敷の庭の隅と――」
「大之進、至急したくをしてくれ。お城へあがって……そうじゃ、愚楽様にお目にかかるのじゃ」

 それから一刻いっとき、二時間ののちに。
 千代田城の一室で、膝を突きあわせんばかりに対座しているのは愚楽老人と、柳生藩の江戸家老田丸主水正の二人。
「ははア、それはおめでたいことで――こけ猿の茶壺が、そうたやすく見つかって、大金の所在ありかも判明いたしたとは、祝着しゅうちゃく至極、お喜び申しあげる」
 そう言う老人の顔を、主水正は、じっとみつめてニヤニヤ笑いながら、
「それが、その、ふしぎなことには、林念寺前の手まえども上屋敷の、庭隅に埋めてあるというので、ヘヘヘヘヘ」
 けろりとした愚楽老人、
「それはまた、たいそう近いところで、便利でござるな。これが奥州の山奥とか、九州のはずれとかいうのだと、旅費もかかる。掘り出す人夫その他、第一、他領ならば渡りをつけねばならんしな」
「ハイ、おっしゃるとおりで」
「そんなことをしておっては、ちっとやそっとの財産は、それで元も子もなくなってしまう。掘り出す費用と、掘り出す財産と、ちょうどトントンなどというのでは、やりきれんからな」
「ハイ、おっしゃるとおりで」
「さすが思慮深い御先祖だけあって、埋めるときまでに、そこらの点も御考慮になったものとみえる、イヤ、恐れ入った。持つべきはいい先祖だな」
「恐れ入ります。ところで、ふしぎなことがございますので――」
 よけいなことを言わせてはならないと、愚楽は大急ぎに、おっかぶせるように、
「それで、もはやその庭の隅をお掘りになったかな?」
「イエ、まだでございます。とりあえずこちら様へ、お礼言上に……」
「お礼? なんの、わしに礼を言うことがあるものか。――ウム、ナニ、自分の屋敷の隅なら、掘ろうと思えばいつでも掘れる。マア、そうあわてるにおよぶまいからな」
「ところが、ふしぎなことがございますので……」
 主水正、まだやってる。
 チェッ! 血のまわりの悪い親爺を、家老だなんて飼っておくもんだ。こっちの心づかいを察して、だまって掘り出しゃアいいのに――と愚楽老人は、ジリジリしながら、
「ふしぎ……とは、何がふしぎで?」
「ヘヘヘヘヘ、実はどうも、なんともはや、申しわけございませんしだいで」
 と主水正、急に懸命にあやまりだしたから、サアこんどは愚楽老人のほうがわからない。眼をパチクリさせていると、主水正は首筋をかきかき、言いにくそうに、
「実は、お屋敷替えになって、ただいまの林念寺前に移りましたのは、一昨年のことでございます」
 ア! そうか!――と、そこまでは気がつかなかった愚楽老人、大狼狽だいろうばいをかくして、
「ホホウ、そうでござったかな」
「それまであそこは、京極左中様のお屋敷で、どうも手前どもの先祖は、人様のお屋敷へ忍びこんで、財産を埋めたものと見えまして、なんともハヤ、不調法を働きましたしだい、実に、どうも――」
 そんなことを洗いたてずに、ありがたくちょうだいしておけばいいのに、剣術の家柄の家老だけに、いやにカチカチの、融通のきかない親爺じゃな――愚楽老人はおかしいのをこらえて、
「イヤ、すると、当時あの辺は、野原か森ででもあったのでしょう」

 愚楽老人と主水正とのあいだに、いかなる長話があったものか……。
 それはわかりませんが。
 老人、スッカリうち明けて、この頑固一徹の柳生家在府家老を説いたものとみえます。
 ピッタリ両手をついてひれふしている主水正の前へ、愚楽さんは、ニヤニヤした顔を突き出して、
「じゃから、そういうわけじゃから、御藩をとりつぶそうのなんのというのが、決して御公儀の考えであるわけはなし、いわば、こけ猿の蔵しておる秘財の何分の一、イヤ、何十分の一――それは、真のこけ猿がみつかり、宝の所在が明らかにならねば、いかほどまでに莫大なる財産かわからぬから、しかとしたことは言えぬが、とにかくその一部分を日光につかわせようというのが、将軍家のありがたいおぼしめし……」
 あんまりありがたくもありませんが、そう言われる以上、主水正、いかにもありがたそうに白髪頭をいっそう畳にこすりつける。
 愚楽さんは静かに説きすすめて、
「しかるに、こけ猿に意外の邪魔がはいり、真偽いずれともしれぬ壺が、いくつとなく現われた」
「ハッ、その儀は、手前ども柳生藩の者一同、実にどうも、近ごろ迷惑しごくのことに存じおりまするしだいで」
「イヤ、そうであろう。黄金こがねのうずたかきところ、醜きまでにあらわな我欲迷執めいしゅうの集まることは、古今そのを一つにする。上様におかせられても、お手前らの困憊こんぱいがお耳に達し、なんとかして公儀の手をもって真のこけざるを発見してやりたいものじゃと、わしにお言葉が下がったので、届かぬながらもこの愚楽が、大岡越前守殿と相談のうえ、ある巷の侠豪……その者の名は言えぬが――に頼んでナ、ひたすら捜索してもらったのじゃ」
「ありがたき御芳志ほうし、手前主人にもなれなく取りつぎまする考え、いかに感佩かんぱいいたしますことか……」
「ところで、貴殿にうかがうが、いったい柳生のこけ猿と申すは、いくつあるのかな?」
「ハ?」
 と、ふしぎそうな顔を上げた主水正、
「いくつと申して――むろんそれは、一つにきまっております。他はすべて贋物」
「サア、それはわかっておるが、その贋のこけ猿が、二つ三つ御藩の手もとにも昔から伝わっておるのではないかな?」
「イヤさようなことはないと存じまするが、しかし、こけ猿の儀につきましては、国元なる一風宗匠と申す藩のお茶師にきいてみねば、何事も手前一存にては申しあげかねまする」
「そうであろう。先日某所より入手いたした茶壺、これこそは真のこけ猿に相違なしと、上様と越州と、拙者といきおいこんでその壺の紙を剥ぎ取りたるところ、なるほど虫食いのあとはげしき古図一枚、現われはしたものの、文言地図等簡略をきわめ、とても、思慮ある柳生家御先祖の真の書き物とは思われぬ。その虫食いのあとなどもナ、はなはだ怪しきもので――じゃが、こういつまでも本物のこけ猿がお手にはいらぬようでは、柳生殿の御迷惑こそ思いやらるる。でナ、こけ猿の詮索はしばらく第二に、御造営に入用な額だけは、上様のポケット・マネイを……ということになったのじゃ。マア、何も言わずに、お庭の隅を掘ってみなされ。正直爺さんポチが鳴く。大判小判、ザック、ザク――あっはっはっは」

「つつしみつつしみて申す。わが先祖おおおやここに地下ちのした黄金こがねを埋ずめ給いてより、梵天帝釈ぼんてんたいしゃく、天の神、地の神、暗の財宝たからを守り護り給うて……つつしみつつしみて申す」
 変な文句だが――。
 これでも田丸主水正、その白髪頭に、もう四、五本白いのをふやして、ひと晩かかって、やっと考えぬいた、これが、いわばまア、即席の祝詞のりとなんです。
 高大之進をはじめ尚兵館の若侍一同、今日は裃を着て、くすぐったそうに並んでいる。
 場処ところは、麻布林念寺前なる、柳生対馬守のお上屋敷。
 お稲荷様をまつってある築山のかげ。
 きょうはそのお稲荷さまなんか、あれどもなきがごときありさまで、今そのほこらのうしろの庭隅に、この壮大なお祭りが開かれようとしています。
 称して……お鍬祭。
 土を掘る縁起祝いだ。
 愚楽老人に対面して、急いでお城をさがった主水正、ひそかににせ猿の示した庭の隅へ行ってみるとなるほど、そこが三尺四方ほど新しい土を見せている。たしかにゆうべあたり掘り返して、何か埋ずめてあるらしい形跡。
 愚楽老人配下の忍びの者が五、六人、ゆうべこっそりこの邸内へ潜入して、ここに日光の費用を埋ずめ、またあの細工入りの壺を、松の木にひっかけていったというわけ。
 今は主水正、すべてが明らかだが、人心の動揺を思っては、これはあくまで先祖の埋ずめたもの、あの壺はどこまでも正真正銘のこけ猿ということに見せかけて、苦しい一時を糊塗せねばならぬ。
「殿の御出府を待って、しかるうえに、お手ずからお掘り願うとしよう。それまでは、何者もこの庭隅に近よることはならぬ。昼夜交替に見はりをいたせ」
 つい一昨年おととしまで他人の住まいだった屋敷に、こけ猿の財産が埋ずめてあるなんてエのは、どう考えてもうなずけない話だから、藩士一同、それこそ、お稲荷さまの眷族けんぞくに化かされたような形。
 それでも。
 埋宝発見の心祝いに、潔めの式をせねばならぬと言われて、こうして正装に威儀をただし、ズラリと変な顔を並べている。
 屋敷の庭の一隅が、急に聖地になりました。
 一坪の地面に青竹をめぐらし、注連縄しめなわをはり、その中央に真新しい鍬を、土に打ちこんだ形に突きさして、鍬のに御幣を結び、前なる三方には、季節の海のもの山のものが、ところ狭いまでにそなえてある。
 田丸主水正、いま前に進み出て……つつしみつつしみて申す、とやったところだ。
 若侍の一人が、となりの袂を引っぱって、
「ウフッ、どうかと思うね」
「こういうてがあるとは、知らなかったよ」
「こんなインチキをしていいのかしら」
 高大之進が振りかえって、
「もろもろはだまっておれ」
 めでたく式は終わって、これから大広間で酒宴に移ろうとしていると、合羽姿もりりしく、手甲脚絆、旅のこしらえをすました若党儀作が、やっと人をかき分けて、主水正に近づき、
「御家老、それでは私は、これからただちに伊賀のほうへ――」
「ウム、急いで発足してくれ。道中気をつけてナ」

 東海道を風のようにスッ飛ぶ超特急燕、あれでもおそいなどと言う人がある。もっとも、亜米利加の二十世紀急行、倫敦ロンドン巴里パリー間の金矢列車ゴールド・アロウ、倫敦エディンバラ間の「飛ぶ蘇格蘭人フライング・スカッチマン」……これらは、世界一早い汽車で。
 人間には、欲のうえにも欲がある。その欲が、進歩を作りだすのですが。
 どこへゆくにもスタコラ歩いた昔は、足の早い人がそろっていたとみえます。
 早足は、修練を要する一つの技術だった。
 歩きじょうずの人の草鞋わらじは、つまさきのほうがすり切れても、かかとには、土ひとつつかなかったものだそうで、つまり、足の先で軽くふんで、スッスッと行く。
 呼吸をととのえ、わき眼をふらずに、周囲の風光とすっかり溶けあって、無念無想、自然のひとつのように、規則正しく歩を運ばせる。
 この早足については、いろんな話がのこっております。水のいっぱいはいった茶碗をささげて、一日歩いても、一滴もこぼさなかったなんてことをいう、完全にからだの平均がとれて、一つもむだな動きがないから、全精力をあげて歩くほうに能力があがったというわけでありましょう。
 また。
 あるおそろしく足の早い人は、胸へ紙一枚当てて歩いて、けっして落ちなかったという。
 そうかと思うと、ある人の通り過ぎたあとには、あまりの勢いに空気が渦をまいて、屋根瓦が舞いあがるやら……そんなのは当てにならない。
 林念寺のお上屋敷をあとにした柳生家の若党儀作、たった一人で、伊賀の国をさして江戸を出はずれました。
 妙な荷物をかついでいる。
 例の松の木にぶらさがっていた贋のこけ猿を、ぐるぐるッと風呂敷包みにして、ヒョイと背中へはすかいに――。
 この壺の一伍一什いちぶしじゅうを知らせに走るのだから、証拠物件としてしょって来たのだ。
 同時に。
 壺の騒ぎを知る人に対しては、こけ猿ここにあり、という宣伝にもなる、が、何も御存じない連中には、大きな茶壺をしょって粋狂な! としか見えません。
 品川から大森の海辺へかけては、海苔をつけるための粗朶そだが、ズーッと垣根のように植えられています。名物ですなア。
 これが、江戸えどの江戸らしいものとわかれる最後さいご
 急ぎの旅だから、いい景色も眼にはいりません。六郷の水は、ゆるやかに流れて、広い河口のあたり、蘆のあいだに上下する白帆が隠見する。
 やがて神奈川、狩野川をはさんだ南北に細長い町。海に面した見はらしのいい場所に、茶店が軒を並べております。おなじみの広重の絵を見ましても、玉川、たるやなどとありますとおり。
 有名な文句の、
「おやすみなさいやアせ。あったかい冷飯もござりやアす」
「旦那さん、煮たてのさかなのさめたのもござりやアす。おやすみなさいやアせ」
 細い坂みちに姐さんたちが出ばって、口々に客を引く。儀作もようやく咽喉の乾きをおぼえましたので、潮風の吹きあげる縁台に腰かけて、
「日中はなかなかむすじゃあねえか」
 額の汗をふいておりますと、
「おやすみなさいやアせ」
 表のほうに、客引き女の黄色い声がわいて、儀作のあとを追うように、ズカリとその茶店へはいってきた一人の男。
 唐桟とうざんの袷をつぶに着て、キリッとしりばしょりをしている……小意気な、ちょいとした男前。

 ひさしぶりに、つづみの与吉。
 彼は。
 同じような茶壺がいくつも出てきて、与吉、とほうにくれてしまったんです。
 そのうえ、丹下の殿様も、むげえことをしたもので、あの伊賀の暴れん坊といっしょに、渋江の寮の焼け跡で穴埋めにされてしまった。
 あのあとから、泰軒坊主とトンガリ長屋の連中がおしかけて、掘り返したそうだが、出てきたのは、水、水――水だけだったと聞いたが……それはそうと、若き主君を失った源三郎づきの伊賀侍たちは玄心斎、谷大八をはじめ、一同まだ妻恋坂の司馬の道場にがんばっている。あの若者にかぎって、奸計におちいるようなおひとではない。かならずや近いうちに、どこからかブラリと現われるに相違ない。相変わらず蒼白い顔に、不得要領の笑みを浮かべて、ふらっと懐手をしたまんま。
 そう信じて、みんな今か今かと、源三郎の帰りを待ちかまえている。同じ屋敷内の峰丹波一味と、いまだに睨み合いをつづけたなりで。
 本物の壺がどこにあるかわからないから、どっちについていいか見当のつかない鼓の与の公。
 おっかなビックリで訪ねて行った尺取り横町のお藤姐御の家には貸家札がななめに貼られて……。
 近処の人に、それとなく聞いてみると、
「サア、なんですかね。もうだいぶ前ですけれど、姐さんはバタバタ家をたたんで、どこか旅に出るとかって、フラッといなくなりましたよ。もう江戸にはいないと思いますがね」
 という返事だ。
 そこで。
 鼓の与吉。
 あちこちへまなこをはなって、世間のようすをながめると――。
 チョビ安は泰軒先生に引き取られてトンガリ長屋の作爺さんの家に、お美夜ちゃんを加えて四人、水いらずの楽しい暮し……というところだが、泰軒とチョビ安、大小二人のかわり者が、作爺さんの屋根の下に居候にころがりこんでいるわけ。
「あのチョビ安を抱きこんで、ここでなんとか一芝居うってみてえものだが――」
 とは思うものの、与の公、頭をかいて、
「どうも、あの泰軒てえ乞食野郎がいるあいだは、恐ろしくて寄りつけもしねえ」
 手も足も出ない与吉。それでもまあどうやら丹波の御機嫌を取りなおして、妻恋坂道場の供待ち部屋にごろっちゃらしながら毎日、麻布林念寺前の柳生の上屋敷のあたりをうろついていますと……。
 ある日のこと。庭の隅がガヤガヤするから、武者塀の上からヒョイとのぞいて見ると、注連縄を張りめぐらし、ありがたそうに鍬を拝んで……お鍬祭。
 ふしぎなことをすると思った与の公、とび帰って峰丹波に報告する。
 さすがは、不知火流の師範代として、智も略もある人物。じっと眼をつぶってしばらく考えていたが、
「与吉、すまぬが、すぐに草鞋わらじだ」
「ヘエ、あっしがはきますんで。だが、どっちの方角へ向けてネ?」
「ウム、今日にも林念寺の屋敷から、国おもて柳生藩をさして、急使がたつに相違ない。貴様、そのあとをつけてナ、ようすをさぐるのじゃ。源三郎の兄対馬守が出府するようなことがあっては、当方にとってこのうえもない痛手じゃからのう」
 みなまで聞かずに、気も足も早い与吉兄哥あにい、オイきたとばかり、すぐその場からお尻をはしょって、東海道をくだってきたのです。

 一本道の街道筋。
 チラホラ先へ行く旅人のなかに壺をしょって、恐ろしく早足にすっとんで行く若党姿を認めたのは与吉が六郷の川を渡って、川崎の宿へはいりかけたころだった。
 たびたびのことでりているから、それをけっしてほん物のこけ猿だとは思わないが。
 なにしろマア、ここでひさしぶりに茶壺らしい物を拝むとは、幸先さいさきがいい。おおぜいの人数で、大さわぎしてまもって行く壺こそ、贋物かもしれねえが、こうやって若党一人が、何気なく見せかけて、ヒョイと肩へかついでゆく壺……こいつはおおいに怪しいぞ。
 芝居気のあるやつで、道の真ん中に立ち止まり、左の袖口へ右手を入れて、沈思黙考の体よろしく、与の公、首をひねったものだ。
 それから。
 腰の手拭をバラリと抜いて、スットコかぶり、あんまり相のよくない風態です。
 すたすたと足を早めたまではいいが、先方の若党も、おっそろしく足がきく。
 はじめ、与吉の考えでは。
 柳生藩の急使という以上、すくなくとも五人や十人の供を連れて宿継ぎの駕籠かなにかで、ホイ! 駕籠! ホイ! とばかり、五十三次を飛ばして行くに相違ない。
 自分はひとまずさきに街道へ出て、どこかの立場茶屋にでも腰をかけ、眼を光らせていれば、金輪際にがしっこはないのだ。見つけしだい、あとをつければいいと、そう思って、柳生の使いより先に旅に出たつもりなのだが……。
 いくら振りかえっても、早駕籠はおろか、急使らしいもののかげも見えない。
 ハテナ?
 と与の公、小首をかしげたとたんに、六郷の宿で、この、さきへ行く壺の姿を見つけたというわけなんだ。
 儀作の足も早いが、与吉の韋駄天は有名なものです。
 今まで毎々まいまいヤバイからだになって、一晩のうちに何十里と、江戸を離れてしまわなければならない必要にせまられるから、いやでも応でも、早足は渡世道具のひとつ。
 で……やっと追いついたのが、この神奈川の腰かけ茶屋。
「おやすみなさいやアせ」
「何を言やアがる。やすむなといったって、おいらアこの家に用があるんだ。今ここへ、茶壺がへえったろう」
 オットットット! 口をおさえた与吉、見ると、土間をつっきった奥の腰かけに、その茶壺のつつみをそばに引きつけた若党が、渋茶か何かで咽喉をうるおしているから、イヤ、与の公、ことごとくよろこんじまって、
「これは、どうも。よい風が吹きますなあ。そのお腰かけの端のほうを、あっしにも拝借させていただきやしょう」
 口のうまいやつで、そんなことを言いながら、
「あれが安房あわ上総かずさの山々、イヤ、絵にかいたような景色とは、このことでしょうナ。海てエものは、いつ見ても気持のいいもので」
 一人でしゃべりちらして、海にみとれるふう……かたわらにある儀作の飲みかけの茶碗をとって、口に持ってゆこうとする。儀作がおどろいて、
「ああもしもし、それは私の茶碗だが――」
「オヤ! そうでしたね。イヤ、これはとんだ粗忽そこつを。だがね、あなた様のお飲みかけなら、あっしは、ちっともきたないとは思いません。イエ、お流れをちょうだいいたしたいくらいのもので」
「何をつまらんことを言いなさる。ソレ、お前さんの茶碗は、ここにあるよ」

「なるほど、あらそわれねえものだ。あっしの茶碗は、ちゃんとここにあらアヘヘヘヘ」
 なんかと与の公、何があらそわれねえものなのか……しきりに感心している。
 ガブリとひとつ茶を飲んで、何やかや一人で弁じだした。
 口前くちまえひとつで人にとりいることは、天才といっていいほどの鼓の与吉。
 武家奉公で世間もせまく、年も若い儀作は、これが機会しおとなって、うまうままるめこまれたと見える。
「旅は道づれ、世は情けてえことがありまさあ」
 与吉のやつ、古い文句をならべて、
「オウ、姐さん、茶代はここへ置くよ。このお侍さんの分もナ」
 チャリンと二つ三つ、小粒を盆へ投げだす。
 儀作はおどろいて、
「イヤ、私の分まで置いてもらうわけはない。どうぞ、さような心づかいは御無用に願いたい」
 与吉は平手で額をたたいて、
「そうおかたいことをおっしゃるもんじゃあござんせん。ナニ、ほんのお近づきのおしるし、ヘヘヘヘヘ、手前の志でございますよ」
 相手にものを言わせまいと、与吉は大声に、
「へらへらへったら、へらへらへ! へらへったら、へらへらへ――サア、めえりやしょう。あっしゃアね、真実、旦那の気性きっぷに惚れこみやした。実にどうも、お若いに似ずたいしたもので。さすがはお侍様……あっしみてえな下司な者と同道しやすのは、さぞ御迷惑ではござりましょうが、そこがソレ、ただいまもいう旅は道づれ、へらへったら、へらへら……」
 先に立って腰かけを離れた与の公は、ごく自然に壺へ手を出して、
「お荷物、お持ちやしょう」
 と壺を取りあげようとするから儀作は胆をつぶし、
「アイヤ、それは主君よりおあずかりの大切なお品。手を触れてはならぬぞ」
 旦那とかお侍とか、さかんにおだてられて、若党儀作、ちょいといい気持になってしまった。いっぱしの武家らしく、言葉使いも急に角ばってきたのは、与吉のおべんちゃらが即効を呈したのでございましょう。
 人間の弱点。
 それを見ぬいている与吉は、
「マアマアそうおっしゃらずに。持ち逃げしようとは申しません。旦那の家来とおぼしめして、あっしにお荷物をかつがせておくんなせえ」
 とめる暇はなかった。
 つつしんで壺の包みを持って、与吉のやつたちあがってしまったから儀作もしかたない。ナニ、すこしでもあやしいふしが見えたら、そのときとっておさえればいいのだと、
「おもしろい町人だ。では、ソクソクまいるとしようか」
 いつも家来の身が、急に家来ができたのですから、にわかにそっくりかえって、茶店をあとにしました。
 袖すり合うも他生たしょうの縁。
 つまずく石も縁の端。
 いろいろ便利な言葉がある……この場合、与吉にとって。
 そんなことをベラベラ弁じたてながら、与吉は儀作から一歩さがって、お追従たらたらについてゆく。
 もとより、気を許しはしない。
 変なそぶりが見えたら、抜きうちに……儀作が心を配って行くと、
「オヤッ! あれはッ!」
 不意に手をあげて、与の公、前方まえを指さした。
「なんじゃ! 何が見える」
 儀作がつりこまれて、爪立つまだちして道のむこうを望み見たとき。パッともと来たほうへかけだしたんです、与吉の野郎。

 あれから、何日たったろう。
 それとも、もう十何日?
 とにかく……。
 今になっても、柳生源三郎が現われないところをみると、あのとき、あの穴の底で三方子川の水にひたされて、お陀仏になったにきまっている――。
 とは、峰丹波一味の、たれしも思うところ。
「ああ、自分ほどあわれなものがあろうか。恋しいと思う人を、あんな手段で亡きものにしなければならなかったとは」
 かってな人もあったもので、こんなことを考えてひとりふさいでいるのは、司馬十方斎先生の御後室、お蓮様。
「でも、あの方もあまり強情すぎたから、こんなことになったんだわ」
 胸に問い、胸に答えて、このごろは部屋にとじこもって考えこんでばかりである。
 ふしぎなのは、同じ屋敷内の奥まった部屋部屋にがんばっている安積玄心斎、谷大八等、伊賀から婿入り道中にくっついてきた連中です。
 主君の仇敵かたきは、同じ邸内のこの丹波とお蓮様の一味とわかっているはずなのに。
 源三郎はいてもいなくても、同じことだと言わぬばかり、なんのかわりごともなかったかのごとく、今までと同じく朝夕を続けているだけ。
 渋江の寮の火事から、この妻恋坂の道場へ引きあげた当座は、今にも、奥座敷の伊賀侍から斬り込みがくるかと、日夜刀の目釘を湿し、用心をおこたらなかった丹波の一党も、何日過ぎてもなんのこともないので、だんだん気がゆるみ、
「柳生一刀流などと申しても、しょせんは、一人二人の秀抜な剣士をとり巻く烏合うごうの勢にすぎぬとみえますなあ」
「さようさ。まず柳生対馬守と源三郎、恐るべきはあの兄弟だけで、ほかには骨のある者ひとりもおらぬとみえる。主人に害を加えたは、われらとわかっておっても、復仇ふっきゅうひとつくわだてるではなし、ああやってのんべんだらりと日を送っているとは、イヤハヤ、見さげはてた腰ぬけの寄りじゃテ」
「ひとつ、笑ってやれ、そうじゃ、皆そろって、笑ってくれようではござらぬか」
 などと、ものずきな若いやつらが五、六人、縁側へ出て、奥庭のほうをむいてワッハッハッ、ハッハッハッ……と、頼まれもしないのに、御苦労さまに笑い声を合わせる。
 妻恋坂上一帯を領している、宏大もない司馬の屋敷。
 植えこみやら、芝生の小山やらをへだてて、はるかむこうの棟に、伊賀の連中がいすわっているのですが、しんとしずまりかえって、ウンともスンとも答えない。
 はやる若侍たちを一手におさえて、師範代安積玄心斎が、
「マア、待て! 早まったことをしてはならぬ。今にも殿がお帰りになろうもしれぬ。その話をうけたまわったうえで、御命令ひとつでは、剣の林はおろか、血の池へもとびこみ、しかばねの山を築こうわれらではないか。コレ、しばらく忍べ」
 と、必死にしずめているのです。
 事実、今にも源三郎が、フラッと帰ってくるに相違ない――玄心斎は、そうかたく信じて疑わぬので。
 しかし。
 亡くなった老先生に、萩乃の夫と懇望され、藩主対馬守とのあいだにかたい話し合いがついて、それで乗りこんできたこの婿入り先なのに、その不知火流の道場には、意外な陰謀が渦を巻いていて、肝腎の若君はいま行方不明……。
 源三郎に陰膳すえて、道場方とにらみ合い――ふしぎな生活がつづいている。

「御気分はいかがで」
 峰丹波は、大きなからだに入側いりかわの縁をきしませて……表むきはどこまでも、御後室様と臣です。申し訳にそっと片膝ついて障子をあけながら、そう、面ずれの跡のどぎつい顔を、お蓮さまのお部屋へさしいれた。
 侍女をも遠ざけて、ただひとり。
 脇息きょうそくに、ほっそりした被布ひふ姿をよりかからせていたお蓮様は、ホッと長い溜息とともに、眉のあとの赤い顔をあげるのも、ものうそう……。
「何度も言うようじゃが、寝覚めが悪いねえ、丹波」
「またさようなことを――!」
 眼も口も、人の倍ほどもある大柄な丹波の顔に、すごい微笑えみがみなぎって、
「お蓮様ともあろう方が、あんな青二才のことをいつまでも――はっはっはっは、イヤ、私はまるで胸がつかえるようなうっとうしい気持です。あっちへまいれば、萩乃様は萩乃様で、源三郎をおもって、シクシク泣いてばかりおいでになる。こっちへ来ればこっちで、あなた様が同じ源三郎をあきらめきれずに、この気っ伏せのありさま。どうもおもしろくない」
 と、はいって来て、
「いけませんな。そうクヨクヨなされては。なくなった大先生のおぼしめしどおり、源三メを萩乃様に添わせて、われらはこの道場を立ちのくか――面目にかけてそれができぬ以上、あれくらいの荒療治は当然ではござりませぬか。サ、御後室様、お気をなおして、すこしお庭先でもお歩きになっては」
 お蓮様は返事もしない。頭痛でもするのか、白い華奢きゃしゃな指さきで、しきりにこめかみを押え、額に八の字を寄せてだまりこくっている。
 丹波もしばらく無言。ジットそのようすをみつめていたが、やがて、ズイと双膝もろひざをすすめて、
「御相談……」
「なんだエ? また御相談――ほほほ、お前の相談というのは、悪いたくらみにきまっている」
「同じ穴の狸ではござらぬか、そうどうも信用がなくては、ははははは」
 声だけで笑った丹波、キラリと眼を光らせると、声を低めて、
「もう今となっては、万が一にも柳生源三郎が、生きてかえる心配はございませぬ。今日まで待ってなんの音沙汰もないところをみると、もはや大丈夫……そこで今日にでも拙者が、亡き先生のお跡目になおり、この道場をいただくという流名相続の披露をいたしたいものでござるが」
 予定の計画ですから、お蓮様はいまさら驚くこともない。むしろ自分から出た陰謀だ。もしあの源三郎に、恋を感じてさえいなければ、永年の願望がやっときょう成就すると聞いて、お蓮様はどんなにかこおどりしたことでしょうが――運命の皮肉、先妻の娘萩乃の婿に迎えた源三郎を、こんなに、心ひそかにしたっている現在のお蓮さまとしては……。
「そうねえ。もう、そうするよりほか、ないだろうねえ」
「ナ、何を――今となって、何を言わるる!」
 丹波は……。
 この盛大な十方不知火流の道場とともに、お蓮様とも天下晴れて……だがお蓮様よりは、道場のほうがありがたいのが、丹波の本心です。しかし、それも、故先生の後釜に、お蓮様のもとへ入夫する形でこそ、道場も自然におのがふところへころげこもうというものですから、この土壇場へ来て、こうもにえきらないお蓮さまの態度を見せられては、
「出るところへ出て、拙者がこの口をひらこうものなら、同罪ですぞ、お蓮様」
 詰め寄りました。
 丹波も懸命です。

 ものうい初夏の午後だ。はるか妻恋坂の下からのどかな余韻を引いてあがってくる、苗売りの呼び声……。
 お蓮様にしたところで、十分この道場には未練があるし、それに、もともと丹波はきらいではないのですから、二言といなは申しません。
 さっそく峰丹波をもって、この道場の相続に立てるという……すっかり準備がととのって、その夜、ただいまの時間でいえば、午後七時ごろに、道場の正面に亡き十方斎先生の位牌を飾り、その前に遺愛の木剣を置いて――これがまず式場です。
 この不知火道場のしきたりとして、何かあらたまった式事の場合にはかならず家重代に伝わる鎧櫃よろいびつを取り出して、その前でおごそかにとりおこなうということになっている。
 新しい入門者があって、現代でいえば宣誓式のようなことをするのも、この鎧櫃の前。
 免許皆伝の奥ゆるしをとった者が、その披露をする座にも、その鎧櫃を飾る。
 ふだんは土蔵にしまってありますのを、むろん今日は、相続披露の式場へ運び出すことになりまして、二、三人の若い弟子が、
「貴公、そっちを持て。からだから軽いだろうが、大切な品だから、粗忽そこつのないように、皆で気をつけて持ってゆかねばならぬ」
「そうだ。オイ、青木、お前も手を貸せ」
「よしきた。しかし、なんだな、峰先生は、やっと本願を達したというものだな。え、馬鹿を見たのはあの伊賀の暴れん坊だよ。婿の約束はぐれはまになる。こけ猿の茶壺は盗まれる、故先生のとむらいの席へのりこんで、りっぱに見得をきったまではいいが……」
「そうだテ、あとがよくねえ。本人だけは、あくまで萩乃様の良人のつもりでいても、内祝言ないしゅうげんはおろか、朝夕ろくに顔を見たこともない。おまけに、ああやって家来を連れて、無茶ながんばりをやっておるうちに峰先生のペテンにかかって、火事にまぎれておとし穴とは、よくよく運の悪いやつだな」
「しかし、それがしは萩乃さまがお気の毒でならぬよ。毎日毎日ああ泣いてばかりおられては、今に黒眼が流れてしまいはせぬかと――」
「まったくだテ。あの悲しみに沈んでおられた萩乃様を、どうで今夜の席へ引っぱり出すのかと思うと、おいたわしくてならぬ」
「サアサ、むだ口はあとにして、はよう席をととのえねばならぬ。峰先生がお待ちかねだ。よいか、そっちの端を持ったか、山口」
「ウム、サアゆこう……オヤ、これはどうした!」
「ヤ! おどろいたな、どうも……からだと思ったのに、これはいったいどうしたのだ。ヤケに重いぞ、この鎧櫃は」
 山口達馬に青砥伊織あおといおりという、名前だけは一人前いちにんまえの若い門弟が二人軽いつもりで持ち上げようとしたその鎧櫃が、めっぽう重いので、ビックリ顔を見あわし、ポカンと立っておりますと……。
 青木三左衛門という、この方はすこし年をとっております。横鬢よこびんのところが、こう禿げあがっていて、分別顔。
「ナニ、そんなに重いはずがあるものか。具足がはいっておるかもしれんから、ことによると多少は重いであろうが――さア、手を貸そう」
「ウム」
 と、三人のかけ声で、やっと鎧櫃を持ち上げてみると、なるほど重い。
 だが、鎧やら何やらはいっているだろうと、青木三左衛門、山口達馬、青砥伊織の三人、べつにそうふしぎにも思わず、小倉の袴をバサバサ言わせて、式場なる道場までかついでまいって、正面に置きました。

 サア、何十畳敷けるでしょう……。
 広い板の間の道場。
 正面には、故司馬先生の筆になる十方不知火の大額をかかげ、その下の、一段小高い畳の壇上、老先生、老先生ありし日には、あの白髪赭顔しゃがんのおごそかな姿が、鉄扇をしゃに構えて、そこにすわっていられたものだが。
 今そのかわりに、金唐革きんからかわの鎧櫃が、ドッシリと飾られて――。
 蔵からここまで持ってきた山口達馬、青砥伊織、青木三左衛門の三人は、その、異様に重い鎧櫃に、格別不審をいだきませんでした。
 筑紫の名家、司馬家です。鎧、兜、刀剣など、代々伝わる武具だけでも、おびただしい数にのぼっている。それを誰かが、鎧櫃へ入れておいたのだろうと、そう思うまでで。
 別棟に陣どっている、源三郎手付きの伊賀侍たちが、当てもなく若君の帰館を待っているあいだに、彼らに気づかれぬよう、そっとこの式をあげてしまわねばならぬ。
 峰丹波がこの不知火流の名跡みょうせきを継ぎ、司馬十方斎のあとを襲うとの披露をしてしまったあとで、あの柳生一刀流の連中に正式にかけあって、邸外へおっぽり出してしまおうという魂胆。
 紋付袴に威儀を飾った不知火の弟子一同、静かに道場へはいってきて、壁を背に、左右に居流れる。正面壇上には、いくつとなく燭台を置いて、かがやくばかり……諸士の前には、ほどよきところに、ズーッと百目蝋燭を立てつらね、それが、武者窓をもれるあわい夜光と交錯して、道場全体、夢のような気にしずんで見える。
 鎧櫃の前に、裃をちゃくした峰丹波が、大きな背中を見せて端坐。
 その横に、被布ひふの襟をかすかにふるわせて、お蓮様がうつむいている……ひそかに絹ずれの音が、一方の入口から近づいて、なみいる一同の眼がそっちへ向いた。
 泣きたおれんばかりの萩乃である。
 常ならば、澄みきった湖心のような美しい眼が、赤くはれあがっているのは、いまの今まで涙にくれていたものとみえる。二人の侍女に左右から助けられて、ソロリソロリと、足を運ばせてくる姿は、さながら重病人のようだ。
 席がきまると、
「エヘン……」
 出もしないせきばらいをして上座かみざにたちあがったのは、結城左京――あの、穴埋めの宰領をつとめた男。小腰をかがめて、ツツツウと丹波の横手へ進み、皆のほうを向いて、懐中から何やら書き物を取り出しました。
 奉書。
 つごうのいいかってなことがならべてあるに相違ない――左京、とっておきの声を張りあげて、読みはじめたのを聞くと、
「先師、司馬十方斎先生亡きのち、当道場のお跡目いまだ定まらず、もはやこれ以上延引いたす場合は、御公儀のきこえもいかがかと案じらるるまま……」
 なんかと、うまいことが書きつらねてあって、結局、峰丹波先生にとっては、これほど御迷惑なことはないであろうけれども、門弟一同の総意として御推挙申しあげるのであるから、どうぞどうぞお願いだから、この道場のあるじになっていただきたい――。
「……以上、道場総代、結城左京」
 読み終わった彼、一統のほうへ向いておごそかに、
「さて、諸君! 峰先生を流師とあおぐことに、誰も異議はあるまいな?」
 みんな黙って、いっせいに頭をさげた。と、そのとき、
「異議あるぞ」
 どこからか、小さな声が……!

 異議あるぞ!――という妙にこもった声が、しんとした空気をふるわせて、ハッキリと一同の耳にはいったから、さア、野郎ども、ぎょっとした。
 膝に置いた両手で、そのまま袴をギュッとつかんで、思わず身をかたくしました。
 誰よりも驚いたのは、当の丹波とお蓮様、左京の三人――その結城左京の手にしている口上書の紙が、恐怖にカサカサと鳴るのが、聞こえる。
 ピンの落ちる音も、大きな波紋のようにひびくという静寂の形容はこういう息づまる瞬間のことを言うのでありましょう。
 唇を真っ白にした左京、かすれた声をあげて、もう一度、
「峰丹波先生が、当道場のあるじに直られることについて、むろん、誰一人として異議を唱える者はないであろうな?」
「いいや! おれは不服だ! おれは不承だ!」
 地の底? 地獄の釜の下――陰々たる声が……。
 とてもはやかった、そのときの一同の動作は。
 パッと弟子どもが片膝をたてた刹那、なかからあいたんです、鎧櫃の蓋が。
 お蓮様は、うしろざまに手をついて、今にも失神せんばかり――萩乃はかたわらの侍女の手をグッと握って、はりさけそうに眼をみはっている。
「何者だッ!」
 叫んだ丹波、とっさに腰を浮かすと同時、引きつけた大刀の柄に大きな手をかけながら、
「出入口に締りをしろッ!」
 門弟のほうへ向かってあわただしい大声。この相手は何者にしろ、道場から一歩も出さずに、押っ取りかこんで斬りふせてしまおうというので。
「ワッハッハッハ、だいぶおもしろそうな芝居だったが、イヤ、この狭いなかに身をかがめておるのは、丹下左膳、近ごろもって窮屈しごくでナ」
 声とともにその鎧櫃の中から、スックと立ち上がった白衣びゃくえの異相を眼にしたときには、傲岸奸略ごうがんかんりゃく、人を人とも思わない丹波も、ア、ア、アと言ったきり、咽喉がひきつりました。
 大髻おおたぶさの乱れ髪が、蒼白い額部ひたいに深い影を作り、ゲッソリ痩せた頬。オオ! その右の頬に、眉のなかばから口尻へかけて、毛虫のはっているような一線のきず跡……しかもその右の眼は、まるで牡蠣かき剥身むきみのように白くつぶれているではないか!――ひさしぶりに丹下左膳。
 道場いっぱいに、騒然とどよめきわたったのは、ほんの一、二秒。さながら何か大きな手で制したように、シンとしずまりかえったなかで、左膳、からっぽの右の袖をダラリと振った。枯れ木に白い着物をかぶせたようなからだが、ゆらゆらとゆらいだ。笑ったのだ、声なき笑いを。
「出口入口の締りをしろ! 今夜てエ今夜こそは、一人残らず、不知火燃ゆる西の海へ……イヤ、十万億土へ送りこんでくれるからナ」
 ケタケタと響くような、一種異様な笑い声をたてた左膳は、細いすねに女物の長襦袢をからませて、鎧櫃をまたいで出た。
「サ、サ、したくをしねえか、したくをヨ! こ、この濡れ燕はナ、手前たちのなまあったけえ血に濡れてえといって、さっきから羽搏はばたきをしてきかねえのだ。ソーラ! この羽ばたきの音がてめえたちには聞こえねえかッ!」
 と左膳、左腰に差した大刀の鍔元を、一本しかない左手に握って、たいを落としざま、ゆすぶった。
 カタカタと、鍔が鳴る。
 一同は立ちすくんでいます……すわっているのは、丹波だけ。
 先生、腰が抜けたんじゃアあるまいな。

「丹波ア……!」
 鬼哭きこくを噛むような、左膳の声が。
「汝アこの女――」
 と左膳、かたわらにいすくむお蓮様へ、キラリと一眼をきらめかせたのち、
「汝アこの女と、同じ穴の狸だな、イヤさ、同臭のやからだな」
 ぐっと調子をさげて、
「おもしれえ。おれア伊賀の源三郎に、なんの恨みつらみもねえ痩せ浪人。だがナ、人間にゃア縁ごころてえものがある。またこの丹下左膳の胸には、男の意気というものがあるのだ!ッ」
 ひとことずつ言葉を句ぎって、そのたびに左膳、一歩一歩と峰丹波に近づく。
 どうしてこの鎧櫃のなかに、人もあろうに、この白面の殺人鬼がひそんでいたのだ?
 愕然呆然たる丹波の胸中を、雨雲のごとく、あわただしく去来するのはなし、この疑念のみ。
 だが。
 そんな詮索は、今のところゆとりがない。たぶん、この煙のような刃妖左膳のことだから、いつのまにか土蔵へ忍びこみ、鎧櫃へ……としか推量のくだしようがないのだ。
 そんなことは、さておき。
 あわよく跡目を相続して、表むきこの道場を乗っとろうとする間際に、このもっとも恐れているじゃま者が、鎧櫃からわき出たのですから、さすがの短気丹波、口がきけないのもむりはない。
 ビックリ箱からお化けが出た形。
 半顔の刀痕をゆがめ、あごをななめに突き出した左膳、なにかこう押しつけるように、ソロリソロリと自分の前へせまってくるから、丹波、仰天した。
 そのとたんに、声が出た。子供のシャックリは、驚かせると止まりますが、ちょうどあんなようなもので。
「ブ、ブ、無礼者! 諸子、何をしておるッ! かかれ! かかれッ!」
 たてつづけにさけんだ。同時に、腰も立った。
 起つと同時に、パッとはねた裃の片袖、そいつが丹波の背中に、やっこ凧のようにヒラヒラして、まるで城中刃傷の型……からだが大きくて、押し出しがりっぱですから、さながら名優の舞台を見るよう。
 早くもその手には、引き抜かれた一刀が、秋の小川と光って――。これが、不知火流でいう沖の時雨しぐれ
 サッと水をきるように、そして、しぐれの一過するようにひらめくという、居合の奥許しなんだ。
 同秒……。
 今まで唖然としていた門弟一同の手にも、それぞれしろがねの延べ棒のようなものが、百目蝋燭の灯にチラチラと映えかがやく。剣林一度に立って、左膳をかこみました。
 萩乃は? お蓮様は? と見れば、すでにこのとき、女二人の影はありません。二、三の弟子や侍女に助けられて、血の予想に顔をおおったお蓮様と萩乃の跫音あしおとが、そそくさと乱れつつ、はるか廊下を遠ざかって行く。
 そのとき、司馬の一同、ギョッと声をのんだのは、四ツ竹のような左膳の笑い声が、低く、低く、道場の板敷いっぱいに低迷したからで。
「ウフフ、うふふ、そっちが同じ穴の狸なら、こっちは、おれと源三郎は、同じ穴の虎だ。恩も恨みもねえ伊賀の暴れん坊だが、左膳を動かすのは、義と友情の二つあるだけ。おれは源三郎になりかわって、すまねえが、丹波の首をもらいに来たのだよ」
 いつのまにか斬尖きっさき、床を指さしている濡れ燕……。
 下段の構えだ。

 世の中に、こわいもの知らずほど厄介なものはありません。
 いま、抜刀を下目につけて、喪家の痩せ犬のように、きょくもなく直立している左膳の姿を眼の前にして。
 これを、組みしやすしとみたのが不知火流の若侍二、三人。
 おのが剣眼が、そこまでいっておりませんから、相手の偉さ、すごさというものがすこしもわからない……こわいもの知らずというのは、ここのことです。
「身のほど知らずのやつメ、鬼ぞろいといわれる当道場へ、よくも一人で舞いこみおったな」
「鎧櫃から化け物浪人とかけて、なんと解く――晦日みそかの月と解く。心は、出たことがない」
 なんかと、なかにはのんきなやつがあって、そんな軽口をたたきながら、もうすっかりあいてをのんでかかった気。
 抜きつれるが早いか、前後左右、正眼にとって――。
 よしゃアよかったんです。
 痩せこけた左膳の頬肉が、虫のはうようにピクピクと動いた。
「よいか。血の雨のなかを、縦横無尽に飛び交わしてくれよ濡れ燕」
 じっと自分の剣を見おろして、そうつぶやいたかとおもうと! った!
 そのはやいのなんの……右側にいた一人、ガクリと膝をついたとみると、その膝っ小僧から一時にふき出す血、血。
 プクプクとおもしろいようにわき出る血綿、血糊が、みるみる袴のすそを染め、板の間にひろがって、
「わッ! ウーム!」
 大刀をいだいて、ころがってしまった。
 足を斬ったからあしからず……左膳、そんなくだらない洒落は申しません。
 無言だ、もう。
 ひさしぶりに血を味わった濡れ燕は、左膳の片腕からとびたとうとするもののごとく、すでにこのときは、またもや正面の一人をななめ胴に下から斬りあげて、そいつの手を離れた一刀、はずみというものはおそろしいもので、ピューッと流星のようにとんで板壁につきささった。刀の持主は、すでに上下身体を異にして……だから、言わないこっちゃアない。
 あまりのめざましさに、一同、瞬間ぼんやりしてしまったが、
「屋内では不利! 戸外そとへおびき出せッ!」
 声に気がついてみると、峰丹波だ。どうもひどく要領のいいやつで、うしろのほうへ来て、足ぶみなんかしてしきりに下知している。安全地帯。
 が、さっきの丹波の命令で、道場の出口入口、厳重に戸じまりをしてしまったから、オイソレとはあきません。一方、左膳はもう、一団の白い風のようだ。白衣をなびかせて、低く、高く、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ濡れ燕……。
 何人斬ったか、何刻なんどきたったか。
 このすさまじい道場の物音に、身をふるわせて自室へやにつっぷしていた萩乃。跫音が廊下を走ってきて、やにわにふすまを引きあける者があるので、振りかえってみると、どうだ! 血達磨のような左膳が、かこみを切りやぶって此室ここまで来たのだ。
「萩乃さんとかいいましたね。サ、おいらといっしょに来るんだ」
 サテは、恋に狂ったか丹下左膳。
 泣きさけぶ萩乃を、一本しかない左手にギュッと抱きかかえ、口に濡れ燕をくわえた丹下左膳。そのまま縁の雨戸を蹴やぶって、庭へ、暗黒やみの樹だちのかげへ。

 左膳の口にくわえている濡れ燕……五月雨さみだれに濡れた燕ならで、これは、血に濡れた怪鳥けちょう、濡れ燕。
 その妖刀から、何人かの冷たい血潮が、刃を伝わってしたたり落ちる。
 雲のどこかに、新月が沈んでいるのであろう。庭木の影の重なるあたりに、あるかなしかの夜光が、煙のように浮動している――あわい闇夜。
 なかば気を失った萩乃は、左膳の口の濡れ燕から、しずくのように落ちる血が、その白い首筋に、二筋三筋の赤縞をえがいているであろうのを、かすかに意識しただけだった。
 口をきけば、刃が、愛する萩乃の上へ……左膳は、重い大刀をグッと歯にかんだまま、ハッハッと吐く荒い息が、萩乃の顔へ、肩へ。
「あなたは、いつぞや門之丞を斬ったお浪人、どうして今夜、またあの鎧櫃のなかへなど忍んで――そして、わたくしをさらい出して、どうなさろうというのでございます」
 必死にもがく萩乃、匹田ひったの帯あげがほどけかかって、島田のほつれが夜風になびき、しどけない美しさ。乱れた裾前に、処女むすめの素足は、夜目にもクッキリと――。
 答えぬ左膳の恐ろしさに、萩乃は、はじめて気がついたように、
「アレイ、誰か来て! 狼藉者……!」
 さけぼうとする口を、横ざまに萩乃の胸にかかっていた左膳の左手が、ムズとふさぐ。
 振りかえれば、灯のもれる道場は、大混乱だ。何人、何十人、イヤいく十人かの死体が、そこにころがっているのであろう。人々は、左膳を追うことも忘れているらしく、屋敷ぜんたい、異様に静まりかえっている。
 ヒタヒタと庭の苔を踏んで、……ギイ、バタン! そっと裏木戸を出た左膳、萩乃を引きずり、ひったて歩かせながら、土塀に沿って魔のように、真夜中の妻恋坂を駈けておりてゆく。
 この妻恋坂の途中……ちょうど司馬の屋敷の真下に当たるところにちょっとした空地がございます。
 もと小普請入りの御家人の住居だったのが、あまり古びたのでとりこわし、まだそのままになっている。ものすごい雲の流れを背に、立ち木が二、三本ヒョロヒョロと立って、くずれた石垣のあいだに、チチチと、耳鳴りのようなをたてて鳴いているのは、あれは、なんの地虫?
 左膳は萩乃を引っかかえて、そのあき地へ切れこんだ。小暗い隅へ走りこむと、やっと萩乃をはなして、左手に持ちかえた濡れ燕を、自分の着物の裾でスウーッとふきつつ、
「萩乃さんとやら、おどろくことはねえ。おれはこのあぶない橋をわたって、おめえさんをむけえに来たのだ」
 牡丹の大輪が落ち散るように、萩乃は地面に居くずれたまま、身動きもしない。言葉もない。
 その、あやしくも美しい萩乃のさまを眼のあたりにして、左膳の胸は麻と乱れざるをえませんでした。
 あらゆる世の約束を断ち切り、男と男のあいだの問題を解決するには左膳の手に利刃濡れ燕がある。だがこの恋の迷い、おのが心のきずなだけは――。
 このひとに宛てて、あの恥ずかしい、まわらぬ筆の恋文を、書いたこともあったっけ。
 今その当の萩乃は、こうして自分の足もとに、おそれおののいている。
 手をのばせば、すべてじぶんのものに……。
 虹のような、熱い長い息とともに、左膳はひとこと。
「泣きなさんな。なア、おめえさん、源三郎を思っていなさるだろう。その恋しい源三に、会わしてやろうじゃアねえか。おいらが手引きを……」
「え?」

「え?」
 と、涙に濡れた顔を上げた萩乃、左膳は、その夜眼にも白い顔から、苦しそうに眼をそらして、
「何もおどろくことはねえ。まさかおめえさんまで、あの丹波などといっしょになって、源三郎はもう死んだものと思っていたわけじゃアあるめえが――なア、江戸じゅうの人間が、みんな源三郎をなきものときめてしまっても、萩乃さん、おめえだけは、どこかに生きていると信じていたことだろう」
 萩乃は、もうとびたつ思い、すがりつかんばかりに、
「あの、それでは、アノ、源三郎様は御無事で……まあ! シテ、どちらに?」
 その満面にあふれる喜色は、左膳の一眼に、そのまま、針のようなつらさと映る。
 微苦笑というのは、昔からあったのです。左膳は今それをもらして、
「ウフン、おめえを源三郎にあわせてえと思って、おれアこっそり道場へまぎれこんでいたんだ。源三郎もおめえさんのことを――」
「え? では、あのお方も、このわたくしのことを?」
「マアさ、あいつもおめえのことを、おもっているだろうと思うんだ。これアおいらの推量だが――何しろ、口をきかねえ野郎だから、あの伊賀の暴れん坊の胸のうちだけは、誰にもわからねえ」
「ハイ……」
「サア、お起ちなせえ。すこし遠いが、おいらが案内役だ。こう来なせえよ」
 バタバタと裾の土をはらって、立ちあがった萩乃、左膳にしたがってその空地を出ようとすると!
「うぬ、あの化けもの。侍、いずくへまいった」
「ソレ、とりにがしてはならぬぞ」
「ナニ、拙者が見つけて、一刀両断に――」
 提灯の灯といっしょに、司馬道場の若侍の声々が、妻恋坂をすっとんでゆく。大丈夫もうそこらにいないと見きわめをつけたうえで、いばっているんだから世話はない。
 その連中の通り過ぎるの待って、左膳は萩乃をつれて、妻恋坂をあとにしました。折りよく通りがかったのは、二丁の空駕籠。左膳と萩乃と二人の姿は、その駕籠にのまれたが――。
 ゆく手は?
 ちょうど、この同じ時刻。
 話はここで、この二丁駕籠の先まわりをして……三方子川の下流です。
 川釣りの漁師、六兵衛の住居。
 奥の六畳……といっても、ふすまはすすけ、障子は破れ、柱などは鰹節のように真っ黒な――真ん中に、垢じみた薄い夜具を着て、まだ病の枕から頭があがらずにいるのは、柳生源三郎でございます。
 伊賀の暴れン坊の面影は、今この、病む人の身辺に、わずかに残っているにすぎない。あの穴埋め水責めの危機の際に、悪い水を飲んだらしいのです。衰弱したからだに余病を発して、あれからずっと、この川網六兵衛の家に寝たッきりなのだ。
 看病するのは、あの痩せ鬼のような左膳。かれのどこに、そんなやさしい心根があるのか、まるでもう親身のようなこまかい心づかい、
 それと、この家の娘、お露――。
「あの、御気分はいかがで……」
 いまも、そう言って枕もとにいざりよって来たのが、六兵衛のひとり娘お露です。破れ行燈の灯を受けて、手織りのゴツゴツした縞木綿もめん、模様もさだかならぬ帯をまいて、見るかげもない田舎娘ですが……その顔の美しさ! 着飾らして江戸の大通りを歩かせたら、振りかえらぬ人はないであろう。ことにその眼! 今その眼が、艶に燃えているのは、ハテ、どういうわけでありましょう?

 年齢としは十七? それとも八?
 ポッと上気した顔を、恥ずかしそうに灯にそむけて、お露は枕もとへ膝をすすめ、
「アノ、もうお薬をめしあがる時刻で……」
「ウム」
 やっとはらんばいになった源三郎、のびた月代さかやきを枕に押し当てたまま、
「イかいお世話になるなア。あの左膳とともに、あなたの父上にあぶないところを救われてから、もうよほどになる。左膳はあのとおり、すぐ恢復いたしたが、おれは濁水を飲んだのがあたったとみえて、いまだにこのありさまとは、われながら情けない」
 身もだえする源三郎のようすに、お露は美しい眉をひそめて寄りそい、
「すこしおみ足でもおさすりいたしましょうか。マア、そんなにおじれにならずに、ゆっくり御養生あそばしますように――」
「こんどというこんどは、おれも、人の情けが身にしみた。あの左膳……本来なら敵味方、おれにかまわずにどこへでも行ってくれと、毎日頼むように言うのだが、このおれが達者になるのを見すますまでは、どんなことがあってもわしのそばを離れぬと言う。そして、お露どのもごらんのとおり、あの、かゆいところへ手のとどくような左膳の看護みとりじゃ。男を泣かすのは男の友情だということを、わしはこんどはじめて、つくづくと知ったよ」
 左膳のことばかり言われるのがお露には、少女らしい胸に、不服なのか、
「はい。ほんとうに……」
 と言ったきり、うつむいている。源三郎も、すぐその心中に気がついたていで、
「ハハハハハ、左膳ばかりではない。親爺六兵衛殿といい、イヤ、誰よりもお露さんの親切、生涯胆に銘じて忘れはいたさぬ」
「そんなお義理のようなお礼など――」
 お露は、ちょっとすねて。
「それよりも、どうぞいつまでも……いつまでも御病気のまま、アノ、あまり早くよくおなりにならないように――」
「これは異なことを、いつまでも病気でおれとは――」
「でも御病気なればこそ、このむさくるしいあばら屋においであそばして、わたくしのような者まで、朝夕お側近くお世話させていただいておりますが、おなおりになれば、りっぱな御殿へお帰りあそばして、美しい奥方をはじめ、大勢の腰元衆に取りかこまれ……」
 パッと顔をかくしたお露の耳は、火のように赤い。それよりもまごついたのは源三郎で、自分が伊賀の柳生源三郎ということは、知らしてない、どこの何者とも身分をつつんでいるのですから、
「何を言わるる。私はそんな者ではない。左膳と同じ、御家人くずれのやくざ侍……」
「それならば、なお心配で。江戸には、美しい娘さんが、たくさんいなさるとのこと――」
「しかし、お露さんほどきれいなのは、そうたんとはあるまいテ」
 と源三郎、意識して言うわけではありませんが、ふと、こんな言葉が口を出るのが、そこがソレ、女にかけて不良青年たる源三郎のゆえんでありましょう。自分がそんなことを言えば、それがどんなに強く相手の胸にひびくかも考えないで。
「アラ、あんなことばっかり……」
 お露が、両手で顔をおおって、指のあいだからじっと源三郎をみつめたとき、縁にむかった障子がガラッとあいて、
「源三エ、みやげだ。ソレ受け取れッ!」
 左膳の片手に押されて、はなやかな風のように、バタバタと部屋へはいってすわったのは、萩乃……。
 左膳もその横手に、ガッキとあぐらを組んだが、お露は、もうはじかれたように逃げだして、その姿はすでに室内になかった。

 あらっぽい左膳の友情……。
 萩乃は、その左膳に押されて、くずおれるように座敷へはいったとき、むこうのふすまのかげに、チラと赤い帯の色が動いて、誰か若い女が出て行ったようす。
 逃げるようにお露の去ったのを萩乃は眼ざとく、眼のすみで意識しながら、たえてひさしい源三郎の前に、お屋敷育ちの三つ指の挨拶。
「源三郎さま、おひさしぶりでございます。あなた様は、もうどうおなりあそばしたかと、お案じ申しあげておりましたに、よくまア御無事で――源三郎さま、おなつかしゅうございます」
 やっとひとりの女が去ったかと思うと、また一人。
 女難に重なる女難に、源三郎は、その切れのながい眼をパチクリさせて、かたわらにすわっている左膳をかえりみ、
「これはいったいなんとしたのだ、左膳」
「ワハハハハハ、おれがいたとて、遠慮は無用だ。だきつくなり、手を取るなりするがよい。それとも、こんな化け物でも、人間のはしくれであってみれば、人前でイチャツクことはできねえと言うのなら、おらア、ドロドロと消えるとしよう。アッハッハッハ」
 豪快な笑いの底に流れる、身を切るような一抹の哀愁……源三郎も萩乃も、それに気のつくすべのないのは、やむをえないが。
 左膳が、火のように恋している萩乃は、いま、死んだと思ったすきな男を眼の前にして、この、狂気のような喜びようである。それを見ていなければならない左膳の苦悩は、煮えたぎる鉛の沼。
 剣魔左膳の恋は、誰も知らない。誰も知らない。病犬のように痩せほそった左膳のあばら骨の奥と、膝わきに引きつけた妖刀濡れ燕のほかは。
 どうして萩乃がここへ――。
 と、源三郎は、なおも不審顔です。
 左膳の一眼、萩乃と源三郎をかたみに見ながら、
「おれは今朝、源三にだまってブラリとここを出たが、あの足ですぐ妻恋坂の道場へ行ってみると、何やら今夜儀式があるとかで、屋敷じゅうざわめいているじゃねえか。これはさいわいと土蔵へ忍びこみ、鎧櫃にひそんでいると……ナア源三郎、これがおめえのまだ運のつきねえところというのだろう。夜になると、そのおれのはいった鎧櫃が、道場の正面へかつぎ出されて、その前で遺跡あとめ相続のかためが始まったのだ。道場のあるじに直ろうとしているのは言うまでもなく峰丹波」
 萩乃があとを受けついで、
「ハイ、丹波は、二世十方斎の名と、継母ははお蓮の方とを天下はれて手に入れようとの魂胆でございます。そのために、わたくしの……」
 言いさした萩乃の頬は、行燈の灯を受けて、秋の入り陽にはえる紅葉のように赤い。
 むすめ心にためらったが、やがて思いきって、
「わたくしの――夫ときまった源三郎様を亡き者にしようとし、また、このわたくしをも押しこめ同様に……」
 すると、左膳、思い出したように笑って、手近な大刀を引きよせてホトホトとさやをたたきながら、
「コレ、濡れ燕、おめえもよく働いてくれたが、残念だったなア、丹波をうちもらしたのは」
 じっと何か考えこんでいたが、不意にほがらかに、
「サ、これでいい。萩乃と源三郎を会わしてしまえば、丹下左膳の役目はすんだのだ。サア、おれはこれから……」
 濡れ燕をトンと杖について、左膳、やにわに起とうとするから、源三郎はあわてて、
「オイ、ちょっと待ってくれ。萩乃とおれを二人きりにして――困るなア、どうも」

 左膳は中腰のまま、
「惚れられた女と二人きりになって、困るってやつもなかろうじゃアねえか、ハッハッハッハ」
「イヤ、ところがその、実は、その……」
 と源三郎は、しどろもどろだ。
 真っかにはにかんでいる萩乃を左膳は首を動かして、チラと見ながら……左の眼しかないので、首ごと動かさないと横のほうは見えないのだ。
 かわいそうな丹下左膳、泣くように苦笑して、
「イヤ、どう考えても、おらアこの場のよけいもんだよ。萩乃さんにうらまれねえさきに、消えてなくなったほうがかしこそうだぜ」
「イエ、あの、けっしてそんなことは――」
 やっとそれだけ口にした萩乃、自分に対する左膳の胸中など、知る由もないから、なんというこまかい心づかいをしてくださる苦労人であろう! こわいばかりがこの方の身性ではない。ほんとうに思いやりのある!……と、眼に千万無量の感謝をこめて左膳を見あげ、
「なんとお礼を申しあげてよいやら――あの、源三郎さま、こちら様のおかげで、こうしてあなた様のもとへ連れて来ていただくことができました。どうかお礼をおっしゃって」
 源三郎は迷惑顔、
「だが、何もおれが、萩乃さんをつれて来てくれと頼んだわけじゃアなし――」
「コレ、源三! てめえ何を言う。おれはおめえのためにしたんじゃアねえのだ。萩乃さんの心を察して、この出しゃばりな役をつとめたのだよ。こんなにおめえ一人を思っている萩乃さんの心中を、すこしでも考えたら、こら、源三、そんな口はきけめえが」
 起ちあがった左膳は、濡れ燕の鞘尻で帯をさぐりながら、ぐっと落し差し……一本きりの左の手を、ふところふかくのんで、ブラリと歩きだしながら、
「源三、こんなに女の子に思われるのは、あだやおろそかなことじゃアねえぞ……」
 そういう左膳の声は、かすかにふるえて、
 源三郎はいつしか、キチンと床の上にすわりなおしていた。
「しかし、弱ったなあ。今ここへ萩乃を置き去りにされても……マア、左膳、頼むから、もうすこしおれといっしょにいてくれ」
「いたくても、萩乃さんの邪魔になる。このひとがどんなにおめえを恋いしたっているか――それを思ったら源三、な、すこしもはやくからだを丈夫にして、首尾よくあの道場を乗っ取れよ。なア、そのときあこの丹下左膳、大手を振って遊びにゆくぞ、ハッハッハ」
「こ、これ、あなたもいっしょに、左膳を止めてください」
 と源三郎は、萩乃へ、
「私があぶないところを助かったのは、みなこの左膳のおかげだ。穴の底から三方子川へ浮かびあがることのできたのも、また、この家のあるじ漁師六兵衛に救われたのも、みんな左膳がいたればこそだ。萩乃、こころから左膳に礼を言ってくれ」
 萩乃は、あらたまって左膳の前に両手をつき、
「なにから何まで、ほんとうにありがとうございました。源三郎様のことといい、今夜のことといい、御恩は生涯忘れはいたしません」
 その、身も世もなくよろこばしそうなようすを、左膳はしばらくじっと見おろしていたが、
「イヤ、萩乃さん、あんたにそう言われただけで、おれは、このうえの満足はない。無事な源三の顔が見られて、うれしいだろうなア萩乃さん」
「ハ、はい……」
「ははははは、そうだろうなあ。大事にしてあげなさいよ。源三、行くぜ」
「さ、さ、左膳。ド、どこへゆく?」
「どこへ? それはおれにもわからぬ。この腰の濡れ燕にきいてくれ」

 夜明けの一刻いっとき前……。
 闇黒やみがひときわ濃いときがあるといいます。明け方の闇は、夜中の闇よりもいっそう深沈として――その暁闇ぎょうあんにつつまれた左膳、源三郎、萩乃の三人は、それぞれの立場で、凝然と考えこんだままだ。
 だが、このほかにもう一人。
 うば玉の暗黒やみよりも濃い心の暗闇に、すすり泣きのをこらえている女がひとり――それは、次の間のふすまのかげに、この一伍一什いちぶしじゅうをもれ聞いたこの家の娘、お露でした。
 思う源三郎には、自分よりさきに、あんなにあの方をしたっているこの萩乃とやらいう美しいお嬢様がある……と知って、彼女の心は暁闇にとざされたのでした。
 萩乃は萩乃で、こんなにまでしたっている源三郎が、すこしもその愛の反応を見せてくれないのが、まるで、くらやみの山道に迷ったように、こころ寂しい。
 当の源三郎は……。
 たぶんに不良性のある彼のことだ、萩乃にしろ、お露にしろ、女という女には、面とむかえば、おざなりに、すいたらしい言葉の一つや二つは吐こうというものだが、そのすぐあとで、けろりと忘れてしまうのが、この源三郎の常なので。
 女にかけては悪魔的な源三郎。それに思いを寄せるとは、萩乃もお露も、因果なことになったものといわなければなりません。
 それよりも。
 恋する女を友情ゆえに、思いきるばかりか、こうして自分がなかだちとなって、その二人をまとめてやろうとする丹下左膳の心中、そのつらさはどんなでしょう! 四人四様に黒い霧のような心の暁闇。
「ゲッ、おれはなんだって、こんなところに、ぼんやり立って考えこんでいるんだ。ホイ、焼きがまわったか丹下左膳」
 そう思い出したように苦笑した左膳は、
「それじゃア源三、しっかり萩乃さんをかあいがってやれよ。手鍋さげてもの心意気でナ」
 もう、とめるまはなかった。
 病みほうけた源三郎が、片膝おこして追おうとしたとき、白鞘しらざやの刀を見るような丹下左膳の姿は、すでに部屋から、小庭から、そして木戸から、戸外そとのあかつきの闇黒やみへのまれさっていたのでした。
「ほんとによけいなことをする人! あんなお屋敷のお嬢さんなどを、わざわざ源様のところへ引っぱってきたりなんかして、人の気も知らないで、いけすかないったらありゃアしない!」
 人知れずお露は、唐紙からかみのかげで歯ぎしりをして、泣き沈んだのでしたが、これはたちさってゆく左膳の耳にはむろん、となりの部屋の萩乃、源三郎にも聞こえなかった。
 朝の闇にとけさった丹下左膳は、このつぎどこに、あの濡れ燕を駆って現われることでしょうか?
 それはしばらく、そのままにして。
 ばつの悪い思いで萩乃様の前に残されたのは、伊賀の暴れん坊です。
 許婚いいなずけどころか、自分としては、もう妻という建て前で、それで丹波とお蓮様一党に対してがんばってきたのですが、こうして萩乃さまとさしむかいになってみると、伊賀の源三、てれることおびただしい。
 相手は几帳面なお嬢様育ち。それが、おもう男の前ですから、いやにかたくなっている。源三郎、すっかりもてあまし気味で、
「えへん、ウフン、ええと、イヤそのなんです。おいおい夏めいてまいりました」
 なんかと、やっている。

「は?」
 と上げた萩乃の顔は、パッと美しく上気している。
 それを源三郎はじっとみつめて、
「イヤ、その、実にソノ、なんです……ときに萩乃どの、よく長いあいだ、拙者を思っていてくだされましたなア」
 と伊賀の暴れン坊、心にもないことを、例によってそんな殺し文句を吐く。
 火に油をそそぐようなもの、源三郎、よせばいいのに――でも女たらしの彼、こんなことをいうのが癖になっているものとみえる。
 日ごろの思いがやっとむくわれたように、萩乃は感じて、娘の恥ずかしさもうち忘れ、そそくさと膝をすすめた。
「あたくしほんとうに、もうもうどうなるかと思いましたわ。お兄上対馬守様とのかたいお約束によって、りっぱに道場にお乗り込みになったあなたさまを、今になって筋もなくしりぞけるのみか、あの丹波が継母ははうえと心をあわせて、司馬の家を乗り取ろうとしているなんてなんという恐ろしい……そのうえ、弟子どもの噂でふっとこの小耳にはさみましたところでは、あなた様を、なんでも穴とやらへ埋めてしまったとのこと。萩乃の胸は、つぶれるばかりでございました」
「イヤ、そうたやすく死ぬ伊賀の暴れン坊ではござらぬ」
 頼もしそうに萩乃はほほえんで、
「でも、源さまはよい御朋友をお持ちなされて、おしあわせでございます。あなた様にも、それから、このあたくしにとっても」
「ハテ、よい朋友?」
「は。あの、丹下左膳とやらいう……」
「おお、彼にはこの源三郎、近ごろもって感銘いたした。余の恩人であるのみならず、聞けば今宵、まさに丹波の手に渡らんとした道場を、邪魔だてしてすくってくれたのも、かの左膳――」
「それよりも」
 と萩乃は、もじもじあかくなりながら、
「わたくしをここへ連れてくれましたのが、何よりうれしくて……部屋へふみこまれていきなり横ざまに、抱きかかえられたときには、この身はどうなることかと思いましたけれど――」
 明け方の色の、かすかに動きそめた室内。源三郎はこの萩乃など、なんとも思っていないくせに、さもさも恋人同士のよう、膝を突き合わせんばかりに話しこんでいる。その言葉に伴奏をいれるかのように、あるかなしの音をたてて背戸口から流れこんでくるのは、岸を洗う三方子川の夜の水。
 相手が女でさえあれば、変に思わせぶりなそぶりを見せるのが、この不良青年柳生源三郎の、いつもの手なんだ。
 そんなこととは知らないから、かわいそうに萩乃、もうこの人のためには家もいらない、命もいらないとまで思いこんでいるようす。
 あんなに自分をしたう左膳の胸中は、つゆほども知らずに、悪魔的な源三郎を恋いこがれるなんて、人の心はどうしてこう食いちがうのでしょう。
 すると、です!
 さっきから、隣室となりの境のふすまのかげに、ソッときき耳をたてていた六兵衛の娘、お露さん……。
 くわしいことはわからないが、二人の話で、だいたいの模様は察しられます。
 許婚いいなずけなんだわ、このふたりは――とそう思うと、眼の先に赤い布を見た牛のように、お露は、カッとして起ちあがっていた。
 父六兵衛の寝息をうかがって、しずかに土間へおりたお露、潜戸くぐりをあけた。
 そして、パッととびだしたんです。コレ! どこへ? 嫉妬に狂って。

 パッととびだした……パッとかけだした鼓の与吉。
 もう、夢中です。
 若党でも、儀作、侍のはしくれだけに、刀一本をぶっさしている。
 まさか竹光じゃアあるまい。
 今にもうしろから、バッサリ斬られる――と思うから、イヤ与の公、このときの逃げ足のはやかったことといったら、それこそ、見せたいようでした。
 とっさの機転のきくやつで、背中に壺のつつみを引っしょって走るのは、追いすがりざまに斬られるときの、これが用心で。
 楯を背中にしている気だ。
 真昼近い神奈川宿の出はずれ。一方は雑木林の山で、いまの今まで鳴き連れていた名も知れない鳥の群れが、この時ならぬ人の気配にびっくりしたものか、ハタとをしずめて、明るい深夜のようなものすごさだ。
 反対側は崖です。下には、段々畑がひろがって、遠くにお百姓の使う鍬が、ときどきキラリと眼を射る。
 あっけにとられたのは、若党儀作でした。
 調子のいいことを言って、壺をかついであとについてきていた、そのいなせな若い者が、拍子を見てだしぬけにかけぬけて、ドンドンスッとんでゆくんですから、アレヨアレヨと言うひまもない。人間、あんまりおどろくと、即座にからだが動かないものだ。火事のときなどそうです。人がたちさわぐのに、ただひとりボンヤリ立って、ニヤニヤ笑っている人などがある。
 あとで皆が感心して、
「どうもあの人は、偉い。いかにも落ちついたものだて。あのおめえ、となりから火が出たという騒ぎのなかに、口もきかねえで、キッと立っているなんてエことは、ちっとやそっとの度胸ではできることじゃアねえやナ」
 などと申します。
 そう言われるから、本人はべつに否定もせずに、イヤ、ナニ、それほどでも……などと、あごをなでておりますが、いずくんぞ知らん、動かないのではない、動けないので。
 ハッとすると、脳の働きがしびれてしまって、口がカラカラにかわき、とたんに舌がまきこむ。まず何を持ち出そうかなどと考えながら、頭のなかはそれこそ火のついた車のよう。これがわきから見ますと、非常に落ちついたように見えることがある。こういう人にかぎって、手提げ金庫とまちがえて煙草盆をだいてかけ出したり、書類入れのつもりで猫をさかさにつかんでとびだしたりなどという話は、よくあります。
 こう考えてみると、歴史上の人物なども、実質の何倍か、ずいぶん得をしている人もあり、また一面には、とんでもない損をしている人もあるんじゃないかと思う。
 余談にわたりました。
 が、このときの若党儀作が、ちょうどそれで、
「ああ、アア、あの……!」
 とわめきながら、泰然と突っ立ったままだ。

 ところが、与の公も与の公だ。追ってもこないのに、もう、かかとに跫音が迫るような気がして、ひとりであわてて、
「うわあっ!」
 さけぶと同時に、右手の雑木林へかけこんだのです。夢中でした。
 壺をひっかかえて、ガサガサと灌木を分けてつきすすんでゆくと! 大きな栗の木が二、三本立っているかげに……ツツツン、ツン、ツン、こころ静かに調子を合わせる三味の音。
 やにわにそこへとびこんだ与吉、ペタンとすわって、
「オ! 姐御あねご! これあまア、おめずらしいところで。イヨウ! 死んだと思ったお藤さんとは、ヘヘヘ、丹下の旦那でも気がつくめえッてネ」

 鳥追い姿のような、旅を流しの三味線ひき――。
 笠の紅緒が、白い頬にくっきり喰い入って、手甲、脚絆――その脚絆の足を草に投げだした櫛巻お藤は、どこやら、風雨と生活にもまれ疲れて、とろんとよどんだ眼をあげて与吉を見ました。
 と。
 その顔はすぐ、いきいきとかがやいて、いたずらっぽく小首をひねったものです。
「ハテネ、たいそう慣れなれしくおっしゃるが、おまえさんは……どちらの?――」
 立っていてはやぶ畳の上に、腰から上だけのぞいて、儀作にみつかるおそれがあるので、与吉は壺を足にはさみこむように、ものものしくしゃがみながら、
「ナニ? 何? 姐御はおいらをお見忘れなすったというんですかい。情けねえ、ヘッ、情けねえや」
 わざとらしく眼をこするのは、涙をふくしぐさのつもりで、
「十年も二十年も、会わねえってわけじゃなし――いえね、あれからまもなく、駒形高麗屋敷の尺取り横町へ、おたずねしていったんでごぜエやすが、イヤ、おどろきましたね。貸家札がぺったりと……」
「何を言うてるんだか、おまえさんの話はさっぱりわからないよ。なるほどわたしは江戸者だが、そのなんとか横町とか駒形なんかには、縁もゆかりもない方角ちがい、江戸というよりも在方ざいかたに近い、ひどく不粋な四谷のはずれのものなのさ」
「オウ、姐さん、ふざけちゃいけねえ、この与の公を前にして、そんなしらを切るたア、お藤姐さんもあんまりだ」
 と与吉は、このまに儀作が通りすぎてくれればいいと思うから、ながびく問答をかえっていいことに、懸命に声をひそめて、
「コウ、人違いでござんすとは言わせませんや、姐御。たてから見たって横から見たって、お藤姐さんはお藤姐さんだ。ナア、またお道楽に、あの尺取り虫の踊り子を供に連れてサ、こうして気保養がてら、街道筋に草鞋をはいてでござんすか。おうら山吹きの御身分でござい。実アね、あっしもあれから……ハアテね、何からどう話してよいやら――」
 そう与吉が、たてつづけに弁じても、かんじんのお藤姐御は、キョトンとした眼を見はって、ふしぎそうにまじまじと、相手の顔を見上げるばかり。
 さて、ここで物語はとびます。
 そう駕籠わきの侍が、つづけざまに弁じたてても、駕籠のなかの一風宗匠はキョトンとした眼をすえて、まっすぐ正面をまじまじとみつめているばかり。
「江戸からの報告は、いまだに思わしくないことのみ。御在府の御家老田丸主水正様、捜索隊長の高大之進殿、いずれも何をしているのでござりましょうなア。もはやこけ猿がみつからぬときまれば、日光御修営はいかがになるのでございましょう」
 長旅の退屈まぎれに、話し続ける高股だちの武士は、ふっと気づいて、また苦笑をもらした。
「おう、そうであったナ。どうもいけない。一風宗匠は筆談以外には、話ができないということを、おれはすぐに忘れて……これではまるでひとりごとだ、あはははは」
 そのお駕籠には、柳生藩のお茶師、百と何歳になるかわからない奇跡的な藩宝、一風宗匠がゆられているのです。
 前を行く駕籠ひとつ――これはいうまでもなく伊賀藩主、柳生対馬守様。
 御行列です。突然出てきたのです、柳生の庄を。
 待ちくたびれたのでしょう。もうこうして、とまりを積んで東海道は大磯の宿を、一路江戸へ向かった。

 延台寺えんだいじ内の虎子石。
 曽我の十郎が虎御前の家へ泊まった夜、祐経すけつねからはなされたスパイの一人が、十郎を射殺そうと射った矢が、この石に当たったという。
 それで十郎は命が助かり、いまだに石のおもてはやじりのあとが残っているそうです。
 大磯といえば、曽我兄弟……。
 そのほか。
 西行法師で名だかい鴫立沢しぎたつさわ――年老いた松の、踊りの手ぶりのようにうずくまる緑の丘の上に。
 あの辺に西行堂が……とお駕籠のなかから指さしながら、対馬守はひたすらに、行列を急がせて。
 伊賀の暴れン坊の兄。
 左手に樹木の欝蒼とした高麗寺山。
 ここらの海岸は、その昔、高麗こま人を移住させたあとで、もろこしはらと言ったといいます。
 花水はなみず川を渡ると、だんだん平塚へ近づいてくる。
 いくら待っても江戸からは、こけ猿の茶壺のあたりがついたという色よい便りはすこしもない。壺ののむ財産だけが、この際、柳生にとって日光お費用ものいりの唯一の目当てなのですから、藩の上下をあげてそのあわてようといったらありません。
 壺はかいもく行方知れず。日光おなおしの日は、容赦なく迫る。たいがいのことにはさわがない対馬守も、これにはさすがに手も足も出ない。
 やっと神輿みこしをあげたわけですが、
「東海道は一本道じゃ。江戸のほうからまいる旅人に気をつけるようにと、先供さきともによく申せよ。どうも余は、今にも主水正から使いがありそうな気がしてならぬ」
 とこうして途上でも、剛腹な殿様が壺のことを気にしているのは、もっともなことで。
 虫が知らせる……というほどのことでもないが、江戸へ近づくにつれて、なんとかして壺の吉左右きっそうが知れそうなものだと、しきりにそんな予感がするのです。
 百いくつになる一風宗匠も、これが最後の御奉公とばかり、枯れ木のようなからだを駕籠に乗せて、やっとここまで運ばれてきたのですが、何しろ希代の老齢、江戸へ着くまでからだがもてばいいけれど。
 にせのこけ猿が二つも三つも現われたという。この噂だけは、国もと柳生藩にも伝わっているので、唯一無二真のこけ猿の鑑定人としてどうしてもこの一風宗匠の出馬はこの際必要だったのです。
 江戸へさえ出れば、なんとかなる……これが対馬守のはら。この、源三郎と司馬道場のいざこざも、どうなっていることか――。
 剣をとってはまことに天下一品、腕前からいっても源三郎の兄である剣豪柳生対馬守の胸も、この心たのしまない旅に、ちぢに乱れて。
 平塚――大山阿夫利あふり神社。その、三角形の大峰へ詣る白衣の道者がゾロゾロ杖をひく。
 藤沢――境川にまたがって、大富、大坂の両町。遊行寺ゆぎょうじは一遍上人の四世呑海和尚どんかいおしょうの開山。寺のうしろの小栗堂は、小栗判官照手姫の物語で、誰でも知っている。
 戸塚――程ヶ谷。
 おとまりはよい程ヶ谷にとめ女、戸塚まえで、放さざりけり……ちょうど地点が一夜のとまりに当たっていますから、大小の旅宿はたごがズラリと軒をならべて、イヤ、宿場らしい宿場気分。
 町のはずれまで宿役人、おもだった世話役などが、土下座をしてお行列を迎えに出ている。いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄とうざんがらまちの低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹かいきか何かついている、一同あれをはいています。
 対馬守と一風と、二丁のお駕籠が本陣の前にとまりました。

 本陣の奥の広間。何やら双幅そうふくのかかった床の間を背に、くつろいだ御紋付きの着流し、燭台の灯にお湯あがりの頬をテラテラ光らせて、小高い膝をどっしりとならべているのは、柳生一刀流をもって天下になる対馬守様。
 今宵のとまりは、この程ヶ谷。
 一夜の旅の疲れをやすめようとなさっているとき、近侍の者の知らせ……江戸家老田丸主水正の若党儀作というのが、狂気のように、ただいまお眼どおりを願ってお宿へ駈けこんだという注進だ。
 普通ならば、若党が殿様にじきじきお話を申しあげるなどということは、あるべきはずのことではない。
 何人もの口をとおして、言上もし、また御下問にもなるわけですが、旅中ではあり、何分急を要することなので。
 破格のお取りあつかい。
「その儀作とやらを、これへ――」
 となった。
 で、今。
 合羽を取っただけの旅装束のまま、裾をおろした若党儀作……彼は、神奈川の宿はずれで、名も知れない道中胡麻の蝿のために、大事の証拠品の壺をうばわれて、追いかけるまもなく、相手は、地殻を割れてのまれたように見えずなってしまったから、それからのちの儀作は、もう半狂乱、半病人。
 申し訳ない。なんと言いひらきをしたらいいか――いくど切腹を思ったかしれません。
 が。
 さきの長い街道筋だ。これから柳生の里までのあいだに、またあの町人に出あうことがあるかもしれないと、それだけを唯一の頼みに、フラフラとつきものでもしたように、やっとこの夕方通りかかったのがこの程ヶ谷の本陣の前。
 今夜はお大名のおとまりがあるとかで、宿中なんとなくざわめいているから、片側に道をよけて通りながら、ヒョイと見ますと、
 昔は殿様のお宿には、大きな立て札を出したもので――墨痕おどる一行の文字は、柳生対馬守御宿。
 眼をこすった儀作、めざす国もとの殿様が、先知らせもなく江戸へのぼって来る途中、もうここまでおいでになっているとは……知らなかった、知らなかった――。
 言いようのない不覚をとった以上、伊賀へ帰れば、斬られる。といって、このままおめおめ江戸へ引っかえせば、やっぱり主人主水正が、ただはおくまい。
 どうせあの壺とかけかえに、消える命ときまっているなら、今ここで、藩主の御一行に出あったのをさいわい、はやくかたをつけて――と。
 やけ半分のこういう覚悟だから若侍の案内で、恐る恐る対馬守の前へ出てきた儀作。髪は乱れ、衣紋はくずれ、眼が血ばしって、口を引きむすんで、相が変わっている。お側の侍二、三人は、思わず膝を浮かせて、
「田丸様の若党と申したな。しかとそれに相違ないか」
 刺客とにらんだのかもしれない。
 儀作、それに答える余裕などはありません。もうこわいのも忘れて、いきなり藩主の前にすすみ、バタリと両手をついて平伏しながら、
「申しわけござりません。手前は、田丸様の御命を奉じ、お国おもてへたち帰ります途中……持ったお壺を何やつとも知れぬ者にうばわれまして――」
「貴様の話は、サッパリわからぬぞ。壺がどうしたとやら申すが、そんなことは気にかけんでもよい」
 なぜか対馬守、――すこしもあわてません。

 対馬守様は、あわてません。ちっとも。
 どなるようにつづけて、
「馬鹿なことを申せ、あの主水正が、ほんもののこけ猿を若党一人にかつがせてよこすわけはないッ。さようなものは盗まれても大事ない。それより、主水正より言いつかった使いの口上があるであろう。口上を言え口上を」
 斬られる……という覚悟で、御前に出てきた儀作は、
「ヘ?」
 と思わず首のまわりを、なでました。ああありがたい! チャンとまだついている。
「ヘェ、申し遅れましてあいすみません。田丸主水正のおっしゃるには、壺の大金はみつかった、それも、ただいまの麻布林念寺前のお上屋敷のお庭隅に、確かに埋ずめてあると申すことで、私が江戸を離れます日には、その場所に玉垣をいめぐらし、人を近よらしめずに、殿の御出府をお待ち申しておりまする……」
 一座に、しばし沈黙が落ちた。さすがの対馬守さまも、お顔の色をお変えになって、
「ナニ、財宝たからが見つかったと?」
 半信半疑の面もちで、左右の近侍をみわたすと、
 一同、おどりたちたい衝動、さけびあげたい歓喜をこらえて、御前だから、じッとがまんをしているようす。
「上屋敷の隅に、ハテナ?」
 つぶやいた対馬守の低声こごえは、皆の耳にははいらなかった。殿様はさすがに、はやくもこれには何か仔細がある、ときっとからくりがひそんでいるに相違ないとにらんだのですが、家臣のまえ、さりげなくよそおって、
「で? 主水正は、余に江戸へ出てまいれと、それでそちを迎いによこしたのか」
「ヘイ、至急に御下向をわずらわしたいと、手前お迎いのお使いなので」
「出てきたからよいではないか。ここはもう程ヶ谷じゃ。江戸はつい眼と鼻のあいだ……江戸へ近づけば、日光へも近うなる……」
 家老田丸に会えば、すべてがわかることだが……かならずこの裏には、おためごかしの公儀の手が、働いているにきまっているぞ――。
 壺の財産が見つかった……どんなにおよろこびになるかと思いのほか、対馬守はだんだん蒼白に顔色を変じて、両手がブルブルとふるえてくる。いつもの癇癖かんぺきがつのるようすだから、お側の者は、どうしたことかとサッパリわけが解らない……鳴りをしずめています。
「エエイッ! 徳川を相手にするには、どこまでも狐と狸のだまし合いのようなものじゃ」
 人に聞かれては容易ならぬ言葉! 列座が、恐ろしさに色を失ったとたん、脇息を蹴たおしてつったちあがった対馬守、
「一風宗匠は、まだ起きておるであろうナ。コレ、案内せエ、宗匠の部屋へ!」
 その瞬間です。
 本陣前の程ヶ谷宿の大通りを冴えた三味の音とともに、アレ、たかだかと流してくる唄声が……。
「尺取り虫、虫
尺取れ寸とれ
足のさきから頭まで
尺を取ったら命取れ」
 ああして与吉と会ったとき、あくまで知らぬ存ぜぬとしらをきりそうに見えたお藤姐御、あれから、どういう話になったものか、今こうして連れだった与吉とお藤、灯のもれる宿場町を、仲よく、唄と三味と、三味と唄と、流してゆきます。
 と、何を思ったか与の公、いちだんと大声を張りあげて、
「さわるまいぞエ、手を出しゃ痛い……」
「シッ!」
 姐御が制した。ばちをあげて。

 櫛巻お藤の心では。
 アアもうフツフツいやだ。うるさいことは……。
 思う左膳は、壺とやらのとりあいから、どこかの道場のお嬢さんを見そめて、あんなにつくす自分の親切も通らず、一つ屋根の下に住んでいても、いまだに赤の他人――
 おまけにあの朝、顔色を変えてチョビ安ともども、駈け出して行ったきり、なしのつぶてである。
「エエ馬鹿らしい! どうしてあたしは、あんな、能といっては人を斬る以外、なんの取りえもない左膳の殿様なんかが、こんなにすきになってしまったんだろう。自分ながら因果な性分だねえ」
 苦笑したお藤、ヒステリカルな癇癪を起こして、一人っきりの家で髪をかきむしったり、茶碗をぶつけて割ったり……それも一人相撲と気のついたあげくは、通りがかりの屑屋を呼んであのこけ猿の茶壺を二束三文どころか、ただでくれてしまった。
 ブラリと旅に出たんです。住みなれた尺取り横町の長屋に、ベタリと貼られたかしや札。
 尺取り虫を踊らせる、奇態な女芸人がいるところから、人呼んで尺取り横町……その名物の本尊がなくなった。
「笠ひとつに、三味線一丁、それにこのかあいいお虫さんさえいれば――」
 荒い滝縞に、ずっこけに帯を巻いて、三つに折れるたたみ三味線と、商売道具の尺取り虫、それを小さな虫籠に入れたのを、長い袂へほうりこんだお藤、思いきりよく江戸をあとにした。
 奇妙な俗説があります。頭のテッペンから足のさきまで、この尺取り虫に尺を取られると、命がないという。
 嘘かほんとうかわからないが、櫛巻お藤、それを信じている。
 信じて疑わない。
 で、ふだんなら尺取り虫を飼って、弾く三味線のにつれ、何匹もの虫が背を高く持ちあげては、伸びたり縮んだりしてはいまわる。それが、いかにも虫の踊りに見えるところがお愛嬌の売りもの。
 だが、すごい遊芸です。まかりまちがえばこの虫に相手の尺を取らして、ほんとに死ぬかどうか、見たいものだと考えているお藤、最大の武器をたずさえて道中している気だ。
 一時木曽街道へ出たのですが、まもなく引っかえして、気まぐれの一人旅。こんどはこの東海道を、足の止まるところまでそうという考え。
 思い出すのは、左膳のこと……また。
「どうしたろうねえ、あのチョビ安って子は。あたしが連れて、虫踊りの門づけに、八百八町を流し歩いたこともあったッけ。こましゃくれた、かあいい児だったがねえ」
 と、神奈川の街道筋で、ボンヤリ追憶にふけっているところへ出現したのが、鼓の与吉だったのです。もうすっかり世を捨てたつもりのお藤姐御、与吉を見ても知らん顔して、つっぱねようとしたのだが。
 そうはいかない。
 与の公、まるでダニみたいな男で、ズルズルべったりにつれになってしまった。
 妙な組みあわせの同行二人。
 今この程ヶ谷の夜の町。
 ふと唄いだした与吉の、伊賀の暴れん坊の歌を、お藤が止めたときです。
「コレコレそこへ行く二人」
 声がした。

「アッ! 柳生対馬守とあらア」
 本陣の前を通りながら、与吉がさきに見つけたのだ。
 出たとこ勝負の二人なんです。与吉は、儀作からうばったこの壺をぶらさげて、ほどあいを見はからって江戸へ帰ろうという心。
 江戸では、峰の殿様が待っていらっしゃる。
 が、しかし、これからすぐ江戸へ……とお藤姐御に言ってみたところで、おいソレと引っかえす櫛巻のお藤ではない。といって壺をかついで一人でノコノコ江戸入りするのは、危険千番。
 さいわいここで、お藤というものを発見したのだから、二人連れの旅芸人と見せかけて、でたらめの唄でもうたいながら、せめて箱根の手前ぐらいまで行ったのち、お藤のお天気のよいときに、江戸へ戻ろうとすすめても、遅くはない。
 こういうはらだから、与の公、手拭を吉原かぶりに、聞きおぼえの新内などうなりながら、今宵さしかかったのがこの程ヶ谷の宿だ。
 伊賀からのぼって来た対馬守の一行が、ここに泊まっていると知った与吉、まさか、あの、神奈川宿でいっぱい食わした若党儀作が、自分より先まわりして、もうこのお宿にいようとは、夢にも思いません……あいつは、壺を取られて面目なく、泣くなく、江戸に帰りやがったに相違ねえ。
 一つ、ひやかしてやれ。
 突拍子もない調子を張りあげて、
「さわるまいぞエ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れん坊と栗のいが
 聞こえよがしに歌ったものです。
「およしなさいよ、お前さん。伊賀侍をおこらせると、あとのたたりがこわいことは、誰よりも与の公、お前がいちばん知ってるはずじゃアないか」
 お藤がたしなめたが……。
 すでに遅かった、そのときは、
「コレ、そこへまいる両人、ちょっと待て」
「ヘイ、あっしどもで」
 立ちどまった与吉が、ヒョイと見ると、肩をいからした頑丈な侍が、広い本陣の門口から出て来ようとしている。
 お藤はソッと与吉のひじをついて、
「ソレ、ごらん、おまえさん。だから言わないこっちゃアない。藪をつついて蛇を出したじゃあないか」
 侍は威猛高に、ツカツカと寄ってきて、
「コラッ! 栗のいががいかがいたしたと?」
 その大声に、供溜りにいたらしい若侍が五、六人、バラバラッととびだしてきたが。
 それよりも!
 与吉のおどろいたことには――。
 あがりがまちにせのびをして、じッと戸外そとを見守っている人影……江戸へかえったとばかり思っていた若党儀作ではないか。殿の御前をさがってきた儀作、表通りにたちさわぐ人の声々に出てみたところが、あの胡麻の蝿みたいな町人が、小意気な三味線ひきの女とならんで立って、何やら番士のとがめをうけているようす。
 ひと眼見るより儀作は、
「オッ! つかまえてくれ! その男だ、その男だッ!」
 はだしで土間へかけおりました。と、若侍は何をあわてたものか、二、三人折り重なって、櫛巻の姐御をギュッとおさえつけてしまったから、儀作は頓狂声で、
「女ではない! ソ、その男! 男のほうを……!」
 ナニ、同じおさえつけるなら、女のほうがいい――侍たちがそんなことを言ったかどうか。
 このあいだに与吉は、肩の壺を地面へほうり出して、キリキリ舞いをしていたが、やがて方向がきまると、一目散もくさんにかけ出した。グイとお尻をはしょった儀作、足の裏を夜空へむけて、追う、追う……追う。

 不敵な唄声とともに、この本陣の表口に、ガヤガヤという人の気配がわき起こったようすだが。
 対馬守はそれを聞き流して、縁側へ立ち出た。
 障子、ふすまなどを、自分であけたてするということは絶対にありません。小姓、お茶坊主などが左右にひかえていて、サッとひらくのです。
 また、片引きということもない。音もなく引きわけになって、そこをスウーッとお通りになります。昔のお大名は、こういう生活になれておりますから、なかには、戸や障子は自分で開くもの、自動的にあくものと心得ている人もあったという。
 鷹揚おうような突き袖かなんぞしたまんまふすまの前に立って、ひとりでにひらくのを待っていたが、いつまでたっていてもあかないので、ふしぎそうに唐紙をみつめて、トンと畳に足ぶみをしてじれた殿様がある、という話。
 まさか……。
 わが柳生対馬守は、そんな人間ばなれのしたお大名ではない。そのかわり、小姓どもが障子を開くのが遅ければ、手を出してあけるかわりに、蹴倒して通りもしかねまじい気性のはげしいお方。
 弟の伊賀の暴れん坊が、いささか軟派めいているのに反して、兄対馬守殿は、武骨一方の剣術大名。
 蹴るような足つきで本陣の長い廊下をツ、ツ、ツウとおすすみになる。さきへ立って雪洞ぼんぼりで、お足もとを照らしてゆくお小姓は、押されるようにだんだん早足になって、これじゃアかけ出さなくちゃア追っつかない……。
 と、なったとき、来ました。一風宗匠の部屋の前へ。
「宗匠、どうじゃな」
 対馬守は、どなるように言いながら、室内なかへはいった。
「老体じゃ、この長旅に弱らねばよいがと、案じているがの」
 小さな置物が動くように、一風宗匠はそろそろと、敷物をすべりおりました。殿のうしろから厚いしとねを二つ折りに、折り目をむこうへむけて捧げてきたお子供小姓が、急いで正面床柱の前へ、そのおしとねを設ける。
 それを対馬守、つまさきでなおしながら、あっちへ行っておれ!……と、ついて来た者へ眼くばせです。
 一同が中腰のままさがってゆくのを待って、対馬守は一風のほうへ向きなおった。
 柳生藩の名物、お茶師一風――百十何歳だか、それとももう百二十歳以上になるのか、自分でも数えきれなくなって、宗匠の年は誰にもわからない。八十、九十のお爺さんを、お孫さん扱いしようというのだから、すごいもので。柳生藩の生きた藩史、今なら知事の盃などいくら持っているかしれない。
 人間もこう枯れ木のようになると男女の性別など超越して、なんとなく物体のような感じ……油紙をもんだような顔をほころばせて、小さなかあいい眼で対馬守を見あげている。
 舌が動かないのです。口がきけない。それでも、先ごろまでは耳はまだ達者で、こっちの言うことだけは通じたのですが、今ではもう耳もだめになったらしく、何を言ってもニコニコしているばかりです。
 眼だけだ、残っているのは。
 対馬守は、静かに硯箱を引きよせ、巻紙をひろげて、サラサラと一筆したためました。
「宗匠に借問しゃくもんす。こけ猿と称する偽物、江戸に数多く現われおる由、ほんものを見わくる目印、これなきものにや」
 すり寄って、対馬守の手もとをのぞいていた一風宗匠は、コックリとうなずいて、両手を差し出した。
 その筆と紙をこっちへ……というこころ。

 やっとのことで一風の左手に、巻紙を握らせた対馬守は、その、木の根のような右手へ、墨をたっぷり含ませた筆を持たせると。
 こまかくふるえる手で、宗匠の筆が左のような文字を、したためはじめた。
 燭台を手もとに引き寄せて、対馬守は横あいから、異様に燃える眼でその筆先をみつめる。壺の真偽を判別する鍵が、今ここで明らかにされるのですから、対馬守、思わず真剣になった。
 大きくおどるような、読みにくい文字です。
「偽物いかに現わるるとも、急所をきわむれば、鑑別のこといと容易なり。御当家に伝わるこけ猿の壺には……」
 一風宗匠の筆が、そこまで動いたとたん!
 大勢あわただしい跫音あしおとが、殿様をさがすように長廊下を近づいてきて、
「殿! こちらでござりますか」
 かんじんのところへ心ない邪魔が……対馬守は声をあらげて、障子そとの廊下へ、
「治太夫か。何じゃ、そうぞうしい! いま宗匠と重要な筆談をかわしておる。さがっておれッ」
 治太夫と呼ばれた侍の声で、
「いえ、殿。至急お耳にいれねばならぬことが――」
「エエイッ、さがれと申すに。そっちよりこっちがたいせつじゃワ――宗匠、そのさきはどうした」
 と対馬守、必死に一風に書きつづけるようにうながしますが、老宗匠の筆は、そこでハタと止まってしまって、キョトンとした顔をあげている。
 気がついた対馬守、
「オオ、そうじゃったナ。いかに大声を出しても、言葉は通ぜぬのじゃったな。エイッ、世話のやける老人としよりじゃ」
「殿、殿! 火急の儀にござりますれば……殿、殿ッ!」
「うるさいッ! このほうがよっぽど火急じゃッ」
 と癇癪を起こした対馬守、いきなり宗匠の手から筆を引ったくって、ドブリと墨をつけるがはやいか、膝先の畳の上へ、手習いのような文字を書いた。
「宗匠、それからどうした。こけ猿の壺には、どういう目印があるというのだ」
 とこう滅茶苦茶に書き流して、ポンと筆を投げすてた。
 一風宗匠は、すこしも動じません。それどころか、袋のような口で小さなあくびをしたかと思うと、手をふった。めんどうくさそうに、眉をひそめた。
 もうやめた、今日はもうあきたから許してくれ、またこんど、気分のよいときに……そう言っているのだ。
 いらだち切った対馬守は、声の通じないのも忘れて、宗匠の耳へ噛みつくように、
「イヤ、わしが悪かった。畳へ字など書いて、宗匠をおどろかしたのは、なんともはや申し訳ない」
 一生懸命の対馬守は、宗匠の前に両手をついて、つづけさま頭をさげながら、
「サ、こんなにあやまるから、機嫌をなおして先をつづけてくれぬか。ちょっとでよいから、その真のこけ猿の目印というのを……」
 一風宗匠は、おもしろい芝居でも見るように、相変わらず赤ん坊のような笑顔で、あくびの連発――もういやだ、今日は気がむかない、わしはもう寝るのじゃから、はやくあっちへ行ってくれ……そういっているようだ。
「ナア、宗匠、後生ごしょうじゃから、お願いじゃから――」
 人に頭をさげられつづけて、生まれてからこの自分の頭をさげたことのない対馬守、ここを先途せんどと、平蜘蛛のようにペコペコお辞儀をしている。

 言葉は通じないのだから、一風宗匠は平気だ。
「何をこの殿様は、てを合わせてわしを拝んだり、しきりにおじぎをしたり、ハテ、変なことをするお人だ」
 と言いそうに、あっけにとられて対馬守をみつめている。
 人に頭をさげる感じは、生まれて初めて。どうもあんまりいいものじゃアない。対馬守はムカムカしてくるが、いくらおこってみたところで、相手はやっぱりニコニコしているに相違ない。
 それよりも。
 なんとでもしてこの一風から、こけ猿真偽鑑定の法をきき出さねばならぬ。宗匠のほかにそれを知っているものは、この世に一人もないのだから。
 おまけに。
 そのかんじんかなめの一風宗匠、百二十歳の老体でこのたびの東海道中は、かなりむりだ。衰弱は日に日に目だつばかり。もし今夜にもポッかり逝かれでもしては……。
 と思うと対馬守、気が気でありません。
 青くなったり、赤くなったり、
「宗匠、三遍まわってワンと言えば、それもしよう。いかなる望みもかなえて進ぜるから、サ、こけ猿の目印を……」
 ピタリ両手をついて、額を畳におしつけた瞬間。
 カラリ!
 廊下にむかった障子があいた。待ちきれなくなった治太夫が、殿の許しを得ずにあけてしまったのだ。
「殿! ただいまこれなる本陣の表通りに――」
 言いかけた治太夫、見ると、あろうことかあるまいことか、殿様がばったみたいに平つくばって、おじぎの最中だから、
「オヤ! これは御酔狂ナ……何かお茶番でも!」
「無礼者ッ! 誰がそこをあけろと申したッ!」
 醜態を見られて、対馬守はてれ半分、カンカンになってどなりつけた。
「今この畳へ、宗匠が針を落としたというから、老人のことじゃからさがしてやっておったのじゃ」
 はりとはつらい……。
 その鼻先へ、治太夫、かかえて来た壺を突きつけんばかりに差し出して、
「申しあげます。儀作の奪われました壺が、戻りましてございます。唄うたいの男が、お宿の前で儀作に追いかけられ、ほうり出して逃げましたので、運よく割れませんでしたのが、何よりのさいわい」
「ナニ? 壺がかえったと? よし、ちょうどよい折りじゃ。一風に鑑定させよう」
 たくましい腕をのばして、むずと壺を引ったくった対馬守は、
「宗匠ッ! これはこけ猿かどうだッ」
 また耳の聞こえないのを忘れて、大声に叱咤しながら、グイと宗匠の眼のさきへ壺を見せた。なんのことはない、柳生一刀流正眼の構え。
 声は聞こえなくても、さすがに宗匠、この意味はわかったとみえる。今まで眠っていたような眼が、見るみるうちにいきいきした光を添えたかと思うと。
 二秒、三秒、じッと壺の一箇所をみつめていたが――。
「――――」
 だまって首をふりました。
 こけ猿ではない、と言う。
「エーイッ、そうだろうと思ったッ!」
 叫びざま対馬守、治太夫の頭を目がけてはっしとばかり、壺を投げつけたが、治太夫も相当なもの。日光修理が近づくにつれ、いらだつ殿の癇癪かんしゃくは毎度のことで、慣れている。
 ハッと首をすくめたから、壺は雨戸へあたって大音響とともに微塵にくだけ散った。

 同時に対馬守は、すっくと起ちあがって、足ばやに一風の部屋を出かかったが、そのとき、廊下のむこうから儀作を先頭に、二、三人の侍が急ぎ足に――
 ハッと殿の足もとに、小膝をついた儀作が、
「残念でござりますが、ふたたびとり逃がしましてござります。なんとも、足の早い男で」
「捨てておけ、さような下郎は……コレッ、皆の者よく聞け。余の求めておるのは、真のこけ猿の茶壺じゃ。今後偽物を持ちこんだやつは、うち首にいたすからそう思え」
 八つあたりのありさまだが――むりもない。日光は容赦なくせまり、柳生一藩の存亡、今日明日にかかっているので。
 追いすがった儀作は、一生懸命の声。
「その男と連れだち、三味線を弾いておりましたあやしい女を、おさえてございまするが」
「女などとらえてなんになると思うか。たわけめッ!」
 吐き出すように言った対馬守だが、すぐ思いかえして、
「ウム、広間へ引き出せ。余がじきじきにきくことがある」
「ハッ、ごめん」
 かけ抜けた儀作は、そのまま広い本陣の廊下を小走りに、裏手の供待ち部屋へ来てみると、
「いくらこんなものでも、まさかネ、野宿はできませんからね。どこかに宿をとらなくちゃアならないと思っていたところを、こうしてこちらへ御厄介になることになって、旅籠はたご賃だけでも大助かりだよ。お礼を言いますよ、ハイ」
 おおぜいの侍にかこまれて、膝先に煙草盆を引きつけたお藤だ。
 平気の平左で、帯のあいだから小意気な煙管を取り出し、一服つけては、ポンとはた吐月峰はいふきの音。
「不敵なやつだ」
 儀作はにらみつけて、
「殿のおめしだ。すぐまいれ」
「あ、そう?」
 お藤は軽く煙管をしまって、
「キリキリ立アてというところだね、オホホホ」
 江戸のこけ猿騒動に、なんらかの点でこの女が、重大な関係を持っているに相違ないと思うから、一同はひしとお藤をとりまいて、御前へ出たのです。
 あせりきっている対馬守……。
 頑丈なからだをもたせかけると、蒔絵の脇息がギシときしむ。
 イケしゃあしゃアと前へすわったお藤へ、ジロリとするどい眼をくれた殿様、
「江戸からか?」
「在郷うまれと見えますかね? フン」
 かたわらの侍たちが、たけりだって、
「コラ、女! どなた様のおん前だと思う。気をつけて口をきかぬと、ウヌ、手は見せぬぞ」
「よいよい、おもしろそうなやつじゃ。うっちゃっておけ……そこで女、貴様にきくが、逃げたと申すつれの男は、何者かの?」
「サア、……神奈川かながわで顔が合って、のんきに東海道をのぼろうと、マア、話しあいがついていっしょになっただけでね、どこの馬の骨だか、ハイ、あたしゃいっこうに――」
「知らぬと申すか」
 じっとしばらく、何事か考えていた対馬守、急にニッコリして、
「ナア女、しばらく芝居をしてみる気はないかの? 余のもとに」
「アイ、それア狂言によりけりでネ、どうせ世の中は、芝居のようなものですから、役によっては承知しないともかぎりませんのサ」
「フーム、これはなかなか話せるわイ――これ、ここはよい、あちらへ!」
 と対馬守、いならぶ家臣たちへ、ヒョイとあごをしゃくった。

 簡単なことを複雑にする……。
 うつろな制度、内容の腐りかけている組織を、むりに維持してゆくためには、これよりほかはない。形式、儀礼の尊重ということは、ここから生まれるのです。
 時代をへだててみると、いかにも無用――無用どころか、滑稽としか考えられない儀礼や形式でも、当時その社会に生き、そのなかに呼吸していると、なんらの不自然もなく、そのまま受け入れることができたに相違ない。
 制度、組織の力が、そこに働いていたからだ。
 たとえば、このお茶壺というもの。
 お茶を入れる壺といってしまえば、それだけのものだが、これを宇治の茶匠まで送りとどけて、茶を詰めてかえる道中が、たいへんなものでした。
 壺の主のお大名と同じ格式をもって、宇治へ上下したものだという。一万石は一万石、十万石は十万石の権式けんしきで、茶壺が街道を往来するのです。
 槍を立て、その他の諸道具を並べた行列――お駕籠のなかは殿様かと思うと、そうではなく、お茶壺がひとつ、チョコナンと乗っかっていようという。
 騎馬、徒歩の警護の侍が、ズラリと壺を取りまいて、
 下におろう、下におろう……!
 平民はみな土下座をして、壺一箇を送り迎えしなければならない。
 第一日は、品川松岡屋が定宿。
「サア祝儀が出るから、こんなのんきな旅はない。ゆるゆる行こう」
 こう言って、供の人数を見まわすように振りかえったのは、石川左近将監の重臣で、竹田なにがし。
 あの日光お相役をのがれるようにと、賄賂を持って柳生藩江戸家老、田丸主水正のもとへ使者に立ったことのある人物だ。
 こんどその、石川左近将監どのの茶壺が、宇治へのぼることになったについて、竹田が道中宰領として今江戸を出発するところ。
 旅にはもってこいのいい時候。
 朝七つ時に神田連雀れんじゃく町の石川様の屋敷を、御門あきとともに出発した一行は、これから五十三次を、お壺だちといってそれぞれの宿場にとまりを重ねてゆくのだが、宿屋などでは身祝いをして、御馳走が出たり、名物のおみやげがめいめいの前に山と積まれたり……。
 役得根性の一同は、イヤ、もう大喜びだ。
 何日となく旅をつづけて、大磯から小田原へはいると、いわゆる箱根手前、ここは大久保加賀守の御領で、問屋役人から酒肴が出る。
 竹田の一行はすっかりいい気持で、箱根を越え、サテ、いまこの沼津へさしかかりました。水野出羽守様御領……。
 沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
 品川から十三番目の宿場ですな。
 三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
 お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。
 警護頭の竹田も、のんびりした気持になって、お駕籠わきの床几にからだをやすめながら、煙管をとり出して一服しようとする……。
 そのときだ。
 たちならぶ松のむこう、下草などの生い茂っている草むらのなかから、ヌッと白い柱のようなものが起ちあがった。が、まだ誰も気がつかない。
「さア、ひと休みしたら、そろそろ出かけるとしようか」
 てのひらで煙管をたたいて、竹田がポンと火殻を吹いた。

 恋をゆずる気持ほど、悲惨な心はないであろう。
 とすれば。
 今の丹下左膳ほど、暗い胸のうちもまたとあるまい。
 三方子川尻の漁師、六兵衛の家に、萩乃と源三郎をそのままにして、心の暁闇をいだいてたちさった左膳。
 アアもうふつふついやだ、うるさいことは……期せずして、あの櫛巻の姐御と同じ心境にたちいたったが。
 その、世を捨てた気の丹下左膳――左膳だけに、その捨て方がちょっと違う。
「おれの力ひとつで、なんとかしてこけ猿を見つけだしてえものだ。はじめ与吉が盗みだしたのを、あのチョビ安が引ったくって走り、それがおいらのふところに飛びこんだのだから、あの最初の壺こそは、真のこけ猿に相違ねえのだが、それがいつのまにか転々の、数かぎりもない偽物が現われて、こけ猿はいまどこにあるやら?――こうなりゃア、天下の茶壺という茶壺をかたっぱしから手にいれるだけだ。それには、宇治へ上下する茶壺道中をねらい……ウム! どの大名の壺にも、供の侍がおおぜいいることだから、ひさかたぶりにおれも、この濡れ燕も、思うさまあばれられようというものだ。こいつはうめえところへ気がついたぞ」
 ニンマリ笑った左膳、見つけしだい壺の行列をおそって、斬って斬ってきりまくり、それでやっと、萩乃をあきらめたせつなさを忘れようというので――旅に出るといったって、べつにしたくも何もありはしない。
 いつものまんまです。
 汗と塵によごれて、ところどころ黄色くなった白の着物に、すりきれてしんが出ていようという博多の帯を貝の口に結んで、彼にとっては女房ッ子も同様な例の濡れ燕を、グイとおとし差し……。
 ふところ手――といっても、片手ははじめからないのだから、左の手を袂のなかへ引っこめただけだ。たったひとつの眼で往来の人をジロジロにらみながら、
「どこの大名のでもいいや、壺の道中はねえかナ」
 アア人が斬りたくてたまらねえやといわぬばかりの顔で、ブラブラ歩いてゆくのだから、旅人たちはみんな片側へよけて通る。そばへきて吠えつくのは、野良犬だけだ。
「おれのからだにゃア、生き血のにおいがするとみえる。フフフヤ、犬どもが吠えるワ吠えるワ。ヤイヤイ、もっと吠えろッ! もっと吠えねえかッ!」
 幽霊のような姿で、宿はずれの辻堂に泊まったり、寺の縁の下に這いこんだり――すると、街道のむこうに見えてきたのが、宇治へのぼる途中のこの石川左近将監のお壺。
 おおぜいの足が砂塵をまきあげて、一団になって練ってゆくのを、遠く後方からのぞんだ丹下左膳、
「オオ、とうとうひとつ出会ったぞ」
 と足をはやめ、それからずっとあとになりさきになり、ここまでからみ合ってきたのですが。
 沼津の町を駆け抜けた左膳、ここに先まわりして、行列の来るのを待ちかまえていたのだ。
 名にし負う千本松原……。
 店開きにはもってこいの背景だと、たちあがった左膳、ガサガサ藪を分けて松のなかを進んでゆく。
 まるで友達とでも話しにゆくようだ。
 変な浪人が現われたナ、とじっと立ちどまってこっちを見ている竹田へ、左膳引きつったような笑顔で話しかけた。
「どなたのお壺かな?――イヤ、誰の壺でもかまわねえ。ひとつ、口あけだ。威勢よく斬らせてもらおうじゃアねえか、なア」
 左の手は、相変わらず懐中にのんだままだ。
 丹下左膳、頼むようにそう言った。

 剣意しきりに動く丹下左膳。
 こういうときの左膳は、ふだんとグッと人が変わるのである。へいぜいは石炭がらのように、人ざわりのガラガラした、無口な、変な隻眼を光らせている男だが……。
 腰間こしの濡れ燕に催促されて、「人が斬りたい、人が斬りたい!」と、ジリジリ咽喉のどがかわくような気分になったときの丹下左膳は。
 とてもにこやかな、やさしい人間になるんです。蝋のような蒼白い頬に、ポッと赤らみがさして、しきりに唇をなめるのは、なんのしるしか。
「なあおい、せっかくここまで、あとをつけて来たのだから、この濡れ燕に」
 と左膳、腰の一刀を左の手でたたくと、ガチャリ! 鞘のなかで刀身が泣く。
「なア、この濡れ燕に、むだをさせたくねえのだ」
 今までの生涯に、いく十人となく斬ってきた人のあぶらが、一時に噴き出すような、妙にねっとりした口調だ。
 夢みるように、からだを小さく前後にゆすぶって、立っている。
「狂人じゃ!」
 竹田ははき捨てるように言って、お壺の駕籠へむかい、
「かまわずやれ……なんだ、この千本松原に、白昼、かような化けものが出るとは! さがれ、さがれッ!」
 ぐいと左膳をにらんで、そのまま歩きだす。
 お駕寵は静かに地をはなれて、ギイッときしみながら、ゆらゆら揺れてまいります。蝋色ぶちにまいらの引き戸、袴の股だちを高くとった屈強の若侍が、左右に三人ずつ引き添って――さながら、主君石川左近将監その人が、道中しているような厳戒ぶりだ。
 左膳は?……と見ると、遠く海のむこうを見ているような片眼。左手を帯の前へさしこみ、足を片方ずつ上げて、かわるがわるにかかとですねをこするのは、虫でも刺したか。
 ちょっとさわれば、ぶっ倒れそうだ。
 警護の侍たちはおもしろがって、一人が、
「農工商のうえだと申しても、武士もこうなってはかたなしだ」
 笑いながら、通りすがりに、ドンと左膳の胸をついてゆく。
 左膳は無言、ニヤニヤしながらよろめいています。
「オイオイ、気ふれ殿、行列の中へまいこんでは、邪魔になって歩けぬではないか」
 ほかの一人がそう言って、うしろからグンとこづく。
「これでも、刀を二本さしているから、お笑い草じゃテ」
 一つの手が、左から左膳をつきとばす。
「ワッハッハッハ、竹を二本さしているなら、まず目刺しじゃろうな」
 もう一つの手が、右から左膳を押しかえす。
気狂きちがいも女なら、桜の枝か何か持って、ソレ、芝居にもよく出るやつだが、武士さむらいの気狂いでは色気もござらぬ」
「これでも昔は、いずれかの藩に仕官したこともあるであろうに……かわいそうに」
 同情めいたことをつぶやいてゆくやつもある。一同は前後左右から、左膳をつつきまわしながら、多勢の跫音が、ザクッ! ザクッ! と白い砂を蹴って、通り過ぎる。
 しんがりに立っていた、色の真っ黒な、口の大きな侍が、
「エイッ、馬鹿者ッ! 邪魔だッ!」
 ふらふらしている左膳の腰を、通りぬけざま、ドウッ! 足をあげて蹴たおした。
 くうを泳いだ左膳、ヒトたまりもなくペタンと砂に尻餅をついたまま、行列の遠ざかるのを、しばらくじっと見送っている。
 長い長い千本松原に、槍の柄が光り、お定紋に潮騒がまつわって、だんだん小さくなってゆきます。絵のよう……。
「ウフフ!」
 小鼻で笑った左膳、砂をはらって起きあがりました。

 その松原も、もはや出はずれようとするころ。
 さっき左膳を、最後に蹴とばしてきた色の黒い侍。
「イヤ、そのときおれは、それは筋道が違うと、榊原に言ってやったのじゃ。いくら養子の身だからとて、そうまで遠慮する必要は、おれはないと思うのじゃが、何しろ、相手が相手じゃから……」
 と同僚の噂話であろう。横にならんで行く、浅黄のぶっ裂き羽織を着た四十あまりのひとと、しきりに話しこんでゆく。
 と!
 ふとうしろに、人の気配がした。なにごころなく振りかえってみると、まるでくびすを踏みそうに、さっきのみすぼらしい乞食浪人が、尻きれ草履を鳴らしてピタピタあとを追ってくる。
「こやつ、いつのまに――?」
 噛みつきそうににらむと、その白衣の浪人は平気で、なおも背中がくっつきそうに追いすがってくるのだ。
「オイ、いいかげんにせんか。見れば貴殿も侍のなれのはて、いくら狂人でも、詮ない悪戯はよしたがよかろう」
 ぶっさき羽織が、
「マア、よい。さような者にかまうな。そこで榊原の問題だが、本人の心底は、いったいどういうのであろうな」
 二人とも左膳などは、眼中にない。世間話をつづけて、ふたたび歩をすすめようとするとたん。
 すぐ背後で、しゃがれた声がした。
「心底か。うふふ、おれの心底を見せてやろうかの?」
 人の話に割りこむように左膳二人をかきわけてなかへはいってくる。
「うるさいッ! エイッ! とめどのないやつじゃッ!」
 かんしゃく袋を破裂させた色黒の武士、しろがねの光が、突如横に流れたかとおもうと、抜いたんだ、やにわに左膳を目がけて……。
「オットットット! あぶねえあぶねえ」
 左膳、はじめて声を出した。愉快でたまらなそうな笑い声だ。が、依然としてふところ手のまま、
「抜いたな、ぬいたな。オイ、いったん刀を抜いた以上、そのままじゃア引っこみがつくめえ。いやいやながら丹下左膳、お相手つかまつるとしようかノ」
 頬の肉をピクピクさせて、顔をななめにつきだして相手を見ながら、ソロリソロリ左手を出す。同時に左膳、びっくりするような大きなあくびをした。
「ああウあ! そうだ、思い出したぞ。丸に一の字引きは、石川家だな。うむ、石川左近将監……」
 左膳があくびをするのは、鬱勃たる剣魔の殺情が、こみあげてくるときで。
 ところが、相手は、そんな危険な人物とはすこしも知らないから、
「狂人のくせに何を申す。たたッ斬ってしまうぞ!」
 一刀のもとに……と思ったのでしょう、いきおいこんで真っ正面から、打ちおろした。
 が! ふしぎ! 左膳はいつ抜いたのか、そして、いつ斬ったのか、ただ左手をこともなく左へはらったように見えたのだが、もう、腰の濡れ燕は鞘だけ。その鞘もとに、細長い三角形の穴が黒々とあいて、、刀身はすでに、左膳の片手にブランと持たれている。
 それよりも。
 その濡れ燕から一筋の赤い血潮が、斬尖きっさきを伝わって白い砂に、吸われる、吸われる。
 どうしたのだろう!……と見れば、色の黒い、口の大きな侍、腹を巻きこんで砂にすわったまま、動かない。一太刀に胴をえぐられたのだ。
「おい! 返せ、返せ。狼藉者だッ!」
 ぶっさき羽織が、さきへゆく行列へ呼ばわった。

 長い行列の先頭に立っていた竹田なにがし。
 うしろのほうから、人のくずれたつ騒ぎが伝わってきても、はじめは、それほどの大事とは思わなかった。
「たいせつの御用だ。喧嘩はひかえろッ、ひかえろッ!」
 同士打ちと思ったのです。
 二、三人の若侍を引き連れて、砂をまき上げてしんがりのほうへかけかえってみると、すでに五、六人の供の者が、浪打ちぎわや松の根もとに、あるいはうずくまり、あるいはのたうちまわって、浅黄色のぶっさき羽織を着た一人などは、あわてふためいて海のほうへかけだして倒れたらしく、遠浅のなぎさにのけぞった彼の死骸。
 その平和な死顔を、駿河湾の浪が静かになでている。
「竹田氏、竹田氏ッ! さきほどの痩せ浪人ですッ!」
「イヤ、おどろきいった腕前、またたくうちにこのありさま」
「かような手ききは、見たことも聞いたこともない」
 と一同、口をそろえてわめきたてたが――それはそうだろう、おどろくほうがどうかしている、何しろ相手は、丹下左膳だもの。
 が、こうなっても竹田は、自分が今、この千本松原でいのちを落とすことになろうとは、夢にも思いません。
 思わないから、えらい元気で、剣輪のなかの左膳をどなりつけました。
「不所存者めがッ! 石川様のお壺行列へ斬りこむとは、いのち知らずの大たわけめ、そこ動くなッ!」
 動くななんて言わなくたって、壺を手にしない以上、左膳のほうこそ、金輪際動く気はない。
 数十人の石川家家臣に取りまかれた丹下左膳は、つかもとまで血によごれた濡れ燕を、左手にぶらさげて、眠ったようにたっている。
 胸がはだけ、裾はみだれて、女もののはでな長襦袢に、さわやかな潮風が吹く。
 いつのまにかはだしになり、脱いだ草履を裏あわせに、帯の横ちょへはさんで、今にもくずれそうにヒョロッとつっ立っているんですから、姿は無気味だが、見たところ、とても弱そう……。
 つい今しがた、これらの人間を斬り捨てた左膳の働きを、もし竹田が見ていたら、もうすこし警戒もし、また他に取るべき手段もあったでしょうが、何しろ行列の先頭にいて、知らないんです。左膳の左膳たるところを。
 倒れている仲間は、あわてすぎて、たがいの剣がふれたのだろう、ぐらいに考えた竹田某は、
「竹田殿ッ、御用心なさらぬと……」
 などと注意する声を背中に聞いて、いきなり抜刀をひっさげ、ツカツカと左膳の前へ出かけて行った。
「ほほう、でえじにすりゃア一生使える命、そんなに斬ってもれえてえのか」
 左膳はそう言って、薄く笑った。そして、下唇を突き出して、フッフッと息を吹き上げるのは、ひたいに垂れかかる乱髪が邪魔になるのです。
 竹田の存在など、てんで眼にもはいらないように、いつまでも毛を吹き上げている。
「地獄の迎えだッ!」
 うめいた左膳、割り箸を開くように、二本のほそいあしがパッととびちがえたかと思うと、その上体はたいらにおどって、竹田の右肩から左脇腹へかけて一閃の白い電光がはしったと見る!
 それきりです。
 いばりかえった顔のまんま砂まみれに二、三度ころがった竹田の死骸。
 一同は、わけのわからない叫びをあげて、ちらばりだした。

 異様な微笑をもらした左膳、追いすがりに、タタタと砂をならして踏みきるがはやいか、また一人二人、うしろから袈裟けさがけに……。
 なめきっていた相手に、この、しんに似た剣腕があろうとは!
 石川左近将監の家来一統は、白い砂浜にごまを散らすように、バラバラバラッと――。
 宰領の竹田が、血煙たてて倒れたのですから、もう壺どころのさわぎではない。
 お壺の駕籠をそこへおっぽりだしたまま。
 雲をかすみ。
 みごとな黒塗りのお駕籠が、砂にまみれてころがっている。
 走り寄った左膳は、ニッコリ顔をゆがめながら――これがほんとうの思う壺だ。
 手の濡れ燕をもって、バリバリッと駕籠の引き戸を斬り破り、錦の袋につつまれた茶壺を、刀の先に引っかけてとりだした。
 石川左近将監自慢の、呂宋ルソン古渡こわたりのお茶壺です。
 濡れ燕を砂に突き立てた左膳。
 ひとつきりの左手と、歯を使って、袋の結び目をといてみた。出てきたのは、朱紐しゅひもで編んだスガリをかけた、なるほど茶壺には相違ないが、目ざすこけ猿とは似ても似つかない。
 が、左膳はべつに失望もいたしません。
 これがこけ猿の茶壺でないことは、はじめからわかっている。
 こうやって、宇治の茶匠のあいだを往来ゆききする大名の壺を、かたっぱしからおそっているうちには、どういうはずみでか、何者かの手にはいった真のこけ猿に出会わないともかぎらない。こういう左膳の肚ですから、なんでもいい、壺とさえ見れば掠奪するのだ。
 今日はその第一着手。
 煮しめたような博多の帯に、左膳、矢立をさしている。
 それを抜き取って、つぎに懐中から、懐紙を二つに折った横綴の帳面を取りだした。
 表紙を見ると、左膳一流の曲がったような、一風格のある字で、
心願百壺あつめ
   享保――年七月吉日
 と書いてある。
 大名の茶壺行列へ斬りこんで、これから百個の壺を集めようというのらしい。七月吉日とありますが、斬りこまれるほうにとっては、どう考えても[#「考えても」は底本では「孝えても」]あんまり吉日ではありません。
 これは、その筆初め。
 片膝ついたうえに、その帳面の第一ページを開いた丹下左膳。
 片手ですから、こういうときはとても不便だ。
 矢立を砂に置き、筆を左手に持ちかえて、たっぷり墨をふくませたかとおもうと、
「石川左近将監殿御壺一個、百潮ももしおめいあり
   駿州千本松原にて」
 と、サラサラとしたため終わった。
 そして、片手に壺を握るやいなや、
「百潮というからには、海へ帰りゃあ本望だろう」
 ドブーン――!
 うちよせる波へ、その壺を投げこんでおいて、あとをも見ずにスタスタ歩きだした。
 ほんとに、百の壺を集めるうちには、どういういきさつで真のこけ猿が現われないものでもないと、左膳はまったく信じているのだろうか。
 そんなことは、どうでもいいので。
 茶壺というものに対して、魔のような迷執を持ちはじめた丹下左膳、ただ、壺を手にすればいいのだ。いや、濡れ燕に人血を浴びさせればいいのだ。ひょうひょうとして左膳はたちさって行きます。

 東海道の道筋に、白衣をまとったおそろしく腕のたつ浪人者が、伏せっていて、やにわに路傍の藪からおどり出ては、それも奇妙に、茶壺の道中だけをねらう……。
 というので、人呼んで藪の白虎。
 これが宿場宿場の辻々に評判になって、人々みな恐れをなしたのは、このときである。
「駿河の国にいたりぬ、宇津の山にいたれば、つたかえではえ茂りて道いと細う暗きに、修行者に逢いたり。かかる道をば――」
 伊勢物語の一節。
 この宇津谷峠うつのやとうげで出会ったのは、修行者だったからいいようなもの――。
 安倍川あべかわを西に越えると、右のほうにえんえんたる帯のような、山つづきが眺められる。箱根から西で名の高い、宇津谷峠というのはこれだ。山のいきおいは流れて、高草山となり、ものすごく海にせまっている。
 宇治の茶匠からの帰り、茶のいっぱい詰まった壺を、例によってお駕籠へ乗せ、大勢で守護して通りかかったのは、堀口但馬守のお喫料のみりょうを、これから江戸屋敷へ届けようという一行。
「なんの。これだけの人数のそろっておるところへ、その藪の白狐とやらが現われたところで」
 と、供のなかで、そう大声をあげたのは、額の抜け上がった四十五、六の侍だ。
「白狐ではない。白虎じゃ」
 一人が訂正して、
「イヤ、いずくの藩中でも、お壺の守護はおろそかにはいたさぬに相違ないが、それでも、噂によれば、かなりやられておるということだぞ。岡本能登守様、井上大膳亮殿、これらがみんな壺を奪われ、あまつさえ、すくなからぬ人命を失ったとのことじゃ」
「ナアニ、いかに腕が立てばとて、相手は浪人者ひとり、なにほどのことやある」
 とまたべつの一人が、こう時代な言葉でいばってみせたときだ。
 すぐうしろで、
「箱根を越してしまやア、もうこっちのものよ。箱根からむこう、お江戸とのあいだにゃア、化け物はいねえからの」
 という鉄火な声!
 ギョッとして振りむいた一同の眼にうつったのは、ちょうど一行が通りかかっている路傍に、大きな杉の老木……その杉の木の幹によりかかって、ニヤニヤ笑ってこっちを見ている、隻眼隻腕の立ち姿。
 噂をすれば影!――出たんです、案の定。
 それからのち、またたくうちに、その宇津谷峠の山道の草は、たんまり人の血のこやしをあびて、おまけに、丹下左膳のふところ帳「心願百壺あつめ」には、堀口但馬守おん壺、めい東雲しののめ、宇津谷峠にて……と、書き加えられていた。
 これはいくつ目か、わからない。
 一、秋元淡路守殿御壺、めい福禄寿ふくろくじゅ、日坂宿手前、菊川べりにて。
 一、大滝壱岐守殿おん壺、春日野かすがのめいあり。
 一、藤田監物けんもつ……の場合などは、これはからの壺を守って、宇治へ急ぐ途中でしたが、夕方、丸子の宿へかかろうとするとき、霧のように襲う夕闇に、誰も気がつかなかったのだが、あわただしい一人のさけびにフト心づくと、いつのまにまぎれこんだものか、左膳チャンと行列のなかにはいって、足なみそろえていっしょに歩いていた。
 藤田家重代の、松の下露の銘ある宝壺が、このときみごとに奪われたことは、言うまでもない。だが、心願の百までは、まだいくつあることやら。
 恋の憂さを忘れようと、街道に狂刃をふるう丹下左膳。

 江戸へ着いた柳生対馬守つしまのかみ一行。麻布林念寺前りんねんじまえかみやしきで、出迎えた在府ざいふの家老田丸主水正たまるもんどのしょうを、ひと眼見た対馬守は、
「主水ッ! 御公儀のお情けで、名もなき壺に秘図を封じこめ、屋敷の庭隅に大金が埋ずめあるなどと……貴様、いいようにされて、つかまされたなッ」
 とどなった。
 剣眼はやぶさよりも鋭い柳生対馬守さすがに、あの、上様と愚楽と、越前守とで編みだしたからくりを、まだ話を聞かぬ先に、みごとに見抜いてしまったのだ。
「恐れながら、かの愚楽老人より、それとなく申しふくめられまして……日光は迫るワ、こけざるは見つからぬワ、という御当家にとり危急存亡の場合、ともかく、このお庭隅に一夜づけに埋ずめました金銀を掘り出しまして、さっそくの御用にあい立てましたほうが、策の得たるものかと存じまして――」
 対馬守は、不機嫌に黙りこんだ。
 これは主水正の言うとおりで――将軍吉宗の考えとしても、日光に事よせて、隠してある金を使わせるのが目的。こけ猿がなければ日本一の貧乏藩に、大金のかかる日光を押しつけて、柳生家を取り潰してしまおうというのは、決して本意ではない。
 柳生だって、ない袖は振られぬから、そこで、どんな騒動が持ちあがらないともかぎらない。苦しまぎれに暴れだして、天下の禍根とならないともかぎらない……というので、今になって、いわば救いの手をさしのべたわけだ。
 これは、愚楽老人と大岡越前守の献策。
 いかに剛情我慢の対馬守でも、今の場合、これをこけ猿によって得たもののごとくよそおって、掘り出さざるをえない。
「いつもながら上様のおこころ配り、行きとどいたものじゃ。ありがたいかぎりじゃテ」
 苦笑を浮かべてつぶやいた対馬守は、やがて、声をひそめて、
「そこで田丸、しんのこけ猿じゃが――まだわからぬかの?」
「は、なにぶんどうも、偽物ぎぶつばかり現われまして……いつどこでまぎれて、何者の手に入りましたやら、とんと行方知れずにあいなり、まことに遺憾至極ながら、手前、勘考いたしまするに、こけ猿なるものは、もはや世にないのではないかと……」
「なに、もはや世にない?」
 眼を怒らせた対馬守が、老家老をめつけたとき、
「オヤ、殿様、こちらでしたか。あら、このお爺さんは?」
 伝法な女の声が、横手のふすまをあけて、このお上屋敷の主従対座の席へはいってきた。
 人を人とも思わない言葉に、主水正がびっくりして見あげると、櫛巻お藤!……ということは、もとより田丸主水正は知らない。
 しいたけたぼにお掻取かいとり、玉虫色の口紅くちべにで、すっかり対馬守おそばつきの奥女中の服装なりをしているが、言語ことばつきや態度は、持ってうまれた尺取り横町のお藤姐御あねごだ。
 それが、くわえ楊枝ようじでぶらりとはいってきて、殿様の横へべったりすわったんですから――いかさま妙な取りあわせ。
 田丸老人がおどろいたのは、もっともで。
「殿、このものはいったい――旅のお慰みとしても、チトどうもお見苦しくは……」
「イヤ、さような儀ではない。いたって野育ちの女芸人、余にチト考えがあって、かようにとりこにいたしておくのじゃ。側女そばめなどでは断じてない。安心せい、安心せい」
「ホホホ、お大名のお妾なんて、そんな窮屈な役目は、こっちからこそごめんだよ。お爺さん、安心おしよ。なんてキョトンとした顔してるのさ」

 対馬守は、ふと思い出したように、
「源三郎はいかがいたした」
「ハイ、それが、その、実は……」
 と主水正は、言いよどんだが、
「たびたび御書面をもって、上申じょうしんつかまつりましたとおり、司馬しば先生生前より、妻恋坂の道場に容易ならぬ陰謀がありまして――」
「イヤ、それは聞いた、聞いた。その後どうなったかとたずねておるのじゃ」
「あくまで源三郎さまを排除申しあげんという一味の秘謀らしく、源三郎様には、先ごろより行方知れずになられ――」
 それを知りながら、なぜ腕をこまねいておるかッ? 高大之進こうだいのしんをはじめ、腕ききの者をそろえて出府させてある。それよりも、源三郎つきの安積玄心斎あさかげんしんさい谷大八たにだいはち等は、いったい何をしておるのじゃッ!……と、頭ごなしにどなりつけられるかと主水正首をすくめて、今にも雷の落ちるのを待っている気持。
 と。
 笑いだしたのだ、対馬守は、肩をゆすぶり、腹をかかえて。
「はっはっは、イヤ、心配いたすな。あの源三郎にかぎって、自分の身ひとつ始末のできん男ではない。ことには、玄心斎と申す老輩もついておること。司馬道場の儀は、源三郎にまかせておけばよい。婿にやった以上、いわば彼の一家内の紛争じゃ。それくらいの取りしきりができんようで、この対馬の弟と言われるか、アッハッハッハッ」
 剛腹な笑いを頭から浴びて、主水正は、ホット助かった心地――相変わらず太っ腹なお殿様だと、たのもしさが涙とともにこみ上げてくる。
 ふと対馬守は、遠いところを見るようなまなこになって、
「どこにいるかの……源三郎は、この兄の出てまいったことも、知らぬであろう。からださえ達者なら、大事ないが……」
 あらそわれぬ兄弟の情です。
 が、対馬守はそれを振りきるように、ふたたび主水正へ、
「当ててみようかノ?」
「何を、でございます」
「上様のお手で、一夜のうちにこの屋敷の隅に埋ずめた金額を――サア、まず、日光修覆にカッキリ必要なだけ。それより百両と多くもなく、また、百両とすくなくもないであろう」
「まずさようなところかと……なにしろ、あの愚楽老人のやることでございますから」
 と主水正もんどのしょうは、はじめて微笑をもらした。
「田丸、上様に日光の金を出してもらうなどと、イヤ、とんだ恥をかいたの。だが、わが藩に金を使わせる気で、その金を御丁寧に、こっそり庭の隅に埋ずめておかねばならん羽目にたちいたったとは、徳川もいい味噌みそをつけたものじゃ」
 主水正はギョッとして、
「これッ、殿!」
 と口で制しながら、眼は、鋭くかたわらのお藤へ。
 その警戒を見てとって、お藤姐御あねごはニッコリ、
「フン、あたしの前で、公方様の悪口を言ったって、なにもそんなに用心することはありゃアしない。将軍様にしろ、隻眼隻腕の浪人さまにしろ、お侍の悪口なら、こっちが先に立って言いたいくらいだよ」
「こういう女じゃ」
 対馬守は愉快そうに笑って、主水正へ、
別所信濃べっしょしなのへ、早々そうそう余の到着を知らせたがよいぞ」

 元和げんな二年、家康が駿府すんぷに死ぬと、はじめ久能山くのうざんに葬ったが、のちに移霊の議が起こって、この年の秋から翌年の春にわたって現在の地に建立されたのが、大猷廟だいゆうびょうをはじめ日光の古建築である。
 これが元和の造営。
 その後さらに、寛永に大改造が行なわれて、だいたい今見るような善美壮麗をきわめた建物となったのです。
 この寛永の大造営には、酒井さかい備後守びんごのかみ永井ながい信濃守しなののかみ井上いのうえ主計頭かずえのかみ土井どい大炊頭おおいのかみ、この四名連署の老中書付、ならびに造営奉行秋元あきもと但馬守たじまのかみのお触れ書が伝えられている。
 寛永八年ごろから、ボツボツ準備して、実際の仕事に取りかかったのが十一年の秋。約一年半で、工事を終わった。その間に仮殿をつくり、遷宮をして、それから本殿の古い建物を壊し、そこへ新築したのだから、一年半でこれらの大工作が終わったとは、実におどろくほど神速であったと言わなければならない。
 付属の建物は、その後にできたものも多いが、宝塔はこのとき石造りに改められ、その他、日光造営帳によると、本社を中心におもな建造物はみなで二十三屋、たいへんな事業でありました。
 有名な水屋前の銅の鳥居も、この寛永寺の造築に、鋳物師椎名兵庫しいなひょうごがつくったものであります。
 この鳥居の費用が二千両、いまでいうと七、八万円まんえんだそうですから、いかに豪勢なものか想像にあまりある。
「まず、だいたいにおいて、この寛永の御造営をして、これにしたがってゆこうではござらぬか」
 林念寺前の上屋敷、奥の広書院に客を招じた対馬守は、主客席が定まってひととおりの挨拶ののち、すぐこう言って、相手を見た。
 相手というのは。
 対馬守入府の通知を受けて、いま小石川第六天の自邸から、打ちあわせに来た別所信濃守です。
 賄賂わいろの出し方が少ないというので、今度の日光修営に、副役ともいうべきお畳奉行を当てられた人で。
 屋敷の門を出るまで、
「名誉じゃ、名誉じゃ。イヤ、運の悪い名誉じゃテ」
 と、ほとんどべそをかかんばかりだったが。
 名指しを受けた以上、否応いやおうはありません。
 くすぐったいような、泣き出しそうな顔で、いま対馬守の前にすわっている。
 あおい頬、痩せたからだ。金のかかるお畳奉行は、なるほど重荷に相違ない……貧相な人だ。
 ここでひとことでも対馬守が、ほんとに今度はえらい目にあって――とでもいうようなことを言ったら、同病あいあわれむで、すぐ本音をき、愚痴をならべ出す気の別所信濃守だが。
 主役たる造営奉行のはらがわからないから、めったに不平こぼすことはできない。
 へたに迷惑らしいことをいおうものなら、公儀へ筒ぬけともかぎらないので。
 対馬守も同じ心だ。
 たぶんまいっているのだろうとは思うが、相手の気持がハッキリしないので、うち明けて、どうも困ったことに……とは言えない。
「諸侯のうらやむお役を引き当てましたことは、一身一藩の栄誉、御同慶至極に存じまする」
「さようで。拙者一度は、この日光のおつとめをいたしたいものじゃと、こころがけておりましたが、やっとその念願がとどいたわけで」
 と二人は、しごくまじめ顔だ。
 本心をさぐり合うような眼を交わしている。
「ところで――」別所信濃守は言いにくそうに、しばらくモジモジしていたが、
「あの、おしたくは?」
 思いきったようにきいた。

 おしたく……下賤の者ならば、おや指と人さし指で、丸い輪を作って見せるところだが。
 そんなことはしない。
 問いを受けた対馬守は、源三郎によく似た鋭い眼を、ほほえませて、
「御貴殿は?」
 とききかえした。
 信濃守は、ちょっと頭を下げて、
「ハア、どうやらこうやら……御尊家ごそんかには、とうにこけ猿の茶壺が見つかったという評判で」
「そのとおり。某所ぼうしょに埋ずめてあった伝来でんらいの財宝も、とどこおりなく掘り出すことができました。すなわちあれに――」
 と対馬守、すました顔で、床の間のほうへ眼をやった。
 別所信濃守も、これではじめて気がついたというわけではない。
 実は、さっきこの広い書院に通されたときから、それが気になっていたのだが……。
 その床の間には。
 小判をいくつか白紙で包んだらしい、細長いものを、山のように積み上げた三宝が、ところせましとまでならべられ、二段三段に重ねて置いてある。
 床脇とこわきの違い棚まで、小判を満載した三宝がならべられて……。
 この上屋敷へついた翌朝のこと、対馬守は主水正の案内で、その庭の隅、築山のかげへ行ってみたのです。将軍家からの救いの手として、愚楽老人はその部下の甲賀者を使い、一夜のうちに埋ずめておいた黄金おうごん
 その場所には、主水正のはからいで、もっともらしく注連縄しめなわが張りめぐらされ、昼夜見はりの番士が立っている騒ぎ。
 幕府の心がわかっている以上、これを掘り出して目前の日光修覆の用に当てればよいだけのことだ。
 ここは芝居をする気の対馬守、いかにも先祖伝来の大財産を、あのこけ猿の壺によって掘り出すといったおごそかなようすでした。
 斎戒沐浴さいかいもくよくして、おくわ入れの儀式と称し、対馬守が自身で第一の鍬を振りおろす。
 もっとも、これは始球式みたいなもので、ほんのまねごと。
 対馬守の鍬が、そっとくように地面をなでると、裃姿かみしもすがたの田丸主水正が、大まじめでお喜びを言上ごんじょうした。
 どこまでも、こけ猿の茶壺が発見みつかって、それによってこの宝掘りになったということを、家臣の口から世間へ伝えさせ、信じさせるために、あの一風宗匠までがこのお鍬入れに引っぱり出されたのは、なんとも御苦労な話で。
 で、殿様につぐ第二の鍬は、一風宗匠。
 非常な老齢ですから、立っているだけでせいいっぱいだ。むろん、とても鍬なんか持てやしない。高大之進が鍬を持って掘るまねをすると、人の介添かいぞえで一風がちょっと手を添えただけだ。
 こうして地中から取り出した金は、案の定、やっと日光の費用に間に合う程度だったが、これで柳生は、ともかく助かったというもの。
 ここに、床の間いっぱいにあふれるように、三宝にのせて飾ってあるのが、こうしたからくりのひそむ金であります。
 そんなこととは知らないから、信濃守はうらやましそう。しきりに感心していると、柳生対馬守は事務的に相談を進めて、
「サテ、お山止やまどめの儀でござるが……」
 と、言い出したとき、
「殿――」
 はるか廊下のかなたに、何ごとか知らせに来たさむらいの平伏する頭が、見えた。

 はるか下がって、廊下に額を押し当てた若侍の声、
「申し上げます。ただいま……」
 ところが。
 だいたいこの柳生対馬守は、剛腹な人間の通例として、非常に片意地なところのあった人で、ふだんでも、気がむかないと、誰がなんと話しかけても知らん顔、返事ひとつしないことがある。
 おまけに、今は。
 お畳奉行別所信濃守様と、たいせつな日光着手の打ちあわせの最中ですから、対馬守、うるさいと言わぬばかり、ちょっと眉をひそめただけで、何事もなげに信濃守へ向かって、
「御承知のとおり、江戸から日光への往復の諸駅、通路、橋等の修理の儀は、公領のところは代官、私領は城主、地頭寺社領にいたるまで、すべてわれわれにおいて監督いたし、ばん手落ちのないようにしなければならぬのですから――」
「お話ちゅうまことにおそれいりますが……」
 取次ぎの若侍が、そう一段声を高めるのを、対馬守はまた無視して、
「で、日光造営奉行が、拙者ときまりましてから、江戸にいる家老に申しつけて、日光を中心にした四十里の地方と、江戸からの道中筋、駅馬などを残らず吟味ぎんみさせましたところが」
「殿様! ちょっとお耳を!」
 どこ吹く風かと、対馬守はつづける。
「ところが、五石七石の田畑もちの小百姓はむろんのこと、田畑を多く持っている者も、馬を飼っている者は非常に少ない。まずこの、運搬に使用する馬の才覚が、このさい第一かと考えますが」
 若侍は、取りつく島もなく、黙ってしまった。
「全く」
 と別所信濃守は、うれい深げに腕組みをして、
「百姓は近年、なみなみならぬ困りようでございますが、穀種をから借り受けて、ようやく植えつけをすまし、本面ほんづらたかを手ずから作る者は、いたってすくないとのことです」
「実に窮乏のていに見えます。そこで、このたびの東照宮御普請は、各領その高々に応じて、人別で沙汰するようにするのですナ」
「殿、おそれながら……」
「日光山から四十里のあいだは、御修覆ができあがるまで、住民の旅立ち、その他すべて、人の出入りを禁ずることは、お山止やまどめと言って、これは先例のとおりです。各所に関所を設けて、この見張りをげんにせねばならぬ」
「さよう。それから、いっさいの雑役は、たしか宗門を改めたうえで、各村から人足を出させるのでございましたな」
「そうです。壮年組は二十五歳から五十歳まで、少青年組は十五歳から二十三歳までをかぎって、村々から人夫を取りたて、昼夜の手当と、昼飯料ちゅうはんりょうをとらせねばならぬ」
 対馬守は、今度のお役につき調べたところを、ボツボツ思い出しながら、
「すべてこの日光を取りまく四十里の地が、御修理に力を合わせることになるわけで、女子おなごにもつとめが科せられるはずだとおぼえておる。十三歳から二十歳までの女一人に、一か月につき木綿糸もめんいと反分たんぶんを上納させるんですな――」
 いつまで続くかわからない。たまりかねた取次ぎの若侍。
「殿! 司馬道場より、安積玄心斎殿がお見えになりました」
 思わずそう言いかけると、対馬守、クルリと膝を向けかえて、
「ナ、何? 玄心斎がまいったと? ナ、なぜ早く言わぬッ!」
 言おうと思っても、いう機会を与えなかったくせに。

 女の子が人形の毛をむしったり、こわしてしまったりするのと、同じ心理。
 女性には、てこういうところがあるのかもしれない……大事な品でも、じぶんの手に入れることができないとわかれば、いっそ破壊してしまおうという本能がく。
 この場合は、それに嫉妬しっとが手伝って。
 父六兵衛ろくべえの家を、パッと飛び出した娘のおつゆ
 外はまだまっ暗だが、これから朝へ向かうのだから気が強い。しっとり露を含んだ地面に、下駄の歯を鳴らして、お露はいつしか、白い素足も乱れがちの小走りになっていた。
 目の前の闇よりも、彼女の心の暁暗ぎょうあん
 それというのが……。
 父が三方子川ぽうしがわから救いあげてきた柳生源三郎、わが家の奥座敷にやまいを養い、このお露が、朝夕ねんごろに看病みとりをするうちに、見る人が思わずおどろきの声を発するほどの、すごいような美男源三郎ですから、お露はいつからともなく、三方子川の川波よりもさわがしい胸を、源三郎に対していだくことになったので。
 由緒ゆいしょのある人――もとより、はじめからそうにらんではいた。げんを左右にして身分を明かさないところがなおいっそう、そう思われたのだが。
 しかし、知らなかった……知らなかった!
 あれが、本郷の有名な道場のお婿さんで、あんなきれいな――あんなきれいな奥様があろうとは!
「たしか本郷妻恋坂、司馬道場とやらの……」
 さっき、つぎの間のふすまのかげで、そっと立ち聞いたところでは、ボンヤリとだが、なんでもそういう話。
「でも、ほんとうにもう奥様なのかどうか――どうも二人の話では、ハッキリしないけれど、お互いに思い思われた同士のことは、あの模様でもよくわかる。それに、何やらあのお侍さんは、お婿入り先の道場とのあいだに事情があって、どうやら死んだことにでもなっているようす」
 両の袖をしっかり胸におさえてお露は足を早めながら、心の闇から外のやみへ、苦しいひとりごときつづける。
「とてもいわくがありそうだわ。ひとつ、その妻恋坂の道場とかへ知らせてやったら、どういうことになるかしらん――」
 深いことは知らないお露、ただもう嫉妬の焔に眼がくらんで……きっとあのお侍のいどころが知れれば、その道場から人が来て、あのお嬢さんとの仲を引きさくに相違ない。そうして、あの美しいお武家様が一人になったら、また自分へ、色よい言葉をかけてくださるかもしれぬ……。
 お露の頭には、このこと以外何もありません。こうして彼女が源三郎の所在ありかを道場へ通じることが、どう事件をなみだたせて、自分は無意識のうちに、どんな運命の一役を買っているのか、そんなことを思うひまは、お露にはないのだった。
 ころがるように急ぐ道に、だんだん小石の影や、土の色がうっすらと見えてきた。東が白みかけたのだ。まもなく、途中ですっかり夜が明けはなれたので、疲れきったお露は、通りかかった辻駕籠つじかごを呼び止めて、早朝の女の一人歩きにいぶかしげな顔をしている駕籠かきへ、
「あの、駕籠屋さん、おとっさんが急病なんですが、お父さんのかかりつけのお医者様が、本郷の妻恋坂にいましてね、そこまでいそいで迎いに行きたいんですけれどやってくださいな」
 とお露、さっそくの機転でそう言った。そして、駕籠屋のうなずき合うのを待って、裾で足を包んだお露、スルリと乗りこんだのです。

 ずいぶん気の長い話……だが、双方、意地になっているのだ。
 妻恋坂、司馬道場の屋敷内には、まだふしぎな頑張がんばり合いがつづいている。
 軒を貸して母家おもやを取られる――ということわざがあるが、まさにそのとおり。
 宏大な屋敷のほんの一部に、お蓮様、峰丹波など、以前からの不知火しらぬい道場の連中が追いつめられて、これは、小さく暮らしているに反し、奥のいちばんよい住居すまいのほうは、伊賀侍の一団が占領して日夜無言のにらみ合い。
 若君源三郎はいなくても、安積玄心斎、谷大八等、すこしもあわてません。
「なんの、源三郎様にかぎって、まちがいなどのあろうはずはない。かならず今にも、あのとおり蒼白いお顔で、ブラリと御帰還になるにきまっている」
 一同、こうかたく信じて疑わないから、源三郎がいなくても平気なものだ。あい変わらず傍若無人に振る舞って頑張がんばっている。
 ただ。ゆうべの今朝けさ
 そのゆうべ、隻眼隻腕の浪人が道場のほうへあばれこんで、多勢おおぜいの司馬の弟子どもを斬りたおし、萩乃をさらって立ち去った……あのさわぎには、玄心斎をはじめ谷大八、どっちへついていいかとまちまちの議論がいたが、朝になってようすをうかがうと、お蓮様や丹波は、何事もなかったかのようにヒッソリとしている。
「たとい祝言はまだでも、萩乃様は若殿の奥方様じゃ。これはこうしてはおられぬ」
 という考えが、伊賀の連中のあいだにだいぶ有力だったのだが、これには何か仔細しさいありとにらんだ玄心斎、今日きょうにも明日あすにも、どこからか手がかりの糸がほぐれてくるに相違ない。このさいいたずらにあわてまわるのは、さくの得たものではないと、信ずるところあるもののごとく、玄心斎はそう言って、やっとみなをおさえているのだ。
 ところで、この司馬の屋敷は、門をはいると道が二つにわかれて、一方は板敷の大道場を中心にしたひとかまえ、ここに、お蓮様丹波の一党が巣を喰っているのです。
 そして。
 もう一つの道は、そのまま奥庭へ通じて、庭のむこうの壮麗をきわめた一棟――源三郎の留守を守る伊賀の連中が、神輿みこしをすえているのはここだ。
 で、道をまちがえたのだ。お露は。
 来てみると、想像していた以上に大きな屋敷である。
 まず、りっぱな御門におどかされたお露は、とみにははいれずに、しばし門の前をいったり来たりしたが、これではてしがない……。
「こちらのお嬢さまが、いま自分の家にいる若殿様を慕って、ゆうべからこっそり会いに来ていると知れたら、どんな騒ぎになるだろう。イエ、大騒ぎにしないではおかない」
 萩乃と源三郎のことを思うと、弱いお露が、ぐっと嫉妬で強くなった。スタスタと門をくぐって、数奇すきをきわめた植えこみのあいだを、奥のほうへ――。
 もうとうに朝飯のすんだ時刻。
 ほがらかな陽が、庭木いっぱいに黄金こがねの雨のように降りそそいで、その下を急ぐお露の肩に、白と黒のおどらす。
 さいわい誰にも見とがめられずに、奥座敷の縁側のそばまで来たお露は、くつぬぎにうずくまるように身をかがめて、低声こごえ
「あの、モシ、どなたかおいでではございませんでしょうか」
「アア、びっくりした!」
 座敷の真ん中に、大の字なりに寝ころんでいた谷大八が、ムックリ起きあがった。

 ものを言うたびに、首を振る。すると、大髻おおたぶさがガクガクゆらぐ。
 これが、谷大八のくせだ。
「なんだ、娘。貴様はどこからまいった」
「アノ、わたくしは、葛飾かつしかの三方子ぽうし川尻かわじりの六兵衛と申す漁師の娘で、お露という者でございますが――」
「ナニ、漁師の娘? それが何しにここへ……誰がここへ通した。門番へことわってきたのか」
「いえ、ただスルリとはいってまいりましたが――アノ、お侍様たいへんなことができましてございます。源三郎様のところへ、昨晩こちらのお嬢様が逃げていらっしゃいまして」
「ナニ? 源三郎様のところへ? コ、コレ、源三郎さまはどこにおいでだ。イヤ、若君にはいずくに……」
「そして、まア、くやしいのなんのって、お二人で膝がくっつきそうにすわって、ほっぺたを突つき合ったり、会いたかったの見たかったのッて、そのいやらしいッたら、とても見ちゃアいられませんの」
「コレコレ、順序を立ててものを言え。漁師六兵衛とやらの娘とかいったな。シテ、源三郎様は、貴様の家においであそばすのか」
「ハイ、おとっさんが川から助けてきて、それからずっと、わたしの家の裏座敷に、寝たり起きたりしていらっしゃいます」
「ウム、そうかッ!」
 大八ははやりたつ両手で、自分の膝をわしづかみにしながら、
「して、昨晩その源三郎様のもとへ、萩乃さまが会いにおいでになった、と申すのだな?」
「ハイ、あの丹下様という、隻眼隻腕のこわらしいお侍さんにつれられて――」
 突然、突っ立った谷大八、廊下のほうへ向かって大声に、
「オイ、玄心斎どの、イヤ、皆の者、殿のお隠れが判明いたしたぞ」
 と呼ばわりますと、今まで隣室の大広間で、ワイワイゆうべの騒ぎを話題にしていた一同は、玄心斎を先頭に立てて、なだれこんできた。
「ナニ? そうか。イヤそうだろうと思った。伊賀の暴れん坊とも言われるあの若君にかぎって、丹波などの奸計かんけいにおちいるお方ではないのだ。それはめでたい、めでたい。すぐさまお迎えに!」
「そうだ、お迎えだ! お迎えだ!」
 こうなると、知らせてくれた三方子村ぼうしむらのお露は第一の殊勲者、伊賀侍の眼には、救いの女神とも映るので。
「婦人の身をもって、早朝から遠路まことに御苦労でござりました。サ、サ、まずおあがりなされて」
「コレ、大恩人じゃ。粗相があってはならぬぞ。お座蒲団を持て。誰かある、お茶を――」
「はッ、粗茶ながら、ひとつお口湿くちしめしを……」
 と急に、下へもおかぬもてなし。
 何が何だかわからないお露、手を取らんばかりに引き上げられて、床の間の前の上座へすわらせられてしまった。
 きっと騒動が持ち上がるに相違ないと、それを楽しみに、駈け込み訴えのように飛んで来たのに、その目算もくさんはガラリはずれて、一同は涙ぐむほどの感謝ぶりだ。
「では、さっそく貴殿方きでんがたへ出向いて、源三郎様と萩乃さまをこちらへお迎え申す。殿がお帰りになれば、またお言葉もがるであろうから、お露どのと申したナ、なにとぞ貴殿は、それまでこちらにごゆるりと御休息あって――」
 お露はポカンとしながら、玄心斎、大八ら、五、六人のおもだった者が、にわかのしたく、あわてふためいてやしきを出て行くのを、ぼんやり見送っていた。

 人間は、思うこと意のごとくならず、心細く感ずる瞬間に、本心にたち返るものだ。
 今のお蓮様れんさまがそうである。
 故司馬先生の在世中から、代稽古峰丹波みねたんばぐるになって、この不知火しらぬい道場の乗っ取りを策してきた彼女、それからこっち手違いだらけだ、策動にも、気持のうえにも。
 第一に、義理ある娘萩乃の婿として乗り込んできた伊賀の暴れん坊に、お蓮様が横恋暴。道場も横領したいし、源三郎も手に入れたいし……これでは、お蓮様の鋭鋒えいほうもすっかりにぶってしまって、峰丹波の眼から見ると、はがゆいことばっかりなのはむりもない。
 丹波もお蓮様も、柳生源三郎などはどうでもいいのだった。それよりも、彼が婿引手として持ってくる柳生家重代の秘宝、こけ猿の茶壺をねらって、壺を手に入れたうえで源三郎を排斥しようとしたあの運動が、最初から、いすかのはしと食いちがって……。
 が、なんといっても源三郎を恋しはじめたのが、お蓮様にとって、思いがけない自己違算の第一歩。
 ここは納戸のかげの、ちょっと離れた隠れ座敷です。
 軒も暗むまでに、鬱蒼と茂った樹木が、室内いっぱいにうすら冷たい影を沈ませて、昼ながら畳の目も読めないほど。
 木の葉の余影で、人の顔も蒼く見える――この頃ここが、ひとりものを考えるときのお蓮様の逃避所になっているのだ。
 だが、
 いまこの部屋の真ん中にぽつねんとうなだれているお蓮様の横顔が死人のごとく蒼白いのは、木々の照り返しのためだろうか。
「まだ死骸は出ないけれど、とても生きていらっしゃろうとは思えない」
 敵であるはずの源三郎……彼に対して恋心をいだいたばっかりに、丹波と二人でしくんだせっかくの芝居はいまだにらちがあかない。
 あのにくらしい、慕わしい伊賀の暴れん坊!
「丹波と申しあわせて、何度か殺そうとしたけれど、そのたびに自分は、命乞いをしたくなったっけ――」
 最後に、あの穴の中におとしこんで、三方子川の水を引いてせめ殺した……。
 お蓮様は、ぞっと身ぶるいをして、
「ああ、ほんとうにかわいそうなことをした」
 あの白衣びゃくえの浪人が暴れこんで、道場の跡目になおろうとしていたまぎわの、峰丹波にじゃまを入れ、多くの門弟を斬ったのみか、萩乃をつれて消えうせた。あの騒ぎなどは、お蓮様の心のどこにもないのだった。それはみんな自分になんの関係もない、遠い国の、しかも、大昔の出来ごととしか思えないほど、彼女の胸は、源三郎に対する悔恨でいっぱいなのだ。
「ああ、もうなんのよくとくもない。源様さえ生きていてくだすったら……」
 司馬道場、峰丹波、それらへの興味はすっかりなくなって、この頃のお蓮様は、まるで別人のように、うち沈んでいるのである。
 萩乃なぞ、あの片腕の浪人にひっさらわれて、どんな目にでもあうがいい。
 今も今。
 無意識にそうひとりごとを口にしながら、お蓮様が、きっと、血の気のない唇をかみしめたときです。
 故十方斎先生は、此室ここ皆伝かいでんの秘密の口述くちずをしたもので、大廊下からわかれてこっちへ通ずる小廊下のゆかが、鶯張うぐいすばりになっている。むと音がするんです。
 忍んで来ることができない。盗み聞きは不可能。
 今そのうぐいす張りの細廊下がキューッとふしぎな音をたてて鳴いた、人の体重を受けて。
「誰です、そこにいるのは?」
 お蓮様は低声こごえにとがめた。
「誰だときいているに、誰? 何者です……」

「誰です」
 お蓮様は、繰り返した。
 鶯張りの板がきしんで、それに答えるように鳴るだけ……返事はない。
 舌打したうちしたお蓮さまは、ツと立って、障子をひらいた。
 丹波たんばである――峰丹波が、ノッソリと突っ立っているのだが。
 その顔をひと眼見たお蓮様、あっとおどろきの叫びをあげた。
 血相をかえた丹波、右手を大刀のつかにかけて、居合腰いあいごしで、部屋の外の小廊下に立っているではないか。
「マア、おまえ! どうしたというのです、わたしを斬ろうとでも……」
 それには答えず、丹波はハッハッとあえぎながら、
「どこにいます。どこにいます?」
 そう言いながら、眼を室内に放って、四すみをにらみまわすようす。
 および腰にたいをひねって、今にもキラリと抜きそう……ただごとではない。
「どこにいる、今たしかに、この座敷の中で彼奴きゃつの声がしましたが」
「どこにいるとは、誰がです。あいつとはエ?」
 丹波の剣幕におどろき恐れて、お蓮様は一歩一歩、一隅へ下がりながら、ふと思った――峰丹波、乱心したのではあるまいか、と。
 が、そうでもないらしく、丹波は大刀を握りしめたまま、じっとお蓮さまをみつめて、
「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」
「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で……」
 沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとりごとをもらしていたことは、彼女自身気がつかない。
 もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇よいやみが、波のように、そこここのすみずみからきおこってきている。
 どこか坂下さかした町家ちょうかでたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木ひょうしぎ
 やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グットとうをおしらした。
「ハテ、面妖めんような! いまたしかにどこかで、アノ、源三郎――伊賀の暴れん坊の笑い声が、響いたような気がしましたが」
 何やらゾッとするのをかくして、お蓮様はあでやかに笑った。
「ホホホ、仏様ほとけさまが笑うものですか、気のせいですよ――しじゅう気がとがめているものだから」
「それはそうと、お後室こうしつ様、あの丹下左膳とやらは、萩乃様をおつれして、いったいどこへまいったのでござりましょうな」
「そんなことはどうでもいいじゃないの。わたしはなんだか、もうもう気がふさいで……」
「ハッハッハッハ、それは、お一人でこんなところにこもって、何やかやともの思いをなさるからじゃ。サ、あちらへまいりましょう」
 と手を取らんばかり。
 丹波はお蓮様に従って、長い渡り廊下を道場のほうへ。
 残影で西の空は赤い。庭にも、もう暮色が流れて、葉末をゆるがせて渡る夕風ゆうかぜは、一日の汗を一度にかわかす。
 と、ヒョイと見ると、その庭におり立って、手桶の水を柄杓ひしゃくで、下草や石燈籠どうろうの根に、ザブリザブリとかけてまわっている人があるんです。
 帷子かたびら茶献上ちゃけんじょう――口のなかで謡曲うたいでもうなりながら、無心に水打つ姿。
 が、ハッとして足をすくませた丹波とお蓮様、チラリふり返ったその若侍の蒼白い横顔には、思わず、ギョッと……!

 塗師町ぬしちょう代地だいちの前は、松平まつだいら越中守様えっちゅうのかみさまのお上屋敷で。
 かどから角まで、ずっと築地ついじ塀がつづいている。
 その狭い横町に、いっぱいの人だかり……。
 とんぼあたまの子供をおぶった近所のおかみさん、稽古けいこ帰りのきいちゃんみいちゃん、道具箱を肩に、キュッと緒の締まった麻裏をつっかけた大工さん、宗匠頭巾そうしょうずきんの横町の御隠居、肩の継ぎに、編笠の影深い御浪人。
 そういった街の人々が、ぐるりと輪をつくっています。
 酒屋の御用聞きが、配達の徳利とくりを二つ三つ地面にころがして、油を売っていると、野良犬がその徳利を、なんとかんちがいしてかしきりになめまわしているのも、江戸の町らしいひとつの情景。
 あれも人の子たる拾い……これは冬の気分。
 今は夏ですから、酒屋の小僧も大いばりで、十二、三のいたずら盛りのが、はだかのうえへ、三河屋と書いた印判纏しるしばんてんを一枚ひっかけ、
「エエイ、ちくしょう、泣かしゃアがる!」
 と三河屋の小僧さん、人のあいだから中をのぞきながら、伝法に鼻をこすりあげている。
 その人だかりのなかを見ますと……いや、のぞくまでもない。
 この狭い横町いっぱいに、唄声が氾濫しているのだ。
 その唄を聞けば――イヤ、聞くまでもない。
 先刻せんこく御承知の、
「むこうの辻のお地蔵さん、よだれくり進上しんじょう、お饅頭まんじゅう進上しんじょう、ちょいときくから教えておくれ」
 皆様おなじみの、あのチョビ安つくるところの親をたずねる唄です。
 人の輪の中に突っ立って、大声にこれを唄うチョビ安兄哥あにい……ひさしぶりのチョビ安だが、その服装なりがまたたいへんなもので。
 四十、五十のやくざでも着るような、藍万筋あいまんすじのこまかい単衣ひとえに、算盤絞そろばんしぼりの三尺を、ぐっと締め、おしりの上にチョッキリ結んで、手拭を吉原かぶり、わざと身幅みはばの狭いしたてですから、胸がはだけて、真新しい白木綿もめんの腹巻が、キリッと光って見えようというもの。
 工面くめんのいいときのあのつづみの与の公が、よくこんな服装なりをして、駒形から浅草のあたりをおしまわっていたものですが、今のチョビ安、まるであの与吉の、人形みたようだ。
 それが、意外な恰好にかねを持って、拍子おもしろくチンチンたたきながら、
「エイお立ちあいの衆! 焼野やけののきぎす夜の鶴、子を思う親の情に変りはねえが、親を思う子の情は、親のねえ子ではじめてわかるものだ。孝行をしたい時分に親はなし、石に蒲団は着せられずとか、昔からいろいろ言ってあるが、こりゃあ親が死んでしまってから、はじめて親の恩を知る心を言ったもので、おいらなんざア自慢じゃアねえが、生まれ落ちるとから、親のつらッてものはおがんだことがねえんだ。ここにいるこのお美夜みやちゃんも、おっかさんがどこにいるかわからないんだよ。おいらの両親ふたおやは、伊賀国柳生の者だとばっかり、皆目手がかりがねえんだが、もしお立ちあいの中に、心あたりのある人があったら、ちょいと知らせておくんなせエ。いい功徳くどくになるぜ。サア、夏のことだ、前口上まえこうじょうなげえと、芸が腐らあ。ハッ、お美夜太夫! お美夜ちゃん! とくらア。ヘッ、のんきなしょうべえだネ」
「あいよ」
 そばに立っているお美夜ちゃんが、ニッコリ答える。この暑いのに振袖で、帯を猫じゃらしに結び、唐人髷とうじんまげきん前差まえさしをピラピラさせたお美夜ちゃん、かあいい顔を真っ赤にさせて、いっぱいの汗だ。
「ようよう! 夫婦めおと雛形ひながた!」
「待ってました! 手鍋てなべさげてもの意気いきで、ひとつ願いやすぜ」
 いろんな声がかかる。

 芸といっても、たったひとつを売りもの。
 チョビやすの「辻のお地蔵さん」に合わせて、お美夜みやちゃんがいろいろと父母ふぼうる所作事をして見せるんです。
 振付けは言わずと知れた、藤間ふじまチョビ安。
「むこうの辻のお地蔵さん」で、お美夜ちゃんは首をかしげて、かあいいしなをしながら、左の手で右のたもとをだき、右の人さし指でむこうを指さす動作しぐさをする。
 見物はかんえて、見ています。
「ちょいと聞くから」で、その手を返して、お地蔵さんの肩をたたく手つき。「教えておくれ」のところは、胸に両手を合わせて、身をもむように、一心に頼むこころを表わす。
よだれくり進上しんじょう、お饅頭まんじゅう進上しんじょう」と、お美夜ちゃんは涎くりの手まねやら、お饅頭をこねたり、あんをつめたり、ふかしたりの仕草しぐさ、なかなかいそがしい。
「オウ、ねえちゃん、その饅頭をこっちへもひとつ」
「二人とも親なし児なんですってねえ。マア、なんてかあいそうな」
「ちょいとおつな手つきでげすな」
「コレ、およしちゃん、このにいちゃんもねえちゃんも、おとうさんもおかあさんもないんですとさ。それを思ったら、こうしてかあちゃんにだっこしているよしちゃんなんか、ほんとにありがたいと思わなくちゃあいけませんよ」
 とこれを機会に、親の恩をひとくさりお説教する町のおかみさんもある。
 唄が佳境にはいってくると、しみじみ身につまされるチョビ安、思わず、自分とじぶんの声に引きいれられて涙ぐみ、一段と声をはりあげて、
「あたいのちゃんはどこへ
 あたいのおふくろ……」
「小僧め、唄いながらいてやがら」
「ヤイヤイ、唄うのと泣くのと、別々にしねえナ」
「何を言やんで、とんちきメ! 情知らず! このあんちゃんの身にもなってみねえ。好きや道楽で町に立って、こんなことをしてるんじゃアねえや。親をさがしあてようッて一心なんだ」
「そうとも、そうとも! そんな同情どうじょうのねえことをぬかすやつア、江戸ッ子の名折なおれだ。オ、見りゃあ、伊勢甚いせじん極道息子ごくどうむすこじゃアねえか。てめえなんかに、このあんちゃんの心意気がわかってたまるもんけエ。代地だいちつらよごしだ。たたんじめエ!」
 あやうく喧嘩が始まりそう。
「エエ、じれったいお地蔵じぞうさん」の唄声に合わせて、お美夜ちゃんは両の袂を振りまわし、さもじれったそうな態度こなしよろしく、「石では口がきけないね」で口に両手を重ねて、身もだえしながら狂乱のてい……これでおしまいです。
 チョンとかねを打ち上げたチョビ安、
「オオ、お立ちあいの衆、この中にも、親の気も知らずに悪所通いに身をもちくずして、かけがえのねえちゃんやおっかあに、泣きを見せているろくでなしが、一匹や二匹はいるようだが、おいらの唄で、胸に手を置いてとっくり考えてみるがいいや。なあ、お美夜太夫」
「ええ、そうよ、そうだともサ」
 と美夜ちゃんは、なんでも合いづちを打つ役目。
 群衆がちょっとしんみりしたところをねらって、チョビ安大声に、
「ヤイヤイッ! 何をポカンとしてやがるんでエ! おいらもお美夜ちゃんも、おまんまをいただかずに踊ったり唄ったりしてるんじゃアねえや。と、これだけ言ったらわかろうじゃねえか。サア、たんまりお鳥目ちょうもくを投げたり、投げたり! チャリンといいのする小判の一めえや二めえ、降ってきそうな天気だがなア」
 と、大きなことを言う。
 投げ銭の催促です。

「オウ、こちとらアナ、何もてめえッちに感心してもらおうと思って、唄ったり踊ったりしてるんじゃねえや」
 チョビ安は、小さな握りこぶしで、鼻の頭をグイとこすり上げながら、
「エコウ、ほめてばかりいねえで、銭を投げなってことヨ。オイそこへゆく番頭さん、金を集める段になって、逃げるッてえテはねえぜ。なんでエ、しみったれめ!」
 一流の毒舌が、チョビ安の場合にはかあいい愛嬌あいきょうとなって、あっちからも、こっちからもバラバラッと小粒が飛ぶ。
「むやみにほうらねえで、どうせのことなら、おひねりにしてくんねえ。お賽銭さいせんじゃアねえんだ」
 拾い集めた小銭を、両手の中でお美夜ちゃんの耳へ、ガチャガチャと振ってみせて、
「太夫さん、お立ちあいの衆がこんなにお鳥目をくだすったよ。お美夜ちゃんからも、お礼を言ってくんねえナ」
「まア、ほんとうにありがとうございます」
 お美夜ちゃんは恥ずかしそうに、唐人髷とうじんまげの頭を、まんべんなくまわりへ下げる。
 そのあいだチョビやすはうしろの町家の天水桶てんすいおけのかげにしゃがみこんで、地面へ敷いた手拭の上へ、
「一めえ、二めえ……」
 と銭を数え落としていたが、立ちあがって見物のほうへ向かい、
「オイ、これじゃア一日のかせぎに、ちょっと足りねえや。もうちっと出そうなもんじゃあねえか。おう、そこにいる御隠居さん、十徳なんか着こんで、えらく茶人ぶっていらっしゃるが、そうやってふところンなかで、巾着切きんちゃくきりの用心に財布せえふをにぎってばかりいねえでサ、その財布せえふのひもを、ちっとといたらどんなもんだい」
 名指された御老人は、苦笑しながら、小銭をつかんだ手を十徳の袖口から出して、チョビ安へ渡す。
 ドッと湧く爆笑。
 もう、忍びやかな夕陽ゆうひの影が、片側の松平越中様の海鼠塀なまこべいにはい寄って、頭上のけやきのこずえを渡る宵風には、涼味りょうみがあふれる。
 早い家では灯を入れて、腰高の油障子に、ポッと屋号が浮かび出ています。
 なつかしい江戸のたそがれどき。
「サア、散った、散った。いつまで立っていたって、もう今日はこれで店仕舞みせじめえだ。だがな、明日もここで、『辻のお地蔵さん』の所作事しょさごとをお眼にかけるから、お知りあいの方々おさそい合わせのうえ、にぎにぎしく御見物のほどを……ナンテ、さア、お美夜ちゃん。巣へけえろうなあ。作爺さんと泰軒小父おじちゃんの待っている、あの竜泉寺のトンガリ長屋へヨ」
「アイ」
 お振袖のかあいい女の子と、意気な兄イの見本のような、こましゃくれたチョビ安と、二人の小さな影が、まるで道行きのように手を引き合って、長い横町を遠ざかる。そして、夕陽のカッと射す角を曲がって、浅草のほうへ消えてゆくのを、町の人々はまだ立ちどまって、見送っている。
 ガヤガヤ笑いながら、
兄妹きょうだいでしょうか」
「イヤ、そうじゃあねえらしいんです。あの、口のよくまわる男の子は、父も母もないとかで、それを探すために、ああやって辻芸を売って、江戸えどじゅうを歩いているんだそうですよ」
「だけど、おめえ、あの女の子にも、母親がねえとか言っていたじゃアねえか」
「それはそうと、二人の仲のいいことったら、どうでげす。振りわけ髪の筒井筒つついづつ、あのまま成人させて、夫婦めおとにしてやりてえものでげすナ」

「すまなかったなあ、お美夜ちゃん。今日は朝から踊りつづけで、くたびれやしないかい?」
「ううん、そんなでもないの」
「足が痛くはねえかい?」
「ええ、ちょっとね。でも、たいしたことはないわ」
「ほんとにおめえには、気の毒だよ。遊びてえ盛りを、こうやっておいらといっしょに、がな一にち辻に立って、稼業しょうべえするんだからなあ」
 とチョビ安、言うことだけ聞くと、いっぱしの大人が子供を相手にしているようだ。
 遊びたい盛りなんて、自分じぶんはいくつだと思っている。
 こまかい藍万筋あいまんすじの袖へ、片手を突っこんで、こう、肩のところで弥造やぞうをおっ立てたチョビ安。
 吉原よしわらかぶりにしていた手拭を、今はパラリと取って二つ折り、かたにかけています。
 下目しために、横っちょで結んだ算盤絞そろばんしぼりの白木綿しろもめんの三尺が、歩くたんびにやくざにねじれる。
 身幅みはばの狭い着物ですから、かあいいすねがチラチラ見えて。
 その意気なことったら、ほんとに、見せたいような風俗。
 にがみばしった――と言いたいところですが、顔だけはどうもしようがない。これで顔にむこうッきずでもあれば、うってつけの服装つくりなんですが、それこそ、辻のお地蔵さんへあげるお饅頭みたいな、あいくるしい顔だ。
 片手に、お美夜ちゃんの手を引いて、
「なア、これで泰軒先生に、今夜も寝酒の一ぺいもやってもらえようってもんだ」
「ねえ、安さん……」
 とお美夜ちゃんは、チョビ安のこまっちゃくれたのがうつったのか、これも、いつからともなくませた口をきく。
「あたいね、毎日のことだけど、いつもあすこんところでは泣かされちゃうのよ――あのホラ、あたいのちゃんはどこにいる、あたいのおふくろどこへ行った、で、あたしがネ、こう、手をかざして、おとっちゃんやおっかちゃんを探してまわる物狂ものぐるいのところね――何度やっても、あそこは身につまされるわ。きょうも涙ぐんだの」
「おいらもそうだよ。どうもあすこはいけねえ。思わず涙声になっちまって、こっぱずかしくっていけねえや。だけどなア、考えてみると、おいらのような運の悪いものも、またとねえだろうよ」
 お美夜ちゃんは、その小さな手で、ギュッとチョビ安の手を握りかえして、
「アラ、思い出したように、どうしてそんな心細いことを言うの? あたい、泣きたくなっちゃうわ」
「おいらも、何も言いたかねえけどさ、だって、そうだろうじゃアねえか。やっと橋下の乞食小屋で、かりにも、ちゃんてエ名のつくお侍を一人拾い上げて、まあ、ちゃんのつもりで孝行をつくす気でいたところが、そのお父上は穴埋めにされて、おまけに水浸しときたもんだ。いかにつええお父上でも、あれじゃア形なしにちげえねえ。でも、死骸の出ねえところをみると、ヒョッとすると――どこにどうしているかなア、あのお父上は」
 木履に冷飯草履ぞうりと、二人の小さな歩がからみ合って、竜泉寺はトンガリ長屋のほうへ……。
 その横町よこちょう居酒屋いざかや川越屋かわごえや土間どまへとびこんだチョビ安は、威勢よく、
「オ、とっツアん、いつものくちを、五ごうばかりもらおうじゃあねえか。くちに待っていられてみると、どうも手ぶらじゃアけえれねえや」

 柳生家の定紋じょうもんを打ったお駕籠が一丁、とんがり長屋の中ほど、作爺さくじいさんの家の前に、止まっています。
 こん看板に梵天帯ぼんてんおびのお陸尺ろくしゃくが、せまい路地いっぱいに、いばり返って控えている。
「オウオウ、寄るんじゃアねえ」
「コラッ、この餓鬼ッ! そんなきたねえ手で、お駕籠にさわると承知しょうちしねえぞ」
 陸尺の一人が、そう言って子供をどなりつける。ヨチヨチ駕籠のそばへ歩いてきて、金色きんいろ金物かなもののみごとなお駕籠へ、手を触れてみようとしていた三つばかりの男の子が、わっと泣きだす。
 母親らしいおかみさんが、子供を抱きかかえて、
「なんだい、おまえさん、何をするんだい。子供に罪はないじゃないか」
 取りまいている長屋の連中のなかから、
「このトンガリ長屋へ来て、きいたふうなまねをしやがると、けえりには駕籠をかつぐかわりに、仏様にしてその駕籠へのせてけえすぞ」
「どこの大名か知らねえが、このトンガリ長屋は貧乏人の領地だ。気をつけて口をきくがいいや」
「何を洒落しゃらくせえ。柳生一刀流にはむかう気なら、かかってこい」
 なんかと、駕籠かきと長屋の人々と、ワイワイいう騒ぎだ。
 そのののしり合う声々を戸外そとに聞いて、田丸主水正は、ここ作爺さんの住居すまい……たった一間ひとまっきりの家に、四角くなってすわっている。
「サ、そういう理由わけでござるから、なにとぞ、さっそく林念寺りんねんじ前の上屋敷のほうへ、おこしを願いたい。馬をらせては、当代ゆい二の名ある作阿弥さくあみ殿、イヤ、かようなところに、名を変えてひそんでおられようとは……?」
 主水正もんどのしょうがうやうやしく頭をさげる前に、迷惑そうにちょこなんとすわっているのは、作爺さんです。老いの身の病気あがり、気のせいかこんどの病で、めっきりおとろえたようです。つぎはぎだらけの縦縞の長半纏ながはんてんの上から、夏だというのに袖なしを羽織はおって、キチンとならべた両の膝がしらを、しきりにすそを合わせて包みこみながら、
「ヘイ、なにがなんだか、おっしゃることがいっこうにわかりませんで、ヘイ。わたくしは作爺と申す名もないもので……」
 恐縮しきった作爺さん、救いを求めるような視線を、横手へ向けます。
「イヤ、そうお隠しなされては、てまえホトホト困迷こんめいいたす」
 と田丸主水正も、横へ眼をやる。
 そこに、小山を据えたようにすわっているのは、先ごろから、このトンガリ長屋の王様とあおがれている、ちまたの隠者蒲生泰軒がもうたいけん先生だ。
 両方からすけだちを乞うような眼を受けて、
「ウフフフ」と泰軒は含み笑い、
「あちら立てればこっちが立たず……という、柳生の御使者どの、この御老人は単にトンガリ長屋の作爺さんでけっこうだとおっしゃる。無益な前身の詮議だてなどなさらずと、早々そうそうにお帰りなされたほうがよろしかろう」
「とんでもない! それでは、かく申す家老の拙者が、わざわざ自身で乗りこんでまいった趣旨がたち申さぬ。先ほどから申すとおり、てまえ主人柳生対馬守、このたび日光造営奉行を拝命なされたについては、何がな後世へ残るべき彫刻をほどこして、廟祖御神君の霊をなぐさめたてまつらんと、そこで思いつきましたのが、神馬しんめ大彫おおぼりもの……」
「ヤイヤイ、なんでえ! どいたどいた。チョビ安様やすさまとお美夜ちゃんのおけえりだ……オヤ! この駕籠は?」
 土間口どまぐちに、チョビ安の大声。

 田丸主水正は、必死につづけて、
「御承知でもござろうが、日光什宝じゅうほうのうち、まずその筆頭にあげられるのは、本坊輪王寺に納めある開山上人かいさんしょうにん御作ぎょさくの、薬師仏やくしぶつ御木像ごもくぞう一体……」
 と主水正は、まるで、そのあらたかな仏像に面と向かっているかのように、うやうやしく一礼した。
「開山上人。いみな勝道しょうどう。日光山の開祖でござって、姓は若田氏わかたうじ同国どうこく芳賀郡はがごおりのお生れですナ。今を去る千百余年、延暦えんりゃく三年二荒山ふたらさんの山腹において、かつらの大樹を見つけ、それを、立ち木のままに千手大士の尊像にきざまれたが――」
「なんだい、お開帳かい? こいつ、かみをゆってる坊さんなんだね?」
 お美夜ちゃんの手を引いたチョビ安が、いつのまにか上がってきて、そう言って横手の壁を背に、お美夜ちゃんとならんでちょこなんとすわった。
「家のめえには、この長屋に用もありそうのねえ、りっぱな駕籠が、止まっているし、屋内なかにはまた、抹香まっこうくせえお談議が始まっていらア。ヨウさく爺ちゃん、泰軒小父たいけんおじちゃん、これはいったい、どうしたというんですイ?」
 チョビ安はまるい眼をキョトキョトさせて、作爺と泰軒居士こじへ、交互たがいに問いかけた。
 二人とも、答えない。
 見向きもしない。
 それどころではない……といった一種切迫した空気が、室内にたちこめて。
 お美夜ちゃんとチョビ安の帰って来たことさえ、人々の意識にないようす。
 それよりも今。
 まるで別人のような、急激な変化を見せているのは、この主人あるじ作爺さんこと作阿弥さくあみである。平常ふだんは眠っているのか、さめているのかわからない眼が、かっと開き、いきいきと燃えあがって、いつも草鞋わらじの裏のように生気のない顔が、今は何ものかにかれたかのように、明るいかがやきをともしているのだ。
 みほうけたからださえシャンとなって、スウッと肩をのばし、端坐たんざの膝に両手を置いた作阿弥、主水正の言葉をツとさえぎって、夢みる人のように言いだした。
 これはもう、トンガリ長屋の作爺さんではない……当代に名だたる名木彫家めいもくちょうか作阿弥の、芸術心に燃える姿。
「さよう――だが、お話の開山上人の薬師仏は、二荒山ふたらさんかつらの大樹を、立ち木ながらに手刻しゅこくしたものではござらぬ。のちにうたはまにおいてその同じ桂の余木よぼくをもちいてらせられたのが、くだんの薬師やくし尊像そんぞうじゃとうけたまわっておる。ハイ、まことに古今ここん妙作みょうさく
 泰軒先生が無言のまま、深くうなずいた。田丸主水正はお株を取られたかたちで、だまっている。
 チョビ安とお美夜ちゃんは、常と違う作爺さんの態度に、いったい何事かと、あっけにとられて見まもるばかり。
「日光には、たしか弘法大師御作ぎょさくの不動尊の御木像おんもくぞうも、あるはずじゃが、あれは、寂光寺じゃくこうじの宝物でござったかナ?」
「は」
 主水正は、かしこまって、
「そのほか、慈眼大師じげんだいし銅製どうせい誕生仏たんじょうぶつ釈尊しゃくそん苦行くぎょうのお木像もくぞう、同じく入涅槃像にゅうねはんぞう、いずれも、稀代きだいの名作にござりまする」
「うけたまわっております。命のあるうち、ひと眼拝観したいものじゃと、作阿弥一生の願いであったお品々じゃ」
「サ、それらをしたしく御覧になれようというもの。そのうえ、腕にまかせて神馬しんめをお彫りなされば、それらの名品と肩をならべて、世々生々よよしょうしょう伝わりまするぞ、作阿弥殿……サおむかえの駕籠かごが、まいっております」

「さすがは柳生じゃ。世を捨てた名人を探しだして、一世一代の作を残させるとは、このたびの日光造営は、おおいに有意義であった。その作阿弥の神馬とともに、柳生の名も、ながく残るであろう……と上様からおほめ言葉のひとつも、いただこうというもので」
 ここを先途せんどと主水正は口説くどきにかかる。
 作阿弥はじっと眼をつぶったまま、身動みじろぎもしない。
 その小さな老人のすわった姿が、この狭い部屋いっぱいにあふれそうに、大きく見えるのは、彼の持つわざの力が、放射線のように、にわかに炎々えんえんと射しはじめたのであろうか。
「わしに、馬を彫って、後世へ残せという……」
 口のなかで噛むように、作阿弥は、そうひとことずつ句ぎってつぶやきながら、そっと眼をあけて泰軒先生を見やった。
 どうしたものであろう――という無言の相談だ。
 泰軒は、すぐその意を汲んで、
「あなたのお心ひとつじゃ、はたからはなんとも言えぬ」
「作爺ちゃん、どこかへ行くの?」
 のりだすチョビ安の尾についてお美夜ちゃんも心配げに、
「お爺ちゃん、どこへも行っちゃアいや!」
 作阿弥は、ふたたびチラと眼をあいて、幼い二人へ一瞥いちべつをくれた。
 この老体。
 かつは病後のこと。
 遠い日光へ出かけて、精根のあらんかぎりをしぼりつくし、神馬を彫る! 自分の持っているすべてを、この一作へたたきこむのだ。全生命を打ちこみ、一線一線命をきざむのだ!……その彫りあがったときが、作阿弥の命のなくなるときにきまっている。
 この申し出を受けるとすれば、それは、死出の旅路。
 お美夜ちゃんとチョビ安の、二人のかあいい者とも、これがながの別れになる――。
 作阿弥は、迷っているのである。
 沈黙を破って泰軒が、思い出したように、主水正へ、
「それはそうと、どうして作阿弥どのがここにおられることを……イヤ、このトンガリ長屋のさく爺さんが、作阿弥のかりの名であることを、尊台そんだいにおいてはいかにして見やぶられたかな?」
 主水正はしばしためらったが、
「神馬を彫らせて日光御廟に寄進きしんしたいと、てまえ主人柳生対馬守が思いたたれたのですが、馬の彫刻といえば、誰しもただちに頭に浮かぶのが、この作阿弥殿。いつのころからか世にかくれて、巷にひそんでおられるとのこと……八方手をつくして捜索いたしましたなれど、皆目行方知れずで、これは、あきらめるよりほかあるまいと存じおりましたやさき、ある筋より、当長屋の作爺さんという御仁こそ、作阿弥殿の後身じゃともれ聞きましてナ」
 チョビ安が口をはさんで、
「ねえ、作爺ちゃん! お爺ちゃんは、ただのお爺ちゃんだよねえ。ただの、トンガリ長屋のお爺ちゃんで、そんな人じゃアないよねえ」
「ウム、そうじゃとも! ただの作爺さんだとも!」
 と作阿弥は、ニッコリうち笑み、
「田丸殿……と申されましたな。やっぱり拙者は、お聞きのとおり、ただの、このトンガリ長屋ながやの作爺じゃ。そのほうが無事らしい。せっかくのお申しでながら、この儀は、かたくおことわりするほかはござるまい。わしには、もう、のみを持てぬ……」
「その、ある筋とは?」
 と、泰軒が主水正にきいていた。

「大岡越前守殿……」
 と田丸主水正は、ソッとうち明けるように、早口につぶやいた。
 南町奉行大岡越前守が、このトンガリ長屋の作爺さんこそ稀代の名手、作阿弥であることを、そっと柳生家へ知らせてくれたというのである。
 聞く蒲生泰軒の眼が、チカリと光った。
「ウム、彼なれば早耳地獄耳、江戸の屋根の下の出来ごとは、一から十まで心得ているにふしぎはない。そうか、越州から知らせがあったのか」
 ひとりごとのような泰軒の言葉。
 が、どうして忠相ただすけが、このさく爺さんの前身を知っていたか、また、それをいかにして柳生へ通じたか、くわしいことはわからないけれど。
 いま泰軒の言ったとおり、江戸の大空に明鏡をかけたように、大小の事々物々じじぶつぶつ、大岡様の眼をのがれるということはないのですから、この、巷に隠棲する作阿弥を、かねてからそれとにらんでいたとしても、すこしのふしぎもないので。
 対馬守がこのたびの日光修営に、作阿弥の力を借りようとして、諸所方々へ手をのばしてその所在を物色しているということも、江戸じゅうに網のように張りわたしたお奉行様手付きの者の触手に触れて、すぐ越前の耳に入ったに相違ない。
 壺でさんざんいじめられた柳生藩を、越前守は、助ける心だったのでしょう。
 知らせを受けた対馬守はこおどりして、ただちに今宵。
 こうしてこの江戸家老田丸主水正たまるもんどのしょうに、迎いの駕籠かごをつけて、長屋へつかわしたというわけ。ところが。
 さっきからいかにをひくうし、礼を厚うして出廬しゅつろをうながしても、作爺さんの作阿弥は、いっかな、うんと承知しません。
 ひとたびは主水正の必死のすすめで、ひさしく忘れていた芸術心が燃えあがり、よっぽど、やってみようか……という気にもなったようすだが。
 いま自分がこの長屋を出るとなると、かあいいお美夜ちゃんやチョビ安は、どうなる?
 泰軒さんに頼んでゆけば、大事ないとはいうものの、老先おいさきの短い身で、この愛する二人に別れる悲しみを思うと、それは、点火された芸術的興奮に、冷却の水をそそぐに十分だった。
 泰軒先生は、しっかと腕をくんで、うつむいたまま、無言。
 チョビ安とお美夜ちゃんは、左右から作阿弥の膝にとりすがって、かあいい眉にうれいの八の字をきざみ、下から、じっとお爺ちゃんの顔を見あげています。
 恩愛と、生死を賭けた芸術心との、二筋道すじみち……。
 石のように動かない作阿弥、かすかに口をひらいて、主水正へ、
「大岡……大岡越前守か。うむ、いつぞやこのお美夜ぼうが、大岡どののお屋敷へお届けものをして、じきじきにお目どおりを許されたさい、これのくちから越州殿えっしゅうどのにも、お願いしてあるはずじゃが……」
 と、ハッと心づいたように、
「ウム、そうじゃ!――頼みがある。対馬守様に、お願いがあるのじゃ。聞いてくだされ。これ、ここにおるチョビ安という者は、貴殿の御藩、伊賀国柳生の里の生れだそうじゃが、父も母もわからぬもの。こうして江戸へまいって、幼い身空で世の浪風にもまれておるのも、その、顔も知らぬ父母をさがし当てんがため。そこで田丸氏、願いというのはほかではない。貴藩の手において、このチョビ安の両親をさがし出してはくださらぬか」

「同じ伊賀なれば、さだめし、チョビ安の両親を知る者も、ないとはかぎらぬ。藩中に広く手をまわして、おたずねくださらば、思わぬ手がかりもつくであろうが」
 作阿弥の言葉に、主水正はおどろいた眼をチョビ安へむけて、
「ホホウ、このおは、伊賀の者か。ハッハッハッ、そう言えば、道理で、眉宇びうかんに、年少ながらも、人を人とも思わぬ伊賀魂いがだましいが、現われておるわい。イヤ、あらそわれんものじゃ」
 何を思ったかチョビ安は、それを聞くと、グイと小さな胡坐あぐらをかいて、
「ヘッ、笑わかしゃがらア。お爺ちゃんを引っぱり出してえもんだから、急に、おいらにまでお世辞を使ってやがる。ウフッ、その手にはのらねえよ」
 主水正は図星をさされて、苦笑の顔をツルリとなでながら、
「イヤ、どうも、辛辣しんらつなものですナ。これ、チョビ安どの……同じ伊賀の者と聞いて、なんだか急に、なつかしゅうなったワ」
 すると、何事かを決心したらしい作阿弥は、クルリと主水正へ膝を向け変えて、
「御相談がござる。貴殿の手で、このチョビ安の父母をさがし出してやろうと約束してくだされば、この作阿弥、ただちに長屋を出て、御用にあいたつよう粉骨砕身ふんこつさいしんいたすでござろう」
と聞いた主水正は、横手よこでを打ち、
「ウム、つまり条件でござりますな。当方において、チョビ安の両親をたずねるとあらば、これよりただちに、いまわれわれの手において集めつつある工匠たくみの一人として、日光へお出むきくださる……承知いたした。チョビ安どのの父母は、拙者が主となってかならずともに発見するでござろう」
 泰軒がそばから、
「それでは作阿弥殿、チョビ安のために、日光御出馬を決心なされたのか。ゆくもゆかぬも御辺の心まかせじゃ。この泰軒は、何ごとも言うべき筋合いではござらぬ」
 これでチョビ安にいちゃんの両親が知れれば、お美夜ちゃんも、こんなうれしいことはない――といって、そのために、このたった一人のお爺ちゃんに別れるのは、死ぬよりつらいし……。
 と泣き笑いのお美夜ちゃん、小さな手で、作爺さんの膝をゆすぶって、
「お爺ちゃん、チョビ安さんのためなら、あたし、どんなさびしい思いもがまんするわ。ね、日光へお馬を彫りに、行ってちょうだいね」
 と、泣きくずれます。
 チョビ安たるもの、だまっていられない。
「おウ作爺さん、それはおめえ、とんだ心得ちげえだぜ。そんなにまで、おいらのことを思ってくれるのはありがてえが、いまおめえがいなくなったら、お美夜ちゃんにゃア一人の身寄りもなくなるじゃアねえか、おいらのちゃんやおふくろのことなんか、どうでもいいから、その日光の話とやらを、ポンと蹴っておくれよ。ナア、作爺ちゃん」
 と左右から、チョビ安とお美夜ちゃんにすがられた作阿弥、同時に二人の手を振りほどいて、
「田丸殿、迎えの駕籠が、待たせてあるとおおせられたな」
 スックと起ち上がった。
「泰軒どの、何やかやと、長いあいだ親身も及ばぬお世話にあいなった。御迷惑ついでに、それでは、この二人の面倒をお願いいたしまするぞ。泰軒先生」
「これはまた、気の早い。もう御出発か。イヤ、心得た。あとのことは御心配なく……田丸殿さえ言葉をたがえねば、安の両親はおっつけ知れるであろうし、お美夜ちゃんは、及ばずながらこの泰軒が娘と思って――」

 心境の変化は、突如として起こることがある。
 その例の一つが、司馬道場のお蓮様。
 もっとも。
 近ごろお蓮様が、何やら身のはかなさを感じ、心細さにうちのめされていたことは、事実だ。
 それはそうでしょう。
 あくまで排斥しようとした源三郎に、つにてない愛を感じたのですもの。みずから仕組しくんだ陰謀いんぼうと、この、おのが恋心とのあいだにはさまれた彼女の胸は、どんなに苦しかったかしれない。
 そしてまた。
 身を裂くような思いで、やっと愛着を振りほどき、りっぱに殺し得たとばかり思っていた、その当の相手の源三郎が!
 どうです!
 おどろいたことには、何事もなかったようなケロリ閑たるようすで、夕方、奥庭の植木に水を打っていた――。
 あれから何事もなく、ずっとこの道場にいて、もうもう毎日、平凡な日を持てあましている、といったように。
 渋江村の寮……火事――おとし穴……水責め……あれらはすべて、悪夢の連鎖? ではなかったか?
 と、瞬間にお蓮様は、わが眼を疑ったのもむりではなかった。
「アラッ! 源様では――!」
 思わず低声こごえにつぶやいて、横手に立っていた丹波の袖を、そっと引いたのでした。
 峰丹波とお蓮さま、通りがかった廊下に、凝然ぎょうぜんと足をすくませて、進みもならず、しりぞきもならず……。
 幽霊を見た気持というのは、あのときのことだろう。
 ハッハッとあえぐ丹波の息づかいを、お蓮様は耳に近く聞いたのだった。
 死んだはずの源三郎が、悠然ゆうぜん柄杓ひしゃくをふるって、夕闇せまる庭に、静かに水をまいている。
 怪談にはもってこいの夏だ。
 おまけに。
 ものの立つというたそがれどき。
 縁に立つ二人が、水を浴びたようにふるえおののいていると知ってか、知らずにか、源三郎は口のなかで、何か唄いながら、いつまでも草の葉、木の根に水をやっていたが、やがて、振り返りもせずにひとこと、
「丹波! 礼をするぞ。きっとそのうちに、挨拶するからなナ」
 せまる宵闇にからんで、しっとりした小声こごえ
 源様ッ!……お蓮さまはせいいっぱいに叫んだような気がしたが、声をなさなかった。
 突如! バタバタという跫音あしおとに気がついて、振り返ったお蓮様は、顔色を変えた丹波が、廊下を、もと来たほうへと逃げかえるのを見た。
 意外千万にも源三郎が生きている! 生きてこの道場へ帰ってきている! もういけない! すべてはだめだ! と丹波は観念したのだろう。大きなからだをこまねずみのようにキリキリ舞いさせて、不知火しらぬい弟子でしどものいる広間のほうへと、スッとんでいったが……。
 茫然とそれを見送ったお蓮様が、ふと気がつくと、手桶ておけをさげた源三郎、露草にぬれる裾を引きあげて、むこうへ帰ってゆく。
 すると、です。
 丹波の出ようひとつ、源三郎の合図ひとつで、一気に斬りかかろうと、隠れていたのであろう。そこらの植えこみや樹立ちの蔭から、伊賀侍の伏兵が、三人五人と立ちあがって、お蓮様には眼もくれず、源三郎のあとに従って行きます。
「きっとあの萩乃も、いま源様といっしょにいるに相違ない。もう……だめだ! すべては終わった!」
 とお蓮様は、蒼白い唇でつぶやいた。
 それきりそこの縁の柱にもたれかかって、襟にあごをうずめて考えこんでいる彼女――侍女の一人が、夕飯の迎いに来ても、首を振ってしりぞけたまま。

 夕餉ゆうげ膳部ぜんぶもしりぞけて、庭のおもて漆黒しっこくの闇が満ちわたるまで、お蓮様はしょんぼり、縁の柱によりかかって考えこんでいたが――。
 道場乗っ取りの策動も、もはやこれまで。
 萩乃まで源三郎の手に取られてしまっては、もう自分のとる手段はどこにもない……。
 失意。
 身をはかなむ気持、無情の感が、時ならぬ木枯しのように胸深くくいいってくる。
 どこにすがろう? いずこにこの心の慰めを求めよう――? そのとたん、人間たれしも思い浮かぶのは、肉親の情だ。
「ああ、ほんとうだ。こういうとき、あの児さえ手もとにいてくれたら、わたしは何もいらない。道場も、恋も――世の中のいっさいは、子供の愛にくらべたら、なんでもありはしないわ」
 お蓮様がこんな気を起こすとは、よっぽど心が弱ったものと言わなければなりません。
 外見そとみ女菩薩にょぼさつ内心ないしん女夜叉にょやしゃに、突如湧いた仏ごころ。
 お蓮様には、たった一人の子供があるのです。先夫とのあいだに。
 その先夫のことは、さておき。
 いったん気持が、わが子のもとへはしったお蓮様は、だいたいが思いたつと同時に、じっとしていられない性質たち
 そっと居間へ帰って、いくらかのお鳥目ちょうもくを帯のあいだへはさむがはやいか、庭下駄のまま植えこみをぬって、ひそかに横手よこてのくぐりから、夜更けの妻恋坂を立ちいでました。
 子供というのは、どこにいる? お蓮様は、いったいどこへゆくのであろう?
「もう今年ことしは、七つになっているはず……同じ駕籠にあたしが抱いてどこかへ連れ出したら、どんなに喜ぶことだろう。このおなじ江戸に住みながら、往き来はおろか、たよりひとつしなかった罪を、お父様にとっくり詫びなければならない……」
 口のなかにつぶやきながら、坂の上下を見わたすと、折りよく通りかかった一丁の夜駕籠。
 お蓮様は白い手をあげて、それを呼びとめた。
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
 と駕籠屋がきいたが、ここで、場面はぐると大きく回転して、
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
 と溝板みぞいたを鳴らして、この作爺さくじいさんの家へ駈け込んで来たのは、おもてのかどに住んでいるこのかいわいの口きき役、例の石屋の金さん、石金さんだ。
 ふたたび、とんがり長屋――。
「おらア湯にへえってたんだが、ガラッ熊の野郎が駈けて来やアがって、なんだか知らねえがりっぱなお侍さんが、素敵もねえ駕籠かごを持って、おいらの長屋の作爺さんを迎えに来たというじゃアござんせんか。イヤ、おどろいたね。どんなわけがあるにしろ、べらぼうメ、作爺さんをもってゆかれてたまるもんか――ッてんでネ、ヘエ、ぬれたからだのまんま、こうしてふんどしひとつでとんできやしたが、ああ、苦しい!」
 一気にまくしたてる石金を先頭に、なが年おなじみのトンガリ長屋の住人たちが、ワイワイ言って作爺さんの土間へおしこんでくると!
「コラコラッ、下郎ども! 寄るでない。作阿弥先生に御無礼があっては、あいすまぬ。道をあけろあけろ!」
 という田丸主水正のどなり声。
 夢見るような顔つきの作爺さんが、その主水正のあとにつづいて、土間へ下り立とうとしている。
「お爺ちゃん、やっぱりゆくの?」
 チョビ安とお美夜ちゃんの、ふりしぼるような声が追う。
 作阿弥は、長屋の人たちの顔を見わたして、
「いかいお世話になりましたな」
 と言った。

 静かな中に、炎々えんえんたる熱を宿した作阿弥の姿は、つめたい焔のように、見る人の胸を焼きつらぬかずにはおかない。
 ながらくひそんでいた芸術心に、点火された作阿弥。
 もう現実にのみを手にしているように、右手を痙攣的に、ヒクヒクと動かしながら、せまい土間へたちおりた。
 チョビ安とお美夜ちゃんへの愛に、うしろ髪引かるる思い……が、それも、一期いちごの思い出に名作を残そうとする、心のちかいの前には、たち切らざるをえなかった。
 ひややかに主水正をかえりみて、
「まいりましょう。御案内くだされたい」
 ここへ来るときは、いくら日本一の名匠だとは言っても、たかが手仕事の工人こうじん、たんまり金銀を取らせるといったら、とびついてくるだろうと思っていた田丸主水正。
 いっかな動きそうにもない作爺さんを相手に、懸命な押し問答のすえ、やっと今、腰を上げさせることができたのだが、ああして話し合っているあいだに、主水正はすっかり、この裏店うらだなの見るかげもない老人の人柄に、気おされてしまったのでした。
 気品といいましょうか。人間の深みといおうか。いずれにしても、身についた芸術のはなつ、金剛不易こんごうふえきの光に相変わらない。
「はっ」
 と、思わず頭を下げた主水正、もうまるで従者よろしくのていで、
「先ほどより、お駕籠がお待ち申しあげておりまする。では、どうぞ……」
 冷飯草履ひやめしぞうりを突っかけた作阿弥は、竹の杖を手に、一歩路地へ踏みだそうとした。
 家のなかから土間、路地へかけて、長屋の人で身動きもならない。
「かわいそうに作爺さん、どんな悪いことをしたか知らねえが、あんな仏みてえな人だ、ゆるしてやればいいのに」
 と、なかには何かかんちがいして、作爺さんがお召捕めしとりにでもなったようなことを言うやつもある。ねいりばなをこの騒ぎにたたき起こされて、寝ぼけているんです。
「日光へ連れてゆかれるということだが、ときどきは長屋を思い出して、たよりをしてくだせえよ、ナア」
「ところが変わると、水あたりするというから、気をつけなさるがいいぜ、お爺さん」
 別離は、このトンガリ長屋でさえも、いささかセンチだ。
 あががまちに仁王立ちになった蒲生泰軒は、左右の手に、チョビ安とお美夜ちゃんの頭をなでながら、ひげがものを言うような声で、
蜀漢しょくかん劉備りゅうび諸葛孔明しょかつこうめい草廬そうろを三たびう。これを三れいと言うてナ。しん、もと布衣ほい……作阿弥殿、御名作をお残しになるよう、祈っておりますぞ。お美夜坊と安のことは、拙者がどこまでも引き受けた」
 泰軒居士、いつになくかたくなって、そう言ったときだった。
 ドッと人ごみがどよめきわたったかと思うと、このトンガリ長屋の路地へ、また一丁、駕籠がかつぎこまれたのだ。
 騒ぎたつ人々のなかへおりたったのを見ると、武家屋敷の若後家らしい、品のよい女性ひとり。
 供も連れずに、何しにこの、夜の貧民窟へ?
 と思ううち、女はすばやく人をかきわけて、作阿弥の前へ出た。
「あ! お父様、しばらく!」
「ウム、お蓮か――!」
 その声をうしろに聞いたお蓮様、もうサッと家へ駈けあがって、アッというまにだきしめたのは、小さなお美夜ちゃんのからだでした。
 一同はあっけにとられて、声もない。

「誰?」
 と、お美夜ちゃんはいぶかしげに、お蓮様の顔を見あげながら、苦しそうに身もだえして、だきしめる腕のなかからすり抜けようとあせる。
 雨のようなお蓮様の涙が、あお向いたお美夜ちゃんのかあいい顔へ、かかる。
「お母さんですよ。コレ! おまえの母者ははじゃですよ」
 お蓮様はなおも懸命に、小さいお美夜ちゃんの骨がきしむほど、だきすくめようとするのです。
 チョビ安はぽかんとして、
「こいつア妙ちきりんな芝居になったものだなあ」
 泰軒が作阿弥へ、
「これは、どういう……?」
むすめなのじゃ」
 と作阿弥は憮然ぶぜんとして立ったまま、じっとお蓮様を見すえています。
 浮き世の労苦を、幾十本の深いしわときざんだ顔には、感慨無量の色が浮かんで、
「わしの娘じゃが、某所へ腰元にあがったまま、ズルズルベッタリに後添のちぞいに直ったのち、今日今夜までなんの音沙汰もなく――泰軒殿聞いてくだされ。このお美夜坊は、こいつが屋敷へあがる前にできた子供でござる」
 急に作阿弥は、おそろしい眼つきになって、お蓮様をにらみつけた。
「今ごろになって、里心がついたのか。身がってなやつめ! 貴様きさまのかあいさがわかったところをみると、よほど悪い星にめぐり会って、世のはかなさを知ったものと見えるナ」
 畳に手をついたお蓮様は、片手の袖口を眼へやって、
「どうぞ、何もおっしゃらないでくださいまし。たよりになるのは、このたった一人の小さな娘だけ……ということが、わたしの胸にもハッキリ落ちて、それでこんなに、前非を悔いてまいりましたものを」
「苦しむがよい! いくらでも泣くがよい! はぶりのよいときは、同じ江戸におりながら鼻ひとつ引っかけるでなし、今になって――どうだ、お蓮! わしがお前に飲まされた煮え湯の味が、いま貴様にわかったか」
 かさなる意外な出来ごとに、長屋の連中は潮が引くように、外の路地へしりぞいて、土間に静かに立っているのは、田丸主水正ただ一人。
 ちょっとしんみりした空気のなかに、主水正の低声こごえが、底強くひびいて、
「作阿弥殿、では、御出立ごしゅったつを――」
「ただいま」
 とふり向いて、お蓮様へ、
「貴様が、自分の栄耀えいように眼がくらんで、子をかまいつけなんだように、わしは、わし自身の芸術たくみの心にのみしたがって、貴様のことなど、意にもかいせんのじゃ。あとのことは、泰軒先生のお指図さしずを受けて、よしなにするがよい。コレ、チョビ安よ。お美夜坊の母親は、この人でなしだったのじゃよ。なんにしても、お美夜坊には母と名のつくものが一匹、現われたわけだが、こんどはチョビ安の両親じゃ。それにつけても田丸殿! この安の父母を、そこもとのお手でお探しくださるという条件で、わしは日光へまいりますのですぞ。かならずこの約定やくじょうを御失念なきよう……」
「あとをまかせられても、困るがナ」
 泰軒は髯をしごいて、
「お蓮様とやらには、またいろいろと事情もあろうが、それはいずれ聞くとして、どうじゃな、お美夜坊。おまえはこのひとを、母と思うかの?」
 きかれたときにお美夜ちゃんは、やっとのことでお蓮様をつきのけて、パッと泰軒先生の腰にとびついた。
「あたし、こんなよその小母おばさん知らないわ」
 わッとお蓮様が、大声に泣きふすと同時に、
 戸外そとにひと声、
「そうれ見ろ!」
 この言葉を残して、作阿弥の駕籠は地を離れた。

「何をいうんです、お美夜! こうしてお母さんがお迎いに来たのに、そんなことを言うがありますか」
 お蓮様は半狂乱に、手をのばして、またもお美夜ちゃんをだきとろうとする。
「いやよ、いやよ! あたいの考えていたお母ちゃんは、そんな恐ろしい人じゃないわ、知らない小母ちゃんがやってきて、母ちゃんだなんて言ったって、誰がほんとにするもんか。イイだ!」
「まあ、なんて情けないことを! 今このおひげの小父おじさんがおっしゃったように、わたしは今までおまえを構いつけずにおいたのは、それはもう、いろいろとつごうがあってね。いえ、思うとおりに事が運んだら、いずれはじょうやとおとう様を道場のほうにお迎えしようと……ほんとうにいつまでも、こんな裏長屋に置こうとは思っていなかったんですよ」
 作阿弥の駕籠を送って、長屋の人たちは、ゾロゾロ竜泉寺の通りに行列をつくってゆくらしい。トンガリ長屋は、急にひっそりとして、ここ、今は主なき作爺さんの住居すまいには、油のつきかけた破れ行燈あんどんのみ、黄っぽい光を壁へ投げている。その前にすわった泰軒、お蓮様、お美夜ちゃん、チョビ安の大小四人の影を、複雑にもつれさせて。
 大胡坐おおあぐらをかいた泰軒居士が、じっと眼をつぶっているのは、今、柳生対馬守の嘱望しょくもうもだしがたく、命を賭けて神馬の像をきざもうと、このたびの日光造営にくわわっていったあの作阿弥を、こころ静かにしのんでいるらしい。
 人間は、こうも変わるものかと思うほど、すっかり別人のようにうちひしがれているのは、お蓮様だ。
 本郷の司馬道場では、このごろこそだんだん、あの源三郎一味におされぎみに、わが屋敷とはいいながら肩身がせまくなっているものの、それでも、しいたけたぼの侍女数十人をあごで使い、剛腹老獪ごうふくろうかいな峰丹波をはじめ、多勢のあらくれた剣士を、びっしりおさえてきたお蓮様だったが。
 それが、今の彼女は。
 髪はほつれ、お化粧つくりははげ、衣紋えもんはくずれて、見る影もありません。まるで、このトンガリ長屋のおかみさんの一人のよう……。
「思うことは、何もかもくいちがうし、アア、たった一人の子供にまで、こんな愛想づかしをされて、わたしという人間は、この先――」
 そこまで言いかけたお蓮様、突如、つったちあがった。
 血ばしった眼で、お美夜ちゃんを見すえて、
「サ! おいで! 表に駕籠が待たしてある。お迎いに来たんだよ。いやだなんて言わせるもんか」
 もうひとつのお迎え駕籠……。
 すると、このときまでだまっていたチョビ安、街の所作事から帰ったままの着つけでいたが、肩の手拭を取って、いきなりねじり鉢巻はちまきをしだした。それから、おもむろに両手の袖をたくしあげ、クルッとお尻をまくって、ピッタリすわりました。
「エコウ! どちらのお女中か知らねえが、あこぎなまねアさしひかえてもれえやしょう」
 やり始めた。
 小さな兄哥にいさんが、まるまっちい膝をならべて啖呵たんかを切りだしたんだから、お蓮様はびっくりして、
「なんだい、おまえは! 子供芝居の太夫かい。ひっこんでおいでよ」
「ひっこんでいろうたア、こっちで言いてえこった。お美夜ちゃんはあっしの許婚者いいなずけなんだ。そのあっしに一ごんの挨拶もなく、おむけえの駕籠が聞いてあきれらア。さっさと消えやがれ!」
「そうだそうだ、安! これはおいおいとおもしろくなってまいったぞ」
 泰軒たいけん先生、手をたたいてけしかけている。

 夜。
 ただいまでいう十二時。
 床脇とこわきの壁に、真っ黒な大入道がうごめいている……と見えたのは、峰丹波の四角な影。
「ウーム、不死身というのか、なんというのか、実にどうもおどろいたやつじゃ。あの、水の充満したはずのおとし穴を、いかにしてとびだしてきたものか――」
 と丹波のひとりごと。峰丹波の腕組み。丹波の思案投げ首です。
 ここは。
 妻恋坂なる司馬道場、不知火組のいすわっている広間だ。
 このあいだの夜、鎧櫃よろいびつからとびだした丹下左膳のために、かなりのおもだった連中が斬られてしまったので、今この深夜の部屋に、短気丹波を取りまいている不知火十方流の弟子どもは、約二十人ばかり。佐々さっさげんろう、前山彦七、海塚主馬うみづかしゅめ西御門にしごもん八郎右衛門、間瀬徹堂ませてつどう、等、等、等。
「しかし、おどろきましたな。私が見たときは、彼奴あいつめ、庭の下に立って、手ずから燈籠に灯をいれるところでしたが、夕闇のせまる庭に、誰やら立っている者がある。うしろ姿の肩のあたりに、見おぼえがござったでナ、ハッと思って、縁側から眼をすえていると、ふり返ってニタと笑った顔! 明りに片頬を照らしだされたのを見ると、死んだはずの伊賀の暴れん坊ではござらぬか。さてはこいつ、迷ったなと……」
 恐ろしげに声をふるわせて、そう話しているのは、まるくなった座の一人、海塚主馬だ。
 西御門八郎右衛門が、その名前のように長い顔を、いっそう長くさせて、
「イヤ、実にどうも、なんともかともおどろき入りましたテ。てまえは、源三郎めが不浄場から出て、手を洗っているところを遠くからチラと見たのですが、それでもうこの腰の蝶番ちょうつがいが、どうしてもいうことをききませんようなありさまで、不覚ながら障子につかまって、やっとおのおののところへ注進に来ましたようなしだいでござりまして――」
 言うことまで、いやにながったらしい。
 山のような角ばった前山彦七が、水銀でも飲んだようなしゃがれ声を出して、
「貴殿も幽霊と思われた組だな。どこをどうして助かったか知らぬが、あれから何事もなくずっと道場に暮らしていたようなつらつきでヒョコッと庭におりて水をまいていたのだから、まったくもって皮肉なやつで……まず拙者は、ひと目見るより早く、ペタリとすわった――」
「ハハア、腰を抜かして」
「イヤ、そう言ってしもうては、花も実もござらぬ。実は、下からすかして、彼奴きゃつに足があるかどうか、それをたしかめようと存じたので」
「幽霊かいなかをナ。なるほど、ときにとって思慮ぶかい御行動……」
 はや腰を抜かしたのが、ナニ、思慮の深いことがあるものか、仲間でほめ合っている分には、世話はない。
 冗談はさておき。
 あの漁師の娘、お露坊の嫉妬から出た注進によって、玄心斎その他が、あわてふためいて三方子川尻の六兵衛の家に駆けつけ、病後の源三郎を、即刻この道場の別棟べつむねへ迎い戻した。
 そうして帰ってきた源三郎が、前からここにいたように、日常茶飯事に託して自分の姿を、チラリチラリと不知火のやつらに見せたことは、この連中のあいだにこんな大恐慌だいきょうこうをもたらしたので。
 かくて、丹波を中心に、生残り組のこの大評定となったのです。
 このとき、外の廊下に、サヤサヤとやさしい裾さばきが、足ばやに近づいてきた。
「ア、お蓮様がおいでだ」
 一同は、いっせいにすわり直しました。

「皆様、こちらにおそろいで」
 障子のそとの廊下に、小膝をついた女の声。佐々さっさ玄八郎が、いぶかしげな低声こごえで、
「ヤ、お蓮様ではないぞ」
「アノ、そのお蓮様のことでござりますが……ごめんあそばせ」
 声とともに、静かに障子があいて顔を出したのを見ると、お蓮様づきの侍女、早苗さなえです。
 玉虫色たまむしいろのおちょぼ口を、何事かこころもちあえがせて、
「峰様におたずね申しあげます。お蓮様はどこへゆかれましたか、御存じでは?――宵の口から、何かひどくうち沈んでいらっしゃいまして、お夕餉ゆうげのお膳をおすすめしても、食べとうないとおっしゃるばかり、お箸ひとつつけずに、そのままお下げになりましたが、いつのまにか、ふっとお姿が見えなくなりまして――」
「ナニ?」
 ギョロリと大きな眼を向けた丹波、この眼で、腰元などにはひどくおどしがきくので。
「そこここをおさがし申したであろうな」
「それはもうおっしゃるまでもございません。お部屋というお部屋はもとより、お庭のすみずみまで、わたくしども一同手わけをして……もっとも、鬼どもの住家すみかのほうへは、恐ろしゅうて近よれませんが」
 侍女どもが「鬼の住居すまい」と言っているのは、源三郎とその一党が、ふしぎな頑張りをつづけている同じ邸内の一角のことだ。
「フウム」
 丹波は思案に眼をつぶって、
「十五や十六の少女おとめではない。何かお考えがおありで、そっと戸外そとへ出られたものであろう」
「それにいたしましても、私どもへひとことのおことばもなく――何やらこの胸が、さわいでなりませぬが」
 額を青くしている早苗を、丹波たんばはうるさそうに見やって、
「大事ない。おっつけ御帰館になろう」
「でも、この真夜中にお供もお連れにならず、いったいどちらへ?」
「それは、わしにはわからぬ。なんだかこの二、三日、ひどくしょげ返っておられたよ。あの年ごろの婦人は、ふっと無情を感ずることがあるものだからな……」
 丹波もさびしそうな顔をしたが、気がついたように、大声に、
「いずれにしても、おんなどもの知ったことではない。こちらはお蓮様どころではないのだ。お末の者一同、さわがずと早くやすめと申せ」
「さようでございますか、それでは――」
 と、早苗は、あたふたとさがって行く。
 あとは、車座くるまざになって一同が、不安げな顔を見合わせて、
「どうしたのだろう、お蓮様は」
「何から何まで、意のごとくならんので、ヒステリイを起こしたのでは……。」
 ヒステリイなどと、そんな便利な言葉は、その当時はまだなかった。女の言ったりしたりすることで、男のつごうが悪いと、世の良人おっと諸君はみんなヒステリイで片づけてしまう。これは、余談。
「生きている源三郎を見て、心境に大変化をきたしたのかもしれぬテ……オヤ! なんだ、今の音は」
 この言葉の最中に、皆は、庭へ向かった雨戸のほうへ、一度にふり向いていた。
 深夜だし、密議のことだし、しめきってある。
 ドン! と、その板戸に、何かぶつかる音がしたのです。たった今。
 たとえてみれば、人間が一人、力いっぱい体当りくれたような……。
「なんだろう、何者か立ち聞きをしていたのでは――」
「あけてみろ」
「イヤ、貴公きこう、あけてみろ」
「なにを臆病な……よし! わが輩があけてみる」
 と気おいだって、たち上がったのは、若侍の山脇左近やまわきさこん

 威勢よくつっ立ったものの、おっかなびっくり。
 だが。
 なみいる仲間の手前もある。いまさら引っこみのつかなくなった山脇左近、
「誰だッ?」
 叫びながら、端の雨戸を一枚引きあけた。
 ドッと音して吹きこむぬれた夜風。戸外こがいには、丑満の暗黒やみにつつまれた木立ちが、真っ黒に黙して、そのうえに、曲玉まがたまのようにかかっているのは、生まれたばかりの若い新月。
 人っ子一人、犬の一匹いません。
 照れかくしに左近は、若いお侍さん、小遊興こあそびのひとつもやろうというおもしろい盛りなので、意気ぶった中音ちゅうおんに、
「たたく水鶏くいなについだまされて……月に恥ずかしいわが姿……なんてことをおっしゃいましたッてね」
 武骨者ぞろいの道場には、ちょいと珍しい渋い咽喉のどを聞かせて、そのまま、ガタン、ピシャッ! 戸をしめようとすると、その雨戸のすき間に、つぶされたようにはさまっているものがある。
「なんだ、これは……」
 その、半分ほど座敷のほうへしめこまれているものを、足もとをすかしてよく見ると……。
 姫ゆりの花。
 風流です――と言ってはおられない。何者がなんのために、この部屋の外へ、姫ゆりの花などを持って来たのか?
 しかも、庭から忍んで。
 不知火の門弟一同、さっと丹波の顔へ眼を集めた、指揮を求めるように。
「左近、もう一度雨戸をあけて、その花を取ってみるがよい」
 そこで左近が、また雨戸のさんをはずし、一、二寸戸を引いて、すき間からその姫ゆりを抜き取ってみますと……果たして、茎に、一枚の紙片がむすびつけてある。
 誰かが庭づたいに来て、これを雨戸のすきへ押しこめたのち、ドンと戸をたたいて逃げて行ったのだ。
 どこから?――などと、きくだけ野暮。
 この庭のむこうに対峙たいじしている、伊賀侍のしわざにきまっている。
 伊賀の暴れん坊……柳生源三郎の使者つかい
 峰丹波、手のふるえを部下に見せまいと努めながら、ふみをひらきました。
「近くお礼に参上すべしと先刻申し上げしとおり、明朝、当屋敷内の道場において、真剣をもって見参つかまつりたし。いつまでかくにらみ合っておっても果てしのないこと。峰丹波殿と拙者源三郎と、明朝を期し、白刃の間にあいまみえ、いずれがこの道場の主人あるじとなるか、力をもって、即刻決定いたしたき所存……云々うんぬん
 と、こういう意味の文言もんごん
 読み終わった丹波は、サッと変わった顔色を一同にけどられまいと、じっとうつむいて考えこむふり。
 怖れていたものが、来たのだ、とうとう。
 心配気な顔、顔、顔が、前後左右から、丹波をとりまく。
 弱味は見せられない立場です。
「かつて知らぬやいばの味、それを一度、身をもって味わうのも、イヤ、おもしろいことであろう」
 変な負け惜しみだ。丹波は、そう謎のようなことを口ずさんだが、その心中は悲壮のきょくです。斬られる覚悟。
 明日あしたを期し、四十何年の生涯の幕を閉じるつもり。
 伊賀の源三郎にのたたないことは、誰よりも峰丹波が、いちばんよく知っている。
「矢立と懐紙を……」
「源三郎からですか。なんと言ってまいりました」
「おのおの、何もきいてくださるな。朝になればわかることじゃ。紙を、筆を――」
 と丹波は、おののく手をふって、誰にともなく命じた。

「どうした、戸のすきにはさんできたか」
 と源三郎は、例のかみそりのような蒼白い顔に、引きつるような笑いを見せて、折りから庭づたいに帰ってきた谷大八を、見迎えた。
 大八、袴のうしろをポンとたたいて、膝を折り、
「ハッ、うまくやってまいりました。何やら多勢で、ワイワイ論じておりましたが」
「ウフッ、今ごろは丹波のやつめ、さぞ青くなっておることであろう」
 そう言って源三郎は、ゴロッと腹ばいになりました。
 びらの無紋むもんに、茶献上ちゃけんじょうの帯。切れの長い眼尻めじりに、燭台の灯がものすごく躍る。男でも女でも、美しい人は得なものです。どんな恰好かっこうをしても、それがそのまま、すてきもないポーズになる。
 早い話が、今この伊賀の若侍。
 あらたまったようすで、おしとねの上に御紋付の膝をならべ、お脇息きょうそくを引きつけているときは、兄対馬守とはまた別の、一風変わった貫禄がそなわっていて、我武者羅な若々しいなかにも、着飾った競馬馬のような男性美があふれるのですが。
 こうして、着流しでやくざに寝ッころがっているところは、また妙に御家人くずれみたいなひねった味が出て、女の子をポーッと上気のぼせさせる。
 清元きよもとか何かうなりながら、片手のじゃに春雨をよけて、ニッコリ辻斬りでもやりそうです。
 こんなことを考えながら、そばからこの源三郎の横顔を、ほれぼれと眺めているのは、お嬢様の萩乃だ。
「では、どうしても丹波をお斬りになりますの?」
 萩乃は、源三郎の寝姿へ団扇うちわで風を送りながら、そうきいた。
 あの丹下左膳に連れられて、怖さとうれしさの交錯した不思議な気持で駈けつけた六兵衛の家に、やまいを養っていた源三郎と、萩乃は、たえてひさしい対面をした。
 それが、どうして知れたのか、翌日の夕方、この道場から安積玄心斎、谷大八などが迎いに来て、源三郎ともどもここへ引き取られたのです。道場へ帰ってからは、この座敷に源三郎のそばにつききりで、まだ継母ははお蓮様や峰丹波をはじめ、不知火の人たちには、姿ひとつ見せずにいる。
 嫉妬にかられて、密告するつもりで知らせに来たあのお露は。
 案に相違! ながらく行方不明だった若殿のいどころを教えてくれた大恩人だというので、下へもおかぬ待遇もてなしぶり。お礼とあって、大枚の金子きんすまでいただき、源三郎と萩乃様が帰って来るちょっと前に、父六兵衛の家へと、鄭重ていちょうに送りかえされた。
 ちょうど萩乃源三郎と入れ違いに、なにが何やらサッパリわからないお露、狐につままれたような気持で父の家へ送られて行きましたが、これで見ると、この娘は、無意識のうちに、源三郎をふたたび道場へかえす役目を果たしたのです。そして、今後いかに、このお露が物語に現われてくるか?
 それは後日のことといたしまして。
 今。
 やっぱり丹波を斬るのか、ときいた萩乃の言葉に、源三郎は無精ッたらしく首をねじむけて、
「彼が斬られるとかぎらぬサ。余が斬られるかもしれぬ」
「マア怖い!」
 萩乃は団扇うちわで顔を隠して、
「そんなことになったら、あたくしどういたしましょう。でも、やっぱりあなた様のほうが、お勝ちになるにきまっていますわ」
 源三郎はこの萩乃を、いったいどう思っている? 愛しているのか、いないのか、誰にもさっぱりわかりません。
 そのときです……。
 雨戸の外の庭に、ポンポンと二つほど、手が鳴りました。

 すぐ外の庭で、まるでかしわ手のように、手を打ち鳴らすのを聞いた源三郎は、ニヤッと笑って、
「拝んでやがらア」
 と、つぎの間の一人へ、
「丹波から返事が来たぞ」
 声に応じて、腰をかがめて縁側へ出て行った若侍が、しめ残してある雨戸から、庭前をうかがうと、すぐ下のくつぬぎの上に、緑の小枝が置いてあるのが、室内のもれ灯に浮かんで見える。
「なるほど、まいりました」
 若侍は笑って、手をのばしてそれを拾い上げた。
 明るいところへ持って来て見ると、葉のついたささである。
 墨痕すみあとのにじんだ紙切れが、ゆわいつけてある。
 源三郎は受け取って、
「今さら逃げを打つこともできまい。なんと言ってきたかな」
 そう言いながら結び目をといてその二、三行の文字へ眼を走らせた伊賀の暴れん坊、
「馬鹿な!……真剣勝負に判定がいるものか。斬られて死ぬほうが負けにきまってるじゃアねえか」
「おお怖い!」
 と、そばの萩乃が、両袖を抱くようにして顔をおおったのは、みを含んでこう言いはなったときの源三郎の身辺に、一種言うべからざるすごみが、サーッと電光のように流れたからで。
 源三郎づきの伊賀侍のうちから、首領株の数人が、這いだすように膝で畳をすって、つぎの間から現われた。源三郎は紙片を振りまわして、
「コレ、これを見るがよい。丹波め、すっかり臆病神にとりつかれたとみえて、立ちあいの判定がなければことわると申してまいった」
 谷大八がのぞきこんで、
「フフン……お申しこしの儀は、真剣勝負とは申せ、柳生一刀流と不知火十方流のいわば他流仕合いにつき、相互の腕以上の判定者を立ちあわしむるを至当しとうとす。よって判定者として適当なる人なき場合には、せっかくながら御辞退申すのほかなく――ハッハッハッハ、峰丹波、今になって命が惜しいと見えるな。虫のよいことを申してまいったわイ」
 横合いから、首をさしのべた他の一人が、その先を読んで、
「……判定なくして、他流仕合いを行なうは、当不知火道場のかたく禁ずるところにつき、か。ハッハッハ、うまい抜け道を考えたもんだな」
「それでは、先方の申すとおり、判定をつけようではございませぬか」
 この大八の言葉は、主君源三郎へ向けられていた。ムックリ起き上がった伊賀の暴れん坊、ふところの両手を襟元にのぞかせて、頬づえのようにあごをささえながら、
「おれもそう思っていたところだ……しかし、この判定は、おれ以上に腕のたつ者でなければならんと言うのだから――」
 源三郎の頭に、このとき影のように浮かんだのは、隻眼隻腕、白衣の右の肩をずっこけに、濡れつばめの長いさやを落し差しにしたある人の姿。
「だが、左膳のやつは、今ごろどこにいるだろう。用のあるときはまにあわず、用のないときにかぎって、ヒョックリ現われるのが彼奴きゃつじゃ」
 ポント膝をたたいた源三郎、
「そうそう! 兄貴に頼もう。兄対馬守をこの審判に引っぱり出そう。安積あさかじい、そち大急ぎで、林念寺前の上屋敷へこの旨を伝えに行ってくれぬか。それから、大八、すずりすみを持ってまいれ。もう一度、峰丹波に笹の便りをやるのだ」

 麻布林念寺前の上屋敷で。
 柳生対馬守が、お畳奉行別所信濃守をしょうじて、種々日光御造営の相談をしているさいちゅう、取次ぎの若侍が、縁のむこうに平伏して、
「ただいま、妻恋坂より、師範代安積玄心斎殿がお見えになりましてございます」
 と言ったのは、玄心斎、こうして源三郎の命令で、急遽きゅうきょ、使いにたったわけでした。
 日光の御山みやまを取りまいて、四十里の区域に、お関所を打たねばならぬ。用材、石、その他を輸送する駅伝の手はずもきめねばならぬ。打ちあわすべきことは山ほどあって、着手の日は目睫もくしょうにせまっているのですから、対馬守はそれどころではない。
 気が向かないと返事をしない人だけに、例によって、知らん顔をしていましたが。
 安積玄心斎……と聞いて、ピクッと耳をたてた。
 弟源三郎につけてある爺が、この夜中に、何事――?
 と思ったのです。
「ナニ、安積の爺が」
 しばらく考えて、
「別間へ通しておけ」
 そして、正面の信濃守へ向かって、
「私用で使いの者がまいったようじゃ。失礼ながら座をはずしまする。暫時ざんじお待ちのほどを」
 起きあがって、一間いっけんの広いお畳廊下へ出た。
 ところどころに置いた雪洞ぼんぼりに、釘かくしがえて、長いお廊下は、ずっとむこうまで一です。
 小姓に案内された玄心斎が、そのとき、すこし離れた小間へ通されるのが見えた。
 無造作な対馬守は、スタスタと大股に歩いていって、安積老人のすぐあとから、その部屋へはいった。
 うしろ手にふすまをしめながら、立ったままで、
「なんじゃ。用というのを早く申せ」
 それへ手をついた玄心斎、雪のような白髪の頭を低めて、
「殿には、いつに変わらず御健勝のていを拝し……」
「挨拶などいらぬ。なんの用でまいったと言うに」
「またただいまは、御用談中を――」
「客を待たしてあるのじゃ。源三郎から、何を申してまいったのだ」
「殿と、司馬十方斎殿とのあいだに、源三郎様と萩乃様との御婚儀のこと、かたきお約束なりたちましたについて、てまえはじめ家来どもあまた、源三郎様にお供申し上げて、正式にこの江戸の道場にのりこみましたにかかわらず――」
 対馬守は、源三郎によく似た、切れの長い眼を笑わせて、
「そもそもから始めたナ。長話はごめんじゃよ、爺」
「ハ……いえ、しかるに、先方に思わぬじゃまが伏在ふくざいいたしまして、十方斎先生のおくなりあそばしたをよいことに源三郎様に公然と刃向かいましてな」
「わしは、たびたびその陰謀組いんぼうぐみを斬ってしまえと、伊賀から源三郎へ申し送ったはずじゃが、そのたびに、源三郎の返事はきまっておる――かりにも継母ははと名のつくお蓮の方が、むこうの中心である以上、母にむかってやいばることはならぬ。よって、持久戦として、すわりこんでおるとのことじゃったが」
「ハッ、その間、いろいろのことがござりましたが、殿、お喜びくだされ。明早朝を期し、元兇峰丹波と源三郎様と、真剣のお立ちあいをすることになりました。ついては、先方の申し出でにより、その判定を殿にお願い申そうと……」

「馬鹿言え!」
 叱咤しったした対馬守、早くも半身、お廊下へ出かかりながら、
「爺も爺ではないか。そんな、愚にもつかんことを申してまいって。帰って源三郎にそういえ。自分のことは、自分で処理すべしとな」
 安積老人は、殿様のお裾をつかもうとするように、手をさしのべておいすがった。
「もとより、そのお考えなればこそ、今まで種々大事件が出来しゅったいいたしましても、なにごともお耳に入れず、無言の頑張り合いをつづけてきたのでございますが、明日あすこそは丹波を斬って、源三郎様が道場の当主にお直りになろうという瀬戸際……どうしても先方では、判定がなくては立ちあいせぬと申しておりますので、ホンのかただけ、お顔をお出しくださるだけで結構なのでございますが」
「真剣の果し合いに、判定も何もあるものか」
「もちろんでございます。そこがソノ、峰丹波の逃げ道でございまして、立ちあいなくしては、他流とはいっさい仕合いせぬというのが不知火しらぬい十方流の条規だと申したてて、一寸のばしに、逃げを張っておりますわけ。殿様がお立ちあいくださらば、丹波めは、仕合いを忌避する口実こうじつがなくなりますので、なにとぞ源三郎様のために、御承諾くださいますよう……殿、まッ、このとおり、爺からもお願いいたしまする」
 不審顔の対馬守、
「それにしても、なぜその審判役を、に持ってまいったか、それがわからぬ」
「それは、その、自分よりも、また、源三郎様よりも、腕の立つお人の立ちあいがなければ……という、丹波の持ち出した条件なので」
「自分よりも、源三郎よりも、剣技において上の者が立ちあわねば、勝負をせぬとナ」
「峰丹波の偉いところは、おのれをよく知っていることでございます。おのれを知る者は、敵をも知る。自分が源三郎様に、とても及びもつかないことは百も承知。したがって、なんとかしてのがれようとの魂胆。おのれより強い者は、いくらもあるが、源三郎様の上に立つ人は、ちょっとない。そこで、こういう条件を持ち出せば、この判定者はなかなか見つかるまいという見越しでございます」
「ふうむ、それで余へ来たのだナ」
「さようで。いっぱし困難な条件を持ち出したつもりなのが、殿がお顔をお出しなされば、丹波はギャフンとなって、しかたなしに、明日あしたの朝源三郎様に斬られて死にます」
「ははははは、イヤ、そうか、わかった。彼奴きゃつの策の上を行くわけだな」
 対馬守は、ややしばし考えておられましたが、
「行ってやりたいが……イヤ、私事じゃ。たいせつな日光御用をひかえ、心身を清浄に保たんければならぬ身が、そのかんじんの日光へ出発前に、みにくき死骸を眼にするようなことは、こりゃ玄心斎、さしひかえねばなるまいテ」
「しかしながら……」
「それに、暇がない。今夜徹宵てっしょう別所殿と相談のうえ――」
 対馬守がそこまで言いかけたときいきなり、外の廊下に声がして、
「殿はこちらですか。主水正でござります。ただいま、首尾よく作阿弥を説きふせて、つれてまいりました。溜りに待たせてございますが」
「オオ田丸たまるか、ナニ、作阿弥が出馬したと。それはそれは御苦労。大成功じゃったナ」
 自分の用事はどこへかスッとんだかたちで、ポカンとしていた玄心斎へ、対馬守、何事か思いつかれたように、ニッコリすると同時に、
「爺、安心せえ……主水正、ちょっとここへはいって来い」

 お蓮様には逃げられる。
 源三郎からは、果し状をつきつけられる。
 なんとかして、一寸のばしに逃れようと、立会人がなければと、笹の文を書き送ったのに対し。
 望みどおり丹波よりも、源三郎よりも、一段上の大剣士が、審判に立つから……という笹の返事が、折りかえし源三郎から来た。
 広い庭をへだてて、笹に結びつけた手紙が、二度も三度も棟と棟のあいだを往復したのち。
 提出した条件がいれられたとなると、追いつめられたも同然の峰丹波、もはやなんの口実もない。
 やがて、朝。
 庭の小広い片隅に、源三郎についてきている伊賀侍どもが、ワイワイ言いながら仕合場しあいばのしたくをしているのを、峰丹波、こっちの部屋で、どんな心で聞いたことか。
 ゆうべ一睡もしない血ばしった眼にこのほがらかな朝の訪れは、あまりに、残酷にさえ感じられる。
 実際、瞳が痛いほどの、キラキラとした金色のあさひです。
 今となっても、丹波は、あきらめがつきかねる。
「あの伊賀の暴れん坊以上の腕ききが、そうたくさんあろうとは思われぬが、案に相違、簡単に承知して、判定人を出すと言うのだけれども、いったい何者であろうな」
 オロオロした眼で左右をかえりみても、誰ひとり返事をする者がありません。
「心あたりはないか」
 なにか、よけいな一人が、
「ことによったら事によるのでは……」
「なんだ、ことによったらことによるのでは――とは? なんのことだ」
「これは、ひょっとしますると、あの、隻眼隻腕の白い煙みたいな浪人が、飛び出してくるのでは……?」
 丹波にとって、丹下左膳は伊賀の源三郎以上のにがて。
「アッ、そうだ! そうかもしれん。あいつがいることを思いつかなんだ。これはまったく、ことによったら事によるかもしれん。ウーム、とんだ藪蛇やぶへび!」
 顔色を変えているところへ、
「おしたくがよろしければ――主人がお待ち申しておりまする」
 いやなことを言って、源三郎のほうから使いが来た。
 もう、やむをえません。
 こうなると、さすがは峰丹波。スッパリと覚悟ができてしまった。あばれるだけあばれたうえで、機を見て逃げ出すだけのことだ!
 たち上がった丹波、ふるえる手で袴のももだちを取りながら、白足袋のまま、明るい光のみなぎる庭へ下り立った。
 肩をそびやかし、左手にさげた愛刀の鯉口こいくちを切って、足ばやに庭の隅へ――。
 眼くばせした門弟達は、まるでお葬式に列するようにうちうなだれてゾロゾロつづく。
 もと弓場のあったあとです。そこだけ立ち木がひらいて、地面にはバラッと砂がまいてある。
 濃い影を土に落として、むこうの隅にガヤガヤたち騒いでいる伊賀の連中の中から、着流しにふところ手をした源三郎が、例の蒼白い顔をゆがめて笑いながら、出て来ました。
「ながらく失礼つかまつった。今朝こんちょうはまたこの真剣勝負、さっそく御承引あってかたじけない」
 皮肉な挨拶。
 だが、峰丹波は、それに言葉を返すより、何よりも気になってならないのは、この源三郎よりも腕達者だという今日の判定役。
「お立ちあいは、どなたで――?」
 と、そこらの人々へ眼を走らせた。

「うむ、その儀は――」
 と源三郎が、いつになくつつましやかな真顔まがおで、ツと身を避けると……。
 うしろに。
 でっぷりした中年の侍が、威儀をただして立っている。
 象のような細い柔和な眼、抜けあがった額部ひたい。両手をうしろにまわして、悠然たる殿様ぶり……。
 大刀をささげたお子供小姓をしたがえ、小刀を前半ぜんはんにたばさんだ――柳生藩江戸家老、田丸主水正。
「兄でござる。兄、柳生対馬守……」
 源三郎が、まじめくさった顔で、丹波に紹介ひきあわせた。
 そして、主水正へ、
「兄上、これなる御仁が当不知火しらぬい道場の師範代――というよりも、ながらく拙者のじゃまをしてこられた、峰丹波どの……」
 むろん名前は、日本国じゅう、いかずちのごとくとどろきわたっている伊賀の殿様だが、峰丹波、まだ眼通りを得たことがない。
 対馬守のお顔は、知らないんです。
 で、換え玉などとは、もとより思うわけもなく。
 ギョッとすると同時に、丹波はくずれるように、土に小膝をつきかけた。
「ヤ? これは大先生にござりまするか。そうとも存ぜず、かかる異様のいでたちにてまかりいで……」
 あわてて、袴の股立ももだちをおろそうとした。
「お見ぐるしき段、ひとえに御容赦を――手前は、ただいま源三郎様よりお言葉のありましたる、峰丹波と申する未熟者……」
「イヤイヤ! その御挨拶では、かえって痛みいる」
 田丸主水正、なかなかどうして芝居気がございます。すっかり主君対馬守になりきって、鷹揚おうようにそっくりかえっている。
 ゆうべおそく。
 やっとのことで作阿弥さくあみ老人の神輿みこしを上げさせ、トンガリ長屋からつれ出して、麻布の上屋敷へ引っ張ってゆくと。
 この道場の源三郎のもとから、安積玄心斎が使者に来ていて、もうひとつ、主水正の命令いいつかった役目というのが。
 あろうことか、藩主対馬守に化けこんで、今朝けさのこの源三郎対丹波の真剣勝負に立ちあうこと。
「余の顔を知らぬのだから、大丈夫だ。大名らしくふるまえばよい。そちなら勤まるであろう」
 と対馬守がおっしゃった。
 そのつもりで、いい気持になって来ている主水正、せいぜい一藩のあるじらしくかまえこんで、
「丹波とやら、マ、マ、立つがよい。今は、正式に眼どおりさし許しておるという場合ではない。余は、単なる判定者の資格でまいっておるのじゃ。余と思わず、一剣士と思うて、目礼だけにとどめておいてもらいたい。そうでないと、余が困る、うむ、余が困る。アッハッハ」
 呵々大笑かかたいしょうしました。相当なものです。
 立会人に、あの丹下左膳でも飛び出してくるのでは?……と、おっかなビックリでいた峰の先生、その左膳の上をゆく柳生対馬守があらわれたのですから、もうなんといってもこの試合を、のがれるすべはありません。
 蒼白に顔色を変えて、
「大先生のお立ちあいとは、身にあまる光栄――」
 と言ったが、よほど身にあまるとみえて、全身ががたがたふるえている。

 猫と鼠……では、鼠は猫の敵でないにきまっている。
 だが、しかし。
 別の場合もあるので――世の中には、窮鼠きゅうそかえって猫を噛むという言葉もある。
 いまがその例のひとつ。
 ちょっくらちょっとあるまいと、源三郎以上に剣腕うでの立つ人を立ちあいに……と、こっちが申し出たのに対して、望みどおりに、剣の上でも兄者人あにじゃひとたる柳生対馬守が、判定者!
 もう、のっぴきならない。
 と思うと同時に、峰丹波、今までふるえおののいていた鼠が、窮鼠きゅうそになった。
 どうせ助からない命!
 ときまっている以上、すこしはパッと十方不知火流の精華せいかを発揮して……やっと武士らしい気持に立ちもどった。
 のみならず。
 うしろには、おのが弟子ともいうべき不知火流の門弟どもが、固唾かたずをのんでひかえているのですから、ここは丹波、いやでも死に花を咲かすよりほかない。
 人間、死ぬ覚悟ができると、別人になる。
 もろもろの物欲我執がしゅうにとらわれていたのが、このごろの夕立のようにスッパリと洗い落とされて、一時に開くのです、心の眼が。
 峰丹波、落ちついてきた。
 で、今。
 丹波はその新しい眼で、この柳生対馬守――家老の田丸主水正が殿様の役を買って出ている偽物にせものとは丹波をはじめ不知火組は、それこそ誰不知矣たれしらぬい――のようすを、じっと見なおしました。
 ところで、にせ物というものは、黙っていれば、それで通る場合が多いのですが、ほん物でないだけに気がとがめるせいか、とかくこの贋物がんぶつにかぎって、いろいろと口が多い。よけいな言葉を吐く。
 それに、田丸主水正は。
 一時でも、この源三郎の兄となったことが、うれしくってうれしくってたまらないんです。
 いつもは。
 田丸の爺イ、田丸の爺イと、呼び捨てにされて、頭ごなしにどやしつけられてきた。箸にも棒にもかからぬ若殿様の伊賀の暴れん坊。
 この一刻いっときだけは、かりにもその源三郎を見おろして、きめつけることができるのですから、イヤ主水正、大人気もなく、ついいい心持ちになっちゃって、
「オイ、源三郎、早くしたくをせぬか」
「はい、兄上、ただいま」
 と源三郎、ちくしょう! 田丸の爺め、あとで思いしらしてやる! と、心中に歯を食いしばりながら、近侍のすすめる白羽二重のたすきを取って、十字にあやなしていますと、
「コレコレ、源三郎――!」
 主水正、また始めた!
「丹波殿がお待ちではないか。このにおよんで気おくれがしたか源三郎! ヤイ、源公!」
 そんなことは言わない。
「気おくれだと? 爺め、今だと思って、ひでえことを言やあがる」
 源三郎が低声につぶやいて、そっとにらみつけると、主水正はケロリとした顔で、
「無礼であろうぞ源三郎! なんという眼つきをして兄上を見るのだ。眼がつぶれるぞ」
 しかたがないから、源三郎、
「申しわけござりませぬ。勝負は時の運、ことによると、これが今生のお見納めかと、思わず、兄上のお顔をあおぎ見ましたので」
「そんな気の弱いことでどうする! ウム? 早く立ちあえ源三郎! ソレ、刀を抜かぬか、源三郎。何をしておる、源三郎!」
 これじゃア源三郎がいくつあっても足らない。

 源三郎! 源三郎……! と、まるで源三郎を売りにきたような田丸主水正のからいばりを。
 したくをととのえながら、じっと横眼で見守っていた峰丹波。
 悪知恵の本尊だけに、人の悪知恵を見破るのも、早い。
 ハハア! これは偽物だなと、心中ひそかに思いました。
 が、そのぶりをおもてにも見せず、
「源三郎殿、しからば……」
 としかつめらしく、軽く頭を下げると同時に、スラリ鞘走さやばしらせた一刀は、釣瓶落つるべおとしの名ある二尺八寸、備前長船おさふね大業物おおわざもの
 秋の陽は、釣瓶落し……。
 というところから、秋日しゅうじつのごとくするどく、はげしく、また釣瓶落しのように疾風迅雷しっぷうじんらいに働くというので、こう呼ばれる丹波自慢の銘刀めいとう
 五尺八寸あまりの大男。肩など張り板のように真っ四角なのが、大きな眼をすごく光らせ、いま言った大刀釣瓶落しを下段に構え、白足袋の裏に庭土を踏んで、ソッとつまだちかげん……。
 堂々たる恰幅かっぷく
 まさに、千両役者の貫禄です。
 丹波、横眼を走らせて、ひそかに、立ちあいの柳生対馬守――ではない、田丸主水正を見やると。
 主水正は、化けの皮がはげかかっているとは、ちっとも知らないから、
「二雄並びたたず。丹波殿と源三郎は、両立せぬ。いずれか一方が、命を落とすまでの真剣の仕合いじゃ。コレ、源三郎、ぬかりなく……」
 なんかと、あくまでも、伊賀の暴れん坊の兄貴ぶっています。
 丹波のものものしい構えに対して、源三郎は心憎いほど落ちついている。口の中で、小唄か何かうなっているようすで、
「いきますかな」
 ひとり言のよう口ずさみ、抜きはなった一刀をピタリ青眼につけたまま、ジリリ、ジリリと、爪先つまさききざみに詰めよって行く。
 もう草露もほしあがるほど、夏の陽は強く照りわたって、ムッとする土いきれが、この庭すみの興奮に輪をかけるのだった。
 枯れ木に花の咲いたような、百日紅さるすべりが一本、すぐ横手に立っている。そのこずえ高く、やにわにせみが鳴きだした。
 ジーンと耳にしみるその声のみが、この瞬間の静寂を破るすべてだ。
 源三郎手付きの伊賀侍も、不知火道場の連中も、わきあがる剣気におされるように、その取り巻く人の輪が、思わずうしろにひろがる。
 誰も彼も、いざといえば抜くつもり。
 みな一刀の柄に手をかけて。
 それと見るより、田丸主水正は、大声に叱咤しったして、
「双方助太刀無用! 手出しをしてはならぬぞ!」
 白扇をしゃに構えて、どなりました。
 これが、峰丹波の待っていた機会!
 柳生流でいうかんぬき青眼せいがん……押せどもけども、たたけども、破りようのない伊賀の暴れん坊の刀法に、手も足も出ない丹波は、もしつぎの瞬間、源三郎が動きを起こせば、まず、その一刀は身に受けずばなるまい。ついに、ここで命を落とすのかと、こう頭にひらめいたのが、窮鼠の彼に意外な活路を与えたに相違ないのです。
「ごめん!」
 とうめきざま! 血迷ったか丹波、突然その釣瓶落しを振りかぶるが早いか、それこそ、秋の日ならぬ秋の霜、秋霜烈日しゅうそうれつじつのいきおいで、大上段に斬りつけたのです。
 源三郎へ?

 峰丹波の烈刀、釣瓶落しは、やにわにうなりを生じて動発した。
 当の相手、伊賀の源三郎へ向かって?
 いな
 かたわらに立っていた、判定役の柳生対馬守……実は田丸主水正を目がけて。
 これが本当の対馬守でしたら、ちっともあわてずに、手にしていた扇子で釣瓶落しの白刃をみごとに横にはらい流した――などという、よく名人妙手にまつわる伝説的逸話が、もうひとつふえたかもしれないが。
 そこは悲しいかな、偽物の柳生対馬守。
 だいたいこの江戸家老というものは、殿様がお国詰めのあいだ、在府の諸家諸大名と交際するのが、その本業。
 いわば外交官。
 いくら武をもって鳴る柳生藩の家老でも、どっちかといえば文官であって、主水正、武人ではない。
 ですから。
 このとき主水、すこしもさわがず――とはまいりません。
 おおいにさわいだ、見苦しいまでに。
「ナ、何をする! これ、気でもふれたか」
 泣くような悲鳴をあげて、横っとびにスッ飛んだ主水正、今まで気どりかえっていた殿様役も、すっかり忘れて、
「は、発狂されたか! ワ、わしは相手ではない。わ、若君、ゲゲ、源三郎様が、貴殿の敵ではないか」
 そのあわてぶりが、よほどおかしかったと見えて、人の悪い源三郎は、刀を引いてゲラゲラ笑いだしてしまった。
 これが唯一の逃げみちと、丹波は一生懸命、
「偽物ッ! からくりは見抜いたぞ!」
 叫びながら、釣瓶落しをまっこうに振りかざして、なおも主水正目ざしてとびこもうとする。
「柳生対馬守に、この丹波のとうが受け止められぬはずはない。失礼ながら打ちこみますぞ、対馬守様!」
 大声に叫びながら、丹波は一心に主水正へ斬ってかかる。
「待った! 待った! とんだ気ばやの御仁ごじんじゃ。わしは、ただ、殿の言いつけでまいっただけで、近ごろもって迷惑至極!」
 周章狼狽をきわめた主水正は、立ち木の幹を小楯にとって、
「コレ、人違いじゃというに、わしは対馬守様ではござらぬ。家老の田丸――」
 丹波はこれで、一時のがれに命を拾おうという気だから、
「田丸もたまらんもあるものか。サア、判定役の手腕から先に、見参いたしたい」
「もし! 源三郎様ッ! 笑ってばかりいずと、この無法者を、お取りおさえください」
 立ち木を中に、二、三度堂々めぐりをして、猫と鼠のように追いつ追われつしていた主水正は、機を見ていっさんに裏木戸から、外の妻恋坂の通りへ抜け出してしまった。そして、ほうほうのていで、麻布林念寺前の上屋敷へ引きあげていったが――。
 峰丹波もガッチリしたもので、釣瓶落しを鞘におさめた彼、悠然たる態度で源三郎の前へ引っかえして来た。
「条件が違うではござらぬか、源三郎殿、拙者よりも貴殿よりも、一段とわざの上の者が判定に立ちあうのでなければ、他流仕合は、いっさいごめんこうむる。これが、当十方不知火流のおきてじゃと、申しいれてあるはず。この始末では、今日の立ちあいはお流れ、お流れ……」
 と丹波は、白扇はくせんをひらいて、自分をあおいだ。

 日光を見ないうちは、結構と言うなかれ……その結構の入口は。
 例の杉並木ですなア。
 すばらしい杉の古木が、亭々ていていと道の両側に並ぶ下を、
「エイ! 下におれイ! 下におろうッ!」
 と、一里もつづく長い行列が、いま浮世絵のように通っているのは、江戸は麻布の上屋敷を発して来たお作事奉行さくじぶぎょう、柳生対馬守様、つづく一行は同じくお畳奉行、別所信濃守様のお供ぞろい。
 干瓢かんぴょうと釣り天井で有名な宇都宮の町もうち過ぎ、あれからかけて、徳次郎、中徳次郎、大沢、今市……。
 そして、お行列は、今やこの日光例幣使れいへいし街道の杉の並木に、かかっています。
 たいそう古いことを言うようですが、あの杉並木は、慶安元年に駿河するが久能山くのうざんに葬った権現様を、御遺言で日光山に改葬し、東照宮を御造営の折り、譜代外様を問わず、諸侯きそっていろいろな寄進をなされた。
 なにしろ、徳川家のおひげちりをはらうのが、当時の大名の何よりの保身術だったから、われもわれもと知恵をしぼって、すばらしい寄進のあったなかに。
 このとき。
 造営総奉行の一人に、松下右衛門太夫まつしたうえもんだゆう源政綱みなもとのまさつなという、これは、武州ぶしゅう川越の城主でしたが。
「オイ、困ったな。みんながみごとな寄進をするのに、何も献納せんということはできないが……」
「と申して、どうも当藩は、お台所のつごうがよくございません。そうですナ、何か植えものでもなされては――」
「ウム、それはいいところへ気がついた。木は生き物だから、のちになってみごとな風物を作りださんともかぎらぬ」
 というようなことで、貧乏の苦しまぎれに、見すぼらしい杉苗を、あの街道筋と山内さんない一帯に植えて、献納したのだった。
 川越の殿様なら、おいもでも植えそうなものだが……。
 寛永元年から慶安元年まで二十余年の苦心で植えたのです。
 その延長は、東照宮付近から今市に出て、三方に別れ、鹿沼かぬま街道は三里十五町、文挟ふばさみの先まで――宇都宮街道、会津街道は、おのおの二里十六町、まさに天下の偉観です。
 当時はヒョロヒョロの貧弱な苗でいかにも献納者の懐具合を語っているようだった杉の若木が、今では日本の輪奐美りんかんびに、うるわしい調和を見せて、寄進元の頭の良さを示している。
「ずいぶん苦しい思いをして、この杉を植えたのであろう」
 今、杉の下を通りながら、お駕籠のなかの対馬守様、同病あいあわれむで、そんなことを考えている。
「昔から日光のためには、貧乏な大名が、みな泣かされてきたのだ――」
 大金の所在をのむこけ猿の茶壺は、いまだに行方がわからない。
 困っている柳生藩を見かねて、愚楽と越前守の取りなしで、あのにせの茶壺を庭の松の木に引っかけ一夜のうちに上屋敷の隅へ、この日光に必要なだけの入費を埋ずめておいて柳生を助けた。
 いわば、吉宗公のポケットマネーで、やっとこうして造営に出てこられたのですから、対馬守さま、内心おもしろくないことおびただしい。
 それにつけても、こけ猿はいまどこにある?
 思うのは、このことばかりです。
 殿様の身がわりに真剣勝負に立ちあったばっかりに、すんでのことで峰丹波の一刀を浴びるところだった田丸主水正、今は騎馬で、この行列に加わっています。

 爪先つまさきあがりの鉢石町はちいしまちを、お行列は静かに登ってゆく。
 淙々そうそうと、瀬の音が耳に入ってくるのは、激流岩にくだけて飛沫ひまつを上げる大谷おおや川が、ほど近い。
 神橋しんきょうはここにかかっているのです。日光八景中第一の美と称せらるる山菅夕照やますげせきしょう
 有名な蛇橋じゃばしの伝説に昔をしのびながら、大谷川のささやきをあとにして、老杉ろうさん昼なお暗い長坂ながさかをのぼりますと、神輿旅所みこしたびしょとして知られる山王社さんのうしゃがある。
 柳生対馬守、別所信濃守の造営奉行仮役所かりやくしょは、前もってこの山王のそばにしつらえてある。
 このときのお作事さくじの模様を書いたものを見ますと、御番所史録ごばんしょしろくに、
一、柳生対馬、別所信濃両奉行登晃とこう御宮おみや御修覆につき、御山内ごさんない御普請小屋ごふしんごやを設け、ただちに火消しに関するお触れ書を出す。
一、翌日より大工頭、下奉行等社家しゃけ一同の先達せんだつにて、御本社ごほんしゃ、拝殿、玉垣を始め、仮殿かりでん御旅所おたびしょにいたるまで残らず見分。
 こうなっております。
 建築事務所ともいうべき、仮りの造営奉行所へお帰りになった対馬守は、
「よいか。人夫は、おのおのその村なり町なりにおいて、宗門を改めてから出させねばならぬぞ」
 あの朝、峰丹波の一刀からのがれて、三十六計を用いた田丸主水正、早々林念寺の上屋敷へたち帰って申したことには、
「何やら、先方から苦情が出ましてナ、今朝の立ちあいは中止になりましたて。丹波めと源三郎様と、まだいろいろと論議しておられましたが、私は、そのままにして帰ってまいりました。あの分では、妻恋坂の道場では、まだ当分にらみ合いがつづくことでございましょう」
 などと、いいかげんな報告をして、殿の御前をとりつくろってしまった。
 そして、その翌々日。
 主君対馬守のお供をして、この日光の現場げんじょうへ向け、江戸を発足したのでした。
 へんてこな腰元として、対馬守様のお側近く使われている櫛巻のお藤姐御。さては、こけ猿の壺の真偽しんぎ鑑定役に、はるばる伊賀いがの柳生の庄から引っぱり出されてきた奇跡的老齢者、あのお茶師の一風宗匠、この二人をはじめ。
 それから。
 高大之進こうだいのしんを隊長に、こけ猿探索を使命とする尚兵館しょうへいかんの連中、これらは、まだ、まだ江戸の上屋敷に残されていて、一緒に日光に来ているのではありません。
 そこで。
 何しろ主君のすぐ下にあって、慣れない普請の指揮をするのですから、田丸主水、からだがいくつあってもたまらないほどの忙しさ。
「ええと、人夫は、二十五歳から五十歳まででしたナ。永銭えいせんで昼夜の手当、および昼飯料ひるめしりょうをくだされる……確かそうでございましたな?」
「知らん。其方そちよきにはからえ」
「それでは困ります。すべてこの御公儀のお仕事には、在来の慣例というものがござりまするで――さよう、日光山から四十里のうち、女子十三歳から二十歳までの者は、木綿糸一か月に一人につき一反分を上納させ、その村々の役人これを扱い、その糸を二十三歳から四十歳までの婦女子に与えて、これを一か月間に白布はくふ一反ずつ長尺ちょうじゃくに織りあげさせ、ぬのの端にその村の地名を書き、それぞれ役人があずかりおいて、命令によってただちに駅送えきそうする。こうでございましたな? 実にどうもややこしいかぎりで……ところで、お関所のお手配は?」

 今この主水正の言った、お関所というのは。
 日光御作事中ごさくじちゅう、仮りにこしらえるもので。
 このときは、並木本村なみきもとむら下幸村しもゆきむら鹿沼新田かぬましんでんの三か所に、御造営中あらたに関所を設け、お先手衆さきてしゅうひと組ずつとし番で勤めたものです。
 この制度は、箱根、笛吹ふえふき両関所に準じ、出入りとも手形割符を照らしあわせて、往来ゆききを改める。
 なかんずく。
 五貫目以上の荷物は、たとえ官のものとはいえども、その品を改めるのが例定になっておりました。
 山王わきの普請奉行所には、正副両造営奉行を取りまいて、昼夜を分かたず、評定やら、打ちあわせやらに、眼のまわるようないそがしさ。
 書物役かきものやくが筆を耳にはさんで、広間をウロウロしながら、主水正の姿を探す。
「こうお山開きに手間どっては、お事始めは棟梁とうりょうだけ登山させて、式をあげるんでございましょうか」
 他の一人が、誰にともなく大声に、
「もう組分けは、すみましたかな? すんだら一ぺん勢ぞろいをして、顔を見おぼえておかんことにはつごうが悪いテ」
「御家老殿も、先刻そのようなことをおっしゃっておられた。いちおう田丸どのにたずねらるるがよい」
「田丸様はただいまどちらに?」
「サア、殿の御前じゃろう」
 と、言いすてて、一人はいそがしそうに行ってしまう。
 この、組分けと申しますのは……。
 いろはの仮名文字で組を分けて大工二十五人に棟梁二人、諸職しょしょく五十人、雑役三十人、合わせて百七人を一組と定めて、これを印をつける。
 塗師ぬしかざり職人、磨師みがきし石工いしくなども二十五人一組の定めであった。むろん一同は山へ上がったが最後、かしらだったものは町小屋、諸職人は下小屋したこやに寝とまりして、竣工しゅんこうまで下山を許さないのです。
 もし工事中に、これらの者の家郷かきょうに不幸があった場合には、さっそく本人を小屋から出したのち、金剛こんごう普賢ふげん両院の山伏をまねいて、そのあとを払いきよめることになっていた。
 そのほか、この日光御造営については、あらゆる場合に応じて、実にこまかいお定め書があったもので。
 やがて、この造営奉行所の表の間に、一枚の大きな掲示がはりだされた。所内を右往左往する人がドッと一時にそっちへかたまって行って、ワイワイ言ってあおぎ見ていますから、何かと思って読んでみますと……。
 今回の大修覆担当の諸職の貼り出し、
大工頭だいくがしら    甲良宗俊こうらむねとし
大棟梁だいとうりょう    辻内大隅つじうちおおすみ
屋根方やねがた    大柳築前おおやぎちくぜん
彫物棟梁ほりものとうりょう   作阿弥さくあみ
画方えがた     狩野洞琢かのうどうたく
塗師ぬし     推朱すいしゅ平十郎
錺方かざりがた     鉢阿弥山城はちあみやましろ
鋳物師いものし    椎名兵庫しいなひょうご
 このとおり、当時の名人巨匠を網羅した中に、ちゃんとわがトンガリ長屋の作爺さくじいさんが加わっているのだ。
 このほかに。
 本社ほんしゃは大工が誰で、蒔絵まきえ円斎えんさい、拝殿、玉垣たまがき唐門からもん護摩堂ごまどう神楽殿かぐらでん神輿舎みこしや、廻廊、輪蔵りんぞう水屋みずやうまや御共所おともじょ……等、それぞれ持ち場持ち場にしたがって、人と仕事がこまかにわかれている。
 ちょうどこのとき。
 この造営奉行所の奥深く、人を遠ざけてたった三人、五とくあしのようにすわっている影があった。

 人柱ひとばしらということがあります。
 今この言葉は、単に、犠牲とか身を埋め草にするとかいう抽象的な意味に使われていますが。
 むかしは実際にあったのです。この人柱ということが。
 もっとも、確かな史実が残っているわけではないが、各地方のいろいろな伝説や口碑こうひで、事実、人ばしらのことがおこなわれたと信ずべき節があるのです。
 大建築や大土木工事の場合に、あるいは土台をかためるために、あるいは、迷信から来て神の意を安んじようという心から、生きた人間を柱の根へ打ちこんだり、橋杭はしくいをだかせたまま河へ沈めたりする……これを人柱という。
 なかでも、有名なのは――。
雉子きじもなかずば射たれまい」の長柄川ながらがわの故事で、これは誰でも知っていますが。
 弘仁こうにんのころとか、長柄川に橋をかけようという大工事です。何千という人夫、大工を使い、幾万の費用をつぎこんでも、濁流とうとうと渦まいて、水の力はおさえるべくもありません。さかまく水勢をながめて、拱手きょうしゅ傍観のありさま。
 橋はいつできるかわからない。
 赤手空拳せきしゅくうけんの人間力と、自然とのたたかい――あふれんばかりの大河をはさんで、木材や石をかついだ烏帽子えぼし水干すいかんの人たちが、ありのように右往左往する場面を想像してください。
 すると……。
 誰いうとなく、水神すいしんに人柱をささげねば、橋はとうていかかりっこないという噂が、両岸の群集のあいだにとんだのです。
 そこで。
 この人柱になるべき者をとらえるために、関所を設けて、長柄ながらの役人が詰めているところへ、たまたま通りかかったのが垂水村たるみむら岩氏いわうじという人。
「なんの騒ぎです」
 と人々にきいた岩氏は、よせばいいのに、
「ははア、それはなんでもないことじゃ。はかまぎのある者を見つけだして、それを人柱にすればよい。なんと名案であろうがな」
 と言った。
 いいだしたものが当たるというのは、よくあることで、袴のつぎとはおもしろい思いつきだというので、一同がめいめいの袴をあらためてみると。
 なんと! 岩氏自身の袴に横継ぎがあった。で、否応いやおうなしにつかまえられて、岩氏はこの長柄川の人柱にされてしまったのです。
 この岩氏の娘に、非常な美人があった。父のとむらいに大願寺を建て、一生孤独で終わろうとしたのだったが、その並みならぬ容色にこがれて言いよる若者のうちで、ひときわ熱烈なひとりの情にほだされて、河内かわち禁野きんやの里にしたのです。
 しかし、父の最期にこりて、口はわざわいのもととばかり、かたく口をとざしておしでおしとおしたので、いくら惚れた男でも、これでは人形といるようでおもしろくない。
 結婚解消……となって、女は垂水たるみの実家へ送り帰される途中――。
 交野かたのつじという野原があります。そこへさしかかると、鳴いて飛びたった一羽の雉子きじが、あわれにもかりうどの矢に射おとされるのを見て、娘は父の悲しい思い出を連想し、駕籠かごの中から、
「物言はじ父は長柄の人柱、なかずば雉子も射たれざらまし」
 有名なおはなしでございます。
 さて、今この日光造営奉行所の奥の一間には――。

物言ものいはじ父は長柄の人柱――」
 この歌をよんで泣いた女の心をはじめて知った良人おっとは、そうであったか、あの父の死を悲しんで唖を通していたので、自分に情のないわけではなかったのかと、もとのさやにおさめて、あと仲よく暮らし、その交野の辻には雉子づかを作り、三本の杉を植えて長く記念にしたという。
 そのほか、人柱の伝説は、諸国にたくさんつたわっております。
 そこで、今。
 山王さんのうわきの日光修営奉行所の奥の奥、壁の厚い一間に、三人の人影が黙然もくねんと腕をこまぬいている。
 壁の厚いのは、密談のもれ聞こえるのを防ぐためで、工事の進行程度、経費の件その他に、この日光造営にはいろいろと秘密が多かったところから、奉行所には、かならずこうした密室が一つ二つ造られたもので。
「それでは――」
 と言いかけて、ものおじしたように他の二人の顔をかたみに見くらべたのは、お畳奉行別所信濃守。
 蒼白そうはくの額に、深い縦じわをきざんで、暗く沈んだ声なのは、よほどの重大事を議しているらしい。
 かすかに眼を上げて、別所信濃の言葉の先を待っている二人とはいうまでもなく、柳生対馬守と、家老田丸主水正。
 何やらものものしい空気が、その、しめきってムッとする室内に、こもっています。
護摩堂ごまどうの壁へ――という話であったが――?」
「は」
 主水正と対馬守は、チラと眼をかわしたが、すぐ対馬守が、ひとりごとのようにつぶやきつづけて、
「かの有名なる寛永の御造営は、永久の策としてもろもろの計画があったのじゃったが、完成のあかつき、その結果はすべて裏ぎられて、そののちたびたび修繕を加えねばならぬこととなったのじゃ」
 と対馬は、こんどこの、日光をお引き受けするについて、家臣をとくして調べさせた日光修覆に関する文献をボツボツと思い出しながら、
「御公儀が、この二十年目ごとの日光お直しを思いつかれたのは、それからじゃそうな」
「ハッ、まさにそのとおりで」
 あとを受けついだ主水正は、指を折って数えて、
正保しょうほう二年、承応三年、寛文四年九月、延宝七年……と、ちょっと数えましても、実におびただしい御修覆の数々。ところで、そのいずれの場合にも、まずいちばん先に損じてお手入れの必要を生ずるのが、いつもきまってあの護摩堂の北側の壁――」
「こんどもそうだということです。で、日光役人はたえずその護摩堂の北側の壁に気をつけておって、そこが破損しかけてくると、いよいよ他の部分も大々的につくろいをほどこさねばならぬ時期が来たことを知り、ただちに江戸表へ具申して、そこで、あの、城中大広間の金魚くじとなり、そのときの造営奉行をとりきめるという、こういう手順だそうで」
「実に面妖な話じゃ」
 対馬守の眼が、キラリと光った。
 三人をつなぐ、三角形の中点に置かれた燭台ひとつ、そのうつろいをうけて、三つの顔は、赤鬼青鬼の寄りあいのよう……。
「なにかあの護摩堂の北側の壁に、たたりでもあるのでは……」
「サ、そこで、こんどあの壁へ人柱を塗りこんでは――という、この相談も持ちあがりましたようなわけ――」

 何を思ったか対馬守は、大声に笑い出して、
「こんどのこの造営に際して、その問題の護摩堂の北側の壁へ、生きた人間を人柱に塗りこめねばならぬ……と言い出したのは、いったい誰じゃ?」
 別所信濃も主水正も、答えません。
 シンと無気味な静寂が、この狭い密室に落ちる。
「昔から人柱は、言い出した者へ当たると申すことだぞ。主水、お前ではないか、さようなことを言いはじめたのは」
 ギョッとした主水正、このあいだ妻恋坂の司馬道場で、峰丹波に斬りつけられたときよりも、もっとあわてて、
「ト、とんでもない! 私がなんでそのようなことを!」
 と、両手を眼の前に立てて、しきりに手を振る。
 じっとみつめていた対馬守、意地の悪そうな微苦笑とともに、
「ソラソラ! その手が、壁を塗る手つきにそっくりじゃ。どうも主水、この人柱は其方そちへ落ちそうじゃぞ」
 主水はさおになって、
「ジョ、冗談じゃありません」
 と、ピタリと両手を膝へおろしてしまった。
 これには、別所信濃守も微笑しながら、
「しかし、言い出したものが人柱に当たるということは、昔からよく例のあることで」
「さればさ」
 対馬守は重々しく、
出雲国いずものくに松江まつえの大橋をかけるとき、人柱を立てることになったが、誰もみずからすすんで犠牲にえになろうという者はない。そのとき、源助なる者が、着物に継ぎのある者を探して人柱にするがよいと言い出したところが、調べてみると、その源助の背中に横つぎが当たっていたので、いい出した源助が人柱に立てられ、これで、さしもの難工事も落成し、源助は死後長く橋桁はしげたを守っていまだに源助柱という名が残っておると申す。どうじゃナ主水正、貴様も、もう年に不足はあるまい。今になってたれかれと人柱を探すより、貴様、その護摩堂の壁へはいって、主水壁……イヤどうも、これでは語呂ごろが悪い。田丸壁、ははははは、ひとついさぎよく人柱に立たんか」
「殿、御冗談が過ぎまする」
 滅相もないという顔で、主水正が平伏するのを、別所信濃守は静かに見やって、
「イヤ、柳生殿、護摩堂の人柱は、婦人おなごと子供――それも、母子おやこづれがもっともよいということで」
 助かったように主水正は、顔を上げました。
「ソレごろうじろ。かかる老骨では、絢爛けんらんをきわめるかの護摩堂の人柱には、役だち申さぬ、アア助かった」
「さようか。女と子供、しかも、母子二人でなければならぬとナ、ハアテ……」
 この護摩堂の天井は唐木からき合天井ごうてんじょうになっておりまして、そこに親獅子おやじし仔獅子こじしの絵がかいてあった――今はないけれども――その母獅子のほうは、狩野秀信かのうひでのぶの作。
 仔獅子のほうは、秀信の子狩野助信かのうすけのぶの筆だと伝えられていた。
 そのせいでしょうか、この護摩堂の壁に母子の人間を塗りこめなければ、こんどの大造営は成功しない……たれ言い出したともなく、今こういう話が持ち上がっているのです。
「それでは、通りがかりの旅人をひっとらえて、人柱に塗りこめるよりほかみちがあるまい。主水! そちに一任いたす。鹿沼新田かぬましんでんの関所に出張でばって、しかるべき母と子の旅の者を物色いたせ。極秘にナ――ぬかるまいぞ!」

「オウ、そこに立ってるのはお美夜みやちゃんじゃアねえか」
 こう声をかけたのは、片肌ぬぎに柄杓ひしゃくをさげた石屋の金さんだ。
 このトンガリ長屋の入口に住んでいる人で。
 今、この夕方、路地のまえにり水と洒落しゃれていたところ……。
「おめえ、うすっくれえところにボンヤリ立ってるから、ちっとも気がつかなかった。オオオオ、足へ水をかけてしまったが、まっぴらごめんなヨ」
 石金さんはそう言いながら、片手にさげた柄杓のしずくを切って、お美夜ちゃんのそばへ寄っていった。
 あわい夢のような、紫のたそがれのなかに、白い大輪の夕顔とも見えるお美夜ちゃんの顔が、ボンヤリ浮かんでいます。
 暑かった江戸えどの一日も終わって、この貧しいとんがり長屋にも、自然はすこしの偏頗へんぱもなく、日暮れともなれば、涼しい夕風を吹き送るのでした。
 何はなくとも、路地口のへちまの棚、近くの竜泉寺のしいこずえに、雨とひびくひぐらしの声。
 仲店には、今宵こよいも涼みの人がにぎわい、町内のかどかどには縁台が出て、将棋、雑談、蚊やり――なつかしい江戸生活の一ページ。
 水をまいていた石金は、今のひと柄杓ひしゃくが、したたかお美夜ちゃんの裾にかかったのにおどろいて、あやまり顔にそばへ寄り、肩へ手を置きながら、
「悪いおやじメだ。かあいいお美夜ちゃんに水をかけて、ヤア、こんなにぬらしてしまったナ。なア、かんにんしておくれよ……オヤ! おめえ泣いてるじゃあねえか」
 顔をさしのぞくと、なるほどお美夜ちゃんは、パッチリした眼にいっぱいの涙です。
「水をかけたぐれえで、泣くもんじゃアねえ。と言っても、女の子のことだ。おべべをよごしたのが悲しいのだろう。ほんとにおいらが悪かった。サア、きげんをなおしてうちへけえんな」
 無骨な石金が、一生懸命になだめるが、お美夜ちゃんは返事もしません。
 大粒の涙がかあいい頬を、ホロホロつたわり落ちるのにまかせて、小さな石像のようにつくねんと立ったまま。
 ツクネンと立つたまま、じっとみつめています。血綿ちわたのような夕陽雲ゆうひぐものただよう西の空を。
 石金の言葉など耳にもはいらないお美夜ちゃん。足にしたたか水がかかったのも、てんで気がつかないらしい。
 なんといっても黙っていたのが、しばらくして、たったひとこと。
「おじちゃん、お爺ちゃんは、あの雲の下にいるの?」
 とききました。
 石金はびっくりして、
「え? 作爺さくじいさんかえ、オオオオ、かわいそうにナア。お美夜ちゃんはそうやって、作爺さんのあとばかりしたっているのだなア」
「ねえ、おじちゃん、あの赤い雲の下が、日光というところなの?」
「ウウン、日光はナ、もっとずっと北のほうだよ」
 と石金は手をあげて、暗く沈みかけている北の空を指さしながらひとり言。
「なるほどなア、産みの親より育ての親というくれえのもんだ。おふくろだというあのお蓮さんが急にけえってきて、木に竹ついだようにチヤホヤしてみたところで、お前はやっぱり、生まれ落ちるとから面倒を見てくれたあの作爺さんのことが、忘れられねえのだろう。無理もねえ、無理もねえ……」

 フと、うしろにすすり泣きの声がする……ので、石金、ぎょっとして振り返ってみると!
 チョビ安です。いつのまにここへ来たのか、真岡もうかのゆかたの腕まくりをして、豆しぼりの手拭をギュッとわしづかみにした小さなチョビ安が、お美夜ちゃんと石金のすぐうしろの、用水桶のかげに立って、
「えエイちくしょう、泣かしゃアがる」
 その豆絞りで、グイと鼻の先をこすりながら、チョビ安、二人の前へ現われてきた。
「こう、石金のとっつあん、まあ、聞いてくんねえ。おめえも知っての通り、あの作爺さんが柳生対馬の家老に連れられていってから、お美夜ちゃんはおめえ、食も咽喉のどへ通らねえ始末で、夜も昼も、こうして泣いてばかりいるんだよ。それを見ると、おいらも――おいらも、泣けてくらあ」
「ア、安さん、お前さんそこにいたの? いま石金のおじさんに聞いたんだけど、日光というのは、あの、ホラ、むこうの伊勢甚いせじんの質屋の蔵の上に、火の見やぐらが見えるだろう? あのやぐらの右のほうに、お魚の形をした小さな雲が流れているわね。あの下が日光なんだとサ。お爺ちゃんは、あそこにいるんだねエ。あたい、あの雲になりたい」
「アレだ」
 とチョビ安は、ホトホト弱ったという顔で、石金を振りかえり、
「おウとっつあん、子供につまらねえことを言わねえでもらいてえ。おいらがなんとかして、忘れさせようとしているのに、爺つあんがそんなよけいなことを言っちゃア、お美夜ちゃんはますますセンチになるばかりじゃアねえか」
 きめつけられた石金は、
「まあサ、おめえが来たから、おいらも安心したよ。ひとつ水いらずで、とっくりと納得させるがいいワサ」
 言いすてて、家へはいる石金へ、
「何いってやんでエ」
 と舌を出したチョビ安、
「サ、お美夜ちゃん、こんなところに立ってると、蚊に食われるよ。そんなに泣いてばかりいた日にゃア、黒瞳くろめが流れてしまうぜ、ホラ、おいらを見ねえ……東西東西! 物真似名人、トンガリ長屋のチョビ安太夫だゆう、ハッ! これは、横町の黒猫くろが、魚辰うおたつの盤台をねらって、抜き足差し足、忍び寄るところでござアい!」
 ピョンとひとつとんぼ返りを打ったチョビ安、大道に四つんばいになって、泥棒猫のかっこうよろしく、おかしなようすでしきりにお美夜ちゃんの足もとをはいまわる。
 お美夜ちゃんの悲しみをなぐさめようとの一心。
 なんとかしてニッコリ笑わせようと、チョビ安一生懸命だ。
「サテ、おつぎはと――こけが刺子さしこをさかさまに着て、火事へかけだすところ!」
 自分で口上を言いながらの一人芝居だから、イヤそのいそがしいことといったら。
 ゆかたの裾をスッポリ頭からかぶって、あわてふためいたしぐさでお美夜ちゃんのまわりを走りまわったが、
「オヤ! これでもまだ笑わねえナ。よし、それでは……と、アそうだ、こんどは、按摩あんまが犬にほえられて立ち往生の光景! ハッ!」
 ポンと手をたたいたチョビ安、案山子かかしのような形にお美夜ちゃんの前につっ立ちながら、そっとうす眼をあけてうかがうと、お美夜ちゃんはそれを見もせずに、涙にぬれた眼をいぜんとして、北の空へ上げている。
「こんなに骨を折っても、どうしても笑わねえのかなア……ああくたびれちゃった」
 チョビ安はべそをかかんばかり、ペチャンと往来にすわってしまった。

「だって、あたいがお父ちゃんのように思ってきた、あのお爺さんがすきなのは、当たりまえじゃないの」
 とお美夜ちゃんは、やっと涙を拭いて、
「安さんだって、父ちゃんやお母ちゃんに会いたいって、いつもあの唄を歌うじゃないか」
 そう言われると、今度はチョビ安がしょげる番。
 だが、彼は、仔細らしく小首をひねって、
「そんなこと言ったって、おめえには、あのお蓮さんていう立派なおっ母が出てきたじゃアねえか。おいらはあいつ大きらいだけど――それに引きかえて、このチョビ安は、あわれなもんだ。いまだにちゃんにもおふくろにもめぐり会えねえのだからなあ」
 ションボリうなだれると、お美夜ちゃんはあわててなぐさめにかかって、
「どうしたんでしょうねえ。まさかお奉行様が、嘘をつくとは思われないけれど」
「お奉行さまがどうしたって?」
「いえね、いつか泰軒小父ちゃんに言いつかって、桜田御門外の大岡様のお屋敷へ、お壺を届けに行ったとき、何か御褒美ごほうびをやろうとおっしゃってくだすったから、あたいはなんにもいらないから、そのかわりに、こうこういうチョビ安兄さんという人の、父ちゃんや母ちゃんが知れるように、お奉行様のお力でお調べくださいって、あたいね、よくよくお頼みしてきたのよ。それがいまだに、なんのお知らせもないんですもの」
「フウム、そんなに思ってくれるとは、ありがてえ。かたじけねえ」
 多感のチョビ安、鼻をすすりあげながら、
「大岡か」
 と言ったが、これは、私淑ししゅくする泰軒先生の口まねです。
「奉行だけじゃアねえや。お美夜ちゃんも知ってのとおり、こないだ作爺さんが長屋を出るとき、あの田丸とかいう柳生の家老に、くれぐれも頼んでいったのも、その、おいらの親を探す一件だ。同じ伊賀の柳生というからにゃア、何かあたりがありそうなものだのに、今もってなんの便りもねえところを見ると、あの田丸のちくしょう、作爺さんやおいらをペテンにかけやァがったんだ。このチョビ安は、世間のやつらにみんな見すてられてしまったんだよ。なアお美夜ちゃん」
「アラ、そんなことないわ。でも、あんただったら、お爺ちゃんのことばっかり考えてるあたしの心が、わかってくれない?」
「ウム、わかるとも、わかるとも!」
「ネ、だからさ、あたし、あのお蓮さんという人に頼んで、お爺ちゃんのあとを追っかけて日光へ連れて行ってもらおうかと思うの」
 いくら産みの母親とはわかっていても、今になって、中途から飛び込んできたお蓮様を、お美夜ちゃんはどうしても母とは思えずに、
「お蓮さんという人」
 と、こう変な呼び方をしている。
「え? おめえが日光へ行くって? あの、お蓮の野郎と?」
「ほほほ、野郎はおかしいわ。ええ、あたし、いっそそうしようかと思うのよ」
「おい、お美夜ちゃん! おめえはいってえあのお蓮を、どう思っているんだい? 好きなのかい?」
 お美夜ちゃんは言下ごんかに、
「大きらいだわ。とてもお母ちゃんなんて思えないの」
「そんなら、いっしょに日光へ行くなんてよしねエ」
「だってサ、あたい、お爺ちゃんに会いたいんですもの」
 いつまでたっても同じ問答。

 いつまでたっても同じ問答だから、チョビ安はお美夜ちゃんを、グイグイ引ったてて家へ帰って来ました。
 長屋には、もうすっかり灯がはいって、主人のいない作爺さんの家には、狭い水口でお蓮様が、かたことささやかな夕餉ゆうげのしたくを急いでいる。
 人間って、気持の持ちようや環境ひとつで、こうも変わるものでしょうか。
 昨日きのうまでは、剣術大名司馬道場の御後室様として、出るにも入るにも多勢の腰元にとりまかれ、妻楊枝つまようじより重いものは持ったことのないお蓮様。
 源三郎への恋をあきらめ、丹波とともに仕組んだ道場乗っ取りの陰謀にも、ふいと思いを断った彼女。
 眼が覚めたように思い出したのが、何年となくこの長屋に置きざりにして、暑さ寒さの便りひとつしたことのない父なる作阿弥と、その手もとにあずけっぱなしの、わが子お美夜のうえであった。
 世をすて、何もかも振り切って、とびこむようにここへかけつけて来てみると、入れちがいに父の作呵弥は、日光御用に召し出されてしまう。
 しかも。
 わが子に違いないお美夜ちゃんは、いつまでたってもなじんではくれず、チョビ安という腕白小僧といっしょになって、白い眼を見せるばかり。
「あんたが悪いのじゃから、辛抱して母のいつくしみを見せにゃならぬ。いわば、自業自得というものじゃでナ」
 と、この、人情の機微をうがちつくした泰軒居士の言葉が、この際お蓮様にとっては、わずかのたよりになるのでした。
 それにつけても。
 なんという変わりようでございましょう。
 まるで別人。
 ここらの長屋のおかみさんといってもいいような、つっかぶりようで、引っつめの髪は横ちょに曲がり、真岡木綿もうかもめんのゆかたの襟に、世話ぶりに手拭をかけて、お尻のところにずっこけそうに、帯を結んだ姿。これを道場の連中に見せたら、なんというでしょう。
 貝細工のようだった指も、今は水仕事にあらくれて、
「サアサア、どうぞ。ええええ、先生は奥に――」
 と、ちょっと家内なかを振りかえり、
「奥と言ってもひとまたぎなんですが、おや、また先生は大の字に引っくりかえっておいでですよ。アノ、泰軒先生、屋根屋の銅義どうよしさんという人がお見えですよ」
 と取りつがれた銅義は、
「ぴらごめんねえ。あっしゃア、先生様にさばいてもらって、かかあのちくしょうを追ん出そうと思いやしてね」
 ズカズカあがりこんで、泰軒居士の前にピタリと膝を並べた。
 例によって、巷の身の上相談なので。
 このトンガリ長屋は、泰軒先生の徳風にすっかり感化されて、今ではトンガリ長屋とは名のみ、ニコニコ長屋になってしまって、江戸名物がひとつ減ったわけだが。
 このごろでは、先生の高名を聞き伝えて、こうして遠くから、人事相談を持ちこんでくるんです。
「おめえが泰軒てエ親爺おやじかい。おはつに……わっしゃア深川の古石場に巣をくってる銅義ってえ半チク野郎だがネ。ひとつおめえさんに聞いてもらいてエのは、わっしゃあ性分で、さばア見るのがきれえだってのに、かかあの奴やたらむしょうにあの鯖てエ魚がすきでごぜえやしてね。きょうも鯖、あしたも鯖、どうも家風に合わねえから――」
「なあんだ、大変な人がとびこんできたな」
 泰軒が苦笑して、ムックリ起きあがったとき……。
「泰軒小父ちゃん、おいらも相談を持って来た」
 と、門口からチョビ安の声。

 女房の不平をまくしたてようとする銅義を、かたえに押しやったチョビ安は、お美夜ちゃんの手を取って、二人並んで泰軒先生のまえにすわった。
「おじちゃん! 聞いてくんねえ」
 泰軒居士は、口をひらく前に、例によってその関羽かんうひげをしごく。
「なんじゃ、安。いま来客中じゃ。あとで言いなさい」
「なんでエ! 相談のお客さんなら、おいらだってお客さんじゃアねえか」
 とチョビ安は、小さな膝をすすめて、
「このお美夜ちゃんが、わからねえことを言ってきかねえから、ひとつ小父ちゃんから、納得のいくように説き聞かせてもらおうと思って……」
「オヤ! チョビ安、もうお美夜ちゃんと夫婦げんかとは、すこし早いぞ、ははははは」
 銅義はすっかりお株をとられた形で、キョトンとして聞いている。
「お美夜ちゃんはお蓮さんといっしょに、日光へ行きてえというんだよ、作爺ちゃんのあとを追っかけて」
 とチョビ安が言った。
 それを聞くと、台所にいたお蓮さま、何を思ったか濡れ手をふきふき、ころがるようにそれへ走り出て、
「お美夜、おまえそれはほんとうかい? おお、よく言っておくれだ。わたしも、お祖父じいちゃんとあんなあわただしい別れ方をして、気になってならないんだよ。ねえ、泰軒先生、後生ですから此児これと二人で、日光へ行くことをお許しくださいまし」
 意外な助け船に、お美夜ちゃんはたちまち眼をかがやかして、
「母ちゃんも、お爺ちゃんに会いたいの? じゃ、いっしょに行きましょうよねえ」
 お蓮様の眼から、みるみる大粒な涙がわいて、いきなり彼女は、しっかとお美夜ちゃんの手をとった。
「おう、ありがとうよ、ありがとうよ。はじめて母ちゃんと言っておくれだねえ。わたしはそれを聞いて、もうもう……いつ死んでもよい」
 ほうり落ちる涙が、だき寄せたお美夜ちゃんの顔へ。
 お美夜ちゃんは気味わるそうにびっくりしたようすだったが、
「ええ、あたい、だんだん母ちゃんのように思ってきたわ。だからいっしょに泰軒小父ちゃんにお願いして、ねえ、早く日光へ――」
 チョビ安はポカンと口をあけたまま、あっけにとられて、このありさまを見守っています。
「それじゃア、わっちは出なおしてきやすから、ヘイ」
 引っこみのつかなくなった銅義、こそこそかまちへにじり寄ると、そこでチョビ安とお辞儀をして、出て行ったが、誰ひとりそれに気のつくものもない。
 じっと眼をつぶって、考えこんでいる泰軒先生、
安大人やすたいじん
 と静かに声をかけて、
「これをとめることはできまい」
「エ? するとなんですかい、お美夜ちゃんとお蓮さんを、日光へ出してやろうとおっしゃるんで?」
「父同様に育ててくれた祖父そふに、一眼会いたいというお美夜坊のまごころ――また、不孝をしつづけてきた老父に、最後の詫びを願いたいというお蓮どのの赤誠せきせい。このふたつがいっしょになったのでは、どう考えても、それをとめる力は人間にはないぞ、チョビ安」
「なに言ってやんでエ、泰軒坊主メ! なら、おいらもいっしょにゆかア」
 とチョビ安は、ぐいと眼をこすった。

「そううまくかもが引っかかればよいがのう」
 六尺棒をトンと土について、こう言ったのは、この関所をあずかる柳生の役人の一人、津田玄蕃げんばというお徒士かち
「そうさの。こうして日光御造営が始まって、周囲四十里、お山どめになってからは、人別のきびしいことは天下周知のことだから、なにも今頃ノコノコ母娘おやこ連れで、この騒がしい日光へ出かけてくるものずきも、ないであろうテ」
「それはそうだとも。これでまた、お山を越えてどこかへ通ずる街道筋ならまた格別、ほとんど日光へ行くだけの日光街道、思うとおりに、母娘の人柱が網にかかってくれればよいけれどもなあ」
 杉の木立ちのあいだに、ものものしい竹の矢来やらいを結びめぐらし、出口入口には炎々えんえんたる炬火かがりびが夜空の星をこがしています。
 この日光御修覆のあいだだけ、登晃口とこうぐちのひとつである鹿沼新田かぬましんでんに、あらたにできたお関所です。
「いったい誰が言い出したことだ。護摩堂の壁に、母娘の人柱を塗りこめねばならぬなどとは」
「シッ! 声が高い。この御修営がとどこおりなく終わることを祈願されて、殿が思いつかれたということじゃ」
「イヤ、誰が言い出したにしろ、そんなことはいっこうかまわん。拙者等は役目として、人柱にもってこいの母娘二人連れをとらえさえすればよいのじゃ」
 往来はシンとして、旅人の姿もないままに、関所役人たちはワイワイ雑談にふけっている。
 雲の裏に、ドンヨリした月があるかして、白い粉のような光が立ち木のこずえ、草の葉の露に浮動しています。
 その篝火かがりびのかげに、役人どもの顔が赤鬼のように、遠く小さくえているのを、はるかかなたから望み見ながら、疲れた足を引きずって、このとき、関所へ近づいてくる大小二つの女の姿がある。
 旅のこしらえに細竹の杖をついた、母らしい人は、片手に、女の子の手を引いて歩きながら、
「くたびれたろうね、お美夜。足が痛くはないかえ?」
「いいえ、あたいね、お山へ連れてゆかれたお爺ちゃんのことを思うと、足の痛いのなんか、忘れてしまうの」
「マアそんなにねえ――お爺ちゃんにそんなになつくまでの長いあいだ、あたしは母でありながら、このかあいいお前をうっちゃっておいたんだったねえ」
「お爺ちゃんはネ、いつもあたいに、お前の母ちゃんは人非人ひとでなしだって言っていたよ。だからあたし、ちいちゃいときには、あたいの母ちゃんは人間じゃないんだと思っていた」
「もうそんなことは言わないでおくれ。だけど、ほんとうにそう思われてもしかたがない。だが、もうもうこれからは、けっしてお前をはなしはしないよ」
 江戸から泊りを重ねて、もう日光までは眼と鼻のあいだ。ここまで来るあいだに、旅はことさらに人を近しくするもの。いわんや、血の通う母と娘である。
 お美夜ちゃんも、もうスッカリお蓮様に親しんで、脚絆きゃはん草鞋わらじがけのかあいい足を引きずりながら、
「ねえ母ちゃん、もうじき日光なの?」
「ええええ、あとほんのすこしのしんぼうですよ」
 と、お関所へさしかかったときである。
「待てッ」
 横あいから、グッと棒がつき出て立ちはだかった一人の侍、
「姓名住所は、何も聞かんでよろしい。ただひとこと――お前たちは、母娘おやこであろうナ?」

 以前のお蓮様なら、眉ひとつ動かさず、
「無礼をすると容赦ようしゃはいたしませぬぞ」
 ぐらい、ちょいと威猛高いたけだかなところを見せたはずだが。
 今は、名もない旅の女。
「ハイ」
 と、口のうちに答えつつ、手ばやく裾を引きさげ、そこへしゃがみこみながら、
「お美夜や、コレ! 立っていてはいけません。お侍様に失礼があっては……」
 と手を引っぱってすわらせようとするのも、できるだけ下手に出て、早くこの関所を通してもらいたいという、矢のような心があればこそ。
 制止した武士は、そのまま棒をしゃにかまえて、
「念のために、もう一度きくぞ。たしかにそのほうどもは、母娘に相違あるまいな」
 親子と言われることは、このごろ急に母性愛に眼ざめたお蓮様には、何ものよりもうれしいので。
 眉の剃りあとの青い、美しい顔を、思わずニコニコほころばせるのも、あながち、番人へのお追従だけではない。
「はい。あなた様のお目にも、まぎれもなく母と娘と見えますでございますか。まア、なんというありがたい――」
「コレコレ、妙な挨拶だな。確かにこの児そのほうの娘かと、きいておるのじゃ」
「マア、妙にお疑り深いお言葉。誰がなんと申しても、このお美夜はわたくしの一人娘、わたくしはお美夜のただ一人の母。どっちから申しても同じこと。サ、女旅で先を急ぎまする。おうたがいが晴れましたら、どうぞ、お通しのほどをお願いいたしまする」
 お美夜ちゃんもそばから、
「ねえ、母ちゃん、このお侍さんにおねがいして、早くとおしてもらいましょうよ」
 じっと二人のようすを見守っていた関所番人は、今このお美夜ちゃんの言葉を聞くと、グッと大きく一人でうなずき、
「ヨシヨシ、いま手形を書いてやるから、そこに待っておれ」
 言いすてて、足を宙にとびこんで来たのが、役人のつめている番所だ。
「おのおの方、とうとう親娘おやこの旅の者が引っかかりましたぞ。しかも、美しい母と、あどけない女の子で。これでわれわれの大任もおりたというもの」
 茶を飲んでいた津田玄蕃が、急ぎ床几しょうぎを離れて、
「それはお手柄。拙者もこれで安心いたした。では、かねての手はずのとおりに……」
 なにやら低声こごえに命令をくだした玄蕃は、お蓮様とお美夜ちゃんの待ってるところへ、たちいでて、
「コレハコレハ、よく来られた。むろんお手前はまだ、御存じではあるまいが、このたびの日光造営奉行たるわが藩においては、このお山どめの関所開きに、はじめて関所にさしかかった母と娘の二人連れを、縁起祝いとしておおいにもてなすことになっておるのじゃ」
 生きながら壁へ塗りこめてしまうのが、なんで待遇もてなしなものか。
 何も知らないお蓮さまが、あっけにとられていると、玄蕃はかまわずつづけて、
「二人とも今より、奉行所の大切な賓客ひんきゃくじゃ。われらがお供申しあげるにより、これより用意の駕籠かごに召されて――」
 と玄蕃、ポンポンと手をたたくと、かねて手はずの山駕籠が一丁、焚き火の光のなかへかつぎこまれて来る。
「御遠慮無用。サ、これへ……」
 逃がすまいと、手取り足とらんばかりに、はや、駕籠へ――なるほど、たいせつな人柱、これは逃がされない。

 カット照りつける陽の光の底に。
 どこやらうっすらと、秋の気配の忍びよる午後である。
 今は日光小学校があります。あれに沿って左に曲がり、四本竜寺の前を過ぎて、その道を真っすぐにとってゆけば、さらに右手に、稲荷川のつり橋。
 あれから左に折れると、外山そとやま
 一直線に行けば、霧降道きりふりみちだ。
 外山はつり橋から五、六町も行けばすぐふもとについて、山麓さんろくには凍岩こおりいわ摺子岩すりこいわがあり、山上のながめは日光第一といわれているが――
 つり橋のたもとから、途中に律院りついんと梅屋敷のそばを過ぎて、渓流にかかった橋を渡ると、小倉山の高原。
 で、この高原を一里あまりもたどって、赤薙あかなぎの東ふもとに出れば、もうはやそこに、とうとうと地ひびきをうって聞こえてくるのは……。
 日光三大瀑布ばくふの一なる、霧降きりふりの滝です。
 高さ十三丈、幅五間、上下二段になっている。
 山上から飛ぶしぶきは、折り重なる岩石に砕けて煙のように散り、滝壺から、横の山道にのぞく立ち木のこずえにかけて。
 どうです!
 いま、すばらしい七色のにじが、かかっている。
 その虹のはしに、小広い滝見台があって、そこから、草を分ける小みちが、だらだらくだりに滝とは反対の谷底へ、のびています。
 昼なお暗いという形容は、ここにきてまことに真。
 小みちを下りつくした谷あいの木かげに、先ごろから、木口のいろも白い一軒の造作小屋が建てられて。
 どんなものずきな人か、髪の白い、腰の曲がりかけた老人が、この山奥も淋しくないとみえ、たったひとりで住んでいる……作阿弥。
 人の背ほどもあろうかと思われる雑草や、灌木におおわれて、この作阿弥の仕事部屋は、滝見台からも人の眼に映らない。
 世を離れ、三昧さんまいの境地にはいって、一心不乱に制作したいという彼の望みにしたがって、この、もっとも人跡絶えた渓谷をぼくし、対馬守の手で急ぎ建てられた、いわば、これが、作阿弥のアトリエなのだ。
 たった一人――。
 とは言ったが。
 それにしては、ふしぎなことがある。その工作部屋から、ときどきさかんに人の話し声がもれてくるので。
 だが、朝夕作阿弥が、小屋のそばを流れる谷川の縁にしゃがんで、土釜どがまの米をすすいだり、皿小鉢を洗っているのを、むこう山の木の間から、樵夫きこりが見かけることがあるくらいで、住んでいるのは、確かに作阿弥老人ひとりのはずだが……。
「なア、りっぱなものを彫りあげて、ぶじに納めることができれば、大仏師法眼康音ほうげんやすね狩野探幽かのうたんゆう、左甚五郎など、日光結構書に伝わる名人巨匠と肩をならべて、お前も長く権現様のおそばに残ることになるのじゃ。ナア、そう思ったら、しばらくジッとして立っておるぐらい、なんのこともあるまいが……」
 今も、この作事小屋から、しきりに作阿弥の話し声が流れ出て、
「ホラ! ここへひとつ、こう、グッとのみを入れると、ソラどうじゃ、全体が見違えるほど、きてきたであろうが」
 あとは、またコツコツと、木を刻む音だけがしばらくつづく。
 深山の静寂は、まるで痛いほど、耳をつきさす。百千の虫、鳥どものなき声が、この静かさの中にこもっているのだ。
 小屋の中は、シインとしている。

 と、思うと……。ふたたび。
「コラコラ、動いちゃいかん! う? 何? もう疲れたというのか、じっと立っておるのは、辛抱ができんか、ははははは、よし、休もうナしばらく」
 別人のように若やいだ、艶のある作阿弥の声。
 ひとりごと?
 それにしても、変だ、さながら話し相手があるような口調である。
 もしここに、彫りあげるまで人に見られたくないという絶対境の作阿弥の芸術心に、些少さしょうの尊敬しかはらわない人があって、今この小屋をすき間から、ソッとのぞいたとしたら……。
 アッ!――とその人は、おどろきの叫びをあげるに相違ない。
 やっぱり一人なんだが、話し相手はあるのです。
 馬だ。
 今で言えばモデル。一世一代の思い出に、生けるがごとき馬を彫ろうと、鑿の先に心胆のすべてを傾けることになった作阿弥は、馬の骨格、体形などは隅の隅まで知っている彼だが、それでも、今度はモデルがほしいと思いたって、
「単に、手本にするだけではござりませぬ。きた馬と朝夕ちょうせき起居をともにし、その習性を忠実に木彫もくちょううつしてみたいというのが、愚老の心願でござりまする」
 こういう作阿弥の願い出を受けた柳生対馬守は、こけ猿の茶壺がなければこの日光にも事を欠き、手も足も出ないほどの貧藩ですけれども、武張ぶばった家柄だけに、名剣名槍などとともに、馬には逸物いつぶつがそろえてある。
 まだこれは、この日光へ発足前、江戸の上屋敷にいる時分だったので、さっそく作阿弥をうまやの前へ連れて行き、一頭ずつ広場へ引きだして見せたのだが、どの馬にも、だまって首を振るばかり。
 最後にひき出した馬は、「足曳あしびき」という名のある対馬守第一の乗馬で、ひと眼見た作阿弥は、はじめてうむと大きくうなずいたのだった。
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の……。
 古歌にちなんで足曳と命名されたこの駿馬しゅんめは、野に放したが最後、山鳥のように俊敏に、草を踏みしだき、林をくぐり、いや、鳥のごとく天空をもけんず尤物ゆうぶつ
 これをおいて、ほかにモデルはない。その足曳が、今この日光の山奥の仕事小屋に、連れこまれて、燃えあがるような作阿弥老人の制作欲の対象に置かれているのだ。
「さア、かいばをやろうなア」
 と作阿弥は、まるで人にものを言うように、しきりにたてがみをなでながら、
「こんどは、ぐっと首を上げて、正面をにらんでいてくれよなア」
 やさしく頼むように言うのですが、いくらりこうな馬でも、そう注文どおりにはいきません。
 道具をほうり出した作阿弥は、すこし離れて、なかば彫りかけた首の像に、見いっている。
 首から胴は一本で、刻みのあとの荒い馬の姿が、なかばできかかったまま立っている。
 が、この未成品、すでに惻々そくそくと人に迫る力をもっているのは、やはり、作阿弥の作阿弥たるゆえんであろう。
「ウウム、陽明門の登り竜と下り竜が、夜な夜な水を飲みに出るというなら、この、おれの彫った馬は、その竜を乗せて霧降きりふりの滝をとび越せッ!」
「いや、みごとみごと!」
 作阿弥のひとりごとに答えて、別の声がした。
 馬が口を?
 と、作阿弥が振りかえったとき――。

 いつのまにこの谷へくだって来たのか、跫音あしおともしなかったが、と、ギョッ! として作阿弥が、戸口を振りかえってみると……。
 柳生対馬守。
 家老、田丸主水正とただふたり、ほかに供もつれずに。
 制作の進行ぶりを、おしのびで見に来られたものとみえます。
「どうかの? 足曳はおとなしくじっとして、写生の手本になっておるかの?」
 と対馬守、手斧ておのや木くずや、散らかっている道具をまたいで、小屋へはいってきた。
 半分板張りになっていて、むこうの土間に、殿の乗馬足曳が、つないである。
 うまやのように、馬と同居しているのですから、ムッとした臭気においが鼻をおそう。
 それよりも、あわてたのは作阿弥で、彫刻が完成するまでは、誰にも見せたくない。殿様といえども、眼に触れさせたくないので、大いそぎで、ゆたんのような唐草模様の大きなぬのを、ふわりと、彫りかけの馬の像へかけてしまった。
 そして、ひらきなおって、対馬守と主水正の主従を、おそろしい眼でにらみつけた。
「ちと無礼でござろう。誰にことわって、ここへはいってこられた!」
 それは、相手が誰かということも忘れたらしい、芸術心たくみごころのほか何ものもない、阿修羅のようなものすごい形相であった。
「最後ののみを打つまでは、人に見せぬというのが、わしの心願じゃ。この山奥へこもっておるのもそのため。ごぞんじであろう」
 この剣幕に、対馬守もたじたじとして、
「いや、其方そちをわずらわしたその馬像うまぞうを、どこへすえるか、場所が決まったによって、ついては、もうどのくらいできたか、ちょっと見とうなってナ、つい……」
 主水正が、前へ出て、
「コレコレ! 作阿弥どの。言葉が過ぎようぞ。芸熱心はよいが、殿のおん前もわきまえず、あまり仕事にって、乱心でもされたか」
「どこへ置こうと、そんなことはわしの知ったことではない。早々出て行ってもらいたい」
「イヤ、許せ、許せ」
 対馬守は、かえってその一本気の工匠気質こうしょうかたぎに、おもしろそうに眼を細めて、
「護摩堂の守護まもりとして、長くあの前へ飾りおくことに決めたぞ、作阿弥」
 殿のお言葉を、主水正が受けついで、
「作阿弥どの。これには深いわけのあることなのじゃ。どういうものか、いつの御造営にも、あの護摩堂の壁がいちばん先にいたんで、たちまち落ちてならぬ。で、それに犠牲にえをささげて、壁のたたりを納めるこころと、かねては、この御修覆の儀の事なく終わるを祈念されて、あの護摩堂の壁へ、母と子と二人の人柱を塗りこめることになったのじゃ」
 と聞いたときに、何やら作阿弥は、急に、不安な気もちがこみ上げてならなかった。
 いわゆる、胸騒ぎ……。
「人柱を? 母と子の――」
「うむ。そこで、その母子おやこなきがらをのむ壁を、永遠に守り、かつ、見はるために、千里をゆく其方そちこまを、あれなる護摩堂の前にすえようと一決したのじゃ。任は重いぞ、作阿弥! 母と娘のたましいをしずめる、気高き神馬しんめを彫りあげてくれい」
 なぜか作阿弥は、気もそぞろのていで、
「そういたしますと、そ、その、母娘おやこの人柱というのは、もうきまりましたので」
「客分として、大切にもてなしてあります。本人たちは、人柱などとは夢にも知らぬ。わしもまだ会いはしませぬが……」
 と、主水正が答えた。

 田母沢たもざわの橋を渡ってゆくと、左のほうに、大日堂だいにちどう
 荒沢あらざわの橋の手前から、道を右にとって登ってゆくと、裏見の滝に出ます。
 この滝道の途中に、雑木林のなかへ折れこんでゆく小みちがありますが、何も知らぬ近処きんじょの人たちなどが、この道をはいってゆこうとすると、
 かたわらの草むらから、ぬっと二、三人の人影が立ちあがって、
「コラコラッ、いずこへまいる」
 お百姓などは、腰をかがめて、
「へえ、裏見の谷へ、草を刈りにまいりますので」
「いかん! この道を通すことはあいならん」
 二、三人が口をそろえて、
「名主よりお触れ書がまわっておるであろうが。さては貴様、無筆だな。イヤ、無筆なら無筆で、読み聞かせられておるはず」
「この道は通行禁止じゃ。この付近へ立ち寄ってはならぬぞ」
 きびしく叱りつけられて、追い返されてしまう。
 とんぼつりの子供など、まれに看視の眼をまぎれて、この林間の小みちをかなり奥まで迷いこんでゆくと……。
 むこうのこんもりした木立ちのかげにわらぶきの屋根が見える。ひっそりとして、人の住んでいる気配もない。
 が、この屋根の見えるところまで近づくのは、上乗の部で。
 たちまちどこからともなく、バラバラっと造営奉行の手付きらしい役人が現われて、「ウヌ! こんな所まではいりこんでくるとは、めっそうもない!」――とばかり。
 眼の玉がとび出るほどどなられて、送りかえされる。
 厳重をきわめている。
 この小さな百姓家一家を、十間おき、半町おき、一町おきといった具合に、幾重にも看視が伏してとりかこんでいると見える。
 家はさきごろまで、ちょっとした百姓が住んでいたと思われる、こぢんまりした住居すまいで、見たところなんの変哲もないが……いったい、こうまで水ももらさない見張りがつけられるとは、何者であろう。
 よほど凶悪な囚人めしゅうど!……でもあるかと思うと。
 家のなかには、品のいい武家の後室らしい女と、その娘のかあいい女の児、それに、二十はたちばかりの美しい腰元が一人、食事その他の世話役に、ついているだけだ。
「マア、ほんとうに、いつまでこんなところに、こうしていなければならないのだろうねえ」
 と、今もお蓮様は、柿の枯れ葉の吹きこむ百姓家の小縁側こえんがわに立って、ひとり言のようにつぶやいた。
 折り重なる日光の山々、男体なんたい女体にょたい、太郎山、丸山などが、秋の空気の魔術か、今日は、眉にせまるように近々と望まれる。
 お蓮様の言葉を聞きつけたお美夜ちゃんが、愛らしくそばへ寄りたって、
「ねえ、母ちゃん、ここはもう日光なんだろう? いつお爺ちゃんのところへゆけるの?」
 お蓮様は、屈託気くったくげに、帯の胸元へほっそりした両手をさしこんで、
「サア、それが母さんにも、サッパリわからないんですよ」
「アラ、じゃ、まだここは日光じゃないの?」
「ほほほほ、いいえ、日光は日光なんですけれど、いつお爺ちゃまにお眼にかかれるか……それがねえ」

 じっと考えこんだお蓮様は、腑に落ちかねるおももちで、
「ほんに、どうしたというのでしょうねえ。あの鹿沼新田のお関所でお調べを受けたとき、母娘おやこかということを妙に念を入れてきいていたようだけれど」
 風に話しかけるように、お蓮様はひとりごとをつづけて、
「母娘ということに、何か意味があるかしらん……ハイ、たしかに母と娘だと言うと、お役人衆がマアたいそう喜んで、さっそく二人を駕籠に乗せて、まっすぐにこの家へ連れてこられたのだけれど――」
 その途中。
 駕籠わきに引き添う侍たちのヒソヒソ話に。
「大切な客人」とか、「運よく母娘づれが通りかかるとは、さいさきがよい」とか――。
 そうした言葉が、チラチラとお蓮様の耳にはいって、駕籠のなかの彼女に、しきりに首をひねらせたのだったが。
 この百姓家は、前に用意がしてあったものとみえる。
 きっと持主から買いとって、家を明けさせ、客を迎える準備をしておいたものとみえて、ここらの山奥の百姓家にしては、内部は小ざっぱりと掃除され、最近手を入れたあとも見られるのである。
 翌朝にでもなれば、きっと役人の前へ呼び出されて、どうしてこういう予期もしない好遇を受けるのか、その理由わけもわかるであろうから、そのとき自分たち母娘は、この日光造営方の工人の一人、彫刻名人作阿弥の身寄りの者で、彼をたずねて入晃にゅうこうしたということを、申しあげればよい……。
 お蓮様はそう思って、旅の疲れにこの思いがけないもてなしをいいことに、その夜は手足をのばして休んだのだったが……。
 翌日になっても、翌々日がきても、イヤ、何日たっても、なんの音沙汰もないばかりか、さながらこの家へとじこめられたなり、すっかり忘れられてしまったよう――。
 どこから運んでくるのか、三度三度の食事などは、ごちそうずくめ。
 身のまわりの用を達するには、ちゃんと侍女がつけられているし、なんの不足があるわけではないが。
 これでは、まるで、日光へ寝ころびに来たようなもの。作阿弥に会いたいということを伝達したいにも、その方法がない。
 唖なのです。……その唯一の腰元というのは。
 まず、退屈しはじめたのはお美夜ちゃんで、
「ねえ、母ちゃん。日光の町のほうへ、お爺ちゃんを探しにゆきましょうよ」
「そうねえ。いつまでもここに、ぼんやりしていることもない。途中でお役人様に会ってきいたら、おじいちゃんのいどころも知れるかもしれない」
 べつに、戸じまりが厳重だというわけでなし、垣根が結いめぐらしてあるのでもないから、お蓮様はお美夜ちゃんの手を引いて、庭づたいに、雑木林の小みちをたどろうとすると。
 忽然こつぜんとして、五、六人の足軽風の者が現われて、そのまま家へ追いかえされてしまう。
 ていのいい監禁ということに、お蓮様が気がついたのは、このときからだった。
「江戸から、当山内さんないの作阿弥という者をたずねてまいった者です。どうぞ、作阿弥にお会わせくださいますよう……」
 お蓮様の必死の願いにも、足軽どもは相手になろうともしない。

 この、裏見の滝道の林の中の一軒家。
 あそこに住む女と娘は、狂人と白痴だから、何を言っても取りあげるな……警備の役人、足軽たちは上司から、こう言い聞かされている。
「ああ見えていて、狂気だそうだ。娘はまた、生まれつきの馬鹿で、母娘おやこそろってあのありさまとは、なんとも哀れなものじゃのう」
「御造営竣工まで、厳のうえにも厳なる警戒を要する日光御山内に、どうしてまた、ああいう母娘づれの狂人などが、舞いこんできたのであろう」
「さればサ、どこからともなくフラフラッと、鹿沼新田かぬましんでんのお関所にさしかかったと申すことじゃ」
「捕えてただしてみても、何を言うやらさっぱり要領を得ぬ。引き渡そうにも、身もとは知れぬし、と言って、ああいう者をさまよわせておいては、清浄森厳せいじょうしんげんであらねばならぬ御造営の眼ざわりじゃ。造営奉行の面目にもかかわる」
「追放すればよいではないか」
「サ、それがさ、貧しい旅の服装なりではあるが、顔姿、言葉のはしはしなど、武家も大どころの者らしいふしが、ないでもない。このまま山から追い出して、あとでひょんなかかりあいにでもなろうものなら、この御修営にきずがつこうというもの」
「ははあ、それでわかった。ままに町を歩かせては人さわがせ、追い出すこともならず、というわけで、ああしてあの一軒家にとじこめ、われらを見張りにつけておくのじゃな。厄介な者がとびこんできたものじゃなア」
「しかしまア、相手は狂人と馬鹿娘のことだ。家から出しさえせねばよいのじゃから、遊び半分の楽な役まわりをおおせつかったというものじゃテ」
 草むらにあぐらをかいた下役したやくどもは、ひなたぼっこと雑談を仕事と心得て、こうガヤガヤ話しこんでいる。
 ふしぎなもので、狂人といわれたその眼で見ると、普通の人でも、変に見える。
 そう言えば、すこし眼の色がちがっているとか、笑い声が尋常でないとか……。
 そう信じこんでいる者へ向かって、「いえ、わたしは狂気ではありません」と弁解しようものなら、さてこそ、狂人の十八番おはこが始まったとばかり、いっそう狂人扱いされるのみ。
「サクアミとか、南無阿弥とか、たえず妙なことを口ばしっておるようじゃが」
「ナニ、言いたいことをいわせておけばよいのじゃ」
 と、これでは、お蓮様はどこにも、取りつく島がありません。
 一日に何度となく、庭づたいに役人衆のいるところへ来て、
「どなたか上の方に、お眼どおりを許していただくわけにはまいりませんでしょうか」
「ハイハイ、御城主様でも公方様へでも、どなたへでもお取り次ぎを申しまするで、どうぞ、お屋敷でお待ちのほどを、願いあげまする」
 お蓮様は癇癪かんしゃくを起こして、
「マア、何を言うのでしょう。日光というところは、狂人ばかりそろっているのねえ。気味の悪い!」
 侍たちはドッとふきだして、
「イヤ、こいつは参った。まったく言われてみると、狂人のおりをしているわれらも、こう退屈では、いつのまにか気が変になろうも知れぬテ」
「なんですって? わたしを狂者ですと?」
「イエイエ、とんでもない! あなた様に対して、けっしてさような失礼なことを――」

 何がなんだかわからないお蓮様、
「くどくお願いするようですけど、私ども母娘おやこは、作阿弥をたずねてまいったもので」
「ソウラ! サクアミが始まった! あはははは、ワッハッハッハ」
 と一同は、腹をかかえて笑いくずれる。なかに一人、ごくものずきなのが、妙なかっこうでお蓮様の前へしゃしゃり出て、
「サクアミ様をおたずねなら、お会わせ申すはわけのないこと。日が暮れますと、あの太郎山の頂上に宵の明星がピカリ、ピカアリと光りまするナ……」
「オイオイ、よせよせ」
「そもそも、この、星が光ると申しますのは、お星様から下界へ向かって、青い糸を投げおろしまするので――サクアミ様はその糸にぶらさがって、スルスルスルッとりてきましてな。ホラ、あの杉の木のてっぺんへ、毎晩おくだりになりますよ、ヘッヘッヘ」
「よせと言うのに! 本気にされたら、また厄介じゃあないか」
 お蓮様はあっけにとられて、その剽軽ひょうきんな男の顔を穴のあくほどみつめている。
 ポカンと口をあけて。
 江戸を離れると、いたるところにお化けが出る――ということを聞いたけれど、どうしてこの日光には、こんな変てこな侍ばかり集まっているのだろう……。
 泣きたくなるような気持で、またションボリと家へはいると、ただ一人つけられている若い女中が背戸口から秋草を取ってきて、床の間にけています。お蓮様母子をなぐさめようという、やさしい心があるのかもしれない。
 お蓮さまはそのそばへすわって、
「ねえ、なんとかならないのかしら。お前、ひとっ走り造営奉行所へいって、上のほうのお役人様に……ああ、そうだったねえ。お前は唖だったねえ。ええイじれったいッ!」
 娘はニッコリ笑うばかりで、どこ吹く風といったように、けた秋草をながめては、そこここ葉をはらっている。
 焦慮とも、懊悩おうのうとも、いいようのない日がつづく。
 それでいて食事だけは、三度三度二の膳つき。
 たいせつな人柱。
 いざ用に立てるまでに、母娘もボッテリふとらせておこうというはらかもしれない。これじゃアまるで、市場へ出すのを楽しみに、豚を飼っているようなもの――。
 すると、ここに。
 人情というものは、まことに微妙なものです。
 仇敵かたき同士でも、ひとつ屋根の下に起き臥ししていれば、いつしかそこに、情がわく。ことに不具の者ほど、そういった人なつっこい気持は、強いと言います。
 唖の娘……その名を、おかじという。
 彼女は。
 このたびの御造営に壁を受け持って、京都稲荷山からはるばる上ってきた伊助という左官頭の妹で、お蓮様づきとしてこの一つへ送られるまでは、兄や、手下の左官どもとともに、奉行所につづくお作事部屋にいたのですが。
 唖だから、耳は聞こえないけれども、兄伊助とだけは、千変万化の手真似や表情で、かなり複雑な話ができるのも、これは肉親だから、ふしぎはない。
 ここへ来る前、ある夜兄の伊助が、お梶へ、いろいろと手真似をして、こんどあの護摩堂の西側の壁へ、人柱……それも、母と娘の二人を塗りこめることになった――と、話したことがあるのです。
 で、このおかじだけは、お蓮様母娘おやこの悲しい運命を知っている。

 陸つづきの離れ小島……といったのが、今のお蓮様の生活。
 彼女とお美夜ちゃんと、侍女のお梶とたった三人きり。外部とすっかり遮断されて、まるで島流しにされているようなもの。
 日に日に親しみがます。
 ことに、お美夜ちゃんは。
 外へ遊びに出られない退屈さ。遊びざかりの子が毎日雨にとじこめられているようなもので、朝からお梶を相手に、ままごとやら隠れん坊やら、かあいいはしゃぎ方。
 子供はなじみの早いもので、夜も、眼をこすりこすり枕を持って、お梶の床へゆくくらいですから、お梶もいつしかお美夜ちゃんに、小さい妹のような愛情を感じだしたのも、ふしぎはない。
 唖のお梶、幼い時分からのけ者にされて、暗い、いじけた心になっていたが、はじめてこの天真爛漫なお美夜ちゃんによって、人間的な心の眼をひらかせられた。
 耳が聞こえなくても、美しい人情はわかる。
 口はきけなくても、情愛を伝えるに困りはしない。
 いつしかお梶とお美夜ちゃんはちょっともそばを離れないほど、無二の仲よしとなったのも、奇縁であろう。
「ねえ、お梶。作爺ちゃんのお山のお仕事がすんで、みんなでお江戸へ帰るときには、お前もいっしょに行こうね。チョビ安兄ちゃんという、とてもいい人がおうちに待っているよ」
 何を言っても、お梶はニコニコして、アワワと口をおさえたり、しきりに壁を塗るような手つきをしたり、なんだかサッパリわからないけれど、お美夜ちゃんはおもしろがって、
「まあ、お梶を見ていると、踊りのようだわ。口がきけないんですものねえ、かわいそうに」
 と、お梶の手を取って、お美夜ちゃんもニッコリする。
 そのお梶が、この二、三日、急に、めっきりふさぎこんでいるのは、
「こんなかあいいお美夜ちゃんと、お蓮様を、人柱などにして、生きながら壁のなかへ封じ込めてしまわなければならないのか――!」
 と、親しみがますにつれ、あわれも深まったというのは、これは人情でそうあるべきところ。
 この人柱のことは、いくら極秘にしても、微風のようなささやきが、造営奉行所をとりまくお作事部屋に、つぎからつぎと伝わって、諸職人のあいだには、もう誰知らぬ者もない。
 この唖のお梶さえ、兄の手真似をりっぱに判断して、ちゃんと知っているくらい。
 口のきけない者だから、秘密のもれる恐れは断じてなかろう……というので、選ばれてこの母娘おやこの世話をすることになったのだが。
 片輪だけに情が深く、やさしくされればひと一倍、恩にむくいたいという心のわくことには、係役人は気がつかなかったとみえる。
 はじめお蓮様は、ションボリうなだれてばかりいるお梶を変に思って、頭を指さして顔をしかめてみせたり、おなかをかかえてうなるやら、いろいろやってきいてみたけれど。
 いいえ! というように、首を振るばかり――頭痛でも腹痛でも、病気でもないという。
 不憫ふびんな者だけに、ときどきこうして沈みこむのであろうと、お蓮様とお美夜ちゃんの二人は、ひとしおやさしくいたわる。
 それがまたお梶の身には、火責めにされるよりもつらいので。
 とうとうたまらなくなったお梶、ある夕方、突然、グッとお蓮様のたもとをおさえて……。

 宵の口から、ポツリと落ちだした雨。
 山の天気は変わりやすく、アレ! 雨かしら? と思ううちに、一山ゴウッととどろきわたって、大粒な水滴が、まるで小石のように縁先のささの葉をうち鳴らす。
 沛然はいぜん
 それにらいさえも加わったものすごさに、お蓮様はあわててたちあがり、
「お美夜や、手を貸してちょうだい。お梶はあんなに、ふさぎこんでばかりいて、このごろは、笑い顔ひとつ見せない。かわいそうだから、使いだてるのも遠慮しましょう。いい子だからお母ちゃんといっしょに、この雨戸をしめましょう」
「ほんとに、お梶はどうしたの? 母ちゃん。今もお台所にすわって、こうやって泣いているわよ。その悲しそうな声ったら……」
 とお美夜ちゃんは、長いたもとで自分の顔をおおって、泣くまねをして見せる。
「サアサ、それよりも早く雨戸を――ホラ、こんなに雨が吹きこんで」
 母娘おやこ二人が手を貸し合って、やっと座敷の戸をしめ終わると。
 眼を真っ赤に泣きはらしたお梶が、行燈あんどんを持ってはいって来たが、そのまま立ち去るかと思うと、あかりを部屋のほどよいところに置き……このときだった、お梶がいきなりお蓮様のたもとを握ったのは。
「オヤ、どうしたのだえ、お前は!」
 振りむいたお蓮様は、びっくりした。
 お梶の顔の色といったらない。あおざめた面色めんしょくに、眼は血ばしり、頬には、涙の糸とほつれ毛を引き、その毛の先をきゅっと口に噛みしめて、物すごいばかりの形相。
「アラ、気がふれたのかしら、このは!」
 と、お蓮様はギョッとしながら、必死の力をこめたお梶の手に、べったりくずれるように、そこへすわらせられてしまった。
 と、お梶は、あっけにとられてそばに立っていたお美夜ちゃんを、いきなり片手に引き寄せて、痛いほど抱きしめ、
「ムムムムムムムム」
 もの言いたげな風情。
 口のきけぬをもどかしがるありさまに、これは何事か、思いきって言いたいことがあるのだなと、見てとったお蓮様。
 キチンと両手を膝に、すわりなおして、
「なんです」
 という眼顔をしてみせる。
 それにいきおいを得たように、お梶はフラフラと立ちあがって、壁際へ走り寄った。
 そして、両手をひろげて壁の前に、こっち向きに立ちながら、お蓮様とお美夜ちゃんを指さして、ふしぎな泣き声をその口からもらすのだ。
 あなた方お二人は、夢にも知らないだろうが。こうして壁へ塗りこめられて……。
 という意味を示すつもりだろうが、人柱などという複雑なことが、こんな簡単なしぐさひとつで、わかろうはずがない。
 お蓮様はふしぎそうに、お美夜ちゃんをかえり見、
「なんだろうねえ」
「あたし、気味が悪いわ」
 お美夜ちゃんはこわそうに、母のかげへまわる。
 じっさいそれは、妖異な場面であった。唖の娘が、何事か懸命に知らせようとして、渾身こんしんの力をこめてさまざまの動作をする室内。行燈のがお梶の影を、大きく壁に踊らせて。
 戸外そとは、地殻ちかくも割れんばかりのすさまじい大暴風雨あらし

 お梶は一生懸命に、身ぶりをつづけて、背中を壁にすりつけたり、壁の前に立って、しきりに土を塗る手つきをするやら……左官の妹だけに、壁屋の手まねは堂にいっている。
 かと思うと、こんどは、お蓮様とお美夜ちゃんを指さして、眼をつぶり、呼吸いきをつめて見せるのは、「死ぬ」という意味を表わすつもりだろうが、まるで踊りの手ぶりを見ているようで、こんなことでわかるはずはない。
 お蓮様とお美夜ちゃんは、あっけにとられて見まもるのみ。
 お梶はもどかしそうに、身もだえしていたが、やがて、新しい方法を思いついたと見え、急に、にっこりすると同時に、
「ウウウ――」
 と、異様にうめきながら、母娘おやこの手を取ってグイグイ引き立てる。
 雨中うちゅうのすき間から、一瞬間、サッと青白い光が射し込んで、畳の目をくっきり描きだすのは、らいが、ちょうど頭の上へ来ているらしい。
 戸障子のはためき、屋棟やむねのうなり、この小さな家は、今にもくだけ飛びそうである。
 灯影ほかげの暗い室内に、狂気のようにあせり動くお梶の影だけが、大入道のようにゆらいで、なんとも不気味な景色であった。
 唖美人……それは、うつくしい獣を連想させる。
 お美夜ちゃんは、もうすっかりおびえきり、お蓮様も、何ものかにつかれたように、母娘ふたりはお梶に手を取られるまま、フラフラと膝を立てて、
「コレ、何をするの、お梶」
「母ちゃん、こわいよウ!」
 うわア、うワア!……というような声を、お梶はつづけざまに発しながら、全身の力をそのかぼそい腕にこめて、母と娘を壁に押しつけた。
 そうしておいて、手早く壁土を塗りこめる手つき。
 これでもわからないか!――と言わぬばかりのもどかしさが、顔いっぱいにあらわれて、お梶の眼は、必死の涙にうるんでいる。
 お蓮様とお美夜ちゃんは、白痴の相手をして遊んでいるような、気恥ずかしいようすで、されるとおりになって壁の前に立ちならんでいたが、お梶がいつまでも、左官のしぐさを繰り返すだけなので、お蓮様ははじめて、オヤ! これは変だ。何か重大な意味があるのでは……。
 と、思ったとき!
 フと胸をかすめたのは、遠い子供のころ、乳母か誰かに聞いたことのある、あの、「もの言はじ、父は長柄の……」の人柱のこと!
 大きな土木工事には、土の神、木の神の御霊みたまを安んぜしめるために、人柱をささげるということは、ほかにも聞いたおぼえがある。
 すると、ちょうど今夜のように。
 黒暗々の夜空をつらぬく一せんの稲妻のごとく、このときお蓮様の心に、すべての事情がうなずかれたのだった。
 人柱! ありえないことではない。
 どこかの壁へ、このわたしとお美夜を生きながら塗りこめて……そういえば、思い当たるふしだらけである、あの鹿沼新田かぬましんでんの関所で捕まったとき、母娘おやこかということを、あんなに念をいれてきいたのも、さては、母と娘の人柱が必要であったのだ!
 今はこうしてここに、自分たちを飼っておいて、そのときが来るのを待っているに相違ない。
 血ばしった眼で、くうをにらんだお蓮様は、
「お美夜! サ、しっかりして……!」
 と、思わず、小さな肩を握りしめていた。

 これですべてが読めた!
 お蓮様はやつぎばやに、お梶へ向かってうなずくと、そのわかったという意味が、聞こえぬ耳にも通じたとみえ、お梶はニッコリするとともに、さきほどからの手真似話に精根つき果てたとみえ、ベッタリそこへくずおれてしまった。
 父の作阿弥に会うことができれば……。
「それさえできれば、なんのおそれることもないのだけれど――」
 口をついて出るお蓮様のひとり言を、折りからのき暴風雨あらし轟音ごうおんが、さらうように吹き消す。
 お梶は死人のように、着物で顔をおおって、からだを丸くして畳に倒れたままだ。
 作阿弥に会いさえすれば――だが、自分をとりまく多勢の下役人たちは、上役から、狂人だからそのつもりでと言いわたされているので、なんと頼んでもむだなことは、このあいだからの努力で、わかっている。
 かりに、今夜のこの闇と雨風に乗じて、この家をのがれ出るにしても。
 このまわりがあれほど厳重にかためてあることは、誰よりもお蓮様が、いちばんよく知っている。
 それに。
 日光造営中、山を取りまく四十里のあいだにいくつとなく関所が設けられて、文字どおりありのはい出るすきもないのだから、足弱の自分が子供を連れて、この山道をどうして脱け出すことができよう!
 お蓮様は、ギュッと、痛いほどお美夜ちゃんをだきかかえ、眼をすえ、唇をかみしめて……助かる方法もがなと、せわしい思いが頭の中をかけめぐっている。
 その、狂気のような、人相の変わった母の顔を、お美夜ちゃんは下から、あどけなく見あげて、
「母ちゃん、お梶は眠ってしまったよ。こんなところでうたた寝をして、風邪を引くといけないわねえ」
「ええ、そう……」
 答える心もうわの空に、お蓮さまがじっと考えこんでいると。
 どんな暴風雨あらしの最中にも、ピタリと物鳴りが止んで、ぽつんと切り離されたように音のしない、ふしぎな、無気味な瞬間があるものです。
 今がそれ。
 雨も風も、急に暴威をおさめて、もみ抜かれた樹々、はためきわたっていた家が、にわかに、はたと鳴りをしずめると、暗い地獄へおちこむような静寂。
 そのしずけさの底に、淙々そうそうと水の流れる音がする……のは、この家の裏からおりた谷間たにあいにささやかな渓流のあることを示しているので。
 毎日、昼間お蓮様は、縁のはしに立って、はるか眼下の杉の根を洗う、この小流れを見おろしたことを、彼女は、いま思い出した。
「そうだ! 運を天にまかせて――それよりほかに方法みちはない」
 ひとり胸に答えたお蓮様が、あちこち室内へ走らせた眼に、とまったのは、お梶が床の間にけてくれた花かごである。
 秋の七草をいけたあの籠の中には、竹筒が入っている。そうだ!
 お蓮様は裾を乱して、片隅の文机ふづくえの上の硯箱すずりばこと、料紙りょうし入れへかけ寄りながら、
「お美夜! お前に、こんなことをさせたくはないけれど、二人の命の瀬戸際だからね。今母ちゃんがお手紙を書いて、あそこの竹筒へ入れるから、お前はそれを持ってこの裏山づたいに谷川へ――いいかえ!」

 宇治道中の茶壺駕籠を、荒しに荒して、東海道に白い旋風がうずまくとまでの評判をたてた丹下左膳。
 いくつとなく壺を手がけても、めざすこけ猿の壺には、まだ見参しない。
 壺中の天地、乾坤けんこんほか
 一つ事に迷執めいしゅうを抱き、身、別世界にある思いの左膳は、朝夕夢のこけざるを追って、流れ流れてふたたび江戸へ……。
 第二の故郷。
 白髪、こうわたり、もとの路をたずぬ。何年も江戸を明けたわけではないけれど、しきりに、そんな気がしてならない。
 山野、街道の砂ほこりにまみれ、人血の飛沫ひまつに染んだ例の白衣びゃくえに、すり切れた博多の帯を、それでもきちょうめんに貝の口にむすび上げ、ずしりと落とし差した妖刀つばめの重み――。
 抜けあがった大たぶさを、ぎゅっと藁でしばった変相妖異のつらがまえ。
 竹の棒のように痩せさらばえた長身の、片ふところ手……とことわるまでもなく。
 かた手ははじめッからないんだったッけ。
 しかめッつらに見えるのは、右眼をつぶしてななめに走る刀痕のゆえ。
 ニュッとあごをつき出し、幽霊のように蹌々踉々そうそうろうろうと歩きながら、口の中につぶやいてゆくのを聞けば、
燕雀何徘徊えんじゃくなんぞはいかいせる意欲還故巣いはこそうにかえらんとほっす――か」
 がらにないことをブツクサ口ずさんで、
「おい左膳、こうして手ぶらで江戸へけえってきたところをみると、おめえも、よっぽど里ごころがついたのだろう」
 自分を相手のひとり言。一歩ごとに濡れつばめの鍔のゆるみが、カタコト鳴るのが、「人が斬りてえ、アア人が斬りてえ」――というように聞こえるので。
 チョビ安の野郎は、どうしたろう?
 柳生源三郎は? 萩乃は?
 と、想うことは山のよう……とにかく、自分に会う前にチョビ安がいたという、あさくさ竜泉寺のあのトンガリ長屋とやらへ行ってみたら、ことによったらその後のようすがしれようもしれぬ。
 というはら
 品川宿から江戸入りした左膳は一直線に八百八町を横ぎろうと、今しさしかかったのが、この上野山下の三枚橋です。
 ちょうど真夜中のこと。
 お山の森のうえに、うすぼんやりとした月がかかって、あたりにただよう墨絵のような夜の明かり。
 両側の商家は、ドッシリと大戸をおろし、天水桶に大書した水という字が、しろじろと見えるそばに、犬が丸くなって寝ている。
 何か事ありげな晩だった。
「ヤヤッ! この深夜に駕籠が……」
 いま、三枚橋に片足かけた左膳の一眼に、ぽつりと映ったのは、正面、上野の山をおりてこっちへやってくる一丁のお駕籠です。
 四、五人の高股たかももだちの侍が、前後を警備し、なんとなく世をはばかる風情が見える。
 真っ先に立ってくる提灯の紋――!
 見おぼえがある。あれは確かに、柳生家の……。
 駕籠というと、ただちに壺を連想するのが、このごろの左膳だ。
「茶壺の駕籠ではあるめえか」
 そう思った。
 小みぞのそばに、柳の垂れ枝。そのかげに身をひそめた左膳が、近づく駕籠を半暗はんあんにすかして見ると――蝋色ろういろ鋲打びょううちの身分ある女乗物。
 と! 闇に氷の光一閃。同時に、駕籠わきの一人が、ウウム! と肩口をおさえてよろめいたとき、
「待った! 気の毒だが、その駕籠に用がある――」

「ヤッ! 狼藉ろうぜき者ッ!」
「人違いではないか。うろたえるな!」
「それッ、おのおの……」
 いろいろな声が一時にわいて、侍たちは、ぴたりと駕籠を背に、立ちならんだ。
 肩をやられた一人は、何か火急の用事のある人のように、タタタッと前のめりに、三枚橋を渡りきって、四、五間走ったところで、ぱったり倒れた。
 一同は、そっちを振り向く余裕もなく、
「名乗れッ! われらは柳生対馬守藩中……」
「おウ、その柳生の駕籠と知って用があるのだ!」
 すでに一人の血を味わった濡れ燕を、左膳は、ひだり手にだらりと下げて、よろめくように二、三歩、前へ出ながら、
「よウ、そ、その駕籠の中を一眼見せてくれ、壺でなかったら、おとなしく引き下がるから、よウ」
 と、しなだれかかるように、侍たちへ肩を寄せてゆく。うすく笑いながら――。
 内心に渦まく殺気を持てあまして、その一本腕がうずうずするとき、左膳はよく、こうした酔漢よいどれのような態度をとるのだ。
 いわば。
 丹下左膳がもっとも左膳らしい危険な状態に達した高潮こうちょう
 とも知らない一人が、
「たわけッ!」
 どなると同時どうじに、フイと、おどるようなからだつき――足を開き、腰を沈ませたかと思うと、抜きうちに左膳のどうへ!
 刀身に、白く月が冴えた。
 どすッと、何か、水を含ませた重い蒲団を、地面へたたきつけたような音がしたのは、今の一刀が、みごと左膳の深胴ふかどうにはまったのか……。
 と見えた刹那。
 ひょろっと手もとへ流れこんだ左膳の体あたり、無造作に持った濡れ燕のつかが、その切っさきを受けとめて、かわりに、足をすくわれたようにくうに泳いでいるのは、かえってその斬りつけたひとり。
 ふしぎ!
 いつ濡れ燕が羽ばたきしたのであろう。
 今の重い音は、かれの上半身をななめに斬り裂いた濡れ燕の、血をなめた歓声だったのだ。
「来るかッ。オイ、来る気か」
 いっぱいにゆがんだ微笑を浮かべた左膳の顔を、月がぼんやり照らしだす。
 眼にもとまらぬうちに、同僚の二人まで失った柳生の連中は、浮きあしだったのだろう。
「おおそうだ、これから切通しへ出れば、妻恋坂はさほど遠くはない」
「うむ、われわれの手にはちょっと負えそうもない。若殿源三郎さまを御加勢にお願い申して――」
 うまい逃げ口上もあったもので、一人がぱッとかけ出すと、残っていた三人ほども、一時にそのあとを追って、右側の軒下づたいに、本郷のほうへスッとんでゆく。
 こうなると、名代の柳生一刀流も、こうした下っぱになると、からきしだらしのないものとみえます。
 あと見送って含み笑いをした左膳が、血のしたたる濡れ燕をソッと地面に突き立てて、駕龍のそばにしがみ寄り、引き戸に手をかけたとたん、駕籠の中から、
「相変わらずだね、丹下の殿様、おひさしぶり、ホホホホホ――声でわかりましたよ」

 声でわかりましたよ……という女の言葉が、駕籠の中から。
 左膳が、ギョッとして身を引いた瞬間。
 引き戸がなかからあけられて、闇に咲く大輪の花のようにたち現われたのは、御殿女中姿の櫛巻の姐御……あっけにとられた左膳の肩を、ポンとたたいて、
「まあ! 今までどこにどうして――会いたかったわ」
 と寄りそった。夜中にこっそり駕籠を急がせて来るのだから、テッキリこけ猿の壺……に相違ないと思ったのに、あらわれたのは意外にも女! しかも、駒形の尺取横町に残してきたはずのお藤が、こうした変わった風体なりで、柳生家の駕籠に乗っていようとは!
 おもしろくもないといった顔、不愉快そうに濡れ燕を鞘へ納めた左膳は、
「おめえか……えらく出世をしたものだなア、どういういきさつで、そんな身分になったのか知らねえが、おらあおめえには用はねえのだ。また会おうぜ」
 皮肉に口尻くちじりを曲げて言いはなった左膳、足早に歩きだした。
 櫛巻お藤には、相変わらずそっけない左膳でした。
「マア、お前さんのように、情のこわい人があるかしら――わたしゃこうしていやな芝居をつとめる気で、こんな窮屈な思いをしながら、一日半時だってお前さんのことを忘れたことはないのに、ヒョッコリ会ったと思ったら、もうすぐ、ろくすっぽ話も聞かずに、そうやって行ってしまおうとするなんて!」
 と櫛巻の姐御、姐御の本領を発揮して、いきなり、縫い取りの美しいうちかけをぬぎすてるが早いか、パッと地面へ投げすてた。
「よし! あたしも櫛巻と言われた女だ。こうなりゃあ意地ずく! どこまでだってついていってやるから!」
 と、長い裾をグイとはしょると、夜目にも白いはぎがくっきりと。
 見ると、左膳はもう四、五間さきを、何事もなかったように歩いてゆく。
「オット! いけない、子供たちを忘れちゃあ……」
 つぶやいたお藤姐御は、駕籠へ引っかえし、中へ手を入れてごそごそやっていたが、取りだしたのは角ばった風呂敷包み。折り畳の三味線と、塗り箱に入った尺取虫と――商売もの。
 これだけは一刻いっときも、そばを離さず、こうして外出そとでにも、駕籠へ入れて持ち歩いているものとみえる。
 かたむきかけた月を踏んで、ブラリと歩いてゆく左膳のうしろから、裾をからげたお藤姐御が、二、三間おくれてシトシトとついてゆく。
 妙な道行き――。
「腰元づとめなど、あたしゃもう、ふつふついやになって、今日は逃げ出そうか、明日は……と思っていたやさき、いいところでお前さんに会ったわ」
 先をゆく左膳、振りかえりもせずに、
「その姿はどうしたというのだ」
「なんて、きくところをみると、それでもすこしは気になるとみえるね。ウフッ、東海道を与吉といっしょに、流しているうちに、柳生の殿様につかまって、おもしろい女というんで、おそばに仕えることになったんだが、今その殿様は、日光御造営のお奉行になって、日光あっちへ行ってしまうし、あたしゃ百いくつとかのお化けのようなお爺さんの世話をしながら、しんき臭い日を送っていたのさ。ほんとうに、またお前さんに会えようなどとは、夢にも思わなかったよ」

 この櫛巻姐御をひと眼見て、これは何か使える、見どころがある……と、腰元として江戸まで連れて来、上屋敷に置くことになった柳生対馬守は。
 どういう考えだったのでしょう。
 その後、なんのこともなく、ただそば近く使っておいただけ。こんど日光へゆくに当たって、お藤をあの一風宗匠づきとして、林念寺前の屋敷内の茶席に残してゆくことになったのですが……。
 さて今、お藤は、左膳のうしろから、ノコノコついてゆきながら、
「それで、あたしの仕事というのは、その一風というお爺さんの寝起きの面倒を見ることと、毎晩夜中に、こうしてお駕籠で上野の権現様へおまいりして、はるか江戸から、このたびの日光御造営がつつがなく終わるように祈念きねんらすだけがわたしの務めさ」
 先に立ってゆく左膳の肩が、こまかく動いたのは、かれ、きだしたのらしい。
「プフッ! おまえに祈られちゃア、うまくゆく日光も、ぐれはまになるだろうテ」
「おふざけでないよ。あたしだって、こんな馬鹿げたことはしたかアないけれどサ、その一風っていう爺さんの御代参に、こうして毎晩、権現様へ参詣させられるんだもの。ところがね、ふしぎなこともあるものでネ」
 とお藤姐御が、笑いながら話したところによると。
 濃艶な櫛巻お藤が、朝夕宗匠の世話をやくようになってから、一風さん、とても若返って、別人のようになったというから妙だ。
 と言っても、相手は百二十何歳という、伝奇的な御老人のことですから、むろん、二人のあいだにはなんということもないのですが、いったいお藤のような毒婦型の美女からは、その身辺に、一種の精気といったようなものが発散されるものとみえる。毎日それを呼吸しているうちに、枯れ木にまちがって花が咲くように、一風宗匠の生命の灯が、新しい油を得てトロリとわずかに燃えあがったのでしょう。
 ホルモンなどということを、近ごろやかましく言いますが、この享保きょうほうの昔に対馬守は、そこらの理屈を知っていたのかもしれない。こけ猿の壺が見つかり、その真偽に判定をくだすためには、もうすこし一風宗匠に生きていてもらわなければならないのだが。
 その肝腎の一風宗匠は、伊賀から江戸までの旅にすっかり弱りはてて、今日明日にも眼をつぶろうというとき、偶然にも一行へとびこんできたのが、このお藤。
 その妖艶な年増ぶりを見たとき、対馬守は、これは一風宗匠の若返りの道具に使える……と思ったに相違ありません。
「まるで赤ん坊みたいだったお爺さんが、このごろじゃアお前さん、りっぱに一人で部屋じゅう歩きまわるし、耳もちゃんと聞こえるようになったしね」
「これからまた育って、その百何年をもう一度繰りかえすのだろう。ついていてやりゃあいいじゃアねえか。功徳くどくにならア、いずれそのうち、丹下左膳てえ者がこけざるの壺を持って、鑑定をお願いに出ますと言っておけ」
「いやなこった! ここでお前さんを見つけた以上、あたしゃもうもう、どんなことがあっても離れやしないよ。柳生の屋敷へなど、二度と帰りはしないから」
 左膳は無言。
 ついてくるならかってに――と言わぬばかり、どんどん歩を早めて、浅草竜泉寺の方角へ。
 お藤姐御も、おくれじと急ぐ。変てこな二人行列。

 女のほうからおもわれると、その女に対して、たいした興味を持たなくなる……これが、色事師の常らしい。柳生源三郎も、その一人。
 お屋敷育ちの武家娘らしい、つつましやかさで、萩乃が自分を恋していることは、百も承知しているのだが。
 サテ、そうなってみると、萩乃とほんとうに千代をちぎり、この道場のあるじとなり、永久にここに根をはやそうというほどの、執着心もわかない。
 ことに、それにはまだひとつじゃまがある。
 それは……峰丹波の存在。
 御後室お蓮様は、ある夜ひそかに道場を出奔して、行方不明になったものの、丹波はいまだに、その邸内の別むねに頑張って、いっかな動きそうにない。
 ああして真剣仕合いをいどめば、判定人を立ちあわせろというので、あの田丸主水正を兄対馬守に仕立て、ひと思いに丹波を斬ってしまおうとしたところが、あのとおりに狂言がばれて、丹波の首は一日のばしに、まだつながっているというわけ。
 萩乃とは、ひとつ屋根の下に起き臥ししているというだけで、今もこの深夜に、萩乃は、長い廊下の奥の自分の部屋に、ただ一人、どんな夢を見てか――。
 枕行燈に羽織を引っかけ、こっちへ向いたほうだけ燈芯とうしんの灯をむきだしにして、床にはらんばいになったまま、何やら書見をしていた源三郎は、廊下をこきざみにってくる跫音あしおとに、上半身を起こし、
「なんだ」
 同時に、襖があいて、二、三人の興奮した若侍の顔が、すき間に重なり合い、
「林念寺前のお上屋敷の者どもが、一風宗匠の代参の婦中じょちゅうを駕籠に乗せまして、上野よりの帰途、三枚橋において白衣の狼藉者に出あい、ただいま加勢を求めてかけつけてまいりましたが……」
 白衣の狼藉者? と、聞くと、源三郎の頭に、ピンとくるひとつの映像がある。
「ハテナ、彼奴きゃつではあるまいか」
 ひとりごちた源三郎は、何か心中に、ふと思いついたことがあるらしく、
「今からかけつけたのでは、まにあわんであろうが――誰がまいったのだ」
「高大之進手付きの尚兵館の者ども二名」
「よし、二、三人ついてこい」
 ニヤリと笑った源三郎が、手早く寝間着をぬぎにかかると、つぎの間からようすをうかがっていた小姓が、すぐ外出のしたくをととのえてささげる。
 身じたくを終わった伊賀の暴れん坊多勢をさわがすほどのことでもないとそっと縁から庭づたいに、大刀を引っさげて裏口へまわってみると、なるほど、顔に見おぼえのある上屋敷の者が二人、ハアハア息を切らして立っている。
「片腕ではないかナ、その曲者くせものは」
「ハッ、たしかに左手だけのようで……イヤもう恐ろしい使い手、またたくうちに二人ほど――」
 ひさしぶりに、丹下左膳に相違ない。そう思うと、源三郎の若い血管は、友情と、剣技の敵としてのなつかしさとの、ふしぎな感情が交流するのを感じて、かれは、だまって小走りに急ぎはじめた。わしづかみにしてきた黒頭巾ずきんで、クルクルと顔をつつみながら。
 源三郎の臣三人ほど加えて一行六人、シトシトと深夜の土を踏む。
「左膳のやつ、まだウロウロしていてくれればよいが」
 源三郎は、旧友に会おうとする心のときめきで、いっぱいだった。

「オオ、ここだここだ!」
 一人が叫んで、三枚橋を黒門町のほうへすこし行った路傍に、まぐろのように横たわっている死骸へ、提灯の灯をつきつけて、
「ヤ! こいつはだめだ! 殿ッ、これはすっかり息の根が絶えております」
「もう一人斬られたはずですが……」
 駕籠について来た上屋敷の侍がひとりごとのように言いながら、闇の足もとを見まわすと――。
 近くに、断末魔のうめき声……まるで地の底からゆすれあがってくるような。
 耳ざとく聞きつけた源三郎が、その声を頼りに探ってゆくと、左側の家のしめきった大戸によりかかって、一人の侍が、血の池の中に大あぐらをかいたまま、
「駕籠は……駕籠は――」
 口ばしっている。
「駕籠はここにあるぞ。しっかりせい!」
 と肩に手をかけて、源三郎がのぞきこむと、
「ウム、駕籠はここにあるが、乗っておったお藤どのは、あの浪人者のあとを追って――」
「サ、その浪人者だが、どっちの方角へまいった?」
「は……ア、アノ、この山下を車坂のほうへ、ソ、それから、なんでも二人の話では――」
「二人の話? すると、一風宗匠代参の腰元と、その狼藉者とは、知りあいとみえるな。シテ、ふたりの話では――どこへゆくと申しておった?」
「ナ、なんでも、浅草竜泉寺の――?」
「コラッ! 気をたしかに持てッ! その浅草竜泉寺の――?」
「ハッ、拙者は、もうこれにて……竜泉寺のとんがり長屋とかへ――闇中やみに、そういう話し声が聞こえました」
 人ふたり斬り殺された真夜中のさわぎ。両側の家々では、細目に板戸をあけて、おっかなびっくりのぞいているし、番太戸ばんたどの注進で、町役人たちもおいおいと出て来るようす。
 かかり合いになって、この場をはずせなくなってはたまらないと、源三郎は二人の死傷者の始末に、上屋敷の者をその場へ残し、サッと風のように浅草の方角をさしてかけだしました。
 その、おなじみの浅草竜泉寺のトンガリ長屋。
 作爺さんの家では……。
 名を秘め、世を忍んで、お美夜ちゃんとたった二人、ながらくただの作爺さんで日を送ってきた作阿弥が、柳生対馬守によって日光御造営へ召し出されたあと。
 すぐそのあとを追って、お美夜ちゃんが母親のお蓮様とともに、これも日光へ発足ほっそくしてしまう。
 あとには――。
 大小二人の変物が、みょうちきりんな生活をこの家に送っている……蒲生泰軒とチョビ安兄哥あにいと。
 味気あじきない思いのチョビ安です。顔を見たこともない父母が、恋しいばっかりに、あの「むこうの辻のお地蔵さん」の唄をうたって、親を探しに江戸へ出てきたのですが。
 伊賀の柳生の者とだけ、いまだにその親にはめぐり会えず、かりに父ときめた丹下左膳とも離ればなれになり、親がわりのように世話をしてくれた作爺さんは、日光へ取られる。
 子供心にも、恋人気どりのお美夜ちゃんには、ひと足さきに母親が名乗りでて、しかも、二人いっしょにこれも日光へ。
 残った泰軒先生は、ガブガブ酒を飲みながら、毎日幾件となく持ちこんでくる、江戸じゅうの巷の人事相談に応じているばかり。チョビ安の「親をたずねる人事相談」にだけは、このさすがの泰軒先生も、手も足も出ない形。
 ところが、今宵、めずらしくこの家に客があるのです。
 しきりに、しんみりとした話し声。

 まだ宵の口を、ちょっとまわったばかりのころ。
「では、大作、そのほうはここで待っておれ」
 そう言いすてて、このトンガリ長屋のあぶなっかしいどぶ板を踏んではいって行ったのは……。
 お忍びらしい覆面、無紋の着流しに恰幅かっぷくのいいからだをつつんだ武士だ。いかにも、大身らしいようす。
 路地の入口に残された伊吹大作――南町奉行大岡越前守手付き……が、きっとあたりに気を配りながら、そっと上眼うわめづかいに、その後ろ姿を見送っているところから見ると、この覆面の侍は、よほど大作の上役……ないしは主筋に当たる人らしい。
 軒なみに、長屋の一軒一軒をのぞきながら、進んでゆくその無紋着流しの侍は、やがて、路地の中ほど、作爺さんの家の前まで来ると、そっと忍びやかに格子をあけて、
「お美夜という女の子は、いるかの」
 ちょうどあがりがまちに膝ッ小僧をかかえていたチョビ安が、
「お美夜ちゃんは、日光へ行っていねえや。おめえは誰だい。人の家にへえって来るなら、かぶりものを取んなよ」
 覆面の侍は、そう言うチョビ安を無視して、
「なに、日光へ行ったと? それは弱ったな、約束があって来たのじゃが」
 その声を聞きつけた泰軒、大の字なりに寝そべっていたのが、おきあがって、土間へ首をのばし、
「おお! 貴公は、南町の……」
「シッ! 泰軒坊主ではないか。イヤ、おぬしがここにおることは、あのお美夜と申す女の子が、おぬしの命令いいつけでかの壺を、拙者のもとへ届けに来てくれたとき、聞いたのじゃが、まだこの家に居候とは知らなかった。どうした、相変わらずっておるな。ところで、あの壺はにせこけざる…にせ猿じゃったよ」
 と、唖然あぜんとしている泰軒先生とチョビ安を前に、その小ぶとりの武士さむらいは、土間に立ったままつづけて、
「イヤ、それとこれとは、別な話じゃが、そのとき、あのお美夜に、なんぞ褒美ほうびを取らしょうかとわしがたずねたところが――」
「うむ、その話は、この泰軒も聞いたぞ。お美夜坊は、何も褒美はいらぬが、家にいるチョビ安という者の親が知れるよう、お奉行の――イヤなに、貴公の手で、その親を探してもらいたいと頼んだという……ここにおるのが、すなわちそのチョビ安様じゃ」
 と泰軒居士は、ポカンと口をあけているチョビ安の頭を、しきりになでる。容易ならぬ客らしいと、子供心にも何か感じたチョビ安はあわてて、あぐらの足をキチンとすわりなおした。
「おお、これか、チョビ安と申すは」
 と覆面のさむらいは、泰軒へ、
「いや、わしとは思わず、ただある筋から、使いの者が来たと思って、応対してくれい」
 覆面のなかの柔和な眼が、静かにほほえんで、
「おぬしも知っておるであろう。あの愚楽老人ナ、彼は、全国に散らばるお庭番の元締めじゃから、ふと思いついて、愚楽老人にこのチョビ安なる者の親の探索を頼んだのじゃ。伊賀の者だということのみを頼りにナ――すると、それが知れたのじゃ」
「えっ! あ、あの、あたいのちゃんおふくろが――?」
「おお、知れたぞ。今日知れた。で、お美夜への約束を果たそうと、さっそくわしが自分で……イヤ、こうして使いの者をよこしたわけじゃが、これ、チョビ安とやら、そちの父は、いま日光におるぞ、そちも日光へゆくか、どうじゃ。このたびの日光御造営の竣工式に、吉例により紫の衣紋えもんをつけて現われる人こそ、そちの父なのじゃ――」

「ねえ、泰軒小父ちゃん、すぐ発足しようじゃアねえか。あたいのちゃんが知れたんだい! べらぼうめ! 朝までなんか待っていられるかい」
 とチョビ安は、涙のいっぱいたまった眼で、えらい鼻息。
「あたいのちゃんはね、こんどの日光の式に、紫の着物を着て出る人なんだって。その式にまに合わねえと、たいへんだ。おじちゃん、連れていっておくれよウ。日光には、お美夜ちゃんも作爺ちゃんも、みんないるんじゃアねえか」
 はしゃぎきったチョビ安は、
「コウ、泰軒坊主め、すぐ出かけようぜ」
 と、調子にのってどなるさわぎ。
 使者だと言った覆面の侍が、静かに泰軒に目礼を残して、帰っていったあとである。
 この、顔をかがやかし、眼に涙を浮かべて、いさみたっているチョビ安を見ては、泰軒先生も神輿みこしをあげざるをえない。
「ウム、さもありなん。それでこそ親子の情じゃ」
「なに言ってやんでえ! 何がアリナンでえ。サア、早く早く!」
 とせきたてられて、泰軒先生、急にこの真夜中に、チョビ安兄哥あにいの手を引いて、はるばる日光へ出発することになったのである。
 したく?
 冗談じゃアない。二人ともお尻をからげて、冷飯ひやめしぞうりを引っかければ、もうそれでりっぱな旅のしたく。
 型ばかり雨戸をしめて、路地へたちいでた泰軒居士、長屋じゅうへひびきわたるような大声をはりあげ、
「皆の衆! しばらくのお別れじゃ。泰軒とチョビ安は、これよりちょっと日光へ行ってまいる。安の父親というのが知れてな」
 という声に、長屋じゅうから親爺やおかみさんや、兄イや姉ちゃん連が、ゾロゾロたち現われて、口々に、
「マア安さん、おめでとう。ちゃんのいどころが知れたんだって?」
「安兄哥あにい、こんなうれしいことはねえだろう。おめえのちゃんは、どこのなんてえ者だ」
 チョビ安の親探しは、近処きんじょかいわい、誰知らぬ者もない。今その親が判明して、泰軒先生に連れられて、これから旅に出るというのだから、長屋の連中は自分のことのように喜んで、美しい人情の発露、イヤ、もう、たいへんなさわぎです。竜泉寺の角まで送ってきて、そこで泰軒とチョビ安は、一同につきぬ名残りを惜しみ、日光をさして闇の街へ、大小二つの影法師が消えていったが。
 すると、その真夜中過ぎのこと。
 長屋の口きき役ともいうべき石屋の金さん方の表戸を、ドンドンたたく者がある。
 寝ぼけまなこをこすった金さんが、出てみると……。
 隻眼隻腕の白衣びゃくえの浪人、うしろに御殿女中くずれのような風俗なりの女が、一人つきそって、浪人が、木枯しのような声できくには、
「この長屋に、以前チョビ安という者がおったはずじゃが」
「ヘエ、安公なら、今夜宵の口に、なんでも父親が見つかったとかで、日光をさして旅に出やした、ヘエ」
「ナニ、日光へ?」
 と聞いた丹下左膳、お藤を連れて、これもそのままチョビ安のあとを追い、すぐその足で日光へ向かうことになったが……。
 と、それから数刻ののち、左膳のあとをたずねて、このトンガリ長屋へ来た柳生源三郎、その御浪人ならちょっとここへ寄って、ただちに日光へ出むいたという石金いしきんの言葉に、彼源三郎も、その場からただちに、日光へ、日光へ。

 ほのぼの明けに江戸を出はずれた、蒲生泰軒とチョビ安の二人。
 すこし遅れて、丹下左膳櫛巻お藤。
 お藤はもう、どこかで懐中のお鳥目をはらって、旅のしたくをととのえたとみえ、椎茸髱しいたけたぼもぎっとつッくずして、がらに合った世話な櫛巻。お端折はしおりをした襟つきの合羽姿が、道行く人を振りかえらせるほどのあだ年増としまッぷりでした。
 遅れてトンガリ長屋へたどりつき、やはり石屋の金さんから、丹下左膳らしい浪人者が、さっき長屋へたずねてきたが、人を追ってすぐ日光へ出かけたと聞いた伊賀の暴れん坊、気の早いほうでは、人後に落ちません。司馬道場から引き連れて来た弟子三名を従えて、これも道々この店で脚絆、わらじ、あの店でかさ柄袋つかふくろといったように、旅の装束をととのえつつ、紫いろのあけぼのの江戸をあとに……。
 江戸から二里で千住せんじゅ、また二里で草加そうか、同じく二里の丁場ちょうばで、越ヶ谷、粕壁かすかべ――。
 日光街道に、三組のふしぎな旅人が、それぞれ先を望んで点々として追うがごとく。
 ところで、ここに。
 つぎの動きは、まずあの、大人とも子供とも得体の知れないチョビ安を中心に、まき起こるに相違ないとにらんで、この間じゅうからずっと、あのトンガリ長屋の付近へ張りこみ、それとなくようすをうかがっていた男がある。
 ほかでもない、つづみの与吉。
 こやつ、いつ江戸へまい戻ったものか、若党儀作ぎさくの壺のあとを追って、せっかくうばったのを、また取り返されたという失敗にもこりず、頭をかきかき、またあの司馬道場の峰丹波へ、うまくとりいったのだろう。
「ヘエ、こんどこそはあっしが、あのチョビ安ってエ大人小僧をつけねらって、ナアニ、きっとこけ猿の茶壺を手に入れてお目にかけやす。ヘッ、お茶の子さいさい」
 例によって安請合い、おおいに丹波の前にいい顔をしておいて、それからずっとこのトンガリ長屋を夜となく昼となく、見張りはじめたというわけ。
 与吉のやつは、チョビ安に、忘れられない恨みがあるんです。
 そもそもこの事件の当初。
 うまく品川の宿舎やどから、こけ猿の壺を盗み出したのに、途中でそれをうばって逃げ出したのが、あのチョビ安。あれがこの紛糾のもととなったのですから、チョビ安に対する与吉のうらみたるや、山よりも高く、海よりも深い。
「こんどこそはあの小僧のやつを、とっちめてやるぞ」
 と、昼夜兼行で、ねらっていると。
 すると、今夜のこと。
 誰かわからぬが、偉そうな覆面の侍が、この長屋をおとずれたと思うまもなく、チョビ安と泰軒が、連れだって旅へ出たようす。見送りの長屋の連中のうしろに立って、それとなく聞いたところでは。
 日光へ……という。
 ハテナ? と思うひまもなく、こんどはたえてひさしい左膳とお藤が姿を見せて、これも、日光へ――。
 かと思うと三人目には、伊賀の暴れん坊までが日光をさして、江戸を離れようとする。
 トンガリ長屋の付近にひそんで、そこまで見とどけた与吉。
「ワアッ! てえへんでえ、てえへんでえ! 馬鹿に今夜は日光ゆきのはやる晩だ。こりゃあこうしちゃあいられねエ」
 とばかり、東の白みかけた街を足を宙に、妻恋坂の道場へかけもどり、まだ丹波が寝ている部屋の外まではいりこんだ与の公、
「チョッ、殿様、峰の旦那! 寝ている場合じゃアござんせんぜ」

 与吉から、委細の話を聞いた峰丹波は、
「ウム! これは、日光の方角に、何やら容易ならぬことが行なわれんとしておるに相違ないテ。ことによると、あの方面にこけ猿の茶壺があるとでもいうような、有力な聞きこみがはいって、それでこうして三組の者どもが、あわてふためいて日光へ向かったのであろう」
 じっと何事か沈思ちんしにおちていた丹波、ハタと膝を打って、ニヤリとした。
「与吉、日光を見ざるうちは、結構と言うなかれじゃ。そちも見物にまいるか」
「ヘエ、ぜひお供いたしてえもので」
 そこで丹波、どういう策略があるのか、あわただしく、起きぬけの萩乃に目通りを願い出て、
「サテお嬢様、今日こんにちまで私は、意地ずくから、心ならずも源三郎さまにお敵対申しあげ、あなた様にもよしないお苦しみをおかけ申してまいったが、御存じのとおりお蓮の方は、逐電あそばされるし、拙者もつくづく考えるところござって、このたび転向……」
 転向? そんなことは言わない。
「このたび源三郎様におわびを申し入れましたところ、さすがは理のわかったお方、今までの非礼をことごとくおゆるしくだされましたのみならず――」
 うまく萩乃を言いくるめたものです。
 何事か思いたって、源三郎はゆうべのうちに、急に日光へ向かって発足した。ついては、丹波に萩乃を守って、あとから追いつくようにという伝言ことづてだったと、もっともらしい口構くちがまえ。
 兄対馬守は造営奉行として、目下登晃とこう中なのだから源三郎が所要あって、そっちへ出むくことは、不自然ではない。
 なるほど、源様は、ゆうべ三人を連れていつのまにか、屋敷を抜け出ている。
 自分の幼い時分から、この不知火しらぬいの道場にいて、父十方斎の信任あつかった峰丹波の言うことです。ことには、源三郎とも和を結んだという。
 萩乃が信用したのも、無理ではない。
 峰丹波、わざと供はつれません。つづみの与吉ただひとり。
 まもなく、いかめしい道場の門をあとにした旅ごしらえの三人は、何も知らぬ萩乃を中に、右に丹波、左に与の公。
 多勢おおぜいの不知火の弟子どもに送られて、かさを振り振り妻恋坂をくだりながら、もう道中気分の与の公は、馬鹿にいい気持になってしまって、
「ねえ峰の殿様、旦那、先生……旅は道づれって言いますけど、正直のところ、野郎ばかりの道中じゃアあんまりドッとしねえが、こうして妻恋小町の萩乃さまを真ん中にはさんでゆくと、どうもハヤ往来の者がみんな振りかえりますぜ。実にどうも萩乃様は、生き弁天でげすからね」
 だまって三歩とは歩かない与の公、
「ねえ、峰の旦那、殿様、イヤサ、先生。こうやってわっちら三人が、ブラリブラリ日光見物に出かけるところは、さぞかし結構な身分と見えやしょうな。きっと知らねえ者が見たら、あっしは人間がいきにできていやすから、さしずめ大店おおだなの若旦那、お嬢様はその許婚。ヘッ、峰の先生は、用人棒に頼まれてきなすった店子の御浪人――そう思うに相違ござんせんぜ」
「たわむれにも、無礼なことを言うやつじゃ。じゃが、まア、よいよい。旅は気散きさんじじゃでのう」
 一本道の日光街道。
 足弱を連れて、道ははかどりはしないが、ひと晩とまった翌日は、粕壁から一里で二つや、杉戸すぎと
 あれからかけまして、幸手さっての堤。
 と、はるかむこうに、アレ! 豆のように小さな四人の人影が……。

「アッ! 源三郎様だ!」
 と、遠くへ小手こてをかざして与吉がさけぶと、それと聞いて萩乃は、今までおくれがちだった脚が、にわかにはやまって……。
 源三郎とすっかり仲なおりができて、彼に頼まれて萩乃を送ってゆくという口前くちまえで、連れだして来たのだから、峰丹波も与吉も、いま狂気のように急ぎだした萩乃を、引きとめることはできません。
 小走りに歩を早める萩乃に、引っぱられるように、しょうことなしに丹波と与吉は、だんだん源三郎の一行に近づいてゆく。
 幸手さっての堤の木立ちのかげに立ちどまって、じっと振りかえりながら待っていた源三郎。
 とうとう顔を会わせた伊賀の暴れン坊と、峰丹波。
 両雄――。
 足をとめて、キッと顔を見合わせた丹波の横を、萩乃はすり抜けるように、源三郎へかけ寄って、
「マア、やっと……江戸を出てから今まで、ほんとうに気が気ではございませんでした。でも、丹波と和睦わぼくをされたとのこと、これからは道場も平穏、こんなうれしいことはございません」
 源三郎に口をきかれて、この狂言が割れてはたまらぬと、丹波は急いで、
「アいや、種々お話申しあげ、またおわびすべきところは、いかようにもおわび申しあげんと、かくはおあとを追ってまいりたるしだい――」
 と懸命に目くばせするのを、源三郎ははやくもその意をくみとって、
「イヤ、こういうことであろうと存じ、お待ちかたがた、ゆっくりまいった。旅は多勢のほうがにぎやかでよろしい。それでは、ごいっしょに、ブラリブラリとまいるとしようか」
 表面はうちとけても、内心は、すきがありしだいやにわにりつけもしかねまじい気組み。
 それは丹波も同じことで、白刃をつつんだ笑顔のうちに談笑しながら、一行七人。
 栗橋くりはし、中田、古河……。
 古河は、土井大炊頭おおいのかみ、八万石、江戸より十六里でございます。
 あれから野本、まま田、と進んでゆくと。
 小山おやまへ近づいた灌木の茂みのかげから……。
 何者の手すさび?
 爪弾つまびきの三味線のが流れ出て、
「尺取り虫、虫、
尺取れ寸取れ
足の先から頭まで――」
 何者? と言うまでもなく……櫛巻お藤は疲れ休めに、やぶかげに足を投げだして、たったひとつの、旅の荷の三味線を取りだし、そう思い出したように口のなかで唄っているそばに。
 大刀つばめをかたえに引きつけ、大の字なりに草の上に寝ころんでいた丹下左膳。
 枕もとに咲きみだれる秋の七草を、野分が吹いて通る。
 と、突然、その藪原から二、三間はなれた街道に、来かかった旅人の跫音あしおとが、乱れ立って、
「おおッ、あの唄声! 尺取り虫の唄だッ? 旦那方、御用心なせえ! 櫛巻の姐御がいるからにゃア、あの丹下左膳てエ化け物侍も、どうやらこの近くにとぐろをまいているにちげえねえ」
 と、頓狂な声をあげるのは、まぎれもなくつづみの与吉。
 とたんに、源三郎の大声で、
「ナニ? 丹下左膳が近くにおると? オイ左膳殿! オーイ、丹下……!」
 なつかしそうな声でよばわりながら、ガサガサと草を分けて、こっちへ来る気配。

 道しるべの立っている四つの角――丹波にとっては、知らず、生命の辻。
 腰から上を穂すすきの波に浮かべて、ぬっと街道へたち現われた丹下左膳を見るが早いか、
「三方子川尻かわじりの、漁師六兵衛の住居すまい以来だったナア」
 ニタっと笑って、そうつぶやいた伊賀の暴れん坊、いきなり、右の肩がグイとあがって、白い棒のような光が、細い鏡のごとく陽に光ったと思うと……抜いたのだ。斬りつけたのだ。
 居合抜き……。
「アッウ――!」
 ざッくり横腹を割りつけられてうめきながらよろめいたのは、ほかでもない……峰丹波。
「ナ、何をする! これ、源三郎殿、何をなさるる!」
 腕の相違というものは、いたしかたがない。
 そくもひらかず、からだも動かさずに、突如、刀で指さすように横にはらった源三郎の剣を、峰丹波、受けるには受けた。が、胴ッ腹で受けた。これじゃア受けたことにならない。
 与吉は、すでに逃げ腰、左膳につづいて草むらからあらわれた櫛巻お藤をはじめ、源三郎手付きの若侍三人、萩乃などあっけにとられているなかで、伊賀の暴れん坊のりんたる声。
「いつぞやおあずかりのままの真剣勝負だ。貴公よりもおれよりも、剣腕の上の者が、判定に立ちあうのでなければ勝負はせんと、言いはったが、いまここへ、丹下左膳というあつらえむきの立会人が出て来たからな」
「おのれッ!」
 刻々に細る息であえぎながら、丹波の指先は虫のようにおののいて、いたずらに帯刀のつかをはうが、もう抜く気力もないところを!
「…………」
 無声の声、無音の音。恐ろしい気合いで、源三郎の振りおろした二の太刀に。
 あわれ丹波! 胴首ところを二つにして、街道の砂塵にまみれた血糊ちのりの首が、ガッと小石を噛んだ。秋草に飛ぶ赤黒い血。
「とは言うものの――」
 と伊賀の暴れん坊は、大あくびをかみしめながら、さし出した血刀を部下の一人に、懐紙一じょうですっとぬぐわせつつ、
「その丹下左膳が、おれより上の腕とは、まだきまらぬテ。まず伯仲はくちゅうであろうとは思うが、いずれその決着も、つく折りがあろう、ウフフフフ」
「くだらぬ者を斬ったな。それよりゃア畑の大根でも切るほうが、ましだろう。日光へか」
「ウム、兄貴が行っておるでなア。貴様はまた何しに日光へ」
 問われた左膳の一眼は、忘れようとしても忘れることのできない、美しい顔が、そこににっこり立っているのを認めて、萩乃へ眼で挨拶。
「おうイ! 伊賀の暴れん坊とやら、あんまり荒っぽいこたアしねえがいいぜ。それから丹下の殿様、お藤の姐御、また江戸でお眼にかかることもありやしょう。泰軒先生が言いやしたヨ。君子あやうきに近よらずッてね、ヘッヘッヘ」
 と遠くの街道みちからこのとき捨て台詞ぜりふの流れてくるのに、振りかえってみれば。
 逃げ足のはやいのが、このつづみの与吉の性得。もうドンドン江戸のほうへ引っかえしかけて、はやその姿は、わらじの蹴あげる土煙に、消えさってしまった。
 はからずもここに、ふたたび顔を会わせた伊賀の暴れん坊と丹下左膳。
 両雄。
 剣技をきそう烈々たる敵心をつつむに、一見旧友のごとき談笑のうちに、美女二人を加えての一行七人、小山から小金井、下石橋、あれからかけて、やがてのことに大沢、今市と、おいおい日光へ……。

 一足さきに日光へ着いた泰軒先生とチョビ安、造営奉行所へまともに願い出たところで、作阿弥に会わせてもらえるわけはないから、町の噂、人の口裏を、それとなく聞きだし、つづり合わせて考えると……。
 霧降りの滝の近くの谷に、さきごろから小屋を結んで、誰をも近づけずに、何やら仕事をしている一人の老人があるとのこと。
 それよりも、二人が気になってならない聞きこみというのは、護摩堂の壁とやらへ人柱を塗りこめることになって、もう、その母娘おやこ犠牲いけにえが、どこかの山内さんないの秘密の場所に、養われているという。
 人の口に戸を立てることはできない。もうこんなに知れわたって、町の人々は恐ろしそうに、ささやきかわしていた。
 もしかすると、お蓮様とお美夜ちゃんではないかしら?
 そう思うと、チョビ安も泰軒居士も、一刻の猶予もならない。
 といって、どこにその二人がかくまわれているのか、それをたずねでもしようものなら、即座にこっちの命があぶないにきまっている。
 で、まず第一に、作爺さんに会わねばと……こうして今。
 霧降り道からわかれて、急ながけを谷底へたどり着いたチョビ安と泰軒先生。
「お爺ちゃん! あたいだよ、安公だよ! 泰軒小父ちゃんもいっしょだよ。江戸からお前をたずねて来たんだ。あけてくんねえ」
 いぶかしそうに戸をくった作爺さんが、顔を出して、
「おお安ッ! これはこれは、泰軒先生も」
「さまざまの話はあととして」
 と泰軒居士は、いつになくあわてぎみに、
「さっそくじゃが、お美夜坊とお蓮はここにたずねてこんかったかな?」
「ナニ、お美夜とお蓮も、この日光へ来ているのじゃと?……ははあ!」
 ポンと平手を打つと同時に、サッと顔色を変えた作阿弥、
「思い当たることがありますわい。母と娘の旅の者を、人柱に捕えたということを聞いたが、さては――」
「サ、われらがうれうるもそのこと。一刻もはやく救い出さねば……と申して、どこにかくされているものやら」
 突然、チョビ安が、うしろの山の上を指さして、
「あッ、たいへんだたいへんだ! 山火事じゃないかしら」
 さけぶ声に、泰軒と作阿弥が振りあおいで見ると、なるほど……日光の町のかなたに当たって、一団の焔が炎々と空をこがしている。
「町はさわぎらしい――ウム! このどさくさにまぎれて探せば、ひょっとすれば、知れぬこともあるまいと思われるが」
「とにかく、一刻をあらそう場合」
 作爺さんは何を思ったか、仕事部屋の板敷を一足とびに、その奥の土間へかけこんだかと思うと、
「これ! 足曳あしびきや、われとおらあながいあいだ、ひとつ屋根の下に暮らして、たがいに気心も知り合ったなかだ。今おれの娘と孫娘が、むごたらしく人柱にされようという瀬戸ぎわだ。一つ、存分に働いてくれよなア……」
 と、まるで人にもの言うよう……にわかにくつわを取りつけ、裸馬のまま引き出してきたのへ、
「うむ、これは思いつき!」
 ととび乗る泰軒居士、身の軽い老人と子供のことだから、作阿弥とチョビ安を前後にかかえこんで、三人を乗せた名馬足曳は、一路焔を望んで、道なき山道を日光の町へ――。

「おお、かようなところに、小流れがある」
 と、足もとの闇をすかして、源三郎が言った。
 やっとのことで、一行が日光の町の下までたどり着いた夜中。
 眼の前には、真っ黒な山が切り立つようにそびえて、はるか上の断崖のふちに、雑木林にかこまれた一軒家の灯が、何事か語り顔にチラチラしている。
 下流へ行って、大谷川とでも合するのであろう。この崖の裾をめぐって、落ち葉朽ち葉のあいだを、一条のせせらぎが清冽せいれつな音をたてている。
 ひとまたぎでとび越せる小川。
 だが、ためらう萩乃は、源三郎の部下の一人にしょわれて、一同は川を越した。お藤姐御だけはすましたもので、しゃがんで背をむける一人を、
「おふざけでないよ」
 とこづいたまま、白い脚もあらわにピョイととび越して、ほほほと笑ったものだ。
 そのとき左膳が、何を見つけたか、水辺にしゃがみこんで、
「なんだ、こんなところに、こんな竹筒っぽうがひっかかっておる」
 と、指を冷たい水にぬらして、川岸の水草の根のあいだからつまみあげたのを見ると、籠花活けのおとしらしい竹筒だ。
「なにかと思えば、くだらぬ……」
 つぶやいた左膳、そのまま草むらへ投げ捨てた――イヤ、投げ捨てようとして、ふと気がつくと、その竹筒の口に、ろうのかたまりがついているではないか!
 竹筒の口を、蝋で封じてあるのだ。ハテナ……と、好奇心をそそられた左膳、コツコツと竹のさきをかたわらの立ち木の幹に打ちつけ、蝋をうち落として中を見ると!
「オヤ、文がはいっておるぞ」
「フーム、この上流から流したものらしいな」
 と源三郎も、仔細ありと見て、寄ってきた。とりかこむ人々のなかで、心きいた一人が、がんどう提灯を左膳の顔へ、かかげる。
 闇に浮かぶ隻眼刀痕の妖面。
「なんだと?」
 竹筒の中から取り出した文を、一度黙読した左膳は、ぎょっと顔色を打ち変え、
「われら母娘おやこの者は、ごま堂の人柱に塗りこめられんとして、今この崖の上なる一つにとじこめられておる者なり、お救いくださらば、世々生々よよしょうしょう御恩は忘るまじく……お蓮、お美夜、とあるぞ」
「ナニ、お蓮? うむ! これはおもしろい。助けてやろう。彼女あれに娘があるとは、知らなんだが――」
 うめいた源三郎を先頭に、一行はガサガサと藤蔦ふじつたつるにつかまり合って、断崖をよじ登りだした。萩乃やお藤姐御まで、かいがいしく裾をからげて。
 なんでもいい、人さえ斬れるところなら、どこへでも顔を出したい丹下左膳、もう濡れ燕の目釘めくぎにしめりをくれて、伊賀の暴れん坊とさきをあらそう。
 こうして一同が、その、お蓮様とお美夜ちゃんの幽閉されている家へ、裏からなだれ込んだときは……。
 家の中には、二人の影はなく。
 唖の娘がただ一人、ポツネンとすわったまま、左膳と源三郎へ向かってしきりに日光の町のほうを指さしてはもの言いたげな風情ふぜいを示すのみ。
「そうだッ! 護摩堂の壁へ――と、求援のふみにあった。これは急がねばまに合うまい」
 気づいた左膳がさきに立って、一行はただちに造営奉行所に近い護摩堂へと、かけつけたのだった。
 乱闘のにわ……火は、こうして起こったのです。

 暴風雨あらしにまぎれて、求援状を封じこめた竹筒を、お美夜ちゃんに持たして裏山づたい、谷川の流れに投げこんだものの……。
 いつ誰の眼に触れて、拾いあげられようという当てもない。
 言いようもない心細さのうちに日は容赦なくたつ。同時に、眼に見えない人がきはぐるりと幾重にも、その監禁の家をとり巻いて――。
 と、今宵。
 その眼に見えない牢格子の扉が、ギイッと音なき音をたててあいたのです。
「サ、お美夜や、もうこうなったら助かりようはありません。たとえどんなことになろうと、あたしとお前は、母と娘として、いつまでも離れないように、一つ壁の中へ塗りこめられるのだから、せめてはそれを喜びにして、いっしょに死んでおくれ、ねえお美夜」
 母と娘のきずなをそのままに、人柱として永遠に残ることが、お蓮様には、かえってこのうえもない満足。
 人間、死を覚悟すると、すぐあとに幸福感がつづく。
 お美夜ちゃんとお蓮様は、手をとり合ったまま、護摩堂の中へ連れこまれたのだったが。
 このとき! 十重二十重とえはたえにとり巻く警護の武士が、ドッ! とどよめきだったかと思うと、左膳の濡れ燕が闇にひらめいて!
 源三郎にしてみれば、この造営を受け持っているのは兄の対馬守。やいばをふるってたち向かっては、同じ家中の者どもを手にかけねばならぬ。
 といって、あわれな母娘おやこが人柱などという、荒唐無稽な迷信の犠牲にならんとしているのを、黙視するには忍びない。
 したがえてきた部下三人に、すばやく耳うちをした伊賀の暴れん坊。
「左膳の狼藉をとりおさえるがごとく見せかけて、彼が母娘の者を連れて脱出する、その逃げ道をつくってやれ、よいか。ぬかるナ!」
 というわけ。四人はいっせいに抜きつれたが、左膳をとり巻いてやたらに刀を振りまわしながら、護摩堂の中へなだれこむだけで、左膳を斬るでもなく、また、伊賀の藩士たちとやいばを合わせるのでも、むろんない。
 ただ、源三郎たちは、付近を一大混乱の渦に巻きこんだだけだ。でも、それで十分。左膳の濡れ燕にかかった伊賀侍、十数名。
 白い煙のような護摩堂の奥深く、血刀とともにさまよいこんだ丹下左膳。
 そこの荒壁の前に、母娘だき合って失神せんばかりの、お蓮様とお美夜ちゃんを見かけるより早く、
「オイッ! さあ、もう大丈夫だ。良民をとらえて人柱などと、これも、この徳川へのおべっかか。なんだ、この日光など、私墳しふんにすぎぬものを……この丹下左膳が来たからにゃア、かような無道なことは断じてさせぬ」
 と、二人をかかえてのがれ出ようとすると、近くのお作事部屋に火があがった。これも、源三郎が一人に命じて、混乱の度を大きくするために、火をはなさせたのだ。
 この火事が、はるか霧降りの滝の下の作爺さんの眼に映って、折りからそこへたずねて行ったチョビ安、泰軒居士の二人は、作爺さんとともに、悍馬かんば足曳あしびきに三人鈴なりのてい雑沓ざっとうの護摩堂付近へ馬を乗り入れたとき、ちょうど群集を斬りはらいながらたち現われた左膳と、バッタリ――。
「おお、お父上!」
 とチョビ安は涙声、
「お美夜ちゃんも、無事で!」
「アラ、チョビ安兄ちゃん! お爺ちゃんも来てくだすったの」
「ウム、あぶないところを助かったか、これ、お蓮、お美夜、ここでは話もできんから……」
 と、片手に足曳のくつわを取った作爺さんの横顔に、燃えさかる作事部屋の火が、赤かった。

 騒動にまぎれて、日光の山をくだりかけた一同が、振りかえって見ると、作事部屋の火は大事にいたらずしてすぐ消し止めたらしく、明けはなれようとする夜空に、火映えはどこにも見られなかった。
 それから数刻ののちには。
 カラッとした秋の朝陽の降る日光街道に、今市の方向をさして急ぎつつある、異様な姿の一行が見られた。
「御好意返上」とだけ、筆太ふでぶとに書いた紙を馬のくつわに結びつけて、そのまま足曳あしびきを手ばなした作爺さんは、放心状態のお美夜ちゃんとお蓮様の手を引いて……それをとり巻く左膳、源三郎、萩乃、お藤、チョビ安、泰軒たち。
 思い出したように、をとめた泰軒が、
「安大人たいじん、お前は下山してしまっては、なつかしの父上に会えぬではないか」
「オオ、安の父親が知れましたか」
 おどりたつ作爺さんの問いに、チョビ安は、
「ウム、おいらのちゃんは、なんでもこんどの日光造営の竣工式に、紫の衣装をつけて出る人だと聞いて、それを頼りにこの日光まで、わざわざ会いに来たんだけど」
「ナニ。むらさきの衣装をつけて出る人だ?」
 と立ちどまって考えこんだ作爺さん、
「フーム、紫の……イヤしかし、まさか――だが、伊賀にゆかりと言うことには……」
 思いきったように作爺さんは、
「コレ、安、しっかりしろヨ。お前の父親てておやかどうかは知らぬが、竣工の式に紫の衣装をつける人は、ただ一人……造営奉行の柳生対馬守様――と聞いたぞ」
「エッ! すると、それがおいらの父親ちゃん!」
 うめいたチョビ安は、何を思ったか、眼いっぱいの涙。おどろいたのは源三郎で、もしそれが事実なら、チョビ安は自分のおい
「安ッ! 貴様は柳生対馬守の落しだねでもあるのか。えらいことになったものだな」
 と呆然ぼうぜんたる左膳へ、チョビ安はすすり泣いて、
「何言ってやんでえ、おいらアうれしくッて泣いてるんじゃアねえや。あたいのちゃんは大名か。ヘン、なアンだ。お大名のちゃんなんざあ、このチョビ安兄ちゃんは用はねえんだ。そうわかったら、一度にお座が覚めちゃったい。おいらのちゃんはやっぱりこのお侍さん。ねえ、お父上、いつまでもお父上でいておくれねえ……むこうの辻のお地蔵さん、ちょっときくから教えておくれ――なんでえ、おらあ大名の子なんかじゃあねえや、トンガリ長屋の安兄哥あにいだい」
 ドッとあがる笑いのなかには、言い知れぬ涙が含まれて。
 左膳とお藤が、両側からチョビ安の手を――左膳ははずかしがる萩乃の手を取って、源三郎とならんで歩かせました。
 泰軒だけは、一人ぽっちの大道せましと、江戸へ江戸へと、一同帰りの旅路に。
 作阿弥は、やはりもとのトンガリ長屋の作爺さん。お美夜ちゃんとチョビ安と、母親の本性をとり戻したお蓮様と、楽しいくらしが続くに相違ない。
 江戸へはいるすこし手前で、お藤の手を振りきった左膳は、萩乃と源三郎を祝福しながら、煙のごとく消息を絶ったという、伊賀の暴れン坊とは惜しい未勝負のまま。
 あの、柳生の大財宝を秘めるというこけざるの茶壺だけは、永遠の疑問符だ。いまだに、どこかの古道屋に、がらくたといっしょにほうり出されてあるのかもしれないが、一風宗匠なき今日、鑑定のくだしようもない。
 この日光造営が終わったとき、愚楽老人は殿中でニヤニヤして、大岡越前守へささやいたと言います。
「とにかく、大団円で結構じゃ。なかなか因縁の多い仕事じゃったが、何しろまあ、めでたく終わって重畳ちょうじょうじゃよ」
 越前守、クスッと笑って、無言でうなずいた。
五巻 了

底本:「林不忘傑作選5 丹下左膳(五) 日光の巻」山手書房新社
   1992(平成4)年9月20日初版発行
初出:「新講談丹下左膳」読売新聞
   1934(昭和9)年1月30日〜9月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「三方子(さんぼうし)」と「三方子(さんぽうし)」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:地田尚
2003年2月26日作成
2013年1月29日修正
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