一

 表玄関の受附に、人影がなかった。
 朝子は、下駄箱へ自分の下駄を入れ、廊下を真直に歩き出した。その廊下はただ一条で、つき当りに外の景色が見えた。青草の茂ったこちら側のどてにある二本の太い桜の間に、水を隔てて古い石垣とその上に生えた松の樹とが歩き進むにつれ朝子の前にくっきりとして来る。草や石垣の上に九月末近い日光が照っているのが非常に秋らしい感じであった。そこから廊下を吹きぬける風がいかにも颯爽としているので、ひとしお日光の中に秋を感じる、そんな気持だ。朝子は右手の、窓にまだすだれを下げてある一室に入った。
 ここも廊下と同じように白けた床の上に、大きな長卓子テーブルがあった。書きかけの帯封が積んである場所に人はいず、がらんとした内で、たった一人矢崎が事務を執っていた。丸顔の、小造りな矢崎は、入って来た朝子を見ると別に頭を下げもせず、
「今日は――早いんですね」
と云った。
「ええ――」
 赤インクの瓶やゴム糊、硯箱、そんなものが置いてある机の上へ袱紗ふくさ包みを置き、朝子は立ったまま、
「校正まだよこしませんですか」
と矢崎に訊いた。
「さあ……どうですか、伊田君が受取ってるかも知れませんよ」
 朝子は、ここで、機関雑誌の編輯をしているのであった。
 朝子は、落ついたなかにどこか派手な感じを与える縞の袂の先を帯留に挾んで、埋草に使う切抜きを拵え始めた。
 廊下の遠くから靴音を反響させて、伊田が戻って来た。朝子が来ているのを見て、彼は青年らしい顔を微かにあからめ、
「今日は」
といった。
「校正まだですか」
「来ません」
「使も」
「ええ」
 朝子は、隅にある電話の前へ立ち、印刷所へ催促した。
 再び机へ戻り、朝子は切抜きをつづけ、伊田は、厚く重ねた帯封の紙へ宛名を書き出した。
 これは午後四時までの仕事で、それから後の伊田は、N大学の社会科の学生なのであった。
 黒毛繻子の袋を袖口にはめ、筆記でもするように首を曲げて万年筆を動かしていた伊田は、やがて、
「ああ」
 顔を擡げ、矢崎に向って尋ねた。
「先日断って来た分、こんなかから抜いてあるんでしょうか」
 むっくりした片手で小さい算盤そろばんの端を押え、ふくらんだ事務服の胸を顎で押えるようにし、何か勘定している矢崎は、聞えないのか返事をしなかった。伊田は暫く待っていたが、肩を聳やかし、また書き出した。
 朝子は、新聞に西洋鋏を入れながら、声を出さず苦笑いした。笑われて、伊田は、耳の後をかいた。二日ばかり前、或る対校野球試合が外苑グランドであった。伊田は、午後から帯封書きをすてて出かけて行った。自分にそんな興味も活気もなく、毎日九時から四時までここに坐って日を過す外、暮しようのない矢崎は、それでも他の者がそんなことをすると、甚だ不機嫌になった。彼は、それを根にもって一日でも二日でも、口を利かなかった。
「どの位断って来ました」
 朝子が伊田に訊いた。
「今度はそんなに沢山じゃありません。五十位なもんでしょう」
「去年からでは、でも千ばかり減りましたね。……田舎のひとだって、この頃は婦人雑誌どんどんとるんだから、断るのが自然ですよ。比べて見れば、誰だってほかの雑誌がやすくって面白いと思うんだもの」
 一円本の話が出て、それに矢崎も加わった。
「娘がやかましく云うんで、小学生全集をとっているんですが、一体あんなものはどの位儲かるもんでしょうな……」
「社でも何か一つとってくれないかな、そうすると僕たち助かっちゃうんだが」
「矢崎さん、いかが? それ位のこと出来ませんか」
「さあ」
 伊田が、
「金欠か」
と呟いた。
 いきなり朝子が、
「ああ、矢崎さん、お引越し、どうなりました」
と尋ねた。
「いよいよ渋谷ですか」
「ええ。今月一杯で五月蠅うるさいから行っちゃおうと思ったんですが……来月中には移ります」
「須田さんその後どうしていらっしゃいます?」
 矢崎は、厭な顔をして、
「この頃出かけないから」
と低く答えた。
「ここめることは、もう決ったんですか」
「決ったでしょう」
 黙っていたが朝子の心には義憤的な感情があった。
 須田真吉は、編輯部の広告取りをしていた男で、一風変った人物であった。頭の一部が欠けているのか過剰なのか、度外れなところがあって、或る時は写真に、或る時は蓄音器に、最近はラジオに夢中に凝った。ラジオのためには金銭を惜しむことを知らなかった。種々道具をとり集めラウド・スピイカアに趣味の悪い薄絹の覆いをかけたり、それをビイズ細工のとかえて見たり、朝子に会うと、
「一度是非聴きにいらっしゃい、全くそこいら辺のガアガアの雑音の入るのとは訳が違うんです――もう二三日すると、京城も入るようにします、朝鮮語ってえものは一寸いいですね」
 嬉しげに話した。実際は、然し決して組立てに成功出来る須田ではなかった。成功しないと材料のせいにして、それが和製なら舶来に代える。舶来なら和製を買い、そんなことの度重なるうちに、彼が代表で保管していた町会の金を私消してしまった。千円近い金であった。彼はこのほかに雑誌の広告代にも費いこみがあった。死ぬ覚悟で、須田は家出をした。然し追手に無事に引戻された。須田と姻戚で、須田の紹介で雑誌部の会計となっていた矢崎は、後々の迷惑を恐れ、事が公になりもしないうち、庶務部長の諸戸へ注進した。須田のために弁護の労をとるより寧ろ自分を庇って、話しようでは示談にでもしてもらえた須田を免職させる方へ働いたのであった。須田の好人物を知っていた同僚は、矢崎の態度を非難した。その非難は、親類の間からもあるらしく、矢崎は近頃、『親類なんてものは五月蠅くていけない』と云い出した。俄に、細君の実家の近くへ家を見付けた話を、朝子も程なく聞いたのであった。
 報知新聞は漢字を制限し、ところどころ、切抜きの中にも、かん布摩さつ、機能こう進、昇コウなどと読み難い綴りがある。朝子は赤インクでそれをなおしながら、
「何時?」と訊いた。
「一時半です」
「磯田、何してるんだろう」
 朝子は、電話口へ、
「嘉造さんに一寸どうぞ」
と印刷所の若主人を呼び出した。彼女のふっくりした、勝気らしい張りのある声が、簾越しに秋風の通る殺風景な室に響いた。
「もしもし、十一時半の約束だのにまだ一台も来ないんですが、どうしたんでしょう、え? ああそう。でももう二十三日ですよ。三十分ばかりしたらそちらへ行きますから、じゃ直ぐ出るようにしといて下さい、どうぞ」

        二

 鶴巻町で電車を降り、魚屋の角を曲ると、磯田印刷所へは半町ばかりであった。魚屋の看板に色の剥げた大鯛が一匹と、同じように古ぼけた笹が添えて描かれている。そのように貧しげなごたごたした家並にそこばかり大きい硝子戸を挾まれて、磯田印刷所がある。震災で、神田からここへ移って来たのだった。
「どうも只今は失礼いたしました。もう二台ばかりあがりましたから……どうぞ」
 金庫を背にした正面の机の前から、嘉造が、入って来る朝子に挨拶した。朝子と同じ年であったが、商売にかけると、二十七とは思えない腕があった。
「おい、工場へ行っといで」
「――二階――よござんすか」
 濃い髪が一文字に生えた額際に特徴ある頭を嘉造は、
「どうぞ」
と云う代りに黙って下げた。
 自分の腕に自信があって、全然情にほだされることなく使用人を使うし、算盤を弾くし、食えない生れつきは商売を始めた親父より強そうな嘉造を見ると、朝子はいつも一種の興味と反感とを同時に覚えた。朝子は、団栗眼どんぐりまなこの十二三の給仕が揃えてくれた草履に換え、右手の壁について階段を登った。
 階段は、粗末な洋館らしく急で浅い。朝子の長い膝が上の段につかえて登り難いこと夥しかった。片手に袱紗包をかかえ、左手を壁につっ張るようにし、朝子は注意深く一段一段登って行った。三分の二ほど登ると社長室の葭戸よしどが見えた。葭戸を透して外光が階段にもさして足許が大分明るくなった。
 何の気もなく、朝子はバタバタと草履を鳴らし若い女らしく二三段足速に登った。
 その途端に、さっと葭戸が開き、室内から十七ばかりの給仕女が、とび出したとしか云えない急激な動作で踊り場の上へ出た。その娘は素早く朝子をかわして、ドタドタドタ、階下へ駈け降りた。
 朝子が思わずもう誰も見えない暗い階段の下の方を見送っていると、あから顔の社長は、葭戸と平行に、書棚でも嵌め込む積りか壁に六尺に二尺程窪みがついている、その窪みの処から、っくりさり気なく室の中央へ向って歩き出した。
 朝子は何となし厭な心持がした。
 二階で親父が若い給仕娘をその室から走り出させたりしているのを、嘉造は知っているのだろうか。朝子は二重に厭な心持がして、社長室のリノリウムを踏んだ。
 建坪の工合で、校正室は、社長室を抜けてでないと行けなかった。朝子は、黙って軽く頭を下げ、通りすぎた。磯田は、机のこちら側に立って、煙草に火をつけかけていた。彼は、下まぶたに大きな汚点しみのある袋のついた眼を細め、マッチを持ち添えスパスパ火をよびながら、
「や」
と曖昧に声をかけた。
 校正室では備えつけの筆がすっかり痛んでいる。
 朝子はベルを鳴らして新しいのを貰い、工場から持ってきたばかりで、インクがまだ湿っぽい校正を、検べ始めた。
 下手な応募俳句を読み合わせているところへ、ぶらりと磯田が入って来た。
「――大分凌ぎよくなって来ましたなあ、久しくお見えなさらんようでしたが、海辺へでもお出かけでしたか」
「ずっと東京でした……あなたは? いかがです、その後」
「やあ、どうも」
 白チョッキの腹をつき出して、磯田は僅に髪の遺っている後頭部に煙草をもった手を当てた。
「年ですな一つは……一進一退です。然し梅雨頃に比べれば生れ更ったようなもんです、湿気は実に障りますなあ」
 磯田は近年激しい神経痛に悩まされ、駿河台の脳神経専門家のもとで絶えず電気療法を受けていた。朝子などには、慢性神経痛だと云った。実際の病気は決してそんな単純なものではなかりそうなことは、知らぬものないこの男の家庭生活のひどさを思っても推測されるのであった。
 さっきの小娘のことを皮肉に思い合わせ、朝子は、
「もう浅野さんはおやめですか」
と訊いた。浅野というのが駿河台の医者であった。ふっと、老人らしい眼付で窓外の景色を眺めていた磯田は、
「ああ、いやまだです」
と元気な声と共に、眼を朝子に移した。
「実は今日もこれから出かけにゃならんのです……浅野御存知ですか……遠藤伯なんぞあの人を大分信任のようですな」
 そして、半ば独語のように、
「その縁故で、死んだ津村二郎なんぞ、金を出させたって云う話もあるが……」
 朝子が仕事をしている硝子のインクスタンドの傍にマジョリカまがいの安灰皿があった。それへ磯田は話しながら煙草の灰を落した。
「この間上海から還った浅野慎ってえのが弟でね……面倒だろう、なかなか……」
 話が途切れ、磯田は暫く朝子の手許を見下していたが、
「どれ、じゃあ、どうも失礼致しました」
と立ちなおした。
「そう?……どうも失礼」
 歩きかけた磯田は、
「偉く日がさすね」
 一二歩小戻りして、丁度朝子の髪に照りつけた西日の当る窓のカアテンを下した。
 工場で刷り上げる間、三四十分ずつ手が空く。朝子は、その間に、自分一人いるきりの二階の窓々をあちらこちらへぶらぶらと歩いた。
 一つの窓と遠く向い合う位置に、工場の小窓が開いていた。普通の場末の二階家をそのまま工場に使っていた。穢い羽目の高いところに、三尺に一間の窓、そこには格子も硝子もなくていきなり内部が見えた。窓と云うより、陰気な創口のようであった。両側からもたせあった長い活字棚、その中へ、活字を戻している小僧や若い女工の姿も見えた。
 外見既にがたがたで、活字の重さや、人間の労働のために歪み膨らんだ建物の裡は、暗そうであった。女工が、その、こちらに向いて開いた狭い窓際を何かの用で通り過るときだけ、水浅黄の襦袢の衿など朝子の目に入った。朝子はもう余程前、
「いつか工場見せて下さいな」
と嘉造に云った。
「どなたにもお断りしておりますんで――どうも……穢くて仕方ありませんですよ御覧になったって」
 彼は、そう云って、机の上にひろげた新聞の上へ両手をつき、片手をあげて、ぐるりと頭の後を掻いた。
 朝子のいる室を板戸で区切った隣室で、二人の職工がこんなことを云っている声が聞えた。
「――陰気くさいが、柳なんぞ、あれで、ようのもんだってね」
「そうかねえ」
「昔何とか云う名高い絵描きが幽霊の絵をたのまれたんだとさ。明盲あきめくらにしたり、いろいろやるが凄さが足りない。そこで考えたにゃ、物は何でも陰陽のつり合が大切だ。幽霊は陰のものだから陽のものを一つとり合わせて見ようてんで、柳を描いたら、巧いこと行ったんだって」
「ふうむ」
「――死ぬと変りますね、男と女だって、生きてるときは男が陽で女が陰だが、土左衛門ね、ほら、きっと男が下向きで、女は上向きだろう。――陰陽が代って、ああなるんだとさ」
「……じゃあお辞儀なんか何故陰の形するんだろう……」
 工場らしい話題で、朝子は興味をもち、返事を待った。けれども、何故辞儀に陰の形をするのか、職工はうまい説明が見当らなかったらしく、やや暫くして静かに、
「そりゃ私にも解らないねえ」
と云う声がした。

        三

 五時過ぎて朝子は帰途についた。
 日の短くなったことが、はっきり感じられた。印刷所を出たとき、まだ明るかったのに、伝通院で電車を待つ時分にはとっぷり暮れた。角の絵ハガキ屋の前に、やっぱり電車を待っている人群れが逆光で黒く見える、その人々も肌寒そうであった。
 朝子は、夕暮の雰囲気に感染し、必要以上いそぎ足で講道館の坂をのぼった。向うから、自動車が二台来た。それをさけ、電柱の横へ立っている朝子の肩先を指先で軽くたたいた者があった。
 朝子は振りかえった。敏捷に振り向けた顔をそのまま、立っている男を認めると、彼女は白い前歯で下唇をかむように、活気ある笑顔を見せた。
「――なかなか足が速いんだな。電車を降りると、後姿がどうもそうらしいから、追い越してやろうと思ったけれど、とうとう駄目だった」
「電車が一つ違っちゃ無理だわ」
 朝子は大平と並んで、先刻よりやや悠っくり、坂を登り切った。
「どこです? 今日は――河田町?」
 河田町に、兄が家督を継いで、朝子の生家があるのであった。
「いいえ……印刷屋」
「なるほど、二十三日だな、もう。すみましたか?」
「もう少し残ってるの、てきぱきしてくれないから閉口よ。でも、まあすんだも同然」
「一月ずつ繰り越して暮すようなもんだな、あなたなんぞは……」
 彼等は、大通りから、右へ一条細道のある角で、どっちからともなく立ち止った。
「どうなさるの」
 大平は、その通りをずっと墓地を抜けた処に、年とった雇女と暮しているのであった。
「幸子女史はどうなんです、家ですか」
「家よ、きっと」
「ちょっと敬意を表して行くか」
 向いは桃畑で、街燈の光が剪定棚の竹や、下の土をしんと照し出している。同じような生垣の小体こていな門が二つ並んでいる右の方を、朝子は開けた。高く鈴の音がした。磨硝子の格子の中でそれと同時にぱっと電燈がついた。
「かえって来たらしいよ」
 女中に云う幸子の声がした。
 上り口へ出て来た幸子は大平を見て、
「ほう、一緒?」
と云った。大平は帽子の縁へ軽く手をかけた。
「相変らず元気だな」
悄気しょげるわけもないもん」
「はっはっは」
 大平は、神経質らしい顔つきに似ず、闊達に笑った。
「いやに理詰めだね」
 朝子は、赤インクでよごれた手が気持わるいので、先に内に入った。
「上らないの?」
「ちょっと尊顔を拝するだけのつもりだったんだが……」
「お上んなさい。――どうせ夕飯これからなんでしょう」
 問答が朝子の手を洗っている小さい簀子すのこの処まで聞え、遂に大平が靴を脱ぎ、入って来た。タオルで手を拭き拭き、朝子は縁側に立って、
「いやに世話をやかすのね」と笑った。
「本当さ。昔からの癖で一生なおらないと見える」
 大平は、幸子と向い合わせに長火鉢のところへ腰を下しながら、
「まあ、お互に手に負えない従兄妹を持ったと諦めるんだね」と云った。
「――然し、実のところ、これから遙々帰って、お婆さんとさし向いで飯を食うのかと思うと足も渋る」
 わざとぞんざいに、然し暖く叱るように幸子が云った。
「だから、早く奥さんをみつけなさいって云うんだのに」
 大平はそれに答えず、幸子が心理学を教えている女子大学の噂など始めた。二年ばかり前、彼の妻は彼の許を去った。初めの愛人が、今は彼女と暮している模様だ。大平は三十六であった。
 食後、三人はぴょんぴょんをして遊んだ。初め、大平はその遊びを知らず、二枚折の盤の上の文字を、
「何? ピヨン? ピヨン?」
と読んだ。
「ぴょん、ぴょんよ」
と朝子に云われた。
 幸子が簡単にルールを説明すると、
「そんならダイアモンドじゃあないか」と云い出した。
「それなら、やったことがある。対手の境界線の上まで行っていいんだ」
「これは違うのさ、一本手前までしか行っちゃいけないの」
「一番奥のが出切るまで陣へ入っちゃいけないって云うんだろう? だから、きっと行けるんだ」
「頑固だなあ」
 幸子が、じれったそうに、力を入れて宣告した。
「これは違うんだってば」
 勝負の間、彼等は、朝子が二人に何をしても平気の癖に、大平が幸子の駒を飛びすぎたり、幸子が彼の計画を打ち壊したりすると、
「こいつめ」
「生意気なことをするな、さ、どうだ」
「ほら、朝っぺ! うまいぞうまいぞ」
などというそれ等の言葉は、本気とも冗談ともとれた。
「なんて負けず嫌いなの。二人とも?」
「ああ、女の執念ですからね」
 大平が、行き悩んで駒で盤の上を叩きながら云った。
「対手にとって不足はないが、と。……どうも詰っちゃったな。朝子さん、何とかなりますまいかね」
「相互扶助を忘れた結果だから、さあそうして当分もがもがしていらっしゃい」
 この桃畑の家を見つけたのは大平であった。幸子はそれまで小日向こびなたの方にいた。朝子は一年半程前に夫を失い、河田町の生家に暮していた。幸子と二人で家を持つと決ったとき、大平は、
「よし……家探しは僕が引受けてあげましょう。どうせ学校のまわりだろう? そんならお手のもんだ」
と云った。
「隣りへ空いたなんて云って来たって行きませんよ、五月蠅くてしようがありゃしない」
 すると、まだ四五遍しか会っていなかった朝子を顧み、大平は、敏感な顔面筋肉の間から、濃やかな艶のある、右と左と少しちんばなような、印象的な眼で笑いかけた。
「念を押すところが未だしも愛すべきですね。『かしまし』に一つ足りないなんてもの、まあこちらから願い下げだ」
 或る二月の午後、幸子から電話がかかり、朝子も出かけ、この家を見た。雪降り挙句で、日向の往来は泥濘だが、煉瓦塀の下の溝などにまだ掻きよせた雪があった。そんな往来を足駄でひろって行くと、角の土管屋の砂利の堆積の上に、黒い厚い外套を着、焦茶色の天鵞絨ヴェルヴェット帽をかぶった大平が立って待っていた。
「この横丁が霜解けがひどそうで御難だが、悪くないでしょう? こちら側が果樹園なのは気が利いている」
 溶け残った雪が、薄すり果樹園一面に残っていて、日光に細かくチカチカ輝いていた。青空から、快晴な雪解の日につきものの風が渡って、杉の生垣を吹き、朝子のショウルの端をひるがえした――。
 これは、一年余り前のことだ。

        四

 続いて二日、秋雨が降った。
 夜は、雨の中で虫が鳴いた。草の根をひたす水のつめたさが、寝ている朝子の心にも感じられた。
 晴れると、一しお秋が冴えた。そういう一日、朝子は荻窪に住んでいる藤堂を訪ねた。雑誌へ随筆の原稿を頼むためであった。
 ひろやかに庭がとってあって芝が生え、垣根よりに、紫苑、鶏頭、百日草、萩、薄などどっさり植っていた。百日草と鶏頭とがやたらに多く、朝子は目の先に濃厚な絨毯を押しつけられたように感じた。
 四十四五の顔色の悪い藤堂は細君に「もっと濃く」と茶を代えさせながら、
「――秋になったが、どうも工合わるくて閉口しています」
と云った。
「数年来不眠症でしてね、こうやって家族と遮断したところで寝ても眠れない。癪にさわって暁方にジアールを二粒位飲んでやるんです。ところが、朝出かけなけりゃならないときなんか薬が残っていると見えましてね、この間も省線で、この次は目白だ、と気を張っていても夢中んなっちゃって乗り越す。はっと思ってまた戻るが、今度は戻りすぎて、一つ処を二三度行ったり来たりしました」
 細君が、
「――本当に滅茶苦茶を致しますんですからねえ」
 そして藤堂の顔に目を据えて云った。
「きっと今にどうかなっちゃうから、見ていらっしゃい」
 藤堂は暫く黙っていたが、しんねり、
「こいつもヒステリーです」
と云った。
 帰ろうとしていると、細君が、
「ああ白杉さん、お宅に、犬お飼いですか」
と訊いた。
「いいえ、飼おうと云ってはおりますんですけれど」
「あなた、じゃ丁度よござんすよ」
 藤堂の答えも待たず、
「うちに犬の児が二匹もいて、始末に困ってるんですの。じゃ一匹お宅で飼っていただきましょう、丁度いいから、今日連れてっていただいてね」
 立ちかかるのを藤堂が止めた。
「そんなに急に云ったって――御迷惑だよ」
「――駄目でしょうか……」
 細君は、高い椅子の上で上体を捻るようにし、不機嫌に朝子を見た。
 春になると、庭へ、ヒアシンスや馨水仙が不断に咲き満ちると云うことであった。それ等の花に囲まれ、益々病的であろう夫婦の生活を想像すると、朝子は頽廃的な絵画を眺めるような気分を感じた。彼等のところにも、夫婦生活の惰力が強く支配している。それがどんな沼か、朝子は、彼女の短い亡夫との夫婦生活で知っている。
 朝子は、漠然と思い耽りながら、社の門を潜った。
 小使室に、伊田がいた。伊田が低い腰かけにかけている後に、受附の茂都子が立って、ぐいぐい伊田の頸根っこを抑えつけていた。伊田は朝子を認め、頸をちぢこめたまま、上目で挨拶した。
「――ひどくいじめられるのね」
「ええ、ええ」
 茂都子が引とって朝子に答え、小皺のあるふっくりした上まぶたをぽっとさせて、
「本当に、この子ったら、すっかり男っ臭くなっちまって……あんなに子供子供してたのに」
 なお抑えつけようとした。伊田が本気で、
「馬鹿! 止してくれ」
と、手を払い立ち上った。
 二時間程経って、朝子が手洗いのついでに、例の濠を見渡す、ここばかりはややセザンヌの絵のような風景を眺めて立っていると、伊田が来た。彼は、さっき見られたのが大分極り悪い風であったが、それは云わず、
「今日おいそがしいですか」
と朝子に訊いた。
「いいえ――用?」
「用じゃないんですけど……夜、上ってかまいませんか」
「いらっしゃい」
「川島君も行くかも知れないんですが」
「どうぞ」
「川島の奴……叱られちまやがった」
 伊田は、面白がっているような、怖くなくもないような、善良な笑い顔をした。
「……じゃ」
 朝子に、訊ねる時間を与えず、彼は云った。

        五

 日露戦争当時、或る篤志な婦人が、全国の有志を糾合して一つの婦人団体を組織した。戦時中、その団体は相当活動して実績を挙げた。主脳者であった婦人が死んだ後も、団体は解散せず明治時代帷幄いあく政治で名のあった女流を会長にしたりして、次第に社会事業など企てて来た。
 然し精神は昔の主脳者と共に死んだ。理事、その他役員が上流婦人ばかりなので、実権は主事、または庶務課長の諸戸吉彦にあった。女は女なりに、男は男でこの団体の内部を野心の巣にした。
 雑誌部の仕事の性質と、自身の気質の上から、朝子はそれ等の外交や政治に関係出来なかったが、目につくことは多くあった。
 社会事業の一として、内職に裁縫をさせていたが、工賃は市価よりやすかった。ちょっと不出来な箇処は何度でも縫いなおさせた。
「それじゃ、つまり、いくらでも払える人に、やすいお仕立物どころをこしらえて上げてるわけね。裁縫学校じゃない、内職なんだから、もう少しどうにかするのが本当ですよ」
 朝子は、初めの時分、そんなことも云ったが、永年そこで働いている園子は、女学校長のように笑いながら、
「そんなこと云っちゃ、何も出来ませんですよ。これだってないより増しなんですから」
と、とり合わなかった。社会事業全般、ないより増しの標準でされているらしかった。
 川島が叱られたということ、それも、この働き会の方に関係していた。
 W大学へ通いながら、庶務に働いている川島が宿直のとき、小使室で、働き会の小谷という女としゃべっていた。そこへ、諸戸が外から帰ってきて、翌日川島を呼びつけ酷く詰問したのであった。
 川島は、小心そうに眉の上に小皺をよせ、
「びっくりしちまった、――とても憤慨して罷めさせそうなことを云うんだもん」
と苦笑した。
「一体何時頃だったの?」
「八時頃ですよ」
 伊田が朝子に、
「小谷さんて人、知りませんか」
と訊いた。
「さあ……河合さんなら知ってるけれど」
「ふ、ふ、ふ」
 伊田も川島も笑った。
「――色白な人で……幾つ位だい? もうよっぽど年とってるんだろう?」
「三十位なんだろう」
 弱気らしく川島が答えた。
「何でもないなあ、解ってるんだけれど……その時だって。話しでもすると思って、いやな気がしたんだろう」
「この頃馬鹿にやかましくなっちゃったね、こないだ矢崎さんもやられたらしいよ」
 朝子は、
「でも、諸戸さん、一種の性格だな」
と云った。
 諸戸は、女房子供を国許に置き、一人東京で家を持っていた。まるで一人暮しなのに、家の小綺麗なことは評判であった。現在彼等で経営主任のようなことをしている、そして将来彼のものになるだろう或る女学校長とは特別な関係で、半ば公然の秘密であったが、諸戸は近来、働き会の方の河合という女といきさつがあった、もう一人そう云う人が働き会の中にある。そんな状態であった。
 のほほんで、その河合と連れ立って帰るようなこともするのに、時々川島の場合のようにぶざまな痙攣けいれん的臆病を現すのであった。
「気のいいところもある人なんだから、あなた、ただ叱られていずに、ちゃんと自分の立場を明かにして置くといいんですよ」
 朝子は川島に云った。
「こちらがしゃんとして出れば、じき折れる人なんだから」
「憤ると、でも怖いですよ」
 川島は、いかにも学生らしく、眼を大きくした。
「とてもでかい声で『君!』ってやられると、参っちゃうな。云うことなんか忘れちゃう」
「だから、あなたがそれよりもっとでかい声で『何でありますか!』って云えばいいのよ」
 多分、相原の口添えで、川島を罷めさせることは中止になったらしいと云うことだった。相原は、諸戸と同郷で、ころがり込んでいるうち、府下のセットルメント・ワークを任され、今では一方の主になっている男であった。伊田と川島は異口同音に、
「――相原氏の方があれでましでしょう」
と云った。
「男らしい点だけでもましじゃないですか」
「今度だって、諸戸氏、直き廊下であったら、やあ、なんて先から声をかけるんだよ。とてもお天気やだね。何が何だか分りゃしない」
「相原さん、諸戸さんにゃ精神的欠陥があるんだって云ってました」
 朝子は、段々いやな心持になって、
「もうやめ! やめ! こんな話」
と云った。
「第一相原さんが諸戸さんについて、そんな風にあなたがたに云えた義理ではない筈ですよ。葭町の芸者とごたごたがあった、その借金の始末だって諸戸さんにして貰ってるそうだし……第一、今の地位を作ってくれたのが諸戸さんじゃありませんか」
「――そうなんですか」
「こないだ、将来、万事は自分が切り盛りするらしい口吻でしたよ、でも……」
「若し、相原氏が、反諸戸運動を画策してるんだったら、私は見下げた男だと思う」
 朝子は、亢奮を感じた顔付で云った。
「諸戸さんにだって、卑怯なところもけちなところもあるが、一旦自分の拾った者はすて切れないというところがあります。そうしちゃ、飼犬に手を咬まれているんだけれど」
 諸戸は弱気で、どこか器のゆったりしたところがあり、相原は表面豪放そうで、内心は鼠の歯のように小さくて強い利己主義者であった。相原を食客に置いた時分から、十年近く、そういう気質の違いや、共通の利害が諸戸にとって微妙な心理的魅力であると見え、少なくとも表面、相原は不思議な感化を諸戸に持っているのであった。
 彼等はトランプをしたり、朝子が最近買ったフランスの画集を観たりして、十一時近く帰った。玄関へ送って出ながら、朝子は冗談にまぎらして云った。
「まあ、なるたけお家騒動へは嘴を入れないことね。私共の時代の仕事じゃないわ」

        六

 朝子が、買物に出ようとして玄関に立っていた。日曜であった。そこへ大平が来た。
「――出かけるんですか」
 彼は洋杖ステッキをついたまま、薄すり緑がかって黄色いセルを着た朝子の姿を見上げた。
「一人?――もう一本は?」
 幸子と自分のことを、朝子は神酒徳利と綽名していた。
「本とお話中でございます。――でも直ぐかえりますから、どうぞ……お幸さん道楽の方らしいから大丈夫よ」
 朝子は草履をはき、三和土たたきへ下りて、
「さ」
 大平と入れ換わるようにした。
「――どの辺まで行くんです」
「ついそこ――文房具やへ行くの」
「いい天気だから、じゃ私も一緒に行こうかな」
「そう?――」
 そこに女中がいた。頭越しに朝子は大きな声で、
「ちょっと」
と幸子を呼んだ。
「大平さんがいらっしゃってよ。ここまで来て」
「何さわいでいるのさ」
 幸子が出て来た。
「どうも声がそうらしいと思った」
「大平さんも外お歩きになるんですって。あなたも来ないこと? 少し遠くまで行って見ましょうよ」
「来給え、来給え、本は夜読める」
「本当にいい天気だな」
 幸子は、瞳をせばめ、花の終りかけた萩の上の斑らな日光を眺めていたが、
「まあ、二人で行っといで」
と云った。
「外もいいだろうが、障子んなかで本よんでる心持もなかなか今日はわるくない」
 大平と連立ち、朝子は暫くごたごたした町並の間を抜け、やがて雑司ケ谷墓地の横へ出た。秋はことに晴れやかな墓地の彼方に、色づいたくぬぎの梢が空高く連っているのが見えた。線香と菊の香がほんのり彼等の歩いている往来まで漂った。石屋ののみの音がした。
 彼等は、電車通りの文房具屋で買物をし、菓子屋へよってから、ぶらぶら家へ向った。
「――十月こそ秋ね……お幸さんも来ればよかったのに」
「住まずに考えると、ちょいとごみごみしているようで、小石川のこちら側、なかなか散歩するところがあるでしょう」
「古い木があるのもいいのよ」
 大平は、やがて、
「このまんま戻るの、何だか惜しいなあ」
と、往来で立ち止った。
「どうです、ずうっと鬼子母神の方へでも行って見ませんか」
「そうね――そして、またあのお蕎麦そばたべる?」
 去年の秋、幸子と三人づれで鬼子母神の方を歩き、近所の通りで、舌の曲る程辛い蕎麦をたべた。
「ハッハッハッ、よほど閉口したと見えて、よく覚えてるな――本当に行きませんか。さもなけりゃ、私んところへこのまま行っちゃって、御馳走をあなたに工面して貰ってから幸子君を呼ぶんだ」
 その思いつきは朝子を誘った。
「その方が増しらしいわ……でも、お幸さん心配することね」
「なあにいいさ! 本読ましとけ。――心配させるのも面白いや」
「――ここにいりゃ何でもないのに」
「いたら、まいてやる」
 大平は、いやに本気にそれを云った。
 朝子は、家の方へ再び歩き出した。大平も、自分の覚えず強く発した語気に打たれたように暫く口をつぐんで歩いた。
 桃畑の角を曲ったら、門の前を往ったり来たりしている幸子の姿が見えた。朝子は、その姿を遠くから見た瞬間、自分達が真直ぐ還って来たことを心からよろこんだ。
「お待ち遠さま」
「何だ! それっくらいなら一緒に来りゃいいのに」
 大平が渋いように笑った。
「君が案じるって、敢然と僕の誘惑を拒けたよ」
「ふうん」
 先立って門を入りながら、幸子は、気よく、少し極りわるそうに首をすくめ、
「――今どこいら歩いているだろうと思ってたら、自分も出たくなっちゃった」
 茶を飲みながら、朝子は大平が往来で提議したことを話した。
「――頼みんならない従兄よ、あなたがいれば、まいちゃうっておっしゃるんだから」
「そうさ、素介という男はそういう男なの、どうせ。――アッペルバッハが、ちゃんと書いている」
 幸子は、さっぱりした気質と、その気質に適した学問の力とで釣合よく落つきの出来た眼差しで朝子と素介とを見較べながら云った。
「従兄の悲しさに、あんたも私も、どうもサディストのタイプに属するらしいね。アッペルバッハの新しい性格分類法で行くと。だから、マゾヒストの型で徳性の高い朝っぺさんにおって貰って調和よろしいという訳さ。私なんか、同じサディストでも、徳性が高いからいいけれど、この素介なんぞ――」
「――君に解ってたまるもんか。――第一そのアッペル何とかいうの、ドイツの男だろう? ドイツ人の頭がいいか悪いかは疑問だな。フランス人の警句一つを、ドイツ人は三百頁の本にする。そいだけ書かないじゃ、当人にも呑込めないんじゃないかな」
「頭のよしあしじゃない、向きの違いさ」
 アッペルバッハの説は、マゾヒスト、サディストの両極の外に男性的、女性的、道徳性、智能性その他感情性などの分類法を作り、性能調査の根底にもするという学説であった。朝子は、
「政治家になんか、本当にサディストの質でなけりゃなれないかもしれない」
と云った。

        七

 夕方近く、幸子が教えたことのある末松という娘が、も一人友達と訪ねて来た。何か職業を見出してくれと云うのであった。
「経済上、仕事がなけりゃ困るんですか」
「いいえ、そうではありませんけれど……」
「家に只いても仕方がないというわけですね――で? どんな仕事がいいんです?……何に自信があるんです?」
 末松は、並んでかけた椅子の上で、友達と互に顔を見合わせるようにし、間が悪そうに、
「何って……別に自信のあるものなんかありませんけれど――、若し出来たら、雑誌か新聞に働いて見たいと思います」
「そういう方は、ここにいる朝子さんに持って行けば、何かないもんでもないかもしれないけれど……ジャアナリストになるつもりなんですか? 将来」
 そこまで考えてはいなかったと見え、娘達は身じろぎをして黙り込んだ。幸子は、自分まで工合わるそうに微笑を顔に浮べ、暫く答を待っていたが、やがて学生っぽい調子で、
「――その位の気持なんなら、却って勉強つづけていたらどうなんです」
と云った。
「ひどい不景気だから、きっといい口なんぞありませんよ。あったにしろ、そんな口にはあなたがたより、もっと、今日生きるに必要な男が飛びついています」
 不得要領で二人が帰った。窓際へ椅子を運び、雑誌を繰りながらそれ等の会話をきいていた大平が、体ごと椅子をこちらへ向け、
「ふうわりしたもんだな」
 好意と意外さとをこめて、呟いた。
「会社に働いている連中も、ああいう娘さん達のワン・オブ・ゼムか」
「簿記や算盤が達者なだけ増しかもしれない」
「然し、変ったもんだなあ」
 大平が、真面目な追想の表情を薄い煙草色の細面に現わして、云った。
「とにかく、相当教育のある連中が、脛かじりを名誉としなくなったんだからなあ。青年時代の熱情には、経済観念が、全然なかった。今の令嬢は、独立イクォル経済的自立と、きっちり結びつけているんだから油断ならない」
 そして、彼は持ち前の、ちんばな、印象的な眼で、
「ここにも現に一人いらっしゃるが……」
と、朝子の顔を見て笑った。
「同じ判こをついて廻す帳面でも、中に、例えばまあ、あさ子なんて小さい印があるとちょっと悪くないな」
 幾分照れ、朝子は、
「じゃ、私女学校の先生に世話して上げるわ」
と云った。
「そうしたら、右も左もボンヌ・ファム(美人)ばかりよ」
 大平は、直ぐそれをもじって、皮肉に、
「ボーン・ファーム(骨ごわ)?」
と訊き返した。
 朝子は、別に笑いもせず大平の顔をみていたが、やがて云い出して、
「ね、お幸さん、どう? 私この頃懐疑論よ。働く女のひとについて。女権拡張家みたいに呑気のんきに考えていられなくなったわ」
「ふうむ」
「自分の職業なら職業が、人生のどんな部分へ、どんな工合に結びついているか、もう少し探究的でなけりゃ嘘なんじゃないのかしら。ただ給料がとれていればいい、厭んなったらその職業すてるだけだ。それじゃ、つまり女も男なみに擦れて、而も、彼等より不熟練で半人前だというのが落ちなんじゃないの」
「女性文化なんてことは、そこが出発点だね」
 大平が言葉を挾んだ。
「然しね」幸子が寧ろ大平に向って云った。
「女性文化必ずしも、女は内にを意味しやしないからね。――あなたも知ってる、ほら日野、東北大学のあのひとの奥さん、もう直き立派な女弁護士ですよ」
「変てこな表現だけど」
 ちょっと笑い、朝子が、
「私のは、超女性文化主義よ」
と云った。
「その奥さんの方、きっと、男の弁護士が利益のすくない事件に冷淡だったり、自分の依頼者を勝たせるためには法網を平気でくぐったりするのに正義派的憤慨で、勉強をお始めんなったのよ。また、女が罪を犯す心理は、女に最も理解される、そこまでが女性文化じゃない? 謂わば。それなら、自分が楯にとったり、武器にしたりする法律というものはどんなものか。どんな社会がこしらえたか。社会とはどんなものか。理窟っぽいみたいだけれど、この頃、自分の職業でも、追いつめて行くと、何だかそこまで行っちまうのよ」
「――つまり我等如何に生くべきか、と云うことだね」
 朝子は、不安げな、熱心な面持で大平に合点した。
「だからね、私だって、ただ月給九十円貰って、あてがわれた雑誌の編輯が出来るだけじゃ、生きてもいないんだし、職業も持ってるんじゃないのよ――どんな雑誌を何故編輯するのか、そこまではっきりした意志が働いて、やっと人間の職業と云えるんだろうけれど……」
 大平が、例の目から一種鋭い、朝子を嘲弄するのか自分を嘲笑うのか分らない強い光を射出しながら呟いた。
「――朝子さんのお説によると、じゃあ、我々会社員の仕事なんていうものは、要するに月給を引き出す石臼廻しみたいなもんかな」
 彼の微かな皮肉を正直に受け、朝子は非常に単純に、
「そうかも知れないのよ」
と答えた。
 やがて、朝子は生来のぴちぴちした表情をとり戻して、云った。
「私、何、働いて食っているぞって、実はちょっと得意でなくもなかったんだけれど、どうも怪しくなって来たわ、この頃。今に私が本当に自分の雑誌創ったら、大平さん読者になって頂戴」
 これは実際問題として、朝子の心に育ちかけていることなのであった。
 幸子は机に向って、明日の講義の準備をしていた。こちらで、大平は朝子と低声こごえで話していた。朝子は、編物を手にもっていた。
「だれの?」
「甥の――わるくないでしょ? この色――」
「いつか往来で会った坊ちゃんですか」
「ああ、お会いになったことがあるのね」
 幸子が、それを小耳に挾んで机に向ったまま、
「だれに会ったって?」
と大きな声で云った。
「健ちゃん」
 暫く幸子のペンの音と、竹の編棒の触れ合う音ばかりが夜の室内を占めた。そのうるおいある静けさが、彼の心にしみ入ったという風に、大平がうつむいている朝子の髪の辺を見ながら呟いた。
「丁度こんなときもあったんだろうなあ」
 朝子が、死んだ夫と暮していた生活の中に、今夜のような家庭的な情景もあったであろうという意味を、朝子は感じた。彼女は淡い悲しみを感じ、黙った。同時に大平の心の内にも、それにつけて自ら思い出される何事もその妻との間にないと、どうして云えよう。そう、朝子は思った。彼女はこれまでも、大平の去った妻については、自分の趣味と遠慮から進んで一言も触れなかった。今も、朝子は黙ったまま、小さいスウエタアの一段を編み終った。片手で、畳に落ちている毛糸玉から、更に糸のゆとりを膝の上へたぐりあげ、向きをかえて編みつづけようと、朝子が椅子の上で、少し胸を伸ばした。そのはずみを捕えたように、
「あなたは変ってるね」
 大平が云った。
「あなた、本当にまた細君になる気持はないんですか」
「あなたはいかが?」
「ふーむ」
 大平はうなって、然しはっきり云った。
「ないな」
 よほど間を置いて、
「それが、だが自然なんだろうな、一方から云えば」
 大平は椅子の腕木に片肘をつき、その上へ頬杖をついていた姿勢を改めて、腕組みをした。彼はそのままやや久しく沈吟していたが、急のその顔を朝子の方へ向け、
「まさか発菩提心という訳じゃありますまいね」
「そんなことありゃしないわ。ただ……」
「なに?」
「……私の心持ん中で、もう結婚生活、すっかり完結コムプリートした気がするのよ。また、同じことを別にして見たいと思わないだけ」
 彼等は、幸子の邪魔にならないように、初めっから小声で話していたが、このとき、朝子は異様な閃光が、大平と自分との低い、切れ切れな会話の内に生じているのを感じた。変に心を貫通する苦しい心持で、彼女は身動き出来なかった。大平は、一層低い声で、正面を見据えたまま、やっと聞える位に云った。
「――変りもん同士で、面白くやってゆけると思うんだがな……自由に……」
 ――朝子の編棒は、同じように動いている。彼女は黙っている。大平も黙ってしまった。突然、幸子が机から、
「えらく静かだな」
と云った。
「何してるの」
「うむ……」
「さあ、もう一息ですみますよ」
 気を入れなおし、机にこごみかかった幸子の背なかつきを見て、朝子は愕然として気になった。彼女は、幸子がそこにいるのを知りながら忘れていた瞬間の長さ、深さが、幸子に声をかけられ、初めて朝子の意識にのぼったのであった。非常に幸子と無関係などこへかへ心が去っているようで、そのままでは、ふだんの位置に置いて幸子を認識するのにさえ困難を覚える。そんな気持だった。
 この覚醒は、実に我ながらのおどろきで朝子を打ち、彼女は、今幸子に振りかえられては堪らない心持になった。彼女は、ぼんやり燃えるような顔をして、部屋を出てしまった。
「おや、いなかったの!」
 幸子の意外そうな声が、こちらの室で鏡の前に佇んでいた朝子のところまで聞えた。

        八

 翌日、朝子は編輯所へ出かけて行った。
 事務をとっている間にも、時々、昨夜の、心を奪われた異様な感じが甦って来た。その度に朝子は一時苦しい気持になった。歓びで胸がわくわくする、そんな切なさではなく、真直ぐに立っている朝子を、どこからか重く、暗く、きつく引っ張る、その牽引ひっぱりの苦しさであった。
 三時頃、庶務にいる男が、
「――諸戸さん、亀戸かめいどですか」
と入って来た。
「さあ、知らないね」
「白杉さん、今朝お会いになりましたか」
「文部省へ行くとかってお話でしたよ」
「――文部省へ? 何かあるのかしら……」
 矢崎が、冷淡なような、根掘り葉掘りのような口調で聞き出した。
「どうしたんだね」
「新聞社から来たんですよ」
「××じゃないのかい?」
 団体に出入りする、諸戸の子分のような記者があるのであったが、その男が告げた名はその社ではなかった。
「へえ……」
 矢崎は、不精髯の短かく生えた口をとがらせ、考えていたが、
「呼んだのかい」
と云った。
「売り込みさ、――また、ここの資金をこっそり学校の方へ流用している事実があるとか何とか云って来たらしいんだ」
「誰が会ったんだ」
「鈴本さん――そんなこと絶対にないと思うって熱心にやってましたよ」
 矢崎は、それぎり黙り込み、仕事をしつづけたが、彼の様子を見ると、朝子は、矢崎がそのことについて全然知らぬではないと感じられた。そんなことに無関係な朝子さえ、とっさにそんな事実はあるまいと思えず、漠然疑いを抱く。その程度に、団体内部の空気は清潔でないのであった。
 程経て、朝子が廊下を行くと、向うから諸戸が、ひどく急ぎ足にやって来た。朝子はちょっと会釈した。平常なら、二言三言口を利くところを、彼は殆んど朝子をも目に入れなかった風で、角を曲ろうとした。
 小使が、草履を鳴らし、それを追った。
「あの、自動車は直ぐ来させましてよろしゅうございますか」
 角を曲る急な動作でモウニングの尾をあおるようにしながら、左手を後へ振り、諸戸は、
「直ぐ! 直ぐだ」
 叫ぶように命じた。
 その廊下の外に、一本の石榴ざくろの木が生えていた。このような公共建築の空地に生えた木らしくいつも徒花あだばなばかり散らしていた。珍しく、今年は、低い枝にたった一つ実を結んだ。その実は落ちもせず、僅かながら色づいて来た。がらんとした長廊下や、これから相原に会い、買収策でも講じるであろう諸戸の周章した後姿、風に動く草まで、総て秋蕭々と細長い中に、たった一つ石榴の実は円く重そうで、朝子に何か好もしい感じを与えた。
 朝子は立止って、秋風の午後に光る石榴をながめた。
 締切りで、毎日編輯所に用がある。
 朝子はこれ迄と方針を変え、同じ沈滞した雑誌にも幾分活気を与えるため、経済方面の記事、時事評論など加えることにした。そのためにも用事が殖えた。朝子は、仕事に一旦かかると、等閑に出来ない気質を現わして働いた。
 ほんの一時的な火花で、神経が疲れていたせいだという位に考えていた、先夜の、大平との感覚は、思いがけずいつまでも朝子の心に影響をのこした。編輯所で手が空き、窓から濠の景色を眺めている。浅く揺れる水の面に、石垣とその上の芝との倒影がある。水に一しお柔かな緑が、朝子の活字ばかり見ていた眼に、休安を与える。微かなくつろぎに連れ、そんなとき、朝子の心に、例の引っぱりが感じられた。引っぱりは、依然重く、きつく、暗かった。然しその暗さは、精神上の不幸のように心から滲み出して、眼で見る風景までをくろずませる種類のものではなかった。緑はどこまでも朗らかな緑に、日常のすべてのことに昨日、今日、一昨日そのまま純粋に感じられる。それ等とまるで対立して一方に暗い引っぱりと、それにかれて傾く心の傾斜とを感じているのであった。片側ずつ、夜、昼と描き分けられた一面の風景画のような心であった。言葉にすれば『苦しいぞ、だが、なかなか悪くない』朝子はそんな心持で、切ない自分の心の、二重の染め分けを眺めた。
 朝子が、夫を失ったのは二十四のときであった。彼女は近頃になって、元知らなかった多くのことを、男女の生活について理解するようになった。彼女の中に、半開であった女性の花が咲いた。
 若し今まで結婚生活が続いていたら、自分はこのように細かに、何か木の芽でも育つのを見守るように心や官能の生長を自分に味うことが出来たであろうか。朝子はよくそう思い、世間並に考えれば、また当時にあっては、朝子にとっても大きな不幸であった不幸を、ただ不運とばかりは考えなかった。女一人の生長。――自然はその女が夫を持っていようといまいと、そんなことに頓着はしていない。時が来れば、花を咲かせる。――自然は浄きかな――
 然し、朝子は大平を愛しているのではなかった。彼のは、朝子が再び結婚を欲しない意味とは全然違う。ただ面倒くさい位の心持から、消極的自由を保っていることも判っていた。彼にすれば、悪い心持はせず一年余知り合った朝子が、ひとりで、自由で、ちょっと面白くなくもなさそうなのに不図心づき、何か恋心めいたものを感じたのであろう。
 朝子にとっても、ぼんやり幸子の従兄あにとして見ていた大平が、一人の男としてはっきり現われた点は同じであった。けれども、細かく心持を追ってゆくと、朝子にとって魅力あるのは大平という人自身ではなかった。大平があの夜以来、朝子の心の内にかき立てた感覚が、朝子を牽っぱるのであった。
 その意識は、桃畑の前の小さな家で、静かに幸子と話したりめいめいがめいめいの仕事をもちよって一つ灯の許にいる夜など、特に明瞭に朝子の心に迫った。
 朝子は、幸子を愛していた。彼女は幸子のどんな些細な癖も知っていたし、欠点も、美しき善良さをも知っていた。幸子が癇癪を起し、またそれが時々起るのであったが、とても怖い顔をして朝子に食ってかかる。そのときの、世にも見っともない幸子の顔付を思い出してさえ、朝子は滑稽と幸福とを感じ、腹から笑うことが出来た。
 大平について、自分はそのような、何を抱いているだろう!
 朝子は、自分の感情に愕きつつ考えるのであった。幸子といて、互に扶けつつ生活を運んで行くことに、朝子は真実の不平や否定の理由を心のどこにも持っていなかった。
 それだのに、その熱い力は異様に牽きつける。真空のように吸いよせる。朝子の全身がそこへ向ってひたすら墜落することを欲した。その発作のような瞬間、朝子は自分の肉体の裡で、大きな花弁が渦巻き開き、声なき叫びで心に押しよせるように切なく感じるのであった。
 或る午後、幸子が長椅子で雑誌を読んでいる縁側に籐椅子を出し、朝子が庭を眺めていた。隣家の生垣の際に一株の金木犀があった。やや盛りを過ぎ、朝子の方に庭土の上へまで、金柑色の細かい花を散り敷いてその涼しい香を撒いていた。その香は秋の土の冷えの感じられる香であった。
 朝子は、昼過、印刷屋から帰ったところであった。そこで年とった女工が、隣室で、
「ねえ、源さん、組合ってあるんだってね、そこへ入ると毎月二十銭だか会費納めるんですってねえ」
「はあ」
「そいで何だってえじゃあないの、どっかの工場でストライキでもすると、皆でお金出し合ってすけてやるんだってね」
「へえ」
「いくらでも出さなくちゃならないのじゃ、困っちゃうね」
 源さんと呼ばれた男が、気なさそうに、
「ええ」
と返事した。そんなことを、元気に幸子に喋ってきかせた。
 朝子の黙り込んだのを、幸子はただ疲れたのだと思ったらしい。長椅子の横一杯に脚をのばし、読んでいる彼女の楽な姿勢を、朝子はっと見ていたが、突然顔と頭を、いやいやでもするように振り上げ、
「ね、ちょっと、私二つに裂けちゃう」
 小さい、弱々しい声で訴えた。
「何云ってるのさ」
 膝の上へぽたりと雑誌を伏せ、笑いかけたが、朝子の蒼ざめた顔を見ると、幸子は、
「――どうした」
 両脚を一時に椅子から下した。
「ああ二つんなっちゃうわよ、裂けちゃう」
 朝子は背中を丸め、強い力で幸子の手を掴まえて自分の手と一緒くたにたくしこんで、胸へ押しつけた。
「どうした、え? これ!」
 幸子は、駭いて、背中を押えた。
「口を利いて! 口を利いて!」
 朝子は、涙をこぼしながら、切れ切れに、
暗い瞬間ダアク・モウメント!――暗い瞬間!」
と囁いた。

        九

 転退を欲する本能、一思いに目をつぶって墜落したい狂的な欲望、そういうものだけが、やがて朝子の心の中に残った。それ等の欲望が跳梁するとき、常に仲介者として、大平の存在が、朝子の念頭から離れぬ。朝子は、自分に信頼出来ない心持の頂上で、その日その日を送った。生活はほんの薄い表皮だけ固まりかけの、熱い熔岩の上に立ってでもいるように、あぶなかった。
 幸子の姉で、山口県へ嫁入っている人があった。
 春、葡萄状鬼胎の手術を受けてから、ずっとよくなかった。最近容体の面白くない話があったところへ、或る日、幸子の留守、電報が来た。幸子が帰って、それを見たのは四時頃であった。
「こりゃ行かなくちゃならない」
「勿論だわ」
「旅行案内、私んところになかったかしら」
 朝子は、今独りにされることは恐しくなって来た。
 幸子が帰って来る迄に、自分は今の自分でなくなってしまっている。――そんな予感がした。
 朝子は、
「私も行っちゃおうかしら」
と云った。
「一緒に?」
「うん」
「そりゃ来たっていいけど……」
 幸子は、旅行案内から眼をあげ、
「駄々っ児だな。まだ雑誌も出ないじゃないの」
と苦笑した。
「駄目だ、仕事を放っちゃいけない」
 校正がまだ終っていなかった。然しそれはどうにもなることであった。暫く考えた後、朝子は、
「私、行く」
と、椅子から立ち上った。
「今独りんなると碌なことをしないにきまってる。いやだわ」
 幸子には、いい意味でぼんやりなところがあり、朝子の動揺している心持を知っていても、実感としては、わからないらしかった。彼女は、
「いなさい、いなさい」
 いかにも年長らしくきめつけた。
「そんなこって、どうするのさ」
 それから間に合う汽車は九時十五分であった。幸子は手鞄に遽しく手廻りものをつめながらまた云った。
「第一、私の旅費さえかつかつなんだもの」
 銀座で見舞物を買ったりしているうちに、朝子は、変な不安から段々自由な心持になった。
 幸子のいないのもよい。自分の前後左右を通りすがる夥しい群集を眺めながら、朝子は思った。自分も苦しいなら苦しいまんま、この群集の一人となって生きればよいのだ。どんなに苦しくても、間違っても、人間の裡にあればこそだ。
 ところどころの飾窓の夜の鏡に、ちらりと、自分の歩いている姿が映った。その自分を、内心で刺している苦しさや、一瞬同じ灯に照らされ鏡にうつる様々な顔、ネクタイの色などに、朝子は暖い感情を抱いた。
 外国へ出発する名士でもあると見え、一等寝台の前で、さかんにマグネシウムの音がした。幸子の乗った車室の前のプラットフォームには、朝子の他四五人の男女がいるだけであった。窓から半身外へのり出し、幸子が訊いた。
「大丈夫?」
 朝子は、頬笑んで合点した。
「本当に?」
「本当に。――大丈夫でなくたって、大丈夫と思っちゃった」
「何のことさ、え? 何のこと?」
「いいのよ、安心して」
「着いたら電報打つけど、若し何かあったら」
 何心なく云いかけ、驚いて止めた拍子に、幸子は赤い顔をし、口に当てた掌のかげで舌を出した。朝子は、
莫迦ばかね」
 薄笑いしたが、段々おかしく自分もしまいに声を出して笑った。幸子は習慣的に、大平に頼めと云いかけたのであった。
 列車が動き出す、万歳ばんざァーイという声がプラットフォームの二箇所ばかりで起った。
 カーブにつれて列車がうねり、幸子の振る手が見えなくなってから、朝子は歩き出した。すると、人ごみの中から、
「――しばらく」
 太いフェルト草履の鼻緒をそろえて、挨拶した者があった。
「まあ――」
 朝子と、同級の中では親しい部の富貴子であった。
「来てらしたの? この汽車?」
 富貴子は、ずば抜けて背の高い肩の間へ、首をちぢめるような恰好をした。
「母の名代を仰せ付かっちゃったの」
 車寄せへ出ると、
「あなた、真直ぐおかえり?」
 洒落しゃれた紙入れを持ったクリーム色の手套のかげで、時間を見ながら富貴子が訊いた。
「――何だかこのまんまお別れするの厭ね、……銀座抜けましょうか」
「私かまわないけれど――いいの? あなたんところの小さい方」
「いいのよ」
 富貴子は朝子の手を引っぱって歩き出した。
「名代してやったんですもの、暫く位いいお祖母ちゃんになってくれたっていいわ。こんな折でもないと、私なんぞ、哀れよ。身軽にのし出すことも出来ないんですもの」
 夫が外遊中で、富貴子は二人の子供と実家に暮しているのであった。
 先刻は幸子と新橋の方から来た、同じ通りを逆の方向から、今度は富貴子と歩いた。富貴子は、
「あ、ちょっと待って頂戴」
と云って、途中で子供のために手土産を買った。そうかと思うと、呉服屋の陳列台の間を、ペーブメントの連続かなどのようにぐるりと通りぬけたりした。朝子は女学校時代のまんまの気持で、ずっと母となった富貴子の態度に、好意を感じた。糸屋の飾窓に、毛糸衣裳をつけた針金人形が幾つも並んでいた。朝子はその前へ立ち止った。
「ちょっと――いらないの?」
「なあに――まさか!」
 二人は、珈琲コーヒーを飲みによった。友達の噂のまま、
「結局一番いいのは、あなたなのよ、朝子さん」
 断定を下すように富貴子が云った。
「私みたいに一時預け、全く閉口。預ってる手前っていうわけか、いやに遠廻しの監視つきなんですもの」
「それも、もう十月の辛抱でしょう!」
 顎をひき、上眼を使うようにして合点したが、富貴子は急に顔を耀かせ、
「そりゃそうと、あなたの方、どうなのよその後」
と云った。
「何が」
「いやなひと! 相変らず?」
「相変らずよ」
「――うそ!」
「どうして? 私はあなたと違って正直に生れついているのよ」
「だって……ああ、じゃあ、そうなの、やっぱりあなたは偉いわね」
 およそその意味が想像され、朝子はぼんやり苦笑を浮べた。すると、云った方の当人が、今度はそれを感違いし、意外らしく、胸まで卓子テーブルの上へのり出して、逆に、
「――そう?――大道無門?」
と小声で念を押しなおした。
 朝子はそうなると、なお笑うだけで、パイをたべていたが、
「モダンだって幾通りもあるんじゃないの――少し話は違うけれど」
と云った。
 全く、個人的に自己消耗だけ華々しく或は苦々しくやって満足している部と、それが一人から一人へ伝わり、或る程度まで一般となった現代の消耗が身にこたえて徹えてやり切れず、何か確乎とした、何か新しいものを見出さなくてはやり切れながっている人たちもきっとある。朝子は自分の苦痛として、それを感じているのであった。後者に属する人は、強烈な消耗と同時に新生の可能の故に、自分を包括する。更にひろい人間は、群を忘れることが出来ない。例え、それに対して自分は無力であろうとも忘れることは出来ない。
 朝子は、考え考え珈琲を含んだが、不図、一杯の珈琲をも、自分達は事実に於て夥しい足音と共に飲んでいるのだと感じ、背筋を走る一種の感に打たれた。
 朝子は、やがてぶっきら棒のように、富貴子に訊いた。
「いつか――あなたとだった? 底知れぬ深さ、っていう詩読んだの」
「さあ、……そうかしら」
 彼女等のいるボックスを、色彩ではたくようにして入って来た若い一団に気をとられ、富貴子はうっかり答えたが、
「おや、もうあんな時間?」
 自分の手頸と、花模様の壁にかかっている時計とを見較べ、富貴子は、
「大変、大変」
と、油絵で薔薇を描いた帯の前をたたいて立ち上った。
 朝子もタクシーで、十一時過ぎ家へ着いた。

        十

『明るい時』と云うベルハアランの小さい詩集がある。その中に、底知れぬ深さ、その他朝子の愛する小曲が数多あまたあった。
 帰ってから、それを読み始め、朝子が眠りについたのは二時近くであった。電燈を消そうとし、思いついて、旅行案内をとりに行った。幸子の汽車が、静岡と浜松の間を走っている刻限であった。
 翌日は晴れやかな日で、独り食事などする静かな寂しさも、透明な秋日和の中では、いい心持であった。
 朝子は午後から、亀戸の方へ出かけた。市の宿泊所に用があった。かえりに彼女はセットルメントへ寄って見た。新たに児童図書館が設けられ、赤児を結いつけおんぶした近所の子供が、各年級に分れた卓子を囲んで、絵本を見たり雑誌を読んだりしていた。托児所の久保という女が朝子を以前から知っていて、案内をしてくれた。彼女はリューマチスで、二階の私室で休んでいた。髪をぐるぐる巻きにして、セルの上へ袷羽織を着た久保は、やせた肩越しに、朝子を振り返り、
「私の方も見て下さい、そりゃ私、骨を折っているんですよ」
 渡廊下の踏板を越えながら云った。
「みんな若い人達ばかりで、ただおとなしく四時まで遊ばしときさえすればいいと思ってるんだから。――そんな人の方が、またお気に入るんですからね。私喧嘩したってこうと思うことはやって貰うんです。いやな女だと思っているだろうけど、いざ子供を動かすとなると、どうしたって、そりゃ、私でなければならないことが起って来るんですからね」
 久保は、自分一人で切り廻しているように云った。そして、変質な子が一人あって、それが誰の云うこともきかない、髪をむしって暴れるようなのを、自分がこの頃すっかり手なずけた苦心を朝子に聞かせた。
 別棟になって、広い遊戯室や、医務室や、嬰児室があった。遊戯室の板敷に辷り台や、室内ブランコなどあって、エプロンをかけた幼い子供達が遊んでいた。先生が、やはりエプロンを羽織って、一隅に五六人の子供を寄せて、話をしてやっていた。室じゅうに明るい光線がさし込んでいた。その中で、子供のエプロンや、兵児帯の赤や黄色が清潔な床の上にくっきり浮立って見えた。知らぬ朝子が入って行ったせいか、子供が、割合おとなしく遊んでいる。朝子は、その行儀のいいのが少し自然でないように感じた。そのことを云うと久保は、
「今、おとなし遊びの時間なんですよ」
と云った。そう云いながら彼女は、窓を見廻していたが、
「ああいますよ」
 窓際の子供達に向っておいでおいでをし、
「今村さん、こっちへいらっしゃい」
と呼んだ。若い先生は顔をあげ、子供と久保とを見たが、直ぐあちらを向いた。
「何なの、いいの、呼んで」
「かまわないんですよ」
 紺絣の着物を着た、頭の大きい男の児が、素足へ草履をはいて、久保の傍へ来て立った。
「さ、こちらの先生に御挨拶なさい」
 子供の肩へ手をかけ、自分の身に引き添えた。素直にされるままになっているが、三白眼のその男の児が久保を愛しても、なついてもいないのは、表情で明らかであった。芸当を強いるようで、朝子は、
「およしなさいよ」
と止めた。
 久保は、去りたそうにしている児の肩を押えたまま、なお、
「今村さん、先生の云うことは何でもきき分けるわね」
などと云った。
 朝子は、彼女の部屋へ戻りながら、
「子供、もっと放っといてやらなけりゃ」
と云った。
「愛想のいい子供なんて拵えたって、下らなかないの」
 久保は、家庭のない、健康のない、慰めのない、自分の生活の苦痛を、持ち前の強情さに還元して、その力で子供も同僚も押して行くらしく思えた。久保はいろいろな手段で蒐集した藤村とうそんの短冊など見せた。
 本館の三階に、相原の部屋があった。朝子はそこで小一時間話した。
 相原は、世間で重役風を形容する恰幅であった。ただ笑うと上唇の両端が変に持ち上って、歯なみよい細かい前歯とはぐきとがヒーンとすっかり見えた。その小さい口は性格的で、朝子にいい感じを与えなかった。
 相原は、先頃退職した或る男の噂をし、
「どうして罷めたのかね……いずれ何とかするように諸戸さんにも云おうと思っていたんだが」
と云った。朝子の知っている事実はそうではなかった。
「諸戸さんに、あなたが忠告なすったんじゃなかったんですか」
 相原は平気で、
「ふーん、そんな風に聞えてますかね」
と云った。相原の態度と、言葉とだけで見ると、朝子の知っている事実の方が間違っていると云うようであった。
 諸戸の処置を批評するようなことを云い、
「まあ、白杉さんも、一つ確りやって下さい。今にちょっと金も出せるようになるだろうから」
などと云った。朝子は黙って笑った。しんに弱気な小野心があるので、一人一人の顔を見ているうちは、悪感情を抱かせては損という打算が働く、相原はそういう種類の心を持っているらしかった。
 帰り途、朝子は人間の生存の尖端ラ・ポアント・ド・ラ・ヴィというようなことを深く思った。道徳や常識、教養などその人を支える何の役にも立たない瞬間が人生にある。またそういう非常の時でないまでも、我等を取巻く常識や、道徳や、それ等の権威の失墜の間に生きて行くに、何が心のよりどころとなるであろう。何で人間が人間らしく生きて行く道をかぎ分けるかと云えば、それは、草木で云えば草木を伸び育てる大切な芽に等しい、人間の心の中にある生存の尖端によってだ。朝子は昨夜詩を読んだときにも、例えば、

  自体を浄めるために結び合う!
  同じお寺の二つの黄金の薔薇窓が
  ちがった明るさの炎を交じえて
  たがいに貫きあうように。

 こんなに高貴で優しく美しい、深い感じを捉え得る詩人とは、どのような心であろう、と思った。彼は考えるのではない。感じるのだ。――感じるのだ。そして朝子は、その敏感な本源的な魂の触覚を、符牒のような生存の尖端という言葉にまとめて思ったのである。
 自分が、放埒の欲望を感じながら、何のためにか、のめり込まずいる。それはと云えば、正気は失っても、その尖端が拒絶するからだ。
 幸子が、昨夜立つとき、
「大丈夫?」
と訊いた、朝子は、ひとりでに、
「大丈夫でなくても、大丈夫だと思っちゃった」
と、捉えどころのないような返事をしたが、そうだ大丈夫ではないが、その尖端が感じ、選択し、何ごとか主張している間は大丈夫だ。その生存の尖端ラ・ポアント・ド・ラ・ヴィをも押しつつむ程大きな焔が燃えたらどうであろう。
 それならそれで、万歳だ。朝子は思いつづけた。自分は、そして、自分の生存の尖端は、その焔のなかにあって我が生の歌を一つうたおう。
 朝子は、会って来たばかりの久保のこと、相原の生活、間には、新しく磨きたての磁石の針のように活々と光り、敏く、自分の内心に存在すると感じるものについて考え、味い、長い夕方の電車に揺られて行った。
 六時前後で、電車は混み、朝子の横も後もその日の労働を終って帰ろうとする職工、事務員などの群であった。或る交叉点で先の車台がつかえ、朝子の電車も久しい間立往生した。窓から外を眺めたら、甘栗屋があり、丁度その店頭の燈火で、市営自動車停留場の標識が見えた。黒い詰襟服の監督らしい髭のある四十前後の男が、そこに立っていた。何か頻りに見ている。鏡のようだ。よく視たら、彼の手にあるのは女持ちの一つのコムパクトであった。拾ったのだろう。彼は偶然停った満員電車の中から観ている者があろうとは心づこうはずなく、そのコムパクトを珍しそうに、とう見、こう見していたが、やがて蓋をあけ中についている鏡で自分の顔をちょっと見た。それは直ぐやめ、今度はコムパクトの方を鼻に近づけ白粉の匂いを嗅いだ。――トラックや自転車の往き交う周囲の雑踏を忘れた情景であった。
 その位長く彼は嗅いだ。

底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
   1927(昭和2)年12月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年4月22日作成
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