この夜も、明けるのだと思った。
 お葉は目を明けたまゝ、底深い海底でもきはめるやうに、灰色の天井を身ゆるぎもせず、見つめたまゝ、
『お母さん!』低く呼んだ。
 淡黄色い、八燭の電気の光りのなかに、母親は重苦しくひそやかに動いて、ベッドのそばに手をかけた。
『苦しいのかい。水が呑みたい?』
 お葉は、なほ天井を見つめたまゝ、何といってよいか、只悲しかった。
 お母さんは、なんでも知ってゝ呉れる。私に解らない心をも、お母さんは知ってて呉れる。わたしは、只お母さんの声が聞きたかったのだ。動くのが見たかったのだ。
 お葉は、なほ黙って居る。
『お前、足が痛むのかい。』
『いゝえ。』彼女は、はっきりと答へた。
『お母さん、今日も夜があけるのでせうね。』
『あゝ、もうぢき明けるだらうから、なるべく気を安めて眠った方がいゝよ。』
 彼女は、その言葉を聞きながら、気力なさゝうに目蓋まぶたを閉ぢた。もう、何も考へる事は出来ない。この夜も明けるんだと思へば、彼女の心に思ふ事も、見ることもいらない。
 母親は、娘の目蓋の静かに閉ぢるのを見た。そして疲れて眠りに捕はれたのだらうと、そっと身を引いて、布団の上に坐った。
 そして、枕を引きよせながら、自分の心を強ひて盲目めくらにしようと、くぼんだ眼を閉ぢて、うとうととなって行った。
 お葉は、またいつか目を閉ぢたまゝ、気力なく青白く疲れた心のうちに、只、この夜もあけるんだと思ひつゞけた。そして、そのまゝにこの夜もあけるんだと思ひつゞけた心のなかに引き入れられて、茫と意識を失ひかける。
 やがて、彼女はいつか目を見開いて、天井を見てゐた。いつ目蓋が開いたのか、自分にもわからない。只、ぢっと見てゐる。そして、物悲しい心のうちに、
『お母さん!』と呼んだ。
 しかし、その声は彼女の唇をもれなかったので、彼女の両のひとみの周囲には矢張り淡黄な光りが一ぱいにたゞよって、その静寂は一つも動かなかった。そして母親の身動きだに、彼女の頭に感じられない。お葉の心には、遣瀬ない波動が起った。そして、『お母さん!』と再び呼んだ。彼女のぢっとなほ天井を見つめてゐる二つの瞳は、自分の乾いた唇が、微かにふるへたのを見た。
 そして室内の空気が静かに、けれども大きく動いたのを見た。お葉は安心した。
 母親が[#「 母親が」は底本では「母親が」]、またひそかに起き出て来る気配がする。やがて母親の手が、また静かにベッドの毛布にふれた。
 お葉は、また何を言ひ出すのやら解らない、母親が、只動いたといふだけで、彼女の心は自分におそひ掛らうとする魔を払ひのけたやうな気がした。そしてこれから聞いて見ようとするのは、この夜もいつもの様に明けるんだらうといふ事だけであった。
『お前、さう目が覚めちゃいけないねえ。』
 母親は、静かにわが子の青白い頬から解けかゝった頸のあたりにふるへてる毛条けすぢを見ながら言った。併し、それは反って自分の心に向って、あまりに多い煩悩の心を押へるやうに考へられた。お葉は黙したまゝ、衿元まで掛けられてあった毛布を静かに胸の下へ押しやった。
 お葉の眼には淡い幕がかゝったやうに、すべての物がはっきりと見えない。睫毛まつげは乾いて涙の露も宿ってないのだけれども、すべての物が茫とうるんで見える。
 母親はそっとベッドの前を通りぬけた。そしてドアを押して廊下に出た。足音がバタバタと遠ざかって聞える。
 彼女は、目の前に黒い影をチラと見たまゝ、又瞳は自然に閉ぢられて行った。そしてまた彼女の弾力のない瞳が細く開かれた時、また黒い影がチラとベッドの前を通った。けれども呼び止めようとは思はなかった。
 母親は、うす暗い廊下を、自分の草履の音にせき立てられて便所はばかりに行ったが、月の光が彼女の心をかきむしるやうに、窓の外にさえて居た。そして親子の本能の愛が、彼女を土の中にうづめなければならないやうに思った。
 母親は、小走に帰って来たが、静かにドアをあけ、はゞかるやうにお葉の方を見ながら、ベッドの前を通りぬけて、夜具のなかに顔をうづめた。
 お葉は、また目を開いた。時は一刻も動かないやうに見えた。そして同じ夜であると思った時、彼女の瞳はさぐるやうな不安に動いて、また母親を呼んだ。いま彼女の心には、母より以外にすがる神はなかった。母親は、また起き上った。そして、もはや何事も言はずに、彼女の毛布にかくれた足の方をぢっと見入った。
 かくて[#「 かくて」は底本では「かくて」]、お葉はこの一夜ひとよの中を、うゑた人のやうに疲れと絶望とに力なく瞳をとぢては、又いつか重いまぶたを上げて空を仰ぎ、死の恐怖に堪へられなかったのである。
 やがて、夜はあけた。世のあらゆるすべての静寂が、この花一つにふくまれて咲くやうな月見草のはなのやうに夜はあけはなれた。ほの白い夜あけの空気が、病室のなかに立ちこめる。
『あゝゝ、夜があけた。』
 お葉は、初めて意識がはっきりして来た時、絶望の後の力なさであった。もはや、時が進むといふのは、どうする事も出来ない力である。時の行くまゝに人は行かねばならない。彼女は、もはや何の為めに今日自分自身の片足を切断しなければならないのか?といふ事は思ふ事が出来ない。これも通過しなければならない時の道であるのだ。
 お葉は、水の一滴牛乳の一つも林檎の一切ひときれも口に入れなかった。そして改めて、空を見、窓を見、壁を見、天井を見て、自分の明らかに開いた二つの目を悲しく思った。そして思はずも動いた母の瞳と合った時は、
『お母さん、今日、今日、』と思はず叫んだ。
『お母さん今日になった。』
 しかし、母親はどうする事も出来ない。そして、皺のよった手を重ねて、うつむきながら子供を持った苦労を思ひ、若いお葉の身の上をかなしんだ。
 お葉は静かに晴れた幸福な窓の外を見た。そしてるうちに前から考へてた事をまたふと考へて、恐ろしさにをのゝいた。
 あゝ、眼が覚めて、魔薬がさめて、片足がなかったら――、それは、あたり前のことなのだ。しかしその当然来るべき事がどんなに恐ろしいことだか、その約束されてる事がどんなに悲しいことだか、片足がなかったら、片足がなかったら、そんな事は想像出来ぬ。
 実際、そんな事が一時間と思ひつゞけて居られるだらうか!彼女は来るべき運命の残忍さにをののきつゝも、またその瞬間に於いて、美しい空と、赤く咲き誇った窓際の花とを無心に眺めることが出来た。
 そして、すべての時にお葉の心のなかには空想が働いて居た。お伽ばなしで読んだ事、小説で見たこと、そんなことが入れかはり立ちかはり、速かに画面を、彼女の小さな心のうちにひろげてゐる。――手術室に自分は魔薬にかけられた時、魔女がひそかにしのび込んで来て、自分の姿を鹿の形に変じた。鹿になった自分は窓から中庭にのがれて、アカシヤの木陰をかけぬけ、古い井戸の側に行って、釣瓶つるべから滴る水が身体の上に落ちると、自分はいつかうるはしい女になって歩いてゐる。自由に、自分に身体といふものがないかのやうに、自由に楽しく歩いてゐる――いつか、どこかに恋人があった。お葉は片輪になったので、もう遊んでやるわけには行かないと言った。お葉は足がないので立ち上るわけにも行かず、床の上にねたまんま、毎日々々どうかして死なうと思ってないてゐた。親も兄弟もみんなお葉をすてた。お葉の寝てゐる所は、どこか真暗な牢屋らうやのやうな所で、高い所に、小さな小さな窓が、一つしかなかった。そしてその窓からは、白い光線が少し入るばかりであった。
 それ等の畫面は、次から次へと、彼女の運命の前に戦慄をののいてゐる、小さな心のどこかへひそやかに入って居た。遠い昔のやうな思ひが、ずん/\目の前におしよせて来たり、また、今現在の事実が遠い古への空想のやうに遠ざかって行ったりした。事実どれが自分の悲しむべき運命にあるのだか、さしせまった恐るべき運命にぶつかっても、心は決して事実と一致しない。常に事実と心とは、淡絹を隔てゝ遂に人間が人間と一致しないごとくに、永久に一つになることはなからう。
 心は事実を否定する。事実は心を否定するのだ。
 太陽は輝かしく空に高い。青空は限りなくすべての上にひろげられた。お葉の肉体は遂に事実にぶつからねばならない、時は流れた。そして午後の物々しいひそかな空気は、ひるがへる白衣の人のもすそから廊下にみち、扉のかげから、病室のベッドの下にもはひよった。そして壁をへだてた看護婦室に物悲しい時計の音が一つ鳴った。
『あゝ一時!』お葉は毛布の上に手を投げ出して、あわてたやうに言った。
 母親は、白い浴衣ゆかたを出さうと戸棚の戸をあけた。
 そして料理される魚が清水しみずで洗はれるやうに、お葉は清らかな浴衣に着かへて、手術台上の人とならねばならなかった。しかし心には永遠に事実はない。心は夢である。お葉は輸送車の廊下を走る音に、青白い手と胸をふるはせながら、なほ夢を見てゐた。夢のなかの事実を思ってゐた。やがてあわたゞしく、ドアはあけられた、そして病室のなかに輸送車は入れられた。
 お葉は抱かれて輸送車にのせられた。
『あ、お母さん。いま、いま!』
 輸送車は病室を出た。そして二人の看護婦は、あわたゞしく長い廊下を輸送車をひきながらかけて行った。何故運命の前に、こんなにあわたゞしいのだらう。彼女は実際運命の前に運ばれて行った。あわたゞしく、小さい彼女の肉体は運ばれて行ったのだ。
『あゝ、いま、いま!』
 母親は扉にすがって立った。そして、輸送車が廊下の角を曲らうとした時、遠くにお葉の黒い瞳を見た。その眼は、母親の悲しく追ひすがった眼と合はなかった。只、茫然と宙に迷っている黒いかなしい瞳なので、バタ/\と二三間廊下を無意識に歩いて見たが、もはや輸送車はかくれて、お葉の姿は見えなかった。
 母親は、淋しい病室のなかにふら/\と入って行って、白い敷布の上に充血した赤い目を閉ぢて、暗い涙をおとした、お葉は居ない。
 母親はまた、あわたゞしく廊下を行きつもどりつして、運命の前に泣き叫ぶ我子の声を聞かうとした。しかし、あたりは静まりかへって物音一つしない。
 かたく閉ぢられた硝子の戸が開かれて、黒い石で畳まれた暗い廊下に入った。お葉は心の中に起るさま/″\な幻影を一つにして、静まり返らうと目を閉ぢた。が、しかし目を閉ぢれば閉ぢる程、心のなかに深い波だちが起って、彼女の肉体はたえまなく小さく慄へてゐた。やがて、あまりに明るい秋の日が、あたりのギャマンの窓にてりつけてゐる部屋に、彼女の輸送車は引き込まれた。そこには、いくらかの看護婦と、二人の顔と胸に繃帯をまきつけた少年が椅子にかけて居た。そして水あさぎの日光が、部屋一ぱいに流れてゐた。お葉はあをむけに窓から高い大きな松の木を見上げた。そしてその松の梢の空はヱメラルドのやうにうるはしかった。枕元に手をやって茫然と側にたゝずんで居た看護婦が、どこを見てゐたのか、
『あの松はね』と話しかけた。
 お葉は静かにうなづいたが、忽ち不安になった。
『あの、手術は!』
『まだ、先の人がすまないから。』
 彼女は、ふとおどろいた。いま恐ろしいことが行はれつゝある。その人の恐ろしさは、他の人の空を見てる一瞬にもあったのだ。
『それ、その窓際に松があるでせう。』
 看護婦はいつか立ち上がった。そしてお葉の髪の毛を静かに撫で乍らまた言った。
『あれはね、宗五郎松って、佐倉宗五郎が、磔刑はりつけになった松なんですよ。』
 彼女は、ふと松を見た。そしてそんな恐ろしい事実のある松も、このうるはしい日にうるはしい空の光にそびえてる事を思って、美しい日であるといふ不安に、心が淋しくおちつかなかった。
『まだ。』お葉の心は少し落ちついた。
『えゝもうぢき、あの杉浦さんは入歯を入れて居りませんか、入歯があったらみんな取って置かないとこまりますから。』
『いゝえ。』と彼女は、悲しさうに看護婦の顔を見ながら、『なぜ、』と問ひかへした。
『それはね、魔薬をかけたあとで入歯が咽喉いんこうに入ると危いから――。』
 看護婦は深くは言はず、なだめるやうに答へた。
『それから指環は。』彼女が一寸ちょいと手を動かした時、指環が目についたので、お葉は少しもゆるがせにしては不可ないといふやうに、また看護婦の顔を見た。
『さうね、おまちなさい。取った方がいゝでせうね。』
 真白な小さいそれ自身が花であるやうな美しい彼女の手の紅指べにゆびにルビーの指環ゆびわは、あまりに幸福に輝いてゐた。青い空を背景に、彼女はあを向けに手を胸の上に上げて、幸福に輝く指環をぬいた。そして看護婦に渡した。お葉は、その指環をぬくに何の悲しみも持ってない。何の思ひ出も払ってない。それが恋人によってはめられた特殊なハートのこめたものではないから。
 そのまゝまだ胸の上に置かれた淋しい手の指に、うすい指環のあとがついてゐた。お葉はそれを無心にみつめて居た。
 やがて、おもたい戸の開く音がして、暗い廊下の彼方に蒼白く淋しい窓が見えた。そしてがら/\と車の音がして、死人のやうにすっかり顔の筋肉に力のない男が運ばれて行った。
『恐ろしい。』お葉のすべての五官は、出来る丈け小さくならうとつとめて、木の葉のやうに戦慄した。
『あゝ恐ろしい。』彼女は、それより以外になに物もなかった。そして下に掛けられたキャラコの白い布を引っ張って、生え際の所までかけた。その上に秋の日は動いて、白く光った。お葉の輸送車はうごき出した。
 ガタリと音がした時、彼女は氷のやうにつめたい空気にふれて驚いて眼をひらいた。
 周囲は真暗だ。なに物も見えない。彼女は、恐れてすぐ眼を閉ぢた。
 やがて、またガタリと音がして、彼女は低い所におち入ったやうな気がした。そして暖かい蒸すやうな空気が彼女の身をつゝんだ。
 そして、キャラコの布ごしに、すべてが淡紅色にはてなく見えた。彼女は恐ろしい。いそいで眼を掩ふ布を取らうとしたが、彼女の手が動かない。どこか遠くから、ゾロゾロと人の来る気配がする。彼女の手は漸くふるへて動いた。お葉の周囲は拡がった。そして驚く程明るく美しかった。天井は円く高くギャマンで張りつめられ、七色しちしょくに日光が輝いてゐる。そして置かれたすべての器物は、銀色ぎんしょくに冷たく光ってゐるのだ。このうるはしい限りない恐ろしさ、彼女は暫くも見る事は出来なかった。逃れたやうな瞳を哀願的に左にめぐらした時、遠く見える部屋の彼方から白衣、白帽の医師たちがいかめしく歩いて来てゐる所だった。と、いつの間にやら、静かによって来た看護婦が、ガーゼの布をたゝんで、お葉の目の上に置いた。
 お葉は、もうどうする事も出来ぬ、改めて不意打でもされるものゝやうに、医師あのひとたちがよって来たなら、どんな事をされるか解らない。殺されるんだと考へたけれども自分の身体は少しも動かない。心ばかりが、本当にポプラの葉のやうにふるへる。そして何処どこからともなく、金属のふれ合ふやうな響を感じて彼女は、たえずおびえた。白い、そして軽いやはらかなガーゼが、霧のやうに上から二つの瞳をおさへつけてどうしても彼女の瞳をひらかせない。周囲の人の話し声が音となって彼女の耳に入る。お葉の心は静かに茫然ぼんやりとなりかけた。その様な状態に彼女をある時間置いといたならば、お葉は自分自身の身体を一人で魔睡にかけてしまったかもしれない。
 誰か、お葉の枕の方に来た。そして何か鼻のあたりに置かれたと思った時に、はっきりと声がきこえた。
『魔薬ですから、静かにしてらっしゃい。』
 急に[#「 急に」は底本では「急に」]、変な香がした。そして静かにしようとあせればあせる程、息がせはしく苦しくなって行く。そして何か知らないものが、ゴクン/\と咽喉のどの中に入って行った。
 そして、それがだん/\つかみ所のない苦しさにかはって行く。そして遠く隔った所に堪へられない痛さが起る。実際それは堪へられない苦しさと痛さだけれども、つかみ所がないのだ。自分の肉体の何処に起ってるのだか、手が、足が、頭が、胴が、目が、耳がどこにあるのやら解らぬ。そして、それが入り乱れて円い玉のやうなものになって行くと、周囲は真暗だ。
 そして、それが丁度夜汽車のやうな機関の音が、真暗ななかにして、どん/\どん/\お葉の身体は運ばれて行った。けれども苦しいことは依然として苦しい。そしてその苦しさと速さが絶頂に達したと思ふ時に、ぼっと周囲はとび色の明るさになって、広い/\野原であった。彼女の身体は、その中に十重とへ二十重はたへにしばられて、恐るべき速力で何千里と飛んだけれども、その行く先はわからなくなった。すべてが無になった。お葉の意識はすっかり魔睡してしまった。彼女は何事もしらなかった。
 カラ、カラ、カラ……どこからか輸送車の音がかすかにする。お葉は、それを知ってたが、自分はどこに居るのだか、何をしてるのだかもわからない。カラ、カラ、カラだん/\その音が近づいて来た時、漸く自分は輸送車にのって廊下を歩いてるんで、その音は自分の車の音だとわかった。けれども何物も見えない。彼女の瞳はにかはでつけられたやうに開く事が出来なかった。
 それから、彼女はそっと抱かれてベッドの上にねかされたのも知ってゐる。そして周囲に母や兄や、親類の人看護婦などが見守ってゐることも頭に考へられぬでもない。母親の気づかはしげな声が、茫然ぼんやりと耳に入る。しかしお葉はまだ自分の手や足や胴がどこに置かれてあるのだかわからないし、自分が今何をして来たのだかも明瞭はっきりしない。
 けれども、どことなしに不安が身をおそって来る、どうしても眼を開かなくちゃ不可ないと思ひながら、かすかに瞳を開けた時、周囲は霧が立ちこめたやうに淡暗く、人の眼がみんな強く自分を見つめて居た。
『お母さん!』彼女は、漸く母親を呼ぶ事が出来たが、その声は極めて力なく弱くって母親の耳に入ったかどうか解らない。急に思ひがけないやうな淋しさと悲しさが彼女のすべてをつゝんだ。その時医師は手と足に食塩とカンフルの[#「カンフルの」は底本では「カンプルの」]注射をした。そして、その痛さによって初めてはっきりと声を立て得るやうになり、すべての意識が我に帰った。母親は枕元に彼女の額を冷し、乾いた白い唇をガーゼでしめして居た。
『もう、すんだの。』お葉は周囲を見まはした。しかし、あの恐ろしいことが、足を切断するなんていふ事が、すんだとは考へられない。只なにか、まだ/\易しいことが済んだのだと周囲を見まはした。
『熱い、あつい。』お葉は起き上ることも、動くことも出来ない。腰のあたりに大石をのっけたやうに千斤の重さがある。そして胸の辺りからずっとリヒカが掛けられて、物々しく毛布がたれて居た。併し、足を失ったといふことが、どうして解り、どうして感じられよう。彼女の頭は、唯両足の重いといふより感じられなかったのである。
『熱い、あつい。』お葉は、両わきにだらりと下げた手を、氷の入った金盥かなだらひのなかに落した。白く死んだやうな手に、冷たさがしん/\としみて行った。
 母親は、あまりながい手術の間を身悶えして病室にまち、廊下を歩いては、『万一手術中に死亡の事有之候とも遺存これなく候』と手術契約書を出したことを考へて、もうあれが最後であったかもしれない。いっそ若い身空で不具かたはとなって生きるよりは、このまゝ死んで呉れた方がお葉の為めでもあり、また自分にもその方がいゝかもしれないなどゝ考へて居たが、かうして娘はベッドにねて居るが、何処にその恐ろしい変化が加へられたのだらうと思った。両手はやはりすこやかに延びて、指一本欠けてる所もない。何事もおこらない。何事もあったのではない、考へてた事すべては夢であったといふやうな気がする。母親は絶えずお葉の顔を見つめながら、彼女の乱れた生際はえぎはを冷たいタオルでぬらして居た。
 次の夜がまた相変らずおそって来た。そして前の夜にもまして重苦しいながい夜であった。丁度沙漠を旅する人のやうに、熱さに苦しみながら、変化のない夜を只水を欲して居た。
 彼女は幾度も/\母親を起した。そして母親がコップを持って廊下を出た時、耳をすまして遠くに氷をかく音を聞いた。そしてどんなにドアのあくのを待ったかしれない。
 胸の上にコップを置いて白い、然しやきつくやうな両手でつかんで、氷のかけを咽喉のんどに落した時、彼女は漸く浮き上るやうな気持ちになった。そして極めてわづかの夢を見ることが出来た。
 それから、お葉は廊下の足音を出来るだけ気をつけた。そしてその足音がもしも、ドアの前にバタリと止って、扉の影からそうっと白衣が見えた時には、その看護婦の空想的な瞳をすがりつくやうに捕へた。そしてコップにまたわづかの氷を願った。彼女は目覚める度に時間を聞いて、時があまりに静かなのに不安でならなかった。
『あゝまだ夜があけない。』お葉は眠らないので疲れ切ってた。しかし夜が明ければ自分が疲れからすっかり逃れる事が出来、さわやかに美しい日が来るやうな気がした。
 あを向けに寝かされたまゝ起き上る事の出来ない日が二週間もつゞいた。その間はすべて灰色に曇った日のやうに思はれた。青い空も彼女の目には入らなかったし、明るい光線も彼女の頬を照しやしなかった。そしてあを向けに寝てゐる脊中の痛さに目をうるませて、天井を見てゐた。そして天井を見ながらも、夢の中のやうにやがて来る幸福といふものを考へて居たのである。幸福といふものがどんなものかは知らない。彼女は小さい時、朝日が山の上から上る時に、幸福が来やしないかと、静かに嬉しい心で見てゐた。また夕日が山のかげにかれる時、あの遠い山の影には、幸福があるやうな気がした。そして彼女は少女をとめになった。併しまだその幸福といふものを同じやうに考へながら、必ず自分に近よって来るやうに思ってるのだ。夜が明けると雨がしとしと降って居た。曇った硝子ごしに、前の棟の屋根の上の空気ぬけの塔が、霧から晴れるやうにはっきりとして来て、いぶし銀のやうな空を彼女は見た。そして窓際に椿の葉がつや/\と輝いて居た。お葉は母親から渡された、ぬれたタオルでもって自分の顔を軽く拭って、母親の廊下に出て行ったあとを、茫然ぼんやりとあを向けに枕元のコスモスの花を見た。うすいろの花は、室内のこの静寂な空気の中にも堪へないやうに、ふるへてゐるやうであった。しかし幸福は室内の何物にも見えなかった。すべての空気が平和に沈滞してゐた、そしてなにか幸福のありさうな、いゝ事のありさうな明日は、矢張り変化のない今日であった。そして自分の身は動かず病床に横たはって居る。
 お葉は[#「 お葉は」は底本では「お葉は」]、堪へられない淋しさと悲しさに捕へられた。そしてその淋しさや悲しさに捕へられながらも、廊下の外にする看護婦の笑声などには理由わけもなく心を傾けた。そして看護婦があわてたやうに飛び込んで来て笑ひながら、
如何いかがで御座います、昨晩おやすみになれまして、』と言って来るのを待った。
 御飯がすむと、お葉はまたすぐバタ/\といふ廊下のスリッパの音に耳をすまして、御廻診をまつのである。毎日々々耳をすますうちに、カーキ色に赤いすぢの入った軍服のズボンを出して廻診衣を着た、いつもにこ/\した赤い顔の軍医のスリッパの音を呑み込んでしまって、彼女の見当は当らない時はなくなった。そして、バタリとドアの外に足音が止まった時には、おのづと緊張した愉快な顔色になって居た。
『如何です。お変りありませんか。』
 軍医は[#「 軍医は」は底本では「軍医は」]体温表を一寸見て静かに言った。お葉はその時きっと前の晩の足の痛かった事や、今朝の脊中の痛かったこと等が、なんでもない事のやうに消えてしまふので、
『いゝえ、別に、』と彼女は笑った。
 彼女は、楽しい夢ばかりを見た。友だちと手をつないで、賑やかな夜の街のきらびやかな飾窓をのぞいた事や、大ぜいで野原に遊びに行って楽しかった事などが、彼女の夢の世界に表はれた。お葉は、この病院に入る前、丁度椿のはなが咲く頃から床についたきり、土を踏むといふ事は勿論、畳を歩くといふ事さへ、柱によって立つといふ事さへ出来なかったのだけれども、夢には指の先すら痛む事はなかった。床の上にあを向いたまゝ空を見てると、枯れたやうな桐の木からグン/\と芽が出て、若々しい青葉がヒラ/\と風にゆられた。そして椿の花が次から次へとくづれて、土に落ちて行くのであった。彼女は、その時かうして床につく前に、母親と痛い足を引きずりながら九段の坂を降りて、神田の神保町の洋傘屋かうもりやで買った青磁色の洋傘かうもりが、一度もさゝれずに押入の中にしまってある事を思って、急に見たくなった。それですぐ母親にパラソルを出して貰ひ、それをひろげて後向に畳の上に置いて貰った。お葉はそれを横になってぢっと見た。縁から入って来て洋傘の上に流れる日の色をも見た。そして彼女は丁度野原に遊びに行って、遠く草のなかに自分の洋傘を置いて花をつみながら、振りかへったやうな心持がした。そして彼女は茫然ぼんやりした。その頃丁度彼女の妹が元気よく、靴の音を高く響かせて、生垣をめぐって帰って来るのであった。その靴の音が高く響いた時は、もはやお葉の眼はすべて曇って霞のやうにかすんで、なんにも見えなかった。涙が閉ぢた目蓋まぶたから、ボロ/\と頬をつたはった。
 それから[#「 それから」は底本では「それから」]お葉は、その洋傘を寝たまゝ手に持たせて貰った、そして自分で名残惜しさうにピチンと閉ぢて、早速丁寧に押入にしまはせたのである。けれども、彼女は決して一生自分が洋傘をさして、二つの足で気持よく裾をさばきながら歩く事が出来ないとは、夢にも思はなかった。赤い日を見れば、今にもその土を気持よくふむ事が出来るやうに思った。
 やがて、その頃彼女の寝てゐる、彼女の窓の格子から遠くの方に、真赤な、真赤な花が一ぱにさいた。それが毎日日の照る日も、雨の降る日も、燃えるやうに彼女の眼に入った。
『何んの花。』彼女はいつも誰ともなく訊いた。けれども誰もそれに答へる人はなかった。彼女は、どうしてもその花が知りたかった。そしてあの花はなぜあんなに赤いのだらうと考へた。
『欲しい。』彼女はまた言った。
『落ちたのでもいゝから、たった一つでもいゝから――。』
『柘榴だらう。』誰かゞさう言った。そして、その花はだん/\青葉にかくれて行った。そしてお葉は、水色の幕を垂れた釣台にのって、朝夕にニコライの鐘が枕にひゞく病室に入れられた。途中、『母ちゃん、お葬式とむらひが通るよ。』と赤い羅紗の靴をはいた子が、家の中に駈け込んだのを、お葉は幕間まくあひから見てゐた。それは繁華な電車通りであった。
 そこからこの釣台はまた煉瓦塀をまわって、この病室に入れられた。そしてもはやすべて、彼女の夢に見る世界は、一生近づく事なく隔ってるのだけれども――。
 やがて、彼女は気づかはしさと、ある淡い喜びとを持って輸送車に運ばれて、繃帯交換に行った。そして方々の室から出て来た輸送車の患者が、控室の前にたくさんあつまった。
 お葉は、まだ決して足を切断したのだとは思はなかった。手をいぢり顔をなでてすべての人と異る所のない完全なものだと思った。そして、あの中庭の芝生しばふの上を自由に散歩する事も出来るし、愉快にあのベンチによる事も出来るんだと、庭の方を見て居た。そして、ふいと眼を横にやった時、窓際に置かれた輸送車の上の女が、なつかしさうに笑った。
『あなた、少しはよろしくって?』
 お葉は、驚いて、やうやく、『えゝ。』と答へて赤くなった。何といっていゝかわからない。彼女の輸送車は、そのまゝ交換所に引き入れられた。あの人は、もう交換がすんだのか、すまないのか、どの部屋に帰ったのやらも解らない。
 彼女は、その一日その女の人のことを考へた。そして重たい本を胸の上に開いて、彼女は五六頁を読んだ。
 それから、彼女は夜中よなかにいく度となく目を覚ました。そして暁がすべての幸福を彼女に齎すやうに、只一秒も早く空の白むのを待った。けれどもあまりに短時間内に幾度も目をさました時には、もうこの暗い夜が再び明けないのぢゃないかと恐れながら、白く垂れ下ったカーテンの奥に目をすゑて、しのびやかに訪れて来る暁の足音を聞かうとした。
 カラ、カラ、……カラカラ、……カラ……カラ彼女は、そしてこの音を遠くの闇の中から見出した時、もはや暁が近いと、断定する事を※(「足へん+寿」、第4水準2-89-30)躇しなかった。車の音だ。それは確かに車の音だ。あけぼのゝ白ずんだ空の淋しい道を静かに、カラ、カラカラ……と車の音も絶え/″\に幾台かつらなった車の音だ。お葉は真暗な夜のなかに、両手を胸の上に置いて、車の音を聞いた。
 そして、はやく看護婦が、カーテンを巻き上げてくれゝばいゝと思ひながら、朝の冷たい白い清らかな空気が、自分の蒸されたやうな頬をつたひ、静かにねばりついたやうな生際はえぎはの毛をゆるがす嬉しさを考へた。彼女は、それから、夜中に目覚めて暁をまつ毎に、その音を聞いた。そして朝の近いことを考へたけれども、その車がなにをする車で、なんの為めに何処に行くのか、そんな事は少しもわからなかった。
 お葉は、その日も、また次の日も交換場で、この前言葉をかけた見しらぬ女に逢った。彼女は廊下の窓際に斜に置かれて、小雨のふる中に垂れ下った梧桐きりの葉の淋しさを眺めて居た。側には三十位の女が輸送車の上にあを向けにねて、自分の手の色をぢっと見てゐた。
 その時、交換場の中から、その女の輸送車が引き出された。その女は紫の着物を着て淡紅色ときいろの袖口で顔をおほうて居たが、彼女の前に来て、ふっと驚いたやうに目を見開いた。そして優しくなつかしさうな瞳をしてお葉を見た。
『今日は、およろしくって?』
『えゝ。』彼女はまたあはてゝ、何も言ふ事が出来ずにうなづいて笑った。輸送車は、もう通りすぎてしまってた。お葉は、ベッドに戻ってからも、紫の着物を着てた女のことばかり考へられた。しかし病室は牢獄のやうに、一つ/\厚い壁にさへ切られて、隣の人さへわからない。
 彼女は、その女の美しい眼を考へた。美しい手を考へた。そしてその女は必ず幸福だらうと思った。そしてその女は物語のやうに美しい恋をしてる人だと考へて、なつかしくってならなかった。そして彼女は一日でも逢はないと心配でならなかった。丁度恋をしてるやうに物足らなくって淋しかった。そしてその時には、お葉には今病気をしてるといふ自覚は、ほとんどなかった。そして彼女がいまどれ丈けの絶望と、かなしみに捕へられるかもしれなかった。只疲れては眠り、人の顔を見ては微笑し、本を読んではいろいろ幻のなかに浸って暮らした。そして母親は、彼女がすべての経過がよく悲しみに捕はれないのを喜んだ。看護婦は彼女の心の強いのをほめた。しかし彼女は、自分の現在を少しも知らなかった。
 その晩、彼女は昼間の眠りの為めに夜は早くからめざめた。お葉は、いろ/\と昼逢った紫の女に送る手紙などをローマンチックに考へながら、前から車の音をきいてはゐたが、あまりに夜が長いのに、起き上る事の出来ない身体の痛みに悶えてゐた。
『ね、お母さん。』お葉は、母親が起きてるやうな気がしたので、何を言ふともなく声を出した。
『あの、車の音がきこえるのに、なか/\夜が明けないんだもの。』
『車?』母親は耳をすました。
『雨が、また降り出したんぢゃないかい。何時頃だらう。』母親が時計を見た時、まだ漸く一時半であった。
『まだ、なか/\だよ、もう少し枕をたかくしたら寝やすいだらうね。』
『ぢゃ、お母さん、あの車はそんなに早くから歩いてるの。』お葉には、あり/\と淋しい道を音をたてゝ引かれてゐる車が、目に見えてるのだ。母親は、お葉の枕を高くしながら、『あれは、雨だれが落ちる音ぢゃないか。』と言って不思議さうに娘の顔色を見た。
 翌朝、久し振りにうるはしく晴れて水のやうな秋の光が、すべてを祝福するやうに流れてゐた。そして雨にぬれた木の葉がつやゝかに光ってゐた。お葉は御飯をたべ終った後、漸くの事で決心して書いた手紙を看護婦にたのんで、何処かの病室に一人でゐる紫の女に送った。が、すぐあとで彼女は後悔した、そして恥しさで赤くなった。紫の女は尊い詩のやうな美しい女なので、とても自分などの近よる事の出来ない人だと思ったのだった。やがて、看護婦は、細い封筒を持って帰って来た。お葉は、それをなにか恐ろしい出来事でもあるやうに気遣はしく、そっと開いてみたが、それはいつも輸送車の行きずりにかはす、『あなた、少しはおよろしくって、』といふやうな、優しさとなつかしさのある、そしてものたりない短い手紙にすぎなかった。お葉は、うすい巻紙にやさしくうるはしくかゝれた手紙をいく度も繰り返して、すべて自分の存在を想像のなかにうづめてしまった。彼女はうれしかった。それから二人は、その日の事を書いては送った。看護婦の手を経て、歩く事の出来ない二人はなつかしい話しをした。
 ある日曜日に、お葉は起き上る事を許された。彼女はその時きれいなダリヤの花を持って来て呉れた友だちの帰ったあとで、母親にたすけられて、床の上におき上った。少しの嬉しさも喜ばしさもなかった。足が電気のやうに渦をまき、円い玉のやうに一秒も停止してる事が出来なかったので、涙をためて、又床の上に横になった。そして前のやうに眼の上に空を見、胸の上にダリヤの花を置いて、一つ/\を手に持ってぢっと見た。そして彼女は起き上る事が出来ないと思ひつめながら、あを向けに母親の顔をうらむやうに見詰めてゐた。けれども、毎日一度は看護婦か母親によって起き上ることをさせられた。下から見た部屋を起き上ってたてから見たすべてのかはり方や、目の廻るやうな不思議さは、次第々々になくなって来た。そして開け放したドアの前を通る人などを見る為めに、自分から起き上る事を母に頼むやうになった。
 廊下を通る様々の人、それを起き上って見てるのが、どんなに物珍らしかったか解らない。そして、毎日唐人髷を結った下町の娘が小唄を口ずさみながら通るのが、どんなに彼女の心を引いたらう。
 さうしてゐるうちに時がたって行くと、お葉は歩く事を稽古しなければならなかった。歩く稽古、歩くのでさへ稽古しなければならないとは、どうした事だかお葉には解らない。黒塗の丁字杖がベッドの前に置かれてからは、彼女は毎日恨むやうな瞳をすゑて、どことなしに見つめて居た。あれをついて私はどうして歩くんだらう。私が足を切断したなんて、お葉は、その事ばかり考へた。そして看護婦が来る度に、どうして手術をするかとたづねた。
『いえ、そんな事はおたづねにならない方がいゝんですわ。』
 看護婦は、みな話さなかった。そしてお葉の手の美しい事、髪の毛の多いことなどを話して彼等は帰って行った。お葉は悲しくってならなかった。そして自分のはかない身の上を書いて、紫の女に送ったけれども、やはりあはいやさしいそして物たらない事しか、お葉には書いてよこさなかった。
『今日は。』彼女は毎日訊いた。
『えゝ手術日。』看護婦は、さう言って帰りに寄る事を約して出て行く。思はずも今日の手術の様子を話して、問はれたまゝに切断の事なども言ひかけようとするのであった。すると、側の一人は必ず、お葉が目を見はって、熱心に聞いてるのを見て、
『およしなさい。そんな事は、みんなみんな嘘なんです。』と言って止めた。けれども、彼女は、肉を切って、骨をのこぎりで引いて、皮を縫ひ合せて、と考へて見たけれども、どうしてもそれが人間の生きた肉体に行はれるものぢゃないと思った。
 さうしてるうちに、お葉の歩くべき日が来た。
『さ、今日は少し歩く稽古をしませうね。』
 けれども、彼女はどうしても恐ろしくって、ベッドの下に足を降すことが出来なかった。
『あ、草履を持って来ませうね、一寸ちょいとおまちなさい。』
 看護婦が急いで行って、一足の紅緒べにをの草履を足元にそろへた。お葉は、慄へながら血気ちのけのないやうな、白い死んだやうな片足をそっと降した。
『まあ、片方かたっぽでよかったのに、私もよっぽど馬鹿な――。』
 草履を持って来た看護婦が、その時大声で笑った。彼女は恐ろしさに慄へながら茫然とその女の顔を見た。その時、室内の日が急にかげって、すべてが淡暗く物悲しく見えた。どうして自分が床の上に立上るなんていふ事が出来よう。彼女の足は、ベッドから垂れて、ぶる/\とふるへてゐた。
『さ、私につかまって立ってごらんなさい。かうして、杖を両脇にはさんで、』
 彼女は杖をしっかりつかんだ。そして立上ったけれども、看護婦のおさへた手が少しでもゆるむと、浮草のやうにくら/\と動いて、眼は夢のなかのやうに物事をはっきり見ることが出来なかった。
『さうして、一寸、一寸、飛ぶんですよ、しっかりつかまへて上げますからね。』
 彼女は、さういふ看護婦を恐れた。飛ばなきゃならないと思ふけれども、どうして足を浮かしていゝものやら、彼女は足の運び方を、すっかり忘れてゐた。そして、やうやくはっと飛んだと思った時には、わづか彼女の足元は一寸いっすん位しか動いてゐなかった。
 お葉は、床の上に丁字杖を持ったまゝ天地に頼りないものゝやうに涙ぐんだ。歩くといふ事が、これ丈悲しい恐ろしい頼りないものとは思はなかった。ベッドの上に、早くベッドの上に自分の身体を毛布のなかにつゝんでしまひたい。看護婦は、彼女をひきずるやうにして、漸く窓ぶちにつれて行った。わづか一間いっけん、それがお葉には海山の隔りのやうにも思へた。初めて窓から空を見た時、その高さと広さと、うるはしさは驚くべきもので、お葉は涙を持って仰ぐより仕方がなかった。そして赤い椿の花は、土の上から空に向って、自由に幸福に咲いてゐるのであった。
 地と空との間、その間の光り、それが、すべて意外であった。そして向ひ側の廊下がどんなにうるはしく見えて、白衣の人の姿がどんなに清らかだったらう。お葉は、初めて見た窓の外の景色はすべて感激にみちてゐた。けれども、それだけ、どんなに自分の不安定な、この活力にみちた空気の中を、歩く事の出来ない身が悲しまれたことか。
 次の日、お葉はまた浮草のやうにたよりない身体を杖と人とにさゝへられて、ドアのそばに立たせられた、そして又、はてしないやうな廊下の末を見やって、物悲しい心になった。彼女は、今まで自分の病室の前にこんな果てしないやうな廊下のつゞいてる事を知らなかった。淋しく涙にうるんでるやうに光る廊下の果しなさに驚いた。
 毎日一歩でも多くお葉は歩かねばならなかった。けれども、どうしてもその廊下に出る事はむづかしかった。夜、彼女は初めて看護婦におさへられて、廊下に出た。電気が、わづかに足元をてらして、開いた窓の暗い空から星が青くのぞいてた。一歩、一歩、杖の音におどろき、足の音に驚いて、引きずった着物の裾につまづきながら、うつつのやうに歩いて窓際によったけれども、涙は幻のやうに彼女の瞳をつゝんで、淡赤い月の行方ゆくへをお葉は見る事が出来なかった。
 お天気のよい午後になると、それから彼女は廊下の寝椅子の上に毛布をかけて横になった。そしていろ/\の物語に読みふけった。日が水のやうに爽やかに流れて、中庭にはすべて秋の凋落は、少しも見られない。
 木の葉は緑にかゞやき[#「かゞやき」は底本では「かがゞやき」]、赤白の山茶花さざんくわや椿が美しく咲いてるので、ハラ/\と日に輝いて落ちる木の葉に病む身をかなしむ事も出来なかった。ベンチとベンチの間にはベッドが置かれて、真白い薬を塗った石膏のやうな病人が日光浴をしてゐる。
 お葉の心はいま春である。かうしてる間、彼女はなんの悩みも苦しみもない。自分の肉体が如何に変化し、如何に自由を失はれてるかといふ事も考へる事が出来ない。木の青い若芽が、静かに日光を吸ふやうに、うっとりと夢の中に呼吸してゐた。
 青白い日蔭の花が、淋しい秋の日を受けて、静かな夢を見てるのもわづかの間である。お葉はそのはかない夢を見つづけて、寝椅子の上にあるのも只しばしである。母親は、前から廊下の柱によって、夢見する娘の為に、悲しい思ひをたぐってゐた。
(『新小説』大正4・1)

底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房版
   1970(昭和45)年6月15日発行
初出:「新小説」
   1915(大正4)年1月号
入力:小林徹
校正:Juki
2000年3月11日公開
2011年11月27日修正
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