風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の病葉が散りかかるのであろう。その風が隙間を洩れて、行燈の灯をあおるたびに、壁の二つの人影が大入道のようにゆらゆらと揺ぐ――。
江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。霜をとかした流水がそのまま凝ったような、見るだに膚寒い利刃である。刀を持った鉄斎の手がかすかに動くごとに、行燈の映ろいを受けて、鉄斎の顔にちらちらと銀鱗が躍る。すこし離れて墨をすっている娘の弥生は、何がなしに慄然として襟をかきあわせた。
「いつ見ても斬れそうだのう」
ひとりごとのように鉄斎がいう。
「はい」
と答えたつもりだが、弥生の声は口から外へ出なかった。
「年に一度しか取り出すことを許されない刀だが、明日はその日だ――誰が此刀をさすことやら」
鉄斎というよりも刀が口をきいているようだ。が、ちらと娘を見返った鉄斎の老眼は、父親らしい愛撫と、親らしい揶揄の気味とでいつになく優しかった。すると弥生は、なぜか耳の付け根まであかくなって、あわてて墨をする手に力を入れた。うなだれた首筋は抜けるように白い。むっちりと盛りあがった乳房のあたりが、高く低く浪を打っている。
轟ッ――と一わたり、小夜嵐が屋棟を鳴らして過ぎる。
鉄斎は、手にしていた一刀を、錦の袋に包んだ鞘へスウッ、ピタリと納めて、腕を組んで瞑目した。
膝近く同じ拵えの刀が二本置いてある。
関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸、小を坤竜丸と呼んでいるのだが、この一対の名刀は小野塚家伝来の宝物で、諸国の大名が黄金を山と積んでも、鉄斎老人いっかな手放そうとはしない。
乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品には相違ない。だが、この刀がそれほど高名なのは、べつに因縁があるのだと人はいいあった。
ほかでもないというのは。
二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。
そして刀が哭く。
離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐も三寸下がるという丑満のころになると、啾々としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
明日は、十月へはいって初の亥の日で、御玄猪のお祝い、大手には篝火をたき、夕刻から譜代大名が供揃い美々しく登城して、上様から大名衆一統へいのこ餅をくださる――これが営中年中行事の一つだが、毎年この日に曙の里小野塚鉄斎の道場に秋の大試合が催されて、高点者に乾雲丸、次点の者に坤竜丸を、納めの式のあいだだけ佩用を許す吉例になっている。もっとも、こういう曰くのある刀なのですぐに鉄斎の手へ返すのだけれど、たとえ一時にもせよ、乾坤の刀をさせば低い鼻も高くなるというもの。今年の乾雲丸はぜひとも拙者が――いや、それがしは坤竜をなどと、門弟一同はそれを目的に平常の稽古を励むのだった。
その試合の前夜、鉄斎はこうして一年ぶりに刀を出してしらべている。
「お父様、あの、墨がすれましてございます」弥生にいわれてぽっかり眼をあけた鉄斎、サラサラと紙をのべながら、夢でも見ているように突然にいい出した。
「明日は諏訪が勝ち抜いて、この乾雲丸をさすにきまっておる。ついでだが、そち、栄三郎をどう思う?」
諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと、座にも居耐えぬように身をもんで、考えもなく手が畳をなでるばかり――返辞はない。
墨の香が部屋に流れる。
「はっはっは、うむ! よし! わかっとる」
大きくうなずいた鉄斎老人、とっぷり墨汁をふくんだ筆を持ちなおすが早いか、雄渾な字を白紙の面に躍らせて一気に書き下した。
本日の試合に優勝したる者へ乾雲丸に添えて娘弥生を進ず
小野塚鉄斎
「あれ! お父さまッ!」と叫んで弥生の声は、嬉しさと羞らいをごっちゃにして、今にも消え入りそうだった。
広やかな道場の板敷き、正面に弓矢八幡の大額の下に白髪の小野塚鉄斎がぴたりと座を構えて、かたわらの門弟の言葉に、しきりにうなずきながら、微笑をふくんだ眼を、今し上段に取った若侍の竹刀から離さずにいる。
乱立ちといおうか、一風変わった試合ぶりだ。
順もなければ礼もない。勝負あったと見るや、一時に五、六人も跳び出して、先を争って撃ってかかるが、最初に一合あわせた者がその敵に立ち向かって、勝てば続けて何人でも相手にする。しかし一度引っこむと二度は出られない。こうして最後に勝ちっ放したのが一の勝者という仕組みである。
出たかと思うと。すぐ参った! とばかり、帰りがけに早々お面をはずしてくる愛嬌者もある。早朝から試合がつづいて、入れ代わり立ちかわり、もう武者窓を洩れる夕焼けの色が赤々と道場を彩り、竹刀をとる影を長く板の間に倒している。
内試合とは言え、火花が散りそう――。
時は、徳川八代将軍吉宗公の御治世。
人は久しく泰平に慣れ、ともすれば型に堕ちて、他流には剣道とは名ばかりで舞いのようなものすらあるなかに、この神変夢想流は、日ごろ、鉄斎の教えが負けるな勝て! の一点ばりだから、自然と一門の手筋が荒い。ことに今日は晴れの場、乾坤の刀――とそれに!
道場の壁に大きな貼り紙がしてある。
勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が賭競りに出ているのだ。なんという男冥利、一同こころひそかに弓矢八幡と出雲の神をいっしょに念じて、物凄い気合いをただよわせているのもむりではない。誰もが一様に思いを寄せている弥生、剣家の娘だから恨みっこのないように剣で取れ――こう見せかけながら、実は鉄斎の腹の中で技倆からいっても勝つべき若者――婿として鑑識にかなった諏訪栄三郎という高弟がひとりちゃんと決まっていればこそ、こんな悪戯をする気にもなったのだろうが、これは栄三郎を恋する娘ごころを思いやって、鉄斎老人が、父として粋をきかしたのだった。
「誰だ? お次は誰だ?」
今まで勝ち抜いて来た森徹馬、道場の真中に竹刀を引っさげて呼ばわっている。いろんな声がする。
「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」
「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」
「そうだ、栄三郎はどこにいる!」
やがてこのざわめきのなかに、浅黄刺子の稽古着に黒塗日の丸胴をつけた諏訪栄三郎が、多勢の手で一隅から押し出されると、上座の鉄斎のあから顔がにっこりとして思わず肩肘をはって乗り出した。
と、母家と廊下つづきの戸の隙間に、派手な娘友禅がちらと動いた。
栄三郎は、浅草鳥越に屋敷のある三百俵蔵前取りの御書院番、大久保藤次郎の弟で当年二十八歳、母方の姓をとって早くから諏訪と名乗っている。女にして見たいような美男子だが、底になんとなく凜としたところがあって冒しがたいので、弥生より先に鉄斎老人が惚れてしまった。
ぴたり――相青眼、すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合せから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした。まだ解けたことのない娘島田を傾けて、袖屏風に眼を隠しながら一心に祈る――何とぞどうぞ栄三郎さま、弥生のためにお勝ちなされてくださいますよう!
勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。
と、掛け声、跫音、一合二合と激しく撃ちあう響き!
あれ! 栄三郎様、勝って! 勝って! と弥生が気をつめた刹那、ッ――と倒れるけはいがして、続いて、
「参った! お引きくだされ、参りました」という栄三郎の声、はっとして弥生がのぞくと、竹刀を遠くへ捲き飛ばされた諏訪栄三郎、あろうことか、板の間に両手をついている!
わざとだ! わざと負けたのだ! と心中に叫んだ弥生は、きっと歯を噛んで駈け戻ったが、こみ上げる涙は自分の居間へ帰るまで保たなかった。障子をあけるやいなや、弥生はそこへ哭き伏した。
「わたしを嫌ってわざと負けをお取りになるとは、栄三郎さま、お恨みでございます! おうらみでございます。ああ――わたしは、わたしは」
胸を掻き抱いて狂おしく身をもむたびに、緋鹿子が揺れる。乱れた前から白い膚がこぼれるのも知らずに、弥生はとめどもない熱い涙にひたった。
この時、玄関に当たって人声がした。
「頼もう!」
根岸あけぼのの里、小野塚鉄斎のおもて玄関に、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背の高い浪人姿が立っている。
赤茶けた髪を大髻に取り上げて、左眼はうつろにくぼみ、残りの、皮肉に笑っている細い右眼から口尻へ、右の頬に溝のような深い一線の刀痕がめだつ。
たそがれ刻は物の怪が立つという。
その通り魔の一つではないか?――と思われるほど、この侍の身辺にはもうろうと躍る不吉の影がある。
右手をふところに、左手に何やら大きな板みたいな物を抱えこんで奥をのぞいて、
「頼もう――お頼み申す」
と大声だが、夕闇とともに広い邸内に静寂がこめて裏の権現様の森へ急ぐ鳥の声が空々と聞こえるばかり。侍はチッ! と舌打ちをして、腋の下の板を揺り上げた。
道場は大混乱だ。
必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。
鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
栄三郎の口唇は蒼白い。
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為は許さん! もう一度森へかかれッ!」
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
相変わらず片懐中手、板をさげている。
鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁と手合せが願いたいと言う。
名は! ときくと、丹下左膳と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟となっておる。またの日にお越しなさい」
ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉で笑った。
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
片手で突き出した板に神変夢想流指南小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
と丹下左膳、字看板を離して反りかえりざま、
カアッ、ペッ!
青痰を吐っかけたは。
はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちらする。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、
「右手を出せ」
すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横薙ぎが、もろにきまった――。
と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。痛う」
と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
同時に左膳は、くるりと壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」
宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被りをならべて、鏡を抜き杓柄を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣搗栗を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵の宴を張る。
林間に酒を暖めて紅葉を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講だ。
が、その前に、乾坤の二刀を佩いたその年の覇者を先頭に、弥生が提灯をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷のほこらへ参詣して、これを納会の式とする掟になっていた。
植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山、稲荷はそのかげに当たる。
月の出にはまがある。やみに木犀が匂っていた。
――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑をうかべ、貼り紙を楯に開きなおって、乾雲丸と娘御弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。
で、書院から捧持して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。
参詣の行列。
泣きぬれた顔を化粧いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。
やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如驚愕の叫びをあげた。
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「彼刀をさしたままか?」
その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
続けざまにうなずくだけ――。
乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
降って湧いたこの椿事!
離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!
……凶の札は投げられた。
死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。
剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
そして! その屍山血河をへだてて、宿業につながる二つの刀が、慕いあってすすり泣く……!
非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の寂寞を破って、トウ! トトトトウッ! と鳴りひびいた。
変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて下知をくだす。
もう門を出たろう!
いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。
とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。
同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が閃々として明滅する。
ひとりそのむれを離れた諏訪栄三郎、腰の武蔵太郎安国に大反りを打たせて、星屑をうかべた池のほとりにたった。
夜露が足をぬらす。
栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――歩にまつわりつくものがある。
拾ってみると、緋縮緬の扱帯だ。
はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。
とたんに?
闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。
「やッ! いた、いたッ! ここに!」
「出会えッ!」
この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。
声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。
散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。
ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!
「うわあッ!」
一人斬られた。
――星明りで見る。
片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先刻みに迫ってゆく。
刀痕鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」
無言。光鋩一つ動かない。
鉄斎は? 見ると。
われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽打枯らした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣い手だわいとでもいいたげなようす!
焦立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、
「えいッ!」
立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」
と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲空を切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星のように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。
弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森たる樹立ちに反響した。
これを機会に、弧を画いている刃襖からばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃入り乱れて左膳を包んだ。
が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛をかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆してくる。
ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘をかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。
「お! 栄ッ! 栄三――」
そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」
と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
火のよう――じんの声と拍子木。
それが町角へ消えてから小半刻もたったか。麹町三番町、百五十石小普請入りの旗本土屋多門方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺が、つぶやきながら出て行って潜りをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。
「おう! あなた様は根津の道場の――」
御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
何事が起こったのか……と、寝巻姿に提げ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一伝える。
――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受したこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は年歳は年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」
徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先鋭く、とうとう門前町の方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。
お駕籠を、と老爺が言うのを、
「なに、九段で辻待ちをつかまえる」
と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。
行く先は、いうまでもなく根津曙の里。
その曙の里の道場。
奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
鉄斎をはじめ横死者の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然として腕を組んだ栄三郎の前に、番を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁を託つもののごとく置かれてあるのを見すえている。
遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟でこおろぎが鳴き出した。
「まったく、なんと申してよいやら、お悔みの言葉も、ありませぬ」
一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人も思い設けませんでした。がしかし、因縁――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお謹み――」
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音がした。
おののく白い項をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作りの脇差が、普通の黒鞘武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間に納まることとなった。
うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した脇息を枕に、鈴川源十郎はほろ酔いに寝ころんでいる。
年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も大髻ではなく、小髷で、鬢がうすいので、ちょっと見ると、八丁堀に地面をもらって裕福に暮らしている、町奉行支配の与力に似ているところから、旗本仲間でも源十郎を与力と綽名していた。
父は鈴川宇右衛門といって大御番組頭だったが、源十郎の代になって小普請に落ちている。去水流居合の達人。書も相応に読んだはずなのが、泰平無事の世に身を持てあましてか、このごろではすっかり市井の蕩児になりきっている――伸ばした足先が拍子をとって動いているのは、口三味線で小唄でも歌っているらしく、源十郎は陶然として心地よさそうである。
秋の夜なが。
本所法恩寺まえの鈴川の屋敷に常連が集まってお勘定と称してひとしきりいたずらが盛ったあとは、こうして先刻からにわか酒宴がはじまって、一人きりの召使おさよ婆さんが、一升徳利をそのまま燗をして持ち出すやら、台所をさらえて食えそうな物ならなんでも運びこむやら、てんてこまいをしている騒ぎ。
「なんだ、鈴川、新しい婆あが来ておるではないか」
土生仙之助が珍しそうにおさよを見送って言う。
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは田原町三丁目の家主喜左衛門と鍛冶屋富五郎鍛冶富というのを請人にして雇い入れたのだ。よく働く。眼をかけてやってくれ。どうも下女は婆あに限るようだて。当節の若いのはいかん」
「へっへっへっへっ」隅で頓狂に笑い出したのは、駒形の遊び人与吉だ。
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ悪食だからね」源十郎は苦笑して、生き残った蛾が行燈に慕いよるのを眺めている。
本所の化物屋敷と呼ばれるこの家に今宵とぐろをまいている連中は、元小十人、身性が悪いので誘い小普請入りをいいつかっている土生仙之助を筆頭に、いずれも化物に近い変り種ばかりで、仙之助は、着流しのうしろへ脇差だけを申しわけにちょいと横ちょに突き差して肩さきに弥蔵を立てていようという人物。それに本所きっての悪御家人旗本が十人ばかりと、つづみの与吉などという大一座に、年増ざかりの仇っぽい女がひとり、おんなだてらに胡坐をかいて、貧乏徳利を手もとにもうだいぶ眼がすわっている。
「お藤、更けて待つ身は――と来るか、察するぞ」
誰かがどなるように声をかけるのを、櫛まきお藤はあでやかに笑い返して、またしても白い手が酒へのびる。
「なんとか言ってるよ……主に何とぞつげの櫛、どこを放っつきまわってるんだろうねえ、あの人は。ほんとにじれったいったらありゃしない」
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけこむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。姐御、姐御は苦労人だ。辛気臭くちゃ酒がまずいや、ねえ?」
どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、頤を引いて、帰って行く人を見上げている。紅い布が半開の牡丹のように畳にこぼれて、油を吸った黄楊の櫛が、貝細工のような耳のうしろに悩ましく光っている風情、散りそめた姥桜にかっと夕映えが照りつけたようで、熟れ切った女のうまみが、はだけた胸元にのぞく膚の色からも、黒襟かけた糸織のなで肩からも、甘いにおいとなって源十郎の鼻をくすぐる。
この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。実のない人はいつまで待っていたってしようがない。じゃ、お神輿をあげるとしようか。お殿様おやかましゅうございました。おやすみなさい」
「うむ帰るか」
と源十郎は横になったまんまだ。
食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
軒低く、水のような月のおもてに雁がななめに列なっていた。
与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくりと起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらんとしているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
藍絵のような月光。
近いところは物の影がくっきりと地を這って、中の郷のあたり、甍が鱗形に重なった向うに、書割のような妙見の森が淡い夜霧にぼけて見える。どこかで月夜鴉のうかれる声。
おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……でござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
按摩を、と言う。
おさよは襷のまま座敷へはいって、源十郎の肩腰を揉み出した。
「もう何刻かな?」
「つい今し方回向院の八つが鳴るのを聞きました」
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
大欠伸をしながら、
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから寝ませていただいてもお天道さまより先に起きてしまいます」
「だいぶ凝ってるようだ。うん、そこを一つ強く頼む――貴様、何か、子供はないのか」
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、伝手を求めてまた主取りをさせるという先の望みもございましょうが、女ではねえ……それに――」
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお主のお名を出しますことは――」
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに配合をなくして、今の境涯に落ちたという仔細だろう?」
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い資本を見てやろうとおっしゃってくださる方もありますから、しかるべき、と申したところで身分相当のところから婿を迎えて、細くとも何か堅気な商売でも出さしてやりたいと思っているのでございますが、親の心子知らずとはよくいったもので、なんですか、このごろ悪い虫がつきましてねえ」
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって困却する例がままある。当人同士が好きなら、それが何よりだ。お前もせいぜい焚きつけて後日左団扇になおる工面をしたがよい。おれが一つまとめてやろうか、はははは」
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
つと、源十郎は聞き耳を立てた。
びょうびょうと吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
しッ! しッ!
と庭に犬を叱る低声とともに、コトコトコトと秘めやかに雨戸が鳴って、
「おい! 源十、鈴源、俺だ……おれだよ。あけてくれ」
――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
夜妖の一つのように、丹下左膳が音もなくすべりこんだ。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
左膳は先に立って行燈の光のなかへはいって行ったが、続いた源十郎はちょっとどきりとした。
左膳の風体である。
巷の埃りに汚れているのは例のことながら、今夜はまたどうしたというのだ! 乱髪が額をおおい、片袖取れた黒七子の裾から襟下へかけて、スウッと一線、返り血らしい跡がはね上がっている。隻眼隻腕、見上げるように高くて痩せさらばえた丹下左膳。猫背のまま源十郎を見すえて、顔の刀痕が、引っつるように笑う。
「すわれ!」
源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「殺って来たな誰かを」
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん殺生はよしたがよいぞ」
こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、胡坐になりながら左膳が帯からとった太刀へ、ふと好奇な眼を向けて、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
太い濁声を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人三化七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫だよ。貴様もすこしは冥加に思うがいい」
源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更、傾月に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半歳にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸を突き出した左膳。
「さ、此刀だ! 話の緒というのは」
と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
左膳の言葉。
この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相であった。
で、その用向きとは?
れっきとした藩士が、なぜ身を痩狗の形にやつして、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
そこには、何かしら相当の原因があるはず。
珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
二人を包む深沈たる夜気に、はや東雲の色が動いている。
ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっと両掌で押し戻した。
六万石相馬様は外様衆で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀の組で、金に飽かして海内の名刀稀剣が数多くあつまっているなかに、玉に瑕とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖孫六の見るべき作が欠けていることだった。
そこで、
どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸らし神気をこめて鍛ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
とてもだめ。
とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳した。
物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執である。業火である。
領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉をもって削られたのである。
血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の佩刀として賞に出るとの噂。
それ以来、待ちに待っていた十月初の亥の日。
横紙破りの道場荒しも、刀の番をさこうという目的があってのことだった――。
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう不覊にみせていた。
すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の皎身に瞳を細めていたが、やがて、
「見事。――鞘は平糸まき。赤銅の柄に叢雲の彫りがある。が、これは刀、一本ではしかたがあるまい」
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、早晩一つにならずにはおかねえというのだ。乾雲と坤竜とのあいだには、眼に見えぬ糸が引きあっている」
「うむ。言わば因縁の綾だな」
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を帯して出歩くに相違ねえから、そこでそれ、雲竜相ひいて、おれとそいつと必ず出会する。その時だ、今から貴公の助力を求めるのは」
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を佩いて歩く相手というのは?」
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
近くの百姓家で鶏が鳴くと、二人は期せずして黙りこんで、三つの眼が、あいだに置かれた乾雲丸の刀装に光った。
かくして、戦国の昔をしのぶ陣太刀作りが、普通の黒鞘の脇差と奇体な対をなして、この時から丹下左膳の腰間を飾ることとなった。
この一伍一什を立ち聞きしていた老婆おさよ、
「すると丹下様は中村から――」
と知っても、名乗っても出ず、何事かひとり胸にたたんだきりだった。
というのが、死んだおさよの夫和田宗右衛門というのは、世にあったころ、同じ相馬様に御賄頭を勤めた人だから、さよと左膳は、同郷同藩たがいに懐しがるべき間がらである。
底に何かしら冷たいものを持っていても、小春日和の陽ざしは道ゆく人の背をぬくめる。
店屋つづきの紺暖簾に陽炎がゆらいで、赤蜻蛉でも迷い出そうな季節はずれの陽気。
蔵前の大通りには、家々の前にほこりおさえの打ち水がにおって、瑠璃色に澄み渡った空高く、旅鳥のむれがゆるい輪を画いている。
やでん帽子の歌舞伎役者について、近処の娘たちであろう、稽古帰りらしいのが二、三人笑いさざめいて来る。それがひとしきり通り過ぎたあとは、ちょっと往来がとだえて、日向の白犬が前肢をそろえて伸びをした。
ずらりと並んでいる蔵宿の一つ、両口屋嘉右衛門の店さき、その用水桶のかげに、先刻からつづみの与吉がぼんやりと人待ち顔に立っている。
打てばひびく、たたけば応ずるというので、鼓の名を取ったほど、駒形でも顔の売れた遊び人。色の浅黒い、ちょいとした男。
「ちッ! いいかげん待たせやがるぜ、殿様もあれで、銭金のことになるてえと存外気が長えなあ――できねえもんならできねえで、さっさと引き上げたらいいじゃあねえか。この家ばかりが当てじゃああるめえし。なんでえ! おもしろくもねえ!」
両口屋の暗い土間をのぞいては、ひとり口の中でぶつくさ言っている。
外光の明るさにひきかえ、土蔵作りの両口屋の家内には、紫いろの空気が冷たくおどんで、蔵の戸前をうしろに、広びろとした框に金係りお米係りの番頭が、行儀よくズーッと居列んでいるのだが、この札差しの番頭は、首代といっていい給金を取ったもので、無茶な旗本連を向うへまわして、斬られる覚悟で応対する。
いまも現に、蔵前中の札差し泣かせ、本所法恩寺の鈴川源十郎が、自分で乗りこんで来て、三十両の前借をねだって、こうして梃子でも動かずにいる。
五百石のお旗本に三十両はなんでもないようだが、相手が危ないからおいそれとは出せない。
取っ憑かれた番頭の兼七、すべったころんだど愚図っている。
負けつづけて三十金の星を背負わされた源十郎にしてみれば、盆の上の借りだけあって、堅気の相対ずくよりも気苦労なのだろう。今日はどうあっても調達しなければ……と与吉を供に出かけて来たのだが、埓のあかないことおびただしい。できしだい、与吉を飛ばして、先々へ届けさせるつもりで戸外に待たしてあるので、源十郎も一段と真剣である。
「そりゃ今までの帳面が、どうもきれいごとにいかんというのは、俺が悪いと言えば、悪いさ。しかしなあ兼公、人間には見こみはずれということもあるでな。そこらのところを少し察してもらわにゃ困る」
「へい。それはもう充分にお察し申しておりますが、先ほどから申しますとおり、何分にも殿様のほうには、だいぶお貸越しに願っておりますんで、へい一度清算いたしまして、なんとかそこへ形をつけていただきませんことには……手前どもといたしましても、まことにはや――」
源十郎のこめかみに、見る見る太いみみずが這ってくる。羽織をポンとたたき返すと、かれは腰ふかくかけなおして、
「しからば、何か。こうまで節を屈して頼んでも、金は出せぬ、三十両用だてならぬと申すのだな?」
「一つこのたびだけは、手前どもにもむりをおゆるし願いたいんで」
「これだけ事をわけて申し入れてもか」
「相すみません」
起き上がりざま、ピンと下緒にしごきをくれた源十郎、
「ようし! もう頼まぬ。頼まなけれあ文句はあるまい。兼七、いい恥をかかせてくれたな」
と歩きかけたが、すぐまた帰って来て、
「おい。もう一度考える暇をつかわす。三十両だぞ。上に千も百もつかんのだ。ただの三十両、どうだ?」
この時、番頭はプイと横を向いて、源十郎への面あてに、わざとらしい世辞笑いを顔いっぱいにみなぎらせながら、
「いらっしゃいまし――おや! これは鳥越の若様、お珍しい……」
釣られて源十郎が振り向くと、三座の絵看板からでも抜けて来たような美男の若侍が、ちょうど提げ刀をしてはいってくるところ。
兼七の愛嬌には眼でこたえて、そのまま二、三人むこうの番頭へ声をかけた。
「やあ、彦兵衛。今日は用人の代理に参った」
「それはそれは、どうも恐れ入ります。さ、さ、おかけなすって……これ、清吉、由松、お座蒲団を持ちな。それからお茶を――」
源十郎、これで気がついてみると、自分にはお茶も座蒲団も出ていない。
用人の代理といって札差し両口屋嘉右衛門の店へ来た諏訪栄三郎のようすを、それと知らずに、じっとこちらから見守っていた源十郎は、ふと眼が栄三郎が袖で隠すようにしている脇差の鐺へおちると、思わずはっとして眼をこすった。
平糸まき陣太刀づくり……ではないか!
とすれば?
もちろん、それは左膳の話に聞いた坤竜丸、すなわち夜泣きの刀の片割れに相違あるまい。
刀が刀をひいて、早くも、左膳につながる自分の眼に触れたのか――こう思うと、源十郎もさすがにうそ寒く感じて、しばし、
「どうすればよいか?」
と、とっさの途に迷ったが、すぐに、
「なに、左膳は左膳、俺は俺だ。もう少しこの青二才を見きわめて、その上で左膳へしらせるなりなんなりしても遅くはあるまい。それに、こんな男女郎の一束や二束、あえて左膳をわずらわさなくとも、おれ一人で、いや与吉ひとりで片づけてしまう」
ひとり胸に答えて、なおも、さりげなく眼を離さずにいると、そんなこととは知らないから、栄三郎はさっそく要談にとりかかる。
「用人の白木重兵衛が参るべきところであるが、生憎いろいろと用事が多いので、きょうは拙者が用人代りに来たのだ。実は、鳥越の屋敷の屋根が痛んだから瓦師を呼んだところが、総葺替えにしなければならないと言うので、かなり手数がかかる。兄も、ここちょっと手もとがたらなくて、いささか困却しておるのだが、三期の玉落ちで、元利引き去って苦しくないから、どうだろう、五十両ばかり用だってもらえまいか」
番頭は二つ返事だ。
いったい札差しは、札差料などと言ってもいくらも取れるわけのものではなく、旗本御家人に金を貸して、利分を見なければ立っていかないのだが、栄三郎の兄大久保藤次郎は、若いが嗜みのいい人で、かつて蔵宿から三文も借りたことがないから、さっぱり札差しのもうからないお屋敷である。
ところへ、五十両借りたいという申込み。
三百俵の高で五十両はおやすい御用だ。
「恐れ入りますが、御印形を?」
「うむ、兄の印を持参いたした」
なるほど、藤次郎の実印に相違ないから、番頭の彦兵衛、チロチロチロとそこへ五十両の耳をそろえて、
「へい。一応おしらべの上お納めを願います」
ここまで見た源十郎は、ああ、自分は三十両の金につまっておるのに、あいつら、この若造へはかえって頼むようにして五十両貸しつけようとしている……刀も刀だが、五十両はどこから来ても五十両だ――と、何を思いついたものか、栄三郎をしりめにかけて、ぶらりと、両口屋の店を立ち出でた。
「殿様」
待ちくたびれていたつづみの与吉が、源十郎の姿にとび出してきて、
「ずいぶん手間どったじゃあありませんか。おできになりましたかえ?」
駈けよろうとするのを、
「シッ! 大きな声を出すな」
と鋭く叱りつけて、源十郎はそのまま、蔵宿の向う側森田町の露地へずんずんはいり込む。
変だな。と思いながら、与吉もついて露地にかくれると、立ちどまった源十郎、
「金はできなかった。が、今、貴様の働き一つで、ここに五十両ころがりこむかも知れぬ」
「わたしの働きで五十両? そいつあ豪気ですね。五十両まとまった、あのズシリと重いところは、久しく手にしませんが忘れられませんね。で、殿様、いってえなんですい、その仕事ってのは?」
「今、あそこの店から若い侍が出て来るから、貴様と俺と他人のように見せて、四、五間おくれてついてこい。俺が手を上げたら、駈け抜けて侍に声をかけるんだ。丁寧に言うんだぞ――ええ、手前は、ただいまお出なすった店の若い者でございますが、お渡し申した金子に間違いがあるようですから、ちょいと拝見させていただきたい。なに、一眼見ればわかるというんだ。でな、先が金包みを出したら、かまわねえから引っさらって逃げてしまえ。あとは俺が引き受ける」
与吉はにやにや笑っている。
「古い手ですね。うまくいくでしょうか」
「そこが貴様の手腕ではないか」
「ヘヘヘ、ようがす。やってみましょう」
うなずき合ったとたん
「来たぞ! あれだ」
源十郎が与吉の袖を引く。
見ると着流しに雪駄履き、ちぐはぐの大小を落し差しにした諏訪栄三郎、すっきりとした肩にさんさんたる陽あしを浴びて大股に雷門のほうへと徒歩ってゆく。
栄三郎が正覚寺門前にさしかかった時だった。
前後に人通りのないのを見すました源十郎が、ぱっと片手をあげるのを合図に、スタスタとそのそばを通り抜けて行ったつづみの与吉。
「もし、旦那さま――」
あわただしく追いつきながら、
「あの、もしお武家さま、ちょいとお待ちを願います」
と声をかけて、律儀そうに腰をかがめた。
「…………?」
栄三郎が、黙って振り向くと、前垂れ姿のお店者らしい男が、すぐ眼の下で米搗きばったのようにおじぎをしている。
「はて――見知らぬ人のようだが、拙者に何か御用かな?」
栄三郎は立ちどまった。
「はい。道ばたでお呼びたて申しまして、まことに相すみませんでございます――」
「うむ。ま、して、その用というのは?」
「へえ、あの……」
と口ごもったつづみの与吉、両手をもみあわせたり首筋をなでたり、あくまでも下手に出ているところ、どうしても、これが一つ間違えばどこでも裾をまくってたんかをきる駒形名うての兄哥とは思えないから、栄三郎もつい気を許して、
「何事か知らぬが、話があらば聞くとしよう」
こう自ら先に、楼門の方へ二、三歩、陽あしと往来を避けて立った。
そのとき、はじめて栄三郎の顔を正面に見た与吉は、相手の水ぎわだった男ぶりにちょっとまぶしそうにまごまごしたが、すぐに馬鹿丁寧な口調で、
「エエ手前は、ただいまお立ち寄りくだすった両口屋の者でございますがなんでございますかその、お持ち帰りを願いました金子に間違いが――ありはしなかったかと番頭どもが申しておりまして、それで手前がおあとを追って、失礼ながらお金を拝見させていただくようにと、へい、こういうことで出て参りましたが、いかがでございましょう。ちょっとお見せくださいますわけには?……」
言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖銀杏の古木がおいしげっている。黄いろな葉をまばらにつけた梢が、高い秋空を低くさえぎって、そのあいだから降る日光の縞に、栄三郎の全身には紫の斑が踊っていた。
無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるりと踵を返して、いそぎ足に寺の境内へはいりかけた。
「あの、旦那さま!」
与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、陰陽の石をまつってあるほこらのそばで、ぴたりと足をとめた栄三郎が、与吉を返りみてこういい出すのが聞こえた。
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、金子に思い違いというのはあるまい」
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみの与吉、するりとぬいだ甲斐絹うらの半纒を投網のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。
来たな!
と思うと、栄三郎は、このごまの蠅みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番でもしているようにこみ上げてきた。
ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
で、瞬間、なんの抵抗も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみの与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
と!
見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹を蹴ったと見るや、胡麻がら唐桟のそのはんてんが、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子舞いをはじめると……。
「えいッ!」
霜の気合い。
栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅だった。
門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝を消して、もとより与吉は真っ二つになったことと思った。
が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてんだった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょいとはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとんと突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
かれもさる者。
いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちらと動いた人影に気がつかなかった。
ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ飛んで行く。まがれば高麗屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
それを見送って、振袖銀杏のかげからにっと笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
手に、ずしりと重い財布を持っている。
斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」
ぎょっとしてふり返ったが、人影はない。
雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
気の迷い!
と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
正覚寺の生け垣にそって旱魃つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむくと盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥にゆっくりと胡坐を組んで、きっと源十郎を見返した。
熟柿の香がぷんと鼻をつく。
乞食にしても汚なすぎる風体。
だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみを思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉おきが鍛えのあとを見せている。
年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷だが、豪快の風あたりをはらって、とうてい凡庸の相ではない。
あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそりと溝を出て来た。
ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅である。
偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。
一尺ほど面前でぴたりととまると、男は両手を腰において、いきなり、馬がいななくように腹の底から笑いをゆすりあげた。
その声が、銀杏の梢にからんで、秋晴れの空たかく煙のように吸われてゆく。
いつまでたっても相手が笑っているから、源十郎もつりこまれて、なんだか無性におかしくなった。
で、にやりとした。
すると男はふっと笑いをやんで、
「お前は、八丁堀か」
と、ぶつけるように横柄な口調である。
小銀杏の髪、着ながした博多の帯、それに雪駄という源十郎のこしらえから、町与力あたりとふんだのだ。与力の鈴源といわれるくらいで、源十郎はしじゅう役人に間違われるが、先方が勝手にそうとる以上は、かれもこのことは黙っているほうが得だと考えて、この時もただ、ぐっとにらんで威猛高になった。
「無礼者! 前に立つさえあるにいまの言葉はなんだ?」
男は眼じりに皺をよせて、
「おれのひとりごとを聞いて、お前のほうでもどってきたのではないか。天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の禄を食む者が、白昼追い落としを働くとは驚いたな」
「なにいッ!」
思わず柄へ走ろうとする源十郎の手を、やんわり指さきでおさえた男、
「この溝の中で、はじめから見物していたのだ。あの男の投げていった財布を出せ」いいながら指に力を入れる。
「う、うぬ、手を離せッ!」源十郎はいらだった。「この刀が眼に入らぬとは、貴様よほど酔うとるな――これ、離せというに、うぬ[#「うぬ」は底本では「うね」]、離さぬか……」
「酔ってはいる。が、しかしこの汚濁の世では、せめて酔ってるあいだが花だて」
と奇怪な男、ううい! と酒くさい息を吹いて手の徳利を振った。
指をふりほどこうとあせった源十郎も、虚静を要とし物にふれ動かず――とある擁心流は拳の柔と知るや、容易ならぬ相手とみたものか、小蛇のようにからんでくる指にじっと手を預けたまま、がらりと態度をあらためて、
「いや。さい前からの仔細をごらんになったとあらば、余儀ない。拙者も四の五のいわずに折れますから、まず山分け――金高の半というところでごかんべんねがいたい」
源十郎はふところから五十両入りの栄三郎の財布をとり出した。
すると男は、源十郎の手をゆるめながら、
「だまれッ!」と肩をそびやかして、
「おれはまだ盗人のあたまをはねたことはないぞ! 財布ごとそっくりよこせ!」
「で、この金をどうなさる?」
「知れたこと。所有主へ返すのだ」
源十郎はせせら笑った。
「それは近ごろ奇特なおこころざし――といいたいが、いったい貴公は何者でござるかな?」
「おれか? おれは天下を家とする隠者だ」
「なに、隠者? して、御尊名は?」
「名なぞあるものか。しいて言えば、名のない男というのが名かな」
「なるほど。いや、これはおもしろい。しからばこの金子、このまま貴殿へお渡し申そう」
あきらめたとみえて、源十郎もあっさりしている。財布は男の手へ移った。
「ふん! あんまりおもしろいこともあるまいが……政事を私[#ルビの「わたくし」は底本では「わたく」]し、民をしぼる大盗徳川の犬だけあって、放火盗賊あらためお役が、賊をはたらく、このほうがよっぽどおもしろいぞ」
この毒舌に源十郎はかっとなって、
「乞食の身で、言わせておけば限りがない――汝は金を返してやるといったが、さてはあの若侍の住所氏名を知っているのか」
「知らん。が、いずれ今ここへ帰ってくるだろう」と、名のない男の言葉が終わらないうちに、裏みちでつづみの与吉を見失った諏訪栄三郎が、ぼんやりとそこの横町から往来へ出て来た。
思案投げ首といった態。
それを見ると男は、源十郎がはっとするまに大きな声で呼びかけて、ちらりと源十郎を見やったのち、近づいてくる栄三郎へ、
「これ! 金はここにある。この八丁堀のお役人が、あの男をとっちめて取り戻してくだすったのだ。礼はこの人へ言うがいい」
と見事に源十郎を立てておいて財布を栄三郎に渡すが早いか、まごついている二人を残して、それなり風のように立ち去って行った……頭髪へ銀杏の葉をのせて、片手に徳利をさげたまんまで。
世にも奇体な名のない男!
ことに、不敵にも公儀へ対して異心を抱くらしい口ぶり――はてどこの何やつであろう?
――と、あとを見送る源十郎へ何も知らない栄三郎はしきりに礼をのべて、やがてこれも雷門のほうへいそいでゆく。
みょうな顔で挨拶を返した鈴川源十郎、眼は、遠ざかる栄三郎の腰に吸われていた。
はなしに聞いた陣太刀づくりの脇差に、九刻さがりの陽ざしが躍っている。
孤独を訴える坤竜丸の気魂であろうか。栄三郎のうしろ姿には一抹のさびしさが蚊ばしらのように立ち迷って見えた。
「よし! 五十両がふいになった以上は、あくまでもあの男をつけ狙って、丹下のやつをたきつけ、おもしろい芝居を見てやろう。乾雲と、坤竜、刀が刀を呼ぶと言ったな。それにしてもあの若造は、たしかに鳥越の――」
源十郎が小首をひねったとき、先をゆく栄三郎がまた振り返って頭をさげた。
ふふふ、馬鹿め! とほくそ笑んだ源十郎、ていねいにじぎをしていると、ぽんと肩をたたく者があって、
「ほほほ、いやですよ殿様。狐憑きじゃああるまいし、なんですねえ、ひとりでおじぎなんかして……」
という櫛まきお藤の声。気がつくと、いつのまにか与吉もそばに立っているのだった。
すんでのことで栄三郎に追いつかれて、武蔵太郎を浴びそうになった与吉は、ほど近いお藤の家へ駈けこんで危ういところを助かった。で、もうよかろうと姐御を引っぱり出して来てみると、かんじんの金は、名のない男というみょうな茶々がはいって元も子もないという――。
お藤は黒襟をつき上げて、身をくの字に腹をよった。が、そのきゃんな笑いもすぐに消えて真顔に返った。
丹下左膳のために手をかしてもらいたいという源十郎のことば。
何かは知らぬ。しかし、左膳と聞いて、恋する身は弱い。お藤はもう水火をも辞せない眼いろをしている。
しかも、いつない源十郎の意気ごみが二人の胸へもひびいて、与吉は中継ぎとしてここにのこり、お藤と源十郎が栄三郎のあとを追うことになった。
屋敷をつきとめしだい、どっちかがひっかえして与吉にしらせる。与吉はそれをもたらして本所法恩寺橋の鈴川の屋敷へ走り、左膳を迎えて今夜にでも斬りこもうという相談。
勇み立ったお藤が、源十郎とともに、だんだん小さくなる栄三郎をめざして小走りにかかると、すうっと片雲に陽がかげって、うそ寒い紺色がはるか並木の通りに落ちた。
このとき、うしろの蔵宿両口屋から出てきた老人の侍が、おなじく小手をかざして栄三郎を望見していた。
「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――姐さん、ここへお茶代をおきますよ。どっこいしょッ! と」
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
吉原を顧客にしている煙草売りが、桐の積み箱をしょって腰をあげると、お艶はあとを追うようにそとへ出た。
人待ち顔に仁王門のほうへ眼を凝らして、
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼりと葦簾のかげへはいった。
階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
浅草三社前。
ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
紺の香もあたらしいかすりの前かけに赤い襷――お艶が水茶屋姿の自分をいとしいと思ってからまだ日も浅いけれど、諏訪栄三郎というもののあるきょうこのごろでは、それを唯一つの頼りに、こうして一服一文の往きずりの客にも世辞のひとつも言う気になっているのだった。
ちいんと薬罐にたぎる湯の音。
ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い頤を深ぶかと襟へおとしてわれ知らず、物思いに沈む。
隣の設楽の店で、どっとわいた笑いも耳にはいらないようす。鬢の毛が悩ましくほつれかかって、なになにえがくという浮世絵の風情そのままに――。
このお艶は。
夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主相馬大膳亮につかえ、お賄頭をつとめていた実直の士に、和田宗右衛門という人があった。
水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお暇となった宗右衛門。今さら二君にまみえて他家の新参になるものもあるまいと、それから江戸に立ちいで気易な浪人の境涯。浅草三間町の鍛冶屋富五郎、かじ富という、これがいささかの知人でいろいろと親切に世話をしてくれるから、このものの口ききで田原町三丁目喜左衛門の店に寺小屋を開いて、ほそぼそながらもその日のけむりを立てることになったが……。
妻おさよとのあいだに、もう年ごろの娘があってお艶という。
どうか一日も早く婿養子をとり、それに主取りをさせて和田の家を興したいと、明けくれ老夫婦が語りあっているうちに、宗右衛門はどっと仮りそめの床についたのが因で、おさよお艶をはじめ家主喜左衛門やかじ富が、医者よ薬よとさわいだかいもなく、夢のようにこの世を去ったのであった。
あら浪の浮き世に取りのこされた母娘ふたり。涙にひたることも長くはゆるされなかった。明日からの生計の途が眼のまえにせまっている。老母おさよは、ちょうどその時下女を探していた本所法恩寺の旗本鈴川源十郎方へ、喜左衛門とかじ富が請人になって奉公に上がり、ひとりになったお艶のところへ喜左衛門が持ちこんできたのが、この三社前の水茶屋当り矢の出物であった。
武士の娘が茶屋女に――とは思ったが、それも時世時節でしかたがないとあきらめたお艶は、田原町の喜左衛門からこうして毎日三社前に通っているのである。
世話にくだけた風俗が、持って生まれた容姿をひとしお引き立たせて、まだ店も出してまもないのに、当り矢のお艶といえばもう浅草で知らないものはない。
世が世ならば……思うにつけはやればはやるほど気のふさぐお艶だった。
ところへ、また――。
人の親切ほどあてにならないものはない。
あれほど親身に親子の面倒を見てくれたかじ富が、それも今から思えば何かためにしようの肚だったらしいがこのごろ、その時どきに用立てた金を通算して、大枚五十両というものを矢のように催促して[#「催促して」は底本では「催足して」]くるのである。
あと月のある日、観音詣りの帰りに立ち寄ってから毎日かかさず来てくれる栄三郎へ、お艶はふとこの心にあまる辛苦をうちあけると、栄三郎は二つ返事で五十両の金策に飛び出したのだが――。
まだ帰ってこない。
「申しわけございません。はじめからお金をねだるようで、はしたない茶屋女とおぼしめしましょうが」
ほっと深い吐息がお艶の口から洩れた。
大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
秋らしく遠見のきく白い町すじ。
三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか駒形から雷門をさしていそぐ栄三郎の姿が、豆のようにぽっちりと見える。与吉を伝送の中つぎに残して、あとをつけてゆく源十郎とお藤の影は、もとよりただの通行人としか重兵衛の眼にはうつらなかった。
「うちうちなら宜えが、札差しを痛めつけられるようでは、栄三郎さまの行く末が思われる。ぶるるッ! これはどうあっても殿様へ申し上げねばならぬ……殿様へ申しあげねばならぬ」
と正直一途に融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、花川戸のほうへ下らずに、栄三郎はまっすぐに仁王門から観音の境内へはいりこむ。
はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
栄三郎にしてみれば。
あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘弥生に思われて、嫌ってはすまぬと知りながら、ああしてみずから敗をとって弥生を泣かした。のみならず、それから事件が起こって老師は不慮の刃にたおれ、夜泣きの刀は二つに別れて坤竜はいま自分の腰にある。栄三郎とてもいたずらに弥生をしりぞけ、師の望みにそむくものではない。あの夜、泣く泣く麹町の親戚土屋多門方へ引き取られて行った弥生に、かれはかたい使命を誓ったのだった。
相手は乾雲丸の丹下左膳。
がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では御されない。
一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ恋慕風を栄三郎はどうすることもできなかった。
その思う女に持ちかけられた五十両の才覚である。栄三郎はとび立つ思いで引き受けたものの、さて部屋住みの身にそれだけの工面がつくはずがない。とほうに暮れたあげく、悪いことだが、ふと思いついたのが、兄藤次郎の名で札差しから引き出すことだ。で、さっそく実印を盗みだし、その足で両口屋に用だたせてきたこの五十両。
途中でへんなやつに掠われたがそれもまた、もうひとり変り種があらわれて取り返してくれた――あの一くせある、風格の乞食はいったい何者であろう?
ものを思って歩く道は近い。
お! それにしてもさぞお艶が待ちくたびれているだろうな。
と、顔を上げた栄三郎が急ぎ足になったとき、気がつくともう水茶屋並びで、むこうの、金的に矢の立つ当り矢の貼り行燈の下に、白いお艶の顔が栄三郎に笑いかけている。
栄三郎は、上々吉、できたぞという心で、小判にふくらんだ懐中をたたいて見せた。
「ほんとに、とんでもないことをお願いして、もう来てくださらないかと案じておりましたが、でもお顔を見ただけでどうやら安心しました」
においこぼれる口もとの笑みを前垂れで受けながら、こういって栄三郎を見上げた澄んだ瞳には、若いたましいを嬌殺しないではおかないものがあった。栄三郎は、つと身も世もない歓喜が背筋を走るのを覚えつつ、
「ま、はいりましょう――」
と先に立って葦簾張りをくぐるとすぐ、
「さ、五十両ある」
大きく笑って、重い財布をそこの腰かけへほうり出した。
お艶はすぐに取りあげもならず、はじらいを包んだ流眄を栄三郎へ送ってうつむいた。
「なんともすみません――ねえ、若殿様、おなじみも浅いのにはやお金のことを申しあげたりして、やはりはしたない茶屋女だけのことはあるとおぼしめすでございましょうねえ。わたしはそれが辛くて――」
「なんの。不如意の節は誰しも同じこと。早くこれを持って行って、その鍛冶富とやらへ借利を払ってやりなさい。私が店番をしている」
「まあ! なにから何まで――では、母へも知らせてお礼はあとから改めて申しあげますが、せっかくのおなさけでございますからすがらせていただいて、ちょっとひとッ走り行って返して参ります。あの、すぐそこでございますよ」
いそいそと前掛けをはずしたお艶が、袖を胸に重ねて走り出したところで、とんとぶつかりそうになった女づれの侍がある。源十郎だ。
「あれ! ごめん下さいまし」
そのまま内股に駈けてゆくお艶のうしろ姿に、源十郎の眼がじいっと焼きついたと見ると、
「殿様、あれが浅草名代の当り矢のお艶でございますよ――まあきれいですことねえ!」
そそのかすようにお藤がささやいた。
褄を乱して急ぎ去るお艶の影に、みだらな笑をたたえた源十郎は「お藤」とふり向いて、
「美い女だなあ! 当り矢のお艶という? ふうむ、そうか」
お藤は、いたずららしい眼で源十郎を叱った。
「あれさ、殿さまいけませんよ。またそろそろ浮気の虫が……」
苦笑した源十郎、五十両を持った若侍をつけてきたのは、かれの腰にある陣太刀づくりの脇差――坤竜丸にひかれてのことである。いまは茶屋女の裾さばきに見惚れている場合でないと、そっとお藤を押しのけて前の茶屋を見やると――。
葦簾のかげに緋毛氈敷いた腰かけが並んで、茶碗に土瓶、小暗い隅には磨きあげた薬罐が光り、菓子の塗り箱が二つ三つそこらに出ている――ありきたりの水茶屋のしつらえ。
むこう向きにかけた侍ひとり。その羽織の下からのぞいている平巻きの鞘を見つけると、源十郎は忍びになって、常夜燈のかげへお藤をさし招いた。
「いる」
「いますか……では、与の公が待っていますから、わたしはすぐ引っ返して――」
と手早く片裾からげるお藤へ、源十郎はにやりと笑いかけて、
「左膳はこの若造を死身になってさがしているのだ。わけはいずれあとでわかるが、左膳の大事であってみれば、おれも、いや、お前こそは――はっははは、まんざら力瘤のはいらぬというわけはあるまいな。その気でぬからず頼む。お前の左膳へのこころもちはおれから伝えてもあるし、今後は決して悪くははからわんつもりだ」
左膳……といわれて、櫛まきお藤ともあろうものがぽっとさくら色に染まって、凄いまでに沈んだ口調だ。
「いまのお言葉――反古になさるとききませんよ」
陽かげのせいか、源十郎はうそ寒く感じた。
「大丈夫だ。早く行って与吉を走らせろ……あ! それからな、さっきのお艶、あれの店はどこか、またいかなる身分のものか、そこらのところを御苦労だが洗ってきてもらえまいか」
たしなめるようににっと歯をみせたお藤は、それでももうおもしろそうに大きくうなずいて、鐘撞堂からお水屋へと影づたいに粋な姿を消して行った。
振袖銀杏の下に待っているつづみの与吉へ。
そして、しらせを受け取った与吉は、ただちに本所法恩寺橋へ宙を飛んで、いま浅草三社まえのかけ茶屋当り矢に坤竜丸が来ていると丹下左膳へ注進する手はず。
ひとりあとに残った源十郎は、しばらく石になったように動かなかった。
やがて。
「鳥越の若様という侍が、この当り矢へ来ておる。すると、きゃつとお艶と――だが待てよ、おれには百の坤竜よりも生きたお艶のほうがよっぽどありがたいわい。こりゃあ一つ考えものだぞ」
とひねった首をしゃんとなおすが早いか、思いついたことがあるらしく、源十郎ぐっと豪刀の柄を突き出して目釘を舐めた。
雪駄をぬいでふところへ呑む。ツウ……とぬすみ足、寄りそったのが当り矢の前だ。
と思うと、突如!
ザザザアッ! とうしろに葦簾をかっさばいた白光に、早くも身を低めた栄三郎が腰掛けを蹴返したとたん、ものをいわずに伸びきった源十郎の狂刀が、ぞッと氷気を呼んで栄三郎の頭上に舞った。
去水流居合、鶺鴒剣の極意。
が、この時すでに、あやうくとびずさった栄三郎の手には、武蔵太郎安国が延べかがみのように光っていた。
源十郎、追い撃ちをひかえて上段にとる。
栄三郎は神変夢想の平青眼だ。
せまい茶屋のなか。外光をせおった源十郎は、前からはただ黒い影としか見えない。
「何奴! 狂者か。白昼この狼藉――うらみをうける覚えはないぞッ! 引けッ」
上眼づかいに栄三郎が叱する。源十郎は笑った。
「できる。が、呼吸がととのわん。道場の剣法、人を斬ったことはあるまいな」
「エイッ! なに奴かッ! 名を名乗れ、名を」
「丹下左膳……といえば聞いたことがあろう」
「なな何ッ? た、丹下、あの丹下左膳――?」
栄三郎が思わず体を崩してすかして見たとき、スウッとしずかに源十郎の刀が鞘へすべりこんで、
「まず――まず、人きり庖丁をしまわれて、おかけなされ。話がある」
とあっけにとられている栄三郎へは眼もくれず、源十郎は、この真昼間なんのしらせもなしに降ってわいた斬り合いに胆をつぶして、怖いもの見たさにもう店の前に輪を書いていた隣の設楽の客や通行人のむれに、いきなりかみなりのような怒声を浴びせかけた。
「馬鹿ッ! こいつらア! 何を見とる? 見世物じゃないッ! いけッ!」
「はなしは早いがいい。女と刀の取っかえっこだ。どうだな?」
源十郎は藪から棒に、突き刺すように言って顎をしゃくった。
片面に影がよどんで、よく相手の顔が見えない栄三郎にも、いまこの男が、さっき正覚寺門前で財布をとり返してくれた上役人らしいことはわかったが、それがまた何しに言葉もかけずに斬りこんできたか? 刀と女との交換とはなにを意味する? と思うと、うっかり口はきけない。かたくなって源十郎を見すえた。
左膳によれば、この坤竜丸の若者なかなかに腕が立つという。が、どのくらいかと当たる意で斬りつけた源十郎は、武蔵太郎の皎鋩に容易ならぬ気魄を読むと、今後これを向うへまわす左膳と自分もめったに油断はならぬわいと思いながら、急にくだけて出たのだった。
「先刻の非礼、幾重にもお詫びつかまつる」
というのをきり出しに、自分が丹下左膳と乾雲丸の所在を知っていることを物語って、次第によっては刀を取りもどして来て進ぜてもよいとむすんだ。
どこに? とせきこむ栄三郎の問いには、江戸の片隅とのみ答えて、源十郎声をおとした。
「さ、そこでござる。お手前はその坤竜をもって左膳の乾雲を呼ばんとし、左膳は乾雲に乗じて貴殿の生命と坤竜を狙っておる。あいだに立っておもしろがっているのが、まあ、この拙者だ。さて、ものは相談だが、貴殿との話しあいいかんによっては、拙者が左膳を丸めるなり片づけるなりして、乾雲丸をお手もとへ返したいと思うが、お聞き入れくださるか」
栄三郎は解しかねる面もち。
「それは刀のこと。して、刀に換わる女と申されたは?」
「ここのお艶を拙者におゆずりくださらぬか」
「笑止!」と突ったった栄三郎、
「なにをたわけたことを! なるほど、刀の一件も大切でござるが、左膳ごとき、わたくし一人にて充分、そのために二世をちぎりし女を売るなど栄三郎思いもよりませぬ。土台、人のこころを品物ではなし、ゆずるのゆずらぬのと……」
「二世をちぎった? ははははは、これは恐れ入った。お若い! で、御不承か」
「もちろん!」
「しからば余儀ない。拙者、いずれ左膳に助力してその坤竜丸を申し受けるが、ついでに、お艶ももはや拙者のものと観念めされい」
「御随意に。丹下殿へもよろしく伝えられたい」
「ごめん」
と源十郎が歩き出したとき、さっき帰って来たものの、自分の名を耳にしてはいりかねていたお艶が栄三郎の真身に感きわまったものか、花びらのように転びこんで、白い腕が栄三郎の首にすがったかと思うと、ことばもなく顔を男の胸にうずめて……
そのさまに、こりゃたまらぬ! と馬鹿を見た源十郎、
「その女、しばらく預けておくとしよう」
捨てぜりふとともに袂をたたいて、ぶらりと当り矢の店を出て行った。
おなじ時刻に。
夜も昼もない常闇の世界。
八つ下りの陽がかんかん照りつけるのに、乾割れの来そうな雨戸をぴったりとしめきって、法恩寺まえの鈴川の屋敷では丹下左膳がいびきをかいていた。
茶室めかした六畳の離庵。
足の踏み立て場もなくちらかしたまん中に、四布蒲団の柏餅から毛脛を二本投げ出して、夜出歩く左膳はこうして昼眠っているのだ。
垢とあぶらに重くにごった室内に、板の隙を洩れる細い光線がふしぎな縞を織り出している。
あの夜――乾雲丸を手に入れて以来、栄三郎の坤竜を気に病む左膳ではないが、何者かに憑かれ悩んでいるらしかった。癖せた身体がいっそう骨張って、食もほそり、酒さえすすまぬ案山子のような姿で夜ごと曙の里あたりを徘徊するのが見られたが、主を失った鉄斎道場の門は固くしまって弥生のゆくえはどことも知れなかった。
大主にふくめられた秘旨は忘れぬ。またお藤のなさけも感ぜぬではないが、あの娘は仕合に勝って取ったのだと思うと、咲きほこる海棠のような弥生の姿が、四六時中左膳の隻眼にちらつく――恋の丹下左膳。
隻腕の身の片思い。
恋慕の糸のもつれは利刀乾雲でも断ち切れなかった。
夢に提灯をさげて築山の裾をゆく弥生がうかぶ。ううむ! と左膳が寝返りをうった時、やにわに! 紙を貼った戸の節穴に人影がさして、
「左膳さま――丹下の殿様!」
と呼ぶ与吉の声に、ぱッと枕頭の乾雲丸をつかんではね起きた左膳、板戸を引くと庭一ぱいの雑草に日光が踊って、さわやかな風が寝巻の裾をなぶる。
与吉のしらせを聞いた左膳は、やにのたまった一眼を見ひらいて、打ッ! と乾雲の鍔を鳴らした。
「なに、源十が見張っておると? だが、夜の仕事だなこりゃあ――貴様、いまのうちに駈けずりまわって、土生仙之助をはじめ十五、六人連中を狩り集めてこい」
きりきり舞いをした与吉は、糸の切れた奴凧みたいにそのまま裏門からすっ飛んでゆく。
闇黒に水のにおいが拡がっている――。
月のない夜は、まだ宵ながらひっそりと静まって、石垣の根を洗う河音がそうそうとあたりを占めていた。
あさくらお米蔵の裏手。
一番から八番まで、舟入りの掘割が櫛の歯のようにいりこんでいる岸に、お江戸名物の名も嬉しい首尾の松が思い合った影をまじえて、誰のとも知らぬ小舟が二、三舫ってあった。
その一艘の胴の間に、うるさい世をのがれてきた若い男女。
当り矢の店をしまうとすぐ、お艶と栄三郎は、灯のつきそめた町々をあてどもなくさまよって、知らず識らず暗いところを選ぶうちにここまで来たのだった……そして舟のなかへ。
話さなければならぬことが山ほどある。
が、ただそんな気がするだけで、膝のうえにお艶の手をとった栄三郎、もう何もいわなくてもよかった。
川向うは、本所の空。
火の見やぐらの肩に星がまたたいて加納遠江や松浦豊後守の屋敷屋敷の洩れ灯が水に流れ、お竹ぐらの杉がこんもりと……。
人目はない。
お艶の胸のときめきが握られた手を通じて栄三郎に伝わると、かれは睡蓮のようなほの白い顔をのぞきこんだ。
「もう夜寒の冬も近い。こうしていては冷えよう――」
いいながら羽織をぬいで、お艶の背へ着せようとする。
「え、いいえ、あれ! もったいない……それではかえってあなた様が……」
とお艶は軽く争ったが男の羽織が、ふわりと肩に落ちると同時にされるがままにもたれてくるのを、栄三郎はかき抱くように引きよせて、
「お艶」
「若殿さま」
眼と眼。
顔と顔。
四つの目からはずむ輝きが火のようにかちあう。
恋する者の忘れられない初めての遭逢であった。
栄三郎は、しずかにお艶の顎に手をかけて顔をあおむかせた。
「お艶、拙者の心は以前からわかっていてくれたろうが、今後とも決して変わるまいぞ、な」
「はい。身にあまったお言葉……お艶はうれしゅうございます。このまま死にましても――」
「死んでも? はて、何を不吉なことを! 死なばともにだ!」
いっそう深ぶかと胸をすりよせたお艶は、そっと身をくねらして栄三郎を見上げた。
「ええ。いつまでもどんなことがあっても! でも、いろんなことがございましょうねえ、わたしどもの行く手には」
「うむ。まずそれは覚悟しておいてよかろう。さしあたり、先刻途みち話してきた夜泣きの刀だが……」
「いいえ」お艶はだだをこねるように首をふって、「そのお刀の取り戻しは、あなた様の手腕一つでりっぱになさること。お武家には何事につけても強い意志があると亡父からもよく聞かされました。ましてお腰の物の張り合い、それをとやかく申してお心をにぶらせるお艶ではございません。いえ、それはもう、その左膳とやらいう無法者があなた様をつけ狙っていると思えば、うかがっただけで生命のちぢまるほど怖うはございますものの、女の身でお手伝いもならず、足手まといの自分が情けないばかり、つゆうらめしいとは存じませんが、ただ、あの――」
「ただあの?――とは、ほかに何か……」
「はい。道場の――」
「道場の?」
「おはなしに聞いたお嬢さまが気になってなりませぬ」
「弥生どのか。ば、ばかな! たとえ弥生どのがどのように持ちかけようと、よいか、このわたしさえしっかりしておれば、お前は何も案ずることはないではないか」
「けれど、茶屋女とあなた様はあんまり身分が違いますゆえ、つり合わぬなんとか……とそれを思うと空おそろしゅうございます」
お艶の声は泣いていた。互いに高鳴る血の音に身をゆだねてから……何刻たったろう。
首尾の松が風にざわめいた。
ふとお艶は、上気した頬にこころよい夜気を受けて舷側にうつ伏した。その肩へ、栄三郎の手がいたわるように伸びてゆくと――
「えへん!」
耳近く、舟のなかに咳ばらいの音がする。
えへん! という咳ばらいはたしかに小舟のなかから――。
二人はぱっと左右に分かれて耳をそばだてた。
が聞こえるものは、遠くの街をゆく夜泣きうどん屋の売り声と、岸高く鳴る松風の音ばかり――もう夜もだいぶ更けたらしく、大川の水が杙にからんで黒ぐろと押し流れて、対岸の家の灯もいつとはなしに一つ二つと消えていた。
寂とした大江戸の眠り。
「いま何か声がしたようだな」
栄三郎がひとりごとに首をかたむけた時、
「いや、恋路のじゃまをしてはなはだすまんが、わしもちと退屈して来た。もう出てよかろう」
と野太い声が艫にわいたかと思うと、船具の綱でもまとめて、菰をかぶせてあると見えたかたまりが、片手に筵を払ってむっくりと起きなおった。
「やッ! 何者ッ!」
思わず叫んだ栄三郎、飛びのくお艶をうしろに、左腰をひねって流し出した武蔵太郎の柄をタッ! と音してつかんだ。
すべり開いたはばき元が一、二寸、夜光に映えてきらりと眼を射る。
舟尻にすわっている男は山のように動かなかった。
蓬髪垢面――酒の香がぷんとただよう。
見たことのある顔……と栄三郎が闇黒をすかす前に、男の笑い声が船をゆすってひびいた。
「はっはっは、またひょんなところで逢ったな」
言われてみれば、まぎれもない、鈴川源十郎をやりこめて五十両取り返してくれた、あの、名のない男だ。
ちょっとでも識った顔とわかって、恥ずかしさが先にたつ若いふたりがどぎまぎすると、かえって男のほうが気の毒そうにあわてて、
「こりゃいかん! わしが悪かった。ひょいと眼ざめて面を出したが申しわけない! また寝る、また寝る――」
いいつつ板の間に横になって、またごそごそ菰をかぶろうとする。
こんどは栄三郎がまごついた。
「いえ。そ、それにはおよびませぬ」
相変わらずの破れ着、貧乏徳利を枕に、名のない男は筵を夜具にすましている。
「ははあ。起きてもさしつかえないのか」
「先ほどからのわたしどもの会話耳にはいりましたか」
「うむ。刀のところまで聞いた。あとは知らぬ。おもしろそうなはなしだったな」
「あの、しからば、刀のことを――?」
「さよう。悪かったかな?」
栄三郎の眼がけわしい光をおびてくる。
「いくら悪くても、もう聞いてしまったのだからいたしかたあるまい」男は平気だ。「それより、あんたにはほかに助力がなければ、わしが手をかしてもいいと思っておる。が、密事を知ったが肯かれんと言うならどうとも勝手にするがよい。第一よその家へ断りもなしにはいりこむほうがふとどきだ」
「なに? 助力を? はははははは」
栄三郎は膝をうって不敵に笑った。すると男は、
「そうだ。おれの助太刀がほしければ、ひとこと頼むと頭をさげろ」
「何を無礼な!」かっとなった栄三郎、「いわせておけばすきな熱を! 誰が頼むものかッ」
「頼まぬ? そうか」
男がにっこりすると、白い歯がちかときらめく。
「そうか。頼まぬか。それなら一つ、おれから頼んで一肌ぬがせてもらおうかな」
「…………?」
「いや、なに、人に頭をさげぬ人にはわしが頭をさげたい。援助を頼まぬというところがたのもしい」
と首を伸ばしてお艶をのぞきながら、
「御新造、小才子のはびこるこの世に、あんたあ珍しい大魚を釣り上げましたなあ、でかした、でかした! はっははは、大事にしてあげなさい」
御新造――と呼ばれて火のようになったお艶も、何かしら胸にこみあげる感激に突如眼のうちが熱くなって栄三郎の背に顔を押しつけた。
栄三郎は、のめるようにどたりと板に手をついて、
「先刻からの無礼、平におゆるしありたい。改めてお力添えお願い申す」
「承知した! が、それでは痛み入る。まずお手を、ささ、手を上げられい」
「さだめし世に聞こえし隠者、御尊名は?」
「隠とは隠れた者、ところがこのとおりどこにでも現われる。名か。そいつは……」
と口ごもったから、また名のない男と答えるかと思うと、
「蒲生泰軒と申す」
「してただいま、人の家へ断りなしに――と言われましたが、お住いは?」
「困ったな。この舟でござる――いや、べつにこの舟とは限らん。いつもここらにつないである舟はすべてわしの宿だ。ははははは、天が下に屋根のない気楽な身分。わしに用のある時は、この首尾の松の下へ来て、川へ石を――さようさ三つほうることに決めよう。石を三つ水に投げれば、どの舟からかわしが起き上がる……」
と、この時!
ぐらぐらと舟が傾いて、お艶は危なく栄三郎に取りすがったが、ふしぎ! 流潮に乗って張りきったもやいの綱を岸でたぐるものがあるらしく、あっというまに舟が石垣にぶつかったかと思うと、頭の上に多人数の跫音が乱れ立って、丹下左膳のどら声が河面を刷いた。
「おいッ! 乾雲が夜泣きをしてしようがねえから、片割れをもらいに来たんだ。へッ、坤竜丸よ。おいでだろうな、そこに!」
河も岸も空も、ただ一色の墨。
その闇黒が凝って散らばったように、二十にあまる黒法師が、堀をはさんで立つ松の木下にピタッと静止していた。
左膳、源十郎を頭に、本所化物屋敷の百鬼が、深夜にまぎれて群れ出てきたのだ。
文字どおり背水の陣。
岸のふち、舟板を手にのっそりと構える蒲生泰軒に押し並んで、諏訪栄三郎は、もうこころ静かに武蔵太郎安国の鞘を払っていた。われにもなくまつわり立つお艶の身を、微笑とともにそっと片手でかばいながら、
「てめえ達が上陸るまでは斬らねえから安心してここまで来い」
という左膳のことばを笑い返して、手を貸しあって小舟を離れた三人だった。
うしろは大川。石垣の下の暗い浪にもまれて、ひたひたと船底の鳴る音がする。
前面と左右をぐるりと囲んだ影に、一線ずつ氷の棒があしらわれて見えるのは、いうまでもなくひた押しに来る青眼陣の剣林だ。
寂として、物みな固化したよう。
「逃げるくふうを……ね! ごしょうですから逃げるくふうを――」
お艶の熱声を頬に感じて、栄三郎はちらと泰軒を見やった。
あがりぎわに一枚引きめくって来た艫の板をぶらさげて、泰軒は半眼をうっとりと眠ってでもいるよう……自源流水月の相。
すると! 声がした。
「若えの! 行くぜ、おいッ!」
左膳だ。
と、味方の声につられたか、吸われるように寄ってきた黒妖の一つ、小きざみの足から、
「――――!」
無言のまま跳躍にかかろうとするところを! 同じく、無韻の風を起こして撃発した栄三郎の利剣が無残! ザクッと胴を割ったかと見るや、左足を踏み出して瞬間刀を預けていた栄三郎、スウッ! とねばりつつ引き離すが早いか、とっさに右転して、またひとりうめき声とともに土をつかませた。
が、この時すでに、銀星上下に飛んで、三人は一度にまんじの闘渦に没し去っていた。
この騒ぎをよそに、鈴川源十郎はすこし離れて、何かお藤とささやきかわしていたが、刀下をかいくぐって木かげに転びついたお艶の、闇に慣れた瞳に映じたのは、彼女の初めて見る恋人栄三郎であった。
あの、やさしく自分を抱いてくれた手が血のたれる大刀を振りかぶって、チラチラと左右へ走らせる眼には、冷々たる笑いをふくんでいる。
「泰軒先生ッ!」
「おう……そら! うしろへまわったぞ、ひとり!」
いつしか二手に別れて、板一枚で一団を引き受けている蒲生泰軒、伸び上がり、闇をすかして、群らがり立つ頭越しに声をかける。
さながら何かしら大きな力が戦機をかき乱しては制止するようだ――。
ひとしきり飛び違えてはサッと静まり、またひと揺れもみ渡ってはそのまま呼吸をはかりあう。
そのたびに一人ふたり、よろめきさがるもの、地に伏さって鬼哭を噛む者。
飛肉骨片。鉄錆に似た生き血の香が、むっと河風に動いて咽せかえりそう……お艶は、こみあげてくる吐き気をおさえて、袂に顔をおおった。
が、見よ!
神変夢想流の鷹の羽使い――鷹の翼を撃つがごとく、左右を一気に払って間髪を入れない栄三郎、もはや今は近よる者もないと見て、
「お艶! どこにいる?」
と刃影のなかからさけぶと、
「はい。ここにおります。――」
答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに剣魁丹下左膳の声が、真正面から栄三郎を打った。
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
栄三郎は、にっと笑って片手がたみに胴わきへこすった。あとの手が柄へ返る。
同時に、
一閃した左膳の隻腕、乾雲土砂を巻いて栄三郎の足を! と見えたが、ガッシ! とはねた武蔵太郎の剣尾に青白い火花が散り咲いて、左膳の頬の刀痕がやみに浮き出た……と思うまに、
「うぬ! しゃらくせえ!」
おめきたった左膳が、ふたたび虎乱に踏みこもうとするとき、空を裂いて飛来した泰軒の舟板が眼前に躍った。
「なんでえ! これあ――」
と左膳の峰打ちに、板はまっぷたつに折れて落ちるとたんに!
「舟へ!」
という泰軒の声。
見ると、女の影が一つの舟へころがりこむところだ。
おお! お艶は無事でいてくれた!
と思うより早く栄三郎も泰軒につづいて舟へとんで、追いすごして石垣から落ちる二、三人の水煙りのなかで、栄三郎がプッツリと艫綱を切って放すと、岸にののしる左膳らの声をあとに、満々たる潮に乗って舟は中流をさした。
二、三人水中に転落したが、一同とともにあやうく石垣の上に踏みとどまった左膳、
「おい、逃げるてえ法があるかッ! この乾雲は汝の坤竜にこがれてどこまでも突っ走るのだ。刀が刀を追うのだからそう思え!」
と遠ざかる小舟に怒声を送って、あわただしく左右を見まわした時は、どうしたものか、源十郎とお藤の姿はそこらになかった。
闇黒をとかして、帯のように流れる大川の水。
両岸にひろがる八百八町を押しつけて、雨もよいの空はどんよりと低かった。
独楽のように傾いてゆるく輪をえがきながら、三人を乗せた舟は見る見る本流にさしかかる――。
ギイッ……ギイ! 艪べそがきしむ。
胴のまにあったのをさっそく水へおろして、河風に裾をまかせた泰軒が、船宿の若い衆そこのけの艪さばきを見せているのだった。
「あんたはいい腕だ」
と栄三郎をかえりみて、
「よく伸びる剣だ。神変夢想久しく無沙汰をしておるが、根津あけぼのの里の小野塚老人、あれの手口にそっくりだな」
手拭をぬらして返り血をおとしていた栄三郎、思わず、
「おお! では鉄斎先生を御存じ――」
せきこんだ声も、風に取られて泰軒へ届かないらしく、
「しかし、あの隻腕の浪人者、きゃつはどうして荒い遣い手だて」
泰軒がつづける。
「あんたよりは殺気が強いしそれに左剣にねばりがある。まず相対では四分六、残念ながらあんたが四で先方が六じゃ。ははははは、いやよくいって相討ちかな――お! 見なさい。来おるぞ、来おるぞ!」
言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が暉々として夜陰に流れ、見るまに石垣を這いおりて、真っ黒にかたまり合った一艘の小舟が、艪音を風に運ばせて矢のように漕いでくる。
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と哄笑した泰軒、上身をのめらせ、反らせ大きく艪を押し出した。
と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ白布の滝河づらをたたき、飛沫にくもる深夜の雨だ。
お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から舳先につっ伏したきり、女は身じろぎもしないでいる。濡れる! と思った栄三郎が、舟尻の筵を持って近づきながら、
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの辛抱だ……」
と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ! 怖い顔! 誰でもいいじゃないの。ただ当り矢のお艶さんでなくてお気の毒さま」
櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、鉄火に笑った。
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ場じゃあ洒落にもなりゃしない……ちょいと船頭さん、急いでおくれな」
あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
立て膝のお藤、舟べりに頬杖ついて、
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この降雨じゃあ駄目か。ちッ! 煙草一つのめやしない」
斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
艪を振りあげた泰軒、たちまち四、五人に水礼をほどこす。栄三郎にかわされた土生仙之助も、はずみを食って水音寒く川へのめりこんだ。
沛然たる豪雨――それに雷鳴さえも。
きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の形相をみとめた栄三郎、
「汝れッ! 乾雲か。来いッ!」
とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。
「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
金砂のように陽の踊る庭に、苔をかぶった石燈籠が明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えの菊が澄明な大気に香っている。
午下りの広い家には、海の底のようなもの憂いしずかさが冷たくよどんでいた。
カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で鎚を振る音がまのびして聞こえる。
長閑。
その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろにがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す愚弟がひとりあるにはありましたが、ただいまではあるやむなき事情のために勘当同様になっておりまして、言わばそれがしとは赤の他人。どうぞわたくしの耳に届くところであれの名をお口へのぼされぬよう当方からお願い申したい」と結んだ主人は、折から縁の日向におろしてある鳥籠に小猫がじゃれているのを見ると、起って行って猫を追い、籠を軒に吊るしておいて座に帰った。
諏訪栄三郎の兄、大久保藤次郎である。
あさくさ鳥越の屋敷。
その奥座敷に、床ばしらを背に沈痛な面もちで端坐している客は、故小野塚鉄斎の従弟で、鉄斎亡きこんにち、娘の弥生を養女格にひきとって、何かと親身に世話をしている麹町三番町の旗本土屋多門であった。
「しかし、その御事情なるものが」藤次郎のしとねになおるのを待ってきり出した多門は、いいかけてやたらに咳ばらいをした。「いや、くわしいことはいっこうに存じませぬが、その、あの、下世話に申す若気のあやまち――とでもいうようなところならば、はっはっは、私が栄三郎殿になりかわってこの通りお詫びつかまつるゆえ、一つこのたびだけはごかんべんのうえ――」
「いやいや、初対面の貴殿におとりなしを受ける筋はござらぬ」
「ま、そう申されてはそれだけのものだが……」
「わざわざ御自身でおいでくだされて、あの痴け者を婿養子にとのお言葉さえあるに、恐れ入ったただいまの御仕儀。これが尋常の兄じゃ弟じゃならば、当方は蔵前取りで貴殿は地方だ。ゆくゆくお役出でもすれば第一にあれにとって身のため、願ってもない良縁と、私からこそお頼み申すところだが、さ、それが兄のわたくしの心としてそうは参らぬというものが、全体この話は、じつを申せば当家の恥、それがしの家事不取締りをさらすようなことながら、さて、いわば御合点がゆくまいし……心中察しくだされたい」
「はて、栄三郎殿がどのようなことをなされたかな?」
「口にするもけがらわしいが、お聞きくだされ、三社前の茶屋女とかにうつつを抜かし――」
ちょっと多門の顔色が動いたが、すぐに笑い消して、
「ははははは、何かと思えば、お若い方にはありがちな――貴殿にも、似よった思い出の一つ二つ、まんざらないこともござるまい。いや、これは失礼!」
「のみならず、栄三郎め、その女に貢ぐ金に窮して、いたし方もあろうに蔵宿から騙り盗った! 用人白木重兵衛がそのあとへ行って調べて参りました」
部屋住みの分け米が僅少なことを察してやれば、ちょいと筆の先で帳面をつくろってすむのに、なんという気のきかない用人だろう! 多門が黙っていると、藤次郎は語をつないで、
「それからこっち、とんと屋敷にもいつきませぬ。先夜も雨中の大川に多人数の斬り合いがあって、船番所から人が出たそうだが、栄三郎もどこにどうしているかと……いや、なんの関係もない者、思ってみたこともござらぬ。はははは」
多門は思わずうつむいた。
「割ってのお話、よくわかりました。が、それでもなお、私としてはなんとしても栄三郎殿を養子に申し受けたい。というのが……お笑いくださるな」
「なんでござる?」
「その栄三郎の嫁となるべき当方の娘――」
「ははあ、弥生どのとか申されましたな」
「それが命がけの執心で、そばで見ているそれがしまで日夜泣かされます」
「あの、うちの栄三郎めに?」
「仮りにも親となっている身、弥生の心を思いやるといてもたってもおられませぬ。御推量あってひとこと栄三郎どのを私かたへ――」
「いや。百万言をついやしても同じこと。彼のごとき不所存者を差しあげるなど思いもよりませぬ」
「これほどその不所存者が所望じゃと申しても?」
「いささかくどうはござらぬか。ご辞退申す」
「よろしい! だが、大久保氏、さっき赤の他人といわれたことをお忘れあるまいな、赤の他人なら本人しだいで貴殿にはなんの言い分もないはず」
「むろん、御勝手じゃ!」
決然と畳を蹴立てた多門へ、ひしゃげたような藤次郎の声が追いすがった。
「土屋氏!」
「なんじゃ?」
「貴殿栄三郎に会わるるか」
「会うても仔細あるまいが!」
「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」
プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。
夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響して、あわただしいなかに一抹の哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
麹町三番町の屋敷まちには、炊ぎのけむりが鬱蒼たる樹立ちにからんで、しいんと心耳に冴えわたるしずけさがこめていた。
たださえ、人をこころの故郷に立ち返らさずにはおかない黄昏どき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。
うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の一間に身動きもしないで、灯を入れるしたくをすら忘れて見えるのだった。
庭前の山茶花が紅貝がらのような花びらを半暗に散らしている。
ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の鞭を、あまりにもつぎつぎに受けたせいであろうか、しばらくのあいだに頬はこけ肩はげっそりと骨ばって、世のけがれを知らなかったつぶらな眼もくぼみ、まるで別人のようないたいたしいすがたであった。
「ああ――」
思わず洩れる吐息が、すぐと力ない咳に変わって、弥生は袂に顔を押し包んで、こほん! こほん! とつづけざまに身をふるわせた。
このごろ胸郭が急にうつろになって、そこを秋風が吹くような気がする。ことに夕方は身もこころも遣瀬なく重い。弥生はいつしか肺の臓をむしばまれて、若木の芽に不治の病をはびこらせつつあったのだ。
心の荷を棄てねば快くならぬ。
とそれを知らぬ弥生ではなかったが、思っても、思っても、思ってもなお思いたりない栄三郎様をどうしよう!
こうして叔父多門方に娘分として引き取られているいま、寸刻も弥生のこころを離れないのは、父鉄斎の横死でもなく、乾坤二刀の争奪でもなく、死んでも! と自分に誓った諏訪栄三郎のおもざしだけだった。
もとより、父の死は悲しともかなしい。そしてその仇敵は草を分けても討たねばならぬ。
夜泣きの刀も、言うまでもなく、万難を排してわが手へとりもどすべきであるが……。
その仇を報じ、その宝刀をうばい返してくださるのが、やっぱりあの栄三郎さまではないか。
強い、やさしい栄三郎さま!
こう思うと、今この身の上も、もとはと言えば、すべてあの人が自敗を選んだことから――とひややかに理を追ってみても、弥生はすこしも栄三郎を恨む気になれないどころか、ますますかれを自分以外のものとして考えることができなくなるのだった。
剣に鋭かった亡父の気性を、弥生はそのまま恋に生かしているのかも知れない。はじめて男を思う武士の娘には、石をもとかす焦熱慕念のほか、何ものもなく、ひとりいて栄三郎さま! と低声に呼べば、いつでもしんみりと泣けてくるのが、自らおかしいほどだった。
この純情を察して、きょうこっそりと叔父の多門が、鳥越の栄三郎の実家へ養子の掛け合いに行ったことは、弥生もうすうす感づいているが――そのためか、この高鳴る胸はなんとしたものであろう?
霜に悩む秋草のように、ほっそりとやつれた弥生が、にわかに暗くなったあたりに驚いて、行燈をとりに立とうとした時、ちょうど眼のまえの空に、天井から糸を垂れて降りてきた一匹の子蜘蛛を見つけた。弥生が懐紙で上部を払うと、蜘蛛は音もなく畳に落ちたが、同時に、あわてて逃げようとする。
夜の蜘蛛は親と思っても殺せ――それとも昼の蜘蛛だったかしら?
と弥生が迷っているうちに子蜘蛛は、しすましたり! と懸命に這ってゆく。
その小さな努力が珍しく弥生をほほえませた。
「そんなに急いでどこへ行くのこれ、お前には心配もなにもなくていいね」
こう言って弥生が往手をふさぐと、蜘蛛はすこしためらったのち、すぐ右へ抜けようとする。弥生が右へ手をやる。蜘蛛は左に出ようとあせる。弥生の手が先をおさえる。思案にくれた蜘蛛は、弥生の手にかこまれて神妙にすくんだ。
「ほほほほ、そう! ね、じっとしておいで、じっと!」
と弥生がさびしく笑ったとき、玄関に駕籠がおりたらしく出迎えの声がざわめいて、まもなく、女中のささげる雪洞が前の廊下を過ぎるとつづいて土屋多門が、用人をしたがえて通りかかった。
やみに手を突いて頭をさげた弥生の眼にうつったのは、板廊を踏んでゆく白足袋と袴の裾だけだったが、わざと弥生に聞かせる気の多門の大声が、しきりにうしろの用人を振り返っていた。
「世にずいぶんと男は多い。しかるに、一人に心をとられて、他が見えぬとは狭いぞ! もしまたそのひとりが水茶屋ぐるいでもしおったらいかがいたす? な、そうであろう。はははは」
「御意にございます」用人は何がなにやらわからずに答えている。
はっとして突っ立った弥生は、じぶんの踵の下で、いまの蜘蛛がぶつッ! と音がしてつぶれたのを知らなかった。
「大作」
と次の間へ声をかけながら、大岡越前は、きょう南町奉行所から持ち帰った書類を、雑と書いた桐の木箱へ押しこんで、煙管を通すつもりであろう。反古を裂いて観世縒りをよりはじめた。
夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど刻が移ったとも思われないのに、晩秋の夜は早く更ける。あけ放した縁のむこうに闇黒がわだかまって、ポチャリ! とかすかに池の鯉のはねる音がしていた。
越前守忠相は、返辞がないのでちょっと襖ごしに耳をそばだてたが、用人の伊吹大作は居眠ってでもいるとみえて、しんとして凝ったようなしずけさだ。
ただ遠くの子供部屋で、孫の忠弥が乳母に枕でもぶつけているらしいざわめきが、古い屋敷の空気をふるわせて手に取るように聞こえる。
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな跫音が廊下を伝わってきて、とんぼのような忠弥の頭が障子のあいだからおじぎをした。
「お祖父ちゃま、おやすみなちゃい」
忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その賑かさにはっとして隣室につめている大作が急にごそごそしだすけはいがした。
「大作、これよ、大作」
「はッ」
と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすまを引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちんと正座して書台の漢籍に眼をさらしている。
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい小皺がよる。「わしはまだ調べ物もあるし読書もしたい……だがな、大作――」
と肥った身体が脇息にもたれると、重みにきしんでぎしと鳴った。
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから店子のお艶、さよう、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶とやら申す者の尋ね書が願い立てになっておったが、些細な事件ながら、越前なんとなく気にかかってならぬ。いや、奉行の職義から申せば市井の瑣事すなわち天下の大事である。そこで大作、この婦人の失踪に関連して何ごとかそのほうに思いあたる節はないかな?」
「さあ、これと申してべつに……」
大作は面目なさそうに首をひねった。すると忠相は何かひとくさり低音に謡曲を口ずさんでいたが、やがて気がついたようになかば独りごちた。
「――あの櫛まきのお藤と申す女、かれはもと品川の遊女で、のち木挽町の芝居守田勘弥座の出方の妻となったが、まもなく夫と死別し、性来の淫奔大酒に加うるにばくちを好み、年中つづみの与吉などというならずものをひきいれて、二階は常賭場の観を呈しておることはわしの耳にもはいっておる。それのみではない。ゆすり騙りとあらゆる悪事を重ねて、かれら仲間においても、なんと申すか、ま、大姐御である。それはそれとして、このお藤は、先年来十里四方お構いに相成りおるはずなのが、目下江戸府内に潜入しておる形跡があると申すではないか」
いつものことだが、主君越前守の下賤に通ずる徹眼、その強記にいまさらのごとくおどろいた大作、恐縮して顔を伏せたまま、
「おそれながら例によって墓参を名とし、ひそかにはいりこみおるものかと存ぜられまする」
「さよう。まずそこらであろう……が、お藤が江戸におるとすれば、このたび喜左衛門店のお艶なる者が誘拐されたこととなんらの関係が全然ないとは思えぬ。ま、これは、ほんのわしのかんにすぎんが、今までもお藤には婦女をかどわかした罪条が数々ある。してみれば、わしのこの勘考も当たらずといえども遠からぬところであろう。な、そち、そう思わぬか」
「お言葉ごもっともにござりまする。なれど、同心をはじめ江戸じゅうの御用の者ども、何を申すにもただいまはあの辻斬りの件に狂奔しておりまして――」
大作がこう申しあげて顔色をうかがうと、前面の庭面を見つめてふっと片手をあげた大岡越前、事もなげに大作を振り返って、
「評判の袈裟掛けの辻斬りか……うむ、もうよいから引き取りなさい。わしも寝所へ入るとしましょう」
と言ったが立ちあがりもしない。
府内を席捲しつつある袈裟掛けの闇斬り!
それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。
用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、灯りを手に、つとたちあがって縁に出ると、庭のくらがりを眼探って忍びやかに呼びかけた。
「蒲生か――泰軒であろう、そこにいるのは」
と、沓脱ぎから三つ四つむこうの飛び石の上に、おなじく低い声があった。
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびすを返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと手燭の光野へ踏みこんできた人影を見ると……つんつるてんのぼろ一枚に一升徳利。
この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
泥足のまま臆するところもなく自ら先に立って室内へ通った泰軒居士、いきなり腰をおろしながらひょいと忠相の書見台をのぞいて、
「なんだ? なにを読みおる? うむ、旱雲賦か。賈誼の詩だな――はるかに白雲の蓬勃たるを望めば……か、あははははは」
とこの豁達な笑いに忠相もくわわって、ともに語るにたる親交の醍醐味が、一つにもつれてけむりのように立ちこめる。
裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
野飼いの奇傑蒲生泰軒は、その面前にどっかと大あぐらを組むと、ぐいと手を伸ばして取った脇息を垢じみた腋の下へかいこんで、
「楽だ」
光沢のいい忠相の豊頬にほほえみがみなぎる。
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
で、またぽつんと主客眼を見合って笑っている。多く言うを要しない知己の快さが、胸から胸へと靉靆としてただよう。
夜風にそっと気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「痩せたな、すこし」
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分餌がようないでな、はははは。しかし、そういえば、このごろおぬし眼立って肥った。やはり徳川の飯はうまいとみえる」
越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻漂渺として捕捉しがたしじゃ――はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然として凝るか」
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で重畳」
ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、哄然と上を向いて笑った。
が、泰軒は忠相の鬢に、忠相は泰軒のひげに、初霜に似た白いものをみとめて、何がなしにこころわびしく感じたのであろう。双方ふっと黙りこんで燭台の灯影に眼をそらした。
中間部屋に馬鹿ばなしがはずんでいるらしく、どっと起こる笑い声が遠くの潮騒のように含んで聞こえる。
秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその縷々たる烏有のささやきに人はともすれば耳を奪われるのだった。
対座して無言の主客。
一は、いま海内にときめく江戸南町奉行大岡越前守忠相。他は、酒と心中しよか五千石取ろかなんの五千石……とでも言いたい、三界無宿、天下の乞食先生蒲生泰軒。
世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この肝胆あい照らしたうちとけよう。ふしぎといえばふしぎだが、男子刎頸の交わりは表面のへだてがなんであろう。人のきめた浮き世の位、身の高下がなんであろう! 人間忠相に対する人間泰軒――思えば、青嵐一過して汗を乾かす涼しいあいだがらであった。
とは言え。
大岡さまの前へ出て、これだけのしたい三昧……巷の一快豪蒲生泰軒とはそも何者?
「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
忠相はこう眼を笑わせて、悠然と髯をしごいている泰軒を見やった。
泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは甲賀流忍術……いかなる囲みもわしにとけんということはないて、いや、これは冗談だが、こうして夜、植えこみの下を這ってきて奉行のおぬしに自ままに見参するなんざあ、俺でなくてはできん芸当であろう」
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
と越前守忠相の額に、ちらりと暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「手巧者な辻斬りが出おるというぞ。夜歩きはちと控えたがよかろう」
すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「噂だけは聞いた。袈裟掛け――それも、きまって右肩からひだりのあばらへかけて斜め一文字に斬りさげてあるそうではないか。一夜に十人も殺されたとは驚いたな。もとより腕ききには相違ないが――」
「刀も業物、それは言うまでもあるまい。武士、町人、町娘、なんでもござれで、いや無残な死にざまなそうな。だが、一人の業ではないらしい。青山、上野、札の辻、品川と一晩のうちに全然方角を異にして現われおる。そのため、ことのほか警戒がめんどうじゃ」
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは逆手でなくてはかなうまい?」
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百尺竿頭一歩を進めろ!」
どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこりして大仰に膝を打った。
「いや、こりゃまさに禅師に一喝を食ったが、いくら江戸でも、左腕の辻斬りがそう何人もいて、みな気をそろえて辻斬りを働こうとも考えられぬ」
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が闇黒に左剣をふるうのかも知れぬといっておるではないか」
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、何奴かな、その狂刃の主は?」
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
大笑すると、両頬のひげが野分の草のようにゆらぐ、忠相は心配そうな眼つきをした。
「また豪そうな! 大丈夫か。けがでもしても知らんぞ」
「ばかいえ、自源流ではまず日本広しといえどもかく申す蒲生泰軒の右に出る者はあるまいて」
言い放って袖をまくった泰軒、節くれだった腕を戞! と打ったまではいいが、深夜の冷気が膚にしみたらしく、その拍子にハアクシャン! と一つ大きなくしゃみをすると、自分ながらいまの稚心がおかしかったとみえ、
「新刀試し胆だめしならば一、二度ですむはず……きょうで七、八日もこの辻斬りがつづくというのは、何百人斬りの願でも立てたものであろうと思われるが――」
となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふとふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために箒一本銭百文の小盗を罰して何がおもしろい?」
こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、呉越いずれが治めても天下である。法は自立だ」
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に趨らしめた世を罰する――日夜かくありたいと神明に祈っておる」
泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一悟門に到達してすべてがうるさくなった時はどうする? うん? 白雲先生ではないが、旧書をたずさえ取って旧隠に帰る……」
「野花啼鳥一般の春、か」
と忠相がひきとると、ふたりは湧然と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
さびしいと見れば、さびしい。
ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈、それにつけても思い出すのは……。
十年一むかしという。
秩父の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族のひとりが、あてもない諸国行脚の旅に出でて五十鈴川の流れも清い伊勢の国は度会郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ暮れであった。
外宮の森。
旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛りにも趣ある客引きの声。
勢州山田、尾上町といえば目ぬきの大通りである。
弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上なかに一団の人だかりがして、わいわい罵りさわぐ声がいやがうえにも行人の足をとめていた。
往き倒れだ。
こじきの癲癇だ。
よっぱらいだ。
いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者とも得体の知れない総髪の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
代々秩父の山狭に隠れ住む武田の残族蒲生泰軒。
冬夜の炉辺に夏の宵の蚊やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源、擁心流の拳法、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕を一蹴して、飄々然と山をおりたかれ泰軒は、一時京師鷹司殿に雑司をつとめたこともあるが、磊落不軌の性はながく長袖の宮づかえを許さず、ふたたび山河浪々の途にのぼって、まず生を神州にうけた者の多年の宿望をはたすべく、みちを伊勢路にとって流れついたのがこの山田の町であった。
人に求めるところがあれば、人のためにわれを滅する。
世から何ものをか獲んとすれば世俗に没して真我をうしなう。
といって、我に即すればわれそのものがじゃまになる。
金も命も女もいらぬ蒲生泰軒――眼中人なく世なくわれなく、まことに淡々として水のごとき一野児であった。
この秀麗な気概は、当時まだひらの大岡忠右衛門といって、山田奉行を勤めていた壮年の越前守忠相の胸底に一脈あい通ずるものがあったのであろう。不屈な泰軒が前後に一度、きゃつはなかなか話せると心から感嘆したのは大岡様だけで、人を観るには人を要す。忠相もまた変物泰軒の性格学識をふかく敬愛して初対面から兄弟のように、師弟のように陰に陽に手をかしあってきた仲だったが、四十にして家を成さず去就つねならぬ泰軒の乞食ぶりには忠相もあきれて、ただその端倪すべからざる動静を、よそながら微笑をもって見守るよりほかはなかった。
だから、八代吉宗公に見いだされた忠相が、江戸にでて南町奉行の顕職についたのちも、泰軒はこうして思い出したように訪ねてきては、膝をつき合わしてむかしをしのび世相を談ずる。が、いつも庭から来て庭から去る泰軒は家中の者の眼にすらふれずに、それはあくまでも忠相のこころのなかの畏友にとどまっていたのだった。
それはそれとして。
この秋の夜半。
いま奉行屋敷の奥座敷に忠相と向かいあっている泰軒は、何ごとか古い記憶がよみがえったらしく、いきなり眼をほそくして忠相の顔をのぞいた。
「おぬし、おつる坊はどうした? 相変わらず便りがあるか」
すると老いた忠相が、ちょっと照れたように畳をみつめていたが、
「もう坊でもなかろう。婿をとって二、三人子があるそうな。先日、みごとな松茸を一籠届けてくれた。貴様にもと思ったが分けようにもいどころが知れぬ――」
「なに、おぬしさえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
と忘れていた軽い傷痕がうずきでもするように、忠相は寂然と腕を組んで苦笑をおさえている。
泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
神の町に行き着いたよろこびのあまり、無邪心小児のごとき泰軒が、お神酒をすごして大道に不穏な気焔をあげている時、山田奉行手付の小者が通りかかって引き立てようとすると、ちょうど前の脇本陣茶碗屋の店頭から突っかけ下駄の若い娘が声をかけて出て来た。
わき本陣の旅籠茶碗屋のおつるは、乙女ごころにただ気の毒と思い、役人の手前、その場は知人のようにつくろって、往来にふんぞり返っていばっている泰軒を店へ招じ入れたのだった。
仔細ありげな遠国の武士――と見て、洗足の水もみずからとってやる。
湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして古布子を手に通して、それよりさっそく酒を……というわがままぶり。
一に酒、二に酒、三に酒。
あんな猩々を飼っておいて何がおもしろいんだろう? と家中の者が眉をひそめるなかに、おつるは、なんの縁故もない泰軒を先生と呼んで一間をあたえ、かいがいしく寝食の世話を見ていた。
明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、漠然ながらそのままに映ったのかも知れぬ。
また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
狭い市。
脇本陣に、このごろ山伏体のへんな男がとまっているそうだとまもなくぱっとひろまって、ことに手先の口から、その怪しき者が大道で公儀の威信に関する言辞を弄していたことが大岡様のお耳にもはいったから、役目のおもて捨ててもおけない。即座に引き抜いて来て、仮牢へぶちこませた。
その夜、後年の忠相、当時山田奉行大岡忠右衛門が、どんな奴か一つ虚をうかがってやれとこっそり牢屋に忍んでのぞくと……。
君子は独居をつつしむという。
人は、ひとりいて、誰も見る者がないと思う時にその真骨頂が知られるものだ。
板敷きに手枕して鼻唄まじり、あれほど獄吏をてこずらせていると聞いた無宿者が、いま見れば閉房の中央に粛然と端坐して、何やら深い瞑想にふけっているようす。
室のまんなかに座を占めたところに、行住座臥をもいやしくしない、普通ならぬ武道のたしなみが読まれた。
しかも! 土器の油皿、一本燈心の明りに照らしだされた蒼白い額に観相に長じている忠相は、非凡の気魂、煥発の才、雲のごとくただようものをみたのである。
これは、一人傑。
ととっさに見きわめて、畳のうえに呼び入れて差し向かい、一問一答のあいだに掬すべき興趣滋味こんこんとして泉のよう――とうとう夜があけてしまった。そして、朝日の光は、そこに職分を忘れた奉行と、心底を割った囚人とがともに全裸の人間として男と男の友愛、畏敬、信頼に一つにとけ合っているのを見いだしたのだった。
このお方はじつは千代田の密偵、将軍おじきのお庭番として名を秘し命を包んでひそかに大藩の内幕を探り歩いておらるるのだから、万事そのつもりで見て見ぬふりをするように……というような苦しい耳うちで下役の前を弥縫した忠相も、自分に先んじて風来坊泰軒を高くふんだ茶碗屋おつるの無識の眼力にはすくなからず心憎く感じたのだろう。かれは、泰軒をおつるに預けさげたのちも、たびたびお微行で茶碗屋の暖廉をくぐったが、それがいつしか泰軒を訪れるというよりも、その席へ茶菓を運んでくるおつるの姿に接せんがため――ではないか? と忠相自身もわれとわが心中に疑いだしたある日、ずばりと泰軒が図星をさした。
「おぬしは、おつる坊を見にくるのだな。はははは。かくすな、かくすな。いや、そうあってこそ奉行も人だ。おもしろい」
忠相はなんとも言わずに、胸を開いて大笑した。
ただそれだけだった。
これが恋であろうか。よしや恋は曲者にしても、お奉行大岡様と宿屋の娘……それはあまりにも奇しき情痴のいたずらに相違なかった。
が、爾来いく星霜。
身は栄達して古今の名奉行とうたわれ、世態人情の裏のうらまで知りつくしたこんにちにいたるまで、忠相はなお、かつて伊勢の山田のおつるへ動きかけた淡い恋ごころを、人知れず、わが世の恋と呼んでいるのだった。
陽の明るい縁などで、このごろめっきりふえた白髪を抜きながら、忠相がふと、うつらうつらと蛇籠を洗う五十鈴川の水音を耳にしたりする時、きまって眼に浮かぶのはあのふくよかなおつるの顔。
まことにおつるは、色彩のとぼしい忠相の生涯における一紅点であったろう。たとえ、いかに小さくそして色褪せていても。
そのおつるの家に、泰軒が寄寓してからまもなくだった。山田奉行忠相の器量を試みるにたるひとつの難件がもちあがったのは。
そのころ松坂の陣屋に、大御所十番目の御連枝紀州中納言光定公の第六の若君源六郎殿が、修学のため滞在していて、ふだんから悪戯がはげしく、近在近郷の町人どもことごとく迷惑をしていたが、葵の紋服におそれをなして誰ひとり止め立てをする者もなかった。
源六郎、ときに十四、五歳。
それをいいことにして、おつきの者の諫めるのもきかずに、はては殺生禁断の二見ヶ浦へ毎夜のように網を入れては、魚籠一ぱいの獲物に横手をうってほくほくしていると、このことが広く知れ渡ったものの、なにしろ紀伊の若様だから余人とちがってすぐさま捕りおさえるわけにもゆかず、一同もてあましていたが、これを聞いた山田奉行の大岡忠右衛門、法は天下の大法である、いかに紀州の源六郎さまでもそのまま捨ておいては乱れの因だというので、ひそかに泰軒ともはからい、手付きのものを連れて一夜二見ヶ浦に張りこんでさっさと源六郎を縛りあげた。
そして。
無礼! 狼藉! この源六郎に不浄の縄をかけるとは何ごと……などとわめきたてるのも構わず奉行所へ引ったてて、左右に大篝火、正面に忠右衛門が控えて夜の白洲をひらいた。
「これ! 不届至極! そのほうは何者か、乱心いたしたな?」
と、上段の忠右衛門がはったとにらむと、
「乱心? 馬鹿を申せ。われは松平源六郎である。縄をとけッ」
「だまれ」忠右衛門も声をはげまして「松平源六郎とは恐れ多いことを申すやつじゃ。なるほど紀州第六の若様は源六郎殿とおおせられるが、いまだ御幼年ながら聡明叡智のお方で、殺生禁断の場所へ網をおろすような不埓はなさらんぞ。そのほうまさしく乱心いたしおるとみえる、狂人であろう汝は」
「狂人とは何事! 余はまったく紀州の源六郎に相違ない」
「またしても申す。これ、狂人、二度とさような言をはくにおいてはその分にさしおかんぞ。汝がすみやかに白状せん以上、待て! いま見せてやるものがある」
こう言って忠右衛門が呼びこませたのが、小俣村の百姓源兵衛という男、名主そのほか差添えがついている。
「源兵衛、面をあげい。とくと見て返答いたせ。これに控えおるはそのほうの伜源蔵と申す者に相違なかろう? どうじゃ」
そのときに、くだんの源兵衛、お白洲をもはばからず源六郎のそばへ走りよって、「ひゃあ、伜か、お前気がふれて行方をくらましたで、みんなが、はあ、どんなに心配ぶったか知んねえだよ。やっとのこってこのお奉行所へ来てるとわかって、いま名主どんに頼んで願えさげに突ん出たところだあな。だが、よくまあ達者で……」
驚いたのは源六郎だ。
「さがれッ! えいッ、寄るな。伜とはなんだ。見たこともないやつ」
と懸命に叱りつけたが、百姓源兵衛に名主をはじめ組合一統がそれへ出て、口々に、
現在の親を忘れるとはあさましいこった。
どうか、はあ、気をしずめてくんろよ。
これ源蔵や、よく見ろ。われの親父でねえか。
などと揃いもそろって狂人応対をするので、源六郎歯ぎしりをしながら見事に気がふれたことにされてしまった。
そのありさまに終始ほほえみを送っていた忠右衛門は、やおら言いわたした。
「さ、この狂者は小俣村百姓源兵衛のせがれ源蔵なるものときまった。親子でいて父の顔を忘れ、見さかいがつかんとは情けないやつだが、掟を犯して二見ヶ浦で漁をするくらいの乱心なれば、そういうこともあり得ようと、狂気に免じ、今日のところは心あってそむいたものとみとめず、よって源蔵儀は父源兵衛に引き渡しつかわす。十分に手当をしてやるがよい――源蔵ッ! 狂人の所業とみなしてこのたびは差し許す、重ねてかようなことをいたさんよう自ら身分を尊び……ではない、第一に法をたっとばんければいかん。わかったな、うむ、一同、立ちませい」
というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知兼ねそなわった名判官である。
と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
しッ、しい――ッ、と側で警蹕の声がかかる。
と、濃むらさきの紐が、葵の御紋散しでふちどった御簾をスルスルと捲きあげて、金襴のお褥のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
裃の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
すると吉宗、何を思ったか、いきなり及び腰に自ら扇子で御簾をはねると、ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁の二見ヶ浦へ網を入れました小俣村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
狂者にそっくりとはなんという無礼!
と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
ほほえみと泪。
すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
あの日、大役をお受けしてからこのかた。
南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎。
それは、人間である。
人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉悪玉を一眼見わけるおっかない大岡様。
たいがいの悪がじろりと一瞥を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
夢。
――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
強いようでも、流浪によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
とたんに、
庭前を飛んで来たあわただしい跫音が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。
「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
忠相が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
月も星もない真夜中。
広い庭を濃闇の霧が押し包んで、漆黒の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
池の水が白く光って風は死んでいた。
ただ、深々と呼吸づく三更の冷気の底に、
声のない気合い、張りきった殺剣の感がどこからともなくただよって、忠相は、満を持して対峙している光景を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城と新免にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮助かりはすまいと存じまする」
言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
天下何者にも低頭しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
と、もう闇黒の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身痩躯、乱れた着前に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。
垣根に房楊枝をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡のそばに待っていた。
千住竹の塚。
ほがらかな秋晴れの朝である。
軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌だな……」
栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
孫七は黙って飯をほおばっていた。
鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神なぞ――」
お兼婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉の音が森閑と流れた。
心づくしとはわかっていても、悩みをもつ栄三郎には咽喉へ通らない食事であった。
やがて無口の孫七は、むっつりして粗朶を刈りに立つ。
食客の栄三郎は、いつものようにすぐに野猿梯子を登って与えられた自室へ。
と言っても頭のつかえる天井うらだ。
所在なさに横になった諏訪栄三郎。
思うまいとして眼さきをよぎるのはお艶のすがたであった。
あの首尾の松の夜。
闘間にお艶を失った彼は、風雨のなかを御用提灯に追われ追われて対岸へ漕ぎつき、上陸るとすぐ泰軒とも別れて腰の坤竜丸を守って街路に朝を待ったが……あかつきの薄光とともに心に浮かんだのが、この千住竹の塚に住むお兼母子のことであった。
栄三郎が生まれたとき、母の乳の出がわるくて千住の農婦お兼を乳母として屋敷へ入れた。お兼には孫七という栄三郎と同い年の息子があったが、それをつれて一つ屋根の下に起き臥ししているうちにいつしかお兼は栄三郎を実子のように思い、栄三郎もまたお兼をまことの母のごとくに慕うようになった。これは栄三郎が乳ばなれしてお兼に暇が出たのちもずっとつづいて、盆暮れには母子そろって挨拶にくるのを欠かさない――いまは息子の孫七があとをとって、自前の田畑を耕し、ささやかながら老母を養っている。
口重で人のいい乳兄弟の孫七といつまでも自分の子供と思っている乳母のお兼。
かれらこそはしばらくこの傷ついたこころをかばってくれるであろう……まずさしあたり雨露のしのぎに。
こう考えて、栄三郎がこの竹の塚の孫七方へ顎をあずけてからもう何日かたったが、武士には武士の事情があろうと、お兼婆さんも孫七も何にもきかぬし、栄三郎も何もいわなかった。だが、それだけ、ひとりで背負わねばならぬ栄三郎の苦しみは、身体があけばあくほど大きかったといわなければならない。
油じみた蒲団掻巻に包まれて、枕頭の坤竜を撫しながら、かれはいくたび眠られぬ夜の涙を叱ったことであろうか。
半夜夜夢さめて呼ぶお艶の名。
が、もとより恋の流れに棹さしていさえすればよい栄三郎ではなかった。若い血のときめきと武門の誓い!
お艶と乾雲!
この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の所在も、せわしない都にのまれ去って杳として知れなかった。
加うるに弥生のこと。
鳥越の兄藤次郎のこと。
夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、煤だらけの天井に明るい光線がうつろう。
冬近い閑寂な日、栄三郎は、千住竹の塚、孫七の家の二階にすわって、ながいこと無心に夜泣きの脇差を抜いて見入っている。鍔元から鋩子先と何度もうら表を返して眺めているうちに、名匠の鍛えた豪胆不撓の刀魂が見る見る自分に乗り移ってくるようにおぼえて、かれは眼をあげて窓のそとを見た。
竹格子を通じて瑠璃いろの空が笑っている。
小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
嫌いではない。決してきらいではない!
が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女恋戯のつねだという。
栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また、なれもしないばかりか、かえってその気もちが負債のように栄三郎をおさえて、それが彼を弥生から離していったのかも知れなかった。
が、理屈として、
そこに栄三郎の胸に、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶という女があったがためであることはいうまでもない。武家の娘の生一本に世を知らぬ、そして知らぬがゆえに強い弥生の恋情よりも、あら浪にもまれもてあそばれて寄って来て海草の花のような、あくまでも受身なお艶という可憐な姿に、栄三郎のすべてをとらえて離さぬきずなの力のあったことは、考えてみればべつにふしぎではなかった。
そのお艶。
あの大川の夜、身代りとして舟へ飛びこんだ莫蓮女の口では、お艶は本所の殿様とやらに掠われたとのことだったが、……どうしてるだろう? こう思うと、栄三郎はいつでもいてもたってもいられぬ焦燥に駆られて、狂いたつように、手慣れの豪刀武蔵太郎安国をひっつかんでみる。
しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、卒然として襟を正し肩を張るのだった。
乾雲丸と坤竜丸!
剣妖丹下左膳は、乾雲に乗って天を翔り闇黒に走って、自分のこの坤竜を誘い去ろうとしている――それに対し、われは白日坤竜を躍らせ、長駆して乾雲を呼ぶのだ!
こうしてはいられぬ!
恋愛慕情のたてぬきにからまれて身うごきもとれぬとは! 咄ッ! なんたるざまだッ!
切り離せ! そうだ、左膳を斬るまえにまずお艶への妄念をこの坤竜丸の冷刃で斬って捨て、すっぱりと天蓋無執、何ものにもわずらわされない一剣士と化さなくては、とうてい自由な働きは期し得ない!
百もわかっている。が、やっぱりお艶のうえを思うと、栄三郎は剣を第二にこのほうへ! と心がはやる……それは情智のあらそいであった。
だが?
おとなしくしていて養子にでもやられては、お艶も刀もそれきりになってしまう。それではたまらぬと、そこで兄藤次郎にはすまぬと影に手を合わせながら、わざと種々の放埓に兄を怒らせて、こうして実家へもよりつかずに繋累を断った栄三郎ではないか。
律気な兄者人はどんなに怒っていることであろう!
あの五十両もかわいいお艶のためとはいえ、何もあんなことをしなくてもまともな途で才覚のつかないわけではなかったが、あれも兄へのあいそづかし――いまも胸底ひそかに兄に詫びてはいるもののそれもこれ、一心を賭して乾坤二刀をひとつにせんがためではなかったか?
お艶! 恨んでくれるな。今にきっと探しだして助けるから。
こう低声に口走った栄三郎が、なんとなく再び闘機の近いことをひしと感じて、カッ! と血のさかのぼった眼を見ひらいた時、うらの寺にまのぬけた木魚の音が起こった。
「若様、お茶がはいりましたが――」
梯子段の中途にお兼婆さんの声がした。
「お艶や! お艶や」
と、あたりをはばかる声で、お艶は午後のうたた寝からさめた。
気がつくと夢を見ていた。
自分の身が人魚と化して、海底の岩につながれている。青蚊帳をすかして見るような、紺いろにぼけた世界だった。藻の林が身辺においしげって、ふしぎなことには、その尖端に一つ一つ果のように人の顔がついていた。源十郎だった。お藤だった。与吉だった。隻眼で、こわい傷のある左膳とかいう侍の首だった。それが四方八方から今にも咬みつきそうに自分をめざして揺れ集まってくる。
お艶が恐ろしさに身ぶるいして逃げようとしても、昆布のような物が脚腰にからみついていて一寸も動かれない。懸命に助けを呼んでも、口から大きな泡の玉が立ち昇るだけで、自分の声が自分にも聞こえなかった。
なんという情けない!……
と胸を掻きむしって上を仰ぐと、陽の光が斜めに縞のようにぼやけている水面を、坤竜丸を差した栄三郎が泳いでゆく、何度も何度も頭上高く輪をかいて泳ぎまわっているが、おりてはこないし、お艶も浮かびあがれなかった。
ああ! じれったい!
あんなにわたしの上をまわっていて、これが見えないのかしら? 見てももう救い出してくださるお気はないのかしら?
首尾の松の小舟で……あれほど固く誓ったものを!
人魚になったお艶が源十郎の首にすりよせられて思わず泣き叫ぼうとしたとき、
「お艶! お艶!」
と呼ぶ声が水の層を通してだんだんはっきりと聞こえてきた。
あ! 栄三郎さまがおいでくだすった!
「は、はい――お艶はここにおりますッ!」
「お艶」
という最後の声が耳のそばで大きくひびいたので、お艶がはっと眼をあけてみると……。
栄三郎ではない――母のおさよが盆に何かのせて来て、しゃがんでいた。
「お艶、お前、好きだったよねえ。お汁粉ができたから持って来たよ。さ、起きておあがり」
おさよは娘をのぞきこんで、
「お前、なんだかうなされていたようだね」
「ええ、こわい夢……夢でよかった」
まだぼんやりして上身を起こしたお艶は、ほつれた髪を手早く掻きあげながら、眠りのなかで泣いていたものとみえて、巻いて枕にしていた座蒲団のはしが涙に濡れているのに気がつくと、そっとうしろへかくして悲しく笑った。
寝起きの頬に赤くあとがついて、男ごころをそそらずにはおかない悩ましさ。
母と娘、せまい幽室に無言のまま向かいあっている。
本所法恩寺橋まえ鈴川源十郎屋敷の一間である。
櫛まきお藤のさしがねで、刀渦にまぎれ、巧妙にお艶の身柄をさらい出した源十郎は、深夜の往来に辻駕籠を拾ってまんまと本所の家へ運びこんだまではよかったが……。
いつぞや老下女おさよの話に出た娘というのがこのお艶であろうとは、さすがの源十郎、ゆめにも気がつかなかった。
駕籠からひきずり出されたお艶を見て、おさよはのけぞるほど愕いたが、そこは年の功、日ごろの源十郎を知っているので、母親ということをさとられずに、かげになりそれとなくお艶の身を守るのが、この際第一の上分別ととっさに考えた。おさよはすばやくお艶に眼くばせしてその意を送り、おもてはあくまでも源十郎の命を大事にすると見せかけて、お艶を奥にあらあらしく監禁しながら、うらへまわっては、母親としてどれだけの切ない心づかいをしなければならなかったろう。運はお艶を見すてず、押しこめられた鬼の窟にありがたい母の手が待っていたのである。
奥まった納戸。
くる日も来る日も、お艶にはかびくさい囚われの朝夕があるだけ――しかしお艶の起居を看視するのはおさよの役だったので、おさよは誰にも疑われずに今のようにそっとお艶の部屋へ忍んでは話しこんで慰めることも、好きな食物も運び得たのだったが母と娘……とはまだ屋敷じゅうひとりとして見ぬいたものはない。
酒の場には必ずお艶がひきだされる。
それでお艶は、窓から見える草間の離室へ、あさに晩にこっそり出入りしている隻眼のお侍が、栄三郎様と同じ作りの陣太刀を佩いていることを知って、なんとかして栄三郎様へしらせてあげたいとは思うが――翼をとられた小鳥同様の身。
が、源十郎はあせるだけで、ゆっくりお艶のそばへもよれず、どうすることもできなかった。いつでも口説きにかかったりしていると、きまって風のようにおさよが敷居に手を突いて、人が来たという。何か御用は? と顔を出す。源十郎は舌打ちするばかりだった。
いまも、その源十郎のかん走った声が、あし音とともに廊下を近づいてくる。
「さよ! さよ! こらッ、さよはおらぬか」
たちまち身をすくませるお艶を制して、おさよはあわてて部屋を出た。
「あれ、お母さん! またこっちへ来ますよ。早く行っておさえてください……」
お艶が隅に小さくなるのを、おさよは、
「いいからお前は黙ってまかせておおきってば!」
と低声に叱って障子をしめると、おもて座敷をさして廊下を急いだが、そのまも、
「おさよッ!……はて、どこへ行ったあの婆あは?」
という源十郎の声が、突き刺すように近づいてくる。
本所の化物屋敷鈴川の家には、午さがりながら暗い冷気が鬱して、人家のないこのあたりは墓所のようにひっそりしていた。
小走りに角をまがったおさよ、出あいがしらに源十郎のふところに飛びこんだ。
「なんだ? 婆あか。俺に抱きついてどうする? ははははは、それよりもおさよ、あんなに呼んだのになぜ返事をせん! また、お艶の部屋へ行きおったな」
源十郎は瞬間太い眉をぴくつかせて、
「どうも変だぞ? 貴様、あの娘となんぞ縁故でもあるのか」
とおさよをのぞくと、どきりとしたおさよはすぐさま惨めに笑いほごした。
「いいえ殿様、とんでもない! ただ若いくせにあんまり強情な娘で、それに殿様がお優しくいらっしゃるので、いい気になりましてねえ、そばで見ていてもはがゆいようでございますから、この婆あがちょくちょく搦手から攻めているんでございますよ」
とおさよはなんとかしてあやなす気でいっぱいだ。
「そうか。おれも荒いことは好まんから恥ずかしながらあのままにしてあるが……まま貴様、なにぶん頼む。じっくり言いきかせてくれ」
「ええええ。そうでございますよ。いまはまだ本人も気がたっておりますから、殿様の御本心もなかなか通じませんけれど、あれでねえ、とっくりと損得を考えますれば、ほほほ、いずれ近いうちには折れて出ましょうとも」
うそも方便とはいえ、現在の母たるものがなんたる! と思えばおさよも心中に泪をのまざるを得なかった。
「それにねえ殿様、あんな堅いのに限って――得てあとは自分からうちこんで参るものだとか申しますから、まあ、この婆あにまかせて、お気を長くお持ち遊ばせ」
源十郎は上機嫌、廊下の板に立ちはだかって、襟元からのぞかせた手でしきりと顎をなでては、ひとり悦に入りながら、
「うむ、そういうものかな、はははは、いや、大きにそうであろう。おれは何も、あれを一時の慰み物にするというのではないのだ」
「それはもう……わたくしも毎日よっく申しきかせておりますんでございますよ、はい」
「と申したところで、水茶屋では公儀へのきこえもあることだからとても正妻になおすというわけにはいかんが、一生その、なんだな、ま、妾ということにしてだな、そばへおいて寵愛したいと思う」
と源十郎は、口から出まかせにさもしんみりとして見せるが、一生そばへおいて――と聞いて、貧窮のどん底から下女奉公にまで出ているおさよの顔にちらりと引きしまったものが現われた。
「殿様」
「なんだ? 改まって……」
「ただいまのおことば、ほんとうでございましょうね?」
「はてな! おれが、何かいったかな」
「まあ! 心細い! それではあんまりあの娘がかわいそうではございませんか」
「なんのことだ? おれにはわからん」
「一生おそばにおいて――とおっしゃった……あれは御冗談でございましょう?」
源十郎は横を向いて笑った。
「なんの! 冗談をいうものか。いやしくも人間一匹の生涯を決めるに戯れごとではかなうまい。真実おれはあのお艶をとも白髪まで連れ添うて面倒を見る気でおる。これは偽りのない心底だ」
もし事実そうなったら、お艶のためにも自分のためにも……とっさに思案する老婆さよの表情に、いっそのこと、ここでお艶に因果をふくめて思いきって馬を鹿に乗りかえさせようかと、早くも真剣の気のみなぎるのを、源十郎はいぶかしげに見守った。
「さよ、貴様、あれのことというといやにむきになるな」
「いえいえ! け、決してそんなことはございません!」おさよはどぎまぎして、「ただ、あのただ、わたくしにもちょうど同じ年ごろの娘があるもんでございますから、つい思い合わせまして、あのお艶が……いえ、お艶さんが一生お妾にでもあがるようなことになりましたら、さぞ楽をするであろうと――」
「そうだ。本人のためはいうにおよばず、もし血につながるものがあったら、父なり母なり探し出して手厚く世話をしてやるつもりだから、内実は五百石の後室とそのお腹だ。まず困るということはないな」
こう源十郎がいいきると、おさよは思わずとりすがるように、
「殿様ッ! それはあの、御本心でございますか」
すると源十郎、
「な、何を申す! 武士に二言のあろうはずはないッ!」
といい気もちにそり返りざま、両刀をゆすぶるつもりで――左へ手をやったが、生憎丸腰。
で、何かいい出しそうにじッ! とおさよを見すえた刹那! 裂帛の叫び声がどこからともなく尾をひいて陰々たる屋敷うちに流れると……。
源十郎とおさよ、はた! と無言の眼を合わせた。
と! またしても声が――
ヒイッ……という、思わず慄然とする悲鳴はたしかに、女の叫びだ!
それが、井戸の底からでも揺れあがってくるように、怪しくこもったまま四隣の寂寞に吸われて消える。
源十郎は委細承知らしく、にが笑いの顔をおさよへ向けた。が、口にしたのはやはりお艶のことだった。
「では、さよ、貴様もあの娘の件にはばかに肩を入れておるようだが、いずれそこらの曰くはあとで聞くとして――」
「いえ。曰くも何もございません。わたくしは先へ話をするつごうもあり、それにつけても何より大事な殿様のお心持をしっかり伺っておきたいと存じましただけで……それも今度はよくわかりましてございます。はい。ほんとにお艶さんはしあわせだ」
と、正直一図のおさよは、だんだん源十郎に感謝したい気になってきた。
「うむ、まあ、そういったようなものだが」
狡猾な笑みをひそめた源十郎、つづけざまにうなずいて、
「いつまでも立ちばなしでもあるまい。近くゆっくりと談合して改めて頼むつもりでおる」
「頼むなどとは、殿様、もったいのうございます! わたしこそお艶に代わって……」
言いかけて、おさよがあわてて口をつぐむのを、源十郎は知らん顔に聞き流して声を低めた。
言うところは、こうである。
あの、女のさけび声。
あれは、狂暴丹下左膳が、離室で櫛まきお藤を責め苛んでいるのだという。
そう聞けば、おさよにも思いあたる節があった。
源十郎がお艶の駕籠をかつぎこませた暴風雨の晩、夜更けて、というよりも明け方近く、庭口にあたってただならぬ人声を耳にしたおさよが、そっと雨戸をたぐってのぞくと、濡れそぼれた丹下左膳、土生仙之助の一行が、ひややかに構えたお藤を憎さげにひったてて、今や離室の戸をくぐるところだったが――。
それからこっち、お藤は浅草の自宅へも帰されずに、離室からは毎日のように左膳の怒号にもつれてお藤の泣き声が洩れているのだ。
事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
あの丹下左膳という御浪人。
かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお刀探索密命を帯びてこうして江戸にひそんでいるとかと、いつかの夜のお居間のそとで立ち聞いたことがある。
道理で、辻斬りが流行るというのにこのごろはなお何かに呼ばれるように左膳は夜ごとの闇黒に迷い出る――もう一口の刀さがしに!
しかるに!
源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで何気なくよそおったものの、納戸のお艶が、それとなく窓から左膳の出入りをうかがっては、いかにもして栄三郎へしらせたがっていることも、おさよはとうから見ぬいていたから、いよいよ左膳と栄三郎は敵同士、たがいに一対の片割れを帯して、その二刀をわが手に一つにしたいと求めあっているに相違ない……これだけのことが、湯気をとおして見るようにぼんやりながらおさよの頭にもわかっていた。
ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく往くところへ行けようというもの。それに、お艶の素性が知れて武家出とわかれば、おもてだって届けもできれば披露もあろう。
そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と欺されやすいおさよは、頭から源十郎のでたらめを真に受けて、ここは一つ栄三郎への手切れのつもりで、何よりもそのほしがっている一刀を、追って殿様の源十郎に頼んで、左膳から奪って下げ渡してもらおう……おさよはさっそくこう考えた。
母の庇護があればこそ、これまで化物屋敷に無事でいたお艶! その母の気が変わって、今後どうして栄三郎へ操を立て通し得よう?
人身御供の白羽の矢……それはじつに目下のお艶のうえにあった。
が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と乾雲丸とを引き離すであろうか。
――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに加担してお艶をかどわかしたために、刀をうばいそこねたといってな、左膳め、先日から猛りたっておるのだから、そのつもりで年寄り役にとりしずめてくれ」
という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう離室のまえ。
カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお門ちがいでしたねえ」
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ! 汝あいってえなんだって人の仕事に茶々を入れるんだ? こらッ、こいつッウ!……てッ、てめえのおかげで、奪れる刀もとれなかったじゃねえかッ! な、なんとか音を立てろいッ音を!」
「ほほほ、音を立てろ――だと! 八丁堀もどきだね」
「なにいッ!」
咆吼する左膳、棕櫚ぼうきのような髪が頬の刀痕にかぶさるのを、頭を振ってゆすりあげながら、一つしかない眼を憎悪に燃やして足もとのお藤をにらみすえた。
細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり雀の古袷がはだけて、毎夜のやみを吸って生きる丹下左膳、さらぬだに地獄絵の青鬼そのままなところへ――左手に握った乾雲丸を鞘ぐるみふりあげるたびに空の右袖がぶきみな踊りをおどる。
せまい六畳の部屋。
源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた離庵であろうが星移りもの変わるうちに、それがどうだ! 荒れはてて檐は傾き、草にうずもれて、しかも今は隻眼片腕の狂怪丹下左膳が、憤怒のしもとをふるって女身を鞭うつ責め苦の庭となっているのだ。
くもり日の空は灰色。
本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢彩ると見るまに、すぐまたかげってゆくばかりで、前の法恩寺橋を渡る人もないらしく、ひっそりとして陽あしの早い七つどきだった……。
夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の空所に、投げつけられたような櫛まきお藤の姿がふてぶてしくうつぶしていた。
ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
土生仙之助、つづみの与吉などの顔がそのなかに見られたが、みな血走った眼を凝らして左膳とお藤を交互に眺めているだけで言葉もない。
たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお凄烈の風を増したのが、カッ! と開いた隻眼に残忍な笑いを宿したと思うと、
またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
と、わめくより早く、乾雲の鞘尻弧を切ってはっし! お藤の背を打ったが――。
アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と脂ののりきった白い膚が、怪異な花のように散り咲いているぐあい、怖ろしさを通りこして、観ようによっては艶な情景だったのだろう、両手を帯へ突っこんだ土生仙之助は、舌なめずりをしながらそうしたお藤の崩態にあかず見入っていたが、つづみの与吉は眼をそむけて……といってとりなす術もなく、ただおろおろするばかりだった。
この、毎日の責め折檻。
それが、きょうも始まったところだ。
なんのため!
ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら長蛇を逸したのは、すべてお藤のしわざで、ひっこんでいさえすれば、見事若造を斬り棄てて坤竜丸を収め得たものを! さ、いったい全体だれに頼まれて、あんなところへお艶の身代りにとび出したのだ? はじめからあの場へ水を差して、こっちの手はずをぐれはまにするつもりだったに相違ねえ。ふてえ女だ。なぶり殺しにしてくれる!
と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの呵責を加えているのだが、お藤は源十郎のために、お艶をさらう便宜をはかったにすぎないことは、左膳にもよくわかっていたから、ただひとこと殿様に頼まれて……とお藤が洩らすのを証に源十郎へ掛け合うつもりでいるものの、それをお藤は、頑固に口を結んでいっかないわぬ。
がお藤にしてみれば。
自分がこんな憂目を見ている以上、今にきっと源十郎が割って出て、万事をつくろってくれるものと信じているのだが、源十郎はお艶のことでいっぱいで、左膳へ橋渡しをすると誓ったお藤との約束はもちろん、いまのお藤のくるしみも見てみぬふり、聞いて聞かぬ顔ですぎてきたのだった。
ほれた弱味――でもあるまいが江戸の姐御だ。左膳を見あげたお藤が、ひとすじ血をひいた口もとをにっことほころばせると、一同顔が上がり端へ向いた。
庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。
例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、老役には持ってこいだ。な、よろしく謝ってやれ」
ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一喝し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐かせ!」
叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
この日ごろの打擲に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火。
あまりの態におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
阿修羅王のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相に! 思わずぎょっとして尻ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々として洩れてきた。
「殿様かい?」
お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨みの眼光を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念を届けてやるからそのかわり隙をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで悲叫した。
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、後生だからすっぱり斬って、こんな痛いめにあわせないで、あたしも櫛まきお藤だ! あなたのお刀ならいつでも笑って受けましょうよ。だがお待ち、死ぬまえに、あたしにすこし言いぶんがあるんだ」
と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり框、源十郎の鼻先にべったり崩れて、
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「二本をきめたのが殿様なら、目ざしはみんな殿様だ! なんだい! 三社まえでだって、頼む時はあんなに程のいいことを並べやがってそのために人がひどいめにあってるのに、今度あ知らぬ顔の半兵衛だ! そんなのがお侍かい! ちょッ江戸っ児の風上へもおけやしねえ……」
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の御前だ。めったなことを……」
と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は血腫れのした顔をまわして、「与の公なんざ恐れ入って見物してるがいいのさ……ええ、あたしゃこうなったら言うだけのことはいうんだからね――ねえ、そこの殿様、お前さんに頼まれてお艶さんをさらい出す手助けをしたばっかりに、あたしゃ丹下様に叱られてこの始末さ。でも、いっそ嬉しい! 他人と思えば、よもやねえ、こんなお仕置きはできますまいもの」
はっと息づまるなかに、痙攣のような笑みを浮かべた左膳、しずかにお藤をどかせて、きらめく一眼を源十郎の面上に射ながら、隻手はもう血に餓える乾雲丸の鯉口にかかっていた。
「おい、鈴川……」
と、たいらに呼びかけた左膳の濁声には、いつ炸裂するか知れない危険なものが沈んでいた。
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の姿容に迷って友を売るとは? やい源十ッ、見さげはてたやつだなてめえはッ!」
咬みつくようにどなるにつれて左手の乾雲がカタカタカタと鍔をふるわす。
風、地に落ちてはちきれそうな沈黙。
土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、端近く顔を並べて、戸口の敷居をまたいだままの源十郎と、それに一間のあいだをおいて真向い立っている左膳とを呼吸もつかず見くらべているのだった。
ふところ手の源十郎、一桁うえをいってくすりと笑った。
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って企らんだのではないのだ――」
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非曲直は第二に、いまは生き血の香さえかげばいい丹下左膳、右頬の剣創をひきゆがめて白い唇が蛇鱗のようにわななく……。
所を異にする夜泣きの刀の妄念、焔と化してめらめらとかれの裾から燃えあがると見えた。
生躍する人肉を刃に断つ!
毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。愕然! として飛びのいた源十郎。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
すぱりと吐いた。
と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆袈裟がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
源十郎、土気色の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
芝生――とは名ばかりの、久しく鎌を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれが来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるかな。昔からの言いつたえに間違いはない」
などとのんきなことをいっていたが、やがて、つづみの与吉がひっ返してきて、こわごわ源十郎に大刀を渡すのを見ると、さすがにすっくと起きあがった。
「では、いよいよやるかな」
左膳の青眼は薄日に笑う。
「源十、死ぬ前にひとこと礼を言わせてくれ」
「死ぬ……とは誰が死ぬのだ?」
「きまってるじゃねえか。てめえが今死ぬんだ――」
「うふふ! 死ぬのは貴様だろう。なんでも言え。聞こう」
「だいぶ長く厄介になったな。ありがてえぞ……これだけだ!」
「ははははは」源十郎の笑声はどこかうつろだった。「鳥のまさに死なんとするやその声悲し。人のまさに死なんとするやその言うところ善しとかや――おい丹下、貴様ほんとに討合いを望んでおるのか」
「あたりめえよ!」
一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の鏡身を左手にさげた。こともなげに微笑んでいる。
「てめえのおかげで坤竜を取り逃がしたので、おれはともかく、この乾雲が貴様を恨んで、ぜひ斬りてえといってしようがねえのだ。まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ万障繰り合わせて俺の手にかかってくれ」
「笑わせてはいかん。どうもあきれるほどしつこいやつだな」
「しつこくなけりゃあできん仕事をしておるでな。われながらゆえあるかなだ。第一、おれの辻斬りを感づいた以上、なんとあっても生かしてはおけん」
「そうか……では! それほどまでに所望なら、鈴川源十郎、いかにもお相手つかまつろう! だがしかし後悔さきに立たず、一太刀食らってから待ったは遅いぞ!」
「何を言やがるッ! 腰抜けめッ! てめえの血が赤えか白いか、それをみてやるんだ。おいッ! 来いよ早く! 往くぞッ、こなけりゃあ――ッ! はっはっは」
哄笑とともに伸びてきた乾雲丸の閃鋩、眼前三寸のところに渦輪を巻いて挑む。
もはや応ずるより途はない! と観念した源十郎、しずかな声だった。
「大人気ない。が、参るぞ丹下ッ! ……こうだッ」
とうめくより早く、土を蹴散らした足の開き、去水流相伝網笠撥ねの居合に、豪刀ななめに飛んでガッ! と下から乾雲を払った。
引き退いた左膳、流れるままにじわじわと左へ寄ってくる。同時に、源十郎は右へ二、三歩、さきまわりして機を制した。
暮れをいそぐ陽が二つの剣面を映えて、白い円光が咲いては消える。霜枯れの庭に凄壮の気をみなぎらして。
仔猫が垣根から両人をのぞいてつまらなそうに草の穂にたわむれているのを、左膳はちらりと見て刀痕をくねらせて――笑ったのだ。
「鈴川」と別人のように軽明な語調。「おれあこうやってる時だけ生きているという気がするのだ。因果な性得よなあ! 貴様が壺を伏せたりあけたりする手つきと、女を連れこむ遣口は見て知っておるが太刀筋は初めてだ。存分に撃ちこんで来いよ!」
源十郎は無言。
青眼にとった柄元を心もちおろすと、うしろへ踏みしめた左足の爪先に、思わず力が入って土くれを砕いた。
双方不動。あごをひいた左膳がかすかに左剣にたるみをくれて、隻眼をはすに棒のように静止したままペッペッと唾を吐きちらしているのは、いつもの癖で、満身の闘志が洩れて出るのだ……。
どっちも、まさか抜きはすまい。こう思っていたのが、この立合い、飛ばっちりを食ってはたまらぬとお藤と与吉は早々に姿を消して、残っている仙之助も、手をつけかねてうろうろするばかり。
新影、宝山二流を合した去水流。
法の一字を割って去水と読ませたのだという。
始祖は浅田九郎兵衛門下の都築安右衛門。
鈴川源十郎、なかなかこの去水流をよくするとみえて、剣に先立って気まず人を呑むていの丹下左膳も、みだりに発しない……のかと思っていると、スウッと刀をひいた左膳、やにわにゲラゲラ笑い出した。
「ははは、よせよ。源公! てめえはもう死んでらあ!」
ふっと笑いやんだ左膳は、あっけにとられている源十郎を尻眼にかけて、
「自分でじぶんの参ったのを知らなきゃ世話あねえ……俺はいま、活眼を開いてこの斬り合いの先を見越したのだ。いいか、おれが乾雲を躍らせて貴様の胴へ打ちこんだ――と考えてみた。と、貴様は峰をかわして見事におさえた。うん、おさえたにはおさえた。がだ、すぐさま俺はひっぱずして貴様の右肩を望んで割りつけた、と思ったのが……ははは、りっぱにきまったぞ源十、おれあ貴様の血が虹のように飛ぶのを見た。たしかに見たのだ!」
源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。剣禅一致の妙諦だな」
源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと離庵へはいっていった。
立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
うら木戸のそばに納屋がある。
薪、柴など積みあげてあるそのかげ。
昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の臭気がむれている小屋のうしろ。いまは夕ぐれ間近いうそ寒さがほの暗くこめて、上にかぶさる椎の枝から落葉が雨と降るところに。
一組の男女。
櫛まきお藤とつづみの与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、半纒の裾を土に踏むのもかまわず、とびつくようににじり寄っている。
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう肝が高ぶっちゃ話がしにくい。いえね、あっしもよっぽど黙ってようかと考えたんだが、あんまり姐御がかわいそうだから思いきってぶちまけるだけでね、何も姐御にこんな嘘をついたっておもしろおかしくもなかろうじゃありませんか。いえさ、これあただあっしの見当じゃあねえんだ。まあいわば丹下の殿様が白状したようなもんだから、まず動きのねえところでしょうぜ」
さっとお藤の顔から血の気が引くと、悪寒に襲われたように細かくふるえ出して、
「白状……って、丹下さまが何かおいいだったかえ?」
「さあ、そうきかれると困るんだが」と与吉はわざとひょうきんに頭をかいて、「白状でもねえな。じつあ寝言なんでさあ。へえ、その寝言を聞いてね、あっしが内密に探りを入れると――」
こう言いさして、棒片でしきりに地面を突ついている与吉は、お藤にうながされてあとをつづけた。
それによると。
このごろ左膳のようすがどことなく変わってきていることは、思いをかけているだけにお藤は誰よりも先に気がついていたが、朝夕出入りして親しく身辺の世話をする与吉にはそれがいっそう眼についてならなかった。
溜息する左膳。
考えこむ左膳。
――ついぞ見たことのない左膳である。で、それとなく注意していると、左膳はよく寝言をいう。弥生という名。
弥生と言えば、女に相違ない……!
と、それから与吉こっそりかぎまわってみると、はたして! もと乾雲丸を蔵していた根津あけぼのの里の剣道指南小野塚鉄斎の娘に弥生というのがあって、左膳のために父と刀を失ってから行方も知れずになっているという。
「この弥生ってえのに丹下様が御執心なりゃこそ、ちっとのことでああ姐御をひでえめにあわせるんだ。それを思うと、あっしゃあ口惜しくてならねえ!」
いい気持にしゃべりながら何ごころなくひょいとお藤を見あげた与吉、思わずどうッ! と尻もちをついて叫んだ。
「あ! 姐御! なんて顔をするんだ!」
恋の神様が桃色なら?
嫉妬の神は全身呪詛のみどりに塗られていよう!
その緑面の女夜叉を与吉はいま眼のあたりに見たのだった。
靄然として暮色の迫るところ。
物置小屋のかげに、つづみの与吉はつばをのんで、蹌踉と椎の老幹に身をささえているお藤のようすを心配げに見あげた。
丹下左膳が弥生という娘を恋している――と聞いたお藤は、さてはッ! と思うと身体じゅうの血が一時に凍って、うつろな眼があらぬ方へ走るのだった……紙のような唇をわなわなとおののかせて。
嫉心鬼心。
それが眼に見えぬほむらとなって、櫛まきお藤の凄艶な立ち姿を蒼白いたそがれのなかに浮き出している。
与吉はわれ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに相まで変えようとは思わなかったが、ちえッ! 黙っていりゃあよかった……。
と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
と語尾を濁して黙りこんだ。
仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然としたのだった。
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
同時に。
ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。嫉妬にわれを忘れたお藤、よろめく足を千鳥に踏みしめて、さながら幽明のさかいを往くように。
声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと傍人もわらえば自らもふしぎに耐えないくらい思いをよせているのに、針の先ほども通じないばかりか、先夜来すこしのことを根に持ってあの責め折檻が続いたのも、あの方に弥生という相手があってこのあたしとあたしの真実をじゃまにすればこそであったのか。
それにしても――
源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
娘の恋が泪の恋なら、お藤の恋は火の恋だ。
水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の醜骸。
復讐!
櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ輩に男を奪られて人の嘲笑をうけてなろうか――身もこころも羅刹にまかせたお藤は胸に一計あるもののごとく、とっぷりと降りた夜のとばりにまぎれて、ひそかに母屋の縁へ。
縁の端は納戸。
その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい御機嫌を取り結んだらどうだえ。あたしゃ決してためにならないことは言わないよ。栄三郎さんのほうだって、殿様にお願いして丹下さまのお腰の物を渡してやったら、文句なしに手を切るだろうと思うんだがねえ」
お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな人非人のことが――」
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお化粧をしてお酒の席へだけは出ておくれよ。ね! 笑って、後生だからにこにこして……! さっきからお艶はまだかってきつい御催促なんだよ。さ、いい年齢をしてなんだえ、そんなにお母さんに世話をやかせるもんじゃないよ。あいだに立ってわたしが困るばかりじゃないか――はいただいま参ります! ねえ、さ、髪をなおしてあげるから」
「いやですったら嫌ですッ!」
とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな衣ずれの音がとまった。
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ低声がしたかと思うと、そっと外部からあけたのを見て、おさよははっと呼吸をつめた。
濃いみどりいろの顔面、相貌夜叉のごとき櫛まきお藤が、左膳の笞の痕をむらさきの斑点に見せて、変化のようににっこり笑って立っているのだ。
ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの縁側を見返ったお藤、「おさよさん、お前さん何をそんなにびっくりしているのさ。殿様がお呼びだよ。お燗がきれたってさっきから狂気みたいにがなっているんだ。行ってみておやりな」
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の御意もあることだし……さあお艶さん、おとなしく離室のほうへおいで。ね、お咎めのないうちに」これ幸いと再びおさよがお艶の手を取りせきたてるのを、お藤は、所作そのままの手でぴたりとおさえておいて、凄味に冷え入る剣幕をおさよへあびせた。
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、癇癪持ちがそろっているんだ。また徳利でも投げつけられたって知らないよ。早くさ! ちょッ! さっさと消えちまいやがれッ!」
おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その跫音の遠ざかるのを待っていたお藤は急に眼を笑わせて部屋の隅のお艶を見やった。
もう五刻をまわったろう。
魔の淵のようなしずけさの底に、闇黒とともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐ術もなく、じっと動かないお藤の凝視に射すくめられた。
酒を呼ぶ離庵の声が手にとるよう……堀沿いの代地を流す按摩の笛が、風に乗って聞こえてくる。
膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
積もる日の辛苦に、たださえ気の弱いお艶、筋ならぬ人の慰め言と空耳にきいても、つい身につまされて熱い涙の一滴に……ややもすれば頬を濡らすのだった。
そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ今日様にすまないのさ、これから力になったりなられたり、なんてわけでね。それでお近づきのしるしに、あたしゃ、ちょいと、ほほほほ、仁義にまかり出たんだよ」
お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを御覧!」と袂からわらじの先を示して、「ね、このとおり生れ故郷の江戸でさえあたしゃ旅にいるんだ。江戸お構え兇状持ち。いつお役人の眼にとまっても、お墓まいりにきのう来ましたって、ほほほほ。こいつをはいて見せるのさ。まあ、あたしはそれでいいけれどお前さんにはかわいい男があったねえ」
お艶は、海老のようにあかくなって二つに折れる。
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。他人事だけれど、あんまりお前って者が踏みつけにされてるからあたしゃ性分で腹が立って……さ、しっかりおしよ、いいかえ、弥生さんはお前のいい人と家を持ってるんだとさ」
ええッ! まあ! と思わずはじけ反るお艶に、お藤はそばから手を添えて、
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを存分に言ってやるがいいのさ。今からあたしが案内してあげよう!」
一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への意趣返しには弥生のいどころを知ったお藤、ひそかに何事か胸中にたたんで、わななくお艶をいそがせて庭に立ったが、まもなく化物屋敷の裏木戸から、取り乱した服装の女性嫉妬の化身が二つ、あたりを見まわしながら無明の夜にのまれ去ると、あとには、立ち樹の枝に風がざわめき渡って、はなれに唄声がわいた。
杯盤狼藉酒池肉林――というほどの馳走でもないが、沢庵の輪切りにくさやを肴に、時ならぬ夜ざかもりがはずんで、ここ離庵の左膳の居間には、左膳、源十郎、仙之助に与吉。
赤鬼青鬼地獄酒宴の図。
「おいッ! 源十、源的、源の字、ああいや、鈴川源十郎殿ッ! 一献参ろう」
左膳、大刀乾雲丸を膝近く引きつけて、玉山崩れようとして一眼ことのほか赤い。
「す、鈴川源十郎殿、ときやがらあ! しかしなんだぞ、ううい、貴公はなかなかもって手性がいいや、こうつけた青眼に相当重みがある。さそいに乗らねえところがえらい。去水流ごときは畢竟これ居合の芸当だな。見事おれに破られたじゃあねえか。あっはっは」
底の知れない微笑とともに、源十郎は左膳に、盃を返して、
「貴様の殺剣とは違っておれのは王道の剣だ」
すると左膳は手のない袖をゆすって嘯笑した。
「殺人剣即活人剣。よく殺す者またよく活かす……はははは。貴様はかわいやつだよなあ、おれの兄貴だ。ま、無頼の弟と思って、末ながく頼むよ」
と左膳、源十郎ともにけろりとしている。
左膳が隻腕の肘をはって型ばかりの低頭をすると、土生仙之助が手をうった。
「そうだ、そうだ! 言わば兄弟喧嘩だ。根に持つことはない」
「へえ。土生の御前のおっしゃるとおりでございます」いつのまにか来て末座につらなっている与吉も、両方の顔いろを見ながら口を出す。
「ただ、このうえは皆様がお手貸しなすって、丹下の殿様が首尾よくお刀をお納めになるようにと、へえ、手前も祈らねえ日はございません……あっしみてえな三下でも何かお役に立つことがありましたら、申しつけくださいまし」
「うむ」刀痕の深い顔を酒に輝かせて、快然と笑った左膳、「まあ、いいや。話が理に落ちた。しかし、あんな若造の一匹や二匹おれの手ひとつで片のつかねえわけはねえが、総髪ひげむくじゃらの乞食がひとりついている。あいつには、この左膳もいささか手を焼いた」
と語り出したのは。
いつぞやの夜、大岡の邸前に辻斬りを働いた節。
おぼえのあるこじき浪人の偉丈夫に見とがめられて、先方が背をめぐらしたところを乾雲を躍らして斬りつけたが、や! 損じたかッ! と気のついた時は、すでに相手は動発して身をかわし、瞬間、こっちの肘に指力を感じたかと思うと、肩の闇黒に一声。
馬鹿めッ
と! もう姿は真夜の霧に消えていた――。
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ天狗でげしょう」
などと仙之助と与吉、それぞれに追従を忘れないが、源十郎は、ひとり杯のふちをなめながら中庭の足音をこころ待ちしている……気を入れかえたお艶が、いまにもあでやかな笑顔を見せるであろうと。
赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の飲。言葉が切れると、夜の更ける音が耳をつき刺すようだ。
左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間口をのぞいた。
「殿様、ちょっとお顔を拝借……」
起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
という左膳の揶揄を背中に聞いておさよと並んで母屋のほうへ歩き出した。
霜に凝ろうとする夜露に、庭下駄の緒が重く湿る。
風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな? 靡きそうか」
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。御苦労。いずれ後から貴様にも礼を取らせる」
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
いいながらおさよが納戸をあけると、一眼なかを見た源十郎、むずと老婆の手をつかんだ。
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ! 縁があいとる! に、逃がしたな貴様ッ!」
関の孫六の鍛刀乾雲丸。
夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず丑満のころあいに迷雲、地中の竜を慕ってすすり哭くとの伝奇である。
いまや山川草木の霊さえ眠る真夜なか。
この、本所鈴川の屋敷の離室で。
左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
おどろおどろとして何ごとかを陳弁する老女のごとき声が、酔い痴れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊り開けて膝元の乾雲を凝視した。
おのが手の脂に光る赤銅の柄にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭の赤いかげが細かくふるえている。
剣精のうったえ。
それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
というように。
左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣だからだ。
その愁声が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
深々と更けわたる夜気。
と、またもや鬼調を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
どこへ?
江戸の辻々に行人を斬りに。
なんのため?
ただ斬るため。
しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
一対におさまっていれば何事もないが、番を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃乾雲である。その剣心に魅し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜生温い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
が、刀が哭くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
左膳の出て行ったあと。
納戸では、源十郎がおさよを詰問している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直ぐに申し立てろッ」
籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母か、知合いか、なんだ?」
おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
いい捨てて、先に懲りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。
どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
もう明け方にまもあるまい。
右手の玉姫神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。
人通りのない小塚原の往還を、男女ふたりの影がならんでいそぐ――当り矢のお艶と蒲生泰軒。
山谷の堀はかなり前に渡った。けれど泰軒は足をとめるようすもなく、そしてじぶん達のまえには長いながい道路が夜眼に埃を舞わせて遠く細く走って、末はかすむように消えているのだ……千住の里へ。
歩きなれないお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような溜息といっしょに、泰軒へ追いついた。
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている手拭のはしを前歯に噛んだ。
罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に質さなかったお艶は、夜更けの街上にひとりですっかり途方にくれた。
あの若殿さまにかぎって、まさか!
と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ綿雲の峰のように疑念が、あとからあとからと胸にひろがってはてはどうしても事実としか思えなくなったお艶、栄三郎と弥生を据え置いて面罵し、二人を呪い殺さなくてはならぬ……と狂乱に浪打つ激しいこころを抱いて、どこをどう歩きまわったものか、やがてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾の松……。
おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗にも白い手が袖口にひらめいて。
ポトン! ポトンポトン!
苫をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
貧乏徳利をさげた乞食と服装ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
で。
さっきから無言に落ちて、あらぬ空想に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置き場だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
田圃にはさまれた杉並木。
ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮、帰りて剣血を看る」
坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告であろうか。
平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
その時。
長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
それが、左腕の片手!
刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾雲だなッ」
「や! 貴様は坤竜! うめえところで会ったな」
つるぎにかけては狷介不覊な左膳、覆面の底で、しんから嬉しそうににたりとする。
辻斬りの相手を求めて、乾雲丸の指し示すがままに道をこのほうへとってきたのだったが、初太刀をはずされた当の獲物が坤竜丸とわかってみれば!
もう何も言うことはない。
七つ刻。はるかの田の面に低い三日月の薄光を乱して、二つの影がパッ! と一本みちの左右へ。
呼吸を測って押しあった二人、離れた時は真剣のはずみでとっさに四、五間のへだたりがあった。
ここで栄三郎は、かぶっていた編み笠を路傍へ捨てて、しずかに愛刀武蔵太郎安国の鞘をはらう。
濡れ手拭をしぼるように、やんわりと持った柄の手ざわりにも、今宵こそ! と思う強い闘志をそそられて、栄三郎の平青眼はおのずと固かった。
と、うしろに。
「やわらかに」
という声がする。ふしぎ! 誰? と振りむこうにも、前方には左膳の隻腕一文字に伸びてツツ……と迫ってくるのだ。乾雲の鋩子先を一点の白光と見せて。
「汝をどんなに探したことか――ふふふ、運の尽きだ! いくぜ、おいッ」
蒼白の麗顔に汗をにじませて、栄三郎は無言。
小ゆるぎもせずに大刀を片手につけた左膳、右に開いた身体にあかつきの微風を受けて、うしろの右足がツウッ! と前の左足のかかとにかかったと見るや、棒立ちの構えから瞬間背を低めて、またもやひだり足の爪さきに地をきざませて這い寄る。それから再びソロソロと右足が……こうして道路を斜めに栄三郎をつめながら、覆面のかげから隻眼が笑う……どうでえ、青二才! あんまりいい気もちはしめえが! というように。
押されるともなく、追われるでもなく、いつしか片側の松の幹までさがった栄三郎、思わずはっとして気をしめた。
「若殿様! 栄三郎さまッ! お艶が参っております! どうぞしっかりあそばして」
近いところからこの声が。
もとより心の迷い、いたずらなから耳――と思った栄三郎だったが、これがかれを渾身からふるいたたせて、つぎの刹那、うなりを生じた武蔵太郎安国、左膳の前額を望んで奔駆していた。
が、余人ではない。左膳だ。
払うどころか、躍動する刀影を眼前に、さッと乾雲の手もとがおのが胴へ引いたと見るや、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、鍔まで栄三郎を串刺しに。
と見えたが……。
虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
と歯を噛む音が左膳の口を洩れる。そこを! 体押しにかかった栄三郎、満身の力をこめて突き離そうとしたが、磐石の左膳、大地に根が生えたように動かない。
両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
近ぢかと寄った乾雲坤竜。
吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。
雨をはらんだ夜空は低かった。
窓の下の縞笹にバラバラと夜露のこぼれるのが、気のせいか雨の音のように聞こえる。
屋敷町の宵の口はかえって、深更よりものしずかで、いずれよからぬ場所へ通う勤番者のやからであろう、酔った田舎言葉が声高におもて通りを過ぎて行ったあとは、また寂然とした夜気があたりを占めて、水を含んだ風がサッと吹きこんでは弥生の枕もとをつめたくなでる。
弥生は、掻巻の襟を噛むようにしてはげしく咳入った。
麹町三番町――土屋多門の屋敷の一間。
肺の病に臥す弥生の部屋である。
このごろ人を厭うて看病の者さえあまり近づけない弥生……若い乙女の病室とも思われなく寒々しくとり乱れて、さっき女中が運んで来た夕餉の膳にさえまだ箸がつけてない。
床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と懇になさっている。と、それとなく言って叔父多門の口から、手繰りだすようにすべてを知った弥生だったが、それですこしは諦めるかと思った多門の心を裏切って、弥生の愛欲思炎は高まる一方――かてて加えて病勢とみに進んで、朝夕の体熱に浮かされるように口走るのが、やはり栄三郎の名――それは、恋と病に娘ざかりの身を削がれてゆく、あさましいまでに痩せ細った弥生のすがたであった。
日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの悦びといっていいのは、さしも一時は危ないとまでに思われた胸のやまいが、このごろではどうやら持ちなおして、心の持ちようと養生一つでは、肺の悩みも決して不治ではない。不治どころかなおし方さえ知ってみれば、とんとん拍子に快くなるばかり……という強い信念を、当の弥生をはじめ多門も持ち得るようになったことだ。
ところが、こうして病気が快方に向かうにつれて、栄三郎に対する弥生の思いは募りにつのって、それも当初の生一本の娘ごころの恋情とは違って、あいだにお艶というものがあるだけに、いっそう悪強い、人の世の裏をいく執拗な妬婦の胸中に変わろうとしていた。
恋の競り合い――あまりにも露骨な、われとわがこころの愛憎に驚きながらも、弥生は日夜そのお艶とやらを魔神にかけて呪わずにはいられなかったのだ……。
よくなりつつあるとはいえ、まだ床は出られない。
今宵も弥生が、おのが友禅を着せた行燈の灯影に、寝つかれぬままに枕に頬をすって、思うともなく眼にうかぶ栄三郎の姿を追い、同時に、翻ってまだ見ぬお艶とやらへ恨みの繰り言をひとり口の中につぶやいていると……。
音もなく流れこむしめっぽい夜風。
とたんに、またひとしきり咳いた弥生は、
「おや! 窓をしめ忘れて……」
と独語ちながら、わざわざ人を呼ぶほどのこともないと、静かに夜着をはねて起きあがったが。
そのときだった。
今にも降り出しそうな戸外の闇黒から、何やら白い礫のような物が、窓の桟のあいだを飛んできて畳を打った。
ふしぎそうに首を傾けた弥生、こわごわ拾いあげてみると、紙片で小石を包んで捻ってある――文つぶて。
なんだろう? と思うより早く、弥生がいそいで開くと、小石が一つ足もとにころげ落ちて、手に残ったのは巻紙のきれはし。
誰の字とも弥生はもとより知る由もないが、金釘流の文字が野路の時雨のように斜めに倒れて走っている。
失礼ながら一筆申しあげそろ。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に傘をすぼめておいでおいでをしている。
憑かれたように立ちなおった弥生が、見るまに血相をかえて手早く帯を締め出したとき、やにわに本降りに変わって、銀に光る太い雨脚が檐をたたいた。
世帯道具――といったところで茶碗皿小鉢に箸が二組と、それにささやかな炊事の品々だが、その茶碗と箸も正直なところできることなら同じ一つですませたいぐらい。
何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、高殿玉楼にまさる裏店の住いだった。
家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い瓦町の露地の奥、そのまた奥の奥というややこしい九尺二間の棟割である。せまいなどというのを通りこして、まっすぐに寝れば足が戸口に食み出るほどだったが――。
その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も微笑む。笊、味噌こしの新しいのさえ、こころ嬉しくも恥ずかしい若いふたりの恋の巣であった。
お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の振舞とその言葉である。
栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
四分六といつか泰軒が評したことばのとおりに剣胆二つながらに備えてはいても、何しろ左膳ほど刀下をくぐっていない栄三郎、ともすれば受け太刀になって、しかも手の甲をさいた傷口から鮮血はとどまるべくもなく、下半身を伝わって、いたずらに往来の土にしみる。それでも、物陰からかけるエイッ! ヤッ! という泰軒の気合いにわれ知らず励まされて、あれから五、六合はげしく渡りあっていたが、そのうちに! 誰ともなく加勢の声ありと聞きとった左膳は、長居はめんどうと思ったものか、阿修羅のごとき剣幕で近く後日の再会を約すとそのまま傾く月かげに追われて江戸の方へと走り去ったのだった。
お艶栄三郎、明けはなれてゆくうす紅の空の下でひさしぶりに手をとりあった。
お艶が、手拭を食いさいて傷の手当をしながらきくと、なるほど泰軒のいうとおり、栄三郎は今まで千住竹の塚の乳兄弟孫七方にころがりこんでいたものと知れて、お藤にふきこまれたお艶の疑念はあとかたもなくはれわたったが、なんのためにあんな嘘をついたのかとそれを思い惑うよりも、お艶はただ、すぐと栄三郎と家を持つ楽しい相談に頬を赤らめるばかりだった。
「もうわしがおっては邪魔であろう。これ以上ここらにうろうろすれば憎まれるだけだ。犬に食われんうちに退散退散」
こう粋をきかして泰軒が立ち去ったのち、二人は、あれでどれほど長く玉姫神社の階段に腰をかけて語り合っていたものか――気がついた時は、陽はすでに斜めに昇って、朝露に色を増した青い物の荷車が、清々しい香とともに江戸の市場へと後からあとから千住街道につづいていた。
それからまもなく。
泰軒のいる首尾の松へも近いというところから、三人で探して借りたこの家であった。
たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の女房ぶりはういういしく、泰軒は毎日のように訪ねて来ては、その帰ったあとには必ず小粒がすこし上がりぐちに落ちている。大岡様から与えられた金子をそれとなく用立てているものであろう。栄三郎は押しいただいて使っていたが、そのくせいつも顔が会っても、かれも泰軒もそれについては何一ついわない。殿方の交際はどうしてああさっぱりと行きとどいているのだろうと、お艶は涙のこぼれるほどうれしかった。
お艶のはなしによって。
丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の離庵にひそんでいることがわかった。
で……。
泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと談合をすすめていたが、お艶に知らせればむだな心配をかけるばかりだと、先刻雨の中をぶらりと銭湯に出ていった栄三郎は、じつはいまごろは泰軒としめし合わせて本所の鈴川の屋敷へ斬りこんでいる時分なのだ!
そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた銚子の燗ぐあいを気にしていると――。
突如、はでな色彩が格子さきにひらめいたかと思うと、山の手のお姫様ふうの若いひとが、吹きこむ雨とともに髪を振り乱して三尺の土間に立った。
どうん! と一つ、戸外から雨戸を蹴るのが手はじめ。
栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
と、みなまでいわせず、刹那、鞘をあとに躍った武蔵太郎が、銀光一過、うわあッ! と魂切る断末魔の悲鳴を名残りに、胴下からはすかいに撥ねあげられたくだんの男、がっくりと低頭のようなしぐさとともに、もう戸の隙から転び落ちて、雨に濡れる庭土を掻いてのたうちまわる。
生きている血がカッ! と火の子のように熱く栄三郎の足に飛び散る。
だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。現に男は二本の腕で、飛び石を噛み抱いている。
とすると、
庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ沈潜しているに相違ないがカタリとも物音一つしないのは、寝てか覚めてか……泰軒と栄三郎期せずして呼吸をのんだ。
夜の氷雨がシトシトと闇黒を溶かして注いでいる。樹々の葉が白く光って、降り溜まった水の重みに耐えかねて、つと傾くと、ポツリと下の草を打つ滴の音が聞こえるようだ。松の針のさきに一つ一つ水玉がついているのが、戸の洩れ灯をうけて夜眼にもいちじるしい。
しみじみと骨を刺す三更の悲雨。
本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板戸の左右にひそんで、じっと耳をすまして家内をうかがった。
お艶の口から、ここに乾雲丸の丹下左膳が潜伏していることを知り、お艶にはないしょで、今夜不意討ちに乗りこんだ諏訪栄三郎と蒲生泰軒である、来る途中で、獲物代りに道ばたの棒杭を抜いた泰軒、栄三郎にささやいて手はずを決めた。
「あんたは専念丹下にかかるがよい。お艶さんの話によると、たえず四、五人から十人の無頼物が屋敷に寝泊りしておるそうだが、じゃまが入れば何人でもわしが引き受けるから」
というたのもしい泰軒の言葉に、こんどこそはいかにもして夜泣きの片割れ乾雲丸を手に入れねばならぬと、栄三郎は強い決意を眉宇に示して、ひそかに武蔵太郎を撫しつつ夜盗のごとく鈴川の邸内へ忍びこんだのだった。
深夜。暗さは暗し、折りからの雨。寝こみをおそうにはもってこいの晩である。小声にいましめあって離室に迫った泰軒と栄三郎は、戸をあけたひとりは栄三郎が、抜き討ちに斬って捨てたもののそれは名もない小博奕うちの御家悪ででもあるらしく、なかには、当の左膳をはじめ何人あぶれ者が雑魚寝をしているかわからないから、両人といえどもうかつには踏みこめない。
今の物音は源十郎達のいる母屋には聞こえなかったらしいが、はなれの連中が気をつめ、いきを凝らしていることはたしかだ。が、そとに寄りそっている栄三郎泰軒の耳には、雨の滴底に夜の歩調が通うばかりで……、いつまで待ってもうんともすんとも反応がない。
と、思っていると、
雨戸のなかに、コソ! と人の動くけはいがして、同時にふっと枕あんどんを吹き消した。
踏みこまねば際限がない! と気負いたった栄三郎が、泰軒にあとを頼んで戸のあいだに身を入れた間一髪! 内側に待っていた氷剣、宙を切って栄三郎の肩口へ! と見えた瞬間、武蔵太郎の大鍔南蛮鉄、ガッ! と下から噛み返して、強打した金物のにおいが一抹の闘気を呼んで鼻をかすめる。とたんに! 伸びきった栄三郎の片手なぐり、神変夢想流でいう如意の剣鋩に見事血花が咲いて、またもやひとり、高股をおさえて鷺跳びのままッ! と得耐えず縁に崩れる。
かぶさってくるその傷負いを蹴ほどいて、一歩敷居に足をかけ、栄三郎、血のしたたる剛刀をやみに青眼……無言の気合いを腹底からふるいおこして。
静寂不動。
たちまち、暗がりに慣れた栄三郎の眼に、部屋の中央に端坐して一刀をひきつけている人影がおぼろに浮かんできた。
「坤竜か。この雨に、よく来たなあ! 先夜は失礼した――」
低迷する左膳の声――とともにこの時母家のほうに当たって戸のあく音がして、鈴川源十郎のがなりたてるのが聞こえた。
「なんだッ! 丹下ッ! 何事がおきたのかッ!」
真十五枚甲伏の法を作り出して新刀の鍛練に一家をなした大村加卜。
かぶと伏せは俗に丸鍛えともいい、出来上がり青味を帯びて烈しい業物であるという。もと鎌倉藤源次助真が自得したきりで伝わらなかったのを、加卜これを完成し、世の太刀は死に物なり甲伏は活太刀なりと説破して一代に打つところ僅かに百振りを出なかった。
武蔵太郎安国は、この大村加卜の門人である。
いまこの、武蔵太郎つくるところの一刀をピッタリ青眼につけた諏訪栄三郎、闇黒に沈む庵内に眼をこらして、長駆してくるはずの乾雲丸にそなえていると。
別棟の母家のほうがざわめき渡って、鈴川源十郎、土生仙之助、つづみの与吉、その他十四、五人の声々が叫びかわしているようす。
今にも庭へ流れ出てくれば、闇中の乱刃に泰軒ひとりでは心もとない……とふと栄三郎の心が戸外へむくと、うしろの戸口に!
「栄三郎殿ッ! ここは拙者が引き受けたぞ。こころおきなく丹下をしとめられい!」
との凜たる泰軒の声に、栄三郎は決然として後顧のうれいを絶ったが、しとめられい! と聞いて、にっとくらがりに歯を見せて笑ったのは、まだ膝をそろえてすわっている丹下左膳だった。
「ここへ斬りこんでくるとは、てめえもいよいよ死期が近えな」
と剣妖左膳、ガチリと鍔が鳴ったのは、乾雲の柄を握った片手に力がこもったのであろう。同時に、
「では、そろそろ参るとしようかッ」
と、おめきざま、紫電低く走って栄三郎の膝へきた。跳びのいた栄三郎、横に流れた乾雲がバリバリッ! と音をたてて、障子の桟を斬り破ったと見るや、長光を宙になびかせて左膳の頭上に突進した。
が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、煙草盆を蹴倒しながら後ろの壁にすり立って濛々たる灰神楽のなかに左腕の乾雲を振りかぶった左膳の姿が生き不動のように見えた。
「野郎ッ! さあ、その細首をすっ飛ばしてくれるぞッ!」
大喝した左膳の言葉は剣裡に消えた。息をもつがせず肉迫した栄三郎が、足の踏みきりもあざやかに跳舞して上下左右にヒタヒタッ! とつけ入ってくるからだ。剣に死んでこそ剣に生きる。もう生死を超脱している栄三郎にとっては、左膳も、左膳の剣も、ふだん道場に竹刀をとりあう稽古台の朋輩と変わりなかった。身を捨てて浮かぶ瀬を求めようと、防禦の構えはあけっぱなしに、まるで薪でも割ろうとする人のようにスタスタと寄って来てはサッ! と打ちこむ。法を無視しておのずから法にかなった凄い太刀風であった。
これが、平素から弄剣に堕す気味のある左膳の胆心を、いささか寒からしめたとみえて、さすがの左膳、いまはすこしく受身の形で、ひたすら庭へとびおりて源十郎と勢いの合する機を狙うもののごとく、しきりに雨の吹きこむ戸ぐちをうかがつているが、早くもこれを察知した栄三郎が、はげしく刃をあわせながらも、体をもって戸外の道をふさぐことだけは忘れずにいるから、左膳思わず焦立ち逆上った。
「コ、コイッ! うるせえ真似をしやあがる!」とにわかに攻勢に出てその時諸手がけに突いてきた栄三郎をツイとはずすが早いか、乾雲丸の皎閃、刹那に虹をえがいて栄三郎のうえへくだった。
はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、不覚にも敷居ぎわの死体につまずいて仰向けに倒れた。
と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
闇黒ながらに相手が見えるふたり。
火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
斬りさげる左膳。
はねあげる栄三郎。
あいだに! ウワアッと! 喚発した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?
本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃相搏つ血戦の場と化しさったころ。
ここ瓦町の露地の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
男子のたたかいは剣と腕。
だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居に、欠け摺鉢に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
お艶と弥生。
だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦。
が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂はしじゅう良人から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
と口にしかけたお艶は、突如、いい知れぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
しかし、弥生は無言だった。
この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、低頭はおろか口ひとつきかないですわっているのだ。
ものをいうのもけがらわしい!
と強く自らを叱している弥生は、それでも、これがあの栄三郎のおすまいかと思うと、今にも眼がしらが熱くなってきそうで、そこらにある乏しい世帯道具の一つ一つまでが、まるで久しく取り出さずに忘れている自分の物のように懐しまれてならなかった。
けれど、面前にいるこの女?
栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
と胸に絶叫して、凝然とお艶を見つめた弥生は、ふとなんのつもりで自分はこの雨のなかをこんなところへ乗りこんできたのだろうか? とその動機がわからなくなると同時に、じぶんの立場がこの上なくみじめなものに見えてきて、猛りたった心が急に折れるのを感じたかと思うと、はやぽうっと眼界をくもらす涙とともに噛みしめた歯の間からゆえ知らぬ泣き声が洩れて出た。
文つぶてにひかれて土屋多門の屋敷を出た弥生は、待っていた櫛まきお藤につれられて、雨にぬかるむ路をここまで来たのである。
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、弁解のように途々話した。そして、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても情なくされる殿御がありますのさ」
と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と妬心に先を急ぐ弥生は、同伴のお藤が何者であろうといっさい頓着ないもののように、折りからの吹き降りにほつれ毛を濡らしきって口を結んでいたのだった。
宵から降りだした雨をついて、その夜鈴川の屋敷には、いつものばくちの連中が集まり、更けるまではずんだ声で勝負を争っていたが、それもいつしかこわれて、寄り合っていた悪旗本や御家人くずれの常連が、母屋で、枕を並べて寝についたその寝入りばなを、逆に扱くように降ってわいた斬りこみであった。
その夜は二十人あまりの仲間が鈴川方に泊まって、なかの二人が、左膳とともに離庵に寝ていたのだが、これらは栄三郎が踏みこむと同時に前後して武蔵太郎の犠牲にのぼって、声を聞きつけたおもやの源十郎、仙之助、与吉らほか十四人が雨戸を排して戸外をのぞいた時は、真夜中の雨は庭一面を包み、植えこみをとおして離庵のほうからただならぬ気配が漂ってきた。
口々に呼んでも左膳の答はない。
のみならず、つい先刻まで濡れた闇黒に丸窓を浮き出させていた離室の灯が消えている。
変事出来!
と、とっさに感じとると同時に、ただちに源十郎指揮をくだして、一同寝巻の裾をからげ、おのおの大刀をぶちこんで密と庭におり立った。
雨中を、数手にわかれて庵室をさして進む。
ピシャピシャピシャというその跫音が、おのずから衿もとに冷気を呼んで、降りそそぐ雨に周囲の闇黒は重かった。
この多勢の人影を、かれらが母屋を離れる時から見さだめていた泰軒は、一声なかの栄三郎を励ましておいて、つと地に這うように駈けるが早いか、母屋からの小径に当たる石燈籠のかげに隠れて先頭を待った。
庭とはいえ、化物屋敷の名にそむかず、荒れはてた草むらつづきである。
さきに立った土生仙之助が、抜刀を雨にかばいながら濡れ草を分けて、
「起きて来たのはいいが、泰山鳴動して鼠一匹じゃあねえかな……よく降りゃあがる」
独語ちつつその前にさしかかった時だった。
パッと横ざまに飛び出した泰軒の丸太ん棒、
「やッ! 出たぞ!」
と愕きあわてた仙之助の身体はそのまま草に投げ出されて、あとに続く人々の眼にうつったのは、仙之助のかわりにそこに立ちはだかっている異形ともいうべき乞食の姿だった。
そしてその手には、いますばやく仙之助から奪いとった抜き身の一刀がかざされているのだ。
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る殺剣の陣がぐるりと泰軒をとりまく。
が、豪快蒲生泰軒、深くみずからの剣技にたのむところあるもののごとく、地を蹴って寄り立った石燈籠を小楯に、自源流中青眼――静中物化を観るといった自若たる態。
薩州島津家の刀家瀬戸口備前守精妙の剣を体得したのち伊王の滝において自源坊に逢い、その流旨の悟りを開いたと伝えられているのがこの自源流だ。
泰軒先生、自源流にかけてはひそかに海内無二をもって自任していた。
いまその気魄、その剣位に押されて、遠巻きの一同、すこしくひるむを見て、
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
と躍り出た源十郎、去水流居合ぬきの飛閃、サッ! と雨を裂いて走ったと見るや! 時を移さず跳びはずして、逆に、円陣の一部をつきくずした泰軒の尖刀が即座に色づいて、泰軒先生、今は余儀なく真近のひとりを血祭りにあげた。
雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い飛沫がとんだかと思うと、はや一人ふたり、あるいは土に膝をついて刀にすがり、あるいは肩をおさえて起ちも得ない。
迅来する泰軒。
その疾駆し去ったあとには、負傷いの者、断末魔の声が入りみだれて残る。こうして庭じゅうをせましと荒れくるう泰軒が、突然、捜し求めていた源十郎とガッ! と一合、刃をあわせる刹那、絶えず気になっていた離庵の中から、たしかに斬った斬られたに相違ない血なまぐさい叫びが一声、筒抜けに聞こえてきた。
と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
と炸破した気合いといっしょに、源十郎の長剣、突風をまきおこして泰軒に墜下した。
胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の仇敵諏訪栄三郎を死ぬほどこがれている――つまり弥生と、先夜源十郎方から逃がしてやったお艶とは激しい恋がたきだと知るや、お藤はここに弥生を突ついて、その心をひたむきに栄三郎へ向けて左膳に一泡ふかせてやろうとたくらんだのだ。
それには、文つぶての思いつき。
恋と嫉妬は同じこころのうら表だ。離るべくもない。
しかも、以前から人知れず強い憎悪の矢を放って、お艶という女を呪いつづけてきた弥生のことである。このお藤の傀儡に使われるとは、もとより気づこうはずがない。一も二もなくお藤の投げた綱に手繰りよせられて、送り狼と相々傘、夢みるような心もちのうちにこの瓦町の家へ届けられてきたのだが……。
さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを目のあたりに見て、現にお艶と向かいあいながら、さて、その憎い女の口から主人の栄三郎は――などといわれてみると、根が武家そだちの一本気な弥生だけに、世の中を知らぬ強さがすぐこの場合弱さに変わって、はかなさ情けなさが胸へつきあげてきた弥生はただもう泣くよりほかはなかった。
弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や袂で泣き顔をおおうでもない。
両手を膝に重ねて、粛然と端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽しているのだ。
その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
まことに弥生は、やぶれ行燈に顔をそむけようともせず、流れる涙をそのままお艶へ見せて、オホッ! オホッ! と咳入るように泣いているのだが、それをお艶は、はじめはふしぎなものに思って、あっけにとられて眺めていた。
美しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の皺の集まった両の眼から、押し出されるように涙の粒が……あとから後からと光って落ちて、青い筋の浮いている手の甲や、膝を包む友禅をしとどに濡らす。
その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も外聞も気位もなく、噛みしめた歯ももう泣き声を押し戻すことはできずよよとばかりに、声をたてて慟哭している――からだはすこしも動かさずに。
しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない裸燈心のためばかりではなかったろう……弥生はいながらに身を涙の河に投じて、澎湃とよせてくる己が情感に流されるままに、何かしらそこに甘い満足を喫しているふうだった。
おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に閃くと、自分の思いに照らしあわせて弥生のこころがひしとうってくるのを感じて、いつしかお艶も眼のふちをうるませていた。
それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い入悟の心もちであった。がそれまでに円くなるには、まだまだ二つの魂が擦れあい打ちあって角々をおとさねばならぬ……よしそのために火を発して、自他ともに焼き滅ぼすことがあろうとも。
長い沈黙である。
と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ黒襟を突きあげて、相手なしの見得を切ったが。
ちょうどそのころ、本所鈴川の屋敷では――。
闇黒に冷えゆく屍骸につまずいて、栄三郎が倒れるそこを左膳が斬りおろす……。
が、その時!
下からささえた武蔵太郎は刃ごたえがあって、一声肝腑をえぐる叫びをあげたのは剣狂丹下左膳であった。
人を斬ってばかりいて、近ごろ斬られたことのない左膳、しばらく忘れていた鉄の味を身に感じて、獣のようなおめきとともにたたら足を踏んで縁にのめり出たが、あらためるまでもなく、傷は、右膝に食い入ったばかりで、骨には達していない。大事ないと見きわめるや、かれは再び猛然と乾雲丸を取りなおした。
隻眼隻腕、おまけに顔に金創の溝ふかい怪物……このうえ跛者とくりゃあ世話アねえや! ととっさに考えるとそこは老獪の曲者、火急の場にも似ず、痛みを耐えるようににっと歯を噛んだ――笑ったのだ。
「さあ己れッ! この礼はすぐに返してやる!」
「…………」
答のかわりにはね起きた栄三郎は、直ちに跳躍して追撃を重ねる。それを左右に払いつつ、左膳は戸口を背に一歩一歩さがってゆく。
せまい庵内なればこそ、八転四通の左膳の剣自由ならず、道場の屋根の下に慣れた栄三郎も五分五分に往けるのだが、一度野天に放したが最後、地物に拠り、加勢をあつめ、奔逸の剣手鬼神の働きを増すことは知れている。ことに戸外では、泰軒が多勢を相手に悪戦しているのだ。そこへ左膳を送り、自分が出て行けば、泰軒とともに苦境におちることは眼に見えてあきらかだ。
なんとかして室内にくいとめておかねば――と栄三郎が右からまわって退路を絶とうとしたとき、左膳の左手がビク! と動いたと見るやはや乾雲風を裂いて飛躍しきたったので、突っ離すつもりで身をひいたとたん、土間に降りた足音がして、六尺棒のような左膳の身体がスルスルと戸ぐちをすべり出た。
その出たところを泰軒が見たのだった。
泰軒は、ちらと一瞥をくれた……だけだったが、その間隙が期せずして源十郎に機会を与えて、泥を飛ばして踏みこんだ鈴川源十郎、流光雨中に尾をえがいて振りおろした――。
のはいいが。
あいだに張り出た立ち樹の枝に触れて、くだかれた木肌や葉が、露を乱してバラバラッ! と散り飛ぶのをいちはやくそれと感知して、泰軒、身を低めて背えに退いたから源十郎はすんでのことでわれと吾が足を愛刀の鋩子にかけるところだった。
剣閃、雨に映え、人は草を蹂躪して縦横に疾駆する。
たけなわ。
さもなくば、初冬細雨の宵。
浅酌低唱によく、風流詩歌を談ずるにふさわしい静夜だが……。
いま、この化物屋敷には、暗澹として雲のたれる空の下に、戟渦巻きあふれて惨雨いつやむべしとも見えない。
血に染んだ草の葉を打つ雨の音。
斬られた者のうめき声が、泥濘にまみれてそこここに断続する。濡れた刀が飛び違い、きらめき交わして、宛然それは時ならぬ蛍合戦の観があった。
源十郎の鋭刃に虚をくらわせた泰軒。
同時にうしろに、氷ッ! と首すじを吹き渡る剣風を覚えて、危なく振りむいた――のが早かったかそれとも、離室を出た一拍子に、泰軒の姿をみとめて駈けよりざま、乾雲をひるがえして背撃にきた左膳のほうが遅かったか……とにかく左膳のたたっ斬ったのは、やみを彩る数条の雨線だけで、泰軒先生最初にぶんどった土生仙之助の大業物を車返しに、意表にでて後ろの源十郎へ一薙くれたかと思うと、このときはもう慕いよる半月形の散刀に対して、無念無想、ふたたび静に帰した不破の中青眼。
「乞食野郎ッ! 味をやるぜ!」
心から感嘆した左膳の声だ。
乾雲を追って部屋を走り出た坤竜。栄三郎が雨をすかして庭面を見渡すと、向うにささやかな開きをなしている草むらのあたりに、泰軒を囲んでいるとおぼしき一団の剣光がある。
「うぬッ! こうなれば一人ずつ武蔵太郎に血をなめさせてくれる!」
と、栄三郎が先方を望んでまっしぐらに馳せかかった刹那! その出足に絡むように、つと闇黒からわいて現われた黒影!
「一手、所望でござる!」
立ちふさがって、しずかな声だった。
江戸の町々を寒く濡らして、更けゆく夜とともに繁くなる雨脚……。
地流れをあつめて水量の増した溝から、泥くさい臭気がぷうんとお藤の鼻をつく。
両側の軒が迫り合って、まるで屋根の下のような露地の奥。さしかけた傘を、庇を伝わりおちる滴が正しく間をおいて打って、びっくりするほど大きくこもって聞こえた。
雨に寝しずまる長屋つづき。
屋内では、お艶と弥生が、たがいの涙にまた新しい涙を誘われて、何かクドクドと掻きくどいているらしい。
丹下左膳が思いをかけている弥生を煽りたてて栄三郎への慕念をたきつけ、それによって恋のうずまきをまんじに乱してやろうと、頼まれもしない嫉性鬼女のお節介に、この雨のなかを、こうして麹町くんだりからわざわざ恋がたきをつれ出してきたお藤、御苦労にもおもてに立っていくら聞き耳を立てていても掴みあいはおろか、いっこうにいい募るようすだに見えない。
お艶、栄三郎のむつまじい住いを見せてやっただけでも、お藤は相当に弥生をいじめ得たわけだが、もっともっと弥生が恥をかくようなことにならなければ、お藤としては腹の虫が納まりかねるのだ。ところが、いつまで待っても二人は泣き合っているばかり……これでは櫛まきお藤、初めの目算ががらりはずれたわけで、いまさら引っこみもつかず、なおも格子の隙に耳をすりつけていると――。
先刻から、露地口をこっちへ、犬のように忍んでいる黒い影があった。
それがこの時まで、すこしむこうの溝板の上にうずくまっていたが、いよいよお藤の姿を確かめ得たとみたものか、急に隠れるように後へ戻って、そっと往来へ走り消えた……のをお藤は、家の中へばかり意を注いでいて、気がつかなかった。
その家の中では。
おなじ恋の辛さに、女同士のなみだを分けるお艶と弥生。
――弥生様は、どうしてわたし達の隠れ家を突きとめて、しかもこの雨の深夜に、何しにいきなり乗りこんでいらしったのだろう? とこれが一ばん先にお艶の頭へきたのだったが、座に着いてから今まで、言葉もなくただ泣きくれている弥生を見ているうちに、なんということなしに自分も涙をおさえきれなくなって、ほろりと一つ落としてからは、あとはもう言うべきことのすべてが失せて姉妹のように手をとり合わぬばかり、泣いて泣いて、泣きつくせぬ両人であった。
うしなった恋に涙を惜しまぬ弥生と。
得た恋の不安、負けた相手への思いやりに、またべつの嘆きをもつお艶と……。
ようよう泪を払って、弥生がしんみりとお艶に物語ったところは。
栄三郎へかたむけた自らの恋ごころ。亡父鉄斎の意企。夜泣きの大小の流別。おのが病のこと……など、など。
そして、
「わたしはもう帰ります。なんのためにおじゃまにあがったのか、じぶんでもわかりません。栄三郎様にはお眼にかからぬほうがよろしゅうございます……ただおふたりともお身体をお大事に」
起ちあがりながら、弥生はつけたした。
「お艶さま。どうぞわたしの分もいっしょに栄三郎様へお尽くしなすってください。あの方は、道場にいらっしゃるころから、寒中でも薄着がお好きで、これから寒さへ向かいますのに、もしやお風邪でもと、ほほほ、あなたというお人がいらっしゃるのに、とんだよけいなことを申しました。では、わたしの参りましたことは、おっしゃらないように――夜中失礼いたしました」
と、強い弥生は、もういつもの強い弥生であった。
が、それと同時に、弱いお艶はすでにいつもの弱いお艶に返って勝った恋のくるしさに耐え得でか、わッ! と声をあげて哭き伏したので、これを耳にした戸外のお藤、
「なんだい一体! おもしろくもない愁嘆場だよ。また泣きだしゃがった!」
われ知らず口にのぼしてつぶやいた拍子に!
雨音を乱して近づく多人数の人の気!
はっとして露地の入口に向けたお藤の眼に、ほの光る銀糸の玉すだれをとおして映ったのは、いつのまにどこから湧いたか、真っ黒ぐろに折り重なった捕手の山! 十手の林! しいんと枚をふくんで。
おやッ! と胆を消しながらもそこは櫛まきの大姐御、にっと闇黒に歯を見せてすばやく左右の屋根を仰ぐと、どっこい! 人狩りの網に洩れ目はなく、御用の二字を筆太に読ませた提灯が、黄っぽい光を雨ににじませて、そこにもここにも高く低く……。
ふくろ小路だ。にげみちはない。
と、とっさに看取した櫛まきお藤、おちょぼ口を袖でおさえると、ひとりでに嬌態をつくった。
「あれさ、野暮ったいじゃないか、いやに早い手まわしだねえ!」
一手所望だ……という男の声は、算をみだした闘場において、確かなひびきをもって栄三郎の耳をうった。
鼻と鼻がくッつきそう――闇黒をのぞくまでもなく、相手は、ふり注ぐ雨に全身しぼるほど濡れたりっぱな武士!
鈴川源十郎の化物屋敷には、まだ雨中剣刃の浪がさかまいているのだ。
泰軒があぶない! と見て踏み出した栄三郎も、眼前に立ち現われたこの侍の相形には、思わず愕然として呼吸を切った。
正規の火事装束――それもはっきりと真新しく、しかるべき由緒を思わせる着こなし。
それが抜き放った大刀をじっと下目につけたまま、栄三郎の気のゆえか、どうやら角頭巾の下から眼を笑わせているようだが、剣構品位尋常でなく、この場合、おのずと立ち向かった栄三郎、何やらゾクッ! と不気味でならなかった。
なに奴?
地からせり上がったか、それとも闇黒が凝ったか――とにかく、鈴川邸内の者とは見えない。
とすれば?
駈けつけた敵の助勢であろうか、それにしても、このものものしい火事場の身固めと、なんとなく迫ってくる威圧、倨傲の感とは、なんとしたことだ……。
刀をつけながらも、不審にたえない栄三郎が、さまざまに思い惑って、ちらとそばのやみに眼をくばると、ふしぎ! にも落ち残った葉を雨にたれた木立ちのかげに、同じ装束の四、五人がそれぞれ手を柄頭に整然とひかえている。
通りがかりか、ないしは志あってか、この一団の火事装束、いま血戦の最中にこっそり邸内に忍び入って来たものに相違ない。
夜陰に跳梁する群盗の一味!
それが偶然にもこの修羅場に落ちあったものであろう。逡巡するはいたずらに時刻の空費と考えた栄三郎、躍動に移る用意に、体と剣に細かくはずみをくれだすと、機先を制してくるかと思いのほか、正体の知れない火事装束の武士、あくまでも迎え撃ちにかまえて、揶揄するごとく一刀を振り立てながら、
「お手前は――? 坤竜かの?」落ち着き払った、老人らしい声音である。
栄三郎は、ふたたび愕然とした。
自分と左膳とのあいだの乾坤二刀の争奪……誰も知る者のないはずなのに、この、突如としてあらわれた異装の一隊は、そのいきさつを委細承知してわれからこの場へ踏みこんできたらしい口ぶりだ。
何者かはわからぬが、容易ならぬ一団!
ことに、いま栄三郎と立ち合っている恰幅のいい侍はその首領とみえて、剣手体置きすべてが世のつねの盗人とは思われない。
左膳、栄三郎、泰軒、源十郎、その他を抱きこんでよどむ夜泣きの刀渦に、また一つ謎の大石が投げられたのだ!
二剣、その所をべつにしたが最後、波瀾は激潮を生み、腥風は血雨を降らすとの言い伝えが、まさに讖をなしたのである。
あせりたった栄三郎、こうなった以上身を全うするにしくはなしと、
「えいッ!」
と迸しらせた空気合いとともに、打ちこむと見せてサッ! と引くが早いか、
「先を急ぎまする、ごめん!」
ひとこと残して泰軒の方へ走り去ろうとすると、剣光、栄三郎の背後に乱れ飛んで、火事装束の武士達一丸となって追い迫ったが、先ほどからこの不意の闖入者をみとめて、泰軒を捨てて馳せ集まっていた化物屋敷の面々、今は自分の頭上の火の子だから、栄三郎ともども、ひとつに包んでかかってきた。
見ると、泰軒はむこうで左膳ひとりを相手に斬りむすんでいる。一刻も早く屋敷のそとへ! と決した栄三郎、ぶつかった鈴川方の一人をパッサリ! と割りさげておいて、泥沫をあげて左膳を襲い、そのダッとなるところをすかさず、泰軒をうながして母家の縁へ駈けあがった。
追ってくるようすはない。
一同、火事装束の新手を迎えて、何がなにやらわからないながらも、降雨の白い庭に力闘の真最中だ。
「泰軒先生ッ! 思わぬじゃまが入りました!」
「なんだ、あの連中はッ」
「やはり、乾雲坤竜をねらう輩と見えまする」
「すりゃ、左膳とあんたにとって共同の敵じゃな――しかし手ごわそうな!」
「は。残念ながらひとまずこの家は引きあげたほうが……」
「それがよろしい。互いに無傷なのが何よりだ。まもなく夜も明けよう」
そうだ。まもなく夜も明けよう。
縁の端、納戸のあたりにぼうっと朝の訪れが白んで見える。
「こう行こう!」
と歩き出した二人は、おさよ婆さんのとらわれている納戸のまえにさしかかった。
ガラリ……格子戸があいたので、お艶と弥生が同時に顔を向けると、しずくのたれる傘をさげた櫛まきのお藤。
「ごめんなさいよ。ちょいと通さして――」といいながら、もう傘と足駄をつまんであがって来たかと思うと、ひらりと二人のあいだを走りすぎて、すぐ裏口から抜け出て行った。
うらは別の露地へひらいて、右へ切れてまっすぐに行けば第六天篠塚稲荷のまえへ出る。
軒づたいにそこまで逃げのびたお藤は、ほっとしてうしろを振り返った。
追って来る御用提灯もなく、夜の雨が遠くの町筋を仄白くけむらせている――あれほどはりつめた捕手の網もどうやらくぐりぬけ得たらしい。が、ゆすり騙り博奕兇状で江戸お構えになっている自分の身に今さらのように気がついてみると、いまのさわぎといい、ここらは全部手がまわっているらしく、
「こりゃうっかりできないよ!」
とお藤がひとり言を洩らした時!
「これ! 女ひとりか。この夜更けにどこへ参る?」
という太い声が前面からドキリとお藤の胸をうった。
「は。いえ、あの、わたしはそこの長屋の女でございますが、ただいま夜中に急病人がでまして――」
「医者を迎えに行くというのか」
「はい」
「よし。気をつけてゆけ」
「有難うございます」
で、二、三歩歩きかけた背後から!
「櫛まきお藤ッ! 神妙にお縄を頂戴いたせッ!」
と一声!
行き過ぎた捕役の手にキラリ十手が光って!
「何をッ! おふざけでないよ!」
構えたお藤、ちらちらと周囲を見ると、雨に伏さった御用の小者が、襷十字も厳重にぐるりと巻いてしめてくる。
「あめの中から金太さん……て唄はあるけれど、そうすると、ここに待っていたのかえ。ほほほほほ」
不敵にほほえみながら、懐中に隠し持った匕首、逆手に握ると見るまに、寄ってきた一人の脇腹をえぐるが早いか、櫛まきお藤は脱兎のごとく稲荷の境内に駈けこんで、祠をたてに白い腕を振りかぶった。
「御用ッ!」
「櫛まきッ! 御用ッ!」
ビュウッ! と捕縄をしごいて口々に叫びかわす役人のむれ、社前のお藤をかこんでジリジリッとつめてゆく。
うしろざまに階段へ一足かけたお藤の姿は、作りつけのように動かなかった。
風のごとく表から飛びこんで来たお藤が、風のごとく裏へ吹き抜けて行ってからまもなく。
お艶と弥生、あっけにとられた顔を見合わせているところへ、先刻お藤をかぎつけた御用聞きをさきに数人の捕吏がどやどやとなだれこんできて、
「いま、ここへ女がはいって来たろう?」
と威猛高だ。
すばやく眼を交わした弥生お艶、何がなしに同じ意を汲みあって、まるで約束していたように等しくとぼけた。
「いいえ、どなたも……」
「はてな?」
と多勢が首を傾けたからさては踏みあがってくるかな? と見ていると、それでは他家だったかも知れないと一同急いで出て行った。
露地から屋根まで御用提灯でいっぱいで、めざす女を逃がした役人達がくやしそうになおも右往左往している。時ならぬ雨中の騒ぎに長屋の者も軒並みに起き出たようす。
「張りこみに手落ちがねえから、どっかでひっかかりやしたろう」
どぶ板を踏み鳴らしながら、話し過ぎる岡っ引きの高声……お艶と弥生は、たがいに探るように瞳の奥を見つめていたが、筒抜けていったお藤については、ふたりとも何も言わずに、そのうちに戸外の物音もしずまりかけると、羊のように怖じすくんでいたふたりの心もゆるんで、お艶、弥生、はじめて若い女らしく笑いあった。
と、それを機会に、弥生はそこそこに戸口に出て、女と女の長い挨拶ののちに、露地をゆく跫音がやがて消え去った。
この雨の明け方を、弥生さまはおひとりで番町とやらへおかえりになるつもりであろうが、なんというお強い方であろう! と送りだしたお艶が気がついてみると、風呂へ行ったはずの栄三郎様がまだ帰宅していない!
これは、何ごとか突発したのだ! とにわかに暗い不安の底に突きおとされたお艶だったが、かれが畳に崩折れて考えこんだのは、いま出ていった弥生さまへの義理! 義理! 義理!
水茶屋の苦労までなめただけあって、浮き世の義理には脆すぎるほど脆いお艶であった。
中庭に入りまじる剣戟の音に身をすくませて、おさよが納戸の隅にふるえていると――。
あし音とともに、泰軒と栄三郎の話し声が近づいてくるので、おさよはいっそう闇黒の奥に縮まった。
誰か知らないが暴れ者がふたりやって来た……こう思って見つかっては大変と、息を凝らしている。
そとの廊下では、納戸のまえに二人が足をとめたようすで、
「お! こんなところに部屋があります」
という若い声。すると年老った声がそれに答えて、
「ほほう。ここから戸外へ出られぬかな?」といっているから、さてははいってくるかも知れぬと思うまもなく、サッと板戸があいて、老若ふたりの浪人姿が黒い影となって戸口をふさいだ。そして暗い室内をしばらくのぞいているようだったが、やがて、ここからは出られぬことを見たものらしく、軽い失望の言葉を捨てて戸を閉めた。
二人の足音が遠ざかって、そのうちに台所ぐちからでも屋敷を出離れて行ったけはい。
これを娘お艶の男の栄三郎と知らぬおさよは、ほっとしてまた耳を傾けた。
今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいが漂って、撃ちあうひびき、激しい気合いが伝わってくる。
栄三郎に泰軒としては。
この鈴川の屋敷に、お艶の母おさよ婆さんが下女奉公にあがっていて、それがお艶が逃げたことから源十郎にひどいめにあわされているらしいと知っていたので、ついでに助け出したいとも思って納戸まであけてみたのだったが、世の中にはこういう変なことがすくなくない。救いを求める人と、救う目的でさがす人とが一度はこんなに近く寄りながら、たがいに相手を知らずにそのまま過ぎてしまう――これも人間一生の運命を作る小さなはずみのひとつかも知れなかった。
夜もすがらの雨に、ようやく明けてゆこうとする江戸の朝。
やがて……。
泰軒と栄三郎が、遠く鈴川の屋敷をはなれたころ。
ほかの側の外塀にぴったりついて、先刻から供待ち顔に底をおろしている五梃の駕籠があった。
江戸の町では見かけない山駕籠ふうの粗末なつくりだが、陸尺は肩のそろった屈強なのがずらりと並んでいて、
「エオ辰ウ、コウ、いやに長く待たせるじゃあねえか」
「さようなあ。もういいかげん出てきそうなもんだが、こう長くかかるところを見るてえと、こりゃあひょっとすると大物のチャンバラだぜ。なあ勘」
「あたりめえよ。荒療治だなあ。ちったあ手間のとれるなあ知れきったこった」
「それあいいが先にもだいぶんできてるのがいるっていうじゃあねえか」
「そのかわり、こっちだって一粒選りだ。なあに、案ずることあねえやな」
「俺チだっていざとお声がかかりゃあ飛びこんでって暴れるんだ。先生ら、こう、ぴかつく刀を振りまわしてよ、エエッ……なんてんで、畜生ッ、うまくやってるぜ」
「全くだ。おれも乗りこんでやってみてえなあ」
「シッ! おおい、みんな! 声が高えぞ!」
「黙ってろ黙ってろ! それより、用意はいいな。お出になったらすぐ往くんだ。コウレ、七公、尻ウさげろってことよ」
わいわい言いあっているが――。
多少わけ知りらしい口調といい、ことに、この十人の男が、いずれも六尺近い、仁王のような頑丈なのばかりがそろっていることといい、決して普通の駕籠舁きとはうけとれない。
この、力士のような堂々たる人足が十人、いっせいに鈴川方の塀の木戸へ眼をあつめていると、はたして、パッと内部から戸を蹴りあげて走り出た五人の火事装束!
首領らしい老人を先頭に、それぞれ抜き身を手に、すばやく駕籠へおさまると、
「そら来た! やるぜ!」と合図の声。
五つの駕籠がギイときしんで地を離れたかと思うと、棒鼻をそろえて――。
エイ、ハアッ!
ハラ、ヨウッ!
見るまに駈け出した五つの駕籠、早くも朝寒の雨にのまれて、通り魔の行列のように、いずくともなく消えてしまったが、それは実に驚くべき迅速な訓練であった。
どこから来てどこへ去ったとも知れない五つの駕籠!
その中の火事装束の五人の武士。
かれらもまた、乾坤二刀を奪ってひとつにせんとするものであろうか?……とにかく、江戸の巷に疾風のごとき五梃駕籠が現われたのはこの時からで、あとには、一夜の剣闘に荒らされた鈴川の屋敷に、朝の光になごむ氷雨がまたシトシトとけむっていた。
冬らしくもない陽がカッと照りつけて、こうして日向に出ていると、どうかすると汗ばむくらいだ。
ウラウラと揺れる日の光のにおいが、障子に畳にお神棚に漂って、小さなつむじ風であろう、往来の白い土と乾いた馬糞とがおもしろいようにキリキリと舞いあがって消えるのが、格子戸ごしに眺められる。
裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の拍子木が、チョウン! チョウン! と二つばかり、ゆく年の忙しいなかにも、どこかまだるく音波を伝える。と、それを待っていたかのように、隣家の杵屋にいっせいにお稽古の声が湧いて、きイちゃん、みイちゃんの桃割れ達が賑やかに黄色い声をはりあげた。
くろウ、かアみイの、ツンテン。
むすウぼオれエた――るうウウ。
錆びたお師匠さんの声が、即かず離れず中間を縫ってゆく。
……聞いている喜左衛門の皺の深い顔に、思わず明るい微笑がみなぎると、かれは吸いかけた火玉をプッ――と吹いて、ついで吐月峰のふちをとんとたたいた。
三十番神の御神燈に、磨き抜いた千本格子。
あさくさ田原町三丁目家主喜左衛門の住居である。
長火鉢のまえに膝をそろえた喜左衛門は、思いついたように横の茶箪笥から硯箱をおろして、なにごとか心覚えにしたためだした。
こう押しつまると、年内にかたづけたい公事用が山のようにたまっているところへ、きょうも朝から何やかやと町内の雑事を持ちこまれて、茶一つゆっくりのんでいられないのだった。
走り奴の久太が、三が日の町飾りや催し物の廻状を持ってきたあとから、頭の使いが借家の絵図面を届けてくる。角の穀屋が無尽の用で長いこと話しこんで行ったばかりだ。
「いやはや!」と喜左衛門はつぶやいた。「こういそがしくちゃ身体が二つあってもたりねえ」
と、ふと彼は考えこんで、そのまま筆を耳にはさんで腕を組んだ。
屈託顔。
もとの店子おさよ婆さんの一件である。
三間町の鍛冶屋富五郎、鍛冶富に頼まれて、奥州の御浪人和田宗右衛門とおっしゃる方を世話してこの三丁目の持店のひとつに寺子屋を開かせた。が、まもなく宗右衛門は死んでしまう、あとに残ったおさよお艶の親娘の身の振り方については、鍛冶富ともよく談合したうえ、おさよ婆さんのほうは、じぶんと富五郎が請人にたって本所法恩寺橋まえの五百石お旗本鈴川源十郎様方へ下女にあげ、娘のお艶には、これも自分が肝いりで、当時売り物に出ていた三社前の掛け茶屋当り矢を買いとってやらせてみたのだったが……。
鍛冶富は、人のうわさによれば、だいぶお艶に食指が動いてそのために、金もつぎこめば、また到底そのほうの望みがないとわかってからは、かなり激しく貸し金の催促もしたようだけれど。
おれはただ、店子といえば子も同然、大家といえば親も同然――という心もちから、慾得離れてめんどうをみただけのことなのだ。
それだのに。
お屋敷へあがったおさよからは、便りどころかことづて一つあるではなし、娘は娘で、勝手に男をこしらえて今はどこにどうしているとも知れず店をしめて突っ走ってしまった。
お艶は何をいうにも若い女のこと、ただ折角のこの家に敷居が高くなるだけで、それも言ってみれば自業自得だが、婆さんは年をくっているくせにあんまりとどかなすぎる。が、そんなことを一々怒っていた日には、家主は癇癪が破裂して一日とつとまらぬ。とはいえ、聞くところでは鈴川様は、大して御評判のよくないお屋敷だとの人の口もある。あれやこれやを思い合わせると、苦労性だけに喜左衛門は、お艶の身の上といい、とりわけおさよ婆さんのことがどうもこのごろ気にかかってならないのだ。
「娘っこも娘っこだが、おふくろもおふくろだて」
われ知らず口に出た喜左衛門へ、女房が茶の間へはいってきて受け答えをした。
「お前さん、おさよさんとお艶坊のことを気におやみだねえ」
「うん。虫の知らせと言おうか。なんとなくこう胸騒ぎがしてならねえ」
「そうだねえ。そう言えばわたしもこの二、三日あの親娘の夢見が悪いのさ。どうだろう、いっそ本所のお屋敷へうかがってみては?」
「うん……そうよなあ」
と喜左衛門が生返事を洩らした時、勢いよく格子があいて、
「おうッ、喜左衛門どん、いるかね!」
「押しつまりましたね」
鍛冶富は、すわるとすぐ煙草入れをスポンと抜いてから言った。
「御多用でごわしょう……」
ぽつんとこたえて、喜左衛門は気がなさそうである。鍛冶富はクシャクシャと顔中をなでまわして、
「いえね。なんてえこともなく、ただこう無闇に気ぜわしくてね、ははは、やりきれません」
で、今さら、年の瀬の町の騒音が身にしみるようにそしてそれを噛んで味わうように、二人はちょっと下を向いてめいめいの手の甲をみつめた。
喜左衛門の女房が茶を入れてすすめる。
ふたりはいっしょに音を立ててすすった。
喜左衛門は髪も白いほうが多く、六十の声をかなり前に聞いたらしい年配だが、富五郎は稼業がら、おまけに今でも自ら重い槌を振っているだけあった。年齢も喜左衛門よりははるかに下だけれど、それにしても頑丈な身体つきをしている。腕っぷしなぞ松の木のようだ。
「なあ喜左衛門どん」
「はい」
しばらく何かもそもそしていた鍛冶富は、やがて思いきったように口をひらいた。
「おさよさんのこってすがね――」
と聞いて、喜左衛門が、ほん、ほん! というような声を立てて急に膝を乗り出すと、鍛冶富もそれに勢いがでて、
「いや、お笑いになるかも知れねえが、ちょいとその、鈴川様のお屋敷について嫌なことを聞きこみしたんでね……」
「ほ! なんですい?」
「まあさ、あそこへおさよさんを入れたのは、お前さんとわたしが請人。請人と言えば親もと代りのもんだから先方から変な噂を耳にするにつけて、わたしもいろいろと気をもんでいましたがね、今度はどうも聞きっ放しにならねえから、こうしてお話しにあがったようなわけで――」
「はい。いや、殿様のお身持ちのよくねえことやなんかは、わしもちょくちょく聞いておりましたがな、はい、一体全体まあどんなことが起こりましたい? 実はな富さん、おさよ婆さんのことといい、あのお艶坊のほうといい、今度の和田さんの後始末にだけはこの爺いも手をやきましたよ。もう人の世話はこりごりだといつも婆さんとこぼしているくらいさ。ま、お前さんのまえだが、わしもこの件にはえらく気を使ってな、いっそのこと出かけていって、おさよさんを願いさげてお前さんにでも引きとってもらおうかと、今も、なあ婆さんや、はい、これとね、まあ、話しておりましたところですよ」
「ヘヘヘ、お艶さんもどうも困りもんだがあれはお奉行所へも捜し方を願ってあることだし、それより今日のはなしは……なにね、あっしの友達に御用聞きの下で働いている野郎がありましてね、そいつが言うんだが、先日なんだってえじゃあありませんか。あの雨の晩にお屋敷に斬りこみがあって、死人や怪我人がうんと出たそうじゃあありませんか。何か、お聞きになりませんでしたかね?」
「はい。そう言えば、そんなようなこともちらと小耳にははさみましたが――それでなんですい、その暴れこんだ連中てのは? 意趣遺恨とでもいうような筋あいですかい?」
「それがさ、その下っ引きの言うことにゃあ、なんでも同じ晩に二組殴りこみをかけたらしいんだが、あとから来たのは火事装束のお侍が五人――というんですけれど、さあ、なんのための斬り合いだか、そいつが皆目わからねえ」
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから物騒な」
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお上に眼をつけられてるらしいね。ことによると近々お手入れがあるか知れねえと。いや、これあね、わたし一人の考えだが、ははは……ね、とまあ、言ったような次第さ。どうしたもんでごわしょう?」
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの羽織を出してもらおう。ちッ! 用のある時はきまってそこらにいやあしない。いい年をしやがって、あんな金棒引きもないもんだ。ばあさん!――しようがねえなあ。婆あッ!」
家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。
客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも掃いておこうと、喜左衛門の女房は箒を持って表へ出た。
いいお天気。
日の光が町全体に明るく踊って、道ゆく人の足もおのずから早く、あわただしい暮れの気分を作ってるなかにも、物売りの声がゆるやかに流れて、徳川八代泰平の御治世は、どこか朗らかである。
歳の市へ、伐り出した松を運ぶ荷車が威勢よく駈けて通る。歳暮の品を鬱金木綿の風呂敷に包んで首から胸へさげた丁稚が浅黄の股引をだぶつかせて若旦那のお供をしてゆく。
「おばちゃん……」
という声に振り返ると、長屋の由公がお袋に手をひっぱられて横丁の人混みに消えるところだった。その母親の白い顔が笑って、何かそそくさと挨拶をしたようだった。
泣いても笑ってもあと何日――町へ出てみると、しみじみとそんな気がするのだった。
そうだ。気は心だからあの児へ何かお歳暮をやらなくちゃあ……女の子達には出ず入らずで一様に羽子板がいいけれど、腕白にはやはり破魔の弓かしら?
こんなことを考えて、何度も腰をのばしながら、喜左衛門の女房はせっせと格子の前を掃いている。
うつ向いて箒の手を動かしていると、眼に入るのは近くを往来する人の足ばかりだ。
知った人が声をかけてゆく。
通る人の足をよごさないように気をつけてはいたが、誰かにお低頭をされた拍子だった。ふと箒の先に思わぬ力がはいって折りから掃きためてあった塵埃が飛んで、ちょうど前を歩いていた人の裾から足袋へしたたかかかった。
はっとして顔をあげると、
着流しに蝋鞘の大小を差した、すこしふとり気味の重々しいお侍である。
切れ長の眼じりに細い皺を刻んで、じっと立ちどまったまま、埃りを浴びた足もとと、箒をさげてどぎまぎしている老婆の顔とをしずかに見くらべている。
喜左衛門の女房は、背中に火がついたように狼狽した。
お手うち! 斬られる! 斬られないまでも、どんなおとがめがあろうも知れぬと思って、はっとすると舌がこわばった。
「あれッ! とんだ、また、粗相をいたしまして! どうぞ殿様、どうぞ御料簡なされてくださりませ」
とっさにこう詫びると同時に、のめるように飛んで行って前掛けの先で侍の足を払おうとした。
と、侍は二、三歩さがって、おだやかに笑った。
「ああ、よいよい。あやまちは誰にでもあること――自分で拭くから心配はいらぬ」
言いながらもう懐紙を出して、ゆっくりと裾をはらっている。
相当の年齢。服装なども、眼にはつかないが、争えない高貴なおもむきを示して、何よりもそのふくよかな穏顔に、人なつっこい笑みが春の海のように輝いていることだった。
ぼんやり見ていた喜左衛門の女房はわれに返ったように再び侍の足へ突進して、転ぶようにしゃがむなりまたほこりをたたきだした。
「わたくしの不調法でございます。お手ずからはあんまりもったいなくて、恐れ入ります。どうぞおゆるし遊ばして」
「いや。それにはおよばぬ」
侍は急いで身をひくと、手を取らんばかりにして、なおも争う老婆を立たせた。
「ははは、なんのこれしき! お前も家にはいっては人の妻、母、いやもう祖母であろう。その妻たり母たり祖母たる者に足を拭かせたとあっては、わしがその人々に相すまん。な、許してくれ。ここはわしのほうであやまる。ははははは」
なんというわけのわかった、奥ゆかしいお侍だろう!――と老婆が涙ぐんで頭をさげていると、「だが」と侍はつづけて、「往来筋の掃除は、まだ人の出ん早朝のうちにいたしたがよろしかろう。あ、これ! それから、あそこに散らばっておる紙屑古下駄のたぐい、新しき年を迎えるに第一みぐるしい。隣家の前ではあるが手のついでに取りかたづけてやりなさい」
声もなく老婆が二つ折れに腰をかがめた時に、くだんの武士、ちらとうしろを見返って歩き出そうとした。お供であろう、すこし離れて同じつくりの血気の侍がひとりついているのだ。
こんなこととは知らないから、婆さんから婆あへおいおい格をおとして、家内では喜左衛門が胴間声をあげている。
呼んでいるから行け! というように、先なる侍の眼がほほえんで老婆を見た。
いくら呼んでも女房の返辞がないので、チェッ! と舌打ちをした喜左衛門は、自分で外出のしたくをして、すぐに本所の鈴川様のお屋敷へ行こうと、鍛冶屋富五郎をうながしてそとへ出た。
出てみると、
そこらにいないと思った女房が、いまにも泣き出しそうな顔をさげて、誰かにピョコピョコおじぎをしている。喜左衛門老人はカッカッとなった。
「なんでえ! べら棒めッ! 通る人を見て泣いてやがら。気でも狂れたんじゃねえか」
ポンポンどなりながらひょいと見ると、四、五間むこうを供をつれてゆくりっぱな侍。
はて! どこかで見たような! と小首をかしげた喜左衛門、こんどは蚊の鳴くような低声だ。
「婆さんや、どうしたんだえ? 何か、あの武家さんに叱られでもしたのかえ?」
まあお爺さん、お聞き。世の中にはえらいお人もあるものさね。こういうわけなんだよ――と女房の話すのを聞いて、すっかり感心した喜左衛門、へえい! と眼をあげて改めて侍のうしろ姿を見送ったとたんに。
歩き出していた主従が、一緒にちょっと振り返ったが、先に立つ老武士の顔を見た喜左衛門は、にわかに周章狼狽して、いきなり女房と鍛冶富の手をぐっととると、声を忍ばせて続けざまに、
「大岡様だ! 大岡さま! 大岡さま!……まぎれもねえ大岡様だッ! ヒャアッ婆さん! お前まあ大したお方と口をきいたもんだなあ!」
「えッ! あ、あれが大岡様! お爺さん、お前さんまた担ぐんじゃあないだろうねえ」
「ばかッ! こんな冗談が言えるもんか。はばかりながら公事御用に明るくて江戸でも名代の口きき大家だ。南町のお奉行所は手前の家よりも心得ているんだが、実あ、たった一度、それ、極道長屋の鉄の野郎がお手あてになって、おれが関係に付き添って行ったことがあるだろう? あの時、お白洲でお調べをなすったお顔がまだ眼の底にこびりついてらあ。そうよ。今のが大岡さまだ! 南町のお奉行大岡越前守忠相様!」
「知らぬこととはいいながら」婆さんは浄瑠璃もどきだ。
「ああありがたい。いっそもっとおそばによって、よくお顔を拝んどきゃよかったよ。ねえ、お爺さん、この話は孫子の代まで語り草だねえ」
「そうとも、そうとも! うしろ影なりと拝みなおすこった」
「こちとら、こんな時でもなけりゃあお奉行さまなんか顔も見られねえ。よし! 長屋じゅうへふれてみんなを呼んでこよう」
鍛冶富が駈け出そうとするのを、喜左衛門がとめた。
「富さん! もったいねえことをするもんじゃねえ。おしのびでいらっしゃるんだ――」
土下座をせんばかりに喜左衛門夫婦と鍛冶屋富五郎がガヤガヤしているのを、仔細を知らない通行人がふしぎな顔で見て通る。
そのうちに。
うららかな陽を全身に浴びた大岡忠相。きょうは文字どおりの忍びだから、手付きの用人伊吹大作ただ一人を召しつれて、さっさと角をまがってしまった。
どこへ? というあてもない。
いわばぶらぶら歩きである。
民情に通じ、下賤を究めることをもって奉行職の一必要事と観じている越前守は、お役の暇を見てよくこうして江戸の巷を漫然と散策することを心がけてもいたし、また好んでもいたのだ。この日も冬には珍しい折りからの晴天を幸い、年のくれの景況でも見ようとぶらりと屋敷を出たものであろう。思うこともなさそうに越前守忠相、人を避けてあるいてゆく。あとに続く伊吹大作の気づかれは大変。なにしろ八方に目をくばって、ひとりで鯱張ってお供をするんだから――。
小僧の喧嘩にもぶつかれば、馬のいばりも飛ぶ。遊戯にほうけた女の児が走り出て来てよろけたり、職人がお前を近く横切ったり……そのたびに大作ははっとするが、忠相にはすべてがほほえみと見えて、にこやかに左右を見渡しながらおおらかに歩を運ぶ。
観音様には、江府第一の大市。
並木の通りから雷神門へかけて、押すな押すなの人波である。
これはこれは!
というふうに、越前守の笑顔が大作をふり返った。
お江戸名物あさくさ歳の市。
町々辻々は車をとめ、むしろを敷いて、松、注連縄、歯朶、ゆずり葉、橙、柚……。
立ち並ぶ仮屋に売り声やかましくどよんで、臼、木鉢、手桶などの市物が、真新しい白さを見せている。
浅草橋からお蔵まえ、駒形並木、かみなり門の往来東西に五丁ほどのあいだ、三側四側につらなって境内はもとより立錐の余地もない盛りよう。おまけに裏は砂利場、山の宿にまでつづいて、老若男女、お武家、町方、百姓の人出が、いろとりどりの大きな渦を巻いて、閑々としてまた閑々と流れていた。
冬の陽は高く銀に照って、埃と人いきれと物音が靉然とひとつにからんで立ちのぼる。
陽の斑点と小さな影とが、通りにあふれる人々の肩に踊って、高貴な虎の皮を見るようだが、何かしら弱々しく冷たいものがそのあいだにみなぎって、さすがに今年もあますところすくないあわただしさを思わせた。
芋を洗うような人ごみ。
そのなかを、おしのびの南町奉行大岡越前守忠相、自邸の庭でも逍遙するように片手を袖に悠然と縫ってゆく。
すこし離れてお供をする用人伊吹大作は、ともすれば主君の影が雑踏にのまれようとするので、気が気でない。遅れてはならないと忠相の広い肩幅を眼あてに、懸命に人を掻きわけている。
右も左も、前にもうしろにも、眼のとどく限りの町すじを埋めて、人、人、人……。
忠相はただ、まわりのすべてを受け入れ、頷いて、あらゆる人と物に微笑みかけたい豊かなこころでいっぱいだった。
そこには、位の高い知名な身の自分が、今こうして市井の巷を庶民に伍してもまれもまれて徒歩っているのを誰ひとり知るものもないという、稚い、けれども満ちたりたよろこびなどはすこしもなかった。もっとも以前ひそかにこの府内巡行をはじめた最初のうちは、彼にもそうした悪戯げな気もちが、まんざらないでもなく、街上をゆく者や店々に群れさわいでいる男女が、なんらかのはずみで自分が大岡越前であることを知ったら、かれらはどんなにか驚き、恐れ、且つあわててそこの土に平伏することであろうか――こう考えると、忠相はいまにも誰かにみつかりそうな気がしてならなかったり、時としては、余は南町の越前である! と叫びあげたい衝動に襲われたりしたものだが、しかし、それは昔のことである。
いまの忠相は、すっかり枯れきっているのだ。
かれは何らの理屈も目的もなしに、中老の一武人として、寂びた心境のなかに日向の町を歩いているだけで、言いかえれば、この、浅草の歳の市をひやかしてゆく、でっぷりとふとった上品なお侍は、南町の名奉行大岡越前守忠相ではなく、江戸の一市民にすぎないのだ。だから、向うから来て、自然と顔を合わせてすれちがう多くの者が、誰も気がつかずに往くのにふしぎはないのだった。
奉行といえども二本の脚がある以上、こっそり町を歩いたとてなんの異やあらん――忠相はこう思っている。その気でどこへでも踏みこんでゆくのだから、お付きの者は人知らぬ気苦労をしなければならないので、いつもおしのびを仰せ出されると、みなこそこそいなくなったり急に腹痛を起こしたりするのがつねだった。
伊吹大作は人が好いので、ほかの者に代りを押しつけられてたびたびお供をしているうちに、根がお気に入りだけに、このごろでは市内巡視には必ず大作がおつき申し上げることにいつからともなく決まってしまっているのだが、これがなかなか大汗もので、さすがの大作、正直なところ迷惑しごくと腹の底でこぼしている。
ことに今日!
ところもあろうに浅草の市なぞへおみ足が向こうとは思わなかった!
と大作、人浪に押し返されて、くるしまぎれに恨んでいるが、この大作の心中には頓着なく、忠相は身体を斜めにしてどんどん進みながら、つと眼についた一軒の仮店に首をつっこんで、
「ふむ。海老がある」
「へい。ございます――本場物で」
「本場……と申せば、伊勢か」
「へえ、へえ、伊勢の上ものでございます」
これを聞くと越前守忠相、山田の時代がなつかしかったものか、やにわにうしろを向いて呼ばわった。
「大作! 来て見い。みごとな伊勢海老じゃぞ」
忠相の声が藪から棒に大きかったので、となりにしめ縄をひねくっていたおかみさんの背なかで、おびえた赤ん坊がやにわにワアッ! と泣きだした。
市の中ほどへ出たときだった。
突如、うしろに起こった人声を聞いて、忠相何ごころなく振り返ってみた。
掏摸だ! 掏摸だアッ! と罵りさわいで、背後の人々が一団となって揺れあっている。腕が飛ぶ拳が振りあがる、殴る蹴る。道ぜんたいが野分のすすきのよう……。
と!
その、人のうずまきのなかにキラリと光った物がある。
「わアッ! 抜いたッ! 抜いたッ! 怪我をするな怪我をッ!」
という声々がくずれたったかと思うと、旅仕度に身をかためたお店者らしい若い男が、振分けの小荷物を肩に、道中差しの短い刀をめちゃくちゃにふりまわしながら鼠のようにこっちへ飛んでくる、とばっちりを食って斬られてはかなわないから、通行人のむれがサッと左右にわかれたせまい無人の境を、弥次馬に追われて一散に駈けて来るのを見ると――つづみの与吉である。
与吉のやつ、走りながら金切り声でどなっている。
「さあ! こうなりゃあどいつこいつの容赦はねえ。そばへ寄りゃあ、かたっぱしからぶった斬るぞッ! どいたどいたッ!」
この勢いに辟易して、みな路をあけるばかり……誰ひとりとび出す者はいない。女子供の悲鳴、ごった返す人垣。としの市の真ん中にたいへんな騒ぎが勃発した。
これがつづみの与吉――とは知らないが、抜刀をかざす男が近づくとみるや、大作は身を挺して前へ出るなり、すばやく忠相をかばって柄に手をかける。
「善ちゃん! こっち! こっち! 早くッ!」
忠相の耳の下で黄いろい声が破裂した。商家の内儀風の若い女が、この騒動ではぐれたらしく、その時、むこう側からヨチヨチと中間の空地を横ぎりかけた四、五歳の小児を死にもの狂いに呼んでいるのだ。
与吉は刀身を陽にきらめかせて、もう鼻のさきへ迫ってきている。
「善ちゃん、危ないッ! いいからお帰り! そっちにッ!」
と女が叫んだ刹那、忠相はヒラリと大作の守護を脱して、あれよという間に、通りみちにまごつく善ちゃんを抱きかかえて向う側へ飛びこんだ。
同時に!
与吉と、与吉の道中差しは、鉄砲玉のように空になって疾駆し去った。
とおりがかりの浪人や鳶の者がぶつかりあいながら与吉を追っかけて行く。それッ! という忠相の眼顔にこたえて、大作もただちに追っ手に加わった。
「この雑踏に抜きゃあがるとは、無茶な野郎もあったもんですね」
「掏摸だそうですよ。なんにしても人さわがせなやつで」
あとには、市の人出が一面にざわめいて、そこにもここにも立ち話がはずんでいる。
忠相も口をだした。
「掏摸か。それにしても道中姿は珍しいな」
「へえ。あれがあの輩の手なんで……一つまちがえばその足で遠国へずらかろうという――」
「なるほどな」
人品卑しからぬお侍だが、どこの誰とも知らないから皆気やすに言葉をかわしている。
「なんでもお若いお武家とかの袂へ悪戯をするところを感づかれて、すんでのことでつかまろうとしたのを、まあ奴にとっちゃあこの人混みを幸に暴れだしたんだそうで――とにかく、えらい逃げ足の早え野郎でごぜえます」
忠相は、首を振って感心してみせた。
「袂にわるさをしたと申して、何か奪ったのであろうがな」
「そいつあ知りませんが、なんにしてもあんなけだものは寄ってたかってぶちのめしてさ、沢庵石でも重りにして大川へ沈めをかけるのが一番でさあ。南町に大岡様てえ名奉行が目を光らせていらっしゃるのに、そのお膝下でこの悪足掻だ。いけッ太え畜生じゃありませんか、ねえ」
越前守忠相、くすぐったそうにうなずいて、ほほえみながら立ち去ろうとすると、善ちゃんの手を引いた若い母親があらためて礼を言っている。
「いや……」
と笑った忠相の眼は、折りからまたひとり、血相を変えて人を分けてくる若い浪人者の上にとまった。
諏訪栄三郎だ――手に紙片を握っている。
本所化物屋敷の斬りこみは、火事装束の一隊という思わぬ横槍がはいって、四、五の敵をむなしく殺めたほか、めざす左膳には薄傷をおわせたにすぎなかったが、きょうにも乾雲丸に再会せぬものでもないと、歳の市の人中をぶらりと歩いていた諏訪栄三郎。
ふと袖にさわるもののあるのを感じて、何ごころなく見返ると……。
思いきや! 鈴川源十郎の腰巾着、つづみの与吉が、どういう料簡か旅のしたくを調えて、今や自分の袖口に何か手紙様のものを押し入れようとしている。
コヤツ! 何をするッ!
と考える先に、栄三郎の手はもう与吉の肘にかかっていた。
「おのれッ!」
「あ! ごめんなさい。人違いでございます」
「黙れッ! 貴様は過日の――うむ、よし! そこまで来いッ!」
引ったてようとする。ひたすらあやまって逃げようとする。この二人の争いに、気の早い周囲の江戸っ児がすぐにきんちゃく切りがやり損じたと取って、そこで、掏摸だ、掏摸だ! とばかりに与吉をかこんで袋だたきにし始めると、かなわぬと見た与吉、やにわに道中差しを抜いて通路を開きながら突っ走ってしまった。
有難迷惑な弥次馬のおかげ、与吉をおさえそこねた栄三郎が、念のために袂をさぐってみると、出てきたのは、いま与吉が投げこんでいった丹下左膳から栄三郎へ……すなわち、夜泣きの刀乾雲丸から同じ脇差坤竜丸へあてた一通の書状!
混雑中ながら猶予はならぬ。手早く封を切って読みくだした栄三郎なにごとかサッ! と顔色を変えたと思うと、手紙を、武蔵太郎の柄がしらといっしょにグッと握りしめて遅ればせだが、与吉の去った方へしゃにむに急ぎだした。
剣怪左膳の筆跡――そもそも何がしたためてあったか? 妖刀乾雲、左膳の筆を藉りていかなる文言をその分身坤竜にもたらしたことか?
それはさておき。
人を左右に突きのけてくる栄三郎の浪人姿を、群集の頭越しにみとめた忠相は、あれが今の掏摸にあった侍というささやきを耳にするや、何を思ったか、いきなり足を早めて彼をつけだした。
カッ! と血が頭脳にのぼっているらしい栄三郎、人浪を押しわけてよろめき進む。男をはねのける。女はつきとばす、子供も蹴散らしてゆくがむしゃらぶり。
忠相も、いそいでそれに続いたが、嫌というほど誰かの足を踏んで、痛いッ! と泣き声をあげられた時は、大岡越前守忠相、にこやかな笑顔を向けて丁寧に詫びた。
しかし、
駒形を行きつくして、浅草橋近くなったころは、与吉も追っ手も影を失って、栄三郎もはじめてあきらめたものか、悄然とゆるんだ歩を、そこから折れて瓦町のとある露地へ運び入れた……市のにぎわいをうしろに。
忠相が後から声をかけた。
「彼奴、稀代の韋駄天、駿足でござるな、はははは、それはそうと、貴殿、落とし物はござらぬかの?」
振り返った栄三郎は、そこに、見おぼえのない上品な武士が立っているので、思わずむっとして問い返した。
「拙者に何か仰せられましたか」
「いや、ただいまのさわぎ……彼者は、貴殿にこの書面を捻じこんでいったに相違ござるまいと存ずる。なに、これはただ拙者の推量だが、はははは、いかがでござるな?」
との忠相の言葉に、栄三郎は、はっと気がついたようにじろりと忠相を見やりながら踵をめぐらそうとしたが!
今のいままで手につかんでいたはずの左膳の手紙が! どこでいつ落としたものかなくなっているので、おや! と忠相の手もとを見ると!
これはまたどうしたというのだ。
いつ、どこで拾ったものか、皺くちゃのその手紙がちゃんと忠相の手にあるではないか。
「やッ! そ、それは――」
と、あわてふためいた栄三郎が、われを忘れて跳びかかろうとするとヒョイとさがった越前守忠相、手にした封書の裏おもてを、じらすように栄三郎の面前にかざしてにっこりした。
諏訪栄三郎殿
隻腕居士 丹下左膳拝
「いかにもその手紙は、拙者の落としたもの。不覚……ともなんとも言いようがござらぬ、恥じ入ります。お拾いくだされた貴殿にありがたく厚くお礼を申します。いざ、お渡しを願いたい――」これが町奉行の大岡越前守とは知る由もない栄三郎、よし零落れて粗服をまとうとも、面識のない武士には対等に出る。かれは必死に狼狽を押しつつんで、こう言って二、三歩進み出たが、忠相は同時にあとへさがって、
「お手前が諏訪栄三郎といわるる。それはよいが、これ、裏に丹下左膳――隻腕居士拝とある。そこで諏訪氏貴殿におたずね申すが、この片腕は左腕でござろうの? いや、左腕でなくてはかなわぬところ、どうじゃ」
ときいた忠相のあたまに、電光のようにひらめいたのは、当時府内を震憾させている逆けさがけの辻斬り、その下手人も左剣でなければならない一事だった。
で、然り――という意をふくめて驚きながら栄三郎がうなずくのを見ると、忠相は、
「然らばこの一書、貴殿にお返し申すことは相成らぬ」
きっぱり断わって、さっさと懐中へしまいこんでしまった。
無体なことを! 刀にかけても奪還せねば! と栄三郎が面色をかえてつめよった時、見ると、相手のつれらしい侍が急ぎ足に近づいてくるので、残念ながらこの曰くありげな二人に挟まれて、種々問いただされてはよけいなあやまちを重ねるのみと、栄三郎は倉皇として忠相を離れ、逃げるように露地の奥へ消えていった。
「御前、こんな所にいらっしゃろうとは存じませぬゆえ、ほうぼうおさがし申しましてござります」
という声に、忠相がふり向くと与吉を追っていった伊吹大作である。
多勢とともに追跡してみたが、なにしろあの人出、一度は旅合羽へ手をかけたもののスルリと抜けられて、ついそこの通りでとうとう与吉の影を見失ったという。
「面目次第もござりませぬ、いやはや掏摸をはたらこうというだけあって、なんと身軽なやつで」
「掏摸? 誰が掏摸じゃ?」
「は? あの男――」
「あれは掏摸ではない」
「すると巾着切りで? それともちぼ……」
「たわけめ。同じではないか」
「恐れ入りましてござります」
「なあ大作。他人の懐中物を機をもって掠めとるを掏摸と申す」
「は」
「機によって人の袂に物品を投ずる――こりゃすりではあるまい。きゃつはある者の依頼を受けて、あの人の袂に封書を投げ入れたのじゃ。よって越前、かの町人を掏摸とは呼ばぬぞ」
「あの、手紙を? なれど御前、どうしてそのようなことがおわかりになりまする?」
と眼を円くしている大作を無言にうながして、忠相はしんから愉快そうに、左膳の書をのんだふところをぽんと一つたたいて歩き出した。
「ははあ。なるほど委細そこに!」大作は自分の胸を打つ真似をして、
「いや、さようでございましょうとも! さようでございましょう!」
感に耐えて首を振りながらお供につづこうとすると、忠相はぼんやりと立ちどまって、いま栄三郎のはいって行った露地の口を見守った。
狭い裏横みち。
角にささやかな空地。
材木が積んであって、子供が十四、五人がやがや遊んでいる。
空高く、陽は滋雨のごとく暖かだ。
ひさしぶりに満ちたりるまで巷の気を吸い、民の心と一つに溶けた大岡忠相、カンカン照る日光のなかで子供と同じ無心に返ってそのさざめきを眺めている。
一段高い積み木の上に正座した年かさの子。
「南町奉行大岡越前であるぞ。これ面をあげい。そのほう儀……」
お白洲ごっこだ。道理で、地面に茣蓙を敷いて、あれが科人であろう、ひとりの子供が平伏している。左右にいながれるお調べ方、つくばい同心格の子供達、眉を吊りあげ、頬をふくらせたその真面目顔。
越前守が苦笑しているうちに、あとの大作はぷッとふきだしてしまった。
はるかむこうに、さっき田原町を出て来た家主喜左衛門と鍛冶富、また大岡に会ったと外ながら慇懃に小腰をかがめる。本所の鈴川方へ行く途中とみえる。これを見ると忠相は、さては誰か顔を知っておる者にみつかったな! と足を早めて立ち去ったが、あるかなしかの風が白い砂ほこりを低く舞わせて、うしろに子供の大岡様の声がしていた。
「そのほう儀、去る二十九日、横町の質屋の猫を天水桶に突っこんで、そのまま窓からほうりこんだに相違あるまい。まっすぐに申し立ていッ――」
「姐御ッ」
と飛びこんで来たけたたましい与吉の声に、長火鉢の向うからお藤は物憂い眉をあげた。
「なんだね、そうぞうしい」
立て膝のまま片手で畳をなでているのは、煙管を探すつもりらしい。
櫛まきお藤の隠れ家である。
「いけねえ。落ち着いてちゃあいけねえ!」と与吉は、わらじをとくまも呼吸を切らしているが、家内のお藤は大欠伸だ。
「また始まったよ、この人は」
てんで相手にしそうもないようすだけれど、それでもさすがに、ぬっとあがって来た与吉の道中姿を見るとお藤もちょっと意外そうに顔を引きしめて、
「おや! お旅立ち?」
「ヘヘヘヘ」与吉は悪党らしく小刻みに笑って、「なあにね、ちょっくら芝居を打って来ました」
「芝居を!」
「あい」
どっかりとすわった与吉、お藤の差しだす茶碗の冷酒をぐっとあおって、さて、上機嫌に話しだしたのは……。
左膳の手紙の一件。
あの雨の夜の乱刃に、化物屋敷で斬り殺された者が総計七名、これはすべて泊まり合わせていた博奕仲間で、負傷者は左膳の軽傷以下十指に近かった。
しかも、栄三郎と泰軒には一太刀もくらわさないうちに、あの、得体の知れない火事装束の一団が乗りこんできて、これには左膳、源十郎もしばし栄三郎方と力を合わせて当たってみたが、その間に泰軒は屋敷をのがれ出てしまった。
頭だった火事装束が刀影をついて放言したことには、彼らもまた夜泣きの一腰、乾雲坤竜の二刀を求めているものだと。
つまりこの一隊の異形の徒は、左膳の乾雲、栄三郎の坤竜にとって、ともに同じ脅威であった。
そこで剣豪左膳、いま一度左腕に縒りをかけて、力闘数刻、ようやく明け方におよんだが!
時、左膳に利あらず、火事装束の五人組に稀刀乾雲丸を横奪されて、すぐに塀外へ駈け出てみたときは、すでに五梃の駕籠がいずくともなく消え失せていたあとだったというのだ。
乾雲が持ち去られた。
すると今、奇剣乾雲は左膳の手を離れて、何者ともはっきりしない五梃駕籠の一つにでもひそんでいるのであろう! お藤は白い顔にきっとくちびるをかんだ。
「与の公、ほんとうかい、それ」
つづけざまに合点合点をした与吉、なおも語をついで、こうして乾雲丸が左膳の手もとにない以上、もういたずらに栄三郎とはりあう要もないと、さてこそ、その旨を書いた左膳の手紙を、こっそり栄三郎へ届ける役を言いつかったつづみの与吉、歳の市の雑踏裡に栄三郎を見かけてうまく書状を袖からおとしこんだまではいいが……。
「掏摸とまちがえられてえらい目にあいましたよ。光る刀を引っこぬいてどんどん駈けてきましたがね。いや、あぶねえ芸当さ、ははははは」
与吉は事もなげに笑っているが聞いているうちにお藤の目は疑わしそうにすわってきた。
もしそれがほんとなら、丹下左膳が自分で栄三郎を訪れて、さらりと和解を申しこみそうなもの。そのほうがまた、どんなにあの人らしいか知れやしない――。
第一、あの丹下様が、あんなに命をかけていた乾雲丸をそうやすやすととられるだろうか?
けれど、ものにはすべて機みということもある。
丹下左膳といえども魔神ではない……こう考えてくると、お藤は与吉がうそをついているとも、左膳に欺されているとも思えないのだった。要するに、何がなんだかわからないお藤。
「そうかい」
とおもしろくもなさそうにつぶやくと、頭痛でもするのか、しきりにこめかみをもみ出した。かと思うと今度は丹念に火鉢の灰をかきならしている。
あたまの中ではいろんな思いがさわがしく駈けめぐっているが、外見はいかにも閑々としてお妾のごとく退屈そうだ。
撫で肩に自棄に引っかけた丹前、ほのかに白粉の移っている黒襟……片膝立てた肉置もむつちりと去りかけた女盛りの余香をここにとどめている景色――むらさきいろの煙草の輪が、午さがりの陽光のなかをプカリプカリと棚の縁起物にからんで。
つづみの与の公、この白昼いささかごてりと参って、お藤のようすを斜めに眺めている。
丹下の殿様も気が知れねえ、こんな油の乗りきってる女を振りぬくなんて、と。
吐き出すように、お藤がいう。
「すると何かえ、丹下さまはもうお刀をその火事装束とやらの五人組にとられてしまって、お手もとに持っていないということを文にして、それをお前が、あの方の命令で栄三郎の袂へ入れて来たと言うんだねえ?」
「へえ。いかにもそのとおり……大骨を折りましたよ」
与吉は、お藤の香が漂ってくるようで、まだぼんやりと夢をみている心地だ。つと癇走ったお藤、熱く焼けた長煙管の雁首を、ちょいと伸ばして与吉の手の甲に当てて、
「しっかりおしよ、与の公! なんだい、ばかみたいな顔をしてさ。夕涼みの糸瓜じゃあるまいし」
「あッ! 熱つつつ――」
とびのいた与吉は、大仰に顔をしかめつつ甲をなめて、
「ひでえや姐御。あついじゃありませんか……おお熱!」
「ほほほ、お気の毒だったねえ。だからさ、だから責められないうちに白状おしよ」
「へ? 白状って? あっしゃ何も櫛まきの姐御に包み隠しはいたしませんよ。そこへ突然あつういやつをニュウッ! と来たもんだ。へっへ、人が悪いぜ姐御」
「何を言ってやんだい! そんならきくけど、その旅仕度はどうしたのさ?」
「あ! これか」と与吉は頓狂に頭をかいて、「これあ、なんだ、私が味噌をしぼった化けこみなんだ。てえのが、姐御も知ってのとおり、わたしも浅草じゃあ駒形のつづみとかってちったあ知られた顔だから、おまけにあの栄三郎てえ若造にあ覚えられてもいるしね、きょうの仕事に当たって、素じゃあどうもおもしろくねえ。かといって変に細工をして扮装りゃあかえって人眼につくしさ、さんざ考えたあげくのはてが、この旅人すがたと洒落たんでございます。どうです、似合いましょうヘヘヘ」
「ああ、そうかい」軽く受けながらも、お藤はきらりと与吉の顔へ瞳を射った。「じゃ、どこへも走るんじゃないんだね?」
「正直のところ、姐御がいらっしゃる間は、与吉も江戸を見限りはいたしません」
「うまいこといってるよ。左膳様は?」
「さあ――鈴川さんとこにおいででげしょう」
「げしょうとはなんだい、知らないのかい?」
「このごろ、あの屋敷にはお上の眼が光っておりますから、あっしもここすこし足を抜いております」
「そんならいいけれど、与の公、お前はどうも左膳さまとは同じ穴の狸らしいね」
「と、とんでもない!」
とあわてる与吉を、お藤はじろりと冷やかに見て、
「とにかく、お前と左の字とは何をもくろんでるか知れやしない。あたしゃこんな性分で中途はんぱなことが大嫌いさ。どうせ袖にされたんだから、これからずっと何かと丹下さまのじゃまをするつもりだよ、もう当分お前をこの家から出さないからね。いいかい、そう思っておいで」
「姐御、そいつあ一つ勘弁願いてえ」
と剽軽に頭をさげながら、与吉が、めいわくそうな、それでいて嬉しそうな顔を隠すように伏せていると、お藤が下からのぞきこんだ。
「お前の、左の字に頼まれて弥生さんをねらっておいでだろうねえ? ところが与の公、あの娘は先日から行方知れずさ」
弥生が行方不明に!
事実、いつぞや雨の朝早く、しょんぼりと瓦町の栄三郎の家を出て以来、弥生は番町の養家多門方へも帰らなければ、その後だれひとり姿を見たものもない……。
生きてか死んでか――弥生の消息はばったりと絶えたのだった。
不審! といえば、もうひとつ。同じ明け方に、この櫛まきお藤は、第六天篠塚稲荷の前で捕り手に囲まれて、すでに危うかったはずではないか、それが、鉄火とはいえ、女の手だけでどうしてあの重囲を切り抜けて、ここにこうして、今つづみの与吉を、なかば色仕掛で柔らかい捕虜にしようとしているのであろう。
謎は謎を生み、わからないことずくめだが、それより、もっと合点のいかない一事は。
ちょうど同じころおい。
左膳の手紙を、大岡さまとは知らないが、由ありげな武士に拾われてしまった諏訪栄三郎が、気の抜けたように露地の奥の自宅へ立ち帰って、ぼんやりと格子戸をあけると!
水茶屋の足を洗って以来、いつもぐるぐる巻きにしかしたことのない髪を、何を思ってかお艶はきょうは粋な銀杏返しに取りあげて、だらしのない横ずわりのまま白い二の腕もあらわに……あわせ鏡。
「だれ? おや! はいるならあとをしめておはいりよ。なんだい。ほこりが吹きこむじゃないか。ちッ。またお金に縁のない顔をさげてさ。ああ、嫌だ、いやだ!」
うらと表の合わせかがみ――この変わりよう果たしてお艶の本心であろうか?
あさくさ田原町の家主喜左衛門と鍛冶屋富五郎との口ききでおさよが鈴川源十郎方へ住みこんだ始めのころは。
五百石のお旗本だが、小普請で登城をしないから馬もなければ馬丁もいない。下女もおさよひとりという始末。
狐でも出そうな淋しいところで家といっては鈴川の屋敷一軒しかない。
それでも御奉公大事につとめていると、丹下左膳、土生仙之助、櫛まきお藤、つづみの与吉をはじめ、多勢の連中が毎夜のように集まって来ては、ある時は何日となく寝泊りをして天下禁制のいたずらがはずむ、車座に勝負を争う――ばくちだ。本所の化物屋敷としてわる御家人旗本のあいだに知られていたのがこの鈴川源十郎の住居であった。
しかしそういう寄り合いがあって忙しい思いをしたあくる朝は、膳部のあとで必ず、
「おい土生、ゆうべは貴公が旗上げだ、いくらかおさよに小遣をやれ」
「よし! 悪銭身につかず。いくらでも取らせる。これ、さよ……と言ったな前へ出ろ」
などと四百くらいの銭をポウンとなげうってくれるので、そのたびにもらった二、三百の銭を……。
おさよの考えでは、こうして臨時にいただいたお鳥目をためたら、半分には極めのお給金よりもこのほうが多かろう。そうすれば、三年のあいだ辛抱したら、娘お艶の男栄三郎がちっと大きな御家人の、……株を買う足しにもなろうというもの……と、先を思って一心に働いていたが、そのうちにふと立ち聞きしたのが食客丹下左膳の身の上と密旨、並びに、夜泣きの大小とやらにからんで栄三郎にまつわる黒い影であった。
が、同藩の仲と知っても、おさよはひとり胸にたたんで、ただそれとなく左膳のようすに眼をつけているとやがて、降ってわいた大変ごとというべきは、むすめのお艶がある夜殿様の源十郎にさらわれて来て奥の納戸へとじこめられた。
それを、親娘と気どられないように、かげにあって守りとおさねばならなかった。おさよの苦心はいかばかりであったろう。
しかるに。
源十郎がお艶を生涯のめかけにほしいと誠心をおもてに表わして言うので、おさよといえども何も慾にからんで鞍替えをしたわけではないが、老いの身のまず考えるのは自分ら母娘ふたりの行く末のことだ。ここらで思いきってお艶と栄三郎を引き離し、お艶は内実は五百石の奥方。じぶんはそのお腹様という栄達に上ろうとさかんに源十郎に代わってお艶をくどいてみたものの、栄三郎に恋いこがれているお艶はなんとすすめても承知しなかった。
手切れのしるしには、栄三郎が生命を的にさがしている乾雲丸を、源十郎の助力によって左膳から奪って与えればいいとまで私かに思案が決まったところ、かんじんのお艶にこっそり逃げられてしまったのだった。
これは櫛まきお藤が源十郎へのはらいせにつれ出したのだが、源十郎はそうとは知らずにその尻をそっくりおさよ婆さんへ持ってきて、今までお艶を幽閉しておいた納戸へこんどはおさよを押しこめ、第一におさよお艶のかかわりあいから聞き出そうと毎日のように折檻した。
その間に栄三郎泰軒の救いの手が、ついそこまで伸びて来て届かなかったのが、この、源十郎の詰問の結果。
はい。じつはわたくしはお艶の母、あれはわたくしの娘でございます。
とおさよの口から一言洩れると源十郎、高だかと会心の哄笑をゆすりあげて、
「いや、そのようなことであろうと思っておった。さてはやはり、いつか話に聞いた娘というのはあのお艶のこと、男の旗本の次男坊は諏訪栄三郎であったか。だが、はっきりそうわかってみれば、思う女の生みの母御なら、この源十郎にとっても義理ある母だ。こりゃ粗略には扱われぬ。知らぬこととは言い条、いままでの非礼の段々平におゆるしありたい」
と、奸智にたけた鈴川源十郎、たちまちおさよを実の母のごとく敬って手をついて詫びぬばかり、ただちに招じて小綺麗な一間をあたえ、今ではおさよ、何不自由なく、かえって源十郎につかえられているありさま。
将を射んと欲せばまず馬を射よ。あるいは曰く、敵は本能寺にありというわけで、源十郎はこのおふくろをちょろまかして、それからおいおいお艶を手に入れようと、今日もこうしておさよに暖かそうな、小袖か何か着せて、さも神妙に日の当たる座敷によもやまのはなし相手をつとめていると――。
「ごめんくださいまし……」
と裏口に案内を求める町人らしい声。
「こんちは……ごめんくださいまし。おさよさんはいませんかね?」
と喜左衛門が大声をあげても、誰も出てくるようすはないから、こんどは鍛冶屋富五郎が引き取っていっそうがなりたてている。
「おさよさアン! おさよ婆あさん! ちッ! いねえのかしら……? じれってえなあ」
と、この声々が奥へつつぬけてくるから、おさよも源十郎のお相手とはいえ、じっとしてはいられない。すぐに裏口へ立って行こうとするのを鈴川源十郎、実の母にでも対するように慇懃にとめて、
「まま、そのままに、そのままに。なに、出入りの商人であろう。拙者が出る」
と懐手、のっそりと台所に来てみると、水口の腰高障子から二つの顔がのぞいている。
あさくさ田原町三丁目の家主喜左衛門と三間町の鍛冶富――おさよの請人がふたりそろってまかり出て来たので源十郎、さては悪い噂でも聞きこんだな、内心もうおもしろくない。
「なんだ? おさよ殿に何か用かな?」
押っかぶせるように仁王立ちのまんまだ。
おさよどの! と殿様の口から! 聞いて胆をつぶした喜左衛門に鍛冶富、すくなからず気味がわるい。
挨拶もそこそこに、源十郎の顔いろをうかがいながら、お屋敷のごつごうさえよろしければ、ちと手前どものほうにわけがあって、一時おさよ婆あさんを引き取りたいと思うから、きょうにでもおさげ願いたく、こうして引請人が頭を並べてお伺いした……と!
源十郎、眉をつりあげて威猛高だ。
「なにィ! ちと理由があっておさよどのをもらいさげに参った? これこれ、喜左衛門に富五郎と申したな」
「へえへえ、鍛冶屋富五郎、かじ富てんで」
「なんでもよい。両人とも前へ出ろ。申し聞かせるすじがある」
言い捨てて源十郎、スタスタ奥へはいっていったから、はて! 何事が始まるのだろう? と二人ともおっかなびっくりでしりごみしているところへ、ただちにとってかえした源十郎を見ると、刀をとりに行ったものであろう左手に長い刀を下緒といっしょに引っつかんで、その面相羅刹のごとく、どうも事態がおだやかでない。
何がなんだかいっこうに合点がいかないものの喜左衛門と鍛冶富は今にも逃げ出しそうだ。
そこへ源十郎の怒声。
「こらッ、もちっと前へ出ろ! 出ろッ! ウヌ! 出ろと申すにッ!」
と与力の鈴源だけあって、声にもっともらしい渋味がこもり、おどしが板についていて、町人づらをふるえあがらすには充分である。
「はい。出ます、出ます。こうでございますか」
ふたりがびくびくもので、一、二寸前へ刻み出たとき、源十郎は、大刀に鍔鳴りを[#「鍔鳴りを」は底本では「鎧鳴りを」]させて叱した。
「何者かが当屋敷に関してよけいなことを申したのを、市井匹夫の浅はかさに真にうけたものであろう。どうじゃ?」
「へ?」
ときき返したが、両人ともよくわからないので、モジモジ黙っていると、源十郎は続けて、
「おさよ殿を従前どおりおれの手もとにおいたとて、貴様らに迷惑の相かかるようなことはいたさぬ。源十郎、不肖なりといえども、年長者の敬すべきは存じておる。いま貴様らに見せるものがあるから庭先へまわれッ!」
ホッとして喜左衛門と富五郎、うら口を離れてひだりを見ると、中庭へ通ずる折り戸がある。それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、沓脱のまえにうずくまると、
「両人! 面をあげい! おさよ殿じゃ」
という源十郎の声に、おさよがあとをとって、
「おや。喜左衛門さんに富五郎どんかえ。ひさしく御無沙汰をしましたが、おふたりともいつもお達者で何よりですねえ、はい……」
はてな! と顔をあげてよく見ると、奉公にあがったはずのおさよ婆さんが、これはまたなんとしたことか、殿様の御母堂然と上品ぶって、ふっくらとしたしとねの上から淑やかに見おろしている。
眼どおり許す――といわんばかり。
プッ! と吹きだしそうになるのを、喜左衛門と鍛冶富、互いにそっと肘で小突きあってこらえているうちに、かたわらの源十郎が威儀をただして、しんみりとこんなことを言い出した。
「他人の空似とはよく申したものでおさよ殿は、死なれた拙者の母御に生き写し……よく瓜を二つに割ったようなというが、これはまた割らんでそのまま並べたも同然――なあ、孝行のしたい時分には親はなし、さればとて石に蒲団も着せられず……こうしておさよどのを眺めていても、源十郎、おなつかしさにどうやら眼のうらがあつくなるようだ」
と源十郎、芝居めかして、しきりに眼ばたきをしている。
煙にまかれて、喜左衛門と鍛冶富は、ぽかんとしたまま帰ってゆく。
「驚きましたね、喜左衛門どん」
「いや、おどろいたね、富さん」
「一体全体どうしたんでごわしょう? へっへ、まるで女隠居。ふたりとも壮健にて祝着至極……なァんかんと来た時にあ、テヘヘ、あっしぁ眼がくらくらッとしたね、じっさい」
「まあさ、殿様のおっしゃることにぁ、おさよさんが死んだ母御によく似ているから、ほんとの母と思って孝行をつくしている――てんだがわしぁどうも気のせいか、ちっとべえ臭えと思う」
「くせえ? とは何がさ?」
「なにか底にからくりがあるんじゃあねえかと――いや、これあ取り越し苦労だろうが、富さんの前だが年寄りはいつも先の先まで見えるような心もちして、心配が絶えませんよ。損な役さね」
「だけど、おさよ婆さんにしたところで、ほかにちゃあんとした因縁がなくちゃあ、死んだ殿様のお袋に似てるぐれえなことで、ああいい気に奉られている道理はねえ。ここはなるほど、喜左衛門どんのいうとおり、何か曰くがあるのかも知れねえ」
「殿様ってお方がまともじゃねえからね」
「くわせものでさあね。あの侍は」
ヒソヒソささやきながら屋敷を出て、法恩寺橋の通りへかかろうとすると、片側は鈴川の塀、それに向かって一面の畑。
頃しも冬の最中だから眼にはいる青い物の影もなく、見渡すかぎりの土のうねり……ところどころの積み藁に水底のような冷えた陽がうっすらと照った。立ちぐされの案山子に烏が群れさわいでいるけしき――蕭条として襟寒い。
はるかむこうに草葺き屋根の百姓家が一軒二軒……。
どこかで人を呼んでいる声がする。
風。
「オオ寒!」
思わず二人いっしょに口にだして、喜左衛門と鍛冶富、小走りに足を早めようとすると! 畑のまえの路ばたに道祖神の石がある。
そのかげから、突如、躍り出た二、三人の人! はッとして見ると鎖入りの鉢巻に白木綿の手襷、足ごしらえも厳重な捕物の役人ではないか。
それがばらばらッととりまいて中のひとり、
「お前たちは今そこの鈴川の屋敷から出て参ったな?」
と詰めよられて、おどろきあわてつつも、口きき大家と言われるだけあって、喜左衛門はすぐに平静に返ってはっきりと応対する。
「はい、わたくしは浅草田原町三丁目の家主喜左衛門と申す者、またこれなるは三間町の鍛冶屋富五郎といいまして、この鈴川様のお屋敷へ下女をお世話申しあげましたについて――」
「どうもあんまりお屋敷の評判がよくねえから」と鍛冶富も口を添え、「きょう貰いさげにでましたところが、その婆あさんがこう高え所にかまえて、おお両人とも壮健にて重畳重畳……」
「これ、何を申す!」
叱りつけておいて、役人達は二こと三こと相談したのち、
「いや、ほかでもないが、ただいま、浅草橋の番所へ女手の書状を投げこんだ者があって、その文面によると、ひさしくお上において御探索中であったかの逆袈裟がけ辻斬りの下手人が当屋敷に潜伏いたしおるとのことであるが、お前ら屋敷内にさよう胡乱な者をみとめはしなかったか」
いいえ!――とふたりが力をこめて首を振ると、べつに引きとめておくほどのものどもでもないとみてか、
「よし、いけ、足をとめて気の毒だったな」
と許された喜左衛門と富五郎、にげるように先を争って駈け出したが……。
こわいもの見たさに。
塀の曲り角からのぞいてみると、
同じしたくのお捕り役が二、三人ずつ、もうぐるりと手がまわったらしく、屋敷をめぐって樹のかげ、地物の凹みにぴったりと伏さっている――その数およそ二、三十人。
「えらいことになったな」
「だから先刻、婆あさんの手でも取ってしゃにむに引っぱり出せあよかった」
いいながらなおもうかがっていると、捕り手はパッと片手をかざしあって合図をした。と見るや、ツウと地をはうようにたちまち正門裏門をさして寄ってゆく。
が、喜左衛門、富五郎をはじめ、役人のうち誰も、さきほどから、鈴川方の塀の上に張り出ている欅の大木の梢、その枝のしげみに、毒蛇のような一眼がきらめいて、その始終を見おろしていたことを知らなかった。
明るい陽をうけた障子に、チチと鳥影が動くのを、源十郎はしばらくボンヤリと眺めていた。
うすら寒い静寂である。
おさよのおさまりように胆をつぶし、狐につままれたような心持で、家主喜左衛門と鍛冶富が帰っていったあとの、化物屋敷の奥の一間。
源十郎は、何か物思いに沈みながら、体についたごみの一つ一つをつかんでいると、おさよの茶をすする音が、その瞬間の部屋を占めた。
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは愚痴じゃが、いま考えても、あとの祭りだ。そこでなあ、おさよどの、亡母によく似ている年とったそこもとをよく労って進ぜたなら、草葉のかげで母もさぞかし喜ぶであろうとこう思うによって、これからはそこもとを実の母同様に扱うから、そちも、何か拙者に眼にあまることがあったら違慮なく叱言をいってもらいたい」
口巧者な源十郎、一気にこれだけしゃべって、チラリとおさよの顔を盗み見ると、おさよは今までにも、すっかり食わされているから、この源十郎の深謀を知る由もなく、もうすっかりその母親、五百石の女隠居になった気で、この時もせいぜい淑やかに軽く頭をさげただけだ。
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、有頂天に近い挨拶である。
第一段のはかりごと。
わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、委細承ったが、養子というものは、いわばまあ、富くじみたよう――当たらぬことには、これほどつまらぬ話はない。近い例が、その御身じゃ。年をとって、こうして下女奉公をするのも、いってみればお艶どのの男が甲斐性のない証拠。な、おさよどのそうではござらぬかな」
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの側女にくれる気はないかな」と、のぞきこむように、下から見あげて、源十郎、あわててつけ加えた。「いや、側女と申したとてそれは表面、内実は五百石の奥方、そこもとはとりもなおさず、そのお腹さま――いかがのものであろうな?」
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、諏訪栄三郎と申しますものが」
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を勘当されている身でございますから、この際、離縁をとりますには、いくらかねえ……でないと、お話が届きますまいと存じますよ」
源十郎はぐっと反身になって、
「手切れ金か、いやもっとも。話は早いがいい。どのくらいで諏訪氏その離縁状を出すだろうの?」
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみの与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された金子のことを思いうかべて、源十郎は含み笑いを殺しながら、
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて才覚いたす。それはよいが、掛け合いには誰が参る?」
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
と、源十郎が、ぴょこりと辞儀をしたその耳もとへ、おさよはすばやく口を持っていって、
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その咽喉仏が上下に動き終わった時、鈴川源十郎、思わずアッと驚愕した――とたんに!
ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
御用ッ!
御用ッ! 御用ッ!
と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の大小だが、左剣手だけに右腰にぐっと落とし差しのまま、かた手を使ってその上から器用に帯を結びなおしているところ。
縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
山雨まさに到らんとして、風楼に満つ。
左膳は、
何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏の白襷を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
地をなでて近づく御用の風。
さてはッ! 逆袈裟がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠めたのは、そも何者が訴人をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑とふしぎ感だったが、そんな穿鑿よりも刻下は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途はないから、左手に老幹を抱いて庭にずり落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
刀痕の深い左膳の蒼顔、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
と!
背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
と空をきって飛来した手練の鉤縄、生あるもののように競い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
同時に。
はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨の一片が、転々と地をはった。脳漿草に散って、まるで髻をつけたお椀を抛り出しでもしたよう――。
サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
一声呻いたのが気合い、転じてその深胴へザクッ! と刃を入れた。
――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃した十手の主へ、あっというまに諸手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場に武技入神の域を展開しはじめた。
が、寄せ手の数は多い。
蟻群の甘きにつくがごとく、投網の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰るかと見れば浮き立ち、退くと思わせてつけ入り……朱総紫総を季ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出の道を求めているのだ。
暮れをいそぐ冬の陽脚。
そして、夕月。
樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
刃火のほのおと燃えて天に冲するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。
上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏を全うすべきか?
この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
西から東へ、一刷け引いた帯のような夕焼けの雲の下に。
その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし奮迅のはたらきを示している。
「汝等ア! 来いッ! かたまって来い! ちくしょう……ッ!」
築山の中腹に血達磨のごとき姿をさらして、左膳は、左剣を大上段に火を吹くような隻眼で左右を睥睨した。
迫る暮色。
暗くなっては敵を逸する懼れがあるので、一時も早く絡め捕ってしまおうと、御用の勢は、各自手慣れの十手を円形につき突けて――さて、駈けあがろうとはあせるものの、高処の左剣、いつどこに墜落しようも知れぬとあって、いずれも二の足、三の足を踏むばかり……この間に、石火の剣闘にみだれかけた左膳の呼吸も平常に復して、肩もしずかに、ぴったりと不動のかまえに入っている――。
と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、半弧のうしろから大声に叱呼した。
「やいッ! 丹下左膳とやら。旧冬来お膝下を騒がせおった辻斬りの下手人がなんじであることは、もはやお上においては百も承知であるぞッ! これ、なんじも剣の妙手ならば、すみやかに機をさとり、その遁れられぬを観じて神妙にお縄をちょうだいしたらどうだッ! この期におよんで無益の腕立ては、なんじの罪科を重らすのみだぞッ!」
あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
捕役はなおも高びしゃに、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの相識……意外に近い者から出おったのだ」
左膳の一眼が残忍な光を増した。
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
が、役人は左膳の言葉の終わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめきの切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が哀願の声を振り絞っているのがかすかに聞こえた。
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで不浄縄にかかれるかッ? よ! 一言! よう! 名を言え、訴人の名を言えよ名をウ――!」
が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる気色もいとまもない。雨と降り、風と吹きまくる御用十手の暴風雨のなかから、この時ふと左膳の眼についたのは、縁に立つて茫然自失の態で、この自分の難を眺めている鈴川源十郎のすがたであった。
見るより左膳、たちまち脳裏にひらめいたものあるごとく、
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり――ズン! 薙伏せたかと思うと、怨恨と復讐にきらめく一眼を源十郎の上に走らせ、長駆、地を踏みきって、むらがる十手の中を縁へ向かって疾駆し来った。
とたんに。
ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。
本所化物屋敷の荒れ庭に、血沫をあげて逆巻く十手の浪と左手の剣風……。
奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を俟たなくても自在に奔駆した。
そうして。
ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる捕吏を突破し、長駆一躍して、縁の源十郎へ殺到した刹那に!
突! 薄暮紺色の大気をついて一発炸然と鳴りひびいたふところ鉄砲の音であった。
やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
南蛮渡来の短筒を擬した白い右手をまっすぐに伸ばして、その袖口を左手でおさえた女の立ち姿が、そろりそろりと庭の立ち木のあいだを近づいて来ていた。
思いがけなくも櫛まきお藤である!
それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を小楯に、ずらりと並ぶ捕役の列に砲口を向けまわして、
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」
と叫ぶ甲高い声を聞いて、左膳は、何はともあれ脱出するのが目下の急務だから、依然縁さきに佇立する源十郎をしりめにかけて、
「やいッ、鈴源! おれあ手前に咬まれようたあ思わなかったぞ!」
源十郎は冷然と、
「ばかを申せ! 拙者が貴公を訴人したなどとは、徹頭徹尾貴様の誤解だ! 邪推じゃ!」
「だまれッ! いずれ探ればわかること。早晩この返報はするからそう思え」
「そうとも! いずれ探れば分明することだ――それより丹下、いまは一刻も早くこの場を……!」
「何をお利益ごかしに! おおきにお世話だッ!」
左膳と源十郎、こうして短い会話をとりかわしながらも、
「お前さんたち、動くと撃つよ!……この異人の玩具は気が早くてねえ、ほほほ」
と突きつけるお藤の短筒に、捕吏の陣が、瞬間、気を抜かれてぽかんとしていると、左膳、一眼を皮肉に笑わせて、すばやくお藤のうしろにまわったが……。
ポン! ポン! と裾を払い、衣紋をなおしたかと思うと、べったり返り血に彩られたまま、やがて、さがりそめた夜のとばりに紛れて、ぶらりと裏門を出ていった。乾雲ではない別の大刀を、何事もなかったように落としざして。
と、ただちに。
お藤も、懐中鉄砲の先で、役人のまえに円をえがきながら、にっこと縁の源十郎に意味ふかい蒼白の笑みを投げておいて、あとずさりに木の間を縫って四、五間遠のくや、いなや、パッ! と身を躍らして左膳のあとを追った。
みるみる去りゆく剣魔と女怪の二つの影。
それッ! と激しい下知がくだって、捕吏の一団が小突きあいつつふたりの足跡を踏んだ時は、すでに塀のそとには人かげらしいものもなく、道路をはさむ畑に薄夜の靄気がこめて、はるかの伏屋に夕餉のけむりが白く長くたなびくばかり――法恩寺橋のたもとに、宿なし犬が一匹、淡い宵月の面を望んで吠え立てていた。
……櫛まきお藤、そも左膳を助けだしてどこへ伴おうというのであろうか。
そしてまた、あとに残った源十郎は?
否! それよりもかのおさよはどこに――?
たとえ乾坤二刀、夜泣きの刀のいきさつはなくとも、昨秋あけぼのの里の試合に勝って、当然じぶんのものと信じている弥生のこころが、当の剣敵諏訪栄三郎に傾きつくしていると知っては、丹下左膳の心中はなはだ穏かならぬものがあったことは言うまでもない。
故に。
栄三郎に対する左膳の気もちは、つるぎに絡む恋のうらみが多分に含まれていたのだが……。
それはさておき。
主君相馬大膳亮殿の秘旨を帯びる左膳としては、ここにどう考えてもふしぎでならない一事があった。ほかでもない。それは、かの、栄三郎と泰軒が鈴川の屋敷に斬りこみをかけて、細雨に更ける一夜を乱戟に明かし、ようやく暁におよばんとしたとき、まぼろしのごとく現われて、自分等のみならず栄三郎とも刃を合わせたのち、ほどなく東雲の巷に紛れさった五梃駕籠……火事装束の武士たちの正体、ならびにそのこころざしであった。
かれらもまた乾坤二口をひとつにせんがため! であることはあの時、交戦の隙に首領らしい老人が宣示したところによって明らかであるが、それが、怪しきことこのうえなしと言うべきは。
そもそも……。
左膳の密命に端を発して、はからずも、過般来栄三郎と左膳の間に一大争奪戦が開始されていることは、局にあたる両者と、それをとりまく少数のもの以外、そして、世動運行をあやつる宿命の神のほかは、他に識る者もないはずなのに!
それだのに!
火事装束の五人組は、最初からすべてを見守っていたもののように、雲竜一庭に会して二つ巴をえがいているその期をねらって、ああして忽然と現場に割りこんで来たのであった。
剣の立つ逞しい侍が五人一隊をなして、左膳からは乾雲丸を、栄三郎からは坤竜丸を取りあげんものと、虎視眈々と暗中に策動しつつあるに相違ないのだ。
と仮りにきめたところで。
さて、雲と竜との相ひく二剣を一所におさめ得たとしても、五人組はそれをいったいどうしようというのだろう?
だが、こうなるとまた疑点はあとへ戻って、この一団の目的を推測するためには、何よりもまず彼奴らの本体を知らねばならぬ。
何者?
あるいは何者の手先!
……と、いくら坐して首をひねったとて、左膳に見当のつきようはなかったが、いままでも栄三郎の太刀風なかなかに鋭く、かつ真剣の修羅場を経てその上達もことのほか早く、おまけに蒲生泰軒という鬼に金棒までついているので、左膳の乾雲、そうそうたやすくは栄三郎の坤竜を呼ぶことあたわずそのうえに、助力の約をむすんである鈴川源十郎なるものが、平素の性行から観て今後頼みにならないことおびただしい――そこへ、疾風のように出現したのがあの五人組の怪士連だ。
そこで左膳も、しばしば刀を措いて熟考せねばならぬこととなって、これはかの斬りこみ直後のある日だったが、隻腕につるぎを扼するほかあまり頭の内部を働かしたことのない左膳、すっかり困惑しきって、ちょうどその草廬に腰をおろして駄弁をろうしていたつづみの与吉へ、
「なあおい、与の公」
「へえ。さようで」
「ウフッ! 何がさようだ? まだ、なにも申さぬではないか」
「あッそうだった。けれど殿様、あのこってげしょう……例の、ほら、火消し仕度のお侍さ。ねえ! 金的だ。当たりやしたろうこいつア――」
「うむ! いかさま的中いたした。貴様、読心の術を心得おると見えるな」
「へっへ。御冗談。そんなシチ難しいこたあ知りませんがね。どうしたもんでごわしょう、この件は」
「サ、それだ。どうしたものであろうな」
と相談しあっているうちに、打てばひびく、たたけば応ずる鼓の異名をとっているだけに、いささか小才のきく与吉、どう捏ねまわして何を思いついたものか、二こと三ことささやくと、左膳はたちまち与吉の進言をいれて、隻眼によろこびの色をうかべながら会心の小膝を打った。
いずれ事成ったのちに相応の賞を与えようと誓ったのであろうが、ふたりはなおも密談数刻ののち、とうとう議一つに決してただちに実行に着手したのだった。
これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
で、そのつづみの与の公一代の悪智恵というのは、こうである。
さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を執って、あの、栄三郎に宛てた一札を認めたのだった。
その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも仇敵同士に別れてねらいあう意味のないこと。
のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙霧消、従来のことはすっぱりと忘れて改めてこの左膳を味方にお加えくださる気はござらぬか。
――という欺誑と譎詐に満ちた休戦状でありまた誠に虫のいい盟約の申し込みでもあった。
さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
さ、その間にどうする?
という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
今は、坤竜を佩する栄三郎と、その助太刀泰軒ばかりではなく、じつに得体の知れない火事装束の五人組というものを向うへまわさなければならないので、いかに至妙の剣手とはいえ、丹下左膳ひとりではおぼつかない。あまつさえ身を寄せる家のあるじ、鈴川源十郎は、老下女おさよにとりいってお艶、栄三郎を離間しようとのみ腐心し、決然剣を取って左膳に組し、栄三郎を亡き者にしようという当初の意気ごみをしだいに減じつつあるこんにち。
なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
源十郎にとっては恋のかたき……。
ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに手挟んで郷藩中村へ逐電しようと考えていた左膳の見こみに反して、坤竜栄三郎は思ったより強豪、そこへ泰軒という快侠の出現、いままた五人組の登場と、こう予期しないじゃまに続出されてみれば源十郎が左膳と別の戦法を用いだすにつれて、広い江戸中に孤立無援の丹下左膳、がらになくいささか心細くなって暗々然と隻腕に乾雲を撫さざるを得なかった。
鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の慾炎――厳命にあることだから、ここはどうしても故里おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒を踏み潰し、一気に坤竜を入手せねばならない!
こう事況が逼迫したうえは、早いが勝ち。
一日遅れれば一にち損!
瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの上分別、このさい一番の思いつきでございます……とあって、左膳は、成功後の賞美を約して密々のうちに、つづみの与吉を奥州中村へ潜行させることになった。
だから……。
乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
あとはもう占めたもの!
が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を真に受けてじっと[#「じっと」は底本では「じって」]していてくれればよいが……と、なかば危ぶみ半ば祈りながら、左膳が件の書状を与吉に渡すと――。
すべては己が方寸から出たことで委細承知したつづみの兄哥。
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっしが引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして発足いたしますから」
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、噛んで含めるように使いのおもむきを繰り返したうえ、「な、こういう次第だからとよく申して、同勢をすぐり、貴様には気の毒だが、その夜にでも彼地をたって江戸へ急行してもらいたい。礼は後日のぞみ放題にとらせる」
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
と、ここに話し成って、まもなく与吉は自宅へ帰ってしたくにかかると同時に!
夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……真にこっそりと、夜泣きの刀の大、乾雲丸を、鈴川庭内の片隅に土を掘って埋めたのだが――。
たれ識らぬと思いきや!
ここにひとり、この左膳の乾雲埋没をひそかに目睹していたものがあった。
あれから数日。
さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみの与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
とにかく今日まで、離庵の丹下左膳のうえに、なんとなく心もとない起居が続いていたのだった。
左膳のために求援の秘使にたったつづみの与吉。
さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
掏摸とまちがわれて追っかけられ、ようよう櫛まきお藤の家へ飛びこんでほっと安心――するまもなくその旅装から左膳との謀計を疑われて、お藤の嬌媚で骨抜きの捕虜にされてしまった形。
色っぽい眸ひとつにぐにゃりと降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく天機のうちに存するとして。
また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
ただ、お藤である。
彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
あのように嫌いぬかれて、なおもこころ私かに男を思うなどということは、お藤の性でも、またそんなしおらしい年齢でもなく、頭からできない芸当であった。
ばかりでなく。
じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め折檻された覚えもあり、なんとかして一矢左膳に報いる機会を待っていたお藤だった。
手に入らぬものなら壊してしまえ!
どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を呪って、いっそあの人の何もかもをめちゃくちゃにしてやれ!
こう決心した妬婦お藤、与吉をちょろまかして足をとめておくが早いか自らはスルリと抜けて、辻斬りの下手人浪人丹下左膳の所在を訴状にしてポン! と浅草橋詰の自身番へほうりこんだ。文字は女手だが訴人のところへ鈴川源十郎と大書して。
これに緒を発したあのお手入れ……御用騒ぎがあったが!
本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
丹下様へお縄を!
それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
何しに?
おのが陥れた穽から左膳を引きあげるために!
魔女の辛辣と江戸っ児の殉情を兼ね備えている櫛まきの姐御には相違ないが、どっちもお藤本然の相とすれば、売ったあとから捕り手のかかとを踏んでスタコラ救助に出かけるなどは、ずいぶん御念の入ったあわてようだったと言わなければならない。
しかし、矛盾――ではなかった。
なぜ……? と言えば。
これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を被せることになって、あとでよく心づくしを見せたり話したりしたなら、いかな丹下さまでも、今度はふっつり弥生のまぼろしを追い払って、こっちの実にほだされるかも知れない。いや、そうなるにきまっている。
しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも割いて早晩一度は、左膳の剣に源十郎の血を塗ることもできようというもの――橋わたしの約束にそむいて、わがことしか考えない、憎い源十郎の殿様!
恩だ!
恩だ!
恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
いよいよ痛切に左膳に対する己が恋慕をたかめたお藤は、恩! 恩! おん、おん! と拍子をとるように心いっぱい、胸のはりさけるほど無言の絶叫をつづけながら足を宙に左膳の危難に駈けつけて短銃一挺の放れわざ。あわやというところで丹下左膳を助け出し、そして!
どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
あそこ――お藤のほか誰も人の知らない彼地へ!
本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と光刃がよどんでいる最中……。
櫛まきお藤が忽然と姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳を庇ってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
うす靄のような暮気があたりを包んで、押上、柳島の空に夕映の余光がたゆたっていたのも束のま、まず平河山法恩寺をはじめとして近くに真成、大法、霊山、本法、永隆、本仏など寺が多い、それらの鐘楼で撞木をふる音が、かわたれの一刻を長く尾をひいて天と地のあいだに消えてゆく。
暮れ六つ。
鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ椎の老樹の下にこわれかかった折り戸と並んで、ささやかな物置小屋が一つ、古薪木や柴に埋もれて忘れられたように建っている。
かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、緑面の女夜叉と化したあの場所だが。
今は。
這いよる宵やみのなかに剣打のひびき阿の声が奥庭から流れてくるばかり――座敷まえの芝生には、お捕方を相手に左膳が隻腕一刀の乱劇を演じていることであろうが、うらに面したここらは人影もなく、ただ空低く風が渡るかして、椎の梢が、思い出したようにうなりながら、寒天にちりばめた星くずをなでているだけだった。
もの淋しい夕景色。
と! この時。
物の怪にでも憑かれたように、フラフラとこの庭隅に立ち現われた一つの黒法師がある。
しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の剣闘が始まったので、こっそり部屋を脱けて出たおさよ婆さんであった。
手に、物置から取りだした鍬を握っている。
夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
おさよは瞬時もためらわずに、やにわに鍬を振りあげて、小屋のかげ、椎の根元を掘りはじめたが――。
ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに掬い出される。
薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の寂寞を破るたびに、穴はだんだんと大きくなっていって。
はッ! はッ! と肩で呼吸づく老婆おさよ、人眼を偸んでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
それは――。
過般、ある夜。
老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと不浄に起きて、見るともなしに、小窓から戸外の闇黒をのぞくと、はなれに眠っているはずの丹下左膳、今ちょうどそこを掘りさげて、襤褸と油紙に幾重にも包んだ細長い物を埋めようとしているところだった。
深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして隠匿して、かの五人組の火事装束に奪い去られたと称し、栄三郎をはじめ屋敷内の者をさえ偽ろうという極密の計であったが、始終を見とどけたおさよは、さっきのことを源十郎に話したとおり、今の混雑を利用して刀を掘り出し、お艶に別れる手切れの一部として、さっそく栄三郎へ渡そうと思っているのだ。
老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
土が飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
離別以来幾旬日、坤竜を慕って孤愁に哭き、人血に飽いてきた夜泣きの刀の片割れ――人をして悲劇に趨らせ、邪望をそそってやまない乾雲丸が、ここにはじめて丹下左膳の手を離れたのだ。
……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
暗中にぱっぱッと音がしたのは包みの土を払ったのだ。
宵闇にふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
今にも同心でも引き返して来て自分に対しても審べがあるだろう。ことによると、奉行所へ出頭方を命ぜられるかも知れないが、それには一応、小普請支配がしら青山備前守様のほうへ話をつけて、手続きをふまねばならぬから、まず今夜は大丈夫。そのあいだに、ゆっくり弁口を練っておけば、ここを言い抜けるぐらいのことはなんでもあるまい――と源十郎、たかをくくって、いまの役人の帰ってくるのを待ってみたが、追っ手は早くも法恩寺橋を渡って、横川の河岸に散っていったらしく、つめたい気をはらむ風が鬢をなでて、つい、いまし方まで剣渦戟潮にゆだねられていた、庭面には、かつぎさられた御用の負傷者の血であろう、赤黒いものが、点々と草の根を染めていた。
とっぷりと暮れた夜のいろ。
源十郎はいつまでも動かなかった。
丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸に感じて慄然とした――物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然と思いうかべたのだ。が、彼は、たそがれの空を仰いでニッと笑った。
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
ふうむ! お藤か……。
味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
と、はてしもなく興に乗じていたが。
やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔が刻のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪になったとみえる。
源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
雪が、頬を打って消える。
椎の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面に、はたといきづまっていたのだった。
五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
煩悩は人を外道に駆る。
ひとつ――殺るかな……。
と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生仙之助の鼻唄が聞こえていた。
江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。
「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎さげに栄三郎を見やった。
不貞腐れの横すわり――
紅味を帯びたすべっこい踵が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
どんよりと曇った冬の日だ。
いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲りのねえ野郎だよ。父にそっくりだッ!」
つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛膏が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
間。
お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女風情がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯がいただけて、それできょう日がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘を含ませて部屋じゅうを睨めまわした。
なんと変わり果てたお艶であろう。
あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更え着がはげちょろけの紅裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯がふてぶてしいとぐろを巻いているという態たらく。
まるで宿場女郎をぬいてきて嬶ア大明神にすえたよう――。
そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落にかわったお艶であった。
こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機を思い惑うよりも、もうかれは、日常の瑣事に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角をたててしまうのだった。
そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁と沢庵のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
これから起こったことだった。
栄三郎は、横を向いてほかのことに紛らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
お艶の声は、底にいまも噴き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
ジロリと白い一瞥を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子にも衣装髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち合って、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな装じゃあ――」とお艶は、自分の着ている継ぎはぎだらけの黄八丈の袖をトンと引っ張って、「恥ずかしくってお豆腐一つ買いに出られやしない。あたし、呉服屋のまえを通るときなんか、眼をおさえて駈けるんですよ」
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ搗けるじゃなし、持ってきた物さえ片っぱしからお蔵へ運んで、ヘン、たまるのは質札ばかりだ――ごらんなさいッ! もうその質ぐさもないじゃありませんか」
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ恥辱――ふん! お武士さんは違ったもんですよウ、だ!」
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が嫌になったらいやになったと、何ごともはっきり申したらよいではないか」
ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
とのぞきこんだとき、ホホホホ! と蓮葉な嬌笑とともに、栄三郎を振り払ったお艶、こともなげに軽くいい放った。
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき流行りませんよ」
夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら弊履を棄てよとすすめるに等しい口ぶりだ。
この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を控えて分別ある士、そうやすやすと憤激の情をおもてにあらわしはしなかった。しかし、わざとしずかにきりだした低声は、彼の自制を裏ぎって微かにふるえていた。
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を賭して乾雲を求めておることはそちも以前からよく知っているはず。言わば承知のうえで、拙者と……このようなことになったのではないか……」
「ええ――それはわかっております」
襟もとに顎をうずめて、お艶は上眼づかいに栄三郎を見た。
沈黙におちると、鉄瓶の湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
お向うの庇ごしに、申しわけのような曇りめの陽が射しこんで、赤茶けた破れだたみをぼんやり照らしている。
朝寒の満潮のような遣瀬ない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに甲高に、堰を落とすようにしゃべりだした。
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで両天秤で、どっちか一つがおろそかになるのはきまりきってるじゃアありませんか」
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきりと話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽんほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
栄三郎は聞かぬ態――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。
「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触れ、拙者に楯を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはしたない言葉から醜いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪の別、恩愛義理をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳つい大小をさらりと捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱりした縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれがお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだしに使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の当主弥生殿の前にそろえて出すのは、弥生どの……というよりも、左膳の刃におたおれになった鉄斎先生への何よりの供養――義理だ、つとめじゃ! 人間としての男としての……」
「あウあア!――おや、ごめんなさい。あくびなんかして」
「チッ! 拙者の心底は百も千も知っておるくせに、何かにつけ言いがかりをつけおって……女子と小人は養い難し。見さげはてた奴めがッ!」
「よしてくださいッ! もうあきあき!」
「なに? なんだと?」
「そんな御託宣はたくさんでございますよ。耳にたこができております」
「またかかることは、拙者の口から申したくはないが、拙者が亡師の意にそむき弥生どのに嘆きをかけて今また鳥越の兄者人を怒らせて、かような陋巷に身をおとしおるのも……」
「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる下卑た言いぐさ! うん、なんたる低劣な……」
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の懸値のないところ。地金をごらんなすったら、愛想もこそも尽きましたろうねえ」
「よくも……」
「なんですよ。そんな張り子の虎みたいに――みっともないじゃアありませんか」
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」
「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にまかせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は惨涙を宿して早くもうるんでいた。
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が執心のことは、拙者も以前から承知しておったが、拙者の妻たる貴様が、かれごときに幾分なりとも心を許そうとは、お、おれは、今のいままで夢にも思わなかったぞッ!」
「――」
白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が懸想いたしおることを良人の拙者のまえをもはばからず鼻高々と誇りがましきいまのことば……お艶ッ! 貴様、なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――」
嫉火と情炎にもつれる栄三郎の舌、その切々たる声を耳にして、お艶は半ばうっとりとされるがままに畳に片面を当てて小突かれていたが……。
大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い睫毛を濡らしながら、見るみる頬を伝わって陽にやけたたたみの表へ吸われていった。一すじ白い光のあとを引いて。
と、その時。
貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と語尾をにごした栄三郎の言を聞くと!
しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が赤裸々の貴様なら、源十郎はおろか、だれとねんごろになろうとも栄三郎はすこしも驚かぬぞッ! ナ、なんたる……ウヌッ! なんたる淫婦――!」
「ま、待ってくださいッ!」
「姦婦! 妖婦! 毒婦!」
熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰のようにお艶のうえにくだった。
愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫でるがごとくであった。
弾き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭にかかっていた。
と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
ウウウム――!
と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
が!
峰打ちだった。
と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然とお艶を見おろしていた。
その眼……!
おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
暫時の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
破裂を包んだ低声。
見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
ワッ! とお艶はそこへ哭き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐かしおる」
栄三郎はすでに平静にかえっていた。
大刀武蔵太郎安国のこじりに帯をさぐって、坤竜と脇差と番にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
片手に浪人笠。
履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板を踏んでゆく栄三郎の跫音がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
もしや風邪でも召されては!
と思うとお艶、装ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。
羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいんと胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみりとひとりごとをはじめた。
ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓のあきますことやら……所詮わたし故にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
つっぷしたお艶、羽織を揉みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭することができたのだった。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。まわりまわりの小仏さん
出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
父は早く禄を離れて江戸の陋巷にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一図に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
何刻かたった。
お艶はじっと動かない。
眠っているのだ。
泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻一つでも掛けてやろうものを。
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
隣では子供が遊戯にふけっている。まわりまわりの小仏さん
と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、御無沙汰、御無沙汰!」
びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。
その夜。
どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
かじかんだ手で火打ちを擦る。
ポウッと薄黄色の灯心の光が闇黒ににじんで、珍しく取り片づいた部屋のありさまが栄三郎の眼にうつった。
お艶はいない。
二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い色彩を失って、雪夜ひとしおの寒さが栄三郎の骨にしみる。
が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
何もない。
もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
正座して坤竜丸を取りあげた。
平糸巻きの鞘――上り竜を彫った赤銅のつか。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
呪文のように言ったかと思うと、ふうっと長く息を吹いた。
自暴酒でもあるまいが、若い栄三郎、どこでのんだかすこし酔っている。
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
愁灯のもと、強い決意に眼を輝かせて、栄三郎はしずかに坤竜の柄をなでた。
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
悵然と腕をこまねいていたが、突如、畳を蹴って躍りたつと、手にはもう明皓々たる武蔵太郎の鞘を走らせて。
刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた己が影ばかり……いとしい女に去られて気がふれたか諏訪栄三郎、あらず! こみあげて来たとっさの闘意をもてあまして、かれはその場に左膳を仮想し、ひとり刀を擬しているのだ。
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、不肖栄三郎といえどもかかるそらごとは真に受けぬぞ! 小策を弄す奸物めッ! いずれそのうち参上してつるぎにかけて申し受くるからさよう心得ろ――はっはははは」
からからと笑いながら刀身を鞘へ……
が! この時!
この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
だれ? と見なおすまでもない。
夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
急の剣閃におどろいて一時戸を離れたのが、相手なしの見得と知ると、またコッソリ水口に帰ってきて、呼吸を殺して隙見している。
しんしんと音もなく積もる雪。
江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
この降雪に、どこにいることか――当り矢のころからのことが走馬灯のように一瞬、栄三郎の脳裡をかすめる。
きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い熟睡に。
深更。
ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。
「栄三郎様……栄三郎さん!」
忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
が、
「栄三郎様!」
という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
まんじ巴と闇夜におどる六つの花びらだ。
その風にあおられて、白い被衣をかぶったと見える女の立ち姿が……。
雪女郎?
――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を漏れる光線のなかへはいってきた。
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも出来しましたか」
「オオ寒!」とおさよは雪をふるい落として、「まあ入れてくださいましよ。お艶が何をいたしたか存じませんが、わたしのほうにもあれのことで折り入ってお話がございましてねえ……それはそうとおさよはいいお土産を持って参りましたよ。どんなにあなたがお喜びになることか。ほほほほ、でかしたと! ほめてやって下さいまし」
ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく水鶏についだまされて……の形で、思わず苦笑を浮かべながら、
「さあ、おあがりください」
と、自ら先に立ったが――
これよりさき!
栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
しんにとっさの出来事。
ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の跫音がかすかにうらにひびいた。栄三郎はさよを招じあげながら、何事も気づかずに大声に話していた。
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「降りますねえ。いえ、この御土産から……」
おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
栄三郎はこうしんみり言って、戸外の雪を聴くように静かに耳をすましながら、おさよの手もとに見入った。
ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。
ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ片がとけてゆくうちに、いつしか堅く唾をのみながら、じっとおさよの手もとをみつめていた栄三郎の眼に、一閃チラリと映ったのは!
平糸まきの鞘の一部! つづいて陣太刀作り赤銅の柄!
いわずと知れた夜泣きの刀乾雲丸とみてとるや、栄三郎、一声のどのつまったような叫びをあげて、狂者のごとくおさよを突きのけ、残りの包みに手をかけてバリバリバリッ! と破るより早く、なかの乾雲を取りあげて血走った眼を犇! と注いだ。
いつ見ても戦国の霜魄鬱勃たる関の孫六の鍛刀……。
「ううむ――」
思わずうなった栄三郎、ハッタとかたわらのおさよを睨[#ルビの「ね」は底本では「ぬ」]めてにじり寄った。
「お! いかにしてそのもとがこの乾雲丸を……た、丹下左膳はどうしましたッ! さ、それを言われい、それを!」
剣幕にのまれたおさよは、何からどう言い出したものかと、ただもうドギマギするばかり。
「え、あのそれは――」
「エイッ! はっきりと、はっきりとお話しありたい。そもそもこれは何者の指図でござる?」
言いながら栄三郎、乾雲丸を引きつけて眼を寝床のほうへやると! 上気した栄三郎の顔が一度に蒼白に転じた。
何はともあれ、これで手にある坤竜と番に返り、雲竜ところをひとつにしたと思ったのも束のま、さっきまで確かに行燈の下にあった脇差坤竜丸が姿を消しているのだ。
「やッ! 坤竜がッ!」
おめいた栄三郎、同時に突っ起っていた。バタバタッと駈けよって枕を蹴る。あろうはずがない! やけつく視線を部屋じゅうに走らせても、櫛まきお藤が忍び入って先刻持ち出した坤竜丸、どうしてそこらに転がっていよう!
「ああない! ない……坤竜がない! ふしぎ……」
栄三郎、乾雲を杖によろめいた。
「あの、では、もう一つのお刀が失くなったのでございますか」
おさよのおろおろ声も栄三郎の耳へははいらなかった。
おのが手の竜、ひそかに天角の雲を呼んで、ここに乾坤二刀たえてひさしく再会するかと思いきや、その瞬間にこのたびは竜を逸した栄三郎、二つを対に、とりあえず腰に帯びてみようと意気ごんだだけに茫然自失のていでしばらくは言葉もなかった――。
と!
ふと気がついたのが裏の戸口。
一足飛びに走り出てみると、果たして台所の土間が雪に汚れて、何ものかの忍びこんだ形跡歴然!
「おのれッ!」
と栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
深夜の江戸を一刷けに押し包んで、雪はいつやむべしと見えなかった。
宿業と言おうか――それとも運気?
双剣一に収まって和平を楽しむの期いまだ到らざる証であろうが、前門に雲舞いくだって後門竜を脱す。
はいる乾雲に出る坤竜。
それはまことに不可測なめぐりあわせであったが、栄三郎はついに乾雲の柄をたたいてにっこりとした。
思ってもみよ!
きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の手垢に赤銅のひかりを増した利刀乾雲丸が、今宵からは若年の剣士諏訪栄三郎のかいなに破邪のつるぎと変じて、倍旧の迅火殺陣の場に乾雲独自のはたらきを示そうとしているのだ。
そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
それまではこの夜の雪をさながらにまんじ巴、去就ともに端倪すべからざる渦乱であった。
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。
夜のごとくに栄三郎の隙をうかがって入りこみ、小刀坤竜丸をさらって逃げ去った櫛まきお藤は、この深夜の雪を蹴って、そもいずこへ消え去ったのであろうか?
かのお藤……。
本所の化物屋敷に出入して、万緑叢中紅一点、悪旗本や御家人くずれと車座になって勝負を争っているうちに、人もあろうに離室の食客、隻眼隻腕の剣怪丹下左膳に恋をおぼえ、その取り持ち方を殿様鈴川源十郎に頼んだまではいいが、源十郎に裏切られるにおよんで、深くかれを恨んでいるやさき、当の左膳に意中の女があると聞いて一転妬情の化身と変じた末が、あの雨の夜、左膳が片思いの相手をつれだして源十郎のこがれるお艶と、栄三郎を仲に醜い角突き合いを演じさせ、ひそかに鬱憤をはらそうとしたものの、弥生お艶の女同士がやさしい涙にとけあって、お藤のもくさんはガラリとはずれたばかりか。――
江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
まもなく。
魔猫の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
恋はいろいろに動く。
ことにお藤のような女においては、いっさいの有かいっさいの無、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば桜のお藤、手練手管のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
浅草のお藤の隠れ家?
否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみの与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖のような闇黒の底だった。
やみ? そうだ。黒暗々の奈落。
それは、兇状持ちのお藤が、始終お上を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
闇黒が左膳を包んでいる。
その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
闇黒――ぬば玉の無明のやみ。
それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
お藤はまだ帰らない。
はじめお藤の懐中鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
左膳は。
暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
源十郎が頼みにならないうえに、つづみの与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
こういう気もちから易々諾々としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれも知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざという時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留なさいましよ」
こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめもわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵や夜着蒲団のたぐいといっしょに簡単な炊事道具がころがっているらしいことは手さぐりでもわかった。片隅に粗末な階段がついていて、そこはいまはいって来た秘密の入口――。
お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと真に受けて、今にも鈴川屋敷へ斬りこもうとたけりたつのをお藤がおさえて、
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
となだめているうちに。
せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって咽せ返りそう……丹下左膳、いかにこの間に処したことか。
さて今夜。
暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
お藤が入れていった置き炬燵に暖をとって、長ながと蒲団にはらばった左膳、ひとりこうしていると、ゆくりなくもさまざまのことが思い出されるのだった。
追いつ追われつする運命の二剣! それに絡わるおのが秘命。
わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
と思わず左膳が、自嘲に似たつぶやきを洩らした刹那!
タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の機械仕かけがんどう返しの扉がサッと開いたかと思うと、全身白く塗れた櫛まきお藤が、落ちるようにころがりこんで来た。
「どうしたのだ? 雪か」
左膳は闇黒に瞳を凝らしたまま起きあがろうともしない。
「ええ。ひどい雪」
笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を蹴ひらいて戸外に躍り出た。
乾雲は庭すみに埋めてある!
と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を帯して本所をさして急いだが。
同じ時刻に。
本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに駆けていた。
鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の代償!
と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の双頬にさっ[#「さっ」は底本では「さつ」]と血の気が走った。
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で奪り、つるぎにかけて争ってこそ互いに武士の面目もあろうというもの――。
それをなんぞや! 一老婆が偸盗のごとく持ち出したものを、なんとておめおめと受納できようか。
しかもそれが妻を売る値だという。もってのほかと言うべきところへ、あまつさえそのお艶もすでに家を出ているではないか。
これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を腰間に佩してパッと雪の深夜へとび出したのだった。けたたましく呼ぶおさよの声をあとにして。
天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
左膳の心もちはおのずから別だった。
目的のために手段をえらばない丹下左膳。
たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、郷藩相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
というのは……。
舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
片側は御用屋敷の新阪町。
他は清水町の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈と眠る真夜中。
向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇しき出会いであったと言わなければならぬ。
雪に埋もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
と、剣妖左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき青侍に要はねえのだ。ざまあ見やがれ」
と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり有頂天にはなれぬぞ。さ、この大刀におぼえがあるかどうだッ?」
言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
土生仙之助をはじめ、化物屋敷の常連が、博奕がくずれて帰路についたところだ。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて純粋無垢な若侍の真意が、暁の空のごとく彼の脳裡にもわかりかけたものか、たちまち快然と哄笑をゆすりあげて、
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、俺もてめえに返すものがあるんだ」
いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ釈然と笑って、乾坤二刀を交換せざるを得ない立場だった。
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は嬉しいところがあるよ……だがな、乾雲が俺の手にはいるや否や、今この場で、てめえをぶったぎるからそう思え。かわいそうだが仕方がねえのだ」
と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
おううッ! と一声、けもののようなうめき、
どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
そして今!
しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に凝視しあっている。
とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の冷刃がギラリ光った。とともに栄三郎は腰を落として、すでに剛刀武蔵太郎安国の鞘を静かにしずかに払っていた。此度こそはッ! と、心中に亡師小野塚鉄斎の霊を念じながら。
と! この時。
あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが傍観はできぬ。幸い手がそろっているから、逃さぬように遠まきにいたしてくれる。存分にやれッ!」
が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の斬先も鋭く、
「えいッ!」
気合いもろとも、礫のごとく身を躍らして、突如! 左膳をおそうと見せて一瞬に右転、たちまち周囲にひろがりかけていた助勢の一人を唐竹割り、武蔵太郎、柄もとふかく人血を喫して、戞ッ! と鳴った。
「しゃらくせえ!」
おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、皎剣、あわや迅落しようとするところをヒラリひっぱずした栄三郎は、そのとき眼前にたじろいだ土生仙之助へ血刀を擬して追いすがった。
有象無象から先にやってしまえ! という腹。
土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、鍔を返して左膳の乾雲を払うが早いか、こうじゃまが入った以上は、身をもって危機を脱するが第一と思ったのか、白刃をひらめかしてざんぶとばかり、堀へとびこんだ。
「ちえッ!」
と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の掘割りに、大きな渦まきが押し流れていった。
離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
主君相馬大膳亮のために剣狂丹下左膳が、正当の所有主小野塚鉄斎をたおして、大の乾雲丸を持ち出して以来、神変夢想流門下の遣手諏訪栄三郎が小の坤竜丸を佩して江戸市中に左膳を物色し、いくたの剣渦乱闘をへたのち――乾雲はおさよが、坤竜はお藤が、ともにこっそり盗み出して、ここに二刀ところを一にするかと見えたのも一瞬、こんどは逆に栄三郎が乾雲を、左膳が坤竜を帯びて雪中法恩寺橋上の出会い――。
任侠自尊の念につよい栄三郎の発議によって、両人雲竜二剣を交換して雲は左膳へ、竜は栄三郎へと、おのおのその盗まれたところへ戻ったが。
婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、二度つるぎと腕にかけて奪還するから……と、この栄三郎の意気に感じて、左膳もこころよく坤竜を返納したのは、二者ともさすがに侍なればこそといいたい美しい場面であった。
が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
しかし、それもほんの寸刻の間だった。
折りもおり、土生仙之助の一行が左膳の助剣にあらわれたので、乱刃のままに長びいてはわが身あやうしと見た栄三郎、ひそかに、再び左膳と会う日近からんことを心中に祈りながら、橋下の暗流――雪の横川へとびこんで死地を脱した。
あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
それもやがて。
暗黒の水面に栄三郎を見失って長嘆息、いたずらに腕を扼しながら三々五々散じてゆく。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
と左膳、片手に赤銅の柄をたたいて瓢々然、さてどの方角へ足が向いたことやら――?
かくしてまたもや。
悪因縁につながる雲竜双剣、刀乾雲丸は再び独眼片腕の剣鬼丹下左膳へ。そうして脇差坤竜丸は諏訪栄三郎の腰間へ――。
それは、まわりまわってもとへ戻る数奇不可思議な輪廻の綾であった。
しばらく頭をめぐらして本来の起相を見れば。
刀縁伝奇の説に曰く。
二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
そして、刀が哭く。
離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐も三寸さがるという丑満のころになると、啾啾とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
この宿運の両刀。
はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
のみならず。
駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
かれが唯一の助太刀快侠蒲生泰軒先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
死肉の山が現出するであろう!
生き血の川も流れるだろう。
剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
そして! その屍山血河をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
雪の江戸に金いろの朝が来た。
それからまもなく。
ある梅日和の午さがり――南町奉行越前守大岡忠相の役宅では。
雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
眼をよろこばせる常磐樹のみどり。
珊瑚の象眼と見えるのは寒椿の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
幽邃な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
数寄屋がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
茶立口、上壇ふちつきの床、洞庫、釣棚等すべて本格。
道具だたみの前の切炉をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
あるかなしかの風にゆらいで、香のけむりが床しく漂う。
越前守忠相、ふとり肉のゆたかな身体を紋服の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
茶筅、匙、柄杓、羽箒などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
ぼつんと切り離したような静寂、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒に負うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
忠相は動じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂川、江戸では多摩川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
沈黙、
泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有のことには、さっきこうして真っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
あいも変わらぬ天下御免の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利をぶらさげて、大髻を藁で束ねたいでたちのまま。
おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
という無遠慮な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
じぶん故にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷足枷のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
しかも!
もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
自分さえなければ万事まるく納まりそう。
得るも恋なら、退くも恋。
いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
それが何よりも栄さまのおため。
つぎに、お刀と弥生様への義理。
また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
栄三郎様はこのお艶の心変りを真にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
黙然、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱……栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘び住居を立ちいでたのだった。
うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
爾来数日。
野良犬のごとく江戸のちまたに夜な夜なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。
この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行大岡越前守忠相――。
「今日はちと肩の凝るところへ案内をして進ぜよう、だまってついて来なさい」
こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった品のいいお殿様と、泰軒先生との友達づきあいの会話のあいだに、このお方こそほかならぬ南のお奉行様と知るや、ここで待つようにと泰軒に言われた縁下の地面に土下座して、いっそう身も世もなくちぢまる拍子に、白い額部が土を押した。
室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に前肢をそろえて見ている。
宇和島伊達遠江守殿から贈られた隣藩土佐産の名犬、忠相の愛する黒というりこうものである。
「黒よ! いかがいたした」
忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
春日遅々として、のどかな画面。
ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
が、よく馴れている犬。
べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
部屋のなかでは、忠相が威儀をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来い!」
りんとしたお奉行さまの声。
犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一瞥をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内へはいれ!」
と口々のことば……
つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交みにつづく。
黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
ハッと胸に来たお艶。
これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるありがたいお言葉!
なんというお情けぶかい!
お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上御辞退申すはかえって非礼と、お艶は、はいとお応えするのも口のうちに、そこは女、手早く裾の土を払い髪をなおして、おそるおそるあがりこむと、お部屋のすみにべたりと手を突いた。
お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに悠然と泰軒へ向きなおって、他意なくほほえんでいる。
「わっはっはッ!」
何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って床の間から碁盤をおろして来た。
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を小癪な! 殿様の碁の相手だけはまっぴらだが、貴公なら友だちずくに組しやすい。来い!」
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
パチリ!……と盤面にのった二つの石。
ひとつは白、他は黒。
これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
が、忠相は平々然……。
しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、夢語のごとくにつづけるのだった。
あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
凝りかたまったようなしずけさの底に、盤をへだてた泰軒と忠相――。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
と忠相、もの憂そうに手を出してふたつの石を盤の隅へ隅へ遠ざけてみせると。
黙ったまま碁笥をとった泰軒は、やにわにそれを荒々しく振り立てた。無数の石の触れ合う音が騒然と部屋に流れる。
「ふうむ」と忠相は瞑目して、「いわば擾乱、災禍――じゃな。して、こうなればどうだ?」
いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ! 鎮定礼和の相か。そうか。おもしろい」
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって哄笑した。
「碁だ! 碁だ! 泰軒、碁のはなし、碁の話」
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
ふたたび無言の行――。
いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように畏友大岡忠相の博知周到に驚異と敬服の感をあらたにしておのずから頭のさがるのを禁じ得ないのだった。
古今東西を通じて判官の職にありし者、挙げて数うべからずといえども、八代吉宗の信を一身にあつめて、今この江戸南町奉行の重位を占めている忠相にまさる人物才幹はまたとなかったであろう……人を観るには人を要す。これ蒲生泰軒は切実にこう感じて、こころの底からなる恭敬の念にうたれたのだ。その畏怖の情に包まれて、さすがの放胆泰軒居士も、ついぞなく、いま身うごきがとれずにいる不動金縛り。
思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
にこやかに温容をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰という文字は、沙に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。
碁盤をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭をもする者ども、軍法だてをして床几に腰を掛け、采配を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍に勝たるるものと心得るは大なる了簡違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷もその間にあるよ。この二石……」
手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧けとる、ハッハッハ右が欠ける」
「お! そうだったな。眼糞鼻糞を笑うのたぐいか――しからば、これはどうだ?」
忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々の烏鷺談議がくりひろげられてゆくのだった。
泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。
昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆袈裟がけ辻斬り左腕の下手人だ。
ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
これに端緒を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審べあがっているのだった。
が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼昼行ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲に名を出さねばならぬかも知れぬ。
それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭青山備前守というものがついていて、鼠賊をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮なるれっきとした外様さまの思召しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類のうえに、大鉄槌をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
ちょうどその時、
きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
おおよそかくのごとく。
その強記はいかなる市井の瑣事にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪女浪ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
南町奉行大岡越前守忠相様。
明微洞察神のごとく、世態人情の酸いも甘いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議な探索眼には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
と!
ふと蒲生泰軒のあたまに閃めいたのは、いつか本所の化物屋敷に自分と栄三郎が斬りこみをかけた時突如として現れた、あの始終を知るらしい五梃駕籠のことであった。
風のような火事装束の五人の武士!
その正体は今もってわからないが、あのなかの頭だった老人! と思い当たると、なぜか彼は、忠相がすべてを察知しているわけが読めたような気がして、その時まで碁盤をにらんでいた顔をあげると泰軒、ニッと忠相に笑いかけた。
しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしいて」
しずかにつぶやいた忠相、盤上の黒の一石を手にして、つうとそばのほうへそらしながら、
「さあ、泰軒、かようにひとつが助勢を求めて走っておるぞ。どうじゃ、どうじゃ、どうするつもりじゃ? これに対する処置は」
「ナニ! 助勢を? 誰がどこへ……?」と思わず泰軒、碁をそっちのけに乗りだすと、忠相は手の石で盤をパチパチたたきながら、
「泰軒! 碁だ、碁だ――が、サア、まず求援の使いの向かう方角は……」
「うむ。その方角は……」
「さればさ――さしずめ、北のかたかな」
こう言い放っておいて、忠相はジロリと泰軒を見やった。
一石駆けぬけて援軍を求めに走りつつある――しかも、その方角が北のかた!
という忠相の言葉に、蒲生泰軒はキッとなって盤をにらんだ。
いかさま、ひとつの黒い石が、忠相の手によって黒団を離れ、碁盤の隅に孤独の旅をいそぎつつあるように見える。
これこそ、奥州中村相馬藩の城下へ、左膳のために剣客のむれを呼びに草まくらの数を重ねつつあるつづみの与吉のすがたではなかろうか。
「サ! どうする? どうする気じゃ?」
忠相はこううながすように言って泰軒を見た。
じっと石の配置に眼をすえたまま、泰軒は動かない。そのかげに身をすくませているお艶も、いつしかこの碁戦の底にひそむ真剣なかけひきに釣りこまれて、われを忘れて、横のほうからのぞきながら、見入り聞き入りしているのだった。
外見はあくまでも閑々たる風流烏鷺のたたかい……。
陽のおもてに雲がかかったのであろう、障子いっぱいに射していた日光がつうとかげると、清冽な岩間水に似たうそ寒さが部屋をこめて、お艶は身震いに肩をすぼめた。
「泰軒、下手の考えなんとかと申すぞ。なあ、この石をいかがいたすつもりなのだ?」
かすかな揶揄をふくんだ越前守の声。
が、泰軒は答えない。大きな膝が貧乏ゆるぎをしているのは、まさに沈思黙考というところらしい。
すると忠相は、やにわにひとつかみの黒い石を取り出して、援軍をもとめに行きつつあると言った石のまわりに並べた。
「見るがよい。この通り首尾よく同勢を集めて、今やもとへ戻ろうとしておる。この対策はどうじゃな?」
「ふむ! 仔細ないわ。こういたしてくれる」
言ったかと思うと泰軒、手もとの白石のひとつをとって、パチリとその新たなる黒の集団の真ん中へ入れた。
忠相は首をひねって、
「ははあ。そう出向いていくか」
「さよう。かくして帰路の途中、せいぜい数を殺ぐのじゃな。まず、ひとつ二つと機会あるごとにしとめて――」
といいながら、泰軒は、いま白をおいた周囲から黒石の二、三を取ってのける。
「かようにいたして、帰るまでにはもとの木阿弥にしてやろうと思う」
「ウム! それがよい!」
と忠相は膝を打って、
「急ぎ後を追って、せっかくの助軍を斬りくずすことじゃ……何しろ、この援兵を敵の本城へ入れてはならぬ。俗にも申す多数に無勢、勝ちいくさが負けになろうも知れぬからな。が、はたしてそううまく参ろうかの?」
「何がだ?」
「ただいまの、帰路を擁して徐々に援助の隊を屠るという戦法――」
「それはこの石の手腕ひとつにある。この石! この石! この、おぬしのいわゆる薄よごれた石じゃ!」
こう豁然と胸をたたいて泰軒が笑うと、忠相もおだやかな微笑をほころばせながら、
「たのもしい石じゃて」
とチラと泰軒の顔を見やったが、やがて、
「北……と申せば道は一本みち。ただちに発足すればわけなく追いつくであろう」
「北の旅は荒谷行――血を流すにはもってこいじゃ」
「が、大事な石、ぬかりはあるまいが気をつけてくれ」
「心配無用!」
言い放った泰軒、助けの石と称する黒のかたまりをすっかりわが手に納めてしまうと、いきなり二つの白石を摘まみあげるが早いか、盤の隅の黒団へ突き入れて、同時にすべてをさらいおとした。
盤上に残った黒白ふたつの石、それが中央にピッタリ並んでいる。
「もうよい! わかった」
と忠相は、ゆったりとふところ手をして、
「わしのほうの仕事はそのうえ……あとは必ずわしが引き受けるから、それまでにおぬしが力を貸して、この二石をひとつにしてくれ」
ふっと碁談がやむと、白っぽい午さがりのしずけさのなかで、どこか庭のむこうで愛犬の黒がなくのが聞こえた。
いかにして忠相は、いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢を掌を指すように知っているのか、それがふしぎと言えばふしぎだったが、忠相の今の口ぶりでは、誰か本所化物屋敷の者が、北藩中村へ助剣を求めに走っていること、疑いをいれない。
では、すぐにこれから!――と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。
北国旅日記
「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の葦簾を通して耳にはいると、江戸者らしい若い小意気な旅人が、ひとり飲みかけた茶碗を置いて振り返った。
縞の着物に手甲脚袢、道中合羽に一本ざし、お約束の笠を手近の縁台へ投げ出したところ、いかにも何国の誰という歴として名のあるお貸元が、ひょんな出入りから国を売ってわらじをはいているように見えるものの、さて顔を眺めると……まぎれもないあさくさ駒形の兄哥つづみの与吉。
こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の姐御が先月から家をあけているのと折柄の好天気を幸いに、そそくさとわらじの紐をはきしめて、こうして奥州中村への旅に出て来たのだった。
影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく散じてヨ、それに帰路はお侍連の東道役、大いばりで江戸入りができようてんだからこんなうめえ話はねえサ。おまけにおいらのこの中村行きは誰ひとり知る者もねえはずだから、栄三郎の側から追っ手の来る心配もなし――ままよ、江戸ッ児の気晴らし旅、まあ、ゆっくりとやるとしよう。
こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
古河の町は、八万石土井大炊頭の藩で江戸から十六里。
その古河を今朝たって野木、間々田、小山、それから二里の長丁場でこの小金井。
道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途遼遠という次第だが、心がけが遊山気分で、いっこうに足を早めようともせず、こうして日の高いうちからどっかり腰をおろし茶店の老爺を相手に大いに江戸がっているところ。
白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と銘うった団子がザラザラと舌にさわる。ちょいと趣の変わった木立ちや人家、黒ずんだ遠田のおもて、路傍に群れさわぐ子供らの耳なれない言葉……。
江戸っ児はうち弁慶、旅に出てはからきし意気地がないという。
与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お膝下を出はずれるてえと、食物と女の格がずんと落ちるのに往生するよ。女はお前、肌をみがく水が悪いとして眼エつぶるとしてもヨ、食物はなんでえ食物は!」
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。金竜山浅草寺名代の黄粉餅、伝法院大榎下の桔梗屋安兵衛てんだが、いまじゃア所変えして大繁昌だ。馬道三丁目入口の角で、錦袋円と廿軒茶屋の間だなあ。おぼえときねえ」
なんかと頼まれもしない浅草もちの広告に力こぶをいれて、一人弁舌をふるっていると、
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
与吉は大いに業を煮やして、
「何イ! 馬だ? べら棒め、馬がどうしたッてんでえ!」
威勢よくたんかをきって向きなおった拍子に、つづみの与吉、さっと顔から血の気がひいた。
二軒むき合っている向う側の茶みせから、じっと眼を据えてこっちを見つめている異様な男!
おぼえのある乞食すがたに貧乏徳利……。
うまくお艶の身柄を忠相へ押しつけおおせた泰軒、さっそく庭へおり立つところを忠相が呼びとめたのだった。
「これ、蒲生! 何やらここに落ちておるぞ」
というので、ちょっと引っ返して部屋をのぞくと、いままで坐っていた場所に小判が数枚!
泰軒の窮状を察した忠相が、無心もないのに投げ出したもので、路用としてそれとなく与える意。涙の出るほどのゆきとどきぶり……。
ふたりは何も言わなかった。
泰軒はただのっそりあがって来て金子を納め、呵々大笑して再び出て行ったきり――礼もなければ辞儀もない。この両心友の胸間、じつにあっさりとして風のごとくに相通ずるものがあった。
そして。
お艶がなおもひれ伏しているうち大岡様のお屋敷を出た泰軒は、瓦町の栄三郎様へも立ちよらずに、その日のうちに江戸をあとに北上の旅にのぼったのである。
乾雲のために求援の使いにたって、今や一路北州をさしていそいでいる者があると言ったが、はて誰だろう? まだ相馬へは着いてはいまいから、追い越して顔さえ見ればわかるに相違ない。そのうえ、相手のいかんによって策の施しようはいくらもあると、ゆく手に当たって人影が見えるたびに、泰軒はひたすらに足を早めて来たのだった。
駅路のさざめきも鄙びておもしろく、往うさ来るさの旅人すがた。
が、住居を持たぬ泰軒先生は、江戸にいても四六時ちゅう旅をしているようなもの。したがってこうして都を離れるにも、何一つ身仕度などあろうはずもなく、きたきり雀の古布子に、それだけは片時も別れぬ一升徳利の道づれ――。
奥の細みち。
と言うと風流なようだが、泰軒は気がせく。
人一倍の健脚に鞭をくれて、のしものしたり一日に十有数里。
奥州街道。
江戸から二里で千住。おなじく二里で草加。それから越ヶ谷、粕壁、幸手で、ゆうべは栗橋の泊り。
早朝に栗橋をたって中田、古河の城下を過ぎ、本街道をまっしぐらに来かかったのがこの小金井である。
町を素通りに、スタスタ通り抜けようとした、宿場はずれ。
ふと一軒の茶店からしきりに江戸江戸と江戸を売りに来ているような声がするので、泰軒、何ごころなくみやると、見たことのある町人がさかんに気焔をあげている。
ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖銀杏のしたで、諏訪栄三郎のふところから財布を抜いて走った男。これが本所鈴川源十郎の取巻きの一人で、名もわかっている……つづみの与吉! と、とっさにみてとったが、泰軒は知らん顔、そのまま向う側の茶店の入口近く陣取って、隠れるでもなければうかがうでもない、こっちから公然ににらみつけていると――。
馬子をどなりつけて振り向いたとたん、思いがけない泰軒のいることに気のついた与の公、はッとすると同時に青菜に塩としおれ返ってしまった。
今のいままで恐ろしく威勢のよかったやつが、ムニャムニャとにわかに折れてしまったから、びっくりしたのは茶店のおやじだ。
「どうしただね? 腹でも痛み出したかね?」
うるさくきくので、与吉はこれをいいことに、
「うん? ううん……なんでもねえ。いや、腹が痛えや。こんな団子を食わせるからだ」
「あんだって、この人は団子にばかりそうけちイつけるだんべ! 三皿もお代りしたくせに……」
顔をしかめてうなりながら、与吉がチラ! チラ! とうしろをふり返ると、路をへだてた床几に泰軒先生それこそ泰然と腰をすえてまたたきもせずにこっちの方をみつめている。
与吉は、ジリジリと背中が焼けつくようで、いてもたってもいられぬ心地。
蛇ににらまれた蛙同然――人もあろうに一番の難物が、どうしてここへこうヒョッコリ現れたんだろう! こいつア厄介なことになったもんだ! と一時は与吉、顛倒せんほどに驚いたが、なあに、この先まだ道は長え。宇都宮へへえるまえにでもどこかできれいにまいてやろうと決心を固めて、
「爺さん! ホイ、茶代だ。ここへおくぜ」
と勢いよく起ちあがると、それを待っていたように、むこう側の茶店でも泰軒が腰をあげたようす。
首すじがゾクゾクして、与吉はともすれば立ちすくみそうになったのだった。
猛犬に踵をかがれながらさびしい道をあるいていく時の気もち……ちょうどあれだった。背骨がしいんとして、腰の蝶番が今にもはずれそうに思われる。駈け出すわけにはいかず、そうかといって振り返ることもできずに、与吉は半ば死んだ気でフラフラと往還のみちびくがままにたどってゆく。
すぐあとから泰軒先生が、一升徳利を片手にぶらさげ、鬚の中から生えたような顔に微笑を浮かべて悠々閑々とついて来るのだった。
珍妙奇天烈な二人行列。
それが、陽うららかな宇都宮街道を、先が急げば後もいそぎ、緩急停発ともに不即不離のまま、どこまでもどこまでもと練っていくところ、人が見たらずいぶんおもしろい図かも知れないが、当の与吉の身になると文字どおり汗だくの有様で、兄哥すっかり逆上ってしまっている。
どうも薄気味の悪いことこのうえない。
もうすこし離れてつけてくるのなら、こっちも駒形の与の公、なんとかして撒く才覚も生まれようというものだが、こうピッタリかかとを踏まんばかりにくっついていられては、どうにもこうにも考えることさえできないのだ。
それも。
おい! とか、コラ! とか声でもかけてくれるならまだいい。そうしたら当方にも応対のしようがあって、おや! これはこれは乞食の旦那様、お珍しい! はて、どちらへ?――ぐらいのことが、スラスラと出ない与吉でもないし、じっさいその問答の二、三も心中に用意があるのだが、こんなに押し黙ってついて来られると、先方が普段からの苦手なだけに、与の公、手も足も出ないで、亡者のような心地。
その亡者のような与の公と、お閻魔さまの蒲生泰軒とが、ぶらりぶらりと野中の一本道を雁行していくのだ。
小金井をたって下石橋、二里半の道で宇都宮……大通りを人馬にもまれて素どおり。
もうそぼそぼ暮れだが、与吉はこんなつれといっしょに[#「いっしょに」は底本では「いっしよに」]旅籠をとる気にもなれない。で、町を突っきり、夜道をかけて今度はどんどん足を早め出した。
いけない!
やっぱりスタコラついて来る。
黙りこくって、影のようにうしろに迫りながら押っかぶさるようにしてついてくるのだ。
与吉もこれにはすっかり往生したが、振り返りでもしようものなら、そのとたんにぽかんと拳固がとんできそうな気がするし、一度などは与吉が道路にしゃがんでわらじを結びなおすと、泰軒は平然とそばに立って待っている始末で、駒形名うてのつづみの与吉、まるで大きな荷物をしょいこんだ形でほとほと閉口してしまった。
無言のまま同行二人。
真夜中の白沢。
氏家。
喜連川――喜連川左馬頭殿御城下。
夜どおしがむしゃらに歩きつめて、へとへとに疲れきった与の公のうえに、さく山あたりで暁の色が動きかけた。
脚は棒のようになる。眼はくらむ。狩り立てられた狼のようになった与吉、ひとこと泰軒が声をかけたら即座に降参してすべてをぶちまけ、すぐに江戸へ引っ返すなり、ことによったらこのままどこへでも突っ走ってしまおうと思っていると……。
泰軒は平気の平左。
ときどき貧乏徳利をぐいと傾けてひっかけながら、口のなかで、謡曲の一節。
明の月が忘れられたように山の端にかかって、きょうもどうやら好晴らしい。うす紫の朝靄には、人家が近いとみえて鶏の声が流れ、杉木立ちの並ぶ遠野の果てに日の出の雲は赤い。
はるかに連山の残雪。
ふっと近くに馬のいななきがきこえてゆく手の草むらにガサガサと音がしたので、与吉がびっくりして立ちどまると、放し飼いの馬が二、三頭、ヌッと鼻面を並べて出した。
「なんでえ! 驚かしゃがらア! シッ! どけ、どけ! シイ――ッ!」
と、馬とわかって、与の公急に強くなっていばりだしたものだから、よほどそれがおかしかったとみえ、
「はっはっはッは……」
うしろに泰軒の笑い声。
与の公、とうとう泣き顔をふり向けて悲鳴をあげた。
「旦那! 先生! 人が悪いや、あっしをこんなに追いまくるなんて――ねえ、旅は道づれ世は情けって言いまさあ。ひとついかがで、御相談いたしやしょう」
と与吉、大道商人が客をつかまえたように小腰をかがめて手をもんだ。
「相談……とは、なんじゃ」
与吉を見おろして立ちはだかった泰軒のぼろ姿に、さわやかな朝の光が徐々と這い上がっている。
与吉は首をなでたり頭をかいたり、眼まぐるしく両手を動かしながら、
「テヘヘヘヘ、どうも先生、旦那、いや殿様――ッてのも変だが、そう意地にかかってついて来られちゃア私が歩きにくくてしようがございません。もういいかげんに、ここらでなんとか一つ話をつけていただいて、手前も考えなおしとうございます、へい」
「つける。……と申して、おれは貴様をつけた覚えはないぞ。第一貴様こそ始終おれの前に立って、歩きにくくてかなわん。いったいどこへ行くのだ」
「ヘヘヘヘ、御冗談で」
「ヘヘヘヘではない、いずこへ参るのかとそれをきいておるに」
「へえ。実はその、松島――へえ、松島見物でございます。松島やああ松島や松島や……」
「春に向かって松島見物とは結構な身分だな」
「ナニ、あまり結構でもございません」
「いや、結構だ。遠く俗塵を離れて天然の妙致に心気を洗う。その心がけがたのもしいぞ」
「恐れ入ります」
「なあに、恐れ入らんでもよい。おれもその松島へゆく途中だ。同道いたそう」
「え? では、あの、先生も松島へ?」
「さよう。一生に一度は見ておいてもよいところじゃからナ」
「ちッ! 仕方がございません。与吉もあきらめました。りっぱにお供しやしょう」
「これこれ、与吉と申したな。ただいまの挨拶はなんだ?」
「いえなに、こっちのことで――ごいっしょに行けばよろしいんでございましょう? ええ参りますとも! 松島だって、どこだって、こうなりゃ……」
「ア、これこれ与吉、黙って来るがよい」
そこで。
仏頂面の与吉と、笑いを噛みしめていかめしい顔を作った泰軒とが、妙なふうに肩を並べて歩き出したまではいいが、この二人の奇体な取合せに、朝早くさく山の町へ用たしに出る百姓などが驚いて道をよけている。
「先生! 先生はいつ江戸をおたちになったんで? たいそうおみ足が早うございますな」
「はははは、お前が松島に向かったと聞いてな、わしも急に思い立って出て来たのだ。足の早いのは貴様こそ、親は飛脚ででもあったかな?」
「かなわねえや先生にゃア」
なんとかほどよくばつを合わせて歩きながら――。
つづみの与の公、心中ひそかに思えらく。
これはなんといっても相手が悪い。今ここで下手にあがこうものなら、かえってだにのように食いつきとおして、いっそうおもしろくないことになろうから、いいかげんにあしらっておいて、奥州本街道から横にはずれて相馬へ出ようとする福島の町ででも器用にずらかってやることにしようと。
泰軒は泰軒でまた胸に一物を蔵している。本所の鈴川方から誰かが中村へ援軍を呼びに旅立ったと聞いてその使者とは何者だろう? それによってこっちも大いに出かたがあると内心いきおいこんで追いついてみるとあにはからんや、対等の役者として太刀打ちもできないつづみの与の公だから、泰軒はいささか失望の感だった。こんな者をとっちめたところで、張り殺してみたところでつまらない。相手にするさえいさぎよしとしないので、それならばむしろいっしょに相馬中村まで与吉を見とどけて、かれが何十人かの剣団を案内して江戸へ戻る途中を擁し、ひさかた振りに根限り腕をふるって一大修羅場に死人の山を築いてくれよう――こういう気だから表面はしごくのんきだ。
これ、与吉、この徳利へ酒をつめて参れ。
これ、与吉、ついでに金をたてかえておけ。
これ、与吉、坂道でくたびれたから背後から押してくれ。コレ与吉、コレ与吉と、泰軒先生さかんに与の公を使いたてる。与の公もいま先生を怒らしちゃア厄介だと思うから何ごともヘイコラこれ命に従っているうちに。
大田原――大田原飛騨守城下。一万一千四百石。
白河の関――阿部播磨守城下。十万石。
二本松――丹羽左京太夫殿。十万七百石。
このところ江戸より六十六里なり。
……で、これからあと四つの宿場で福島へ着くという、その二本松の町へはいったのが、江戸を発足してから八日目の夕ぐれだった。
両側に並ぶ宿屋を物色しながらふと気がつくと、今までそばを歩いていた泰軒先生の姿が見えない!
つづみの与吉、しめたッ! とばかりにいきなり眼の前の柳屋と行燈をあげたはたごへ飛びこんだ。
「いらっしゃいまし――お早いお着きでございます」
二、三人の婢が黄色い声を合わせる。
二本松の町。
諸国旅人宿、やなぎ屋のおもて二階。
いま洗足をとってあがって来たつづみの与吉、うす暗い一間へ通されてのっけからケチをつけてかかる。
口の悪いのは江戸っ児の相場……それがこうして旅へ出ているのだから、何かにつけひとことわるくちをいわなければ腹の虫が納まらないという役得根性も手伝い、泰軒先生をたくみに振りおとした気でいる与の公は、もうすっかりいい気もちになって、
「チッ! こんなしみったれた部屋しかねえのか。馬鹿にしてやがら」
と、ジロジロとそこらを見まわしてすわろうともしない。案内して来た女中も心得たもので、
「もっと宿料を奮発なされば、あっちにいくらもいいお座敷があいておりますよ」
これには与吉、ギャフンと参って、
「そりゃそうだろう。そうなくちゃアかなわねえところだ――人間万事金の世の中ってナ、アハハハ」
どうも与の公ときたらうるさい野郎で、四六時中しゃべっていなければ気のすまないところへ、今は、泰軒という苦しい厄介がなくなったのだから、ひとしお上機嫌に口が多い。
飯か湯かどっちを先にするときかれて、湯へはいりながら飯を食いてえ……などと勝手なことをしゃべり散らすので、女もあきれて降りていってしまう。
あとで与吉が、宿の丹前に着かえて、力を入れてもたれかかるとひとたまりもなく折れそうな、名ばかりの二階縁の欄干にもたれて下の往来をのぞくと。
うら淋しいながらに、ちょうど上り下りの旅の人があわてて宿をとる刻限とて、客引きの声もかしましく、この奥州街道に沿う町にもさすがに夕ぐれはあわただしい。
よごれた白壁。檐の低い瓦屋根のつづき。取りこむのを忘れた、色のさめた町家の暖簾、灯のにじむ油障子。馬糞に石ころ……何をひさぐ店か、和田屋と筆太に塗ったここらでの老舗らしい間口の広い家――そういったものが、迫りくる暮色のなかに雑然蕪然と押し並んで、立枯れの雑木ばやしを見るような、まことに骨さむい景色……。
投入れのひからびている間の宿。
与吉が、柄にもなくこんな句を思い出していささか悵然としながら、あの乞食先生はどうしたろう? さぞ今ごろは泡をくらってこの与吉を探しているに違えねえ、ざまア見ろ! と心中に快哉を叫んだ時、廊下に面した障子が開いて人がはいって来た。
「恐れ入りますが、お一方お相宿を願います」という番頭の挨拶にギョッ! とした与吉が振り向いてみると、越後の毒消し売りがひとり荷を抱えて割り込んで来ている。
これで与吉はすこし気を悪くしたが、それでも、婢が晩めしを運んで来て給仕をする。
「姐さん、この辺に飯盛はいねえのかえ」
「御飯ならわたしが盛ってあげますよ」
「ちょッ! この飯じゃアねえや。こうッと、草餅よ。はははは、くさもちは、どうでエ?」
「くさもちはありませんが、かき餅が名物でござんす」
「笑わかしゃがらア! 草もちのかわりにかき餅とくりゃあ世話アねえ。にっぽん語の通じねえところだから情けねえ――それなら姐や、なんだぜ、今夜忍んで行くぜオイ。え? いいだろう?」
「あれ! 知りませんよ」
「なに、知らねえことがあるものか。お前みてえなべっぴんは江戸にも珍しい」
「ホホホ、それほどでもござんすまい――そんな殺し文句をまいて歩くと、あの女がただはおきませんよ」
「何を言やんでえ!」
などと与吉一流の無駄口をたたきながら飯をすまして、一風呂ザアッと流してくるからと按摩を頼み、手拭をぶらさげて突っかけ草履、与吉が廊下へ出たところへ、どこの部屋からかあまり粋とはいえない三味線の音……。
しぐれ降る浅茅ヶ原の夕ぐれに二こえ三声雁がねの、便り待つ身の憂きつらさ――。
と来たときに、お節介な与の公、耳をおさえて、「よしゃアがれッ!」
と、どなりながら、暗い裏梯子を駈けおりると、とっつきが風呂場になっていて、ガヤガヤと人声がこもっている。
男女混浴……国貞画くとまではいかないが、それでも裸形の菩薩が思い思いの姿態をくねらせているのが、もうもうたる湯気をとおして見えるから、与吉はもう大よろこび。
「あらよウッ! みなさん、ごめんねえ!」
と、精々いなせに飛びこんでゆくと! 聞き覚えのある謡曲の声とともに、よもぎのような惣髪のあたまが一つ、せまい湯船の隅にうだっている。
はッ! と思うと与の公、ちょいと身体を濡らしただけで、そのまま女たちのあいだをこっそり抜け出て来ようとしたが、すでに遅かった。
「はっはッはっは、待っておったぞ!」
と割れっ返るような大声といっしょに、泰軒先生がヌッと湯の中に立ちあがったから、与吉は妙な恰好に流し場にしゃがんで、
「おや! 先生でございますか。どうなさいましたかと、じつは御心配申しあげておりましたよ。でもまあ、よく御無事で、エヘヘヘ……」
「ひさしく会わんような挨拶だナ」
「いえね、全く。さっきこの柳屋の前の往来でひょいと気がつくてえと、先生のお姿がかき消すようにドロンでげしょう? あっしゃア――」
「しすましたり矣と此家へ飛びこんだのであろうが、ドッコイ! そうは問屋がおろさん。貴様もここへはいるだろうと思って、おれは一足先にあがったのだ」
「どうも質のよくねえわるさをなさいますよ。びっくりするじゃございませんか」
「ビックリではない。がっかりであろう。とにかく、ざっと暖まったらあがって来て、背中を流してくれ」
「あい。ようがす」
とは答えたものの入って来た時の元気はどこへやら、与吉はがらりとしょげ返って、白く濁った湯に首を浮かべて一渡りそこらを眺めまわしたけれど、眼にはいる雪の肌もいっこうにこころ楽しくない。
奥と入口に魚油の灯がとろとろと燃えて、老若男女の五百羅漢。
仕舞い湯のせいか女が多い。立て膝して髱をなでつける婀娜女、隅っこの羽目板へへばりついている娘、小桶を占領して七つ道具を並べ立てた大年増、ちょっとの隙にはいだして洗い粉をなめている赤ん坊、それを見つけて叱る母親、いやもう大変なさわぎ。
喧々囂々として湯気とともに立ちあがる甲高い声々……その間を世辞湯のやりとり、足を拭く曲線美――与吉がいい気もちに顎を湯にひたしてヤニさがっていると、
「アアこれこれ与吉、ゆであがらんうちに出て来て流せ」
はじまった! 仕方がないから三助よろしくの体で、大きな背中をごしごしこすり出すと、
「そんなことではくすぐるようで痒くてならん、もっと力を入れて! もっと! もっと!」
与吉は真赤にりきんでフウフウ言っているが、泰軒はすこしも感じないと見えてしきりに強く強くとうながす。おかげで与吉はふらふらになってしまったのはいいが、いかにも乞食先生の下男のようで、なみいる女客の手まえ男をさげたことおびただしい。
しかも、ようよう流しがすんだかと思うと、アアこれこれ与吉、湯を汲んで参れ、アアこれこれ与吉、脚をもんでくれ、アアこれこれ与吉……与吉がいくつあってもたりない始末。
泰軒先生がさきにあがると、やっとのことで赦免になった与吉、疲れをいやすどころか、かえってクタクタにくたびれきって部屋へ戻ったが!
先生は階下の裏座敷。
それに、相部屋の毒消し売りはぐっすり寝こんでいるようすだからまず怪しまれる心配はないと、急に思い立って湯の香のさめぬ身体を旅仕度にかため、ひどい奴で、往きがけの駄賃に毒消し売りの煙草入れを腰に、ころんでもただは起きないつづみの兄イ、今夜のうちに二本松、八町目、若宮、根子町の四宿を突破して、朝には、福島からいよいよ相馬街道へ折れるつもり――用意万端ととのえて、そっと部屋を忍び出ようとしているところへ、
「今晩は、按摩の御用はこちらでございますか、おそくなって相すみません」
宵の口に言いつけておいたあんまが来たので、その声に、ねている毒消し売りがムニャムニャ動き出す。
あわてた与吉、とっさに端の障子を滑らして廊下に出るとにわか盲目とみえて、勘が悪く、まだなんとか言っているのをうしろに聞きながらもとより宿賃は踏み倒し、そのまま軒づたいに裏へ飛びおりてほっと安心!
泰軒先生は委細御存じなく、白河夜船の最中らしい。
こんどというこんどこそは、ものの見事にまいてやったぞ……。
思わず会心の笑みとともに歩き出した与吉、振り返って見ると、宿の洩れ灯に屋号の柳の枝葉が映えて、湯上りの頬に夜風がこころよい。
寂然たる天地のあいだを福島の城下まで五里十七丁。
飯野山の峰はずれに月は低く、星の降るような夜だった。
堀の水は、松の影を宿して暗く静まり、塗りつぶしたような闇黒のなかに、ほの白い石垣が亀甲につづいて大浪のごとく起伏する木立ちのむこうに、天守閣の屋根が夜空をついて望見される。
刻をしらせる拍子木の音が、遠く余韻をひいて城内に渡っていた。
外様六万石として北東の海辺に覇を唱える相馬大膳亮殿の湯池鉄壁、中村城のそと構えである。
寒星、風にまたたいて、深更霜凜烈。
町家、城中ともに眠りについて、まっくらな静けさが限りなく押しひろがっている……。
と!
なんに驚いてか、寝ていた水禽が低く飛び立ってバサと水面を打った時!――大手の並木みちを蹣跚うように駆け抜けてきて、そのままタタタ! と二足三あし上げ橋の板を鳴らしてお城のなかへ踏みこもうとした人影がひとつ。
見とがめた番士数名。たちまちばらばらッと躍り出て六尺棒を又の字に組み、橋の中央にピタリとこれをおさえてしまう。安房は貝淵、林駿河守の案技になり、貝淵流の棒使い海蘊絡めの一手――。
「何奴ッ!……無礼者ッ! さがれッ!」
鋭い声ながら、夜ふけのあたりをはばかって低いのがかえってものすごくひびいた。
「へ!」
と答えるともなく、押し戻される拍子にベタリとその場へ膝をついた件の男……つづみの与吉はだらしなく肩息のありさまだった。
むりもない。
ゆうべ夜中に二本松で泰軒先生に置いてけぼりを食わせてから、五里の山道をひた走りに明け方には福島に出て、そこから東へ切れて舟地の町で三春川を渡り、九十九折の相馬街道を無我夢中のうちに四里半、手土一万石立花出雲守の城下を過ぎ、ふたたび夜の山坂を五里半……いのちがけに走りとおして、今ようようこの相馬中村へ到着したところだから、さすがの与の公、洗濯物をしぼって叩きつけたようにぐったりとなっているわけ。
一昼夜、飲まず食わずに険路十五里――それというのも、左膳の用命を大事にと思うよりは与吉としては正直、泰軒先生がこわいからで――。
ところが、何度ふり返っても先生は影も形も見えなかった。
しかし柳屋の一件で見てもわかるとおり、どこをどう先まわりして、いつひょっこり眼前へ現れないものでもないと、与吉は、問屋場のお休み処を横目ににらんで、ひたすら痩脛をカッとばして来たのだが、やはり泰軒は与吉の脱出を知らずに、柳屋の裏座敷で大いびきをかいていたものとみえ、とうとう与吉がこの中村に着くまで、泰軒のにおいもしなかったのだった。
りっぱにあの羽がい締めをのがれ得た。
ああ見えてもこのつづみにかかっちゃア甘えもんだと、与吉はいっそう足を早めて、見えぬ泰軒に追われるように絶えず小走りをつづけて来たのだ。
で、今。
はね橋の真ん中にガッタリ手をついた与吉。
「水……おなさけ、水を……! え、江戸の、タ、丹下左膳様からお使いに参ったものでござります。ど、どうぞ水をいっぱい……」
と聞いて、びっくり顔を見合わせたのは番士達。
仔細は知らぬが、出奔した丹下左膳が立ち帰って参ったなら門切れであろうと苦しゅうない、ただちに手厚く番所へ招じ入れて上申するようにと、ふだん組頭から厳命されているその丹下の急使というので[#「というので」は底本では「とういので」]、一同、与吉を城内へ許しておいて、すぐひとりが、何人もの口を通して宿直の重役へ伝達する。
重役から茶坊主、坊主からお側小姓と順をふんで、それから国主大膳亮の耳へ――。
早速これへ!
となって、城内に時ならぬ人の動き。
とりあえず焚き火をあたえられて暖をとっていたつづみの与吉、旅仕度のまんまでお呼び出しに預かり、火焔をうつして樹影あざやかなお庭を、案内の近侍について縫ってゆくと、繁みあり、池水あり、数奇結構をこらしてさながら禁裡仙洞へ迷いこんだおもむき。
夢のような夜景色といおうか……ぼんやりした与の公が、キョトキョトあちこち見まわしながら、とある植えこみから急に広い芝生へ出たときだった。
さきに立つ若侍がしいッ! と声をかけたので、あわてて頭をさげた与吉、気がついてみると、遙か向うのお縁側にくっきりと明るい灯がうかんで、二、三の人影が豆のように小さく並んで見える。
まだよほど遠いが、それでもここから摺り足に移った。
骨を刺す寒夜ににわかの謁見だった。
縁ちかく敷居ぎわに、厚い夜の物を高々とのべさせ、顎を枕に支えて腹這いになっている国主大膳亮は、うち見たところ五十前後の、でっぷり肥った癇癖らしい中老人である。
広い頭部、大きな眼……絶えず口尻をヒクヒクさせて、ものをいうたびに顔ぜんたいが横にひきつる。
大きな茶筅髪を緋の糸で巻いたところなど、さすがに有名な変物だけあって、白絹の寝巻の袖ぐちを指先へ巻いて、しきりに耳垢を擦りとってはふっと吹いている。
が、眼は、射るように近づいて来る与吉に注がれていた。
燭台の光が煌々とかがやき渡って、金泥の襖に何かしら古の物語めいた百八つの影を躍らせているのだった。
剣怪丹下左膳の主君、乾坤二刀の巴渦を巻き起こしたそもそもの因たる蒐剣狂愛の相馬大膳亮が、この深夜に、寝床の中からつづみの与吉に対面を許して、左膳の秘使を聞きとり、それに応じてさっそく対策を講じようとしているところ……。
江戸へ出て以来無音の左膳から突如急使が到着したと聞いて何事? とすぐさま端近く褥を移させたのだが、どうせ代人が手ぶらでくる以上、大した吉報でないのに相違ないと、こうして与吉を待つあいだも、癇癪もちの大膳亮、ひとりさかんにいらいらして続けざまに舌打ち――。
まえはいちめんの広庭。
遠くからこの寝間の光が小さく四角に浮き出で、灯のはいった箱船のように見えた時、与吉はいよいよお殿様へお眼通りだナと胸がドキンとしたが、なあにたかが田舎大名、恐れるこたアねえやな……こう空元気をつけて、申しあぐべきことづけを口の中で繰り返しながら、飛石を避けて鞠躬如、ソロリソロリと御前へ進んで、ここいらと思うと、はるか彼方にぴたりと平伏しようとすると、
「チッ、近う! ち、近う、ま、参れッ!」
と、どなりつけるようなお声がかり。
大膳亮はいう。
「タタタタタタタッ……たッ、たたたッ丹下左膳カ、から、ッ、つ――ツ、使いに来たというのは、そ、そのほうかッ……」
「さ、さようでごぜえます」
思わず釣りこまれてどもった与吉はッとして眼をあげたとたん、大柄な殿様の顔が、愛いやつとでも言うようにニッコリ一笑したのを見た。
こいつぁ江戸張りに生地でぶつかってゆくに限る――与吉は早くも要領をつかんだ。
同時に、大膳亮が四辺を見まわして、
「モ、者ども、密談じゃ! 密談じゃ! 遠慮せい、遠慮!」
やつぎ早に喚きたてると、暗くて見えなかったが、左右の廊下にいながれていたお側用人、国家老をはじめ室内の小姓まで、音ひとつたてず消えるようにひきとって行く。
与吉をうながして、縁の直下までつれていっておいて案内の若侍も倉皇と退出した。
後には。
相馬大膳亮とつづみの与の公、水入らずの差し向いである。大膳亮は蒲団から首だけ出して、与吉は、下の地面にへい突くばって。
珍奇な会談は、まず大膳亮から口をきられた。
「こここ、これ、タッタッ丹下……は無事か」
「お初にお眼にかかりやす。エ、手前ことは江戸は浅草花川戸、じゃアなかった、その、駒形のつづみの与吉――ッてより皆さんが与の公与の公とおっしゃってかわいがってくださいまして……」
「だッ、黙れ、黙れ! ダダ、誰が貴様の名をきいた?」
「へい」
「タタタタ、丹下は無事かッと申すに」
「へえ。さればでござりまする。どうもお殿様の前でげすが、あの方ぐれえ御無事な人もちょいとございませんで、へい[#「ございませんで、へい」は底本では「ございませんで、 へい」]」
「ナ、何を言うのか。き、貴様の言語は余にはよく通ぜん」
「なにしろ、やっとうのほうがあのお腕前でございましょう? 江戸中の剣術使いが一時にかかったって丹下様には太刀打ちできねえという、いえ、こりゃアまあ、こちとら仲間の評判なんで……お殿様もお眼が高えや、なんてね、しょっちゅうお噂申しあげておりますでございますよ、お噂を、ヘヘヘヘ失礼ながら」
何がどうしてなんとやら――自分でもいっさい夢中で、ただもうここを先途とべらべらしゃべりたてている与吉を大膳亮は、いささかあきれてのぞきこみながら、
「キキ、貴様、気がふれたか」
と言いかけたが、寒がりの大膳亮、夜風を襟元へうけて、すばらしく、大きな嚔を一つ――ハックシャン!
これに驚いて与の公、きょとんとしている。
そのうちにだんだん落ち着いてきた与吉が、ますます縁の真下へにじり寄って、丹下左膳からいいつかって来たことを、思い出し思い出し申しあげると!
黙って聞いていた相馬大膳亮、大柄な顔が見るみるひき歪んで、カッと両眼を見ひらいたばかり、せきこんで来ると口がきけないらしくやたらに鼻の下をもぐもぐさせて床から乗り出して来た。
その半面に、明りが奇怪にうつろう。
――関の孫六夜泣きのかたな……乾雲丸と坤竜丸。
丹下左膳が、昨年あけぼのの里なる小野塚鉄斎、神変夢想流の道場を破って、巧みに大の乾雲丸を持ち出したことから、その後のいきさつ、覆面火事装束の一団の出現、坤竜の諏訪栄三郎に蒲生泰軒という思わぬ助けがついていて、おまけに左膳が顎を預けている本所の旗本鈴川源十郎があんまり頼みにならないために諸事意のごとく運ばず、乾雲は依然として左膳の手にあるものの、いまだに二剣ところを別して風雲急を告げ、左膳は今どっちかというと、苦境におちいっているかたち……これらの件を細大洩らさず、順序もなしに与吉は、じぶんのことばでベラベラと弁じあげたのち、エヘン! とちょっとあらたまって、
「さてお殿様……そこで、丹下さまがこの与の公におっしゃるには。なア与の公、ここはいってえどうしたものだろう? 汝ならなんとする? とネ、こう御相談に預かりましたから、与の公もない智恵をしぼりあげて申し入れましたんで――そりゃア丹下様ッ、てあっしゃ言いましたよ。へえ、そりゃ丹下さま、かくかくかようになさいませ。お郷里もとのこちらへ援兵を願って……うん! 名案! それがいい! と、丹下さまアわかりが早えや。うん、それあいい。が、その使者には[#「使者には」は底本では「使者にわ」]誰が参る? ッてことになりやして、つづみの与吉がお役に立ちますならば願ってもない幸いとわたしがこう反っくり返りましてね、この胸をぽんと一つ叩きましたところが、おお! それでは与吉、貴様が行ってくれるか。なんの左膳さま、一度つづみがおひき受けしましたうえからは、たとえ火のなか水の中、よしやこの身は粉になろうともまアあんたは大船に乗った気で――おお、そんなら与吉頼んだよ。あいようがす……なアんてね、へえ、それでその、私が奥州街道を一目散……アアくたびれた」
「…………」
「ところがお殿様、ここにふしぎともなんとも言いようのねえことにゃア、その泰軒という乞食先生がね、どうしてあっしの中村行きをかぎつけたものか、それを考えると、与吉もとんと勘考がつかねえんだが、ウヘエッ! ぶらりと小金井に来ていやしてねえ、それからズウッととんだお荷物のしょいづめでございましたよ、いえ、全く」
「――――」
「が、だ。御安心なせえ、お殿様、あっしも駒形の与吉でございます。この先の二本松の宿でね、きれいにまいてやりましたよ。その時もあなた、わたしがお風呂へ行ったとお思いくださいまし……するてえと驚きましたね、お殿様のめえだが裸体の女が、ウヨウヨしてやがる、その真ん中に今の泰軒てえ乞食野郎が、すまアしてへえってるじゃあございませんか」
「…………」
「ま、与吉も骨折り甲斐がございました。へえ、こう申しちゃなんですが、左膳さまがおっしゃるには、礼のところは必ず見てやる、てんでネ、なあに、お礼なんか受ける筋合いでもなけりゃあ、またそれほどのことでもございませんで、ヘヘヘヘヘヘ大笑いでございましたよ」
「――――」
与吉が舌に油をくれて何を言っても、大膳亮はうなるだけで、今まで岩のように黙りこくっていたが。
情が迫ると咽喉につかえて言葉の出ない大膳亮は、この時ようよう与吉のもたらした驚愕と不安から脱しきれたものか、血走った眼を急にグリグリさせて乗るようにきき返した。
「ソ、それで、タ、丹下は、助剣の人数がほしいと言うのだな?」
「へえ。腕っこきのところを束でお願い申したいんで」
「キキキ貴様が、あ……案内して江戸へ戻るというのか」
「はい。さようで」
「うう――いつ、いつ、たつ?」
「へ、そりゃアもう明朝早くにでも発足いたします。丹下様がお待ちですし、それにこの際一刻を争いますから……」
「ウム!」と強くうなずいた大膳亮、同時に鋭い眼光を左右へくばって、
「こ、これ! たたたッ誰そある!」
相馬藩中村の城下はずれに、月輪一刀流の鋭風をもって近国の剣界に君臨している月輪軍之助の道場へ、深夜、城主の定紋をおいた提灯が矢のように飛んだ。
軍之助へ、お城から急のお召し。
何ごとであろう?……と、とるものもとりあえず衣服をあらためた剣精軍之助は、迎えの駕籠に揺られてただちに登城をする。
そして、さっそく御寝の間へ通されてみると。
国主大膳亮はこの夜更けにねもやらず、夜着をはねて黙然と端座したまま瞑想にふけっているようす、つづみの与吉はすでに、ねんごろに下部屋へさげられて休養したあとだった……。
その夜、大膳亮は月輪軍之助にいかなるところまで打ち明け、しかして何を下命したか。
偏執果断の大主大膳亮、吃々としてこういっただけである。
「ヒ、人殺しの好きな者を、さ、さ、三十人ほどつれて江戸へくだってはくれぬかの? 仔細はいけばわかる。ア、あの、タッ、たたたッ丹下、舟下左膳の助太刀じゃ。余から頼む、おもてだって城内のものをやられん筋じゃ。で、ココ、ここは、ど、どうしても軍之助、ソ、そちの出幕じゃ。シ、真剣の場を踏んだ、ク、クッ屈強な奴ばらをそちの眼で選んでナ、迎えが来ておるで、その者とともに三十名、夜あけを待って早々江戸へ向かってもらいたいのじゃ。よいか[#「もらいたいのじゃ。よいか」は底本では「もらいたいのじゃ。 よいか」]、しかと承引したな」
「殺剣衆にすぐれし者のみを三十名。はア。心得ましてござりまする、何かは存じませねど、かの丹下殿とはわたくしも別懇のあいだがら……殿のおことばがなくとも、必要とあらばいつにても助勢を繰り出すべきところ――しかも、お眼にとまってわたくしどもへ御芳声をいただき、軍之助一門、身にあまる栄誉に存じまする」
「うむ。デ、では、ヒ、ひきとって早く手配をいたすがよい」
「ははッ! わたくしはもとより門弟中よりも荒剣の者をすぐりまして、かならず御意に添い奉る考え、殿、御休神めされますよう……」
「ウム、たたたたッたのもしきその一言、タ、大膳亮、チ、近ごろ満足に思うぞ」
――いかに刀剣に対して眼のない溺愛の大膳亮とはいえ、もし彼が、この北境僻邑にすら今その名を轟かせている江戸南町奉行の大岡越前が、敵方蒲生泰軒との親交から坤竜丸の側にそれとなく庇護と便宜をあたえていると知ったなら、大膳亮といえどもその及ばざるを覚り、後難を恐れて、ここらでさっぱりと己が迷妄を断ちきり、悶々のうちにも忘れようとしたことであろうが、このつるぎのふたつ巴に関連して、大岡のおの字も思いよらない大膳亮としては、すでに大の乾雲を手にして、いまはただの小の坤竜にいき悩んでいるのみと聞いては、二剣相ひくと言われているだけに、いま手をひいて諦めることは、かれの集癖の一徹念がどうしても許さなかった。
生命がけでほしいものへ今にも手が届きそうで、そこへ思わぬじゃまがはいったすがた……。
阻まれれば阻まれるほど燃えたつのが男女恋情のつねならば、夜泣きの刀にひた向く相馬大膳亮のこころは、ちょうどそれだったといわねばなるまい。
世の常心をもって測ることのできない、それは羅刹そのものの凝慾地獄であった。
かくまでも刃にからんでトロトロとゆらめき昇る業炎……燭台の灯が微かになびくと、大膳亮は、大熱を病む人のごとくにうなされるのだった。
「おお! サさ左膳か――デ、でかしたぞ! ソその乾雲を離すな! 離すな! 今にナ、ググググ軍之助が援軍を率いて参るから、そち、彼とともに統率して、キキキ斬って斬って、斬りまくれ! なあに、かまわぬ! カカカッ構わぬ……ううむ!――なんと? か、か、火事装束! おのれッ何やつ? トトト脱れ覆面を? ウヌ! 覆面を剥がぬかッ! ツウッ……!」
そして。
ともし灯低く、白みわたる部屋にこんこんと再び眠りに沈んだ大膳亮――畢竟これはうつし世の夢魔、生きながらに化した剣魅物愛の鬼であった。
明けゆく夜。
城外いずくにか一番鶏の声。
やがて、お堀ばたの老松に朝日の影が踊ろうというころおい。
中村の町の尽きるところ、月輪一刀流月輪軍之助の道場では、江戸へつかわすふしぎな人選の儀が行なわれているのだった。
月輪一刀流……とは。
天正文禄の世に。
下総香取郡飯篠村の人、山城守家直入道長威斎、剣法中興の祖として天心正伝神道流と号していたが、この家直の弟子に諸岡一羽という上手あり、常陸えど崎に住んで悪疾を病み、根岸兎角、岩間小熊、土子泥之助なる三人の高弟が看病をしているうちに、根岸兎角はみとりに倦き、悪疾の師一羽を捨て武州に出で芸師となり、自派を称して微塵流とあらため世に行われた。
ところが。
あとに残った小熊と泥之助は、病師の介抱を怠らず、一羽が死んでのち、兎角のふるまいをもとより快からず思って、両人力をあわせ一勝負して亡師の鬱憤をはらそうとはかり、ついに北条家の検使を受け、江戸両国橋で小熊と兎角立ち会い、小熊、根岸兎角を橋上から川へ押しおとして宿志をとげた。
根岸兎角は、師の諸岡一羽のもとを逐電して、はじめ相州小田原に出たのだが、この兎角、伝うるところによれば、丈高く髪は山伏のごとく、眼に角あり、そのものすごいこと氷刃のよう――つねに魔法をつかい、人呼んで天狗の変化といい、夜の臥所を見た者はなかった。
愛宕山の太郎坊、夜な夜なわがもとに忍んで極意秘術を授けるといい広め、そこで名づけたのがこの微塵流。
その後江戸に出て大名、小名に弟子多かったが、三年たって諸岡一羽が死ぬと、相弟子の岩間小熊と土子泥之助、兎角を討ちとるために籤を引き、小熊が当たって江戸へのぼる。泥之助は国にとどまり、時日を移さず鹿島明神に詣でて願書一札を献納した。
敬白願書奉納鹿島大明神宝前、右心ざしのおもむきは、それがし土子泥之助兵法の師諸岡一羽亡霊は敵討ちの弟子あり、うんぬん……千に一つ負くるにおいては、生きて当社に帰参し、神前にて腹十文字にきり、はらわたをくり出し、悪血をもって神柱をことごとく朱にそめ、悪霊になりて未来永劫、当社の庭を草野となし、野干の栖となすべし――うんぬん。
文禄二年癸巳 九月吉日 土子泥之助……というまことに不気味な強文言。
これがきいて神明おそれをなし霊験ことのほかあらたかだったわけでもあるまいが、両国橋の果し合いでは確かに岩間小熊が勝ったのだけれど、その仕合いの模様にいたっては、群書おのおの千差万別、いま真相をつまびらかにする由もない。しかし、これが当時評判の大事件だったことは疑いなく、奉行のうちに加わって橋詰から目睹していた岩沢右兵衛介という仁の言に、わが近くに高山豊後守なる老士ありしが、この両人を見て、いまだ勝負なき以前、すわ兎角まけたりと二声申されしを不審におもい、のちその言葉をたずねしに、豊後守いいけるは、小熊右に木刀を持ち左手にて頭をなで上げ、いかに兎角と言葉をかくる。兎角、さればと言いて頬ひげをなでたり。これにて高下の印あらわれたり。そのうえ兎角お城に向かいて剣をふる。いかで勝つことを得ん。これ運命の告ぐる前表也と――。
とにかく。
その時、小熊は兎角のために橋の欄干へ押しつけられ、すでに危うく見えたのだったが、すもう巧者の小熊いかがしけん。兎角の片足を取って橋の下へ投げおとし、同時に脇差を抜いて、八幡これ見よと高声に呼ばわりながら欄干を切った……この太刀跡、かの明暦三年丁酉正月の大火に両国橋が焼けおちるまで、たしかに残っていたそうである。
さて。
兎角、悪いやつは滅びる――などと洒落てみたところで、そんなら、この根岸兎角の微塵流剣法、これで見事に、それこそ微塵となって大川に流れ果てたかというにそうではない。
撃剣叢談巻の二、微塵流のくだりに。
武芸小伝に微塵流往々存するよし見えたれば、兎角が末流近世までも行なわれしがごとし。いまも、辺鄙にはなお残れるにや、江戸にはこの流名きこゆることなし……とあるとおりに、月輪軍之助の祖月輪将監は、根岸兎角ひらくところの微塵流から出てのちに、北陬にうつり住んで別に自流を創し、一気殺到をもって月輪一刀流と誇号したのだった。
当代の道場主軍之助は、以前から丹下左膳と並称された月輪門下の竜虎。
左膳に破流別動の兆あるに反し、軍之助は一刀流正派のながれを守るものとして先師の鑑識にかない入婿して月輪を名乗っているのだが、剛柔兼備、よく微塵流の長を伝えて、年配とともに磐石のごとくいま北国を圧する一大剣士であった。
変動無常
因敵転化
という刀家相伝三略のことば。
それが初代将監先生大書の額となってあがっている月輪の道場である。
夜のひき明け……。
もはや寒稽古は終わったけれど、未明の冷気の熱汗をほとばせる爽快味はえもいわれず、誘いあわせて、霜ばしらを踏んでくる城下の若侍たちひきもきらず、およそ五十畳も敷けるかと思われる大板の間が、見る見る人をもって埋まってゆく。
相馬は、武骨をもって聞こえる北浜の巨藩である。
しかも藩主大膳亮が刀剣を狂愛するくらいだから、よしや雪月花を解する風流にはとぼしいといえども気風として烈々尚武の町であった。
相馬甚句にいう。男寝て待つ果報者――それは武士達のあいだには通用しない俗言とみえて、こんなに朝早くから陸続と道場の門をくぐっているのだ。
竹刀のひびき。
気合いの声。
板を踏み鳴らす音。
それがしばらく続いて、いつもよりすこし早めにとまったかと思うと、
「おのおの方、ただいま先生よりお話がござる。粛静に御着座あるよう……」
という師範代各務房之丞の胴間声に、一同、ガヤガヤと肩を押し並べてすわったが、おもむろに正面の杉戸が開いて出て来た月輪軍之助を見ると、満堂思わず、アッ! と愕きの声をあげた。
その姿である。急にかたき討ちの旅を思いたってこれからただちに出発するところ――とでもいいたい身ごしらえだ。
大筋の小袖に繻子のめうちの打割袴、白布を縒った帯に愛刀を横たえ、黒はばきわらんじに足を固め、六角形に太ながら作り鉄のすじ金をわたして、所どころに、疣をすえた木刀を杖にした扮装、古めかしくもものものしい限り…。
それがまた。
いま各務房之丞が、先生よりおはなしがござると言ったので、なみいる弟子ども、改まってハテなんだろう? と皆固唾をのんでいるにかかわらず、そこへ悠然と現れた軍之助は、かたく口を結んでちょっと場内を見渡したまま、ちょっと房之丞に眠くばせをすると、それなりつかつかと一方の壁へ向かって進んだが――たちまちピタリととまったのが、あの三略の言を墨痕に躍らせた額の真下。
そこに、ずらりと横に門弟の名札が掛かっている。
筆はじめは、いうまでもなく師範代各務房之丞。
次席 山東平七郎。
第三に、轟玄八。
四に、岡崎兵衛。
五、秋穂左馬之介。
大屋右近。
藤堂粂三郎。
乾万兵衛。
門脇修理。
以下二百名あまり。
めいめい一枚でも二まいでも札のあがるのを何よりの励みに日常の稽古を怠らないのだが、今、この腕順の名ふだの下に立った剣師軍之助。
やにわに腕をさしのばしたと見るや、一同があっけに取られているうちにパタパタと初めから順繰り……名札を裏返しに掛けなおして、約七分の一の小松数馬のところで手をとめた。
二百の名札のうち、はじめのほうはうらの木肌を黄白く見せている。
その、裏がえしにされた札の数を読むと、各務房之丞から小松数馬までちょうど三十――。
破門でもされるのでなければ、道場の名札を裏返しに掛けられるおぼえはない!
と、高弟の三十名をはじめ満場の剣客が鳴りをしずめていると。
軍之助、突如わめくようにいい渡した。
「これらの者三十人。今日かぎり破門を申しつける!」
意外のことばに騒然とざわめきたった頭のうえに、より意表外の軍之助の声が、もう一度りんとしてひびいたのだった。
「いや! 待て、待て! わしもみずからを破門するのじゃ!」
卯の刻。
あけ六つの太鼓が陽に流れて、ドゥン! ドーン! と中村城の樹間に反響しているとき。
異様な風体の武士たちが三々伍々のがれるがごとく人目をはばかって町を離れ、西南一の宿の加島をさして、霜にしめった道をいそいでいた。
そろいもそろって筋骨たくましい青壮の侍のみ。
それが、一同対の鼠いろの木綿袷に浅黄の袴、足半という古式の脚絆をはいているところ、今や出師の鹿島立ちとも見るべき仰々しさ。
胆をつぶしたのは沿路の百姓、早出の旅の衆で、
「うわアい! 新田の次郎作どんや、ちょっくら突ん出て見なせえや! いくさかおっ始まっただアよ」
「ヒャアッ! 相手は何国だんべ?」
「あアに、この隣藩の泉、本多越中様だとよウ!」
などと、なかには物識り顔をするものもあってたいへんなさわぎ……月輪門下の剣団、進軍の先発隊と見られてしまった。それほどの装い、決死の覚悟、生きて再び故山の土を踏まざる意気ごみである。
が、なんのために腕を扼して江戸へ押し出すのか?
同門の剣友、隻眼隻腕の丹下左膳を救うべく!
それはいいが、左膳が何にたずさわり、そしていかにして危殆に迫っているのか? したがって自分らは左膳に与してどんな筋に刃向かうのか、敵は何ものなのか、そもそも何がゆえに左膳は戦い、またじぶん達もそれに加勢して、話に聞いた江戸で、この殺刀の陣を敷かなければならないのか?――かんじんのこれらの点になると、大将株の月輪軍之助をはじめ、皆の者、いっさい一様に文字どおり闇黒雲なのだ。しかし!
そんなことはどうでもよかった。花のお江戸へ繰りこんで、好きなだけ人が殺せると聞いただけでこの北の荒熊達は、もうこんなに悦び勇んでいるのだった。
幸か不幸か太平の世に生まれ合わせて、いくら上達したところで道場の屋根の下に竹刀を揮うばかり……。
まれに真剣を手にしても、斬るのは藁人形かせいぜい囚人の生き胴が関の山。
駒木根颪と岩を噛む大洋の怒濤とに育てあげられた少壮血気の士、いささか脾肉の嘆にくれていたところへ、生まれてはじめての華やかな舞台へ乗り出して、思うさま血しぶきをたてることができるのだから、誰もかれも、もう眼の色を変えてさわぎきっている。
依頼によって動く殺人請負の一団。
刃怪丹下左膳を生んだ北国野放しのあらくれ男が、生き血に餓えるけもののように隊を組み肩をいからして、街道の土を蹴立てていくのだ。
陰惨な灰色の天地から、都鳥なく吾妻の空へ……。
人あって遠く望めば、かれらの踏みゆくところに従い、一塊の砂ほこり白く立ち昇って、並木の松のあいだ赤禿げた峠の坂みちに、差し反らす大刀のこじりが点閃として陽に光っていたことであろう。
こうして。
破門された各務房之丞、山東平七郎、轟玄八以下三十名の剣星と、自らを破門してそれを率いる師軍之助と、月輪一刀流中そうそうの容列、〆めて三十一士であった。
相馬中村は小さくなって通れ
鬼の在所じゃ月の輪の
……無心な童児の唄ごえにも、会心の笑みをかわす剣気の群れ――東道役は言わずと知れた駒形の兄いつづみの与吉だが、与の公、このところ脅かされつづけで、かわいそうにいささかしょげてだんまりの体だ。鬼の在所じゃ月の輪の
第一、言葉がよくわからない。
「こンれ! 汝ア、江戸もんけ? 江ン戸は広かべアなあ」
「はい。まことにその、結構なお天気さまで、ヘヘヘヘ」
「江戸さ着たらば、まンず女子を抱かせろ。こンら!」
「どうも、なんともはや、相すみませんでございます」
「わっハッハッハ!」
とんちんかん、おおよそかくのごとく、口をきくたびに意思の疎通を欠く恐れがあるし、江戸では見かけたこともない厳つい浅黄うらばかりがワイワイくっついているので、小突かれた日にぁ生命があぶない。さわらぬ神にたたりなしと、与吉は苦しいのを我慢して無言のまま、先に立って今度は水戸街道を加島、原町、小高、鷹野、中津、久満川、富岡……。
ここから木戸まで二里の上りにかかる。
はじめ、お下館へさげられてゆっくり休んでいた与吉を、朝早く宿直の侍が揺り起こしたのだった――。
援軍の仕度ができたから町外れの道場へ……といわれて、案内につれ、月輪方へ出向いてみると。
だだっ広い板敷に三十人の破門連だけが車座に居残って、剣主軍之助から江戸入りを命ぜられている最中。
いかさま東下りとしかいいようのない、仕度も仕度、たいへんな大仕度に、つづみの与の公、まずたましいを消さなければならなかった。
わけも知らないのに、軍にでも出るような騒動――にわかの発足とあって、わらじを合わす者、まだ一寸も江戸へ近づかないうちから、刀を引っこ抜いてエイッ! ヤッ! と振り試みるもの、上を下へとごった返しているから、これを見た与吉が、ひそかに考えたことには、
「これほどじゃあるめえと思ったが、強そうには強そうだけれど、いやはやどうも、ひでえ田舎ッぺばかりじゃアねえか。ちょッ! あの服装はなんでえ! 覲番侍が吉原の昼火事に駈けつけるんじゃアあるめえし、大概にしゃアがれッ!……といいてえところだが、待てよ! これだけの薪雑棒に取り囲まれていけあ、たとえあの乞食坊主がいつどこで飛び出したところで、帰途の旅は安穏しごくというものだ――身拵えは江戸へはいる前にでもよッく話してなおしてもらおう。それまではこの田舎者の道あんない。まあ、何も話の種だ」
とあきらめて、一同とともに打ちつれだって出て来たのだが、性来粋がっている江戸ッ子の与の公、仮装行列のお供先を承っているようで、日光のかくかくたる街道すじを練ってゆくとなんとも気のひけることおびただしい。
いまでさえこうだから、江戸に近づくにつれてその気恥ずかしさは思いやられる。どっちへ転んでも情けねえ役目をおおせつかったものだ! と、つづみの与吉、口のなかで不平たらたら……大きな肩に挟まれて木戸の宿場の登りぐち、虫の知らせか、進まぬ足を踏みしめて一歩一歩と――。
かえりは、道をかえて水戸街道。
常陸の水戸から府中土浦を経て江戸は新宿へ出ようというのだ。
奥州本街道とはすっかり方角が違うから、二本松に残して来た蒲生泰軒に出会する心配はまずあるまい。また仮りに行き会ったところで、こんどはこっちのもの、与吉はすこしも驚かない。
富岡より木戸。
この間、二里の小石坂。
いい眺望である。
山に沿ってうねりくねってゆく往還、片側は苗木を植えた陽だまりの丘で、かた方は切りそいだように断崖絶壁。
まっ黒な峡にそそり立つ杉の大木のてっぺんが、ちょうど脚下にとどいている。
その底にそうそうと谷をたどる小流れの音。
いく手に不動山の天害が屏風のごとくにふさぎ、はるかに瞳をめぐらせば、三箱の崎。舟尾の浜さては平潟に打ち寄せる浪がしらまで、白砂青松ことごとく指呼のうち――。
野火のけむりであろう、遠く白いものが烟々として蒼涯を区切っている。
「絶景! 絶景!」
というべきところを、月輪の剣士一同、あゆみをとめて、ジュッケイ! ジュッケイ!
と口ぐちにどなりあっている。
「町人! ここサ来! あの白っこい物アなんだ?」
「エエ……白っこい物と、はて、なんでございましょう――ア! あれは関田へおりる道じゃアございませんか」
「ほうか」
「コンラ町人、江ン戸にはこんな高い所あッか?」
「エヘヘ、まずございますまいな」
「ほうだろう……うおうい!」
先の者がしんがりを呼ぶと、
「なんだア――ア?」
と急ぎのぼってくる。
「中村のお城が見えるぞウイ」
「ほんなら、みんな並んで最後のお別れに拝むこッた。拝むこった」
というので、なるほど、かすかに雲煙をついて見える相馬の城へ向かって、しばし別離のあいさつ……。黙祷よろしくあってまたあるきだすと、
「なあに、ここをかわせばもうじき広野の村へ下りでございます」
なんかと与吉、この道は始めてのくせに例のとおり知ったかぶりをして、出張った山鼻の小径を曲がる――が早いか、血相をかえたつづみの与の公、ギオッ!
とふしぎな叫声をあげたが、駆けよった先頭の連中も、一眼見るより、これはッ! とばかりに立ちすくんだのだった。
白い乾いた路上の土に、大の字なりふんぞりかえっている異形の人物! パッサリと道土をなでる乱髪の下から、貧乏徳利の枕をのぞかせて……。
思いきや! 泰軒蒲生先生の出現!
顔いろを変えた与吉が、おののく手で各務房之丞の肱をつかみ、何ごとか二、三声ささやくと、ウムそうかと眼を見はった房之丞、おおきくうなずきながら首領月輪軍之助の耳へ取り次ぐ。
と、
軍之助の右手が高くあがって、
「なんじゃい、こいつ!」
「食らい酔ってるで」
「かまわず踏みつけて通れや!」
などとグルリ取り巻いてどなりかわしていた剣鬼のやからをぴたッと制する。
急落した沈黙。
容易ならぬ漂気!――と見て、早くも二、三、せわしく刀の柄ぶくろを脱けにかかる。
が!
この暴風雨のまえの静寂にあって、泰軒居士は身動きだにしない。
グウグウ……と一同の耳底に通うかすかないびきの声、豪快放胆な泰軒先生、いつしかほんとにねむっているのだった。
むさ苦しいぼろから頑丈な四肢を投げ出して、半ば口を開けている無心な寝顔に、七刻さがりの陽射しがカッと躍っている。
大賢大愚、まことに小児のごとき蒲生泰軒であった。
それを包んで、中村の剣群も眼を見あわすばかり、軍之助はじめほか一同、黙って足もとの泰軒をみつめている。
いつ覚むべくもない奇仙泰軒……。
かれは。
二本松の町に一夜を明かして、その夜なかに与吉が脱出したことを知るやいな、いく先はどうせわかっている相馬中村――ただちにその足で先まわりして、道なき道を走って飯野を過ぎ、それから川俣、山中の間道づたい、安藤対馬守どの五万石岩城平から、相馬の一行とは同じ往還を逆に、きょう広野村よりこの木戸の山越えにさしかかったところで。
眠くなれば、どこででも寝る泰軒は、日のひかりを背いっぱいに受けて登ってくるうちに睡魔にとりつかれ、今ちょうど山坂の真ん中にひっくりかえって、ひとねむりグッスリとやらかしている最中だった。
そこへ!
思い設けないこの出会い……月輪の剣列、いたずらに柄頭をおさえてじっと見据えていると!
はじまるナ! と看てとった与の公、逸早くコソコソうしろへ隠れてしまったけれど、泰軒はいい気もちに高いびき、すっかり寝こんでいる――のかと思うと、さにあらず!
どうしてどうして、彼はさっきから薄眼をあけて、まわりに立ち並ぶ足の数から人数を読みとろうとしているのだが、外観はどこまでも熟睡の態で、狸寝入りの泰軒先生、やにわに寝語にまぎらしてつぶやき出したのを聞けば、
「おお、コレコレ与吉、松島みやげにたくさん泥人形を仕入れて参ったな。だが、惜しむらくはどれもこれも不細工、ウフフフフ都では通用せん代物じゃて……」
と言いおわるを待たず、それッ! 軍之助が声をかけたのが合図。
パァッ! と円形が拡がると同時に飛びこんで来た秋穂左馬之介、かた足あげて、泰軒がまくらにしている一升徳利を蹴った――のが早かったか、一瞬にしてその脚をひっつかみ担ぐと見せて急遽身を起こした泰軒が遅かったのか?
とまれ、それはほんの刹那の出来事だった。
間髪を入れない隙に、あッ! と人々が気がついたときは、左馬之介の身体は岩石落とし……削りとったような大断面を鞠のごとくに転下して、たちまち山狭の霧にのまれ去った。
あとには、一抹の土埃が細く揺れ昇って、左馬之介のおちた崖の端に、名もない雑草の花が一本、とむらい顔に谷をのぞいている。
けれど! 驚異はそれのみではなかった。
とっさのおどろきから立ちなおって、すぐに泰軒へ目を返した月輪組は、いつのまに奪ったものか、そこに見覚えのある左馬の愛刀を抜きさげて、半眼をうっそりと突っ立っている乞食先生のすがたを見いださなければならなかった。
自源流奥ゆるし水月のかまえ……。
しかも、あの秒刻にして左馬を斬ったのだろうか、泰軒の皎刃から一条ポタリ! ポタリ! と赤いものがしたたって、道路の土に溜まっているのではないか。
凄然たる微笑を洩らす泰軒。
きらり、きらりと月輪の士の抜き連れるごとに、鋩子に、はばき元に、山の陽が白く映えた。
「なんじは、これなる町人を江戸おもてよりつけ参った者に相違あるまいッ!」
と、月輪軍之助、泰軒の直前に棒立ちのまま叱咤した。
「…………」
泰軒は無言。ほお髭が風にそよぐ。
「おのれッ! 応答をいたさぬかッ」
言いかけて、軍之助は声を低めた。
「いままた、同志秋穂左馬之介の仇敵……かくごせい!」
そして!
その氷針のような言葉が終わったかと思うと、さアッ! と一層、月輪の円形が開いて、あるいは谷を背に、他は丘にちらばり、残余の者は刃列をそろえてすばやく山道の左右に退路を断った。
とともに! 一刀流正格の中青眼につけた岡崎兵衛、めんどうなりと見たものか、たちまち静陣を離れて真っ向から、
「えいッ」
はらわたをつんざく気合いを走らせて拝み撃ち!――あわれ泰軒先生、不動のごとく血の炎に塗れさった……と思いのほか刹那! 燐光一線縦にほとばしって、ガッ! と兵衛の伸剣を咬み返したのは自源流でいう鯉の滝昇り、激墜の水を瞬転一払するがごとき泰軒の剛刀であった。
とたん!
払われた兵衛は、自力に押されて思わずのめり足、タッタッタッ! 掻き抱く気味にぶつかってくる。そこを、踏みこたえた泰軒、剣を棄てて四つに組む――と見せて、即に腰をひねったからたまらない。あおりをくった岡崎兵衛、諸に手を突いて地面をなめた。
が、寸時を移さず泰軒には、こんどは門脇修理を正面に、左右に各一人、三角の剣尖を作っていどみかかっている。
危機!
……とは言い条、自源流とよりはむしろ蒲生流といったほうが当たっているくらい、流祖自源坊の剣風をわが物としきっている侠勇蒲生先生、とっさに付け入ると香わせて、誘い掛け声――。
「うむ!」
と!
これに釣りこまれたか、それとも羽毛の隙でも剣眼に映じたものか、右なる刀手、殺気に咽喉をつまらせて沈黙のうちに引くより早く、一線延びきってくる片手突き!
太刀風三寸にして疾知した泰軒うしろざまに飛びすさるが早いか、ちょうど眼前に虚を噛まされておよいでいる突き手を、ジャリ……イッ! と唐竹割りにぶっ裂いた。
濡れ手拭――あれを両手に持って激しく空に振ると、パサリ! という一種生きているような異様な音を発する、人体を刀断する場合に、それによく似たひびきをたてると言われているが全くそのとおりで、いま水からあげたばかりの布を石にたたきつけたように、花と見える血沫が四辺に散って、パックリと口を開いた白い斬りあとから、土にまみれる臓腑が玩具箱をひっくりかえしたよう……。
チラ! とそのさまに眼をやった泰軒、
「すまぬ。――南無阿弥陀仏」
さすがは名うての変りもの、じぶんが殺ったそばからお念仏を唱えてニッコリ、ただちに長剣に血ぶるいをくれて真向い立っている門脇修理に肉薄してゆくと。
白昼の刃影、一時にどよめき渡って、月輪の勢、ジリリ、ジリリとしまると見るや、一気に煥発して乱戟ここに泰軒の姿を呑みさった。
夜ならば火花閃々。
ひるだからきなくさい鉄の香がいたずらに流れて、あうんの声、飛び違える土けむり、玉散る汗、地に滑る血しお……それらが混じて一大殺剣の気が、一刻あまりも山腹にもつれあがっていた。
はじめのうちつづみの与吉は、小高い斜面の切り株に腰をかけて、たかみの見物と洒落ていたがだんだんのんきにかまえていられなくなって、そこらにある石でも枯れ枝でも手あたりしだいに泰軒を望んで投げつけてみたけれど、単に混戦の度を増して味方に迷惑なばかり。
やがて。
こうなってみると、せまくて足場のわるいのが、何よりも多勢の側にとって不利なので、存分に動きのとれる峠下の広野へ泰軒をひきだし、また自分たちも一歩でも江戸に近よろうと、軍之助の指揮のもとに、一同、突如刀を納めてバラバラバラッ! と雪崩をうって江戸の方角へ駈けおりてゆく。
なむさん! 遅れては大変! と与の公もころがるようにつづいたが、
追おうともしない泰軒。
ニッとほくそ笑んで、懐中から巻き紙を切って、綴じた手製の帳面を取り出したかと思うと、ちびた筆の穂先を噛んでそこらを見まわした。
まぐろのようにころがっている屍骸がふたつ。
それに、最初峡へ斬りおとした秋穂左馬之介を加えて、きょう仕留めた獲物はつごう三名。
泰軒先生、死人の血を筆へ塗って、三と帳づらへ書き入れた。
中村を進発のとき、軍之助を筆頭に各務房之丞、山東平七郎、轟玄八ほか二十七人、〆めて三十一名だった相馬月輪組は、木戸の峠の剣闘に秋穂左馬之介等三人を失って二十八人、それでも与吉を案内に水戸街道の宿々に泊りを重ねて、きょうの夕刻、こうしてたどり着いたのが助川の旅籠鰯屋の門口だ。
木戸以来、泰軒の消息はばったりと途絶えて、いくら振り返っても影も形も見えないから、月輪の一同、安堵と失望をごっちゃにした妙なこころもちだった。
あの時は地の利がわるかったために思うように働けなかったが、充分な広ささえあればあんな乞食の一人やふたり、またたく間に刻んでくれたものを!――こう思うと誰もかれもいまにも彼奴があらわれればいいと望んでいるものの、待っている時に限って、姿を見せないのがほととぎすと蒲生泰軒で、とうとうここまで、北州の雄月輪一刀流と、秩父に伝わる自源流と、ふたたび刃を合わす機会もなくすぎて来たのだが……。
助川、江戸まで、四十一里半。本陣鰯屋の広土間。
ドヤドヤとくりこんで来た月輪組の連中は、ただちに階上の二間をぶっ通して借りきって旅の汗を洗いにただちに風呂場へ駆けおりる者、何はさておき酒だ酒だとわめくもの、わるふざけて女中を追いまわす者――到着と同時にもう家がこわれるように大にぎわい。
何しろ若年の荒武者が二十八士も剣気を帯びての道中だから、その喧噪、その無茶まことにおはなしにならない。
あまりの騒動に宿役人が出張して来て、身がら、いく先などを型ばかりにしらべていったが、これは師範代各務房之丞が引き受けて、金比羅詣りの途中でござると開きなおり、見事にお茶らかして追い返してしまう。
あとには。
気を許した一同が、五、六十本の大小を床の間に束で立て掛け、その前に大胡坐の月輪軍之助を上座に、ズラリと円くいながれて、はや酒杯が飛ぶ、となりの肴を荒らす、腕相撲、すね押しがはじまる……詩吟から落ちてお手のものの相馬甚句、さてはお愛嬌に喧嘩口論まで飛び出して、イヤハヤ、たいへんな乱痴気ぶりだ。
旅中はおのずから無礼講、それに、何をいうにも若い者のこととて大眼に見てかあきらめてか、それともあきれたとでもいうのか、剣師軍之助はこの崩座を眺めて制しようともせず、やりおるわいと微笑みながらチビリチビリと酒をふくんでいると。
いつしか話題が泰軒へ向いて、
「力はあるが、大した剣腕ではないで、こんど出て来たら、拙者が真ッぷたつにしてくれるテ。なあ、汝らア騒がずと見物しとれ」
「何をぬかしくさる! おれは、きゃつの業の早いのが恐るべきだちゅうんだ、岡崎がかわされて手をついた時の不様ってあっか」
「さようでございます。どうもあのとおり乱暴な乞食なんで、見ておりましても手前なんかは胸がドキドキいたしますが、でもまあ、皆さまというお強いお方がそろっていらっしゃいますので、このところ与の公も大安心でございます、へい」
「そうとも! そうとも! 何があっても町人はすっこんでおろ!」
「なんともはや、その言葉一つが頼みなんで――ま、ま、一ぱい! 酒は燗、さかなはきどり、酌は髱なアンてことを申しながら、野郎のおしゃくで恐れ入りますが、どうぞ[#「どうぞ」は底本では「とうぞ」]お熱いところをお重ねなさいまし。オッととととと!……これは失礼」
などと、与の公までがしゃしゃり出てきて、いい気になって酒盃のやりとりを続けているところへ!
ミシ! と天井うらの鳴る音!
まだ日が暮れたばかり。おまけに下はこの宴席、なんぼなんでも鼠の出るわけはなし、それに! ねず公にしてはちと重すぎる動きが感じられる。
と、一同が期せずして話し声をきり、飲食の手をとどめて、思わずいっしょに天井を仰いだとたん!
パリパリパリッ! と、うずら目天井板の真ン中が割れたかと思うと、太い毛脛が一本、ニュウッ! と長くたれさがって来た。
あっけにとられて口をあけたまま見あげていた月輪の剣豪連、それッ! というより早く、算をみだして床の間の刀束へ殺到する。
その間に、天井裏の怪人、脚から腰と下半身をのぞかせて、いまにも、座敷の中央へ飛びおりんず気配!
うわさをすれば影とやら――泰軒先生の意外な登場。
与吉は?……と見れば、逃げ足の早いこと天下一品で、もう丸くなって段梯子をころげ落ちていた。
秋穂左馬之介以下二名のとむらい合戦!
と思うから、このたびこそは討たずにはおかぬと、一刀流月輪の門下、軍之助、房之丞を、かしらに冷剣の刃ぶすま、ずらりと大広間に展開して、四方八方から一泰軒をめざし、進退去就いっせいに、ツツウと刻みあし! 迫ると見れば停止し、寂然たることさながら仲秋静夜の湖面。
夕まけて戸内の剣闘。
灯りが何よりの命とあって、泰軒の出現と同時に、気のきいた誰かが燭台を壁ぎわへ押しやって百目蝋燭をつけ連ねたので、まるで昼のようなあかるさだ。
そのなかに、刀影魚鱗のごとく微動していまだ鳴発しない。
まん中のひらきに突っ立った泰軒、やはり貧乏徳利を左手に右に左馬之介から奪った彼の一刀をぶらりとさげて、夢かうつつの半眼は例によって自源流水月の相……。
降ってわいたようなという形容はあるが、これはそれを文字どおりにいっていかさま降ってわいたつるぎの暴風雨――こうしてかれ泰軒が、突如助川いわし屋の天井から天降るまでに彼はいったいどこにひそみ、いかにして月輪組をつけて来たか?
あれほど意をくばってきたになお尾行されているとは気がつかなかった……という月輪一同の不審ももっともで、ちちぶの深山に鹿を追い、猿と遊んで育った郷士泰軒、彼は自案にはすぎなかったが、隠現機に応ずる一種忍びの怪術を心得ていたのだ。
だからこそ、江戸でも、警戒厳重な奉行忠相の屋敷へさえ、風のように昼夜をわかたず出入するくらい、まして、自然の利物に富む街道すじに、多人数の一団をつけるがごときは、泰軒にとっては朝めしまえ、お茶の子サイサイだったかも知れない。
かくして。
一行にすこし遅れ、混雑にまぎれていわし屋の屋根うらへ忍びあがったかれ、いまその酒宴の真っただなかをはかってずり落ちてきたのだ。
泰軒の足もと近く、朱に染まった手に虚空を掴んで動かない屍骸ひとつ。それは、跳びおりざま横薙ぎに払った剣にかかって、もろくも深胴をやられた大屋右近のなきがらであった。
ビックリ敗亡、あわてふためいたのはいわし屋の泊り客に番頭、女中、ドキドキ光る奴が林のように抜き立ったのだから手はつけられず、とばっちりをくってはたまらぬと、一同、さきを争って往来へ飛び出したのはいいが、なかには、狼狽の極、胴巻とまちがえて小猫を抱いたり、振分けのつもりで炭取りをさげたり……いや、なんのことはない、まるで火事場のさわぎ。
この騒乱に地震と思って、湯ぶねからいきなり駈け出して出た女が、ひとり手ぬぐいを腰にうろうろしているのを見かけると、抜け目のない奴で、じぶんの荷だけはいっさいがっさい身につけ、担ぎ出したつづみの与の公、すばやく走りよって合羽を着せる、履物をやる、ごった返すなかでそのいきとどくこと、どうも此奴、いつもながら女とみるとばかに親切なやつで。
果たして、良人と覚しき女の同伴が飛んで来て、礼よりさきにどしんと一つ与吉を突きとばしたのは駒形の兄哥一代の失策、時にとってのとんだ茶番であった。
それはさておき――。
おもて二階の剣場では。
気頃を測っていた泰軒が、突! 手にした一升徳利を振りとばすと右側の轟玄八、とっさに峰をかわしてハッシと割る!
これに端を発した刃風血雨。
ものをも言わず踏みこんだ泰軒、サアッと敵の輪陣を左右に分けておいて、さっそくのつばくろ返し手ぢかの小松数馬の胸板を刃先にかけてはねあげたから、いたえず数馬、ッ! と弓形にそる拍子に投げ出された長刀白線一過してグサッ! と畳に刺さった。
とたん! 側転した泰軒、藤堂粂三郎とパチッ! やいばを合わせる……と同秒に足をあげて発! そばの一人を蹴倒しながら、長伸、軍之助を襲うと見せかけ、隙に乗じて泰軒、ついに壁を背にして仁王立ち……再び、刀をさげ体を直に、なかばとじた眼もうっとりと、虚脱平静、半夜深淵をのぞむがごとき自源流水月の構剣……。
またしても入った不動の状。
せきれいの尾のようにヒクヒクと斬尖にはずみをくれながら、月輪の刀塀、満を持して放たない。
往来に立ってワイワイさわいでいる人々の眼にうつるのは。
二階の障子に烏のように乱舞する人影と人かげ……。
と! 見る間に。
その障子の一枚を踏み破って、のめるように縁の廊下に転び出た大兵の士――月輪剣門にその人ありと知られた乾万兵衛だ。
が、おなじ瞬間に追撃ちの一刀!
利剣長閃、障子のやぶれを伸びて来たかと思うと、たちまち鮮血鋩子に染み渡って、
「あッ痛……ウッ!」
と万兵衛、肩口をおさえて、がっくりそのままらんかんに二つ折れ、身をささえようとあせったが、肥満の万兵衛何条もってたまるべき! おのが重体を上身に受けて欄干ごし、ドドドッ! と二、三度庇にもんどりうったと見るや、頭部から先にズデンドウ、うわアッと逃げ退く見物人の真ん中へ落ちて、
「ザ、残念! ざんねんだッ!」
と、ふた声三声くち走ったのが断末魔、地に長く寝て動かずなった。
二階の博刃は今し高潮に達したとみえ、ふみきる跫音、鉄とあらがねの相撃ちきしみあうひびき、人の心胆を寒からしめる殺気、刀気……ののしるこえ、物を投げる音! たちまち! ザアッと障子が鳴って黒い斑点が斜めに散りかかりつつみるみる染みひろがっていくのは、泰軒か月輪団か、さてはまた一人斬られたとみえる。
こわいもの見たさに刻々あつまってくる路前の人出も、あアレヨアレヨ! と叫びかわすばかりで、なんとも手のくだしようがなく、女達なぞは、一太刀浴びたらしい魂切る声が流れるごとに、顔を覆い耳をふさいでいるが、それでも容易に立ち去ろうとはしない。
代官はじめ宿役の衆は、この剣戦を知らぬ顔にいったい何をしているか?――というに、広くもない村うち、彼らといえども識らぬではない。が、一段落ついて危険が去ってから出動するつもりで、いまは、ヤレ身仕度だ、それ人数だ、とできるだけ暇をとって出しぶっているのだ。
さてこそ、これほどの騒動にまだ御用提灯の見えぬわけ……。
そのうち。
群集のひとりが頓狂な声を張りあげて、
「火事だアッ!」
と叫んだ。
然り! 火事も火事、一瞬にして勢いさかんな烈火の舞いだ。
燭台を蹴倒して、その灯が襖へでも燃え移ったことから始まったらしい。
蛇の舌のような火さきがメラメラと障子をなめ畳にひろがってまたたく間に屋根へ吹き抜け、天に冲する光煙、地を這いまわるほのお、火の子は雨と飛び、明々の灼気風と狂って本陣いわし屋の高楼いまは一大火災の船と化し終わった。
折あしく戌亥の強風。
家財をかついで右往左往逃げまどう町民、わめきかわす声、梁の焼け落ちる轟音、昼よりも明るい天地のあいだにしいんと静まり返って燃えさかる火! 火! 火!
その、烈火の影、黄色く躍る熱沙の土をふんで、一団の人かげが刀を杖つき、負傷者をかばって遠く宿を離れ、常州をさしてひた走りに落ちのびていた。
今宵の乱闘にまたもや敗けをとりながら、こうしてそれでも歩は一歩と江戸へ近づく相馬中村の剣群月輪の勢、路傍の小祠にいこって頭数を検するに、こいつだけは無事息災、まっさきに逃げ出して来たつづみの与吉のほかに、二十八人のうちから死者大屋右近、乾万兵衛、小松数馬、里村狂蔵の四名を出し、残りの二十四名のなかにも重軽の金創火創を受けて歩行困難を訴えるもの三人……目的地とする江戸との間にまだ四十里の山河をへだてているにすでにこの減勢とは、統帥軍之助の胸中、早くもうたたうらさびしいものがひろがるのだった。
はるかに小手をかざせば助川の空はいちめんの火雲、近くの邑々で打ち鳴らす半鐘の音が風に乗って聞こえていた――。
あの焦土の中心にあっては、いかな泰軒先生もついに一握の灰と化したろう……という想定はもってのほか!
ちょうど月輪の連中が途上に休んでいるころおい、不死身の泰軒は、燃え狂ういわし屋の屋内を火の粉の一つのように駈けまわって、
「あ! ここにも一つ死んでおるぞ! これで三人、いや、下の道に落ちたのがひとり、合計今夜は四人の収穫か。ワッはっはっは!」
と、眉毛に火のつくなかで自若たる泰軒、ふところをさぐって取り出したのは殺生道中血筆帳の一冊、禿筆の先を小松数馬の斬り口へ塗って血をつけ――。
すけ川の宿にて四人也。
トップリと書きこみながら、念仏とともに一句浮かんだ。
「春浅しほだ火に赤き鬼四つ……南無阿弥陀仏」
こうして二十四名に減って助川をあとにした月輪軍之助の一行はつづみの与吉をみち案内にたて、その夜のうちに石神までたどりつき、翌る一日を宿屋に休息してゆうゆう傷の手当、刀のていれに費やして夕ぐれとともに石神を発足、くらい山道を足にまかせて、眠っている中納言様の御城下常陸の水戸を過ぎ、やがて利根川に注ぐ支流鞍川の渓谷へさしかかったころから……。
雨。
そして風。
一山、ごうッと喚き渡って、峡間にこだまし樹々をゆすぶる深夜のあらしだ。
「こりゃたまらぬテ!」
「ひどい吹き降りになりおったな」
言いながら水を越す用意。
鞭声粛々夜河をわたる。
広い河原だ。
黒い石が累々と重なりつづいて古びた水苔で足がすべる。蛇籠を洗う水音が陰々と濡れそぼれた夜の底をながれていた。
右は、遠く荒天にそびえる筑波の山。
ひだり、阪東太郎の暗面を越えて、対岸小貝川一万石内田主殿頭城下の町灯がチラチラと、さては香取、津の宮の家あかりまで点々として漁火のよう――。
それへ向かって、狭い浅い鞍川の河水が岩角をかんで白く咲きつつ押し流れているのだ。
うしみつ。
咆える風に横ざまの雨滴。
「よいか! 集まって渡れや!」
「浅いが、水が早いで、足をとられんようにナ、みんな気をつけて来!」
口ぐちに叫びあいつつ、残士二十四の月輪の援隊、冷ッとする水に袴のもも立ちとった脚の半ばまで埋めて、たがいに手を藉し肩を預けながら、底石を踏んでちょうど川中へ来かかった時だった。
さきに立っていた山東平七郎がみつけたのだ。
平七郎、河のまん中にピタッと急止し、大手をひろげて背後につづく同志を制しながら、一同またかッ? とばかりに刀をかまえてゆく手をのぞくと……何もない。
ただ、黒い河水の表面に、南瓜とも薬玉とも見える円い物がひとつ動くとも漂うともなく浮かんでいるだけ――。
「なんじゃい? あれは」
「笊の川ながれじゃ。大事ない」
「芥のかたまりぞ! わっはッは、山東殿の風声こりゃ笑わせるテ」
それでも連中、念のためにしばらく立ちどまってみつめていたが、なるほど、富士川みず鳥の羽音、平家ではないがとんだ臆病風と哄笑一番、ふたたび水中に歩を拾って進もうとする!
いきなりつづみの与の公が、ブルブルガタガタとふるえ出した。
……も道理こそ……!
声が聞こえる。
「ア、これこれ与吉、待っておったぞ! よい湯加減じゃ。背中をながせ、せなかを流せ」
というように。
しかもそれが暴風雨のひびきのいたずらとも、水音のなす耳のせいとも思えるのだが、こんどはハッキリと一声、たしかに河のそこからどなるように立ちのぼってきたから、与吉はもちろん、月輪組の一統、あッ! とおめくなり急淵を蹴って河中に散った。
「来ぬかッ! しからば当方より出向くぞッ!」
と同時!
今のいままで笊の川ながれ塵埃の集結と見えていた丸い物が、スックと水を抜いて立ちあがったのを眺めると、裸ん坊の泰軒先生!
九つの生命でもあるものか。いつのまにやら先まわりして、先生、さっきからこの夜ふけの鞍川につかって待ちぶせながら、のんきに行水と洒落のめしていたのだ。
全くの不意うち!
おまけにたびたびの出会いに泰軒の秀剣を見せつけられ、すっかりおじけだっているから苦もない。蜘蛛の子のようにのがれ散る影を追って、泰軒、水煙とともに川に二人を斬りすてた。
門脇修理ほか一人。
そして与吉を先に、軍之助が風雨に狩られ余数をあつめて、水戸街道を江戸の方へ走りつつあるとき、泰軒は、岸の小陰から衣類とともに例の血筆帳を取り出して、血にそむ筆で二人と大書していた。
今その、泰軒愛蔵の殺生道中血筆帳をひもとけば。
おもてに血痕くろぐろと南無阿弥陀仏の六字。それから木戸の峠の三、助川宿の四人、鞍川の二と本文がはじまって、かくして江戸へ着くまでに。
笠間の入口でまたひとり。
若芝の野で三人。
江戸の五里手まえ、松戸の往還で再び一人。
しめ十四名を血載した帳面を懐中に、巷勇蒲生泰軒がひさしぶりに帰府した夕べ、十七人に減じられた月輪組とつづみの与吉は、まだうしろを振り返りながら、灯のつきそめた都の雑踏にまぎれこんでいた。
武江遊観志略を見ると、その三月事宜の項に――。
柳さくらをこきまぜて、都は花のやよい空、錦繍を布き、らんまん馥郁として莽蒼四野も香国芳塘ならずというところなし。燕子風にひるがえり蜂蝶花に粘す。わらじを着けて花枝をたずさえ、舟揖をうかべて蛤蜊をひろう。このとき也、風雅君子、東走西奔、遊観にいとまあらずとす。これは旧暦だが、とにかく三月の声を聞けば、もう人のこころを浮き立たせずにはおかない春のおとずれである。
三日は桃の節句。雛祭り。白酒。
四日。
江戸の西隅、青山摩利支天大太神楽興行……とあって、これが大へんな人出だった。
青山長者ヶ丸の摩利支天境内。
いつの世に何人が勧請奉安したものか、本尊は智行法師作の霊像、そのいやちこな御験にあずからんとして毎年この日は詣人群集、押すな押すなのにぎわいである。
堂の四隣に樹木多く、呼んで子恋の森という。
あたかもよし、花見月のおまつり日和。
武家屋敷に囲まれたたんぼの奥に、ふだんはぽつんと島のように切り離されて見える子恋の森だが、きょうは遠く下町から杖を引く人もあって、見世物、もの売り、人声、それらの音響と人いきれが渾然として陽炎のように立ちのぼりそう……。
森のなか。
荒れはてた御堂をとりまいて、立錐の余地もなく人ごみがゆれ動いている。
村相撲がある。紙で作った衣裳冠の行司木村なにがし、頓狂声の呼出しが蒼空へ向かって黄色い咽喉を張りあげると、大凸山と天竜川の取り組み。それへ教学院の荒法師や近所の仲間が飛び入りをして、割れるような拍手とわらいが渦をまく。
片隅には、二十七、八のきれいな女が、巫女のようないでたちで何やらしきりに人を集めているので、その口上を聞けば、
「これなるは、安房の国は鋸山に年ひさしく棲みなして作物を害し人畜をおびやかしたる大蛇。またこれなる蟇は、江戸より東南、海路行程数十里、伊豆の出島十国峠の産にして……長虫は帯右衛門と名づけ、がまは岩太夫と申しまする。東西東西! まアずは帯右衛門に岩太夫、咬み合いの場より始まアリさようウッ!」
と、見ると、いかにもこれが安房帯右衛門殿であろう、一匹の痩せこけた青大将が、白い女の頸に襟巻のようにグルリと一まき巻きついて、あまった鎌首を見物のほうへもたげ、眠そうな眼をドンヨリさせている。
女の足もとには、あまり大きからざる蟇の岩太夫、これは縄でしばられていて、つまらなそうにゴソゴソ這い出そうとするたびに、ぐいと引き戻される。
やがて女が、頸の蛇をとって地面へおろすと、帯右衛門も岩太夫もそこは稼業だけあって心得たもので、暫時にらみあいの態よろしくののち、いきなり帯右衛門が岩太夫に巻きついて締めつけて見せる。この時岩太夫すこしも騒がず口をあけてガアガアと音を発したが、たぶん、
「オオ兄イ、どうせ八百長だ、やんわり頼むぜ」
ぐらいのところであろう。いっこうおもしろくないので、立合いの衆は肝腎の蛇と蟇の喧嘩よりも、太夫元の美しい女をじろじろ見つめているのだが、この女、いずれ後から怪しからぬ薬でも取り出して売りつけようの魂胆と見える。
むこうでは南蛮姿絵の覗き眼鏡が子供を寄せ、こっちでは鐘の音のあわれに勧善懲悪地獄極楽のカラクリ人形。
おででこ芝居合抜き。
わあッと人浪が崩れ立ったと見れば、へべれけに酔っぱらった何家かの折助が四、五人づれ、女をみかけしだいにふざけ散らして来るのだった。
その群集におされて、逃げるともなく小走りに、堂わきのあき地へ駆けこんだ若侍[#「若侍」は底本では「若待」]ひとり。
月代も青々と、りゅうとした着つけに落とし差しの大小……。
が、その顔!
女にしても見まほしいというが、これはまさしく女性の眼鼻立ち! 服装かたちこそ変わっているが、まぎれもないあの、いまの麹町三番町土屋多門の養女となっている、行方不明のはずの弥生ではないか。
それがりんたる若ざむらいの拵えで、この青山長者ヶ丸の祭礼へ!
亡父の姓を取って小野塚伊織と名乗っている男装の弥生、ぼんやりとそこに揚がっている絵看板をふり仰ぐと、劉という唐人刀操師の見世物小屋で、大人五文、小人三文――。
「さあサ、いらっしゃアイ!」
木戸番が塩から声を振りしぼった。
板囲いに吊るした筵をはぐって、小野塚伊織の弥生が、その刀操術の見世物小屋へ通ると、屋内は大入りの盛況で、むっとこもった人息が弥生の鬢をかすめる。
五文の木戸銭は高価くはないが、芸人は劉ひとり、それも、刀操術などと大きく、武張ったところで、能とする演技は、例の小刀投げのいってんばりだ。
かたなの手品だけに見物人は男が主、女子供は数えるほどしかいない中に、恐らしい浪人頭がチラホラ見える。
すっかり武士になりすましている弥生は、臆せず人をかきわけて前方へ出た。
口上人が、エエ、これに控えまする唐人は劉と申し、天竺は鳥烏山の生れにして――なんかとでたらめに並べて引っこむと、すぐに代わりあって、二、三尺高い急ごしらえの舞台へ現れたのが小刀投げの太夫支那人の劉であろうが、弥生をはじめ、一眼見た観客一同は好奇とも恐怖ともつかない声をあげて小屋ぜんたいがウウムとうなった。
唐人劉。
みんなはじめは猿かと思った。
いや、猿にしては大きすぎるが、とにかく、これが世にいう一寸法師か、七、八歳の小児の体躯に分別くさい大きな頭がのって、それが、より驚いたことには、重箱を背負ったような見事な亀背であるうえに、頭から胴、四肢まで全身漆黒の長い毛で覆われているのだ。
平たい顔に、冷たい細い眼、ひしゃげた鼻、厚いくちびる――人間離れのした相貌をグッと前へ突き出して、腰を二つに折り、長い両手のさきを地にひきずったところ……さながら絵に画く猩々そのままで、出て来た時から見物人のどぎもを奪ったのは当然、弥生はあやうく男装を忘れ、驚異の声を放ち眼をおおおうとしたくらいだった。
まれに見る怪物!
おびえた子供が、片すみで! ワッと火のつくように泣き出すと、劉はそっちを見てニコニコしている。
割りに気はいいらしいので、皆もいささか安心して、すこし浮き足だったのが、またソロソロ舞台のほうへつめかけ出すと、
「唐のお女中の悪血が凝って、月たらずで生まれましたのがこの太夫、御覧のとおりのお化けながら、当年とって三十と九歳! 劉さん!……あいヨウ――」
香具師がそばから披露をするのはいいが、自分で呼んでじぶんでこたえるのだから世話はない。
そこで、お化けの劉さん、チョンと析の頭を合図に、たちあがって芸当に移った。
舞台の片側に戸板が立てかけてあり、それにピッタリ背をつけて十二、三の女の児が直立する、と、数十本のピカピカ光る小剣を手にした劉、その少女から三間ほど離れた個所に足場をえらんで、小刀の柄を先に、峰を手のひらに挟んで構えるが早いか! 奇声とともに投げ放った本朝でいう手裏剣の稀法!
晧糸水平に飛んで、発矢! と小娘の頭に刺さった……と見る! 剣鋩、かすかに人体をそれて、突き立ったので、仰天した観覧人たちがホッと安堵の胸をなでおろす間もあらばこそ、二本三本とやつぎばやに劉の手を飛び出した剣。流れ矢のように空に白線をえがきながら、トントントントントン! と続けざまに、娘の首、わきの下、両うで、躯幹、脚部と上から下へ順々に板に刺したって、それがすべて肉体とはすはす、一分の隙に娘を避けて板に突き立つものだから、こんどは一同、ふうッと感服の吐息をもらして、拍手することさえ忘れている。
一刀を放つごとに、やッ! やッ! と叫ぶ劉、長い腕をぶんまわしのごとく揮って、黒毛をなびかせ短身を躍らせているようすが、栗のいががはじき返っているよう――。
まるでたたき大工が釘を打つように、またたくまに光剣をもって少女の輪郭を包んでしまった。
茫然としている見物人のまえで、娘がソッと板から離れると、大手をひろげた少女の立ち姿が、つるぎの外線でくっきりと板のおもてに画かれている。
商売商売とはいえ、しんから感嘆に値する入神の技芸!
娘と劉がちょっと手をつないで軽く挨拶をしたとき、固唾をのんでいた観客も、はじめて気がついたように大きな喝采を送った。
が、弥生はすでに、何か思うところあるらしく、かたい決意に顔を引きしめて、そそくさと人を分けつつ小屋を出かけていた。
堂の裏手から森の奥へ一条の小径がのびている。
それからまもなく。
その小みちをすこしはずれた草むら、昼なお暗い杉木立ちの下に、ふたつの人影が一つに固まり合って何事かささやいていた。
「さればじゃ、あまりに其方の手裏剣が見事ゆえに、強ってここまで足労をわずらわした次第だが、頼みというのはほかでもない――」
こう言いかけているのは、男の声こそつくっているが、確かに弥生の小野塚伊織に相違ない。
それに答えていま一人が、
「なんのお前様、唐人の化けの皮を一目で引ん剥いだ、御眼力、お若えが恐れ入谷の鬼子母神……へっへっへっなんでごわす? ま、そのお話てえのをザッと伺おうじゃアげえせんか、あっしもこれで甲州無宿山椒の豆太郎――山椒は小粒でもピリッとからいや。ねえ、事の仔細を聞いたうえでサ、案外乗り気に一肩入れるかも知れませんぜ」
つぶやくような低声だが、歯切れのいい江戸弁をふるっている男……かれは、今し方、あの刀操術の見世物小屋で奇怪な剣技に観客を酔わしていた劉太夫という唐人であった。
とすれば。
唐人劉の正体は日本人も日本人、じぶんで名乗るとおりに甲州無宿山椒の豆太郎。
さてこそこの豆太郎、亀背の一寸法師にはちがいないが、あのりっぱな黒毛の衣を脱ぎ捨てて顔のつくりを洗い落としたところ、ただ珍妙な男というだけで、さして身の毛のよだつほどの人柄でもない。
が、底が割れれば割れたで、それだけ小さくのっぺりとしているのが変に無気味でもあり、また、一朝手裏剣をとっては稀代の名手である点、なるほど「山椒は小粒でもピリッとからい」に背かないとうなずかせるものがある。
甲府生れの豆太郎は、怖ろしい片輪のうえに性来手裏剣に妙を得て、香具師に買われて唐人劉と称し、諸国をうちまわっているうち、きょうの祭りを当てこみにこの長者ヶ丸に小屋を張って銭をあつめているところへ、見物中の若侍が木戸へかかり、ちょっとはなしがあるとここへ呼び出されたのだった。
何を思いついてこんな変わった太夫と膝を組んで語る気になったものか、とにかく弥生は、演技を終えて汗を拭きながら出て来た劉の豆太郎を見て、さては己がにらんだとおりであったかと微笑を禁じ得なかった。
毛縫いを脱して今眼のまえにしゃがんでいる豆太郎は、舞台の劉さんとは全く別人のようで、はじめから弥生が看てとったごとく日本人の無頼漢だったからだ。
三尺あまりの身体に状箱を縛りつけたような身躯[#「身躯」は底本では「身驅」]、小さな手足にくらべて莫迦にあくどい大きな顔……。
しかし! かれ豆太郎に一梃の小刀を与えよ!
空翅ける鳥もたちまち地におち岩間を走る疾魚も須臾にして水面に腹を覆すであろう。
その豆太郎が、ふんべつ臭く小さな腕を組み、凝然と耳をすましていると。
あるいは依頼懇願するがごとく、あるいは諄々として説くように、しきりに何かを明かしている弥生。
とんだ贋物の豆太郎と、小野塚伊織こと男装の弥生と。
その間、どんな話題がいかに展開していったことか――。
否、それよりもこの弥生が、突然小野塚伊織なる若侍の扮装で今日この子恋の森へ現れるにいたるまでに、そもどのような経路が伏在しているのか?
ここでいささか振り返ってその後の弥生をたずねるに。
……それは、彼女が櫛まきお藤につれられて瓦町の栄三郎方を訪れ、お艶とともに一夜を雨のような涙に明かし、そして戸外には、両女の涙に似た雨が音もなく煙っていたかの思い出の明け方だった。
思い出のあけぼの?
そうだ。あの日を最後に、女としての弥生は、成らぬ哀恋の悶えと悟りに、死にかわりにそこに、凄艶な一美丈夫小野塚伊織があらたに生まれ出たのである。
その生みの悩みは?
思い出はなおもつづく――。
恋は、強い者を弱くし、弱いものを強くする。
あの小雨の夜から、弱いお艶が急に強いこころに変わって栄三郎への愛想づかしを見せだしたように、つよい弥生は、にわかによわい処女に立ち返って、悲恋の情に打ちのめされた彼女、傘を断わって雨のなかを瓦町の露地を離れて一人トボトボ濡れそぼれてゆくと――。
夜来の雨に水量ました神田川の流れ。
どどどウッ! と、岸の石垣を洗って砕ける暁闇の水面。
浅草橋の中ほどに歩みをとどめて何心なく欄干に凭って下をのぞいた弥生であった。
明けやらぬ空。
まだ眠りからさめぬ大江戸の朝は、うらかなしい氷雨が骨に染みて寒かった。
魔がさす。
……とでも言おうか、こういうとき、嘆きをもつ人のたましいにふと死の影が投げられるものだ。
橋のうえの弥生に、眼に見えぬ黒い翼の死神が寄り添った。
かれは弥生の耳へ誘いの言葉をささやく。
雨滴のひびき、河の水音を、弥生は、死の甘美をうたう声と聞いたのだった。
死神はまた弥生に、眼下の水底を指さし示す。
そこに弥生は、渦をまく濁流のかわりに百花繚乱たる常春の楽土を見たのだった。
死を思う心の軽さ――それは同時に即決をしいてやまない。
きっとあげた弥生の顔を、雨がたたいた。が、彼女はもう泣いていなかった。かすかに開かれた弥生の口から、亡父と栄三郎の名が吐息のごとく洩れ出た……と思うと、履物をぬぐ。チラとあたりを見まわす。手を合わす――。
「お父さま、弥生もおそばへ参ります!」
と一言! 死神の暗翼に抱かれた弥生が、あわやらんかんから身を躍らそうとしたとき! 人生にあっては、百般の偶然事ことごとくこれ必然である。
ことの起こるや、起こるべきいわれがあって起こる……この場合がちょうどそれだったと言ってよかろう。
ときしもあれ、棒鼻をそろえて、突風のごとく橋上を疾駆し去った五梃の山駕籠があった。
筋骨たくましい六尺近いかご舁きが十人、ガッシと腰をおとして足並みゆたかに、踊りのように息杖をふるって、あっというまにあさくさばしを渡り過ぎたのだが!
あとを見ると弥生の姿がない!
さてはついに飛びおりて神田川の藻屑と消えたか!
と言うに。
危い弥生をみとめて、走りざまに陸尺のひとりが片手に掻きこみ、むりやりに駕籠の一つへでも押しこんだものであろう。
弥生はすでに気を失っていたが、それは真に間髪を入れない早わざであった。
その証拠には。
こうしてその朝、あの本所鈴川方の斬りこみから引きあげて来た五梃駕籠が、エイハア! の[#「エイハア! の」は底本では「エイハア!の」]掛け声も鋭く角々を折れ曲がって、大戸をあけはじめた町家つづきを駈け抜けること一刻あまり、トンと鳴って底が地についてみると、ゾロゾロとはい出た五人の火事装束――そのなかに、首領だった銀髪赭顔の老武士の腕に、ぐったりとなった弥生のからだが優しく抱かれていたのだった。
が、この、細雨の一夜を剣戦にあかして、しののめとともに風魔のごとく走り去って来た五人組は何者?
そして、いまその落ち着いたところはどこか?……この青山長者ヶ丸子恋の森を近くに望む、とある陽だまりの藪かげだった。
乾坤をねらう火事装束は、今また弥生のいのちの恩人である。そのあいだにいかなる話しあいができあがったものか、同じ日より弥生は、過去のすべてとともに丈なす黒かみをフッツと断ち切り、水ぎわだった若衆ぶりに名も小野塚伊織と改め、五人の武士と十人の荒くれ男が住むふしぎな家に、かれらの尊崇の的として起居をともにすることとなったのだった。
運命知らぬ操りの糸――これも離在する雲竜二刀がかげにあってひくのであろうか。
ほどなく浅草橋の上で弥生のはいて出た足の物が発見され、当然弥生は身を投げて死んだこととなり、養父土屋多門も泪ながらにあきらめて、あたらしくふえた土屋家仏壇の位牌には、弥生の俗名と家出の月日とが記されてある……。
然り! 弥生は死んだのだ。が、その変身小野塚伊織は、人に知られず生きている。
その、生きている弥生の伊織、いま子恋の森で何ごとか語り終わって、ちょっと相手の一寸法師を見やると、山椒の豆太郎、どことなく淫らな眼をニヤつかせて、さすがに争われずふっくらと白い弥生の胸元をのぞきこむようにしているので、はッとした弥生、思わず立ちあがった。
灼けつくような豆太郎の視線を受けて、われにもなくどきりとした弥生が、ゆらりと草間に立って忙しく襟を掻き合わせると、こんどは豆太郎、その白い手首から袖口の奥へとへんな眼を走らせながら、これもたったは立ったものの、ようよう頭が弥生の帯へ届くくらいで……。
「ヘヘヘヘ、何もお殿さま、取って食おうたア言いやしめえし、急にそんなに気味わるそうになさるものでもござんすまいぜ」
「うむ。なに、いや、ただ気がせくのだ」
と弥生はできるだけ男のように大きくどっしりとかまえて、
「そこでどうだ? 仕事はまずいま申し聞かせたようなことだが、一つ拙者らと行動をともにして力をかしてくれる気はないか」
「さようですね」
仔細らしく首をひねった甲州無宿山椒の豆太郎、いろいろと心中に思案しているのかも知れないが、異様な眼色が依然としてなでるように、すんなりとした弥生の胴から腰のあたりを這いまわって離れないから、弥生はいっそう警戒しつつ、
「むりかも知れんが、拙者はその侠気を見こんで頼み入るのだ――どうかその手裏剣の妙術をもって拙者ら一味のために思うさま働いてくれ……」
「へえ。剣のほうじゃア本職のおさむれえさんに、そうまで厚くおっしゃられるたア、この豆太郎めも果報者で――へえ、このとおりお礼を申します」
「いや、いや、礼なぞ……受けてもらえば当方からこそ言うべき筋だ。いかがであろう、即答が得られれば幸甚なのじゃが」
「なあに、自分の口からこんなことをいうなあ変なもんだが、親の因果が子に報い……なアんてネ、どこイ行ってもうしろ指をさされるとおり、身体は、どなた様がごらんになってもこんな不具だが、お前さまのまえだけれどこれで人間よくしたもので、何かしら取り柄がありまさあ。ねえ、あっしア餓鬼の時から物を投げるのが得意でね、好きこそものの上手なれ、へっへっへ、口はばってえことをぬかすようだが、あっしのこの手裏剣業と来た日にゃア、日の下開山、だれと立ちあったところで遅れをとるようなことア、金輪際げえせん。そりゃアもう皆さんが――」
「存じておる。存じておればこそ、かくまで膝を屈して願い入るのじゃ」
「さあ、そこだが……」
「なあ豆太郎どの、それほどの剣技をもちながら、あのような獣皮をかぶって唐人劉などと偽称し、いたずらに衆人の前に立って女子供の機嫌を取り結ぶがごときは、いわばこれ宝の持ちぐされ――その方みずから惜しいと思ったことはないかな!」
「おっと! 待った! おことば中ながら、あの縫着はけものじゃアげえせん、黒馬の尻尾を膠で貼りつけた別誂えの小道具なんで」
「馬のしっぼ! ははははは、なおさら悪いではないか……ま、さようなことはさておき、ここはどうあっても助力に預りたい。たっての頼み――そちの剣能が所望なのじゃ。いかが?」
「困るなあ、そう急に攻められても、なにしろ殿様、あっしにとっちゃアまるで足もとから鳥の立つようなはなしなんでねエ」
「そこをなんとかいたして……」
「むりでさあ、どうも、あっしゃア小屋に縛られている身で、自分で自分のからだがままにならねえんだから」
「逃げろ!」
と強くささやいて弥生は人をはばかってあたりを見まわした。
堂のむこうに祭りのさざめきが沸きたつばかり――すこし離れたここらはひっそりとして人の気もない。
ハラハラと落ち葉が、ふたりの肩にかかる。
「ヘヘヘヘヘ、そりゃアおっしゃるまでもなく、これまでにだって再三逃げ出したことがありやすがね、どこへひそんだってこの不具じゃアすぐ眼についてひき戻されるんで……」
「よし! あくまで拙者らに与するならば、言うにや及ぶ。りっぱにかくまってやろう」
「して、あっしの仕事てえのは、さっきおっしゃったあの人殺し稼業――」
「コレ、声が高いぞ! うむ、その代価として金銀は望み放題……」
「うんにゃ、褒美の件は待ってくだせえ。あっしはあっしで、たった一つ欲しい物があるんだから」
盟約締結――はいいが、そこで弥生につれられてコッソリと森を出はずれた山椒の豆太郎が、ほっそりとした弥生のうしろ姿を、すぐ後からむさぼるように見入って、しきりに舌なめずりとともにひそかにうなずいたのを、弥生は気がつかなかった。
太夫のいないもぬけの殻へ、それとは知らずに必死に人を集める唐人劉手裏剣小屋木戸番の声……。
こちらは二人。小暗い細みちを突っきると、森かげに生け垣をめぐらしたささやかな萱葺き屋根が見えてきた。老士がひとり、戸口に立ってこっちへ小手をかざしている。
「彼家だ」
弥生が、白い指をあげた。
庭の木かげにチラと人らしいものの形をみとめたのは、土生仙之助が最初だった。
夜の、かれこれ五ツ刻だったろう。
本所法恩寺ばし前の化物屋敷、鈴川源十郎方では、あるじ源十郎と丹下左膳の仲が表面もとに戻って、源十郎はまたおさよ婆さんを実母のように奉り、相も変わらず常連をあつめて、毎晩のように、いわゆるお勘定をつづけているところへ、二、三日まえにつづみの与吉が奥州中村相馬藩から月輪軍之助以下十七名の剣援隊を案内して到着したので、それからというもの、血戦のさいさきを祝い、一同、深酒をあおって、泥のような酔いぶり虹のごとき気焔に昼夜の別なく、今宵も、さっきから左膳の離室に酒宴がはずんでわきかえるような物音、人声……。
その最中に、仙之助はちょっと厠へ立ったのだった。
竹の濡れ縁づたいに用をすまして、その帰りだった。
一枚しめ残した雨戸のあいだから手洗をつかいながら、何気なく向うの繁みを見ると、風もないのに縞笹の葉が揺れ動いて、そこにむっくりと起ちあがった黒い影があった。
子供!――とも見れば見られる、それに、長い両腕をだらりと地にさげて、背中を丸く前かがみに立ったところ、気のせいか、仙之助には猿のようにも思えて、かれはわれにもなく驚愕の声を放つところだった。
が、さてはおのれ妖怪変化のたぐい! と仙之助がひそかに気負いこんだ時、その小さな人影はけむりのように消え失せてあとかたもなかった。
ふしぎなこともあるものだと仙之助は首をかしげたが、酒の席へそんな話を持ち出したところで一笑に付せられるばかり、かえって自分が臆病なように聞こえるだけだと、彼は座へ戻ったのちも、この庭前に見かけた奇怪な影法師について何一つ言わなかった。
酒気と煙草のけむりでむせかえりそうな部屋に。
着いてまもなくまだ客分扱いされている月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八、岡崎兵衛、藤堂粂三郎、山内外記、夏目久馬等全十七人の相馬の剣士を上座にすえて、手柄顔のつづみの与吉、それに主人役の鈴川源十郎、食客丹下左膳などがギッシリつまって、その間、飯あり肴ありお菜あり、まるでちらし寿司を見るような色とりどりの賑かさである。
そして、酒。
骨ばった真赤な顔が、やぶれ行燈の灯にたぎるがごとく映えかがやいて、なるほど、化物やしきの名にそむかない。それは倨傲無頼な夜の一場面であった。
「こら源十! いやさ源的! やい鈴源、源の字……なんとか言えい! ウははははは」
援団来着して上々機嫌の剣怪左膳、乾雲丸を引きつけて源十郎に眼を据えながら左手に杯をつきつける。
「のめエ! 乾坤ところを一にする勝軍の門出だ。飲めといったらのめ」
「うむ。めでたいのう。このとおり飲んでおる」
源十郎、いささか迷惑げな生返辞。
にもかかわらず、左膳は、もうまわり兼ねる舌でどなるように、
「ナア与力の鈴川、オッと! 法恩寺の殿様、おれも弥生てえ娘のことはスッパリ思いきって、これからは夜泣きの刀の件にだけ精根をうちこむつもりだから、貴公も友達甲斐にお艶をあきらめて、終りまで俺に力をかしてくれヨ。今まで途中で俺と貴公とが変に仲たがいになったのも、みなあのお藤の離間策であった。じゃによっておれもこんどこそはお藤を捨てる。いやもう棄てたのだ。この片輪もの、なんで浮世の女に用があろう! ははは、万事わかった、わかった! だからだ、な、源十郎、貴様も女を二の次にして刀に腕貸ししてくれるだろうな?」
「言うまでもない! 貴様がお藤のみならず弥生まで忘れると申すなら、源十郎も武士、りっぱにお艶への心を断って、およばずながら、雲竜二刀の剣争に助力いたすであろう……」
「その一言、千万の味方を得たよりこころ強うござる」
と月輪軍之助がここへ口をはさんで、
「ところで、かの泰軒とやら申す乞食でござるが――」
こうして、着く早々何度となく蒸し返された蒲生泰軒のうわさ……随所随所に出没して悩まされた血筆帳の話がまたも出てくると、
「どうも皆々様のまえですが、あのこじき野郎と来ちゃあ金魚の乾物で……」
与吉がしたり顔に膝をすすめる。
「金魚の乾物とはなんだ?」
誰かがきいた。
「へえ。煮ても焼いても食えませんでございます」
これで、ドッと嵐のような哄笑が一座をゆるがせたが、そのなかで、笑いもしない源十郎と左膳。互いに探るようなすばやい視線がちらと合って、すぐ外れた。
恋する丹下左膳のこころが弥生に向いている一事と、また取持ちを約した鈴川の殿様に違約された恨みとから、さまざまに智恵を弄して左膳源十郎間に水を差そうとした櫛まきお藤の奸策。
そのために一時は、左膳と源十郎そりが合わず、左膳は、源十郎に報復心を抱いて本所の家を出てお藤の隠れ家に彼女との靡爛した一夜を送ったのだが、もとよりこの恋、左膳よりもお藤からはじまったことなので、左膳としては一度お藤を知りつくしたうえは、彼女に対してなんらの興味をつなぎ得なかったことはいたし方ない。
と、して……。
かの、乾坤二刀がそれぞれ所有主の手に入れちがいになった雪の夜、左膳は、深夜の法恩寺橋下に栄三郎を見失ったのち、またまたその足で化物屋敷に舞いもどって、あるじの源十郎と対談数刻、ここに始めて訴人したのは源十郎でなく、また乾雲を掘り出したのもおさよ一個の仕事――自分はなんら関知しないという源十郎の弁舌に、強いだけに単純な左膳、今までのことはすっかり己が誤解であったと源十郎に対する心もちもなおり、以前のとおり庭内の離庵に起き臥しすることになったが。
自ら訴えておいて後から左膳を救い出し、それを恩に、一晩にしろ左膳とともに住んで、かたくなな愛欲を満たしたかの大姐御櫛まきのお藤、目下は、江戸おかまえの身にお上の眼がはげしく光っているので、しようことなしに例のあなぐら、暗い地下の隠れ部屋に左膳の思い出を抱いて独り沈湎しているものの、かのお藤、一度左膳を得て、はたしてこのままに黙するであろうか。
一方左膳と源十郎は。
ともにそこはかとなく吹きまくる御用風が身にしみて、いつ十手捕縄が飛んでくるかも知れない不安から、再び互いに固い助力を誓いかわし、源十郎は旧どおりに左膳をその邸内に潜伏させることになったのだけれど。
いま。
隻眼隻腕の丹下左膳、右頬の刀痕を皮肉な笑みにゆがめて――雲竜二剣のために、お藤はもとより、最初乾雲丸といっしょにわが手に入れたはずの弥生への横恋慕をも、スッパリと断ちきるという。
それに応じて源十郎は。
しからば自分はお艶を思いきって、ともどもに夜泣きの刀へ全力を傾注しよう! こう力づよく言下にいい放ったものの。
言葉はことば。
胸底はこころ。
お藤のことはとにかく、左膳、よく弥生を諦め、また源十郎がお艶を忘れ得るであろうか……?
この相互の疑惑にとっさに打たれた両人、思わず相手を見定めんと、鋭い眼光をはたとカチ合わせた時に、源十郎は左膳の独眼のなかに弥生を、左膳は、源十郎の顔のうえにハッキリとお艶をみとめたが、上をいって急ににっこりした源十郎、
「いや、今までのところはわしがあやまる。重々悪かった――お艶にのみ気を取られて、貴公はさぞかし腑甲斐ないやつと思ったことであろうが、今後は源十郎、貴公の右腕ともなって……」
「あははは、左腕のおれに右腕とは、源十、なかなかもって味をいうわい」
「いや、それは物の比喩で、わるくとって気にしては困る」
「ナニ、気にするどころか、俺たちのあいだはそんな他人行儀のものじゃあねえ、あれア心からありがてえと思っているのだ。なあ月輪氏、そうではないか」
ときかれて、与吉その他とともに泰軒の噂に夢中になっていた月輪軍之助、不意の質問にあわてて、
「ささささようでござるとも。い、いかにも丹下殿の仰せらるるとおり――」
といつになくどもって答えると、その口つきに左膳は、主君大膳亮を思い出したらしく、
「……さぞお待ち兼ねのことであろう、いや、なんかと手間どり申しわけござらぬ」
珍しく四角ばった言葉になりながら、
「アア乾雲が夜泣きをする! 竜を呼んで泣くのだ。ソレソレこの声が御一同には聞こえぬかな」
と左手に陣太刀を撫して、血ののぼった一眼を満座のうえに走らせたとき。
大御番頭だった父宇右衛門のころは、登城をしたから馬も馬丁も抱えていたけれど、その時分すら下女は二人しか使わなかったのに、小普請におちた当代の源十郎がやはりふたりおいているとあっては、始終まわってくる小普請支配取締りのおもて面倒だとあって、母の格とはいえ、こうなるとどうしてもおさよが女中なみに立ち働かざるを得ない。そのおさよ婆さんが、薬罐に酒の燗をして運んで来た。
乾雲を盗み出したのはこの婆だ! と思っても、左膳は源十郎の手前もう何も言わずにいる。
酒と見てわっと歓声をあげる一同を制し、左膳が、
「軍議! かの火事装束五人組との対策もあるで、この談合すましてから、また一杯やるとしよう」
こう言い終わったとたん!
土生仙之助がサッ! と顔色を変えたかと思うと、突如庭奥の闇黒から[#「闇黒から」は底本では「闇黒から」]銀矢一閃、皎刃、生あるごとく飛来して月輪軍之助の胸部へ……!
この酒盛りの最中に、ふしぎ! 空を裂いて庭から躍りこんだ一ちょうの短剣、あっというまに灯に流れて、グサッ! と月輪軍之助の胸板に突っ立った……と見えた瞬間!
ばちイん! と音して見事にくだけ散ったのは、ちょうど軍之助が口へ運ぼうとしていた土器の大盃だった。
飛剣は、そのさかずきを微塵に割って、軍之助の上身に酒を浴びせ、余勢、うすい着物の肩をかすったばかり、そのまま背後の畳に落ちて刺し立った。
瞬間、凍ったような静寂が室を領した。
と思うと、おおうッ! と一同恐ろしいおめき声をあげて、めいめい大刀を手に、もうはじかれたように起ちあがっていた。
そして、
「奇怪! 何奴ッ!」
と、乾雲の柄をたたいて叱咤した左膳とともに、皆、庭へ向かっていっせいに身構えをしたが……。
夜は森沈として闇黒の色を深めてゆくだけで、樹々の影もこんもりと黒く狭霧がおりているのか、あんどんの余映を受けてぼやけた空気が、こめるともなく漂っているきり――いつも見慣れた、なんの変哲もない荒れ庭のけしきだ。
不審とも、あやしいとも言いようのない寸刻の出来ごと。
どの方角から短刀が飛んで来たのか……その見わけもつかず、一同、勢いこんだ力のやり場に困って、いささか拍子抜けのまま、なおも、かたなにかけた肘を張りそろえてキッ! と庭面をすかして見ていると、
「いや、おのおの方、お笑い召されることと思って申さなかったが、さっきかしこらと覚しきところに、七つ八つの子供のごとき人影がありましたぞ。それが確かにいま、かの小剣が飛来した時も、ちらと動いたのを拙者は見た……」
というささやくような土生仙之助の言葉に。
子供――というのが、場合が場合だけに、深更ひとしおの妖異じみた恐怖を呼んで、化物屋敷の連中われにもなく思わず慄然と身の毛をよだたせたその刹那であった。
またもや、ビュウッ!
と、唸りとともに一隅から風を切って飛び来たった小刀一本、今度は避けるまもなく右から三人目に庭に面して立っていた山内外記の咽喉笛へ、ガッと骨を削る音といっしょにくいこんだ。
ひいいい……ッ! と、気管の破れから、梢を渡る木枯しのような息を高々ともらした外記、二、三秒、眼前の虚空を掻き抱くがごとく見えたが、瞬時にしてどうッとふき出た血潮の海に、踏みこらえようとあせって足がすべって、腰の一刀を半ば抜いたなり、思いきりよく庭へのめり落ちると、ばあんと鼻ばしらが飛び石を打ってたちまち悶絶。
これより先。
やみに浮かぶ離室に氷柱の白花一時に咲ききそって、抜き連れた北国剣士のむれ、なだれをうって縁をとびおり、短剣の来た庭隅へ喚声をあげて殺到していた。
が!
ここぞと思うあたりへ行ってみると、無!
湿っぽい夜気が重く地を圧しているばかりで、庭のどこにも、さきほど仙之助が見かけたという子供に似た人影なぞはいっさいないのだ。
はてナ? と抜刀をさげた一同が、きょろきょろあたりを見まわしていると、近くにあたって、
「うふ、ふふふ……」
と陰にこもる含みわらい。
「おぬし、いま笑ったか」
「いンや。笑ったのは貴公だろう?」
「違う。誰だ、笑ったのは?」
がやがやと問いあっているところへ!
二間と離れない草むらから猿のように黒い物がとび出したかと思うと、長い手が一振するが早いか燐光ふたたび流星のごとく閃尾を引いて、またしても飛剣、真ッ先に立った夏目久馬の脇腹をえぐって地にのけぞらした。
「ふはははは!」
笑いを残して、小さな影はすっ飛んでゆく。
「曲者ッ!」
と面々、それッとばかりに追おうとするや、室内にとどまっていた左膳、源十郎、軍之助の三人が、口ぐちに叫んで皆を呼びあげた。
そして、何事か――にわかに離庵全体の雨戸をおろさせ、丹下左膳が、最初に飛来して軍之助の酒盃を割った小剣を畳から抜き取るのを見ると、五寸あまりの鋭利な小柄で、手もとに一ぽんの小縒りが結びつけてある。
みなの目が好奇に光るまえで、左膳、紙縒を戻して大声に読みあげた。
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的也。
何者からか殺剣とともに送られた威嚇の言!「フン! きいたふうな真似をしやがる!」
と吐き出すように苦笑した左膳、不意におちた沈黙の底で、なみいる頭数をかぞえ出したが、いま殺られた二人を加えて月輪組の十七名に、源十郎、与吉で十九、それにじぶんでちょうど二十と最後におのれを指さしたころ。
猿をつれた猿まわしのような弥生と豆太郎が、遠く鈴川の屋敷をあとに走っていた。
火事装束一味のまわし者!
これが、離庵の一同のあたまへ、期せずしてピンと来た考えだった。
が、それにしてもあの、小児とも野猿ともつかない怪人物の手裏剣業には、さすが独剣至妙の刃鬼丹下左膳の膚にさえ粟を生ぜしむるにたるものがあった。
しかし、世にいう手裏剣なる刀技は。
手裏剣神妙剣などといって、一に本朝剣法の精極手字の則に出ている。手字とは、空理に敵の太刀や槍の位を見きわめて、その空理に事をかなえて我が道具を持ち、打たねども打つこと、突かねども突くわざ、払わねども払うことを、定住空理に入れて働くをいい、敵の太刀筋の字を空に書く心もちだとある。
こうなると、この手字の手のうちから出る剣だから手裏剣と称するわけで、いかさま剣道の妙諦、ひどく禅機を帯びてむずかしくなるしだいだが、手裏剣すなわち神妙剣、あえて特に、長さ三、四寸の小剣を手のうちに返して投げ打つ術をのみ手裏剣と呼ぶのではない。手を放さずに使う太刀や槍も同じ道理で、いくら投剣の術ばかり修練したところで要は手字の空理に即してうちこむにある。しかしてその空理の徳は、人の頭に機を知らしめて逸早くきざすの一事につきる――と言われているだけあって、これによってもわかるとおりに、手裏剣を投げて人をたおし得るにいたるまでには、単なる小手さきの投術のみではいけない。もとよりその熟達はさることながら、技はいわば下々の下で、体得の域にのぼるためには、空理の理にあって手字の法を覚らねばならぬ。つまり行より心ができて剣意の秘奥にかなわなければ、手裏剣を投じて一家をなすことは不可能なのだ。
しかるに、ただいまのかの投げ手は……?
腥風一陣まき起こって、とっさに二つの命の灯を吹き消し去った手練でも知れるように、魔か魑魅か、きゃつよほど、腕と腹ふたつながらに完璧の巧者に相違ない。
身みずから剣心をこころとする刃怪左膳だけに、かれは相手を測り知ることもまた早かった。
「世の中は広いものだなあ……ウウム! かかる名人がひそんでいたのか」
と、今さらながら敵味方を越えて、左膳はしんから微笑みたい気にもなるのだったが! 二度、
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的也。
という脅迫の文を読み返すと、なんとなく左膳、いずれ近い機会に、おのが左剣とこの手裏剣とちょうちょう火花を散らして相撃つべくさだめられているように思って来て、彼は、ほの暗い行燈のかげに一眼のきらめく顔を、敵意と憎悪に燃えたたして振りあげた。この左膳の気を窺知したものか、何にまれ容易に驚かず、たやすく発動したことのない月輪軍之助、普段のぼうっとした性に似げなく、覚悟に決然と口を結んで左膳を見返す。
着府と同時に、ほとんど挨拶がわりに左膳から剣渦の一伍一什を聞かされて、栄三郎方および火事装束と刃を合わす期をたのしみに待っていた月輪門下の同志は、日ならずしてここに早くも怪しき小人のために二友を失い、かすかな不安のうちにも殺気あらたにみなぎるものあって、左膳、源十郎、軍之助の鼎座を中心に、それからただちに深夜の離室に密議の刻が移っていった。
その結果。
乾雲を囮に坤竜をひきよせるいかなる秘策が生じたことか?……は第二として。
ここでは、鈴川源十郎である。
熟議の座にあって、終始黙々と腕をこまぬいていたかれ源十郎は、はたして外見どおりに自余の者とともに乾坤一致の計に脳髄を絞っていたであろうか――というに。
大いに然らず!
いまの先、お艶の儀はキッパリと相忘れ申した! などとりっぱな口をたたいたその舌の根も乾かぬうちに、もう彼の全部を支配しているのは、かつて心を離れたことのないわだかまり、あの、過日おさよに約束したまままだ渡してない五十両……お艶を栄三郎から奪うための手切れ金の才覚だった。
で、しばらくは交際に、神妙に首をひねると見せかけていた源十郎が、今宵の手裏剣にちと心当りがござるから――とうまいことを言って、とめるのもきかずに化物屋敷の自宅を出てゆくと、あとには離室の一同、寒燈のもとになおも議を凝らしていたが、ただひとり暗い夜道を思案にくれてあてどもなく辿る源十郎の肩には、三更の露のほかに苦しい金策の荷が、背も折れんばかりに重かったのだった。
その夜の闇黒は、源十郎のこころだった。
真っ黒に塗りつぶされたような入江町の往来を、ふところ手に雪駄履きの源十郎が、形だけは八丁堀めかして、屈託げに顎をうずめてブラリ、ブラリ――さて、こうして人中を逃れて考えをまとめるつもりで出は出てきたものの、この夜更けにどこへいこうの当てがあってのことでもなければ、また何人のところへ持ちこんだところで、もう源十郎にはオイソレと金のはなしに乗ってくれるものもないのだった。
で、思案投げ首。
五十両……五十両と心中にうめきながら、河岸にそって歩いてゆくと、時の鐘楼が夜ぞらに浮かんで、南割下水の津軽越中様お上屋敷の森がひとしお黒ぐろと押し黙って見える。
どこからか梅の香が漂ってきている。
早春の夜のそぞろ歩き。
とは言うものの、五百石旗本の身で五十両の金子につまっている源十郎としては、風流心どころかいっさい夢中、とやこうと思い悩みながら、やみくもに歩をひろっているのだった。
花町の角を曲がって、竪川にかかる三つ目の橋。
それを渡って徳右衛門町から五間堀へと、糸に引かれるようにフラフラと深川の地へはいっていった。
抜けるように白いお艶の顔と、山吹いろの小判とがかわるがわる幻のように眼前にちらつく。
おさよ婆を死んだ母御にそっくりだなどと敬っておくのも、源十郎としては、いわば将を射る先にまず馬を射る戦法――やっとのことでそのおさよを手に入れ、ここに五十両の金さえあれば、それを縁切りにおさよを通しておおぴらに栄三郎からお艶を申し受けることができるところまで漕ぎつけながら、こうしてその金員の調達にはたと差しつかえているとは、宝の山に入りつつ手を空しゅうするようなものと、源十郎、思えば思うほどわれながらふがいなく、身内の焼けるような焦燥の念に駆られざるを得なかった。
左膳の刀争いなぞ、もはや彼の思慮のいずくにもない。
あるのはただ、金のみ、五十両! 五十……。
五百石取り天下のお旗本に、たったそれだけの工面がつかぬというのはまことに不思議なようだが、つねから放蕩無頼、知行はすべて前納でとっくにとってしまい、おまけに博奕が嵩じて八方借金だらけ――見るに手も足も出ない鈴川源十郎着流しに銀拵えの大小をグイとうしろに落として、小謡を口に小名木川の橋を過ぎながら、ふと思いついたのが麻布我善坊の伯父隈井九郎右衛門のこと。
四年まえに五十両借りたきりになっているが、なにしろ隈井の伯父はお広間番の頭、役得が多くしたがって工面がいい。泣きついていったらもう五十ぐらいなんとかしてくれるかも知れぬ。
そうだ、一つ鉄面皮に出かけてみようか。
いや! よそう、よそう!
そういえば去年の盆前にも一度二十両しぼり出しに行ったことがあったっけ。
あの時、いやにお世辞がよく、たんと御馳走をしてくれたのはいいけれど、そのもてなしの最中に、伯父のやつこんなことを言いやがった――実はナ鈴川、昨年わしの知行が水かぶりで二百石まるつぶれになってしまった。が、まあ、お役料二百俵あるから、それでどうやらこうやら内外の入費をやってのけたけれど、そういう訳でまことに勝手向きが不如意だ。ついてはいつぞや用だてた五十両の金、全額といったら貴公も迷惑だろうから、どうか半金ばかり入れてもらいたい……とこう、真綿で首を締めるように、丁寧に催促されては、そこへこっちから、また二十両拝借ともきりだしかねて、なるほど、それではいずれ近日調達して返済いたします――と、俺は汗をかいてそこそこに逃げ帰って来た。
ああ先手をうたれてやんわりやられちゃアかなわない。まったく我善坊の伯父御と来ちゃア食えない爺いだからなア……。
と源十郎。
自分こそ親類じゅうの爪弾き、大の不実者、人間の屑のように言われているのを棚にあげ――アアこうなることとわかっていたら、ふだんからもうすこし不義理をつつしみ、年始暑寒にも顔を出して、あちこち敷居を低くしておけばよかったと、いま気がついても後のまつり。
暗剣殺……八方ふさがり。
しんから途方にくれた鈴川源十郎が、五十両に魂を失って操り人形のように、仙台堀から千鳥橋を渡って永代に近い相川町、お船手組の横丁へでたときだった。
月のない夜は、うるしのように暗い。
ふとゆく手にあたって弓張提灯――まつ川と小意気な筆あとを灯ににじませて、「オッと! 棟梁、ここは犬の糞が多うがす」
「なあに大丈夫でえ。踏みアしねえ」
来かかった町人ていの男ふたり……。
源十郎、自分で気がつくさきにもう片側の土塀に背をはりつけて、鼠絹長襦袢の袖をピリリと音のしないように破り取るが早いか、すっぽり頭からかぶって即座の覆面……汗ばむ手のひらを衣類にこすり拭いてペッ! 大刀の目釘を湿していた。
岡場所……といっても。
江戸の通客粋人が四畳半裡に浅酌低唱する、ここは辰巳の里。
ふかがわ。
柳はくらく花は明るきなかに、仲町、土橋、表やぐらあたりにはかなり大きな楼も軒をならべて、くだっては裏やぐら、すそつぎ、直助など――。
人も知る、後世京伝先生作仕かけ文庫の世界。そこのやぐら下の置屋まつ川というのに。
さきごろからお目見得に住みこんで来ていた若い美しい女があったが、容貌といい気性といい申し分ないとあって、この四、五日親元代りの大工伊兵衛と話しあいの末、きょうはいよいよ身売りの相談がなりたち、女は夢八と名乗ってまつ川から出ることになり、大工の伊兵衛は、今夜その金を受け取って新助という若い者とともにさっきかえっていった。
こうしてやぐら下のまつ川からあらわれた新顔の羽織衆、夢八。
この夢八こそは、当り矢のお艶、というよりも、諏訪栄三郎の妻お艶が、ふたたび浮き世の浪に押され揉まれて、慣れぬ左褄を取る仮りの名であった。
伊達の素足に、意地と張りを立て通す深川名物羽織芸者……とはいえ、この境涯へお艶が身を落とすにいたるまでには、じつはつぎのようないきさつがあったのだった。
それは。
弥生と乾坤二刀のためにわれとわが恋ふみにじって栄三郎を離れて来たお艶、泰軒に守られて江戸のちまたをさまよい歩いたのち、泰軒は彼女を、もったいなくも大岡越前様に押しつけて、与吉を追って北国の旅へたってしまった。
そのあとで越前守忠相は。
正道に与する意と畏友泰軒へのよしみとから、かげながら坤竜丸に味方しているとはいえ、そしてこのお艶は、その坤竜の士諏訪栄三郎の妻だとはわかっていても、家中の者の手まえ、不見不識の若い女性を屋敷にとめておくわけにはゆかない。
といって、もとより帰る家なきものを追い出し得る忠相ではなかった。ましてや、これは泰軒から預かっている大切な身柄である。で、このうつくしい荷物にはさすがの南のお奉行さまもいろいろに頭をひねったあげくふと思いついたのが、ちょうどそのとき屋敷の手入れに呼ばせてあった出入りの棟梁、日本橋銀町の大工伊兵衛のことだった。
伊兵衛棟梁は、もと南町奉行の御用をつとめたこともあって、手先としても、下素者ながら忠相の信任厚い老人だったが、いまでは十手を返上して、もっぱら本業の大工にかえり、大岡家をはじめ出羽様などに出入りして御作事方いっさいをうけたまわっているほど、堅いので聞こえた男なので、彼なら安心して一時お艶を又預けにすることができると考えた忠相が、さっそく自身邸内の普請場へ出向いて伊兵衛をものかげへ呼び、その旨を話して依頼すると。
ほかならぬお奉行様の命に二つ返辞で引き受けた伊兵衛、ただちにお艶をつれて、銀町の自宅へ戻る。
はしなくも大岡様をおそば近く拝んだうえ、種々御下問にあずかって、雲と竜ふたつ巴の件、丹下左膳、鈴川源十郎一味の行状なぞ己が知るかぎりお答え申しあげたお艶は、わが一身のことまでお耳に入れて恐懼したまま、かくして伊兵衛とともに御前を退出したのだったが――。
うちに帰ってよくお艶を見なおした伊兵衛は、その世にも稀なる美貌におどろくと同時に、遊んでいても差しつかえないがそれではかえって気がつまるばかり、むしろしばらく芸者にでもなったら憂さ晴らしにいいだろう……と、女房とも談合して、幸いやぐら下のまつ川というのが講中や何かで相識だからお艶さんをこっちの娘分にして当分まつ川へ置いてもらったらどうだろう? 決して枕はかせがないという一枚証文なら、べつに身体に瑕がつくわけでもなし、おもしろおかしい日がつづいたら本人もさぞ気がまぎれてよかろうではないか――こうお艶にすすめてみると、
気兼ねのないようにされればされるほど、さきが届けば届くにつけ、いづらいのが他人の家。
朝ゆう狭い肩身のお艶は、いっそここで思いきって芸者にでも出れば、第一、ひろく人に会い、したがって口も多いから、この日ごろ気になってならぬあの弥生さまの行方にもひょっとしたら手掛かりがあろうも知れぬし、自分をねらう本所の殿様へは何よりの防禦と面あて……が、ただ風の便りに栄三郎さまがお聞きなされたらどんなに悲しまれることか!
けれどそれも、愛想づかしの上ぬりとはこのうえもない渡りに舟!
こうした泣き笑いに似た気もちから、大工伊兵衛を親元として、みずから幾何の金でまつ川へ身を売ってきた夢八のお艶であった。
そうして今宵――。
そうして今宵……。
はじめて櫓下のまつ川から出た羽織芸者の夢八。
身売りの金は、いずれ足を洗う時の用意にもと固い伊兵衛がそのまま預かって、まつ川と字の入った提灯を借り、弱子の新助を連れて河むこうの銀町へ帰って行ったのは、月のない夜の丑満すぎてからだった。
さんざ時雨のさざめきも夜なかまで。
夢八のお艶が伊兵衛を送ってまつ川の門ぐちへ出たときは、さしも北里のるいを摩するたつみの不夜城も深い眠りに包まれて、絃歌の声もやみ、夜霧とともに暗いしじまがしっとりとあたりをこめていた。
そとへ出るとすぐ、伊兵衛は夢八を押し戻すようにした。
「いや、お艶さん――、じゃアない、もう夢八姐さんだったね、はははは、ここでたくさん、夜風はぞっとします。風邪を引きこんだりしちゃアいけない。さ、構わずはいっとくんなさい。またね、何かつらいことがあったら遠慮なく言って来なさるがいい。お前さまは大岡様からの大事な預り人で、困って芸者に出る人じゃないから、嫌になったらいつでも廃業すこった。ここの親方は、さっきの話でも知れるとおり、よっくわかった仁だから決してむりなことは言やしないが……マア気のすすまない座敷はドンドン断わって、保養に来たつもりでせいぜいきれいにして遊んでいなせえ。なみの芸者奉公たア違うんだから気を大きく持つんだよ。なアに、クヨクヨするこたアねえやな。またすぐにいい日が廻って来ようってもんだ」
「はい。何からなにまでお世話さまになりまして、お礼の言葉もございません」
「オッと! そんな固ッ苦しいこたアよしにしてもらおう。大岡様の御前様にゃ、わしからよく申しあげておくがね、お艶さん、お前さんなら大丈夫とにらめばこそ、あっしもこんなところへお前さまを預ける気になったんだから、イヤ、そこらに抜かりはあるめえが、世間にア馬鹿が多いからあっしも駄目を押すんだけれど、――いいかね、ひょんな間違いのねえように、これだけはくれぐれも頼みましたよ」
「ハイ。それはもう……」
「そうだろう、そう来なくちゃアお艶さんじゃアねえ。わしもそれで大きに安心をしました。だがヨ、見れば見るほど美い女ッぷりだ。ア、なんだかまたわしはお前さんを残してゆくのが気になり出した。これでわしももう十年若いとね、およばねえまでも一つ口説いて見るんだが、ははははは――コラッ! 新公! てめえなんだってそうポカンと口を開けてお艶さんを見ているんだ? ソラ涎が垂れるじゃアねえかッ、この頓痴奇めッ! 汝みてえな野郎がいるから、どこへ行ってもお艶さんが苦労をするんだ。ハハハハハ――お! そりゃそうとお艶さん、この金だがね、こりゃア、言うまでもなくお前さんが身売りした代だからお前さんのものだけれど、縁あってわしが親元となっている以上、一時このままお預りしておきますよ。入要があったらいつでもそう言ってよこしなさい。大岡様のお眼がねに添うあっしだ、ちゃんとこのとおり、出羽様のお下げ金といっしょに胴巻きへ包んで――」と言うと、そこへ供の新助が口をはさんで、
「アアそうだ! そういえば、きょうここへまわる前に出羽様へうかがったんでしたね。あそこのお作事でお受け取んなすった小判三十両、あれは御隠居所のお手付けでございますか」
「何を言やがる! こんどの請負は二千三百両。近えうちに前金が千両さがる。それでなけア大工の足留め金を出すことができねえ」
「へえ? 豪勢な御普請ですねえ。じゃアあの三十両がなんのお金で!」
「あれは正月の手間の払い残りがあったのをくだすったんだ。ホラ見ろ、丸にワの字、松平出羽守様の極印が打ってあらア」
と、その出羽守様のしるしをうった小判とお艶の身売り金とをいっしょに懐中にして、棟梁伊兵衛はお艶に別れを告げ、新助に提灯を持たせて銀町へ帰っていったのだが。
しょんぼりと一人、まつ川の戸をくぐって部屋へ通ったお艶。
変わった姿にともすればもよおす涙が、今夜はひとしお過ぎ来し方ゆく末などへ走って、元相馬藩士和田宗右衛門というれっきとした武士の娘がなんの因果か芸者などに身をおとして! と耐らぬ自嘲の念が沸き起こる一方、考えてみれば、ついこの間まで水茶屋をかせいでいた自分、当り矢のお艶が夢八になったところで大した変りもないではないか。
ぼうっと眼で追うなつかしい栄三郎さまの面影。
そして、鈴川様にいる母さよのこと。
くずれるように坐ったお艶が、夜さむに気がついて、肩をつぼめながら、もうあの伊兵衛さんと新どんは永代を渡ったころだろう――と思うともなくこころに浮かべていたやさき!
ドンドンドン! 割れんばかりに表戸をたたいて、
「まつ川さん! お艶さん! タタ大変だアッ! 棟梁が……」
狂気のような新助の声だ!
新助は、白痴のように取り乱して口もきけなかった。
ブルブルと口唇をふるわせて、しきりに何かを刀断するような手真似をするのを、まつ川の家人とお艶が、左右からおさえてききただすとー
ただ一言!
「棟梁が……棟梁が、そこの横町で殺られたあッ――!」
それなり新助、ベッタリとまつ川の格子ぐちに崩れて、自分が殺られたようにへなへなになってしまった。
この死人のような新助をうながして先に立て、お艶の夢八とまつ川の男衆とが宙を飛んで現場へ駈けつける。
と!
銀町の大工の棟梁伊兵衛、暗い路の片側に仰向けに倒れて、足を溝へおとしたまま、手に小砂利をつかんで悶絶していた。
場所は、永代橋へ出ようとする深川相川町のうら、お船手組屋敷の横で、昼でも小暗い通行人のまばらなところ。
傷は一太刀。
ひだり肩口から乳下へかけてザックリ……下手人はよほど一流に達した武士であることに疑いを入れない。
やがて仄かに白もうとする寒天のもとに、お艶をはじめ一同は、変わり果てた伊兵衛の屍を路上にかこんで声もなく、なすところを知らなかった――。
つい先ほど。
「じゃアお艶さん、こんどあっしアお客で来るぜ。ちったあ線香を助けさせてもらおう。ははははは、ま、ごめんなさいよ」
と、例の渋い声で元気に笑いながら、新助と並んで帰っていった伊兵衛棟梁。
あの声音がまだ耳の底に残っているのに、今はもうこんな姿になって!……とお艶、この驚愕の真っただなかにあって、うつし世のはかなさといったようなものがしみじみと胸を侵すのだった。
紛失物は? と男衆のひとりが死骸のふところを探ると、案の定、財布がない!
古渡唐桟の大財布に、出羽様のお作料の三十両とお艶の身売り金を預かったのとをいっしょに入れて、ズッシリと紐で首からさげていた、その財布が盗まれているのだ。
人に意趣遺恨をふくまれて暗討ちにあうような伊兵衛棟梁ではなし、これで最初の刹那からみなが考えていたように物盗り、金が目当ての兇行ときまった。
丸にワの字の極印を打った松平出羽守様お払下げの小判三十枚と、お艶がまつ川の夢八と身をおとしたその代とがない!
兇刃、伊兵衛と知ってか識らずにか、または、かれが暗夜大金を所持して帰路についたことを見定めてのうえか否か――?
ようよう人心地ついた新助が、わななく口で話すところはこうだ。
「棟梁といっしょに、わたしがまつ川さんで借りた提灯で足もとを照らしながらここまで来るてえと、そこの塀にくっついていたお侍さんがヌウッと出て来て、待てッ! と言いました。灯りで見ると、黒の覆面をして刀の柄に手をかけています。背の高い着流しの方でした。棟梁はああいう人ですから、黙って立ちどまりましたが、あっしが胆をつぶして逃げ出そうとしますと、その侍がヤッ! と叫んで刀を抜こうとする拍子に、はずみで覆面がぬげ落ちました。はッとして私も顔を見ましたが、暗いのでかおだちはわかりません。が、うす鬢の小髷、八丁堀のお役人ふうでしたから、あっしが棟梁、お役人といいますと、棟梁はピタリと大地に手を突きました。するとお役人は棟梁の懐中物をしらべて、夜中大金を持ち歩くとは不審だ、明日まで預かっておくから朝奉行所へ出頭しろと、名も役目も言わずにそのまま財布を持って立ち去りそうにしますので、私と棟梁が泥棒ッ! と大声をあげて騒ぎ立てたとたんに、私は、そのお役人がピカリと引っこ抜いたのを見ました。で、わアッ! と駈け出したとき、うしろに棟梁の魂切る声を聞きましたが、あとは夢中に転がりながら、まつ川さんへ戻ってたたき起こしたんで――」
新助のいうところはこれだけだ。
なるほど、持って出た提灯が、なかば焼け、土にまみれ落ちている。
しかし、近くのどこを捜しても、ぬげた覆面はもとより、何ひとつ手懸りらしいものはみつからなかった。
上役人の斬り奪り強盗……波紋はこれから大きくなっていく。
新助が走って、日本橋銀町へ知らせると、帰りを案じていた伊兵衛の女房が若い者をつれて駈けつけてくる。
自身番から人が来て、ひとまず死骸を引き取っていったあと。
未明……の雨。
お艶はその足ですぐ、まつ川の男衆とともに辻駕籠をやとって、外桜田の大岡越前守お屋敷へ、おねむりを妨げるのもかまわずに訴え出た。
あかつきかけて降りだした時節はずれの寒しぐれ――さんざめかして駕籠の屋根を打つその音を、お艶はこの日ごろ耳にする色まちの絃歌、さんざ時雨と聞いてぼんやりしたこころにいっそうの哀愁と痛苦をつのらせるのだった。
大岡様へ急の御用!――とあって女の身ながらも木戸木戸を許されたお艶、数丁さきで駕籠を捨てて、あとは裾をはさんで裸足になり、湿った土を踏んで、バタバタバタとあわただしくお裏門へかかると、
「この夜ふけに何者だ? なんの用で参った?……おお! 見れば若い女のようだが」
御門番の士がのぞいてみて不審がお。
「はい。実はいそぎを要しまして、駈込みのおうったえでございます」
狼狽したお艶が、こう懸命に声を張りあげると、門内の士はいっそう威猛高に、
「黙れ、だまれッ! 駈込みの訴えならば、夜が明けてから御奉行所へ参れッ、南のお役所を存じておろう、数寄屋橋の袂だ」
と、今にも、ピシャリ、潜門に小さく開いているのぞき窓をしめてしまいそうな形勢だから、お艶はもう泣かんばかり――。
番士のほうにも理屈はある。
強訴……いわゆる駈込みうったえというのは。
南町奉行所の前へ行くと、腰かけが並んで願い人相手方というのがズラリ並んでいるが、そのむこうに見えるお呼び出し門、これが開いたとみるや、ドンドン素足でとびこんでゆく。すると門番がいて、差し越し願いは取り上げにならん、帰れといって突き放す。そこをもう一度走りこむ。そうすると今度は、訴え事があるならば差添い同道、書面をもって願い立てろと門番がどなって、二度目に手あらくどんと門外へつき出すのだがそれを押しきり、三度目に御門内にとびこんで、わたくしはこの御門を出るとすぐに殺されてしまいますと大声をあげると、人命に関するとあってはお上でも容易ならずと見て、はじめてここにお取上げになり、荒筵のうえに坐らせられて、八丁堀同心見習の若侍が握り飯二つに梅干を添えてお手当として持ってくる。これをすぐさまむさぼるように食べて、大事の訴えに朝飯を食わずに来たという非常ぶりを見せなければならない。そのようすを当番の与力が訴え所の障子を細目に開けて見ていて、これはいかさまよほど重大な願いごとがあるのだろうと、そのおもむきをお奉行さまへ上申して第一の御前調べにひき出される……これが、当時公事の通とも言われるものは必ず一とおり心得ていた駈込み訴えの順序とコツ。
言うまでもなく、これはすべて、お役所での法外の法なのだが――。
が、しかるに今。
お艶は、お役宅の門をたたいて駈込みの訴えだといったから、相手はここいらにふさわしからぬなまめかしい女のことだし、門番も、奇異の感とともに面倒に思って、雨中ではあり、さっさとひっこんでしまいそうにするので、
「アノ、ちょっと殿様の御存じの者でございますが……」
お艶が言いかけるが、
「ナニ? 御前がお前見識りごしだというのか」
「いえ。わたくしではございません。お出入りの大工伊兵衛と申すものが八丁堀お役人ていの追剥ぎに斬り殺されまして――」
「ナ、なに? あの伊兵衛が……?」
とびっくりした御番士、伊兵衛ならば自分もよく知っているから、まだ夜中ではあるが、取り急ぎその旨をおつぎの間にひかえた御用人伊吹大作を通して申しあげると、
オ、あの老人の大工が? それは! とこれも驚いた大作、かみにはおやすみではあろうが、ひとまずごようすをうかがって、もしお眼覚めならば御聴聞に達しようと、境の襖をそろそろと開けてみてそしてギョッ! としたのだった。
御就寝とのみ思っていた越前守忠相、きちんと端座して蒔絵の火鉢に手をかざし、しかもそれをへだてて、ひとりの長髪異風な男が傲然と大あぐらをかいているではないか。
仰天した伊吹大作、宿直の際は万一の用に、常に身近に引きつけておく手槍を取るより早く、
「おのれッ! 無礼者ッ!」
閃光、男の胸部を狙ってツツウ! と走った。
突如くり出された槍さきを、グッと胸もとに押し流した奇傑泰軒。
「わッはっはっは、夜中忍んで参ること数十回、いままで誰にもみつからなかったが、今夜こそは見事に現場をおさえられたぞ。アッハッハ」
と、同時に、あっけにとられた大作に、忠相の声が正面からぶつかっていた。
「控えろッ大作! これなるは余の親友、名は言われんが大奥隠密の要役を承る大切な御仁じゃ! やにわに真槍をもって突きかけなんとする? 引けい!」
むかし伊勢の山田でも、忠相は泰軒を千代田の密偵に仕立てて手付きの者のまえをつくろったことがあるが、今また、大奥隠密! という忠相とっさの機知に、徳川家を快しとしない武田残党の流士蒲生泰軒、燭台の灯かげにいささかくすぐったそうな顔をなでていると、何も知らない大作は、思わぬ失策にすっかり恐縮し、カラリと槍を捨ててその場に平伏した。
「いえ、ソノ、いつお越しになったかも存ぜず、それに、あまり変わった服装をしておいででござりますゆえ、つい、失礼ながら怪しきやつと……」
「うむ……なんじの寝ぼけ眼に映じたのであろう?」
忠相も、笑いをこらえている。
「はッ」
「かわった服装と[#「服装と」は底本では「服装と」]申すが、それもお役柄、隠密なればこそじゃ。その方とても時と場合によっては、探索の都合上、ずいぶんと変わった扮装をいたすのであろうがの」
「はっ。まことにどうも」
「一応声をかけて然るべきに、余と対談中の方へ槍を向けるとは粗忽なやつじゃ」
「なにとぞ平に御容赦……お客さまへも御前からおとりなしのほどを」
「越州どの、わかればもうそれでよいではござらぬか。ただ以後はわしの顔を覚えておいて、御門許しを願いたいものじゃて」
と泰軒は、うまくバツを合わせながらおかしいのをおさえた。
「今後気をつけるがよい」
ポツリと言った忠相、
「何か用か。聞こう」
「は」と始めてお艶の訴えを思い出した大作、ズズッと膝を進めて、
「御前、あの伊兵衛めが先刻辻強盗に斬られて落命いたしたげにござります」
「何? 伊兵衛と申すと大工の伊兵衛か――して、いかにしてそう早く其方の耳に達したのか。訴人が参ったナ?」
「御意にござりまする」
「女子であろう?」
「は、いかにも女子。なれどどうして御前には……」
「越州殿は千里見通しの神眼じゃ。たえずかたわらにあって御存じないとみえるの」
泰軒が口を挟む。大作はしんから低頭した。
「恐れ入りましてござりまする」
いたずら気にニッコリした忠相。
「呼べ」
「は?」
「その女子をこれへ呼び入れるがよい」
「ハッ」
立とうとする大作を、忠相の言葉がとめていた。
「訴えて参った女というのを、わしが一つ当てて見せようか。まず年若、稀れなる美女、世に申す羽織、深川の芸妓ふうのつくりであろうがな?」
「実はその、手前もまだ引見いたしませぬが、取次ぎの者の口ではどうもそのようで――」
「それに相違ない。連れて参れ」
いよいよ恐懼した大作が、お艶を呼びに急ぎさがってゆくと、忠相と泰軒、顔を見合ってクスリと笑った。
泰軒は、血筆帳の旅から帰府してまもなく、今夜また例によって庭からはいりこんで、相馬からの路を擁して月輪組を斬殺した次第を物語り、忠相は、泰軒の留守にお艶の身柄を出入りの大工棟梁伊兵衛なる者に預け、伊兵衛は又あずけにお艶を深川の置屋まつ川へ自分の娘として一枚証文の芸者に入れたことを泰軒に話しているところだった。
大岡様へ申しあげる前に伊兵衛は不慮のやいばにたおれたのに、忠相はいかにしてお艶のその後の消息を詳知しているのか? 泰軒に頼まれた大事な人妻お艶である女ひとりの動き、いわば奉行にとっては瑣事とはいえ、かれはお艶を伊兵衛に渡したのちも決しておろそかにはしなかった。
万事にとどく大岡さま……。
小者を派してそれとなく伊兵衛方を探らせると、遊んでいては気がめいるから型ばかりに芸者にでも出して月日を早く送らせようとしているという。宴座に侍るだけならそれもよかろう。堅人の伊兵衛のすることだから間違いはあるまいと、忠相は最初から知って見ぬふりをしているのだった。
いまそのことを泰軒へ伝えている時にこの訴え――。
黙っていると、かすかに雨の音が聞こえる。
「暁雨」
何か詩の一節を忠相が口ずさみかけた拍子に、パッと敷居に明るい花が咲いたように、お艶がうずくまった。
「お艶どのか」
「お! 泰軒先生もここに!」
おどろくお艶へ、忠相はしずかに顔を向けて、
「雨らしいの」
と、淡々として他のことをいう。
「たいへんでございます。伊兵衛さまが追剥に殺されましてございます!」
「うむ。いま聞いた」
泰軒は平然と脇息にもたれて、
「いつのことかな、それは」
「っい先ほど……」
「場所は?」
「はい。深川の相川町、こちらから参りますと、永代を渡ってすぐの、お船手組お組やしきの裏手、さびしい往来でござりました」
「ふうむ。それで奪られた物は?」
「はい、アノ」と恥ずかしそうなお艶、「わたくしが身を売りましたお金と、それからなんでも出羽様からとかいただいた小判が三十とやら――」
「ほほう!」
眼をつぶって聞いていた越前守忠相、急に何ごとか思い当たったらしく、呵々と大笑した。
「出羽殿の金とか? すりゃ極印があるはず。丸にワの字じゃ。すぐ出るわい。たどって元を突きとめればわけなく挙がるであろう。江戸内外の両替屋に手まわしして触帳に記入させておく。よろしい!……つぎに下手人じゃが、これは誰も見た者もないであろうナ?」
「いえ、ところが……」
お艶はこの大事に、えらいお奉行さまの前をも忘れて、自分ながら驚くほどスラスラと言葉が出るのだった。
「ふむ。ところが……と言うと、何者か眼証人でもあると申すか」
「はい、伊兵衛の供をしておりました新どんが――」
「コレコレ、新どんとは何者だ?」
「新助と申しましてお弟子の大工でございます。その新助さんがいいますには、なんでも相手はお役人だったそうでございますが……」
「何を申す!」
突然、威儀を正した忠相、いくぶん叱咤気味で声を励ました。
「上役人とな?」
「はい」
「黙れッ!」
「――――」
「不肖といえどもこの越前が奉行を勤めおるに、その下に、追い落としを働くがごとき不所存者はおらぬぞ! たしかにその者、じぶんは役人であると申したというか?」
「いえ、あの、決して初めからそう申したわけではございませんそうで、どうもお役人らしかったし、あとからその人もそう言ったという新どんのはなしでございます」
「偽役人であろう?」
泰軒がこう横あいから口を出すと、忠相はジロリとそのほうを見やって、
「これは、貴公にも似合わぬ。最初からおれは上役人だが……と自ら名乗ってこそ故意に役人をかたったものとりっぱに言い得るが、今も聞いたとおり、初手は黙っておったとすれば――? 越州察するところ、こりゃ単に役人にまぎらわしき風体のものであろう。ううむ、覆面でもとれるか、不覚に顔を照らし見られでもして、幸いおのれが平常より役人に似ておることを心得ているゆえ、また伊兵衛とその新助とやらが確かに役人と思いこみおるようすに、その場にいたってにわかに役人風を吹かせたものに相違あるまい」
「あッ!」かえってお艶のほうが大岡様から知らされるくらいで、
「おっしゃるとおりでございます。申し忘れましたが、初めは覆面をしておりましたそうで、それが抜け落ちて顔を見ますと、どうやらお役人……」
「そうであろう。曲者は、覆面で足りれば役人顔はしとうなかったのじゃ。それが、顔を見られて役人とふまれたればこそ、自ら役人に似ておることを利用したのであろうと思われる。フウム、いよいよ常から役人らしき風俗をいたしておるものの所業ときまった! めあては金子! ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り奪り沙汰――誰じゃナ? 蒲生心当りはないか」
泰軒を顧みた忠相の眼じりに、こまかい皺がにこやかにきざまれている。
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も直参の士、確たる実証の挙がるまでは、姓名を出すのも気の毒じゃ、万事、貴様とわしの胸に、な、わかっておる、わかっておる!」
狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
春とは言え。
まだ膚さむい早朝……。
雨後の庭木に露の玉が旭に光って、さわやかな宙空に、しんしんと伸びる草の香が流れていた。
ぼちゃりと池に水音がはねると、緋鯉の尾が躍って見えた。雨戸を繰らないお屋敷のまわり縁に夜の名残りがたゆたって、むこうの石燈籠のあいだを、両手をうしろにまわし庭下駄を召して、煙のようにすがすがしいうす紫の明気をふかく呑吐しながら、いったり来たりしている忠相のすがたを小さく浮かび出している。
日例のあさの散策。
遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
大工伊兵衛の横死――。
それがかれの脳裡を去らない。
一町人が邪剣を浴びて凶死した……それだけのことではすまされないものが、なんとなく奉行忠相の胸にこびりついて離れないのである。
――おそかった。
――手ぬかりだった。
忠相はこうしみじみと思う。
いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く手配をして引っくくってしまわなかったのが、返すがえすもわしの落ち度であった。
申しわけない!
さまざまのよからぬ風情も聞き、家事不取締りの条も数々あって、それらをもってしても容易におさえることはできたのに!
事実、博奕の罪科のみでも彼奴をひったて得たではないか。
それなのに自分は――まだまだ、もう少し現に先方から法に触れてくるまで……手をこまぬいて待っているうちに、暴状ついに無辜の行人におよんで、あったら好爺を刀下の鬼と化さしてしまった。伊兵衛にすまぬ!
この忠相が、手を下さずして殺したようなものとも、いえばいえようも知れぬ。
アアア、手おちであった……とおのれを責めるにやぶさかならぬ忠相が、ひとり心の隅々を厳正のひかりに照査して、すこしなりとも陰影を投げるわだかまりに対しては、どこまでも自らを叱って法道のまえに頭を垂れ、悔いおののいていると、
この、粛然襟を正すべき名奉行の貴い悶えもしらずに、忠相の足もとに嬉々としてたわむれる愛犬の黒犬。
「黒か、わしは馬鹿じゃったよ。大馬鹿じゃったよ。おかげで人ひとり刀の錆にして果てた。なア、そうではないか」
黒は、喜ばしげに振り仰いで……ワン!
「おお、そちもそう思うか」
わん! ウアン、ウウウわん!
「はははは、おれをののしるか? うん、もっともっと罵倒するがよい!――奉行いたずらに賢人ぶるにおいては……ううむ! いや、たしかにわしの過失であった」
と忠相は、ただ一工人の死がそれほど心を悩まし、さかのぼってまで彼の責任をたたかずにはおかないのか――? 傍で見る眼もいたいたしいほど苦しんでいるのだ。
ほとんど瑕とはいえないほどの微小な瑕ですらも、それがおのれのうちにあるごとく感じられる以上、どこまでも自己を追究して、打ち返し築きなおさずにはいられない大岡忠相であった。
いささかも自分と、じぶんの職責をゆるがせにできない冷刃のような判別、それをいま忠相はわれとわが身に加えているのだった。
市井匹夫のいのちにかくまでも思いわずらう名奉行の誠心……これこそは人間至美のこころのすがたであると言わねばなるまい。
忠相の忠相、越前の越前たるゆえん、またこれをおいて他になかった。
「これヨ黒! 貴様に弁当を分けてやりおった伊兵衛の仇は、この忠相には、すでに鏡にかけて見るがごとく知れておる。安堵せい。近く白洲に捕縄をまわして見せるが、まず、丸にワの字の極印つき小判が出るまでは当分沈伏沈伏……すべては、その出羽の小判が口をきくであろうからのう――」
と忠相、いま黒犬が走り去ったのも気がつかず、しきりに話しかけているが、何におびえてか黒は、池のかなたの植えこみに駈け入って、火のつくように吠え立てる声。
洗面のしたくでもできてお迎えに来たらしく、はるか庭のむこうを若い侍女が近づいてくるのが見える。
忠相は、侍女の足労をはぶくために、もうさっさとこっちから歩き出していた。
「あの、先生……」
朝日の影が障子に躍りはじめると同時に、いま、大岡様のお座敷を出て来たお艶、泰軒のうしろについて、二人がお庭の池に沿うて植えこみの細道に来た時、こうためらいがちに声をかけたのだった。
例によって貧乏徳利を片手に、泰軒は歩調をゆるめて振りかえる。
お艶は立ちどまった。
「先生!」
「なんじゃな?」
答えながら、かぐわしい朝の日光のなかに初めて、お艶のすがたを見た泰軒居士、一歩さがってその全身を見あげ見おろし、今さらのように驚いている。
そこに、泰軒の眼に映っているのは、あさくさ瓦町の陋屋にぐるぐる巻きでつっかぶっていたお艶ではなく江戸でも粋と意気の本場、辰巳の里は櫓下の夢八姐さん……夜の室内で見た時よりは一段と立ちまさって、すっきりした項から肩の線、白い顔にパッチリと整った眼鼻立ち、なるほど、よく見ればお艶には相違ないが、髪かたちから化粧、衣装着つけや身のこなしまで、彼女はもう五分の隙もない深川羽織衆になりすまして、これでは、識った者で往来ですれ違ってもとても気がつくまいと思われるほど。
夜来のおどろきと気づかいに疲れたのか――後れ毛が二、三本、ほの蒼い頬に垂れかかって、紅の褪せたくちびるも、後朝のわかれを思わせてなまめかしい。
大きな眼が、泰軒の凝視を受けて遣り場もなく、こころもちうるんでいた。
一雨ごとのあたたかさ。
その雨後のしずくに耐え得で悩む木蘭の花。
そういった可憐なものが、物思わしげに淋しい、なよなよと立つお艶のもの腰に、蔦かずらのようにまつわりついている。
この嬌美にうたれた泰軒、何か珍奇なものを眺めるように、こと改めてしげしげと見つめながら、思うのだった。
――芸者になった……のか!
これもよくよく考えあぐみ、身の振り方を思案しぬいたすえであろうが、芸者に! とはまた思いきったものだ。
それも、源十郎の爪牙から自らを守るため。
ひとつにはいっそう栄三郎をあきれさせ、あきらめさせるあいそづかしの策であろう――ウウム、いっそおもしろかろう! が、ただ……。
つとお艶は顔を上げた。
明眸が露に濡れている。
「先生! つ、艶は、こんな風態に[#「風態に」は底本では「風態に」]なりましてございます。お恥ずかしい――」
「いや! はずるどころか、美しくて結構じゃ、うう、これは皮肉ではない。今も、しんからそう思って見惚れていた、ハハハハ」
「お口のわるい……」
「しかしナ、どこで何をしようと、あんたは栄三郎どのの妻じゃ。それを忘れんように、栄三郎殿になり代わって泰軒がこのとおり頼みますぞ。稼業とはいえ、万一おかしなことでもあったら、仮りに栄三郎殿が許しても、この泰軒が承知せんからそのつもりでいてもらいたい」
「アレ先生、そんなことは、おっしゃるまでもなく艶は心得ております」
「それさえわかっておれば、わしも何も言うことはないが――」
と急に声を低めた泰軒、
「お艶どの、何か言伝はないかナ?」
「はい」
お艶はもう哭きくずれんばかり……。
「アノ、わたくしはいつまでも辛抱いたしますゆえ、どうぞ栄三郎様のほうを――」
「はははははは、お艶どの、このわしを泣かしてくれるな、はははは」
泰軒は、むりに笑って顔をそむけた。
その耳へ、何ごとかを訴えるがごときお艶のつぶやきが、低く断続して聞こえてくる。
意味の聴きとれない泰軒、腰をかがめてお艶に顔をよせ、しばらくは、なにかしきりにうなずきながら聞いていたが、
やがて、鬚だらけの顔がにっこりしたかと思うと、泰軒先生、喜色満面のていでそりかえった。
「うむ! そうか、そうか。やアめでたい! そりゃア何より……ワッハッハッハ! 早う栄三郎どのにしらせてやりたいが、今はそうもなるまい。しかし、でかしたぞ、お艶どの! あっぱれ、あっぱれ」
そして、なぜか火のようにあかくなっているお艶をのぞきこんで、泰軒先生ひとりで大はしゃぎだ。
「男か女か」
「まあ先生、そんなことが――」
お艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
この享保の初年に。
筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
同時に、金泥を置き墨のうえに膠を塗って光沢を出したものを漆絵と呼び、べに絵とともに愛玩されたが、明和二年にいたって、江戸の版木師金六という者、唐の色刷りを模して版木に見当をつけることを工夫し、はじめて四度刷り五度ずりの彩色版画を作ったところが、時人こぞって賞讃し、その美なること錦に似ているというのでここに錦絵の名を負わすようになった――本朝版画のすすんだ道とにしき絵の濫觴だが、これは後のこと。
享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工奥村政信。
で、いま。
その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
あたまは野郎頭。
京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した留袖。
それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
風流紅彩色姿絵と横に大書した木箱を背負い、箱のうしろに商売物の絵をつるし、手に持った棒にもべに絵がたくさんさがっている。
そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、庇まで備わり、三浦と染め出した暖簾、横手の壁には吉原と書いた青楼の雛形に載せてかついでいようという、いかにも女之助と呼びたい、みずからそのべに絵中の一人物――。
後年はおもに女形の卵子や、芳町辺で妙な稼業をしたものの一手の商売ときまり、またその時分すでにそうした気風も幾分かきざしていたけれど、それでも享保時代にはまだ、副業の男娼よりは、べに絵売りはただ新しく世に出て珍しい彩色絵を売り歩く単なる絵の行商人にすぎなかった。
とはいっても。
どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の優男が、風流紅彩色姿絵そのままの衣裳を凝らして、ぞろりぞろりと町を練り歩いたもので、決して五尺の男子が、自らいさぎよしとする職業ではなかった。
世は泰平に倦み、人は安逸に眠って、さてこそこんな男おんなみたいな商売もあらわれたわけだろうが、この風流べに絵売り、そのころボツボツ出はじめた当座で、だいぶんそこここの往来で見かけるのだった……。
雨あがりの朝。
外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす靄のようによどむ町々を罩めていた。
お江戸の空は紺碧だった。
一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の普化僧がぬかるみをまたいで来ると、槍をかついだ奴がむこうを横ぎる。町家では丁稚が土間を掃いていたり、娘が井戸水を汲んでいるのが見えたり、はたきの音、味噌汁の香――。
親しい心のわく朝の街である。
途中何やかやと話し合いながら呉服橋から蔵屋敷を通って日本橋へ出た泰軒とお艶。
こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには他ながら栄三郎どのに会う機もあるであろうから、気を大きく持って……お! それから、何よりも身体を大切に、あんたひとりの身体ではないで、むりをせんようにナ」
と、じぶんの言うことだけいったかと思うと飄々然、一升徳利とともに橋を渡って通行人のあいだに消えてしまった。
まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて茅場町からこんにゃく島、一の橋をわたって伊兵衛の家へといそいで来た。
いまは、侠なつくりの夢八姐さん。
お座敷帰りとも見える姿で、ちょうど忌中の札をかけて大混雑中の棟梁方の格子戸をくぐろうとした時だ。
ちらとかなたの町を見やったお艶片足を土間に思わずハッといすくんだのだった。
べに絵売りの若い男がひとり、朝風に絵紙をはためかして歩いてゆく……江戸街上なごやかな風景。
「栄三郎どのか、ちょうどよいところへ戻られたナ。あがらんうちに、その足で小豆をすこし買うて来てもらいたい」
野太い泰軒の声が、まっくらな家の奥からぶつけるようにひびいてくる。
「あずき……」
と思わずきき返して、いま帰って来た栄三郎は、背にした荷を敷居ぎわにおろした。
浮き世のうら――とでもいいたい瓦町の露地裏、諏訪栄三郎が佗び住居。
お艶と泰軒が大岡様のもとにかち合って、そして日本橋で別れた、その日の夕刻である。
今夜もまた灯油が切れたのか、もうすっかり暗くなっているのにまだ灯もつけずに、泰軒は例によって万年床から頭だけもたげているものとみえて、何だか低いところから声がしている。
……小豆をすこし買ってこいというのだ。栄三郎は、手探りでべに絵の木箱をおろすと、もう一度のぞきこんでたずねてみた。
「小豆を――? もとめて参るはいとやすいが、なんのための小豆でござる?」
すると泰軒、暗いなかでクックッ笑い出した。
「アハハハ、知れたこと、赤飯をたくのだ」
「赤飯を? 何をまた思い出されて……しかし、蒸籠もなく、赤飯はむりでござろう?」
「なに、赤飯と申したところで強飯ではない。ただの赤いめしじゃ。小豆を入れてナ」
「ほう!」
と軽く驚いた土間の栄三郎と家の中の泰軒とのあいだに、闇黒を通して問答がつづいてゆく。
「ホホウ! 泰軒どのが小豆飯を御所望とは、何かお心祝いの儀でもござってか――?」
「さればサ、ほんのわし個人の悦びごとを思い出しましてな、あんたとともに赤飯を祝いとうなったのじゃ。お嫌いでなければつきあっていただきたい。きょうのべに絵の売上金のなかから小豆少量、奮発めされ! 奮発めされ! わっはっはっは」
「いやどうも、細い儲けを割くのは苦しゅうござるが、ほかならぬ先生の御無心……」
と栄三郎も、戯談めかして迷惑らしい口ぶり、
「殊には、先生のお祝い事とあれば拙者にとってもよろこびのはず。承知いたした! 小豆をすこし、栄三郎、今宵は特別をもってりっぱに奢りましょうぞ」
笑いながら、風流べに絵売りの扮装のまま、栄三郎は小銭の袋を手にしておもての往来へ出ていった……同居している泰軒のために小豆を買いに。
泰軒のために? ではない。
今朝ほどお艶から、彼女が、まだ生まれ出ない栄三郎の子を感じていると聞かされた泰軒、こうしてないしょに、ただそれとなく赤の御飯を炊いて栄三郎に前祝いをさせる気なのであろう――。
ガタピシと溝板を鳴らして、栄三郎の跫音が遠ざかってゆくと、泰軒居士、いたずららしい笑みとともにむっくり起きあがった。
「うむ! とうとう小豆を買いに参ったな。話せばどんなによろこぶかも知れぬが、今はまだ心からお艶どのを憎み恨んでいる最中、そのためかえって苦しみを増すこともあろうから、こりゃやっぱり、黙って、何事も知らせず祝わせてやるとしよう。どりゃ、そうと決まれば、こっちもそろそろ受持ちの飯炊きにとりかかろうかい」
ひとりごちながら、火打ちを切って手近の行燈に灯を入れる。
その黄暗い光に、ぼうッと照らし出された裏長屋の男世帯……。
乱雑、殺風景を通りこして、じっさい世にいうとおりうじくらい生きていそうな無頓着をきめた散らかし方だ。
お艶が家を出たあと、栄三郎がひとりで自炊していたところへ、相馬の旅から帰った泰軒がズルズルベッタリにいすわりこんだから、その無茶苦茶な朝夕、まことに思い半ばにすぎようというもの。
紙屑、ぼろ布、箸茶碗、食べかけの皿などが足の踏み立て場もなく散らかり、摺鉢に箒が立っていたり、小丼に肌着がかぶせてあったり、そして、腐えたような塵埃のにおいが柱から畳と部屋じゅうにしみわたって、男ふたりのものぐさいでたらめな生活ぶりをそのままに語っている。
勝手もとで、不器用な手つきで米をとぎだした泰軒先生、思い出してはしきりに、
「ウム! めでたい! こりゃあめでたいぞ!」
ひとりでさかんにめでたがりつつ、泰軒、ふとあがり口のべに絵木箱に、眼を留めて、
「オオ! きょうはだいぶ売れたようだな。ありがたい――」
栄三郎が、小豆を買って来たらしい。露地に、あし音が近づいていた。
早い月の出……。
下りきった夕ぐれの色が煙霧のようにただよって、そこここの油障子から黄色な光線の筋が往来に倒れている。
どこかの鐘の音が遠く空に沈んで、貧しい人々の住む町は、宵の口からひっそりとしていた。
たたき大工の夫婦、按摩、傘張りの浪人者、羅宇屋――そして、五十近いその羅宇屋の女房は、夜になると、真っ白な厚化粧に赤い裏のついた着物を着て、手拭をかぶってどこかへ出かけてゆく。そうすると、火のつくように泣く赤児を抱いて、羅宇屋が長屋中を貰い乳してまわる……このあたりは絶えて輝しい太陽の照ったこともなく、しじゅうジメジメと臭い瓦町の露地奥だ。
いま、小豆を買って帰る途中の栄三郎、露地へはいろうとして、角の酒屋の灯火を全身に浴びるといつものことながら、はッとして足のすくむのを覚えた。
みずからのすがたである!
湯島あたりのかげまか、歌舞伎の若衆でもなければ見られない面映ゆい扮装……。
ものもあろうに風流べに絵売りとしての自分には、たとえそれが世を忍ぶ仮りの生業とはいえ、根津あけぼのの里小野塚鉄斎道場に鳴らした神変夢想流の剣士諏訪栄三郎または御書院番大久保藤次郎実弟と生まれた諏訪栄三郎――どうしてこれが恥じないでいられようか。
何事も! 何ごとも……と常にみずからをおさえてはいる。が、こうしたものさびしい早春のたそがれなど、ひとり路を歩いていると、いったい今この道を踏んで行ってどこへいき着くのか? わが身の末はどうなのであろうか? 自然とかぶさってくる暗い考えが、眼に見えぬ蜘蛛の糸のようにかれの心身にからみつくのをどうすることもできないのだった。
弥生様のほうはお艶ゆえに断ちきった。
鳥越の兄藤次郎には勘当されている身分。いままたそのお艶とも別れて、しかも事件の起こりの乾坤二刀はいまだに離れたままである。
ことすべておのれに不利。
真の闇黒――そういった気がモヤモヤとわきたって来て、ちょうど寄辺なぎさの捨て小舟とでも言いたい無気力なこころもちにつつまれる朝夕、栄三郎は何度となく万事を棄てて仏門へでも入りたく思ったのだが。
この若い、そして若いがゆえにねばりのすくない栄三郎の心をひきたたせて、そばから怠らずはげましているのが、唯一の助太刀、同時に今は友であり師である蒲生泰軒先生であった。
お艶の去ったのち、栄三郎はお艶の思い出とともにひとりさびしく瓦町の家に暮らしていたが、かれはいよいよお艶のこころが遠くおのれを去ったことと思いこんで、その不実無情を嘆き悲しんだのも暫時、昨今はすっかりあきらめおおせて、今やその精心の全部を雲竜二剣にのみ集中しているべきはずなのが、ともすればそれさえ棄てて、いっそくだけて町人にでもなろうか……などという考えを、よしぼんやりにしろ起こすところを見れば、栄三郎かえってお艶に執心の強いものがあるのではなかろうか。
もちろん、ここはそうなくてはならぬところ。世の栄誉順境のすべてを犠牲に、ともに誓い誓われたお艶ではないか。どこにどうしているかは知らぬものの、やはり栄三郎の胸ふかくお艶を思う念の消えぬのはむりもなかった。消えぬどころか、相見ぬ日の重なるにつれて、四六時じゅう栄三郎の心にあるのはお艶のおもかげ態度、口ぶり――、あア、あの時ああいって笑ったッけ、そうそう、またいつぞやあれが軽い熱でふせった折りは……。
と栄三郎、こうして戸外をあるいていても、お艶恋しやの情炎にかりたてられて、さながら画中のよそおいの美男風流べに絵売り、もの思いに深くうなだれて、暗い裏町の小路をトボトボとたどってゆく。
だが! この美男のべに絵売り!
一朝、つるぎを抜いては神変夢想の遣い手、しかも日中しょい歩く絵箱の中に関の孫六の稀作、夜泣きの刀の片割れ陣太刀づくりの坤竜丸を秘して、その艶な眼は、それとなく途上行人のあいだに、同じ陣太刀乾雲丸とその佩刀者を物色しているものとは、誰ひとりとして知る者はなかったろう。
離れれば夜泣きする二つの刀……それは取りもなおさず、別れていて夜泣きするお艶栄三郎の身の上であった。
定まれる奇縁。
栄三郎は、そういう気がする。
黙想のうちにわが家の門口まで来たかれ、そのままはいりかけた足をとめて、ふと露地のむこうの闇黒をすかし見た。
何やら黒い影がふたつ、逃げるように急ぎ去っていくのだ。
ひとつはどうやら若侍のうしろ姿。だが、つれとみえる他のかげは?
小児か?……それとも野猿のたぐい?
栄三郎、思わずギョッ! として眼をこすった。
大小二つの人影!
ひとつは煙のごとく、他は地を這うように、たちまち消え失せたと見るや、栄三郎は、追いかけようとした身の構えをくずして家内へはいった。
飯のふきこぼれるにおい。
泰軒の大声。
「うわアッ! いま沢庵を切っとって手が離されん。早く、その、釜のふたをとってくれ」
帰るやいなや、栄三郎も手伝って、ふたりの男がてんてこまいを演じたのち、ようように小豆も煮えて、どうやら赤の御飯らしいものができあがる。
台所道具から夜具蒲団まで勝手放題に取り散らかした真ん中で、両人さっそく夕餉の膳に向かう。
くらい行燈の灯かげ……。
無言のうちに箸をとる。
ふと栄三郎が気がつくと、むこう側の泰軒正座して眼をつぶり、しきりに何かを念じているようす。
ははあ、今宵は心祝いがあるといって小豆めしを炊いた、それを祈っているのであろう――とは思ったが、栄三郎は聞きもしなかったし、泰軒もまた黙ったまますぐ食事にかかった。栄三郎がこの赤の御飯を食べさえすれば、かれが知る識らぬにかかわらず、やがては身ふたつになる、お艶への前祝いと観じて、泰軒はそれでこころから満足しているのだった。
だんまりをつづけて食事がすむ。あと片づけは栄三郎の役目。
泰軒は手枕、ゴロリとそこに横になった。
そして、栄三郎が水口で皿小鉢を洗う音をウツラウツラと聞きながら、ひとり何ごとか思いめぐらしている。
しいんと世間はしずまりかえって夜の呼吸が秘めやかに忍びよってきていた。
蒲生泰軒……。
かれは、かの殺生道中血筆帳をふところに北州の旅から帰って、この瓦町の栄三郎方にわらじの紐をとき、そうして血筆帳を示してすべてを物語ったのち、相馬藩月輪一刀流の剣軍が江戸へはいって、いま本所の化物屋敷に根城を置いているから、近く左膳を頭に彼らの一味が来襲するに相違ないといましめて、いまだに放れ駒のように、恋と義にはさまれて心の拠りどころなく苦しんでいた栄三郎に緊褌一番、一大奮励をうながしたのだった。
と同時に。
敵の眼をくらましてその裏をかく方便として、泰軒が栄三郎にすすめたのが、この、風流べに絵売りの変装であった。
泰軒が味噌をすれば、栄三郎が米をとぐ。栄三郎が水を汲めば泰軒先生が箒を手にする。が、居候四角な部屋を丸く掃き――掃除というのも名ばかり型ばかりで、男同士の住居は梁山泊そのままに、寝床は敷きっ放し、手まわりの道具や塵埃は散らかり放題。それで、栄三郎がかつぎ売りに出ている昼のあいだは、泰軒居士は寝てばかりいて、床のなかから豆腐屋を呼んだり金山寺を値切ったり……いまではこの家、瓦町長屋の一名物となっているのだ。
白皙紅顔の美青年栄三郎は、このごろはべに絵売りの扮装も板についてきて、毎日、はでなつくりに木箱を背負っては江戸の町々を徘徊し、乾雲の眼を避けながらその動静を探っている。
「アレ! きれいなべに絵さんだこと!」
はすっぱな下町娘や色気たっぷりの後家などが、ゆきずりに投げてゆくこうした淫らがましい言葉、それにさえ慣れて、はじめのような憤りや自嘲を感じなくなった栄三郎であった。
が、しかし!
家にある泰軒先生が一日じゅう蒲団をかぶって奇策練想に余念のないごとく、優にやさしいべに絵売り栄三郎の胸中にも最近闘気勃然としてようやくおさえがたきものが鬱積していた。
背にした箱の脇差坤竜!
それはやがて乾雲をひきつけるよすがである。
――こうして泰軒先生と栄三郎との奇妙な生活のうえに、こともなく日が重なって来たのだったが!
それが今朝!
日本橋銀町伊兵衛棟梁の家の前で、お艶はべに絵売りの栄三郎を見かけた……けれど、栄三郎は気がつかずに通り過ぎてしまった。
風流べに絵売りの栄三郎と、芸者夢八のお艶と――そのたがいに変わった姿に泣いたのは、だからお艶だけだったのである。
いま……真夜中近い亥の刻。
突如ムックリ起きあがった泰軒、何を思い出したか、
「栄三郎どの、だまってついて来なさい」
とひとりサッサとはやもう戸口におり立っていた。
すっかり浪人風に返った栄三郎、武蔵太郎安国と坤竜丸をぶっちがえて、泰軒とともに露地を立ち出でた時、中空に月は高く、そして地には、かれのあとから、またもや大小ふたつの影が動くともなくつけていた。
「ね、伊織さん、殺らしちゃいけねえんですね?」
小の影――山椒の豆太郎、チョコチョコ走りに追いつきながら、こう声を忍ばせた。
人通りのない、両国広小路である。
月のみ白く、町は紺いろに眠っていた。
その、小石さえ数えられる明るい往来のむこうに、細長い影を斜めに倒して、泰軒と栄三郎の並んでゆくのが、小さく、だがハッキリと見える。
そのうしろ姿から眼を離さず小野塚伊織の弥生、同伴の豆太郎を顧みて答えるのだった。
「うむ! 殺すはもとより、どちらにも怪我があってはならぬ。そちのその手裏剣をもって、ほどよくおどかしてくれればよいのじゃ」
豆太郎は、グルリと帯のあいだにさしつらねた十幾つの短剣をなでながら、にやりと笑った。月光がその顔にゆがむ。
「むずかしい御注文ですね。いっそひと思いにやっちまえというんなら骨は折れませんが、傷をつけねえようにおどかせなんて、こいつア少々……」
「そこが豆太郎の手腕ではないか」
いいながらも弥生は、前をゆく二人をみつめているので、そばの豆太郎が、これはいささか曰くがありそうだわい! というように狡そうに首をかしげたのに気がつかなかった。
米沢町から薬研堀へと、先なる両人は肩を並べて歩いてゆく。
月しろと夜露。
あとの、豆太郎と弥生のふたりも、戸をおろした町家の軒下づたいに、見えがくれにつけていくのだが、深夜の無人にすっかり安堵してか、泰軒も栄三郎も一度も振り返らないで、忍びとはいえ、半ば公然なのんきな尾行。
もう四つ半をまわったろう。中央に冴え返る月が、こころもち東へ傾いて、遠街を流す按摩の笛が細く尾を引いて消える。
脚が短いので、ともすれば遅れがちの豆太郎、ベタベタと草履を鳴らして弥生の横へ出た。
「どこイ行くんでげしょう、あいつら?」
「まあ――どうも方角が辰巳だな」
「たつみ? フウッ、乙ですね」
「そうかナ。方角が辰巳だと乙ということになるかな」
「しらばくれちゃアいけませんぜ。失礼ながら殿様なんざア男でせえふるいつきてえぐらいいいごようすだ。ねえ、女の子がうっちゃっちゃアおかねえや。さだめし罪なおはなしがたくさんごわしょう。だんまりで夜道を徒歩うてえなア気がきかねえ。一つ、色懺悔をなさいまし、色懺悔を……豆太郎、謹んでお聞きしますよ、エヘヘヘヘ」
「たわけ! 黙って歩け!」
「へ? するてえとなんですかい、それほどの男ぶりでまだ女を――てエのは、ハテ! 変だな!」
「ナ、何がへんだ?」
弥生の声には、早くも警戒の気が動いている。豆太郎は笑いほごした。
「いえ、なあに、こっちのことで……ただね、ただ殿様にゃア女性のにおいがするから、それでその、あんまり女の子が寄りつかねえんじゃねえかと――はははは、これああっしの勘ですがね」
ギラリと凄い光が、豆太郎の眼尻から弥生の横顔へはねあがる。
弥生は、大きく口を開けて欠伸をした。
「見ろ! きゃつら両人、いよいよ深川へはいりおるぞ! さ、すこし急ごう」
「いそぐのはいいが、こうして尾けてってどうするんです?」
「さきは拙者のいうとおりにしろ」
と足を早めると、なるほど、泰軒と栄三郎は、もう永代寺門前通り山本町、名代の火の見やぐらの下あたりにさしかかっている。
この夜ふけに、いずくへ?――いくのだろう?
心中にはいぶかしく思っても、栄三郎はべつにたずねもせず、また泰軒も話そうとはしないで、瓦町を出てから口ひとつきかずに押し黙ったまま、ここまで来たのだ。
柳暗花明、名にし負う傾斜のちまた。
栄三郎、ちと迷惑げに眉をひそめていると、ぼろ一枚に貧乏徳利の泰軒先生、心得がおにブラリブラリと先に立つ……。
何かは知らず、早くから弥生につれられ、青山長者ヶ丸子恋の森のふしぎな家を出てきて、宵の口いっぱい瓦町に張りこんで今あとをつけて来た豆太郎も、弥生とともにすこし遅れてついてゆくのだが。
一寸法師、おまけに亀背で手長の甲州無宿山椒の豆太郎、すくなからず勝手がちがってキョロキョロしている。
ただこうして先刻夕がた、べに絵売りとまで身をやつしている栄三郎のあらぬ姿を見た弥生、こころいたんでやまないのはぜひもなかった。
三月二十一日より四月十五日まで深川八幡のお山びらき。
山開き客も女も狂い獅子。
これは山びらきに牡丹町から獅子頭が出るので、それにかけて言ったものだが、とにかく当時はふかがわの山開きといえば大した人気、さかんな行事の一つであった。
この期間、別当のお庭見物差しゆるす。
別当は、大栄山永代寺金剛神院。
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に擬して富ヶ岡八幡といい、社地に二軒茶屋とて、料理をひさぐ家があったことは有名なはなし……。
――さて、
ちょうど今がその山びらきお庭拝観の最中で昼は昼で申すもさらなり、夜は夜景色見物と、そのまた見物に出る美形を見物しようというので、近くはもとより、江戸のあちこちから集まって来る老若男女の群れが自然と行列をつくって切れもなく流れ動いている。
樹間の灯籠が光線の魔術を織り出し、そこここの焚き火の余映を受けて人の顔は赤い。
木の下やみに隠れてつれを驚かそうとする職人、ふくべをさげた隠居、句でも案ずるらしくゆきつ戻りつする大店の主人てい、肩で人浪を分けてゆく若侍の一隊、左右に揺れて押しあいへしあい笑いさざめいてくる町のむすめ達……人を呼ぶ声、ひるがえる袂、騒然とうす闇に漂う跫音――、
夢のなかで、もう一つ夢を見ているような、それは夜霧もまどやかな人出の宵であった。
そこへ、月が昇る。
おぼろ夜にはまだ早いけれど、銀白の紗が下界を押しつつんで、人はいっそうの陶酔に新しくさざめき合う……。
その時、人ごみのなかを左褄をとっていそぐ粋な姿があった。
言わずと知れた羽織芸者――水のしたたりそうな、スッキリとした江戸好みに、群集中の女同士さては男までが眼顔で知らせ合って、振り返り、伸びあがって見送っていると、芸者は、裾さばきも軽やかに社庭を突っきり、艶っぽい声を投げて一軒の料理家の戸ぐちをくぐった。
やぐら下まつ川の夢八が、羽織見番へ口がかかって、いまお座敷へ出るところ……。
すぐあとから箱屋が三味線箱をかついでつづく。
これはいかさま箱屋で、その三味線箱なるものが、大工の道具箱にも似ていれば、そうかと思うとあとつけにも見える。あとつけというのは、武士で道中で替差しの刀を入れておく箱のことだ。
お祭り同然の山びらきで座はこんでいる。
「おやまあ、新がおの夢八姐さん、さっきからお客様がお待ちかねでネ、エエエエ、もう、じりじりなすっていらっしゃいますよ」
こう言われて夢八のお艶、通されたのは庭の池に面した表二階の一間だった。
人声と物音が綾をなして直下の道路に揺れている。
どこか遠くの部屋で、酒でも呼ぶらしくつづけざまに手を叩いていた。
廊下に小膝をついて障子をひきあけたお艶、
「ヨウ! 来たね」
という客の、すこし訛りをおびた嗄声で、なんだか聞きおぼえのあるような気がして、かすかにさげていた頭をあげ室内を見た。ちんまりと洒落た小座敷。
骨細のきゃしゃなあんどんをひきつけて坐っている町人のひとり……五十がらみのがっしりとした恰幅、色黒――鍛冶富!……鍛冶屋富五郎である。
「おお!」
「アレ!」
これがいっしょの声だった。
客というのは鍛冶富――嫌なやつ! と思っても、お艶の夢八、とっさに立つわけにもゆかず、さりとてそのままはいる気にはなれず敷居のところでモジモジまごまごしていると、こっそり遊びに来て芸者を呼ぶとそれが昔のお艶だったので、より驚いたのは鍛冶富だ。
「イヤッ! お艶さんじゃアねえか。お前さん、どうしたえ? 喜左衛門どんも始終うわさをしていたよ。この土地から芸者に出ているなんておらアちっとも知らなかった。え? いつからだい? 栄三郎様とは別れたのかえ?……マずっとこっちへおはいんなさい。しばらくだったなア!」
「三間町さんでしたか。ほんとにマア御無沙汰申し上げております。お変りもなく――」
言いながらお艶は、なんとか口実をつけて帰らせてもらおう――こう考えたが、富五郎はもう溶けんばかりにでれりとなって、
「いや! そんな挨拶はぬきだ、ぬきだ! それよりお艶さん、きれいになったなあ……」
じいッとみつめる色ごのみな鍛冶富の視線にお艶はますます首肩のちぢむ思い――。
「軍にはまず兵糧が第一だて」
「さようさ。ここでしこたま詰めこんだのち出かければちょうど刻限もよかろう」
「なあに! 相手は優男に乞食ひとり、何ほどのことやある。これだけの人数をもって押しかけ参らばそれこそ一揉みに揉みつぶすは必定! さ、前祝いに一献……」
「善哉善哉!」
「今宵こそは左膳どのも本懐を達して――」お艶はギョ! として思わず呼吸をのんだ。
最後の言葉が、動かないものとして彼女の耳をとらえたのである。
じつは、さっきから隣の部屋にいろんな声がしていたのだが、どこかの家中の士が流れこんできて駄々羅あそびをしているのだろうと、お艶は、それよりも目前のおのが客鍛冶富に気をとられて、隣室の話し声にはたいして意を払わずにいたのだったが、はじめはヒソヒソ低声にささやき合っていたのが、だんだん高くなるにつれてお艶もいつしかそれとなく耳を傾けていると!
……相手はやさ男に乞食ひとり、というのが聞こえた。
さてはッ! といっそう聞き耳を立てたところへ、今宵こそは左膳どのも云々――と誰かが言い出したからこっちの部屋のお艶、うっかり叫び声をあげそうだったのを危うくおさえて、つと鍛冶富のまえへ膝を進めながらニッコリ笑顔をつくった。
が、耳の注意だけはやはり隣室へ!
富五郎は気がつかない。
もとからお艶にぞっこんまいって機会あらばと待ち構えていた彼、羽織衆夢八となってひとしお嬌美を増したお艶の前に、富五郎はもう有頂天になっているのだ。
「いや。人間一生は七転び八起きさ、そりゃア奥州浪人和田宗右衛門とおっしゃるりっぱなお武家の娘御と生まれた身が、こうして芸者風情に――と思うとね、お前さんだっていろいろおもしろくないこともあろうけれど、サ、そこが辛抱だ。なあ、そうやってるうちにアまた思わねえいい芽もふこうってものだ。だがネ、お前さんが栄三郎さんに見限りをつけたのは大出来だったよ。おらあ他人事たア思わねえ、いつも喜左衛門どん夫婦と話してるんだ。ねエ、お艶さんは白痴だ。あんな普外れた器量を持ちながらサ、こういっちゃアなんだが、男がいいばかりで能のねえ御次男坊なんかと逃げ隠れて、末はいってえどうする気だろう?……今のうちに眼がさめて別れちまえば、まだそこに身の立て方もあろうてもんだが――なんてネ、寄るとさわるとお前さんのうわさで持ちきりだったよ。が、まあ、わしのにらんだとおり、お前さんも根ッから馬鹿じゃアなかった。栄三郎と手をきって、こうして羽織を稼いでいるたア褒めてもいいね。ははははは、はやるだろう?」
「ええ、……おかげ様で、まあボツボツねえ」
「結構だ。せいぜい稼いでお母に楽ウさせるんだナ。ときに、おふくろといえば、どうしたえ、その後は? 音信でもあるかね?」
「は。まだ――」
「本所のお屋敷に?」
「ええ」
平気をよそおって富五郎とやりとりしながら、全身これ耳と化したお艶が、襖越しに気をくばっていると隣室には乾雲を取り巻く同勢十五、六人集まっているようすで、何か声だかに話し合って笑い興じている。
「しからば露地ぐちに見張りをつけて……」
といっているのは丹下左膳の声らしいが、あとは小声に変わって聞こえなくなった。
鳩首凝議――とみえて、にわかにヒッソリとした静けさ。
突然!
「ウム!」
と大きくうなずいて笑いだしたのは、お艶は知らないが月輪の首領軍之助であろう。事実、偶然このお山びらきの夜、社地内の料亭に酒酌みかわして、刻の移るのを待っている一団は……!
一眼片腕の剣魔丹下左膳を中心に、月輪門下の残士一同、深夜より暁にかけて大挙瓦町を襲って坤竜丸を奪おうとしているのだった。
鈴川源十郎はつづみの与吉をつれて、物見の格でとうに栄三郎をさして先発している――が、かれ源十郎をどれほど信じていいかは、臭いもの同士の左膳が迷わざるを得ないところだ。
酒がまわるにつれてそろそろうるさくなりかけた鍛冶屋の富五郎を、お艶はほどよく扱いながら、なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と千々に思いめぐらしていると、何にも知らない鍛冶富はいい気なもので、
「お艶さん、何をそう思案しているんだ? え? わしに惚れたら惚れたと、ハッキリ白状したらどうだえ。ま、もそっとこっちへ寄りなッてことよ」
黒い手がムンズとお艶の帯にかかったので、びっくりしたお艶が、
「アレ! 何をなさいます!」
と起き立ったとたん! 下の往来に聞き慣れた謡曲の声が……。
「あ! 立ちどまったぞ、あそこに!」
こう言って先なる小野塚伊織の弥生、うしろの豆太郎をかえりみて指さした。
山開きの夜の人出も散りそめた深川八幡の境内である。
九刻も半に近い寂寞……。
あさくさ瓦町の家から、泰軒、栄三郎をつけて来た弥生と豆太郎、つかず離れず見え隠れにこの別当金剛院のお庭へはいりこんで、ふと気がつくと、今まで先方をズンズン歩いていた栄三郎と泰軒が仔細ありげにぴたッと足をとめているから、こっちもあわてて樹陰の闇黒に身をひそめてじっとようすをうかがうと――。
とある料理屋の表面に、歩をとめた泰軒と栄三郎、明るい灯の流れる二階を見上げたまま、動こうともしない。
ただならぬ気配!
とみて、弥生と豆太郎、同じく眼をあげてその正面の二階を眺めた。
月光を溶かして青白い大気に、惜春行楽の色が香い濃く流れている夜だ。
そのほんのりとした暗がりに、障子をしめきった旗亭の二階座敷が、内部の灯火に映えてクッキリとうき出ている。
二間ならんで閉てきってある二階の障子は……いわば祭礼の夜の踊り屋台のよう。
それへ、影が写っているのだ――かげ芝居。
左の部屋には……武士らしい大一座が群れさわいで、だいぶん酒がはずんでいるらしく、大きな影法師が入り乱れて杯の流れ飛ぶのが蝶の狂うがごとくに見える。
と!
そこの障子に、細長い影が一つうつり出した。ほかの者が手を叩くのが聞こえる。するとその立っている影が、朗々たる詩吟の声に合わせて、剣舞でも舞いはじめたものとみえて、たしかに抜き身の手ぶり畳を踏み鳴らすひびきが伝わってくるのだが! 下の道路から見あげる泰軒と栄三郎がわれにもなく足をとめたゆえんのものは!
その影が隻腕片剣……。
「栄三郎殿、あれはどうじゃ?」
「泰軒先生ッ」
すばやく私語しあいつつ、なおも障子に躍る片腕長身の士のつるぎの舞いを見つめている両人――諏訪栄三郎満腔の戦意をこめて思わず柄がしらを握りしめ、おのずからなる武者ぶるいを禁じ得なかった。
それが、分身坤竜丸の刀魂に伝わってか、カタカタカタとこまかく鍔の鳴る音! うしみつ。
刀が刀を慕い刃が刃を呼んで、いまし脇差坤竜が夜泣きをしているとも聞こえる。
が、まもなく。
こんどは右の小座敷に……。
男女のくろ影が鮮やかに映り出して、それは別の意味で、泰軒と栄三郎を、ひいてはすこし離れたところに隠れている弥生と豆太郎を、あっ! と言わせずにはおかなかった。
障子へ墨で書いたように、はっきりと写っていたふたつの人かげ。
男と女である。
夜更けのあたりをはばかってか。声は聞こえない。が、男が無体をいって女を追いまわしているらしく帯のゆるんだ、しどけない姿の女の影が、右へ左へ、裾を乱して逃げかわすありさまが、影絵のように手にとるごとく見えるのだ。
となりの広間には、痩身左腕の剣舞が今や高潮……。
そのためこの一座は次の部屋のさわぎに気がつかないとみえて、それをもっけの幸いに男の影はますます女の影へ迫る。
肩に手がかかる。かいくぐる。うしろから抱きすくめようとする。かがんでそらす――影と影とが、付いては離れはなれては付きしてさながら鬼ごっこ――。
二階真下の往来に立つ栄三郎と泰軒、黙然と、二間つづきの障子におどるそれぞれの影法師を見あげていると、弥生と豆太郎も、遠くから、この二人と階上の影とに眼を離さない。
隣室には鬼どもが……と思うと、お艶の夢八、声をたてることはできるだけ控えたかった。
しかし! 気はあせる。
どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
と気が気ではないが、この場合、猛りたっている鍛冶屋をなだめすかしておいて、そのまに身を抜いて浅草へ走るのが、唯一の道であると彼女は考えているのだった。
けれど! かじ富の煩悩の腕は、払ってもはらっても伸びてくる。
たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
そしてばったり栄三郎と眼があった。
瞬間!
栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
と! 同時に。
ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を閉めた。
二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
栄三郎様に泰軒先生!
と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を閉ざしていたのだったが、遅かった。
泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、刹那にして消えた二階の芸者が、意外にもお艶であることは一眼でわかった。
奇遇――といえば奇遇。
それはまことに思いがけない出会いであった。
無数の青蛾が羽をまじえて飛ぶと見える月明の夜半である。
ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
最初、栄三郎は、変わり果てたお艶に大きなおどろきを覚えたのだったが、一面かれは、お艶のこんにちあるは前もって知れきっていたような気がして、すぐにその驚愕から立ちなおることができたけれど、それとともにお艶に対する新しい憐憫が湧然とこころをひたして、眼頭おのずから熱しきたるのを禁じ得なかった。
しかし、憤りはより大きかった。
ものもあろうに芸者なぞになりさがって、おのが恥のみならず拙者の顔にまで泥をぬりおる! と考えると栄三郎、お艶の真意を知らぬだけに、とっさの激情に青白く苦笑するよりほかなかった。
で……。
「はしたないものを見ましたナ。はははは」
ペッ! と唾してあるき出そうとしたが、お艶を解している泰軒は、なおも影芝居を宿している二階の障子を見上げたまま動かないので、つりこまれた栄三郎、見たくもない二階へヒョイと視線を戻すと!
あろうことか!
小座敷の男女の影が、これ見よがしに二つ映っている。
お艶が男にしな垂れかかっているのだが、思わず栄三郎、カッ! と血があたまへのぼるのを感じて[#「感じて」は底本では「感じで」]空つばをのみながら声がひしゃげていた。
「参りましょう、泰軒先生!」
が、依然として泰軒はうごかない。
栄三郎の眼がまたもや二階へ吸われると、こっちの弥生と豆太郎も、その障子の影がますます親しげになるのを見た。
家内のお艶は。
いま隣の部屋に、左膳の一味が坤竜強奪の秘策を凝らしていることを知っているから、栄三郎がこのあたりに長居をしては危険である。さりとて、瓦町へ帰すのもいっそうあぶない、これは、一時も早くここを立ち去らせて、すぐに後を追って今夜の奇襲をしらせるにかぎる……それには、まず鍛冶富になびくと見せて安心させ、すきを求めて逃げ出すことにしよう――こう考えたお艶が、急に心にもなく折れて出て、
「ねえ三間町さん、ホホホホ、もうよしましょうよ、鬼ごっこみたいなこと」
と、われから鍛冶屋富五郎のふところに身を投げて擦りよると、富五郎は、短い太腕にお艶を抱きすくめて、その影がぼうっと大きく障子にうつったのだ。
同じ一枚の障子に映ずる黒かげ――ではあるが、戸外から見上げる栄三郎と、内部にあって自ら眺めるお艶と果たしてどっちがいっそう苦しくつらかったであろうか。
長閃! 月光に躍る白蛇のごとき一刃、突如として伸びきたると見るまに!
声もなく反りかえって路上に転倒したのは、ひとり先に立った月輪剣門の士法勝寺三郎だった。
三郎、相馬藩内外に聞こえた強力豪剣ではあったが、機を制せられてひとたまりもなく、まっくろな血潮の池が見る見る社庭の土に拡がって、二、三度、けもののようなうめきとともに砂礫をつかんだかと思うと、そのまま――月のみいたずらに蒼白く死の這い迫る顔を照らした。
間髪!
いま、瓦町へ向かおうと、ついそこの料亭を出て来たばかりの乾雲丸丹下左膳を取りまく一同、まだ八幡の庭を半ばも過ぎないうちに、つぶてが飛来するようにいきなり横合いから斬りこんで来たこの太刀風に、命知らずの者がそろってはいるのだが、さすがに度胆を奪われてコレハッ! と歩をとめながらいい合わしたように腰を低めて先方の薄闇をのぞきこむと……。
肩から月に濡れて立っている諏訪栄三郎。
脇差坤竜をグルッと背中へまわし差して、手の、抜き放すと同時に法勝寺三郎の生き血を味わった愛剣武蔵太郎安国を、しきりにそばの、まだ映山紅を霜囲いにしてある藁へ擦りぬぐっている。
そして、こともなげな静かな低声が、殷々として左膳の耳へ流れた。
「――丹下殿、乾雲丸をお所持になったか? ははは、いや、坤竜はたしかにここに! サ、雲よく竜をまきあげるか、それとも竜が雲を呼びおろすか……まだ夜あけまでは時刻もござる。今宵こそはゆっくりと朝まで斬りむすぼう、朝まで――」
ひとりごとのようにこういいながら、栄三郎は、せっせと藁で血がたなをぬぐっている。
虚心の境……。
神変夢想流において、もっとも重くかつ、もっとも到りがたしとなっている忘人没我の域に、今宵の栄三郎は期せずして達しているのだった。
何が機縁となって、かれらの剣胆をここまで導きあげたか?
それは、いうまでもなく、お艶が泪をのんで打った、あの影芝居であった。
思いにわだかまりあれば、腕がにぶる。
栄三郎の場合がちょうどそれだった。
すべてを捨てお艶に走ったかれとしては、そのお艶に去られたのちも、口や表面はともかく、胸の奥ふかくお艶を慕うこころ切々たるものあるのだったが、こんやという今夜、はからずも芸者姿のお艶を見て、これだけでさえ、いよいよ栄三郎に彼女を思いきらせるに十分だったところへ、まるで見せつけのような男との痴話ぐるい――栄三郎は、あの、二階の障子に黒く大きく写り出た男女の影によって、ここに初めて長夜の夢からさめたような気がしたのだった。
やはり、当り矢のお艶は当り矢のお艶だけのもの。男をたらす稼業の水茶屋女が、それに輪をかけた芸者になったとてなんの不思議があろう?……こう思うと、栄三郎は、影の相手の男が誰であろうと、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ豁然とあらゆる未練をたった彼、おのが心身の全部を挙げて乾坤二刀の争奪につくそうと、あらたなる闘魂剣意にしんそこからふるい起ったままであった。
忘れかけていた小野塚鉄斎直伝神変夢想流の覇気、これによみがえった栄三郎は、もはやこの日ごろの栄三郎ではなく、ふたたび昔日、根岸あけぼのの里の道場に雄を唱えた弱冠の剣剛諏訪栄三郎であった。
今やかれの前にお艶なく、われなく、世なく――在るはただ亡師の恩と高鳴る戦志の血のみ。
かくてこそ、これからなお雲竜の刀陣に介して、更生の栄三郎が思うさま神変夢想の秘義を示し得るわけ……だが?
お艶はどうした?
彼女は、首すじに毛虫を這わせるおもいで鍛冶富になれなれしくして酒をすすめたのち、泰軒と栄三郎の立ち去ったのを見すますが早いか、ただちにその家の若い衆を走らせて泰軒だけを呼び戻しいそぎ二階の隣室に左膳の一団が宴を張っていて、いまにも瓦町へ押しかけようとしていることを告げたのだった。
だから、時分はよかろうと、左膳、軍之助の連中が旗亭をあとに、ほんの四、五十歩も踏んだかと思うところへ先ほどから献燈のかげに待ち構えていた栄三郎が、現われると一拍子に、先頭の法勝寺三郎を抜き撃ちにたおしたのだ。
月に更けゆく夜――。
左膳をはじめ月輪組も、栄三郎も無言。
泰軒はどこか近くにひそんでいるのであろう。
遠くで、樹陰から木かげへと大小ふたつの人影が動いた。
ポタリ……夜露が木の葉を打つ音。
寂莫たる深夜――ふかがわ富ヶ岡八幡の社地に、時ならぬ冷光、花林のごとく咲きつらなったのは丹下左膳、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八、岡崎兵衛、藤堂粂三郎ら乾雲の一団が、相手は一諏訪栄三郎と侮って、一気にしてこれを屠り坤竜丸をおさめるつもり――鍔鳴りのひびきが錚然として月明に流れた。
空はあかるく、地は夢の国のように霞んでいる……。
膚さむい微風の底に、何がしの人の心を唆らずにはおかない仲春のいろが漂って、どこか遠くの町に火事があるのか、かすかに間伸びした半鐘の音が流れていた。
行春静夜。
しかし、それは暴風雨のまえのあの不気味なしずもりにすぎなかった。
今暁を期して瓦町に栄三郎方を突襲すべく宵のうちから本所の化物屋敷を出て、この料亭に酒汲みかわし、もうだいぶ時刻も移ったので、さあ、そろそろ出かけようではないか――という調子。くわえ楊子のほろ酔い気分でブラリといまその家を立ちいでて来たところだから、乾雲の一行、まさにひとつ出鼻をどやされた形で、ちょっと立ちおくれざるを得なかった。
しかも! 諏訪栄三郎、飛び出すとともにはやひとり斬り捨てているのだ。
抜く手も見せず……ということをいうが、ちょうどそれ。
声高に話し合いながら三々伍々、金剛神院お庭の小径を徒歩って、先に立った法勝寺三郎がとある繁みのまえへさしかかった時だった。
やにわに黒いものが躍りでたかと思うと、氷刃一閃――三郎のどこへくいこんだのか、そのままかれは土を舐めて、代りにそこに立っているのは、血線あざやかな武蔵太郎を引っさげた諏訪栄三郎であった。
と見るより、とっさの驚愕から立ちなおった左膳と月輪の勢、ピタリ! 踏みとどまると同時に、もういっせいに皎剣の鞘を払って、月の斑がうろこのように鍛鉄の所々に光った。
おのずから半月の陣!
その背後から、しわがれた左膳の声が物の怪のごとく走った。
「オオ坤竜か。これから参ろうとしているところへ、そちらから出かけて来るたアいよいよ運の尽きたしるしかナ。いかさま汝のいうとおりまだ短夜じゃアねえ……では、一晩こころおきなく斬りむすぶとしようか」
いいながら左膳、隻腕の袖をグイと脱ぐと、例の女物の下着が月を受けて浮きたつ。
不敵なほほえみが、その、刀痕の眼だつ顔をいびつに見せていた。
風雲急!
栄三郎は沈黙。
ただ、霜がこいの藁で法勝寺三郎の血を拭き終った武蔵太郎を、かれはしずかに正面に持しただけである――神変夢想の平青眼。
と!
タ! タ! と二、三あし、履物を棄てて草を踏みつつ、栄三郎の前へ進み出た長剣の士、月輪の道場にあって三位を保つ轟玄八だ。
玄八。平潟船番士で、その剣筋、幅もあれば奥ゆきもゆたかに、年配は四十に手のとどく円熟練達の盛年。
ガッシリした体躯に心もち肩をおとして、濡れ手拭を絞るようにやんわりと柄をささえ、
「参れッ! ウム!」
大喝、誘いの声だ。と、ともに、スウッ! 手もとをおろして突きにいくがごとく見せかけ、老巧狷介の刀士、もろに足をあおって栄三郎の頭上へ!……飛刀、白弧をひいて舞いくだった瞬間、体を斜めに腰かわした栄三郎の剣、チャリーン! 青光一散、見事に流すが早いか、ただちにとって車返し武蔵太郎、血に渇して玄八の左肩を望んだ。
が、轟玄八、即時左手を放して柄尻で受ける。
そして!
刹那、妙機の片手なぐり、グウンと空にうなった燐閃が、備えのあいた栄三郎の脇胴へ来た。
竹刀ならばお胴一本取られただけですむかも知れない。しかしこれは真剣も真剣……見守る一同、秒刻ののちには上下半身を異にしている栄三郎を見ることと思った。
――にもかかわらず、ガッ! と音を発して玄八の刀をそらした栄三郎、すかさずつけ入ってヒタヒタと鍔を押している。
これは見物!
といった色めきが、半月の列を渡った。
ガッキ! と咬み合ったまま微動だにしない鍔と鍔。
諏訪栄三郎と轟玄八。
一同が、眼をそばだてて熟視するなかにしばらくは双方、伯仲の力をあつめて保ち合いの形と見えたが――。
雲が出た。
月の影が、さまざまの綾を地上に織りなす。
やがて!
いかなる隙ありと見たのか、玄八、やにわに、
「ううむ」
一声! これが気合い、同時に、満身の筋力を刀手にこめて押しかかる――と思わせて、じつは逆に、スウッと張りを抜きながら数歩、引きこむようにさがろうとしたのは、いわずもがな、誘い入れの一手。
栄三郎もさる者、離れゆく玄八をあえて追おうとはしなかった。
不動。
で。
間余の間隔をおいた、ふたりいたずらに鋩子先に月の白光を割いて、ふたたび対立静止の状をつづけだした。
風死んで、露のしたたりが明日の晴天をしらせる。
凄寂たる深更の剣気……。
月輪軍之助以下北藩の援士は、抜きつらねた明刃をグルリと円列につくって、青眼の林、捲発する闘気をもって微動だにしない。
左膳は、軍之助とともに剣列の背後にあった。
誰ひとり声を出すものもない。はち切れそうな殺気に咽喉をつまらせて、一同ものをいう余裕などはなかったのだ。
ジイ――ッと薄光の底に停止するおびただしい刀身を、春の夜の月が白く照らしている。
突如!
その氷柱のごとき一剣が銀鱗をひらめかして上下に走ったと見るや、またもや玄八、これでは際限がないと思ったものかやにわに刀を起こして大上段……真っ向から栄三郎の前額を指して振りおろした。
パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみの空をいろどった。
と!
この時まで受身の形だった栄三郎は、鼻を打つ鉄の香にひとしお強烈な戦志を呼びさまされたものか、はたしていきなり攻勢に出て、新刀を鍛えて東海にその人ありと聞こえた武蔵太郎安国晩年入神の一剣、突発して玄八を襲うが早いか、そのひるむところを、すかさず追うと見せて瞬転、横一文字に払った斬先に見事にかかって、刀を杖にたじろいだのも暫時、モンドリうってその土に倒れたのは、月輪剣門の一士若松大太郎だった。
大太郎といえども選に当たって江戸くんだりへ生命のやりとりに出てくるくらいだから、もとより刀のたたない男ではなかったが、油の乗りはじめた栄三郎には、所詮、敵ではなかった。
腰の蝶番へしたたか刃を打ちこまれた大太郎、全身の重みで土をたたいたのが、かれの最後だった。
と見るや!
気負いたった月輪の剣列、犇ッ! とおめいて一栄三郎をなますにせんものと、燐閃、乱れ飛んで栄三郎に包みかけたが、かいくぐった栄三郎、最寄りの一人にッ! 体あたりをくれると同時に、ただちに振り返って、おりから拝み撃ちに来ようとしていた山東平七郎へ!
「おウッ!」
片手の突き!
「うむ!」
平七郎、パッと払ってニッコリした。
「なかなかやるナ……来いッ!」
息もしずかに、栄三郎はもう平青眼に返っている。
月の端を雲がかすめた。
夜明けが薄らいだ。
月の端に雲がかかったのだ。
ふかがわ富ヶ岡八幡の社地内に乾雲に乗ずる一団をむこうにまわして、武蔵太郎に殺剣乱跳を舞わせる諏訪栄三郎、ツゥ……ツと刀をさげて下段のかまえ、取り巻く自余の者へは眼もくれずに前面の豪敵山東平七郎をめざして血のにじむ気あいを振りしぼった。
「エイッ」
平七郎、ピタリ一刀、中青眼にかすかに微笑をふくんで応ずる。
「やッ!」
と、この時。
わざと誘いに乗ったとみせた栄三郎、俄然! 太郎安国を躍らせて平七郎の右脇へ!――と思うまもなく、たちまち銀閃ななめに走って、栄三郎、相手の腋の下を上へはねあげようと試みた。
が!
山東平七郎は、北州の雄剣月輪軍之助の門下にあって、師範代各務房之丞の次席、各務、山東、轟をもって月輪の三羽烏と呼ばれたその中堅だ。
小野塚鉄斎の遺道に即して、栄三郎いかに神変夢想をよくすといえども、いまだ平七郎の生き血を刃に塗ることはできなかった……のであろう、平七郎、つと栄三郎の剣動を察して、一歩さがると同時に、パッ! 伸び来る刀鋩を柄で叩くが早いか、側転! そのまま打ちおろして、手をかけた障子が自ら滑り出したように思わず空を泳いでいた栄三郎を、見事に真っ向から割りつけた――と思われた刹那、よろめきながら必死の機、栄三郎の刀尖、平七郎の剣をはじき流して、かろうじて危地を脱した栄三郎、強打を伝えて銀盤のごとくふるえ鳴る武蔵太郎を、こんどは車形にうち振りつつ、
「おウッ!」
おめきざま、月輪の刃ぶすまの真っただなかへ、身を斜かいに斬りこんでいった。
乱戦――。
空高く風が渡っているらしい。
雲の流れが早いとみえて、月光を照ったりかげったり……そのたびに、樹間の広場に皎剣をひらめかす人のむれを、あるいは明るく小さく、またはただの一色のやみに押しつつんで、さながら舞台の幕が開閉するかのように見えた。
豆を炒るような剣人のうごき。
飛びちがえては斬り結び、入りみだれたかと思うとサッと左右に別れ、草を踏みにじり木の葉を散らしてまさにここは神変夢想対月輪一刀の、二流優劣の見せ場となった。
剣戟のひびきは、一種耳底をつらぬいて背骨を走る鋭烈な寒感を帯びている。
それが、助けをいそぐ夜の空気に霜ばしらのごとく立ち伝わってかけ声、風を起こす一進一退――気の弱い者を即殺するにたる凄壮な闘意が、烟霧のようにみなぎって地を這いだした。
闇黒をこめる戦塵……。
その刃渦の底をすこしく離れた木かげに隠れて、さっきからこの剣闘をうかがっていたひとりの女があった。
いうまでもなくお艶、いや、今は羽織芸者のまつ川の夢八だ。
彼女は。
うるさい客の鍛冶屋富五郎に、せいぜいなびくがごとく見せかけて酒をすすめ、その間にぬけ出て泰軒を呼び返し、左膳ら今宵の策動を未然に報じてこの対計を採らしめたのだが、こうしてここから眺めていても、斬り合っているのは栄三郎一個、頼みに思う泰軒先生はいまだに姿をあらわさないのだ。
なるほど、今のうちは栄さまひとりでどうやら太刀打ちをしていけそうだが、なにしろこっちは一人に相手は多勢――どうなることであろうか? と、わが身も忘れてお艶はしきりにハラハラしているけれど!
逆にここに待ち伏せして、出てくるところをこうして不意に襲ったくせに、栄三郎にだけ剣をとらして、泰軒はいったいどこにひそんでいるのか……?
となおも見守っていると!
あせりだした栄三郎、群刀をすかしてその背後をのぞめば、鞘ぐるみのかたなを杖に、しずかに会話つつ観戦のていとしゃれている二人の人かげ――月輪軍之助と丹下左膳である。
「乾雲! そ、そこにいたのかッ!」
声とともに躍りあがった栄三郎がいままでに何人か月輪の士の肉を咬み骨を削った武蔵太郎を正面にかざして打ッ! 撃ちこもうとしたとき、列を進んで中間にはいったのが土生仙之助だ。
「おのれッ! 邪魔立てするかッ!」
「何を言やアがる! さ、来いイッ!」
仙之助、栄三郎に真向い立ってぴったりとつけたとたん! 足もとの草むらから沸き起こった破れ鐘のような笑い声がかたわらの左膳を振りむかせた。
「わっはッは! やりおる! やりおる! こりゃ儂は出んでもええらしいテ」
「うむ」
早くも声の主をみてとったらしく、左膳は例になく沈痛な調子だった。
「乞食坊主であろう? そこで何か申しておるのは」
いつのまにか一同のそば近く割りこんで来て、草の根に一升徳利をまくらに寝ていた泰軒先生は、すでに笑いながらゆっくりと立ちあがっていた。
これも我流我伝の忍びの怪術か。かれ泰軒は、栄三郎とともに繁みに隠れて左膳の一行を待っていたにもかかわらず、栄三郎が躍り出て先頭の法勝寺三郎を斬り捨てると同時に、誰も気がつかないうちにコッソリ敵のうしろへまわったが、そうかといって背後をつくでもなければ虚を狙うでもなくこの修羅場をまえにして今までのんこのしゃあと草露にゴロリと寝ころんで見物していたのは、べつに栄三郎に不実なわけではない。まったくのところこれが泰軒先生独特の持ち前で、その証拠には逸はやく乾雲を鞘走らせた隻眼片腕の刃妖左膳と、一歩さがって大刀の柄に手をかけた月輪軍之助の両剣妙を前面にひかえて、泰軒先生、このとおりニヤニヤと鬚を動かしているだけだ。
「乞食坊主とはいささか的をはずれたぞ、いかさま拙者は乞食かも知れぬが、坊主ではない。以後ちと気をつけてものをいわっしゃい」
「よけいなことを吐かしくさる! たった今その舌の根をとめてつかわすからそう思え!」
「ホホウ! それは耳よりな! おもしろかろう」
と、うそぶいた蒲生泰軒。貧乏徳利を片手にさげて半ば眼をつぶり、身体ここにあって心は遠く旅しているがごとく、ただボンヤリと佇立しているように見えて……そうではない。
剣は手にしないが、その体置きの眼のくばりが、そっくり法にかなった自源流水月の構相――。
たかの知れた白面柔弱の江戸ざむらいとあなどっていた栄三郎に、先刻から同志の三人まで斬り伏せられて、月輪の一統、すくなからず武蔵太郎の鋭鋒を持てあまし気味のところへ、相馬からの道中さんざ悩まされた血筆帳のもち主、ヌウッとしてつかまえどころのない例のひげ男が出て来たので、のこりの連中、急に浮き足が立ちはじめた――とみた援軍の盟主月輪軍之助、手にした霜冽三尺の秋水にぶうんと、空振りの唸りをくれながら、あたりの乱陣に聞こえるような大声に呼ばわった。
「月輪軍之助、お相手つかまつる。いざ、おしたくを……」
すると泰軒。
「ナニ、したく? したくも何もいらぬ。どこからでも打ちこんでくるがよい」
放言。依然として身うごきだにしない。
「しからば……」
いいかけた軍之助の声は宙に消えて、同時に、早瀬をさかのぼる魚鱗のごとき白線、一すじ伸びきって泰軒の胸元ふかく!
と思われた瞬間!
パアッと砕け散ったのは、泰軒先生愛用の一升徳利で、それとともに泰軒は、ついと軍之助の腕の下をくぐり抜けて、近くの月輪のひとりをダッ! 足蹴にしたかと思うと、その、はずみをくらって取りおとす大刀を拾い取るが早いか、やはり、のっそりの仁王立ちの、流祖自源坊案不破水月のかまえ。
つねに刀を佩しない巷の流人泰軒居士、例によって敵のつるぎで敵をたおすつもりと見えるが、無剣の剣、できれば、これこそ剣法の奥極かも知れない。
しののめとともに月輪のざわめき。
それは、またもやこの乞食が刃物をとったという驚きと戒めの声々であった。
しかし、泰軒は泰軒として、
今宵の諏訪栄三郎のはたらきは神わざに近かった――。
かれは、はじめに法勝寺三郎を斬り、それから四人を地にのめらせたのだが、この長時の剣戦に疲れるどころか、蒼白の顔にほほえみさえうかべ、殺眼に冷たい色を加えて、神変夢想の技ますます冴えわたり、
「やッ!」
と捲き剣、当面の相手土生仙之助のまえに武蔵太郎の斬っ先を円くまわしていたと見るや、
「うヌ! 参るぞ!」
一喚! 終わらぬに先んじてッ……慕いよるまもなく、縦横になぎたてたその一下が仙之助の虚につけいって、ザクリッと右肩を割りさげられた仙之助、
「うわアッ! 痛ウウウ――!」
おさえる気で肩へやった左手が手首まではいりこむほどの重傷だ。
月のひかりに、アングリと口を開けた自分の肩を、仙之助はちょっと不思議なものと見た。
が、つぎの一瞬、かれは再び栄三郎の一刀を臓腑に感じて、焼けるような痛苦のうちにみずから呼吸をひきとりつつあるのを知った。
ぷうんと新しい血の香。
その時だった! どこからともなく飛来した一本の短剣が、折りから栄三郎へかかろうとしていた岡崎兵衛の咽喉ぼとけに射立ったのは……!
猛鳥のごとく、宙を裂いて来た一梃の小剣、あわや跳躍に移ろうとしていた岡崎兵衛の顎下へガッ! と音してくいこんだ。
と見る!
数条の血線、ながく闇黒に飛散して、兵衛はたちまちはりきっていた力が抜け、あやつり人形の糸が切れたように二、三度泳ぐような手つきをしたかと思うと、そのままガックリと地にくずれてのけぞった。
思わぬ時に意外な伏勢!
しかも、薄明の夜に防ぎようのない魔の手裏剣である!
即座に、一同のあたまに電光のごとくひらめいたのが、あの、過ぐる夜半、本所化物屋敷の庭に突如として現われ、またたくまに二、三月輪の剣士を亡き者にしてはてた猿のような一寸法師と彼の投剣術だ……。
なんじらは順次にわが手裏剣の的なり――。
この威嚇の文句も、いまだかれらの眼にこびりついている……そのやさき、こうしてなんの前ぶれもなく、小刀、どの方角からとも知れずに疾飛しきたって、またもや剣を取っては錚々たるひとりの同志を、まるで流れ矢にでも当たったように他愛なく射殺したのだから月輪の剣連、瞬間、栄三郎をも泰軒をも忘れて、ひとしく驚愕と畏怖にたじろいだ。
事実!
かのふしぎな、手裏剣手は岡崎兵衛を倒したのみにあきたらず今、夜はどこまでもその入神錬達の技を見せるつもりらしく、つづいて二の剣、三の剣と月光をついてシュッ! シュッ! という妖奇な音が、ながくあとを引いて木の間の空に走り出した。
と思うと、
ちょうどその時、刀を引っさげて、小剣来たる方を見さだめようとあたりを眺めまわしていた藤堂粂三郎の横腹へ命中して、粂三郎、二つに折れ曲がって傷口をおさえ、ウウム! と一こえ、うなり声もものすごく夜陰にこだまするが早いか、すでに彼は、ばったり土に仰向いて、空を蹴ろうとするように足を高く上げたのも、二、三度――まもなく草の根をつかんで静止……悶絶してしまった。
そして!
再びざわめき渡る月輪の一同へつぎの手裏剣! こんどは、燐閃、河魚のごとく躍って各務房之丞の鬢をかすめ、ガッシ! とうしろの樹幹に突き立ったから、ここに月輪の残士たち、はじめて短秒間のおどろきから立ちなおって、一団にかたまりあっていたのが、わアッ! と叫んで四方に散ずると同時に危険を実感したらしい首領軍之助のどら声が、指令一下、葉末の露を振るいおとしてひびき渡った。
「伏せ! 伏せ! ピッタリ腹をつけて土に寝ろ! 早く散って……早く!」
これでようやく対策を得た月輪組、あわてふためきながらもソレッ! と蜘蛛の子のように跳び隠れて、一瞬のうちには、みなあちこちの地上に腹這いになったものらしく、見わたす八幡の底に立てる人影もなく、ただ草を濡らす血潮と死体から腥風いたずらにふき立って月の面をかげるばかり剣闘の場も一時は常の春の夜に返ったと見えた。
騒擾の夜の静寂は、ひとしお身にしみる。
ことに夜……その不気味な休戦には、いっそ血を浴びていたほうが、まだましだと思わせる緊張がはらまれていた。
早いあけぼの。
栄三郎と山東平七郎は。
泰軒と月輪軍之助は。
また、かの丹下左膳は。
かれらも、共同の敵なるこの玄妙飛来剣のまえには勝負を中止せざるを得なかったとみえて、どこにもそこらには立ち姿の見えないのは、いいあわしたように草に伏しているのであろう――。
じっさい、かの手裏剣は左膳をはじめ、月輪組を襲うのみならず栄三郎泰軒をも目標にしているものに相違なかった。
というのは、一度ならず二度、三度までも、例の小柄が泰軒栄三郎の身辺に近く飛んで来て、ひとつは、栄三郎の腰なる武蔵太郎の鞘を殺いで落ちたことさえあったことだ。
この得体の知れない飛び道具にはせっかく腕に油の乗りかけて来た栄三郎も、また天下に怖いもののないはずの泰軒先生も、ちょっと扱いようがなくて、とにかくとっさに相手の月輪とともに地に伏さっているのだった。
左膳もどこかに這っているのであろう……しいんとした夜気に明け近い色がただよって、低く傾いた月は漸次に光を失いつつある。
ところどころに小高く見えるのは、斬り殺された月輪の士の死体だ。
この上に東天紅のそよ風なびいて、葉摺れの音をどくろの唄と聞かせている。
この休止のままに夜があけるのであろうか?――と、こちらの木かげからのぞき見るお艶がひとり気をもんだとき、白煙のような朝靄のなかを小走りに遠ざかりゆく大小ふたつの人影が眼にはいったのだった。
猿まわしと小猿……夢を見ているのではないかと、お艶は眼をこすった。
あすか山。この享保年中に植えしものには、立春より七日目ごろもっとも盛んなり。
王子権現。同七十七日目ごろよし。古木五、六株あり。八重にて匂いふかし。
すみだ川。おなじく六十四、五日ごろをよしとす。水辺ゆえ眺め殊にすぐれたり。
御殿山。七十日目ごろさかん也。房総の遠霞海辺の佳景、最もよし。
大井村。七十五日ごろさかん也。品川のさき、来福寺、西光寺二カ所あり。
柏木村。四谷の先、薬師堂まえ右衛門桜という。さかり同じころ也。
金王桜。しぶや八幡の社地。おなじころよし。
当時評判東都花ごよみ桜花の巻一節。
さて――はな季節である。
どんよりと濁った空。
砂ほこり……そして雨。
一あめごとのあたたかさという。
咲き始めた。いや、さきそろった。もう散った――などとこのあわただしさが、さくらのさくらたる命だと聞くが、風呂屋や髪床のような人寄り場に、桜花より先に、花のうわさにはなが咲く……そうした一日の午後だった。
「いや、ようよう、我善坊の伯父御隈井九郎右衛門殿から五十両立て換えてもらって、おれもこれでほっといたした。どうもこの節はふところ工合が悪く、そこもとにいろいろと心配をかけて相すまない。が、マア、こうして手切れの金もできたのだから、この上は一刻も早く栄三郎に渡して離縁状を取って来てくれるよう……源十郎、このとおり頼み入る」
「ま! 殿様、なんでございます、おじぎなんぞなさいまして!」
「ははは、不見識だといわるるか。ハテ、実は母者人に生きうつしのそこもと、これからはまたお艶のお腹さまとして拙者にとっては二つとない大切な御隠居、そのお人に頭をさげるに、なんで異なことがござろう?」
「ホホホホ、それはまあそうでしょうけれど……ではあの五十枚たしかに」
しずかな声が曇った春の陽のうつろう縁の障子をポソポソと洩れ出ている。
本所法恩寺前――化物やしきと呼ばれる五百石小ぶしん入りの旗本、鈴川源十郎の奥座敷である。
定斎屋の金具の音がのんびりと橋を渡って消えてゆくと、近くの武家の塀内で、去年の秋から落ち葉を焼くけむりが、白くいぶったままこの部屋の端にまでたゆって来ている。
春長うして閑居。
明窓浄几とはいかなくても、せめて庭に対して経づくえの一脚をすえ、それに面して書見するなり、ものにはならないまでも、詩箋のひとつもひねくろうというのなら、さすがは徳川幕下直参の士、源十郎もすこしは奥ゆかしかろうというものだが、どうしてどうしてこの鈴川のお殿様ときた日には、書物といえば博奕の貸借をつける帳面以外には見たこともなく、筆なんか其帳へ記入する時のほか手にしたこともないという仁だから、いくら錆びた庭面に春の日が斑に滑ろうが、あるかなしかの風に浮かれて桜の花びらが破れ畳に吹きこんでこようが、いっこうに風流雅味のこころを動かされるふうもなく、きょうも先刻から、とうのむかしに抱きこんである老婆さよを呼び入れて、こうしてしきりに五十金の縁切り状だのと春らしくもないことを並べたてているのは、さては源十郎、いよいよお艶を手に入れる策略を現にめぐらしはじめたものとみえる。
さてこそ、ふたりの中間に、山吹色――というといささか高尚だが、佐渡の土を人間の欲念で固めた黄金が五十枚、銅臭芬々として耳をそろえているわけ。
俗物源十郎の妄執、炎火と燃えたってついにお艶におよばないではおかないのであろうか?
邸前の野に、雲に入るひばりの声……。
それも、買わんかな、売らんかなの両人の耳には入らぬらしく、源十郎、したり顔に膝を進めてつと声をおとした。
「サ! おさよ殿、これなる五十両を受け取って、約束どおりに栄三郎から三行半を取って来てもらいたい。いかがでござる?――よもや嫌とは……」
「いやだなどとめっそうもない! それではお殿様、はい、この五十両はわたくしがお預り申して」
と何も知らないおさよは、眼を射る小判の色に眩惑されて、一枚二枚と小声で数えながら金を拾いあげはじめたが! その一つ一つに、出羽様の極印で、丸にワの字が小さく押してあるのには、おさよはもとより、よく検ためもしなかったので、源十郎じしんさえすこしも気がつかなかった。
血のにじんだ小判!
大工伊兵衛の死相をうかべた金面!
それが一つずつ老婆の貪欲の手に握りあげられてゆくとき、左膳と月輪の雑居した離室に、どッ! と雪崩のような笑い声が湧いて消えた。
この室内のしじまにチロチロと金の触れるひびき……。
怨霊を宿した金子に手をふれておさよの皮膚は焼けただれたか……というに、べつにそうしたこともなく、丸にワの字の出羽様の極印も両人とも知らぬが仏で、世のつねの小判のように、おさよはそのまま五十両を数え終わって、ちょっと改まって源十郎へ向きなおった。
「はい。たしかに五十枚。まことにありがとうございました。これでどうやらお艶の身の振り方もつき、またわたしもこの年になって安楽ができ、いわばわたしども母娘の出世の――いとぐちと申すべきもの、では、これからさっそく参りまして……」
「ア、そうしてもらいたい」
源十郎は上々機嫌だ。
「なに、財布がない。では、これを持っていかれるがよい」
と、これが世にいう運のつきであろうとは後になって思い合わされたところで、この時は源十郎お艶ほしさの一念でいっぱいだから後日の証拠のなんのということはいっこうに心が働かない。ごく気軽に自分の財布を取り出して内容をはたき、これに件の五十金を入れておさよに渡すと、おさよは大切に昼夜帯のあいだへしまいこんで、
「じゃ、一っ走り――」
起とうとするところを、ちょいとおさえた源十郎、
「何の中でも、当節五十両といえばまず大金の部である。こころおぼえのために栄三郎から離縁状を取って戻るまで、受取りをひとつ書いてもらいたいものだが……」
もっともと思ったおさよが、そこで、筆紙と硯を借りて文面は源十郎の言うとおり――。まず差入れ申す一札のこと……と、書きはじめて、やっと筆をおいた。その文言はこうだった。
差入れ申す一札のこと
一金五十両也。上記のとおり確かにお受取り申し候。娘艶儀、御前様へ生涯抱切りお妾に差上げ申し候ところ実証なり。婿栄三郎方は右金子をもって私引き受け毛頭違背無御座候。為後日証文依而如件。
享保四年四月十一日。
享保四年四月十一日。
艶母 さよ
鈴川源十郎様
御用人衆様
この誓文を書き残したおさよは源十郎が棟梁伊兵衛を殺して奪った金……内いくらかは松平出羽守お作事方の払い金と、大部分はたらぬとはいい条、現在むすめお艶が羽織に身売りしたその代とを〆めて五十になる。それを持ってイソイソと本所の鈴川様おやしきを立ち出たのだった。御用人衆様
一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
これも、春のなすすさびであろう。
正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって展かれるであろうはかない最後の安逸を、早くもぼんやりと脳裡にえがいて、ひとりでに足の運びもはかどるのであった。
本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の海棠は醒めやらぬ暁夢を蔵して真昼の影をむらさきに織りなし、その下のたんぽぽの花は、あるいはほうけあるは永日ののどかさを友禅のごと点々といろどっているけしき……いつの間にやら、春はどこにでも来ていた。
南の風。
そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
気がついてみると、今日は吉野の花会式である。
なつかしい心もち。
そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
どこへ行こう?……と考える。
栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけからこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり頻りにうなずきながらまたあるきだした。
まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
駒が勇めば花が散る……。
これは駒ではないが、細工場でおもい槌をふるって、真赤に焼けた金を錬すごとに、そのひのひびきに応じて土間ぐちに近く一本立っている桜の木から、雪のような白い花びらがヒラヒラ舞い落ちる。
テンカアン、テンカアン! と一番槌の音。
あさくさ三間町の鍛冶富、鍛冶屋富五郎の店さきである。
「サ、吉公、そこんところをもうすこし、裏をよく焼くんだぞ!」
いそぎの請負仕事であるとみえて、きょうは富五郎、桜花をよそに弟子の吉公をむこうへまわして相変わらず口こごとだらけ。
「ふいごが弱えんじゃねえかナ。あんまり赤がまわらねえじゃねえか。なんでえ、飯ばかり一人前食いやがってしっかりしろい!」
――と、それでも珍しく自分で仕事場に立って真っ黒になっているところへ――。
「はい。ごめんなさい、富五郎さん」
という薹の立ちすぎた女の声が、藪から棒に聞こえて来たから、富五郎が槌の手を休めてヒョイと戸口の方を見やると、田原町の家主喜左衛門といっしょにいろいろ面倒を見てやった、奥州相馬の御浪人和田宗右衛門さまの後家おさよ婆さんが、妙にニヤニヤ笑ってのぞいているので、
「イヨウ!」
と驚いた鍛冶富、
「やア、おさよさんじゃアねえか」
「どうも申しわけもございません。お世話になりっぱなしでまだその御恩返しの万分の一もできずに、しじゅうわがことにばかりかまけて御無沙汰つづきでおります。そのうえ、今日はまた折り入ってお願いがあって参りましたので」
「ウムウム。ああそうかい、そりゃまアよく来なすった。いま仕事の最中で挨拶もできねえから、さ、かまわずズンズン奥へあがんなさい……といったところで、知ってのとおりの手狭なあばら家だ。ずうっとはいりこむのはいいが、とたんに裏へ抜けちまうからナ、そこは何だ、いいかげんのところにとまって待っていておくんなさい、はははは、ナニ、すぐにこいつを仕上げて、ひさしぶりだ、いろいろ話も聞こうし報らせてえこともある。さ、ま、遠慮しねえで――」
いいところへ彼のお艶の母が舞いこんで来たものだ。こいつは一番、このおさよ婆さんにこのごろのお艶の始末をうちあけ、さよから先に納得させてお艶を手に入れてやろうと、さっそくに考えをきめた富五郎、まるで天からぼた餅が降ってきたようなさわぎで、
「こらッ吉ッ! きょうはお客が見えたからこれで遊ばせてやる。いますこし励んだらしまいにして手前はよくあと片づけしておけ」
ジュウンと火熱の鉄を水につっこんで、富五郎はまっくろになった手と顔を洗い、上り端の六畳へ来てみると、ふだんから小さなおさよ婆さんがいっそう小さくしぼんで、眼をしょぼつかせながらすわっている。
そこで。
どっかりと長火鉢の向うにあぐらをかいた富五郎と、出された座布団をちょいと膝でおさえたおさよとが、無音のわびやら何やらにまたひとしきり挨拶があったのちに、
「おさよさん――」とあらたまって鍛冶富が口をきったのだった。
「どうだえ? 眼がさめなすったかい?」低声になって、「俺ア毎度田原町とも、それからうちのおしんともお前のうわさをしているよ。あんな縹緻のいい娘を持ってサ、おれならお絹物ぐるみの左団扇、なア、気楽に世を渡る算段をするのに、なんぼ男がよくっても、ああして働きのねえ若造にお艶坊をあずけて、それでお艶さんを埋もらせるばかりか、はええはなしがお前さんまでその年をしてお屋敷奉公に肩を凝らせる、なんてまあ馬鹿げた仕打ちだと、しじゅうおしんとも語りあっておらアお前さんのために惜しんでいた。が、そこはマア若え女のほうがじきに熱くもなりゃあ冷めるのも早えや、お艶坊はお前、とっくの昔にスッパリ栄三郎さんと手を切ってヨ。今じゃア……」
いいかけて口をつぐんだ富五郎へおさよはいきなりすがりつくように乗り出したのだった。
「え? うすうすは聞いてもいましたが、それじゃアあの、お艶はすっかり栄三郎と別れて――して今はどこに何をして?」
「これおさよさん!」
眼を鈍く光らせて、鍛冶富は急によそよそしくなった。
「同じ江戸にいながら、母として娘の所在も生活も知らねえとは、おさよさん! おめえ情けねえとは思わねえか」
さも慨然と腕を組んだ富五郎のまえに、おさよは始めて欲得のない母の純心を拾い戻した気がして、ながらく忘れていたいとおしい涙が、お艶に対してこみあげるのを覚えた。
そのようすに、鍛冶富の片頬が、しめたッ! とばかりにかすかに笑みくずれる。
おさよは、しずかに鼻をかんだ。
「あ! そういえば、あの、おしんさんは?」
おさよは顔をあげてきいた。富五郎はうそぶく。
「なに、かかあかい、かかあは先刻湯へ行きましたよ」
「道理で、影が見えないと思いました。おふたりともいつもお達者で結構でございますねえ」
「いんや、あんまり結構でもねえのさ」
と、ほろにがい調子で富五郎が答えている時に、ちょうど露地づたいに近所の風呂から帰って来た富五郎女房のおしん、何ごころなく裏口からあがろうとすると、誰やら客らしい声がいやにしんみりと流れてくるから、おや! どなただろう? と障子の破れからのぞいてみたところが、かねがね亭主の富五郎がひそかに懸想していることを自分も感づいているお艶の母のおさよなので、ハテ、珍しくなんの用だろう――? そのまま水ぐちにしゃがんで耳をすましている……とは知らない鍛冶富。
「女房と畳はたびたびかえるがいいそうでネ。ハハハハ、いや、こいつあ冗談だが、さて今の話で、お艶さんがこの日ごろどこに何して暮らしているかは、おさよさん、実はわっしも知らねえんだよ」
おさよは、いつしか眼のふちを赤くしていた。
「ですけれど親方、ついさっき、何もかも御存じのような口ぶりを洩らしたじゃありませんか。後生ですから――」
「はっはっは! そりゃア事の次第によっちゃアまんざら吐きださねえこともねえかも知らねえが、と、当分、おれは何ものんでやしねえものと思っていてもらいてえ。が、ものは相談だから、お前さんがわしの念をとどけさせるというのならおれもここで一肌ぬいで、ちと大時代だが、御親子対面の場を取りはからわねえとも限らない……」
「親分、なんでございますね、そのお前さんの念というのは」
「ウフフフ、なんだネそんなまじめな顔をして! お前さんにそう真っ向から問いただされちゃア、おれも困るじゃないか」
「――――」
「まあよい。こっちのことは第二にして、お前さんも、そうやってわざわざ出て来なすったからにゃア、何か大切な用があってのことだろう? そいつを一つ、即に聞こうじゃねえか」
いわれた時におさよは、その鍛冶富も疾うからお艶に心をよせて、今はまたお艶が夢八と名乗って深川のまつ川から羽織に出ている事実をつきとめている唯一の人間……ということなどは思いもおよばないで、きかれるままに渡りに船とばかりきょう尋ねて来た用むきをポツリ、ポツリと話し出したのだった。
どうも栄三郎がああいう柔和な人間でまことに結構だが、いってみれば働きがなく、末の見こみというものがない。殊には富五郎のいうとおり、もうお艶栄三郎がキッパリ別れているならなおのこと、いまおさよの奉公先本所法恩寺前で五百石のお旗本鈴川源十郎様が、きつう娘に御執心なされて、一度はお屋敷に閉じこめてわがものにしようとしたが、栄三郎ときれいに手を切って娘を生涯の妾にくれるならば、内々のところは奥様にして、そうならばこのさよも五百石の女隠居、眼をつぶるまで世話をしてやろうといってくださる。栄三郎にはいささか不実だが、これもなんともいたし方がない。しかもすでに離れているものなら、さほど生木を割くというわけでもなし、世の中はまず自分の楽をはかるのが当世かと思う。ついては、いかになんでもわたしから栄三郎へは掛合いがしにくいから、富五郎さんおいそがしいところをお頼み申して心ないが、どうだろう、ここに殿様からいただいた小判が五十両――これだけあれば、いつぞやお前さんに返金するために栄三郎に立て替えてもらった金の埋めもついて、ほかにうるさいことをいわれるおぼえはないはず。その五十金がこのとおりソックリ財布にはいっている。これを手切れにして、一つ出向いて栄三郎を説き伏せて来てはくれまいか……。
富五郎は沈黙。
白っぽい場末の静寂が、おさえつけるように真昼の街をこめている。
弟子の吉公が、またお向うの質屋の小僧と喧嘩をはじめたらしくうわずった声がおもての往来に流れていたが台所にひそむおしんは、何も耳にはいらないふうで、ひたすら室内の富五郎の返答を待った――うなだれて固唾をのむおさよ婆さんとともに。
いわば恋がたきである――源十郎と鍛冶富。
その鈴川の殿様のために、手切れの使者に立って金を渡し、はなしをまとめてくれとおさよ婆さんに頼まれたときに、鍛冶屋の富五郎、味もそっけもなくポンとはねつける。
と、思いのほか。
逆に、グッと一つそり返りざま、胸のあたりを大きくたたいて見得をきった。
「ようがす!」
と容易く受け合う。
立ち聞くおしんは、案に相違して、お艶を源十郎にやろうという良人のことばに燃えかかっていた嫉妬のほむらもちょっとしずまって、いささか安心したらしいようすだが思ったよりこともなく承知ってくれたのに、かえってさよのほうがびっくりし、
「え? それではアノ――?」
せきこんでききかえすと、ますます鷹揚に合点をした富五郎親方。
「わかりました、おさよさん。お前さんの心はよっく理解がつきましたよ。なアるほどネ、子を思う親の誠に二つはねえとは、よくいったもんだ。お前さんはつまりお艶さんにこのうえの苦労をさせたくねえ。なんとかして鈴川様へさしあげて、すこしでも楽な身分にしてやりてえという腹でいっぺえで、いってみりゃア自分のことなど二の次なんだろう。そうなくちゃアならねえ……うム……親ッてえものはありがてえもんだなあ! おらあおさよさん、この年になって初めて親の恩を知りましたよ。あああ、焼野の鶴に夜のきぎす――」
なんかと富五郎、何を思い出したのかそこらのお寺の説法にでも聞いたらしい文句を並べだしたりはいいが、どうもいうことがさかさまである。
にもかかわらず。
涙っぽいその調子に誘われて、おさよが思わずさしうつむくと、うら口のおしんまでが湯帰りの濡れ手拭とまちがえて、雑巾で眼じりをこすっている。
春の日の午さがりだけあって、いかにも間の抜けた愁嘆場……。
なまあったかい風が、ほこりを舞わせて家をつつむ。
世の中があくびをしているよう……いかにも眠いもの憂さである。
おさよが、赤くなった眼をあげた。
「では、瓦町へ出かけて行ってお金を渡し、栄三郎さんから離縁状を取って来てくださるというんでございますね」
「そうともサ! お前さんの言うとおり、世の中は真直ばかりでもいかねえ。おまけに、手前の女房を食わせることもできずに追ん出てゆかれた栄三郎さんだ。そりゃア先様はまた先様で、なんのかのとほかに心をつかうこともあるんだろうけれど、なあに先方の都合なんざア聞く耳もいらねえ。これからすぐに瓦町へ行って栄三郎さんをおだて、ニッコリ笑って縁切り状を書かせて来てみせるから、お前さんはマアわしに任せて、なんの心配することアねえやな、今におしんも帰ってくるから、ユックリ話して休んでいなさるがいい」
「ほんとに普段は勝手ばかり、用がなければおたずねもしないくせに、とんだ御迷惑なお願いをして――」
「マアいいとも、いいとも、そんなことは言いなさんな、勝手はお互いだ」
「恐れ入りますでございます」
「ナアニ! ところでもうおっつけかかあの帰って来る時分だが……畜生! 何をしてやがるんだろう? 碌でもねえ面の皮の引んむけるほど、おびんずる様みてえに磨きたてやがって――」
と、これを聞いたおしん、そっと足音を忍ばせてもう一度戸外へ出たが、気がつくと、もしも話の模様がじぶんを突きだしてお艶を入れるようなことにでもなったら、これを振りまわして暴れこんでやろうと、さっきから手にしてたたずんでいた擂粉木を、まだ握ったまんまなので、われながらアッ! とふきだしそうになるのをおさえつつ、ほどよいところから、エヘン! 一つさりげなく咳払いをして、
「あれ! どなたかお客さまでござんしたか」
わざとあわただしく駈けあがって障子をガラリ、
「まあおさよさん! お珍しい!」
とニコニコ顔のおしん、これでうちの亭主野郎もどうやらお艶さんをあきらめるであろうと思うからそのはなしを持ちこんできたおさよ婆さんを下へも置かずもてなしだすと、
「おしんや。あっちの羽織を出してくんな……それじゃアおさよさん、ちょっくら瓦町へ行って来ますよ。おしん、おさよさんは飲ける口だ。晩にゃア一本つけてナ、帰途に俺が魚甚へ寄って何かよさそうな物を見つくろって来るから――」
「行ってらっしゃい」
おしん、おさよに送り出されて三間町の己が鍛冶店をあとにした富五郎、もう二度とわが家の近くへ立ち寄らないつもりだから、さすがにうしろ髪を引かれる思い、町かどで、叱りじまいに小僧の吉公をどなりつけたまま五十両をふところに浅草瓦町とは違う方角へ、逃げるがごとく、足早に消えていった。
それからまもなく――。
三間町を出はずれた鍛冶屋富五郎は、ひとり思案に沈みながら人通りのすくない町すじを選んで歩いていた。
ときどき、ふところへ手をやる。
と、五十両入りの財布をのんだ懐中はあったかくふくらんで、中年過ぎのこのごろになってともすれば投げやりに傾こうとする富五郎のこころを躍らせずにはおかないのだった。
十両からは首の台がとぶころである。
五十といえば、もちろん大金であった。
が、金そのものよりも、鍛冶富をうらやませてやまないのは、その金が買い得るあの艶の身膚であった。
聞けば、本所の殿様は、この五十金をおさよ婆さんに渡して、これで栄三郎からきれいにお艶をもらってこいといったそうな。評判の貧乏旗本で身持ちの悪い鈴川様が、どうして五十とまとまったものを調達できたのか、これが第一の不審だが、それはそれとしても、我欲に眼のくらんだおさよが、選りに選って自分のところへ交渉方を持ちこんで来たのは、富五郎にとってはこのうえもない幸であった。
よろしい! 承知した! と大きく胸をたたいて婆さんを安心させたのみか、親の恩なぞと並べ立ててちょっぴり泣かせたのち、いと殊勝に縁切りの使者にたつふうに見せかけて家を出て来た鍛冶富だったが、まともに先方に話をつけて五十両おいてこようとは、かれは始めから考えていないのだった。
突然おさよ婆さんが訪れてきた時、彼はちょうど女房のおしんも留守なので、きょうこそはお艶所望の件を持ち出して、妾で承服なら妾、また家へ入れてくれなければ嫌だというのなら、どうせ前々からあきあきしている古女房だから、すぐにもおしんに難癖をつけて追い出し、その後釜にお艶をすえてやろうから、どうか母のお前さんからもとりなしてくれ。ついては、これはわしだけしか知る者はないのだが、お艶さんはいま、まつ川の夢八という名で深川から芸者に出ているから、会いたいならすぐにもあわせてあげよう――とこうすべてをぶちまけて恩にきせ、お艶のもらい受けを頼みこむつもりでいたやさき、おさよ婆さんがきりだした来訪の要件というのを聞いてみると、鈴川の殿様のほうが先口で、しかもここに五十両という手切れの現金、おまけに五百石の女隠居というのに婆さんコロリと参っているふうだから、こりゃア今になって俺がどんなに割りこもうとしたところで所詮相手が旗本ではかないっこない。
といって、黙って見ていたんじゃあ、おれが行かなくても婆さんなり誰かなりが出かけて話をまとめ、ことによったら鈴川様はお艶坊を手活の花と眺めるかも知れない。あのお艶を、鈴川だろうが何川だろうが、金で買わせてなるものか!
――と、ひどく心中にりきみかえってしまった鍛冶屋の親方富五郎、お艶を本所へやらないためには、じぶんがこの五十両を持って逃げるに限る。そうすれば、おさよも手ぶらではお屋敷へ帰れず、またお艶のありかを知る者は自分以外にないのだから、鈴川様の手がお艶にとどくことはない。――
そうだ。一つ五十金を路用にして、当分江戸をずらかることにしよう?
なんとしても、あの菊石の殿様にお艶さんを自儘にさせることはできねえ!
どうも女房のおしんにはあきの差しているところだ。一番ゆくえをくらまして、この金のつづく限り、おもしろおかしく旅の飯を食ってこよう……と、おのが手にはいらない物は他人にもとらせたくないのが下司の人情、金を持って瓦町へ行くとは真っ赤なうそで、おしんやおさよをちょろまかし、しばらく家をあける気で飛び出して来た富五郎だが――。
いよいよとなってこうして町を歩きながら考えると、ハテどこへ旅立ったものやら、いっこうに勘得がつかない。
で、鍛冶富、ブラリブラリと徒歩ってゆくのだが、そのうちに、ふと思いついたのが子供のころから望んでいて、まだ一度も出かけたことのないお伊勢詣りだ。
ウム! それがいい、伊勢詣りと洒落よう。
こう心に決めたかれは、どうもひどいやつで、鈴川源十郎が伊兵衛棟梁を殺して奪った五十両を我物とし、丸にワの字は出羽様の極印が打ってあるとも知らずに、それからただちに辻駕籠を拾って六郷の渡船場まで走らせ、川を越せば川崎、道中駕籠を宿つぎ人足を代えて早打ちみたよう――夜どおし揺られて箱根の峠にさしかかるあたりで明日の朝日を拝もうという早急さ。
「おウッ! 駕籠え! いそぎだ、酒代エはずむぜ、肩のそろったところを、エコウ、あらららうアイ! てッんだ。やってくんねえ!」
気の早いおやじもあったもので、そのまま桜花にどよめくお江戸の春をあとに、ハラヨッ! とばかり、ドンドン東海道を飛ばして伊勢へ下りにかかった。
藍色の夕闇がうっすらと竹の林に立ちこめて、その幹の一つ一つに、西ぞらの残光が赤々と照り映えていた。
ほの冷たい風に、蜘蛛の糸が銀にそよぐのを見るような、こころわびしいかわたれのひと刻である。
城西、青山長者ヶ丸。子恋の森の片ほとり……。
そこの藪かげに、名ばかりの生け垣をめぐらし、草ぶきの屋根も傾いて住みふるした一軒の平屋が、世を忍ぶ人のすがたを語るかにおぼつかなく建っていた。
野中の森はずれ――ひさしくあいていたその家にこのごろ、いつからともなく二十人ばかりの正体のはっきりしない男達が移ってきて、出入りともにさだめなく、ひそやかな日夜を送っているのだった。
もとは、相当裕福な武家の隠居所にでも建てたのであろう、木口、間取り、家つきの調度の品々までなかなかに凝った住居ではあるが、ながらく無人、狐狸の荒らすにまかせてあったうえに、いまの住人というのがまた得体の知れない男ばかりの寄合い世帯なので、片づけや手入れをするものもなく、荒廃乱雑をきわめているぐあい、さながらこれも化物屋敷といいたいくらい……。
この、安達ヶ原ならぬ一つ家の土間に、似合しからぬ五梃の駕籠がきちんと、並べておろしてあるのだった。
そして。
その上の壁に、五人分の火事装束がズラリと釘にかかっている――かの五人組火消し装束の不思議な住居。
首領――とよりは、むしろ長老と呼びたい白髪の翁のもとに。
四肢のごとく動く屈強な武士が四名。
ふだんは掃除水仕事や家の警備に当たり、一朝出動の際はただちに駕籠舁と早変りする、六尺近い、筋骨隆々たる下男が十人。
それに。
中途から一団に加わった小野塚伊織の弥生と、そのまた弥生が稀腕を見こんで招じ入れた手裏至妙剣の小魔甲州無宿山椒の豆太郎と、〆めて十七人の大家内に、森かげの隠れ家には、それでも賑やかな朝夕がつづいているのだった。
丹下左膳と、諏訪栄三郎の中間にあって等しく両者をねらい、左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜を奪って雲竜二刀をひとつにせんとしている謎の一群!
頭立つ老人は小野塚鉄斎の化身とでもいうのであろうか? 弥生までが黒髪を断ち切ってこの五人組に加担し、あまつさえ豆太郎などという変り種までとりこんで戦備をととのえ、じっさい着々活躍しつつあるとは、たとえ弥生の伊織と五人組とのあいだに、どんな了解がついているにせよ、それは、老翁はじめ五人組の正体同様、なんとも外からは想像をゆるさない秘情であった。
白髪童顔の老人は、そも何者か?
それに仕うる血気の四士?
また、彼らと行動をともにする男装の弥生の心中は? 栄三郎への彼女の悲慕哀恋はいったいどうしたというのだろう?
これらすべてが、火事装束に包まれる青白いほのお、やがては燃え抜いてあらわれんとする密事の火種であらねばならない。
この、去来突風のごとく把握すべからざる火事装束五人組と弥生豆太郎の住家のうえに、今や武蔵野の落日が血のいろを投げて、はるかの雑木ばやしに唖と鳴きわたる烏群の声、地に長い痩竹の影、裏に水を汲むはねつるべの音、かまどの煙、膳立てのけはい――浮世の普通に、もの悲しくあわただしいなかに、きょうもはや宵を迎えようとする風情が噪然として漂っていた。
たそがれ。
あかね色。
……輝き初める明星。
その時、夕まけて寒風の立つ背戸ぐちの竹やぶに、ふたつの影がしゃがんでいた。
弥生と、そうして豆太郎である。何かの話のつづきらしく、豆太郎は顔をあげずにいいはじめた。見ると、彼は小刀をといでいるのだ。
例の殺人手裏剣用の短剣を、何梃となく地べたに並べて、かたわらの手桶の水をヒョイヒョイとかけながら、豆太郎は器用な手つきでせっせと小柄をとぎすましている。
青黒く空の色を沈めて横たわる小さな刃……それが血を夢みて心から微笑んでいるようだ。
「なあに伊織さん、あの二人だって、あれだけおどかしときゃアたくさんでさあ。へっへっへ、みんな肝をつぶして突っぷしゃがったっけ」
いいながら豆太郎、手の小剣を鼻さきにかざして、しかめッ面で刃をにらんだが、まだ気に入らないとみえて、
「チッ! こいつめ!」
またゴシゴシ磨石にかけ出したが、あの二人と聞いて、弥生が急にもの思いにあらぬ方を見やったとたん、
「伊織どの! 伊織殿! 伊織殿はおられぬかな?」
奥から、老翁の声が流れてきた。
「そうさ。乾雲一味の者は大分たおしたようだから、まずあれで上出来であった……あの紅絵売りの若侍と乞食とはああして威嚇するだけでよいのだ、怪我があってはならぬ」
起きあがりながら、こうそそくさと弥生がいうと、豆太郎はちょっと不審げな顔を傾けて、
「へえい! そういうことになりますかね。なんだか俺チにゃあわからねえ」
で、弥生がまた、なにか口にしようとしているところへ、さっきから呼びつづけていた老人の声が、こんどはひときわ甲高に聞こえてきた。
「伊織どの! そこらに伊織殿はおらぬかな?」
手裏剣を磨く手も休めもせずに豆太郎が注意した。
「伊織さん、呼んでるぜ、大将が」
弥生はうなずいて家内へはいった。
奥の書院へ通る。
何一つ家具らしいもののない八畳の部屋、水のような暮色がしずかに隅々からはいよるその中央に褪せた緋もうせんを敷いて一人の翁が端座している。
銀糸を束ねた白髪、飛瀑を見るごとき白髯、茶紋付に紺無地甲斐絹の袖なしを重ねて、色光沢のいい長い顔をまっすぐに、両手を膝にきちんとすわっているところ、これで赤いちゃんちゃんこでも羽織れば、老いて愚に返った喜の字の祝いのようで、まるで置き物かなんぞのように至極穏当な好々爺としか見えない。
さて、何者にせよ、火事装束の四闘士と十人の荒らくれ男をピッタリおさえて、自ら先に乾坤の刀争裡に馳駆するだけあって、その眼は鷲のような鋭光を放ち、固く結んだ口もと、肉おきの凝りしまった肩から腕の外見、一瞥してこの老士とうてい尋常の翁ではないことを語っている。
松の古木のような、さびきったその身辺に、夕ぐれとはいえ、何やらうそ寒いものが漂っているのを感得して、
「は、お呼びでございましたか」
と入って来た弥生は、思わずぶるッと小さく身ぶるいをしながら黙りこくっている老翁のまえへ、いざりよって座を占めた。
うす暗い。
となりは、ほとんどもう闇黒に近い室内。
そこに、神鏡のように茫ッと白く浮かんでいる老人の顔を見ると、弥生は、はじめて気がついたようにあたりを見まわした。
「あれ! まだお灯が入っておりませんでございましたか。どうも不調法を……ただいま持って参りまする」
と弥生、そこは天性で、もとを知られているこの老人の前へ出ると、小野塚伊織のはずの弥生、いつも本来の女性に立ち返って、じぶんでもふしぎなくらい自然に、言葉さえもただの弥生になるのだった。
四六時ちゅう、みずから意を配って男のように立ち振舞っているだけに、こうしてしばらくにしろ、その甲冑を脱ぎ捨てて女の自分に戻ることは、泣きたいような甘いこころを、つと弥生の胸底にわかさずにはおかない。
老士は口を開かない。
が、この弥生の心もちを伝え知ったかのように、剃刀のように冷やかだった眼色にやさしみが加わって、やがて、ぽつりといいきった声には不愛想ながらも、どこかに児に対するごとき一脈親愛の情がのぞき見られた。
「灯はいらぬ」
そして、珍しく、かすかな笑顔が小さく闇黒に揺れた。
「暗うても会話は見えるでな」
「ホホホ! それはそうでございます」若侍の伊織が、娘の弥生として笑う。
そこに、妙に奇異な艶めかしさが動くのだった。
「して、そのおはなしと申しますのは?――なんでございましょう?」
すると、老人はしばらく沈思していたが、
「伊織どの! いや、弥生殿……のう、伊織が弥生であることに、まだ誰も気づいた者はありませぬかな」
ギョッ! としたらしく弥生はにわかに肩をかくばらせて男のていに返りながら、
「はじめから御存じの先生とお弟子衆のほかは、たれ一人として知るものはないはずにござりまする」
「うむ。かの、豆太郎とか申した人猿めは?」
「は。きゃつとて何条疑いましょう! いうまでもなく、わたしを男と思いこんでいるふうにござりまするが、今宵に限って、先生には何しにさようなことをおたずねなされますか」
老士の膝が、一、二寸前方へ刻み出た。
「いささか気になるによって聞いたまでで、大事ない。だが弥生どの、ぬかりはござるまいが、けどられぬよう十分にナ……」
弥生がうなずいた拍子に、それを合図に待っていたかのごとく、うらの竹やぶに咽喉自慢の豆太郎の唄声。
坂は照る照る。
鈴鹿は曇る。
あいの土山、雨が降る。
上り下りのおつづら馬や
さても見事な手綱染めかえナア
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ節
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
暮れ迫る森かげの家を、手裏剣をとぎながら、ひとりうかれ調子の豆太郎の声が、ころがるように筒ぬけてゆく。鈴鹿は曇る。
あいの土山、雨が降る。
上り下りのおつづら馬や
さても見事な手綱染めかえナア
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ節
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
唄にあわせて砥石にかけているものらしく、拍子をとって、声に力がはいっている。
ひなびたこころあいを、渋い江戸まえの咽喉で聞かせる、亀背の一寸法師には似あわない、嬉しいうた声であった。
あいの土山、雨がふる
やらずの雨だよ
泊まって行きなよ
主を松かさ
さわれば落ちるよ
ハイ、ハイ……とネ
途切れ途切れに伝わってくる豆太郎の唄ごえがパッタリとやむと暗く濃い春宵のしじまのなかで、老士と弥生は、ほのかに顔を見合ってほほえんだ。やらずの雨だよ
泊まって行きなよ
主を松かさ
さわれば落ちるよ
ハイ、ハイ……とネ
思い出したように老人がいう。
「お呼び立ていたしたはほかでもない」
「は」
と呼吸を呑んで、弥生はこころもち固くなった。
いま、この人なき、夕べの一刻にかれはそも何をいい出そうとしているのか……それが弥生には、この際すくなからず気になるのだった――。
千年を経た松柏のごときこの家のあるじ――。
弥生がここへ来て、起臥をともにして以来知り得た限りでは。
老士……名は、得印兼光。
美濃の産、仔細あって郷国を出て、こうして江戸に、関の孫六の夜泣きの大小を一つ合わして手に収めんと身を低めているのだとのみ――。
何ゆえの奔走か? また、従う四士と十人の大男はいかなる関係にあるのか――これから自余のいっさいは、かれらはもとより、固く口をつぐみ、弥生もまた、ふかく一味の侠義に感じている以上、内部にあってその真相を探ろうとするがごときは慎しまなければならなかった。
ただ。
兼光と弥生のあいだに成り立っている約束は、ともに力をかし合ってひとまず雲竜二剣をひとつにし、その上で兼光の手から、改めてその大小一つがいを故小野塚鉄斎の遺児なる弥生に返納しようということになっているのだ。
さてこそ。
風のように随所随所に現われて二刀を狙う五梃駕籠と、豆太郎を引き具してそれを助ける小野塚伊織の弥生。
丹下左膳から乾雲丸を奪還しようというならば話はわかるが、なにゆえ彼らは、それのみならず栄三郎の坤竜をも横どりしようとし、また弥生がそれに協力しているのであろうか。
弥生、かなわぬ恋の意趣返しに栄三郎を敵にまわそうというのか? あらず!
弥生としても、助けられた恩のある五人組である。ただ一時二刀をひとつにして、そのうちただちに弥生に返すというのだから、弥生はその日の一日も早からんことを望み、豆太郎を使ってもちろん主に左膳をつけ狙うと同時に、栄三郎のほうは密と坤竜を奪ろうとしてその身辺に危害なきを期しているのだ。
いわば弥生は、兼光一団の申し出を利用しているまでのことなのだが、はたして豆太郎、よく弥生の真意を汲んで、その望むがごとく立ちまわるであろうか?
毒を用いる者は、みずからその毒を受けぬ用心が第一である。
すでに小野塚伊織の人柄をひそかに怪しんでいるらしい豆太郎……なるほど、得印老人の言うとおり弥生は、気づかれぬ注意が肝要であった。
が、豆太郎は、豆太郎として。
今宵は。
得印兼光のほうから口をひらいて、はじめてここに、われとおのれに誓った秘命のすべてを語り出そうとしている。
夜に入っていっそうの寂寞。
兼光の一言一語をも洩らさじと耳を傾ける弥生の顔に、大きなおどろきが、波紋のようにみるみる拡がっていくのだった。
して、その、世をしのぶ老士得印兼光なる主の物語というのは? はなしは、文明より永正にかけてのむかしにかえる。
火事装束五梃駕籠の頭首、世をしのぶ老士得印兼光の物語は。
文明より永正にかけての昔――。
当時美濃国に、刀鍛冶の名家として並ぶ者なき上手とうたわれたのが、和泉守兼定であった。
すべて業物打ちは、実と用とともに品位を尊ぶ。
この和泉守の太刀姿は、地鉄こまやかに剛く冴えて、匂いも深く、若い風情のなかに大みだれには美濃風に備前の模様を兼ねたおもむきがあり、そのころまず上作の部に置かれていたという。
美濃の国、関の里。
世に関の七流というのは、善定兼吉、奈良太郎兼常、徳永兼宣、三阿弥兼高、得印兼久、良兼母、室屋兼任――この七人の末葉、美濃越前をはじめとして、五畿七道にその数およそ千百相に別れ、みな兼の字を冒して七流の面影を伝えたのだったが――。
関の孫六と号した兼元も、この和泉の一家であった。
孫六は、業物の作者である。
かれの鍛つところの刀は、にえ至って細く、三杉の小亀文が多くまたすずやきもあり、ことにその二代兼元なる関の孫六となると、新刀最上々の大業物として世にきこえているが、関の新刀になってからはだいぶん位が落ちたけれど、初世孫六のころの関一派の繁栄はじつに空前絶後ともいうべきで、輩出した名工また数かぎりもないうちに、なかでも志津三郎兼氏、兼重、兼定、兼元、兼清、兼吉、初代兼光はすぐれての上手、兼永、兼友、兼行、兼則、兼久、兼貞、兼白、兼重などもすべて上手ということになっている。なべて、美濃物の刀は砥障りがやわらかで、備前刀とは大いに味を異にしているのがその特長であった。
一世関の孫六、
かれはその得意とする大業物を打つに当たって、みずから半生を費やして編み出した血涙の結晶たる大沸小沸ならびに刃渡しという水火両態の秘奥を、ひそかに用いたのだった。
鍛刀の技たるや、細部や仕上げにいたっては各家口伝、なかには弟子にさえ秘しているところがあって、おのおの異なり、容易に外界から推測すべくもないが、まず大体は同法であって、すなわち……。
本朝刀剣鍛錬の基則。
まず、鉄は、むかしから出場所がきまっている。
伯耆の印賀鉄、これを千草といって第一に推し、つぎに石見の出羽鉄、これを刃に使い、南部のへい鉄、南蛮鉄などというものもあるが、ねばりが強いので主に地肌にだけ用立てる。
鍛えに二法あり。
古刀鍛はおろし鉄のいってんばりであったが、これはまず孫六あたりをもって終りとなし、新刀鍛となっては、正則のほかに大村加卜ほか武蔵太郎一派の真十五枚甲伏というのも出たが、多く伝わっているのは卸し鉄と新刀ぎたえのふたつだけだ。
さて、ここに伯耆の印賀鉄がある。
これを刀剣に鍛えんとするには、まず備えとて、炭、土、灰を用意し、炭はよく大きさをそろえて切り、粉は取り去る。
土にも産地がある。山城の深草山、稲荷山などの土が最上。
灰は、藁を焼いたもの。
水――澄冽をよしとす。清砂、羽二重の類をもって濾すのである。
それから。
へしと称し、平打ちにかけて鋼を減らし、刀の地鉄を拵える。水うちともいう。
つぎに、積みわかし。
これは、ねた土を水でといた濃液を注ぎかけて火床に据え、ふいごを使って鉄を焼くのだ。小わかしというのがそれ。
大沸かしとは、鉄の周囲に藁灰をまぶし、また火中に入れて熾熱する。
すめば鍛えである。
三人の相槌をもって火気を去り、打ち返して肌に柾目をつけ、ほどよいころから沸かし延べの手順にかかる。
わかし延べは、束である。
今までバラバラの鋼だったものを、これで一本の刀姿にまとめ、素延べに移る。
素延べは、地鉄のむらをなおし、刃方の角を平め、鎬のかどを出す。
火造り――せんすきともいい、はじめて鑢を用いていよいよ象をきわめる。
つぎに。
反りをつけ、もっとも大切な焼刃にかかるのだが、そりも焼刃も各流相伝になっていて、それによって艶や潤いに大差が生ずる。
これに要する土は、黒谷のものがよしとされていること、あまねく人の知るところだ。
この反りと焼刃の工程。
もとより刀剣の胎生に大切なところで、これによって鋭利凡鈍も別れれば、また鍛家の上手下手もきまろうというのだが。
それよりもいっそう重大なのが、次順の湯加減、一名刃渡しである。
やいばわたし……鍛刀中の入念場。
まず水槽に七、八分めばかりの清水をたたえ、火床には烈火をおこし、水は四季に応じてその冷温を加減する――これすなわち湯かげんの名あるゆえん。
春、二月の野の水。
秋、八月の野の水。
これと同じくすることがかんじんだ。そうしてしたくができれば、本鍛冶が、元から鋩子さきまで斑なく真紅に焼いた刀身を、しずかに水のなかへ入れるのだが、ここが魂の込め場所で、この時水ぐあい手かげん一つで刃味も品格も、すべて刀の上あがり不あがりが一決するのだから工手は、人を払って一心不乱に神仏を念ずるのがつねだった。
こうして、やいば渡しも終われば。
荒砥にかけて曲りをなおし、中心にかかって一度砥屋に渡し、白研までしたのを、こんどはやすりを入れて中心を作る。この中心ができあがったうえでさらに研ぎをしあげ、舞錐で目貫穴をあけ銘を打ち、のち白鞘なり本鞘なりに入れて、ようよう一刀はじめてその鍛製の過程を脱する――のだが!
ここに。
かの関の孫六の水火両様の奥伝というのは。
ひとつは火で、これは積みわかしにおける大沸かし小わかしのこつ。
他は水で、それは刃わたしの際のいささかの水工夫であった。
まことに。
水と火をもって鍛えにきたえる刀作の術にあっては、その水と火に一家独特の精髄を遺した孫六専案の秘法は、じつにいくばくの金宝を積んでも得難いものに相違なかったろう。
水火の密施。
ほかでもない。
個々の鉄体を積み、一種の泥水をかけて焼く時のちょっとした心得――小沸かしの伝と。
そのつぎに、鉄のまわりに藁灰をつけて熱火に投ずるまぎわのふいごの使い……大沸かしの仕方。
これが孫六の体得した火の法で。
水の法は。
すでに一本の形をそなえた荒刀を、刃渡しとして水中に沈めるときの、ほんのちょっとした水温と角度――にはすぎないけれど。
この関の孫六水火の自案。
口でいい、耳で聞いたくらいでアアそうかとたやすく会得のいくものならば、なんの世話もいらないわけだが、どうしてどうして孫六じしんが一生涯を苦しみ抜いた末、やっと死の床に臥す直前に、ふとしたはずみに心づいて、この刀道の悟りをひらいたという、いわば天来の妙法なのだから、技ここに至らんと希う者は、身みずから孫六のあえいだ嶮岨を再び踏み越すよりほかに、その秘術をさとり知るよすがはない――こう、美濃の国は関のあたりに散らばる兼の字をいただく工人一家のあいだに、長年いいつたえられて来ているのだった。
しからば。
関七流の長、孫六の把握し得た水火鍛錬の奥義、かれの死とともにむざむざ墓穴に埋もれはてたというのであろうか?
否!
大いに、否!
世に名工俊手と呼ばるる者、多く自己にのみ忠にして頑ななりといえども、また、関の孫六、いささかその御他聞に洩れなかったとはいえ、かれとても一派を樹立した逸才、よし自家相伝の意はないまでも、日本刀剣づくりの大道から観て、どうして己が苦心になる方策をおのれのみのものとして死の暗界に抱き去るような愚昧を犯そう!
必ずや、いずくにか、いかなる方法でか、この孫六の水火の秘技、今に伝わっているに相違ない……とは誰しもおもうところ。
事実、そっくりそのまま残っているのだ。
どこに!
水火一対――いまは所を異にして!
……と語り終わった得印老人のことばに、
「え?」
思わず急きこんで闇黒のなかに乗り出したのは弥生。
「それでは、アノ、その関の孫六の水火の法が、いまだに世に残されておりますとな――」
「いかにも!」
見えはしないが老士、暗中に大きくうなずいたらしかった。
「いまわしがお話し申したとおり、孫六発案の大沸かし小沸かし、さては刃わたしの密法、ともに合符の秘文となって現在この世に伝来しおること明白でござる」
「まあ! それほど大切な御文書どこにあるかは存じませねど、もはやお手に入れられましたでござりましょう」
と弥生は、瞬間のおどろきから立ちなおると、やはりすぐと地の女性に返るのだった。
「あッはッハッハ! いや……」
急に大きく笑い出した得印兼光は、突如、顔をつき出して低声になりながら、
「されば、その水火秘文状の所在でござるが」
「は。そのありかは……?」
「ただいまも申すとおり、合符になっておる」
「合符?」
「さよう、割文じゃ。一あって一の用をなさず、二にて初めて一の文言を綴る――つまり水の条と火の件りと二枚の紙に別れておるのじゃが、それがじゃ、紙は二枚になっておっても、文句は両方につづいている。すなわち、同時に二枚紙を継いで判読せんことには、そのうちいずれの一枚を手にしたとて、とうてい水火の鍛術を満足に会得するわけには参らぬ仕組みになっておる」
弥生は、しずかに首をひねった。
「……と申しますると?」
「おわかりにならぬかな。いや、泰平の世に生まれたお若い方、ことには女子……」
「アレ!」
「おお! ナニ、ははは、誰も立ち聞く者はござるまい……とにかく、御身の存じよらぬはもっともじゃが、戦国のころには何人も心得おった密書の書き方でのう、敵陣を横ぎって遠地に使者をつかわす場合になぞ、必ずこの筆式を用いたもの。それは――」
といいかけて、得印老士は、指で畳に字を書き出したとみえる。声とともにかすかな擦音が弥生の耳へ伝わるのだった。
闇黒の部屋。
ふたりはいつしかそのまんなかに、ヒタと真近くむきあっていた。
明日は雨でがなあろう……春の夜の重い空気がなまあったかく湿って、庭ごしに見える子恋の森のいただきには、月も星もひかりを投げていなかった。
沈黙――を破った得印兼光のことば。
それによると。
合符……割文というのは。
一枚の小さな紙に、ひとつの文句をはじめから書いていき、他の文句をしまいから逆に行間に埋めて両文相俟って始めて一貫した意味を持っているものを、その紙片の中央から、ふたつに破いておのおの別々に携帯せしめて敵地を通過させる戦陣音信の一法であった。
かくすれば。
たとえ二人の使いのうちひとりが敵の手中におちて書状の一片を取りあげられたところで、敵は、もう一つの半片をも得ない限り、そこになんら貫徹した文章を読むことができず、二人を離して派遣しさえすればこの合符割文の文づかいは、当時まず安全に近い通信法となっていた。
これに思いついたのであろう、関の孫六が、その水火鍛錬の秘訣を後人に遺した文状は、すなわちこの合符わり文の一書二分になっていたのだ。
かれ孫六……。
死床にあってすでに天命の近きを知るや、人を遠ざけた病室にひとり粛然と端座してしずかに筆紙をとり、ほそ長い一片の紙に針の先のごとき細字をもって――。
一、水はやいばわたしが肝じんにて候。
そは、熱刀を水中に入るるに当たり――。
うんぬんと書きつらね、同時に、おなじ紙の末尾より文を起こし、最初の文字の行と行のあいだへ、左から右へ読まして……。そは、熱刀を水中に入るるに当たり――。
一、火は大わかし小わかしのことにて候。
そは、はじめに地鉄を積むとき――。
と、ここに、この一狭紙に、水火両様の奥伝をしたためて、のち此紙を真ん中から二つに裂き、水の条からはじまる最初の一片と、火のくだりを説いてある後半の別紙と、おのおの別に切り離して世に残すことにしたのだった。そは、はじめに地鉄を積むとき――。
そのとき孫六。
やまいを得るまえに最近仕上げた陣太刀づくりの大小を手にとり赤銅にむら雲の彫をした刀の柄をはずして、その中心に後半の火密を巻きこめ、おなじく上り竜をほった脇差のつかの中に前片水秘の部を締め隠したのである。
名匠の熱執をひとつにこめた水火秘文状。
離るべからざるを二つに断った水秘と火密。
水は低きに就き、火は高きに昇る。
ゆえに。
水は竜、火は雲である。
それかあらぬか。
関の孫六水火の合符、乾雲丸は大沸かし小沸かしの火策をのみ、わきざし坤竜はやいば渡しの水術を宿して、雲竜二剣、ここにいよいよ別れることのできない宿業の鉄鎖をもってつながれる運命とはなったのだった。
一あって用をなさず、二合してはじめて一秘符となる古文書を、中央からやぶいて二片一番としたさえあるに、しかも、その両片の一字一語に老工瀕死の血滴が通い、全文をひとつに貫いて至芸労苦の結晶が脈々として生きて流れているのである。
たださえ!
同装一腰、雲と竜に分かれて離れられない乾雲坤竜だ。
それがこの、死に臨む刀霊の手に成った水火の秘文合符をそれぞれに蔵しているとは!
むべなるかな!
乾坤……天地のあらんかぎり、火の乾雲丸、水の坤竜丸、雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相慕い互いにひきあうさだめにおかれているのだった。
ふたたび思い起こす刀縁伝奇。
二つの刀が同じ場所におさまっているあいだは無事だが、一朝乾坤二刀、そのところを異にするが早いか、たちまち雲竜双巴、相応じ対動して、血は流れ肉は飛び、波瀾万丈、おそろしい現世の地獄、つるぎの渦を捲き起こさずにはおかないという。
それが事実であることは、誰よりも弥生が、眼のあたりに見て知悉しているのだったが、この夜泣きの刀のいわれには、単に雲竜相引の因果のほかに、底にじつに、こうして秘文合符の故実がひそんでいたのである。
わかれていて二刃、同じ深夜に相手を求めてシクシクと哭き出すというが、それは、割文となって仲を裂かれている水火の秘文が、各自その柄のなかから悲声をしぼるのかも知れなかった。
死のまぎわまで鍛刀の思いを断たない関の孫六の血肉が働いているのだ。あり得ないことと誰がいい得よう!
こうして――。
乾雲坤竜の大小、おのおのその柄の底に水火文状の合符を秘めたまま、星うつり物かわるうちに、幾代か所有主をかえ、何人もの手を経たのちに、いつの世からか神変夢想流剣道の指南、祖家の小野塚家の伝宝となって、先主鉄斎の代におよんで江戸あけぼのの里なる道場に安蔵され、年一度の大試合にのみ、賞として一時の佩腰を許されていたのが。
しかるに。
この夜泣きの刀に、あらぬ横恋慕を寄せたのが、名だたる蒐刀家の相馬大膳亮。
そして、その命を奉じて、今江戸おもてに砂塵をまきたてているのが、独眼隻腕の剣妖丹下左膳……それに対する諏訪栄三郎。
乾雲丸とともに、火使の心得は左膳の手に。
坤竜丸とともに、水ぐあいの説は栄三郎の腰に。
合符、剣にしたがっていまだに別在しているところに、地下の孫六のたましいは休まる暇とてもなく、それが地表にあらわれてこのあらゆる惨風凄雨の象を採っているのであろう……。
だが、しかし!
孫六が刀装をほどこして以来、まだ一たびもよそおいを変えたことがないらしく、今に陣太刀づくりのままの二剣である。一刻も早く両刀を一手におさめて柄を脱けたならば、必ずや、大の乾雲からは、割り文の後片火説の紙が生まれ、小の坤竜は、前半水法のくだりを吐き出すに相違ない。
当時孫六は、幅一寸、長さ尺余の紙きれに、微細蚊のあしのごとき文字をもって、巻き紙のように横に、左右両方から水火の秘文を一行おきに書きうずめ、これを中裂し、一片を一刀に、めいめい中心の上へしかと捲きしめて、またその上から赤銅の柄をはめ返したものだった。
と、同時に。
かれは、万一の散逸をおもんぱかっての用意をも忘れなかった。
べつに、一書を草して水火刀封の旨を記載し、彼はそれを、日ごろ愛用のやすり箱へしまいこんで、はじめて安堵して永久の眠りについたのだったが――。
その心算は。
おのが子孫が何人にまれ、およそ後人に刀剣鍛錬に志して達成を望む者、もしこの孫六の鑢を手がける境まですすんだならば彼こそはその箱の中の指書を見て、ひいてはそれより、二刀の柄から水火秘文状を掘り出しても差支えのない人物であることを自証するものだ。
こういう腹だったのが、爾後幾星霜、関七流の末に人多しといえども、いまだ孫六のやすりに手が届いて別書を発見したものはなく、従って水火合符刀潜の儀、夢にも知れずにすぎて来たのである。
それでも、うすうすながら関の開祖孫六に、水あげ火あげの独自の両秘術があったらしいことだけは、ふるい昔の語りぐさのように、美濃国にいる刀鍛冶のあいだにいいつたえられてきたけれど、誰も、孫六の専用した古式の鑢を使いこなす域にまで到達したものがなかったために、やすりの箱は埃をかぶったまま長く開かれずついに彼の死後こんにちにいたるまで、水火の奥ゆるしが割符となって夜泣きの大小の中心に巻き納めてあるということを認めた、やすり箱の中の孫六の別札真筆も、とうとう見出される機とてもなく、古今の貴法のうえに、春秋いたずらに流れ去ってきたのだったが!
さては、あったら名人のこころづかいも空に帰して、水火秘文の合符、むなしく刀柄裏に朽ち果てる……のか。
と、見えたとき。
半生を鍛剣のわざに精進して、技熟達、とうとう孫六遺愛の鑢を手がけようとして箱をひらいたのが関正統の得印家に生まれて、何世かの兼光を名乗る、この子恋の森陰一軒家のあるじ、火事装束五梃駕籠の首領の老士であった。
この得印兼光は、じつに孫六の末胤だったのである。
――と、ここにはじめて素姓をあかし、名乗りをあげた得印老人のまえに、闇黒の部屋に坐して弥生は思わず襟をただしたのだった。
「何ごとにまれ、芸道の苦心は尊いものと聞きおよびまする。夜泣きの刀が、さような大切な文を宿しそのように因縁につながっておろうとは、父もわたくしも、いや、小野塚家代々のものがすこしも存じ寄りませぬところでござりましたろう。いかさま、雲と竜のふたつの刀、それでは切っても切れぬはずにござりまする。よくわかりました。それではわたくしも、微小ながら今後いっそう力をつくして、かの二剣をひとつに、必ず近くお手もとへお返し申すでござりましょう」
「いや! いや!」
滅相もない! といったふうに兼光はあわてて手でも振り立てたものらしい。暗い空気が揺れうごいて、弥生の顔をあおった。
「いや! たとえわたしの先祖が鍛ったところで、いまは、刀はあくまでも小野塚家のもの、わしとてもそれに、指一本触れようとは思い申さぬ。が、ただ、その乾坤二刀の柄の内部に秘めらるる孫六水火の秘文状それだけ……それだけは、所望でござる! この老骨の命を賭しても!」
「ごもっとも! 伊織、心得ましてござりまする」
と弥生は、話が固くなるにつれて、またもや本性の女らしさが徐々に消えて、この日ごろ慣れている男の口調に返るのだった。
関の孫六の後裔、得印老士兼光の低声が、羽虫の音のようにつづいてゆく。
「当今、新刀の振るわないことはどうじゃ?」
いきなり、老人はこう吐き出すようにいって、眉をあげた。
「御治世のしるし津々浦々にまでいきわたって、世は日に月に進みつつあるというが、刀鍛冶だけは昔の名作にくらぶべくもない。本朝の誇りたる業物うちの技能、ここに凋落の兆ありといっても過言ではあるまい。なんとかせねばならぬ! 古法の秘を探り求めるか、みずから粉骨砕身して新道をきりひらくかせぬことには、鍛刀のわざもこれまでである――こう思ってわしは寝る眼も休まず勤労して来たものだが、菲才はいかにしても菲才で、恥ずかしながらいまだ一風を作すところまで到らぬうちに、それでも、どうやらこうやら祖師孫六のやすりを使い得るようになって、一日この老いの胸にときめく血潮をおさえて、ついに鑢箱のほこり払ったとおぼしめされ」
「は……?」
「と、出て来たのじゃ! 出て来たのじゃ! 乾坤二刀に水火の秘訣が合符となって別べつに封じこめてあるという、まごう方なき孫六直筆の一書が現れたのじゃ! 弥生どの、そのときのわしの悦びと驚きは、ただもうお察しありたい」
「…………」
「以後のことは申すまでもござるまい。弟子どもを八方に走らせて探らせると、いまその大小は、ソレ、そこもとの父御、江戸根津あけぼのの里なる小野塚家にあると聞きおよび、急遽、四人の高弟をしたがえ、平鍛冶中より筋骨のすぐれし者をえらんで駕籠屋に仕立て、ただちに江戸おもてへ馳せつけ参ったのでござるが、その時はすでに御存じのとおり、かの丹下めの無法により二剣ところを異にして、刀が血を欲するのか、内部なる水火が暴風雨を生ぜぬにはおかぬのか――とまれ、かかる騒動の真っただなかへ、われら、美濃国関の里よりのりこみ来たったわけでござる。その後、そこもととこうして起居をおなじうすることに相成ったのも、奇縁と申せば奇縁じゃが、これも水火の霊、すなわち祖孫六の手引きであろうと、わしは、ゆめおろそかには思いませぬ」
老人がポツリと口をつぐむと……沈みゆく夜気が今さらのごとく身にしみる。
かくして。
謎の老士得印兼光は、夜泣きの刀の作者関孫六の子孫だったことがわかり、部下の、同じ火事装束の四人はその弟子、六尺ぢかい大男ぞろいの駕籠かきも、重い鉄槌をふるう平鍛冶のやからなればこそ、これも道理とうなずけて、弥生は、こころからなる信頼のほほえみを禁じ得なかったと同時に、斯道に対する老人の熱意のまえには、さすがは名工孫六の末よと、おのずから頭のさがるのをおぼえるのだった。
もう夜は五刻になんなんとして、あるかなしの夜映を受けて、庭に草の葉の光るのが見える。
会話がとぎれると、人家のないこの青山長者ヶ丸のあたりは、離れ小島のようなさびしさにとざされて、あぶらげ寺の悪僧たちであろう、子恋の森をへだてた田の畔を、何か大ごえにどなりかわしてゆくのが聞こえる。
犬が吠えて、そしてやんだ。
春の宵は、人にものを思わせる。
得印老人の物語が、感じやすい弥生のこころをさらって、遠く戦国のむかしにつれ返っているのだった。
近くの闇黒に、弥生は見た――ような気がしたのである。
古い絵のなかの人のようなよそおいをした刀鍛冶の孫六が、美濃の国、関の在所にあって専心雲竜の二刀を槌うつところを!
ふいごが鳴る。火がうなる。赤熱の鉄砂が蛍のように飛び散ると、荘厳神のごとき面もちの孫六が、延べ鉄を眼前にかざして刃筋をにらむ……。
それは真に、たましいを削るような三昧不惑の場面であった。
と見るまに。
その幻影は掻き消えて、そこに、弥生の眼には、またほかのまぼろしが浮かぶともなく描かれているのだった。
死に近い孫六である。
かれは、書いている。ほそ長い紙きれに、おどろくべき細字をもって、しきりに筆を走らせているのだが、その字の色はうす赤かった。血のように赤く、また汗のごとくに水っぽいのだ。
それもそのはず!
彼は、みずからの血におのが汗をしぼりこんで、この水火の秘文をしたため遺しているのではないか!
そのうちに、書き終わった孫六は秘文を中断して割文となし、ふるえる手で、乾坤二刃のみにそれぞれに捲きしめている……が、ここまで自分の想描を追って来たとき、弥生はハッ! として[#「ハッ! として」は底本では「ハッ!として」]眼をまえの得印老士のほうへ返した。
死につつある孫六の顔が、兼光のように見えて来、再びそれが、亡父鉄斎のおもかげに変わりだしたような気がしたからだ。
「弥生どの!」
りんとした得印兼光の声が、鋭く弥生を呼んでいるのだった。
「は」
これで弥生、暗中の醒夢をふるいおとしていずまいをなおした。
「かかる次第じゃによって、わしはいかにもして、一時かの二剣を手にせねばならぬのじゃ。ナニ、ちょっとでよい。ほんの一刻、ふたつの柄をはずして秘文を取り出しさえすればあとの刀には、わしはなんらの未練も執着も持ち申さぬ。当然、正当の所有主たるそこもとへ即時返上つかまつるでござろう」
「は。そのお言葉を頼みに、わたくしも豆太郎も、せいぜい働きますでござりまする。ではそのようなことに――何はともあれ、二剣ひとまず御老人のお手もとへ! ハッ心得ました」
老士はただ、会心の笑みを洩らしただけらしい。こたえはなかった。
が!
雲竜奪取もさることながら……。
弥生のこころは、いつしか先夜、豆太郎とともに深川のお山びらきに左膳月輪を襲った時に、瓦町からつけていった栄三郎の姿。さては、夕ぐれ彼の帰り来る折りの風流べに絵売りのいでたち――それらの思い出を悲しく蔵して浮きたたなかった。
扮装は男でも、名は若侍でも、弥生はやはり弥生、成らぬ哀慕に人知れず泣くあけぼの小町のなみだは今もむかしもかわりなく至純であった。
と、そこへ。
おなじ夜に、旗亭の二階に障子をあけて現われたお艶の芸者すがたが眼にうかぶ。
自分に義理を立てて、さてはあの女は歌妓とまで身をおとしたのか……すまぬ!
こう弥生が、あやうく口に出して独語とうとしたとき、
「オヤオヤ! これあ驚きましたな。ばかに暗いじゃありませんか」
豆太郎が、あんどんに灯を入れて来た。
四月。
ころもがえ。
卯の花くたしの雨。
きょうも朝から、簀のような銀糸がいちめんに煙って、籬の茨の花も、ふっくらと匂いかけている。
屋敷横、法恩寺の川はいっぱいの増水で水泡をうかべた濁流が岸のよもぎを洗って、とうとうと流れ紅緒の下駄が片っぽ、浮きつ沈みつしてゆくのが見える。
土手につづく榎の樹。
早い青葉若葉が濡れさがってところどころ陽に七色に光っていた。
あかるい真昼の小雨だ。
はるか裏にひろがるたんぼのなかを、大きな蓑を着た百姓が、何かの苗を山とつんだ田舟を曳いてゆくのが、うごきが遅いので、どうかするととまっているようで、ちょうど案山子のように眺められるのだった。
潮干狩のうわさも過ぎて、やがては初夏のにおいも近い。
遠くの野に帯のような黄色な一すじが、雨に洗われて鮮やかに見えるのは、菜の花であろう……。
雨日小景。
左膳は、その一眼にこれらの風情をぼんやりと映して、さっきから本所化物やしき庭内、離室の縁ばしらに背をもたせたまま、まるで作りつけたように動かずにいるのだ。
人なみはずれて身長の高い左膳は、こうして縁側に立てば、破れ塀のあたまごしに、そと一円を見はるかすことができたけれど、それにしても剣怪左膳、どうしてこうおとなしく、絹雨にけぶるけしきなどを、いつまでも見惚れているのであろう。
彼らしくもない。
……といえばいえるものの、じつは左膳、これでも胸中には、例によって烈々たる闘志を燃やし、今やこころしずかに、捲土重来、いかにもして栄三郎の坤竜を奪取すべき方策を思いめぐらしているところなのだ。
ながい痩身、独眼刀痕の顔。
空の右袖をブラブラさせて、左しかない片手に柱をなで立つと、雨に濡れた風がサッと吹きこんできて、裾の女ものの下着をなぶる。
鋭い隻眼が雨中の戸外に走っているうちに、しだいに左膳の頬は皮肉自嘲の笑みにくずれて来て、突然かれは、いななく悍馬のごとくふり仰いで哄笑した。
「あっはははッは! 土生仙之助は殺られたし、月輪も、先夜は岡崎藤堂ら数士を失い、残るところは軍之助殿、各務氏、山東、轟の四人のみか――ナアニ、武者人形の虫ぼしじゃアあるめえし、頭かずの多いばかりが能じゃねえ。しかし、源の字は当てにならず、おれとともにたった五名の同勢か。ウム! それもかえっておもしろかろう! おれにはコレ、まだ乾雲という大の味方があるからな……」
ひとり述懐を洩らしつつ左膳、みずからを励ますもののごとく、タッ! と陣太刀赤銅の柄をたたいたとき、
「チェッ! よくあきずに降りゃアがる!」母屋から傘もなしに、はんてんをスッポリかぶって、ころがるようにとびこんで来たのは、ひさしぶりにつづみの与吉だ。
降りこめられて、しょうことなしに離室いっぱいに雑魚寝している月輪の残党四人をのぞきながら、
「ヒャッ! 河岸にまぐろが着いたところですね」
と相変わらず、江戸ぶりに口の多い与の公、はじめて気がついたように左膳に挨拶して、
「お! 殿様、そこにおいででしたか、注進注進」
「なんだ?」
「なんだ、は心細い! いやに落ち着いていらっしゃいますね……ハテどうかなさいましたか。お顔のいろがよくないようですが――」
「何をいやアがる!」左膳は相手にしない。「てめえもあんまり面の色のいいほうじゃアあるめえ。儲けばなしもないと見えるな」
「ところが殿様! 丹下の殿様! ヘヘヘヘヘ、ちょいと……」
「何?」
「ちょいとお耳を拝借」
苦笑とともに左膳、腰をかがめて与吉の口に暫時、耳をつけていたが、やがて何ごとか与吉のことばが終わると、ニッと白い歯を見せてほくそえんだのだった。
「そりゃア与の公、てめえ、ほんとうだろうナ」
「冗談じゃアない。何しにうそをいうもんですか」
与の公はいきおいこんだ。
「ほんと、ほんと、あのお艶……、母屋の殿様がゾッコンうちこんでいなさる女っこが、深川で芸者に出ているてエこたあ、誰がなんといおうと、お天道さまとこの与吉が見とおしなんで――へえ、正真正銘ほんとのはなしでございます」
「そうか」
と一言、左膳はなぜかニヤリと笑ったが、
「ふうむ。そりゃアまあそうかも知れねえが、なんだって手前は、そいつを肝心の源十郎へ持っていかねえで、そうやっておれに報らせるんだ? お艶のいどころなんぞ買わせようたって、おれア一文も払やしねえぞ」
「殿様ッ! 失礼ながら駒形の与吉を見損いましたネ。こんなことを、筋の違うあんたんとこへ持ちこんで、それでいくらかにしようなんて、そんなケチな料簡の与吉じゃアございません」
「大きく出たな」
「しかし、ですね。鈴川様はいまピイピイ火の車……」
「いつものことではないか」
「それが殊にひどいんで、とても知らせてやったところで一文にもなりませんから、そこでこちら様へただちに申しあげるんでございますが、ねえ丹下様、この女の所在ととっかえっこに、ひとつ鈴川さまに働かせてみちゃアどうでございます」
「ハハハハ、罪だな」
「なあに、罪なことがあるもんですか。こないだの晩だって、先にいっしょに瓦町へ物見に行ったときなんざア、ポウッと気が抜けたように、お艶のことばかり口走って歩いていたくらいですから、そのお艶の居場所がわかった、ついては、なんとかして栄三郎から刀を奪ってくれば、すぐにもそこを教えよう――こういってやりゃア、今はお艶のことでフヤフヤになっていますが、あれでも鈴川様は去水流の名人ですから、お艶ほしさの一念からきっと栄三郎を手がけて坤竜をせしめて参りますよ。あっしアこいつア案外うまくいくことと思いますが、丹下様、いかがで?」
「ウム、そうだな、折角の援軍もいまは四人に減って、おまけに栄三郎には泰軒、そこへもってきて五梃駕籠のほかに、かの手裏剣づかいの人猿も現れ、おれ達にとっては多難なときだ。こりゃア一番、てめえのいうとおり、お艶を囮りに、源十をそそのかして、コッソリ瓦町へ放してやるとしようか」
はなれの縁で左膳と与吉が額部をよせて、こうヒソヒソささやきあっている時に!
折りも折り。
庭をへだてた化物屋敷のおもや鈴川源十郎の居間では。
ぴったりと障子を閉めきって、あるじの源十郎とひとりの年増女が、これも何やら声を忍ばせて、しきりに話しこんでいる最中。
年増……とは誰?
と見れば。
めずらしくも、櫛まきお藤である。
「だからさ、お殿様、じれッたいねえ。何もクサクサ考えることはないじゃありませんか」
今までどこにもぐっていたのか、眼についてやつれて、そのかわり、散りかねる夕ざくらの凄美を増した櫛まきの姐御、ぽっと頬のあからんでいるのに気がつけば、ふたりのあいだにのみ干された茶碗酒がふたつ。
じまんの洗い髪――つげの横ぐし。
大きな眼を据え顔を傾けて、早口の伝法肌、膝をくずした姿も色めき、男を男と思わぬところ、例によって姐御一流の鉄火な調子……。
「そりゃアあたしもネ、なんて頼み甲斐のないお人だろうと、いまから思えば冷汗ものですけど、一時は殿様をお恨み申したこともありますのさ。でもね、すぎたことはすぎたこと。さらりと水に流してしまえば、そこは江戸ッ子同士のわかりも早く、ホホホ、こうしてあつかましく遊びにまいりましたよ」
「よく来た」
ぽつりいって、源十は冷酒を[#「冷酒を」は底本では「冷酒を」]満たしてやる。
だるい静けさ。
さっき源十郎がひとりで、先日手切れの五十両を持って出ていったきり今に帰らないおさよのことを、さまざまに思いめぐらして憤怒をおさえているところへ、チョロチョロと裏庭づたい、案内も乞わずに水ぐちからあがりこんで来たのが、この絶えてひさしい櫛まきお藤であったから、うらまれる覚えのある源十郎、すくなからず不気味に思いながらも、あんまり嫌な顔もできず、あり合わせの酒をすすめながら相手になっていると。
お藤はすぐ、おのが恋仇敵ともいうべき左膳の思い女弥生のことを、われから話題に持ち出したのだった。
弥生のその後――それをお藤は源十郎に語る。
そして……。
お藤は、こういうのだった。
弥生がいま、男装して小野塚伊織と名乗り、青山長者ヶ丸なる子恋の森の片ほとり、火事装束五人組の隠れ家にひそんでいることを、たしかにさる筋よりつきとめた――と。
お藤がここにいうさる確かな筋とは?
それは、ほかでもない。
彼女じしんのうちにいつしか発達した探索の技能によって、最近じぶんで嗅ぎ出しただけのことである。みずからつけまわして探り当てたのだから、なるほどこれ以上確かな筋もあるまいが……。
いったいこのお藤。
ながらく岡っ引その他の御用の者をむこうにまわして昼夜逃げ隠れているうちに、対抗の必要上、いつのまにか駈け出しの岡っ引なんか足もとへも寄れないほどに眼がきき出して、ことに人の行方なぞたいがいの場合、お藤姐御の智恵さえ借りれば、即座にかたのつくことが多かった。
こんどもその伝。
かの第六天篠塚稲荷の地洞に左膳とともに一夜を明かしたのち左膳はそのまま、お藤の盗って来た坤竜を引っつかんで、まんじ巴の降雪のなかを飛び出して行ったきり、ふたたび、稲荷の地室に待つお藤のもとへは帰らなかった――でひとり残されて待ちぼうけを食ったお藤、それからはそのやしろの縁の下に巣をかまえて、兇状もちの身は、お上の眼が光っているから、当分は外出もできず、くらいなかに寝たり起きたり、左膳を慕い世をのろって、ひそかに沈伏していたのだった。
この篠塚稲荷……むかし新田の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年法体してこの辺に住まっていたもので、別当国蔵院はその苗裔であるといわれる。
早くからこの古社に眼をつけたのがくしまき。彼女は、数年前、江戸おかまいになる先から、そっと祠内の根太をはがし根気よく地下を掘りさげて、床したの土中に、ちょっとした室を作っておいたのである。
なんのため?
いうまでもなく、万一のさいのかくれ場所だ。
事実、これがあるがためにお藤が十手の危口をのがれ得たこと何度だか知れない。彼女はつねに、捕り手が迫るがごとにどうにかしてこの稲荷のまえまでおびきよせ、そこで床下の部屋へドロンをきめこんで朱総を晦き、ほとぼりのさめるまでそこで暮らすことにしていたのだ。だから、寝具から炊事の品々、当座の食糧などすべて日ごろから補給しておいて、いつなんどき逃げこんでもしばらくは困らないだけの用意を調えていた。
現に、いつぞやの夜も、お藤はここで御用十手の円陣から消え失せて、のちには左膳をも助け出して、同じくこの穴ぐらへつれこんだのだったが、左膳が去ったあと――。
暗中にひとりいてお藤のかんがえたことは。
さすがに来し方ゆく末のことども。
なかでも、むこうでは嫌っていても、左膳が思っているので、じぶんにとってはやはり恋路の邪魔である弥生のこと……それがお藤のこころを悩まして去らなかった。そういえば、いつか雨の晩に、番町から瓦町へつれ出してから、あの娘はいったいどうしているのだろう?
何ごとも、思いついてはいてもたってもいられないお藤である。
翌日から穴を出て、爾来、彼女一流の探りの手腕をもって江戸中を櫛の歯のごとく当たって歩いていると!
目黒の行人坂。
寛永のころ、湯殿山の行者が大日如来の堂を建立した大円寺の縁日で、ふとおもかげの似た若侍とゆきずり、そこは、こんなことには特に頭の働くお藤なので、おや! 似ているぞ! と看てとると同時に、あとをつけて、いよいよ弥生が、男装して小野塚伊織を名乗り、そのひそんでいる家まで突きとめたのだった。
それをお藤は、いま源十郎へしらせているのだ。
「その儀は、おれより左膳へ、じかに教えてやったらよいではないか」
苦笑を浮かべて源十郎がいう。
お藤はせせらわらった。
「どこの世界に、自分の恋がたきの居どこを、わざわざ知らせてやるやつがあるもんですか。あたしゃ、それよりも左膳様が憎らしいんですよ。エエ、憎くて憎くてしょうがありません。だから殿様、丹下様があなたといっしょにお艶さんの行方を探すなら弥生さんのいるところを教えてやろうとおっしゃりさえすれば、弥生さんに首ッたけのあの人のことですもの、きっと眼のいろを変えてお艶さんをたずねまわるに相違ありませんよ。おもしろい芝居。ホホホホ、ねえ殿様、いかがでございます」
鈴川源十郎、黙って煙草を輪に吹いている。
お藤のはらでは。
左膳へ人づてに弥生の住所を知らせてやれば、かれはすぐさま、とるものもとりあえず子恋の森へ駈けつけるに違いない。そうすれば先には、五人組をはじめ豆太郎というお化け野郎までそろっていることだから、きっと左膳は窮地におちいって、ひょっとすると乾雲はおろか、生命までも失うようなことになるかも知れない――それがいまの自分としては、あくまでもこの恋をしりぞける左膳に対して何よりの、そして唯一の報復であると、お藤は固く思いこんでいるのだ。
で、躍起となって、源十郎にすすめている。
「あたしも、あんな隻眼隻腕のお国者に馬鹿にされどおしで、このまますっこんじゃいられませんや。こうして丹下様をひどいめにあわして仇敵さえとってしまえば、あたしもやばい身体ですからしばらく江戸の足を抜いて、どこか遠くへ長いわらじをはくつもりでおりますのさ。まあ、これが櫛まきお藤のお名残り狂言でございますよ」
源十郎も、しだいに乗り気になって、
「それで、お艶を探し出す助力と交換に、弥生の居所を知らせてやろうともちかけるのだナ」
「ええ。そうでございます。殿様だってお艶さんのいどころは気になっておいででしょう?」
「ウム。そりゃアまあそういったようなものだが――」
「だから、でございますよ、弥生さんの所在ととりかえっこに、ひとつ丹下様に働かせてみちゃアどうでございます?」
「ハハハ、罪だな、しかし」
「なに、罪なことがあるもんですか。そうして殿様はお艶さんを捜し出させ、左膳さまには青山の家をしらせてやってそこへあの人が飛びこんでゆけば、ね! ホホホホ飛んで火に入るなんとやら、あとはあたしの思う壺でございますよ」
「いやどうもお藤、貴様はなかなかの策士だな。かなわん。では、そういうことにしてやってみようか」
「ぜひ殿様、そうしてごらんなさいましよ……ときに、おさよさんは?」
「なに、さよか。ア、ちょっとそこらへ買い物にでも参ったのであろう」
と、軽くごまかした源十郎、善はいそげとばかりにさっそく左膳へぶつかってみるつもりで、ソッとお藤を帰し、そのまま離庵のほうへ庭を横ぎってゆくと、
「イヨウ! 源的、そこにいたのか。話があって参った」
むこうから左膳の声。
いいところで――と、思わずふたりがニッコリする。
「左膳!」
「なんだ?」
「拙者も貴公に話があって参った」
「まさか店立てではあるまいな」
「大きに違う。貴公の女弥生のいどころが知れたのだ」
「ほう! それは耳よりな! しかし源の字! そういえば、貴様の女の、お艶のいどころも知れたぞ」
「ナニ! お艶の居場所? それを貴公は知っているのか、どこだ? どこだ?」
「待、待て! そうあわてくさるな。それより、弥生はどこにいるのだ? それをいえ!」
「オッと! そう安直に種をわってどうなるものか。貴公から先にはきだすがよい!」
「何をうまいことを? 資本のかかっておる仕入れだ。そうそう安くはおろさんぞ」
「はははは、こうやっていたのでは限りがないよ。いっしょに明かしあうことにしようではないか」
「きょうは嫌に女の所在の知れる日だて――そこできくが、弥生はどこにいる?」
「お艶の住いはどこだ?」
「チッ! そんなら、おれから先にいおう! お艶はいま、ふかがわのまつ川という家から、夢八と名乗って、芸者に出ておる」
「フウム! まつ川の夢八……」
うめいたまま源十郎、ふらふらとして庭外へ出ていきそうにするから、あわてたのは左膳だ。
「おいおい源公! てめえ、じぶんの聞く分だけ聞いておれのほうはどうした? 弥生様はいってえどこにいなさるんだ?」
「オオ、そうだったナ」振り向いた源十郎、「青山長者ヶ丸、子恋の森の片ほとりの一軒家」
夢中の人のごとくつぶやくのを聞くより早く、
「なあに、青山?」
左膳、それこそおっとり刀のいきおいで、それなりブウンと化物屋敷を駈け出した。と見るより、源十郎も速力を早める。
一は深川へ。
他は青山へ。
同時に走り出した源十郎と左膳。
だが、この会話とようすを、最初から庭のしげみに隠れて、立ち聞いていた大小ふたつの人かげがあった。
それが、いつもこのごろ、絶えず当家にはりこんでいる弥生と豆太郎……であろうとは?
「いやいや! 貴様がなんと申そうと、お艶、ではない、夢八が当家におるということは、拙者、しかと突きとめて参ったのだ。じゃませずと部屋へ通せ」
源十郎、やぐら下まつ川の上がり口に立ちはだかって、うすあばた面の顔をまっかに、こうどなり立てている。
よほど逆上しているものらしく、この色街にあって不粋もはなはだしいことは、源十郎が今にも抜かんず勢いで、刀の柄に手をかけているのだが、応対に出たまつ川の主人はいっこうに動じない。
「エ、なんでございますか、手前どもにはとんと合点が参りませんでございます。へえ、しかし、夢八……というのはどうやら聞いたことのあるような名、いや、この辺やぐら下界隈には、御案内のとおり、置屋もたくさんあることにござりますれば、どうぞほかの家をお探しなすってくださいまし」
ばか丁寧に、主人はこういって、しきりにテカテカ光る額を敷居にこすりつけているのだが、たしかにやぐら下のまつ川にお艶がいると聞いてきた源十郎、いっかなひきさがる道理がない。
お艶の夢八、もちろんこの家にいるには決まっているが、八丁堀まがいの、あんまり相のよくない侍がのりこんできて強面の談判なので、おやじはこう白をきりとおしているのだ。
いる、いない――の押し問答。
場所がら、いかついおさむらいが威猛高に肩をはり、声を荒らげているのだから、日中用のない近所の女や男衆それに通行の者も加わって、はやまつ川の戸口には人の山をきずいている。
源十郎はいらだった。本所からここまで急ぎに急いで駈けつけたのに、そういう女はおりません。ハイそうですか、さようなら……では彼もひきとるわけにはゆかなかった。
そこで!
「黙れッ! おらんというはずがないッ。拙者はどこまでも押しあがって家さがしをするからそう思え!」
いうが早いか源十郎、片手なぐりにおやじを払いのけておいて、ドンドンまつ川の家の中へ踏みこんでみると!
ちょうど突当りの小廊下に、チラとのぞいた女の影!
「お! お艶ッ、待てッ」
「あれッ!」
同時に両方が声をあげた。その声音は源十郎が夢にうつつに耳に聞くお艶の調子!――だから源十郎、勇士が敵陣へでも進むかっこうで、パタパタと廊下を鳴らして奥へ走った。
と!
すでにそこにはお艶の姿はなく、この狂気めいた武士の闖入に、家の内外に人の立ちさわぐのが、聞こえるばかり……ポカンとした源十郎が、血走った眼でそこらを見まわす!
すぐ前に、桟のほそい障子を閉てきった小部屋がひとつ、何かをのんでいるように妙にシンと静まり返っている。
「此室だナ! うむ、お艶め、これへ逃げこんでひそんでおるに相違ない」
われとうなずくと同時に、源十郎はフト障子に手をかけてサッとひらいた。
「ワッはっはっは」
この、とてつもなく大きな笑い声が、まず源十郎をうった最初のおどろきだった。
何者?……眼を凝らして見る――までもなく。
部屋の中央に、むこう向きに大胡坐をかいて大盃をあおっているぼろ袷に総髪の乞食先生……。
意外も意外! 蒲生泰軒だ!
「やッ! 貴様はッ?」
思わずたじたじとなる源十郎へ、ゆったりと振り返って投げつけた泰軒の言葉は、いつになく強い憎悪と叱咤に燃えたっていた。
「たわけめッ! いささかなりと自らを恥じる心あらば、鈴川源十郎、サ! そこに正座して腹を切れイッ!」
「ウウム……」
うめいた時に源十郎は、腹を切るつもりかどうか、とにかくパッ! と腰間の秋水、もう鞘を走り出ていた。
泰軒はすわったまま、ジイッ!――源十郎をにらみあげている。
ふしぎ!
どうしてこのお艶の部屋に、泰軒先生が来あわせていたのか……といえば!
水の音がするので、ふと気のついた左膳は、小走りの足をとめて谷間へおりると、清冽なせせらぎにかわいた咽喉を湿おした。
弥生のいどころが知れて本所の化物屋敷からここまで息せききって急いで来た左膳である。
もうあの、向うにこんもりと見える繁みが弥生のいるという子恋の森であろう……と水を飲みおわった左膳、腰の乾雲丸を左手に揺りあげて、再び土手に帰って歩を早める。
このへん一体、鬱蒼たる樹立のつづき。
笄橋。
ここ青山長者ヶ丸の谷あいの小溝にかかっている橋で、国府の谷橋の転じたものであろうといわれているが――左膳がこの笄橋にさしかかった時だった。
フッと行く手に人影がさしたかと思うと白く乾いた土が埃をあげている小径のさきに、片側から、まず太刀の柄がしらが影をおとしてハッと左膳が立ちすくむまに続いて浪人髷上半、それから徐々にさむらい姿が、黒く路上に浮き出されて、同時に静かな声とともに行く手に立ちふさがったのを見れば……!
坤竜丸――諏訪栄三郎!
「待っておったぞ。左膳!」
「ヤッ! 坤竜か、うむ、栄三郎だな――ひとりかッ」
いいながら左膳、グイと片手に乾雲の柄をつき出して目釘をなめつつ、あわただしくあたりを見まわした。
シーンとして深山のよう。
ホウホケキョー、どこか近くの木で鶯が鳴いている。
栄三郎はほほえんで、
「もとより拙者ひとり。貴公の来らるるを知って栄三郎、坤竜とともにここにお待ちうけ申しておったのだ。幸いあたりに人はなし、果たし合いにはもってこいの森でござる。今までたびたび刃を合わせても、じゃまや助太刀が入って、貴公と、拙者、心ゆくまで斬りむすんだおぼえはござらぬ。またとない機会、いざ御用意を!」
残忍な笑みが左膳の頬に浮かぶと彼はガラリと調子が変わった。左膳が、この江戸の遊び人ふうの言葉になる時、それは彼が満身の剣気に呼びさまされて、血の香に餓え、もっとも危険な人間となりつつあることを示すのだ。
声が、薄い口びるの角から押し出された。
「俺のいいてえことをいっていやアがらあ。ハハハハ、何やかやと今まで延び延びになっておったが俺と手前は、夜泣きの刀を一つにするために、どっちか一人は死ななきゃアならねえんだ。なら栄三郎、去年の秋、俺が根岸曙の里の道場を破ったとき、俺とてめえは当然立ち会うべくして立ち会わなかった。今日は竹刀の代りに真剣だが、あの日の仕合いのつづきと思って、存分に打ちこんで参れッ!」
いよいよ栄三郎ひとりと見きわめた左膳は、真剣よりも、本当に仕合いにのぞんでいる気で、こうネチネチといいながら、じっと独眼をこらして栄三郎の顔に注いだが、あたまは、鈴川源十郎に対する火のような憤怒にもえたっていた。
さては、謀られたな!
と左膳、歯ぎしりをかんで思うのだった。
かの源十郎、いつのまにやら栄三郎に与して、自分をここまでおびき出したに相違ない。
とすれば!
栄三郎のほかに多数の伏勢が待ち構えているはずだと、左膳は一眼を光らせて、再び樹間、起伏する草の上を眺めまわしたが、やはり凝りかたまったような真昼の森のしじまには、笄橋の下を行く水の流れが音するばかり……何度見ても人の気配はない。
血戦ここに、思うさま開かれようとしている。
対立する諏訪栄三郎と丹下左膳。
いいかえれば水火の秘文を宿す乾雲坤竜の双剣。
一は神変夢想流。
他は北州の豪派月輪一刀流より出でて、左腕よく万化の働きを示し、自ら別称を誇号する丹下流。
しずかな開始だった。
スウ――ッ! と左膳が、単腕に乾雲丸を引き抜いて、正規の青眼につけると、栄三郎の手にも愛刀武蔵太郎安国が寂と光って、同じくこれも神変夢想、四通八達に機発する平青眼……。
あいしたう二刀が近々と寄って、いずれがいずれをひきつけるか――これが最後の決戦と見えたが!
ふしぎ!
どうしてこの左膳の道に、諏訪栄三郎が刀意を擁して待ちかまえていたのか……といえば?
先刻……。
浅草瓦町の露地の奥、諏訪栄三郎の家に、ちょうど栄三郎と食客の泰軒とがいあわせているところへ表の戸口にあたってチラと猿のような、子供のような人影が動いたと思うと、音もなく一通の書状が投げこまれていったのだった。
なんだろう?――と栄三郎が拾って来て二人で開いて見ると、栄三郎には覚えのある弥生どのの筆跡。
よほど急いで認めたものらしく一枚の懐紙に矢立ての墨跡がかすれ走って、字もやさしい候かしくの文……。
というと、いかにも色めいてひびくが、顔を寄せて読んでいるうちに、泰軒と栄三郎、思わずこれはッ! と声を立てて互いに眼を見合ったのだった。
候かしくの女手紙はいいが、内容は艶っぽいどころか、いかにも闘志満々たるもので、鈴川源十郎がお艶の居所を知って、やぐら下のまつ川へ向かい、同時に左膳は弥生の隠れ家を探り出し、青山長者ヶ丸の子恋の森をさして、いま出かけていったところだと。
右の趣、取り急ぎ御両人様へお知らせ申し上げ候かしく……とのみで、名前は書いてないが、それが、その後行方の知れない弥生さまの筆であることは、栄三郎にはひと眼でわかった。
この手紙は。
このごろ毎日のように豆太郎をつれて、本所の化物屋敷を見張っている小野塚伊織の弥生、きょうもさっき、源十郎方の荒れ庭にひそんで、なんということなしにようすをうかがっていたところへ、母屋と離れから同時に出て来てちょうど弥生と豆太郎の隠れている鼻先で落ちあった源十郎と左膳が、互いに掛引きののち、ついにめいめいの女の居場所をあかしあうのを聞いたので、急ぎ両人が出て行くのを待ち、弥生はさっそく筆を取ってこの一状を認め、それを豆太郎に持たせて、すぐさま瓦町へ走らせて投げこませるとともに、自らはただちに青山の家をさして引っ返したのだった。
そして瓦町では。
鈴川源十郎が、いまやお艶を襲い、丹下左膳は弥生のもとへ出向きつつある……と知って、ひさしく謎となっていた弥生の居場所もわかったので、無言のうちにうなずきあいつつ[#「うなずきあいつつ」は底本では「うなづきあいつつ」]、スックと立ちあがった泰軒栄三郎、いわず語らずのうちに手順と受持ちはきまった。
栄三郎にしてみれば、この際正直に気になるのは、いうまでもなくお艶のほうであったが、そこはことのいきがかり上、泰軒にまかせ、泰軒はまた眼顔でそれを引きうけて、彼はただちに深川の松川へ駈けつけてお艶を救うことになり、義によって栄三郎は、時を移さず青山長者ヶ丸へでばって途中に左膳を待ち伏せ、乾坤一擲の勝負をすることとなったのだった。
こうしていち早く瓦町の露地を走り出た両人。
――だから源十郎がまつ川へ乗りこむさきにすでに泰軒の先ぶれによって、お艶は気のつかない夜具部屋へかくされ、その代りお艶の部屋に、泰軒居士がドッカとあぐらをかいて、のんきそうに茶碗酒をあおっていたわけ。
たしかにここにお艶が?――と気負いこんで力まかせに障子を引きあけた源十郎、そこに、思いきや一番の苦手、蒲生泰軒がとぐろを巻いているこのありさまに、ハッとすると同時、居合の名人だけに自分の気のつく先に、もうとっさに刀を抜いていた。
が!
源十郎心中に思えらく……。
さては、はかられたな!
かの左膳、いつのまにやら泰軒、栄三郎と腹をあわせて、自分にかかる不利な立場を与えたに相違ない。
妙なことがあるものだと源十郎はいぶかしく感じながら、目下はそんなことは第二、まずここのかたをつけなければと、できるだけ薄気味悪くほほえみながら、源十郎が手の氷刃をかすかに振りたてて見せると、眼の前の泰軒先生の鬚面が、急に赤い大きな口をあいて、またもや、
「ワッハッハ……」
無遠慮に笑い出したのでカッとした源十郎。
「此奴、たびたび要らんところに現れる癖がある。以後そのようなことのないように、ここでこの世から吹ッ消してしまうからそう思え!」
と、へんにだらしのない科白とともに、ひっこみのつかない彼が、思いきって打ちこんでいこうとすると!
戸外にあたって、
「火事だア! 火事だア!」
まつ川の男衆をはじめ、近所の人々の立ちさわぐ声。
斬りこむと見せて、たちまち身をひるがえして源十郎は、そのままヒラリ庭に飛びおりて、白刃をふりかざして危うく血路をひらくと、ほうほうのていで人ごみのなかをスッとんで行く。
あとには、腹を抱えて笑う泰軒先生の大声が、また一段高々とひびいていた。
笄橋の袂。
春の陽が木の間をとおして、何か高貴な敷物のような、黒と黄のまだらを織り出しているところに。
助太刀や、とめだてはおろか、誰ひとり見る者もなく、栄三郎と左膳、各剣技の奥義を示して、ここを先途と斬りむすんでいるのだった。
刃とやいば――とよりも、むしろそれは、気と気、心と心の張りあい、そして、搏撃であった。
壮観!
早くも夏の匂いのする風が、森をとおしてどこからともなく吹き渡るごとに、立ち会う二人の着物の裾がヒラヒラとなびいて、例の左膳の女物の肌着が草の葉をなでる。
ムッとする土と植物の香。
ひと雨ほしいこのごろの陽気では、ただじっとしていても汗ばむことの多いのに、ここに雌雄を決しようとする両士、渾心の力を刀鋒にこめての気合いだから、いとも容易に動発しないとはいえ、流汗淋漓、栄三郎の素袷の背には、もはや丸く汗のひろがりがにじみ出ている。
チチチ……とまるで生きもののように、二つの刀の先が五、六寸の間隔をおいて、かすかにふるえているのだが、どちらかの刀が少しく出て、チャリーと[#「チャリーと」は底本では「チャリー と」]小さな、けれども鋭いはがねの音を発するが早いか、双方ともに何ものかに驚いたかのごとく、パッと左右に飛びはなれて静止する。
それからジリジリと小きざみに両士相寄ってゆくのだが、再び鋩子先がふれたかと思うと、またもや同時に飛びすさって身を構える……同じことを繰り返して、春日遅々、外見はまことに長閑なようだが命のやりとりをしている左膳、栄三郎の身になれば、のどかどころか、全身これ神経と化し去っているのだ。
そのうちに!
独眼にすごみを加えていらだって来た丹下左膳、無法の法こそ彼の身上だ、突如! 左腕の乾雲をスウッ――ピタリ、おのが左側にひきおろして茫ッと立った。泰軒先生得意の自源流水月の構えに似ている……と見えたのはつかのま!
「うぬ! てめえなんかに暇をつぶしちゃいられねえや。もう飴を食わせずに斬ッ伏せるから覚悟しやがれッ!」
声とともに殺気みなぎった左膳、身を斜めにおどらせて右から左へ逆に横一文字、乾雲あわや栄三郎の血を喫したか? と思う瞬間、白蛇長閃してよく乾雲をたたきかえした新刀の剛武蔵太郎安国、流された左膳が、ツツツツ――ウッ! 思わずたたら足、土煙をあげて前のめりに泳いで来るところを!
すかさず栄三郎。
払った刀を持ちなおすまもあらばこそ、数歩急進すると同時に、捨て身の拝み撃ち、すぐに一刀をひっかついで、
「…………」
無言、一気にわってさげようとした――が!
余人なら知らぬこと、月輪にあっても荒殺剣の第一人者として先代月輪軍之助に邪道視され、それがかえって国主大膳亮のめがねにかない、一徒士の身をもって直接秘命を帯び、こうして江戸に出て来たのち、幾多の修羅場をはじめ逆袈裟がけの辻斬りによって、からだがなまぐさくなるほど人血を浴びて来た左膳のことだ。いかに栄三郎、神変夢想の万化剣をもつといえども、いまだ白昼の一騎勝負に左膳をたおすことはできなかった。
と見えて。
サッ! と電落した武蔵太郎の刃先にかかり、折りからの風に乗ってへんぽんと左膳の足をはなれたのは、着物とそうして、女物の肌着の裾だけ……。
「むちゃをやるぜオイ!」
いつしか飛びのいて立ち木に寄った左膳が、こう白い歯を見せて洒々然と笑ったとき!
ヒュウッ!
どこからとも知れず、宙にうなって飛来したのは、いわずもがな、人猿山椒の豆太郎投ずるところの本朝の覇、手裏剣の小柄!
「こりゃアいけねえ……南無三」
左膳のうめきが、海底のような子恋の森の空気をゆるがせて響き渡った。
飛びきたった豆太郎の短剣は、危うく左膳の首をよけて、ブスッと音してその寄りかかっている木の幹につき立っただけだったが、場合が場合、左膳の驚きは大きかったのであろう。彼はとっさに一、二間とびのくと同時に、ピタリ乾雲を正面に構えながら、一方栄三郎を牽制しつつ、大声に呼ばわった。
「出てこいッ、卑怯者めッ! 声はすれども姿は見えず……チッ! ほととぎすじゃあるめえし、出て来て挨拶をするがいいや」
が、この左膳の大喝に答えたのは、森をぬけてかえって来る山彦ばかり、あたりは依然として静寂をきわめている。
どこを見ても手裏剣のぬしの姿はないのだ。それも道理。
丹下左膳がこの青山の弥生の住所を知ってかけ出したと見るや、弥生は一筆走らせて豆太郎を使いに瓦町へしらせると同時に、自らも道を急いで青山へ引っかえし、森の一隅で瓦町へ寄って来る豆太郎を待ち二人で左膳を待ち伏せるつもりだった……にもかかわらず、左膳のほうが先に来たばかりに、こうして栄三郎と斬りむすんでいる最中へ、おくればせながら弥生と豆太郎が現場近くかけつけたわけで、今もそこら近くの草のあいだに、この両人が身をひそめているに相違なかった。
と気がつくや!
左膳は栄三郎を飛来剣から庇護するがごとく見せかけ、同瞬、左腕の乾雲をひらめかし、続いて飛びきたるであろう二の剣三の剣に備えながら、ニヤリ! 苦笑とともにそっとあとずさりをはじめたかと思うと、予期した剣がつづいて来ないのに刹那安心した左膳。
「諏訪氏、またくだらねえじゃまがはいったようだ。近いうちに再会いたし、その節こそは左膳、りっぱにお腰の一刀を申し受けるつもりだから、今からしかと約束いたしておこう」
いうや否、左膳はゆっくりと身をめぐらして、突如森の奥へ駈け出しそうにするから、闘気に燃えたっている栄三郎は、あわてて身を挺して追いかけようとしたとき、眼前の笹藪がざわめいて、兎のように躍り出たのは、帯のまわりに裸の短剣をズラリとさしまわした亀背の一寸法師!
これが弥生に使われる山椒の豆太郎であろうとは、栄三郎はもとより知るよしもないから、ハッとして立ちすくんだ刹那、その怪物のうしろに、もう一人立ち現れた覆面の人影、美しい若侍とみえて澄んだ眼が二つ、顔の黒布のあいだからジッと栄三郎を見つめたまま、しきりに手を上げて、栄三郎に停止の意味を示している。
弥生!――とは夢にも知らない栄三郎、この、人猿めいた怪物と、その飼主らしい撫肩の若侍とを斬りまくってゆくくらいのことは、さして難事でもないように感じられたが、そのまに、片うでを空にうちふりつつ見る見る森の下を駈けぬけてゆく左膳のすがたが、だんだん遠ざかりつつあるのを知ると、栄三郎も追跡を断念してあらためて眼のまえの小男と、そのうしろに立っている若侍とを見なおした。
灌木と草とに、ほとんど全身を埋めて、大きな顔をニヤつかせている小男!
なんという奇怪な! こんな奇妙な人間は見たことがないと……思うとたんに、栄三郎は、一瞬悪寒が背筋を走るのをおぼえて、こんどは、この男の主人らしい若侍へ目を移した。
やせぎすの小男……黒のふくめんをしているので、その面立ちは見きわめるよしもないが、切れ長のうつくしい目がやきつくように栄三郎のおもてに射られて、それが、単に気のせいか、なみだにうるんでいるごとく栄三郎には思われるのだ。
栄三郎はキッとなった。
「助剣のおつもりかは知らぬが、いらぬことをなされたものでござる……」
すると、
「エヘヘヘ」
笑い出した男をつと片手に制して、若侍は無言のままきびすを返して、森の奥へはいろうとする。
その、回転の動作に、なんとなく栄三郎の記憶を呼びおこすものがあった。
「お!」栄三郎はあえいだ。
「や、弥生どの――ではござりませぬかッ!」
が、弥生は返事はおろか、見かえりもしないで、豆太郎をうながし、森の中のむらさき色へ消えようとしている。
「弥生どのッ! オオそうだッ、弥生どのだッ!」
という栄三郎の声に、弥生が逃げるように足を早めると、ならんで歩いている豆太郎が、横から顔を振りあおいだ。
「弥生の伊織さんか……ヘッヘッヘ、本名弥生さんてンですね、あんたは」
刹那、またしても、
「弥生どの、お待ちくだされ――!」
栄三郎の声が、あわただしく追ってくる。
その日のそぼそぼ暮れであった。
江戸の夕ぐれはむらさきに、悩ましい晩春の夜のおとずれを報じている。
陽の入りがおそくなった。
空高く西の雲に残光が朱ににじんで鳶に追われる鳥のむれであろう、ごまを撒いたように点々として飛びかわしていた。
そして。
地には、水いろの宵風がほのかに立ちそめようとするころ。
本所法恩寺まえの化物屋敷、鈴川源十郎の離庵に、ひとりは座敷にすわり、他は縁に腰かけて、ふたりの人影が何かしきりに話しあっている。
やぐら下のまつ川を泰軒の手から逃げ出して来た源十郎と――。
青山長者ヶ丸子恋の森で、栄三郎の斬先と豆太郎の飛来剣をあやうくかわしてきた丹下左膳と。
左膳は源十郎の口から弥生の居場所を聞き、源十郎は、また左膳によって、お艶がいることとのみ思いこんでまつ川へのりこんだのだから、たがいに言い分はあるはず。
「おい源十!」
左膳はもう喧嘩ごしだ。
「てめえッてやつはなんて友達がいのねえ野郎だ! 汝アおれに出放題をぬかしておびき出し、子恋の森であの人猿めに一本投げさせて命を奪る算段だったに相違ねえ。が、そうは問屋がおろさねえや。源的! こうしてピンピンしていらっしゃる左膳さまのめえに、手前、よくイケしゃあしゃあとそのあばたづらをさらせるな。たった今この乾雲の錆にしてくれるから、待ったはきかねえぞッ!」
縁にかけている源十郎は、鯉口を切った大刀を側近く引きつけてつめたく笑った。
「まあ考えても見ろ。貴様のいうことを真に受けて、テッキリお艶が隠れているものと信じ、おっとり刀で障子をあけたところが、かの、泰軒とか申す乞食がふんぞり返っておるではないか。仕方がないで、一刀をぬいて暴れぬいて逃げて参ったのだが、源十郎この年歳になるまで、きょうほど業さらしな目にあったことはない。恨みは、こっちからこそいうべき筋だ。左膳、いったい貴様は、お艶が夢八とか名乗って、やぐら下のまつ川から羽織に出ておるということを誰に聞いたのだ!」
「ウウム!」
左膳は、うなり出してしまった。
「てめえのほうにもそんな手違いがあったとしてみると、おれも手前に、そう強くは当たられねえわけだが……ハアテふしぎ! それより源の字、弥生が子恋の森の一軒家に住んでおると汝に話したのはだれだ!」
腕を組んだ源十郎、
「こりゃア貴公のいうとおり、われら両人がともに謀られたものにちがいあるまい。貴公と拙者、争いはいつでもできる。まずそのまえに、われらをたばかったものを突きとめ、きゃつらの心組みを糺明いたそうではないか」
「うむ」
「いわばわれら両人は同じ災厄におうたようなもの。ここはいたずらに恨みあう場合でないとぞんずる。どうじゃ!」
「それあまアそうだ。だが、源十、てめえに弥生のことを告げたのは誰だと、それをきいておるではないか」
「そうか。それならいうが、じつは突然、かの櫛まきお藤がたずねて参ってナ――」
「ナニ! お藤ッ!」
みなまで聞かずに、左膳は片手に乾雲をひっさげて突ったった。かた目が夕陽にきらめく。
「お藤かッ……チ、畜生ッ! どこにいるのだ、真ッ二つにしてくれる――」
「まア待て!」
源十郎も立ちあがった。
「もうおらん、ここにはおらん。すぐ帰っていった……しかし、貴様にお艶のいどころを深川のまつ川とふきこんだ本人はだれなのか貴公、まだそれをいわんではないか」
左膳の頬の刀痕が笑いに引っつる。
「なあに、それは与の公――例のつづみの与吉から聞いたのだ」
「与吉!」
とおうむ返しに源十郎が驚き、
「さては、お藤めの意趣がえしであったか……」
左膳が同じく歯を噛んだちょうどそのときに、ビクビクもののつづみの与吉が、全身に汗をかいて荒れ庭の地を這い、ソウッと左膳の離室を遠ざかろうとしていた。
「こりゃアいけねえ! いまみつかったら百年目、いきなりバッサリやられるにきまってる……桑原桑原!」
土をなめながら、与吉はつぶやいた。
「姐御! 姐御ッ! 大変だッ!」
というあわただしい声が、まっくらな穴ぐらの入口から飛びこんでくると、櫛まきお藤は暗い中でムックリと身を起こした。
第六天……篠塚いなりの地下、非常の場合に捕り手をまく穴に、お藤はさきごろからひとり籠もっているのだった。
「なんだい、そうぞうしいねえ」
チッ! と軽く舌打ちをしたものの、ただならぬ与吉のようすに、お藤の声も思わずうわずっていた。
お藤が、そのあぶないからだを稲荷の穴へひそめて、ながらく外部へ出ずにいても、いつも世の動きを耳へ入れておくことのできたのは、このつづみの与吉があいだに立って絶えず報知をもちこんできていたからで、誰知らぬ場所とはいえ、与の公だけはとうからこのお藤姐御が一代の智恵をしぼった隠れ家を心得ていたのだ。
今、
その与吉が、いつになくあわてふためいて駈けこんで来たのだから、さすがのお藤が胆をつぶしたのももっともで、
「なんだねえ、与のさん、ただ大変じゃアわからないじゃないか。何がどうしたッていうのさ」
こう落着きをよそおってききながらも、お藤は不安らしくジリジリしていると、天地のあかるい夕焼けの一刻から急に黒暗々の地室へ走りこんだので目が見えなくなったも同然になったつづみの与の公、腰を抜かすように、ペッタリ破れ筵にしりもちをつくなり、
「おちついてちゃアいけねえ! と、とにかく大変! く、首が飛びます首がッ!」
「ホホホホ!」お藤は笑い出した。
「そりゃア、与の公、お前らしくもない。いまに始まったことじゃアないじゃないか。お互いさま、いつ首が飛ぶか知れない身の上なんだから考えてみると、おとなしくしているだけ損なわけさね」
与吉は、ことばより先に、大きく頭上に両手を振りみだして、
「チョッ! そ、そんな……そんなのんきなんじゃアねえ! なにしろ姐御、本所の殿様と左膳さまが、あっしと姐御を重ねておいて二つにしようってんだから――」
「おや! それあおもしろい! けど嫌だよ、お前といっしょにふたつにされるなんて……不義者じゃアあるまいし」
「さ! そこだ!」
と与吉は乗り出して、
「さっきわたしが左膳さまのはなれへちょいと顔出ししようと思ってネ、ぼんやりあそこの前まで行くてえと、なんだか話し声がするじゃアございませんか」
「そのなかに、与吉、お藤てエのが聞こえたから、こりゃアあやしい、なんだろう?――こう思ってジッと聞いてみるてえと――」
「そうすると?」
「驚きましたね」
「何がサ?」
「イヤハヤ! おどろき桃の木山椒の木で、さあ!」
「うるさいねえ。なんでそう驚いたのさ」
「いえね姐御、お前さん鈴川の殿様に、弥生さんのいどころを知らせておやんなすったろう?」
「ああ。ちょいと考えがあって知らせてやったのさ。それがどうかしたのかえ?」
「そいつだ! 実ア姐御、あッしもちょっかいを出して左膳様にお艶の居場所を教えたんだが、ところがお前さん、ふたりがさっそくしらせあってすぐとめいめいの女のところへ駈け出したらしいんだが、どっちもおあいにくで、おまけに恥をかくやら命があぶなくなるやら、両方ともほうほうのていで逃げ帰ってネ、あやうく果たしあいになるところで、たがいに話の仕入れ先がわかったもんだから、それで急にこっちへ火さきが向いて来て、なんでも鈴川の殿様と左膳さまは、姐御とあッしをみつけしだい殺らしてしまうと、それはそれはたいした意気込みですぜ」
与吉のはなしの中途で立ちあがって、くらいなかに帯を締めなおしていた櫛まきのお藤が、このとき低い声で、うめくようにいったのだった。
「与の公、したくをおし! サ、長いわらじをはこうよ。だが、その前に……」
あとは耳打ち――与吉はただ、眼を見はって、つづけざまにうなずいていた。
外桜田……南町奉行大岡越前守忠相の役宅。
まだ宵のくちだった。
奥の一間に、夕食ののちのひと刻を、腰元のささげてくる茶に咽喉をうるおしつつ、何思うともなく、庭前のうす暗闇に散りかかる牡丹の花を眺めている忠相を、うら木戸の方に当たってわき起こったあわただしいののしり声が、ちょうど静かな水面に一つの石の投ぜられたように、突如として驚かしたのだった。
何ごとであろう? また、黒犬めが悪戯でもしおったのではないか――。
と、忠相が聞き耳を立てたとき、用人の伊吹大作が、ことごとく恐縮して敷居ぎわにかしこまった。
「なんじゃナ、大作」
忠相は、にこやかな顔を向けた。
「は。お耳に入りまして恐れ入りまする。実はソノ、ただいま、なんでございます、気のふれた女がひとりお裏門へさしかかりまして……」
「ほほう! 気がふれた女か?」
「御意にござります。しかもその気のふれようが大それておりまして……」
「よい、よい! 大切に介抱してつかわし、さっそくに身もとを探すがよかろう」
やさしい目が細く糸を引いて、その見知らぬ女に対する忠相の思いやりがしのばれる。
めっそうな! というふうに、大作はいそがしく言葉をつづけた。
「ところが――でござりまする。その狂いようたるや、とうていなみたいていではございませんので」
「フウム! どうなみたいていではないかナ? そちのもとへ押しかけ女房にでも参ったのか」
「これはお言葉、はははは……いえ、そのようなことなれば、わたくしにもまた覚悟がございますが、ただ君に拝顔を願っておりますしだいで――」
「なに、わしに会いたい?」
忠相は、ふしぎそうに目をしばたたいた。
「さようでござりまする」と一膝乗り出した大作、
「御前様に気のふれた女のちかづきがあろうとは、大作きょういままで夢にも……」
「ハッハッハ! ただいまの返報か――うむ、それはいかにも忠相の負けじゃ。はははは、しかし、それなる女何の故をもってわしに面接を願い出ているのかナ?」
「さあ、それは――なにしろどうも狂女の申すことでまことにとりとめがございませぬが、たって拝顔を願ってお裏門にしがみつき、どうあやして帰そうといたしましてもますます哭き叫ぶばかり、お耳に達して恐縮のいたりでございますが、一同先刻よりほとほと当惑いたしておりまする」
「して、どこの何者ともわからぬのか」
ききながら、忠相はもう立ちあがっている。
大作は、驚いて押しとどめた。
「御前! どちらへお越しでござります? よもや女のところへ……いえ、じつは、女が舞いこみましてまもなく、弟と申す若い町人が探し当てて参りまして、われわれともどもなだめてつれ戻ろうと骨を折っておりますが、女め、いっこうに動こうとはせず、暴れくるうておりまする」
とめる大作を軽く振り払って、着流しの突き袖、南町奉行の越前守忠相は、もはや気軽に庭づたいに女のとびこんで来たという裏門のほうへ足早に歩き出していた。
お中庭を抜けて背戸口。
植えこみのむこうに小者の長屋が見える。
もうすっかり夜になろうとして、灯が、あちこちの樹の間を洩れていた。
ぽつり……雨である。
さっきから、なんだか妙に生あたたかく曇っていると思ったら、とうとう降りだしたか。
――忠相が空をあおぐと、星一つない真ッ暗な一天から、また一粒の水が額部をうった。
声が聞こえる。
近い。
つと歩を早めて、忠相が裏門ぐちの広場へ出てみると……。
なるほど、これが大作のいった気のふれた女であろう。下町づくりのひとりの女が、見るも無残に取り乱して地に横臥し、何かしきりにわめいているのだ。
取り巻く中間折助のうしろからそっとのぞきみた忠相は、何を思ってか、続いてきた大作に命じて一同を立ち去らせ、あたりに人なきを待って、女と、その弟と称してかたわらに土下座する町人ていの男とのまえに、つかつかと進みよった。
「お藤! 櫛まきお藤であろう、汝は! 狂人をよそおって何を訴えに参った?」
忠相はしゃがんだ。
「お奉行様、いかにもそのお藤でございます。スッパリと泥をはいて、いっさいを申し上げますから、どうぞそのかわりに……」
「目をつぶって、江戸をおとせ――と申すか」
ジロリと、忠相の目が、そばの男へ走った。
「与吉であろう? つづみの」雨が、しげくなった。
雨と風と稲妻と……。
九刻ごろから恐ろしいあらしの夜となった。樹々のうなり、車軸を流す地水。天を割り地を裂かんばかりに、一瞬間に閃めいては消える青白光の曲折。
この時!
本所化物屋敷の離庵では。
相馬藩援剣の残党、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八の四名とともに枕を並べて眠っている剣妖丹下左膳が――夢をみていた。
五臓の疲れ――であろうか。
左膳の夢は。
静夜、野に立って空をあおいでいる左膳であった。
明るい紫紺の展がりが、円く蓋をなしてかれのうえにある。
大きな月。
星が、そのまわりをまわっていた。
と、左膳が見ているまに、星の一つがつうッと流れたかと思うとたちまち縦横にみだれ散った。
そして――。
おのれの立っているところを野と思ったのは誤りで、かれは、茫洋たる水の上に、さながら柱のごとく、足のうらを水につけて起立しているのだった。
海だろうか?
それとも、池かも知れない……。
左膳がこう考えたとき、頭上の月が、クッキリと水面にうつって、死のような冷たい光を放っているのを彼は見た。
同時に、目がさめたのである。
グッショリと寝汗をかいた左膳は、重いあたまを枕の上にめぐらして部屋じゅうを眺めた。
やぶれ行燈が、軍之助の一張羅であろう、黒木綿の紋付を羽織って、赤茶けた薄あかりが、室内の半分から下を陰惨に浮き出さしている。
そこに、月輪の四人が、思い思いの形に寝こんで、かすかな鼾声を聞かせているのは平七郎らしかった。
耳に食い入るような夜更けのひびき……音のない深夜の音、地の呼吸づかいである。
左膳は、一つしかない手で身を起こすと、そのまま腹這いになって考えこんだ。
いま見た夢である。
剣鬼左膳、夢を気にするがらでもなく、また坊間婦女子のごとくそれに通じているわけでもないが……。
当節流行の夢判断。
それによると。
月の水に映る夢は、諸事早く見切るべし。
星の飛ぶ夢は、色情の難あり。
――とある。
すべて早く見切るに限る。しかも、身に女難が迫っているというのだ。
「ウム! 容易ならんぞ、これは!」
こう冗談めかしてひとりごちながら左膳がニッとほほえんだとたんに彼はあきらかに再び、片割れ乾雲丸が啾々乎として夜泣きする声を聞いたのだった。
どこから?
といぶかしんで、左膳は、その剃刀のように長い顔を上げた。
ジジジイ……ッと、灯が油を吸う音。
乾雲は、見まわすまでもなく、まくらもとにある。
陣太刀作り、平糸まきの古刀――左膳が、独眼を据えてその剣姿を凝視していると!
やはり、声がする。
夜泣きの刀! の名にそむかないものか、訴うるがごとく哀れみを乞うがごとく、あるいは何かをかきくどくように、風雨のなかを断続して伝わってくる女の泣きごえであった。
それも、老女――に相違ない。
そして、母屋の方から!
と見当をつけた左膳のにらみははずれなかった。
と言うのが。
ちょうどその暴風雨の真夜中、化物やしきの本殿、鈴川源十郎の居間では……。
お艶の母おさよは……。
栄三郎への手切れ金として五十両の金を源十郎から受け取り、その掛合い方を頼みに、浅草三間町の鍛冶屋富五郎のところへ、出かけたところが、同じくお艶に思いを寄せている鍛冶富が、預かった金を持って逐電してしまったので、しばらくは富五郎の女房おしんとともに帰りを待ってみたものの、富五郎はお伊勢まいりと洒落て東海道へ出たのだから、そう早く戻ってくるわけはない。
といって。
いつまでも他人のうちに無駄飯を食べていることもできず、おまけにおしんが、お艶と富五郎の仲を疑って日ごとにつらく当たりだすので、とうとういたたまらなくなったおさよ婆さん、わけを話して詫びを入れ暫時待ってもらおうと、来にくいところを、今夜思いきって化物やしきの裏をたたいたのだったが――。
金とともに出て行ったきり帰らないおさよを、毎日カンカンになって怒っていた源十郎のことだからフラリと、狐憑きのようにはいってきたおさよ婆さんを見ると、源十郎、われにもなくカッとなって、いいわけのことばも聞かばこそ、おのれッ! とわめきざま、やにわにおさよを板の間へ押しつけて、
「これッ さよッ! 母に似ておるなどと申し、奉っておいたをいいことに、貴様、なんだナ、おれから五十両かたりとって、お艶と栄三郎をいずくにか隠したものに相違あるまい。いや、初めから三人で仕組んだ芝居であろう! ふとい婆アめ! どの面さげてメソメソと帰りおった――ウヌッ」
というわけで、おさよには碌にものも言わせず、いきなり責め折檻にかかったから、五十六歳になるおさよ婆さん、苦しさのあまりあたりかまわず悲鳴を上げる。
……その声が!
戸外のあらしを貫いて、離れの左膳の耳にまで達したのだった。
たださえ。
すさまじい風雨の夜ふけ。
その物音にまじって漂う老婆の哀泣である。これには、さすが刃魔の心臓をすら寒からしめるものがあったとみえて、ひとり眼ざめて夢判断をしていた左膳が、思わずブルルル! 身ぶるいとともに夜着をひっかぶろうとしたとき!
どこからともなく……。
「乾雲! これ、坤竜が慕うて参ったぞ! 坤竜が来たのだ! あけろ!」
低声である。
それが、たとえば隙洩る風のように左膳の耳にひびいたから、ハッ! としながらも――。
耳のせい……ではないか?
と!
たしかめようとして、左膳が枕をあげた――いや、あげようとした、その瞬間であった。
左膳と、むこう側の月輪軍之助の臥ているところとのあいだに、たたみ一畳のあきがあって、のみかけの茶碗や水差しが、どっちからでも手がとどくように、乱雑に置いてあるのだが!
ふしぎ!
左膳が、地震ではないか?……と思ったことには。
その茶碗や水さしがひとりでに動き出して、オヤ! と眼をこすって見ているまに!
ムクムクと下から持ちあがった畳!
それが、パッ! と撥ね返されると!
驚くべし――。
いつのまにやら床板がめくりとられて、ぱっくりと口をあいた根太の大穴。
しかも。
そこに、まるで縁の下から生えたように突ったちあがった二人の人物……諏訪栄三郎に蒲生泰軒。
あらしの音にまぎれて忍びこみ、下から板をはがしたものであろう。ふたりとも襷に鉢巻、泰軒先生までが今夜は一刀を用意してきて、すでに鞘を払っている。
「起きろッ! 夜討ちだアッ!」
どなりつつ、のけぞりながら左膳一振、早くも乾雲の皎刀を構えた左膳、顔じゅうを口にして二度わめいた。
「起きねえかッ、月輪ッ」
が!
同時に、
ウウム……断末魔のうめき。
泰軒の刀鋩が、轟玄八のひばらを刺したのだ。
栄三郎は、蒼白いほほえみとともに、もうノッソリと穴から部屋の中へあがっていた。
立ち樹が揺れて、梢が屋根をなでる音――。
夜着のうえから一突きにされて、声もあげ得ずに悶絶した轟玄八のようすに、白河夜船をこいでいた他の三人も、パチリと眼がさめてとび起きた。
見ると!
すっかり身じたくをした諏訪栄三郎に蒲生泰軒、ともに、あんどんの薄光を受けて青くよどむ秋水を持して、部屋の左右に別れているから、三人、帯をしめなおすまもない。
てんでに刀へ走って、鞘をおとした。
左膳は?
と気がつくと、床下づたいに広庭へおびき出すつもりか。ソロリソロリと後ずさりに、いま、泰軒栄三郎の出てきた根太板の穴のほうへ近づきつつある。
荒夜の奇襲。
つとに満身これ剣と化している栄三郎、声――は、胆をしぼって沈んでいた。
「丹下どの?……今宵は最後とおぼしめされい!」
左膳は、一眼を細めて笑った。
「この暴れじゃアどうドタバタ騒いでもそとへ物音の洩れっこはねえ。なア若えの、ゆっくり朝まで斬りあうぞ」
泰軒が一喝した。
「多弁無用! 参れッ!」
と……。
これが誘引した乱刃跳舞。
真っ先に剣発した月輪軍門の次席山東平七郎、陀羅尼将監勝国の一刀にはずみをくれて、
「えいッ!」
わざと空気合いを一つ投げて、直後! 泰軒めがけて邁進すると同時に、
ツ――ウッ!
横に薙いだつるぎの端に、あわよくば栄三郎をかける気。
……であったろうが!
そこは秩父に残存する自源流をもっておのが剣技をつちかいきたった泰軒先生のことだ。
自源流は速を旨とし、いちめん禅機に富む。
この平七郎雪崩おちの手さばきを知察した泰軒、われからすすんで平七郎の剣をはねるや、体を左に流して栄三郎を庇ったから、栄三郎は、手なれの豪刀武蔵太郎を引くと同時にくり出して、左膳の胸部を狙って板割りの突きの一手……。
同瞬!
落ちこまんとした穴を、ふち伝いにうしろに避けた左膳、柄をひるがえして下から上へ、クアッ! 太郎安国をたたきあげるが早いか、そのまま振りかぶった稀剣乾雲、左腕、うなりを生じて真っ向から栄三郎の面上へ!
「こうだッ!」
と一声。
閃落した――と思いのほか!
刀下一寸にして側転した栄三郎神変夢想でいう心空身虚、刹那に足をあげたと見るや、栄三郎グッ! と、平七郎のわきばらを一つ、見事にあおっておいてまた逆返し。
今度は!
右うでのない左膳の右横から、声もかけず拝みうちに撃ちこんだので、防ぎ得ず左膳、血けむり立ててッ! そこに倒れた……と見えたその濛々たる昇煙は。かわしながら、左膳がとっさに足にかけた煙草盆の灰神楽で、左膳自身は早くも壁を背負って立った猪突の陣、独眼火をふいて疾呼した。
「サ! 骨をけずってやる。此剣でヨ、ガジガジとナ……ヘヘヘヘ、来いッ野郎ッ……」
相対した栄三郎、下目につけた不動の青眼、寂……として双方、林のごとく静止。
泰軒はいかに?
と観れば……。
北国の雄師月輪軍之助、一の遣い手各務房之丞、二番山東平七郎の三角剣の中央に仁王立ち――相も変わらず両眼をなかばとじて無念無想、剣手をダラリと側にたらした体置きは、先生にして初めて実応し、この修羅場に処して機発如意なる自源流本然のすがた水月の構刀だ。
ピタッと幾秒かのあいだ、屋内の剣戦が、相互に呼吸をはかりあう状に入って休断すると……ゴウッと風のひびき。
雨戸を打つ大粒な雨あし。
依然として紋つきを着た枕あんどんの光が、ふとんにくるまった轟玄八の死骸を、まるで安眠しているかのように、おだやかに照らしている。
が、しかし!
この不動対立は長くは続かなかった。
たちまちにして闘機再発し、せまい離室に剣閃矢と飛び、刀気猛火のごとく溢れたったがために。
この時すでに!
はなれの外に五人の火事装束が猫のように忍びよって、グルリと取り巻いて折りをうかがっていたのを、誰も知るものはなかった。
朝が来た。
あらしののちの静寂には、一種の疲れがはらまれている。
金色の陽の矢が青山子恋の森に射しそめたころおい……。
弥生は、いつものとおり朝の湯につかっていた。
起きぬけに入浴するのが弥生のならわしになっていたので、彼女は一日もかかさずに続けて来たのだったが。
ゆうべは。
じぶんと豆太郎を留守において得印兼光老士は、門弟の火事装束の士四名と、平鍛冶を人足に仕立てた十人の大男に駕籠をかつがせて本所の化物やしきを夜襲したままいまだ帰ってこない――でユックリと風呂にはいっている気もしないのだったが、それでも、湯がわいたと豆太郎が知らせに来たとき彼女は思いきって湯殿へ立ったのである。
昨夜、鈴川方に、栄三郎が坤竜を佩して夜討ちに来ていることはきのうの午さがりから豆太郎の偵査によって当方にはわかっていた。
いわば、そうして雲竜二刀が双巴の渦をまいているところへ、横あいから飛びこんで、ふたつの剣を同時に掠めとろうというので、さくやは一同、ことのほか勢いこんで出かけたわけだが……うまく左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜をとりあげて、関の孫六の末得印兼光はたして流祖の秘文水火の合符を入手するであろうか?
湯にひたりながら風雨のあとのなごんだ空を窓に見て、小野塚伊織の弥生、しきりに思いめぐらしている。
もとより、栄三郎さまにはお怪我のないよう――間違いのないようにと、得印老人をはじめ四人の部下によく頼んでおいたものの、仔細を知らぬ栄三郎が、そうやすやすと秘刀坤竜を渡すはずがない、必ずや大いに剣闘したことであろうが、そのはずみにもしや栄三郎さまに……と思うと弥生、留守を預っているとはいえ、とてものんきに風呂なぞつかっていられなくなって、
「まだ戻られぬとは、どうしたのであろう?」
われ知らずひとりごと、急にあがりじたくをはじめて身体を拭きだした。
弥生はやはり弥生、いまだに栄三郎を恋い慕う純なこころを失わずにいるのだった。
それはいいが!
この風呂場の羽目板の節穴からひとつの眼がのぞいて、弥生の入浴を終始見守っていた者がある。
甲州無宿山椒の豆太郎だ――。
かれは、最初、まつりの日に弥生に見いだされて雇われた時から、弥生のいわゆる伊織が男であるということに対して、いささかの疑いをもっていたのだったが、それが過日、子恋の森はずれで瓦町の若侍を助けて、彼が伊織を弥生と呼ぶのを聞いて以来、いっそうその疑念を深め、おりあらば確かめてやろうと機会をねらっていたのだったが、とうとう今朝[#「今朝」は底本では「今朝」]!
人なき家に、ひとり弥生が入浴しているので、よろこんだ豆太郎、そっと隙見をしてみると!
ふくよかな乳房もあらわに、雪の肌に一糸もまとわぬ湯あがりの女性裸身……。
豆太郎は、亀背の小男という生れつきで、今まで女という女に相手にされたおぼえがないから、いま、この森の中の一軒家に、若侍に化けた女とふたりきりでいるということは、豆太郎を狂暴にするに十分だった。
しかも……。
のぞき見た弥生の裸形――豆太郎は、呼吸が苦しくなった。
で……。
じっと湯殿の戸のそとに立って待ちぶせている――。
とは知らない弥生が、そそくさと着物を羽織って戸を開けた時だった。
「見たぞ!」
うわずった豆太郎の声である。
ドキン! としながらも、弥生は笑いにまぎらそうとした。
「なんだ! 豆ではないか……何を見たと申す?」
「見たぜ!」
豆太郎の顔が、ゆがみつつ寄ってくる。
「だから、何を見たと申すのだ?――どけ……そこをどけ!」
「いンや、どかねえ! エッヘッヘ、お前さんが女子だってエことをちゃんとみてとった以上、この豆太郎に、ちっとお願いがあるんでネ……」
弥生は、醜く光る豆太郎の眼におされて、思わずタタタ! 二あし、三あし湯殿のなかへ後戻りした。
ピシャリ! つづいてはいって来た豆太郎が、うしろ手に戸をとざしたのだ。
気ちがいのようにつかみかかってくる豆太郎を、弥生が必死に防いでいる時だった。
せまい湯殿の中のあらそいだから、身体の小さな豆太郎には都合がいい。その上弥生はすっかり女のこころもちに返ってしまって、ともすれば負かされ気味に、そこへねじふせられそうになる。
小熊のように肉置きのいい豆太郎が、煩悩のほのおに燃えたって襲ってくるのだ。その、大きな醜悪な顔を間近に見たとき、弥生はもはや観念のまなこをつぶろうとした。
飼い犬に手を咬まれるとはこのこと。
弥生は、生ける心地もなく、それでも今にも得印老士の一行が帰ってこないものでもないからのがれられるだけのがれるつもりでなおも抗争をつづけていると……。
食いしばった歯のあいだから、哀願するごとく豆太郎がいう。
「ねえ弥生さん! わたしゃ今までお前さんのために無代で働いて来た。何ひとつ、礼をもらったことがねえ。それというのも、女としてのお前さんにあッしゃアたった一つのこの望みがあったからだ。よう、そう没義道なこといわねえで――!」
と、こんどは手を合わして拝まんばかりにあわれっぽくもちかけてくるのを、決然として飛びのいた弥生は、手早く着くずれをなおしながら、
「さがれッ! 言語道断な奴めッ! かならずその分には捨ておかぬぞッ!」
小野塚伊織のいきで大喝すると!
「エイ! もうこれまでだッ!」
わめいた山椒の豆太郎、いっそう荒れ狂って跳びついてくる。
流し場……すべる。
足場がわるい。
ツルリと足をとられて倒れた弥生へ、半狂乱の豆太郎が獣のごとく躍りかかって――落花狼藉……。
と見えた刹那……。
ドン!
ドン!
どんどんドン! と湯殿の戸をたたく音がして、
「伊織さん! 伊織さんいませんかえ?」
という男の声だ。
ハッとしてひるむ豆太郎をつきのけ、弥生が走りよって戸をあけると!
この家の駕籠舁きのひとり、得印門下平鍛冶の大男、ゆうべ五梃かごをかついで来たのが、一人であわただしく駈け戻ってきたらしく肩でゼイゼイ声も出ずに、
「オ! これだ!」
と!
やにわに弥生の眼前へつきだしたのを見ると!
乾雲坤竜――夜泣きの刀の一対!
「やッ! ついに二剣ところを一に? そんならアノ、ゆうべの斬りこみで……」
いいかける弥生を手で制した平鍛冶の駕籠屋、
「いそぎますから長ばなしはできねえが、まアよんべ乾雲と坤竜が撃ちあってる最中へうちの大将が跳びこんでね、どうも大層なチャンバラだったが、とどのつまりわしら十人のお駕籠者まで加勢して左膳と栄三郎をおさえつけ、やっと二つの刀をとりあげましたよ、サ、そこで……」
「おウ、そこで?」
「夜明けのうちに八ツ山下まで突っ走って駕籠の中で老先生が、この両剣の柄、赤銅のかぶせをはずしてみると――」
「うむ?」
「出て来ましたね」
「水火の秘文がかッ?」
「はい! 細い紙きれへこまかい字でビッシリ書いて、しっかり中心に巻き締めてありました」
「フウム! よかったなア……」
「その時、得印先生はハラハラと涙をこぼされましたが、イヤ、わしどももみんな泣きましたぜ。正直、うれし泣き……ねえ伊織さま、涙が、なみだがボロボロ――畜生ッ! こぼれやがったッ……ハッハッハ!」
「それは、そうであろう。伊織も衷心からおよろこび申しあげる。多年の本懐を達せられた御老人の心中こそ察せられるなあ」
「へえ、そのとおりで」
と、男は、今さらのように握り拳で鼻のあたまをこすりあげていたが、
「お! そうだ! こうしちゃいられねえ――伊織さん、先生がいうにゃア、自分はこれからただちに水火の秘符を持って美濃の関へ帰るが、ついてはこの二刀はもともとお前さまのお家の物、先生としちゃア文状さえ手に入れれば夜泣きの刀には用はねえ。このまま正式のもち主のあんたへ返すから、今までどおり世々代々大切に伝えてもらいたい……また会うこともなかろうからくれぐれも身体を大事に……とね、こういう伝言でごぜえましたので、わたし一人がこの二剣を持ってちょっと帰って来ましたが、先生はじめ一同は、品川に駕籠をとめて待っております。では伊織さん確かにお渡ししましたぜ!」
声と、乾坤双刀とを弥生に残して、男は、もう森の中の小径を走り去っていた。
はっとわれに返った弥生、眼を凝らして見るまでもなく、いま駕籠かきの大男が残していった乾坤二剣夜泣きの刀が、わが手にある!
此剣の[#「此剣の」は底本では「此剣の」]ために、父鉄斎とは幽明さかいを異にし、恋人栄三郎を巷に失った不離剣……去年の秋以来眼を触れたこともなく、今また幾年月その包蔵していた水火の割り文を柄の裡より吐きさったにかかわらず、その間、何事もなかったかのように、弥生の白い手に抱きあげられている一番の珍剣稀刀――。
思えば、乱麻の悪夢であった。
もつまじきは因縁の名刀……しみじみとそんな気がこみあげてきて、弥生がボンヤリとまず夜泣きの両剣を腰間に帯してみようとした――その一刹那!
忘れていた山淑の豆太郎……。
土壇場へじゃまがはいって、手のうちの玉をおとした思いのところへ、見ると、弥生がもとより詳しいことはしらないが、なんでもみなが命がけの大さわぎをしてきたその本尊のふたつの刀を、ここに入手したらしいようすなので、かなわぬ恋の意趣返しに、ひとつ横あいからふんだくってやれ……どうせこの家へは、もう誰も帰ってはこねえのだ。いわば空家、かたなを取ったうえで存分にじらし謝まらせ、さていうことをきかせてやろう! こう豆太郎なみの智恵にそそのかされたのであろう、やにわに隠れていた風呂場の隅から飛び出したかれ、
「もらったぞ!」
一こえどなるより早く、パッ! 夜泣きの大小を弥生の手からかすめとって、同時に小廊下づたいに台所へ跳びおりたかと思うと、そのまま水口の戸障子を蹴倒して戸外へ走り出た。
「ああ――!」
としばし、わがことながらポカンとしていた弥生、秒刻をおいて気がついて見ると、じぶんの身長より高いくらいの陣太刀二口を抱えた豆太郎が、森の木のあいだをくぐり抜けて、みるみるそれこそ豆のように小さくなっていくから、はじめて事態の容易ならぬを知った弥生、呆然から愕然へ立ち返るとともに、
「おのれッ!」
一散に後を追いだした。
一丁。
二丁。
昼なお小暗い子恋の森の真ん中である。
斧を知らない杉、楓、雑木の類がスクスクと天を摩して、地には、丈なす草が八重むぐらに生いしげり、おまけに、弥生にとってぐあいの悪いことは、豆太郎がその草にのまれて、どこにひそんでいるのか皆目見当のつかないことだ。
ただ、ザワザワと揺れる草の浪を当てに進む、と果たして!
何か焚き火の跡らしく黒く草が燃えて、いささか開きになっている地点、両手に雲竜二刀を杖について立っている豆太郎を見いだした。
「ヘッヘッヘ! とうとうここまで来たな!」
豆太郎がうめいた。
弥生は無言――そろり、そろりと近づく。
と、
再び刀を擁して草へ跳びこまんず身がまえをつくった豆太郎、
「サ! あっしがこの森の中を駈けまわっているうちゃア、泣いてもほえても、お前さんの手には負えませんよ。ネ! あっしも男だ! いい出したことが聞かれねえとあれア、仕方がねえ。この刀をもらってずらかるばかりさ……それとも弥生さん、ここで往生して眼をつぶるかね? はっはっは、これが舞台なら、サアサアサア――とつめよるところだ!」
いいながら、今にも身をひるがえして樹間へ走りこみそうにするから、刀を持って行かれてはたまらない弥生が、さりとてこの人猿に自由にもなれず、進退きわまって立ちすくんでいると、その弥生のようすを承諾の意ととったものか、つかつかとかえってきた豆太郎、
「弥生さん!」
二剣を右手に、左手をまわして弥生のからだへ掛けようとした。
思わず、身をすくませる弥生。
嫌らしくまつわりつく一寸法師。
その瞬間だった。
声がしたのである……近くに!
「おうッ! ここかッ! ウム刀も! やッ! 娘もいるなッ!」
と! 言葉といっしょに。
独眼刀痕の馬面が、ヌッ! と草を分けて――
「やいッ!」
乾雲を失った左膳、一腕に大刀を振りかぶって立ち現れた。
それと見るより、早くも豆太郎、弥生を棄てて二剣をかきいだき、みずからは、つと体を低めて懐中を探っている。
得意の手裏剣をとりだす気。
左膳の嗄れ声が、またもや森の木の葉をゆすった。
「汝ア化物かッ? 化物にしろ、人語を解したら、よッくおれのいうところを聞けッ! いいか、その二つの刀とこの娘はナ、去年の秋の大試合におれが一の勝をとって、ともに賞としてもらい受けたのだ、とっくにおれのものなのだ」
豆太郎は、口をひらかない。ただ、野犬のように白い歯をむき出して、突如、躍りあがるがごとき身ぶりをしたかと思うと、長い腕がブウン! と宙にうなって、紫電一閃!
ガッ! あやうく左膳の首を避けた小柄、にぶい音とともにうしろの樹幹にさし立った。
「ううむ、こいつウッ! やる気だな」
うめいた左膳さっと、足をひいたのが突進の用意、即座に、左膳、半弧をえがいて豆太郎の素っ首を掻っ飛ばそうとしたが、土をつかんで身をかわした豆太郎、逃げながらの横投げ、錦糸、星のごとく、飛翔して左膳の右腕へ命中した。
が、
あいにくと左膳には右腕がない。
で、右袖に突きささった短剣はそのまま一、二寸の袖の布地を縫ってとまった。
……のもつかの間!
つづいて四剣、五の剣――と皓矢、生けるもののごとく長尾をひき、陽に光り風を起こし、左膳をめがけて槍ぶすまのようにつつんだ……ものの!
丹下左膳、もとより凡庸の剣士ではない。
タタタタッ! と続けざまに堅い音の散ったのは、左剣上下左右に動転して豆太郎の小刀をたたきおとしたのだった。
「あっ!」
この剣能に、きもをつぶして声をあげた豆太郎われ知らず、もう一度ふところに手をさし入れたが――小柄はすべて投じてしまって残りがない。
瞬間! 泣くような顔になったかと思うと、豆太郎はすでに背をめぐらして、目前の草のしげみへ跳びこもうとした。
「待てッ! もう投げる物アねえのかッ!」
左膳の罵声がそのあとを追った。
豆太郎は、振り向いた。
哀れみを乞うような、笑いかけるがごとき表情だった。
しかし、つぎの刹那、かれは頭から、滝のような血を吹いて真っ赤になった。追いすがった左膳が冷たい微笑とともに一太刀おろしたのである。
山淑の豆太郎、全身血達磨のごときすがたで地にのたうちまわったのもしばらく、やがて草の根をつかんで動かなくなった。絶え入ったのだ。
と見るや左膳は、
「いやなものを斬ったぜ」
とひとりごと。
ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の血糊を草の葉にぬぐいながら、弥生と二剣は? と、そこらを眺めまわすと、いまのさわぎのうちに、いつの間にかまぎれさったものであろう。弥生も、夜泣きの刀も近くに影がない。
深閑として、陽の高い森の奥。
雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に映ろうのが、どうかすると雑草の花のように、七色のきらめきを見せて左膳の独眼を射る。
ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!
かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。
すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。
「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ……」
ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。
走り出す左膳。
弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。
追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。
雲竜二刀を確と抱きしめて子恋の森を走り出た弥生、ゆくてを見ると、四つの駕籠がおりているので、さては得印門下の四人が、何かの用で森の家へ帰って来たのか、やれ助かった! と[#「助かった! と」は底本では「助かった!と」]なおも足を早めて近づくと、
「おうい! そこへ行ったぞウッ!」
といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、
一難去って二難三難!
月輪の援隊、三十一人が三人に減ったその残剣一同、首領月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎……これが左膳とともに駕籠を駆って来ていた。その網のまん中へ、われから飛びこんだ小魚のような弥生の立場!
「あれイ……ッ!」
と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!
ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。
右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。
その一刻に!
これもゆうべ。
多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。
そして!
諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を打ッ! とひるがえして、左膳へ斬りこむ。
「来たなッ!」
大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、
「月輪氏、かまわず先へやってくれッ! 落ちあう場所はかねての手はずどおり……あとは拙者が引きうけたから、娘と刀をシカとお預け申したぞ……! サ拙者を残して、一ッ飛ばしにやってくれいッ……」
わめき立てた。
同時に。
「ハイッ! いくぜ相棒!」
「合点だッ!」
と駕籠屋の威勢。
「しからば丹下殿、あとを――」
「心得申した、一時も早く!」
駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。
二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに飛沫をあげて、たちまち道のはずれに見えずなった。
チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。
「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々……はッはッはは、ありがたく頂戴いたすとしよう」
栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。
「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」
「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために……」
「ウム! いいおったナ」
泰軒は一歩すすみ出た。
「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの蒐刀のために――はははは、越前もそう申しておった……」
キラリ眼を光らせた左膳、
「越前……とは、かの南の奉行か?」
「そうよ! 越前に二つはあるまい!」
と、聞くより左膳、
「チェッ! その件に越州が首を突っこんでおるのか……ウウム! それではまだ、てめえのいうとおり、おれも安心が早すぎたかも知れねえ! や! こりゃアこうしちゃあいられねえぞ」
声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。
左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一鞭、したたかに奔馬をあおりたてたのと、これらすべてが同瞬の出来事だった。
鞍上人なく、鞍下馬なし矣。
左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。
その時だった。
唖然としていた泰軒と栄三郎が耳ちかく悍馬のいななきを聞いたのは。
時にとって何よりの助けの神!
と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!
覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。
ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、
「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」
「かたじけない!」
泰軒は低頭して、
「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」
「いかにも! すべて殿の命でござる。いたるところに疾に手配してあるによって、安堵して追いつめられい!」
という意外な情けの言葉に、
「殿……とは?」
泰軒が問い返すと、
「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」
終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。
汐留の海である。
見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の伝馬船へ乗り移ったかと思うとブツリ……綱を切り、沖をさして漕ぎ出した。
船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。
さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで地団駄をふんだとき。
スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!
ふたりには頓着なく、
「これへ!」
とさし招くと、艪の音も勇ましく船べりを寄せてきた一隻の大伝馬がある。
「乗られい!」
侍がいった。
その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、
「オ! 貴公は大……!」
いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。
「わかった! すべて、貴公の胆いり――かくまで手配がとどいていたのか。ありがたい! さすが南の……オッと……何にもいわぬ! これだッ!」
と泰軒、手を合わせて件の侍を拝むと、侍は頭巾の裏で莞爾としているものとみえて、しきりにうなずきながら、早く乗り移れ! と手真似をする。そして!
「前々から彼奴ら一派の動静は細大洩らさず探ってあって、きょうの手はずもとうにできておった。それからナ彼奴にはもう何人の呼吸もかかっておらぬぞ。よいか、外桜田に相馬の上屋敷がある。そこの江戸家老を呼んでいささかおどかしたのじゃ。ついに、刀を集める左腕独眼の剣士、そんなものは知らぬといわせてやった。はっはっは、これならばもう彼は相馬の士ではない。いわば野良犬……な、斬ろうと張ろうと、北の方角から文句の出るおそれはないわい。存分に……」
「そうかッ! よしッ」
「奉行いたずらに賢人ぶるにおいては――ではないが、わしにも眼がある。黙っておってもやるだけのことはやるよ。江戸の始末はわしに任せておいて、どこまでもあの船を追ってゆくがよい。早ういけ! あんなに小そうなったぞ!」
黙ってこの侍に頭を下げた泰軒、栄三郎を促して、差しまわしの船に飛び乗った。
屈強の船方がそろっている。
すぐに櫓なみをはずませて、左膳の船のあとを追い出した。
しおどめ。
左に仙気稲荷。
一望、ただ水。
広やかな眺めである。
ギイギイと櫓べそのきしむ音。
二艘の船は、こうして江戸を船出したのだった。
藍いろの海。
うす青い連山。
かえり見ると、磯に下り立つ覆面のさむらいの姿は、針の先となって視界のそとに没し去ろうとしていた。
……水と空のみが、船と船のゆくてにあった。
似よりの船あし。
風のない昼夜。
油を流したような入り海に、おなじ隔たりがふたつの船のあいだに何日となくつづいた。
白い水尾[#ルビの「みお」は底本では「みを」]を引く左膳の船のあとに乗って、栄三郎、泰軒の船があきもせずについてゆくばかり……。
敵意も戦意も失せそうな、だるい航海のあけくれだった。
その間、左膳の船では。
むりやりに担ぎこみはしたものの、いざそばに見るとその気高い処女の威におされて、さすがの左膳も弥生には手が出せず、今はただ雲竜双刀のみを守って弥生は大切に取り扱い、ひたすら一路相馬中村に近い松川浦へ船の入る日を待っているのだった。
月輪の三士、軍之助、各務房之丞、山東平七郎とても同じこと。
血筆帳の旅で江戸へ出たとき、かれらのうち誰がこんにちのさびしさを思ったものがあろう!
三十一人わずか三人に減じられて、落人のごとく胴の間にさらされているのだ。
栄枯盛衰――そうした言葉が、軍之助の胸を去来してやまなかった。
板子一枚下は地獄。
海の旅は、同船のものをしたしくする。
追う船も、追われる船も、おなじ天候の支配を受けて、ただ追い、ただ追われているのみだった。
先の船には弥生。
あとの船には栄三郎。
どんな思いで、たがいの帆を望み、綱のうなりを聞き、鴎のむれを見たことであろう。
昼は、雲の峰。
夜は月のしずく。
そうして。
八幡の宿。
王井。
畦戸の浜。
大貫。佐貫の村々。
富田岬をかわして、安房の勝山、走水。
観音崎から、那古、舟形。
三崎……城ヶ島。
このあたりのたびたびの通り雨、両船にて、茶碗、盥等、あらゆる凹器を持ち出し、あま水を受く。飲料なり。
それより北条の町の灯。
九重安信神社の杉森。
野島崎。しらはま。和田の浦。江見。安房鴨川。東浪見――。
そと海に出て、九十九里浜。
松尾。千潟。外川。
屏風ヶ浦より犬吠。
飯沼観音のながめ。
大利根を左、海鹿島を右に、鹿島灘へ出て銚子、矢田部。
北上して――。
大洗から磯浜、平磯、磯崎……磯前[#「磯前」は底本では「礎前」]神社あり。
つぎに阿漕、松川磯の小木津。
関本。勿来。小名浜。江名。草野。四ツ倉。竜田。夜の森。浪江。
このへんより松川浦にかかって小高、原の町、日立木の漁村つづき。
仙台湾。
名にし負う塩釜神社に近く、右手の沖は、鮎川のながれを受ける金華山。
怒濤……。
江戸を出て九日目の夕ぐれだった。
午すぎからあやぶまれていた空模様は、夜とともに大粒な雨をおとして、それに風さえくわわり、二つの船は見るみる金華山沖へ流れていったが!
やがて。
真夜中ごろであろうか、一大音響をたてて船が衝突すると、あらしをついて栄三郎、泰軒が、左膳の船中へ乗り入り、まもなく月輪の三士をことごとく斬りふせたとき! かなわぬと見た左膳。
ただちに手にした夜泣きの大小を海中へ投じたが、すかさず! 栄三郎が水へもぐって、沈まんとして流れてきた二刀を拾い上げ、船へ泳ぎ戻った。
そして!
その二剣を、船中に倒れていた弥生の手に握らせた時、ニッコリした弥生は、それを改めて栄三郎へ返してただひとこと。
「どうぞお艶さまと……」
かすかに洩らしたのが最期。
さびしい――けれども、いい知れぬ平和な満足が、金華山洋上あらしの夜、弥生の死顔のうえにかがやいたのだった。
泪をぬぐった栄三郎が、泰軒の指す方を見やると、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、丹下左膳の長身が、生けるとも死んでともなく、遠く遠くただよい去りつつあった。
遠く遠く、やがて白むであろう東の沖へ……。
なんという長い月日であったろう!
かくしてここに、乾雲坤竜の二剣、再び諏訪栄三郎の手に返ったのだった。
青葉若葉……。
六月のなかばの江戸である。
すっかり素人ふうになったお艶が、身重のからだを帯にかくして、常盤橋の袂にたたずんでいた。
青あらしは、柳の枝も吹けば、道ゆく女の裾もなぶる。
かろやかな初夏の街。
すべてが、陰にあって、よかれと糸を引いてくだすった南町奉行大岡越前守忠相さまのたまものである。
お艶は、大岡様の手によってまつ川から受け出されて羽織の足を洗い、おさよは、これも大岡様から家主喜左衛門へ急使が立って喜左衛門が鈴川源十郎方へ掛けあいにいって救われた。
そうして今。
母娘ふたりは、あさくさ田原町三丁目喜左衛門の家に厄介になっているのだが、同じく大岡様のおことばで、鳥越の大久保藤次郎も、留守中の弟栄三郎に勘当を許し、栄三郎は江戸へ帰りしだい、和田家へ入夫してお艶と正式に夫婦となり、おさよとともに三人、いや、お艶の腹の子をいれて四人づれで、和田宗右衛門の遺志どおり、相馬中村へ帰藩して和田家を継ぐことになっているのだ。
そして、もし栄三郎さまが、夜泣きの刀を入手してくれば、帰藩と同時に其刀を献上におよび、左膳のものとなるべきはずだったあらゆる賞美と栄誉は、すべてこれ和田栄三郎の有に帰する……と、お艶はいま、あけても暮れても海へ行った栄三郎の帰府と、かれが持ちかえるであろう関の孫六の両剣とを、神仏に念じて、一日も早かれ! と祈っているのだった。
その、栄三郎の船の入江も近い。
きょうは十五日――。
麹町永田馬場の日吉山王、江城の産土神として氏子もっとも多く、六月十五日はその祭礼である。
江都第一の大祭。
別当勧理院、神主は樹下民部。
神輿の通りすじは往来を禁じ、町屋に桟敷がかかる。幕毛氈きらびやかにして、脇小路小路は矢来にて仕切り、桜田辺の大名方より神馬をひかれ、あるいは長柄の供奉、御町与力同心のお供あり、神輿三社、獅子二かしら。法師武者とてよろいを着したる馬上の衆徒十騎。出し屋台、ねり物。番数四十六番。町かずおよそ百三十余町。一の鳥居のまえへ詰め、お通り筋は、星野山より半蔵御門へ入り、吹上竹橋御門、大下馬より常盤橋、本町、十間店本石町、鉄砲町、小船町、小網町、れいがん橋を過ぎ、茅場町お旅所にて奉幣のことあり、それより日本橋通町すじ、姫御門を抜けて霞ヶ関お山に還御也。隔年、丑卯巳未酉亥。
……とあって。
きょうのお祭りは、日柄よし。幸いの好天気、まことに押すな押すなの人出である。
警護の者が往来往来と人を払ってくるうちに、だんだんと曳いて来る三十番雉子町の花車、それに続いて踊り屋台と順に乗りくみ、そこへ神田橋のほうからも御上覧がすんで三十五番三十六番とワッショイワッショイ! で繰りこむ――大変なさわぎ。
おどり屋台の滝夜叉姫。
お顔の赤い山王のお猿さん……。
ふとうしろに声がするので、お艶は、何ごころなく振り返ってみた。
見物人のなかで、町人達がしゃべりあっている。
「なア由公。たいしたものだなあ!」
「そうよ。だがナ、この祭礼の日に、本所へお捕方が向かったっていうじゃねえか」
「へえい! 本所のどこへ?」
「鈴川という旗本のやしきだとよ」
「アアあの化物屋敷か。それなら何もふしぎはねえやな」
「なんでも、東海道三島の宿で、浅草三間町の鍛冶屋富五郎てエ野郎が飯盛の女を買って金をやったとこがお前、その小判がまえから廻状のまわっていた丸にワの字の極印つきだからたまらねえや。すぐに両替屋の触帳から足がついてナ、その鍛冶屋を江戸へ送ってしらべてみるてえと、なんとかてエ婆さんが鈴川源十郎の手から持って来たことがわかった。その丸にワの字は出羽様の印で、いつかそら、銀町の棟梁伊兵衛親方が相川町で奪られたものだから、ここはなんとあっても、その鈴川てえお旗本が伊兵衛親方をバッサリ殺ったものに違えねえのさ」
「そうとも! それにきまってらアな、南のお奉行様が、いざ手におくだしになるまでにゃアすっかりお調べがとどいているんだ。その御眼力にはずれはねえ。しかもお前、そのめしもりの女ッてエのが、また途法もねえ阿婆摺れだってえじゃアねえか」
「そうよそうよ! 櫛まきのお藤と言ってナ、江戸お構えだったのが、江戸で見つかったんだけれど、お情けの筋あって東海道へ放されたんだそうだが、こんどは引き売りてえ新手の詐偽を働いて、そいつもいっしょにつかまったとよ。ひき売りてえのは、お前のめえだが、男がお藤を宿場へ売って、あとから行ってすぐに連れ出すのよ。つづみの与吉てエ野郎だそうな、相手の男は」
「するてえと、お藤と与吉と鍛冶富と三人お手あてになったわけかえ?」
「アアそうよ。鍛冶富はかかりあいだが、みんな江戸へ送られてナ、きょうはいよいよ本所の鈴川様へ御用十手が飛びこんだのだ」
「化物旗本め、今ごろは手がうしろへまわっているに相違ねえ」
この話し声を、わが身に縁のうすいことのようにボンヤリと聞きながら、お艶がふらふらと橋の欄干に寄ると、世は移り変わり、象はちがっても、我欲をあらわに渦をまく人の浪。
茜いろの夕陽が天地をこめて、お艶の影を、四辻の土に黒く長くななめに倒している。
河岸に灯がはいって……夢のよう。
江戸の祭りは、そのまま夜に入る。