三郎爺

宮本百合子




        一

 今からはもう、六十七八年もの昔まだ嘉永何年といった時分のことである。
 江戸や上方の者からは、世界のはてか、毛むくじゃらな荒夷(あらえびす)の住家ぐらいに思われていた奥州の、草茫々(ぼうぼう)とした野原の片端れや、笹熊の横行する山際に、わずかの田畑を耕して暮していた百姓達は、また実際狐や狸などと、今の我々には解らない関係を持って生活していたものらしい。
 冬枯れの霜におののく、ほの白い薄(すすき)の穂を分けて、狐の嫁入行列が通ったり、夜道をする旅人の肩に、ちょいと止まった狸が、鼻の先きに片手をぶら下げると、それが行手をふさぐ大入道のように見えたりしたことは、彼等の考えから云わせれば、決して「気の迷い」ではなかったのだそうだ。
 私共が、往来でガス燈を見るような度数と心持とで彼等は狐火を見、兄弟達とふざけるように楽な気持でだまされたり、つままれたりしたとみえる。そして、その時分には梟(ふくろう)まで一かど火の玉を飛ばせるくらいの術は心得ていたのだそうだ。
 こういう時と場所とに生れ合わせた三郎爺は、もちろん一人だけ、仲間はずれになられるはずのものではない。
 生れて、やっと四十日経つか経たぬに、彼等の言葉で云う「ならずもの」のお蔭で、とり返しのつかない目にあってから以来、彼が三十近くなるまで、彼と狐、狸ははなれられない因縁を持っていたのだそうだ。
 彼の第一の事件は、ある大層暑気の激しい夏、彼がまだフヨフヨの赤ん坊のときに起った。
 六右衛門という百姓の女房が背戸で菜飯にする干葉を洗っていた。
 もうあたりは薄暮れて、やがて螢の出そうな刻限だのにどうしたのか昼の暑さが一向に減らない。
 その頃も今と同じ、半裸体の姿でザブザブと水をつかっているのに、女房の体からは、樽の栓でも抜いたような大汗が、ダクダクダクダク気味悪いほど流れて来る。
 息が詰りそうにむれっぽい息を、ホウッとついて、玉のような汗を拭き拭き女房は思わず、
「ハアえれえ暑さなこった」
独言(ひとりご)ちながら、何心なくフイと腰を延して見ると、いつの間に昇ったか、大きな大きな、途方もなく大きな月がついそこの松の梢に懸っている。
 よく瞳を定めて見ると、大きいばかりでなく、色差しも何だかいつもとは違う。まるで朱塗の丸盆のようにどす赤い月が、ビクともしないで、いつまで経っても同じ梢に止まっている……。
 これにはさすがの女房も驚かないではいられない。大きな声で呼び立てたので、近所合壁の者が皆出て来る。出て来ては、皆度胆を抜かれる。
 まるで、茹(ゆだ)ったか酔っぱらったようなお月様が、小半時、始めの処から一分一厘動かないのだから、なるほど、只事ではない。
 天地が、また火の玉に戻る前兆だの、凶作のお知らせだのと、ワヤワヤ大騒動をしていると、やがて一人の子供が突き抜けそうな声で、
「あれ! 見ろよ、あら! あら! 山からもう一つお月様あおできなすった」
と怒鳴った。
 見ると、ほんとに、朱色のお月様の後の山際から、淡金色のすがすがしいもう一つのお月様が、夕暮の空に後光を燦(きら)めかせながら、しずしずとお出なさる……。
 ところが、いやはや、何とも痛み入ったことには今が今まで、松の梢に悠然と構えて下司共の大評定も知らぬ顔に、夕風をあてていた朱塗のお月様は、その声が聞えると一緒に恐ろしくあわて始めた。
 そして気の毒なほど、尖った葉っぱの上で、モジモジしたかと思うと、やがて思いきったように、一つ、クルリともんどりうつや否や、枝から枝へ、葉から葉へと、赤いまま、大きいままのお月様が、あろうことかコロコロコロコロまるで手毬のように転がり落ち出したではないか。皆はもう、あっけに取られてしまった。おかしいのだか、驚いたのだか訳も分らずに剥(む)いた沢山の眼の前まで落ちて来ると、御愛嬌のように、もう一つポンと弾んで、オヤともアラともいう間もなく、どこへか消えてなくなってしまった。
 その速いこと、速いこと。
 まるで、目にも止まらぬ早業に、うつけのようになった三郎爺の母親は、どういう気持ちだったのか、
「はれまあ……俺(お)ら……」
と、がっかりした口調で囁くなり、ちょうど気抜けのように抱いていた三郎爺を、いやというほど地面へ落してしまった。
 暫くは声も出せないで、ひきつけていた彼を、皆が驚いて抱きあげたときには可哀そうに、右の手が肩からブラブラに下ってしまっていた。

        二

 そのブラブラになってしまった手をどう療治したのか、彼も知らず、私もまた知らない。
 大方、何かの草の根を煎じてむしたくらいのことほか、出来はしなかったのだろうけれども、そこは御方便なもので、余病も起さず、赤坊の軟い骨はどうにか納まって歩ける頃には、別に不自由もないほどになった。
 けれども、よく見ると、右の手は左の方よりかなり短い。そして肩のところが、変に嵩(かさ)ばったようになっているくらいのことで済んだのは、何しろ仕合わせであった。
 赤いお月様に右の手の長さを一寸足らず取られた以外、彼は死なせたくても死なないような丈夫な子に育った。大きな大きな二つの眼、響くような声と、岩畳(がんじょう)な手足、後年彼を幸福にもし、不幸にもした偉大な体躯が、年中跣(はだし)で馳けまわっていた頃から、そろそろと彼に、仲間での有力者たる特権を与え始めた。
 ずいぶん見かけは、粗暴な様子ではあったが、心は案外おとなしい、親切なところを持っていたというのは、あながち自画自讃ではないらしい。
 喧嘩には、俺がなければ納まらないという自惚(うぬぼれ)――幼稚であり、無智ではあるかも知れないが、決して憎むことの出来ないほど、単純な可愛い自信――を、根強く彼の心に感銘させただけの侠気は、その時分も弱い者の肩を持つくらいのことはさせただろう。
 けれども、彼の持つ同情心も侠気も、極く粗野なものである。
 心の訓練によって磨いた徳ではないのだから、人間の子供が与えられるだけのものは皆与えられ、それが衝動的に命令するがままに行動する。
 それ故、今、弱い者の肩を持って、多勢の悪太郎共を相手に竹槍合戦をする彼は、その竹槍を投げ出すと、こっそり、他所の畑へ忍び込んだり、果樹へ登ったりする。そこに何の矛盾も感じない。
 そして、今なおその味の忘られない一つの計略によって、しばしば貧乏な百姓の彼としては、異常な美味にありついた。それはこうである。
 なにしろ、その頃は狐が人間より遙に多い。それ故、どうしても畑地や田が彼等に荒らされる。春から穴に入る狐は、ちょうど収穫時頃から、暴威をたくましゅうする。そこで、彼の村の一つの習慣として、子を育てている狐を見つけたら、その穴へ、強飯(こわめし)や薯(いも)の煮たのやらを持って行ってやる。その強飯や薯の煮ころばしで、狐の好意を釣出す訳なのである。
 ところで、三郎は、そこへ気がついて、同志を募っては、原っぱ中に子持ち狐を探しに行く。いくらその時分でも、人間に面と向えば狐の方で逃げるのだから、なかなか子持ち狐、それも強飯と薯の煮たのを供えられる資格のある、生れたての子狐を伴れたのには出会わない。けれども、四日五日と欠かさず歩きまわっているうちには、一つぐらいは見つけられる。そうなると、母親に注進する。注進したばかりではなく、必要があれば現場をも見せる。
 そして、作ってもろうた施物を持って穴へ行く彼は、十分の一ぐらいのお裾分けを置いてやったなり、あとはさっさと、自分達のお腹の中へ施してしまうのである。
 そんなことをしながら、三郎はだんだん大きくなった。そして、多分十一二頃、隣村の何とかいう寺へ、お小僧に住込ませられた。
 隣村といっても、その時分の隣なのだから、それこそ狐や狸の穴だらけな野原を越え、提燈のろうそくを掠める河獺(かわうそ)のいる川を越えた二三里先の村なのである。
 そこへ字を習いに、毎日通ってはいられず、また、「お寺様への附届け」を十分するほど、子供に寛大になっていられなかった彼の親は、庭の掃き掃除、台所の手伝や小間使いを勤めるのと引き換に、「音信ぐらいは書ける」手習いを授けてもらうことにしたのである。
 藁で小さいちょん髷(まげ)に結い、つぎだらけの股引に草鞋(わらじ)がけで、大きな握り飯を三つ背負った彼は、米三升、蕎麦粉(そばこ)五升に、真黒けな串柿を持った親父につれられて、ポクポクポクポクと髷には似合わず幅広な肩の上へ、淡黄色い砂埃を溜めながら、遠い路を歩いて行った。
 そして、どこまでだか送ってくれた、遊び仲間が別れるとき急にあらたまって、
「行かしてごぜ……」
と、一斉におじぎをしてくれたときには、生れて始めて、「胸にはあ、おっちみるような心持」がしたそうである。
 けれども、それが悲しさであったのだろうと、一言の説明を加えない彼は、やはりそのときも、それが何だか知ろうとも考えようともしなかったのだろう。
 彼はただ、門の傍にどんなにおいしそうな柿が熟れてい、それをどんなにして、行った早々の自分が盗み、どんなに満足と勝利の感に充たされながら、話している和尚と親父の傍で食べたかということだけを、はっきりと覚えている。
 それほど、その蔕(へた)の方から腐りかけていた一つの柿が、彼にとって重大であったのである。

        三

 それほど、その柿が重大であるには訳がある。
 彼は、もちろん親父も和尚も知るまいと思ってしたのだったが、案外なことに和尚さんはちゃんと知っていた。そして知っていたばかりか、今、親に別れて、他家へ寝とまりしなければならなくなった子供とは思えない胆の太いところがあると云って、讃めたのだそうだ。
 親父はいい子を持ったと云われて大いに面目を施し、村へ何よりの土産にその言葉を持って帰った。
 私には、胆が据わっているとか、太いとかころ柿を盗んだかどうだかは分らないが、ともかく、彼は和尚さんのお気に入った。
 三郎坊主、三郎坊主と云って、お斎(とき)の出る所へのお伴は、いつも彼に云いつけられ、
「この小僧はな……」
という言葉を前置きにしては、あの柿の一件を行先々で吹聴される。するとまた、聞くほどの者が、皆感歎する。そして、今まで呉れそうもなかった菓子など、よぶんに挾んでくれたりする。
 彼は得意にならざるを得なかった。夜、和尚さんに炉辺で、一休和尚の話を聞いては、ひそかに、自分の身の上と比較して見たり、夢想して見たりはしたけれども、不仕合わせなことには、文字が生れつき性に合わないと見えて、一字覚えるに、非常な苦しみをしなければならないのが、いつも彼の愛すべき得意に、暗い裏をつけた。
 村の仲間に自慢されるのに張合づいて、手紙は立派に書きたい、立派に書きたいという必要に迫られて、手習いはする。
 けれども、読むこととなったら、もう駄目である。始めの五六字こそ、気根をこめて、大きな眼を見張りながら、四苦八苦して読み下す。二度も三度もその五六字を往来して、ようよう訳が腑(ふ)に落ちると、また次の五六字へ辛うじて進行する。蛞蝓(なめくじ)が這うようにといっていいか、何といっていいか、驚くべき緩さで、長閑(のどか)に辿っているうちには、とかく気まぐれな考えの緒が、あらぬ方へ紛れ込みそうになる。それをつかまえつかまえ、一方では時間を超越したその努力を続けて行けるほど、彼の脳髄は細かくない。異常な忍耐をもってたかだか一二行も読むと、残酷に本を投げ出して、大欠伸(おおあくび)をする彼は、もじゃもじゃな頭の上で不釣合なちょん髷を踊らせながら、いたずらを始める。本を読んだときにかぎって、そのあとの「あたけかた」はひどかったのだそうだ。
 或るとき、何でも行った年の暮れ頃らしい。いやな本に、気が鬱していた彼は、日向のぽかぽかする本堂の縁側に腰をかけて、両足をぶらぶら振りながら、相手欲しそうにあたりを眺めまわしていた。和尚さんが留守なので、納所(なっしょ)の方もひっそり閑として、どこかで寺男の藁を打つ音が、木魚のように聞える。
 ときどき思い出したように洟(はな)を啜り上げながら、当もなくさまよっていた彼の眼は、やがてフトかなたの鐘楼の中に、大きな体をのっしりと下っている、鐘の上に吸いつけられた。
 まだ子供だった彼に、鐘楼は禁断の場所であった。火事か、異変のあったときででもなければ、刻限以外の鐘は撞(つ)かないことになっていた時分のことであるから、いくら可愛がっている三郎坊主にも、鐘だけは触らせなかったのである。
 その、禁制の鐘を見ながら、やや暫く首を捻っていた彼は、何と思ったのか急にそわそわしだすと、堪らなそうに首をすくめてほくそ笑むなり、どこへか駆け出した。そして瞬く間に六七人の仲間を引きつれて来ると、一人が納屋から古俵を持ち出す、他の者が細引きを引きずり出す、枯木を集めるもの、火打石をさがすもの、見る見るうちに、何だかものものしい仕度が出来上った。
 すると、皆が丸くなって「じゃんけん」をする、負けた一人が、本堂傍の梁へ吊るした古俵の中へゴソゴソと這い込むと、庭で枯木へ火をつけた一人が真剣な声を張りあげて、
「火事だぞーッ、火事あおっぱじまったぞー!」
と、いきなり怒鳴り始めた。
 すると梁から下った俵の傍らに、和尚の杖の折れを握って立っていたのが、荘重な手つきで古俵を突く。
 一つ突くとゴーンと鳴る。
 二つ突つけば、ゴーンゴーンと二つ鳴り渡る。
 三郎坊主の発議で、皆な火事の真似を始めたのである。もう五十何年かの昔、奥州の山中に火事などはめったにない。中には、火事がどんなものだか知らなかった子供さえいるのだから、これには皆な有頂天になった。そして、傍から燃火をドンドン加えながら、盛に、
「火事あ、おっぱじまったぞーッ、ゴーンゴーン」
を繰返す。そして幾度鳴ったら、交代するという約束で、ちょうど三郎坊主が、鐘になったときである。
 そこへひょいと和尚が帰って来た。

        四

 皆はもう、すっかり面喰ってしまった。そして、我がちに逃げてしまったけれども、俵に詰って梁から下っている三郎坊主は、藁一重外に、そんなことが起ったとは夢にも知らない。
 暗闇の中に眼を光らせ、耳をすませて、突かれるのを待っている。こちらでは、和尚さんが、妙な顔をして、宙に下っている大俵を見た。彼には、一向訳が分らない。何のために俵が下っているのか、中がどんな様子になっているのか、人の好い和尚さんは少からず不気味だったに違いない。とう見、こう見していた彼は、やがて子供に返ったような顔附でチョイとその俵を持っていた杖で突いてみた。
 すると、途方もなく大きな三郎坊主の声が、真面目くさって、
 ボーン……
と、余韻まで引いて鳴り渡った。――これはその時代の彼の代表的逸話である。がとにかく、一年近く体は寺にいたが、頭は相変らず、同じように野や山や鐘楼のまわりをかけめぐっていた。気に入っていた和尚さんも、これでは仕方がないとでも思ったものか、彼の十三のとき、
「おぬしは、胆はあるようじゃ、が、文字の人ではないらしいで、実家へ戻れ。その方がええじゃろうよ」
と、宣告した。そのとき、彼は別に悲しくも恥しくもなかった。ちょうど、寺にもそろそろ飽きて来た時分だったので、内心ホクホクしながら、貰った飴を大切に舐り舐り、今度は一人で家へ戻って来たのだそうだ。
 こんなにして、彼の少年時代はしごくのんきに、思いのままに過ぎた。
 紅毛人の黒船がどこへ来たとか、誰某(だれそれ)がおしおきにあったとか、掃部様が斬られたとか、江戸は上を下への大騒動で、かりにも二本差す者は、大なり小なりに相当の苦しみにあわなければならなかった時分、平の土百姓、それも山奥の自分の領主さえ知らないような者の息子に生れた彼は山一つ彼方のことは、噂さえ聞かずに育ったのである。
 私共には想像も及ばない、単純さの中に、彼のこの時分までのことは、ほとんどお噺(はなし)に近いような状態で過ぎて行った。
 もう十三にもなり、わずかの文字も知り、どこかの箱屋へ年期に入ったこれから先は、だんだん「一人前」に近づく階段で、もっと実際的に興味のある話は、たくさんあるに違いない。
 けれども、どうしたものか、寺から戻って、二十二三までのことは、私の知っている範囲では、非常にざっとしている。
 生れたときから、狸に腕を折られた彼としては、実際、簡単明瞭すぎる。彼に聞いても言わないし、周囲の者も知らない。
 私はただ、箱屋へ一年半ほどいた後、漢法医の下男に入り、またそこを出てから、「屋大工」の年季に入ったことだけを聞き知っているのみである。
 箱屋へ行ったのは、稼ぎを覚えるためである。漢法医の世話になったのは、工合の悪い右の肩が、時候の変り目、変り目にいたむのを手療治するためであった。
 主人は親切な人だし、仕事は楽だし、手当てはしたいだけ出来るし、彼にとってはこの上ない処であるべきはずなのだが、ただ一つのことが、やがて彼をそこからも飛び出させてしまった。いくら下男でも、薬草刻みをするからには、医術の初歩を知らねばなるまいという、主人の親切気が、彼にとって蛇より化物より嫌いな書物をあてがわせたからである。
「何々の病気には、かれこれの草を煎じて服すべし。それでも利かざるときは、なお、何々を用うべし……。まんではあ、雛形と、ちっとも違わねえこった、ハハハハ」
 彼は今でもこう云っては笑うからよほどその方則が滑稽に感じられたのだろう。若しかすると、「先生様」の尊敬は、こんな下らない薬草の講釈から出て来るのかとでも、思ったかも知れない。とにかく、そんな処からは、すぐに出てしまった自分に、彼は今なお愛すべき矜恃(きょうじ)を感じていることだけは確である。
 けれども、「屋大工」の処には、かなり長い間いたらしい。そこで相当に腕も出来、顔も広まり、川辺――これは村の名である――「川辺の三郎どん」の存在は、ようやく明かになって来た。
 音吐朗々という形容が、全く適切なほど、量の豊な、丸みのある美音と、見事な眼と、雲を突くような偉大な体躯の所有者であった彼は、まだやっと二十一二の若者として、或るときは大工になり、或るときは耕作をしながら、徐々と開け始めた明治という年号の下に、かなり仕合わせな月日を送っていた。
 そして、その頃からボツボツ着手されていた、附近一帯の開墾事業が、彼の生活に微ながら、幾分かの影響を及ぼし始めた時分には、昔鐘の真似をした三郎坊主とは、見違えるような「若えてえら」になったのである。

        五

 その開墾というのは、彼の村と隣り村との間に、果もなく広々と横わっている草刈場を新しい村落にする計画であった。
「狐っぱら」という名がついていたほど、そこには狐ばかり棲(す)んでいた。あまり狐が多いので「烏さえ来ない」ほどだったのだそうだ。狐がいると、なぜ烏が来ないのか私は知らない。けれどもそこへ村を作るという噂を聞いたときには、皆が嘲笑せずにはいられなかったほど、荒漠たる処であったのだそうだ。
 ところが案外なことには、彼がまだ、「屋大工」の手伝いのようなことをして、親方の伴をしながらあっちの小屋こっちの隠居所と作って歩いているうちに、あんなに草蓬々(ぼうぼう)としていた処には、いつともなく目鼻がついて来た。
 そして、年季をしまって家に落着いた頃には、そろそろと移住民も姿を見せるようになり、今では寂寞として全く「狐蘭菊の花に隠れ住」んでいたところには、微かに人間の音が響き始めた。
 時によれば、馬鹿な同胞(きょうだい)ぐらい、親しみのあるものに思われていた「ならずもの」も、だんだん彼等の位置を明かにされ始め、火繩銃の犠牲になったり「落し」に掛ったりして、化かす暇もなく皮を剥がれ、煮て食われるようになって来る。
 他国者が集るので、噂の範囲は広まって、「江戸」での事件などは、わずかずつでも流れ込んで来る。独り三郎のみでなく、村全体の空気が一道の生気を吹き込まれてパッと燃え上ったような、状態になって来たのである。
 すると、彼が二十三のときに、彼の村から七人の新百姓が出ることになった。
 開墾団体から田地をいくらかと、金や材木を供給されて、新しく出来た村へ新しい百姓として家を持たせられるのが、その新百姓なのである。
 若い者は、皆相当に競争もしたのだが、運よく三郎も、その中の一人として「眼きき」された。そして、親達の誇りと、彼自身の自信との間に、実家から、十四五丁ほど隔った開墾地の一郭に、彼はお手のものの普請を始めたのである。
 今も昔も、存外些細なことで、人の名誉心が刺衝されることには変りがなかったものと見えて、数ある若者のうちから新百姓に選ばれたということが、彼の非常な箔(はく)つけになった。今までは、「屋大工の三郎どん」だったのが、何かよぶんな言葉が必要なような心持を、人も持ち、まして彼自身は持たずにはいられない。
 いつとはなしに、彼は村の男達(おとこだて)のような――この「よう」なというのは大切な言葉である――ものに祭りあげられることになった。
 もちろん、彼にしても嬉しくないことはない。むしろ大得意に近い心持で「若けえにゃあ見上げた弁口」を振う機会が次第に多くなった。
 実際その頃の、喧嘩、物争いなどは、彼が下駄の真中から割れるような体を、のしのしと運んで、人の三層倍もありそうな眼で、相手をグッと睨まえながら、響き渡る大音声で、彼相当、また同時に相手相応の理窟を並べれば、大抵は雑作もなく片がついてしまう。
 そこで人も重宝がって、何か事がちと面倒になると、彼を迎えに行く。「三郎どん、はあ、またやくてえもねえ奴等がおっぱじめやがった。何とか一言云ってやってはくれめえかな」
 山から切って来た木を挽いている彼は、かなりもったいぶって、応と云いながら立ちあがる。そして、そのごたごたの真中へ行くと先ず悠々と煙草を一服喫ってから五六分の間に、どうにか形をつけて来る。
 自分は生れつき性に合わないで文字は大嫌いだ。だから偉い言葉はちっともしらない。けれども、これもまた生れつきで、曲ったことは、兎(う)の毛で突いたほども黙っていられぬ性分だというような意味のことを、何かにつけて云ったものだそうだ。
 それ故、ある意味に於ては、他律的にも彼は「竹をわったような」男になり、一度頼んだら大丈夫な三郎どんにならなければならない。
 この周囲の状況と、彼の何者にも負かされる心配のない腕力と、天性授けられている大まかな、こせつかない心持ちとが、どうしても彼を侠客のようなものにせずには置かなかった。
 従って、他の百姓、大工とはどこか違った生活が――たとえば、物争いに鳧(けり)がついた祝酒や、振舞や、近所の村のそういう仲間との交際――目に見えなく彼の地味さを失わせて行った。
 金銭のことなどについても、そうは焦慮せず、入るものは入るがいい、出るものなら勝手に出ろといった調子だし、他の者のような追従や世辞は一言も云わない。思ったままを、浮んだなりの言葉で云う。
 それに対して、人があまりかれこれ云わないことが、彼の美点――自分をちっとも被わない。ありのままで暮すすべての心持を助長するとともに、或る一部からの反感を免れなかった。

        六

 もの堅い一方の、大きな声も出せない者から見れば、彼は恐ろしい無遠慮なものである。わがもの顔にふるまう奴に見える。何でもつけつけと、赤面しようが、冷汗をかこうが、お構いなしに真正面から遣り込める。
 けれども、人に嫌われもするそれらの点を、その開墾地の旦那様と云われていた、山沢さんという人が、すっかり見込んでしまった。そして、家が出来上ったら、自分の家に使っていた、おまさという小綺麗な女を嫁にやるという約束をしたほどに目をかけたのである。
 女房も定まり、家も出来て、彼が幸福の絶頂、まったく今から考えてみると、あのときほど、何事も順調に工合よく行ったことは、もう一生を通じてないと思われる時代にあったためか、その頃彼はよく狐に釣られ損ったり、百人の中で、見る者は一人いまいというような黒狐を見たりした。そしてそれらの事々が、彼のすぎさった黄金時代の記念として、朦朧(もうろう)とした記憶の中に、今なお燦然(さんぜん)として光っているのである。
 黒狐の話は、別に大したことでもない。ただ同じ村の何とかいう百六つになっていた老人が十八のとき見たことがあるといった、真黒な、腹と尾の端だけ白い、恐ろしい古狐を、偶然田の中で見たというだけのことである。
 皆が、嘘だ嘘だと云ったそうだが、今は主筋になった山沢さんの御隠居が、昔から記録本に、何百年立つとどんな毛色になるということが書いてある。そして黒いのなら、少くとも五百年は経っていよう、と皆に話したとかで、仕舞いには事実として承認された。
 ところが、おかしいことには「何せ黒狐を見るほどの人だから」という、一つの新しい貫目が彼についた。
 けれども、この黒狐を見た人は、その頃、夜道さえすれば、きっと狐に引きまわされるというめぐり合わせになっていて、多いときには、五里の道を来るうちに、六七度化かされそうになったことさえある。
 それも皆、始めから、化かされない用心に、自分の方から狐を詐(だま)しにかかっては、失敗したのである。
 そして、一番最後に、またどこかの狐が廻りはじめたときには――私は知らないが、彼の話によると、狐が人を騙す第一には、先ず或る距離を置いて、グルグルと体の周囲を廻って歩くのだそうだ。――さすがの彼もうんざりして、いきなりどさりと田の畔に腰を下して、煙草を喫(ふか)しながら、半分やけになって、狐を盛にやじったのだそうだ。
 すると、三四度、稲をがさがさいわせながら、廻ったあげく、彼の度胸に断念したと見える狐は、どこへか行ってしまったそうである。
 彼の意見に従えば、この年以後附近一帯狐はすっかり跡を絶ってしまったから、多分どこへか宿換えする名残りに、さんざん「あばけて」行ったのだろうということである。
 一人の娘の父親となった彼は、その頃もうすっかり、山沢の旦那様に心服していた。
 彼は、主人の細密な心理状態などは知りようもない。ただ、非常に強情なことと、大まかなことと、彼をすっかり信用して、旅行へ出れば財布ごと金を投げ出して、「オイ、三郎、貴様にまかせたぞ、好いようにしろ」と云われることが、三郎の心の中に絶大の感動を与えたのである。
 お前は偉いとか、見上げたとかいう言葉を、その人は一言も吐かない。ただ、大きな頭をコクリと縦に動かして、「よくしてくれたな」と云うだけだったのだが、その単純な、彼の心に滲みとおり易い心持が、彼にとっては自ずと忠勤を励ましたのである。
 何か事業に関したことで、少し昂奮すると、彼はのそりと山沢さんの前へ出て来て、
「あなた、また何か憤っていなさるね、奥へ行かっしゃい、奥へ行かっしゃい」
と云う。すると、「誰の云うことも聞かぬ」山沢さんは、そうかと云って素直に立ちあがって、肩などは揉み潰しそうな、彼の手で按摩(あんま)をされながら眠ってしまう。
 彼はもちろん、自分の言葉の力を山沢さんの持つ度量と比較することはしなかった。勢力の過信は明かである。
 けれども、いくら彼が大きく拡がっていても、無遠慮ではあっても、一言山沢さんに、
「オイ三郎、きっと頼んだぞ」
と云われさえすると、ほとんど絶対的服従をしなければいられないものが、彼の胸の中にあった。
 山沢さんが自分の持つ信頼に就て、一言も説明しなかった通り、彼も自分の中にある主人へのその心持を、ただの一度も説明したことはない。
 もう二十年近く前に死んだその人の噂を、彼は今もよくする。
 旦那様という代名詞こそ使え、言葉なり批評なりは、弟か、従弟のことででもあるように、自由な、心の望むままの形式で話す。悪口を云いながら、わがままをしながら、山沢の旦那様には、命も惜まない愛情を彼は感じていたのである。

        七

 彼の山沢さんに対する愛情は、相手が山沢さんだからというのでもないし、主人と使われる者との間にはとかくありがちな、因縁ずくの諦めなどでは、無論ない。
 彼自身、自覚したかしないかは分らないが、堅い言葉でいえば、「己を知る者のために死す」心持が、彼と山沢さんとの間に、靄然(あいぜん)として立ち罩(こ)めていたのである。
 彼の強情を理解し、制御するだけの強情は自分も持ち、長所に依って彼の欠点を寛恕(かんじょ)して行くだけの力を持っていた山沢さんを見出したことは、彼にとってほんとに仕合わせなことであった。
 彼はしばしば自分を満足するように使ってくれるのは、山沢さん以外にこの世界では一人もいないことを思う。そして、その人の死後の自分に、幾分か心淋しい想像をする。
 けれども、この感謝が一度脣から外へ出ると、旦那様だったりゃこそ、この俺がああして使われてやった。という言葉で発表される。
 そこがあくまでも彼である。臆面もなく愛すべき自負をひけらかすところに、彼の彼たる面目が、躍如としている。
 子供の時分、梁から下げた俵につかまって、和尚さんの杖を合図に真面目くさって、ボーンと鳴った彼は、このときもなお、そのときのような単純な、憎みようのない稚気を持っていたのである。
 彼が山沢さんに出入するようになってから二三年後、多分明治七八年頃のことだったろう。
 何かやはり事業の関係で、五六里山奥の或る湖水まで調査に行ったことがある。山沢さんと、下役二人とまたその下役である彼と四人の一行であったらしい。朝早く村を立って、昼頃目的地へつく予定で歩いて行った。
 その時分は、冬が今よりずっと寒かったかわりに、夏の暑さは、かなり凌ぎよかったらしい。八月頃だったのに、弁当やその他の荷を、少からず背負いながら、三郎はそんなに暑いとも苦しいとも思わなかった。
 まだ惜しがって切らないちょん髷の上から、浅黄の手拭を被り、その上に笠を戴いた彼は、腰切の布子一枚の軽い姿で、山沢さんのすぐ傍から、山路を歩いて行った。
 二人の下役の思惑などを構っている彼ではない。若しかすると、まだ使われてから日の浅い彼等に、自分の信任の度を、歎賞させるためだったかもしれないが、まるで兄弟分のように山沢さんの傍にくっついて行ったのだそうだ。
 彼はもちろん、意気揚々としていたから、あとでその下役が山沢さんに、
「いったいあの男は何者でございます、どうもはや……」
と云ったとき、
「なあに彼かね、彼はあの通りの奴じゃよ、しかし、憎くはない奴さ」
と笑ったなどということは、おそらく今も知らないだろう。山々の峰に反響するような声で、絶えまなく自分の手柄話をしながら、湖水の見える村へ入ると、第一に感歎したのは彼である。
 何とも云えないほど、湖水は広々としている。美しい。まったくこの上なく美しい。
 三方を緑の山々に囲まれて、微風に小波(さざなみ)立ちながら、五六艘の小舟を浮べて、汀(なぎさ)の砂にヒタヒタと寄せる水の色に、三郎は思わずホーッと云って首を傾げた。
 山かげの涼しさとは、また味の違ったすがすがしい、潤いのある空気が小波の一襞ごとにどこからか送られて来ては、開いた毛穴に快く沁みて行く。
 彼は荷物や何かを、ごたごたと皆傍へ下してしまった。そして布子の胸をはだけて、雲助のような胸毛を、しおらしく戦(おのの)かせながら、目を細くして風に吹かれた。
 すぐ側から、ずーっとかなりの長さに突出している船着場の石垣に甘える水の音が、厚い彼の鼓膜に擽(くすぐ)ったい感じを与える。
 あまりいい心持で、馬鹿になりそうだったというのは、ほんとのことだろう。
 近所の見すぼらしい茶屋で、鯰(なまず)の干物という恐るべきものをお菜に、持って来た握り飯を食べると、荷を解いて最初に水深を計ることになった。
 幾里四方という大湖の水深を調査するのに、たかが人間の背の立つところまで、不正確至極な尺度か何かで計ったということは、私にはどうしても信じられない。
 いくら、まだちょん髷がざらにあった時代だとはいっても、あまりのんきすぎる。開墾事業に尽瘁(じんすい)した山沢さんのすることとは思われない。
 けれども、当事者であった三郎爺の断言によれば、後のことはどうだか分らないが、少くともそのときだけは、そうして計ったに違いないのだそうだ。
 いくら拡がっていても、荷担ぎをする三郎が、腰に幾尋(いくひろ)かの細引を結びつけ、尺度を持って湖へ入ることになった。

        八

 片手には先の方でフラフラするほどの尺度を突き、太い太い腰に細引を結びつけた彼は、夏とはいっても急にヒヤリとする水の中で、鳥肌になりながら、ザブザブと、まるで馬が水浴びでもするような勢いで深みへ深みへと進んで行った。
 底は細かい細かい砂である。
 一足踏むごとに埋まる足の甲へ、痒(かゆ)いように砂が這いのぼって来る。体は大きくても、度胸は大きいはずでも、子供のときから水に親みなく育った彼は、足元の動揺に、少からず不快を感じたらしい。初めの五六歩は、非常な威勢で行ったのが、だんだん緩(ゆっ)くりになって来た。
 細かい細かい砂、少し粗い粒、細かい礫(つぶて)から小石と順々に水は深くなって来て、腹の上あたりで、波が分れるところぐらいまで来ると下はすっかりほんとの石になってしまった。
 体が重いから何だか滑りそうな気がして、泳ぎを知らない三郎の顔はだんだん真面目になって来た。
 水が美しいので底を透しては、のろのろ足を運ぶ。その一足ごとに深さが増して、もっとずーっと先まで行けることと思っていた彼も、山沢さんも意外に短距離で止まらなければならないことにびっくりした。そればかりでなく、現に足元をさぐりさぐり行った三郎は、思わずハッと息をのんだほど、気味のわるいものを見た。
 もう半歩ばかり先へ、若し進みでもしようものなら、もう二度と「今日様」は拝めなかったろう。底の石が断崖になって、それから先はまるで底無しのようである。
 尺度を支えに張って、そーっと覗いた三郎は、つい身ぶるいをしてしまった。まるで黒水晶の切り口を、縦に見たように、真黒く、けれども妙にすき通るような色を持った水の、厚い厚い層が見えるばかりで、底らしいものはどこにも見えない。
 三郎の心には、伝説的な恐怖が、微に蠢(うごめ)き始めた。で、大急ぎで、岸の方に顔を振り向けて、駄目だという示しに大きく手を振った。そして、一二歩後戻りをしてから、大きな声で、
「ここから先あ、底無しだぞッ」
と怒鳴った。
 すると、山沢さんが、しきりに首を傾けていたが、やがて「もう駄目かな」と、普通な声で独言した。それが、はっきり彼の耳へ届いた。
 山沢さんはただ、何でもない口調で、もう駄目かなと云っただけである。
 けれども、三郎は心にもっと強い失望と、信頼の減少とを感じたような気がした。ところで、今度は半(なかば)命令し半懇願するような山沢さんの声が、
「もう行かれないか? 駄目か?」
と叫ぶのを聞いた。
 その瞬間、彼の心には例の絶対的服従の愛情が湧き上って来た。何だか、大変な覚悟が出来たような気持がした。そしてちらと山沢さんの方へ瞥見を投げながら、尺度を突きなおしたとき、彼の胸にはまた「おっちみるような心持」がスーッと拡がった。
 その中に女房のおまさの笑顔と、娘の寝顔とが浮んで消えた。彼は、後からはとうてい思い出すことも出来ない一種の感情に打勝たれて、ただ明かに、「死んでも命は惜くねえ」とばかり思いながら、一歩進んだ。そして、もう片足を出そうとしたとき、急に腰のなわが、ぎゅうっと引っぱられたので、何となく急に心持がはっきりした彼は、始めて今自分の立っている位置に心づいた。そうすると、急に恐くなって――今度は確かに恐怖を感じて――さっさと岸へ戻って来てしまった。
 青ざめて体中から滴(しずく)をたらしながら、汀に立った三郎の顔へ、近々と自分の顔を近よせながら、
「よくしてくれたな、有難かったぞ」
と山沢さんが云った。
 すると、彼は急に、真赤な顔になりながら、大恐悦な声を出して、皆が気味悪がったほど笑ったのだそうだ。
「あのときあ死神にとっ憑(つか)れはぐった」
とそのときを思い出すたびに彼は云う。
 自分の心を解剖する力などはもちろんない彼は、その異常な昂奮を、ただその底無しの「魔所」にいる、何かに取っ憑かれたためだと今も思っているのである。
 その話を聞くほどの者は皆やはり彼同様の解釈ほか与えないとみえて、自分の一つ話、それは死神に誘われることは、決してないものではないという彼の考えと、実際どこの湖や河にも、きっと一つは「魔所」のあるものだという伝説との、何より確な証拠として、話すのである。彼の黒狐と同様に、ただ奇態なこともあるものという言葉で総括されているのである。
 当人の彼の方は、極々さっぱりと片づけているが、山沢さんはさすがに何か感じたらしい。
 それから間もなく、始まった普請に就て、大工の宰領から、木材の選択、現場の見張りまで皆三郎に一任された。

        九

 そのときも山沢さんは例の通り、簡単に仕事の要領を話すと、あとは貴様のいいようにしろと云ったなり、どこの大工を使えとか、左官を使えなどということは、一言も云わなかったのだそうだ。
 この山沢さんの度量が、「胆に銘じた」彼は、「旦那様、この俺が引受けました」と云って帰るとすぐ、自分の手の及ぶかぎり、腕こきのものを集めた。
 そして、先ずこれならばと思うものが揃うと、今度は彼が先棒となって、泥運びもすれば胴突きの繩も引張る。
 大きな体を泥だらけにして、出来上って見なければ、何がどうなるのか分らない彼一流の方法で、小気味よくグングンと仕事を運んで行った。
 煙草休みは一時間と定め、土方達が舌を巻くような激しい働き方をしながら、彼は我ながら自分の腕前に、「感歎措く能わず」というような心持になったりしたのである。
 彼が御秘蔵のちょん髷を切ったのもこのときである。
 汗に塗れ泥に塗れ、おまけに「おがっ屑」まで浴るちょん髷は、一日経つとまるでもう髷だか芥の塊だか見分けのつかないようにきたなくなってしまう。
 あんまり汚れがひどいので、さすがの彼もとうとう断念して、散切(ざんぎ)り頭になったのである。
 散切りになった三郎爺は、「いきがよく抜けて好い気持だ」と、急にさっぱりした頭を珍しがりながら朝から晩まで、土鼠のようになって稼いだ。
 ちょっとでも気を緩めれば、土方などというものは骨惜みをする。それを見張りながら、隙を覗っては、木材を盗んで行こうとする者の番をするのだから、彼は五分と一つ所にじっとしてはいられない。
 柔かい泥を蹴立てて、彼は仕事場中を、叱※して歩かなければならないのである。
 仕事の方が、だんだん纏まって来るにつれて、彼は自分の家を離れているのを、万事に不都合と思い初めた。夜廻りをするにも、樹木に水を遣るにも、傍にいなければ思うようにならない。
 そこで、或る日、彼は女房に「下小屋さ、引越すべえ」
と云った。下小屋というのは、仕事場の片隅に立っている小屋で、見廻りに来た者の休み処と道具のしまい処をかねたものである。女房も、そうなれば、飯を運ぶ心配もいらないで楽だと思ったから、それが宜かろうと云った。もちろん山沢さんが、そうしろと云いなすったと思い込んでいたのである。
 それで、その次の日彼は、仕事場へ行きがけに、背負えるだけのものを、頭を乗り越すほどかついで来た。それから、昼の休みにもう一度戻って、今度は荷車に夜具から、鍋釜までのせて引いて来た。子供を負ったおまさが、三分心のランプや下駄や、壜(びん)を両手に下げて二三度往来すると、もう彼の引越しは済んでしまった。
 そして荷を少し片寄せると、仰天するおまさを尻目にかけて、彼は悠々然と山沢さんへ、引越しの報告に出かけたのである。
 ちょうどそのとき、奥さんに薄茶を立てさせていた山沢さんは、彼の簡単至極な報告をきくと、ちょっと驚いたように彼の顔を見た。が、やがて何か苦情を並べたそうな奥さんの口元を見ると、さも快さそうにニコニコしながら、相変らずおうように、
「それもよかろうよ、貴様の勝手にするがいい」
と云って、大きな頭を振ながら、ハハハハと笑った。
 今までの家をどうするのかとも聞かなかった旦那様は、ちょうど出ていた東京下りの栗饅頭を三つ、仲よく食えと云って、彼にやった。
 こんなことは、山沢さんと彼との間では、何か感情の行違いなどは起そうにも、起らないほど、どうでもいいことではあったが、傍の者の目から見ると、ただハハハハ、それは面白いなだけでは済まない。山沢さんをごまかすとか、手の中にまるめこんでいるとか、大騒ぎをした。
 けれども、彼は、それ等の非難が、皆自分と山沢さんの仲のよさを羨ましがっているからだということをちゃんと知っていたから、心配するどころではなかった。内心、ますます得意になりながら「山沢家の大久保彦左」の自信を強めるに過ぎなかったのである。
 泥まみれの「大久保彦左」は、家の出来て来るのが楽しみなのはもちろんであるが、足りなくなった材木を巧くやりくったり、わずかの職人を上手に動かしたりして、山沢さんに、よくしてくれたなと云われるのが、何より嬉しかった。
 仕事の方は、彼奴に聞けと云われると、彼はほくほくせずにはいられない。
 来合わせた客の前などで、これがよくしてくれるからというようなことを一言云われると、彼は大きな眼を細くし、頸をすくめながら、溶けそうに、ニコニコしたりしたのである。

        十

 晩飯を済ませて、わずか一二時間、山沢さんのところへ行って賞められるのを楽しみに、金鎚と指金(さしがね)を握った彼は、仕事場中を見まわりながら、裏板の張り方でもぞんざいなことは許さない。
 ちょっとでも手を抜きそうにしようものなら、破(わ)れ鐘のような声で、恐縮させる。大工の嘆(こぼ)すのも無理がないと思われるほど、彼の監督は厳しかった。
 それで、きっと、大工共が内々諜(しめ)し合わせでもしたのだろう。仲間の一人で、東京下りの口の達者なのを、酔わせて彼の小屋へ遣った。巧く喋りつけて、ちっとは手心をするようにやって来いとでも云われたのだろうけれども、あいにく少し酔いすぎていたので、その男は、彼の顔を見るとすぐ、先ず江戸前の巻舌で、悪態をついた。
「おめえさんの家になるじゃああるめえし、そんなにやいやい云わねえだって、するだけのこたあ憚(はばか)んながら、俺等も玄人だ、ちょん髷爺の世話んなって、堪るものか」
と云うのを聞いた三郎爺は、仁王のようになって、暫くその男の顔を睨めつけていたが、いきなり酒の酔も何も醒めはてるような声で、
「貴様あ、明日から来てもらうめえ!」
と怒鳴りつけたきり、しおしおとその男が出て行くまで、くるりと後を向いたまま頭一つ動かさなかった。
 けれども、大工の方では、つい酔っていて済まなかったくらいで、機嫌を直せるつもりで、翌朝ものこのこと仕事に出て来た。
 そして、ニヤニヤしながら世辞を云おうとすると、彼はわざと皆に聞えるような大声で、
「おめえ一人が、つい酔ったまぎれの悪態なら、俺あ、勘弁すらあ、が、今度なあ、そうでねえから、許されねえ。さ、行け、来てもらうにゃあ当らねえ。何ぼちょん髷爺でも、山沢の旦那様に、何もかも委された俺あ、貴様みてえな生若けえ小僧っこにばかさって堪るものけえ!」
と、啖呵(たんか)をきった。
 そして途方もなく大きな拳を振りまわしながら、一息に彼のいわゆる「ぼいこくってしまった」のを見た他の者は、思わず顔を見合わせて、長大息をした……。
 一度ならずこのようなことを繰返しながら、とにかく仕事はだんだん捗(はか)どった。
 そして、翌年の花盛りに新築祝いが催されたとき、彼は紬(つむぎ)の紋附を着、お下りを貰った山沢さんの仙台平をはいて、皆の前で彼の言葉でいう「感状」と幾何かの賞金を貰った。
 それがよほど嬉しかったものとみえて旦那様にお目にかけるのだと云いながら、庭に拡げた毛氈の上で、彼は赤い手拭をかぶって、後にも先にもたった一度の蛸(たこ)踊りを踊った。
 かようにして、山沢さんの達者だった時分には、彼も働きがいのある、面白い月日を送っていた。
 けれども、新築へ引移ってから間もなく、若い頃から無理を重ねて来た山沢さんの体にはそろそろとひびが入り始めた。
 重いリョーマチで、足が思うように動かなくなったのがもとで、おいおい中風のようになって行った。
 五六年先までは十日ぐらいの徹夜で、居睡りさえしなかった人も、弱り出すと案外脆(もろ)くて、七十ぐらいになっていた老母が、まだしゃんしゃんしているうちに、口も捗々しくはきけないようになってしまった。
 あたりの景色が、一目で見晴らせる居間に床をのべて、詩を作ったり、著述をしたりしながら、気任せな日を送るようになると、山沢さんは、もう理窟っぽい人を見るのも嫌いになって来た。
 暇さえあれば、三郎爺を傍に引きよせて、体中を撫でさせながら、罪もない昔話にふけることが何よりの楽みらしく見えたのである。
 年はそう違わないのだが、大藩の立派な武士に生れ、東京にも住み、いろいろの目に会って来ている山沢さんが、彼の珍しがるような話をすると、三郎は三郎でまた、子供に話して聞かせるように手真似、口真似で、ここがまだ狐っ原だった時分の追想を語る。
 静かなあたりの空気を揺って、四五十年の年を、逆に遡(さかのぼ)った長閑な、楽しそうな笑声が、二人の口を突いて出ることも珍しくはなかった。
 平常の通り心持はゆったりとし、余裕はありながら、山沢さんが自分の死期の近づいたことを知っていることが、彼の心に感じられた。
 言葉以上に、はっきりと彼は悟っていたので、それとなく仄(ほのめ)かされる後事に就ても、彼は悲しい謙譲と、愛とに満たされながら真面目に耳を傾けた。
 そして何かの折に、
「貴様の生きているうちは、墓掃除をたのんだぞ」
と云われたとき、彼は黙ってぴったりと、畳の上に平伏した。

        十一

 そんな風になってから、三郎爺と山沢さんはほんとに「仲よし」になった。もう山沢さんが彼に対する愛情を押えなくなったのだともいえる。
 飯まで自分の床の傍で一緒に食べさせながら「旦那様はよく世の中のことを語りなすった」のだそうだ。世の中のことというのは山沢さんの人生観のようなものででもあったろう。
 無学な彼には、一言一語よく訳の通じない言葉はあっても、旦那様の「思惑」は、自分のもののように、よく分った。
 山沢さんが、泣きたいような心持のときには、彼も何だか気が沈む。情ない、「おっちみるような」気がする。
 けれども、山沢さんが得意に昂奮しながら、功名話をするときには、彼もまた自分と山沢さんの見境がなくなるほど、心が嬉しかった。
 世界中の人間に、どんなもんだ! と云いたいように意気揚々とする。
 まるで社殿の、「あまいぬ、こまいぬ」のように床の傍から片時も離れずに一緒に笑い、一緒に憤りしながら、三郎爺は旦那様の顔に現われて来る不吉な相貌をどうすることもできなかった。
 助からない病が、だんだん顔へ出て来るのが、年の功で分るのだそうだ。
 そして、とうとう、まだそう年寄りとはいわれない六十の春に、三郎爺の唯一の愛護者であった山沢さんは、逝ってしまったのである。
 彼は、もちろん非常に悲しかった。大層泣きたかった。両方の肩が、げっそりするほど、力が落ちた。けれども、彼の脣からは、ただ、
「これも世の中だ、仕方があんめえ!」
という言葉が、一句洩れたきり、彼は悲しいとも、がっかりしたとも、云わなかったのに、皆はびっくりしたり、失望したりした。
 誰が、言ったというのではないけれど、人々は山沢さんの死と同時に、悲歎に沈む彼を待ち望んでいた。
 何だかきっと、そうに違いないという心持がしていた。
 けれども、彼は、皆が自分にそんな気持を持っているのを知ると憤然とした。
 彼は、亡くなった旦那様以外の一人にも、自分を憐れむことは許さなかった。命令することは許さなかった。
 旦那様が、ただ一人の自分の主人であった。そして今も主人である。
 旦那様が、俺が死んだら泣けと云いなすったら、俺はいくらでも泣く。が、旦那様は、しっかり遣ってくれ、頼んだぞと云いなすったではないか。
「俺あ、泣いちゃあ済まねえ。泣くなあ、馬鹿でも知ってる、なあ旦那様……」
 彼は、そう思いながら、いつもの通り、大きな声で通夜の者の世話などをやいた。
 けれども、山沢さんに死なれてから、彼の生活は、案の定詰らない、張合いのないものになってしまった。彼は先ず、「急に眼が片一方潰れたような」物足りなさと、不自由とを感じた。
 旦那様は、彼にとって、欠くべからざる一つの眼玉であった。それが無くなってみると世の中じゅうのものが歪んだり、ひしゃげたりして見える。どっちを向いても見当がつかない。てっきりここと思うところが、皆少しずつ狂ったところにある。
 今まで楽に歩き、楽に伸していた手足が、何だか、うっかりは伸されないような心持になって来たのである。
 自分の強情が解り、頼んだぞという一言で自分を生かせもし、死なせもする人を失った恐ろしい寂寥が彼の、いい魂に沁み透った。
 山沢さんの棺と一緒に地の下へ埋まってしまった自分の未来に対して、何を希望する気もない。ただ旦那様の盛だった時分に、その恩寵を一身に受けた自分としての光栄と、誇りの追想が、これから先の生活にたえ得る矜恃を彼に与えたのである。
 けれども、もちろん彼はこんな風に、自分の心について考えるのでも、云うのでもない。
「俺の強情を、取っぷせたなあ旦那様一人だハハハハ、今時の者にゃあ、ちいっと手強(てごわ)え爺だな」
 主人を失ったブルドッグのように、彼は傲然と哄笑する。
 淋しい淋しい心持が、シンシンと胸に滲み込んで来ても、旦那様のお墓の前でなければ、彼は涙を見せない。
 俺の涙を見せてやる者あいねえという彼の心持は、彼のみが知り、旦那様のみが知っていたものであったことを、私は彼のためにいとおしく思う。
 とにかく旦那様が亡くなった四月後に女房のおまさが熱病で死んだ。娘を奉公に出し、彼はきたない小屋の中で幾年にもない、気の滅入る秋を迎えた。
 そして、その年が豊年だったのが、山沢さんの大仕合わせと、彼の大不仕合わせになったのである。

        十二

 幾年振りかの豊作だったので、山沢さんの小作米が、「ふんだん」に上った。
 平常の借りも皆返してよこしたので、何でも、三十四俵彼等の言葉で十七駄町の米屋へ預けることになった。
 もちろん、彼がその任に当ったのである。
 ところが、昔鐘になってボーンと鳴った彼は、どこまでも彼である。いい加減の年になっているのに、どうしたはずみだったのか、急に力自慢したくなって来たのだそうだ。
 若しかすると山沢さんによって誘い出されては功名していた、力の遣り場がなくなったせいかも知れない。
 真に偉いことには、けれどもおかしいことには、大きな荷車に、八俵を二度、六俵を二度、三俵を二度という、途方もない積みようをして、小一里ある町まで、一日中に運び込んでしまった。
 これにはさすがの米搗き男も、お前には、叶わないと云って舌を巻いたそうである。彼はもちろん、いい心持であった。
 若い、青しょびれた奴等に、いい見せしめだと思っていた。ところが、口惜しいことには、「年にはこの俺も叶わない。」その後以後、すっかり心臓を悪くしてしまった。
 これから先二三十年の間、ボツボツ小出しに使うはずだった力を、一どきにグンと使ってしまったので、もうへとへとになって来た。
 手足が、不自由になり、思うように歩くことも出来なくなった彼の偉大な体は、遠くなった耳とともに、ますます彼の強情を強めた。
 今こそこんなにビクラビクラしてはいてもという、反動的な、けれどもどうしてもなければならない自負が、彼の頭を一層高くさせる。
 娘が十八になって、婿を取り、自分も、町の呉服屋の下働きをしていた、少し気の疎い女を後妻にして、彼は、貧しくしかし毅然と肩を聳(そび)やかせながら暮し始めたのである。
 けれども、彼はその時分、よく行方不明になることがあった。三四日居処の分らないこともあり、ときには十日ぐらい、女房も知らないどこかで過して来る。
 いろいろ取沙汰するものがあって、どれもそれがほんとだとは思われないが、博奕(ばくち)を打ったりしていたことだけは、間違いなかろう。
 とにかく、そんなことで、幾分山沢さんの未亡人も、注意していたとき、彼は或るとき、突然告発された。
 それをきいて騒いだのは、村の者ばかりではない。山沢さんの未亡人は真赤になって憤った。
 女主人になったので、構えの中から、そんな不面目な者を出したと云われては、とうてい辛抱がならないと思ったのも、無理ではなかっただろう。
 その原因が何であったのか、私ははっきり知らない。けれども、聞くところによれば、何でも、桑苗の取引きのことから、商売仇に訴えられたものらしい。
 彼は十日ほど、暗い処に拘留されていた。「ところが、有難いことには、神様のお加護で、身が明るくなった」尋問されたとき彼は何日分かの日記を、すっかり「調べ」たのだそうである。
 彼の「日記を調べた」という意味は幾日分かの日記を、すっかり暗誦したということらしい。自分でも、気味が悪いほど、何でもはっきり思い出せる。手紙の何行目に、こう書いてあるということまで、目に見える通り心に写ったのだそうである。
 そのためだったのか、どうだか分らないが、彼は無罪で許された、そのとき、署長が、
「偉い目に会わせて、気の毒だった」と云って、非常に鄭重に扱ったということを話すと、彼の口辺には、今もそのときのままの微笑が浮ぶのである。
 かように無罪で放免はされても、山沢さんの未亡人は、もう構えの中に置くことは出来ないと云った。
 そんなことをする者を置いては、山沢の名に関わると云った。
 これを聞いた、彼は、もう心を定めた。しないと現にお上でさえ認めてくれるものを、すると云って憤る人に彼は、説明したいとは思わなかった。哀願するには、あまり彼の骨は硬い。
 彼は、おろおろする女房を励まして、荷を纏めるなり、五年以前引越して来たより、もっと簡単に、出て行ってしまった。
 そして、村端れの小さい小屋に住むことになった。
 もう畑もないしするので、下駄の歯入れや、羅宇(ラオ)のすげかえをして稼ぐほかない。先よりなお貧乏しなければならない。
 そんなことは、彼にとって何でもないことであった。が、がまんのならないことが、一つある。
 曲ったことは、爪垢ほどのことでも、自分にも人にも許さないこの俺が、「この俺が」下らない蛆虫(うじむし)共から穢らわしい者だと思われたと思うと、彼は歯が鳴るほど腹が立った。

        十三

 彼は、山沢さんのお墓の前へ跪ずいて、散々口惜し泣きをした。
 のめのめと生恥をさらしていられないほど、口惜しかった。
 昔の士は、自分の潔白のためには、命も捨てるものだったという、旦那様の言葉を思い出した彼は、即刻に或る決心をした。
 彼は、男らしく旦那様の墓の前で、腹掻っさばいて、蛆虫等に、目に物見せてくれようと思ったのである。もちろんその心持の奥には、そうしたら、旦那様も、俺を見損なった奴だとは、お思いなさるまいという、可憐な心持もあったのである。
 なぜそれがあったか分らないが、彼は自分の「守り刀」をあずけて置いた、ある士あがりの人の処へ行った。
 そして何気なく刀のことを持ち出すと、彼の顔をちらりと見たその人は、軽い調子で、あんなものを、今頃何で思い出したのだ。もうとうの昔に、一円五十銭で売ってしまったよ、と云った。
 それから急にいずまいを正して、三郎爺の顔をみつめがら、
「貴様の太い胆っ玉はどうした。山沢さんに済むまいぞ」
と、非常に温情の籠った、けれども厳とした声で云ったのだそうだ。
 そのとき、彼は、旦那様がそう云っていなさるような心持がした。そして、急に涙がこぼれ出した。
 もう死のうとは思わなくなったかわり、今まで、悄(しお)れきって来た心が、ピーンとするほどの新しい勇気が与えられた。
 彼は心から頭を下げた。その人をとおして、彼は旦那様を、拝んだのである。
 それから、御馳走になりそれとなく励まされた彼は、帰途に貰った金で、七面鳥を買って背負って来た。
 彼の肩はまた、毅然として蛆虫奴等に向って聳やかされたのである。
 七面鳥の卵を売ったり、下駄の歯入れをしたりしても、気儘な彼は、十分なだけ金が取れない。今まで要らなかった家賃、税などというものまで取られるので、暮しはだんだん難かしくなって来る。
 難かしくなろうがどうなろうが、彼は一向平気で放って置くから、なおひどくなって、婿に食扶持(くいぶち)まで貰わなければならないようになってしまった。
 それでも、彼は平気らしいが、今度は婿の方で放っては置かれない。俺の世話になるからには、口を減らすに、役にも立たない女房と別れてくれと、申込んだ。
 彼は、「ウン、そうすべ」と、言下に承知した。そして女房にも、身の振方をきめてやるという条件つきで、そのことを話すと、女房も、「それも、よかっぺえて……」と云う。
 まるで、何に比較したらいいのか分らない単純さで万事は運び女房はいきなり彼の家から、どこかの商人の家へ後妻に迎えられることになったのだそうだ。
 もちろん、いざこざの起ろうはずはない。嫁入りの日、彼は自分まで嬉しそうにニコニコしながら、念入りに女房の顔を剃ってやったり、髪結いの迎えに行ってやったりした。
 乏しい中に、新しい帯まで祝ってやった彼は、自分も仕合わせそうな顔付きで、女房を嫁入らせたのである。
 独りになった彼は、前より一層のんきになって、気が向くと朝出たぎり夜まで家をあけっ放してどこへか行って来る。飼われた七面鳥などは、餌などをちゃんと貰ったことはない。頼んだ下駄を、いつまで待っても出来(でか)さないので、さっさと取り戻して行ってしまう。
 家があるのは名ばかりで、彼はふらふらと足にまかせ、風来坊のように暮していたのである。そのとき、彼の心の中にはどんなことが起っていたのか、私には、はっきり云えない。彼もまたそう明瞭に、俺はこう思うという心持もなかったのだろう。
 そして、ようやく彼が忘られようとしていた或るとき、突然、まったく思いもかけず、村の者が抱腹絶倒するようなことが突発した。
 それは、あんなにして、自分で顔まで剃って嫁づけた女房を、彼がいきなり行って、引っ攫(さら)って来たという、いかにも彼らしいことが起ったのである。
 或る日、フイと女房の後妻になっている店先へ現れた彼は、帳場の側に坐って、何か選りわけている女房の顔を見ると、とてつもない大声で、訳の分らないことを二口三口立て続けに喋ると、やにわに手を延ばして、女房を掴んだ。
 そして、彼がどこの何者だか知らない亭主が、あっけにとられて、眼ばかり瞬きながら、茫然自失している隙に、女房の手を小脇にかいこむと、彼の能うかぎりの全速力で駈け出した。
 口も利けないようになった女房は、片方だけ草履を引かけたまま、大きな彼の体の傍にまるでお根附けのようにして、家まで引っぱられて駈けて来たのである。
 息をはあはあ弾ませながら、ブルブルする手で湯を飲む女房を眺めながら、煙草に火をつけた彼は、このことについて、一言の説明もしない。女房もまた、聞こうともしなければ、戻って行こうともしない。
 二人はまた翌日から、鳥屋(とや)と共同の小屋の中で、貧乏な日を一緒に迎え始めたのである。
 そして、二人とも中気のようになった今日も、婿から貰う五合の米を分け合い、互の微かな稼ぎで、お互に潤し合いながら暮している。



底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
   1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
ファイル作成:野口英司
2002年1月2日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

●表記について

・本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

叱※して歩かなければならないのである。
第3水準1-14-88