映画のスクリーンの平面の上に写し出される光と影の世界は現実のわれらの世界とは非常にかけはなれた特異なものであって両者の間の肖似はむしろきわめてわずかなものである。それにもかかわらずわれわれは習慣によって養われた驚くべき想像力の活動によって、このわずかな肖似の点を土台にして、かなりまで実在の世界に近い映画の世界を築き上げる。そうして、いつのまにか映画と実際との二つの世界の間を遠く隔てる本質的な差違を忘れてしまっているのである。あらゆる映画の驚異はここに根ざしこの虚につけ込むものである。従って未来の映画のあらゆる可能性もまたこの根本的な差違の分析によって検討されるであろうと思う。
 それにはまず物理的力学的な世界像ウェルトビルドを構成する要素が映画の上にいかなる形で代表されているかを考えてみるのが一つの仕事である。
 映画の観客は必ずしも学問としての物理学を学んではいない。しかしすべての人間は、皆無意識に物理的力学的に世界像を把握はあくする事を知っている。すなわちまず三次元の空間の幾何学に一次元の時間を加えた運動学的カイネマチカルの世界を構成し、さらにこれに質量あるいは力の観念を付加した力学的ダイナミカルの世界像を構成し、そうして日常の生活をこれによって規定していることは事実である。もしも、これがなかったら、われわれは食膳しょくぜんに向かってはしを取り上げることもできないであろうし、門の敷居をまたぐこともできないであろう。
 空間の概略な計測には必ずしもメートル尺はいらない。人間の身体各部が最初の格好な物さしである。手の届かぬ距離の計測には両眼の距離が基線となって無意識の間に巧妙な測量術が行なわれる。時間の測定には必ずしも時計はいらない。短い時間には脈搏みゃくはくが尺度になり、もう少し長い時間の経過は腹の減り方や眠けの催しが知らせる。地下の坑道にいて日月星辰せいしんは見えなくてもこれでいくぶんの見当はわかるであろう。質量と力の計測にも必ずしもはかりはいらない。われわれの筋肉の緊張感覚がそれに役立つ。
 これらの原始的なしかし驚嘆すべき計量単位の巧妙な系統によって、われわれの祖先は遠い昔から立派な力学的世界像を構成していた。近ごろになってわれわれはそれを少しばかり整理しみがき上げて、そうしていかめしい学という名をつけたのである。
 さて、これらの原始的な世界像構成要素が映画ではどういうふうに置き換えられて代表されているかを考えてみる。
 まず「質量」はどうなっているか。映像にはもちろん普通の意味での質量は欠けている。影と幽霊には目方はないのである。しかし映画の観客は各自の想像によってそれぞれの映像に相応する質量を付加し割り当てながら見て行く。それで、もしも映画のトリックによって一人の男が三井寺みいでらの鐘を引きちぎって軽々と片手でさし上げれば、その男は異常な怪力をもっているように見えるのである。また、大きな岩と見えるものが墜落して来て、その下敷きになって一人の人間が隠れればその人はほんとうに圧死したものと考えられるのである。それは影に質量がなく従って運動量モーメンタムのないことを忘れているからである。
 次に「空間」はどうなっているか。これは、言うまでもなく、三次の空間が二次の平面に投影されている。三次元の実体は二つ同時に同一空間を占める事はできないが、平面は何枚重ねても平面であるから、映画の写像はいくつでも重ね写しができる。オーヴァーラップの技巧はこの点を利用したものに過ぎない。しかも、これによって、生きている人をそのままに透明な幽霊にして壁へでもなんでもぺたぺたと張り付けあるいは自由に通り抜けさせることができるのである。
 映画における空間の特異性はこの二次元性だけではない。これに劣らず重要なことは、その空間の尺度がある度までは自由に変えられることである。広大な戦場や都市を空中写真によって圧縮してスクリーンのわく内に収めることもできれば、スターの片方の目だけを同じスクリーンいっぱいに写し出すこともできる。従って、この特徴と重写の技巧とを併用すれば、一粒の芥子種けしだねの中に須弥山しゅみせんを収めることなどは造作もないことである。巨人の掌上でもだえる佳姫かきや、徳利から出て来る仙人せんにんの映画などはかくして得られるのである。このようにカメラの距離の調節によって尺度の調節ができるのみならず、また、カメラの角度によって異常なパースペクティーヴを表現し、それによって平凡な世界を不思議な形態にゆがめることもできるのは周知の事実である。
 しかしこういう程度の尺度やパースペクティーヴの変更はむしろ平凡なことであって、ある度まではわれわれの目の網膜のスクリーンの上で行なわれている技巧の延長のようなものであり、従ってわれわれに新しく教うるところは僅少きんしょうであるが、真に驚異の念を喚起して夢にも想像のできない未知の世界を展開させるものは顕微鏡的映画である。たとえば水晶で作られたようなプランクトンがスクリーンいっぱいに活動しているのを見る時には、われわれの月並みの宇宙観は急に戸惑いをし始め、独断的な身勝手イデオロギーの土台石がぐらつき始めるような気がするであろう。不幸にしてこういう映画の、ことに、日本で見られるものの数があまりに少ないのは残念である。
「時間」に関する映画の世界の特異性はさらに顕著なものである。そうして映画の驚異の多分な可能性がこれに連関していることは疑いもないことである。
 空間についてはわれわれはパースペクティーヴの原理によって日常ある点までは映画におけると同様な尺度の変更を体験しているのであるが、時間についてはこれに相応する経験を全然もっていないと言ってもよい。それで、もしもわれわれの身辺の現象の時間尺度がわれわれの「生理的時間フィジオロジカルタイム」の尺度に対して少しでもちがったら、実にたいへんなことになるのである。たとえば音楽にしても聞き慣れたラルゴの曲をプレストで演奏したらもはや何人なんびともそれが何であるかを再認することはできないであろう。またもし蓄音機の盤を正常な速度の二倍あるいは半分の速度で回転させれば単に曲のテンポが変わるのみならず、音程は一オクテーヴだけ高くあるいは低くなってしまうのである。東京市民を驚かせるような強震が二日に一度三日に一度ずつ襲って来るとしたらどうであろうか、市内の家屋構造は一変してしまい、地震研究所の官制は廃止になるであろう。
 映画の世界では実際に、ある度までは、この時間の尺度が自由に変更されうるのは周知のことである。一粒の草花の種子が発芽してから満開するまでの変化を数分の間に完了させることもできる一方では、また、弾丸が銃口を出て行く瞬間にこれに随伴する煙の渦環うずわや音波の影の推移をゆるゆると見物することもできる。眠っているように思っている植物が怪獣のごとくあばれ回ったり、世界的拳闘選手けんとうせんしゅが芋虫のように蠢動しゅんどうするのを見ることもできるのである。
 時間の尺度の変更は、同時に、時間を含むあらゆる量の変更を招致することはもちろんである。まず第一に速度であるがこれは時間に逆比例する。運動量モーメンタムも同様である。しかし加速度となると時間の自乗に逆比例するから時間のほうが二倍に延びれば加速度は四分の一になる。それで、たとえば煙突の崩壊する光景の映画を半分の速度で映写すると、それは地球の四分の一の質量を有する遊星の上での出来事であるかのように見えるのである。同様なわけで器械の工率のディメンションは時間のマイナス三乗を含むから、映写機のハンドルを二倍の速さで回せば、一馬力の器械が八馬力を出して見えるのである。もっともこれは映像の質量と距離とをほぼ正当に評価し想定するためにそうなるのであって、もしも前述の崩壊する煙突が、実物でなくて小さな雛形ひながたであると信ずることができるとすれば現象は不自然さを失ってしまうはずである。起重機のつり上げている鉄塊が実は張り抜きだと信ずることができれば、やはり不思議な感じはなくなるであろう。しかし実際には普通だれもそうは信ずることができなくて、これらを立派な驚異として感ずるのは、畢竟ひっきょう見なれたものの映像にそれぞれの質量や大きさを適当に評価して付加するというわれわれの無意識な能力がいかに根強く活動しているかを示すのである。この事実はすでにある度までは従来の映画にも利用されてはいるが、まだまだたくさんな将来の可能性がこの事実の基礎の上に存在するであろう。
 同じ理由から、われわれの見慣れない、従ってその大きさも質量も見当のつかないような物の運動を示す映画では全く速度加速度の見当がつかない。たとえば透明な浮遊生物の映画などでも、考えよう一つであの生物のあるものが人間ほどの大きさをもったダンサーの化け物のように思われて来る。そうするとその運動は非常に軽快に見え、そうして今にもわれわれに食ってかかりそうな無気味さを感じる。しかし顕微鏡下の微粒子をのぞいているつもりで見ていると感じはまるでちがったものになる。すべてが細かい蠢動しゅんどうになってしまうのである。薄暮の縁側の端居はしいに、たまたま眼前を過ぎる一匹の蚊が、大空を快翔かいしょうする大鵬たいほうと誤認されると同様な錯覚がはたらくのである。
 いっそうおもしろいのは時間の逆行による世界像の反転である。いわゆるカットバックの技巧で過去のシーンを現在に引きもどすことが随意にできるのもおもしろくないことはないが、これは言わば「フィルムの記憶」の利用であって、人間の脳の記憶の代用に過ぎない。しかし真に不思議なのはフィルムの逆行による時の流れの逆流である。たとえば燃え尽くした残骸ざんがいの白い灰から火が燃え出る、そうしてその火炎がだんだんに白紙や布切れに変わって行ったりする。あるいはまた、粉々にくずれた煉瓦れんが堆積たいせきからむくむくと立派な建築が建ち上がったりする。
 昔ある学者は、光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史をさかさまにして見られるというような寝言を言った。しかしこのような超光速度はできない相談であるし、それができたとしてもやはり歴史の逆さまは見られそうもない。しかし映画の時間は確かにある意味では立派に逆転し、従って歴史はほんとうに掛け値なしに逆さまに流れる。厳密に言えば、時間の連続な流れの中から断続的に規則正しい間隔の断片を拾い上げたものを逆の順序に展開するのであるが、われわれの視覚的効果の上ではまさしく時の逆行となるのである。
 時の逆行によって物の順序が逆になり原因と結果が入り代わるというだけではこの重大な変転の意義は説き尽くされない。
 時が逆行しても本質的に変わらないものは、完全な週期的運動だけである。しかし、そんなものは実際の世界にはどこにもない。いかなる振り子の運動でも若干のエネルギーの消耗しょうもうがある限りその運動は必ず減衰して行くはずである。それが時を逆転した映画の世界では反対に、静止した振り子がだんだん揺れ出し次第に増幅するのである。もっと一般に言えば宇宙のエントロピーが次第に減少し、世界は平等から差別へ、涅槃ねはんから煩悩ぼんのうへとこの世は進展するのである。これは実に驚くべき大事件でなければならない。もっと言葉を変えて言えば、すべての事がらは、現世で確率プロバビリティの大きいと思われるほうから確率の僅少きんしょうなほうへと進行するから不思議でないわけにはゆかないのである。たとえばわれわれの世界ではおけの底に入れた一升の米の上層に一升の小豆あずきを入れて、それを手でかき回していれば、米と小豆は次第に混合して、おしまいには、だいたい同じような割合に交じり合うのであるが、この状況を写した映画のフィルムを逆転する場合には、攪拌かくはんするに従って米と小豆あずきがだんだんに分離して、最後にはきれいな別々の層に収まってしまうのである。このような熱力学第二方則の完全な否定は、実にわれわれ固有の世界観を根底よりくつがえすに足るものである。
 時を逆行させることによって起こるもう一つの不思議は、決定的の世界が不決定になることである。たとえば摩擦のある撞球台どうきゅうだいの上でたまをころがすとする。球を突き出したときの初速度が与えられればその後に球の動き行くべき道程は予言され、それが最後に静止する位置も少なくも原理的には立派に予報されるはずである。しかるに逆転映画の世界で最初に静止している球が与えられている場合に、どうして、まただれが、その後の運動を少しでも予測しうるであろうか。可能な道は無限に多様であって、その中の一つを指定すべき与件は一つもないのである。
 これと反対に、現世で予測のできない事がらが逆転映画の世界では確定的になるから妙である。たとえば一本の鉛筆を垂直に机上に立てて手を離せば鉛筆は倒れるが、それがどの方向に倒れるかはいわゆる偶然が決定するのみで正確な予言は不可能である。しかし時を逆行させる場合にはいろいろな向きに倒れた鉛筆がみんな垂直に起き直るから事がらは簡単になる。
 時の逆行を現実化する映画の世界は、これと比較することによってわれわれの世界像における「時」の意義を徹底的に理解させるに格好な対照となるのである。そういう比較によって始めてわれわれの哲学も宗教も科学もその完全な本体を現わすであろう。
 これほどに深い意義のある逆転映画を見せられる機会があまりにもまれなのは遺憾なことである。この驚くべき技巧がもっともっと自由に応用され、観客が次第にそれに慣らされて、そうしてそれに固有な効果を十二分に感受することのできる日が来るとしたら、その日から人間の子孫にとっては全く新しい世界が生まれるであろう。
 映画における「時」について、もう一つ忘れてならないことは、フィルムの記録が連続的でなくて断片の接合から成り立っていることである。毎秒にたとえば十六コマずつを撮影するとして、そのひとコマがまたシャッターの回転速度とそのセクトルの大きさによって規定されたある一定の長さの照射時間中に起こっただけのすべての事がらの重複した像を現わしていることである。これがために、いわゆるストロボスコープ的効果によって、進行せる自動車の車輪だけが逆回りをしたりするような怪異が出現し、舞踊する美人が千手観音せんじゅかんのんに化けたりするのである。そうして、ひとコマの照射時間にその物自身の線長リニアー・ジメンションに対して比較さるべきほどの距離を動くすべてのものはもはや夢のようにぼやけてしか現われない。この明白な事実すら理解しないらしい監督の作品に時々出会うのに驚かされるのである。
 このような影像の間欠的なことに起因するフィルムの世界の特異性も、現在では利用されようとはせず、かえってむしろできるだけ避けようとして、そのほうに苦心が費やされているようである。しかしここにもいろいろな未来の可能性が伏在するであろう。
 フィルムの露出が間欠的な上に、さらに撮影さるべき実体の照明を週期的にして両者の週期を加減すれば、そこからもまたいろいろな技巧が生まれるであろう。たとえばシーンの中の一人物が幽霊のように見えたり消えかかったりするようなことも、重写によらずしてできるであろうと想像される。
 間欠的でなくてほんとうに連続的な映画は不可能であろうか。少なくもわれわれはまだその不可能を証明することはできない。これができるようになったら、記録の器械としての映画の価値は一段高くなるであろう。

 以上は映画の世界像における力学的各要素を筋書的に略記したに過ぎない。他日機会があったら、もう少し詳しくこれらのおのおのについて検討を試み、さらにその結果に基づいて映画の未来の可能性について具体的な考察を遂行したいと思っている。
 なお、このほかに、写真レンズの影像の特異性や、フィルムの感光能力の特異性から来るいろいろの問題がある。さらに発声映画に関して新たに起こって来た多様の興味ある問題もあるであろうが、これらもいっさい省略してここには触れないことにした。
 もし、この一編の覚え書きのような未定稿が、映画の製作者と観賞者になんらかの有用な暗示を提供することができれば大幸である。
(昭和七年二月、思想)

底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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