窓の前には広いはたが見えてゐる。赤み掛かつた褐色と、緑と、黒との筋が並んで走つてゐて、ずつと遠い所になると、それが入り乱れて、しほらしい、にほやかな摸様のやうになつてゐる。この景色には多くの光と、空気と、際限のない遠さとがある。それでこれを見てゐると誰でも自分の狭い、小さい、重くろしい体が窮屈に思はれて来るのである。
 医学士は窓に立つて、畑を眺めてゐて、「あれを見るが好い」と思つた。早く、軽く、あちらへ飛んで行く鳥を見たのである。そして「飛んで行くな」と思つた。鳥を見る方が畑を見るより好きなのである。学士は青々とした遠い果で、鳥が段々小さくなつて消えてしまふのを、顔をしかめて見てゐて、自ら慰めるやうに、かう思つた。「どうせのがれつこはないよ。こゝで死なゝければ余所よそで死ぬるのだ。死なゝくてはならない。」
 心好げに緑いろに萌えてゐる畑を見れば、心持がとうとう飽くまで哀れになつて来る。「これはいつまでもこんなでゐるのだ。古い古い昔からの事だ。冢穴つかあなの入口でも、自然は永遠に美しく輝いてゐるといふ詞があつたつけ。平凡な話だ。馬鹿な。こつちとらはもうそんな事を言ふやうな、幼稚な人間ではない。そんな事はどうでも好い。己が物を考へても、考へなくても、どうでも好い」と考へて、学士は痙攣状に顔をくしや/\させて、頭を右左にゆさぶつて、窓に顔をそむけて、ぼんやりして部屋の白壁を見詰めてゐた。
 頭の中には、丁度濁水から泡が水面に浮き出て、はじけて、八方へ散らばつてしまふやうに、考へが出て来る。近頃になつてかういふことが度々ある。殊に「今日で己は六十五になる、もう死ぬるのに間もあるまい」と思つた、あの誕生日の頃から、こんなことのあるのが度々になつて来た。どうせいつかは死ぬる刹那が来るとは、昔から動悸をさせながら、思つてゐたのだが、十四日ぜんに病気をしてから、かう思ふのが一層切になつた。「虚脱になる一刹那がきつと来る。その刹那から手前の方が生活だ。己が存在してゐる。それから向うが無だ。真に絶待的の無だらうか。そんな筈はない。そんな物は決してない。何か誤算がある。若し果して絶待的の無があるとすれば、実に恐るべき事だ。」かうは思ふものゝ、内心では決して誤算のない事を承知してゐる。例の恐るべき、魂の消えるやうな或る物が丁度今始まり掛かつてゐるのだといふことを承知してゐる。そして頭や、胸や、胃が痛んだり、手や足がいつもより力がなかつたりするたびに、学士は今死ぬるのだなと思ふことを禁じ得ない。死ぬるといふことは非常に簡単なことだ。疑ふ余地のないことだ。そしてそれゆゑに恐るべき事である。
 学士は平生書物を気を附けては読まない流儀なのに、或る時或る書物の中で、ふいとかういふ事を見出した。自然の事物は多様多趣ではあるが、早いかおそいか、一度はその事物と同一の Constellation が生じて来なくてはならない。そして同一の物体が現出しなくてはならない。それのみではない。その周囲の万般の状況も同一にならなくてはならないと云ふのである。それを読んで、一寸のは気が楽になつたやうであつたが、間もなく恐ろしい苦痛を感じて来た。殆ど気も狂ふばかりであつた。
「へん。湊合そうがふがなんだ。あめしたに新しい事は決してない。ふん。己の前にあるやうな永遠が己の背後にもあるといふことは、己もたしかに知つてゐる。言つて見れば、己といふものは或る事物の、昔あつた湊合の繰り返しに過ぎない。その癖その昔の湊合は、己は知らない。言つて見れば己といふことはなんにもならない。只湊合の奈何いかんにあるのだ。併しどうしてさうなるのだらう。己の性命がどれだけ重要であるか、どれだけせつないか、どれだけ美しいかといふことを、己は感じてゐるではないか。己が視たり、聴いたり、嗅いだりするものは、皆己が視るから、聴くから、嗅ぐから、己の為めに存在してゐるのである。己が目、耳、鼻を持つてゐるから、己の為めに存在してゐるのである。さうして見れば、己は無窮である。絶大である。己の自我の中には万物が位を占めてゐる。その上に己は苦をも受けてゐるのだ。そこでその湊合がなんだ。馬鹿な。湊合なんといふ奴が己になんになるものか。只昔あつた事物の繰り返しに過ぎないといふことは、考へて見ても溜まらないわけだ。」
 学士は未来世みらいせいに出て来る筈の想像的人物、自分と全く同じである筈の想像的人物を思ひ浮べて見て、それをひどく憎んだ。
「そいつはきつと出て来るに違ひない。人間の思想でさへ繰り返されるではないか。人間そのものも繰り返されるに違ひない。それに己の思想、己の苦痛はどうでも好いのだ。なぜといふに己以外の物体の幾百万かがそれを同じやうに考へたり、感じたりするからである。難有いしあはせだ。勝手にしやがれ。」
 学士の心理的状態は一日一日と悪くなつた。夜になると、それが幻視錯覚になつて、とうとうしまひには魘夢えんむになつて身を苦しめる。死や、とぶらひや、墓の下の夢ばかり見る。たまにはいつもと違つて、生きながら埋められた夢を見る。昼の間は只一つの写象に支配せられてゐる。それは「己は壊れる」といふ写象である。病院の梯子段を昇れば息が切れる。立ち上がつたり、しやがんだりする度に咳が出る。それを自分の壊れる兆だと思ふのである。そんなことをいつでも思つてゐるので、夜寐られなくなる。それを死の前兆だと思ふ。
 丁度昨晩も少しも寐られなかつた。そこで頭のなかは、重くろしい、煙のやうな、酒のゑひのやうな状態になつてゐる。一晩寐られもしないのに、温い、ねばねばした床の中に横はつてゐて、近所の癲狂患者の泣いたり、笑つたりする声の聞えるのを聞いてゐるうちに、頭の中に浮んで来た考へは実に気味が悪かつた。そこであちこち寝返りをして、自分から自分を逃げ出させようとした。自分が壊れるのなんのといふことを、ちつとも知つてはゐないと思つて見ようとしたが、それが出来なかつた。の思想が消えれば、此思想が出て来る。それが寝室の白壁の上にはつきり見えて来る。しまひにはどうしても、丁度自分の忘れようと思ふことを考へなくてはならないやうになつて来る。殆ど上手のかく絵のやうに、空想の中に、分壊作用がはつきりと画かれる。体を腐らせて汁の出るやうにする作用が画かれる。自分の体のうみを吸つて太つたうじの白いのがうようよ動いてゐるのが見える。学士は平生からふ虫が嫌ひである。あの蛆が己の口に、目に、鼻に這ひ込むだらうと思つて見る。学士はこの時部屋ぢゆう響き渡るやうな声で、「えゝ、その時は己には感じはないのだ」と叫ぶ。学士は大きい声を持つてゐる。
 看病人が戸を開けて、覗いて見て、又戸を締めて行つた。
「浮世はかうしたものだ。先生、いろんな患者をいぢくり廻したあげくに、御自分が参つてしまつたのだな」と、看病人は思つたが、さう思つて見ると、自分も心持が悪いので、わざとさも愉快気な顔をして、看病人長の所へ告口をしに出掛けるのである。「先生、御自分が参つてしまつたやうですよ」などと云ふ積りである。
 看病人の締めた戸がひどい音をさせた。学士は鼻目金越しに戸の方を見て、「なんだ、何事が出来たのだ」と、腹立たしげに問うた。戸は返事をしない。そこで頗る激した様子で、戸の所へ歩いて行つて、戸を開けて、廊下に出て、梯子を降りて、或る病室に這入つた。そこは昨晩新しく入院した患者のゐる所である。一体もつと早く見て遣らなくてはならないのだが、今まで打ち遣つて置いたのである。今行くのも義務心から行くのではない。自分の部屋に独りでゐるのがゐたたまらなくなつたからである。
 患者は黄いろい病衣に、同じ色の患者用の鳥打帽を被つて、床の上に寝てゐて、矢張当り前の人間のやうに鼻をかんでゐた。入院患者は自分の持つて来た衣類を着てゐても好いことになつてゐるが、この患者は患者用の物に着換へたのである。学士は不確な足附きで、そつと這入つた。患者はその顔を面白げに、愛嬌好く眺めて、「今日は、あなたが医長さんですね」と云つた。
「今日は。己が医長だよ」と学士が云つた。
「初めてお目に掛かります。さあ、どうぞお掛け下さいまし。」
 学士は椅子に腰を懸けて、何か考へる様子で、病室の飾りのない鼠壁を眺めて、それから患者の病衣を見て云つた。「好く寐られたかい。どうだね。」
「寐られましたとも。寐られない筈がございません。人間といふ奴は寐なくてはならないのでせう。わたくしなんぞはいつでも好く寐ますよ。」
 学士は何か考へて見た。「ふん。でもゐどころが変ると寐られないこともある。それに昨晩は随分方々でどなつてゐたからな。」
「さうでしたか。わたくしにはちつとも聞えませんでした。為合しあはせに耳が遠いものですから。耳の遠いなんぞも時々は為合せになることもありますよ」と云つて、声高く笑つた。
 学士は機械的に答へた。「さうさ。時々はそんなこともあるだらう。」
 患者は右の手の甲で鼻柱をこすつた。そして問うた。「先生、煙草を上がりますか。」
「飲まない。」
「それでは致し方がございません。実は若し紙巻を持つて入らつしやるなら、一本頂戴しようと思つたのです。」
「病室内では喫煙は禁じてあるのだ。言ひ聞かせてある筈だが。」
「さうでしたか。どうも忘れてなりません。まだ病院に慣れないものですから」と、患者は再び笑つた。
 暫くは二人共黙つてゐた。
 窓は随分細かい格子にしてある。それでも部屋へは一ぱいに日が差し込んでゐるので、外の病室のやうに陰気ではなくて、晴々せい/\として、気持が好い。
「この病室は好い病室だ」と、学士は親切げに云つた。
「えゝ。好い部屋ですね。こんな所へ入れて貰はうとは思ひませんでしたよ。わたくしはこれまで癲狂院といふものへ這入つたことがないものですから、もつとひどい所だらうと思つてゐました。ひどいと云つては悪いかも知れません。兎に角丸で別な想像をしてゐたのですね。これなら愉快でさあ。どの位置かれるのだか知りませんが、ちよつとやそつとの間なら結構です。わたくしだつて長くゐたくはありませんからね。」かう云つて、患者は仰向いて、学士の目を覗くやうに見た。併し色の濃い青色の鼻目金を懸けてゐるので、目の表情が見えなかつた。患者は急いで言ひ足した。
「こんなことをお尋ねするのは、先生方はお嫌ひでせう。先生、申したいことがありますが好いでせうか。」急に元気の出たやうな様子で問うたのである。
「なんだい。面白いことなら聞かう」と、学士は機械的に云つた。
「わたくしは退院させて貰つたら、わたくしを掴まへてこんな所へ入れた、御親切千万な友達を尋ねて行つて、片つ端から骨を打ち折つて遣らうと思ひますよ」と、患者は愉快げに、しかも怒を帯びて云つて、雀斑そばかすだらけの醜い顔を変に引き吊らせた。
「なぜ」と学士は大儀さうに云つた。
「馬鹿ものだからです。べらばうな。なんだつて余計な人の事に手を出しやあがるのでせう。どうせわたくしはどこにゐたつて平気なのですが、どつちかと云へば、やつぱり外にゐる方が好いのですよ。」
「さう思ふかね」と学士は不精不精に云つた。
「つまりわたくしは何も悪い事を致したのではありませんからね」と、患者は少し遠慮げに云つた。
「さうかい」と学士は云つて、何か跡を言ひさうにした。
「悪い事なんぞをする筈がないのですからね」と、患者は相手の詞を遮るやうに云ひ足した。
「考へて御覧なさい。なぜわたくしが人に悪い事なんぞをしますでせう。手も当てる筈がないのです。食人人種ではあるまいし。ヨハン・レエマン先生ではあるまいし。当り前の人間でさあ。先生にだつて分かるでせう。わたくし位に教育を受けてゐると、殺人とか、盗賊とかいふやうなことは思つたばかりで胸が悪くなりまさあ。」
「併しお前は病気だからな。」
 患者は体をあちこちもぢもぢさせて、はげしく首をつた。「やれやれ。わたくしが病気ですつて。わたくしはあなたに対して、わたくしが健康だといふことを証明しようとは致しますまい。なんと云つた所で、御信用はなさるまいから。併しどこが病気だと仰やるのです。いやはや。」
「どうもお前は健康だとは云はれないて」と、学士は用心して、しかもきつぱりと云つた。
「なぜ健康でないのです」と、患者は詞短かに云つた。「どこも痛くも苦しくもありませんし、気分は人並より好いのですし、殊にこの頃になつてからさうなのですからね。ははは。先生。丁度わたくしが一件を発明すると、みんなでわたくしを掴まへて病院に押し込んだのですよ。途方もない事でさあ。」
「それは面白い」と、学士は云つて、眉を額の高い所へ吊るし上げた。その尖つた顔がどこやら注意して何事をか知らうとしてゐる犬の顔のやうであつた。
可笑をかしいぢやありませんか。」患者は忽然こつぜん笑つて、立ち上がつて、窓の所へ行つて、暫くの間日の照つてゐる外を見てゐた。学士はその背中を眺めてゐた。きたない黄いろをしてゐる病衣が日に照らされて、黄金色わうごんしよくふちを取つたやうに見えた。
「今すぐにお話し申しますよ」と患者は云つて、くびすを旋らして、室内をあちこち歩き出した。顔は極真面目で、殆ど悲しげである。さうなつたので顔の様子が余程見好くなつた。
「お前の顔には笑ふのは似合はないな」と、学士はなぜだか云つた。
「えゝえゝ」と、元気好く患者は云つた。「それはわたくしも承知してゐますよ。これまでにもわたくしにさう云つて注意してくれた人がございました。わたくしだつて笑つてゐたくはないのです。」かう云ひながら、患者は又笑つた。その笑声はひからびて、木のやうであつた。「その癖わたくしは笑ひますよ。度々笑ひますよ。待てよ。こんな事をお話しする筈ではなかつたつけ。実はわたくしは思量する事の出来る人間と生れてから、始終死といふことに就いて考へてゐるのでございます。」
「ははあ」と、学士は声を出して云つて、鼻目金を外した。その時学士の大きい目が如何いかにも美しく見えたので、患者は覚えずそれを眺めて黙つてゐた。
 暫くして、「先生、あなたには目金は似合ひませんぜ」と云つた。
「そんな事はどうでも好い。お前は死の事を考へたのだな。沢山考へたかい。それは面白い」と、学士は云つた。
「えゝ。勿論わたくしの考へた事を一から十まであなたにお話しすることは出来ません。又わたくしの感じた事となると、それが一層困難です。兎に角余り愉快ではございませんでした。時々は夜になつてから、子供のやうにこはがつて泣いたものです。自分が死んだら、どんなだらう、腐つたら、とうとう消滅してしまつたら、どんなだらうと、想像に画き出して見たのですね。なぜさうならなくてはならないといふことを理解するのは、非常に困難です。併しさうならなくてはならないのでございますね。」
 学士は長い髯を手の平で丸めて黙つてゐる。
「併しそんな事はまだなんでもございません。それは実際胸の悪い、悲しい、いやな事には相違ございませんが、まだなんでもないのです。一番いやなのは、外のものが皆生きてゐるのに、わたくしが死ぬるといふことですね。わたくしが死んで、わたくしの遣つた事も無くなつてしまふのです。格別な事を遣つてもゐませんが兎に角それが無くなります。譬へばわたくしがひどく苦労をしたのですね。そしてわたくしが正直にすると、非常な悪事を働くとの別は、ひどく重大な事件だと妄想まうざうしたとしませう。そんな事が皆利足の附くやうになつてゐるのです。わたくしの苦痛、悟性、正直、卑陋ひろう、愚昧なんといふものが、次ぎのジエネレエシヨンの役に立たうといふものです。外の役に立たないまでも、戒めに位ならうといふものです。兎に角わたくしが生活して、死を恐れて、煩悶してゐたのですね。それが何もわたくしの為めではない。わたくしは子孫の為めとでも云ひませうか。併しその子孫だつて、矢張自分の為めに生活するのではないのですから、誰の為めと云つて好いか分かりません。ところで、わたくしは或る時或る書物を見たのです。それにかういふ事が書いてありました。それは実際詰まらない事なのかも知れません。併しわたくしははつと思つて驚いて、その文句を記憶して置いたのでございますね。」
「面白い」と、学士はつぶやいた。
「その文句はかうです。自然は一定の法則にしたがひて行はる。何物をもみだりに侵し滅さず。然れども早晩これに対して債を求む。自然は何物をも知らず。善悪を知らず。決して或る絶待的なるもの、永遠なるもの、変易せざるものを認めず。人間は自然の子なり。然れども自然は単に人間の母たる者にあらず。何物をも曲庇きよくひすることなし。凡そその造る所の物は、他物を滅ぼしてこれを造る。或る物を造らんが為めには、必ず他の物を破壊す。自然は万物を同一視すと云ふのですね。」
「それはさうだ」と、学士は悲しげに云つたが、すぐに考へ直した様子で、又鼻目金を懸けて、厳格な調子で言ひ足した。「だからどうだと云ふのだ。」
 患者は笑つた。頗る不服らしい様子で、長い間笑つてゐた。そして笑ひんで答へた。「だからどうだとも云ふのではありません。御覧の通り、それはな思想です。いや。思想なんといふものは含蓄せられてゐない程愚です。単に事実で、思想ではありません。思想のない事実は無意味です。そこで思想をわたくしが自分で演繹して見ました。わたくしの概念的に論定した所では、かう云つて宜しいか知れませんが、自然の定義は別に下さなくてはなりません。自然は決して絶待的永遠なるものを非認してはをりません。それどころではない。自然に於いては凡ての物が永遠です。単調になるまで永遠です。どこまでも永遠です。併し永遠なのは事実ではなくて、理想です。存在の本体です。一本一本の木ではなくて、その景物です。一にん一人の人ではなくて、人類です。恋をしてゐる人ではなくて、恋そのものです。天才の人や悪人ではなくて、天才や罪悪です。お分かりになりますか。」
「うん。分かる」と、学士はやうやう答へた。
「お互にこゝにかうしてゐて、死の事なんぞを考へて煩悶します。目の前の自然なんぞはどうでも好いのです。我々が死ぬるには、なんの後悔もなく、平気で死ぬるのです。そして跡にはなんにも残りません。簡単極まつてゐます。併し我々の苦痛は永遠です。さう云つて悪ければ、少くもその苦痛の理想は永遠です。いつの昔だか知らないが、サロモ第一世といふものが生きてゐて、それが死を思つてひどく煩悶しました。又いつの未来だか知らないが、サロモ第二世といふものが生れて来て、同じ事を思つて、ひどく煩悶するでせう。わたくしが初めて非常な愉快を感じて、或る少女に接吻しますね。そしてわたくしの顔に早くも永遠なる髑髏の微笑がやどる時、幾百万かののろい男が同じやうな愉快を感じて接吻をするでせう。どうです。わたくしの話は重複して参りましたかな。」
「ふん。」
「そこでこの下等な犬考いぬかんがへからどんな結論が出て来ますか。それは只一つです。なんでも理想でなくて、事実であるものは、自然の為めには屁の如しです。お分かりになりますか。自然はこちとらに用はないのです。我々の理想を取ります。我々がどうならうが、お構ひなしです。わたくしは苦痛をけみし尽して、かう感じます。いやはや。自然の奴め。丸で構つてはくりやがらない。それなのに何も己がやきもきせずともの事だ。笑はしやあがる。口笛でも吹く外はない。」
 患者は病院ぢゆうに響き渡るやうな口笛を吹いた。学士はたしなめるやうに、しかも器械的に云つた。「それ見るが好い。お前の当り前でないことは。」
「当り前でないですつて。気違ひだといふのですか。それはまだ疑問ですね。へえ。まだ大いに疑問ですね。無論わたくしは少し激昂しました。大声たいせいを放つたり何かしました。併しそれに何も不思議はないぢやありませんか。不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間といふ奴が、始終死ぬ事を考へてゐて、それを気の遠くなるまでこはがつてゐて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、その癖ひどく行儀よくしてゐて、真面目に物を言つて、体裁好く哀れがつて、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙つて、日常瑣末な事を遣つ附けて、秩序安寧を妨害せずにゐるといふ事実です。それが不思議です。わたくしの考へでは、こんな難有い境遇にゐて、行儀好くしてゐる奴が、気違ひでなければ、大馬鹿です。」
 この時学士は自分が好い年をして、真面目な身分になつてゐて、折々突然激怒して、頭を壁にぶつ附けたり、枕に噛み附いたり、髪の毛をむしり取らうとしたりすることのあるのを思ひ出した。
「それがなんになるものか」と、学士は顔をしかめて云つた。
 患者は暫く黙つてゐて、かう云ひ出した。「無論です。併し誰だつて苦しければどなります。どなると、胸がくのです。」
「さうかい。」
「さうです。」
「ふん。そんならどなるが好い。」
「自分で自分を恥ぢることはありません。評判の意志の自由といふ奴を利用して、大いに助けてくれをどなるのですね。さう遣つ附ければ、少くも羊と同じやうに大人しく屠所に引かれて行くよりは増しぢやあありませんか。少くも誰でもそんな時の用心に持つてゐる、おめでたい虚偽なんぞを出すよりは増しぢやあありませんか。一体不思議ですね。人間といふ奴は本来奴隷です。然るに自然は実際永遠です。事実に構はずに、理想を目中もくちうに置いてゐます。それを人間といふ奴が、あらゆる事実中の最も短命な奴の癖に、自分も事実よりは理想を尊ぶのだと信じようとしてゐるのですね。こゝに一人の男があつて、生涯誰にも優しい詞を掛けずに暮すですな。そいつが人類全体を大いに愛してゐるかも知れません。一体はその方が高尚でせう。真の意義に於いての道徳に※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなつてゐるでせう。それに人間が皆絶大威力の自然といふ主人の前に媚びへつらつて、軽薄笑ひをして、おとなしく羊のやうに屠所へ引いて行かれるのですね。ところが、その心のずつと奥の所に、誰でも哀れな、ちつぽけな、雀の鼻位な、それよりもつとちつぽけな希望を持つてゐるのですね。どいつもこいつも Lasciate ogni speranza といふ奴を知つてゐるのですからね。例の奉公人じみた希望がしやがんでゐるのですね。いかさま御最ごもつとも千万でございます。でも事に依りましたら、御都合でといふやうなわけですね。憐愍れんみんといふ詞は、知れ切つてゐるから口外しないのですが。」
「そこでどうだといふのだ」と、学士は悲しげに云つて、寒くなつたとでもいふ様子で、手をこすつた。
「そこでわたくしは自然といふ奴を、死よりももつとひどく憎むやうになつたのですね。夜昼なしにかう考へてゐたのです。いつかかたきの討てないことはあるまい。討てるとも。糞。先生。聞いて下さい。その癖わたくしは地球以外の自然に対してはまだ頗る冷淡でゐるのです。そんなものは構ひません。例之たとへば、星がなんです。なんでもありやしません。星は星で存在してゐる。わたくしはわたくしで存在してゐる。距離が遠過ぎるですな。それとは違つて、地球の上の自然といふ奴は、理想が食ひたさに、こちとらを胡桃くるみのやうに噛み砕きやあがるのです。理想込めにこちとらをくらつてしまやあがるのです。そこでわたくしはいつも思ふのです。なぜそんなことが出来るだらう。何奴にしろ、勝手な風来ものが来てわたくしを責めさいなむ。そんな権利をどこから持て来るのです。わたくしばかりではない。幾百万の人間を責めさいなむ。最後になるまで責めさいなむ。なぜわたくしは最初の接吻の甘さを嘗めて打ち倒されてしまふのです。たつた一度ちよつぴりと接吻したばかりなのに、ひどいぢやあありませんか。その癖最初の接吻の甘さといふものは永遠です。永遠に新しく美しいのです。その外のものもその通りです。ひどいぢやあありませんか。むちやくちやだ。下等極まる。乱暴の絶頂だ。」
 学士は驚いて患者の顔を見てゐる。そして丸で無意味に、「湊合そうがふは繰り返すかも知れない」とつぶやいた。
「わたくしなんざあ湊合なんといふものは屁とも思ひません。口笛を吹いて遣ります」と、患者は憤然としてどなつた。この叫声が余り大きかつたので、二人共暫く黙つてゐた。
 患者は何か物思ひに沈んでゐるといふやうな調子で、小声で言ひ出した。「先生、どうでせう。今誰かがあなたに向つて、この我々の地球が死んでしまふといふことを証明してお聞かせ申したらどうでせう。あいつに食つ附いてゐるうざうもざうと一しよに、遠い未来の事ではない、たつた三百年先きで死んでしまふのですね。死に切つてしまふのですね。外道げだう。勿論我々はそれまでゐて見るわけには行かない。併し兎に角それが気の毒でせうか。」
 学士はまだ患者がなんと思つて饒舌しやべつてゐるか分からないでゐるうちに患者は語り続けた。
「それは奴隷根性が骨身に沁みてゐて、馬鹿な家来が自分の利害と、自分をつてくれる主人の利害とを別にして考へて見ることが出来ず、又自分といふものを感ずることが出来ないやうな地球上の住人は、気の毒にも思ふでせう。さう思ふのが尤もでもあるでせう。併し、先生、わたくしは嬉しいですな。」この詞を言ふ時の患者の態度は、喜びの余りによろけさうになつてゐるといふ風である。「むちやくちやに嬉しいですな。へん。くたばりやあがれ。さうなれば手前ももう永遠に己の苦痛を馬鹿にしてゐることは出来まい。忌々しい理想を慰みものにしてゐることは出来まい。厳重な意味で言へば、そんなことはなんでもありません。併し敵を討つのは愉快ですな。冷かしはおしまひです。お分かりですか。わたくしの物でない永遠といふ奴は。」
「無論だ。分かる」と、少し立つてから学士は云つた。そして一息に歌をうたひ出した。
冢穴つかあなの入口にて
若き命を遊ばしめよ。
さて冷淡なる自然に
自ら永遠なる美を感ぜしめよ。」
 患者は忽然立ち留まつて、黙つて、ぼんやりした目附をして、聞いてゐて、さて大声で笑ひ出した。「ひひひひひひ。」鶉の啼声のやうである。「そんなものがあるものですか。あるものですか。永遠なる美なんといふのは無意味です。お聞きなさい。先生。わたくしは土木が商売です。併し道楽に永い間天文を遣りました。生涯掛かつて準備をした為事しごとをせずに、外の為事をするのが、当世流行です。そこで体が曲つて、頭が馬鹿になる程勉強してゐるうちに、偶然ふいと誤算を発見したですな。わたくしは太陽の斑点を研究しました。今までの奴が遣らない程綿密に研究しました。そのうちにふいと。」
 この時日が向ひの家の背後うしろに隠れて、室内が急に暗くなつた。そこにある品物がなんでも重くろしく、床板にへばり附いてゐるやうに見えた。患者の容貌が今までより巌畳に、粗暴に見えた。
「それ、御承知の理論があるでせう。太陽の斑点が殖えて行つて、四億年の後に太陽が消えてしまふといふのでせう。あの計算に誤算のあるのを発見したのですね。四億年だなんて。先生、あなたは四億年といふ年数を想像することが出来ますか。」
「出来ない」といつて、学士は立ち上がつた。
「わたくしにも出来ませんや」といつて、患者は笑つた。「誰だつてそんなものは想像することが出来やあしません。四億年といふのは永遠です。それよりは単に永遠といつた方が好いのです。その方が概括的で、はつきりするのです。四億年だといふ以上は、万物は永遠です。冷淡なる自然と、永遠なる美ですな。四億年なんて滑稽極まつてゐます。ところで、わたくしがそれが四億年でないといふことを発見したですな。」
「なぜ四億年でないといふのだ」と、学士は殆ど叫ぶやうに云つた。
「学者先生達が太陽の冷却して行く時間を計算したのですな。その式は単純なものです。ところで、金属にしろ、その他の物体にしろ、冷却に入る最初の刹那までしか、灼熱の状態を維持してはゐないですね。それは互に温め合ふからですね。そこであのてらてら光つてゐる、太陽のしやあつく面に暗い斑点が一つ出来るといふと、その時に均衡が破れる。斑点は一般に温度を維持しないで、却て寒冷を放散する。あの可哀い寒冷ですね。寒冷を放散して広がる。広がれば広がる程、寒冷を放散する。それが逆比例をなして行く。そこで八方から暗い斑点に囲まれてゐると云はうか、実は一個の偉大なる斑点に囲まれてゐる太陽の面が四分の一残つてゐるとお思ひなさい。さうなればもう一年、事に依つたら二年で消えてしまひますね。そこでわたくしは試験を始めたのです。化学上太陽と同じ質の合金を拵へました。先生。そこで何を見出したとお思ひですか。」
「そこで」と、学士は問うた。
「地球が冷えるですな。冷えた日には美どころの騒ぎぢやあありますまい。それはすぐではありません。無論すぐではありません。併し五六千年立つといふと。」
「どうなる」と、学士は叫んだ。
「たかが五六千年立つと、冷え切ります。」
 学士は黙つてゐる。
「それが分かつたもんですから、わたくしはそれをみんなに話して、笑つたのですよ。」
「笑つたのだと」と、学士は問うた。
「えゝ。愉快がつたのです。」
「愉快がつたのだと。」
「非常に喜んだのです。一体。」
「ひひひ」と、学士が忽然笑ひ出した。
 患者はなんとも判断し兼ねて、黙つてゐる。併し学士はもう患者なんぞは目中に置いてゐない。笑つて笑つて、息が絶え絶えになつてゐる。そこで腰を懸けて、唾を吐いて、鼻を鳴らした。鼻目金が落ちた。黒い服の裾が熱病病みの騒ぎ出した時のやうに閃いてゐる。顔はゴム人形の悪魔が死に掛かつたやうに、皺だらけになつてゐる。
「五千年でかい。ひひひ。こいつは好い。こいつは結構だ。ひひひ。」
 患者は学士を見てゐたが、とうとう自分も笑ひ出した。初めは小声で、段々大声になつて笑つてゐる。
 そんな風で二人は向き合つて、嬉しいやうな、意地の悪いやうな笑声を立てゝゐる。そこへ人が来て、二人に躁狂者さうきやうしやに着せる着物を着せた。

底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「東亜之光 五ノ九」
   1910(明治43)年9月1日
入力:tatsuki
校正:ちはる
2002年3月5日公開
2005年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。