あらすじ
幕末の儒学者・伊沢蘭軒は、旗本の庶子として生まれ、深川で質店を開き成功を収めました。その後、麻布に移り、蘭軒は医業と学問に励むようになります。蘭軒の祖父は、徳川家康に餅菓子を献上したことで菓子師となった大久保主水の娘を妻としていました。蘭軒は、幼い頃から多くの優れた師について学び、医学、本草学、儒学を修め、やがて詩歌や書道もたしなみ、文人としても活躍します。しかし、蘭軒の事蹟は、長い間、歴史に埋もれていました。その名が一世に知られるようになったのは、明治時代になってからでした。目次
- その一
- その二
- その三
- その四
- その五
- その六
- その七
- その八
- その九
- その十
- その十一
- その十二
- その十三
- その十四
- その十五
- その十六
- その十七
- その十八
- その十九
- その二十
- その二十一
- その二十二
- その二十三
- その二十四
- その二十五
- その二十六
- その二十七
- その二十八
- その二十九
- その三十
- その三十一
- その三十二
- その三十三
- その三十四
- その三十五
- その三十六
- その三十七
- その三十八
- その三十九
- その四十
- その四十一
- その四十二
- その四十三
- その四十四
- その四十五
- その四十六
- その四十七
- その四十八
- その四十九
- その五十
- その五十一
- その五十二
- その五十三
- その五十四
- その五十五
- その五十六
- その五十七
- その五十八
- その五十九
- その六十
- その六十一
- その六十二
- その六十三
- その六十四
- その六十五
- その六十六
- その六十七
- その六十八
- その六十九
- その七十
- その七十一
- その七十二
- その七十三
- その七十四
- その七十五
- その七十六
- その七十七
- その七十八
- その七十九
- その八十
- その八十一
- その八十二
- その八十三
- その八十四
- その八十五
- その八十六
- その八十七
- その八十八
- その八十九
- その九十
- その九十一
- その九十二
- その九十三
- その九十四
- その九十五
- その九十六
- その九十七
- その九十八
- その九十九
- その百
- その百一
- その百二
- その百三
- その百四
- その百五
- その百六
- その百七
- その百八
- その百九
- その百十
- その百十一
- その百十二
- その百十三
- その百十四
- その百十五
- その百十六
- その百十七
- その百十八
- その百十九
- その百二十
- その百二十一
- その百二十二
- その百二十三
- その百二十四
- その百二十五
- その百二十六
- その百二十七
- その百二十八
- その百二十九
- その百三十
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- その百三十二
- その百三十三
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- その百三十五
- その百三十六
- その百三十七
- その百三十八
- その百三十九
- その百四十
- その百四十一
- その百四十二
- その百四十三
- その百四十四
- その百四十五
- その百四十六
- その百四十七
- その百四十八
- その百四十九
- その百五十
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- その百五十二
- その百五十三
- その百五十四
- その百五十五
- その百五十六
- その百五十七
- その百五十八
- その百五十九
- その百六十
- その百六十一
- その百六十二
- その百六十三
- その百六十四
- その百六十五
- その百六十六
- その百六十七
- その百六十八
- その百六十九
- その百七十
- その百七十一
- その百七十二
- その百七十三
- その百七十四
- その百七十五
- その百七十六
- その百七十七
- その百七十八
- その百七十九
- その百八十
- その百八十一
- その百八十二
- その百八十三
- その百八十四
- その百八十五
- その百八十六
- その百八十七
- その百八十八
- その百八十九
- その百九十
- その百九十一
- その百九十二
- その百九十三
- その百九十四
- その百九十五
- その百九十六
- その百九十七
- その百九十八
- その百九十九
- その二百
- その二百一
- その二百二
- その二百三
- その二百四
- その二百五
- その二百六
- その二百七
- その二百八
- その二百九
- その二百十
- その二百十一
- その二百十二
- その二百十三
- その二百十四
- その二百十五
- その二百十六
- その二百十七
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- その二百二十九
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- その二百三十二
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- その二百四十二
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- その二百四十八
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- その二百五十
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- その二百五十二
- その二百五十三
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- その二百五十六
- その二百五十七
- その二百五十八
- その二百五十九
- その二百六十
- その二百六十一
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- その二百六十五
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- その二百六十七
- その二百六十八
- その二百六十九
- その二百七十
- その二百七十一
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- その三百二
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- その三百四
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- その三百四十八
- その三百四十九
- その三百五十
- その三百五十一
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- その三百五十三
- その三百五十四
- その三百五十五
- その三百五十六
- その三百五十七
- その三百五十八
- その三百五十九
- その三百六十
- その三百六十一
- その三百六十二
- その三百六十三
- その三百六十四
- その三百六十五
- その三百六十六
- その三百六十七
- その三百六十八
- その三百六十九
- その三百七十
- その三百七十一
然るにこれに先つこと数年、思軒の友高橋太華が若干通の古手紙を買つた。それは菅茶山が伊沢澹父と云ふものに与へたものであつて、其中の一通は山陽幽屏問題に解決を与ふるに足る程有力なものであつた。
思軒は此手紙に日附があつたか否かを言はない。しかし「手紙は山陽が方に纔に茶山の塾を去りて京都に帷を下せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから、恐くは日附は無かつたのであらう。
山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国安那郡神辺の廉塾に著き、八年閏二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石元瑞を京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪が江戸に上れる次、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻げしめむと欲するのだと云ふのである。
此伊沢澹父とは何人であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本箕山の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初に昔日高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋没せられてゐたかを示さむがためである。
わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を経たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人伝」中の小伝と、頃日図書館雑誌に載せられた和田万吉さんの「集書家伊沢蘭軒翁略伝」との二つがあるのみである。
しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遅れて出て、新に蘭軒の伝を書かうとするには、わたくしは先づ白己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を伝ふることの難きは、前に渋江抽斎を伝ふることの難かりし比では無い。抽斎と雖、人名辞書がこれを載せ、陸羯南が一たびこれが伝を立てたことがあつた。只彼人名辞書の記載は海保漁村の墓誌の外に出でず、羯南の文も亦経籍訪古志の序跋を参酌したに過ぎぬに、わたくしは嗣子保さんの手から新に材料を得た。これに反して蘭軒の曾孫徳さんと、其宗家の当主信平さんとの手より得べき主なる材料は、和田さんが既に用ゐ尽してゐる。就中徳さんの輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書がある。わたくしは和田さんが材を此納本に取つたことを疑はない。わたくしの新に伊沢氏に就いて、求め得べき材料は、此納本に漏れた選屑に過ぎない。縦しや其選屑の中には、大正五年に八十二歳の齢を重ねて健存せる蘭軒の孫女おそのさんの談片の如き、金粉玉屑があるにしても。
蘭軒を伝ふることが抽斎を伝ふるより難いには、猶一の軽視すべからざる理由がある。それは渋江氏には「泰平千代鑑」と題するクロオニツクがあつて、帝室、幕府、津軽氏、渋江氏の四欄を分つた年表を形づくつてゐるのに、伊沢氏には編年の記載が少いと云ふ一事である。強ひて此欠陥を補ふべき材料を求むれば、蘭軒には文化七年二月より文政九年三月に至る「勤向覚書」があり、其嗣子榛軒には嘉永五年十月二十一日より十一月十九日に至る終焉の記があるのみである。独り榛軒の養嗣子棠軒は、嘉永五年十一月四日より明治四年四月十一日に至る稍詳密なる「棠軒公私略」を遺し、僅に中間明治元年三月中旬より二年六月上旬に至る落丁があるに過ぎぬが、其文には取つて蘭軒榛軒二代の事跡を補ふべきものが殆無い。
わたくしは自己の態度を極めたいと云つた。しかし熟これを思へば、自己の態度を極めることが不可能ではないかと疑ふ。わたくしは少くもこれだけの事を自認する。若しわたくしが年月に繋くるに事実を以てしようとしたならば、わたくしの稿本は空白の多きに堪へぬであらう。徳さんの作つた蘭軒略伝が既に編年の行状では無い。その蘭軒前後に亘つた「歴世略伝」も亦同じである。徳さんの記載に本づいたらしい和田さんの略伝も亦編年では無い。藝備偉人伝は、蘭軒を載せた下巻がわたくしの手許に無いが、同じ著者の「頼山陽」に引いた文を見れば、亦復編年では無ささうである。おそのさんの談話の如きは、固より年月日を詳にすべきものに乏しい。わたくしは奈何して編年の記述をなすべきかを知らない。
わたくしはかう云ふ態度に出づるより外無いと思ふ。先づ根本材料は伊沢徳さんの蘭軒略伝乃至歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかし其材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維れ谷まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
無態度の態度は、傍より看れば其道が険悪でもあり危殆でもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然として道が開けて、予期せざる広大なるペルスペクチイウが得られようかと、わたくしは想像する。そこでわたくしは蘇子の語を借り来つて、自ら前途を祝福する。曰く水到りて渠成ると。
系譜を按ずるに、伊沢氏に四家がある。其一は旗本伊沢である。わたくしは姑く「総宗家」と名づける。其二は総宗家四世正久の庶子にして蘭軒の高祖父たる有信の立てた家で、今麻布鳥居坂町の信平さんが当主になつてゐる。徳さんの謂ふ「宗家」である。其三は宗家四世信階が一旦宗家を継いだ後に分立したもので、蘭軒信恬は此信階の子である。徳さんの謂ふ「分家」で、今牛込市が谷富久町に住んでゐる徳さんが其当主である。其四は蘭軒の子柏軒信道が分立した家で、徳さんの謂ふ「又分家」である。当主は赤坂氷川町の清水夏雲さん方に寓してゐる信治さんである。
総宗家の系図には、わたくしは手を触れようとはしない。其初世吉兵衛正重は遠く新羅三郎義光より出でてゐる。此に徳さんの補修を経た有形の儘に、単に歴代の名を数ふれば、義光より義清、清光、信義、信光、信政、信時、時綱、信家、信武、信成、信春、信満、信重、信守、信昌、信綱、信虎を経て晴信に至る。晴信は機山信玄である。晴信より信繁、信綱、信実、信俊、信雄、信忠を経て正重に至る。正重を旗本伊沢の初世とする。要するに旗本伊沢は武田氏の裔で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国石禾に本づいてゐるらしい。
総宗家旗本伊沢より宗家伊沢が出でたのは、初世正重、二世正信、三世正岸を経て、四世正久に至つた後である。系図を閲するに、伊沢氏は「幕之紋三菅笠、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある。初世吉兵衛正重は天文十年に参河国で生れ、慶長十二年二月二日に六十七歳で歿した。鉄砲組足軽四十人を預つて、千五百五十三石を食んだ。二世隼人正正信は東福門院附弓気多摂津守昌吉の次男で、正重の女婿である。正信は文禄四年に生れ、寛文十年十二月二日に七十六歳で歿した。わたくしの所蔵の正保二年の江戸屋敷附に「伊沢隼人殿、本御鷹匠町」と記してある。肩には役が記して無い。三世の名は闕けてゐる。只元和七年に生れ、延宝二年六月十六日に五十四歳で歿したとしてある。然るに徳川実記に拠れば、隼人正正信の子は主水正政成である。延宝中の江戸鑑小姓組番頭中に「伊沢主水正、三千八百石、鼠穴、父主水正」がある。即ち此人であらう。
系図に政成が闕けてゐて稍不明であるが、要するに旗本伊沢は正保中には鷹匠町、延宝以後には鼠穴に住んでゐて、千五百五十三石より三千八百石に至つた。
蘭軒の高祖有信が旗本伊沢の家から分れて出た時の事は、蘭軒の姉幾勢の話を、蘭軒の外舅飯田休庵が聞いたものとして伝へられてゐる。それはかうである。有信は旗本伊沢の家に妾腹の子として生れた。然るに父の正室が妾を嫉んで、害を赤子に加へようとした。有信の乳母が懼れて、幼い有信を抱いて麻布長谷寺に逃げ匿れた。当時長谷寺には乳母の叔父が住持をしてゐたのだと云ふ。乳母の戒名は妙輪院清芳光桂大姉である。
有信の生れたのは天和元年だと伝へられてゐる。此時旗本伊沢の家は奈何なる状況の下にあつたか。
当主は初代正重より四代目の吉兵衛正久であつた。江戸鑑を検するに、襲家の後寄合になつて、三千八百石を食み、鼠穴に住んでゐた。有信が鼠穴住寄合伊沢主水正の家に生れたことは確実である。
有信が生れた時、父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系図に正久の生歿年が載せてあるから、推算することが出来る。正久は万治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年には二十三歳であつた。
正久の正室は書院番頭三枝土佐守恵直の女である。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。
別に歴世略伝に有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久とは別人でなくてはならない。又有信の実父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通称徳兵衛、父流芳院春応道円居士、元禄四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齢より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を挙げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の実父ではあるまい。若し有信の実父だとすると、年月日若くは年齢に錯誤があるであらう。
わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊沢、即総宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊沢の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機会が得難いからである。
有信の父旗本伊沢四世吉兵衛正久は、武鑑を検するに、元禄二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、宝永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系図に拠るに万治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。
五世吉兵衛方貞は系図に拠るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。宝暦十年の武鑑を検するに、方貞も亦父に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は旧に依つて永田馬場であつた。
六世内記方守は系図に拠るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に拠るに、寛政六年十月より先手鉄砲頭を勤めてゐた。文化の初の写本千石以上分限帳に、「伊沢内記、三千二百五十石、三川岱」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊沢は赤坂参河台に住んでゐた。
七世主水は文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで続いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。
八世吉次郎は文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊沢吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に変更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。
九世助三郎政義は文政四年の武鑑寄合の部に、「伊沢助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで続いて、三年には中奥小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて摂津守と称し、猶同じ職にゐる。九年には美作守に転じて小普請支配になつてゐる。尋で政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑が偶手元に闕けてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月に大目附服忌令分限帳改となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡して徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主八幡祐観」と彫つてある。
徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」を閲して、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守抔は当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助の諱ではなからうか。
わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。
六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其言語には東北の訛がある。此爺を連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ば傾いて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。
「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。
伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世主水であらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。
此大墓石の傍に小い墓が二基ある。戒名の院の下には殿の字を添へ、居士の上には大の字を添へた厳しさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。
二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつては此の如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀勝足四百石、戸川安清五百石、佐野政美六百石、大沢康哲二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わたくしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
爺が苔を掃つて香華を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信を通じてくれない。
麻布の長谷寺に匿れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
有信の妻は氏名を詳にしない。法諡は貞寿院瓊林晃珠禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿信政である。惟ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹居士と云ひ、母は※相寿桂[#「女+(而/大)」、U+5A86、7巻-16-下-14]大姉と云ふ。
有信は此の如く志を遂げて、能く一家の基を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜し、屡謀書謀判の科を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党の人で、正しく謂へば甥であらうか。
有信は長左衛門のために産を傾け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷つた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。
享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、長谷寺に葬られた。即ち幼くして乳媼と共に匿れてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。
二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。
信政は幕府の菓子師大久保主水元苗の女伊佐を娶つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今遽に論定し難い。
大久保系図に拠れば、粟田関白道兼十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経て忠茂に至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武としてゐる。此中には道号と名乗との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三忠員、四忠久、以上四人の名は略一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門忠教は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。
大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼れたからである。偶忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜びつて、此より時々忠行をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水の匱しきを憂へ、忠行に諮つた。忠行乃ち仁治中北条泰時の故智を襲いで、多摩川の水を引くことを策した。今の多摩川上水が是である。此時家康は忠行に主水の称を与へたと云ふことである。以上は君臣略伝の伝ふる所である。
此より後主水忠行はどうなつたか、文献には所見が無い。然るに蘭軒の孫女の曾能さんの聞く所に従へば、忠行が引水の策を献じた後十年、慶長五年に関が原の戦があつた。忠行は此役に参加して膝頭に鉄砲創を受け、廃人となつた。そこで事平ぐ後家康の許を蒙つて菓子師となつたさうである。
わたくしは此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。素大久保氏には世経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が、忠行の父忠茂の謀を用ゐて、松平弾正左衛門信貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成を申し受け、さて毫釐も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済思想を承けた忠行が、曾て引水の策を献じ、終に商賈となつたのは、つて来る所があると謂つて好からう。
忠行の子孫は、今川橋の南を東に折れた本白銀町四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に、主水河岸の称があるのは、此家あるがためである。後年武鑑に用達商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾て闕けてゐたことが無い。
宗家伊沢の二世信政の外舅となつた主水元苗は、忠行より第幾世に当るか、わたくしは今これを詳にしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。
信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子は信栄と云ひ、金十郎と云ふ。一女の名は曾能である。
信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。
三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政に先つて歿し、長谷寺に葬られた。法諡を万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。
信栄は合智氏を娶つて、二子を生ませた。長が信美、字は文誠、法名称仙軒、季が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶幼かつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、所謂中継として信栄の後を承けしめた。此女婿が信階である。
宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、小字は門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡を四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。信栄の死に先つこと僅に百零三日である。
先代信栄の歿した時、嫡子信美が幼かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻するに信栄の妹曾能を以てしようとして、心私にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶らむことを勧めた。門次郎は容を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
惟ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜ではなからうか。
武梅竜初の名は篠田維嶽、美濃の人である。しかし其郷里の詳なるを知らない。後藤松陰が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名を亮、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名を欽、字を聖謨と改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院堯恭法親王の侍読にせられた。
梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松国鸞が、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くること太だ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻を斥けた信階に伝へられたとも考へられよう。
梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵信方がゐた。休庵は信階の同出の姉井出氏を娶つたが、井出氏は明和七年七月三日に歿したので、水越氏民を納れて継室とした。休庵は後に蘭軒の外舅になるのである。
信階の家督相続は猶摂主の如きものであつた。先代信栄の子信美が長ずるに及んで、信階はこれに家を譲つた。此更迭は何年であつたか記載を闕いでゐるが、安永六年前であつたことは明である。何故と云ふに、此年には信階の長子蘭軒が生れてゐる。そしてその生れた家は今の本郷真砂町であつたと云ふ。本郷真砂町は信階が宗家を信美に譲つた後に、分家して住んだ処だからである。仮に宗家の更迭と分家の創立との年を其前年、即安永五年だとすると、当時隠居信政は六十五歳、信階は三十三歳であつた。
伊沢信階が宗家を養父亡信栄の実子信美に譲つた年を、わたくしは仮に安永五年とした。此時信階の創立した分家は今の本郷真砂町桜木天神附近の地を居所とし、信階はこの新しい家の鼻祖となつたのである。
わたくしは例に依つて、信階去後の伊沢宗家のなりゆきを、此に插叙して置きたい。信階は宗家四世の主であつた。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守治之の夫人に仕へてゐた幾勢に推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。法諡を称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢は世黒田家の歯医者であつた。六世信全は桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年閏八月十八日に八十一歳で歿した。七世信崇は巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。
分家伊沢の初世信階は本郷に徙つた後、安永六年十一月十一日に一子辞安を挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附の女曾能である。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後幸子と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守治高と名告り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守斉隆と云つた。
幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡を幽林院岱翁良椿居士と云ふ。長谷寺の先塋に葬られた。新しい分家には四十一歳の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫信全を設けてゐた。
信政の妻大久保氏伊佐は又貞光の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐の所生には親に先つた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。
信階は冢子蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原巵兮と云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は尋で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。
泉豊洲、名は長達、字は伯盈である。其家世江戸に住した。先手与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
豊洲は中年にして与力の職を弟直道に譲り、帷を下し徒に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂郷南の何処なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
豊洲は南宮大湫の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流である。
わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插むこととする。
参河国加茂郡挙母に福尾荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言継友に仕へて、芋生の竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏は本氏秋元である。そこで中西曾七郎が元氏、名は維寧、字は文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上勝の孤弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、弟子が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮氏と称し、名は岳、字は喬卿、号は大湫となつた。延享中に淡淵は年四十に垂として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者が来て従学した。これは尾張国平洲村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎は偶大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖が紀長谷雄であつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字は世馨、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、所謂「廟堂之器」となつたのが此人である。
寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲に帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、榑正町に寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲と同居した。「平洲為之称有疾、謝来客、息講業十余日、無朝無暮、語言一室、若引緒抽繭、縷々不尽」であつた。明和八年に八町堀牛草橋の晴雪楼が落せられた。大湫の家塾である。
泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲は女を以てこれに妻した。
叢桂社の学は徳行を以て先となした。淡淵は「其講経不拘漢宋、而別新古、従人所求、或用漢唐伝疏、或用宋明註解」平洲の如きも、「講説経義、不拘拘于字句、据古註疏為解、不好参考宋元明清諸家」と云ふのである。要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。
蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃に思ふに只蘭軒をして能く拘儒たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚ではなかつただらうか。
蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷斎、木村文河、植村士明、下条寿仙、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。斎の孫女は後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒の女が又斎の養孫矩之に嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。
木村文河、名は定良、字は駿卿、通称は駿蔵、一に橿園と号した。身分は先手与力であつた。橘千蔭、村田春海等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明は字である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。
下条寿仙、名は成玉、字は叔琢である。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守光行の医官になつた。寿仙の弟春泰、名は世簡、字は季父である。横山の事は未だ詳にしない。
蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一所」と註してある。浅田栗園の皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。
武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末より法眼としてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。
蘭軒が本草の師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後の弟子であらう。
赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「千屈菜、和名みそはぎ、六月晦日御祓の頃より咲初る心ならむと余考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事の序に白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。
蘭軒が師事した所の儒家医家は概ね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。
蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩は菅茶山に就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部正倫が林述斎の言を聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。
信階は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年閏八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦が下野国宇都宮より徙されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守正右が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
寛政七年には、十八年来、信階の女幾勢が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守斉隆が卒して、十月六日に嫡子官兵衛斉清が襲封したのである。治之夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。
寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父杏坪が当主重晟の嫡子斉賢の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦杉木小路の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫古梅さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎を下つて霞が関へ往つた。山陽は空轎に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹直をして続絃せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫である。
山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋の畔に訪うた。これは諸書の皆載する所である。
さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此の如きに過ぎない。
然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷斎の家にも寓したと云ふのである。
伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中茶山は同じく阿部家の俸を食む身の上であるので、其交が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷斎に山陽を紹介して、斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
此説は世の伝ふる所と太だ逕庭がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※合[#「月+(勿/口)」、U+8117、7巻-29-下-5]する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿の二洲尾藤良佐が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾みやうも無い。
しかし口碑などと云ふものは、固より軽しく信ずべきでは無いが、さればとて又妄に疑ふべきでも無い。若し通途の説を以て動すべからざるものとなして、直に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計ではなからうか。
伊沢氏でお曾能さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父榛軒も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉幾勢は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此の如き説を憑空構成しようぞ。
徳さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。
山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。
二洲が此の如き小疵瑕の故を以て山陽を逐つたのでないことは言を須たない。又縦しや二洲の怒が劇かつたとしても、其妻直は必ずや姉の愛児のために調停したことを疑はない。しかし山陽は「例の肝へき」を出して自ら奔つたのであらう。
わたくしは此事のあつたのを何時だとも云ふことが出来ない。寛政九年四月より十年四月に至る満一箇年のうち、山陽がおとなしくして尾藤方にゐたのは幾月であつたか知らない。しかし推するに二洲の譴責は「物ごとにうたがひふかき」山陽の感情を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門で脱いだのが、草鞋でなくて草履であつたとしても、固より事に妨は無い。
世の伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
手紙の原本はわたくしの曾て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末に下の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤定斎である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。
寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば、文義は乃ち通ずるのである。
わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年に箕山さんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかし此の如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。
追記の文意の合理不合理の問題は上の如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とは抑誰を斥して言つたものであらうかと問ひたい。
姑く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中を忖度するに、下の如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ち林祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。
独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所を斥すべき文字である。
わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲は瓜葛の親とは、思軒以来の套語であるが、縦しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言を須たない。しかし少くも山陽は些のブウドリイを作して不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。
わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年が少過ぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父隆升軒信階の友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。
わたくしは蘭軒が初め奈何して頼菅二氏に交を納れたかを詳にすること能はざるを憾とする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、稍細に推測することが出来るであらう。
山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽の幾頁をか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々の朶頤すべき珍羞であらう。
病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。素わたくしは支那の古医書の事にはいが、此に些の註脚を加へて、遼豕の誚を甘受することとしよう。病源候論は隋の煬帝の大業六年の撰である。作者は或は巣元方だとも云ひ、或は呉景だとも云ふ。呉の名は一に景賢に作つてある。四庫全書総目に、此書は官撰であるから、巣も呉も其事に与つたのだらうと云つてある。玉海に拠れば、宋の仁宗の天聖五年に此書が印頒行せられた。降つて南宋の世となつて、天聖本が重刻せられた。伊沢の蔵本即酌源堂本は、此南宋版であつて、全部五十巻目録一巻の中、目録、一、二、十四、十五、十六、十七、十八、十九、計九巻が闕けてゐた。然るに別に同板のもの一部があつた。それは懐仙閣本である。此事は経籍訪古志に見えてゐるが、訪古志はわたくしのために馴染が猶浅い故、少しく疑はしい処がある。訪古志に懐仙楼蔵と記する諸本が、皆曲直瀬の所蔵であることは明である。然るに訪古志補遺には懐仙閣蔵の書が累見してゐる。わたくしは懐仙閣も亦曲直瀬かと推する。しかしその当れりや否やを知らない。さて懐仙閣本の病源候論も亦完璧ではなくて、四十、四十一、四十二、四十三、計四巻が闕けてゐた。両本は恰も好し有無相補ふのであつた。
伊沢氏で寛政九年に病源候論を写したとすると、それは自蔵本の副本を作つたのか。それとも懐仙閣本を借りて補写したのか。恐くは此二者の外には出でぬであらう。そして山陽が手伝つたと謂ふのは、此謄写の業であらう。
山陽が寓してゐた時の伊沢氏の雰囲気は、病源候論を写してゐたと云ふを見て想像することが出来る。五十四歳の隆升軒信階が膝下で、二十一歳の蘭軒は他年の考証家の気風を養はれてゐたであらう。蘭軒が歿した後に、山田椿庭は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に「平生不喜苟著述、二巻随筆身後伝」の語がある。これが蘭軒の面目である。
そこへ闖入し来つた十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、「天地間有如此可喜者乎」と叫び、壁に貼つて日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、「凌雲冲霄」が其志である。「一度大処へ出で、当世の才俊と被呼候者共と勝負を決し申度」と云ひ、「四方を靡せ申度」と云つてゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。
少い彼蘭軒が少い此山陽をして、首を俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詫異せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。
山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。
わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身をいたことであらう。斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、斎も亦養父三右衛門保古に事へてゐたことであらう。墓誌には斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏を嗣いだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽を舎した二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。斎の少時奈何に保古に遇せられたかは、わたくしの詳にせざる所であるが、想ふに保古は斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業に染指してゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。
洋人の諺に「雨から霤へ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かの宋槧本を写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝを可笑しくおもふ。
寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が姨夫春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
此年九月朔に吉田篁が歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに遑がなかつた。わたくしが篁の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上蘭台の門に井上金峨を出し、金峨の門に此篁を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田鵬斎の如く、篁と偕に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋故きが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。
此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園道英の女淳を子婦に取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。
此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。
寛政十一年に狩谷氏で斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門を襲いだかとおもふ。
斎の家世には不明な事が頗る多い。斎の生父高橋高敏は通称与総次であつた。そして別号を麦雨と云つた。これは蘭軒の子で所謂「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
高敏の家業は、曾孫三市さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆是であるかも知れない。古衣を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
此年二月二十二日に御園氏淳が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後真に屏禁せられる一年前の事である。
此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。
寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎に曾て山陽を舎したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦れたる蘭軒の裔が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。
山陽が広島杉木小路の家を奔つたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎惟清の弟伝五郎惟宣が歿したので、梅は山陽をくやみに遣つた。山陽は従祖祖父の家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。素正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原に遷つた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は面り未亡人としての梅をも見た人であつたさうである。これも亦彼の斎が生家の職業と同じく或は二説皆是であるかも知れない。
山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。
此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。
次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所の※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-40-下-15]詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支辛酉が最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載に上つてをらぬのに、此詩集が偶存してゐて、わたくしに暗中燈を得た念をなさしむるのである。
詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三頁の一巻をなしてゐる。蠧蝕は極て少い。蔵※者[#「去/廾」、U+5F06、7巻-41-上-6]は富士川游さんである。
巻首第一行に※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-41-上-8]斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏は枳園である。毎半葉十行、行二十二字である。
集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初頁より二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯椶軒正精の朱書である。間菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。
わたくしは此に少しく蘭軒の名字に就いて插記することとする。それは引く所の詩集に※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-41-下-4]の僻字が題してあるために、わたくしは既に剞氏を煩し、又読者を驚したからである。
蘭軒は初め名は力信字は君悌、後名は信恬字は憺甫と云つた。信恬は「のぶさだ」と訓ませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。椶軒阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。
憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山の柬牘には水に従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしの饗庭篁村さんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。啻に柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本箕山さんが其藝備偉人伝の下巻に引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、頃日箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしに寄示してくれたのである。
別号は蘭軒を除く外、※斎[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-上-11]と云ひ、都梁と云ひ、笑僊と云ひ、又藐姑射山人と云つた。※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-上-12]一に※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-上-12]に作つてある。詩集の名の如きが即是である。又※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-上-13]斎の篆印もある。※[#「くさかんむり/閑」、U+4535、7巻-42-上-14]に作つたものは、わたくしは未だ曾て見ない。
※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-上-15]は詩の鄭風に「与、方渙渙兮、士与女、方秉※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-上-15]兮」とあつて、伝に「※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-上-16]蘭也」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-上-16]は山海経に「呉林之山、其中多※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-1]草」とあつて、又※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-1]山※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-1]水の地名が見えてゐる。一切経音義に声類を引いて「※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-3]蘭也」と云ひ、又「※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-3]、字書与※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-3]同」とも云つてある。説文校録にも亦「鄭風秉※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-4]、字当同※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-4]、左氏昭二十二年大蒐於昌間、公羊作昌姦、此※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-5]与※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-5]同之証」と云つてある。説文に※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-6]を載せて※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-6]を載せぬのは許慎が※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-7]を正字としたためであらう。※[#「くさかんむり/閑」、U+4535、7巻-42-下-7]は字彙正字通並に※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-8]の俗字だとしてゐる。字典は広韻を引いて「与※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-8]同」としてゐる。説文義証には「広韻、※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-9]与※[#「くさかんむり/閑」、U+4535、7巻-42-下-9]同、※[#「くさかんむり/閑」、U+4535、7巻-42-下-9]当作※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-10]」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/間」、U+8573、7巻-42-下-10]※[#「くさかんむり/閑」、U+4535、7巻-42-下-10]三字の考証は池田四郎次郎さんを煩はした。都梁は荊州記に「都梁県有山、山下有水清、其中多蘭草、名都梁香」とある。蘭軒の蘭字の事は後に別に記することとしよう。笑僊は笑癖あるがために自ら調したものであらう。藐姑射山人は荘子から出てゐること論を待たない。
居る所を酌源堂と云ひ、三養堂と云ひ、芳桜書院と云ふ。
酌源は班固の典引の「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養は蘇軾の「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。
通称は辞安である。
名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-43-上-8]斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦を栞とし路傍として、ゆくての道をたどらうとおもふ。
蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-43-上-14]斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。本江の郷と訓ませる積であつたのだらう。
次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑く此詩中に云ふ所を此年の下に繋ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣二月天は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将斉朝の市谷門外の上屋敷が其易簀の所であらう。諸侯の国政を与り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
此年には猶多紀氏で蘭軒の友柳庭の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森枳園の祖父伏牛が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四人は余常汝爾之交を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問合読なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何と問ぬ。二人そもよかるべしと、三人して手紙認し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午の飯たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且く「享和之二二月」と読んで置く。
秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺東河、清水泊民、狩谷斎、赤尾魚来の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭、字は文平、一号は払石である。書を源東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜、当時の菓子商主水である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和閏正月」と記し、下三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
蘭軒雑記に拠れば、所謂浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監鑑寿の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。
此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜み、篆刻を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲するに降灰の事を載せない。
蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男榛軒が生れたからである。蘭軒には榛軒に先つて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津長順である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-46-下-1]詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
上に記した外、名録には尚庶出の女二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿の子ではある。姑夫女ではある。しかし小母の女では無い。姑女では無い。
蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔に生れたのである。蘭軒より少きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
此年に蘭軒の友小島春庵尚質の父春庵根一が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。
此年享和三年に蘭軒の父信階の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守正倫が十月六日に病に依つて致仕し子主計頭正精が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒と号した。世子たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭銭を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率を見る。
正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「纒のつくり+おおざと」、7巻-48-上-9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺の菅波久助の倅百助であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
三月になつて茶山は病がえた。十九日に犬塚印南、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
印南、名は遜、字は退翁、通称は唯助、一号は木王園である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠知の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋で本氏に復し、黌職を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭忠道の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙舟の対を求められて、直に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。
印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛べた今川槐庵は、名は※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、U+23AD4、7巻-49-上-7]、字は剛侯である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、U+23AD4、7巻-49-上-7]は毅ではないかと疑ふが、
第く※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-49-上-8]詩集の録する所に従つて置く。
山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃梅天断梅の絶句各二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。は説文に「酢菜也」とある。梅も梅※[#「凵<韲」、7巻-49-下-8]も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
同行には源波響、木村文河、釧雲泉、今川槐庵があつた。
源波響は蠣崎氏、名は広年、字は世詁、一に名は世、字は維年に作る。通称は将監である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就、字は仲孚、肥前国島原の人である。竹田が称して吾国の黄大癡だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田鵬斎である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律各一首がある。律の頷聯「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。
蘭軒が茶山を連れて不忍池へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
蘭軒と斎とは又今一人誰やらを誘つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩二家の本領を道破し得て妙である。
八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字は子醇、その人となりを詳にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉と同庚で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
さて十六日の黄昏に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島杉木小路の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此夕嚔を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺に来り寓してゐる頼久太郎の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上さずに罷んだのではなからうか。
蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父隆升軒信階が猶健であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐と云ふものが来掛かつたので、それをも誘つて、三人で茶店に入つて酒を命じた。三人が夜半まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各別れて家に還つた。
蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
臼田才佐は茶山書牘中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋々下と書し、蘭軒は礫川と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
蘭軒の集に此夕の七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだことを言ふ。彼の七八に「手掃蒼苔踞石上、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此の頷聯に「旗亭敲戸携樽至、茶店臨川移榻来」と云つてある。料理屋で酒肴を買ひ調へて、川端の茶店に持つて往つて飲んだのではなからうか。
蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒の嫡子榛軒が生れた。小字は棠助である。後良安、一安、長安と改めた。名は信厚、字は朴甫となつた。
分家伊沢の伝ふる所に従へば、榛軒は厚朴を愛したので、名字号皆義を此木に取つたのだと云ふ。厚朴の木を榛と云ふことは本草別録に見え、又急就篇顔師古の註にもある。又門人の記する所に、「植厚朴、参川口善光寺、途看于花戸、其翌日持来植之」とも云つてある。しかしわたくしの考ふる所を以てすれば、蘭軒は子に名づくるに厚を以てし重を以てした。これは初め必ずしも木の名ではなかつたであらう。紀異録に「既懐厚朴之才、宜典従容之職」と云つてある。名字は或は此より出でたのではなからうか。さて木名に厚朴があるので、此木は愛木となり、又榛軒の号も出来たかも知れない。厚朴は植学名マグノリア和名ほほの木又ほほがしはで、その白い大輪の花は固より美しい。榛軒は父蘭軒が二十八歳、母飯田氏益が二十二歳の時の子である。
茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。「博士新賜宅。起楼向※[#「厂+垂」、U+539C、7巻-54-上-6]※[#「厂+義」、U+3552、7巻-54-上-6]。亦恨落成後。未逢雲雨披。忽爾飛折簡。置酒招朋儕。新晴無繊翳。秋空浄瑠璃。芙蓉立其中。勢欲入座来。(中略。)我留過半載。此観得已稀。」茶山の喜想ふべきである。
十月十三日に茶山は阿部正精に扈随して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月牢晴春意早。懸知封管待和風。」これが「晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応してゐる。「熊車露冕入郊関。児女扶携挾路看。兵衛一行千騎粛。和風満地万人歓。」
文化二年には蘭軒の集に「乙丑元日」の七律がある。両聯は措いて問はない。起二句に「素琴黄巻未全貧、朝掃小斎迎早春」と云つてある。未だ全く貧ならずは正直な告白で、とにもかくにも平穏な新年を迎へ得たものと見られる。結二句には二十九歳になつた蘭軒が自己の齢を点出してゐる。「歓笑優遊期百歳、先過二十九年身」と云ふのである。
七月十五日に蘭軒は木村文河と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう。三絶句の一に、「墨水納涼人有、礫川吾輩独能来」と云つてある。墨水の俗を避け、礫川の雅に就いたのである。
茶山の事は蘭軒の懐に往来してゐたと見えて、「秋日寄懐菅先生」の七律がある。「去年深秋君未回。賞遊吾毎侍含杯。菅公祠畔随行野。羅漢寺中共上台。飛雁遙書雖易達。畳雲愁思奈難開。機中錦字若無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人に手紙の催促がしてある。
然るに蘭軒の催促するを須たず、茶山は丁度此頃手紙を書いた。即ち八月十三日の書で、前に引いた所のものが是である。「私も秋へなり、蠢々とうごき出候而状ども認候、御内上様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」此に前年を追懐した数句があつて、末にかう云つてある。「今年は水辺へ出可申心がけ候処、昨日より荊妻手足痛(病気でなければよいと申候)小児菅三狂出候而どこへもゆかれぬ様子也、うき世は困りたる物也、前書委候へば略し候、以上。」
茶山がコムプリマンを託した御内上様が飯田氏益であることは明である。「おさよどの」の事は注目に値する。二十余通の茶山の書に一としておさよどのに宜しくを忘れたのは無い。後年の書には「おさよどのに申候、(中略)御すこやかに御せわなさるべく候」とも云つてある。
さよは蘭軒の側室である。分家伊沢の家乗には、蘭軒に庶出の子女のあつたことが載せてあるのみで、側室の誰なるかは記して無い。只先霊名録の蘭軒庶子女の下に母佐藤氏と註してあるだけである。武蔵国葛飾郡小松川村の医師佐藤氏の女が既に狩谷斎の生父に嫁し、後又同家の女が蘭軒の二子柏軒の妾となる。此蘭軒の妾も亦同じ家から出たのではなからうか。其名のさよをば、わたくしは茶山の簡牘中より始て見出した。要するに側室は佐藤氏さよと云つたのである。
既に云つた如くに、茶山の蘭軒との交は、前年文化紀元よりは古さうであるが、さよを識つてゐたことも亦頗る古さうである。想ふに早く足疾ある蘭軒は介抱人がなくてはかなはなかつたのであらう。此年の如きも詩集に一病字をだに留めぬのに、茶山は病気みまひを言つてゐる。上に引いた文の前に、猶「春以来御入湯いかゞ」の句もある。後年の自記に、阿部家に願つて、「湯島天神下薬湯へ三廻罷越」と云ふことが度々ある。此入湯の習慣さへ既に此時よりあつたものと見える。介抱人がなくてはならなかつた所以であらう。
書中の手足痛に悩む「荊妻」は、茶山の継室門田氏、菅三は仲弟猶右衛門の子要助の子三郎維繩で、茶山の養嗣子である。
此年文化二年十月二十四日に、蘭軒は孝経一部を手写した。二子常三郎の生れたのは此日である。孝経の末に下の文がある。「文化乙丑小春廿四日、据毛本鈔矣、斯日巳刻児生、其外祖父飯田翁(自註、名信方、字休庵)与名曰常三郎、恬。」常三郎は後父に先つこと四十五日にして早世する、不幸なる子である。
頼家に於て山陽が謹慎を免され、門外に出ることゝなつたのは、此年五月九日である。
此年蘭軒は二十九歳、妻益は二十三歳であつた。蘭軒の二親六十二歳の信階、五十六歳の曾能も猶倶に生存してゐたのである。
文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-56-下-13]詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。
蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守頼常、成瀬因幡守正定であつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月に曲淵和泉守景露がこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本の所謂続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。
蘭軒略伝には蘭軒は榊原主計頭に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲するに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。
蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。
「文化丙寅五月十九日、長崎撫院和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公小休す。家大人ここに来て謁見せり。余小茶店にあり。頼子善送て此に到る。午後駅を出て小豆沢村にいたる。小民勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺許、根囲八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此日暑甚し。行程八里許。」
蘭軒の父信階は板橋で曲淵を待ち受けて謁見したものと見える。
頼子善、名は遷、竹里と号した。蘭軒を板橋迄見送つた。富士川さんは「子善は蘭軒の家に寓してゐたのではなからうか」と云ふ。或はさうかも知れない。此人の山陽の親戚であることは略察せられるが、其詳なることは知れてゐない。
わたくしはこれを頼家の事に明い人々に質した。木崎好尚さんは頼遷は即頼公遷であらうと云ふ。公遷号は養堂、通称は千蔵である。山陽の祖父又十郎惟清の弟伝五郎惟宣の子である。坂本箕山さんも亦、頼綱の族であらうと云ふ。綱、字は子常、号は立斎、通称は常太で、公遷の子である。
幸にしてわたくしの近隣には、山陽の二子支峰の孫久一郎さんの姻戚熊谷兼行さんが住んでゐるから、頼家に質して貰ふことにして置いたが、未だ其答に接せない。
※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-58-下-2]斎詩集には「到板橋駅作」がある。「生来未歴旅程遐。此日真堪向客誇。三百里余瓊浦道。従今不復井中蛙。」
旅行の第二日は文化三年五月二十日である。紀行に曰く。「廿日卯時に発す。二里八丁上尾駅、一里桶川駅、一里卅町鴻の巣駅。午時吹上堤を過ぐ。左は林近く田野も甚ひろからず。荒川の流遠くより来る。右は山林遠く田野至て濶く、溝渠縦横忍城樹間に隠顕して、遠黛城背に連続す。四里八丁熊谷駅。絹屋新平の家に投宿す。時正に申なり。蓮生山熊谷寺に詣り、什物を看むことを乞ふ不許。碑図末に附す。此日炎暑昨日より甚し。行程九里許。」吹上堤を過ぐの下に、「吹上堤一に熊谷堤ともいふ」と註してある。
詩集に「熊谷堤」三首がある。其一。「熊谷長堤行且休。荒川遠出鬱林流。漁歌一曲蒹葭底。只見尖不見舟。」其二。「十里青田平似筵。濃烟淡靄共蒼然。遠村尽処山城見。粉樹間断又連。」其三。「無数連山映夕陽。如浪起来如黛長。轎夫顧我揚指。西是秩峰北日光。」
第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺に詣る。二里廿九町本荘駅なり。釧雲泉を訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空く橋を架ところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正に未後。西方の秩父山にはかに陰て、暗雲蔽掩し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里許、天増陰り、墨雲弥堅迅雷驟雨ありて、廻風轎を揺せり。倉野駅に到て漸く霽る。乃日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。
集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※[#「山/頽」、7巻-59-下-6]作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」
第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊甚平坦にして、野川清浅、砂籠岸を護し長堤村を繞る。或渠流を引いて水碓を設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一木偶を案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧を被り頭を冠し手に笏を持る、顔貌も甚厳ならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社に詣る。境中狭けれども一茂林なり。茅茨の鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形蓮花のごとし。叩くときは声を発す。石理及其声金磬石なり。碓氷関を経。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑不甚。行程八里余。」
詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」
第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻屈曲して山腹岩角を行く。石塊※※[#「山/元」、U+21D67、7巻-60-下-2][#「山/元」、U+21D67、7巻-60-下-2]大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横り崖に欹つ。時已卯後、残月光曜し山気冷然として膚に透れり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗たり。乃撫院衣一ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更といふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)蕨粉餅を売る、妙なり。又上ること一里許、山少くおもむろに石も亦少し。路傍は草莽にて、巓は禿せり。北五味子(此地方言牛葡萄)砂参(鐘草)升麻(白花筆様のもの)劉寄奴(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。山中といふ所にいたる。経来し磴路崖谷みな眼下指頭にあり。東南の方ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店の老婦語れり。日本紀に倭武尊あづまを望れし事あり。此所ならん。又山を紆して上る。大仁王の社にいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前に石車輪一隻を造れり。径一尺五六寸なり。往年此村長社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。乃其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれども豆漿渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲掩翳して烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神に詣る。駒形石全く鈴杜烏石の類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。頃佐藤一斎の※[#「にんべん+至」、U+4F84、7巻-61-下-1]佐藤梅坡といふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里許。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。
詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※[#「門<環のつくり」、U+95E4、7巻-61-下-16]。」
第六日。「廿四日卯時に発し、朝霧はれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟の升る焔々たり。此川大なれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来よりの礫川と覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院に詣る。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡の社あり。此社前に小渠ありて九尺許の橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山信定寺といふ禅寺の守ところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余行て見る。)此地蚊なし。を設ず。暑亦不甚。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆所謂大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信の裔であつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。
第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬(あぢさゐ)蘭草花開たり。細辛(加茂葵)杜衡(ひきのひたひ草)多して上品なり。就中夏枯草(うつぼ草、全く漢種のごとし)萱草(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相雑りて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句覚妙。)谷おほくありて山形甚円く仮山のごとし。下諏訪春宮に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。上中下を分ている。上の湯は清灑にして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりを溜るを中といひ、又それに次を下といふ。轎夫駄児の類浴する故穢濁なり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。小湯といふあり。小瘡によし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡を患ふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれども硫黄の気強して性熱なり。一口のむときは忽瀉利す。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。青稲脚を掩ひ鬱茂せり。石川あり。急流々として湖に通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。下条兄弟迎飲す。(兄名成玉、字叔琢、号寿仙、弟名世簡、字季父、号春泰、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半許。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさは州夏枯草か。
詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪巓を覆ふ。轎夫いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里許。」
第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧深し。郊辺小沢といふ所茶店(泉屋善助)の傍に小樹籬を囲て石作士幹の墓あり。墓表隷字にて駒石石先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初て厠籌を見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半上松駅にいたる。臨川寺は駅路蕎麦店間より二丁許の坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸長三尺許装もふるし。一人物巾を頂き裘を衣たり。舟に坐して柳下に釣る。なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧浦島子の象なりといふ。全く厳子陵の図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、字季といふ木曾人の碑なり。熊耳余承裕撰するところなり。小野滝看の茶屋に小休して三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺酸棗木(小なつめ)蔓生の黄耆(やはら草)多し。民家に藜蘆(棕櫚草)を栽るもの数軒を見る。凡信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種水杵あり。岩下或は渓間に一小屋を構臼を安き長柄杵(大坂踏杵也)を設け、人のふむべき処に凹をなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、忽水こぼる。こぼれて空しければ杵頭降りて米穀※[#「てへん+舂」、U+644F、7巻-64-下-15]ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半許。」
小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家の附庸山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑政を掌つて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人の字を子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。
三村三益、名は璞、字は季、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。
臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子の釣台があると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。
紀行の此辺より下には往々欄外書がある。中には狩谷斎森枳園等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。纔に読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、西渓叢語の泉舂の類だと云ふのである。
村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。
詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経※[#「石+干」、U+77F8、7巻-66-上-2]犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。※[#「工+卩」、U+536D、7巻-66-上-4]莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群菜羹。」
第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川石岩に映山紅盛に開く。矮蟠すること栽るがごとし。和合酒を買ふ。(酒店和合屋木工右衛門と名く。)二里半三富野駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半許。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂の府関ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里許水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此嶺はなはだ険ならず、渓なく谷あり。石も少して赤埴土なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半大湫駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷なる。雨ふらず。行程八里半余。」
詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五瀬はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
第十二日。「六月朔日卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁細久手駅。此近村に一呑の清水といふあり。由縁詳ならず。然ども鬼の窟、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜を設く。行程七里許。」
第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山乃勝山なり。一山みな岩石也。斫て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石秀聳し、蟠松矯樹ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」
第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣らんとして未明撫院に先つて発せり。一貫川を経て一里六丁美江寺駅に到る。呂久川を渡り大垣堤を過るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍を経て垂井駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故不行して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵む。駅長図を披て行行委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯忠直(一白)再脩せり。此所神祖御榻の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二堆あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺の古瓦いづるといへり。江濃両国境を経一里柏原駅。一里半醒井駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里許」
空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎忠英、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方を命ぜられた。曲淵甲斐守景漸の後を襲いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-69-上-14]塚在。氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後磨針嶺望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭し故此に来湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢一時消尽せり。時に天曇り月出崎竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢といふべし。湖にあらず。余按震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁鳥居本駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里愛智川駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半武佐駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲不雨。雷なる。暑甚し。行程八里許。」
此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、斎が其誤を指してゐるから削つた。斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾としてゐる。
詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」
第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。母餅茶店に小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹の所識なりといふ。此日熱甚し。行程八里半許。」
詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼を礙せず。
第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜正あけたり。姥が懐より日の岡峠にいたる。崗高からず。揚茶店に休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝せり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓鷦鷯、名春行、号竹苞楼。)主人家に在て応対歓晤はなはだり。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右件の年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧慧萼将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣晴季公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻無ときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎藤貞幹の蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にて末云「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐味尤よし。他雑肴箸を下べからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂に行塔下を経て三年坂を上る。坂側みな窯戸なり。烟影紛※[#「褒」の「保」に代えて「馬」、U+892D、7巻-71-下-10]せり。嫗堂経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。正申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷藤杜の前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。煩喧蠅のごとし。行程九里許。」
是日に蘭軒は京に入り京を出でた。一行は敢て淹留することをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。その詳なることはわたくしの知らざる所である。
蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷斎が欄外に下の如くに書してゐる。「望之云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」
同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山に質した。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。
今出川内大臣晴季は左大臣公彦の子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国に謫せられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。
詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-73-上-3]寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」
第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。朝霧いまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。行々て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、霧霽日光あきらかに八幡の山平瀉の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅の深き処、浅瀬の船底石に摩る処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、野渡のせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町の河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、天満橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船商※[#「舟+皇」、U+824E、7巻-73-下-2]日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼蚊蠅絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」
詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」
第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆櫛比す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」
「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」
第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡り天満の天神へ詣り、巳時十※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-74-上-9]村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。隴畝の中数処に桔槹井を施て灌漑の用をなす。十※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-74-上-10]川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みな瓦屋にして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだ未ならず。西宮に到りて拝神。世人蛭児尊を称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。径一尺八寸七分許厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一掛寺僧兆殿司の画ところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。全摸写のものならん。名識印章並になし。竪幅二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香可掬。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字を榜す。此日暑甚し。行程五里許。」
詩。「已発浪華将就山陽道到十※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-74-下-15]村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千※[#「縢」の「糸」に代えて「土」、U+584D、7巻-74-下-16]青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」
第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原住吉祠に詣り海辺の田圃を経る。村中醸家おほし。木筧曲直して水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠に詣る。此日祠堂落成遷神す。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日正午なり。尻池村をすぎ平知章墓監物頼賢墓平通盛墓を看る。苅藻川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏を遷しし時の遺風なりといへり。此近村大手村、桂尾山勝福寺といふ寺に文翰詞林三巻零本ありと鷦鷯春行かたりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。上野山福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨慶の書は、双鉤填墨のものゝごとし。源空の書は東都屋代輪池蔵する選択集の筆跡に似るがごとし。敦盛の像及甲冑古色可掬。大小二笛高麗笛古色なり。寺の後山一二三谷をすぎ海浜に出て敦盛塔を看。(一説平軍戦死合墓なりといふ。)五輪石塔半埋たるなり。此海浜山上蔓荊子多し。花盛にひらく。界川に到る。是摂播二国の界なり。垂水の神祠を拝し遊女冢をすぎ千壺岡に上つて看る。烏崎舞子浜山田をすぎ五里大蔵谷駅。樽屋四郎兵衛の家に宿す。此日暑尤も甚し。此夜月明にして一点の雲なし。兼松弥次と荒木一次とを拉して人麿祠の岡に上る。路に忠度墓あり。上に一大松あり。田間の小路より上るときは大海千里如銀岡上の松間清月光を砕く。石階を下ること三四町にして数町の松堤あり。堤に上りて下れば即海辺の石砂平遠なり。都て是赤石の浦といふ。石上に坐するに都て土塵なし。波濤来りて人を追がごとし。海面一仮山のごときものは淡路島なり。夜帆往来して島陰より出るものは微火揺々たり。島前をすぐるは掌中に見るがごとし。数十日炎暑旅情風月に奪ひ去らる。夜半に及で帰る。行程十里許。」
此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今須磨舞子赤石の五律各一を録する。「須磨浦。石磯迂曲路。行避怒濤涵。嶺続東西北。谷分一二三。古書尋寺看。往事向僧談。恃険知非策。平軍遂不戡。舞子浜。数里千松翠。奇枝歴幾年。雨過藍島霽。濤洗雪砂旋。網張斜日。飛帆没遠天。不妨村酒苦。一酌即醺然。宿大蔵谷駅溽暑至夜猶甚納涼海磯乃赤石浦也。駅廬炎暑甚。乗月到長湾。銀界明天末。竜鱗動浪間。連檣遮漢影。一島犯星班。涼歩多舟子。斉歌欸乃還。」
第二十三日は文化三年六月十二日である。「十二日卯時に発す。赤石総門を出て赤石川を渡り皇子村を経て一里半大久保駅、三里半加古川駅にいたる。一商家に小休す。駅吏中谷三助(名清字惟寅、号詠帰、頼春水の門人なり)来訪、頼杏坪の書を達す。此駅魚味美なり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡り阿弥陀宿村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て三里御著駅に至り一里姫路城下本町表屋九兵衛の家に宿す。庭中より城楼直起するがごとし。人喧器用甚備。町数八十ありといふ。此日暑甚し。夜微風あり。行程九里許。」所謂魚はリノプラグシアであらうか。
第二十四日。「十三日早朝発す。斑鳩に到て休。斑鳩寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城屋六兵衛の家に休。日正午也。鶴亀村をすぎ宇根川を渡り二里宇根駅、紙屋林蔵の家に宿す。此日暑甚からず。行程六里許。」
第二十五日。「十四日卯時に発す。大山峠を経て三里三石駅。中屋弥二郎兵衛の家に休す。是より備前なり。二里片上駅。京屋庄右衛門の家に宿し、夜兼松弥次助と海浜蛭子祠に納涼す。此地山廻て海入る。而山みな草卉にして木なし。形円にして複重す。山際をすぎて洋に出れば三里ありといふ。真の入り海なり。都てこれ仮山水のごとし。延袤二里許あり。土人小舟にて竜鬚菜をとるもの多し。又海船の来り泊するあり。忽舟に乗じて来るものあり。歌謡東都様なり。之をみれば山村九右衛門樋口小兵衛なり。因て四人同舟して山腹の日国寺に詣る。寺北斗を祭てす。燈火昼のごとし。村人群来す。雑喧不堪また舟にのぼり逍遙漕してかへる。時正に二更後なり。此日苦熱不可忍。この納涼に因て除掃す。行程五里許。」
詩。「宿片上駅買舟納涼。藻※[#「くさかんむり/俎」、U+8445、7巻-77-下-2]魚羮侑杜。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」
第二十六日。「十五日卯時発す。長舟村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部也、片上の少し西也、それより香登それより長船吉井川也」と註してある。
第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨灑来数日にして乾渇を愈がごとし。未後にいたりて霽る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮の神符を貼す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。
第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那郡に属す。(古昔穴国穴済穴海和武尊悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。橋を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて示嶺にいたる。(一に坊寺といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝鞆までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人名藉字は元助嘉樹堂といふ。好学て雅致なり。品坐劇談暁にいたりて二人に別る。此日甚暑にあらず。行程九里許。」
此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森枳園の手に出でたものらしい。
穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。
蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原の名秋円山である。道之上城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
茶山が当時の身分は、前に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
蘭軒を待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室門田氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門汝の子要助、名は万年、字は公寿である。汝のは司馬相如の賦に南予章とあつて、南国香木の名である。
酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵であらう。岩野は与三右衛門であらう。
茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋元助方の徹宵の宴飲である。
尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵を接したものである。
※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-81-下-9]詩集に神辺で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関は即ち示嶺であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」
蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半許。」
貞世の道ゆきぶり、厳島詣の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野篁の郷なり。辰後一里半田万里市。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来轎前に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年災にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵なりといふ。此日暑甚し。晩間霎雨あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂おほし。(海金砂方言三線葛。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半海田駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連。万里蒼波一鬨烟家みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次る。市に入て猿猴橋京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側なり。)春水在家て歓晤。男子賛亦助談。子賛名襄、俗称久太郎なり。次子竹原へ行て不遇。談笑夜半にすぐ。月升てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。
所謂松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子侍読として屡江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守斉賢である。備後守重晟が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭を以て終つたのである。
山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延いて待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-85-上-6]詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風杏坪の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰か先孰か後なるを詳にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
しかしこれは蘭軒と頼氏長仲季との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審にすることが出来ない。
松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒に紀行の此段を読んで、又微しく伊沢氏が曾て山陽を舎したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈け得るのである。
且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
蘭軒が春水を訪うた日に、偶竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎元鼎である。
蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中潮斥の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風截瘧の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲盤回して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実といふ者天神七代を此山に祀。年歴久して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上て酒肴を喫。勝景、源貞世、近来水府長赤水説こと甚詳なり。已未後。船に乗じて海上一里久波駅。醸家沢本屋吉兵衛の家に次る。主人池田瑞仙と知己なりといふ。駅長の園臥竜松長延十三四間なるあり。此日暑甚し。夜海中の塩火を見る。行程六里許。」
宮島の事は蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名の下に歌がある。「島守にいざこととはむ誰がためになにのあたとと名にしおひけむ。」
長赤水は長久保氏、名は玄珠、字は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島の市、三月二十四日下の関阿弥陀寺の市、八月十五日豊後浜の市である。「中にも此宮島第一なりとぞ」と云つてある。又童謡が載せてある。「安藝の宮島めぐれば七里浦が七浦七えびす。」七浦は杉野、腰細、青海苔、山白、洲屋、御床、網である。七えびすは昔佐伯部の祀つた神ださうである。
池田瑞仙は初代錦橋であらう。此年七十二歳であつた。
詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波浸。尖塔危楼翠樹連。華表一※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-87-下-12]離岸立。燈籠百八繞簷懸。治承姦相修斯宇。土俗于今却説賢。又。厳島延回七里強。浦居蜑戸市居商。豈知波浪無辺地。別有人烟如此郷。鹿馴童眠石岸。吟猿送客下松岡。昔年帝裂蓬莱半。封得霊姫鎮一方。」
第三十三日。「廿二日卯時発。駅を出る所昔の黒河なり。一山路をさけて潮斥の処を行く。漁家両三軒ありて山下海岸に倚る。海面朝靄蒼茫として宮島あたたしま壁島隠見す。小瀬川を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。書して云。「自小瀬至赤間三十六里」と。此国毎里に程を記することかくのごとし。関戸の山路に入り三里関戸駅。(山中の村なり。)中屋重五郎の家に休す。一山をすぐれば多田といふ所あり。少く坦道を経て御庄川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路にいる。渓谷相分れて坂梯甚嶮なり。すべて雑樹なし。老松多して鬱葱たり。谷間の道甚長し。土人一に馬鹿谷といふ。城主より撫院迎接の為に山上に茶亭を作る。皆松枝青葉を束て樊籬屋店を作る。欽明寺坂を下りて四里久賀本郷駅なり。駅の南に嵯峨として聳たる嶺見ゆ。夫木集中に詠ずる冰室ならんか。土人冰室が嶽といふ。(夫木集に、周防氷室池詠人不知、こほりにし氷室の山を冬ながらこちふく風に解きやしぬらむ。)半里高森駅。愛宕屋与三郎の家に宿す。此日午後驟雨微涼。晩間暑はなはだし。夜尤甚し。行程七里半許。」
黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌が三首ある。「とまるべき宿だになきを駒なづむいはくに山にけふやくらさむ。たちかへり見る世もあらば人ならぬ岩国山を我友にせむ。たらちねのおやにつげばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。
第三十四日は文化三年六月二十三日である。「廿三日卯時発す。二里今市駅。呼坂を経るに人家街衢をなす。撫院河内屋藤右衛門といふものの家に小休す。薬舗なり。蔵書数千巻を曝す。主人他に行故をもつて閲することを不許。呼坂は蓋し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋和兵衛の家に休す。主人手みづから比目魚を裁切して蓼葉酢に浸し食せしむ。味最妙なり。山路を経るに田畝望尽て海漸く見る。廿五町久米駅。廿四町遠石駅なり。右の岡上八幡の祠あり。又市中影向石といふものあり。大石なり。上に馬蹄痕あり。土人の説に古昔宇佐八幡の神飛び来て此石上にとゞまるなりといへり。貞世紀行には此石海中にある文見ゆ。桑田碧海の歎おもふべし。人家の所尽て松原なり。青田瀰望また列松数千株めぐれり。松外は大海雲晴遠島飛帆その間に隠見す。半里野上駅。すなはち徳山城下なり。鶴屋新四郎の家に小休す。城此をはなるゝこと十町許なり。浅井金蔵谷祐八(金蔵字子文祐八字子哲徳山の臣なり)のことを物色するに、みな安寧なりといへり。海面に佐島大山島を望。一里十二町富田駅にいたる。駅は山の半腹なり。山東南に面して海中に出るがごとし。海面は遠山延繚して中断し水天一色なり。海に傍ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。やち川を渡り十九町福川駅。米屋七五郎の家に宿す。此駅より海面に島々見ゆる中に、せん島黒髪山島尤大なり。此日暑甚しけれども風あり。此日立秋なり。行程八里廿四町許。」
貞世の道ゆきぶりを引くもの凡そ三箇所である。呼坂、遠石、富田が是である。呼坂は貞世が海老坂と書いてゐる。遠石の馬蹄を印した石は、貞世が過ぎた時まだ「浜の汐干のかた遙なる沖に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。
詩。「宿福川駅、此日立秋。涼水国早知秋。聒耳驚濤鳴枕頭。櫓響暗帰漁浦岸。燈光未寐酒家楼。短宵強半眠難熟。遠旅多般疾是憂。我已倦兮僕其※[#「やまいだれ+甫」、U+75E1、7巻-90-上-3]。経過十有二三州。」旅疲が詩の後半に見えてゐる。「疾是憂」とは云つても、猶幸に疾むには至らなかつたらしい。
第三十五日。「廿四日卯時発。一里矢地駅。一里半富海(一名戸の海)駅なり。駅尽山路にかかる。浮野嶢といふ。すべる所、望む所、貞世紀行尽せり。山陽道中第一の勝景と覚ゆ。一里浮野駅。一里宮市駅。三倉屋甚兵衛の家に休す。佐南嶢といふ所をすぐ。山海園村の勝尤よし。富海山道に比するに路短しとす。金坂峠岩淵大とう村末村をへて四里半小郡駅。麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。荷葉傘のごとく花は径八九寸許。白花多して玉のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。」
浮野峠の下に又貞世の道ゆき振が引いてある。橘坂桑の山の歌各一首がある。「あら磯のみちよりもなほ足曳のやま立花の坂ぞくるしき。花すゝきますほの糸をみだすかな賤がかふこの桑の山風。」欄外に森枳園の筆と覚しき書入がある。「此あたりに佳境ありてむかしより詩歌にも人口にもあらはれざりしを、近比江戸人見出して絶景なりとし、はるかに大田南畝などに詩をつくらしむ。それより土人もしりて詩を諸方に乞ふ。此に引ところを見れば近世すでに賞せられしと見えたり。あるひは別に一嶺の佳処ありや。」此に引くところとは道ゆきぶりの語を謂ふのである。
詩。「富海途中。天容海色望悠々。浮碧一桁豊後州。曲岸吾過東畔去。前人已在水西頭。小郡駅逆旅、池蓮盛開、花葉頗大、都下所未見、応主人需賦。芙※[#「くさかんむり/渠」、U+8556、7巻-90-下-14]清沼遍。香気帯秋寒。葉是青羅傘。花為白玉盤。飜風声策々。経雨露溥々。剰有新肥藕。採来供晩餐。」
第三十六日は文化三年六月二十五日である。「廿五日卯時発す。山路を経るに周防長門国界の碑あり。二里半山中駅なり。二又川を渡り二里半舟木駅。櫛屋太助の家に休す。売櫛家多し。土人説に上古此地に大なる樟木あり。神功皇后の三韓を征する時艨艟四十八艘を一木にて造れり。因て船木と名く。其枝の延し所を涼木といひ(船木より四里)木末の倒し所を木の末といふ。(船木より六里。)此近地より出る石炭は古樟の木片なるべし。木の末今は清末とあやまるといふ。船木川を渡り、くしめ坂を越え一里半浅市駅。福田より蓮台にいたる間美田長し。朝野弥太郎の千町田といふ。一里廿八町吉田駅。山城屋重兵衛の家に宿。此日暑不甚。行程八里許。」船木の伝説は諸書に見えてゐる。宗祇の道の記にもある。
第三十七日。「廿六日卯時発す。豊浦を経(豊浦は長府に神功皇后の廟ある故蓋名くる也)海辺の松原をすぎ一里卯月駅なり。榎松原をすぐれば海上に干珠満珠島見ゆ。一里半長府。松屋養助の家に休す。蓮藕を食せしむ。味尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰を祀り右に甲良玉垂神を祀る。小祠甚多し。西に面し海を望て建つ。側に大樹松。囲三人抱余なり。皇后征韓の時手栽て、もし凱陣ならば蒼栄すべし、しからずんば枯亡せよといへり。その松なりと土人の説なり。貞世の説と異なり。舞台もあり。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好のよし語れり。今目のあたり見ることを得たり。)此宮は長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆造作の古宮なりといへり。竜宮より奉る鐘ありといへり。又神功寺(真言宗)といふ寺二の宮の鳥居の側にあり。是亦義隆創立なりしが旧年火ありて今は一小寺なり。前田といへる山崖の海浜をすぐ。松樹万株連りて雑樹なし。図後に附す。壇の浦に至る。豊前の山々一眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝の木像を立。十年已前までは素質なるを近年彩色を加ふといふ。左右の障子に二位女公内侍より以下平戚の像を画く。古法眼元信の筆蹟なり。又廟廡金紙壁に平氏西敗の図あり。土佐光信の筆蹟なり。後山に入水平戚の塔あり。此寺古昔大内義隆の所造なり。しかるを近年修補せり。寺を出て亀山八幡に詣る。一小岡にして海に臨涼風灑がごとし。土人の説に聖武帝の貞観元年に宇佐より此地に移し祀といへり。是亦大内義隆の所造なり。舞台上より望ときは小倉内裏より長府の洋面に至まで一矚の中にあり。遂に二里下の関川崎屋久助の家に宿。地形は貞世の紀行尽せり。大坂より已来尾の道大輻湊の地なれども赤馬関は勝ること万々ならん。此日暑甚しからず。行程五里許。」
神功皇后廟と馬関との下に又貞世の道ゆきぶりが引いてある。皇后手栽の松を記する本文に接して、「貞世の説と異なり」と云つてあるが、道ゆきぶりには松の事は言つて無い。貞世の文中皇后征韓の事に関するものは下の如くである。「壇のうらといふ事は皇后のひとの国うち給ひし御とき祈のために壇をたてさせ給ひたりけるよりかく名けけるとかや申也。其時の壇の石にて侍るとて御社の前のみちの辺にしめ引まはしたる石あり。此御社はあなと豊浦の都の大内の跡にて侍とかや。」馬関の条は貞世の文が長いから、此に省く。大要はかうである。昔馬関と門司が関との間には山があつて、其山に「潮の満干の道ばかり」の穴があつた。皇后が艤せさせ給うた後、一夜の程に山が裂けて速鞆のせととなつたと云ふのである。此伝説と穴門の語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
詩。「赤馬関。瀕海商船会。既庶而且豊。寺存安徳廟。山古応神宮。蟹甲成奇鬼。硯材如紫銅。数家娼妓在。漫学浪華風。」
第三十八日は文化三年六月二十七日である。「廿七日暁より雨大に降る。風亦甚し。因てなほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。乃子亮蟹譜に載する蟹殻如人面きものありと称するものなり。午後風収雨霽。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。柁工三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟より上て公事あり。畢来て船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲に膠して甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとく後島はみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨遽来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉の三門に著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。黄檗福巌鉄文といふ元禄年中の僧の書なり。遒勁運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里許。」
註に所謂黄帝の曲が載せてある。貨狄と云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初に三叉、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。
詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-94-上-5]洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」※洲[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-94-上-7]は干珠満珠の二島である。
第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁木屋の瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない。
第四十日。「廿九日卯時発す。能方川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山垣墻のごとく東南に突兀たる山あり。香春山といふ。(春はらと訓又同国に原田といふ所あり、原をはると訓す、ゆゑ未詳。)一山みな黄楊のみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山元貞の家に宿。此日涼し。行程八里許。」
詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村驚客去隣家。」
第四十一日は文化三年七月朔である。「七月朔日四更に発す。冷水峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫のを石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。顧望に木曾の碓冰にも劣らぬ山形なり。六里山家駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻して蛭子神を造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川に傍て行く。右の方に巍然たるものは法満山なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名竈山といふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山の際の狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、浮堂、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日安行僧都に勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川隆景筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(信恬按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多画瓢坊の説に、明応七年兵燹にかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にも焚しこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。雁鴨※[#「勅+鳥」、U+9D92、7巻-95-下-7]群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。双竪幅。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩は杜子美の詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。賈至の詩を山谷集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にして遵勁瀟灑たる行書なり。又小楷普門品毎行十七字にして字大五分許楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏竹秉炬を持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里許。」
竈山の条に清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山に竈門山宝重寺と云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲を千里のけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」
染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばかりも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」
菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなる仮殿なりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」
飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」
詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉。」
第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里轟駅。一里半中原駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里堺原駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内に高麗烏あり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一に徒烏と名づく。此辺往々ありといへり。形状全く喜鵲と覚。一里半佐賀城下。古河新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分許横五六分。味烏賊魚に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の鵲たること蘭軒の説の如くなるを知つた。
第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南に多羅嶽、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山等四面に崔嵬繚繞して雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大の樟木あり。活木なり。就て馬頭観音を彫刻せり。半幹也。堂を構て梢葉その上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にして味淡し。脚気、疝気を愈といへり。三里(五十丁一里)嬉野駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」
詩。「嬉野。輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」
第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村のに十囲許樟木あり。中空朽の処六七畳席を布くべし。九州地方大樟尤多しといへども此ごときは未見。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里薗木駅(一に彼杵と書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。鏑木雲潭(名祥胤、字三吉、河西野の次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤及暁てかへる。此日暑甚し。行程八里許。」
欄外に森枳園の樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人囲を第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。
鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。
河西野は市河寛斎で、其長子が米庵三亥、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名は世胤、字は君冑である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介純昌である。
詩。「大村駅舎逢鏑雲潭。松原連古駅。残日照汀洲。忽値同郷客。却添思国愁。図成真海嶽。趣合旧風流。何把東都酒。共談此遠遊。」
第四十五日は文化三年七月五日である。「五日卯時発す。三里諫早。四里矢上駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入り席に上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」
欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺駅に宿す。四十許の婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でて枳園に命じて記せしめたものか。
蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里日見峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じて迎もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里許。」
長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、岩原郷立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵は此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。
長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢信恬朱文は字澹父で、澹は水に従ふ字を用ゐてある。
詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営、清商館、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。
此より以下客崎詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。
八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、少い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。
十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」
十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」駿卿は木村定良で前にも見えてゐる。担人は未だ考へない。
九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母曾能が二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。
蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。
十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日は詳にすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」士整の下に「名融思、号鳳嶺、観画吏、善詩画」と註し、又観画吏の傍に唐画目利と朱書してある。
鳳嶺の事は田能村竹田の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、U+9D97、7巻-102-上-1]簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
画録に載する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本小原氏、京都より長崎に徙つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録には慶山の子は勘八、其裔は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長の菊の詩に次韻した。正長、字は補仁、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
十月三日に蘭軒は文筆峰に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂家附の女である。年は五十七歳であつた。法諡を快楽院是参貞如大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡すに意があつたのではなからうか。
曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢、安佐の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉かつたことは知られるが、蘭軒と孰か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。
文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見堂を接待した時の詩の註に見えてゐる。
此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-103-下-12]詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之さんに質し、始て諸国に同名の黌舎があつたことを知つた。
長崎の明倫堂は素立山にあつたが、正徳元年中島鋳銭座址に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修することになつてゐた。
蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見堂に訪はれた作との間に介まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富、字大賚」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
向井元仲は霊蘭の裔である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女千子が俳諧を善くしたと云ふのは此人か。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸軒南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下に「先生名文熈、字季績、於音韻学尤精究、釈文雄以来一人也」と註してある。
竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。
此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事を做したか、わたくしはこれを詳にすることが出来ない。※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-105-下-13]詩集を検するに、その交つた人々には徳見堂があり、劉夢沢があり、長川某がある。又春風頼惟疆の来り訪ふに会した。清人にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴がある。次に程赤城があり、胡兆新があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田道夫さんの話には江芸閣も亦蘭軒と交つたさうである。
徳見堂、名は昌である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙旧自識劉郎」の句がある。
長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上に見えた長川正長と同人か異人かを詳にしない。
張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢も或は清客か。
程霞生赤城、一字は相塘である。屡長崎に来去して国語を解し諺文を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人秦星池は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
江稼圃、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水惟完を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔を江戸に見たのである。
蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父信階が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃併せ喪つたのである。
信階の肖像は阿部家の画師村片相覧の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広いの隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片は古と号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵の荏薇贈答に見えてゐる。
わたくしは此に上に云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々は下の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒の乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼四時前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。
此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来駢群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間許を踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、穉い榛軒が泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒の棠助が四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。
蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。
※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-109-下-10]詩集には客崎詩稿の次に、森枳園の手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしは姑く右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。
蘭軒は八九月の交に病んで、次で病の痊ゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。
季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」
源士明は植村氏、名は貞皎、通称は彦一、江戸の人である。駿卿は木村定良、子善は頼遷で、並に前に出てゐる。
蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或俚諺の来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中香々といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家聚訟の資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠の南留倍志系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此源委の一線上に占位すべき著述である。
頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。
文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」
三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集に載する二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相距ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であらう。敷地は借地であつた。「借地開園方十歩」の句がこれを証する。家は前より広くなつたが、随つて相応に費用もかかつた。「今歳掃空強半禄、書斎薬室得微寛」の句がこれを証する。
此年文化五年の夏蘭軒は墨田川に納涼舟を泛べた。「夏日墨水舟中。抽身忙裏恰逢晴。潮満長江舟脚軽。西土帰来猶健在。復尋鴎鷺旧時盟。又。回風小艇自横斜。夏月遊宜在水涯。蘆岸柳堤行欲尽。一村開遍合歓花。」自註に云く。「余在西崎二年。帰後已一年。此日始来此地。顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後の秋の詩があるのを見て知られる。今「在西崎二年」と云つてあるのは、所謂足掛の算法である。又「帰後已一年」と云つてあるのも、十二箇月に満ちた一年とは看做されない。したがつて切角の自註が考拠上に大なる用をばなさぬのである。只前に狩谷斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。
夏の詩の後、秋の詩の前に、植村貞皎の大坂に之くを送る詩がある。「源士明将之浪華、臨別詩以為贈。瀕海浪華卑湿郷。為君将道避痾方。酒宜微飲魚無飽。食飼案頭不撤姜。」医家の手に成つた摂生の詩である。
秋に詩が四首ある。「秋晴」の五律の自註を見るに、此秋は雨のために酒の舟が入らなかつた。「今歳夏秋之際、霖雨数月、酒舸不漕港、以故都下酒価頗貴」と云ふのである。武江年表を検するに、閏六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。
「秋園詠所見」の詩の中に藤袴の一絶がある。「蘭草。世上栽蘭各自誇。蜂英菖葉映窓紗。要知楚真香物。請看簇生浅紫花。」蘭軒は後文政四年に長子榛軒と倶に再び蘭草を詠じた。「蘭花。元是清高楚芳。細花尖葉露々。奈何幽致黄山谷。不賞真香賞贋香。」此詩の下に自註がある。「世以幽蘭。誤為真蘭。西土已然。真蘭俗名布知波加末者是也。白楽天詩。蘭衰花始白。孟蜀韓保昇云。生下湿地。葉似沢蘭。尖長有岐。花紅白色而香。即是合所謂布知波加末者。而山谷云。一幹一花為蘭。是今所謂幽蘭也。世人襲誤。真蘭遂晦。但朱子楚辞辨証云。古之香草。必花葉倶香。而燥湿不変。故可刈佩。今之蘭。但花香。而葉乃無気。質弱易萎。不可刈佩。必非古人所指。陳間斎亦云。今人所種如麦門冬者。名幽蘭。非真蘭也。朱陳二説。可謂為真蘭禦侮矣。今余詩聊寓復古之意云。」蘭軒と同じく此復古を謀つたものには狩谷斎がある。「楚辞にいふらには今云ふ藤ばかま今いふ蘭は何といふらむ」の三十一字は、その嘗て人に答へた作である。しかし此の如く古の蘭草のために冤を洗ふことは、蘭軒斎等に始まつたのでは無い。単にわたくしの記憶する所を以てしても、貝原益軒の如きは夙く蘭の藤袴なることを言つてゐた。
蘭軒は道号に蘭等の字を用ゐたので、特に蘭草のために多く詞を費すことを厭はなかつたのである。村片相覧の作つた蘭軒の画像には、背後の磁瓶にふぢばかまの花が插してある。村片は信階信恬二世の像を作つた。蘭軒の像の事は重て後に言ふこととする。
わたくしは※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-113-上-2]詩集に阿部侯棕軒の評語批圏のあることを言つたが、侯の閲を経た迹は此年の秋の詩に至るまで追尋することが出来る。是より以下には菅茶山の評点が多い。
冬の詩は五首ある、十月には蘭軒が病に臥してゐた。「病中雑詠。空負看楓約。抱痾過小春。酒罌誰発蓋。薬鼎自吹薪。業是兼旬廃。家方一段貧。南窓炙背坐。独有野禽親。」業を廃しを失つたと云ふを見れば、病は稍重かつたであらう。
蘭軒の病は十一月後にえてゐた。冬の詩の中には「雪中探梅」の作もある。
此年蘭軒の家庭は主人三十二歳、妻益二十六歳、嫡子棠助五歳、次子常三郎四歳の四人から成つてゐた。
文化六年の春の初には、前年の暮に又病んでゐた蘭軒が回復したらしい。「早春登楼」の詩に「蘇暄身漸健、楼上試攀躋」と云つてある。蘭軒は此の如く忽ち病み忽ちゆるを常としてゐたが、その病める間も大抵学業を廃せず往々公事をも執行してゐた。次年以下の勤向覚書を検すれば、此間の消息を知ることが出来る。
二三月の交であらう。蘭軒の外舅飯田休庵が七十の賀をした。「歌詠学成仙府調、薬丹伝得杏林方」は蘭軒が贈つた詩の頷聯である。わたくしは休庵が事迹の徴すべきものがあるために、故に此二句を録する。歌詠の句の下に蘭軒は「翁嘗学国歌于亜相冷泉公」と註してゐる。休庵信方の師は恐くは冷泉為泰であらう。祝髪後等覚と云つた人である。
三月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。「三月十三日草堂小集」の七律がある。「会者七人。犬塚印南、頼杏坪、石田梧堂、鈴木暘谷、諸葛某、木村文河、頼竹里也。」
印南、杏坪、文河、竹里は既に上に見えてゐる。文河は定良、竹里は遷である。
石田梧堂、名は道、字は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道」の七律、丁丑の詩に「次梧堂見寄詩韻兼呈混外上人」の七絶、庚辰の詩に「題石子道蔵松島図」の七古がある。家は不忍池の畔にあつたらしい。
鈴木暘谷は名は文、字は良知と註してある。皇国名医伝には名は素行と云つてある。博学の人で、殊に本草に精しかつた。読書のために目疾を獲たと伝へられてゐる。
諸葛某は或は琴台ではなからうか。手近にある二三の書を検するに、琴台の歿年は文化四年、七年、十年等と記してある。七年を正とすべきが如くである。果して然りとすると、此筵に列する後一年にして終つたのである。
此春蘭軒が柴山謙斎の家の詩会にんで作つた詩がある。謙斎は其人を詳にしない。蘭軒の交る所に前に柴担人がある。人物の同異未詳である。
夏の初と覚しき頃、蘭軒は又家を移した。しかし此わたましの事も亦伊沢分家の口碑には伝はつてゐない。「移家湖上。択勝構成湖上家。雨奇晴好向人誇。緑田々是新荷葉。白々為嫩柳花。烟艇載歌帰遠浦。暮禽連影落平沙。童孫采得※[#「くさかんむり/純」、U+8493、7巻-114-下-10]糸滑。菜品盤中一雋加。」時は蓮葉の開いて水面に浮び初むる比、所は其蓮の生ずる湖の辺である。或は此家は所謂「湯島天神下薬湯」の家かとも疑はれる。しかし蘭軒の語に分明に「移家」と云ひ、「構成湖上家」と云ふを見れば、どうも薬湯の家とは認め難い。わたくしは姑く蘭軒が一時不忍の池の辺に移住したものと看做して置きたい。但蘭軒は久しく此に居らずに、又本郷に還つたらしい。
五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府先手与力の隠居であつた。先妻紀平洲の女は夫に先つて歿し、跡には継室麻田氏が遺つた。紀氏は一男一女を生んで、男は夭し、麻田氏は子がなかつた。
豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人樺島石梁がこれに銘し、阿部侯椶軒が其面に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做されてゐる。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華を供したものはわたくし一人ださうである。
樺島石梁、名は公礼、字は世儀、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署してゐる。
此夏、文化六年の夏、蘭軒は石坂白卿と石田士道との家に会して詩を賦した。士道は上に見えた梧堂であるが、白卿は未だ考へない。梧堂の居る所は小西湖亭と名づけ、蘭軒の詩にも「門蹊欲転小天台、窓歛湖光三面開」と云つてあるから、不忍池の上であつただらう。若し蘭軒の新に移り来つた湖上の家が同じく不忍池の畔であつたなら、両家は相距ること遠くなかつたかも知れない。蘭軒が詩の一には「酔歩重来君許否、観蓮時節趁馨香」の句もある。梧堂は恐くは蘭軒と同嗜の人であつただらう。わたくしは「箇裏何唯佳景富、茶香酒美貯書堆」と云ふより此の如く推するのである。
茶山の集には此秋に成つた「寄蘭軒」と題した作がある。「一輪明月万家楼。此夜誰辺作半秋。茗水茶山二千里。無人相看説曾遊。」
秋冬の蘭軒が詩には立伝の資料に供すべきものが絶て無い。しかし次年二月に筆を起してある勤向覚書に徴するに、蘭軒は此年十二月下旬より痼疾の足痛を患へて、医師谷村玄の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守泰済の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が名義上の主治医として願届に書した人名に過ぎぬかも知れない。
頼菅二家に於て、山陽に神辺の塾を襲がせようとする計画が、漸く萌し漸く熟したのは、此年の秋以来の事である。頼氏の願書が浅野家に呈せられたのが十二月八日、浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉村。」
此年蘭軒は年三十三、妻益は二十七、嫡子榛軒信厚は六つ、次子常三郎は五つであつた。
文化七年は蘭軒がために詩の収穫の乏しかつた年である。集に僅に七絶三首が載せてあつて、其二は春、其一は夏である。皆考拠に資するには物足らぬ作である。これに反して所謂勤向覚書が此年の二月に起藁せられてゐて、蘭軒の公生涯を知るべきギイドとなる。
正月十日に蘭軒の三男柏軒が生れた。母は嫡室飯田氏益である。小字は鉄三郎と云つた。
二月七日に蘭軒は湯島天神下薬湯へ湯治に往つた。「私儀去十二月下旬より足痛相煩引込罷在候而、加藤遠江守様御医師谷村玄薬服用仕、段々快方には候得共、未聢と不仕、此上薬湯え罷越候はゞ可然旨玄申聞候、依之月代仕、湯島天神下薬湯え三廻り罷越申度段奉願上候所、即刻願之通山岡衛士殿被仰渡候。」これが二月七日附の文書である。
蘭軒は二十三日に至つて病愈え事を視ることを得た。「私儀足痛全快仕候に付、薬湯中には御座候得共、明廿三日より出勤仕候段御達申上候。」これが二十二日附である。下に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時達と云つたものと見える。
夏は蘭軒が健に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此簡牘は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。
茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里定而又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介蠣崎君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋如何。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾にもや候覧。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候塙書之事大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻宛四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介も同様也。久しく逢不申候。福山辺長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年漸起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-118-下-3]也。為人は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※弟[#「敝/犬」、U+7358、7巻-118-下-10]が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此比の事ゆゑ書候。」
以上が長さ三尺許の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為にあらざるを信ずる。
最初に茶山は地の相距ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。
庚午旺秋の茶山の尺牘には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
其一は木王園主人である。上に云つた犬塚印南で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳にしてゐて、一陪字を下してゐる。頃日市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
釈雲室の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭関松の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸は松を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井雅楽頭忠以浪人結城唯助として入塾した。これが田沼主殿頭意知執政の間の聖堂である。松は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野栗山、岡田寒泉が擢用せられ、松は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂蕉隠公子で、これが林家九世述斎乗衡となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守高矗が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
安原三吾と鈴木作右衛門とは稍晦い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原希曾、安原省叔及上に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木徳輔は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田道、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
其三は蠣崎氏で、所謂源波響である。此年四十一歳であつた。
其四の津軽屋は狩谷斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
其六の塙は保己一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
其七の徳見茂四郎は或は堂若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域二箇所を歴訪したが、名字号等を彫らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶堂の諱を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
其八の「あぶらや本介」は即ち油元助である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
茶山の書牘は此より山陽の噂に入るのである。
菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾附属」と云ひ、春水が浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時數茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須ゐない。此書は既に提供せられた許多の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-123-下-6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情愈深くして、其疵病に慊ぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山の言を聴くが如き念を作さしむるのである。
わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ち※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-124-上-3]詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。
然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。
是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、略決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。
わたくしは姑く下の如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」
菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
其十四として茶山の言は所謂「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟恥庵晋宝信卿、通称は圭二である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣は陳風墓門の章からそつくり取つた句である。爾雅に「誰昔昔也」と云つてある。
黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
狩谷氏では此年文化七年に斎の女俊が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此女の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。
多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中柳は宗家を継ぎ、庭は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此庭である。
此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子榛軒棠助、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐の業を続けてゐる。
此年には※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-125-下-15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江允と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
混外、名は宥欣、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。
頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨の語多きは怪むことを須ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」
わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。賜第は壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。
此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。
文化九年は蘭軒がために何か例に違つた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-127-上-13]詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。
わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしは姑く未解決のままに此疑問を保留して置く。
正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。頃日聞く所に拠れば、夭折した長女は天津で、次が此女であつたさうである。
勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」
五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文は下の如くである。「五月九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。
秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒の外舅である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国薦野の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。
休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貴の侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くは為泰入道等覚の門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語に下の如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」
頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、※[#「月+無」、U+81B4、7巻-128-下-2]養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。
此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。
文化十年には蘭軒が正月に頭風を患へたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。
しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜が楮表に溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。
経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。
二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつたと見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」月代はしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。
然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。
余語氏は世古庵の号を襲いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
犬冢吉人は印南か、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、老樗軒の墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更に説文をも出して見た。説文に樗は「从木声、読若華」、※[#「木+罅のつくり」、U+3BC9、U+3BC9、7巻-130-上-2]は「从木声」と云つてある。字典は樗の下に集韻を引いて「又作※[#「木+罅のつくり」、U+3BC9、7巻-130-上-3]、丑居切」と云ひ、※[#「木+罅のつくり」、U+3BC9、U+3BC9、7巻-130-上-3]の下には只「同樗」と云つてゐる。文字を知つた人の教を受けたい。
覚書と詩集とには此の如き牴牾があるが、蘭軒が病なくして病と称したのでないことは明である。集に「病中偶成」の五律がある。「時節頃来好。抱痾倦日長。晴山鳩穀々。春社鼓々。盃酒将忘味。薬湯頻換方。花期看自過。昏夢繞池塘。」茶山は「医人之病、往々如此、詩則妙」と評してゐる。
春の詩の後に白氏文集の善本を獲た時の作がある。「余蔵白氏集活字版本、旧年売却、頃書肆英平吉携来一本、即旧架物也、購得記喜。物帰所好不関貧。得失従来如有神。富子蔵書都記印。奇書自属愛書人。」経籍訪古志に、「白氏文集七十一巻、元和戊午那波道円活字刊本」と云つてあるのは是か。訪吉志は「戊午」を「戊半」と誤つてゐるが、後文に「戊午七月」と云つてある。此にも酌源堂蔵とは註して無い。
わたくしは前の戦国策と云ひ、此白氏文集と云ひ、伊沢氏酌源堂の蔵※[#「去/廾」、U+5F06、7巻-130-下-5]と覚しきものが、皆其所在の記註を闕いでゐるのを見て、心これを怪まざることを得ない。和田万吉さんは「集書家伊沢蘭軒翁略伝」にかう云つてゐる。「経籍訪古志本文中酌源堂の蔵儲を採録せるは僅に六七種に過ぎず、之を求古楼、崇蘭館、宝素堂等の所蔵に比べて、珍本良書の数量上に著き遜色あるが如く見ゆるは怪むべし」と云つてゐる。惟ふにわたくしの彼疑が釈けたら、随つて和田さんの此疑も釈けるのではなからうか。多く古書の聚散遷移の迹を識つてゐる人の教を乞ひたい。
わたくしは前年文化九年に蘭軒が詩を作らなかつたことを怪んだ。然るに此年文化十年にも亦怪むべき事がある。上に引いた春の詩数首は茶山の批閲を経たものが多い。批閲は後に加へたものである。これに反して茶山は春以来屡書を蘭軒に寄せたのに、蘭軒は久しくこれに答へなかつた。蘭軒は病んではゐたが、其病は書を裁することを礙ぐる程のものではなかつたらしい。前年吟哦を絶つてゐた故が不審である如く、此年に不沙汰をした故も亦不審である。
茶山は六月十二日に今川槐庵に書を与へた。これは槐庵をして蘭軒の報復を促さしめようとしたのである。此書はわたくしが饗庭篁村さんに借りた茶山手柬の中の一通である。
わたくしは茶山の書の全文を此に写出する。
「大暑の候愈御安祥御勤被成候由、奥様にも定而御安祥、恐悦奉賀候。先頃は新様封皮沢山に御恵被下、忝奉存候。御蔵版に御座候而又も可被下旨、別而雀躍仕候。近比は御多事に御座候由、御推察申上候。」
「伊沢いく度状遣候も、一字隻言之返事もなく候。此人今は壮健之由可賀候。」
「蘇州府の柳を、庭前にさしおき、活し申候。大になり、枝をきられ候時に至候はば進上可致候やと御伝へ可被下候。柳は早き物に候。来年あたりは被贈可申候。徳見茂四郎より申候。」
「伊沢正月金子入書状之返事も無御座候而、頼遣し候ことも、なしとも礫とも無之候。これらのことちと御尋被下度奉希候。御忙劇之中へかかること申上候、これも伊沢返事なき故也。這漢を御しかり可被下候。」
「先達而伊沢話に、津軽屋へ便御座候家、大坂筑前屋と申に御座候由、某島とやら承候而忘れ申候。只今も其家より便御座候はば、伊沢より被申下候様御頼可被下候。近比御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは夫も出来不申こまり申候。御面倒之御事伊沢と御一緒に御覧、彼方より申参候様御頼可被下候。恐惶謹言。六月十二日。菅太中晋帥。今川剛八様侍史。筑前屋より津軽屋へ之便一年にいくたび御座候やいつ比御座候やも奉願上候。」
此書を読めば、蘭軒が数回の茶山の書に答へずにゐたことが知られる。就中正月に発した金子入の書は、茶山が必ず報復を得ることを期してゐたのに、蘭軒はこれにさへ答へずにゐた。蘭軒がかくまで通信を怠つてゐたのは何故か不審である。
茶山が徳見に託して西湖の柳を取り寄せようとしてゐたことは前にも見えてゐた。茶山は柳の来るを待ち兼ねて、蘭軒をして徳見に書を遣つて督促せしめようとしたのである。此書を見るに、柳は既に来た。そして茶山は蘭軒に其枝を分たうと云つてゐる。山田方谷が茶山の家の此柳を詠んだ和歌がある。「西湖柳。もろこしのたねとしきけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、石原某の如きもこれを栽ゑて柳庵と号し、頼春水に詩を索めた。「石原柳庵得西湖柳、以名其庵、索詩。分得西湖堤上翠。併烟移植読書槞。春風応引蘇公夢。万里来遊日本東。」
当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つて知られる。茶山が蘭軒に不満であつたのも、此難渋に堪へずして焦燥した余の事である。そして茶山が其不満を説いて露骨を嫌はず、「這漢を御しかり可被下候」と云ふに至つたのは、偶以て二人の交の甚深かつたことを証するに足るのである。
茶山は書を槐庵に与へた後、又一箇月の間忍んで蘭軒の信書を俟つてゐた。気の毒な事にはそれはそらだのめであつた。然るに此年文化十年七月下旬に偶江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた。即ち七月二十二日附の書で、亦わたくしが饗庭篁村さんに借りた一括の尺牘の中にある。わたくしはこれをも省略せずに此に挙げる。
「春来一再書状差上候へ共、漠然として御返事もなし。如何と人に尋候へば、辞安も今は尋常的の医になりし故、儒者めけるものの文通などは面倒に思候覧などと申候。我辞安其体には有御座間布、大かたは医を行いそがしき事ならむと奉存候。しかしたとひ閙敷とも、折節寸札御返事は奉希候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎などといふものの往来なく、倉成善司(奥平家儒官)卒去、尾藤先生老衰隠去と申様之事にて候。しかるを我辞安行路之人のごとくにては、外に手蔓無之こまり申候。何分今度は御返事可被下候。こりてもこりず又々用事申上候。」
「用事。一、御腰に下げられ候巾著、わたくしへも十年前御買被下候とのゐものの形なり。価十匁と申を九つか十か御こし被下度候。これは人にたのまれ候。皆心やすき人也。金子は此度之便遣しがたく候。よき便の時さし上可申候。直段少々上り而も不苦候。必々奉願上候。」
「私詩集東都へ参申候哉。書物屋うりいそぎをいたし、校正せぬさきにすり出し候も有之候。もし御覧被下候はば、末梢頭に五言古詩の長き作入候本宜候。(登々庵武元質と申人の跋の心にいれたる詩也。)これのなき方ははじめ之本に候。」
「津軽屋へ出入候筑前船之便に而、津軽屋へ頼遣候へば、慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼候而も不苦候哉。只今は星移物換候事也。此事も承はり度奉存候。此御返事早く奉願候。」
「一、塙へ之頼之本少々のこり候品、何卒可相成候はば早く御越奉願上候。これも熱のさめぬうちに非ざれば出来不申候もの也。」
「一、前年蠣崎将監殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」
「得意ざきへ物買に行ごとく、用事計申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、無拠御頼申上候。これまた前世より之業などと思召、御辨被下度奉願上候。」
「御内上様へ次に宜奉願上候。敬白。七月廿二日。菅太中晋帥。伊沢辞安様侍史。猶々妻も自私宜申上候へと申托候。」
茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又故の直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼る外に途が無かつたのである。
茶山は頼杏坪が江戸に往来しなくなつたり、倉成竜渚が死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものは夫になつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。
頼杏坪は此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしが通途の説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。
杏坪が江戸に往反しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行にせられたのが此年の七月ださうだから、早く年初若くは前年より東遊せずにゐたのであらうか。頼氏の事に明るい人の教を受けたい。
倉成竜渚の歿したのは前年文化九年十二月十日で、齢は六十五であつた。名はであつたらしい。鉛字の世となつてから、経と書し茎と書し、諸書区々になつてゐる。字は善卿、通称は善司であつた。豊前国字佐郡の人で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後世子昌暢の侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。寛政八年藩校進脩館の興るに当つて、竜渚はこれが教授となつた。諸書に見えてゐる此人の伝は、主に樺島石梁の墓表に本づいてゐるらしい。
尾藤二洲の病免は前々年文化八年十二月十日で、当時六十七歳であつた。春水遺稿の詩引に所謂「製小車逍遙」も暫しの間の事で、此手紙に書かれた年の十二月四日には、六十九歳で歿したのである。
手紙の「用事」と題した箇条書の首に、巾着の註文がある。そして此巾着はわたくしに重要な事を教へる。わたくしは蚤く蘭軒と茶山との交通はいつ始まつたかと云ふ問を発した。此交通は寛政四年に茶山が阿部家に召し抱へられた後に始まつただらうとは、わたくしの第一の断案であつた。次でわたくしは文化元年二月に小川町の阿部邸に病臥してゐる茶山の許へ、蘭軒が菜の花を送つた事実を見出だし、これを認めて「記載せられたる最初の交通」となし、二人の相待つに故人を以てしてゐたことを明にした。これを第二の断案とする。さて今此巾着の註文を見るに、「十年前御買被下候とのゐものゝ形なり」と云つてある。文化十年より溯つて十年前とすれば、享和三年である。蘭軒は享和三年に巾着を買つて茶山に送つたのである。蘭軒と茶山との間には、既に亨和三年に親交があつたのである。享和三年は文化紀元に先だつこと僅に一年ではあるが、わたくしがためには此小発見も亦重要である。
次に黄葉夕陽村舎集が始て発行せられた時の事が言つてある。当初此集に悪本と善本とが市に上つた。悪本は「書物屋うりいそぎをいたし校正せぬさきにうり出し候」と云ふ本である。後に校正済の善本が出た。わたくしはこれを読んで独り自ら笑つた。文化の昔も大正の今も、学者は学者、商人は商人である。世態人情古今同帰である。茶山は蘭軒に善悪二本を鑑別する法を授けた。それは巻尾に登々庵の五古を載せたものが善本だと云ふのである。「読恥庵集書感」の詩で、「垂老空掻首、人間鎮寥」を以て結んであるのが即是である。
次は狩谷斎の店津軽屋と筑前船との事、塙保己一から取り寄せる書籍の残の事、蠣崎波響へ文通の事である。初わたくしは前に引いた書に波響だけが「君」と書してあり、又此書にも「殿」と書してあるのを何故かと疑つた。既にして詩集の「蠣崎公子」「蠣公子」「波響公子」等の称呼に想ひ及んで、わたくしの疑は一層の深きを加へた。そこで五山堂詩話を検すると、波響は「松前侯族」だとしてある。又茶山自家の文中「題六如上人手写詩巻首」にも「公子従政于国」と云つてある。わたくしは此に至つて波響が松前若狭守章広の親戚であることを知つた。わたくしは進んでどう云ふ筋の親戚かと云ふことをも知りたくなつた。数日の後の事である。偶然六如の詩集を飜して見てゐると、「寄題波響楼」の長古が目に触れた。題の下にはかう云ふ自註がある。「松前人源広年。字世。別号波響。今藩主親弟。出嗣大夫家。冒姓蠣崎氏。(中略。)所居有楼。前臨大洋。名以波響。因亦自号焉。」是に由つて観れば、波響広年は美作守道広の弟であつたと見える。わたくしは始て釈然とした。茶山書牘の波響の条には猶犬塚印南の名も出てゐる。印南も亦此書に名を列した文化十年の十一月十二日に歿した。茶山の友人は次第に凋落して行くのであつた。
此年文化十年の秋に入つてから、集中に詩十二首があつて、其七首は「晩秋病中雑詠」である。爾余は野遊の七律一、菊と楓との七絶各一、柳橋を過ぐる七絶一、木村定良に訪はれた五律一である。
菊の詩は巣鴨の造菊を嘲つたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。「巣鴨村有藝戸数十、毎戸栽菊、培養頗精、有高丈許、枝亦数尺者、繊竹構※[#「木+宣」、U+6966、7巻-137-下-9]、巧造人物禽獣山水楼閣舟車之状、至花時、都人看者為群、漫賦一絶。菊花種法戸争新。衒世巧粧妙入神。不奈逸然彭沢令。強為郷里折腰人。」茶山の評に云く。「十一年前余在都下。菊月歴観諸藝戸。未見奇巧如此者。人巧日競。天真漸微。読此詩亦発一慨。」序に楓の詩をも録する。「看楓。菊花看尽又看楓。村路吟行暖似。猶是秋光有深浅。半渓未染半渓紅。」看楓の地は滝の川か。「野遊」の律も亦恐くは同じ時の作であらう。「黄葉林間茶店榻、黄蘆岸上酒家旗」の聯がある。
柳橋を過ぐる詩と橿園に訪はれた詩とには、稍衰残の気象が見える。「過柳橋。嘗酔江辺春酒楼。如今袖手過橋頭。杜娘何去韋娘老。岸柳条々餞暮秋。」茶山の評に云く。「昨日少年今白頭。」橿園に訪はれた詩には、蘭軒が自ら白髪を語つてゐる。「秋日木駿卿来訪、閑談至夕。竹門風政柝。熟客不驚禽。新醸香猶浅。旧歓談自深。数茎看白髪。十載想青衿。開口宜共笑。天公定有心。」三四の下に茶山が「字法」の二字を著けてゐる。
此秋の蘭軒が病は例の足疾であつた。勤向覚書に下の如き記事がある。「九月十九日足痛相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候。」
「晩秋病中雑詠」七首の中、わたくしは此に其二を採録する。「琴尊已廃復休茶。薬鼎風炉病子家。新得奇書三両種。幽忻猶且向人誇。」「禍福自然応有時。風花雲月各相宜。古人言尽人間事。推枕軒中聴雨詩。」前詩を見れば蘭軒は翅に酒を廃するのみならず、又茶を廃したらしい。しかし猶奇書を獲て自ら慰めてゐる。後詩は元人の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」を用ゐてゐる。後に冢子榛軒は此語より推枕軒の号を取つた。
此冬は集に十首の詩がある。皆病中の消遣若くは応酬の作である。病が漸く重く、戸外に出ることが出来なかつたのであらう。
十月の小春日向に、先づ「愛閑」の五律がある。其一二は「五風将十雨、暖日小春天、」五六は「文章元戯楽、安逸是因縁」である。「冬晴」二絶の一は例の愛書の癖を忘れない。「新霜頃日染幽叢。橘柚金黄楓錦紅。童子亦遭乃公役。拾銀杏葉挾書中。」覚書にはかう云つてある。「十月二十三日足痛追々快方には御座候得共、未聢と不仕、且月代仕度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」所謂快方は痛が退いて心が爽になつたので、足疾が愈えたのではなかつたらしい。
蘭軒は此冬よりして漸く起行することが難渋になつた。躄になりかかつたのである。其証拠をばわたくしが三年後の詩引中より見出だした。文化十三年の歳首の詩の引に、「丙子元日作、余今年四十、以脚疾不能起坐已三年」云々と云つてある。
蘭軒は医である。自らプログノジスの隻眼を具してゐる。嘗て茶山に「死なぬ疾」を報じたやうに、今又起行の期し難きを暁つたであらう。其胸臆を忖度すれば、真に愍むべきである。「病中口占。丈夫居世当雄飛。多病近来心事違。五十生涯三十七。数年贏得亦何為。」
尋で此年文化十年の冬の詩中に、二三の留意すべき応酬がある。其一つは「酬真野冬旭見贈之作韻」の七律である。頷聯の「元知郢国音難和、況復鳳雛毛有文」に父子が称へてあつて、三は冬旭の詩を言ひ、四は其子の書を言ふ。「其男善書、甫九歳」と自註してある。頸聯の「竜土烟霞連海気、神田草樹映城雲」は、わたくしをして冬旭が麻布竜土町辺に住んでゐたかを思はしめるが、さるにても神田は何故に点出せられてゐるだらうか。
次に「茶山菅先生之在江戸、一日犬冢印南、今川槐庵、及恬、同陪先生、為墨水舟遊、先生帰郷、十年於此、而今年犬冢今川倶逝、頃先生集刻成、至読其詩慨然」として、七絶が載せてある。「吟船尋柳更聴鶯。二客已為泉下行。往事欲談君只在。黄薇二百里余程。」茶山は「感愴」と云つてゐる。
犬冢印南は此年十一月十二日に歿した。今川槐庵が此年に歿したことは蘭軒の詩に由つて知られるのみで、其終焉の月日は未詳である。二人の相踵いで木に就いた時、蘭軒は始て黄葉夕陽村舎詩の刻本を手にすることを得、甲子の旧遊を想起して此を賦したのである。
次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」余語、木村は前に見えてゐる。小山吉人は初出であるが、未だ考へない。蘭軒の及門人名録に小山良哉がある。吉人は或は良哉若くは其族人か。
勤向覚書を見るに、蘭軒は十二月十一日に例の湯島の薬湯に往つた。「十二月十一日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下に舎つた後の事であつたかも知れない。
蘭軒は此年病の為に困窮に陥つて、蔵書をさへ沽らなくてはならぬ程であつた。そこで知友が胥謀つて、頼母子講様の社を結んで救つた。彼の茶山に疎懶を怪まれたのも、勝手の不如意が一因をなしてゐたのではなからうか。「癸酉終歳臥病、家貲頗乏、数人為結義社、仮与金若干、記喜。経年常負債。一歳総投痾。窮鬼難駆逐。儲書将典過。東西人倶眷。黄白術相和。政是逢江激。轍魚帰海波。」蘭軒がためには「儲書将典過」が、シヤイロツクに心の臓を刳り取られるより苦しかつたであらう。
蘭軒は此の如く病と貧とに苦められて、感慨なきこと能はず、歳暮に「自責」の詩を作つた。「官路幸過疎放身。一家暖飽十余人。従来無手労耕織。不説君恩却説貧。」
此年尾藤二洲、犬冢印南、今川槐庵の亡くなつたことは上に云ふ所の如くである。
頼氏では此年春水が陞等加禄の喜に遇つたが、冬より「水飲病」を得て、終身全愈するに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た。春水は山陽を訪ふとき、養嗣子聿庵を伴つて往つた。即ち山陽の実子御園氏の出元協である。
此年蘭軒は三十七歳、妻益三十一歳、三児中榛軒十歳、常三郎九歳、柏軒四歳であつた。
文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。
「甲戌早春。嚢掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖遍尋郊野梅。」当時蘭軒の病候には消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。
甲戌早春の詩の後に、羽子、追羽子の二絶がある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引は素分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽却立勲。」
正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」
蘭軒は此の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或は匐行して主に謁し、或は舁かれて庁に上つたのである。
二月二十一日に阿部正倫の未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守信寧であつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。
※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-142-下-4]詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。
水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」
蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」
此詩題に二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎は第く措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。
常三郎は生れて幾もあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にして物学も出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、動もすれば日夜悲泣して息まなかつた。某の年の大晦に常三郎の心疾が作つて、母益は慰撫のために琴を弾じて夜闌に及んだことさへあるさうである。
詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎は与らなかつたのである。
夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。頃日伊沢分家に質して知り得たる所に従へば、蘭軒の長女は天津で、文化二年に夭した。其生年月を詳にしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名を長と云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」
此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。上に云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田吉顕さんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。
此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。所謂「七十老翁欲何求、復載痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。「梅天初霽石榴紅、何限離情一酔中」の句に、節物が点出せられてゐる。
茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。旧牛医は嘗て牛医と錯り認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日疝積相煩候所、兎角不相勝候に付、明日より引込保養仕候段御達申上候」と、勤向覚書に云つてある。足疾のために消化を害せられてゐたのであらう。
茶山が江戸に抵る比には、蘭軒の疝積も稍おこたつてゐた。「扶病歩園。従来遊戯作生涯。酔歩吟行少在家。病脚連旬堪自笑。扶纔看薬欄花。」園に百日紅がさいてゐたので、蘭軒は折らせて阿部邸の茶山が許に送つた。「園中紫薇花盛開、乃折数枝、贈菅先生。紫薇花発横斜影。寄贈満枝朝露多。百日紅葩能得称。輸君終歳酔顔。」
七月に蘭軒は病中ながら月代をした。「七月九日疝積追々快方には御座候得共、未聢と不仕候間、月代仕度奉願上候所、早速願之趣被仰付候」と、覚書に云つてある。
茶山は此月に鵜川子醇等を伴つて、不忍池へ蓮を看に往つて、帰途に蘭軒の病牀を訪うた。前にわたくしは蘭軒が家を湖上に移したことを言つたが、それは一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。前度文化紀元の在府中に茶山が此人のために詩を作つたことがある。「関帝、応鵜川純二需」の七絶が即是である。「茶山菅先生携鵜川子醇及諸子、看荷花於篠池、帰路訪余、余時臥病、喜而賦一絶、昔年余亦従二君同看、今已為隔世之想云。十歳重携旧酒徒、荷花時節小西湖。酔帰猶有芳情在。満袖清香襲病夫。」
次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢憺父、余与憺父狩谷卿雲諸子、曾作此賞、距今十一年矣、憺夫有詩、次韻以答。此間佳麗世間無。十里芙蓉花満湖。不料旗亭雲錦裏。尊前重著旧樵夫。」
嘗て茶山が蘭軒の疎濶を責めた後、わたくしは二人の間にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずして至つたらしいから、必ずや茶山は相見る日を待たずして屡報復を促し、蘭軒は遂に一たび断えたコレスポンダンスの緒を継いだことであらう。
此初度の訪問は何日であつたか知らぬが、少くも十四日よりは早かつたらしい。次で雨の日が続いた。蘭軒に「秋霖」の二絶がある。此間勤番暮しの茶山は、衣食何くれとなく不自由な事がある毎に、救を蘭軒に求めた。就中茶山は菜蔬を嗜んだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたのである。
此秋文化十一年の雨の中元に、蘭軒は菅茶山を家に招いた。当時宴を張つて茶山を請ずるものは甚多かつたので、茶山はこれがために忙殺せられてゐたが、遠慮のいらぬ故人の案内に応ずるのは苦にはならなかつたであらう。
茶山が此案内を受けた時の返事が、偶わたくしの饗庭篁村さんに借りた一束の書牘の中に遺つてゐた。これを見て茶山と蘭軒との間の隔なき交のさまが窺はれる。
「盆前とて所謂書出してふ物被遣、帖面なしのかけ取など御使にわたし申候。此中ののこりをさへに御受取可被下候。」
「十六日辱奉存候。外にすこし約束ありかけ候其方をのべさせ可申候。只今状かき初申候。のべ候はば参可申候。いづれこれより可申上候。」
「八百屋物の代銭百文先さき金に奥様へ御わたし申候。あとは追々さし上可申候。御買おき可被下候。部屋番とりにさし上可申候。其品は いも なすび ふぢ豆の類なににてもよし かいわり菜(備後方言まびき菜) 外名をしらず きらひもの たうなす さつまいも ぼうふら(南瓜) 太中。辞安様。」
十六日の請待は延びて十七日となつた。そして此日に幸に雨が霽れた。茶山の詩の自註にかう云つてある。「十五夜圃公舟遊。十六夜卿雲別業集。並阻雨不果。是日訪憺父病。」圃公は中村圃公である。茶山が蘭軒に招かれた故を以て、会期を延すことを交渉した相手が狩谷斎であつたのは意外である。斎の催を蘭軒の知らなかつたのは意外である。しかし斎は会期を病褥にある蘭軒に告げなかつたのであらう。
茶山は蘭軒を訪うた帰途「茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証に充つべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期各処違。此日無端問人病。長橋独踏月光帰。」「林頭月走夜雲忙。数店燈毬閃閃光。茗水橋辺行客少。満街風露進新涼。」
茶山の集を繙閲すれば、宴飲の盛なることは秋冬の交が尤甚しかつた。此時に当つて綻びた衣の繕、朝夕の飲饌の世話などは、蘭軒の家が主としてこれに当つてゐたらしい。伊沢氏は詞場に酣戦してゐる茶山がために兵站の用をなしてゐたらしい。
菜蔬は蘭軒の妻が常に店頭の物を買つて送つたが、或日それに自園の大根を雑へて、蘭軒の詩を添へて遣つた。「園蔬頗肥、贈菅先生、誇其美云。学圃近来術不疎。肥※[#「酉+農」、U+91B2、7巻-147-上-10]自愛満畦蔬。贈君莱尤佳味。却勝市門店上魚。」
十一月には茶山の官事が稍忙しくなつたらしい。「霜月廿九日」とした手紙に、「此頃府誌いそがしく他出むづかしく候」と云つてある。府誌とは福山地志か。此書は文化六年に成つて上つたものである。更に筆削などを命ぜられたものであらうか。
同じ書に「御姉様よりめづらしき御茶碗御恵被下、私かねて望候物、別而難有奉存候」と云ひ、又「下著御仕たて被下、奥方様へ御世話の御礼宜御申可被下候」と云つてある。「御姉様」は黒田家に仕へてゐた蘭軒の姉幾勢か。幾勢には茶碗の礼、益には下著の礼が言つてある。
此冬文化十一年の冬の間に、菅茶山は幾度蘭軒をおとづれたか不明である。しかし前に引いた十一月二十九日の書にも「其内偸間可申候」と云つてある。
十二月六日に至つて、茶山は果して夕方に蘭軒を訪うた。蘭軒夫妻は厚くもてなし、主客の間には種々の打明話も交換せられた。茶山は襦袢が薄くて寒さに耐へぬと云つて、益に繕ふことを頼んだ。又部屋の庖厨の不行届を話したので、蘭軒夫妻は下物飯菜の幾種かを貽つた。茶山は夜更けて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。
翌七日に茶山の蘭軒に寄せた書も、亦饗庭篁村さんの所蔵の中にある。下に其全文を写す。
「夜前の襦袢もたせ上申候。袖は少しやぶれ絹をつけてもよし、あたたかにさへあれば宜候。奥様まかせに可仕候。鱈かへると草々たべ申候。潔味私が口に適候而悦申候。いれもの重箱やきもの提燈御かへし申候。みそとくしこ入候はとゞめおき申候。早々。十二月七日。太中。辞安様。枯髏一塊下三字急に出不申候。出候はば可申上候。詩集二つ懸御目申候。」
文中「くしこ」は串海鼠であらうか。「枯髏一塊」云云はわたくしはかう考へる。当時大森某と云ふものがあつて、所蔵の髑髏の図のために題詩を諸家に求めた。茶山は早く既に一絶を作つて与へた。「題髑髏図、応大森子索。古来誰信死生同。只笑荘叟弄筆工。至竟狐狸猶不顧。然百歳坐枯蓬。」蘭軒も亦嘱を受けて構思してゐると、茶山の来るに会した。そこで枯髏一塊の下三字を求めたのである。しかし蘭軒は後に枯髏一塊の句を抛棄して、別に一首を成した。「髑髏図。枯骨長依狐兎逕。誰知昔日辱与栄。寄言世計営々客。不若別求身後名。」二詩は二家の集にある。
此冬山本去害と云ふものが江戸を立つて小田原に往つた。蘭軒のこれを送つた五律がある。尋で去害が小田原から七律を寄せたので、蘭軒は又次韻して答へた。去害は市河三陽さんの考証に拠るに、伊豆の三島の人山本井蛙の子である。井蛙、名は義質、字は孺礼、甚兵衛と称した。商家にして屋号を丸屋と云つた。其子が順、字は去害、通称は豊輔である。享和三年九月三日に、市河米庵が吉原に宿つたとき、去害が三島から送つて来てゐたことが西遊日記に見えてゐる。蘭軒の「君家清尚襲箕裘」の句に、「其先人亦脱俗韻士、遊賞没世」と註してあるのを見れば、丸屋は芸香ある家であつた。去害が医師にして古書を好んだことは、蘭軒に似てゐた。「学医術将仙」と云ひ、「玉笥蔵書古」と云ふを見てこれを知る。年は既に老いてゐた。「似僧頭已禿」と云ふを見てこれを知る。小田原行は遊賞のためで、仕宦のためではなかつた。「応識間中官爵貴、探幽使者酔郷侯」と云ふを見てこれを知る。
同時の茶山の応酬は、交遊の範囲が頗る広くて、一一挙ぐるに勝へぬが、此に其人の境遇に変易を見たもののみを記して置く。其一は井上四明である。四明初戸口氏、名は潜、字は仲竜、居る所を佩弦堂と云つた。井上蘭台の後を承けて、備前の文学になつてゐたが、此冬致仕して町ずまひの身となつた。茶山は「四明先生告老、藩主加賜以金、燕喜之辰、余亦与会、賦此奉呈」として七律を作つた。其一二に「賜金不必買青山、心静城居即竹関」と云つてある。藩主は松平上総介斉政である。
其二は大田南畝である。南畝は文化七年に幕府の職を辞して、閑散の身となつてゐた。茶山の此冬の作に、「蜀山人移家于学宮対岸、扁曰緇林、命余詩之」とした七絶がある。「杏壇相対是緇林。吏隠風流寓旨深。毎唱一歌人競賞。有誰聴取濯纓心。」学宮対岸の家は即ち駿河台紅梅坂大田姫稲荷前の家であらう。南畝は小石川小日向金剛寺坂から此に移つたのであらう。
頼氏では此年文化十一年に春水が六十九歳になつた。「累霑位禄愧逢衣。霜鬢明朝忽古稀。」京都では山陽が後妻を娶つた。小石元瑞の養女、近江国仁正寺の人某氏の女里恵である。後藤松陰は脩して梨影と書した。通途の説には、此婚嫁が翌年乙亥の事だとなつてゐるやうである。しかし天保三年閏十一月二十五日に、新に夫を喪つた里恵が赤馬関の広江秋水の妻に与へた書にかう云つてある。「わたくしも十九年が間そばにをり候。誠にふつづか不てうはふに候へとも、あとの所、ゆゐごん、何も/\私にいたし置くれられ、私におきまして、誠にありがたく、十九年の間に候へども、あのくらゐな人ををつとにもち、其所存なか/\出来ぬ事と有りがたく存候。」女が夫を持つた年を誤ると云ふことは殆ど無からう。山陽の九月に歿した天保三年を一年と算し、十八年溯れば、文化十一年となる。
田能村竹田は秋水が此書を出して示した時の事を記して、「去年壬辰九月廿三日に頼山陽物故す、此年の閏十一月に内人(りゑといふ)より秋水の夫人におくられたる書を、秋水出ししめす」と云つてゐる。率に読めば「去年」と「此年」とは別年の如くにも見える。若し別年とするときは、里恵が書を裁して寄せたのは天保四年癸巳である。癸巳より算する十九年間は文化十二年乙亥に始まる。即ち通途の説に合する。
しかし果して此の如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且所謂「此年」は即ち前の「去年壬辰」を斥して云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年も均しく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。
里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。未幾は一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。
此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、長一歳であつた。
文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。
蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つて儲書の富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。
蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石の容奇の詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」
自註は煩を憚つて省く。一は王仁、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。
此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会する豆日草堂集の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
錦里先生は茶山を斥し、蘇門の高士は栗陰を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字は君節、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注准南子の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年閏七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序に云ふ。青柳東里の続諸家人物誌には村卜総の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林春塘は未だ考へない。
茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或は真野冬旭か。
茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後の甲原玄寿があり、讚岐の臼杵直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏に更めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂「驥※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-153-上-10]日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自ら※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-153-上-12]に比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-153-下-1]也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。
茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、駝師をして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山は纔に生きた接木の、途次に傷られむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余※[#「禾+低のつくり」、U+79EA、7巻-153-下-12]役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎※[#「くさかんむり/爾」、U+85BE、7巻-153-下-15]、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野櫟翁の弟である。
蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三の藝頼は安藝の頼春水、筑亀は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所に阿つて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅に太だ親しく頼に稍疎かつたことを知るべき資料たるが故である。
蘭軒は又茶山に花瓶を贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」
蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、恵は更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-154-下-13]璞。底為照乗底連城。」
茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部第を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。
東海道中の諸作は具に集に載せてある。河崎良佐は始終轎を並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」驥※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-155-上-6]日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。
東海道を行つた間、月日を詳にすべきものは、先づ三月二日に竜華寺の対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三月二日過其対岸。而風雨晦冥。遂不果遊。」
三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文」の長古がある。「帰程忽及大猪水、水阻始通灘猶駛、渉夫出没如鳧、須臾出険免万死」の初四句は、当時渉河の光景を写し出して、広重の図巻を展ぶるが如くである。末解はかうである。「吾願造觴大如舟。盛以鵞黄泛前頭。乗此酔中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上に住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対してゐたので、此の如く著想したのである。
良佐は茶山への附合に、舟を同じうして佐屋川に棹した。「数派春流一短篷。喜君迂路此相同。」上に云つたとほり、訣別したのは四日市である。
茶山は大坂に著いて蘭軒に書を寄せた。其書は今伝はつてゐない。只添へてあつた片紙が饗庭篁村さんの蔵儲中に遺つてゐる。
「三月三日道中にて。けふといへば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花見てこえぬこれも又いのちなりけりさやの中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あらばまつち山まつらむ友にわかれはてめや。さく花をなどよそに見むわれもはた今をさかりとおもふ身ならば。かかる事どもいうてかへり候。此次におもひ出候。浜臣のうた卿雲に約し候。おそきつぐのひにたんともらひたく候。御取もち可被下候。」
茶山は清水浜臣に歌を書いて貰ふことを、狩谷斎に頼んで置いた。斎が久しく約を果さぬから、怠状の代には多く書かせて貰ひたいと云ふのである。浜臣は此年四十歳であつた。
菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では篠崎小竹、中井履軒を訪うた。就中「訪履軒先生、既辞賦此」の五古は、茶山と履軒との平生の交を徴するに足るものである。「毎過浪華府。無不酔君堂。此度君在蓐。亦能共伝觴。(中略。)我齢垂古稀。君則八旬強。明日復修程。後期信茫茫。」履軒は当時八十歳、兄竹山を喪つてから十一年を経てゐた。茶山は六十八歳であつた。
茶山は神辺に還つた後、「帰後入城途上」の作がある。「官駅三十五日程。鶯花随処逐春晴。今朝微雨家林路。筍※[#「竹かんむり/擧」、7巻-156-下-8]徐穿暗緑行。」頃は三月の末か四月の初であつただらう。
蘭軒は夏の初に長崎の劉夢沢がために、其母の六十を寿する詩を作つた。「時節南薫好、開筵鶴浦干」云々の五律である。夢沢、名は大基、字は君美、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年に弔した劉梅泉と云ふものがある。「時梅泉歿後経数歳、有母仍在」と記してある。わたくしは母を寿した夢沢と母に先だつて死んだ梅泉とを較べて思つて見た。わたくしは此等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎舌人の事跡に精しい人の教を得たい。
此年文化十二年五月に入つて、伊沢分家には又移居の事が起つた。これは蘭軒一族の存活上に、頗る重大なる意義があつたらしい。
勤向覚書にかう云つてある。「文化十二年乙亥五月七日、私儀是迄外宅仕罷在候所、去六月中より疝積、其上足痛相煩、引込罷在、種々療治仕候得共、兎角聢と不仕、兼而難渋之上、久々不相勝、別而物入多に而、此上取続無覚束奉存候間、何卒御長屋拝借仕度奉存候得共、病気引込中奉願上候も奉恐入候、依而仲間共一統奉顧上候所、願之通被仰付候。」移転は町住ひを去つて屋敷住ひに就くのである。阿部家に請うて本郷丸山の中屋敷内に邸宅を賜ることになつたのである。按ずるに願書に謂ふところの難渋は、必ずしも字の如くに読むべきではあるまい。しかし当時伊沢分家が家政整理を行つたものと見たならば、過誤なきに庶幾からう。
覚書には次で下の三条の記事が載せてある。「同月廿一日。丸山御屋敷に而御長屋拝借被仰付候」と云ふのが其一である。「六月十六日、拝借御長屋附之品々、御払直段に而頂戴仕度段奉願上候所、同月十九日願之通被仰付候」と云ふのが其二である。又七月の記事中に、「同月廿二日、丸山御屋敷拝借御長屋え今日引移申候段御達申上候」と云ふのが其三である。
蘭軒の一家は七月二十二日に、本郷真砂町桜木天神附近の住ひから、本郷丸山阿部家中屋敷の住ひに徙つた。
旧宅は人に売つたのである。「売家。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。偶来つて蘭軒の故宅を買ふものが、争でか蘭軒の徳風に式ることを得よう。
「君恩優渥満家財。況賜新居爽※[#「土へん+豈」、U+584F、7巻-158-上-7]開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。所謂丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。
「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会にんでも、鉄血宰相の面を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして理の任を全うした。蘭軒は同一の自由を允されてゐて、此に由つて校讐の業に専にした。人は或は此言を聞いて、比擬の当らざるを嗤ふであらう。しかし新邦の興隆を謀るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦に乗ることを許された。後には蘭軒の轎が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に胡坐してゐる蘭軒を、布団籠に手舁にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より褌を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開したのを暁らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子刀自の語る所に従つて記す。
蘭軒は阿部邸に徙るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂石取の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一構をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋につて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉すことが出来る。これも亦饗庭篁村さんの所蔵である。
茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりになればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと御懇意は申つくしがたく、これはいはぬはいふにまさると思召可被下候。定て卿雲、市野、古庵様、服部、小山、市川あたり、日日聚話可有之、御羨敷奉存候。」
「扨私宅に志摩人北条譲四郎と申もの留守をたのみおき候。此人よくよみ候故、私女姪二十六七になり候寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積、姑思案仕候。」
「私は歯痛今以不、豆腐ばかりくひ申候。酒は少々いけ候へども、老境御垂憐可被下候。姉御様も御障なく御勤被成候覧。御餞之御礼つど/\御申可被下候。金柚は時々合(此七字不明)一興をそへ申候。此よしも御申つたへ可被下候。何ぞさし上申度候へ共なし。豊が絵御入用候はばまたさし上可申と御伝可被下候。豊は尾道女画史也。花生は日々坐右におき、いまに草花たえずいけ申候。活花は袁中郎が瓶史により候。御一笑可被下候。これよりも又備前やき陶尊一つ進申候。これまた案左にて御插可被下候。山陽近邦何のかはり候事もなく候。ことしも豊年と見え候。」
「扨去年の月はすみだ川、ことしの花はあらし山、無此上候。此秋はいかがいたし可申哉。独酌むしを聞候外いたしかたなく候。御憐察可被下候。花生は舟にて廻し候へば遅かるべし。帰路詩歌少し御坐候へ共、どうもえうつさせ不申候。いつにてもさし上可申候。先書状延引御断旁早々申上残候。恐惶謹言。八月二日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様追々御生立想像仕候。たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。くれ/″\も吾兄御近状にても御もらし可被下候。」
「又。」
「さて御いとま乞に参候せつ御目にかかり不申今に心あしく候。辞安様追々御こゝろよく御坐候哉。せつかく御いたはりなさるべく候。まことにたいりう中はかぎりなく御せわなし下され、わすれがたくぞんじ上候。只々御目にかからず帰候こと御のこり多く御坐候。ずゐぶん御身御よう心御わづらひなさらず候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」
「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」
「又。」
「麻布令兄御女子御両処へ宜奉願上候。」
「又。」
「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」
以上長四尺許の半紙の巻紙に書いた書牘の全文である。蠧蝕の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。
此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
北条譲、字は子譲又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国的屋の医師道有の子に生れた。弟立敬に父の業を襲がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百川楼に勝田鹿谷の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田鵬斎だ」と云つた。二人は曾て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手筵に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
鵬斎が茶山を通衢上に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦つまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山は女姪井上氏を以て霞亭に妻せ、徐に菅三万年の長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。
茶山は前に久太郎を抑止しようとした時は後住と云ひ、今譲四郎を拘係しようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、銭の新に模を出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。
北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」豊である。
蘭軒の姉、黒田家の奥女中幾勢は茶山に餞をした。所謂餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々した条の下に、不明な七字があると云つた。此所には蠧蝕は無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それを用つて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚は橘柚か。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。
菅茶山は嘗て蘭軒の姉幾勢に尾道の女画史豊が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。
わたくしは豊は玉蘊の名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所にして鳳尾蕉軒と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
此段を書し畢つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥は豊ではなからうか。
茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助のためにこれを発した。
飯田氏益に対しては、茶山は謝辞を反復して悃を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を待する謂、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥して言つたのであらう。令兄は信美であらう。蘭軒の父信階の養父信栄の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑く茶山が信美と其女とを識つてゐたものと看る。
以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
余語古庵をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂「市川」である。
わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。
菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此社伴の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
九月には茶山の詩中に臥蓐の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦饗庭篁村さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教珍敷拝見仕候。御気色之事而已案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和ども呈申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中不勝、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶は日々坐右におき、今日は杜若二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎良佐、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫とも不承候。源十直卿仍旧候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿依旧候。主計はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」
菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘の字句をさへ踏襲してゐる。
茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底奈何ともすべからずと云ふに畢つた。
わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-168-下-3]日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
頃日わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井乙男さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、U+459F、7巻-168-下-10]日記のいかなる書なるかを知つた。
藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七頁である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子松の跋がこれを填めてゐる。
本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓は山口覚大夫、号凹巷で、著者校者並に伊勢の人である。
わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田器甫は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。
蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
茶山の此書を読んで、わたくしは頼竹里が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、居して徒に授けたことを知る。頃日わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下には各道号が註してある。即ち惟宣は融巌、公遷は竹里、綱は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計、次に竹里に狐の渾名をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆輙く考ふることが出来ない。
此年十二月十九日に、蘭軒は阿部正精に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つて渥かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又除夕の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風惟疆の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎元鼎新甫である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一元協承緒、号は聿庵である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。
文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺にある今年とを較べたのである。
尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千金方を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退いて、春水自身も此の如く急に世を辞することをば期せなかつたらしい。歳首に作つた五絶数首の中に、「春風病将痊、今年七十一、皇天又何心、馬齢開八秩」と云ふのもあつた。山陽が三十七歳の時の事である。茶山に「聞千秋訃」の作がある。「時賢相継北塵。知己乾坤余一人。玉樹今朝又零落。此身雖在有誰親。」山陽が「読至此、廃巻累日」と云つてゐる。
三月十三日に蘭軒は又薬湯の願を呈して、即刻三週の暇を賜はつた。文は例の如くであるから省く。病名は「疝積足痛」と称してある。丙子の三月は小であつたから、三週の賜暇は四月四日に終つた。勤向覚書を検するに、四月六日に二週の追願がしてある。此再度の賜暇は十八日に終つた。覚書には十八日より引込保養が願つてある。
わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風が病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田菊潭の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑には雉子橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。
蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫は恐くは觚庵の字であらう。太田孟昌は茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟武群、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直の校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る忙しかつたと見える。
此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。
石浜墨陀の遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟を行るものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。
石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今の清大園の近所に「石田巳之介」と云ふ門札が懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
五月六日に蘭軒は阿部家に轎に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂屋敷内は丸山邸内である。
六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫久教に仕へたのは、休甫信謀である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女を迎へてこれに配した。所謂取子取婦である。
秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
此秋蘭軒は始て釈混外を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。
蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃より混外と音信を通じてゐて、此年十三年の秋方に纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」簡牘の散文が詩よりも妙である。拙衲は第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題する巻子二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せた書牘詩筒である。
此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。
此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今饗庭篁村さんの蔵※[#「去/廾」、U+5F06、7巻-177-下-10]中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶つた。
池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本生田氏、周防国玖珂郡通津浦の人である。明の遺民戴笠、字は曼公が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山が笠を師として痘科を受けた。
錦橋は宝暦十二年に広島に徙り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川家斉の聘を受け、九年に江戸に入つた。
錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲がしめた。京水は分家して町医者となつた。
錦橋と其末裔との事には許多の疑問がある。疑問は史料の湮滅したるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、下の史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙直卿の撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙直温の自筆本で、池田氏の菩提所向島嶺松寺に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。
以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶熄むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。
抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎の女啓が後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原鐘三郎の子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。
或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄窪田寛さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町に住してゐる。
わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻菱谷氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿の妾である。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六諡は正面に彫つてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
改葬には二つの方法がある。古墓石を有形の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森枳園一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
池田宗家の墓が谷中に徙された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。
池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※[#「目+示」、U+770E、7巻-180-下-11]した。わたくしは上に云つた如く、直卿の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田寛さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
善卿は初代瑞仙の字である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上と一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。
官府に上る先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議を挾むものはなかつたのである。
降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏の出となすのである。
わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究は且く此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すれば下の如き文となる。
「池田京水、初の名は善直、後名は※[#「大/淵」、U+596B、7巻-182-下-4]、字は河澄、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」
わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一穂の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈して見なくてはならない。
行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
然らば直温所撰の過去帖は奈何。過去帖は錦橋の父母妻子の齢を具に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎に其齢に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。
わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝の一節であらう。「独立の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国玖珂郡通津浦の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立化後その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓は門人近藤玄之、佐井聞庵、竹中文輔の同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何も彫つてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録を閲してゐる。贄を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事に精しい人ではなからうか。
嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。
爰に吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄に偶一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。
わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記は所謂珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。
小島春庵尚質が初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵根一の子で、所謂宝素である。長井金風さんの言に拠れば、曾て揚上善の大素経を獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野良沢憙の女である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本宗英の女である。春沂を生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。
此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、U+76A4、7巻-186-下-14]。梅発暄風香戸。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負かない。「頭稍※[#「白+番」、U+76A4、7巻-187-上-3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜のにょうの形+鉋のつくり」、U+74DF、7巻-187-上-6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯正精は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧弥御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年下宮大夫臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之古簾、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而進候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館某が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山四五里許有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話計をかの十符の菅菰之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へ御致声宜奉願上候。別而御内政様おさよどのへ御祝詞奉願上候。此次状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」
「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、所謂口銭もなし。御面倒奉察候。」
此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒は轎に乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。
院之荘の簾の事は興ある逸話である。狩谷斎は茶山に十符の菅薦を贈つた。茶山は其報に院之荘の簾を遺ることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。
「去年詩画騒動」とは底事か未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-188-下-9]詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。
慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒の妻妾に宛ててある。
蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、恰も好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉の下には「家姉之所贈」と註し、薩罐の下には「家兄之所贈」と註してある。家姉の幾勢たるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢信美を呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書した所以であらう。此春蘭軒は轎に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。
長崎に真野遜斎と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。
僧混外が蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
其他此春少壮官医中に蘭軒の規箴を受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んで是の如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、戯と称すと雖も、実は規であらう。
莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。尚古も亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。尚質の字は学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。
わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日に菅波喜太郎として生れたからである。
菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快く巵を挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。
茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀は麦秋の頃にさへ及んだのである。
此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人秦玄民がためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。
旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「先達而御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日比いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫にしては春寒ながく候ひき。土用中以外ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而憶出候。廿五六年前一年京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人かか見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這漢学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人衰旄は其所也。」
「金輪上人度々御逢被成候よし、御次に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」
此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌もあり、此蕣角力は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく州だねの牽牛花あり。もと長崎土宜に人がくれ候。※[#「卅」にさらに縦棒を一本付け加える、U+534C、7巻-192-上-12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。此不贅。八月七日。是日別而暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、※[#「くさかんむり/純」、U+8493、7巻-193-上-13]郷も亦同じ。五六日ふりしのち此比までふらず、此比三度少し宛ふりたれども、地泥をなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは※[#「くさかんむり/純」、U+8493、7巻-193-上-16]郷に宜。土地によるべし。」
「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両令郎は勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつも春晴桃紅に梅雨柳くらき比軒ばに来り、喃かまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」
此手紙は長さ五尺許の半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「斎翁」の下にある填註のみは括弧内に入れた。
菅茶山の書牘に許多の人名の見えてゐることは、上に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
狩谷斎は此比隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎慊堂の墓碣銘のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号翁。皆表其志也。」所謂「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
湯島の狩谷の店には懐之、字は少卿が津軽屋三右衛門の称を襲いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
書牘には論語を送られた礼を斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野光孝さんの許で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
今一つ注目すべきは斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は斎に院之荘の簾を贈つた。斎の書中に此簾の事が言つてある。斎は簾を実事求是書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下に待つ外あるまい。わたくしは読んで是の如くに解する。
香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午萎れぬ州産の牽牛花を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。
菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人峰岸某から朝顔の種子を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論異歌であつた。
これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に州牽牛花の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答は下の如くであつた。
「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年戌四月十六日と十八日との中間に真野敬勝ぬし州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までも萎まで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」
問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹の許に到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時である。
しかし茶山が書牘の「※[#「卅」にさらに縦棒を一本付け加える、U+534C、7巻-197-上-14]年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。啻に書の尽く信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事に妨は無い。わたくしの如き間人の間事業が偶これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。
わたくしは前に山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽再娶の年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人が園卉種子の授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。
菅茶山の朝貌の話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語を秤盤に上せて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしは田能村竹田が茶山の笑談として記してゐた事をおもひ出す。それは頼杏坪を評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独り糞穢のみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。※[#「さんずい+糞」、U+7035、7巻-198-上-7]も亦爾雅に「※[#「さんずい+糞」、U+7035、7巻-198-上-7]大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、刑は「尾猶底也」「其源深出於底下者名※[#「さんずい+糞」、U+7035、7巻-198-上-9]、※[#「さんずい+糞」、U+7035、7巻-198-上-9]猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。郭璞は「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為※[#「さんずい+糞」、U+7035、7巻-198-上-11]魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔したに過ぎない。
茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子を与へて惜まなかつたので、種子が遂にきた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯に説き到つたのであらう。
江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
僧混外も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕に金輪寺を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
岡本忠次郎、名は成、字は子省である。本近江から出た家で、父政苗が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
安中侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又括嚢道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。
菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺の混外が事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内主税と土屋七郎とである。
田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山と太だ疎くは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。
然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は輔、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、字は子友であつたと云ふ。幼い時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主は頃日田内の裏書のある楽翁侯の歌の掛幅を獲たさうである。
土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼元鼎の新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。
茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、凡此の如くである。
茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。
わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳。諱は俊良、字は基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人稼圃江大来に学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」
梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事彭城氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。
さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。
わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。
書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼杏坪とも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」
わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門宣義である。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」
長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要は下の如くである。
彦次郎の実父を彭城仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日小通事並被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。
次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺に宿つてゐて菅茶山の筆に上せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人かか」と見える漢子を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻に病の故のみではあるまい。
わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。※[#「にんべん+差」、U+509E、7巻-203-下-7]々起舞。」要するに才を恃み気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。
梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の巻一である。中井董堂が五山に語つた董堂と江芸閣との応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。
菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」
詩話に所謂「客歳」とは何れの年であらうか。同じ補遺の巻一に女詩人大崎氏小窓の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。
詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼の祖筵は其月日を載せぬが、「水拍欄干明鏡光、荷亭月浄浴清涼」の句は、叙する所の景が夏秋の交なることを示してゐる。祖筵の所も亦文飾のために知り難くなつてゐるが、必ずや池の端あたりであらう。
次に梅泉が神辺に宿したのは何時であらうか。菅茶山の書牘を見るに、事は書を裁した年にあつて、書を裁した日の前にあると知られるのみである。即ち文化十四年の初より八月七日に至るまでの間に、梅泉は神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。
わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又略その江戸に来去した月日を推度した。わたくしは猶此に梅泉の画を江稼圃に学んだ年に就いて附記して置きたい。
梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸を過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。
然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言を伝へたものである。森敬浩さんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷は毎に云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つて纔に来航したこととなるのである。
しかし此両説は相悖らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人は来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶穉かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳にしない。或は津田繁二さんの許にはこれを徴するに足る文書があらうか。
わたくしは此の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。
劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢をも知ることが出来るであらう。
竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促予遊崎」と云つてゐる。わたくしは此「屡蒙寄贈」の四字から、梅泉が竹田に好を通じて、音問贈遺をなしながら、未だ相見るに及ばなかつたものと推するのである。二人は未見の友であつただらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田より至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへてゐて、斎を黄葉夕陽村舎に留めて宿せしむることを得、梅泉は早く歿して、竹田の至つた時泉下の人となつてゐた。
竹田は梅泉の母に逢つて亡友の平生を問ひ、又諸友に就いて其行事の詳なるを質した。竹田たるもの感慨なきことを得なかつたであらう。
或日竹田は郊外に遊んで、偶南渓に至り、所謂梅泉荘の遺址を見た。梅泉の壮時、「挾粉白、擁黛緑、日会諸友、大張宴楽」の処が即此荘であつた。屋舎の名は吟香館で、江稼圃と大田南畝との題が現に野口孝太郎さんの許に存してゐる。竹田のこれを記した文は人をして読み去つて惻然たらしむるものがある。
「予与秋琴。一日郊遊。晩過一廃園。垣墻破壊。門欹側。満池荒涼。只見瓦礫数堆耳。秋琴乃指曰。昔之梅泉荘是也。予愴然顧視。老梅数株。朽余僅存。有寒泉一条。潺々従樹下流出。其声嗚咽。似泣而訴怨者。植杖移。眉月方挂。如視梅泉之精爽。髣髴現出于前也。躊躇久之。冷風襲衣。仍不忍去。」
竹田が倶に郊外に遊んだ秋琴とは誰か。恐くは熊秋琴であらう。名は勇、字は半圭、諸熊氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさうである。「出入相伴、同遊莫逆」とも云つてゐる。
秋琴も亦、木下逸雲、僧鉄翁と同じく、江稼圃の門人であつた。又梅泉が梅泉荘を有してゐた如くに、秋琴は睡紅園を有してゐた。
別に清客張秋琴があつて、蘭軒がこれに書を与へて清朝考証の学を論じたことは上に云つたが、これは文化三年十一月晦に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。
菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そして毎に茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。
落合、字は子載、初鉄五郎、後敬助と称し、※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-207-下-10]石と号した。日向国飫肥の人である。※[#「隻+隻」、U+4A07、7巻-207-下-11]石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。
此年文化十四年八月二十五日に、阿部正精は所謂加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森枳園が蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふ条を書きさして、蘭軒は突然下の如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」
十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。
わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢徳さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡下の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又正宗院は蘭軒の姉幾勢である。しかし房数席数は初より此の如くであつたかとおもはれる。
二十三日に蘭軒は医術申合会頭たるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」
冬至の日に蘭軒は蘇沈良方の跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中伊良子光通の刻する所である。一は呉省蘭本で嘉慶中に藝海珠塵に収刻せられた。一は鮑廷博本で乾隆中に知不足斎叢書に収刻せられた。鮑本は程永培本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、間これに優つてゐる。呉本は鮑の所謂館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。
蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本香散の条を論ずる一節を抄出する。「香散犬が飜して雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香一作香※[#「くさかんむり/柔」、U+8447、7巻-209-上-14]。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百川学海、又本草綱目引く所の食療本草で、皆茸に作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるに慊ぬのである。蘭軒の跋は下の如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。三本各成其用。無復遺憾也。宜矣蔵書所以貴多也。古人曰。天下無粋白之狐。而有粋白之裘。余於此書亦云。」
此年蘭軒は四十一歳、妻益は三十五歳、子女は榛軒十四、常三郎十三、柏軒八つ、長四つであつた。
文政元年の元旦は立春の節であつた。菅茶山が「閑叟更加※[#「總のつくり、「怱」の正字」、U+60A4、7巻-209-下-12]劇事、一時迎歳又迎春」と云つた日である。蘭軒は偶心身爽快を覚えて酒を飲んだ。「戊寅元旦作」二首の一にかう云つてある。「君恩常覚官途坦。園趣方添吟味滋。椒酒一醺歌一曲。三年独醒笑吾痴。」自註に「余病後休酒三年、此日初把杯、故末句及之」と云つてある。
正月二日に蘭軒の庶子良吉が夭した。先霊名録二日の下に、「馨烈童子、芳桜軒妾腹之男也、名良吉、母佐藤氏、墓在本郷栄福寺、文化十五年戊寅正月」と記してある。即ち側室さよの生んだ子である。生日はわからぬが、恐くは生後直に夭したのであらう。
人日に蘭軒は自ら医範一部を写した。医範は素蘭軒の父信階大升が嘗て千金方より鈔出したものである。蘭軒手写の本は現に伊沢徳さんが蔵してゐる。又此手写本に就いて門人鼓常時の複写したものは富士川游さんが蔵してゐる。
医範九章の末に下の文がある。「右医範九章。家大人所撮写千金方中。毎旦誦読以自戒也。夫孫真人世以為仙医。固応無所拘束。而有如斯戒律。則凡為医者。豈可不謹慎勉励邪。家大人直取以為我家医範。其有旨哉。恬今手鈔。以与信厚信重二児。爾輩謹守之。文化十五年戊寅人日、伊沢信恬記。」富士川本には此下に、「文政十一年三月念九日鼓常時謹写」と書してある。按ずるに孫思は旧新唐書に伝がある。旧唐書に拠るに、歿年は高宗の永淳元年だとしてある。そして年齢が載せてない。癸酉の歳に廬照隣と云ふものが孫の家に寓してゐた。癸酉は高宗の咸享四年であらう。廬の聞いた所がかう記してある。「思自曰。開帝辛酉歳生。至今年九十三矣。」試に癸酉から九十三年溯つて見ると隋の開皇元年辛丑となるらしい。そして永淳元年には百零二歳であつた筈である。しかし「経月余、顔貌不改、挙屍就木、猶空衣」と云ふを見れば、奇蹟である。年齢の知り難いのも怪むに足らない。蘭軒も亦「世以為仙医」と書してゐる。
此春蘭軒は大田南畝の七十を寿した。恐くは三月三日の誕辰に於てしたことであらう。「寿南畝大田先生七十。避世金門一老仙。却将文史被人伝。詼諧亦比東方朔。甲子三千政有縁。」詩は梅を詠ずる作と瞿麦を詠ずる作との間に介まつてゐる。
次で夏より秋に至つて、詩八首がある。其中人名のあるものを摘記することとする。原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。
先づ真野父子がある。前に冬旭とその善書の子とがあつたが、今又竹亭松宇の父子を見る。居る所を陶後園と云ふ。松宇は当時官吏であつた。蘭軒の集に此家の瞿麦と菊との詩がある。「真野松宇宅集、園中瞿麦花盛開、云是先人竹亭先生遺愛之種、因賦一絶為贈。種藝従来向客誇。山園開遍洛陽花。渾為千片斑爛錦。遺愛芳滋孝子家。又。真野松宇陶後園菊花盛開、贈主人。菊花満圃気清高。堪償栽培一歳労。幽事不妨官事劇。君家隠趣大於陶。」
次に福山の人小野士遠がある。蘭軒は五律を作つてその郷に帰るを送つた。「送小野士遠還福山」として、其五六に「祗役添詩興、躋勝酬素情」と云つてある。
次に戊寅夏秋の詩に出てゐる人物は長谷川雪旦である。雪旦、名は宗秀、又厳嶽、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。騎隊裏虎頭行。大藩如是編新誌。佳境総依彩筆成。又。使君五馬経瑤浦。揮筆応誇清舶商。為説画家唐宋法。真伝存在我東方。」小笠原長昌は前年九月十四日に陸奥国棚倉より徙された。それゆゑ「移封初臨」と云つてある。此移封は井上河内守正甫の貶黜に附帯して起つた。正甫は奏者番を勤めてゐて、四谷附近の農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲ぎ、長昌は又忠邦の後を襲いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍に「恐和泉守之誤」と註してある。しかし和泉守忠光は忠邦の父で、忠邦は部屋住の時式部と云ひ、叙爵せられて左近将監と云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、騎隊裏の「虎頭」となつて、筆を載せて行つたのである。
次に松石双古堂の詩がある。これは蘭軒が狩谷斎に代つて作つたものである。「遙寄題松石双古堂。拝石詞臣已作顛。愛松隠士漸将仙。高園双種殊堪賞。鎮壌凌雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。
冬に入つては十月十八日に「雪日」の七絶二首があるのみである。わたくしは詩集以外に於て、十二月二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことを見出した。集には歳杪の作が無い。これに反して菅茶山は吉村大夫の遠く白河関の図を寄するに会した。「歳杪得吉村大夫寄恵白河関図、賦此以謝」の七律に、「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。吉村氏、名は宣猷、又右衛門と称した。白川の大夫である。
此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此山中。想君亦尋花。歩月墨水東。月自照両処。花香不相通。恰如心相思。遊迹不可同。」何ぞ料らむ、これは花亭が書を上つて職を罷めた三月であつた。
頼氏では此年山陽が西遊稿を留めた。茶山と山陽との友登々庵武元質が二月二十四日に歿した。これは茶山の輙ち信ずることを欲せざる凶報であつた。「遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」
此年蘭軒は四十二歳、妻益は三十六歳、子女は榛軒十五、常三郎十四、柏軒九つ、長五つであつた。
文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺にあつて、閭里故旧の漸く稀になり行くを悲んだ。蘭軒の「己卯元日」はかうである。「山靄初晴旭日紅。纔斟椒酒意和融。未聞黄鳥新歌曲。春色已生人語中。」茶山の「元日口号」はかうである。「村閭相慶往来頻。老眼偏驚少識人。政爾陽和帰四野。誰回身上旧青春。」
九日は江戸の気候が稍暖であつたものか。蘭軒の「草堂小集」には「梅発初蘇凍縮身」、「数曲鶯歌在翠」等の句がある。茶山の「人日」は錯愕の語を作してある。「無端玉暦入青春。宿雪終風未覚新。七種菜羮香迸案。計来今日已為人。」第四の韻脚は「限韻」の註を得て首肯せられる。更におもふに蘭軒の梅花鶯語は必ずしも実に拠らなかつたかも知れない。「花朝」の詩には、「閏年寒威奈難消、一半春光属寂寥」とも云つてあるからである。己卯には閏四月があつた。
春の詩と夏の詩との間に、「奉寿養安院曲直瀬先生七十、代山本恭庭」の七絶がある。武鑑を検すれば、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、きじはし通」がある。若し前に云つた如く恭庭即宗英法眼だとすると、恭庭は同僚を寿せむがために蘭軒の作を索めたのである。
蘭軒の集には、此年己卯に夏の詩が二首あつて、其末に題画が一首ある。並に人名地名を載せない。次に秋の詩が六首あつて、其中に詠史が一首入つてゐる。史上の人物は和気清麿で、蘭軒は此公に慊ざるものがあつたやうである。「奉神忽破托神策。何知従来不巧機。」
秋の詩の中に蘭軒が旧友西脇棠園といふものに訪はれた七律がある。詩の引には「中秋前一日雨、草堂小集、時棠園西脇翁過訪、余与翁不相見、十余年於此、故詩中及之」と云つてある。「冷雨凄風林葉鳴、笠簑相伴訪柴荊」の句がある。棠園、名は簡、通称は総右衛門、此年五十七歳であつた。十余年前の相識と云ふからは、文化初年の友であつただらう。西脇は多く聞かぬ氏族である。わたくしは五山堂詩話中に於て唯一の西脇薪斎を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。
中秋には余語天錫の家に詩会があつて、蘭軒はこれにんだ。其夜は月蝕があつたので、「幸将丹竈君家術、理取嫦娥病裏顔」の句がある。菅茶山にも亦「中秋有食」の詩があつた。「去歳既被雲陰厄、今年又逢此虫食」は其七古中の一解である。
次に冬の詩が四首あるが、其中には伝記に補入すべきものを見ない。わたくしは詩巻を掩うて勤向覚書を繙く。そしてそこに蘭軒の身上に重要なる事のあるのを見出す。
阿部侯正精は此年文政二年十一月二十七日に、遂に蘭軒をして儒にして医を兼ぬるものたらしめたのである。「十一月廿六日私儀明廿七日被為召候所、足痛に付名代皆川周安差出候段御届申上候。廿七日、前文之通周安差出候所、私儀御儒者被仰付候、医業只今迄之通と被仰付候。月並御講釈、学文所出席は御用捨被成下候。」一旦表医師となつて雌伏した蘭軒が、今や儒官となつて雄飛するに至つた。慣例を重んずる当時にあつては、異数と謂はなくてはなるまい。
十二月二十三日に蘭軒は例に依つて医術申合会頭としての賞を受けた。
此年伊沢宗家の主人信美が歿した。伊沢徳さんの繕写する所の系図には、四月二十一日歿すとしてある。蘭軒手記の勤向覚書には、閏四月六日に伊沢玄安が歿したために忌引をすると云つてある。玄安は信美の通称で、その終焉の日を殊にするは、分家が阿部家に届けた日と、宗家が黒田家に届けた日との差ではなからうか。
わたくしは伊沢信平さんに請うて宗家の過去帳を検してもらつた。「御申越しにより過去帳取調候処、左之通に御座候。五代目玄安、称仙軒徳山信美居士、文政二年己卯年四月廿二日卒。」名は信美、通称は玄安で、歿日は四月二十二日とするものに従ふべきであらう。
小島氏では此年宝素尚質の妻山本氏が六月十九日に歿した。尋で尚質の納れた継室が一色氏で、即ち春沂の母である。
頼氏では山陽が四十歳になつた。「平頭四十驚吾老、何況明朝又一年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。
此年蘭軒四十三歳、妻益三十七歳、榛軒十六歳、常三郎十五歳、柏軒十歳、長六歳であつた。
文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつたことが、蘭軒の「庚辰元旦」の詩に見えてゐる。「三冬無雪自軽暄。今歳元旦春色繁。計得出遊宜火急。梅荘恐没一花存。」雪は正月の初に降つた。元旦と人日との詩の間に、「雪日偶成」の作が介まつてゐる。神辺の元旦はこれに反して雪後であつた。茶山の律詩に叙景の聯がある。「流漸汨々野渠漲。残雪輝々林日斜。」
此年の初には蘭軒は殆戸外に出でずにゐたらしい。「豆日草堂小集」の詩に、「春至未趨城市間、梅花鳥哢一身閑、那知雪後泥濘路、吟杖相聯訪竹関」と云つてある。此の如く城市の間に趨かずにゐたのは、多く筆硯に親んだからである。張従正が儒門事親の跋文、「庚辰人日、記於三養書屋燈下」と書したるものの如きも、その作為する所の一である。儒門事親は京都の伊良子氏が元板を蔵してゐた。経籍訪古志補遺に「太医張子和先生儒門事親三巻」と記してあるものが即是である。多紀桂山がこれを借りて影写し、これに考証を附した。医に載せてあるものが其全文で、訪古志には節略して取つてある。蘭軒は高島信章をして多紀本を影写せしめ、自ら跋して家に蔵した。
漢医方には温和なるものと峻烈なるものとがあつた。所謂補瀉の別である。峻烈手段には汗吐下の三法があるが、其一隅を挙げて瀉と云ふのである。張従正は瀉を用ゐた。素汗吐下の三法は張仲景に至つて備はつたから、従正は当に仲景を祖とすべきである。然るに此に出でずして、溯つて素問を引いた。且つ従正は瀉を用ゐるに、殆所謂撓枉過中に至つて顧みず、瀉を以て補となすと云つた。これは世医の補に偏するを排せむと欲して立言したものである。蘭軒はかう云つてゐる。「素問者論医之源。其道也大。可以比老子。仲景者定医之法。其言也正。可以比孔子。金張従正者究医之術。其説也権。可以比韓非矣。」従正の素問を引いたのは、韓非の老子を引いたのと似てゐる。姦吏法を舞し、猾民令を欺く時代には、韓非の書も済世の用をなす。諸葛亮が蜀の後主に勧めてこれを読ましめた所以である。偏補の俗習盛んに行はるれば、従正終に廃すべからずと云ふのである。
張従正、字は子和、州考城の人、金大定明昌の間医を以て聞え、興定中太医に補せられた。我源平の末、鎌倉の初に当る。其書を儒門事親と名づけたのは、「惟儒者能明辨之、而事親者、不可以不知」と云ふにある。
蘭軒の集には人日後春季の詩が五首ある。わたくしは此に「三月尽」の一絶を抄する。蘭軒がいかに此春を過したかを知る便となるものだからである。「従来風雨祟花時。梅塢桃村緑稍滋。纔是出遊両三度。今朝徒賦送春詩。」蘭軒は少くも両三度の出遊を作すことを得たと見える。
夏に入つて四月十二日に蘭軒の妾佐藤氏さよが一女子を挙げた。名は順と命ぜられた。饗庭篁村さんの所蔵に菅茶山尺牘の断片がある。茶山が順の生れたことを聞いて書いたものである。
「特筆。」
「先比は吾兄医はもとのごとく、別に儒者被仰付候由奉賀候。御格禄も殊なり候よし、これも被仰下度候。又御女子御出来被成候よし奉賀候。王百穀が七十にて男子をまうけし時、袁中郎が書に老勇可想とかきたるを以みれば、吾兄は病勇可畏などと申上べきや。これらの語斎へは御談可被下候。尊内人、令郎君、おさよの方へも宜奉願上候。晋帥。」
前年己卯十一月の儒者の任命と、此年孟夏の女子の誕生とを聞知した時の書である。断片には日附が闕けてゐる。毎に「おさよどの」と云ひ、又単に「おさよ」とも云つた茶山が今「おさよの方」と書した。亦諧謔の語である。
此年文政三年の五月、蘭軒は医心方の跋を作つた。医心方の影写は文化十四年丁丑に始まり、此年三月に終つた。即殆三年を費した事業である。
丹波康頼は後漢の霊帝十三世の孫である。康頼八世の祖が日本に帰化して大和国檜隈郡に居つた。六世の祖に至つて丹波国矢田郡に分れ住んだ。康頼に至つて丹波宿禰の姓を賜はつた。これが世系の略である。此康頼が円融天皇の天元五年に医心方三十巻を撰び、永観二年十一月二十八日にこれを上つた。
医心方は世秘府に蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。是より先正親町天皇の時、典薬頭半井瑞策が秘府より受けて家に蔵することとなり、其裔孫広明に至つて出して徳川氏に呈したのである。
然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかつた。寛政三年、即多紀氏の躋寿館が私立より官設に移された年に、躋寿館は此仁和寺本を影写して蔵することを得た。
仁和寺本は残脱の書であつて、後に出でた半井本に比すべきではなかつたが、当時の学者はこれだに容易には窺ふことを得なかつたのである。そしてその偶鈔写することを得たものは、至宝として人に誇つた。それは下の如きわけである。
六朝から李唐に至る間、医書の猶存するものは指を※[#「てへん+婁」、U+645F、7巻-218-下-5]ふるに過ぎない。然るに隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆゑせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである。
幸に外台秘要と云ふ書がある。唐の王の著す所である。は珪の孫で、新唐書王珪の伝の末に数行の記載がある。此書は引用する所が頗広いので、文献の闕を補ふに足るものである。只憾むらくは宋代の校定を経来り、所々字句を改易せられてゐる。新唐書に拠れば、「討繹精明、世宝焉」と云つてあつて、当時既に貴重の書であつた。宋人の妄に変改を加へたのは慮の足らなかつたものである。題号の外台は、徐春甫が「天宝中出守大寧、故以外台名其書」と云つた。これは朝野類要の「安撫転運、提刑提挙、実分御史之権、亦似漢繍衣之義、而代天子巡狩也、故曰外台」と云ふと同じく、外台を以て地方官の義となしたのである。しかしは自序に、「両拝東掖、便繁台閣二十余歳、久知弘文館図書方書等、是覩奥升堂、皆探秘要云」と云つてある。是に由つて観れば、魏志王粛伝の註に薛夏の語を引いて、「蘭台為外台、秘書為内閣、台閣一也」と云ふが如く、所謂外台は即台閣ではなからうか。これは多紀桂山の考証である。
外台秘要が既に旧面目を存せぬとすると、学者は何に縁つて李唐以上の事を窮めようぞ。只一の医心方あるのみである。蘭軒はかう云つてゐる。「康頼編此書。其所引用百余家。皆六朝及唐代之書。而且有経籍志不録者。王氏書不載者数十家。而其見存之書。亦体裁字句。間有大異。按皇朝往昔。通信使於唐国。留学之徒。相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而所以異於見存者也。」
蘭軒は医心方を影写するに、島武と云ふものの手を倩つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目を与ふることの或は妥ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔、一は馬屋原伯孝である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
しかしわたくしは圭輔の事を今少し精しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
鈴木圭、字は君璧、宜山と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後を襲いだ。後秉之助と云ふ。名は秉、字は師揚、号は篁翁、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。
此年文政三年の夏、鈴木宜山に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言したことは、前に云つた如くである。
わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原周迪があることを発見した。伯孝と周迪とは均しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
しかしわたくしは既に羮に懲りてゐる。曩にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田方の狩谷斎の門人なることを錯り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字は叔亀は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原玄益なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
阿部家の医官馬屋原氏は世玄益と称した。初代が玄益寧成、二代が玄益順成、三代が玄益成美である。寧成は安永十年に表医師に召し出だされ、寛政元年に歿した。福山志料の町医玄益は此寧成か、或は其父かであらう。順成は其後を襲いで表医師となり、文化九年奥医師に進み、文政十一年に歿した。成美は文政元年に出仕を命ぜられ、四年に表医師となり、十年に医学世話を命ぜられ、十一年に順成の後を襲ぎ、十二年に奥医師となつた。
然るに二世順成には弟があつて、一旦順成の養嗣子となつたが、早く文化元年に歿した。其名が周山世成であつた。三世成美は叔父の死んだために家を継ぐこととなつた。其初の名は周迪成美であつたと云ふのである。
是に於て蘭軒の門人周迪が三世玄益成美だと云ふことが明になつた。按ずるに成美は出仕を命ぜられた後に、江戸へ修業に来て文政三年の夏福山に還り、四年に表医師を拝したのであらう。
果して然らば周迪成美の伯孝たることは、復疑ふことを須ゐぬであらう。馬屋原成美、字は伯孝、初め周迪と称し、後恕庵と改め、又父祖の称玄益を襲いだ。医を蘭軒に学んで、福山に於て医学世話を命ぜられたのである。わたくしの此証左を得たのは浜野氏の賚である。
此年庚辰の秋は、蘭軒の集に詩六首がある。八月は十三日に雨が降つた。蘭軒は友と湯島の酒楼に会し、韻を分つて詩を賦した。「八月十三日雨、飲湯島某楼、分韻得麻」の七律がある。十五日は晴であつた。「中秋」の七絶に「夜色冷凄軽靄収、満城明月好中秋」の句がある。茶山の集には此日詩三首がある。暦が社日に当つてゐたこと、隣郷に放生会があつて、神辺の街が賑つたこと、木星が月に入つたこと等が知られる。「忽覩一星排戸入。得非后覓妻来。」一星は木星である。九月には蘭軒に唯一詩の録すべきものがある。それは月日を徴すべき作で、しかも其事が頗る奇である。「九月七日即事。吟味値秋方覚奇。菊花香浅点疎籬。忽然有客来催債。想得満城風雨詩。」
此年文政三年冬の半に、蘭軒の姉幾勢が記念すべき事に遭遇した。仕ふる所の黒田家未亡人幸子が、十一月二十四日に六十三歳で歿したのである。既に云つた如く、此主従の関係は中島利一郎さんの手を煩はして纔に明にすることを得たものである。
幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女、黒田筑前守治之の室である。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。
伊沢分家の伝ふる所に拠れば、幾勢は八歳にして夫人に仕へたさうである。然らば安永七年幸子二十一歳の時である。次で十八歳にして一たび暇を乞ひ、旗本坪田三代三郎と云ふものに嫁して子をも生んださうである。然らばその暇を乞うたのは天明八年で、幸子の夫治之が卒した後二年である。既にして幾勢は再び黒田家の奥に入り、前の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都産の女中二人と偕に、常に夫人の詠歌の相手に召されたさうである。然らば幾勢の再勤は早くても寛政二年幸子三十三歳の頃である。幾勢は当時二十歳になつてゐた筈である。伊沢良子刀自は幾勢が晩年の手紙一通を蔵してゐる。「正宗院」と署し、宛名を「伊沢磐安殿御うもじ殿」としてある。年次は不明であるが、歳暮の祝儀が言つてある。「うもじ」は内歟。即柏軒の妻狩谷氏俊子であらう。わたくしは此手紙に由つて幾勢の能書であつたことを知つた。祐筆を勤めたと云ふ口碑がげにもと頷かれる。
幾勢は主の喪に逢つた時、正に五十歳になつてゐた。榊原氏幸子は天明六年より三十五年間寡婦生活をなしてゐたもので、そのうち少くも三十一年間は幾勢がこれと苦楽を共にしたのである。
幸子は既に卒して、法諡を瑤津院殿瓊山妙瑩大禅尼と云ひ、祥雲寺に葬られた。幾勢は再び仕ふるに当つて、所謂一生奉公を為し遂げむことを期してゐたので、此時に至つて暇を乞ふことを欲せなかつた。そこで彼京都産の女中二人と共に剃髪して黒田家に留まり、瑤津院の木位に侍することとなつた。
黒田家では三人のために一軒の家を三室にしきり、正宗院等三人の尼を住はせた。正宗院は幾勢が薙染後の名である。因に云ふ。幾勢の墓には俗名世代と彫つてある。世代は恐くは黒田家の奥に仕へた時の呼名であつただらう。当時市人は正宗院等の家をお玉が池の比丘尼長屋と称した。
此冬蘭軒の集に詩四首がある。其中歳晩に無名氏の詩を読んで作つたと云ふ七絶がある。無名氏の詩に曰く。「節臘都城人語囂。何知貧富似風潮。近来一事尤堪怪。斗米三銭歎歳饒。」蘭軒の詩に曰く。「四十余年戯楽中。老来猶喜迎春風。請看恵政方優渥。一邸不知歳歉豊。」前詩は年豊にして米賤きを歎じ、後詩は年の豊凶と米価の昂低とに無頓着であるものと聞える。
頼氏では此年山陽の次男辰蔵が生れた。一に辰之助とも云つてある。聿庵の弟、支峰の兄で、里恵の始て生んだ男児である。山陽は喜んで母に報じた。「家書新有承歓処。報向天涯獲一孫。」しかし辰蔵は後僅に六歳にして夭扎した。宗家を嗣いだ聿庵は此年戸田氏を娶つた。
菅茶山は此年文政三年に書を某に与へて、蘭軒に言伝をしたが、某の名も知れず、書を作つた月日も知れない。饗庭篁村さんの所蔵の此書牘の断片は下の如きものである。「歳旦の詩二首、去年の作一首、辞安へ必ず御見せ可被下候。これもよほど快く候よし、病はすこしいゆるに加はると申こと、かの性悪先生之語也。きつと御慎被成よと、御申可被下候。これは書状に申遣候筈なれども、人を媒にして申が却而こたへ宜候哉。私詩をほらせくれよと書肆のぞみ候。しかし詩は前の集よりも人ずきあしくなり候覧、心はあがり候へども人の好みには遠くなり候覧と奉存候。辞安開板せよとすゝめ候へども二の足をふみゐ申候。また/\御商量可被下候。つがるや市のや両三右衛門時々御逢被成候哉、いづれもおもしろき人物に候。御次もあらば宜御つたへ可被下候。土屋七郎相果候由、おもひもよらぬ事に候。」
断片は剪刀で截り取つたものである。某が截り取つて蘭軒に示したのであらう。その此年の書牘たることは、「新年の詩二首」と云ふを以てこれを知る。前年己卯には元日に七絶一首を作り、次年辛巳には五古一首を作つたのに、独り此年庚辰には七律二首を作つてゐるからである。書を裁した月日は知れぬが、歳首の詩を添へたとすれば、春の初であつただらう。刊行せしめむとして「二の足をふみゐ申候」と云ふ詩集は、黄葉夕陽村舎詩後編である。これは次年十二月に至つて刻成せられた。わたくしは茶山の自ら評した語を見て、其藝術的良心を尊重する。此年の「雪日」七律の七八を参照すべきである。「衰老但知詩胆小。一聯慚踏古人蹤。」蘭軒と共に混外を訪ひ、又曾て頼春甫に交つた土屋七郎の死が此断片に由つて知られる。茶山のこれを書いたのが此年の初春だとすると、七郎は前年己卯に歿したことであらう。
文政四年の元旦には、蘭軒の詩に生計の太だ裕ではなかつた痕が見える。「辛巳元日作。昨来家計説輸贏。纔迎新年心自平。椒酒酔余逢客至。先評花信品鶯声。」人生は猶瘧のごとくである。熱来れば呻吟し、熱去れば笑歌する。わたくしは去つて菅茶山のこれに処する奈何を顧みる。「元日。一年始今日。転瞬已昏鴉。三百六十日。例当如此過。吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」貧が蘭軒の心に繞する如くに、老が茶山の心を擾乱する。偶節物の改まるに逢つて、二人は排除の力に一策励を加へてゐたのである。
例年の「豆日草堂集」には、其前日に高束応助と云ふものが梅花を贈つたので、それを瓶に插した。「佳賓満堂供何物。独有梅花信不違。」高束応助とは誰であらうか。後に蘭軒の女長の嫁する先手与力井戸翁助と云ふものがある。蘭軒は翁助と書してゐるが、親類書には応助に作つてある。その或は同人なるべきをおもつて、徳さんに質した。しかし異人であつた。集中の春の詩は以上二首のみである。
三月には蘭軒の二子が阿部侯正精の賞詞を受けた。勤向覚書に曰く。「三月十一日悴良安医学出精仕、御満足被思召候御意奉蒙候。同日次男盤安去年中文学出精之段達御聴御満足思召候段奉蒙御意候。」良安は榛軒信厚、盤安は柏軒信重で、彼は十八歳、此は十二歳である。
蘭軒の二子榛軒柏軒は、上に云つた如く、此年文政四年三月十一日に阿部侯正精の賞詞を受けた。
歴世略伝に拠るに、是より先榛軒は狩谷斎、松崎慊堂に就いて経を受け、父蘭軒、多紀庭、辻本庵、田村元雄に就いて医学諸科を修めた。柏軒が経学の師も亦斎である。
斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守資愛、摂津守資順、備後守資言であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権に十四歳を以てしたとすると、恰も好し斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた斎の子懐之と同庚であつた。
柏軒の鉄三郎が斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち斎であつた。
榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑く榛軒は斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
此年の夏の初には、狩谷斎が京都に往つてゐた。これは斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其遊蹤を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索めたなら、其形跡が得られようと云つた。
わたくしは再び書を三村氏に寄せて、斎の自ら語つた京遊云々の事を詳にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。
狩谷斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索むるに、下の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に斎云。寛政二年京師書肆竹苞楼にて観。」
「同春秋左氏伝の条に斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録鴨毛屏風の条に斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
以上寛政二年、九年、文政二年の三度、斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
此に一の留意すべき事がある。それは第三次文政二年の入京である。果して斎が此旅をなしたとすると、それは余程遽だしい旅であつたと見なくてはならない。
何故にさう云ふかと云ふに、菅茶山は文化十四年に「斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと御申可被下候」と、蘭軒に嘱した。越えて文政二年に斎は入京した。そして茶山が神辺にあつて待つてゐるにも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵を旋したこととなる。己卯には斎の神辺に往つた形迹が絶無だからである。
是よりわたくしは此年辛巳の旅を記さうとおもふ。斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。
十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつた。仮に斎が同じ日数を同じ道中に費したものとすると、斎の江戸を発した日も、略推知することが出来る。暦を閲するに文政四年には三月が大、四月が小であつた。今四月八日を以て第十七日とするときは、溯つて第一日に至つて三月二十二日を得る。斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。
斎の江戸より京都に至る間、月日の詳にすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月朔に見戸野々尻を過ぎたことである。
蘭軒は旅行の第六日に上和田下和田を過ぎた。斎が二十日に上途したとすると、二十六日は第七日となる。次の「見戸野々尻」は三富野、野尻であらう。蘭軒は第十日に野尻を経た。斎の旅の四月朔は第十一日となる。日程は大抵符合するやうである。
斎は京都に着いて、福井榕亭を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を蘭軒に寄せた。此書牘が文淵堂所蔵の花天月地中に収めてある。わたくしは下に其全文を写し出さうとおもふ。
狩谷斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。
「追日向暑、倍起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都総而静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨少にて、僅一両日微雨に逢候而已、只入京之日半日雨降申候。」
「上州長尾春斎(草屋の弟子)世話にて、神亀之古碑共一覧、其後多胡碑も観申候。」
「木曾桜殊妙、其外花盛に御座候而驚目申候。総而木曾之山水、豚児輩感心仕候。僕も一昨年より増り候様に覚申候。御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候。乍去余程涼気にて、日限延引を却而悦申候。和田駅(三月廿六日)など綿衣四襲位之事に御座候。乍然暑中よりは歩行致能御座候。尤一人も駕籠馬の力を借り不申候。(日程七八里故。)朔日(四月)見戸野々尻辺花猶盛に而珍しく、歌あり。花の香ををしむのみかは谷風にころもかへうき木曾の山道。御笑可被下候。今朝抜た綿ではないか谷ざくら。松宇君へ御つたへ可被下候。」
「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違のよし等被申候。何より以家屋園池之結構、小障子一枚といへども、一草一礫といへ共、みな/\心を用ひ、額聯之数は黄檗山より多く、すきま/\はアンヘラにてはりつめ、中々千金二千金之用途にて作り候物に無之、露台、庭の檻、朱緑間錯、釣燈籠凡三百にあまり申候。実に田舎漢の京の門跡を始而見候より驚申候。但し工ときたな細工とを以組詰たるものにて、僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。此後数度参候而珍蔵乞可申所存に候へども、但右之一儀に迷惑いたし居申候。」
「稲荷祭。」
「御蔭祭。」
「古雅結構、面き事に御座候。(森云。面の下原文白字を脱す。)土佐画の画工等、或は社頭の式を観をみる人あり。(森云。をみ二字衍文。)或は路中行装を観もの有、洛東にて騎馬音楽有之、此所へ来りみるもの有。御蔭森御旅所にて、音楽神供を観するもの有。江戸人と違心を用候事感心いたし候。」
「右之帰路小野毛人墓へ参り申候。石槨ふた土上に現れ出(八尺に五尺ほど)有之、内には右之蓋石取除見候へば、小礫を以てつめ有之候。果して右之内に墓志有之事と被存候。八瀬小原辺にて甚幽邃なる山上に御座候。」
「此日御蔭山(これさへ此度はじめて参りし也)より廻りし所、茶屋等一向無之、饑甚し。人窮する時驚人之句あり。肥し身の我大はらもひだるさにやせ行やうにおもひけるかな。此一条皆川へ御話可被下候。」
「今日迄両三輩づゝ朝夕書林も参候所、手に取てみる様なる本者一冊といへ共無之候。」
「一切経音義は頼申候。義疏と内経はいまだ見当り不申候。明日坂本山王祭、明々後日葵祭拝見候て、南都へ一先罷越可申と存居候。猶後便可申上候。頓首。四月十四日。狩谷望之。蘭軒先生御前。」
此辛巳四月十四日の狩谷斎の書を読んで、最初にわたくしの目を留めたのは、木曾の景を叙して、「一昨年より増り候様に覚申候」と云つてある事である。三村氏の考証した文政二年の旅が此句に由つて確保せられる。斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが出来る。斎は己卯に京までは往つたが、更に南下して菅茶山を神辺に訪ふことをばせずに已んだのである。茶山は斎の西遊を慫慂して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに斎は入京数度に及びながら、京よりして南下するには及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。
斎は木曾路を行くのに、十五年前の蘭軒の紀行を携へてゐて、且読み且行つた。「御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候」と云つてある。或は二年前の旅にも持つて行き、此度の旅にも持つて行つて、反覆翫味したかも知れない。紀行の繕写せられたのは、己卯よりは早かつた筈だからである。
斎の此書牘には、千載の後に墓を訪はれた小野妹子の子、毛野の父毛人よりして外、五人の人物が出てゐる。第一は斎の子懐之である。
斎は此旅に倅懐之を連れて行つた。「総而木曾の山水豚児輩感心仕候」と云つてある。「豚児」懐之は此年十八歳であつた。斎の始て京に上つたのが寛政二年十六歳であつたとすると、懐之の初旅は遅るること二歳であつた。
第二は斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し草屋春斎の師弟を知つた人があるなら、敢て教を請ふ。
第三は福井榕亭である。名は需、字は光亨、一の字は終吉、楓亭の子にして衣笠の兄である。榕亭は前年庚辰に斎が何事をか交渉した時、すげない返事をした。しかし今親く訪はれては、厚遇せざることを得なかつた。そして前年の事をば「途中之間違」として謝した。斎の書牘には榕亭の第宅庭園が細叙してある。その結構には詩人の所謂堆の病がある。「僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。」説き得て痛切を極めてゐる。わたくしなども此種の家に住んでゐる人二三を知つてゐる。それゆゑ斎の書を読んで、わたくしの胸は直ちにレゾナンスを起すのである。兎に角斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。
第四は斎が木曾の俳句「今朝抜た綿ではないか谷ざくら」を見せようとした松宇である。蘭軒集中に出てゐる真野松宇であらう。第五は斎が八瀬小原の狂歌を見せようとした皆川である。蘭軒集中に出てゐる皆川叔茂であらう。此に藉つて松宇には俳趣味、叔茂には狂歌趣味のあつたことが推せられる。わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の狂歌がわたくしに斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、斎は一箇の胖大漢で便々たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう。
狩谷斎は辛巳西遊の途上、木曾で桜の句を得て、これを蘭軒に与ふる書中に記し、松宇に伝へ示さむことを嘱した。
わたくしは※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-234-上-7]詩集の戊寅の作中、蘭軒が真野松宇の庭の瞿麦を賞したことを憶ひ出した。そして斎の謂ふ松宇は此真野松宇であらうと云ひ、又斎が特に其俳句を示さうとしたことより推して、松宇は俳趣味のある人であつただらうと云つた。
わたくしが前記の文稿を郵便に附し去つた時、忽ち一の生客があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念をなして引見した。幸作さんは松宇の孫で、わたくしに家乗の一端を語つた。
幸作さんの高祖父を鼎斎と云つた。名は甘匹、字は子由、一に西巷と号した。鼎斎の子竹亭、名は茂竜、字は子群、通称は徳弥が阿部侯正右に仕へた。即ち幸作の曾祖父である。
竹亭は元文四年に生れ、寛延三年十二歳にして元服し、宝暦五年に、十七歳にして正右の儒者にせられた。わたくしは此に先づ正右の世に於ける竹亭の履歴を摘記する。宝暦九年二十一歳、大目付触流。十二年二十四歳、群右衛門と改称した。
明和六年に阿部家に代替があつた。以下は正倫の世に於ける履歴である。安永元年冬、竹亭は三十四歳にして江戸勤を命ぜられ、十一月十五日に福山を発した。九年四十二歳、世子正精侍読。天明七年四十九歳、十一月奥勤。八年五十歳、世子四書五経素読畢業。寛政元年五十一歳、伊勢奉幣代参。二年五十二歳、大目付格。系図調に付金三百疋下賜。四年五十四歳、世子四書講釈畢業。享和二年六十四歳、門人柴山乙五郎召出、儒者見習。
享和三年には又代替があつた。以下は正精の世に於ける履歴である。文化元年、竹亭六十六歳、読書御用。二年六十七歳、熈徳院石槨蓋裏雕文作字。熈徳院は正倫の法諡である。六年七十一歳、四月二十日出精に付金五百疋。十一年七十六歳、霊台院石槨蓋裏雕文作字。霊台院は上に云つた如く、正倫の継室津軽信寧の女、比左子である。十四年四月十二日、竹亭は七十九歳にして歿した。
竹亭の遺した無題簽の一小冊子がある。中に菅茶山、太田全斎、頼杏坪等と交つた跡がある。竹亭は彼州牽牛子をも茶山の手から受けた。「菅太中遙贈牽牛子種。謂此州所産。花到日午猶不萎。乃蒔見花。信如所聞。遂賦一絶寄謝。牽牛異種異邦来。駅使寄投手自栽。紅日中天花未酔。籬頭猶琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花を贈つた比の事である。其席には杏坪が来てゐた。「甲子二月下直、過菅太中僑居問疾、邂逅于藝藩頼千祺、観其餞辛島伯彜還西肥之作、席上韻示千祺、用進退韻。相遇還歎相遇遅。風騒如涌筆如飛。青年令聞徒翹慕。白首仰顔交喜悲。退食過門朝問疾。高談前席※[#「日+干」、U+65F0、7巻-235-下-8]忘帰。寄書伯氏為伝語。官脚広陵報信時。自註、伯氏弥太郎也、頼惟寛、字千秋、其仲頼惟疆、字千齢。」太田全斎のためには、竹亭が詩を其日本輿地図に題した。「題太田方日本輿地図。一摺輿図万里程。東漸西被属文明。五畿七道存胸臆。六十八州接眼睛。彩色辨疆如錦繍。針盤記度似棋。越都歴険無糧費。看愛臥遊楽太平。」宛然たる明治大正詩人の口吻である。
竹亭の子松宇は名を頼寛と云つて、俳諧を嗜んだ。松宇の子兵助は喜多七大夫の門に入つて、能師となつた。兵助の子が即ち我客幸作さんである。
蘭軒は京に往く狩谷斎に書を買ふことを託したので、斎は此辛巳四月十四日の簡牘の末に訪書の消息を語つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
三書はいかにも蘭軒が斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指してもらひたい。
一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。斎の識語のある此本は後枳園の子約之の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。
わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑く措いて、わたくしは書籍の運命の奇を説く次に、行の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざるを慨いて作つたのである。然るに此行の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
わたくしは経音義のために余りに多くの辞を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が本につて変改してあるのに慊ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
以上が斎の蘭軒に与へた書の註脚である。斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
十七日には奈良へ立つた筈である。
此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には斎父子が福山に宿した。
二十日の朝父子は菅茶山を神辺に訪ひ、其家に宿した。
二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪り取つて蘭軒に示した。この剪刀の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」
菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将に妹女井上氏を以て霞亭に妻せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納れてゐたことは確である。
今わたくしの許に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人井達夫等は嘗て貲を捐てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯ぜなかつた。そこで達夫等はこれを帰省詩嚢を刻する資に充てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉、宇は宇清蔚である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞長ければ全篇を写し出さずに、下に有用の句を摘録することとする。
わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳閏八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂遭汚の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方に纔に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてゐる。此弟惟長との嵯峨の幽棲があつて、始て鵬斎の「年来高踏、不覊塵累」が活きるのである。花亭の文は竹柏園の蔵儲に係る尺牘で、九月四日の日附がある。そしてそれが文政五年九月四日だと云ふことは、霞亭の齢が四十三としてあるを以て知ることが出来る。
わたくしは語つて此に至つて、霞亭の容貌を想ひ浮べる。山陽は「君為人而晢、隆準、眼有光」と云つてゐる。又「風神灑脱」とも云つてゐる。これが嵯峨の庵の主人であつた。そしてその口にする所は奈何。「跌蕩不量分。功業妄自期。意謂身顕達。竹帛名可垂。」そして此主人に侍してゐたものは誰か。少い弟惟長只一人であつた。
想ふに霞亭は所謂一筋繩では行かぬ男であつた。茶山はこれを捉へるまでには、余程骨を折つたことであらう。
わたくしは北条霞亭の東徙を語るに先だつて、霞亭は何時娶つたか、何時仕へたかと問うた。
何時娶つたかの問題は、帰省詩嚢中の霞亭の詩を得て稍解決に近づいた。霞亭は文化十二年の後半若しくは十三年の前半に娶つたのである。
次は何時仕へたかの問題である。わたくしは前に岡本花亭の霞亭を評した語を挙げた。それは花亭の書牘に見えてゐるものであつた。此書牘は、既に云つた如くに、文政五年九月四日に作られたものである。そして霞亭が仕宦の時を知るにも、亦上の語が用立つのである。
書牘には「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてある。即ち霞亭の仕へたのは文政四年である。
霞亭は備後に往つた文化十年癸酉から算して、第三年の末若しくは第四年の初に娶つた。此間は頗短い。次で第九年に仕へた。此間は稍長い。
彼詩嚢を齎して塾に返つた帰省は、霞亭が既に娶つて未だ仕へざる間にある。それゆゑ「家大人適斎先生七十寿宴恭賦」と題した詩にも、不遇を歎ずる語が見えてゐる。「疎拙不合世。蹉何所為。棲々十余載。置身無立錐。郷党是非起。到処遭罵嗤。哀々吾父母。愚衷深見知。在此羞辱際。恩愛終不移。遂住千里外。終年苦乖離。帰来雖云楽。一物無献遺。窃向弟妹歎。包羞汗淋漓。」霞亭が福山侯の聘を受けたのは、此寿宴の後五年であつた。
わたくしは此より霞亭東徙の事を言はうと思ふ。山陽は霞亭が備後に仕宦するまでの事を叙して、其間に時を指定する語を下さなかつた。しかし仕宦は備後に往つてからの第九年に於いてしたのである。次に山陽は仕宦と東役とを叙して其間に一の「尋」の字を下し、「尋特召東邸」と云つてゐる。しかし仕宦と東役とは同年の事であつた。上に写し出した茶山の書がこれを証する。
茶山は此年文政四年五月二十六日に、書を霞亭に与へて、「御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候」と云つてゐる。これは未だ霞亭東徙後の書を得ざる時の語である。少くも未だ其覊旅の状況を悉さざる時の語である。霞亭の将孥東徙は恐くは春の末、夏の初であつただらう。
約めて言へば下の如くになる。霞亭は文化十年三十四歳で備後に往つた。十一年三十五歳で廉塾を監した。十二年三十六歳若しくは十三年三十七歳で妻を娶つた。文政四年四十二歳で福山に仕へ、直ちに召されて江戸に至つた。此年辛巳の春杪夏初には、狩谷斎が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥を将て江戸に入つたのである。
斎はわたくしは其詳伝の有無を知らない。市人であつたので、由緒書の如きものも獲難からう。現に相識の曾孫三市さんの家には、此の如きものを存してゐない。これに反して霞亭に至つては、必ずや記録の現存してゐるものがあらう。しかし此の如き側面よりする立証も、全く無価値ではあるまい。何故と云ふに表向の書上は必ずしも事実そのまゝでは無い。往々旁証のコントロオルを待つて始て信を伝ふるに足ることがあるからである。
北条霞亭は此年文政四年に家を挙げて江戸に徙つた。わたくしの推測する所に従へば、春杪夏初の頃であつたらしい。山陽は「居丸山邸舎」と記してゐる。しかしこれには語つて詳ならざるものがあるらしい。
霞亭に「嚢里移居詩」があつて、此時の状況が悉してある。「我生本散誕。山沢一儒。承乏厠教職。衆中実濫。賢主不棄物。恩礼養迂愚。嚢里新賜地。草茅命僕誅。幾日経営畢。徙居入秋初。貧家無長物。載只一車。家人駆我懶。身具各提扶。隣里新旧識。交来問所須。掃窓先安置。筆硯与琴書。門巷頗幽僻。不異在郊墟。素性慣野趣。早已把犂鋤。圃畦種晩茄。隙処蒔冬蔬。東市沽薄酒。西市買枯魚。相賀命一酌。団欒対妻孥。居室雖倹陋。然已有余。大厦豈不好。弗称匪良図。燕安思懿戒。苟完慕遺模。唯当安一席。旧学理荒蕪。雨余残暑退。摧頽病骨蘇。燈火宜清夜。涼風動高梧。一枕酔眠穏。君恩何処無。」
此詩を見るに、霞亭は只丸山邸内の一戸を賜はつてこれに住んだのではなく、或は空地を賜はつて家を建てたのでは無いかと疑はれる。わたくしは「嚢里新賜地、草茅命僕誅、幾日経営畢、徙居入秋初」の四句を読んでしか云ふのである。
「賜地」と云へばとて必ず家が無かつたとは解せられない。「経営」と云へばとて必らず家を建てたとは解せられない。「草茅命僕誅」も掃除をしたに過ぎぬとも云はれよう。しかし霞亭が江戸に来たのは、夏の初より後れなかつたものとすると、その家に入るまでに余り多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二箇月が介まつてゐたのである。
霞亭の新居には今一つの疑問がある。それは嚢里とは何処かと云ふことである。丸山の阿部家の地所だと云ふことは明であるが、修辞して嚢里と云つた、原の詞は何であらうか。袋地即行止の地所であらうか。それが今の西片町十番地のどの辺であらうか。兎に角寂しい所ではあつたらしい。「門巷頗幽僻。不異在郊墟。」
前に引いた岡本花亭の書牘に、霞亭が聘に応じた時の歌と云ふものが二首載せてある。其一。「山かげの落葉がくれのいささ水世にながれてはすみやかねなむ。」其二。「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ。」書牘には後の歌を見て、田内主税の詠んだ歌が併せ記してある。「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清きひかりを。」田内の歌は霞亭が嚢里に住んでから後の作であらう。
霞亭の嚢里に住んだ歳月は短かつた。徙り来つた年の翌年壬午が僅に事なく過ぎて、癸未の八月十七日に霞亭は四十四歳で歿した。墓誌に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之、未遂而没」と云つてある。その未だ遂げずと云ふのは、訓導の目的を遂げなかつたと云ふ意である。小学の書は早く成つて人に頒たれた。花亭の書牘に、「この北条小学纂註を蔵板に新雕いたし候、所望の人も候はば、何部なりとも可被仰下候、よき本に而御座候」と云つてある。
わたくしは此年文政四年五月二十六日の菅茶山の書牘の断片を写し出して、狩谷斎の游蹤を、五月二十二日に神辺を発して三原に向ふまで追尋した。そして其断片が北条霞亭に与へた書であつたがために、霞亭が斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。
茶山は此書牘中に斎父子の事を叙して、さて末に「ふたりとも連を羨しく候、此段伊沢へ御はなし可被下候」と書いた。羨しくの下には存を添へて読むべきである。茶山は毎に己に子の無いことを歎いてゐた。それゆゑ斎が懐之を連れてゐたのを羨ましく思つた。そしてこれを榛軒柏軒を左右に侍せしめてゐる蘭軒に告げようとしたのである。
饗庭篁村さんの所蔵の茶山簡牘中にも、これに類した一通があつて、茶山は蘭軒の子を連れて向島へ往つたことを羨んで書いてゐる。此書は或は後に引くかも知れない。
猶上に引いた五月二十六日の書牘には解し難いこともある。所謂「序文」の如きが即是である。按ずるに此語の指す所が何の序文だと云ふことは、剪り去られた書牘の前半に見えてゐたのであらう。
其他書中には斎父子と蘭軒との外に二三の人名が出でゝゐて、それが生憎わたくしの識らぬ名のみである。第一の竹内、第二の森脇は、茶山が「いづかたも無事に候、宜御申可被下候」と云つてゐる。恐くは並びに是れ福山藩士で東役中の身の上であつただらう。その無事だと云ふのは福山の留守宅であらう。第三の伊十は或は伊七ならむも測り難いが、わたくしは姑く「十」と読んで置いた。茶山が「可也に取つづき出来候覧」と半信半疑の語をなしてゐる。江戸にある知人で覚束ない生活をしてゐたものと察せられる。第四の銅脈先生は世の知る所の畠中観斎に非ざることは論を須たない。観斎は夙く享和元年に歿したからである。書牘には銅脈先生の四字の下に「広右衛門こと」の註がある。但し此広右衛門も亦艸体が頗る読み難い。或は誤読ならむも測り難い。その銅脈先生が暫く寓してゐると云ふ第五の「矢かは」も「は」文字が読み難い。わたくしは此に疑を存して置く。総括して言へば、竹内某、森脇某、某氏伊十、某氏広右衛門、矢川某の五人が茶山の此書牘に出でてゐる不明の人物である。
茶山の蘭軒に与ふる書には多く聞人の名が出で、その霞亭に与ふる書にはこれに反して此の如く無名の人が畳出するのは、茶山と霞亭とが姻戚関係を有してゐたからであらう。
斎父子が此年五月二十日に黄葉夕陽村舎に著き、其夜と二十一日の夜とを此に過し、二十二日に辞し去つたと云ふ事実は、独り右の茶山の書牘に其跡を留めてゐるのみでは無い。茶山の集中に「狩谷斎父子来訪」と題した絶句がある。「時人久已棄荘樗。老去隣翁亦自疎。豈意東都千里客。穿来蘆葦覓吾廬。」
狩谷斎父子は此年文政四年五月二十二日に、三原をさして神辺を発した後、いづれの地を経歴したか、今わたくしの手許にはこれを詳にすべき材料が無い。菅茶山は「八幡にて古経を見、宮島にて古経古器を見ると申こと」と云つてゐる。しかし斎が能くこれを果したかどうか不明である。兎に角茶山が「京祇園会に必かへると申こと」と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきであらう。
祇園会は六月七日である。斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の歳の五月は大であつたから、其二十二日より六月七日に至る総日数は十六日間であつた。茶山が「間に逢かね候覧」と云つて危んだのも無理は無い。
斎父子の此漫遊中、右の五月二十二日以後に月日の明なるものが只一つある。それは六月二十五日に法隆寺西園院にゐたと云ふことである。即ち神辺を立つてから第三十一日である。
わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。斎曰。文政四年七月観。」
最後の一条を見れば、斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-249-下-7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二弟子の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半に至る詩は抽斎の書する所の小楷である。
抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
黒沢雪堂、名は惟直、字は正甫、正助と称した。武蔵国児玉郡の人で、父雉岡の後を襲ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨を職としてゐた。
此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其請謁の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩しさを加へたのではあるが、縦ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
八月十二日に蘭軒は岸本由豆流に請待せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵と万笈堂主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」園は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏、通称は平吉である。
此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
わたくしは上に西遊中の斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。想ふに斎は春の末に江戸を去つて、秋の末には帰り来つたのであらう。「故人半歳在天涯。」留守は丁度半年の間であつた。
序にわたくしは此「秋行」の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負かぬことを附記して置く。それは石蒜が珍らしく詩に入つてゐることである。「荒径雨過滑緑苔。花紅石蒜幾茎開。」詩歌の石蒜を詠ずるものはわたくしの記憶に殆無い。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池辺義象さんの紀行に歌一首があつたかとおもふが、今は忘れた。わたくしは大正五年の文部省展覧会の洋画を監査して家に還り、其夜燈下に此文を草する。昼間観た油画に児童が石蒜数茎を摘んで帰る図があつて、心にこれを奇とした。そして夜蘭軒の詩を閲して、又此花に逢つたのである。石蒜は和名したまがり、死人花、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし英国人は其根を伝へて栽培し、一盆の価往々数磅に上つてゐる。
此年文政四年秋の蘭軒の詩は、上に云ふ所の外、猶八首ある。其中に嫡子榛軒と真野冬旭との名が見えてゐる。
榛軒は或日友を会して詩を賦した。此時父蘭軒が秋の七草を詠じた。わたくしは此にその「秋郊詠所見七首」の引を抄出する。「古昔寧楽朝山上憶良詠秋野花草七種。載在万葉集。其所詠皆是清淡蕭灑。可愛之種。実足想韻士之胸襟也。近時人間或栽而為賞。画而為観。秋七草之称。於是乎為盛矣。抑亦古学之所風靡。而好事之所波及也歟。一日児厚会詩友数輩。以秋郊詠所見為題。余因賦秋野花草七種詩。」所謂七種は胡枝花、芒、葛、敗醤花、蘭草、牽牛花及瞿麦である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者菊塢の時代であつた。菊塢は北平と呼ばれて陸奥国の産であつた。人に道号を求めて帰空と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶に梅菊が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
阿部家では此年三男寛三郎正寧が正精の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した。これは嫡男正粋が病を以て罷められ、次男が夭札したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日偶山県貞三と云ふものは平戸に、僧玉産と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
小島氏では此年尚質が番医師にせられ、森氏では枳園立之の父恭忠が歿した。後に小島氏の姻戚となる塙氏では保己一が歿した。
此年蘭軒は四十五歳、妻益は三十九歳、子女は榛軒十八、常三郎十七、柏軒十二、長八つ、順二つであつた。
文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕に至つて霽れた。蘭軒は例に依つて詩を遺してゐる。「壬午元日雪、将新霽、天気和煦、即欣然而作。梅花未発雪花妍。方喜新年兆有年。不似三冬寒気沍。瑤台玉樹自春烟。」尋で「豆日艸堂集」も亦雪の日であつた。五律の前半に、「入春纔九日、白雪再霏々、未使花香放、奈何鶯語稀」と云つてある。
菅茶山の集には歳首の詩が闕けてゐる。七日に至つて「初春逢置閏、四野未浮陽」、又「誰家挑菜女、載雪満傾篋」の句がある。これは「人日雪」と題する五律の三四七八である。第三は此年に閏正月のあつたことを斥すのである。此春の初は神辺も亦寒かつたものと見える。
勤向覚書を見るに、「二月廿五日、次男盤安去年中文学出精に付奉蒙御意候」の文がある。柏軒は辛巳中例の如く勉学を怠らなかつたのである。
三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日景猶午、与横田万年同賦」として五絶がある。横田万年は門人宗禎であらうか。又は其父宗春であらうか。門人録横田氏の下には十の字内藤と註してある。十の字内藤とは信濃国高遠の城主たる内藤氏で、当時の当主は大和守頼寧であつた。初めわたくしは十の字内藤の何れの家なるを知らなかつたが、牛込の秋荘さんが手書して教へてくれた。詩は此に末の一首を録する。「看花宜在早朝清。露未全晞塵未生。一賞吾将帰艇去。俗人漸々幾群行。」
茶山は此歳首に書を蘭軒に寄せずに、三月九日に至つて始て問安した。其書は文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「今歳は歳始の書もいまだ差上不申哉。老衰こゝに至り候。御憐察可被下候。又御一笑可被下候。吾兄愈御達者、合家御清祥は時々承候。拙家も無事に御座候。御放念可被下候。ことしの春も昔の如くに過候。かくて七十五にも相成候。前路おもふべし。」
「市野篤実北条を動かし候由、奇と可申候。狩谷は橋梓ともにさだめて依旧候覧。ことしは西遊はなきや。御次に宜奉願上候。去年宮島よりいづかたいかなる遊びに候ひしや承度候。さて御次に古庵様市川子成田鵜川(近得一書未報)諸君へ宜奉願上候。梧堂は杳然寸耗なし。いまだ東都に候哉。もはや帰郷に候哉。もしゐられ候はば宜御申可被下候。松島の画題は届候哉。種々旧遊憶出候而御なつかしく奉存候。御内上様おさよどのへも御次に宜奉願上候。妻も宜申上よと申候。恐惶謹言。三月九日。(正月二日祁寒、硯に生冰。そののち尋常。花朝前一夕雷雨めづらしく、二月廿三日小地震、三月八日亦小地震。其外なにごともなし。)菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様高作驚目申候。実底に御読書あれかしと奉存候。才子は浮躁なりやすきものに候。」
菅茶山が「かくて七十五にも相成候」と書した此年壬午三月九日の書牘にも、例の如く許多の人名が見えてゐる。しかし此度は新しい名字は無い。
市野迷庵の質愨が能く北条霞亭を感動せしめたとは何事を斥して言つたか、知りたいものである。しかしわたくしは未だこれを窮むるよすがを得ない。
狩谷の橋梓即望之懐之が辛巳西遊中、宮島に往つた後「いづかたいかなる遊」をなしたか、茶山は聞きたいと云つてゐる。わたくしも今茶山と願を同じうしてゐる。しかし既に云つた如く、わたくしは只父子が奈良に遊んだことを知るのみである。茶山の口※[#「月+(勿/口)」、U+8117、7巻-256-上-11]によつて考へて見れば、斎父子の宮島の遊は計画のみに止まつたのではないらしい。書牘の文が茶山は既に宮島までの事を知つてゐて、其後の旅程を問ふやうに聞き取られるからである。
茶山の存問を受けた古庵は余語氏である。市川は恐くは市河であらう。若し然りとすると、米庵でなくてはならない。何故といふに寛斎は既に二年前に歿してゐるからである。成田氏は成章、鵜川氏は子醇である。梧堂は石田道である。鵜川は茶山に書を寄せたことが、原本の氏旁に朱書してある。今これを括弧内に収めた。これに反して石田は茶山に無沙汰をしてゐる。「杳然寸耗なし」である。
蘭軒は十九歳になつた榛軒の詩を茶山に寄示した。榛軒詩存はわたくしは未だ細検せぬが、弘化三年以前の作を載せぬものかとおもはれる。それゆゑ茶山の目を驚かした詩は何の篇たるを知らない。茶山は又蘭軒の正側室の安を問うてゐる。「おさよの方」は故の称呼「おさよどの」に復してある。
「松島の画題」云々は何事なるを知らない。月日の下の括弧内数行は原本に朱書してある。
詩集にある春の作は既に引いた七首の外、猶六首があつて、わたくしは此に其中の二を挙げることゝする。それは病める蘭軒の情懐を窺ふに足るものと、榛軒柏軒二人の講余のすさびを知るべきものとである。
「余平常好自掃園、病脚数年、不復得然、即令家僮朝掃、時或不能如意、偶賦一絶。脚疾久忘官路煩。山※[#「譽」の「言」に代えて「車」、U+8F5D、7巻-257-上-6]江艇興猶繁。但於閑事有遺恨。筅箒不能手掃園。」自ら園を掃くに慣れた蘭軒は人の掃くに慊なかつたのである。
「偶成。元識読書属戯嬉。両児猶是好無移。剰鋤菜圃多栽薬。方比乃翁増一痴。」薬艸を栽培することは蘭軒が為さなかつたのに、榛軒柏軒がこれに手を下した。嘉賞の意が嘲笑の語の中に蔵してある。
二詩の外猶「賀阿波某氏大孺人百歳」の一絶がある。しかし其女子の氏名を載せない。且其辞にもことさらに録すべきものが無い。
夏の詩は五首あるが、抄出すべきものを見ない。唯「夏日」に「愛看芭蕉長丈許、翠陰濃映架頭書」の句がある。他人にあつては何の奇も無かるべき語であつて、蘭軒にあつては人をして羨望して已まざらしむるものがある。
秋の詩も亦五首あつて、末の三首に冬の詩を連ねて森枳園が浄写してゐる。わたくしは渋江抽斎伝に枳園が癸未の年に始て蘭軒に従学したことを言つた。今その写す所の師の詩はこれに先つこと一年の作に係る。詩集の此幾頁は後年の補写と見るべきであらうか。或は抽斎と親善であつた枳園は、未だ贄を執らざる時、既に蘭軒の家に出入して筆生の務に服したものと看るべきであらうか。此年枳園は十六歳であつた。
此年文政五年の秋の蘭軒の詩は、末の三首が森枳園の手写する所であると、わたくしは上に云つた。其前に等間に看過すことの出来ぬ一首がある。「七月十三日作。奈何家計太寒酸。付与天公強自寛。千万謝言求債客。窃来窓下把書看。」蘭軒は此日債鬼に肉薄せられたのである。千万謝言の後、架上の書を抽いて読んだと云ふ、その灑々たる風度が、洵に愛すべきである。
枳園の書した最初の詩は「熊板君実将帰東奥、臨別贈以一律。」と題してある。「君家先世称雄武。遺訓守淳猶混農。賑郷隣経奕葉。優游翰墨托高踪。自言真隠名何隠。人喚素封徳可封。遙想東帰秋爽日。恢然笏対群峰。」
熊板は或は熊坂の誤ではなからうか。これはわたくしの手抄に係る五山堂詩話の文に依つて言ふのである。わたくしは偶その何巻なるを註せなかつたので、今遽に刊本の詩話を検することを得ない。其文はかうである。「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」蘭軒の贈言を得た人は其字を同じうし、其郷を同じうしてゐて、氏に熊字がある。且詩の云ふ所が、菊池五山の叙する所と概ね符合してゐる。二者の同一人物たること、殆ど疑を容れない。
五山の言は磐谷の大父まで溯つてゐて、三世以上に及ばない。しかし蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」と云ふより推せば、磐谷の祖先は武士であつただらう。さて蘭軒の「賑郷隣経奕葉」と云ふは、五山の所謂「累世好施」である。その「優游翰墨托高踪」と云ふは、五山の挙ぐる所の禅を修め詩を誦した祖父覇陵と、学を好み書を蔵した父台州とである。わたくしはこれを符合と看るのである。想ふに磐谷は江戸にある間、五山と交つた如くに、又蘭軒とも交つたのであらう。
磐谷に別るる詩の次には、高某を弔する詩がある。「壬午九月十有二日、為亡友高君子融小祥期矣、同社諸彦賦感秋詩、述思旧之情、余亦賦一律以奠。秋光何事偏愴心。駒隙一年成古今。嘉穀秀苗嗟不実。素琴清調失知音。朱黄課減書堂上。鴎鷺盟寒墨水潯。自慚驢鳴呈醜態。難酬歳月友情深。」第五の下に「余校書之際、君時助対讐」と註し、第六の下に「嘗与君約墨水舟遊、而遂不果」と註してある。
高某、字は子融、何の許の人なるを知らない。蘭軒と文字の交を訂し、時に其校讐の業を助けた。文政四年九月十二日に歿した。頼菅二家の集に高孺皮、高子彬、高叔鷹があり、五山の詩話に高公嵩、高初暹、高凡鳥、高俊民、高聖誕、高石居、高文鳳があり、竹田の集に高嵩谷、高暘谷、高寸田がある。しかし字を子融と云ふものを見ない。原来氏を高と修するものが必ずしも同姓ではないのだから、捜索は容易で無い。
冬に入つて蘭軒の嫡子榛軒が阿部正精に召されて何事をか命ぜられた。勤向覚書に下の文がある。「十月廿九日、明朔日悴良安御用之儀御坐候間、私召連四時御坐敷え可罷出旨御達書到来に付、奉畏候旨及御請候。前条に付私召連可罷出処、足痛に付難召連候間、御医師成田玄琳を以左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明朔日御用之儀御座候に付召連可罷出処、足痛に付皆川周安差出申候、此段御達申上候以上。十月廿九日。伊沢辭安。」
蘭軒の動向覚書に拠るに、其嫡子榛軒は此年文政五年十月二十九日に阿部侯正精の召状を受けた。そして翌十一月朔に医官成田玄琳に率ゐられて登庁した筈である。然るに榛軒は其日に何事を命ぜられたか、覚書に記載を闕いてゐる。
按ずるに歴世略伝榛軒の部に、「文政四年七月二十八日備中守阿部正精公侍医」と記してある。しかし覚書に徴するに、辛巳七月二十八日は初謁の日である。或は榛軒は初謁と同時に任官したかも知れぬが、わたくしは辛巳の紀事に疑を存じて筆せずに置いた。そして窃に榛軒が辛巳七月二十八日に初謁し、壬午十一月朔に任官したのではないかと思つてゐる。
十二月二十一日には蘭軒の季子柏軒が藩の子弟に素読を授け、且これをして復習せしめたと云ふを以て、阿部侯の賞を受けた。勤向覚書の文は下の如くである。「十二月廿一日次男盤安学問所え月に八九度出席五経之素読教遣、其上宅にて浚いたし遣候に付、金二百疋被成下候。」柏軒は時に年甫て十三であつた。
二十三日に蘭軒は例の如く医術申合会頭たる故を以て金を賜はつた。覚書の文は略する。
冬の詩は集に載するもの凡四首である。中に「病中偶成」の作がある。蘭軒の起居を知らむがために此に抄出する。「遊事久無問酔醒。兼旬臥病寂山。更恐飲膳多成祟。欹枕時時検食経。」最後に「閑中書事」の五律二首がある。其前なるは尚枳園の書であるに、後なるは蘭軒の自筆に復つてゐる。前者の三四は「壁挂唐碑幅、架蔵宋板書」である。病める蘭軒を慰むるものは、此古搨本古槧本であつただらう。
菅氏では此年茶山が七十五になつた。わたくしはその一載間の詩を読んで、事の間接に蘭軒に関するものあるを見出した。それは文化甲子七月九日の墨田川舟遊の記を補ふべき事である。
舟遊には犬冢印南と茶山との両先輩の下に、蠣崎波響、木村文河、釧雲泉、今川槐庵及蘭軒が来り集つた。しかし誰が何時此遊を企てたか未詳であつた。然るに此遊の発端が茶山の「憶昔三章呈蠣崎公子」の詩中に詳叙せられてゐる。
此詩は茶山と波響との交を知る好資料であつて、啻に甲子舟遊の発端を見るべきのみでなく、寛政より文政に至る間の二三聞人の聚散の蹤がこれに由つて明められる。
京都の相国寺に維明といふ僧がゐて、墨梅を画くことを善くした。名は周圭、字は羽山と云つたのは此人である。茶山と波響とは始て維明が庵室に於て相見た。其席には僧六如と大原呑響とが居合せた。「憶昔与君始相逢。維明道人読書槞。座有六如及呑響。主客並称詩画雄。」此会合は寛政五年であつたらしい。何故と云ふに、後に甲子の舟遊を叙するに及んで、茶山は「君道平安分手時、不期生前首重聚、十一年後忽此歓、安知他年不再晤」と云つてゐるからである。わたくしは草卒に推算したから誤があるかも知れぬが、当時六十三歳の主人維明の許で、四十六歳の茶山と二十四歳の波響とが相識になつたのである。
甲子の歳に茶山は江戸に来て、柴野栗山の家で波響と再会した。それは雷雨の日であつた。「憶昔与君会東武。栗山堂上正雷雨。」次で二人は又犬冢印南の家で落ち合つた。そして舟遊の計画が此に胚胎したのである。
わたくしは菅茶山の此年文政五年に蠣崎波響に贈つた詩に拠つて、蘭軒等の甲子舟遊の端緒を究めようとした。詩の云ふ所はかうである。茶山は甲子の歳に江戸に来て、波響と一たび柴野栗山の家に会し、再び犬冢印南の家に会した。犬冢の家で二人は夜の更けるまで昔語をして、さて主人と三人川開の日に墨田川に舟を泛べて遊ぶことを約した。蘭軒は誘はれてこれに加はつたのである。「更集冢翁木王園。夜半忘帰泣道故。坐上刻日謀舟遊。新旧相結尽仙侶。泝到綾瀬出塵囂。叢葦覆岸烟生午。沿下柳橋入笙歌。万燈映波夜無暑。」わたくしは嘗て当時茶山の詩が烟火戯を言はぬことに注目したが、此詩を作るに至つても、茶山は尚飽くまでこれを言ふことを避けてゐる。
甲戌の歳に茶山が再び江戸に来た時には、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守章広が陸奥国伊達郡梁川の城主になつてゐて、波響は章広に従つて梁川に往つてゐた。「憶昔東武再遊時。君従移封阿武。両地比旧差為近。卸鞍先報我新来。阿武東武猶千里。君云相告何太遅。置郵時時説近況。十書一面非可比。我去君来如相避。秋鴻春燕巧参差。」阿武は阿武隈川である。
茶山の詩は往迹を説き畢つて現状に入つた。此年壬午の状況に入つた。「近聞朝旨新賜環。箪壺争迎旧君帰。巨鎮懸海拠要衝。近接蝦夷遠赤夷。非是故封恩信洽。北門鎖鑰守者誰。万人歓喜独我恨。我恨音信更応稀。」環を賜ふは荀子の「絶人以、反絶以環」を用ゐたもので、松前家が一たび松前の封を失つて、又これを復したことを謂ふ。幕府が章広に蝦夷の地を還付したのは前年辛巳の十二月七日であつた。
頼氏では此年山陽が三本木の水西荘に遷つた。「棲息有如此。足以素情。」聿庵元協が寺川氏を娶つた。
此年蘭軒は四十六歳、妻益四十歳、子女は榛軒十九、常三郎十八、長九つ、順三つであつた。
文政六年は蘭軒の家に於て平穏に迎へられた。「癸未元日。忘老抃忻復値春。城烟山靄自清新。纔因椒酒成微酔。蘇得三冬凍縮身。」茶山は此「元日」に神辺一郷の最長者となつたのださうである。「鶴髪※[#「白+番」、U+76A4、7巻-262-下-11]々映羽觴。屠蘇憶昨最先嘗。酔聞童子談耆旧。驚殺吾齢長一郷。」
「豆日草堂小集」は雪後であつた。「雪融烟淡鳥相呼」の句がある。
二十二日に蘭軒は元板千金方の跋を書した。署して「文政癸未孟春廿二日伊沢信恬識」と云つてある。跋の後に更に数行の識語を著けて、「信恬又識」と再署してある。
千金方は、上の医範の条に云つた如くに、唐の孫思の撰に係る。「思嘗謂。人命至重。貴於千金。一方済之。徳躋於此。故所著方書以千金名。」孫の遺す所の書は此千金方三十巻と脈経一巻とであつた。
然るに千金方の唐代の真を存してゐるものは、和気氏所伝の古抄本一巻があるのみである。即三十巻中の第一巻で、「処士孫思撰」と題してある。此本は後に躋寿館に帰し、蘭軒も亦別に一本を影写した。
次に三十巻全備の本に宋槧と元槧とがある。彼は北条顕時が求め得て金沢文庫に蔵してゐたもので、北宋所刊のものたる証迹が明である。蘭軒はこれを見るに及ばなかつた。後嘉永二年に至つて、幕府が躋寿館に命じてこれを覆刻した。そして多紀庭等が校定の事に当つた。
その元槧本は則ち蘭軒の跋する所のものである。
蘭軒が此年文政六年に跋した千金方の元槧本は、後年世に出でた宋槧本には劣つてゐても、蘭軒の時にあつては、三十巻の全本中最善本として推すべきものであつた。
支那に於ては、清の康雍正の頃に至るまで、猶善本を存してゐた証がある。銭曾の読書敏求記、張の千金方衍義の云ふ所の如きが是である。既にして乾隆中四庫全書提要の成つた時には、三十巻の善本は既に佚してゐた。降つて嘉慶に至つて、銭も亦崇文総目に於て乾隆の旧に依つてゐる。
然らば善本に代つて支那に行はれたのは、いかなる本か。それは所謂道蔵本と道蔵本に変改を加へたものとである。蘭軒はかう云つてゐる。「道家者流。要抗仏蔵之浩瀚。自嫌其書寡少。妄析其巻。虚張其目。如他素問。素廿四巻。分為五十巻。玄珠密語十巻。分十七巻之類。」
千金方の道蔵本は即ち九十三巻の嘉靖本で、四庫全書の収むる所である。
嘉靖本は我国に於ても亦飜刻せられた。これが万治本である。普通本は舶載嘉靖本と万治本とである。
猶我国には天明本がある。これは嘉靖本を変改して三十巻とし、題して元板飜刻と云ひ、京都に於て刊行した。
此の如く千金方は、支那に於ても我国に於ても、偽本のみ行はれてゐることゝなつた。それゆゑ金沢文庫の零本第一巻の貴いことは論なく、次に三十巻全備の書としては、北宋槧本の未だ世に出でざる間は、元槧本を以て第一に推さなくてはならなかつたのである。
只蘭軒の時には猶明の正徳中の刻本があつて、これは元槧本の旧に依つたものであつたが、それだに容易には獲られなかつた。蘭軒は「巻数体裁、与元板同、世不多有、而字形陋拙、刻様悪、蓋為坊本」と云つてゐる。
元槧本はこれに反して、頗る意を校刻に用ゐたものであつた。蘭軒は「此本章句方法、彰々全整、而筆勢生動、盈満行界、銭氏所謂原書是也、可謂希世之本哉」と云つてゐる。銭氏とは読書敏求記を著した銭遵王である。
蘭軒は元板千金方を狩谷斎に獲た。斎はこれを万笈堂に獲た。これは亨和中の事であつた。此年癸未に蘭軒は関定能と云ふものをして装釘せしめて、自らこれに跋した。「此本二十年前。友人狩谷卿雲為余購得之於書賈英平吉。簡編蠧蝕。古色可愛。不欲繕修改旧。但平生披閲。怕愈就壊爛。頃日倩関定能。背装綴緝。跋以数語。吁余与卿雲。今倶為頒白翁。而尚孜々読書。不異少年之態。則其迂濶於世。固不復疑。毎相対嗤耳。信恬又識。」これが跋の後に低書せられた識語の全文である。二人の頒白翁は四十七歳の蘭軒と、四十九歳の斎とであつた。
蘭軒は又自らその蔵する所の金沢文庫零本千金方にも跋してゐる。しかしこれを書した年月を詳にしない。「近日倩友人清川吉人抄」と云ふより推せば、これを写したものは門人清川玄道であらう。
此歳文政六年二月十三日には、蘭軒が友を会して詩を賦した。宿題は「看梅」であつた。十七日には蘭軒の季子柏軒が前年間文学に励精したと云ふを以て、阿部正精の賞詞を受けた。事は勤向覚書に見えてゐる。
同二月十八日に、菅茶山は神辺にあつて、蘭軒に寄する書に追加したかとおもはれる。本書は前日に作つたもので、それは今伝はらない。饗庭篁村さんの所蔵の書牘中に、首に「追書」と記した断簡が是である。
茶山の文は末に「春社」と記してある。そして大田南畝の病の事が書いてある。南畝は中一月を隔てて歿した。わたくしは暦道にいが、南畝が歿した年の二月中に八日、十八日、二十八日の戊日のあることを推算し得た。そこで十八日を以て春社となした。
「追書。」
「前日の書に申のこし候こと申上候。先大蔵謙介(牛ごみの南御徒士町とやら承候)下地御とゞけ被下候賜もあり。宜奉願上候。下地といへば江戸にては蕎麦の汁などを申候。備後にては由来をいふ。笑申候。」
「華御座は届申候哉。これは山南と申処にて出来。神辺をさること五里。(日本里程。)かの方にしる人有之、宜くたのむと申遣し候。(凡たたみ類の事あちらは黒人也。こちらはしらず候ゆゑ也。)勿論浦郷にて便も宜候故也。私添書どもなきをあやしむことなかれ。」
「矢代太郎様御安祥に被遊御座候哉。乍憚宜奉願上候。去年か御伝言被下候御礼も奉頼上候。豊後人田辺主計と申ものへ御書通、私へも宜と被仰下候由、其方より申来候。前年さし上候うたは御届被下候覧と奉存候。」
「去年長崎名村新八てふをのこ参候。于今滞留に候はば御次に宜奉願上候。之子いかなる用事に候哉。」
「此余申上べき事なし。大田之御病人様いかが。御左右承度候。恐惶謹言。春社。菅太中晋帥。伊沢辭安様。」
「去年狂詩被遣、人にはなしをかしがらせ候。あんなもの又出候はば御こし可被下候。」
「蜀山人先生御病気のよし御次に宜奉願上候。御病状も承度候。衰老は同病也。失礼ながら相憐候かた也。敬白。」
大蔵謙介はわたくしは其人を詳にせぬが、その茶山集に見えてゐる大蔵謙甫と同人なることは明である。茶山が甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。此書を裁する前年壬午「九日独酌」の詩に自註がある。「甲戌是日。同黒沢正甫、立原翠軒、平井可大。飲大蔵謙甫牛門宅。主客今並無恙。独可大不在。」此会は好記念であつたと見えて、其詩に「老来佳節幾歓場、最憶牛門九日觴」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内杏所甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつたが、茶山の此書を裁する四日前に八十歳で歿した。詩中「年年縦継藍田会、無復当時杜少陵」は可大を悼んだのである。牛込を「うしごみ」と書した例は当時の文に多く見えてゐる。
大蔵は嘗て茶山に何物をか贈つたことがある。所謂「下地御とどけ被下候賜」である。
次に謂ふ華蓙は茶山が大蔵に贈つたものか、或は蘭軒に贈つたものか、不明である。何故と云ふに、此条と前の下地の条との間には空白を存ぜず、只行を更めてあるのみで、次の矢代太郎の事は特に行を隔てて記してあるからである。
華蓙の産地は沼隈郡山南である。此郡と御調郡とが御荘蓙を産する。所謂備後表である。茶山は山南の地名に特に傍訓を附してゐる。
屋代弘賢は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は前年壬午に豊後の人田辺主計に書を与へた時、田辺をして菅茶山の起居を問はしめた。又同じ年に茶山は歌を弘賢に贈つた。茶山の書牘には「去年か」と書し、又「前年」と書してあつて、思ひ出づるまに/\筆を下した痕が見える。茶山は屋代を矢代に作つてゐる。
名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつた。「之子いかなる用事に候哉」と疑つてある。
最後に茶山の書牘には大田南畝が出でてゐる。既に「大田之御病人様いかが、御左右承度候」と書し、又「蜀山人先生御病気のよし(中略)御病状も承度候」と書してある。わたくしは猝に見て、大田の病人と蜀山人とは別人ではないかと疑つた。しかし熟おもへば同人であらう。僅に数行を隔てて同じ事を反復してゐるのは、忌憚なく言へば、老茶山の健忘のためかと推せられる。
三月二十五日に蘭軒の女順が、生れて四歳にして夭折した。蘭軒は既に文化二年に長女天津を喪ひ、九年に二女智貌童女を喪ひ、今又四女順を喪つた。剰す所は三女長のみである。勤向覚書にかう云つてある。「三月廿六日末女病気之処養生不相叶今暁丑中刻病死仕候処、七歳未満に付三日之遠慮引仕候旨、合御触流を以及御達候。」此に二十六日と云つてあるのは届出の日である。先霊名録には実を伝へてかう云つてある。「二十五日。花影禅童女。名阿順。芳桜軒妾腹之女也。母佐藤氏。文政六年癸未三月歿。」
春夏の交に阿部侯正精は病気届をしたかとおもはれる。次の年の蘭軒の詩引に、「客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職」云云と云つてあるからである。正精は文化元年に奏者番にせられ、三年に寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成君寵を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、請託公行す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相協はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の違例があつたことは、下に記す如くである。正精の解綬は冬の初に至つて纔に裁可せられた。
八月朔の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」爰元は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
詩引に「幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣為不乏矣、公日行渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中を罷めた後と、同じく猿楽町の西側にある。蘭軒が「賜邸」と書したのは故ある事であらうが、福山藩の人に質さなくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。
阿部正精は将に老中の職を罷めむとする時詩を賦した。「癸未以病辞相、短述懐」として七律一首、又「同前七絶八首」として聯作の絶句がある。末には「文政六年歳次癸未秋九月下澣、阿正精藁」と署してある。
此詩は正精が自ら書して古山静斎に与へた。後正精の六男正弘は、静斎の子善一郎のために、「牆羮」の二字を巻首に題した。後漢書の「昔堯之後、舜仰慕三年、坐則見堯於牆、食則覩堯於羹」に取つたのである。
七律に云く。「半歳寥寥久抱痾。一朝解綬意蹉。欲抛人世栄名累。難奈君恩眷寵多。庭際霜寒飄老葉。池頭秋晩倒枯荷。回思二十年間夢。浩歎駒隙過。」第七の下に「甲子蒙典謁之命、丙寅兼領祠曹、丁丑陞相位、通前後廿年」と註してある。二十三字の官歴である。
絶句に云く。「抛擲世紛半歳余。繩床一臥愛間居。解官猶在城門内。無復邸前停客車。」第一は蘭軒の「春夏之際」と書した文と符する。免罷の未だ発表せられぬに、門前客が絶えた。九月には猶西丸下にゐたのである。「又。陸雲之癖癖做病。一擲功名此挂冠。憶得春秋五十夢。猶疑身是在邯鄲。」正精は四十九歳であつた。第三ある所以である。「做病」は或は「為」の誤ではなからうか。「又。一年沈痼尚難痊。避位避官本任天。縁是君恩深到骨。未能采薬去従仙。又。菊砕蘭摧各一時。人間変態総如此。尚存憂国愛君意。毎使夢魂夜夜馳。」「此」は「斯」に作るべきである。「又。七年相位夢初醒。解綬一朝意自寧。遮莫斯身辞眷寵。儘将風月送余齢。又。病躯却喜出塵寰。得告一朝免綴班。門外雀羅設猶未。南窓翻帙領清間。又。陸癖作痾十月余。翻将翰墨付間居。看他多少男児輩。何事営営索世誉。又。春秋已届五旬齢。病鶴離群似鏃。疇昔飛鳴九天上。夢魂時復到朝廷。」
茶山の集に「恭次公製辞相短述一律八絶句瑤韻」の作がある。七律。「中歳抽簪為病痾。七年重較豈蹉。官途憂思随時在。人世歓場到処多。自有名園開緑野。不関初服製青荷。久将恩沢流寰宇。非是光陰徒爾過。」絶句其一。「苑在城中十頃余。紅塵不染似山居。尋涼月径試間歩。愛暖花陰停小車。」其二。「明時賢哲晦終難。赤何曾称褐冠。伯予宜重位山岳。呂翁漫説夢邯鄲。」其三。「賜休半載病初痊。行薬東橋二月天。晴院嬌鶯鳴哈哈。午階狂蝶舞僊僊。」第一は蘭軒の「至冬大痊」の文と符する。其四。「芹宮憶昔息遊時。東魯多賢乃取斯。不怪他年枢要路。王良特地範駆馳。」其五。「捧誦瑤篇愁始醒。緩声忻見体中寧。祈君不改台池楽。延寿能同亀鶴齢。」其六。「隠棲何必水雲寰。貴爵仍従鴛鷺班。碑帖庫添新巻第。琴詩客会旧遊間。」其七。「投間始得事三余。却見臣僚警逸居。都下日伝輿誦美。公偏百計避声誉。」其八。「暫辞鳳穴未頽齢。寧比仙禽老。看取分憂勤所職。藩城非是小朝廷。」
蘭軒は此時次韻の作が無かつた。それゆゑ正精の丸山邸に居るに及んで、次年元日の詩に和して、其引に侯の挂冠の事を追記した。
此年文政六年十一月二十三日に、菅茶山が書を蘭軒に与へた。書中には多く北条霞亭の歿後の事が言つてある。霞亭は是より先八月十七日に嚢里の家に歿した。墓表に「居丸山邸舎三年、罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。茶山の此書は文淵堂蔵の花天月地中に収めてある。
「一筆啓上仕候。時節寒冷催候。愈御安祥御座被成候哉承度奉存候。北条事最早可申ことも無御座候。何さま家内無事に大坂迄著、明廿四日には大かた帰宅可仕やと書状にて申こし折角待ゐ申候。始終段々御世話難申尽候。これは後信にも可申上候。其内急便、先帰宅明日にあり候事を申上候。」
「これも途中いろ/\事有之候。先箱根にて御書付と髪の結ぶり違候とて引付られ、半日余もかかり候由。(金三歩出し候由。)又被指添候足軽池鯉鮒之駅にて吐血急症、近隣近郷之医を招候由。(これは三両余の入用と申すこと。)しかし箱根もすみ、池鯉鮒も翌日発足いたす位になりし由、不幸中之幸なるべし。明日帰りて委細不承候内は、往来上下人足の沙汰計、書状も瑩々とわけきこえかね候故、確然は得信可申上候。」
「何様始終之御邪魔御面倒可謝詞もなく候。先大坂迄帰著の処申上候。鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。御内公令郎至おさよどのまで、宜御礼奉願上候。恐惶謹言。十一月廿三日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「北条妻は私が姪女也。ことさらの鈍物、御世話奉察候。初め東行仕候時、(去々年也)心に落着いたさずつらき事、何ごとも必辞安先生に申上よと申遣候。いかが候や覧。」
「用事。」
「北条事に付これはかくせよ、かれはいかゞせよと被仰下たく候。」
「牧唯助(むかしの臼杵直卿也)松平冠山様之以状御たのみの事申遣候。うんともすんとも返事無之候。御先方貴人に候へばはやく承度候。御きき可被下候。」
「余に一も申上べき事なし。春以来大旱雨なし。雷は一年一声もきかず候。或云。遙雷はなりたれども老聾きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり、其後まだふらず、冬之大旱也。御地は雨しげく候よし、ふるもふらぬもさだめなき世の中也。」
霞亭の妻井上氏は、頃日福田禄太郎さんを介して、黒瀬格一さんに検してもらつた所に徴するに、名は敬である。菅波久助の次女、茶山の妹、井上源右衛門の妻にちよと云ふものがあつた。此ちよの三女が敬である。
久助の次男、茶山の弟猶右衛門汝に、一子長作万年があつた。万年は初め井上源右衛門の次女さほを娶り、さほの歿後に其妹敬を納れた。万年が歿して、敬が寡居してゐたのを、茶山が霞亭に妻せた。
敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山は所謂「鈍物」の上を気遣つて蘭軒に託したのであつた。浜野知三郎さんの語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬が嚢里の家の落成に先つて来てゐたことは、移居の詩に「家人駆我懶」と云ひ、「団欒対妻孥」と云つてあるを見て知られる。
北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒の家と往来してゐたことは明である。霞亭が菅茶山の書牘を剪り断つて蘭軒に示したことは、上に云つた如くである。
しかし敬が果して、茶山の誨へた如くに、蘭軒を視ること尊属に同じく、これに内事を諮つたかは疑はしい。少くも此の如き証跡は一も存してゐない。
さて此年八月十七日に霞亭は病死した。主家阿部氏に於ては、正精が病と称して事を視ざるに至つてから、四五箇月の月日が立つてゐる。霞亭は解褐以来未だ幾ならぬに死んだ。しかも主家に事ある日に死んだ。其臨終の情懐を想へば、憐むべきものがある。
わたくしは霞亭に痼疾のあつたことを聞かない。其死を致した病は恐くは急劇の症であつただらう。わたくしは唯霞亭が酒を嗜んだことを知つてゐる。酒を嗜むものは病に抗する力を殺がれてゐるものである。急病に於て殊にさうである。
霞亭の酒を嗜んだことは、何に縁つて知つたか。わたくしは頃日浜野知三郎さんに就いて、霞亭の著す所の書数種を借ることを得た。霞亭渉筆は其一である。渉筆に左の二条がある。
「予性疎慢。一切之物。寡所嗜好。唯有酒癖。習以成性。欲止未能。然年歯漸長。節而飲之。亦似不甚害。要之在人。不在酒也。毎誦汪遵詩。九松醪一曲歌。本図間放養天和。後人不識前賢意。破国亡家事甚多。深以為知言。」
「蜀志諸葛孔明戒子曰。夫酒之設。合礼致情。適体帰性。礼終而退。此和之至。主意未殫。賓有余豪。可以至酔。無致於乱。此言可謂唯酒無量不及乱好註脚。」
わたくしは酒が必ず霞亭に祟をなしたとは云はない。しかし霞亭の酒を説くを見るに、自ら嘲る中に自ら解する意を含んでゐる。わたくしは此を除いては、霞亭の健康を害すべき所以のものを知らぬから、これに言及した。
霞亭は歿して、跡に未亡人敬が遺つた。子は山陽が「生二女、皆夭」と云つてゐるから、恐くは既に亡かつただらう。霞亭の父適斎道有は、霞亭の弟惟長をして家を嗣がしめ、霞亭に分家せしめてゐたから、敬には仕ふべき舅姑は無い。的屋には敬の帰るべき家は無い。山陽は「考以次子立敬承家」と書してゐる。立敬は惟長である。
そこで敬は神辺の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた。
敬は箱根の関に半日余抑留せられた。それは髪の結振が書付と符せぬが故であつた。或は後家らしい髪が途上却つて人の目に附くを憚つて、常体に改めてゐたのであらうか。関の役人は金三歩を受けて、纔に敬を放つて去らしめた。当時の吏の収賄である。わたくしは此汚吏の長官の誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守忠真であつた。或はおもふに当時の吏は例として此の如き金を受け、その収賄たるに心付かずにゐたのではなからうか。
北条霞亭の未亡人敬は僅に箱根の関を踰ゆることを許されて、池鯉鮒の駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶亡霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子退が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村重固と云ふ人の家で、重固の女が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説の陋を咎むることなくば幸である。
山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人なるかは、稍史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
渉筆に西村維祺の文が載せてある。霞亭の曾祖父道益の弟僧了普の事を紀したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥日記の西村子賛ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微なる手がかりを得た。
西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村棲雲庵に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂の無量寺は真栄終焉の地である。
霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
霞亭は幼かつた時の家庭の一小事を記憶してゐて、後にこれを筆に上せた。それは天明八年に霞亭が九歳であつた時の事である。霞亭に、惟長でない今一人の弟があつて、名は彦、字は子彦、通称は内蔵太郎と云つた。彦は天明四年生で、此年五歳であつた。霞亭が文化戊辰に著した文の渉筆中に収められたものはかうである。「記二十年前一冬多雪。予時髫喜甚。乃与穉弟彦。就庭砌団雪塑一箇布袋和尚。坐之盆内。愛翫竟日。旋復移置寝処。褥臥視之。其翌起問布袋和尚所在。已消釈尽矣。弟涕泣求再塑之不已。而雪不可得。母氏慰諭而止。後十余年。彦罹疾没。爾来毎雪下。追憶当時之事。其声音笑貌。垂髦之。綵衣之斑爛。宛然在耳目。併感及平生之志行。未嘗不愴然悲苗而不秀矣。」
霞亭が志を立てて郷を出でたのは、寛政九年十八歳の時であつたらしい。詩嚢に「跌蕩不量分、功業妄自期」と云ひ、「不事家人産、遠与膝下辞」と云つた時である。適斎は子を愛するがために廃嫡した。山陽は「以次子立敬承家、聴君遊学」と云つてゐる。此事が霞亭十八歳の時に於てせられた証は、渉筆に自ら「予年十八遊京師」と云ひ、又嵯峨樵歌の首に載せてある五古に韓凹巷が、「発憤年十八、何必守弓箕、負笈不辞遠、就師欲孜々」と云ふに見て知られる。樵歌も亦わたくしの浜野氏に借りた書の一である。
北条霞亭は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川淇園があり、医学の師に広岡文台があつたことは明である。霞亭は「不事家人産」とは云つてゐるが、初猶伝家の医学を廃せずにゐたのである。
淇園は人の皆知る所なれば姑く置く。文台、名は元、字は子長、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷の文とがあつて、此人の事が悉してある。霞亭は文台の平生を叙して、「受学赤松滄洲翁、蚤歳継先人之志、潜心長沙氏之書、日夜研究、手不釈巻、三十年如一日矣、終大有所発揮、為之註釈、家刻傷寒論是也」と云ひ、凹巷は「聞先生終身坎※[#「土へん+稟」、U+58C8、7巻-278-下-1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又長孺、仲彜、遠恥の三人と交つた。長孺は堀見克礼さんの言に従へば、清水氏、号は雷首、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭、号は小蓮、鈴木氏、修して木と云つた。所謂木芙蓉の子である。仲彜は越後国茨曾根の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、U+7B8E、7巻-279-上-2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
霞亭は京に上つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟彦が的屋から出て来た。そして霞亭の友源瑰と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直次の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。
北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上つた一条の軼事がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧玄慧で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師垂水氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧宗弼を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」
霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟彦は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、「翌年(戊午翌年)夏、帰省在家、九月十九日没、年十六歳」と云つてある。
霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷も亦「飄忽君東去、去舟汎不維」と云つてゐるだけである。しかし京を去つた年は或は享和二年ではなからうか。後庚午の年に、再び広岡文台を訪うて其死に驚く紀事に、「凡経八年南帰」と云つてあるからである。
霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。此年七月には或は既に入府してゐたやうにおもはれ、十二月には確に在府したことが、その自ら語る所に徴して知られる。
七月は霞亭の友鈴木小蓮の歿した月である。渉筆に、「遠恥東帰、開業授徒、享和癸亥七月、病麻疹而没、年纔二十五、府下識与不識、莫不悼惜者、親友輯其遺稿若干篇上木、予亦跋其後、小蓮残香集是也」と云つてある。先づ「府下」の字を下し、次で「親友」の字を下し、後に「予亦」の字を以て承けてゐる。わたくしをしてその在府者の語たるを想はしむるのである。
十二月には霞亭が舟を柳橋に倩うて、墨田川に遊んだ。同遊者には河崎敬軒があつた。又池隣哉と云ふものがあつた。河崎は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。
北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪初霽。予与二子。乗興出遊。遂到柳橋。命舟泛於墨水。両岸人家。白玉合成。銀閣瑤楼出其上。左右映帯。一棹悠々。挙酒賦詩。楽甚。隣哉出所齎香炉。一縷烟出窓外。真如坐画図中舟。幽遠清澹之趣。与塵凡隔。実一時之勝事也。」亨和中の諸生は香を懐にして舟に上つた。当時の支那文化は大正の西洋文化に優つてゐたやうである。
霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶韓凹巷が伊勢国から来て此行を偕にした。山陽は「学成、一藩侯欲聘致之、会聯玉来偕遊奥、以避之」と云つてゐる。
此北遊の年月はわたくしの未だ知らざる所である。しかし或は文化元年甲子二十五歳の時ではなかつただらうか。凹巷はかう云つてゐる。「松島偶同遊。柳橋訂此期。独奈河良佐。客中臨路岐。迢々彼遠道。共指天之涯。下毛路向東。十月朔風吹。(中略。)帯月発荒駅。衝雨尋古碑。塩浦過群嶼。宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」の句と、敬軒の別れ去つたことを叙する数句とに注目する。
わたくしは此詩句を取つて、姑く妄に下の如くに解する。霞亭の学術は前年癸亥に略成つた。歳晩の舟遊は、その新に卒業して気揚り興豪なる時に於てせられた。柳橋の船宿で艤を待つ間に、霞亭は敬軒と松島に遊ぶことを約した。即ち「柳橋訂此期」である。然るにかねて契つた敬軒は官事に覊せられて別を告げ、偶来つた凹巷が郷人に代つて行を同じくした。即ち「松島偶同遊、柳橋訂此期、独奈河良佐、客中臨路岐」である。柳橋の約はその訂せられた日より、その果たされた日に至るまで、多少の遷延を蒙つた。甲子の春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣を飜した。「下毛路向東。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。
二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から雨になつた。「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石港。探勝路逶。」
壮遊の興は此に至つて未だ尽きなかつた。わたくしは凹巷の詩に就いて、二人の鞋痕を印した道を追尋することとする。詩にはかう云つてある。「更登高館墟。長吁歎文治。(中略。)唯余中尊寺。遺構纔未。北対琵琶城。衣川長渺瀰。吹雪一関風。風刀劈面皮。帰途海浜険。魂断足胼胝。」
二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川を隔てて琵琶の柵の址を尋ね、一の関に至つて方に纔に踵を回した。琵琶の柵は泉の城の別名である。
帰路は海に沿うて南し、常陸の潮来に遊んだ。服部南郭の昔俗謡を翻した所で、当時猶狭斜の盛を見ることが出来たであらう。後安井息軒が東遊の日に至つてさへ、妓館屋牆の麗が旧に依つて存してゐたと云ふからである。凹巷の詩には「絃※[#「鼓/兆」、7巻-283-下-11]潮来夕、弛棹水中」と云つてある。
江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、(中略、)一別茫如夢、爾来歳月移」と云つてある。
北条霞亭は北遊より江戸に還つて、韓凹巷の西帰を品川に送つたが、其後幾ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。浪迹又何之。(中略)房山与相海。孤往愁可知。(中略)慨然懐往昔。寄我鴻台詩。」
此等の小旅行の月日は、わたくしは今これを審にせぬが、北遊の翌年、文化二年の歳の暮に、霞亭が今の上総国君津郡貞元村の湯江にゐたことは明である。渉筆にかう云つてある。「文化乙丑十二月。予遊南総。寓湯江村法岸精舎十余日。予与主僧二人而已。幽僻荒涼。除読書外無一事。一日天寒雪飛。林岫皓然。予緩歩遶庭園。俄而主僧温濁酒一瓶。摘蔬為羹侑予。予喜而謝。細酌間吟。頗得風致焉。蓋主僧憐予岑寂。倩村童遠※[#「貝+(人がしら/示)」、U+8CD2、7巻-284-上-15]得也。一枯禅山僧。能解人意如此。亦可嘉。」法岸寺と云ふ寺は今猶湯江にあるか、どうだか。
相模房総の遊後に、霞亭は再び北して越後に入つた。山陽の墓誌には「又寓越後」の四字が下してある。凹巷の詩にはかう云つてある。「去此客于越。章甫未必悲。越人虚席迎。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」
霞亭の越後に寓したのが、某年の春夏であつたことは、此凹巷の語に由つて知られる。そして某年は必ず文化四年でなくてはならない。何を以て謂ふか。渉筆に載せてある戊辰の記に下の一段があるからである。「去年仲春。主茨曾根関根氏。一夕与主人飲于斎中。大杯満酌。頽然酔倒。不知主人起去。夜将半渇甚。起視則篝燈々。寂無人声。啓戸窺庭。雪月争輝。満園之樹如爛銀。予不覚叫奇三声。惟恨無同賞心者。困憶子猷山陰之興。誦招隠詩数回。取雪水煮茶。兀坐達旦。其襟抱之清。不言可知。」茨曾根村は中蒲原郡白根町の南にある。丁卯三月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。
此北越の遊が文化四年であつたことは、上の文を草し畢つてから、凹巷の北陸游稿を見てこれを確証することを得た。此書はわたくしの曾て一たび蔵して、後これを失ひ、今又一書估の齎し来るに会つて購ひ求めたものである。游稿の序は亀田鵬斎が撰んでゐる。其文にかう云つてある。「友人志州北条子譲。丁卯歳先我游于信越之間。為北游摘稿数十篇。上梓以問世。」此に由つて観れば霞亭の游は啻に筆に上せられたのみならず、又梓にも上せられてゐるのである。
記して此に至つて、わたくしは再び霞亭南帰の問題に撞著する。霞亭は越後より南帰して、伊勢国度会郡林崎に駐まつた。此間の事を叙するに、山陽の筆は唯空間を記して時間に及ばない。
凹巷の詩には此事を叙してかう云つてある。「異郷雖可楽。故国有厳慈。学成勝衣錦。菽水想怡々。信中攀桟道。帰思日夜馳。別来已八年。訪我顧茅茨。(中略。)経過従此数。咫尺寓林崎。」わたくしは初め「別来已八年」の句を下の「訪我」に連ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後となる。別来の句は上に連ねて読まなくてはならない。即ち厳慈に別れてより八年である。
此八年と云ふことは、凹巷が他所に於ても亦云つてゐる。霞亭と其医学の師広岡文台とは、別後久しきを経て再会すべきであつたに、文台は期に先だつて歿した。凹巷の所謂「訪我顧茅茨」の日は、霞亭が此恨事を閲する直前と直後とにあつた。そして此事のあつたのは、霞亭が外にあること八年にして南帰した時であつたと云ふのである。
韓凹巷の記する所に拠るに、北条霞亭の南帰は、父適斎に別れてより後八年、其医学の師広岡文台に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に入つて、享和二年に京を去つたらしい。京にある間は毎歳帰省するを例としてゐて、享和二年にも亦父を見て後に遠遊の途に上つたのであらう。享和二年の後八年は文化七年である。
霞亭は寛政九年に京に入つて、直に文台に従学した。霞亭は「居無幾、先生帰伊州、予亦雲遊四方、数歳而帰郷、(中略)遂往訪則云、先生以本月朔病歿、今已六日、実文化七年三月也、夫知己相待之殷、以十三年離之久、期一見於二百里外、豈意其人既亡、臨之後事、即俾予此行、纔在数日前、尚及其目未瞑也」と云つてゐる。文台は文化七年三月朔に五十六歳で歿したのである。此渉筆の文より推せば、所謂十三年前は寛政九年で、文台は霞亭と始て相識つた年に、早く既に京を去つたらしい。所謂「居無幾」は一載にだに満たぬ月日であつた。
霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日を経た後であつた。上に略した文に、「数歳而帰郷、爾来簡牘往来、比々不絶、先生数促予命駕、予亦佇望已久」と云つてある。霞亭は七年の春早く的屋に帰つたかとおもはれる。
凹巷が文台の事を叙した文は下の如くである。其中には霞亭が郷を離れて後八年にして帰つたと云ふことと、師に別れて後十三年にして帰つたと云ふことと、両つながら見えてゐる。「広岡文台先生伊州人也。嘗在京洛。以医為業。鬱々不得志。久之帰郷。吾友北条子譲寓都下之日。一見即為知己。其後子譲浪遊四方。凡経八年南帰。先生数寄書慰問。率無虚月。今茲庚午三月子譲往訪先生。視履交其門。以為延客宴集。既通姓名。出迎者愀然云。先生罹疾奄逝。今已六日矣。子譲初聞為妄為夢。終乃悲而慟。蓋相別十有三年。訪之不遠二百里。欲一把臂吐其胸臆。而幽明無由再見。豈不悲乎。子譲此行本期前月。余因事泥之。子譲亦遷延不発。卒致此死別。遺憾其謂之何。」
以上引く所に従へば、霞亭南帰の時は略推定することが出来るやうである。
霞亭は文化七年三十一歳にして的屋に帰つた。その家に到り著いたのは、春未だ闌ならざる頃であつただらう。郷を離れてより八年の後であつた。
次で霞亭は一たび凹巷を伊勢に訪ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日であつた。別後十三年の事である。
霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥日、帰来過山口聯玉家、説其故」と云ひ、凹巷は「悵然帰来、過予告故」と云つてゐる。「故」とは文台が旧弟子に再会するに及ばずして歿したことを謂ふのである。後者の詩に、「訪我顧茅茨」と云つてあるのは、初度の訪問を斥して言つたものであらう。
霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢林崎院長」と書し、凹巷の詩には「経過従此数、咫尺寓林崎」と云つてある。
北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二月二十一日には嵯峨の竹里の家が出来た。霞亭の林崎生活は此間にあつた筈である。即ち晩春より次年仲春に至る一年の間である。
然るに韓凹巷の詩の此間の事を叙するを見るに、少しく疑ふべき所がある。「経過従此数。咫尺寓林崎。(中略。)紅葉添秋興。翠嵐和晩炊。(中略。)中間又何楽。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。(中略。)朝尋西塔路。山靄帯軽※[#「雨かんむり/斯」、U+29170、7巻-288-上-7]。下嶽過大原。奇縁遇浄尼。(中略。)采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄。上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。」林崎生活の中間に洛師の遊が介まつてゐて、それが春游であつた。遊び畢つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなくてはならない。辛未の春より初夏に至るまでは、霞亭が已に竹里にゐたからである。
霞亭は庚午の三月六日に広岡の家で旧師の死を聞いて、後事を営んだ。此間に多少の日子を費したことは、「恨歎弥日」と書したのを見て推せられる。
此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬であらう。そして此より初夏に入るまでに、霞亭は籍を林崎に置き、洛師の遊を作した筈である。果して然らば「紅葉添秋興」の事は、詩に於ては中間の遊に先つて写してあつても、実は中間の遊に後れてゐなくてはならない。此秋は洛師遊後の秋でなくてはならない。
想ふに林崎院長は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上に引いた詩句を除いては、別に見る所が無い。わたくしは唯其中に見えてゐる一の人物を抽き出して、此に註して置く。即ち「奇縁遇浄尼」の句中の浄尼である。
比丘尼、名は松珠、紀伊国人であつた。霞亭凹巷の二人が大原に遊んだ時、松珠は寂光院内の寂如軒に住んでゐた。そして二人を留めて軒中に宿せしめた。浜野知三郎さんのわたくしに借した書の中に、「芳野游藁」一巻がある。是は此遊に遅るること三年、癸酉の春、凹巷が河崎敬軒、佐藤子文及霞亭と偕に芳野に遊んだ時の詩巻である。凹巷等が当麻寺に於て松珠に再会したことは載せて巻中にある。
霞亭は庚午の夏より冬に至るまで、林崎にあつて文庫の書を渉猟し、諸生を聚めて経を講じ、又述作に従事した。山陽は「院蔵書万巻、因益致深博」と云つてゐる。凹巷は「堂上散書帙、聚徒垂絳帷」と云つてゐる。渉筆の一書の如きも亦此間に成つた。首に題してかう云つてある。「予読書之次。異聞嘉話。苟有会於心。随即録之。間或附一二管見。(中略。)頃消暑之暇。省覧一過。因抄若干条其中。為冊子。」末に「文化庚午夏日」と記してある。渉筆は秋に至つて刊行せられた。林崎書院の蔵板である。
霞亭は文化八年二月に林崎を去つて嵯峨に入つた。嵯峨樵歌は其隠遁生活の記録である。隠遁生活は霞亭の久しく願ふ所であつた。「勝地居新卜、此期吾自夙」と云ひ、「峨阜棲期自早齢、幽居先夢竹間」と云つてゐる。わたくしは此より樵歌の叙する所に就いて、霞亭が幽棲の蹟を討ねる。
北条霞亭の嵯峨生活は自ら三期に分れる。霞亭は初期は竹里に、中期は任有亭に、後期は梅陽軒に居つた。僧月江撰の嵯峨樵歌の跋は此の三期を列記して頗明晰である。「余近与霞亭北条君。結交於方外。君勢南人。性好山水。客歳携令弟立敬来嵯峨。初寓止竹里。中居任有亭。後又移梅陽軒。任有亭者吾院之所有。是以朝夕相見。交日以親焉。君深究経史。旁通群書。若詩若文。其所自適。信口命筆。自竹里之始。至梅陽之終。其間一朞年。所獲詩殆二百首。題曰嵯峨樵歌。」月江、名は承宣、所謂「吾院」は三秀院である。文は文化九年七月に草したもので、「客歳」は八年を謂ふ。
霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷は「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑」と云つてゐる。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋」と云つてゐる。
その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月予将卜居峨阜、留別社友諸君」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。発程の前には暫く宇清蔚の家に舎つてゐたらしい。「予将西発前日石田生過訪予於宇氏寓館」と云ふ語がある。発程の日には凹巷が送つて宮川の下流、大湊の辺まで来た。「卜居択其勝、相送宮水、大淀松陰雨、霑衣分手遅」と云つてゐる。
京に入るとき弟惟長が同行した。そして宇清蔚が来て新居を嵯峨に経営することを助けた。此間井達夫も来て泊つてゐた。惟長の事は、山陽も「挈弟」と云ひ、月江も「携令弟」と云つてゐる。移居当時の事は、樵歌に「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事、適井達夫在都、亦来訪、留宿三日、二月念一日、修営粗了」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢つたのであらう。
霞亭の卜する所の宅は、所謂竹里の居で、西に竹林を控へてゐた。林間の遺礎は僧涌蓮が故居の址である。樵歌に「宅西竹林、偶見有遺礎、問之土人、云是師(涌蓮)故居、廃已久矣」と云つてある。涌蓮、名は達空、伊勢国一身田の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集を遺して終つた。
霞亭の居る所の草堂を幽篁書屋と云ふ。「脩竹掩幽籬」と云ひ、「隣寺暮春静」と云ふ、並に凹巷が詩中の句である。「竹裏成村纔両隣」と云ひ、「隣是樵家兼仏寺」と云ふ、皆霞亭が書屋雑詠中の句である。堂の一隅に前主人の遺す所の紙屏一張がある。西依成斎が朱元晦の「酔下祝融峰作」を題したものである。「我来万里駕長風。絶壑層雲許盪胸。濁酒三杯豪気発。朗吟飛下祝融峰。」成斎、初の名は正固、後周行、字は潭明、通称は儀平、肥後の人で京都に居つた。樵歌には「祝」が「※[#「示+(蚣のつくり/儿)」、7巻-291-上-6]」又「※[#「木+(蚣のつくり/儿)」、7巻-291-上-6]」に作つてある。字書に※[#「示+兌」、U+7971、7巻-291-上-6]、の字はあるが、峰の名は祝融であらう。霞亭は朱子に次韻した。「勃々豪情欲起風。銀杯一掉灑書胸。胸中韜得乾坤大。何屑祝融千万峰。」
堂に書幌が垂れてある。恒心社同人の贈る所で、「冢不騫写大梅、韓君聯玉題詩其上」と云つてある。冢不騫、名は寿、大塚氏、不騫は其字、信濃国奈賀郡駒場駅の人である。
移居当時の客宇清蔚が辞し去つた時、霞亭は送つて京の客舎に至つた。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」
中の閏二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君亦出都門、望々幾翹跂」と云つてゐる。霞亭は粟田口の茶屋まで出迎へたのである。「痴坐亭中晩未回。先虚一榻預陳杯。眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
所謂好侶は田伯養、孫孟綽、河良佐、池希白である。樵歌に云く。「韓聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和、孫の名は公裕で、孫は自ら凹巷の内姪と称してゐる。
北条霞亭の竹里の家に宿つた韓凹巷等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽になつてゐた。
四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中河良佐と池希白とは、途上角鹿津に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養、孫孟綽の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂蘆竹杖である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋に入ることをなさずに、任有亭に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
任有亭は享保中僧似雲の住んだ故跡である。霞亭に「任有亭漫詠十五首」があり、又「題任有亭」「題似雲師肖像」の作がある。「聯結得一庵。斗大劣容躬。(中略。)嵐山当戸。堰水遶庭叢。(中略。)心跡何所似。人称今西公。(中略。)吾夙慕高概。隠迹行将同。何彼名利客。区々在樊籠。斯人今不見。目送冥々鴻。」これは「題任有亭」の五古中より意に任せて摘み来つた数句である。「人称今西公」とは当時の似雲を以て古の西行に比したのである。
任有亭にゐた間の霞亭の境遇には、特に記すべき事が少い。九月上旬には少しく疾むだ。「九日有登七老山之期、臥病不果、口占。望山不得登。対酒不思嘗。枕辺如欠菊。何以過重陽。」十九日には亡弟彦の法要を営んだ。此時僧月江が「薦北条子彦君霊」の詩を作つた。わたくしは此詩の一句に由つて三兄弟の長幼順序を知ることを得た。三人の最長者の霞亭なることは勿論であるが、次が夭折した彦、又次が惟長であつた。月江は「阿兄阿弟我相知」と云つてゐる。死者の阿兄が霞亭で、其阿弟が惟長だと云ふことになるのである。わたくしは系譜を見ることを須ゐずしてこれを知ることを得た。十月四日には入江若水の墓を弔した。若水、名は兼通、字は子徹である。嘗て僧似雲が任有亭にゐた時、若水は櫟谷にゐた。「跡つけてとはぬも深き心とは、雪に人待つ人の知るらむ」は、雪の日に似雲の若水に贈つた歌である。此日は享保十四年に若水の歿した忌辰であつた。
北条霞亭は辛未十月三日に任有亭から梅陽軒に移つた。「一年為客四移蹤。来去自由無物従。」此より嵯峨生活の後期に入るのである。林崎より竹里へ、竹里より任有亭へ、任有亭より梅陽軒へ、以上三移である。四移と云ふは、竹里と任有亭との間に市中に住んだ二旬余があるからであらう。
梅陽軒は空僧院である。「幽寺無僧住。随縁暫寄身。」院は竹林の中にある。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流芹川が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷を望み見る。「櫟谷寒燈々。芹渠暗水潺々。」前の四句は「初寓梅陽」の五律、後の二句は「梅陽雑興六言三首」より取つたのである。
霞亭は梅陽軒にある間、伊勢の友三人に訪はれた。宇清蔚、冢不騫、尾間生である。宇は大坂へ往くのに、往反ともに嵯峨に立ち寄つた。往路には霞亭が「楓葉為塵梅未開、非君誰肯顧蒿莱」と云つて迎へた。又反路には「雁断江天雪、梅開洛春、客中傷歳暮、況別故郷人」と云つて送つた。冢尾の二人は筑前の亀井南溟の塾に往く途次におとづれた。「声名他日当如此、持贈清香梅一枝」は、霞亭が餞別の詩の末二句である。冢は前に霞亭がために梅を書幌に画いた大塚寿である。
霞亭は猶梅陽軒にあつて、「歳暮」を賦し、「壬申元旦」を賦した。三十三歳の春を迎へたのである。元旦の詩の後には応酬の作二首、梅を尋ぬる作一首があつて、最後に歳寒堂の詩が載せてある。歳寒堂の詩の引にはかう云つてある。「今茲壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄客。瞻恋不忍去。宣上人贈亀山松、堰汀梅、峨野竹。院屏有売茶翁松梅竹三字。併見恵寄。予栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。命曰歳寒堂。(節録。)」想ふに霞亭は壬申の春の初に嵯峨を去つたのであらう。
辛未二月より六月に至る、竹里に於る初期、六月より十月に至る、任有亭に於る中期、十月より壬申の春初に至る、梅陽軒に於る後期、霞亭の嵯峨生活は此三期を合して約一箇年に亘つた。
此間の月日と日数とは、若し二三の前提を仮設することを嫌はぬならば、精細に算出することが出来るであらう。前提とは一、宇清蔚は霞亭と偕に竹里に来て、其「留宿三日」には二月二十一日をも含んでゐること、二、霞亭が竹里を去つて市中に住んだ「二旬余」を二十五日と算すること、三、壬申の正月猶梅陽軒に留まること一旬であつたとすることである。
此前提を取るときは、嵯峨生活の三期は下の如くになる。霞亭は辛未二月十九日に竹里に来て、六月四日に去つた。其間百三十三日である。四日に市に入つて二十八日に出た。其間二十五日である。二十八日に任有亭に来て、十月八日に去つた。其間百日である。八日に梅陽軒に来て、壬申正月十日に去つた。其間九十二日である。嵯峨生活の日数は通計三百五十日となる。霞亭に由緒書等の文書があるべきことは既に云つた。又仄に聞けば、霞亭の書牘数百通も其処に現存してゐるさうである。此仮定に幾許の差誤があるか、これを検することを得る時も、他日或は到るかも知れない。
北条霞亭は文化九年三十三歳の春初の比、父適斎の命に因つて、京都の市中に移つた。此市中の家が歳寒堂である。
歳寒堂は京都の何町にあつたか。わたくしは今これを知らない。しかし浜野氏のわたくしに借した書の中に、韓凹巷の「芳野游藁」がある。游藁の詩に、「知君昨自洛城西」の句がある。これは霞亭が、市に入つた次年の二月下旬に、関宿に往つて凹巷を待ち合せたことを言つたのである。霞亭が市中生活の末期には、歳寒堂は京都市街の西部にあつた。
霞亭は九年壬申の歳をいかに暮したか。わたくしは特に記すべき事をも有せない。只嵯峨樵歌の一巻は此年刊行せられた。菅茶山の序は「壬申孟夏」に成り、僧月江の跋は「壬申秋七月」に成つた。
そして月江の跋がわたくしに、おぼろげながら市中生活の内容を教へる。適斎は何故に其子をして市中に移らしめたか。跋の云ふ所に従へば、霞亭は徒を聚めて教授した。それが適斎の命であつた。適斎は嵯峨生活の徒食に慊なかつたらしい。其文に云く。「賢父母在堂。君(霞亭)因其命。今教授於京師。」
跋が又わたくしに霞亭の母の事をも教へる。父適斎は四年の後七十の賀筵を開く人で、此年六十六歳であつた。しかし母の猶堂にあつたことは、此文に由つて知ることが出来た。
此年十二月に霞亭は凹巷の書を得て、明年共に吉野に遊ばむことを約した。
霞亭は文化十年二月二十三日に関宿に赴いた。凹巷を迎へて共に吉野に遊ばむがためである。これが三十四歳の春である。備後に往く年の春である。
吉野の遊の成立を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文を節録する。「壬申臘月。河崎敬軒赴東府。帰期及花時。因約芳野之遊。時北条霞亭寓洛。余請明年二月会我于関駅。癸酉二月十九日。余拉佐藤子文発。枉路于北勢。廿二日到桑名駅。時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は佐藤子文と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に於て霞亭と会した。一行は霞亭、凹巷、敬軒、子文の四人である。子文は茶山集、驥日記等にも見えてゐる人である。
わたくしは此に凹巷の記に依つて、霞亭参加後の游蹤を追尋する。但原文には中間に一日づつの誤算がある。わたくしはこれを正して下に註して置く。
癸酉二月「廿四日発関駅。適雨至。宿于鹿伏兎。是夜雨甚。有叩門呼余(凹巷)名者。問之山内子亨也。」此より山内子亨が一行に加はつて五人になつた。
「廿五日宿于上野。」
「翌朝(二十六日)大雪。過青石嶺。宿于笠置。」
「廿七日登笠置山。下木津川。宿于郡山。」
「(二十八日)発郡山。到法隆寺。宿当麻寺前民家。」
「(二十九日)訪尼松珠于当麻寺中紫雲庵。登畝旁山。到岡寺。」
「廿九日(晦)発岡寺客舎。従桜井駅上談峰。大雨。投山店。」
「卅日(三月朔)宿于越部。」
「三月朔(二日)発越部。度芳野川下流。到賀名生。訪堀孫太郎宅。宿其家。」
「二日(三日)発賀名生。投芳野客舎。」
「翌日上巳(四日)値雨。遊桜本坊竹林院。」
「四日(五日)衝雨尋諸勝。晩観宮滝。」
「五日(六日)過蔵王堂。是日宿雨初晴。花開七分。」
「七日発六田。霞亭還洛。子亨従送之。」此より霞亭は山内子亨を伴つて京の歳寒堂に帰つたのである。凹巷等は此日赤埴に宿し、八日杉平に宿し、九日鶴宿に宿し、十日に凹巷の桜葉館に著した。主人は河崎、佐藤の二人を座に延いた。「故園吾館迎還好。桜葉陰濃緑満扉。」
わたくしは浜野氏の蔵書二三種を借り得て、其中に就いて北条霞亭の履歴を求め、年を逐うてこれを記し、遂に文化十年癸酉、霞亭三十四歳の時に至つた。霞亭は此年の三月七日に吉野の遊より帰つて六田に至り、伊勢の諸友と袂を分かつた。
然るに此三月七日より後には、年の暮るゝに至るまで、一事の月日を詳にすべきものだに無い。霞亭が京都を去つて備後に赴いたのは、其生涯の大事である。そして此の如き大事が、わたくしのためには猶月日不詳の暗黒裏に埋没せられてゐるのである。わたくしは唯山陽の「歳癸酉、遊備後」の語を知つてゐる。強ひて時間を限劃しようとしても、三月七日の後、十二月晦の前には填むべからざる空隙がある。
わたくしは霞亭に関する記載の頗不完全なるを自知しながら、忍んで此に筆を絶たなくてはならない。何故かと云ふに、癸酉以後の事蹟には、前に一巻の帰省詩嚢、一篇の嚢里移居詩を借り来つて、菅茶山の書牘に註脚を加へた後、今に至るまで何の得る所も無いからである。わたくしは最後に「薇山三観」の事を補記して置く。これも亦浜野氏の借覧を許した書の一である。
霞亭は黄薇に入つた後に、三原に梅を観、山南に漁を観、竹田に螢を観た。これが所謂三観である。
梅の詩は末に「右甲戌初春」と書してある。文化十一年正月で、備後に来てからの第二年である。
漁は鯛網である。其詩の末には「右丙子初夏」と書してある。螢の詩の末には「右丙子仲夏」と書してある。備後に来てからの第四年、文化十三年四月及五月である。彼詩嚢を齎した帰省の「出門」を七月であつたとすると、的屋の遊は踵を竹田の遊に接してゐる。
わたくしが霞亭に関する以上の事を記したのは、蘭軒を伝して文政六年に至り、其年十一月二十三日に茶山の蘭軒に与へた書を引いたから起つたのである。当時霞亭は既に江戸嚢里の家に歿してより九十五日を経てゐた。妻井上氏敬は神辺に帰る旅が殆ど果てて、「帰宅明日にあり」と云ふことになつてゐた。
茶山の書牘には、敬とこれに随従してゐた足軽との外、猶二人の名が出てゐる。其一は鵜川某である。「鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。」鵜川は子醇であらう。事は北条氏の不幸に連繋してゐる。
其二は牧唯助である。「むかしの臼杵直卿也」と註してある。五山堂詩話の牧古愚字は直卿、号は黙庵が、茶山集の臼杵直卿と同人であつたことが、此文に由つて証せられる。茶山の言ふ所は霞亭一家の事には与らない。
牧は当時江戸にゐた。松平冠山が何事をか茶山に託したので、茶山はこれを牧に伝へた。然るに「うんともすんとも返事無之候」であつた。茶山は蘭軒をして牧に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平縫殿頭定常で、実は池田筑前守政重の弟である。その茶山に託したのは何事か、今考へることが出来ない。
已に云つた如くに、わたくしは蘭軒の事を叙して文政六年に至り、菅茶山の十一月二十三日の書牘を引いた。此十一月二十三日より後には、年の尽るに至るまで、蘭軒の身上に一も月日を明にすべき事が無い。
※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-299-上-15]詩集は、二月十三日に酌源堂に詩会を催し、宿題看梅に就いて詩を闘はした後、僅に詩四首を載せてゐるのみである。そしてそれが皆季節に拘束せられぬ作である。
最初に題画一首がある。わたくしはこれを擺去する。次に「偶成」「自笑」の二絶がある。人間不平の事が多い。少壮にして反撥力の強いものは、これを鳴らすに激越の音を以てする。蘭軒は既に四十七歳である。且蹇である。これに応ずるに忍辱を以てし、レジニアシヨンを以てするより外無い。偶成に云く。「金玉難常保満盈。鬼神猶是妬高明。要航人海風濤険。無若虚舟一葉軽。」しかしわたくし共の経験する所を以てすれば、虚舟と雖、触るれば必ずしも人の怒を免れない。自笑に云く。「愛酒等間任歳移。読書不復解時宜。検来四百四般病。最是難医我性痴。」一肚皮は時宜に合はない。病は治すべくして、痴は治することが出来ない。これも亦レジニアシヨンの語である。
最後にこんな詩がある。「近日児信重儲古銭数枚、朝夕翫撫、頗有似酒人独酔之楽、因賦一詩。漢唐貨幣貴於珠。千歳彰然証両銖。光潤方分潜水土。斑更愛帯青朱。堪想求古※[#「勹<亡」、U+5304、7巻-300-上-4]児癖。無受如兄俗客汚、自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。註云、乞児猶乞古銭、事見蒙斎筆談、謝在杭五雑組、演為一話、世多以為始自謝氏者陋矣。」
蘭軒の三子柏軒が古銭を集めることを始めた。狩谷斎の古泉癖は世の知る所である。「歴代古泉貨幾百品。自幼之時愛玩之。或遇清間興適。攤列※[#「片+総のつくり」、U+245C9、7巻-300-上-10]間品評之。」其子懐之、其忘年の友渋江抽斎も亦古泉を翫んだ。現に同嗜の人津田繁二さんは「新校正孔方図鑑」と云ふ書を蔵してゐる。懐之の「文化十二年嘉平月二日」の識語があるさうである。当時懐之は年甫て十二であつた。按ずるに斎は識語を作るに当つて名を其子に藉りたのであらう。しかし斎が蚤く懐之に其古泉癖を伝へたことも、亦疑を容れない。此年十四歳の柏軒が古泉を愛するに至つたのは、恐くは懐之等が導誘したためであらう。懐之は柏軒より長ずること六歳であつた。
わたくしは此詩に由つて蘭軒自己に古泉癖が無かつたものと推する。「自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。」柏軒の愛泉は伊沢氏に於ては未曾有の事であつたらしい。
此詩の自註に、蘭軒は蒙斎筆談を引いて、「乞児猶乞古銭」と云ふ事の典拠を示してゐる。これは尋常人が五雑組に出でてゐると謂ふべきを慮つて、其非なることを言つたものである。一事に逢ふ毎に考証の詳備を期するのは、固より蘭軒の本領である。
わたくしはこれを読んで、乞児も猶古銭を乞ふとはいかなる事を謂ふかと云ふ好奇心を発した。
わたくしは蘭軒詩註の「乞児猶乞古銭」と云ふことを知らんと欲した。蘭軒の典拠として取らぬ五雑組は手近にあるので、わたくしは直にその所謂「演為一話」と云ふものを検した。
秦の士に古物を好むものがあつた。魯の哀公の席を買はむがために田を売り、太王※[#「扮のつくり+おおざと」、U+90A0、7巻-301-上-7]を去る時の策を買はむがために家資を傾け、舜の作る所の椀を買はむがために宅を売つた。「於是披哀公之席。持太王之杖。執舜所作之椀。行丐於市曰。那箇衣食父母。有太公九府銭。乞我一文。」これが謝在杭の演し成した一話であるらしい。
然らば此話の本づく所は何であるか。わたくしは蒙斎筆談を見んと欲して頗る窮した。蒙斎筆談とはいかなる書か。試に書目を検すれば、説郛巻二十九、古今説海の説略、学海類篇の集余四記述、稗海第三函等に収められてゐる。説郛と学海類篇とには、著者の名を宋鄭景璧としてあり、古今説海と稗海とには宋鄭景望としてある。恐くは同一の書で、璧と望との名を殊にしてゐるのは、一は是にして一は非であらう。
只憾むらくは、書を蔵することの少いわたくしは、説郛以下の叢書を見るに由なく、又性疎懶にして図書館の恩蔭を被ることが出来ない。そこで姑く捜索の念を断つこととした。想ふに謝氏の演し成す所の話が僅に十数行であるから、蒙斎筆談の文は二三行に過ぎぬであらう。
以上書き畢つた時、弟潤三郎が説郛を抄して寄示した。「頃有嘲好古者謬云。以市古物不計直破家。無以食。遂為丐。猶持所有顔子陋巷瓢。号於人曰。孰有太公九府銭。乞一文。吾得無似之耶。」吾とは著者自ら謂ふのである。説郛本は鄭景壁と署してあつて、「土」に从ふ「壁」に作つてある。
蘭軒は此年文政六年に阿部正精に代つて「刻弘安本孝経跋」を草した。原来伊沢の家では、父信階の時より、毎旦孝経を誦する例になつてゐたので、蘭軒は命を承けて大いに喜んだ。「今也公(正精)跋此書。儒臣不乏於其人。而命信恬草之。寵遇之渥。豈可不恐惶乎。」
阿部侯の蔵する所の此孝経は弘安二年九月十三日の鈔写に係る巻子本で、「紙質精堅、筆蹟沈遒」である。侯はこれが刊行を企てて、蘭軒に跋文を草することを命じた。
然らば此所謂弘安本とはいかなる本か。わたくしはこれを説明するには、孝経のワリアンテスの問題に足を踏み入れなくてはならない。そのわたくしのために難問題たることは、前に経音義を説明するに臨んで言つた如くである。その過誤は好意ある人の教を待つて訂正する外無い。
孝経は著者不詳の書である。通途には孔子の門人の筆する所だとなつてゐる。此書の一本に「古文孝経孔氏伝」がある。孔氏とは孔安国で、孔子十一世の孫である。此孔伝が果して孔安国の手に成つたか否かは、亦復不詳である。孔伝は梁末に一たび亡びて、隋に至つて顕れたので、当時早く偽撰とせられたことがある。
しかし隋唐の世には、此の如き異議あるにも拘らず、孔伝が鄭注と並び行はれた。鄭は鄭玄である。それゆゑ大宝元年の学令に、「凡教授正業、周易鄭玄王弼注、尚書孔安国鄭玄注、三礼毛詩鄭玄注、左伝服虔注、孝経孔安国鄭玄注、論語鄭玄何晏注」と云つてある。
わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部正精に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
孔伝の我国に存してゐたものには数本がある。年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である。享保年間に此種の一本が清商の手にわたつて、鮑廷博の有に帰し、彼土に於て飜刻せられた。次で林述斎は弘安本を活字に附して、逸存叢書の中に収めた。
以上が阿部侯校刻前の孔伝の沿革である。然らば述斎の既に一たび刻したものを、棕軒侯は何故に再び刻したか。「林祭酒述斎先生。悲其正本遂堙滅。以弘安本活字刷印。収之於其所輯逸存叢書中。字画悉依旧。学者以飫也。余閲其本。自有叢書辺格。故不得不換旧裁。亦不無遺憾焉。」阿部本は林本の旧裁を換へたのに慊ぬがために出でたのである。
孔伝は安国に出でたと否とを問はず、兎も角も隋代の古本である。蘭軒はこれを尊重して、喜んで阿部侯に代つて序文を草した。しかし蘭軒は孝経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
わたくしは上に伊沢の家で毎旦孝経を誦するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂石台本である。此重注石刻は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の石台本が行はれた。
我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院実隆の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池の校刻した本は是を底本としてゐる。
そこで狩谷斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。
わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
頼氏では此年三子又二郎が生れた。復、字は士剛、号は支峰である。里恵の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊えたので、丸山の阿部邸には一種便安舒暢の気象が満ちてゐたかとおもはれる。
蘭軒には自家の「甲申元旦作」よりして外、別に「恭奉元日即事瑤韻」の作があつた。初の一首に云く。「霞光旭影満東軒。臘酒初醒復椒尊。春意々忘老至。懶身碌々任人論。烟軽山色青猶淡。節早梅花香已繁。尤喜吾公無疾病。聞鶯珠履渉林園。註云、客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職、而至冬大痊、幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣、為不乏矣、公日行渉為娯、故結末及之。」此詩には阿部侯の次韻があつて、福山の田中徳松さんが其書幅を蔵してゐる。「和伊沢信恬甲申元日韻。芙蓉積雪映西軒。恰是正元対椒尊。荏苒年光歓病瘉。尋常薬物任医論。一声青鳥啼方媚。幾点白梅花已繁。自値太平和楽日。間身依杖歩林園。」是は梅田覚太郎さんが写して贈つたのである。蘭軒原作の註は前に正精の請罷の事を言ふに当つて、已に一たび節録したが、今此に全文を挙げた。後の一首に云く。「標格高如千丈松。儼然相対玉芙蓉。歌兼白雪添堂潔。毫引瑞烟映桷。竹色経寒猶勁直。梅花得雨自温恭。昇平方是宜游予。満囿春風供散。」憾むらくはわたくしは未だ阿部侯の原唱を見ない。
菅茶山の歳首の詩は、一家の私事の外に出でなかつた。「元日得頼千祺書、二日得漆谷老人詩。鳥語嚶々柳挂糸。春来両日已堪嬉。更忻此歳多佳事。昨得韓書今白詩。」千祺が杏坪の字なるは註することを須ゐぬであらう。漆谷は市河三陽、小野節二家の説を聞くに、後藤氏、名は苟簡、字は子易、一字は田夫、又木斎と号した。北条霞亭の尺牘に拠るに、通称は弥之助である。讚岐の商家に生れ、屋号を油屋と云ふ。前年備後に来て、茶山と親善であつたことは、後者の癸未以後の詩に徴して知られる。
茶山は此正月二日の詩に於て、単に家事のみを語つてゐるが、別に新年の五律があつて、「藩政俗差遷」と云ひ、又「救荒人忘旱」とも云つてゐる。前年は備後が凶歉であつた。
蘭軒は此年文政七年に春の詩四首を得た。前に載せた元日の二首の次には「早春偶成」と例の「豆日草堂集」とがある。わたくしは唯此に由つて蘭軒が甲申の正月元日にも又友を会して詩を賦したことを知るのみである。
神辺では菅茶山が人日に藩士数人を集へて詩を賦した。「客迎英俊是人日、暦入春韶徒馬齢」の一聯がある。茶山の春初の詩は頗多い。前に出した阿部正精の辞職の詩に次韻した九首も其中にある。
正月十九日に正精は丸山より小川町の本邸に徙つた。蘭軒は旧に依つて丸山に留まつた。
三月十六日には、勤向覚書に下の記事がある。「若殿様御額直御袖留為御祝儀、両殿様え組合目録を以て御肴一種づつ奉差上候。」若殿様は寛三郎正寧である。
四月には「首夏近巷買宅、以代小墅」の詩がある。「巷東小築別開園。樹接隣叢緑影繁。半日清間纔領得。紅塵場裏亦桃源。」家計に些の余裕があつたものか。宅を買ふと云ふより見れば、阿部邸の外の町家であらう。
蘭軒は此夏啻に別宅を設けたばかりでなく、避暑の旅をもしたらしい。その何れの地に往つたかは、今考ふることが出来ぬが、「山館避暑」、「門外追涼」の二詩は蘭軒の某山中にあつたことを証する。「山館避暑。行追碧澗入山逕。垂柳門前有小橋。素練一条懸瀑水。緑天十畝植芭蕉。竹窓安硯池常沢。苔石煮茶鼎忽潮。即是羲皇人不遠。松風無復点塵飄。門外追涼。烟暮山光遠。月升樹影長。新涼身自快。迂路歩相忘。虫語莎叢寂。鷺驚荷沼香。時逢村女子。数隊踏歌行。」門外の山館門外なることは疑を容れない。わたくしの二詩を併せ録する所以である。
わたくしは此より月日不詳の夏の詩の遺れるを拾はうとおもふ。しかし勤向覚書に、これに先つて書すべき一条がある。それは嫡子榛軒が父に賜はつた服を著ることを許された事である。「五月三日左之願書付、相触流玄順を以、大御目付稲生伝右衛門殿え差出候処、今日角右衛門殿差出され候処、御受取被置、同七日願之通勝手次第と被仰付候。口上之覚。私拝領仕候御紋付類、悴良安え著用為仕度奉願上候以上。五月三日。伊沢辞安。但糊入半切認、上包半紙折懸、上に名。」
集中には夏の詩が凡六首ある。其中別宅の事を言ふ一首と避暑の事を言ふ二首とは既に上に見えてゐる。剰す所が猶三首ある。
「売冰図。堅冰六月浄々。叫売歩過入軟塵。応是仙霊投砕玉。活来熱閙幾場人。」売冰は何の国の風俗であらうか。当時の江戸に冰を売るものがあつたか、どうかは不詳である。明治年間幾多の詩人は識らずして此詩を踏襲した。
「松琴楼題長谷川雪旦画松魚。」松琴楼は料理店松金で、湯島天満宮境内、今の岩崎氏控邸の辺にあつた。此楼に上つて雪旦の松魚の画に詩を題したのであらう。詩は略する。
夏の詩の最後の一首は松平露姫の事に繋る。露姫は松平縫殿頭定常の女である。幼にして書画歌俳を善くした。二年前疱瘡に罹り、六歳にして夭した。蘭軒は其遺墨拓本を得て、これに詩を題したのである。
蘭軒の松平露姫の遺墨に題した詩には小引がある。「冠山老侯賜其令愛遺墨搨本。令愛齢僅六歳。吟意間雅。筆蹟婉美。頗驚人目。以文政壬午十一月廿七日夭。所謂梅花早発。不覩歳寒者哉。乃賦書中乾蝴蝶詩。謹書其末云。」書中乾蝴蝶の詩はかうである。
「蝶風前舞不休。粉金飜翅縦春遊。芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
露姫の父冠山定常は佐藤一斎の門人である。一斎の「愛日楼文」は冠山が稿本を借鈔し、小泉侯遜斎片桐貞信の抄する所の詩と与に合刊したものである。書中に「跋阿露君哀詞巻」の一篇がある。わたくしは此にその叙実の段を抄出する。「冠山老侯之季女阿露君。生而聡慧。四五歳時。既如成人。届文政壬午十一月。以痘殤。齢六歳也。検篋笥。得遺蹟。上父君諫飲書一通。訣生母蔵頭和歌一首。訣傅女乳人和歌一首。題自画俳詞三首。又得一小冊子。手記遺戒数十百言。及和歌若干首。理致精詣。似有所得者。至於遺戒。往々語及家国事。亦誠可驚矣。既而事稍々伝播。聞之者無不驚異。而弔詞哀章。陸続駢至。老侯追悼之余。而軸之。徴坦為跋。」一斎は此段に接するに議論を以てしてゐる。そしてかう云ふ断案を下した。「或者宇宙間至霊鬼神。姑憑是躯以洩気機者。究之。与夫木石而能言者之不可思議奚以異。而尚可待以人而詰以理乎哉。」
わたくしはこれを読んで、広瀬淡窓が神童を以て早熟の瓜となしたことを憶ひ出した。若し同一の論理を以て臨んだなら、露姫は温室の花であらう。これは常識の判断である。
一斎はこれに反して露姫の夙慧を「有物憑焉」となした。わたくしはペダンチツクに一斎の迷信を責めようとはしない。しかし心にその可憐の女児を木石視したるを憾とする。若し文章に活殺の権があるとするなら、一斎の此文は箇の好題目を殺了したと云はざることを得ない。
今わたくしの手許に「淡窓小品」が無いので、広瀬の文を引くことが出来ぬが、広瀬は禅家の口吻を以て常識を語つてゐた。然るに佐藤は道学者の語を以て怪を志してゐる。わたくしは此対照の奇に驚く。わたくしは早熟の瓜をも取らず、能言の木石をも取らない。わたくしは姑く蘭軒の乾蝴蝶に与して置かう。「芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
秋は※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-309-下-9]集に詩四首がある。「秋夕書事三首」と閏八月十五日に月を観た詩一首とである。後詩の引を見るに、江戸の中秋は無月であつた。菅茶山の集を閲すれば、先づ十三夜には雨中に月が出た。「更深月出雨仍灑。照見銀糸垂半天。」十四夜は陰つてゐた。「秋郊醸雨気蒸。来夜佳期雲幾層。」然るに幸に十五夜に至つて晴れた。「客逐秋期可共娯。況逢新霽片陰無。奈何天上団円影。不照牀頭一小珠。」末に「半月前喪姪孫女」と註してある。
所謂「姪孫女」とは誰であらうか。わたくしの手許には福田禄太郎さんが黒瀬格一さんに請うて写し得た菅波高橋両家の系図がある。又此年甲申八月十七日後に茶山が蘭軒に寄せた尺牘がある。わたくしは此系図と尺牘とに就いて、姪孫女の誰なるかを究めて見ようとおもふ。原来姪孫女の称呼には誤解し易い処がある。しかし茶山の斥して言ふ所は「姪孫之女」ではなく、「姪之孫女」であるらしい。
わたくしは蘭軒の事蹟を叙して此年文政七年の秋に至り、八月十五日の夜、蘭軒が江戸に於て無月に遭ひ、菅茶山が神辺に於て良夜に会したことを言つた。茶山は良夜には会したけれども、歓を成すことを得なかつた。それは半月前に姪孫女を失つたからである。わたくしは系図と茶山の書牘とに由つて、此女児の誰なるかを検せようとした。
わたくしは便宜上先づ茶山の書牘を挙げたい。しかし此書牘は月日を闕いてゐて、只其内容より推して八月十七日後、少くも十数日を経て書いたものなることが知られるのである。それゆゑわたくしは此に先づ八月十七日前の事を略記して置いて、然る後に茶山の書牘に及ぶことゝする。
八月十六日は蘭軒が何事をも記してゐない。茶山は二客と倶に酒を飲んだ。宵闇の後、明近くなつて月を得た。「向暁門前笑語攅。喧言明月現雲端。」
十七日は北条霞亭の一週年忌である。江戸では蘭軒が柴山某等と共に墓に詣でた。事はわたくしの将に引かむとしてゐる茶山の書牘中にある。神辺では茶山が明月の下に詩を賦して哀を鳴らした。「十七夜当子譲忌日。去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍円月。応照江都宿草墳。」
さて月日不詳の茶山の柬牘は下の如くである。是も亦饗庭篁村さんの蔵する所に係る。
「御返事。」
「公作御次韻御前へ出候由、大慶仕候。元来局束にこまり候故、次韻は別而出来兼候。御覧にも入候而、御称しも被下候由、難有仕合に奉存候。」
「拙集はよほど前に大坂飛脚に出し候。とく参候半と被存候処、今以不参候よし、いよ/\不参候はば又之便に御申こし可被下候。吟味可仕候。」
「度々御前へ御出被成候よし委曲被仰下、於私も拍悦の御事に候。」
「妙々奇談珍敷奉存候。一覧直に宜山へ遣し候。」
「御三男様御作吐舌申候。被仰候事を被仰下、辞気藹然感じ申候。私方菅三も十五になり候。詩少しつくらせ候へ共きこえ不申候。」
「鵬斎ながき事有之まじく候由気之毒に候。焚塩すきと承、よき便あらばと存候へ共、さ候へば却而邪魔ものなるべし。」
「木駿卿前遊に逢不申、今以て残念に候。宜被仰可被下候。」
「此比霞亭一週忌柴山など墓参被成下候由、宜御礼御申可被下候。」
「中秋光景被仰下忝奉存候。備後の中秋有拙詩、うつさせ指上候。悪作御一笑可被下候。」
「扨おとらへよき物被下忝奉存候。然所流行痢疾にて八月三日相果候。(廿八日よりわづらひ付候は夜四つ時、死候は朝五つ時、其間三日計也。)お敬はじめ哀傷御憐察可被下候。」
「玄間学屈原候こといかなるわけに候哉。国に居候時も阿堵に不埒多きをのこ、定而其事なるべし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」
「梧堂金輪時々おもひ出候。和尚に御逢被成候はば、宜御申可被下候、草々。晋帥拝白。」
わたくしの引いた所の菅茶山の書牘が、此年文政七年八月十七日の後少くも十数日を経て作られたと云ふことは、蘭軒等が北条霞亭の忌辰に当つて、其墓に詣でたのが、既に茶山に知られてゐるを以て証することが出来る。蘭軒と同じく墓を訪うた柴山は、嘗て蘭軒の集に見え、又狩谷斎の元応音義の跋に見えてゐる柴担人ではなからうか。蘭軒は又柴山謙斎と云ふものの家に往つて詩を賦したことがある。謙斎と担人とは同人か異人か。此には暫く疑を存して置く。
わたくしは書牘の月日を推定せむがために、既に「霞亭一周忌」云々の段を挙げて、今直にこれに接するに新に亡くなつた女児の事を以てする。是は甲申中秋の月が照すに及ばなかつた黄葉村舎牀頭の小珠の何物なるかを究めむがためである。
女児は名を「おとら」と云つたらしい。文中此仮名の三字は頗る読み難い。わたくしは字画をたどつて「おとら」と読んだ。しかし「おとう」とも「おこう」とも読まれぬことは無い。
蘭軒はおとらに物を贈つた。然るに物の到つた時、おとらは既に死んでゐた。七月二十八日亥の刻に流行性痢疾の徴を見、八月三日辰の刻に死んだのである。甲申の七月は小であつたから、発病より死に至るまでは陰暦の五十一時間である。茶山は約して「其間三日許に候」と云つてゐる。
おとらが死んでから第十三日が八月既望である。「十五夜」の詩の註には「半月前喪姪孫女」と云つてある。牀頭の小珠が此おとらであることは固より疑を容れない。
然らばおとらは誰の子か。姪孫女とは茶山の同胞の子の娘か、将茶山の同胞の孫の女か。わたくしは菅波高橋両家の系図を披いて見た。茶山の弟汝、晋宝、妹ちよ、まつには皆子があり、其子に女があり、中に夭折した女がある。わたくしは其中に就いて捜すこととした。何故と云ふに更に下ること一代となると、年月が合はなくなるからである。例之ば弟汝の子万年の女類は夭折の年月或は契合すべく、更に下つて万年の子菅三の女通となると、明に未生の人物となる。
わたくしの捜索の範囲は茶山の書牘の一句に由つて頗る狭められた。それは「お敬はじめ哀傷御憐察可被下候」の語である。敬は亡くなつた女の母らしい。
男系より見れば敬は茶山の弟汝の子万年に嫁した婦である。女系より見れば敬は茶山の妹ちよの井上正信に嫁して生んだ女である。
しかし万年と敬との間には女子が無い。系図は敬の女を載せない。
是に於てわたくしは、彼牀頭の小珠が北条霞亭の敬に生ませた女だらうと云ふことに想ひ到つた。おとらは山陽の「生二女、皆夭」と書した二女の一であるらしい。若しさうだとすると、未亡人敬の帰郷の旅は幼女を伴つた旅であつたこととなる。又蘭軒は前年見送つて江戸を立たせた孤に物を贈つたこととなる。
わたくしの上に引いた菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘には、直接間接に十三人の事が見えてゐる。其中わたくしは既に第一故北条霞亭、第二霞亭の未亡人敬、第三其幼女とら、第四霞亭の墓に詣でた柴山某の四人に関する書中の二節を挙げて、これが解釈を試みた。
第五は書の首に見えてゐる棕軒侯である。侯は茶山の次韻の詩を見て称讚した。「中歳抽簪為病痾」の七律とこれに附した八絶とである。茶山は「御覧にも入候而御称しも被下候由、難有仕合に奉存候」と云つてゐる。茶山は又蘭軒が侯に親近するを聞いて、友人のために喜んでゐる。「度々御前へ御出被成候よし、委曲被仰下、於私も拍悦之御事に候。」
第六は侯の儒臣鈴木宜山である。蘭軒は江戸に於て妙妙奇談の発刊せらるるに会ひ、一部を茶山に送致した。茶山は読み畢つて、これを宜山の許に遣つた。宜山は福山にあつて大目附を勤めてゐたのである。
第七は侯の医官三沢玄間である。書に「学屈原候こといかなるわけに候哉」と云つてある。これはどうしたと云ふのであらうか。水に赴いて死したのであらうか。玄間は俗医にして処世の才饒き人物であつたらしい。初め町医より召し出された時、茶山はこれを蘭軒に報じて、その人に傲る状を告げた。今其末路を聞くに及んで、「国に居候時も阿堵に不埒多きをのこ、定而其事なるべし」と云つてゐる。しかし茶山が哀矜の情は、其論賛に仮借の余地あらしむることを得た。「しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ(中略)可惜ことに候。」
第八は亀田鵬斎である。当時既に中風の諸証に悩されてゐた。「ながき事有之まじく候よし気之毒に候。」茶山は鵬斎の焼塩を嗜むことを知つてゐて、便を待つて送らうとおもつてゐた。しかし蘭軒の病状を報ずるに及んで躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」
想ふに茶山は鵬斎死期の近かるべきを聞いてゐて、妙々奇談中鵬斎を刺る段を読み、「気之毒」の情は一層の深きを加へたことであらう。譏刺は立言者の免れざる所である。死に瀕する日と雖も、これを免るることは出来ない。
蘭軒の予後は重きに失した。鵬斎は余命を保つこと猶一年半許にして、丙戌の暮春に終つた。此時七十三歳で、歿した時は七十五歳であつた。
第九は木村定良、第十は石田梧堂、第十一は金輪寺混外で、皆茶山が蘭軒をして語を致さしめた人々である。中に就いて木村は茶山が甲戌乙亥の遊に相見ることを得なかつたために、茶山は今にるまで憾とすると云つてゐる。
第十二第十三は蘭軒の三子柏軒と茶山の養嗣子菅三惟繩とである。蘭軒は柏軒の詩を茶山に寄示した。茶山はこれを称めて、菅三の詩の未だ工ならざることを言つた。書に「菅三も十五になり候」と云つてある。然らば惟繩は文化七年の生であらう。敬は霞亭に嫁する五六年前に、とらと其姉妹との異父兄惟繩を生んだのである。
菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘中、わたくしの註せむと欲する所は概ね既に云つた如くである。しかし猶茶山の蘭軒に送つた詩集の事が遺つてゐる。「よほど前に大坂飛脚に出し候」と云ふ詩集が久しく蘭軒の許に届らなかつた。
按ずるに是は「黄葉夕陽村舎詩後編」である。此書には「庚辰孟夏日」の武元君立の書後、「辛巳十二月」の北条霞亭の序がある。辛巳は霞亭の江戸に入つた年である。わたくしは前に辛巳五月二十六日に茶山が霞亭に与へた書の断片を引いて、「先右序文いそぎ此事のみ申上候」とある序文は何の序文なるを詳にせぬと云つたが、今にして思へば茶山が詩集後篇の序文を霞亭に求めたことは、復疑ふことを須ゐない。既にして詩集後編は発行せられた。其奥附には「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と記してある。校閲は庚辰に終り、序文は辛巳に成り、剞は癸未に終つた。その市に上つたのは恐くは甲申の春であらう。茶山は当時直に一部を蘭軒に寄せたのに、其書が久しく届かずにゐたのである。
詩集の事よりして外、わたくしは今一つ此に附記して置きたい。それは茶山の病の事である。行状に拠るに茶山は「噎」を病んで歿した。当時病牀に侍した人の記録は、一としてわたくしの目に触れぬから、わたくしは明確に茶山の病名を指定することは出来ない。しかし推するに茶山は食道癌若くは胃癌に罹つて歿したのであらう。
わたくしの附記して置きたいのは、茶山の病が独り此消食管の壅塞即所謂噎のみではなかつたと云ふことである。わたくしは上の甲申旺秋後の茶山の書牘を引くに当つて、其全文を写し出した。しかし彼書牘には尚傍註の一句があつた。そしてそれが括弧内にも収め難いものであつた。茶山は病める鵬斎に焼塩を送らむと欲して、その病の篤きを聞いて躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」此「而」の字の中の縦線二条が右辺に逸出してゐる。茶山は「而」の字より横に一線を劃して一句を註した。「この而のか様になり候様に引つける也。」乃ち知る、茶山は上肢に痙攣を起すことがあつたのである。是は恐くは消食管壅塞の病に聯繋した徴候ではなからう。恐くは別の病証であらう。専門臨床家の説が叩きたいものである。
わたくしは上に此年の北条霞亭一週忌の事を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺に於ては茶山が月下に思を墓畔の宿草に馳せた。わたくしは既に甲戌に茶山の江戸に入つたことを言つて、其留守居の霞亭なりしことに及んだ。霞亭を説くこと一たびである。次に辛巳に霞亭の江戸に入つたことを言つた。霞亭を説くこと二たびである。次に癸未に霞亭の歿したことを言つた。霞亭を説くこと三たびである。今其一週忌に当つて、又霞亭の事を言ふ。即ちこれを説くこと四たびである。そして料らずも其一女の名を発見することを得た。
しかし諸友はわたくしのために霞亭の遺事を捜索して未だ已まない。わたくしは読者に寛宥を乞うて、下に少しく諸友の告ぐる所を追記しようとおもふ。
わたくしは此年文政七年の北条霞亭一週忌の事を言つた。そして新に得たる史料に拠つて、霞亭の遺事を其後に追記しようとおもふ。史料とは何であるか。その最も重要なるものは第一、「北条譲四郎由緒書」である。是は浜野知三郎さんが阿部家の記録に就いて抄写して示した。次は第二、「楝軒詩集」である。是は福田禄太郎さんが写して贈つた。最後に第三、嚢里に関する故旧の談話である、是も亦浜野氏の教ふる所である。
霞亭解褐の年は、わたくしは岡本花亭の尺牘に本づいて辛巳となした。花亭は壬午九月四日に「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてゐる。
しかし花亭の語は詳でなかつた。由緒書に徴するに、「文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様」と云つてある。山陽の「福山藩給俸五口、時召説書」と書したのが是である。花亭は解褐の年即東徙の年となしてゐたが、実は解褐の東徙に先つこと二年であつた。霞亭は己卯四十歳にして既に阿部家の禄を食んだ。
次は霞亭東命の月日である。わたくしは菅茶山の辛巳五月二十六日の書柬に本づいて、霞亭が此年の春杪夏初に江戸に入つたものとした。
此推測には大過は無かつた。由緒書に徴するに、「同(文政)四巳四月十三日御用出府、同年六月七日暫御差留、同日丸山学問所へ罷出、講釈其外書生取立、御儒者と申合候様、同月十三日三十人扶持被下置、大目附格御儒者被召出、同日奥詰出府之所在番」と云つてある。山陽の「尋特召之東邸、給三十口、准大監察」と書したのが是である。
按ずるに四月十三日は藩の東役を命じた日であらう。そして六月七日の「暫御差留」が入府直後の処置ではなからうか。然らばわたくしの推定は大過は無かつたと云ふものの、猶詳なることを得なかつた。霞亭の入府は恐くは六月の初であつただらう。夏初ではなくて季夏の初であつただらう。
霞亭は夏初には猶備後にゐたらしい。わたくしは楝軒詩集に拠つて此の如くに断ずる。楝軒は浅川氏、名は勝周、字は士、通称は登治右衛門、茶山の集に累見せる「浅川」である。
楝軒詩集は五巻ある。其巻四辛巳の詩中に、「送霞亭北条先生応召赴東都」の七律がある。そして「特招元有光輝在、莫為啼鵑思故園」は其七八である。此詩の前には水晶花の詩がある。水晶花は卯花であらう。卯花と云ひ、郭公と云ふは、皆夏の節物である。霞亭は夏に入つて猶福山にゐたのである。
しかし此差は猶小い。わたくしは別に大いに誤つたことがある。それは霞亭が東に召された時初より孥を将て徙つたとなした事である。実は霞亭は初め単身入府し、尋で一旦帰藩し、更に孥を将て東徙した。此事は夙く浜野氏が親くわたくしに語つた。若しわたくしが精しく山陽の文を読んだなら、此の如き誤をばなさなかつたであらう。山陽は「尋特召之東邸、給三十口、准大監察、将孥東徙、居丸山邸舎」と書してゐる。東に召すと東に徙るとは分明に二截をなしてゐる。わたくしの読むことが精しくなかつたと謂はなくてはならない。
由緒書に徴するに、「同年(文政四年辛巳)八月九日江戸引越」と云つてある。
北条霞亭は辛巳の歳に東に召された時、初は単身入府し、後更に孥を将て徙つた。前の江戸行は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越」と記してある。
所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、霞亭は自ら往いて妻孥を迎へたのである。其明証は楝軒詩集にある。
浅川楝軒は初め霞亭が召されて東に之く時、上に引いた七律を作つて其行を送つた。尋で秋に入つてから、詩を霞亭に寄せた。即ち「奉寄北条先生」の七律で、其第二句に「秋気満庭虫乱鳴」と云つてある。霞亭が妻孥を迎へに備後に帰つた日、細に言へば帰り著いた日は秋に入つた後でなくてはならない。
さて霞亭が再び備後を発するに当つて、楝軒は詩二篇を賦した。一は七古で、「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸」と題し、一は七絶で、「五日木犀舎席上別霞亭先生」と題してある。
霞亭の自ら備後に往つて妻孥を迎へたことは、此二篇の存在が既にこれを証してゐる。しかし啻にそれのみではない。七古の中に「来携妻孥乍復東」の句がある。又次の年壬午の「春日書事、次霞亭先生丸山雑題韻五首」の七律第二首が「憶昔両回馬首東」を以て起つてゐる。霞亭親迎の証拠は十分だと謂つて好からう。
わたくしは進んで江戸引越の月日を明にしたい。由緒書に「八月九日引越」といふのは、何の日であらうか。楝軒の詩題に「五日木犀舎席上別霞亭先生」と云ふのは、何月五日であらうか。
今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎祖筵の五日は辛巳七月五日でなくてはならない。そして彼楝軒が霞亭に寄せた「秋気満庭虫乱鳴」の詩は、七月朔より五日に至る間に成つて発送せられたものでなくてはならない。木犀舎は山岡氏の家で、今の阿部伯の家令岡田吉顕さんの姻家ださうである。
只此に一の疑問がある。それは上の「来携妻孥乍復東」の詩の題下に、「十月五日」の細註が下してあることである。しかし上の仮定が誤らぬとすると、十月は霞亭の備後を去つた後となる。福田氏の抄本を見るに、「十月」の傍に「原書のまま」と註してある。按ずるに福田氏も亦此「十」字に疑を挾んでゐるらしい。
記して此に至つた時、わたくしは的矢の北条氏所蔵の霞亭尺牘一篋を借ることを得た。思ふにわたくしは今よりこれを検して、他日幾多の訂正をしなくてはなるまい。わたくしは此に先づ一の大いなる錯誤を匡して置く。それは偶篋中より抽き出した一通が、わたくしをして嚢里新居の壬午の歳に成つたことを思はしむる一事である。霞亭は妻孥と共に一たび阿部邸の長屋に入り、居ること久しうして後、始て嚢里に移つたらしい。嚢里の詩中「移居入秋初」の句は此に由つて始て矛盾を免れる。そして八月九日は必ずしも霞亭一家の江戸に著いた日とはせられない。木犀舎祖筵の月は猶疑を存して置かなくてはならない。
わたくしは姑く此に嚢里のトポグラフイイを記して置く。浜野氏の故旧に聞く所に拠れば、霞亭が嚢里の家は今の本郷区駒込西片町十番地「ろ部、柳町の坂を上りたる所、中川謙次郎氏の居所の前辺より左に入りたる」袋町であつたさうである。
此年文政七年の冬に入つてより、蘭軒は十月十三日に本草経竟宴の詩を賦した。竟宴には宿題があつて、蘭軒は冬を詠じた。其七絶は※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-321-上-5]詩集に見えてゐるが、此には省く。
蘭軒が講じた本草経とはいかなる書か。是は頗るむづかしい問題である。支那の文献を論ずることが、特にわたくしの難んずる所なるは、既に数云つた如くであるが、此問題の難いのは独りわたくしの知識の足らざるがために難いばかりではない。
本草経の所謂神農本草経であることは論を須たない。しかし当時此名の下に行はれてゐて信頼すべき書は存在してゐなかつた。是故に上の問題を反復して、「蘭軒が講じた神農本草経とはいかなる本か」と云ふに至つて、わたくしの以て難しとする所は始て明になるのである。
本草の書の始て成つたのは、その何れの時なるを知らない。漢書は藝文志に本草を載せずして、只平帝紀に其名が見えてゐる。前人は本草の著録は張華華佗の輩の手に出でたであらうと云つてゐる。隋書以下の志が方に纔に本草経を載せてゐる。その神農の名を冠するは猶内経に黄帝の名を冠するがごとくである。
神農本草経には三巻説と四巻説とがある。そして四巻説が正しいらしい。即ち上中下と序録一巻とがあつたと云ふのである。
既にして後人が交起つてこれを増益した。そして原文と諸家の文とが混淆した。多紀庭は「爾後転輾附益非一、而旧経之文、竟併合于諸家書中、無復専本之能伝于後矣」と云つてゐる。即ち専本が亡びたのである。
諸家の増益は端を梁の武帝の時に成つた陶隠居の集註に発き、次で唐の高宗の顕慶中に蘇敬の新修本草が成つた。又唐本草とも云ふ。是は七世紀の書である。
次に宋の宣宗の元祐中に唐慎微の撰んだ証類本草がある。是は十一世紀の書である。
次に徽宗の大観二年に艾晟の序した大観本草がある。又大全本草とも云ふ。是が十二世紀の書である。
次に南宋神宗の嘉泰中に成つた重修本草がある。是が十三世紀の書である。
且此等の書は一も原形を保存することを得ずして、唐の書は宋人に刪改せられ、北宋の書は南宋人に、南宋の書は金元明人に改刪せられた。
明の万暦丙午に至つて李時珍の本草綱目が成つた。是が十七世紀の書である。
凡そ此等の書の中には、初め古の本草経が包含せられてゐた。しかし其一部分は妄に刪られて亡びた。唯他の一部分が蘭の雑草中に存ずるが如くに存じてゐる。そして其前後の次第さへ転倒せられてゐる。
此混淆糅雑は固より歴代の学者が意識して敢て為したのでは無い。故に右の諸書には初め朱墨の文が分つてあり、後尚白墨の文が分つてあつた。惜むらくは其赤黒と白黒とが互に錯誤を来して、復辨ずべからざるに至つたのである。
然るに唐以前の本草の旧を存ぜんと欲し、乃至唐以前の本草の旧に復せんと欲したものも亦絶無ではない。わたくしの談は此より古本草復活の問題に入るのである。
此年文政七年十月十三日に蘭軒は本草経竟宴の詩を賦した。わたくしはその講ずる所の本草経のいかなる書なるかを究めむと欲して、先づ古の本草経の復専本を存ぜざることを言つた。それは原文が後人補益の文と交錯して辨別し難きに至つたのである。
専本は既に亡びた。しかし猶唐以前の旧を存ぜむと欲し、又唐以前の旧に復せむと欲するものは、往々にして有つた。
先づ宋の太宗の太平興国八年に成つた太平御覧に本草経の文を引くものが頗多い。是は十世紀の書で、蘇敬以後の文は此中に夾雑して居らぬのである。御覧には由来善悪本がある。曾て北宋槧本に就いて本草経の文を抄出し、「神農本草経」と題したもの一巻がある。躋寿館医籍備考本草類の首に収めてあるものが是である。
しかし此所謂神農本草経は完本では無い。引用文を補綴したものに過ぎない。
次に明の慮不遠が医種子中に収めた「神農本草経一巻」がある。此書は我邦に於ても、寛保三年と寛政十一年とに飜刻せられた。しかし慮は最晩出の李氏本草綱目中より白字を摘出したるに過ぎない。
次に清の嘉慶中に孫伯衍及鳳卿の輯校する所の「神農本草経」がある。是は唐氏証類本草に溯つてゐる。しかし編次剪裁の杜撰を免れない。
凡そ古本草経に就いて存旧若くは復旧を試たものは以上数種の外に出でない。それ故わたくしは蘭軒が何れの書を講じたかを究めむと欲して、大いに推定の困難を感ずる。蘭軒の講ずべき書を此中に求めむことは、殆ど不可得である。
わたくしは敢て此に大胆なる断案を下さうとおもふ。それはかうである。
蘭軒の講じた神農本草経は既成の書では無い。諸友人諸門人と倶に北宋本太平御覧、我国伝ふる所の千金方、医心方等に就いて、その引く所の文を摘出し、自ら古本草経のルコンストリユクシヨンを試た。講ずる所の本草経は此未定稿本である。
わたくしは当時の稿本のいかなるものであつたかを想像して、略後に森枳園の著した「神農本草経」に似たものであつただらうとおもふ。是は枳園著作の功を狭めようとするのでは無い。宋本御覧や、千金方や、医心方や、其中に存ずる所の古本草経の遺文は学者の共有に属する。問題はいかにこれを編次して唐以前の体裁に近づかしむるかに存ずる。蘭軒は或は多く此に力を費さなかつたかも知れない。わたくしは嘉永七年に成つた枳園本の体裁が、全く枳園自家の労作に出でたと云ふことには、敢て恣に異議を挾まうとはしない。
わたくしは只※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-324-上-13]詩集に見えてゐる本草経が或は枳園の本草経に似た未定稿本であつたのではなからうかと云ふのみである。わたくしは蘭軒が慮氏孫氏等の本を取つて講じたとは信じ難いがために、推理の階級を歴て此断案に到著したのである。
此年文政七年の十二月には二つの記すべき事がある。一は蘭軒の主家に於て儲君阿部寛三郎正寧の叙位任官の慶があつたことである。事は次年歳首の詩の註に見えてゐる。阿部家に此慶のあつたことと、彼弘安本古文孝経の刻成せられたこととは、蘭軒の重要視する所であつたので、其詩にも入つたのであらう。詩註に云く。「客歳十二月十六日。世子叙従五位下。任朝散大夫。公旧蔵弘安鈔本古文孝経孔伝。客歳命工刻。故詩中及之。」今一つは二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことである。勤向覚書の文は略する。
※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-324-下-14]斎詩集には此年の冬詩四首がある。其最初なるものが上に云つた本草経竟宴の詩で、最後なるものが「歳晩書懐」の絶句である。「貧富人間何互嗤。不知畢竟属児嬉。春風一促紙鳶去。落地凌霄彼一時。」中間に「自笑」と題する一絶一律がある。並に皆貧に安んじ分を守つて、流俗の外に超出すること、歳晩の詩と相類してゐる。わたくしは四十八歳の蘭軒の襟懐を示さむがために、此に両篇を採録する。七絶。「詩句未嘗得好音。嚢常是絶微金。村醪独酌醺然後。嶽々亢顔論古今。」七律。「生来未歩是非関。身在世途如在山。心淡時随茶讌後。量微猶混酒徒間。緯紗冬夜談経坐。杜曲春風買笑還。誇道我元無特操。優游已到毛斑。」
菅氏では茶山が此年七十七歳になつた。頼山陽が母梅を奉じて来り宿したのが十月十五日で、中の亥の日に当つてゐた。「祭亥市童喧。只祝郷隣産育繁。恰有潘郎陪母至。問来独樹老夫村。」茶山が山陽の父叔完疆柔の三人を品題したのも此年である。「兄弟三人並風流。二随鶯遷一鴎侶。春水春草扁各居。最留春事属誰所。衙前楊柳路傍花。寅入酉退奈厳何。興来行楽倦則睡。長留春風在君家。伯是儒宗叔循吏。所得終孰与仲多。」山陽が「他日有人為三翁立伝、当収先生此詩於賛中、以為断案」と云つてゐる。歳晩の茶山の詩には絶て衰憊の態が無かつた。「迎春不必凋年感、且喜椒盤対俊髦。」
蘭軒は上に云つた如く此年四十八歳であつた。妻益四十二歳、子女は榛軒二十一歳、常三郎二十歳、柏軒十五歳、長十一歳である。
文政八年「乙酉元日」は立春後十四日であつた。蘭軒の律詩には阿部家世子の慶事と孝経刻成の事とが頷聯に用ゐてある。「春入千門松竹青。尤忻麗日照窓櫺。儲君初拝顕官位。盛事新雕旧聖経。魚上氷時憑檻看。鳥遷喬処把觴聴。優游常在恩光裏。不歎徒添犬馬齢。」茶山には元日二日の五律各一首がある。備後は年の初が雪後であつた。「午道氷消潦」の句があり、又「残雪水鳴矼」の句がある。
九日の例年「草堂集」には、蘭軒が「偏喜青年人進学、休嗤白首自忘愚」の聯を作つた。自註に「近日同社少年輩学業頗進、故詩中及之」と云つてある。
十九日は春社であつた。蘭軒の詩に「小吹今年新附一、童孫鳴得口琴児」の句がある。わたくしは初め榛軒が已に娶り已に子を挙げてゐたかを疑つたが、これは一家の事に与らぬらしい。
此年文政八年三月十三日に蘭軒は上野不忍池に詩会を催した。※[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-326-上-12]斎詩集に此時に成つた七絶五首がある。其引はかうである。「三月十三日。与余語天錫、森立夫、岡西君瑤、高橋静覧、横田万年叔宗橘、酒井安清、多良辨夫、及二児厚重、同集篠池静宜亭。」詩は此に総叙の如き初の一首を取る。「阻風妨雨過芳辰。況復世紛纏此身。今日忽遭吟伴。小西湖上問残春。」
不忍池の詩会に列した人々は皆少年らしく思はれる。蘭軒は二児榛軒厚、柏軒重を除く外、悉く字を以て称してゐる。その人物の明白なるものは森立之、字は立夫、岡西徳瑛、字は君瑤の二人に過ぎない。立之は通称養竹、徳瑛は通称玄亭で、皆門人録に見えてゐる。
余語氏は此年甲申の武鑑に、「余語古庵、寄合御医師、五百石、本郷御弓町」の一人が見えてゐるのみである。此より後の武鑑には同名、同禄、同住所の人が奥詰医師となり、奥医師となつてゐる。わたくしは此家の系譜伝記を見ぬので、天錫の誰の字なるを詳にしない。
弟潤三郎はこれを読んで、駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。弟は第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建、」第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒、年七十二歳、」第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳、」第四「拙存斎、文化十一年四月四日卒去、六十二歳、」第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」の五墓を見た。そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図があつて、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子朝隆と其妻との墓の辺である。程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑く弟の説に従つて置く。
高橋静覧も亦不詳である。門人録に「高橋宗朔、宗春門人、岩城平」と「高橋玄貞、弘前」との二人がある。宗春は同書に「横田宗禎、宗春子」とあるより推すに、或は横田宗春であらうか。按ずるに静覧は宗朔若くは玄貞の字ではなからうか。
「横田万年叔宗橘」の文は句読に疑がある。「万年之叔宗橘」一人か、又「万年及其叔宗橘」か決し難い。門人録には「横田宗橘、高通健、通渓早死に付跡目」とあり、又通渓は「高通渓、横田宗禎弟、亀山」とある。わたくしは此に門人録の原文を引くに止めて置く。此簡約の語に由つて一の断案を下さむことは、余に危険だからである。
酒井安清は全く他書には見えない。門人録は一の酒井氏をも載せない。
多良辨夫は或は敬徳の字であらう。門人録に「多多良敬徳、後文達、江戸」と記してある。
夏に入つて、四月十三日に蘭軒が再び静宜亭に詩会を催したらしい。「山斎牡丹、四月十三日静宜亭宿題」の七絶一首がある。其次に「夏意、席上分韻」の七律一首がある。席上とは四月十三日の席上であらう。
五月十三日には三たび静宜亭に会したらしい。「栽竹、五月十三日静宜亭宿題」の五律二首、「関帝図、同上」の七絶一首、「晨起、席上分韻」の七絶二首がある。
六月十三日には四たび静宜亭に会したらしい。「老婦歎鏡、六月十三日静宜亭宿題」「打魚、同上」「観蓮、同上」の七絶各一首がある。山斎牡丹以下十首の詩は省く。
十四日には程近き長泉寺に遊んだ。「六月十四日、長泉寺避暑、寺在丸山、往昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂。梨花坂北有松門。涼籟吹衣到祇園。清浄心他山翠色。安禅坐是石苔痕。幽禽境静猶親客。炎日樹喬不入軒。方識昔時高尚士。卜隣此地避塵喧。」
晦には墨田川に遊んだ。「六月晦日墨水即事」の七絶がある。詩は省く。以上夏の詩十七首中、わたくしは二首を取つた。別に「即事」一、「題画」二の七絶があつて、並に製作の日を載せない。
秋に入つて、蘭軒は七月七日に友を家に会した。「七夕小集」の七絶に「茅亭亦有諸彦会」の句がある。
八月十三日に蘭軒は五たび静宜亭に会したらしい。「友人園中巌桂頗多、因乞一株、八月十三日静宜亭宿題、」「観濤、同上、」「村醸新熟、静宜亭席上」の七絶、七律、五律各一がある。詩は省く。
此年文政八年八月十五日に蘭軒は「中秋新晴」の詩を作つた。「連日関心風雨声。今宵忽漫報新晴。満園露気秋蕭灑。月自桂叢香裏生。」按ずるに桂とは巌桂を謂ふのであらう。二日前の静宜亭の会に、友人が多く巌桂を栽ゑてゐるので、其一株を乞うたと云ふ宿題が出でてゐた。わたくしは此詩を見て、彼題の蘭軒の出したものなるを知り、又彼会の蘭軒の主催に係ることを知る。来会者に蘭軒の門人多き所以である。巌桂は木犀である。蘭軒は此中秋に新に移植した木犀の木間の月を賞したのである。
此中秋は備後も亦新晴であつた。菅茶山の五古の引はかうである。「乙酉中秋。霖後月殊佳。数日前湯正平至自江戸。説蠣崎公子在病蓐。因賦寄問。且告近況。兼呈花亭月堂二君。」湯正平は何人なるを知らぬが、新に神辺に来て、蠣崎波響の江戸に病んでゐることを告げた。波響五十五歳の時である。茶山は波響と岡本花亭、田内月堂の二人とに寄示せむがために詩を作つたのである。
八月の初に備後は淫雨であつた。「比来頻苦雨、不望半秋晴。」十四日にも雨が劇しかつたが、午後に至つて忽ち晴れた。「昨朝勢逾猛。半日屋建※[#「令+瓶のつくり」、U+74F4、7巻-329-下-1]。秋鳩忽数語。返照射前楹。」其夜は北風が雲を駆つて奔らしめ、明月が雲の絶間に見えた。「昨夜風自北。月泝走雲行。時当雲断処。光彩一倍生。」かくて十五夜に至ると、天は全く晴れて、些の翳の月の面輪を掠むるものだに無かつたので、茶山は夜もすがら池を繞つて月を翫んだ。「今夜無繊翳。不覩星漢横。興来繞池歩。月在水心停。」
茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状を思ひ遣つた。「不知東関外。得否此晶瑩。携酒誰家楼。泊舟何処汀。如見歓笑態。宛聞諷詠声。」そして病後の波響を憫んだ。「近伝張公子。臥病坐環屏。新起雖怯冷。或能倚窓櫺。憶昔椋湖泛。緇素会同盟。如今独君在。余子尽墳塋。孤尊斟砕璧。能不動旧情。」
椋湖は巨椋の池であらう。茶山が波響と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂橘恵風である。宮川春暉、字は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原呑響で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎、松孟執である。事は文政戊寅の詩引及己卯の詩註に見えてゐる。是は上田芳一郎さんの示教に由つて覆検した。
此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上なる静宜亭に催された例会の席上の作と、中秋の作との中間に、※斎[#「くさかんむり/姦」、U+844C、7巻-330-下-7]詩集は「送森島敦卿還福山」の七絶一首を載せてゐる。敦卿の下に樸忠と註してある。森島樸忠、字は敦卿である。
わたくしは浜野知三郎さんに質して、略此人の事を詳にすることを得た。森島氏は樸忠五世の祖忠上の時阿部正次に仕へた。忠上は延宝八年に歿した。高祖を忠久と曰ふ。元禄十七年に歿した。曾祖を忠好と曰ふ。享保八年に歿した。祖父を忠州と曰ふ。明和五年に致仕した。父を忠寛と曰ふ。寛政七年に致仕した。樸忠は忠寛の二子にして立嫡の命を受けた。時に寛政三年十一月二十七日であつた。以上は由緒書に拠る。
樸忠の年齢には疑がある。樸忠の孫鶴岡耕雨さんの記する所を検するに、歿日を「弘化二午歳七月十日」と云つてある。弘化二年乙巳とすべきか、弘化三年丙午とすべきかに惑ふ。姑