熊楠いわく、この話はもと支那の話を日本へ移したのだ。『太平広記』二一六に『国史補遺』を引いて、晋の隗、易を善くす、臨終に妻子に告げたは、後来大いに荒るるといえども宅を売るなかれ、今より五年して、詔使の氏がここへくるはず、この人われに借金あり、予が書き付けおく板を証拠として債促せよ、と言って死んだ。五年たつと、果たして氏が来た。後家が亡夫の書き付けた板を示して返金を促すと、は呆れたが、しばらく思索の末、蓍を取って占い、われは隗生に借金した覚えなし、隗生自分の金を隠しおき、わが易占を善くするを知って、われがここに来るを俟ってその在り処を妻子に告げしむるよう謀らい置いたのだ、その金高は五百斤で、青瓷に盛って堂屋の壁を去る一丈、地に入ること九尺の処に埋めあるはず、と教えた。よって妻がそこを掘って、果たして金を得たそうだ。
やや似た話はインドにもあり。
『大般涅槃経』七に、「善男子よ、かくのごとし。貧しき女人の舎内に多くの真金の蔵あり。家人大小とも知るものあるなし。時に異人あり、よく方便を知って貧しき女人に語る、われ今汝を雇わん、汝わがために草穢を耘除るべし、と。女すなわち答えていわく、われ能わざるなり、汝もしよく我子の金蔵を示さば、然るのちにすなわちまさに速やかに汝のために作すべし、と。この人またいわく、われ方便を知る、よく汝子に示さん、と。女人答えていわく、わが家大小ともなおみずから知らず、いわんや汝よく知らんや、と。この人またいわく、われ今審らかに能くす、と。女人答えていわく、われまた見んと欲す、あわせてわれに示すべし、と。この人すなわちその家において、真金の蔵を掘り出だす。女人見おわって、心に歓喜を生じ、奇特の想いを生じて、この人を宗び仰ぐ」とある。
『観仏三昧海経』一〇に、「復次、阿難のいう。譬うれば長者、財産多饒にして、諸子息なく、ただ一女あるのみ。この時、長者百歳を過ぎ、みずから朽邁して死なんとすること久しからざるを知る。わがこの財宝は、男児なき故に、財はまさに王に属すべし、と。かかる思惟を作し、その女子を喚び、ひそかにこれに告げていわく、われ今宝あり、宝中の上なるものはまさにもって汝に遺すべし、汝この宝を得れば密蔵すること堅からしめ、王に知らしむることなかれ、と。女、父の勅を受け、摩尼珠および諸珍宝を持って、これを糞穢に蔵す。室家大小とも、みなまた知らず。世の飢饉に値い、女の夫、妻に告ぐらく、わが家貧窮して衣食に困しむ、汝は他へ行き自活の処を求むべし、と。妻、夫に白していわく、わが父の長者、命終に臨める時、宝をもってわれに賜い、今某処にあり、君これを取るべし、と。時に夫掘り取って、大いに珍宝と如意珠を獲。如意珠を持って焼香礼拝し、まず願を発していわく、わがために食を雨らせよ、と。語に随ってすなわち百味の飲食を雨らす。かくのごとく種々のもの意に随って宝を得。時に夫、得おわって、その妻に告げていわく、卿は天女のわれに宝を賜うがごとし、汝この宝を蔵せるをわれなお知らず、いわんやまた他人においておや、と」。これは、死んでゆく父が娘の賢きを知り抜き、隠さずに宝を譲ったのを、娘がまさかの時に用いんとて、よく隠し置いたので、『藩翰譜』に出でた山内一豊の妻などと似た行いだ。
これら仏教譚よりもずっと『宇治拾遺』や『国史補遺』の談に近いのは袁天綱の伝にある。皆人の知る通り、天綱は唐一代の占術の達人で、よく前後五百年のことを知った。その妻が後世子孫の栄枯を占い言えと勧めたので、占うと十代めの孫はきわめて貧乏と判った。妻がそれを救う法ありやと問うたから、また占うて、某の年月日に本府の太守[#「太守」は底本では「大守」]が梁が落つる厄にあうべしと知った。そこで、その旨を書いて赤い箱に入れ家廟中に封じ、代々相伝えて十代めの孫に至り、某年月日にこの箱を太守に送り、必ず太守自身堂より下って親らこれを受けしめよ、と書き付け置いた。さて十代めの孫に至り果たして大貧乏で、祖先の言を思い、その年月日を待ってかの箱を府堂の階下に送り、ぜひ太守が自身下って受けんことを求めた。太守身を起こし階を下ると同時に、堂上の朽ちた梁が落ちて、太守が今まで占めおった公座を砕いた。太守は箱を受け取り開きみると、一帖あり、汝わが十世の孫の貧を救え、われ汝の堕梁の厄を救うと書き付けたを見て、太守は活命の恩を拝謝し、袁天綱の十代めの孫を薦めて官途に就かせ、活計を得せしめたという(『淵鑑類函三二三』)。
底本:「日本の名随筆82 占」作品社
1989(平成元)年8月25日第1刷発行
1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「南方熊楠文集 第二巻」平凡社
1979(昭和54)年5月
入力:前野さん
校正:門田裕志
2002年12月4日作成
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