一 夢

 七月二十七日は朝から実に忙しい日であった。朝起きるとから夜おそくまで入れ代わり立ち代わり人に攻められた。くたびれ果てて寝たその明け方にいろいろの夢を見た。
 土佐とさ高知こうち播磨屋橋はりまやばしのそばを高架電車で通りながら下のほうをのぞくと街路が上下二層にできていて堀川ほりかわ泥水どろみずが遠い底のほうに黒く光って見えた。
 四つつじから二軒目に緑屋みどりやと看板のかかったたぶん宿屋と思われる家がある。その狭い入り口から急な階段を上がると、中段の踊り場に花売りの女がいた。それを見ると妙に悲しかった。なぜかわからない。
 大きな日本座敷の中にベンチがたくさん並んでいる。そこで何か法事のような儀式が行なわれているか、あるいはこれから行なわれようとしているらしい。自分はいつのまにか紋付きはかまの礼装をしている。自分の前に向き合って腰かけた男が、床上にだれかが持って来て置いた白い茶わんのようなものを踏むとそれがぱちりと砕けた。すると自分も同じように自分の足もとにある白い瀬戸物を踏み砕いた。いったいどういうわけでそんな事をするのか自分でもわからないで変な気持ちがした。濃紫の衣装を着た女が自分の横に腰掛けているらしかった。何か不安な予感のようなものがそこいらじゅうに動いているようであった。
 いつのまにかどこかの離れ島に渡っていた。海を隔ててはるかの向こうに群青色の山々が異常に高くそびえ連なっている。山々の中腹以下は黄色に代赭たいしゃをくま取った雲霧に隠れて見えない。すべてが岩絵の具でかいた絵のように明るく美しい色彩をしている。もちろん土佐とさの山々だろうと思って、子供の時から見慣れたあの峰この峰を認識しようとするが、どうも様子がちがってそれらしいのがはっきりわからない。だんだん心細くなって来た。
 昔の同窓で卒業後まもなく早世したS君に行き会った。昔のとおりの丸顔に昔のとおりのめがねをかけている。話をしかけたが、先方ではどうしても自分を思い出してくれない。他の同窓の名前を列挙してみても無効である。
 浜べに近い、花崗石みかげいしの岩盤でできた街路を歩いていると横手から妙な男が自分を目がけてやって来る。藁帽わらぼうに麻の夏服を着ているのはいいが、鼻根から黒い布切れをだらりとたらして鼻から口のまわりをすっかり隠している。近づくと帽子を脱いで、その黒い鼻のヴェールを取りはずしはしたが、いっこう見覚えのない顔である。「私はNの兄ですが、いつかお尋ねした時はおかげんが悪いというのでお目にかかれませんでして」と言う。ちっとも覚えがないし、第一自分の近い交遊の範囲内にNという姓の人は一人もないようである。
 なんだか急に帰りたくなって来た。便船はないかと聞いてみるとそんなものはこの島にはないという。このあいだ○○帝大総長が帰る時は八挺艪はっちょうろの漁船を仕立てて送ったのだという。
 うち沙汰さたなしでうっかりこんな所へ来てしまって、いつ帰られるかわからないことになって、これは困ったことができたと思って、黒い海面のかなたの雲霧の中をながめていたら目がさめた。胃のぐあいが悪くて腹が引きつるようであった。そのためにこんな不安な夢を見たのであろう。
 前々日A研究所の食堂で雑談の際に今度政府で新計画の航空路のうわさが出て、大阪おおさかから高知こうちまでたった一時間五十五分で行かれるというような事を話し合った。その時自分の意識の底層に郷里の高知の町の影像が動きかけたが、それっきりで表層までは現われないで消えていた。それが夢の中で高知の播磨屋橋はりまやばしを呼び出し、また飛行機の構造か何かが二重層の文化街を暗示したのではないかと思われる。後の場面に現われた土佐とさの山脈もまたここに縁を引いているかもしれない。
「みどりや」という宿屋には覚えがない。しかしやはり前日家人と沓掛くつかけ行きの準備について話をしたとき、今度行ったらグリーンホテルで泊まってそこでたまっている仕事を片付けようと思う、というようなことも言った覚えがある。しかし、グリーンホテルを緑屋などと訳してみた覚えは全然ないのであるが、いつか一度ぐらいひょっとそんな事を考えてそれきり忘れていたのが夢という現象の不思議な機巧によって忘却のやみの奥から幻像の映写幕の上に引き出されたのではないか、そうとでも考えなければ全然説明ができないのである。
 階段の花売りについてはどうも心当たりがない。しかしことによると前日新宿しんじゅくの百貨店で造花の売り場の前を通ったときの無意識の印象が無意識な過程を通じてこれに関係しているのかもしれない。
 法事の場面については心当たりがある。前夜の夕刊に青森あおもり大鰐おおわにの婚礼の奇風を紹介した写真があって、それに紋付き羽織はかまの男装をした婦人が酒樽さかだるに付き添って嫁入り行列の先頭に立っている珍妙な姿が写っている。これが自分の和服礼装に変相し、婚礼が法事に翻訳されたのかもしれない。紫色の服を着た女はやはり同じ写真の中に現われた黒い式服の中年婦人の変形であるとしたところで、瀬戸物を踏み砕く一条だけは説明困難である。あるいは葬式や嫁入りの門先に皿鉢さらばちを砕く、あの習俗がこんな妙な形に歪曲わいきょくされて出現したのかもしれない。
 島へ渡ったのは、たぶん大阪おおさか高知こうち間飛行の話の時に思い浮かべた瀬戸内海せとないかいの島が素因をなしているかと思われる。
 前日の昼食時にA君が、自分の昔の同窓の一人で現に生存しているある人の事についてほんのちょっとばかり話をした。その瞬間に自分の頭の中のどこかのすみを他の同窓のだれかれの影が通り過ぎてすぐ消えたのかもしれない、そうして中でもいちばん早くなくなったS君の記憶が多少特別なアクセントをもって印銘された、その余響のようなものがこの夢のS君出現の動機になったのだと仮定すると不思議でなくなる。
 Nの兄というのは全然見当がつかないし、その鼻隠しのヴェールに至ってはさらに奇中の奇である。帝大総長の引き合いに出るのもどうも解釈がつかない。これはフロイドかそのお弟子でしに頼むほかないと思われる。とにかくそういう人たちの参考になるかもしれないと思ったのでできるだけ忠実にこのひと朝の夢の現象を記録したつもりである。

     二 とんぼ

 八月初旬のある日の夕方信州しんしゅう星野温泉ほしのおんせんのうしろの丘に散点する別荘地を散歩していた。とんぼが一匹飛んで来て自分の帽子の上に止まったのを同伴の子供が注意した。こういう事はこの土地では毎日のように経験することである。
 ステッキの先端を空中に向けて直立させているとそれに来てとまる。そこでステッキをその長軸のまわりに静かに回転させると、とんぼはステッキの回るのとは逆の方向にからだを回して、周囲の空間に対して、常に一定の方向を保とうとする。そういう話を前日子供たちから聞いていたのではたして事実かどうか実験してみようと思った。
 帽子を離れたとんぼが道ばたの草に移った。そのそばにステッキの先端を近づけて二三度あやつっていたら、うまく乗り移って来た。静かにステッキを垂直に取直しておいて、そろそろ回転させてみた。はじめはいっこうに気づかないようであるが九十度以上も回転すると何かしら異常を感じるらしく、つかまっている足を動かしてからだをねじ向ける。しかしそれはわずかに十度か二十度ぐらい回転するだけで、すっかり元の方向まで向き直るようなことはない。なんべんも繰り返してみたが同じ結果であった。
 道路に沿うて頭の上を電線が走っている。それにたくさんのとんぼが止まっているが、それがみんなだいたい東を向いている。ステッキのとんぼが最初に止まったのと同じ向きである。
 夕日がもう低く傾いていて、とんぼはみんなそれにしりを向けているのであった。当時ほとんど無風で、少なくも人間に感じるような空気の微動はなかったので、ことによるととんぼはあの大きな目玉を夕日に照りつけられるのがいやで反対のほうに向いているのではないかとも思われた。
 試みに近い範囲の電線に止まっている三十五匹のとんぼの体軸と電線とのはさむ角度を一つ一つ目測して読み取りながら娘に筆記させた。その結果を図示してみるとそれらの角度の統計的分布は明瞭めいりょうに典型的な誤差曲線を示している。三十五匹のうち九匹はだいたい東西に走る電線に対してその尻を南へ十度ひねって止まっている。この最大頻度ひんどの方向から左右へ各三十度の範囲内にあるものが十九匹である。つまり三十五のうちの二十八だけ、すなわち八十プロセントだけは、三十度以内まで一定の方向にねらいをつける能力をもっていたといわれる。
 残りの二十プロセントすなわち七匹のうちで三匹だけは途方もなく見当をちがえて、最大頻度ひんど方向からそれぞれ百三十度と百四十度と百六十度というむしろ反対の方向をむいていた。人間流に考えるとこの三匹はのんきで無神経で、つまり環境への順応が遅鈍であるのか、それともつむじ曲がりのあまのじゃくであるのかとも思われる。しかしまた考えてみると、とんぼの方向を支配する環境的因子はいろいろあるであろうから、他の多数のとんぼが感じないようなある特殊な因子に敏感な少数のものだけが大衆とはちがった行動を取っているのかもしれないと思われた。そのようなことの可能性を暗示する一つの根拠は、最大頻度方向より三十度以上の偏異を示す七匹のどれもがみんなその尾端を電線の南側に向けており、反対に北側に向けたのはただの一匹もなかったという事実である。
 その翌日の正午ごろ自分たちの家の前を通っている電線に止まったとんぼを注意して見ると、やはりだいたい統計的には一定方向をむいているが、しかし、太陽にしりを向けるという仮説には全然適合しない方向を示していた。ちょうど正午であるから、たとえどちらを向いてみても目玉を照らされるのはだいたい同じだから、少々この場合には何か他の環境条件に支配されているだろうと思われた。
 それから、ずっと毎日電線のとんぼのからだの向きを注意して見たが、結局彼らの体向を支配する第一因子は風であるということになった。地上で人体には感じない程度の風でも巻き煙草たばこに点火したのを頭上にかざしてみれば流向がわかる、その程度の風にとんぼは敏感に反応して常に頭を風に面するような態度を取るのである。
 もっとも、地上数メートルの間では風速は地面から上へと急激に増すから、電線の高さでは人間の感ずるよりはいくらか強い気流があるには相違ない。
 谷あいの土地であるから地形により数町はなれると風向がよほどちがう場合が多い。そういう場合に、いつでもまたどこでも、その時その場所の風に頭を向けている。時刻がだいたい同じなら太陽の方向は同じであると考えていいのであるから、太陽の影響は、もしいくらかあるにはあるとしてもそれは第二次的以下のものであるという結論になるのである。
 この瑣末さまつな経験はいろいろなことを自分に教えてくれた。
 最初気づいた時にはおそらく、微弱な風がちょうど偶然太陽の方向に流れていたであろう、それを考えないで、とんぼのしりをねじ向けたのは太陽だと早のみ込みをしてしまったのであった。
 しかしまたこの事から、とんぼの止まっているときの体向は太陽の方位には無関係であるという結論を下したとしたら、それはまた第二の早合点という錯誤を犯すことになるであろう。この点を確かめるには、実験室内でできるだけ気流をならしておいて、その中で養ってあるとんぼにいろいろの向きからいろいろの光度の照明をして実験することもできなくはない。しかし実験室内に捕われたとんぼがはたして野外の自由なとんぼと全く同じ性能をもつと仮定してよいかどうかという疑問は残る。
 いちばん安全な方法はやはり野外でたくさんの観測を繰り返し、おのおのの場合の風向風速、太陽の高度方位、日照の強度、その他あらゆる気象要素を観測記録し、それに各場合の地形的環境も参考した上で、統計的分析法を使用して、各要素固有の効果を抽出することであろうと思われる。
 現在測候所で用いているような風速計では感度が不十分であるから、何か特別弱い風を測るに適した風速計の設計が必要になるであろうと思われた。また一方とんぼの群れが時には最も敏感な風向計風速計として使われうるであろうということも想像された。
 風速によってとんぼの向きの平均誤差が減少するであろうと想像される。その影響の量的数式的関係なども少し勉強すれば容易に見つかりそうに思われる。アマチュア昆虫生態学者こんちゅうせいたいがくしゃにとっては好個のテーマになりはしないかという気がしたのであった。
 とんぼがいかにして風の方向を知覚し、いかにしてそれに対して一定の姿勢をとるかということがまた単に生物学者生理学者のみならず、物理学者工学者にまでもいろいろの問題を提供するであろうと思われた。
 人間をとんぼに比較するのはあまりに無分別かもしれない。しかし、ある時代のある国民の思想の動向をある方向に引き向ける第一第二の因子が何かしら存在している、それを観察し認識する能力が現在のわれわれには欠けているのではないかという気がする。そうしていっそう難儀なことはその根本的な無知を自覚しないでほんとうはわからないことをわかったつもりになったりあるいは第二次以下の末梢的まっしょうてき因子を第一次の因子と誤認したりして途方もない間違った施設方策をもって世の中に横車を押そうとするもののあることである。
 人類を幸福に世界を平和に導く道は遼遠りょうえんである、そこに到達する前にまずわれわれは手近なとんぼの習性の研究から完了してかからなければならないではないか。
 このとんぼの問題が片付くまでは、自分にはいわゆる唯物論的社会学経済学の所論をはっきり理解することが困難なように思われるのである。

     三 三上戸

 あるビルディングの二階にある某日本食堂へ昼飯を食いに上がった。デパートの休日でない日はそれほど込み合っていない。
 室内を縦断する通路の自分とは反対側の食卓に若い会社員らしいのが三人、注文したうなぎどんぶりのできるのを待つ間の談笑をしている。もっぱら談話をリードしているその中の一人が何か二言三言言ったと思うと他の二人が声をそろえて爆笑する、それに誘われて話し手自身も愉快そうに大きく笑っている。三四秒ぐらいの週期で三声ぐらい繰り返して笑うと黙ってしまう。また二言三言何か言ったと思うと再び同じような爆笑が起こってそれが三声つづく。また何かいう。また笑う。
 そういうかなり規則正しい爆笑の週期的発作が十秒ないし二十秒ぐらいの間隔をおいて実に根気よく繰り返されていた。
 何を話しているか何がおかしいかわからない傍観者の自分には、この問題的な爆笑が全く機械的な現象のように思われて来た。何かわりに簡単なゼンマイ仕掛けのメカニズムで、これと同じような動作をする三人組のロボットを造ろうと思えばいつでも造れそうな気がした。
 この三人の話していることは何であったにせよ、それと全く同じことを同じ三人がいついかなる場所で話し合ってもこの場合と同じように笑えるかどうか。どうもそうとは限らないであろうと思われた。この場合にこの人たちをこんなにたわいなく笑わせているのは談話の内容よりもむしろこれらの人の内的外的な環境条件ではないかという気がした。
 午前中忙しく働く。それが正午のベルだか笛だかで解放され向こう一時間の自由を保証されて食堂へかけ込む。腹が相当に減っている。まさに眼前に現われんとするごちそうへの期待が意識の底層に軽く動揺している。こういう瞬間が最もたわいのない軽口とそれに対する爆笑を誘発するに適当なものではないか。とにかく、これも未来の生理学的心理学者の研究題目の一つにはなりそうだと思われた。
 そのうちうなぎどんぶりが三人の前に運ばれて食事が始まると同時に今までの間欠的爆笑がぴたりと止まってしまった。食事をしながらも低声で談話は進行していたが、今までとちがって話が急に何か知らないがまじめな軌道へはいり込んだかのように見えた。
 食事のあとでりんごか何か食っていたようであったが、とにかく三人のムードが、食前とはすっかり一変して、なんとなく気重く落ち着いた、眠ったいような雰囲気ふんいきがその食卓の上にただよっているように感ぜられた。
 自分の席から二つ三つ前方の席に、向こうをむいて腰かけている老人の後ろ姿が見えていた。だいぶよれよれになった背広を着て、だん袋のようなズボンをはいているようであった。自分より前から来ていたが注文の品が手間どるので少しじりじりしているらしくなんとなく落ち着かない挙動がうしろから見ている自分の目についた。
 向こう側の三人の爆笑とそれに続く沈静との週期的交代の観察に気を取られて、しばらく前方の老人の事を忘れていたが、突然、実に突然にその老人が卓上の呼び鈴をやけくそにたたきつけるけたたましい音に驚かされてそのほうに注意をよびもどされた。
 老人は近づいて来た給仕を相手に妙に押しつぶしたような声で何か掛け合いをはじめている。「いったいこれはいくらじゃ、向こうのお客は五十銭払った。それだのにわしは七十銭じゃ。――いや、器はちがわん……」といったようなはなはだやるせのない苦情を言っているらしい。給仕頭きゅうじがしらと見える若い白服の男がやって来て小声で何か弁解している。老人はまた「ほかの客にはタオルを持って来るのに、わしには持って来んじゃないか」とも言っているようである。
 これが二十年前のこういう種類の飲食店だと、店の男がもみ手をしながら、とにかく口の先で流麗に雄弁なわび言を言って、頭をぴょこぴょこ下げて、そうした給仕女をしかって見せるところであろうが、時代の一転した一九三五年の給仕監督はきわめて事務的に冷静に米国ふうに事がらを処理していた。びず怒らずいつわらず、しかも鷹揚おうように食品定価の差等について説明する、一方ではあっさりとタオルの手落ちを謝しているようであった。
 しかし悲しいことにはこのたぶん七十歳に遠くはないと思われる老人には今日が一九三五年であることの自覚が鮮明でないらしく見えた。
 この老人のやるせなき不平と堪え難き憤懣ふんまんを傍観していた自分は、妙に少し感傷的な気分になって来た。なんだかひどくさびしいような心細いようなえたいの知れない気持ちが腹の底からわいて来るように思われた。
 ずっと前のことであるが、ある夏の日銀座ぎんざ某喫茶店ぼうきっさてんに行っていたら、隣席に貧しげな西洋人の老翁がいて、アイスクリームを食っていた。それが、通りかかったボーイを呼び止めて何か興奮したような大声で「カントクサン、呼んでください。カントクサン、呼んでください」と繰り返している。やがてやって来たボーイがしらをつかまえて「このアイスクリーム、チトモツメタクナイ。ワタクシもう三つ食べました。チトモツメタクナイ。――。ツメタイノ持って来てください。ツメタイアイスクリーム持って来てください」というのである。
 結局シャーベットか何かを持って来たのでそれでやっとどうやら満足したらしく、傍観者の自分もそれでやっと安堵あんどの思いをしたことであった。
 その「つめたいアイスクリーム」の「つめたい」に特別のアクセントを置いて、なんべんとなく、泣くように訴えるように恨むように、また堪え難い憤懣ふんまんを押しつぶしたような声で繰り返している片言まじりの日本語を聞いていたときに、自分はやはり妙に悲しいようなさびしいような情けないような不思議な感じに襲われて、その当時の印象がいつまでも消えないで残っていた。それも今この眼前の老人の「七十銭」と「タオル」の事件に際して再び如実に思い出したのであった。
 老人がその環境への不満から腹を立てている。しかし周囲の人はそれをきわめて軽く取り扱っている、そうした光景を見るとき自分は子供の時分から妙に一種の悲哀に似たあるものを感じる癖があったような気がする。小説や戯曲でもそういう場面がしばしば自分を感傷的にした。あらゆる悲劇中でそういうものをいちばん悲劇的に感ぜられたような気がする。なぜだかわからない。自分が年を取って後にもしかあんなになったらさぞさびしいだろうと思う、子供としてははなはだしい取り越し苦労のせいであったろうとばかりも思われない。何か幼時の体験と結びついた強い印象の影響かもしれない。
 今ではもう自分自身が老人になりかけている。人が見たらもうなっているのかもしれない。そろそろもうアイスクリームの冷たくないのに屈辱の余味を帯びた憤懣を感じ、タオルの偶然な差別待遇にさえ世に捨てられでもしたような悲しみと憤りを覚えることの可能な年齢に近づきつつあるのかもしれない。
 こんな事をうかうか考えている自分を発見すると同時にまた、現在この眼前の食堂の中に期せずして笑い上戸おこり上戸泣き上戸三幅対さんぷくついそろった会合があったのだという滑稽こっけいなる事実に気がついたのであった。
(昭和十年十一月、中央公論)

底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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