加護

宮本百合子




 お幾の信仰は、何時頃から始まったものなのか、またその始まりにどんな動機を持っているのか、誰も知る者はなかった。ただそれと心附いた時には、もう十幾人という昔からの友達の中で、一人として彼女から、あらたかな天理王命(てんりおうのみこと)の加護に就て説き聞かされない者はないほどになっていた。
 肥って、裕福で仕合わせなお幾は、友達仲間に、何か一寸した不幸でも起ったという噂を聞くと、先ず何事を置いても馳せつけて、その人達の心を慰めずには置かない。丸々と指のつけねにくぼみの入った両手を、盛り上った膝の左右に軽く支え、心持頭を左に傾けながら、
「フーム、フーム」
と心を入れて人の述懐を聞く彼女は、ほんとにどこから見ても気の良い親切な「おばさん」に見えた。種々な批評はしながらも、人々は彼女の正直な、快恬(かいてん)な気分に引立てられる。ただその後で必ず附きものになっている天理教の講釈と、信仰の勧めだけには、彼女が熱心であればあるほど、会うほどの者が悩まされずにはいなかったのである。
 処女時代を、相当に高い教育で鍛えられて来た友達は、皆、半ばの揶揄(やゆ)と好奇心とに動かされながら、柄にもない信心に没頭し始めたお幾の行動を注目していた。そして、何かの折に彼女を中心として、例の信仰談に花が咲くと、いつとなく揃ってしめし合わせでもしたように熱烈なお幾の雄弁を、すらりすらりと除けながら、最後にはきっと、
「けれどもねお幾さん。私共には到底そんな信心深い心は持てないのですよ、そんなに有難い神様なら、あなた何故お恵さんを真先に信仰させてお上げにならないの?」
という一句で、止(とどめ)を刺すのが常であった。この一句さえ出れば、どんなに気負っていたお幾も気の毒なほど俄に悄然として、
「ほんとにねえ……」
と云ったまま、もう決して二度とその鋭鋒を現さない。そのこつを、皆はすっかり飲み込んでいたのである。然し誰一人、何故それほどお幾がそれを云われさえすると落胆するのか、理由は知らなかった。恵子とは子供の時分から中年になった今日まで一言「お仲よし」と云いさえすれば、あああの方達のことかと解るほど有名な仲よしで通って来た。そのお幾が、皆を辟易させるほどの真剣さを以ても、なお、第一の理解者であるべきお恵さんを説服し得ないということは、二人の性格を知り抜いている者には、一層不思議なことなのであった。
 お稚児に結って、小学校に通っていた頃から、お恵さんは痩ぎすな、淋しい静かな子であった。けれどもお幾の方はまるでそれとは反対で、何時でも自分の仲よしを、或る程度まで思いのままに操縦する活気を持って生れていた。いいにも悪いにも、自分を立てて来られたのが、このこと許りは思うように行かないので勝気なお幾はきっと残念なのだろうと、傍の者は思っていたのである。
 お幾にしても、そういう気分がないことはなかった。生れた時から不幸を背負わされて出て来たようなお恵さんを、彼女が物質的にも精神的にも補助して来た友情は、決して並大抵のものではない。それと同時に、自分の深い友情に対して、長い時が経ると共に湧いて来た一種の矜持ともいうべきものが、皆の言葉で何となく権威を失うような心持もされるのである。然し、「お恵さんを云々」という一句で彼女がそれほど悄然とする理由は、決してこれ許りではなかった。それに就ては、さすがのお幾も冷汗を掻かずにはいられないような思い出が、誰にも語られずに、でっぷり重そうな胸の中に蔵されていたのである。

 もうそれは足掛三年ほど前のことである。
 八月も末近い或る夕、蚊遣を燃(た)きながら、竹縁で風を入れていたお幾は、思い掛けず、お恵さんの良人が死去したという報知に驚かされた。
 広田さんの病気は、昨日今日に始まったことではなかった。もう半年ほども腎臓が悪く、近頃は暑気でめっきり弱ったことは、知り抜いていたのである。がげんにその前の日見舞に行った時に、衰えてこそおれそんな急なことはありそうにもなく美味そうに梨の汁などを啜っているのを見て来た彼女は、それを聞くと一緒に、
「死んだ? 広田さんが? お前何か聞き間違ったのじゃあないかい」
と念を押したほど、仰天した。勿論一刻も猶予してはいられない。あわてる女中を急き立てて喪服に更えるとお幾は、帯留を啣(くわ)えたまま、俥に乗った。折悪しく近所の工場の退け時で、K町の狭い通りは浅葱色の職工服や空の荷車で夕闇も溢れるほどの混雑をしている。
 その間をようように抜けて質素なお恵さんの家の小門の前に梶棒がおりると、彼女は、もう堪らなさそうな泣顔になりながら、取次の女中を突のけて奥の間へ馳け込んだ。
 ことがあまり突然だったためか、家中は、気味の悪いほどしんとしている。その寂寞の中で自分の気勢(けはい)に我ながらハッとしたお幾は、袂で啜泣を押えながら、廊下を抜けて勝手知った主人の居間へ行った。そこには、平常よりなお小さく、なお瘠せて見えるお恵さんが、ぽつねんと幼い二人の子供達に守られて、とりまわした逆屏風の此方に坐っている。――
「まあ、お恵さん……」
 彼女は、いじらしい友達の様子を見ると、声を立てて泣き咽(むせ)びながら、べったりとそこに坐ってお辞儀をした。
「いったいまあ、何ていうこってしょう!」
 肥った丸い顔中を、涙でぐっしょり濡して、にじり寄ったお幾の顔を見て、今まで泣こうにも泣けなかったお恵さんは始めて涙の解け口を見出した。
 左右に怯えたような子供達の肩を抱き擁えながら、
「おいそがしいのに早速来て下すって……」
と、云いながら頭を垂れ、膝の上にポタリポタリと涙を落すお恵さんの様子は、どんなに強くお幾の胸を打っただろう。
 灯もつけない薄闇の中に、微かな鳴声を立てて寄って来る蚊を追いながら、彼女は痛々しげにこの不仕合わせな友を眺めた。
「本当に不幸な方……」
 彼女が知ってから、ただの一度でもお恵さんが晴々と高笑いしたのを見たことはなかった。家柄はよくても、失敗続きで不自由勝ちな両親の手許から離れたかと思えば良人は、生れつきの病身であった。その日の暮しにこそ困らなくても、片時も心の安まる暇のないうちに、こうやって突然子供を抱えて、後に遺されるような目に会わなければならない。――
 今だに両親さえ健全で、普通世間で幸福と呼ばれるあらゆる幸福を一身に集めているお幾には、これ等の苦痛は、想像以上の苛責とほか思われなかった。彼女には考えても見られない。その恐ろしい苦しみを後から後からと、よく、どこまでも背負って行くと思って見ると、慎ましい小柄なお恵さんの姿は、さながら悲運の使者のようにさえ見える。ほんとに若しこのまま続いたら、仕舞にはどんなことになるだろう。
 お幾の頭には、ふとしたことからつい半年ほど信仰し始めた、天理教の教が何時となく浮み上っていた。あの教では、人が思いがけない不幸や災害に遭うのはきっとその人が、何時か神の御心に添わないことをしているからなのだというのを、種々様々な実例を引いて話されその言葉を信じている彼女は、やはりこの場合にも同様の理論を当箝(あては)めて考えて見ずにはいられなかった。つまり、お恵さんの身に現れて降懸って来たこの度の不幸は、どこかに神の御旨を奉じなかったという因が在って起った果ではあるまいかということになるのである。
 そう思って見ると、お幾には総てのことが明瞭になるような心持がした。
 お恵さんの不仕合わせが神のお怒りの結果だとすれば、彼女は神様に懺悔してお詫をしさえすればよいのだ。そうすれば神は許してこの先の不幸は取除いて下さるに違いない。そう心附くと、お幾はもう黙って次に来る不幸まで負わせてはいられない心持がして来た。自分でなくて誰が、そんな先々のことまで案じてあげる者があるだろう。
 今ここで天理王命のお慈悲にさえ縋れば将来総てはよくなるのだ。
 お幾は、やがて涙に湿った手巾を膝の上で石畳に畳みながら、
「お恵さん、誠にこの度は飛んだことで何とも申しようがございません。けれどもね、今もこうやってつくづく考えて見ると、これはどうしても只事ではないという心持がして、仕様がないのですよ」
と、改まって口を切った。
「ほんとにあまり急でしてねえ……只事ではないとおっしゃると?」
 お恵さんは一夜でめっきりやつれた顔を物懶(ものう)げにまげて、お幾を見た。
「あのねお恵さん私――フト今頭に浮んだことなのですがね、あなたが若しやひょっとして、神様のお怒りにでも触れるようなことをなさった覚はありゃあしまいかと思ってね。神様というものはもともと……」お幾はチラリと相手を偸見(ぬすみみ)た。
「決して罪のない者に飛んだ不仕合なんかはお授けにならないものなのですものね、だから、若しあるなら早く――」
「神様のお怒りに触れる――何をおっしゃるんでしょう! お幾さん」
 お恵さんはぼんやりと自分に凭(もた)れていた二人の子を突除けるようにしていずまいを正した。急な緊張に驚いて、我知らず面をあげたお幾は、思わず身が縮むような何物かを、お恵さんの瞳の裡に読み取った。
 お恵さんは感違いをしたのだ、ひどいこと! いやな、いやなこと! 本能的にお恵さんが思ったことを直覚するとお幾は、サッと顔の色を変えながら、あわててお恵さんの膝に手をかけた。
「まあお恵さん、どうぞ! 私決してそんな積りで云ったのじゃあないのですよ、ただ、ね、お恵さん、私信心しているものだから……」
 救いを求めるような手を、お恵さんは静かに自分の膝から払いのけた。
「お幾さん、私はこれでも及ばずながら人の妻としてすべきことだけは尽した積りでございます。たといあなたが、どんな積りでおっしゃっても、私は決して神の怒りに触れるようなことをした覚えは夢にもございません、爪の垢ほどもございません」
 強て落付きを保とうとするお恵さんの声は、自ずとこみ上げて来る歔欷(すすりなき)に怪しく掻き乱された。
「あなたに――あなたまでがそんなことをおっしゃるかと思うと……」
 肩を震わせて二つの袂の中に泣き崩れたお恵さんは、やがて頭を擡げると、良人の遺骸の枕許にぴったりと寄添って、切れそうに唇を噛みしめながら、静かに新しい線香に火を移した。

「ほんとにまあ何ということを云ってのけたものだろう」
 あの恥と憤りとに火のように燃えて自分を見た二の眼を思い出しただけで、お幾は今だに体の竦む思いがした。
 たとい、云い廻しの不十分から起った誤解だとは云いながら、場合が場合だけに、お幾は自分をよしとする如何なる口実も見出せなかった。
 馬鹿な自分、間抜けな自分、彼女は自分の手に喰いつきたいほど、その失言を悔い悩んだ。
 若し自分がお恵さんだったらどうだったろう。きっと相手の顔をぴっしゃり打ちかねず怒ったに違いない。
 それから後殆ど日参するようにして、ようよう心の解けた今は、もう一つの淋しい笑話となってはいても、何かの折にお恵さんの顔を見ると、そのことを思い出さずにはいられない。それを思い出すと、流石の彼女も再び神の怒と恩寵とを説くほど厚顔にはなれない。お恵さんが行違いを二人の間だけのこととして、誰にも洩さず、自分の不注意をかばっていてくれることは、お幾にとって、譬(たと)えるもののない恩恵であったのである。
 こういういきさつを経て、二人の友情はまた元通り濃(こまや)かなものになった。が一方お幾の信仰談は、傍から想像もつかない位しおらしい遠慮で憚られているうちに、お恵さんには更に第二の不幸が襲って来た。
 せっかく十まで育て上げた唯一人の男の子が、急性肺炎でたった三日入院したばかりであえなく死んでしまったのである。
 その時、お幾の尽した親切というものは、恐らく親身の姉もそれには及ぶまいと思われるほどのものであった。
 実の兄はありながら、寡婦になったお恵さんを厄介者扱いにして、悲しみの最中に、一遍の形式的な悔みを述べに来たきり、後は振向こうともしない冷酷さに義憤を発したお幾は、泊りがけで気の毒なお恵さんの片腕になった。
 物に熱中し易い彼女が、全心を焔のようにして掛った好意によって、お恵さんは辛くも愛子の葬儀を滞りなく済すことが出来たのである。いよいよ葬送もすんだ晩、一きわ寥しい部屋に二人が抱き合うようにして流し合った涙は複雑なものであった。けれども、総ての複雑さを一つに纏めて、結局の処から戻って来るものは、お互の限りない友愛に対しての悦びと感謝とであった。
「ありがとう、ほんとにお世話様になりました」
 そう云いながら頭を下げるお恵さんの手をとって、お幾は、さも飛んでもないというように振った。
「まあお礼! お礼なんかはよその人にして下さい」
 こんな時彼女の胸には、等しく深い感激が漲った。けれども、何か、もう一歩お幾には足りないもののあるのを争うことは出来なかった。
 彼女の胸にはどうしようもないうちに来てしまった第二番目の禍を送って、更にその次の不幸が危ぶまれていたのだ。が、然し口に出してそれを警告する勇気はない。二人が打とけた心持で話し合っている時も、泣き合っている時も、そのことが心に浮ぶと、お幾はフト瞳をかえして、最愛な友の面を眺めずにはいられない気分になって来るのである。

 その日も、お幾は厚く着膨れた襟の下に同じ思いを抱きながら、お恵さんの門前で俥を降りた。
 寒い日である。まだ二七日を過ぎたばかりの森閑とした家の中に、竦むようにしてお恵さんは炬燵に当っていた。
 心安だてに、案内も待たず鴨居につかえるような体をずっしりと運んで来たお幾を見ると、彼女は思わず縫物を手からおいて悦んだ。
「まあ丁度好いところへ来て下すったこと。お寒いのによく来て下さいましたね、さあこちらへ。冷えるからお厭でなかったらあなたもお当りなさいな。淑子さん、あついお茶を入れて上げて頂戴」
 お恵さんはほんとに嬉しそうに、拡げた縫物を片寄せながら、わざわざ肥ったお幾のために凭(より)かかりのある壁際の席をあけた。
「毎日毎日しぐれたお天気ですことね、しかたがないからこんなことをしております、木魚のお布団ですよ、綺麗でしょう?」
 お恵さんは今まで縫っていたらしい友禅模様の小布を抓(つま)み上げて、ヒラヒラ動かしながら微かに笑った。
 けれども、友達の赤くかさかさになった眼の廻りや、濡れたままこわ張ったような頬の色を、どうして見のがすことが出来よう。
「お恵さん、あなたは駄目ですよ、そうやって独りで思い出しちゃあ泣いていらっしゃるんだもの。さあさあ、もうそんな縫物はおやめおやめ、そんなものを持出すから尚気が滅入っておしまいなさるんじゃあありませんか」
 お幾は、言葉で云い表せない親切をこめた荒々しさで、お恵さんの手から、派手な色の美しい小布を奪いとった。
「何か気を紛らすようにおしなさいましよほんとにあなたは……」
 お幾はあわてて洟(はな)をかんだ。
 彼女の姉らしい叱責にすなおな微笑で答えながら顔を擡げたお恵さんの眼には、悲哀と信頼とが混り合って輝いて見えた。彼女は、やがていつもより一層しんみりとした口調で、ぽつぽつと話し出した。
「この頃はね、外は寒いし、家にいても気分が捗々(はかばか)しくないので、ついこうやって炬燵にずくんだままで随分いろいろなことを考えて見ました。今までは何や彼やごたごたして一度も考える気で考える時がなかったようなものですものね」
 お幾は何と云ってよいのか分らずに蒼白い小さいお恵さんの面を眺めた。
「考えて見ると、好い加減な暮し方をして来たのだと思いますよ。ほんとに自分で気のつかないほど好い加減なのですね。何でも彼でも上面だけ考えていたのですもの。――いつかあなたがおっしゃいましたね、あの広田が亡くなったのは只事でないって……」
「あれは、お恵さん私……」
「いいえ大丈夫。決してそういう積りじゃあありませんの、ほんとにね広田のなくなったのも、誠之が死んだのも、この頃では何か訳のあることなのだと気が附き始めたのです。あの時こそ、意地であなたにたてついたけれどもね」
 お恵さんは寂しい笑顔でお幾を見、眼をふせてじっと両手で捧げるように持った茶碗の中を眺めた。
「あなたも御存知の通り、広田は正しい人でした。誠之だって、私の眼から見れば人並よりは何か違ったよいものを持って生れていたと思われます、それは勿論親の贔屓目(ひいきめ)かも知れませんわ。けれどもたとい贔屓目にしろ、自分が時には頭を下げるような児を、思いがけないことで取られて見ると――何か大変な手落ちをしたような相済まない心持が致します。あなたはお仕合せで、お子さんをお一人もおなくしになったことがないからお分りにならないでしょうね、けれども子供に死なれるのは――本当に辛いことです。自分が死ぬよりも幾層倍苦しいか分らないと思いますわ」
 微笑もうとしたお恵さんの唇は空しく震えたまま、眼から涙がこぼれ落ちた。
 悲痛な言葉を聞き、お幾は殆ど身動きもならないような何物かに心を圧倒された。何か云ったら、飛んでもないことを云いそうで――お幾は今自分がものを云ったら、云うほどのことが、皆空虚なお坐なりに聞えそうな不安な気がした。「………」丸いお幾の顔には、当惑に近い苦しげな表情が表れた。
「それでね、考えれば考えるほど、いても立ってもいられない心持がして来るのです。きっと、自分が親として、また妻としてあまり至らないので、神様が惜しんであの子をお取上げになってしまったのではあるまいかとさえ思います。ほんとに広田や私の善いところだけを選んで生れついたような子でしたもの――」
「まさかそんなことがあって堪るものですかお恵さん、あなたがあまり思い過しておしまいになるのですよ、けれども――」
 お幾は急に心を横切った或る内密な喜びで、我知らず顔中を輝かせた。
「若しあなたがそうお思いなさるのなら、心のすむようになさるのは好いことですわね」
「そうでしょう? ですからあなたもおっしゃるように、今度をいいきっかけにして私、天理教のお話でも伺って見ようかしらと思い立ちましたの。若し私が不束(ふつつか)な故で、淑子まで、可愛そうに、不仕合わせになったらそれこそ生きてはいられません。誠之のためにも何かの供養になるでしょう」お恵さんの頬にいつも絶えない、弱々しく淋しい微笑がまたそっと忍び込んだ。
「そして、皆にお詫を致しますの」
「まあお恵さん……」
 ふと会った視線を避け、お幾は思わず伏目になった。かねてから思いもし願いもしたことが、現在の事実となって目前に現れて見ると、彼女は些(すこし)も予想したような、晴々とした大悦びは感じ得なかった。
 却って、何か今迄の自分の経験の中にはないものを、お恵さんは確かりと我ものにして、小さいながら、弱々しく見えながら厳かな重みを持て据ったような心持がする。お幾は、先刻(さっき)までは十分に重かった自分が、俄にふうっと他愛もなく軽いものになったような心持がした。
 けれども、もう二十年も以前にその青春時代の教育をうけた彼女には、自分の胸に湧き起ったそれ等の気分がどこから来たのか細かに考えるだけの力は持たなかった。
 富裕な、地上的にあらゆる幸福を身に備えた者が、それ等の甘美な恩寵から、不意な災禍で追放されることを恐れて始めた「信心ごと」は、不幸に不幸を重ねた者が、底の底から求めて神に双手を延した心持を、そう容易く直感することは出来ない。――
 然し、お幾は、長く「考えても解らない理窟」に拘泥する質ではなかった。彼女は間もなく持前の愉快さを回復した。
 長い時間と、身が切られるような失敗を経験させられた友が、ようよう来るべき所へ来たのだという感動と、その道では先輩であるという明るい誇とで熱くなったお幾は、お恵さんが折々目をあげて彼女を見たほどの雄弁で蓄えられていた神の加護を披瀝した。
 翌朝七時にもならないうちに、お幾は、ことごとしい紋服でお恵さんの家を訪れた。彼女に連れられて、お恵さんは生れて始めて、注連(しめ)を張り渡した天理教会の門を潜ったのである。

 とうとう、お恵さんを天理教の信者、少くとも信心への第一歩を踏み出させたお幾の悦びは、例えるものもないという風に見えた。
 友達に会うと、彼女は一人一人に、
「まあ今度は、あのお恵さんもね、我を折ってとうとう神様にお縋り申すようになりましたよ。有難いもので長年の誼(よし)みなどというものは、矢張りどこかに、神様の御心があるのですね、まあまあこれで、やっと私も一つ御奉公が出来ました」
と、吹聴する。
 誰の目にも、彼女は悪意のない得意の絶頂にいると見えた。今まで何かにつけて、自分の鈍い感化力を嗤(わら)っていた友達も、もう云うことは見出せまい。あんなに難しそうに見えていた一大事を、あれほど手際よくしおおせられようとは思わなかった。
 それ等の快感で、お幾の胸の中では、ここまで来るにお恵さんが、どれほどの涙と苦痛とを経たかなどということは、忘れるともなく忘られていたのである。
 精力家で、半日と凝っとしていられないお幾は、今までも、ちょくちょくお恵さんの家を見舞っていた。けれども、友が息子を失ってから、まして、信心を始めるようになってから、彼女の訪問は、一層その度数を増した。辞退するお恵さんに、
「何、構うもんですか、外の空気を吸うだけ、私の体にだって好いのですもの」
と、彼女は三日にあけず、美しい黒塗の俥を止めるのである。
 丁度土曜日に当る、或る朗らかな昼頃、お幾はいつものように、友の門前で俥を降りた。
 片手に、好物の「けぬき鮨」の折を持ち、曇硝子を嵌めた格子の前に立って案内を乞おうとすると、中からは、何かただならぬ気勢が洩れて来た。
 二三人、人が塊(かたま)って何かしているらしい。他に来客でもあるのかと、瞬間躊躇したお幾は、間もなく、
「お母さん、お母さん、これ!」
と叫ぶ、遽しい淑子の声に驚ろかされた。
「奥様、お湯を……大丈夫でございますか?」
 おろおろした下女の声に混って、聞き取れないほど低くお恵さんが何か答えるらしい様子がする。
 お幾は、がらりと格子を開けた。見ると、上り框(かまち)に、真蒼な顔をしたお恵さんが、女中の腕に抱えられるようにして、腰かけている。鬢の毛をほつらせたまま、危うく首だけを延して、娘の手から、湯か水かを飲もうとしているところなのである。
「まあ! 奥様」
 助かったというような女中の声と、
「どうなすったんですよ! まあ」
と云うお幾の言葉が、同時に二つの唇から迸った。
「お帰りになると、急に胸が苦しいとおっしゃいましてね」
「――息が迫って息が迫って……」
 お恵さんは、コートを着たままの体を、物懶そうに起した。
「とにかく、こんな端近じゃあ仕方がない。さあ淑子さん」
 お幾は、強いて快活に、怯えている娘を引立てた。
「この大きなおばさまが手伝ってあげるから、お母様をお部屋に入れてあげましょう」
 急いで展べた床の上に、羽織も何も着たまま横になると、お恵さんは暫く、身動きもしなかった。
 この天気のよい日に、彼女の額際から頬にかけては何ともいえず蒼ざめた寒い色が漂っている。薄い眉の下に、小さく寂しげに閉じた瞼の形、唇を微に開き、だんだんゆっくり深く呼吸し始めた友の胸の辺を、お幾は息を潜めて見守った。
「お医者様を呼ばないでもいいかしら……」
 独言のような彼女の呟きに、お恵さんは、間を置いて、静かな声で返事をした。
「もう大分楽になりましたわ、ありがとう……ようござんすよ」
「大丈夫ですか?――どうしたんでしょうね」
 傍から、淑子や女中が、近頃、彼女は、よく遠道をした後に、胸が苦しいと云っては暫く横になることがあると説明した。
 時には、指の先まで冷や冷やになり、気でも遠くなるのではあるまいかと思うことさえある、と云う。
 女主人と、まだ幼い娘きりの家に仕え、万一、何事かあると、第一責任は、自分が負わなければならないような位置にいる女中は、よい機会に、出来るだけ、お幾の保護を受けたそうに見えた。
 低い、然し熱心な調子で、いろいろ云う言葉を耳にききながら、彼女は、瞼を下して、枕の上にある友の顔を見た。なるほど、重る不幸のあった後、お恵さんはめっきり年を取って見えた。飾りけのない束髪にあげた耳の後や、眼尻には、歴々と疲れた衰えが見える。然し……年を考え、自分の健康を思うと、お幾には、それほど、お恵さんがしんから弱っているとは信じられなかった。
 たった、四十四や五で、歩いても息が切れるほど老衰するものだろうか?
 お幾は、年頃の時代から、頭の痛いことさえ知らなかった。肥満し、動作が億劫にこそなれ、彼女は、今でも三十代と違わない活力を裡に蔵しているのである。
 彼女には、お恵さんの弱りも、失望し、落胆した心から出るとほか思えなかった。
「病は気から」ということさえもある。――
 それにしても、お幾の心の中では、次第に、こんなことでお恵さんが勇気を挫き、信仰の方も疎(おろそか)にしはしまいかという一事が不安になり始めた。
 なかなか熱心な人を紹介されたと云って、自分も喜ばれている。一方から考えれば、それだけ、自分の信心力の強さも証明されたことになった。お恵さんのためにも、ここで止めては、今までの辛棒も、まるで無になると、思わずにはいられなくなったのである。
 まして、物事には、何でも峠がある。字を稽古しても、琴を習っても、始めの間は面白いように上達する。こんなに手が上るかと、驚ろかれるほど進歩する。然し、或るところまで行くと、急にぴったりと先が塞(ふさが)り、もうどうにも仕方ないように感じることがある。いくら努めて見ても、目に立つ進境はなく、仕舞には、絶望の吐息と一緒に投げすてて終いたくさえ思う。信仰にも、同じように、そういう試みの時期があるのを考えると、尚更、お幾には、黙っていられない心地がした。
 自分でも経験がある。そこさえ辛棒し、目を閉った気で根を尽しているうちには、いつか晴れ晴れとした天地に入れる機運が廻って来るのである。
 水を割った葡萄酒などを飲み、幾分元気になった頃、お幾は、そろそろとお恵さんに尋ねた。
「あなた、この頃も毎日通っておいでなの?」
「ええ。通ってはいますけれどね……なにしろ遠いので――今日なんかはやっと家まで辿り着いた位ですわ」
「遠いったってお恵さんS町までですもの。ここからそんなじゃあありますまい? そうね、どの位あるか」
 お恵さんは、ぱっちりと眼を開け、心持上目で笑い出しながら、お幾を見た。
「あなた、御自分でお歩きになったことがあって?」
 お幾も、この、穏やかな問いには、急処を突かれた心持がした。半分は大儀から、半分は、余裕のある生活の習慣から、彼女は、十町と、自分の足で歩いたということはなかった。
 電車の通じる東京でありながら、それを利用出来ない不便な町筋を、寒い朝まだき、小一里歩かなければならない者の苦労を、お幾は、思っても見なかったのである。
 さすがに彼女も、直ぐには次の言葉が継げなかった。然し、お幾は、間もなく生れ付きの楽天的な気質で、さらりと心を取なおした。今、これ位のことで怯んでいるべき場合ではない。若し一寸でも、お恵さんの心に懈怠心がきざしているとしたら、それを剪(つ)んで、本道に還して遣るのは、自分を措いて、誰がするだろう。
「ねえ、お恵さん」
 お幾は徐ろに、口を切った。
「私は、どうもあなたの信心も峠に掛って来たと思いますよ。御自分ではまだ気がおつきなさらないかもしれないけれど――私も、随分、いろいろな人を見ていますからね」
「そうでしょうか……でも」
 床の上に坐り、羽織を着換えながら、お恵さんは、いつもの穏やかな調子で、反問した。
「峠にかかるにしては、あまり早いじゃあありませんか。お話を伺い始めて、いくらにもなりませんよ」
「時からいえばそうですけれどね――同じ痲疹(はしか)でも、早くしてしまう児と、大きくなってする子とありましょう? やっぱりあれと同じですわね。あなたも、ほんとの信心に入れる者か入れない者か、神様のお試しに逢い始めなすったのではないかと思いますよ」
 お幾さんは、それから、聴きての心を傷(そこな)わないように、しかも、自分の足場は一歩も譲らない熱誠で、神の懲戒ということを説明した。
 人間が、ただ肉体の安逸のみを貪る時、現れる神の憤りは、どれほど激しいものであるか。教祖ほどの卓越した婦人でも、自分の勝手から、何か神の御旨を奉じないことがあると、他人の力や薬の力では、何ともしようのない苦悩に遭った。あなたの体の苦しいのも、或は、魂のどこかに、怖ろしい懈怠心が起り始めたので、神様が予告して下さるためではないだろうか、というのが、お幾の推論なのであった。
「ほんとに、信心は、一大事ですよね。全く教祖様のおっしゃった『谷底へ落ち切れ』でね、神様から拝借ものの体を、我慾で劬(いたわ)っているうちは、どうしたって、本当の道には達しられないのです」
 自分の雄弁に自ら酔い、謹聴してくれる友の顔を見ると、お幾は、自分の身などを顧る余裕がなかった。福音の伝道者のように、彼女は亢奮を覚えた。
 単純なお幾は、それなら、実際、自分がどれだけの労役を信仰のために勤めているか、また、お恵さんの生理的状態は、事実に於てどうなのか、考える暇もなく、熱烈な発奮を促したのである。
 彼女に、仮借しない調子で、
「あなたの御信心は、そもそもの始りから、自分一身だけの安楽のためばかりでは、おありなさらないでしょう? いわば購いのためなのですものね。広田さんや誠之さんが、仕合わせな甘露台にお住みなされるように、また、この世では淑子さんも幸福でいらっしゃるように、御寄進をしていらっしゃるのでしょう」
と云われると、始めは、稍々(やや)驚のみを以て聞いていたお恵さんも、友の言葉に耳を傾けずにはいられなくなった。全く、神の心は、計り知られない。いつ、どこに、どんな啓示が潜んでいるか解らない。亡くなった良人、息子、また、ただ独り、いつも、黒い瞳で自分を見守っている娘のことを思うと、ふと弛緩した信仰の重大さが、新しい威力で、津浪のように迫って来た。
「私もね」
 お恵さんは、静かながら、偽りではない声を出した。
「決して、疎そかな心でいるのではありません。けれども、なにしろ弱いのでね――本当に……深い信仰にさえ入れないのかと思うと、こわいようになりますわ」
「それがいけないのですよ、お恵さん。自分で弱い、弱い、と云うのは、まるで、達者になろうとしないで、弱いのを、先に立ててついて行くようなものですもの。忘れるのですよそんなことは。そして、一心不乱に、身上(みじょう)助けをなさるの!」
 頭を使って、これ等の言葉を聞き分ければ、どこかに、お幾の、自覚しない身勝手が感じられたかもしれない。然し、誰一人、親しく自分を鼓舞してくれる者もなく、確かりなさい、と、肩を叩いてくれる者も持たないお恵さんにとって、これは、一方ならない、励しの言葉であった。
 とにかく、お幾の元気が、細そりと、蒼白い、お恵さんの肉体を貫いて、一種の電気でも通じるように見える。次第に、彼女自身も亢奮し、覇気を持ち、踏み出した道なら退くまいという勇気が、湧いて来るように感じるのである。
 素直なお恵さんは、この刺戟一つに対しても、お幾の友情を徳とした。
 彼女は、心から、
「ありがとう。私も確かりしますわ。本当に、自分の心ほど、自分で判るようで判らないものはないのですものね」
と云った。
「私も、せいぜい元気になりますよ」
 二人は、笑顔を見合わせた。
「そうですとも。私だって、出来ることなら、この体の半分も、あなたに足してあげたい位に思っているのですもの」
 自分の言葉が、快よく受け入れられた歓びで、お幾の血色よい顔は、一層つやつやと輝くように見えた。
 彼女は、気軽な滑稽を云いながら、淑子や女中を集めて、御持参の鮨の折を開いた。

 それから間もない或る朝のことであった。
 お恵さんは、いつものように、手軽な朝飯を終ると、身仕度をし、自分で夜来閉された門を開いて家を出た。ひどく靄(もや)の濃い朝である。
 ひっそりした午前六時過の天地は、一面、乳白色の、少しきな臭いような靄に包まれ、次第に昇る朝日に暖められた大気が、水のように身辺を流動する。
 奥には溶けるような薔薇色の輝やきを罩(こ)め、稀な人影を、ぼんやり黒く浮上らせる往来の様子は、彼女の心に、珍らしい美しさを感じさせた。
 ところ、どころの靄の切れめからは、チカチカと粉のように耀く杉の黄葉や樫の梢が見える。一間二間と、歩みにつれて拓けて行く足下の往来の上では、濡れ湿った小石の粒が、鋭い少年の眼のような反射をなげる。
 まだちっとも塵の立たない大きな屋敷の塀の内で、元気な犬が、胴震いをして頸輪を鳴らし、嗅ぎ音を立てながらあっちこっちしている気勢なども、如何にも快い十二月の朝らしく響いて来る。
 何に行手を遮られることもなく、寒く、しかも暖く靄と太陽とに纏まれて歩いていると、お恵さんの心には、何とも云えない平安が満ち溢れて来た。
 この道も、幾度通った処だろう。時には、明朝を想うさえうんざりして、のろのろ足を引擦って来たことのある路だ。
 それが、今朝は、まるで違った世界に在るように気持よい。自分が、近頃になく心持よく、若返ったように感じる通り、自然も、子供で、愉快な活力に横溢しているように思われるのである。
 彼女の足は、自ら軽々と動いた。こうやって行くと、まるで、勤めで、ここまで行かなければならないという歩行ではないような気がする。焦ることもなく、思い煩うこともなく、彼女は散歩のように楽な気分で、鎮った屋敷町を進んだのである。
 巡査の姿は見えない、とある交番の傍から、道幅の狭い、商売町にかかる頃、四辺の靄はもうすっかり霽(は)れ渡った。屋根の瓦や、眠りから醒めた小さい飾窓(ショーウインドー)に、チラチラと日が照る。店頭に動く小僧の姿、黒い外套に息を白く見せて行違う学生の通学姿等が、そろそろ、急しい午前七時の町筋を思わせる。
 起きたばかりの文房具店の横から右に曲り、また静かな裏通りに出ると、お恵さんの足は、何時の間にか速くなって来た。天理教会の支部は、もう一つ先の角を折れた坂上にある。今迄、あまりゆっくり歩き過たという意識と、先がもう遠くはないという考えが、我知らず彼女を急き立てたのである。
 お恵さんは、丁度先に行く中学生の足並に、後れまいとするような意気込みで、せっせと足を運んだ。そして、最後の角に在る寺の近くまで来かかると、彼女は、急に何ともいえない胸苦しさを覚え始めた。
 何かに驚きでもしたように、胸がドキリとしたかと思うと、俄に鼓動が烈しくなり、うっかり動いたら、忽ち倒れてでもしまいそうに、呼吸が迫って来るのである。
 鼠色の地味なコートの袂を合わせて胸を押え、お恵さんは、瞬間、どうしていいか、途方に暮れて立澱んだ。四辺には、介抱を頼むような家もなければ、人もいない。
 とにかく、凝っとして、落付けなければ、どんなことになるか知れない。先達って中からの経験で、お恵さんはこんな時、安静が何より必要なのを心得ていた。
 彼女は、出来るだけ、体のどこにも力を入れないように、足の幅だけ横いざりをして、往来の邪魔にならない道傍に退いた。
 何時の間にか、髪の生え際に、ねっとり冷たい汗が滲み出した。げんなりし、節々から力が抜けたようになり、お恵さんは、立ってもいられなくなった。
 彼女は、首を垂れ、胸を掻き抱いてそこに蹲(しゃが)んでしまった。
 あまり突然な変化で、何事が起ったのか、彼女自身にも解らないほどだった。今までのあらゆる現実は、いきなりふいっと消えてしまい、漠然とした、本能的な、寂しい、疲れた感覚ばかりが、体も心も、一杯に埋めてしまったのである。
 お恵さんは、背を向けた往来を、威勢よくガラガラと転って行く、牛乳屋の空車の音も聞かなかった。目の前に、顔を刺しそうに突出ている、尖った枳殼(からたち)の垣根も見なかった。
 ただ、時を切り、厭な寒気と、いくら口をあぷあぷさせても吐き切れない息の苦しさばかりが、体を震わせる。彼女は、薄すり閉じた瞼の下で、顫える寒天のような灰色の空間を見た。下から上へ、下から上へと、無数に真青な焔が立って行く。

 お恵さんが、常願寺の裏から、吊台で運び返されたという急使を受けた時、お幾の愕(おどろ)きは、想像も許さないものがあった。
 結いかけていた髪もまとめず、くるくる巻のまま、体中で震えながら彼女が馳けつけた時、迎えたお恵さんは、もう、
「よくいらしって下さいましたね」
と云って微笑む、今朝までの彼女ではなかった。
 冷たく堅くなった、一人の淋しそうな婦人の遺骸が、落付き悪く、三年前、良人が横わったと同じ場所に臥っているのである。
 唇迄蒼白くなり、お幾は、口も利けなかった。
 部屋には、偶然通り合わせて、人だかりのした行路病者が、お恵さんであるのを見つけたという、矢張り、同じ信心仲間の年寄がいた。妹が死んだとなっては、さすがに棄てても置けまいという風に、常は冷酷な兄の、卑しい大きな顔も見える。
 然し、お幾は、それ等に、適当な弔みを云うことさえも忘れた。
 こんなことがあり得るだろうか。こんなことが、あってよいものだろうか。
 膝で進んで顔被いをとり、さほど面変りもしない友の容貌を見守ると、始めて彼女の眼からは、とめどない涙が流れ出した。
 相変らず女らしい形よい額つき、つつましさそのもののような眉。道ばたで死のうとし、最後に何が彼女の心に閃めいたのか、色のない唇には、実に綺麗な、しかも、ぞっとするほど神秘的な微笑のかげが差しているではないか。
 名を呼ぶにはあまり悲しく、礼をするにはあまりなつかしく、お幾は声をあげて泣きながら、額を、細い友の手にすりつけた。
 逆さまにかけられた黒縮緬の裾模様からは、ほのかに樟脳の香が立ちまよう。
 皮膚から心までしみ徹すような冷たさと、涙の熱さを感じながら、お幾は、心の裡で、最後の友愛を友に誓った。若しお恵さんに、一言口を利くことが出来たら、彼女は、どれほど、独りの娘のことを云うだろう。どんなに痛わしがり、不幸な縁を歎くだろう。
 たとい、口は永久に喊(とざ)されても、お幾には、耳に囁かれると同様、強く、はっきり、友の心は感じられた。自分にかけられた沈黙の裡の信任を、お幾は、天地の間に読み取った。
「お恵さん、どうぞ安心して神様のお膝に還って下さい。私が生きている間はあなたが心配なさるようには決してしません。淑子さんは、きっと引受けました。ほんとに不仕合わせな一生をお送りなすったけれど……」
 彼女は、心の中で思うさえ、甘露台などという文句は今の場合、空々しくて云えなかった。お幾は、涙を拭き拭き、自分の頭から櫛をとって、乱れかけた友の後れ毛を掻きあげた。


底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2002年1月7日公開
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