こんな事を書くと文学青年じみるが、事実文学青年の古手に相違ないのだから仕方がない。しかも五十近くになって頭の天辺てっぺんがコッ禿げて来ているのに恋愛小説なんかアホらしくって読む気になれない。寝がけに読み初めた探偵小説に昂奮しちゃってあくる朝まで睡むらず、翌る日は終日胃が悪くなって砂を噛むような飯を喰う事が時々あるのだから、かかああきれるのも無理はない。今頃中学校に通ったらキット落第するであろう。
 ところで今まで読んだ探偵小説の中でも一番好きなのはポオとルベルである。ほかの作家は読んでいるうちは面白いが、あとで他人に話して聞かせるほど記憶に残らないのに、ポオとルベルの中の気に入ったものだけは、大得意になって話せるくらいアタマにげ附いているから不思議である。二人の作品で、私の記憶に残っているものはソックリそのまま私の哲学であり、詩であり、芸術になってしまっているような気がする。どうしてこんなに惚れ込んだものかわからないが……。
 ポオの中でもモルグ街とかマリーロージエとかいう推理専門みたようなのは好かない。読みかけてみたことはあるが、途中でウンザリして屁古垂へこたれてしまう。どうも本格の探偵小説は私の性に合わないらしい。もちろん本格ものを書いてみたいと思わないことはないが、それでも読んでくれるのは自分だけみたいな気がしてじきに筆を投げたくなるから困る。
 私があくがれているのは探偵趣味で、探偵味ではないらしい。私だけの場合かも知れぬが、本格ものは読んでいると音楽趣味を理解するためにピアノの組立方とその学理を説明されてるような気がする。又本格ものを書いていると、やはりピアノの組立方を研究しているような気もちになって味気なくてしようがない。その組立てるのが面白いのだと云う人があればソレ迄だが、私は元来ピアノそのものには面白味も感じない性分である。多少音階が違っていても、音が悪くても構わない。それを弾じている人の腕前と、その腕から出て来る音律に興味を持つようである。
 こうした主張と比喩には大きな間違いがあるかも知れないが、私の気持ちは、こんな風に説明するのが一番近いような気がする。
 こうした私の気持を百パーセントに満足させてくれるのはポオとルベルである。月夜の海上の大渦に巻き込まれそこなって、一夜のうちに白髪になってしまった青年の話。絞め殺した友人の心臓に耳を当てて鼓動音が消えてなくなってから床下に埋めておくと、毎晩寝がけにウトウトしかけた時にその耳の底にコビり付いている友人の心臓の鼓動音がハッキリと聞えて来るので、毎日毎夜睡ることが出来ない。とうとう発狂して床板をめくり初めた……という話なぞトテモたまらない。何かそこいらのものをタタキ付けたい気持になる。
 ルベルはポオの直系の神経を持っている。タッタ今大金を呉れた人が投身自殺した騒ぎを「オヤ。又誰か死んだそうな」とトボケて聞いている盲目の乞食。自分が殺した妻君を火葬場へ送る前に、名残なごりを惜しんだていに見せかけるべく撮影した写真の乾板を、同情した友人と一所いっしょに泣きの涙で現像してみると、その死顔の瞼が動いてボヤケていたというストオリイなぞ、思わずゾッとして地団太を踏みたくなる。
 私はポオとルベルの恐怖、戦慄の美を心の底から讃嘆したい。日本では江戸川乱歩さん、城昌幸さんのに、その直系の流れを見る。水谷準、角田喜久雄、葛山二郎さんにも、そうした恐怖美、戦慄詩が歌われている。それが理屈なしに私を感激させ驚嘆させる。こうした感激と驚嘆のために私は生甲斐を感じているのではあるまいか。
 中世以前は到る処戦争ばかりで恐怖と戦慄の時代であった。だからその時代の芸術作品には平和と幸福の讃美に類するものが多かった。
 これに反して現代は幸福と安定の時代である。だからその芸術作品に恐怖と戦慄が求められるのは当然である――といったような理屈を並べてみても、こうした私の恐怖美、戦慄詩の愛好癖は決して説明されない気がする。
 誰か説明してくれませんか。

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年7月25日公開
2006年3月5日修正
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