あらすじ
真夏の宿場。薄暗い厩の隅で蠅が一匹、蜘蛛の巣にひっかかり、ぶらぶらと揺れていました。そこに、猫背の老いた馭者が現れ、饅頭屋で将棋に興じます。一方、息子の危篤の知らせを受けた農婦は、街へ向かう馬車を待ち焦がれ、馭者にせかします。そんな中、若者と娘が宿場へ到着し、馬車がまだ出ていないことを知り、不安げに辺りを見回します。そして、小さな男の子が母親に連れられ、馬車に近づき、馬と戯れます。やがて、田舎紳士が現れ、農婦や若者、娘と街へ向かう馬車について話し合い、その間も猫背の馭者は、饅頭屋の主人と将棋を続け、饅頭の出来上がりに心を奪われています。待ち焦がれる人々、そして、静かに時が流れ、ついに馬車が動き出す時がきます。
       一

 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋いっぴきの蠅だけは、薄暗いうまやすみ蜘蛛くもの巣にひっかかると、後肢あとあしで網を跳ねつつしばらくぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞ばふんの重みに斜めに突き立っているわらの端から、裸体にされた馬の背中まであがった。

       二

 馬は一条ひとすじの枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背ねこぜの老いた馭者ぎょしゃの姿を捜している。
 馭者は宿場しゅくばの横の饅頭屋まんじゅうや店頭みせさきで、将棋しょうぎを三番さして負け通した。
に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
 すると、ひさしはずれた日の光は、彼の腰から、まるい荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

       三

 宿場の空虚な場庭ばにわへ一人の農婦がけつけた。彼女はこの朝早く、街につとめている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿しめった三里の山路やまみちを馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
 彼女は馭者部屋をのぞいて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
 ゆがんだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶ばんちゃがひとりしずかに流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
 答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちとよ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
 農婦は性急な泣き声でそういううちに、早や泣き出した。が、涙もかず、往還おうかんの中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛まゆげを吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。せがれが死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
桂馬けいまと来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんとを打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」

       四

 野末の陽炎かげろうの中から、種蓮華たねれんげを叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子ようすを見せた。が、ひたいから流れる汗は塩辛しおからかった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘はつぶやいた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、かすかに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩がなおったえ。」
 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。

       五

 宿場の場庭へ、母親に手をかれた男の子が指をくわえて這入はいって来た。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二けんほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
 馬は首をもたげて耳を立てた。男の子は馬の真似をして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔をしかめると、再び、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
 馬はおけ手蔓てづるに口をひっ掛けながら、またその中へ顔を隠して馬草まぐさを食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」

       六

「おっと、待てよ。これは悴の下駄を買うのを忘れたぞ。あいつ西瓜すいかが好きじゃ。西瓜を買うと、おれもあ奴も好きじゃで両得じゃ。」
 田舎紳士いなかしんしは宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けたかいあって、昨夜ようや春蚕はるご仲買なかがいで八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜銭湯せんとうへ行ったとき、八百円の札束をかばんに入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
 農婦は場庭の床几しょうぎから立ち上ると、彼のそばへよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、よ街へ行かんと死に目にえまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
 若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者はかえした。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午ひるになりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
 といううちにまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
 猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向あおむきになったまま、を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまださらんかいのう?」

       七

 馬車は何時いつになったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋のかまどの中で、漸くふくれ始めた饅頭であった。ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手しょてをつけるということが、それほどの潔癖けっぺきから長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。

       八

 宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。
 ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。

       九

 馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背はいった。
 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。
 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭らっぱが鳴った。むちが鳴った。
 眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉あまじしの匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網からその生命いのちをとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
 馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑あずきばたけの横を通り、亜麻畑あまばたけと桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。

       十

 馬車の中では、田舎紳士の饒舌じょうぜつが、早くも人々を五年以来の知己ちきにした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
 馭者台ではむちが動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
 馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今やことごとく胃のの中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤まっかえた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路がけみちの高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、わずかにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中にとまって汗をめた。
 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿めかくしの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路からはずれた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落ついらくして行く放埒ほうらつな馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、かさなった人と馬と板片とのかたまりが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力をめて、ただひとり、悠々ゆうゆうと青空の中を飛んでいった。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:瀬戸さえ子
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
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