1 ミツシヱルは魚ばかり食べたがる女であつた。
 魚屋の前を通ると、牡蛎籠の上に一列に並んでゐるレモンの粒々に、鼻をクンクンさせたり鮫の白い切り口を、何時までも指で押してみたりしては買へもせぬ癖に、何か口の中でブツブツものをいひながら、立ちつくしてゐることがあつた。
 ミツシヱルは南フランスの生れで、髪は南国風に黒つぽい色をしてゐる。
小さいプチットお嬢さんマドモアゼル! 私しのびなき
 寒子のアパルトへ来ると、かうして泣いて見せるのが、ミツシヱルの得意である。
「又、しのび泣きなの、困るわね」
 ミツシヱルは、寒子の描きかけてゐる画架に凭れると、暫時は、しのびなきの話に耽ける。
「貴女はムッシュウ河下に手紙を出しますか、みつちやんしのびなきと云つて下さいね」
 ミツシヱルのいふしのびなきの唄は、さだめし、此の河下の残した憶ひ出なのであらう。時々思ひ出したやうに、ミツシヱルは、河下の話をしては唄をうたふ。
雨は降る降る
じやうが島の磯に
りきやう鼠の雨が降る
雨は真珠か
夜明けの霧か
それとも妾のしのびなき
 片言混りな唄ひ振りではあつたが、切々たるミツシヱルの声は、どうかすると、寒子の郷愁をあふりたてた。
「もう止めてよ、仕事の邪魔しちやア駄目ぢやないの‥‥」
 すると、唄を止めたミツシヱルは、部屋隅の寝台にひつくり返つて、
「ムッシュウ河下は、そりやアとても魚をよく食べる男だつたんですよ、鯛を買つて来ると、波のやうな型に切つて生のまゝで食べたり、日本ソースで赤く煮たりして、私に御馳走してくれたのですよ」
 ミツシヱルが、真面目に、別れた東洋の男の話をすると、寒子もつひほろりとなつて問ひかけて行つた。
「その河下つて‥‥日本の何処のひとなのさ」
「河下さん、神戸でホテルをしてゐるんですつて、――もう大きい奥さんもあります。私大変悲しい」
 国情の違つたこの女の言葉が、何処まで本心なのか、まだ日の浅い巴里住ひの寒子にはよく呑み込めなかつたが、来る度に河下のしのびなきの話をするところを見ると、よほど心に残つた男であるらしかつた。

 2 窓を開けておく日が多くなつた。
 寒子は、夜の九時ごろまでも続くパリの長い白暮が好きで、モンパルナツスの墓場の間の小道をよく歩いた。
 割栗石の人道には、墓場の塀に沿つて、竜の髭に似た[#「似た」は底本では「以た」]草が繁つてゐた。マロニヱの花は花でまるで白い蟻のやうに散つて、実に女性的なたそがれが続く。
 さうして、――並木の小道がやつと途切れて電車通りへ出ると、寒子はポケットの鍵をぢやらぢやらさせながら、ミツシヱルの唄ふ城ヶ島の唄を何時か思ひ浮かべてゐた。
「ミツシヱルの処へでも遊びに出かけてやらうかしら‥‥」
 パリへ来て、別に友達もない寒子は、長い白暮を一寸もてあましコツコツ自分の靴音を楽しみながら歩いた。
 灰色の女学校がある、石塀の中からは、たそがれ色の往来へ若葉が吹きこぼれて、サワサワと葉ずれの音をたてゝゐる。首に赤ハンカチを巻いたアパッシュの群が、気まぐれに寒子に眄をくれながら「今晩はボンソアールお嬢さんマドモアゼル」と呼びかけて通つて行く。
 まるで、絵の具の滓ばかり食つて生きてゐるやうな寒子には、耳から来るパリのたそがれの風景はたまらなくせいせいと快適なものであつた。
 南画風なラブラードは、このパリのたそがれの音を、画面の中に出せたのであらうか、モジリアニの女の腰部は、パリのたそがれをよく知つてゐるのではないだらうか、――この白暮の聴覚を意識した絵が描けたら、どんなに楽しく涼しい気持であらう。何かしら、長い夕暮といふものは、物思ひさせるにふさはしい不思議な時間である。

 プラス・サン・ミツシヱルに近い裏町に、ミツシヱルの屋根裏の部屋があつた。その町はもうかなり煤けて、物おじした建物が多かつた。
 ミツシヱルのアパルトは、この建物の中でも特に古ぼけた石造りで、門番コンゼルジエの入口は、まるで肥料倉庫のやうな、ガラガラと鳴る大きな扉がしまつてゐた。寒子は痛いほど頭を上に向けてミツシヱルの硝子窓に口笛を吹くと、見えない屋根上の窓からも「ピュウピュピュウピュ」と口笛で答へる。
 石畳がひいやりとして気持がいゝのか、猫族の匂ひがして、何か黒い生物がモゴモゴと石道を這つてゐた。
今晩はボンソアール!」
元気サバなの?」
「ウイ、大元気サバ・ビヤンよ!」
 ミツシヱルは、スパニシオルの人形のやうに、頭に黒いレースをかけて、蜜柑色[#「蜜柑色」は底本では「密柑色」]のやうなパンタロンをはいてゐた。
 彼女の腕はむき出しのまゝ汗ばんで、夜のせゐか、ひどくミツシヱルの身体がフクイクと匂つてゐる。

 3 部屋の中には、十八ばかりの女が寝台の上にひつくり返つて鼻唄をうたつてゐた。
 白い壁には、カサ/\した人形の首がいくつもさがつて、束子のやうに黒い影をつくつてゐる。
 その寝台の女は、空色のピジャマひとつで、脚はむき出しのまゝ床の上にずりおとしてゐた。
今晩わボンソアール!」
 そつけない声で、ピジャマの女は首をそつと持ちあげた。
 額の非常に美しい娘で、スペイン式なミツシヱルの温かさにくらべて、これはまた北国風な空疎な冷たい声を持つてゐた。
「私、今朝から御飯食べてないのよ‥‥」
 寒子がまだ半ゴートも脱がない先に、ミツシヱルは、小さい寒子の肩に手を置いてかう云つた。
「ねえ、少し下さいな」
 毎度の事なので、寒子は要領よく十フラン札一枚ポケットから抜いて卓子の上におくと、まるで子供のやうにミツシヱルは寒子の頬に口づけて、トレ・ジャンテイを振りまはしてゐた。
 空気のせゐなのか、部屋の中が甘ずつぽく匂つて、天窓には月が射してゐた。
なゝめになつた白い壁には、男の写真がいくつも飾つてあつた。
 遠くから見ると、まるで動物の写真のやうに見えて、寒子は心の中で一寸子供つぽく苦笑してしまつた。
 十フランの金を持つたミツシヱルはまるでゼンマイに弾ねられた仔犬のやうに、昇降機アツサンスウルのない石の段々を、木魚のやうな音をたてゝ降りて行つた。
 娘と寒子と二人きりになると、白々と体の中を風が吹き抜けるやうな静けさにもどる。――すると、娘は鼻唄を止めて、白い腕を伸ばすと、枕元のスウヰッチを捻つて電気をつけた。
 取りとめもなく呆やりとしてゐた寒子は、この小さい家根裏の部屋に、月の光が射してゐたので、灯火はとつくについてゐたのだらう[#「ゐたのだらう」は底本は「ゐたのだろう」]とも思つてゐたに違ひない。
「オヤ、電気ついてゐなかつたの――随分いゝお月様だつたのねえ」
 灯火の流れは、暫時は女の顔を果実のやうに美しく照らしてゐた。
「えゝ随分いゝお月様でしたわ、もう五時間もあの天窓にぶらさがつてゝくれるので、ミツシヱルと随分色んな空想したんですよ、ミツシヱルは長い事卵子を食べないので、卵子の事ばかり云つてゐるし、私はまるで、金貨のやうだつて思つたんです」
「今日はミツシヱルはモデルにまはらないの‥‥」
「えゝ廻つたところで、一週間に五時間ぐらゐぢや、歩かないで寝てた方がいゝわ、とても、このパリもモデルが多くて、――今ぢや淫売とモデル兼業の女も多いし、とてもとても食つて行けさうもないの」
 女は退屈さうに長い十本の指を灰色に近い金髪の頭の中に入れてゴホンゴホン咳をしだした。
 体のどこかに病気の巣食つてゐるやうな透き通つた女だ。――寒子は沈黙つて立ち上ると、部屋の隅に、埃だらけになつてゐる蓄音機の蓋をあけて、キイコキイコ捻をまはした。

 4 「私、道で食べ食べ来ちやつたわ」
 ミツシヱルの手には半分になつた長いパンと、小さな包み紙があつた。
 包みの中からは、トマトの酢漬や鶏肉や、紅いうで卵子なぞが出た。
「随分御馳走でせう、――さあ、ロロおあがりよ」
 一フランいくらのつり銭を卓子に置くと、ミツシヱルと、寝台のロロと云ふ女は、まるで水鳥のやうにせはし気にパンを頬ばつた。
「あゝ眼が見えなくなりさう、あまり美味しくて、昨日、キャフェ一杯に三日月パン一ツ食べたきりなのよ、それにロロはロロで、好きなあのひとと喧嘩しちやつて――」
 寒子は、女達の食べてゐる姿をあまり美しいとは思はない。蚕の市場[#「蚕の市場」はママ]のやうな、破れた風琴のレコードを聞きながら、沈黙つて女達の話を聞いてゐた。
「ミツシヱル、私、食べる事も退屈だわ」
「まあ、冗談おつしやい、あんなにお腹を空かしてたじやないのよウ」
「お腹が空くと云ふ事と、食べると云ふ事は別よ」
「厭なひと、同じだわ、――貴女も、寒子とよく似て退屈屋さんだわね、私達やアいまでこそ食へないけれど、明日の日には、どんなエトランゼがみつからないともかぎらないぢやないのよウ」
 ミツシヱルは思ひ出したやうに歪んだ鏡の前に立つて、髪のかたちをなほした。
「あゝ何時になつたら、敷物のある、浴室のある、花束のある、いゝ紅茶茶碗のある部屋がもてるんでせうね」
「ミツシヱルはそんな事ばかし云つてゐるけれど、そんなものがあつたつて人生はつまらないわ」
「あら、人生つてそんなものばかりよ、何が人生だつて云ふの、貴方の理想の人生だなんて、東洋へ行つて爪を伸ばす事だわ――」
 ロロは沈黙つて笑ひながら立ちあがると、青いピジャマを抜ぎ捨てゝ、肌着一枚の上から、男物の色あせた外套を羽織つた。
「帰るの‥‥」
「うん」
 洗面台の前に立つたロロは、水ブラシを髪にあてながら、鏡の中の自分の顔をものうげに眺めてゐた。黄色い梅の花のやうな感じの顔であつた。
「ぢやア私も帰るから送つて行かう」
 寒子も、蓄音機の蓋を閉めると腕時計を眺めながら、鏡の中のロロを見た。
「ぢや三人で少し歩きませうよ」
 外へ出る事になると、急に部屋の中が賑やかになつて、ミツシヱルは又思ひ出したやうに「しのびなき」の唄をうたひ出した。
 三人の女は思ひ思ひに、心の中で一人言を云ひながら、妙に浮々として笑ひあつた。
「ホツホツ‥‥私にや二ツの恋があるんだわね」
「嘘! 私の胸には二人の女が住んでゐるんだわ」
 ロロは相変らず、灰をかぶつたやうな事を云ふ。ミツシヱルはキャツキャツと笑ひながら寝台の鍵をかけた。
 七ツの石段を降りて行くのだ。
 なるほど、ミツシヱルが私の天国と云ふだけあつて、まるで、山の小道を降りてゐるやうな感じであつた。
「あゝもう一度、フランスは革命祭を持つといゝのよ」
 何を思ひ出したのか、ロロは立ち止つてからいつた。

 5 女の性根といふものは、風よりも空気よりも他愛がない。
 道を歩けば歩くで、風がすぐ心の中にまで沁みて来て、妙に家に帰ることが厭になつてしまつたり‥‥変つた男の声とさゝやいて見たくなつたり‥‥ミツシヱルもロロも、舗道を歩きながら何度も銀色の練紅を唇に塗りたくつてゐた。
「ねえ寒子、踊場へ行かない?」
 ミツシヱルがそんな事をいひ出さないでもいゝかげん三人の女の心の中は、何かもやもやと甘くなりすぎてゐた。
「トレ、ボン!」
 ロロは浮々してルンバの腰つきをしながら体を振つて二人の女達を笑はせた。
 パンテオン裏の方に歩いて行くまでに、もう二組の巡査隊に会つた。よつぽど更けたのであらう、薄かつた月が濃くなつて、パンテオン寺の天蓋が、まるでキリコの描く機械人形の頭のやうに気味悪く見えたりした。
 不意に、ロロも何か思ひ出してゐたのか、
「パリつて、色気の多い街ね、部屋の中にゐると、あんなに心が醗酵して来るのに、歩いてゐると一直線に転落するまではしやぎたくなるの」
 ミツシヱルも寒子も同感であつた。
 この煽情的なものは、パリの街を吹く風の中に流れてゐるのだらうか――街角を曲るたび、幾組かの接吻を見た。
 踊場の中はもうかなり酸つぱくなつてゐた。臍から上をむき出しにしたイタリー女が二、三人の水兵と順ぐりに踊りまはつてゐる。寒子だけ椅子につくと、あとの二人の女は、もう腕を組みあつて、外套のまゝ踊の中にまぎれこんだ。背が高くて、コサックの帽子を被つたミツシヱルの姿は、此の踊場でもめだつて美しく見えて、二、三人のソルボンヌ大学生は、ミツシヱルの組にばかり眼を追つてゐた。

 音楽が途切れると、寒子の註文したビールを、ミツシヱルとロロは立ち呑みしながら「随分金なしが多いぢやないの」とさゝやき笑ひしてゐた。
 退屈屋の寒子も、何時かミツシヱルやロロを相手に踊り出してゐた。「踊つて何も彼も忘れてゐる気持つて素的だと思はない。こんな気持ちの時、何か大きい事が出来ると思ふのよ」ロロは踊りながら、時々寒子の胸の菫の花束に口づけしてゐた。

 ロロと、何度目かの踊りを踊つた時であつた。
「ホラ! ミツシヱルは学生を馬鹿にしてゐる癖に、学生につかまつたぢやないの‥‥」
 入口に近い卓子に、ミツシヱルは何か興あり気に笑ひながら男と話してゐた。――男はまだ学生らしく、どこか寸詰[#「寸詰」は底本では「寸結」]りな背広姿で、始終白い歯を見せて笑つてゐた。品の悪い顔ではない北国の男であらう、ヒフが蒼く澄んで、鼠色のシャツが非常によく似合つて[#「似合つて」は底本では「以合つて」]見えた。
 やがて間もなく、ミツシヱルはその青年と手を組みながら踊の中へはひつて来ると、ロロと寒子の肩をつきながら、口早に紹介して過ぎて行つた。
「一寸、私のフィアンセにめぐりあつてよ、あの女達は、私の兄弟フレール――あとでお祝ひしませうよ」
 ロロはロロで「すさまじいものだ」と寒子の手を一寸握りながらクツクツと笑ひこけてゐる。
「さすが、ミツシヱルの好みだけあつて、美しいわね、一寸やけるわ」
 ちよいちよいロロは寒子の肩越しに、ミツシヱルにウインクして見せながら、茶目ツ子らしく舌を出してゐた。

 6 旅行案内所では急に夏の旅行パンフレットを店先に並べ出した。
 女の姿もめだつて美しく、海色の流行色が、繁つたマロニヱの木の下を、まるで魚のやうに歩いてゐる。キャフェのテラスには、だんだら縞の海岸傘が一時にパツと開いて、パリは、高山のお花畑になつてしまつた。

 寒子は、ミツシヱル達に別れたまゝ一ヶ月も静物と暮らしてしまつたのだが、静物も一ヶ月続くともう埃つぽさを感じ、面のない動きのない、音のない材料に、すつかりヘトヘトに参つてしまつた。
「嫌になつてしまふ、ミツシヱルでも雇つて、コスチウムを描かうかしら、それとも‥‥」
 そんなことを考へてゐると、急に風景の緑がパレットに写つて、寒子は心の中に落ちつきを失つてしまつた。
 周章て地図をひつくり返すと、風景のよささうな田舎への汽車をしらべて見た。
「フォンテヌブローの森も悪くはない、それともコースを伸ばして、ブルタァニュの海辺へ行つてみようかしら‥‥」
 高いモデルを使つて、始終動かれて焦々するより、風景を描かう――寒子は靴[#「靴」はママ]をあけて、気早にもうパンタロンやシュウミイズを投げ込んで[#「込んで」は底本では「返んで」]ゐた。
「今日はア」
 扉の外で、コツコツ誰かノックする者がゐる。
キヱラア?」
「ロロよ」
 寒子は、驚いて扉をあけて「まあ、思ひがけない、お客様ね」とロロの手を握りしめた。
「気がむいたの?」
「えゝ気がむきすぎたの‥‥」
「まあ、こはいぞオ」
「そのこはい御用で来たのよ」
「こはい御用?」
「うん」
「ふん‥‥」
「水をいつぱい呑まして」
「レモナードが少しあるわ」
「なら、少し――親切ね」
「だつてこゝは紳士ムッシュがゐないもの」
「だから、変りになの‥‥東洋の男も女も出来が違つてゐるつて」
「ミツシヱルのおしやべりがいつたの」
「感心してゐた」
 日の光や、灯火の下で見たロロの甘さが少しもこゝでは見られなかつた。――夏だといふのにロロの額は雪のやうに冷たげで、ベレーからはみ出た灰色つぽい髪の毛はひどく生活の佗しさを匂はせてゐた。
「私、反ジャンヌダルクの役割を持つてゐるんですがね、分りますか?」

 7 十四区のゴミゴミした城街シャトウに、パリ共産党の本部があつた。
 外側から見ると、まるで日本の田舎に見る日曜学校のやうな造りで、通行人は、たまたまこのみすぼらしい建物を忘れて通つてしまふ。――昼間でさへ忘れられがちな、この本部は、夜になると、誰がこはしたのか――家の前の街灯はいつも灯火がはひらないので、ほとんど誰の注意も惹かないで過ぎる。
 そのやうな共産党本部なのに――今日は明明と灯火がもれて、天使のやうにマントを羽織つた巡査が二人、暗い地下室から、帽子をかぶらない女の腕を握つて通へ出て来た。
 灯火のついた二階の硝子窓はいつぱいに開いて、党員の残留組なのであらう。たくみなロシヤ語でこの無帽で引かれて行く一人の女に、拍手をおくり、歌をうたつて街角に折れるまで、狂人のやうなさわぎを止めなかつた。門で見張りをしてゐる巡査も時々二階を見上げながら笑つてゐるだけで、暫時すると、前よりもいつそう静かな暗が来た。
 寒子は、ロロから託された品物をパンタロンと一緒に鞄の中へ入れると、プラス・サン・ミツシヱルの燕街へ自動車を走らせた。
 星が美しく降るやうであつた。
 酔つぱらつた学生が伸びあがつては、自分のベレーを街灯の頭へ引つかけようとしてゐた。寒子はその街灯の前で自動車を降りるとアパッシュの門番のゐる、牢屋のキャバレーの中へ、赤いハンカチの男に案内をして貰つた。
 蜜柑[#「蜜柑」は底本では「密柑」]箱のやうな舞台の上では、十二三の娘の子が、人参のやうな長靴をはいて、ビギン、ビギンといふ踊ををどつてゐた。
 ギターと風琴が石の天井にコダマして、まるで水の底のやうに涼しい音をしてゐたし、女達も男達もいゝかげん煙草のもやの中に酔つぱらつてゐた。
 顔の長い顎髭の男、これが寒子のさがす男だ。――だがすぐ寒子の眼の中に、その男の顔は笑ひかけてゐた。カンテラの下の卓子テーブルに眠つたやうに凭れて、梅の実のはひつたカクテルを呑んでゐる。
 少しの間、一ツの卓子に沈黙つて坐りあつてゐた。――だがフッと思ひついて寒子が煙草を出すと眠つてゐたやうな、髭の男は、周章てブリッケの火を寒子の煙草につけてくれた。
 それが機会なのだ。
 寒子は別れたロロにそんな何でもない役割を課せられてゐたのであつた。
「有難う! ロロは国外追放になりましたよ」
 寒子から、一つの書類束を受け取ると、髭の男は冷たく美しい眼を伏せた。
「ロロはフランス人ぢやないんですか?」
「ヱストニヤ生れの混血児ですよ」
「まあ、ヱストニヤ、――さうですか」
「三四年たつたら、また逆もどりして来ますよ、――絵を描いて楽しみですか‥‥」
「楽しみ‥‥」
 寒子は、心の中の埃を叩かれたやうで沈黙つてしまつた。
 髭の男は、梅の実のカクテルをアンコールして寒子には甘いサンザノを註文してくれた。
「日本の××××は、どんな風なのです。貴方の眼から見た事だけで結構です」
 だが、ブルジョアの娘として伸々とそだつて来た寒子には、そんな風な事には関心してゐなかつた。
「どんな風つて、新聞で読むだけですのよ」
 すると、髭の男は、不意に話題を変へて、
「日本まで旅費はどのくらゐかゝりますか、勿論船ですが‥‥」
「さあ、二等で七〇パウンド位でせうかしら‥‥」
「二等でね、中々かゝりますね、――貴方は、中々おしあはせなお身分ですよ、ロロから聞くと、水を吸う苔のやうなひとだと聞きました。色々なものを勉強して下さい。絵は誰のが好きですか――僕も絵は好きで絵の理論はうまいのですが、中々ね」

 二人の会合を誰も知らない。
 寒子は、違つた世界をのぞいて、その夜はひどく、ドウキがはげしく踊つてゐた。

 8 パレットから緑を連想し、地図の上から、汽車をひろはふとした熱情もいつか失せて、寒子はまた何日か埃の中の静物の上に摸索を続けさせてゐた。
 ロロもいまは国外追放になつてしまつてゐるし、ミツシヱルも、他のモデルの風説では、すつかりソルボンヌの文科大学生と恋仲になつてしまつてゐると云ふ事であるし、――寒子は孤独なまゝに、いつか、自分の描く絵にギモンを持つて来た。
「こんな花だの、林檎だの描いていつたい何になるんだらう――何の役に立つのだらう」
 筆をポキ/\折つてしまひたかつた。
 何度となく故郷へ帰りたいと手紙を出しても、家から来るたよりは、折角パリへ出かけたのだから、仕上げて帰つて来たらといつて来るばかりであつた。「何を仕上げるのだらう――」
 パリにゐる日本人の絵描きは、大方寒子のことをうらやましがつてゐた。
 寒子もそれに甘へてひどく長閑に、気まゝに絵を描くことに精進してゐたのだが、牢屋のキャバレーで、眼の美しい髭の男を見てから、退屈屋の寒子が、余計海の上の雲のやうに呆んやり考へる日が多くなつた。
 たまに気が向くと十四区の城街へ足をやつてみるのだが、共産党の本部の扉は、いつでも閉つたまゝで人声が聞えない。
 ミツシヱルのアパルトも幾度か尋ねてはみたが、その都度留守で、会へない時が多かつた。たまに会つても、いつもそは/\と急がし気で、顔中がひどく武装して見えた。
「どうしたのだらう――」
 かうなると、妙に自分が金持ちの、のらくら娘に思へて、寒子は自分で自分の気持に弱り果てた。
 七月の革命祭にはお互にフィアンセを見つけてヒロウしようなぞと笑つた踊りの夜も過ぎて寒子にはなまあたゝかい無為の日が続く。

 まるで悪病みたいに静物にとりつかれて――さう開きなほると、寒子は方向転換に、毎日カルトンをさげてセーヌの石畳の上にスケッチに出かけた。
「パリへ来て、こんな気持の堆積が自分を神経衰弱にするのだ」
 さう思つて街を見ると、リオンの停車場でひと目見たパリの印象がボヤボヤと崩れて、最もビジネス的な風景になつて来る。
 寒子は胸を張つていつぱい空気を吸つた。
 両足を男の子のやうにふんばらして、カルトンを持ちあげた。
 眼を細めるとサン・ミツシヱル橋も樹も建物も生々と美しかつた。只黒いコンテの心臓から聴覚につたはるパリの姿を描かふ、私の仕事はそれでいゝのだわ、私を革命家にするのなら、もつと不遇な家に生れさせるといゝ。私は一年も二年もつかひきれない程の財産家に生れてゐるのだもの、何を好んで美しいものゝ無意義を感じなければならないのだらう、「楽しみですか?」と問はれた場合、はつきりと、大きな声で、「大変楽しみです」といふやうにしよう――。

 9 「今日はボンジュール!」
 眼鏡型の橋を描きかけてゐた時であつた。寒子の背を叩く白い大きな掌があつた。愕いて振り向いた寒子の眼の上に、あの澄んだ美しい髭の男があつた。
 だが、髭はもう綺麗に取り去られて、青年に近い美しさだ。
「まあ、しばらく‥‥」
「橋の上から貴女がよく見えた、――相変らずお楽しみですね」
「楽しみ‥‥」
 あんなに威張つて、「楽しみに描いてゐる」と云ふ言葉も、――また泡のやうに此男の前では消えてしまつたではないか。
 で、寒子はわざと話題を変へてロロはと聞くと、男は、笑つて、早い三、四年で、もうロロは巴里の屋根の下で眠つてるよと答へた。
 ものぐさなロロが、もうパリにはひりこんで、パリの街のどこかで眠つてゐる。――

 雨がパラパラと鼻の頭にあたつた。
 風が気早に、マロニヱの繁みを雨傘のやうに広げると、もう雨雲が破れて、雨脚が額に痛くなつた。
「オヽララ」
 男は黒いレンコートを寒子の頭からかけると、体を抱くやうにして、橋の下へ逃げ込んだ。
「驚いた‥‥」
「大丈夫、すぐ通つて行く――パリの雨だけは僕は大好きだ」
 二人は橋の下の下水管の上に腰をかけたまゝ石畳をバンジョウのやうにかきならす雨脚を眺めてゐた。
 仔犬がビショビショになつて、二人の足の下にうづくまる。
 河の流れが、急に乳色になつて早くなる。
「冷たい?」
 不意に思ひがけない親切な言葉にとまどひして、寒子がフッと振り向くと、腕木のやうな大きな掌が寒子の肩を抱き、男の唇は寒子の雨に濡れた唇を封じてゐた。
 暫時は、四ツの唇を静かに心に感じあつた。寒子は、長い間ほつて置かれた赤ん坊のやうに泪があふれると、胸を突きあげるやうに声が出た。
 沢山、色々な言葉が洪水のやうになつてあふれるが、それは皆東洋の故郷の言葉だ。
 二人が唇を離した時、もう雨脚は大分止んで、逃げ込んで来てゐた釣りの少年も、また河沿ひに歩いて行つた。
 二人は、只沈黙つてゐた。沈黙つて、この感情の空気を吸ふより仕方がない。

 雨が通り過ぎて行くと、マロニヱの並木は、すぼんだ傘のやうに、パツと水を切つて前よりもいつそう鮮やかに緑が美しくなる。
「これから何処へ行くの?」
 男は先に歩いてゐた。
「これから、――死にゝ行くのさ」
「死にゝ行くウ?」
「うん、――これだ!」
 男はポケットから、黒いピストルの口を出して見せた。

 10 寒子は気が狂ひさうであつた。
 温室咲きの薔薇のやうに美しくそだつて来た寒子の体内には、火がついたキリンが走りまはつてゐる。
 寝台に起きあがつて、何度巴里夕刊パリ・ソアルを引つくり返して見ても、やつぱりあの男の顔が出てゐる。今朝、あの男と雨宿りしたばかりなのに、「青色ロシヤ青年首相暗殺」この大きな表題の下には、自ら赤白を否定して、青色と名乗る青年の写真が出てゐた。
「まあ、あの人だ、あの人だわ――」
 寒子は空気を抱きしめて泣いた。
「死にに行くのだよ」
 さう云つて気軽に別れたあの男が、絵の展覧会場にゐるフランス首相のそば近くに寄つて、ピストルを放たうとは思ひもよらない。
 寒子は、坐つても立つてもられない気持であつた。
「さうだ! ミツシヱルの家に行けば、ロロの居所も分るだらうし、何か様子が知れよう」

 寒子は自動車の走りやうがおそいと云つては、コツコツ硝子戸を叩いて、運転手を厭がらせた。
 ――あの長い白暮だ。
 九時ごろであらう閉門の鐘が寺の塔から流れて来る。
 自動車から降りると、寒子は「ピュウピュ、ピュウピュ」と口笛でミツシヱルを呼んでみたが、何の反響もない。
 門番コンシヱルジヱは、「今朝から降りて来ないよ」とぶつきら棒に云ふきりだ。
「別に病気でもないの?」
「貧乏が病気さね、――若い男とゐるなら、その貧乏もおかまひなしだらうが、俺んとこだつて、空気の上に家を建てゝゐるんぢやないんだから、いゝかげんしびれが切れるよ」
 相変らず、ミツシヱルも困つてゐるんだ。それなら、それのやうに、何故借りに来ないのだらうか薄暗がりを手探りで、一段一段上に上つて行くことが寒子には切なかつた。
 低い天井裏の廊下に、やつと燐寸をすつて番号を探した。
「ミツシヱル!」
「‥‥‥‥」
今晩はボンソアール!」
「‥‥‥‥」
今晩はボンソアール!」
「ウ‥‥‥‥」
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ、一寸開けて!」
「‥‥‥‥」
「居るんぢやないの、只の事で来たんぢやないから開けてツ!」
「ウ‥‥‥‥」
今晩はボンソアール! ミッシヱル」
 寒子は、向ふのかすかな唸り声と対かうして根気を出した。
 扉は固く閉つてゐる。
門番コンシヱルジヱぢやないのよツ」
「ウ‥‥‥‥」
 つひには、寒子は狂人のやうに扉を叩き出した。すると、思ひがけなく隣室が開いて銀色の頭髪をした美しい女が、「マドマゼール」と小声で寒子をまねいた。
「あの‥‥どうも変なんですよ、先程から、ガス臭くて仕方がないんですが、お友達だつたら立会つて戴いて、門番に開けて貰ひませうか」
 さういはれると、妙に廊下がガス臭かつた。少し大きな声を続けると汗ばんで、フラフラとたふれさうになる。
「ねえ、さうでせう‥‥」
 寒子と銀髪の女は、ミツシヱルの扉に鼻をつけて匂ひをかいだ。
今晩はボンソアール!」
今晩はボンソアールマダム!」
「ウ‥‥ウ‥‥」
 唸つてゐる人の声だ。ミツシヱルの声だ。寒子も銀髪の女も、七階上から、門番コンシヱルジヱのところまで、どう転び降りたか分らなかつた。門番コンシヱルジヱが鍵束を持つて七階上に走る時、寒子は頭の中の血脈がピンと音をたてゝ切れたやうに感じられた。

 11 小さい三角屋根の下には、ミツシヱルが寝台の上に眠つてゐた。
 洗面台の下には、かつて踊場で見た事のあるあの美しい青年がたふれてゐる。
「馬鹿者が‥‥全く恥知らずがツ!」
 一寸の怒りもすぐ第六感をおびやかして、体中をブルブルさせさうな門番コンシヱルジヱは窓といふ窓を開けると、かう云つて怒鳴り散らした。階下からも人達が愕いて上つて来る。
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ!」
 だが、一足おくれたのであらうか、あんなに朗らかだつたミツシヱルも青年も息を吹き返さなかつた。
 部屋の中には、かつてロロのつかつた水ブラシと、気味の悪い人形の首がぶらさがつてゐるきりで只美しく清潔であつたのは、二人の体と、二足の靴だけであつた。壁の写真もいつか取りはらはれて、どんなに、一ヶ月の間、ミツシヱルの生活に苦悩があつたのか、あまりに部屋の中は何もなさすぎてゐた。
「何時になつたら敷物のある、花束のある、紅茶茶碗のある部屋が持てるのかしら」と云つてゐたミツシヱル!

 寒子は巡査の来ない間に、街の通へ、あんなにミツシヱルの欲しがつてゐた花束を買ひに出た。
 だが白暮はつひに物思ひのまゝ暗くなつてしまつてゐる。どの店も閉つてゐた。花屋の硝子戸の中には高洒[#「高洒」はママ]な、薔薇や蘭の花が並んでゐるが、こゝも網戸が降りてゐた。
 寒子は、妙に胸の薄さを感じる。
 静物に買つた、薔薇の一束を部屋から持ち出すと、まるで泣いた後のやうな涼しい気持になつて街に急いだ。
「皆々、孤独人なのだ、ミツシヱルだつて、ロロだつて、あの男だつて、――」
 ピストルを射つたあの男は、ピストルを射つまで、心のやり場に困つたのに違ひない。その心のやり場に、ひととき私の唇を利用したところで、何でとがめる事があらう。まして泣いて切ながる必要もない。楽しみに私は私で絵を描けばいゝぢやないか、寒子は、何気なく眉をあげた。二日間も部屋に匂つた白薔薇がハラ/\と蝶々のやうに舗道にあふれて散つた。

雨は真珠か
夜明の霧か
それとも私の
しのびなき

 ミツシヱルを愛して、雨の唄を教へた東洋の男も、今ごろは百号大のカンヴァスを広げて、妻君の裸体をでも描いてゐるのかも知れない。
一切は孤独なしのびなきなのだ。
 寒子は白皮の手袋をはづして心の葬礼にふさはしい青色のタクシーを呼び止めてゐた。

底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※片仮名の拗音、促音を小書きするか否かは、底本通りとしました。
※疑問点の修正に当たっては、「清貧の書」改造社、1933(昭和8)年5月19日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
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