一週間か十日ほどの豫定で出かけた旅行から丁度十七日目に歸つて來た。さうして直ぐ毎月自分の出してゐる歌の雜誌の編輯、他の二三雜誌の新年號への原稿書き、溜りに溜つてゐる數種新聞投書歌の選評、さうした爲事しごとにとりかゝらねばならなかつた。晝だけで足らず、夜も毎晩半徹夜の忙しさが續いた。それに永く留守したあとのことで、訪問客は多し、やむなく玄關に面會御猶豫の貼紙をする騷ぎであつた。
 或日の正午すぎ、足に怪我をして學校を休んでゐる長男とその妹の六つになるのとがどや/\と私の書齋にやつて來た。來る事をも禁じてある際なので私は險しい顏をして二人を見た。
『だつてお玄關に誰もゐないんだもの、……お客さんが來たよ、坊さんだよ、是非先生にお目にかかりたいつて。』
 坊さんといふのが子供たちには興味をいたらしい。物貰ひかなんどのきたない僧服の老人を想像しながら私は玄關に出て行つた、一言で斷つてやらう積りで。
 若い、上品な僧侶が其處に立つてゐた。あてが外れたが、それでもこちらも立つたまゝ、
『どういふ御用ですか。』
 と問うた。
 返事はよく聞き取れなかつた。やりかけてゐた爲事に充分氣を腐らしてゐた矢先なので、
『え?』
 と、やや聲高に私は問ひ返した。
 今度もよくは分らなかつたが、とにかく一身上の事で是非お願ひしたい事があつて京都からやつて來た、といふ事だけは分つた。見ればその額には汗がしつとりと浸み出てゐる。これだけ言ふのも一生懸命だといふ風である。何となく私は自分の今迄の態度を恥ぢながら初めて平常の聲になつて、
『どうぞお上り下さい。』
 と座敷に招じた。
 京都に在る禪宗某派の學院の生徒で、郷里は中國の、相當の寺の息子であるらしかつた。幼い時から寺が嫌ひで、大きくなるに從つていよ/\その形式一方僞禮一點張でやつてゆく僧侶生活が眼に餘つて來た。學校とてもそれで、父に反對しかねて今まで四年間漸く我慢をして來たものの、もうどうしても耐へかねて昨夜學院の寄宿舍を拔けて來た。どうかこれから自分自身の自由な生活が營み度い。それには生來の好きである文學で身を立て度く、中にも歌は子供の時分から何彼と親しんでゐたもので、これを機として精一杯の勉強がしてみたい。誠に突然であるけれど私を此處に置いて、庭の掃除でもさせて呉れ、といふのであつた。
 折々斯うした申込をば受けるので別にそれに動かされはしなかつたが、その言ふ所が眞面目で、そしてよほどの決心をしてゐるらしいのを感ぜぬわけにはゆかなかつた。
『君には兄弟がありますか。』
『いゝえ、私一人なのです。』
『學校はいつ卒業です。』
『來年です。』
『歌をばいつから作つてゐました。』
『いつからと云ふ事もありませんが、これから一生懸命にやる積りです。』
 といふ風の問答を交しながら、どうかしてこの昂奮した、善良な、そしていつこくさうな青年の思ひ立ちを飜へさせようと私は努めた。別に歌に對して特別の憧憬や信念があるわけでなく、唯だ一種の現状破壞が目的であるらしいこの思ひ立ちを矢張り無謀なものと見るほかはなかつたのだ。
 然し、青年はなか/\頑固であつた。永い間考へ拔いて斯うして飛び出して來た以上、どうしても目的を貫きます、先生が許して下さらねばこれから東京へなり何處へなり行きます、と言ひ張つてゐる。
 私は彼を散歩に誘うた。初めはほんのかりそめごとにしか考へなかつたのだが、あまりに彼の本氣なのを見ると次第にこちらも本氣になつて來た。そしていろ/\自宅の事情を聞き、彼の性質をも見てゐると、どうしても彼を此處で引き止めねばならぬ氣になつて來た。氣持を變へるため、散歩をしながら若し機會があつたら徐ろにそれを説かうと、出澁ぶるのを無理に連れだつて、わざと遠く千本濱の方へ出かけて行つた。
 其處に行くのは私自身實に久しぶりであつた。松原の中に入つてゆくと、もう秋といふより冬に近い靜けさがその小松老松の間に漂うてゐた。海も珍しく凪いでゐた。入江を越えた向うには伊豆が豐かに横はり、炭燒らしい煙が二三ヶ所にも其處の山から立昇つてゐるのが見えた。
 砂のこまかな波打際に坐つて、永い間、京都のこと、其處の古い寺々のこと、歌のこと、地震のこと、それとはなしにまた彼の一身のことなどを話してゐるうちに、いつか上げ潮に變つたと見えて小波の飛沫が我等の爪先を濡らす樣になつた。では、そろ/\歸りませうか、と立ち上る拍子に彼は叫んだ。
『ア、見えます/\、いいですねヱ。』
 と。先刻さつきからまちあぐんでゐた富士が、漸くいま雲から半身を表はしたのだ。昨夜の時雨で、山はもう完全にまつ白になつてゐた。
『ほんたうにいゝ山ですねヱ、何と言つたらいゝでせう。』
 私はそれを聞きながら思はず微笑した。漸く彼が全てを忘れて、青年らしい快活な聲を出すのを聞いたからである。
 歸つて來ると、子供たちが四人、門のところに遊んでゐた。そして、
『ヤ、歸つて來た/\。』
 と言ひながら飛びついて來た。一人は私に、一人はその若い坊さんに、といふ風に。
『なぜ斯んな羽織を着てんの?』
 客に馴れてゐる彼等は、いつかもうその人に抱かれながらその墨染の法衣の紐を引つ張り、斯うした質問を出して若い禪宗の坊さんを笑はすほどになつてゐた。
 その翌朝であつた。日のあたつた縁側でいま受取つた郵便物の區分をしてゐると、中から一つの細長い包が出て來た。そしてその差出人を見ると、私は思はず若い坊さんを呼びかけた。
『これは面白い、昨日君に話した比叡山の茶店の老爺から何か來ましたよ、また短册かな。』
 さう言ひながらなほよく見ると、表は四年も昔に引越して來た東京の舊住所宛になつてゐる。スルト、こちらに越して來てから一度の音信もしなかつたわけである。中から出たのは一枚の短册と一本の扇子であつた。
 短册には固苦しい昔流の字で、
『うき沈み登り下りのみち行を越していまては人のゆくすゑ、粟田』
 と書いてある。粟田とは彼の苗字である。變だなア、といひながら一方の扇子を取つて見ると何やら書いた紙で包まれてある。紙には矢張粟田爺さんの手らしく、
『失禮ながら呈上仕候』
 とある。中を開いてみると、
『粟田翁の金婚式を祝ひて』
 といふ前書きで、
『茶の伴や妹背いそちの雪月花、佳鳴』
 と認めてある。
『ホホオ!』
 私は驚いた。
『あのお爺さん、金婚式をやつたのかね。』
『ヘヽエ、もうそんなお爺さんですか、でもねエ、よく忘れずに斯うして送つて呉れますわネ。』
 いつか側に來てゐた妻も斯う言つた。
 さうすると短册の、『うき沈み…』も意味が解つて來る。念のために裏をかへしてみると、『大正十二年』と大きく眞中に書いて、下に二つに割つて『七十六歳、六十五歳』と並べて書いてあるのであつた。
 大正七年の初夏であつた。私は京都に遊んで、比叡山に登つてすぐ降りて來るといふでなく、暫く滞在したい希望で、山上の朝夕をいろいろ心に描きながら登つて行つたのであつた。登りついたのは夕方で、人に教はつてゐた通り、大勢の人を泊めて呉れるといふ宿院といふに行き、取次に出た老婆に滞在のことを頼んだ。ところが老婆の答は意外であつた。今はたゞ一泊の人を泊めてあげるだけで、滞在の人は一切泊めることはならぬ規則になつてゐるのぢや、といふのだ。イヤ、今までよく滞在させて貰つたといふ話を聞き、その積りで登つて來たので是非さうして貰ひたい、と頼むと、今までは今までや、ならんといふたらならんのぢや、といふ風で、まご/\するとその夜の泊りも許されまじい有樣となつた。止むなく、私はどうか今夜だけ、と頼んで漸く部屋に通された。老婆がその通り、給仕に出た小僧も亦た不愉快千萬な奴で、遙々樂しんで來たこの古めかしい山上の幻の影はらちもなくくづれてしまつた。
 で、翌朝夜があけるのを待つて宿院を出た。すぐ下山しようとしたが、斯んな風では恐らく二度とこの山に登る氣にもなれまい、來たを幸ひ、普通一遍の見物だけでもやつて行かうときびすを返して、根本中堂からずつと奧の方へ登つて行つた。當山の開祖傳教大師の遺骨を納めてあるといふ淨土院へゆく路と四明ヶ嶽へ行く路との分れ目の所に一軒の茶店のあるのが眼についた。その時のことを書いておいたものがあるのでその文章を此處に引いて見よう。
ちやうど通りかかつた徑が峠みた樣になつてゐる處に一軒の小さな茶店があつた。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れてゐて、覗いてみれば薄暗い小屋の中で一人の老爺が頻りに火を焚いてゐる。その赤い火の色がいかにも可懷しく、ふら/\と私は立ち寄つた。思ひがけぬ時刻の客に驚いて老爺は小屋の奧から出て來た。髮も頬鬚も半分白くなつた頑丈な大男で、一口二口話し合つてゐるうちにいかにも人のいい老爺であることを私は感じた。そして言ふともなく昨夜からの愚痴を言つて、何處か爺さんの知つてる寺で、五六日泊めて呉れる樣な所はあるまいか、と聞いてみた。暫く考へてゐたが、あります、一つ行つてきいて見ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽のとほり私一人しかゐないのでこれからすぐ出かけるといふわけにはゆかぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るからそしたら直ぐ行つて問合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひがけない深切な話である。私は喜んだ、それが出來たらどれだけ仕合せだか分らない。是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊ほどの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處にゐるのか、ときくと、夜は年中一人だが、晝になると麓から女房と娘とが登つて來る、と言ひながら、ほんの隱居爲事に斯んなことをして居るが馴れて見れば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。小屋のうしろは直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧がその溪いつぱいに密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にもいくらか青いところが見えて來た。では一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りして來るから何卒お頼みすると言ひおいて私は茶店を出た。
 その頼みは叶つたのであつた。叶つて私の泊る事になつた寺は殆んど廢寺にちかい荒寺で、住職もあるにはあるのだが麓の寺とかけ持ちで殆んどこちらに登つて來ることもなく、平常はただ年寄つた寺男が一人居るだけであつた。それだけに靜寂無上、實に好ましい十日ばかりを私は深い木立の中の荒寺で過すことが出來た。
 その寺男の爺といふのがひどく酒ずきで、家倉地面から女房子供まで酒に代へてしまひ、今では木像の朽ちたが如くになつてその古寺に坐つてゐるのであつた。耳も殆んどつんぼであつた。が、同じ酒ずきの私にはいい相手であつた。毎日酒の飮める樣になつた老爺の喜びはまた格別であつた。旦那が見えてからお前すつかり氣が若くなつたぢアないか、と峠茶屋の爺やにひやかされるほど、彼はいそいそとなつて來た。峠茶屋の爺やもまたそれが嫌ひでなかつた。
 私の滯在の日が盡きて明日はいよ/\下山しなくてはならぬといふ夜、私は峠茶屋の爺やをも招いてお寺の古びた大きな座敷で最後の盃を交し合つた。また前の文章の續きを此處に引かう。
寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持つて朝から麓に降りて、實に克明にいろ/\な食物を買つて來た。酒も常より多くとりよせ、その夜は私も大いに醉ふ積りで、サテ三人して圍爐裡を圍んでゆつくりと飮み始めた。が、矢張り爺さんたちの方が先に醉つて、私は空しく二人の醉ぶりを見て居る樣なことになつた。そして口も利けなくなつた二人の老爺が、よれつもつれつして醉つてゐるのを見てゐると、樂しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたび/\泣笑ひをしながら調子を合せてゐた。やがて一人は全く醉ひつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが、脚がきかぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も涙を落してしまつた。
 その峠茶屋の爺さんが即ち今度金婚式を擧げた粟田翁であるのだ。その時、山から京都に降りると其處の友だちが寄つて私のために宴會を催して呉れた。その席上で私は山の二人の老爺のことを話した。するとその中の二三人が其後山に登つてわざ/\茶屋に寄り、斯く/\であつたさうだナといふ話をした。へええ、さういふ人であつたのかと云つて爺さんひどく驚いたといふことをその人から書いてよこした。それから程なく、古い短册帖に添へて、これは昔から自分の家に傳はつて居るものであるが、中に眼ぼしい人の書いたものが入つてゐはせぬか、どうか見て呉れと云つてよこした。これが粟田淺吉といふ名を知つた初めであつた。
 短册帖には三十枚も貼つてあつたが、私などの知つてゐる名はその中にはなかつた。斯ういふことに詳しい友だちにも持つて行つて見て貰つたが、當時の公卿か何かだらうが、名の殘つてゐる人はゐないといふことであつたのでその旨を返事し、なほ自分自身のものを一二枚添へてやつたのであつた。それらのことを、昨日千本濱で京都附近の話の出た時に、その若い坊さんにしたのであつた。其處へこの短册と扇子とが送つて來たのだ。爺さん、まだ頑丈であの山の上の一軒家に寢起きしてゐるのであるかとおもふと、いかにもなつかしい思ひが胸に上つて來た。すると、あの寺男の爺さんはどうしてゐるであらう。
 さういふことを考へてゐると、若い坊さんは急に改めて兩手をついた。そして、昨日からのお話で、今度の自分の行爲が餘りに無理であることが解つた、自分の一生の志願を全然やめ樣とは思はぬが、とにかく今の學校だけは卒業して年寄つた父をも安心させます、では早速ですがこれから直ぐお暇します、といふ。さうすると私も妻も、わづか一日のうちに親しくなつてしまつた幼い子供たちも、何だか名殘が惜しまれて、もう二三日遊んで行つたらどうかと、勸めたけれども、學校の方がありますので、と云つて立ち上つた。家内中して門まで送つて出た。帽子もない法衣のうしろ姿を見送りながら私は大きな聲で呼びかけた。
『歸つたら早速比叡に登つて見給へ、さうしてお爺さんに逢つてよろしく言つて下さい。』

底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月16日修正
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