あらすじ
与謝野晶子の「晶子詩篇全集」は、1930年刊行の詩集です。明治33年から執筆された421篇の詩を収め、自序では、献呈先の美濃部民子夫人への感謝と、自身の詩に対する思いが語られています。集められた詩は、恋愛、自然、人生、社会問題、家族など、多岐にわたるテーマを扱い、与謝野晶子の内面世界、当時の社会情勢、そして生命に対する強い意志を感じ取ることができます。独特の表現と豊かな感性で綴られた詩の数々は、現代においても多くの読者を魅了し続けています。
目次
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美濃部民子夫人に献ず
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自序


 美濃部民子様

 わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。
 ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。
 奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。
 この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。
 永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。
 山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。

與謝野晶子
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    装幀 山下新太郎先生


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與謝野晶子
   晶子詩篇全集


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如何いかなれば草よ、
風吹けば一方ひとかたに寄る。
人の身はしからず、
おのが心の向き向きに寄る。
なにき、なにしき、
知らず、だ人は向き向き。


わがいへの天井にねずみめり、
きしきしと音するは
のみとりて像をきざむ人
も寝ぬがごとし。
またその妻と踊りては
廻るひびき
競馬のきほひあり。
わが物書く上に
屋根裏の砂ぼこり
はらはらと散るも
彼等いかで知らん。
されど我は思ふ、
我はねずみと共にめるなり、
彼等に食ひ物あれ、
よき温かき巣あれ、
天井にあなをもけて
折折をりをりに我をのぞけよ。


わが心、ほどえて
高ぶり、しのぐ時、
何時いつ何時いつも君をおもふ。

わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入めいれば、また
何時いつ何時いつも君をおもふ。

つつましく、へりくだり、
しかも命と身を投げだして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦とよひこの君。


時としてひとりを守る。
時として皆としたしむ。
おほかたはけはしきかた
きて命傷つく。
こしかたもれ、
すゑれ。
許せ、我がかる気儘きまゝを。


野の秋更けて、露霜つゆしも
打たるものの哀れさよ。
いよいよ赤むたでの茎、
黒き実まじるコスモスの花、
さてはまた雑草のうられて
まだらを作る黄と緑。


一事ひとことの知りたさに
れを読み、れを読み、
われ知らずを更かし、
取り散らす数数かずかずの書の
座をめぐる古き巻巻まきまき
客人まらうど[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、これを見たまへ、
秋の野のとこ
はぎの花とも。


ともに歌へば、歌へば、
よろこび身にぞ余る。
賢きも智を忘れ、
富みたるも財を忘れ、
貧しき我等も労を忘れて、
愛と美と涙の中に
和楽わらくする一味いちみの人。

歌は長きもし、
悠揚いうやうとしてほがらかなるは
天に似よ、海に似よ。
短きは更に好し、
ちらとの微笑びせう、端的の叫び。
とにかくに楽し、
ともに歌へば、歌へば。


わが恋を人問ひたまふ。
わが恋を如何いかに答へん、
たとふればちさき塔なり、
いしずゑ二人ふたりの命、
真柱まばしらに愛を立てつつ、
そうごとに学と芸術、
汗と血を塗りて固めぬ。
塔は無極むきよくの塔、
更に積み、更に重ねて、
世の風と雨に当らん。
なほひくし、今立つ所、
なほ狭し、今見る所、
あまつ日も多くはさず、
寒きこと二月のごとし。
頼めるは、かすかなれども
だ一つうちなる光。


わがみち常日頃つねひごろ
三人みたり四人よたりとつれだちぬ、
また時として一人ひとり

一人ひとりく日も華やかに、
三人みたり四人よたりくときは
更にこころのたのしめり。

我等はりぬ、おのみち
ひとすぢなれどおのみち
けはしけれどもおのみち


病みぬる人は思ふこと
身のやまひをばきとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は年頃としごろ恋をして
世の大方おほかたのちにしぬ。
かかる立場のがたし、
人に似ざれと、かたよれど。


ここでたれの車が困つたか、
泥が二尺の口をいて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度みたび四度よたび、人のすべつた跡も見える。
其時そのとき両脚りやうあし槓杆こうかんとし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、みづかはげむ者は
折折をりをり、これだけの事にも
その二つと無い命をける。


木は皆そのみづからの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由なたましひを持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ寝台ねだいに起きしする。


わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしはれを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしはれを感じる。
玄関から御門ごもんまでの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太いしまを作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた紫陽花あぢさゐの重たい花束。
どこかでせみが一つ鳴く。


風ふくなかに
まはりの拍子木ひやうしぎの音、
二片ふたひらの木なれど、
かしの木の堅くして、
としつつ、
手ずれ、あぶらじみ、
しんから重たく、
二つ触れては澄みり、
嚠喨りうりやうたる拍子木ひやうしぎの音、
如何いかまはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。


部屋ごとにけよ、
しよくの光。
かめごとにけよ、
ひなげしと薔薇ばらと。
慰むるためならず、
らしむるためなり。
ここに一人ひとりの女、
むるを忘れ、
感謝を忘れ、
ちさき事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。


三十を越えていまめとらぬ
詩人大學だいがく先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
いへむすめか放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。


じやうしま
岬のはて、
さゝしげり、
黄ばみてれ、
その下に赤き※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)きりぎし
近きみぎは瑠璃るり
沖はコバルト、
ここに来てしばすわれば
春のかぜ我にあつまる。


トンネルを又一つでて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦しづうらの口の津。
わがけいする龍三郎りゆうざぶらう[#ルビの「りゆうざぶらう」は底本では「りうざぶらう」]の君、
幾度いくたびこの水をたまへり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
いそみちつつ曲る、
なほしばしあゆまん。


※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユきゆう[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]を過ぎしかど、
われはれにまさる花を見ざりき。
牡丹ぼたんよ、
葉は地中海の桔梗色ききやういろ群青ぐんじやうとを盛り重ね、
花は印度いんどの太陽の赤光しやくくわうを懸けたり。
たとひ色相しきさうはすべてむなしとも、
なにいたまん、
牡丹ぼたんを見つつあるあひだ
豊麗炎※えんねつ[#「執/れんが」、U+24360、11-上-10]の夢に我のひたれば。


きかな、うつくしきかな、
矢をつがへて、ひぢ張り、
引き絞りたる弓のかたち
射よ、射よ、子等こらよ、
鳥ならずして、射よ、
の空を。

まとを思ふことなかれ、
子等こらと弓との共に作る
そのかたちこそいみじけれ、
だ射よ、の空を。


わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏れいろうとして涼し。
目を上げて見れば
かの青空あをそられなり、
その木立こだちれなり、
前なる狗子草ゑのころぐさ
涙しとどにめて
やがて泣けるれなり。


たで枯れて茎なほあかし、
竹さへも秋に黄ばみぬ。
そのみち草に隠れて、
草の露昼も乾かず。
咲き残るダリアの花の
泣くごとく花粉をこぼす。
童部わらはべよ、追ふことなかれ、
向日葵ひまはりの実をむ小鳥。


つばさ無き身の悲しきかな、
常にありぬ、なほありぬ、
大空高く飛ぶ心。
れは痩馬やせうま黙黙もくもく
重き荷を負ふ。人知らず、
人知らず、人知らず。


よその国より胆太きもぶと
そつと降りたる飛行船、
に去れば跡も無し。
我はおろかな飛行船、
君が心をのぞくとて、
見あらはされた飛行船。


もとなゝもと立つ柳、
冬は見えしか、一列の
廃墟はいきよのこ柱廊ちゆうらう[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]と。
春の光に立つ柳、
今日けふこそ見ゆれ、うつくしく、
これは翡翠ひすゐ殿とのづくり。


ものを知らざる易者かな、
我手わがてを見んと求むるは。
そなたに告げん、我がために
占ふことは遅れたり。
かの世のことは知らねども、
わがこの諸手もろで、この世にて、
上なきさちも、わざはひも、
取るべき限り満たされぬ。


をひなる者の歎くやう、
二十はたち越ゆれど、詩を書かず、
をどりを知らず、琴弾かず、
これ若き日とふべきや、
富むいへの子とふべきや。」
これを聞きたる若き叔母、
目のひたれば、手探りに、
をひの手をひにけり、
「いとし、今はいへを出よ、
さびしき我に似るなかれ。」


花を見上げて「悲し」とは
君なにごとをひたまふ。
うれしき問ひよ、さればなり、
春の盛りの短くて、
早たそがれの青病クロシスが、
さとき感じにわななける
女の白き身の上に
毒のむごと近づけば。


おもちやのくまを抱く時は
くまの兄とも思ふらし、
母に先だちく時は
母よりみちを知りげなり。
五歳いつゝに満たぬアウギユスト、
みづからたのむそのさが
母はよしやとみながら、
はた涙ぐむ、人知れず。


紅梅こうばいの花をけたつぼ
正月のテエブル
格別かはつた飾りも無い。
せめて、こんな暇にと、
絵具箱をけて、
わたしは下手へたな写生をする。
紅梅こうばいの花をけたつぼ


だ一つ、あなたに
お尋ねします。
あなたは、今、
民衆のなかに在るのか、
民衆のそとに在るのか、
そのおこたへ次第で、
あなたと私とは
永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]、天と地とに
別れてしまひます。


白きレエスをとほす秋の光
木立こだちと芝生との反射、
そとうち
浅葱あさぎの色に明るし。
立ちて窓を開けば
木犀もくせいひややかに流れる。

椅子いすの上に少しさしうつ向き、
おのが手の静脈の
ほのかに青きを見詰めながら、
静かなり、今朝けさの心。


歌はんとして躊躇ためらへり、
かかる事、昨日きのふ無かりき。
しをふもものうし、
これもまたこの日の心。

れは今ひともとの草、
つつましくれて項垂うなだ[#「項垂る」は底本では「頂垂る」]
悲しみを喜びにして
さわやかに大いなる秋。


なんとして青く、
青く沈み今宵こよひの心ぞ。
指にはさむ筆は鉄の重味、
書きさして見詰むる紙に
水の光流る。


求めたまふや、わが歌を。
かかるさびしきわが歌を。
それは昨日きのふひとしづく、
底に残りし薔薇ばらの水。
それはとせのひとかけら、
砂にうもれし青きたま


憎む、
どの玉葱たまねぎひやゝかに
我を見詰めて緑なり。

憎む、
その皿の余りに白し、
寒し、痛し。

憎む、
如何いかなれば二方にはうの壁よ、
ひ合せて耳を立つるぞ。


がたく悲しければ
我はひぬ「船に乗らん。」
乗りつれどなほさびしさに
またひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物のごと
呼び掛くること無く、
しばらくして、まるき月
波にをどりつればひぬ、
「長き竿さをし、
かの珊瑚さんごうをを釣る。」


鉢のなかの
活溌くわつぱつ緋目高ひめだかよ、
赤く焼けたくぎ
なぜ、そんなに無駄に
水にあなけるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。


星が四方しはうの桟敷に
きらきらする。
今夜の月は支那しなの役者、
やさしい西施せいしふんして、
白い絹団扇うちはで顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。


そのみちをずつとくと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯ひけふ利口者りこうものであつた私、
それ以来、私の前には
岐路えだみち
迂路まはりみちとばかりが続いてゐる。


空には七月の太陽、
白い壁と白い河岸かし通りには
海からのぼる帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板をたゝ
船大工のつちがひびく。
私のひぢをつく窓には
快い南風みなみかぜ
窓のぐ下の潮は
ペパミントのさけになる。


我を値踏ねぶみす、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽にのあらば。


あまつ日を、次に薔薇ばら
それに見とれて時経ときへしが、
疲れたる目を移さんと、
してやうやくに君を見き。


そこの椿つばき木隠こがくれて
なにのぞくや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い椿つばきの花が散る。

君の心をきはめんと、
じつともだしてある身にも
似るか、素直な春の風、
赤いまひが先に立つ。


扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春をとゞむるすべを知る。


花屋の温室むろに、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
のぞくことをば怠るな、
人の心も温室むろなれば。


なみなみげるさかづき
眺めてまみ湿うるむとは、
如何いかうれしき心ぞや。
いざ干したまへ、なほがん、
のちなる酒はうすくとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひぐ酒なれば。


鳥羽の山より海見れば、
清き涙がを伝ふ。
人この故を問はであれ、
口にふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
せる美神※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ニユスの肌のごと
すべて微笑ほゝゑむ入江をば。
志摩の国こそ希臘ギリシヤなれ。


弥生やよひはじめの糸雨いとさめ
をかの草こそ青むなれ。
雪にをどりし若駒わかごま
ひづめのあとのくぼみをも
まろうづめて青むなれ。


あれ、琵琶びはのおと、にはかにも
初心うぶな涙の琵琶びはのおと。
高いのきから、明方あけがた
夢に流れる琵琶びはのおと。

二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキのとひに身を隠し、
それとはずに琵琶びはを弾く。


夜更よふけたつじの薄墨の
せた柳よ、糸やなぎ。
七日なぬかの月が細細ほそほそ
高い屋根からのぞけども、
なんぼ柳はさびしかろ。
物思ふ身も独りぼち。


落葉おちばした木はワイの字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星みやうじやう
黄金きんの句点を一つ打つ。
薄く削つた白金プラチナ
神経質の粉雪よ、
おこりふるふ電線に
ちくちくさはる粉雪よ。


我もやうやく街に立ち、
ふために歌ふなり。
ああ、我歌わがうたれ知らん、
惜しき頸輪くびわを解きて
日毎ひごとに散らすたまぞとは。


おもひは長し、尽きがたし、
歌はいづれも断章フラグマン
たとひ万年生きばとて
飽くこと知らぬ我なれば、
恋の初めのここちせん。


はねまだら刺青いれずみか、
短気なやうなてふが来る。
今日けふ入日いりひの悲しさよ。
思ひなしかは知らねども、
短気なやうなてふが来る。


れも取りたし、れもし、
飽かぬ心のがたし。

時は短し、身は一つ、
多く取らんはかたからめ、
中に極めて優れしを
今は得んとぞ願ふなる。

されば近きをさしきて、
及ばぬかたへ手を伸ぶる。
[#ここで段組み終わり]
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小序。詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。散文の横書にあらずやと云ふ非難は、放縦なる自由詩の何れにも伴ふが如し。この欠点を救ひて押韻の新体を試みる風の起らんこと、我が年久しき願ひなり。みづから興に触れて折折に試みたる拙きものより、次に其一部を抄せんとす。押韻の法は唐以前の古詩、または欧洲の詩を参照し、主として内心の自律的発展に本づきながら、多少の推敲を加へたり。コンソナンツを避けざるは仏蘭西近代の詩に同じ。毎句に同韻を押し、または隔句に同語を繰返して韻に押すは漢土の古詩に例多し。(一九二八年春)

    ×
砂を掘つたら血が噴いて、
入れた泥鰌どぢやうりようになる。
ここでしばらく絶句して、
序文につてが明けて、
覚めた夢から針が降る。
    ×
時に先だち歌ふ人、
しひたげられて光る人、
豚に黄金こがねをくれる人、
にがいわらひを隠す人、
いつも一人ひとりで帰る人。
    ×
赤い桜をそそのかし、
風のくせなるしのび足、
ひとりで聞けば恋慕れんぼらし。
雨はもとより春の糸、
窓の柳も春の糸。
    ×
見る夢ならば大きかれ、
うつくしけれど遠き夢、
けはしけれども近き夢。
われは前をば選びつれ、
わかき仲間はのちの夢。
    ×
すべてが消える、武蔵野の
砂を吹きまく風の中、
人も荷馬車も風の中。
すべてが消える、きんの輪の
太陽までが風の中。
    ×
花を抱きつつをののきぬ、
花はこころにかぶさりぬ。
論じたまふな、き、しき、
なにこの世にわかつべき。
花と我とはかがやきぬ。
    ×
凡骨ぼんこつさんの大事がる
薄い細身の鉄ののみ
髪に触れてもの欠ける
もろいのみゆゑ大事がる。
わたしも同じもろいのみ
    ×
林檎りんごが腐る、を放つ、
冷たいゆゑへられぬ。
林檎りんごが腐る、人は死ぬ、
最後のふみが人を打つ、
わたしは君をかなしまぬ。
    ×
いつもわたしのむらごころ、
真紅しんく薔薇ばらを摘むこころ、
雪を素足で踏むこころ、
青い沖をばくこころ、
切れたいとをばつぐこころ。
    ×
韻がひびかぬ、死んでゐる、
それでしきりに書いてみる。
皆さんの愚痴、おのが無智、
れがのぞいた垣のうち
戸は立てられぬ人の口。
    ×
泥の郊外、雨が降る、
れたかまどに木がいぶる、
踏切番が旗を振る、
ぼうぼうとした草の中
屑屋くづやも買はぬ人のふる
    ×
指のさはりのやはらかな
青い煙のにほやかな、
好きな細巻、名はDIANAデイアナ
命のやみに火をつけて、
光る刹那せつなの夢の華。
    ×
青い空から鳥がくる、
野辺のべのけしきは既に春、
細い枝にも花がある。
遠い高嶺たかねと我がこころ
すこしの雪がまだ残る。
    ×
つちを上げる手、くは打つ手、
扇を持つ手、筆とる手、
炭をつかむ手、を抱く手、
かげに隠れてだひとつ
見えぬは天をゆびさす手。
    ×
高い木末こずゑに葉が落ちて
あらはに見える、小鳥の巣。
鳥は飛び去り、冬が来て、
風が吹きまく砂つぶて。
ひろい野中のなかの小鳥の巣。
    ×
人は黒黒くろぐろぬり消せど
すかして見える底のきん
時の言葉はへだつれど
ゆるは歌のきんの韻。
ままよ、しばらすみに居ん。
    ×
いつか大きくなるままに
子らは寝にず、母のそば
母はまだまだひたきに、
きんのお日様、おし驢馬ろば
おとぎばなしひたきに。
    ×
ふくろふがなく、宵になく、
山の法師がつれてなく。
わたしは泣かない気でゐれど、
からりと晴れた今朝けさの窓
あまりに青い空に泣く。
    ×
おち葉した木が空を打ち、
枝も小枝も腕を張る。
ほんにどの木も冬に勝ち、
しかと大地たいちに立つてゐる。
女ごころはいぢけがち。
    ×
玉葱たまねぎがせても
青いかへるはむかんかく。
裂けた心を目にしても
廿にじふ世紀は横を向く、
太陽までがすましく。
    ×
話は春の雪の沙汰さた
しろい孔雀くじやくのそだてかた、
巴里パリイの夢をもたらした
荻野をぎの綾子あやこの宵のうた
我子わがこがつくる薔薇ばらはた
    ×
れも彼方かなたきたがる、
明るい道へ目を見張る、
おそらく其処そこに春がある。
なぜかくほどその道が
今日けふのわたしに遠ざかる。
    ×
青い小鳥のひかるはね
わかい小鳥の躍る胸、
遠い海をば渡りかね、[#「渡りかね、」は底本では「渡りかね、」」]
泣いてゐるとはれが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ峰。
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つうちで象をつうくつた[#「つうくつた」は底本では「つくつた」]
大きな象が目に立つた、
象の祭がさあかえた、
象がにはかにえだした、
えたら象がこおわれた。
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まぜ合はすのは目ぶんりやう、
その振るときのたのしさう。
かつくてえるのことでない、
わたしの知つたことでない、
若い手で振る無産党。
    ×
鳥を追ふとて安壽姫あんじゆひめ
母にひたや、ほおやらほ。
わたしもひたや、なほひと目、
載せて帰らぬ遠い夢、
どこにゐるやら、真赤まつかな帆。
    ×
鳥屋が百舌もずを飼はぬこと、
そのひと声に百鳥ももどり
おそれておしに変ること、
それに加へて、あの人が
なぜか折折をりをりだまること。
    ×
さかしに植ゑた戯れに
あかい芽をふくつゑがある。
指を触れたか触れぬ
石からにじが舞ひあがる。
寝てゐたへうの目が光る。
    ×
われにつれなき今日けふの時、
花を摘み摘みき去りぬ。
だやさしきは明日あすの時、
われにせんと、光るきぬ
とせをかけて手に編みぬ。
    ×
がらすを通し雪が積む、
こころのさんに雪が積む、
いて見えるは枯れすすき、
うすい紅梅こうばい、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
    ×
はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくもそろうた赤インキ、
ろしあまがひの左書ひだりがき、
づは二三日にさにちあたらしい。
    ×
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さにが細る、
こころ余れど身がこほる。
うぐひす、そなたも雪の中。
    ×
あまりに明るい、奥までも
けはなちたるがらんだう、
つばめの出入でいりによけれども
ないしよにふになんとせう、
闇夜やみよも風が身にまう。
    ×
摘め、摘め、れも春の薔薇ばら
今日けふの盛りのあか薔薇ばら
今日けふいたら明日あす薔薇ばら
とがるつぼみの青い薔薇ばら
摘め、摘め、れも春の薔薇ばら
    ×
おのが痛さを知らぬ虫、
折れたあしをもむであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
はずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
    ×
夢にをりをり蛇をる、
蛇に巻かれて我が力
ようこと無しに蛇をる。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人をる。
    ×
身をふに過ぐ、ほかを見よ、
黙黙もくもくとして我等あり、
我が痛さより痛きなり。
を見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものはおのれなり。
    ×
論ずるをんな糸らず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていとさかし、
言葉は多し、手は白し、
れをぢずばなにづ。
    ×
人に哀れをひてのち
涙を流す我が命。
うらはづかしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああれとても人のうち
    ×
なみのひかりか、月の出か、
寝覚ねざめてらす、窓の中。
遠いところでかもき、
心にとほる、海の秋。
宿は岬の松のをか
    ×
十国じつこく峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
はなれたれば、人を見て
みちを譲らぬ牛もある。
海に真赤まつかな日が落ちる。
    ×
すべての人を思ふより、
一人ひとりにはそむくなり。
いとさびしきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
    ×
雲雀ひばりは揚がる、麦生むぎふから。
わたしの歌は涙から。
空の雲雀ひばりもさびしかろ、
はてなく青いあのうつろ、
ともにまれぬ歌ながら。
    ×
鏡のよりづるとき、
今朝けさの心ぞやはらかき。
鏡のにはちりも無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥インコの色のべにつばき。
    ×
そこにありしはだ二日、
十和田の水がの秋の
呼吸いきなほする、夢の中。
せて此頃このごろおもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
    ×
つと休らへば素直なり、
ふぢのもとなる低き椅子いす
花をとほして日のひかり
うす紫の陰影かげす。
物みな今日けふは身にくみす。
    ×
海の颶風あらしは遠慮無し、
船を吹くこと矢のごとし。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
    ×
笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋のもろさも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
    ×
地獄の底の火に触れた、
薔薇ばらうづまるとこに寝た、
きん獅子ししにも乗りれた、
てんちうする日もいた、
おのが歌にも聞きれた。
    ×
春風はるかぜあやの筆
すべての物の上をで、
光と色につくす派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹ぼたんの花と人のそで
    ×
涙にれて火が燃えぬ。
今日けふの言葉に気息いきがせぬ、
絵筆をれど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥がぬ、
空には白い月が死ぬ。
    ×
あの白鳥はくてうも近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春のその
みちの砂にも歌がある。
    ×
大空おほそらならば指ささん、
立つ波ならばれてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは形無かたちなし、
偽りとても如何いかにせん。
    ×
人わがかどを乗りてく、
やがて消え去る、森の奥。
今日けふも南の風が吹く。
馬に乗る身はいとはぬか、
野を白くする砂の中。
    ×
鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
ひなを素直に育てばや、
育てしひなを吹く風も
ちりも無き日に放たばや。
    ×
牡丹ぼたんのうへに牡丹ぼたんちり、
真赤まつかに燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくのごとくに派手なれば。[#「なれば。」は底本では「なれば、」]
    ×
ねやにて聞けば[#「聞けば」は底本では「聞けは」]朝の雨
なかば現実うつゝ、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
    ×
赤い椿つばきの散るのき
ほこりのつもるうすきね
むしろに干すはなんの種。
少し離れてかきしに
帆柱ばかり見える船。
    ×
たび曲つてのぼみち
曲り目ごとに木立こだちより
青い入江いりえの見えるみち
椿つばきに歌ふ山の鳥
花踏みちらすこけみち
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明日あすよ、明日あすよ、
そなたはわたしの前にあつて
まだ踏まぬ未来の
不可思議のみちである。
どんなに苦しい日にも、わたしは
そなたにこがれてはげみ、
どんなにたのしい日にも、わたしは
そなたを望んで踊りあがる。

明日あすよ、明日あすよ、
死とうゑとに追はれて歩くわたしは
たびたびそなたに失望する。
そなたがやがて平凡な今日けふに変り、
灰色をした昨日きのふになつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣るにほひゑさだ、
光に似た煙だとのろふことさへある。

けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
明日あすよ、明日あすよ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の明日あすがある。
よしや、そなたが涙を、くいを、愛を、
名を、歓楽を、なにを持つて来ようとも[#「来ようとも」は底本では「来やうとも」]
そなたこそ今日けふのわたしを引く力である。


わがけいする画家よ、
ねがはくは、我がために、
一枚の像をゑがきたまへ。

バツクにはだ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の脂色やにいろを交ぜたまへ。

髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせずすわりて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ無底むていふちのぞ姿勢かたち

目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅くしまりぬ、
いまひとたびも言はず歌はざるれのごとく。

わがけいする画家よ、
この像の女に、
明日あすふ日のありと知らば、
トワルのいづれかに黄金きんの目の光る一羽いちはふくろふを添へたまへ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。

さて画家よ、彩料さいれうには
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落はくらく褪色たいしよくとは
恐らくこの像の女の運命なるべければ。


晶子、ヅアラツストラを一日一夜いちにちいちやに読み終り、
そのあかつき、ほつれし髪をかき上げてつぶやきぬ、
ことばの過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の動悸どうきうすものとほしてふるへ、
その全身の汗はさんごとくなりき。

さて十日とをかたり。
晶子は青ざめて胃弱の人のごとく、
この十日とをか良人をつとと多く語らず、我子等わがこらいだかず。
晶子のまぼろしに見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。


あかねふ草の葉をしぼれば
臙脂べにはいつでもれるとばかり
わたしは今日けふまで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な臙脂べにれるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに真赤まつか臙脂べにれるのを。


アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳いつつになるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは
ほれぼれとれを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、なんにならう。
私はおまへにつて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変しんぺん不思議を示し、
玲瓏れいろう円転として踊り廻る。


硝子ガラスそとのあけぼのは
青白あおしろまゆのここち……
ひとすぢほのかに
音せぬ枝珊瑚えださんごの光を引きて、
わが産室うぶやの壁をふものあり。
と見れば、うれし、
初冬はつふゆのかよわなる
日のてふづるなり。[#「出づるなり。」は底本では「出づるなり、」]

ここに在るは、
たび死より逃れてかへれる女――
青ざめし女われと、
生れて五日いつか目なる
我が藪椿やぶつばきの堅きつぼみなす娘エレンヌと
一瓶いちびん薔薇ばらと、
さて初恋のごと含羞はにかめる
うす桃色の日のてふと……
静かに清清すがすがしきあけぼのかな。
たふとくなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者のごと
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日はいにち教徒の信のごとし、
わがさしのぶる諸手もろでを受けよ、
日よ、あけぼの女王ぢよわうよ。

日よ、君にもよると冬の悩みあり、
千万年の昔より幾億たび、
死の苦にへて若返る
あまつ焔の力の雄雄ををしきかな。
われはなほ君に従はん、
わが生きて返れるはわずかたびのみ
わづかたび絶叫と、血と、
死のやみとを超えしのみ。


ああ颱風、
初秋はつあきの野を越えて
都を襲ふ颱風、
なんぢこそたくましき大馬おほうまむれなれ。

黄銅くわうどうせな
鉄のあし黄金きんひづめ
眼に遠き太陽を掛け、
たてがみに銀を散らしぬ。

火の鼻息はないき
水晶の雨を吹き、
あらく斜めに、
駆歩くほす、駆歩くほす。

ああおさへがたき
てん大馬おほうまむれよ、
いかれるや、
戯れて遊ぶや。

大樹だいじゆのがれんとして、
地中の足を挙げ、
骨をくじき、手を折る。
空には飛ぶ鳥も無し。

人はおそれて戸をせど、
世を裂くひづめの音に
屋根は崩れ、
いへは船よりも揺れぬ。

ああ颱風、
人はなんぢによりて、
今こそむれ、
気不精きぶしやう沮喪そさうとより。

こころよきかな、全身は
巨大なる象牙ざうげ
喇叭らつぱのここちして、
颱風と共にいなゝく。


おお十一月、
冬が始まる。
冬よ、冬よ、
わたしはそなたをたゝへる。
弱い者と
なまけ者とには
もとよりつらい季節。
しかし、四季の中に、
どうしてそなたを欠くことが出来よう。
すこやかな者と
勇敢な者とが
めされる季節、
いな、みづからめす季節。
おお冬よ、
そなたの灰色の空は
人をあつしる。
けれども、常に心の曇らぬ人は
その空の陰鬱いんうつつて、
そなたの贈る
沍寒ごかん[#ルビの「ごかん」は底本では「ごうかん」]と、霜と、
雪と、北風とのなかに、
常に晴やかな太陽を望み、
春のぎ、
夏の光を感じることが出来る。
青春を引立てる季節、
ほんたうに血を流す
活動の季節、
意力をむち打つ季節、
幻想を醗酵する季節、
冬よ、そなたの前に、
一人ひとり厭人主義者ミザントロオプも無ければ、
一人ひとり卑怯ひけふ者も無い、
人は皆、十二の偉勲を建てた
ヘルクレスの子孫のやうに見える。

わたしは更に冬をたゝへる。
まあなん
優しい、なつかしいの一面を
冬よ、そなたの持つてゐることぞ。
その永い、しめやかなよる。……
ほだく田舎の囲炉裏いろり……
都会のサロンの煖炉ストオブ……
おお家庭の季節、夜会やくわいの季節
会話の、読書の、
音楽の、劇の、をどりの、
愛の、鑑賞の、哲学の季節、
乳呑児ちのみごのために
びんの牛乳の腐らぬ季節、
さいセエヴルのさかづき
夜会服ロオブデコルテ
貴女きぢよも飲むリキユルの季節。
とりき日本では
寒念仏かんねんぶつの、
臘八らふはち坐禅の、
夜業の、寒稽古かんげいこの、
きぬたの、かうの、
茶の湯の季節、
紫の二枚がさね
唐織からおりの帯の落着く季節、
梅もどきの、
寒菊かんぎくの、
茶の花の、
寒牡丹かんぼたんの季節、
寺寺てらでらの鐘のえる季節、
おお厳粛な一面の裏面うらに、
心憎きまで、
物の哀れさを知りぬいた冬よ、
たのしんでおぼれぬ季節、
感性と理性との調和した季節。
そなたは万物の無尽蔵、
ああ、わたしは冬の不思議を直視した。
うれしや、今、
その冬が始まる、始まる。

収穫とりいれのちの田に
落穂おちほを拾ふ女、
日の出前に霜を踏んで
工場こうばに急ぐ男、
兄弟よ、とにかく私達は働かう、
一層働かう、
冬の日の汗する快さは
わたし達無産者の景福けいふくである。
おお十一月、
冬が始まる。


友のひたひのうへに
刷毛はけの硬さもて逆立さかだつ黒髪、
その先すこしく渦巻き、
中に人差指ほど
あやまちて絵具の――
ブラン・ダルジヤンのきしかと……
また見直せば
遠山とほやまひだ
一筋ひとすぢ降れるかと。

しかれども
友は童顔、
いつまでも若き日のごと
物言へばみ、
目は微笑ほゝゑみて、
いつまでも童顔、
とし四十しじふとなりたまへども。

とし四十しじふとなりたまへども、
若き人、
みづみづしき人、
初秋はつあきの陽光を全身に受けて、
人生の真紅しんくの実
そのものと見ゆる人。

友は何処いづこく、
なほなほも高きへ、広きへ、
胸張りて、踏みしめてく。
われはその足音に聞きり、
その行方ゆくへを見守る。
科学者にして詩人、
に幾倍する友の欲の
おもりかに華やげるかな。

同じ世に生れて
相知れること二十年、
友の見る世界の片端に
我もかつて触れにき。
さはへど、今はわれ
今はわれやうやくにさびし。
たとふれば我心わがこゝろ
薄墨いろの桜、
だ時として
雛罌粟ひなげしの夢を見るのみ。

うらやまし、
友は童顔、
いつまでも童顔、
今日けふへば、いみじき
気高けだかささへも添ひたまへる。


金糸雀カナリアひなを飼ふよりは
我子わがこを飼ふぞおもしろき。
ひな初毛うぶげはみすぼらし、
おぼつかなしや、足取あしどりも。
たらひのなかに湯浴ゆあみする
よき肉づきの生みの
白き裸を見るときは、
母の心を引立たす。
手足も、胴も、おもざしも
を飼ふ親に似たるこそ、
かの異類なる金糸雀カナリヤ
ひなにまさりて親しけれ。
かくて、いつしか親のごと
物を思はれ、物はん。
詩人、琴弾ことひき、医師、学者、
王、将軍にならずとも、
大船おほふね火夫くわふ、いさなとり、
乃至ないし活字を拾ふとも、
我は我子わがこをはぐくまん、
金糸雀カナリヤひなを飼ふよりは。
(一九〇一年作)
いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
世に生れしはわざはひか、
たれこれを「いな」とはん。

されど、また君達は知れかし、
これがために、我等――親も、子も――
一切の因襲を超えて、
自由と愛に生きることを、
みづからの力にりて、
新らしき世界を始めることを。

いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
世に生れしは幸ひか、
たれこれを「いな」とはん。
いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
今、君達のために、
この母は告げん。

君達は知れかし、
我等わがらいへに誇るべき祖先なきを、
私有する一尺の土地も無きを、
遊惰いうだの日を送るさいも無きを。
君達はまた知れかし、
我等――親も子も――
行手ゆくてには悲痛の森、
寂寞せきばくみち
その避けがたきことを。


人の身にしておの
愛することは天地あめつち
成しのままなる心なり。
けものも、鳥も、物はぬ
木さへ、草さへ、おのづから
ひなたねとをはぐくみぬ。

児等こらません欲なくば
人はおほかたおこたらん。
児等こらの栄えを思はずば
人はその身を慎まじ。
うつくしさ素直さに
すべての親はきよまりぬ。

さても悲しや、今の世は
働くのうを持ちながら、
職に離るる親多し。
いとしき心余れども
を養はんことがたし。
如何いかにすべきぞ、人に問ふ。


正月を、わたしは
元日ぐわんじつから月末つきずゑまで
大なまけになまけてゐる。
勿論もちろん遊ぶことは骨が折れぬ、
けれど、ほかから思ふほど
決して、決して、おもしろくはない。
わたしはあの鼠色ねずみいろの雲だ、
晴れた空に
重苦しくとゞまつて、
陰鬱いんうつな心を見せて居る雲だ。
わたしはえず動きたい、
なにかをしたい、
さうでなければ、このいへ
大勢が皆飢ゑねばならぬ。
わたしはいらいらする。
それでゐてなにも手にかない、
人知れず廻る
なまけぐせの毒酒どくしゆ
ああ、わたしはてられた。
今日けふこそはなにかしようと思ふばかりで、
わたしは毎日
つくねんと原稿を見詰めてゐる。
もう、わたしの上に
春の日はさないのか、
春の鳥はかないのか。
わたしのうちの火は消えたか。
あのじつと涙をむやうな
鼠色ねずみいろの雲よ、
そなたも泣きたかろ、泣きたかろ。
正月はいたづらにつてく。


おお、寒い風が吹く。
皆さん、
もう夜明よあけ前ですよ。
たがひに大切なことは
「気をけ」の一語いちご
まだ見えて居ます、
われわれの上に
大きな黒い手。

だ片手ながら、
空にそびえて動かず、
その指は
じつと「死」を[#「「死」を」は底本では「「死」と」]指してゐます。
石でされたやうに
我我の呼吸いきは苦しい。

けれど、皆さん、
我我は目が覚めてゐます。
今こそはつきりとした心で
見ることが出来ます、
太陽の在所ありかを。
また知ることが出来ます、
華やかな朝の近づくことを。

大きな黒い手、
それはいやが上に黒い。
その指はなほ
じつと「死」を指して居ます。
われわれの上に。


わが絵師よ、
わが像をたまはんとならば、
ねがはくば、ただ写したまへ、
わがひとみのみを、ただ一つ。

宇宙の中心が
太陽の火にあるごとく、
われを端的に語る星は、
ひとみにこそあれ。

おお、愛欲のほのほ
陶酔のにじ
直観の電光、
芸術本能の噴水。

わが絵師よ、
紺青こんじやうをもて塗りぶしたる布に、
ただ一つ、写したまへ、
わが金色こんじきひとみを。


大錯誤おほまちがひの時が来た、
赤い恐怖おそれの時が来た、
野蛮がひろはねを伸し、
文明人が一斉に
食人族しよくじんぞく仮面めんる。

ひとり世界を敵とする、
日耳曼人ゲルマンじんの大胆さ、
健気けなげさ、しかし此様このやう
悪の力の偏重へんちよう
調節されずにまれよか。

いまは戦ふ時である、
戦嫌いくさぎらひのわたしさへ
今日けふ此頃このごろは気があがる。
世界の霊と身と骨が
一度にうめく時が来た。

大陣痛だいぢんつうの時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い血汐ちしほの洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。

れがすべての人類に
真の平和を持ちきた
精神アアムでなくてんであろ。
どんな犠牲を払う[#「払う」はママ]ても
いまは戦ふ時である。


歌はどうして作る。
じつと
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
なにを。
「真実」を。

「真実」は何処どこに在る。
最も近くに在る。
いつも自分と一所いつしよに、
この目のもと
この心の愛する前、
わが両手の中に。

「真実」は
うつくしい人魚、
つ踊る、
ぴちぴちと踊る。
わが両手の中で、
わが感激の涙にれながら。

疑ふ人は来て見よ、
わが両手の中の人魚は
自然の海を出たまま、
一つ一つのうろこ
大理石おほりせき[#ルビの「おほりせき」はママ]純白じゆんぱくのうへに
薔薇ばらの花の反射を持つてゐる。


みんななにかを持つてゐる、
みんななにかを持つてゐる。
後ろから来る女の一列いちれつ
みんななにかを持つてゐる。

一人ひとりは右の手の上に
小さな青玉せいぎよくの宝塔。
一人ひとり薔薇ばら睡蓮すいれん
ふくいくと香る花束。

一人ひとりは左のわき
革表紙かはべうし金字きんじの書物。
一人ひとりは肩の上に地球儀。
一人ひとりは両手に大きな竪琴たてごと

わたしにはんにも無い
わたしにはんにも無い。
身一つで踊るよりほか
わたしにはんにも無い。


押しやれども、
またしてもひざのぼる黒猫。

生きた天鵝絨びろうどよ、
憎からぬ黒猫の手ざはり。

ねむたげな黒猫の目、
その奥から射る野性の力。

どうした機会はずみ[#ルビの「はずみ」は底本では「はみ」]やら、をりをり、
緑金りよくこんに光るわがひざの黒猫。


競馬の馬の打勝たんとする鋭さならで
曲馬きよくばの馬は我をてし
服従の素速すばやき気転なり。

曲馬きよくばの馬のせたるは、
競馬の馬のたくましくうつくしき優形やさがたと異なりぬ。
常にひもじきがめ。

競馬の馬もいとまれむちを受く。
されどむしろ求めてむち打たれ、その刺戟にをどる。
曲馬きよくばの馬のたゞれてゆるなき打傷うちきずいづれぞ。

競馬の馬と、曲馬きよくばの馬と、
たまたいち大通おほどほりき会ひし時、
競馬の馬はその同族の堕落を見て涙ぐみぬ。

曲馬きよくばの馬は泣くべきいとまも無し、
慳貪けんどんなる黒奴くろんぼ曲馬きよくば師は
広告のため、楽隊のはやしにれて彼をあゆませぬ……


手風琴てふうきんが鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬ろばくやうな、
鉄葉ブリキふるへるやうな、
歯が浮くやうな、
いや手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。

鳴らさないで下さい、
そんなに仰山ぎやうさん手風琴てふうきんを、
近所合壁がつぺきから邪慳じやけんに。
あれ、柱の割目われめにも、
電灯のたまの中にも、
天井にも、卓の抽出ひきだしにも、
手風琴てふうきんの波が流れ込む。
だれた手風琴てふうきん
しよざいなさの手風琴てふうきん
しみつたれた手風琴てふうきん
からさわぎの手風琴てふうきん
鼻風邪を引いた手風琴てふうきん
中風症よい/\手風琴てふうきん……

いろんな手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい、
わたしにはこの夜中よなかに、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……[#「……」は底本では「‥‥」]
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の一筋ひとすぢのやうな声、
水晶質の細い声……

手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。
わたしにかへらうとするあのかすかな声が
乱される……紛れる……
途切れる……き消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……

手風琴てふうきんを鳴らすな」と
思ひ切つて怒鳴どなつて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な態度ゼストばかり……
手風琴てふうきんが鳴る……うるさく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、かめの花も、
手風琴てふうきんに合せて踊つてゐる……

さうだ、こんなところに待つて居ず
駆け出さう、あのやみの方へ。
……さて、わたしの声が彷徨さまよつてゐるのは
森か、荒野あらのか、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事なたふとい声の在処ありかを。


「我」とはなにか、く問へば
物みな急に後込しりごみし、
あたりは白く静まりぬ。
いとよし、答ふる声なくば
みづからうちこと問はん。

「我」とはなにか、く問へば
あいぞうと名のりつつ
四人よたりの女あらはれぬ。
またしんと名のりつつ
二人ふたりの男あらはれぬ。

われは其等それらをうち眺め、
しばらくありてつぶやきぬ。
「心の中のもののけよ、
そは皆われに映りたる
世と他人との姿なり。

知らんとするは、ほだされず
ねず、まじらず、従はぬ、
初生うぶ本来の我なるを、
消えよ」とへば、諸声もろごゑ
泣き、いきどほり、のゝしりぬ。

今こそわれはひやゝかに
いとよく我を見得みうるなれ。
「我」とはなにか、答へぬも
まことあはれや、おしにして、
をどりを知れる肉なれば。


たそがれどきか、明方あけがたか、
わたしの泣くは決まり無し。
蛋白石色オパアルいろ[#「蛋白石色」は底本では「胥白石色」]のあの空が
ふつと渦巻く海に見え、
波間なみま[#「波間に」は底本では「波問に」]もがく白い手の
けたサツフオオ、死にきれぬ
若い心のサツフオオを
ありあり眺めて共に泣く。
またあぶく昼さがり、
金のはくおく連翹れんげうと、
銀と翡翠ひすゐ象篏ざうがん
丁子ちやうじの花ののなかで、
あつ[#「執/れんが」、U+24360、66-下-13]い吐息をほつと
若い吉三きちさの前髪を
わたしの指はでながら、
そよ風のやうに泣いてゐる。


榛名山はるなさんの一角に、
段また段を成して、
羅馬ロオマ時代の
野外劇場アンフイテアトル[#ルビの「アンフイテアトル」は底本では「アンフイテトアル」]ごとく、
斜めに刻みけられた
桟敷がた伊香保いかほの街。

屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿やどである。
そして、はんの若葉の光が
柔かい緑で
街全体をぬらしてゐる。

街を縦に貫く本道ほんだう
雑多の店にふちどられて、
長い長い石の階段を作り、
伊香保いかほ神社の前にまで、
エツチの字を無数に積み上げて、
殊更ことさらに建築家と絵師とを喜ばせる。


木魂こだまは声の霊、
如何いかかすかなる声をも
早く感じ、早く知る。
常に時に先だつ彼女は
また常に若し。

近き世の木魂こだま
いちの中、大路おほぢ
並木のかげたゝずみ、
常に耳を澄まして聞く。
新しき生活の
諧音かいおん
如何いかに生じ、
如何いかに移るべきかを。

木魂こだままれにも
肉身にくしんを示さず、
人のれて
驚かざらんことをおそる。
折折をりをり
叫びつ笑ふのみ。


小高こだかい丘の上へ、
なにかを叫ぼうとして、
あとから、あとからと
駆け登つてく人。

丘の下には
多勢おほぜいの人間が眠つてゐる。
もう、よるでは無い、
太陽は中天ちうてんに近づいてゐる。

登つてく人、く人が
丘の上に顔を出し、
胸を張り、両手を拡げて、
「兄弟よ」と呼ばはる時、
さつと血煙ちけぶりがその胸から立つ、
そしてその人は後ろに倒れる。
陰険な狙撃そげきの矢にあたつたのである。
次の人も、また次の人も、
みんな丘の上で同じ様に倒れる。

丘の下には
眠つてゐる人ばかりで無い、
目をさました人人ひとびとの中から
丘に登る予言者と
その予言者を殺す反逆者とが現れる。

多勢おほぜいの人間はなにも知らずにゐる。
もう、よるでは無い、
太陽は中天ちうてんに近づいて光つてゐる。


詩は実感の彫刻、
ぎやうぎやう
せつせつとのあひだ陰影かげがある。
細部を包む
陰影いんえい奥行おくゆき
それの深さに比例して、
自然の肉の片はしが
くつきりと
ぎやうおもてに浮き上がれ。

わたしの詩は粘土細工、
実感の彫刻は
材料にりません。
省け、省け、
一線も
余計なものを加へまい。
自然の肉の片はしが
くつきりと
ぎやうおもてに浮き上がれ。


宇宙から生れて
宇宙のなかにゐる私が、
どうしてか、
その宇宙から離れてゐる。
だから、私はさびしい、
あなたと居てもさびしい。
けれど、また、折折をりをり
私は宇宙にかへつて、
私が宇宙か、
宇宙が私か、わからなくなる。
その時、私の心臓が宇宙の心臓、
その時、私の目が宇宙の目、
その時、私が泣くと、
万事を忘れて泣くと、
屹度きつと雨が降る。
でも、今日けふの私はさびしい、
その宇宙から離れてゐる。
あなたと居てもさびしい。


ひともとの
冬枯ふゆがれ
円葉柳まろはやなぎ
野の上に
ゴシツク風の塔を立て、

そのもと
野を越えて
白く光るは
遠からぬ
都の街の屋根と壁。

ここまでは
振返ふりかへ
都ぞ見ゆる。
後ろ髪
引かるる思ひぬは無し。

さて一歩、
つれなくも
円葉柳まろはやなぎ
離るれば、
たれも帰らぬ旅の人。


わが髪は
又もほつるる。
朝ゆふに
なほざりならずくしとれど。

ああ、たれ
うつくしく
ひとすぢも
乱さぬことを忘るべき。

ほつるるは
髪のさがなり、
やがて又
おさへがたなき思ひなり。


わが知れる一柱ひとはしらの神の御名みなたたへまつる。
あはれ欠けざることなき「孤独清貧せいひん」の御霊みたま
ぐれんどうのみことよ。

ぐれんどうのみことにもたまきぬあり。
よれよれのしはの波、酒染さかじみの雲、
煙草たばこ焼痕やけあとあられ模様。

もとよりせにたまへば
きぬとほして乾物ひものごとく骨だちぬ。
背丈の高きは冬の老木おいきのむきだしなるがごとし。

ぐれんどうのみこと※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみは音楽なり、
えず不思議なる何事なにごとかを弾きぬ。
どす黒く青き筋肉の蛇のふし廻し………

わが知れる芸術家の集りて、
女と酒とのあるところ
ぐれんどうのみこと必ず暴風あらしごときたりてのゝしたまふ。

何処いづこより来給きたまふや、知りがたし、
一所いつしよ不住ふぢゆうの神なり、
きちがひ茄子なすの夢のごとく過ぎたまふ神なり。

ぐれんどうのみこと御言葉みことばの荒さよ。
人皆その眷属けんぞくごとくないがしろに呼ばれながら、
なほこの神と笑ひ興ずることを喜びぬ。


あれ、あれ、あれ、
あとからあとからとのし掛つて、
ぐいぐいと喉元のどもとを締める
凡俗のせいの圧迫………
心は気息いきも無く、
どうすればいいかと
だ右へ左へうろうろ………

もうれが癖になつた心は、
大やうな、初心うぶな、
時には迂濶うくわつらしくも見えた
あのいたらしい様子をまるで失ひ、
氷のやうにえた
細身の刄先はさき苛苛いらいら
ふだんにとがらす冷たさ。

そして心は見て見ぬふり……
凡俗のせいの圧迫に
思ひきりぶつかつて、
思ひきりねとばされ、
ばつたりしへされた
これ、この無残なかへるを――
わたしの青白い肉を。

けれどかへるは死なない、
びくびくとふるひつづけ、
次の刹那せつな
もうぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだしたはらわた
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そしての人間のかへるからは血がれる。

でもなほ心は見て見ぬふり……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつとみしめ、
黙つてだうろうろと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾機ばねの上に乗つた人形だ。


被眼布めかくししたる女にて我がありしを、
その被眼布めかくしかへりてれに
しき光を導き、
よく物をとほして見せつるを、
我がかた淡紅うすあかき、白き、
とりどりの石の柱ありてりしを、
花束と、没薬もつやくと、黄金わうごんの枝の果物と、
我が水鏡みづかゞみする青玉せいぎよくの泉と、
また我に接吻くちづけて羽羽はばたく白鳥はくてうと、
其等それらみな我のかたへを離れざりしを。

ああ、我が被眼布めかくしは落ちぬ。
天地あめつちたちまちに状変さまかはり、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日のりはてしか、
のまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
のぞみなく、たのしみなく、
だ大いなる陰影かげのたなびく国なるか。

いなとよ、思へば、
これや我が目のにはかにもひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真赤まつかなる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひかはし、
うま酒はさかづきよりしたゝれど、
われ一人ひとりそを見ざるにやあらん。

いなとよ、また思へば、幸ひは
かの肉色にくいろ被眼布めかくしにこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われはをのゝく身をかゞめて
やみの底に冷たき手をさし伸ぶ。

あな、悲し、わがしあての手探りに、
肉色にくいろ被眼布めかくしは触るるよしも無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此処ここ何処いづこぞ、
かき曇りたる我が目にもれと知るは、
永きの土を一際ひときは黒く
静かにさびしき扁柏いとすぎの森のかげなるらし。


頼む男のありながら
添はれずとふ君を見て、
一所いつしよに泣くはやすけれど、
泣いて添はれるよしも無し。

なになぐさめてはんにも
甲斐かひなき明日あすの見通され、
それと知る身は本意ほいなくも
うちもだすこそ苦しけれ。

片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝玉はうぎよく
君がいだきてもだゆるも
人のうらやさちながら、

海をよく知る船長は
早くも暴風しけくとひ、
賢き人は涙もて
身をきよむるを知るとふ。

君はいづれをえらぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うちもだすこそ苦しけれ。
君はいづれをえらぶらん。



ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
すゑに生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親はやいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四にじふしまでを育てしや。

さかいの街のあきびとの
老舗しにせを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事なにごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
いへの習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからはでまさね[#「出でまさね」は底本では「出でませね」]
かたみに人の血を流し、
けものみちに死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何いかおぼされん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君ちゝぎみ
おくれたまへる母君はゝぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我子わがこされ、いへり、
やすしと聞ける大御代おほみよ
母の白髪しらがは増さりゆく。

暖簾のれんのかげに伏して泣く
あえかに若き新妻にひづま
君忘るるや、思へるや。
十月とつきも添はで別れたる
少女をとめごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまたたれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。


うれしや、うれしや、梅蘭芳メイランフワン
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美はで唐画たうぐわの世界、)
真赤まつかな、真赤まつか
石竹せきちくの色をしてにほひます。
おお、あなた故に、梅蘭芳メイランフワン
あなたのうつくしい楊貴妃やうきひゆゑに、梅蘭芳メイランフワン
愛にこがれた女ごころが
この不思議なかんばしい酒となり、
世界をひたして流れます。
梅蘭芳メイランフワン
あなたもつてゐる、
あなたの楊貴妃やうきひつてゐる、
世界もつてゐる、
わたしもつてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那しな鼓弓こきうつてゐる。
うれしや、うれしや、梅蘭芳メイランフワン



これは不思議ないへの絵だ、
いへでは無くて塔の絵だ。
見上げる限り、頑丈ぐわんぢやう
五階重ねた鉄づくり。

入口いりくちからは機関車が
煙を吐いて首を出し、
二階の上の露台ろたいには
だい起重機が据ゑてある。

また、三階の正面は
大きな窓が向日葵ひまはり
花でいつぱい飾られて、
そこにたれやら一人ひとりゐる。

四階しかいの窓の横からは
長い梯子はしごが地に届き、
五階は更に最大の
望遠鏡が天に向く。

塔の尖端さきには黄金きんの旗、
「平和」の文字がなびいてる。
そして、この絵をいたのは
さい、優しい京之介きやうのすけ



秋のあらしれだして、
どの街の木も横倒よこたふし。
屋根のかはらも、破風板はふいたも、
がれて紙のやうに飛ぶ。

おお、このれに、どの屋根で、
なにに打たれてきずしたか、
可愛かはいい一羽いちはのしらはと
前の通りへ落ちて来た。

それと見るより八歳やつになる、
さい、優しい、京之介きやうのすけ
あらしの中に駆け寄つて、
じつと両手で抱き上げた。

きずしたはとは背が少し
うす桃色にんでゐる。
それを眺めた京之介きやうのすけ
もういつぱいに目がうるむ。

はとれよと、口口くちぐち
腕白わんぱくどもが呼ばはれど、
大人おとなのやうに沈著おちついて、
かぶりを振つた京之介きやうのすけ



Aiアイあい)の頭字かしらじ、片仮名と
アルハベツトの書きはじめ、
わたしの好きなエエの字を
いろいろに見て歌ひましよ。

飾りの無いエエの字は
掘立ほつたて小屋のはひくち
奥に見えるは板敷いたじきか、
茣蓙ござか、囲炉裏いろりか、飯台はんだいか。

さくて繊弱きやしやエエの字は
遠い岬に灯台を
ほつそりとして一つ立て、
それをめぐるは白いなみ

いつも優しいエエの字は
象牙ざうげ琴柱ことぢ、そのそば
目には見えぬが、ふし
まぼろしの手が弾いてゐる。

いつも明るいエエの字は
白水晶しろずゐしやう三稜鏡プリズム
ななつのはねうつくしい
光の鳥をじつと抱く。

元気に満ちたエエの字は
広い沙漠さばくの砂を踏み
さつく、さつくと大足おほあしに、
あちらを向いて急ぐ人。

つんとすましたエエの字は
オリンプざんいただき
やりに代へたる銀白ぎんはく
ペンのさきを立ててゐる。

時にさびしいエエの字は
半身はんしんだけを窓に出し、
ひぢをば突いて空を見る
三角頭巾づきんの尼すがた。

しかものあるエエの字は
埃及エヂプトの野の朝ゆふに
雲のあひだの日を浴びて
はるかに光る金字塔ピラミツド[#ルビの「ピラミツド」は底本では「ピラミツト」]

そして折折をりをりエエの字は
道化役者のピエロオの
赤いとがつた帽となり、
わたしの前に踊り出す。



ありよ、ありよ、
黒い沢山たくさんありよ、
お前さん達の行列を見ると、
はちはちはちはち
はちはちはちはち……
幾万と並んだ
はちの字の生きた鎖が動く。

ありよ、ありよ、
そんなに並んで何処どこく。
行軍かうぐんか、
運動会か、
二千メエトル競走か、
それとも遠いブラジルへ
移住してく一隊か。

ありよ、ありよ、
繊弱かよわな体で
なんと活撥くわつぱつなことだ。
全身を太陽に暴露さらして、
疲れもせず、
なまけもせず、
さつさ、さつさと進んでく。

ありよ、ありよ、
お前さん達はみんな
可愛かはいい、元気なはちの字少年隊。
くがよい、
くがよい、
はちはちはちはち
はちはちはちはち………[#「………」は底本では「‥‥‥」]
[#ここで段組み終わり]
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[#ここから2段組み]

一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に、どつしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、少しもたわまない、
その太陽の重味に。


百姓のぢいさんの、よごれた、
硬い、ふしくれだつた手、
ちよいと見ると、褐色かつしよくの、
朝鮮人蔘にんじん燻製くんせいのやうな手、
おお、これがほんたうの労働の手、
これがほんたうの祈祷きたうの手。


二枚ある著物きものなら
一枚脱ぐのはやすい。
知れきつた道理を言はないで下さい。
今ここに有るのは一枚も一枚、
十人じふにん人数にんずに対して一枚、
結局、どうしたらいのでせう。


小さなすゞりしゆる時、
ふと、巴里パリイの霧の中の
珊瑚紅さんごこうの日が一点
わたしの書斎のとばり[#ルビの「とばり」は底本では「とぼり」]うかび、
それがまた、梅蘭芳メイランフワン
楊貴妃やうきひつた目附めつきに変つてく。


思はぬで無し、
知らぬで無し、
はぬでも無し、
れの仲間にらぬのは、
余りに事の手荒てあらなれば、
歌ふ心に遠ければ。

わたしは小さな※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばつた
幾つも幾つもおさへることが好きですわ。
わたしの手のなかで、
なんとふ、いきいきした
この虫達の反抗力でせう。
まるで BASTILLEバスチユ破獄らうやぶりですわ。


蚊よ、そなたの前で、
人間の臆病心おくびやうしん
拡大鏡となり、
また拡声器ともなる。
吸血鬼の幻影、
鬼女きぢよ歎声たんせい


火に来ては死に、
火に来ては死ぬ。
愚鈍ぐどんな虫の本能よ。
同じ火刑くわけいの試練を
幾万年くり返すつもりか。
と、さうして人間の女。


水浅葱みづあさぎの朝顔の花、
それを見る刹那せつなに、
うつくしい地中海が目に見えて、
わたしは平野丸ひらのまるに乗つてゐる。
それから、ボチセリイの
派手な※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)イナスの誕生が前に現れる。


まかり出ましたは、夏の
虫の一座のて者で御座る。
歌ふことは致しませねど、
態度を御覧下されえ。
人間の学者批評家にも
わたしのやうな諸君がゐらせられる。


男性の専制以上に
残忍を極める女性の専制。
蟷螂かまきりめす
そのをすを食べてしまふ。
しゆやすほか
恋愛を知らない蟷螂かまきり


もう、玉虫の一対つがひ
綺麗きれいな手箱に飼ふ娘もありません。
青磁色せいじいろの流行が
すたれたよりもさびしい事ですね。
今の娘に感激の無いのは、
玉虫に毒があるよりも
いたましい事ですね。


やうやくにれ今はさびし、
独り在るはさびし、
薔薇ばらげどもさびし、
君と語れどもさびし、
りて書けどもさびし、
高く歌へば更にさびし。


落葉おちばして人目にきぬ、
わが庭の高き木末こずゑ
小鳥の巣一つ懸かれり。
飛び去りて鳥の影無し、
小鳥の巣、霜の置くのみ、
小鳥の巣、日のてらすのみ。


我が藤子ふぢこここのつながら、
小学の級長ながら、
夜更よふけては独り目覚めざめて
寝台ねだいより親を呼ぶなり。
「お蒲団ふとんがまた落ちました。」
我が藤子ふぢこ風引くなかれ。
[#ここで段組み終わり]
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[#改丁]
[#ここから2段組み]

暗い梯子はしごのぼるとき
女のあしふるへてた。
四角な卓に椅子いす一つ、
そばの小さな書棚しよたなには
手ずれた赤い布表紙
金字きんじの本が光つてた。
こんな屋根裏に室借まがりする
男ごころのおもしろさ。
女を椅子いすに掛けさせて、
「驚いたでせう」と言ひながら、
男は葉巻に火をけた。


舞うて疲れた女なら、
男の肩に手を掛けて、
汗と香油かうゆほて
男の胸にけよもの。
男のいだペパミント[#「ペパミント」は底本では「ペハミント」]
男の手から飲まうもの。
わたしは舞も知りません。
わたしは男も知りません。
ひとりぼつちで片隅に。――
いえ、いえ、あなたも知りません。


寒水石かんすゐせきのてえぶるに
薄い硝子がらすの花の鉢。
かひかたちのしやぼてんの
真赤まつかな花に目をやれば、
来る日で無いと知りながら
来る日のやうに待つ心。
無地の御納戸おなんど、うすいきぬ
台湾竹たいわんちくのきやしやな椅子いす
恋をする身は待つがよい、
待つて涙の落ちるほど。


わたしの孤蝶こてふ先生は、
いついつ見ても若いかた
いついつ見てもきやしやなかた
ひんのいいかた、静かなかた
古い細身のやりのよに。

わたしの孤蝶こてふ先生は、
ものおやさしい、んだ
おつの調子で話すかた
ふらんす、ろしあの小説を
わたしのめに話すかた

わたしの孤蝶こてふ先生は、
それで何処どこやら暗いかた
はしやぐやうでも滅入めいかた
舞妓まひこの顔がをりをりに、
扇のかげとなるやうに。


故郷

[#「故郷」は底本では「故」]
さかいの街の妙国寺、
その門前の庖丁屋はうちよや
浅葱あさぎ納簾のれんあひだから
光る刄物はもののかなしさか。
御寺おてらの庭の塀のうち
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄そてつをば
立つて見上げたかなしさか。
御堂おだうの前のとをの墓、
仏蘭西船フランスぶねつた
重いとがゆゑ死んだ人、
その思出おもひでのかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷にたが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。


「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
ふるへた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことをへばその日から
わたしの世界を知りました。


いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男はつたふり
あの見えいたつたふり
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」


場末ばずゑ寄席よせのさびしさは
夏のながら秋げしき。
枯れたよもぎ細茎ほそぐき
風の吹くよな三味線しやみせん
曲弾きよくびきのはらはらと
螽斯ばつたの雨が降りかかる。
寄席よせの手前の枳殻垣きこくがき
わたしは一人ひとりの暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へばが更ける。


こきむらさきの杜若かきつばた
ろと水際みぎはにつくばんで
れたたもとをしぼる身は、
ふと小娘こむすめの気に返る。
男の机にり掛り、
男のつかふペンをり、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。


逗子づしの旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒まつくろに焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著みづぎすがたの脛白はぎじろ
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。


むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
たがひにくどくどかはす。

当世たうせいの恋のはげしさよ、
つね素知そしらぬふりながら、
刹那せつなに胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムをくやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの白鳥はくてうが死ぬやうに。


いたましく、いたましく、
流行はやりかぜ三人みたりまで
我児わがこぞ病める。
梅霖つゆの雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しきのどせきするよ。
兄なるは身を焼くねつ[#「執/れんが」、U+24360、100-上-6]に父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
いだきすかして、売薬の
安知歇林アンチピリンを飲ませども、
せきしつつ、なかばゑづきぬ[#「ゑづきぬ」は底本では「えづきぬ」]
あはれ、此夜このよのむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇うちはとり児等こらあふげば、
蚊帳かやごしに蚊のむれぞ鳴く。


如何いかに若き男、
ダイヤのたまを百持てこ。
空手むなでしながらべき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめのあかきくちびる。


男こそ慰めはあれ、
おほぎみのそばにも在りぬ、
みいくさにでてもきぬ、
さかほがひ、夜通よどほし遊び、
ちてのゝしりかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女をとめらにおのが名をり、
きぬればててをしまず。


わが見るは人の身なれば、
死の夢を、沙漠さばくのなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消しがたき世のなかの夢。


名工めいこうのきたへし刀
一尺に満たぬ短き、
するどさを我は思ひぬ。
あるときは異国人とつくにびと
三角のさきあるメスを
われまくせちに願ひぬ。
いと憎き男の胸に
白刄しらはあてなん刹那せつな
たらたらと我袖わがそでにさへ
指にさへ散るべき、あか
血を思ひ、れほくそみ、
こころよく身さへふるふよ。
その時か、にくき男の
ひがたき心ゆるさめ。
しかはへ、突かんとすなる
その胸に、よるとしなれば、
ぬかよせて、いとうらやす
夢にる人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸にれかきいだき、
眠ることいまだ忘れず。
その胸を今日けふさずと
たはぶれにふことあらば、
如何いかわびしからまし。


鴨頭草つきくさのあはれにかなしきかな、
わがそでのごとくれがちに、
濃き空色の上目うはめしぬ、
文月ふづきの朝ののもとの
板井のほとり。


はかなかる花にはあれど、
月見草つきみさう
ふるさとの野を思ひで、
わが母のこと思ひで、
初恋の日を思ひで、
指にはさみぬ、月見草つきみさう


われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。

にしき、こがね、
女御にようごきさき
すべてばや。

ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。

黒きひとみ、
ながき髪、
しじにれぬ。

恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。


ひがむ気短きみじかな鵯鳥ひよどり
木末こずゑの雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、甲高かんだか
てつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも木蔭こかげ下枝しづえには
あれ、もう、愛らしいうぐひす
雪解ゆきげの水のながれに
軽くそり打つ身を映し、
ちちとく、ちちとく。
その小啼ささなきは低くても、
春ですわね、春ですわね。


わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所とめどなく乱れ散る涙のしづく。
たれかまた手に結びたまとはでん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我がな読みそ、
君ぬらさじときとむる
しがらみの句切くぎりよど
青きうれひ水渋みしぶいざよふ。


みなしごの十二じふにのをとめ、
きのふより我家わがいへに来て、
つになる子のもりをしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
すぢを引き、くわんをゑがきて、
箪笥たんすてふ物を教へぬ。
我子わがこらは箪笥たんすを知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。


あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、さびしき、さびしきこの日を。
だまされまし、すかされまし、
よしや、よしや、
見殺みごろしに人のするとも。


わかき男は来るたびに
よき金口きんくち煙草たばこのむ。
そのよき香り、新しき
うれへのごとくやはらかに、
けぶりと共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我がおそるるも、喜ぶも、
だその手なる煙草たばこのみ。


素焼のつぼにらちもなく
投げては挿せど、百合ゆりの花、
ひとりひいでて、清らかな
雪のひかりと白さとを
あて金紗きんしやにほはしい
※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルに隠すおもざしは、
二十歳はたちばかりのつつましい
そして気高けだかい、やさがたの
侯爵夫人マルキイズにもたとへよう。
とり合せたる金蓮花きんれんくわ
麝香じやかうなでしこ、鈴蘭すゞらん
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函はうぎよくいれふたをあけ、
黄金きん腕環うでわや紫の
斑入ふいりたまの耳かざり、
真珠の頸環くびわ、どの花も
あつ[#「執/れんが」、U+24360、106-上-6]い吐息を投げながら、
華奢くわしやにほひをきそひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、其等それら楽欲げうよくと、
世の常の美をかろく見て、
わが侯爵夫人マルキイズ、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて微笑ほゝゑむか。
花の秘密は知りがたい、
けれど、百合ゆりをば見てゐると、
わたしの心ははてもなく
拡がつてく、伸びてく。
れと我身わがみを抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
ねつ[#「執/れんが」、U+24360、106-下-5]と、涙と、まごころの
中に一所いつしよけ合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつてく。
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人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しいよるに釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの釣鈎つりばりゑさらない、
わたしはだ月を釣る。


一人ひとりある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりとほそりやつるる。
平生へいぜいは湯のやうにく涙も
かうふ日には凍るやらん。
立枠たてわく模様の水浅葱みづあさぎ、はでな単衣ひとへたれども、
わが姿、人にまじればうらさびしや。


わがいへの八月の日の午後、
庭のたらひに子供らの飼ふ緋目高ひめだか
生湯なまゆの水に浮き上がり、
琺瑯色はふらういろの日光に
焼釘やけくぎあたまを並べて呼吸いきをする。
その上にモザイクがたの影をおと
静かに大きな金網。
の葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする幅広はゞびろの帯こそ大蛇だいじやなれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。


夜あけがたに降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た岩代いはしろ
摺上川すりがみがはおもはれる。
砂にうもれて顔を出す
れた黄いろの月見草つきみさう
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさしのぞき、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。


過ぎこしかたを思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方ゆくへ知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日あすゑがかん、
踊りつつかん、
くひかり、水色の長きごとくならん。


芸術はわれを此処ここにまで導きぬ、
こん[#ルビの「こん」はママ]こそはめ、
われ、芸術を彼処かしこに伴ひかん、
より真実に、より光あるところへと。


われはくびきとなりてかれ、
駿足しゆんそくの馬となりてき、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。


まはれ、まはれ、走馬灯そうまとう
走馬灯そうまとうは幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
なほまはれ、まはれ、
まはらぬはさびしきを。

桂氏かつらしの馬は西園寺氏さいをんじしの馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。


女、三越みつこしの売出しにきて、
寄切よせぎれの前にのみ一日ひとひありき。
帰りきて、かくとへば、
男は独り棋盤ごばんに向ひて
五目並べの稽古けいこしてありしとふ。
れいれいとを重ねたる今日けふの日のむなしさよ。)
さて男は疲れてもだし、また語らず、
女もつひに買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
わづか高浪織たかなみおりの帯の片側かたかはに過ぎざれど。


それは細き麦稈むぎわら
しやぼん玉を吹くによけれど、竿さをとはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、麦稈むぎわらも束として火をくれば
ゆゆしくもいへを焼く。
わがをさなは賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いてくよ。


一切を要す、
われはあこがるるたましひなり。
物をしみなそ、
もたらす物のなほありとならば。――
初めに取れる果実このみ年経としふれどあかし、
われこそ物を損ぜずしてづるすべを知るなれ。


「常につゑりてく者は
そのつゑを失ひし時、みづからをも失はん。
われは我にてかばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さてひぬ、
「ないつはりそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」


古き物のなほ権威ある世なりければ
かれは日本の女にて東の隅にありき。
またかれは精錬せられざりしかば
なほあらがねのままなりき。
みづからを白金プラチナしつと知りながら……


物を書きさし、思ひさし、
広東カントン蜜柑みかんをむいたれば、
あゐ鬱金うこんに染まるつめ
江戸の昔の廣重ひろしげ
名所づくしの絵を刷つた
版師はんしの指はうもあらうか。
あゐ鬱金うこんに染まるつめ


堅苦しく、うはべの律義りちぎのみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移りの国、
支那しな人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加アメリカの富なくて、亜米利加アメリカ化する国、
疑惑と戦慄せんりつとを感ぜざる国、
男みな背をかゞめて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うらやすく、万万歳ばんばんざいの国。


髪かき上ぐる手ざはりが
なにやら温泉にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
このに手紙を書きませう、
朝の書斎はこほれども、
「君を思ふ」と巴里パリイあてに。


女は在る限り
あらけづりの明治の女ばかり。
一人ひとりあの若い詩人がゐて
今日けふの会は引き立つ。
永井荷風かふうの書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿うたまろの版画の
「上の息子」の身のこなし。


わがさい娘の髪をでるとき、
なにか知ら、生れ故郷がおもはれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、れ、とりとめもない事ながら、
片時かたとき黄金こがねの雨が降りかかる。


三月さんぐわつの昼のひかり、
わが書斎にふぢむらさき。
そのなかにひかるの顔の白、
七瀬なゝせの帯の赤、
机に掛けた布の脂色やにいろ
みな生生いきいきと温かに……
されどつぼ彼岸桜ひがんさくら
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物のごとく我も在るらん。


障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔すゞはくよりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさしのぞ
雪のこころのさびしさよ。
しづくとなつてけてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして、わたしはんとすべきぞ。


衣桁いかうの帯からこぼれる
なまめいた昼の光の肉色にくいろ
その下に黒猫は目覚めざめて、
あれ、思ふぞんぶんに伸びをする。
世界は今、黒猫の所有ものになる。


打つ真似まねをすれば、
尾を立ててあとしざる黒猫、
まんまろく、かはゆく……
けれど、わたしの手は
錫箔すゞはくのやうに薄く冷たくひらめいた。
おお、いやな手よ。


ちぎれちぎれの雲見れば、
風ある空もむしやくしやと
むかばら立てて泣きたいか。

さうにも、粒なみだ、
泣いて心が直るよに、
春の日のり、べにさした
よい目元から降りかかる。

らせ、らせ、
我髪わがかみらせ、通り雨。


二夜ふたよ三夜みよこそ円寝まろねもよろし。
君なきねやろとせず、
椅子いすある居間の月あかり、
黄ざくら色のきぬて、
つつましやかなうたたし。
まだ見る夢はありながら、
うらなくくる春のみじか


散りがたの赤むらさきの牡丹ぼたんの花、
青磁の大鉢おほばちのなかにかすかにそよぐ。
きやんなるむだづかひの終りに
早くも迫る苦しき日のおそれを
回避する心もち……
ええ、よし、それもよし。


女、女、
女は王よりもよろづ贅沢ぜいたくに、
世界の香料と、貴金属と、宝石と、
花と、絹布けんぷとは女こそ使用つかふなれ。
女の心臓のかよわなる血の花弁はなびら旋律ふしまはし
ベエトオフエンの音楽のどの傑作にもまさり、
湯殿にこもりて素肌のまま足のつめ切る時すら、
女の誇りに印度いんどの仏も知らぬほくそゑみあり。
言ひ寄る男をつれなく過ぐす自由も
女に許されたる楽しき特権にして、
相手の男の相場に負けて破産する日も、
女はなほ恋の小唄こうた口吟くちずさみて男ごころをやはらぐ。
たとへ放火ひつけ殺人ひとごろし大罪だいざいにて監獄にるとも、
男のごと二分刈にぶがりとならず、黒髪は墓のあなたまでなみ打ちぬ。
婦人運動を排する諸声もろごゑ如何いかに高ければとて、
女は何時いつまでも新しきゲエテ、カント、ニウトンを生み、
人間は永久とこしへうらわかき母の慈愛に育ちゆく。
女、女、日本の女よ、
いざ諸共もろともみづからを知らん。


黄と、べにと、みどり、
なまな色どり……
※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
それをける白い磁の鉢、
きやしやな女の手、
た、た、た、た、とす水のおと。
ああ、なんと生生いきいきした昼であろ。
※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。


皐月さつきなかばの晴れた日に、
気早きばやせみが一つき、
なにとていたか知らねども、
森の若葉はその日から
火を吐くやうな息をする。

君の心は知らねども……


がけの上なる教会の
古びた壁のやにの色、
常に静かでよいけれど、
高いひさしの陰にある
まる小窓こまど摺硝子すりがらす
たれやら一人ひとりうるみ目に
空を見上げて泣くやうな、
それがさびしく気にかかる。


台所のしきゐに腰すゑた
ふる洋服のつぱらひ、
そつとしてお置きよ、あのままに。
ものもらひとは勿体もつたいない、
髪の乱れも、あをい目も、
ボウドレエルに似てるわね。


つやなき髪に、焼鏝やきごて
てよとははねども、
はずみ心に縮らせば、
焼けてほろほろひざに散り、
なかばうしなふ前髪の
くちをし、悲し、あぢきなし。
あはれと思へ、三十路みそぢへて
なほふる女の身。


浜の日の出の空見れば、
あかね木綿の幕を張り、
静かな海に敷きつめた
廣重ひろしげの絵の水あさぎ。
(それもわたしの思ひなし)
あちらを向いた黒い島。


青きなり。
九段くだんの坂をのぼり詰めて
振返りつつ見下みおろすことのうれしや。
消え残る屋根の雪の色に
近き家家いへいへ石造いしづくりの心地し、
神田、日本橋、
遠き街街まちまちのかげは
緑金りよくこんと、銀と、紅玉こうぎよく
星の海を作れり。
電車のきしり………
飯田町いひだまち駅の汽笛………
ふと、われは涙ぐみぬ、
高きモンマルトルの
段をなせるみちきて、
君を眺めし
ゆふべ巴里パリイを思ひでつれば。


あわただしい師走しはす
今年の師走しはす
一箇月いつかげつ三十一日はよそのこと、
わたしの心のこよみでは、
わづか五六日ごろくにちで暮れてく。
すべてをさし、思ひさし、
なんにもはぬ女にて、
する、する、すると幕になる。


騒音とちりの都、
乱民らんみん賤民せんみんの都、
静思せいしいとまなくて
多弁の世となりぬ。
舌と筆の暴力は
腕のれに劣らず。
ここにして勝たんとせば
えよ、大声にえよ、
さてたけく続けよ。
卑しきを忘れし男、
醜きをぢざる女、
げに君達の名は強者きやうしやなり。
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わたしは今日けふ病んでゐる、
生理的に病んでゐる。
わたしは黙つて目をいて
産前さんぜんとこに横になつてゐる。

なぜだらう、わたしは
度度たびたび死ぬ目に遭つてゐながら、
痛みと、血と、叫びに慣れて居ながら、
制しきれない不安と恐怖とにふるへてゐる。

若いお医者がわたしを慰めて、
生むことの幸福しあはせを述べて下された。
そんな事ならわたしの方が余計に知つてゐる。
それが今なんの役に立たう。

知識も現実で無い、
経験も過去のものである。
みんな黙つて居て下さい、
みんな傍観者の位置を越えずに居て下さい。

わたしは一人ひとり
天にも地にも一人ひとり
じつと唇をみしめて
わたし自身の不可抗力を待ちませう。

生むことは、現に
わたしの内からぜる
だ一つの真実創造、
もう是非のすきも無い。

今、第一の陣痛……
太陽はにはかに青白くなり、
世界はひややかにしづまる。
さうして、わたしは一人ひとり………


二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母のを打つたことを。
それはおまへの命の
みづから勝たうとする力が――
純粋な征服の力が
怒りのかたち
痙攣けいれん発作ほつさとになつて
電火でんくわのやうにひらめいたのだよ。
おまへはなにも意識して居なかつたであらう、
そしてぐに忘れてしまつたであらう、
けれど母は驚いた、
またしみじみとうれしかつた。
おまへは、他日たじつ一人ひとりの男として、
昂然かうぜんとみづから立つことが出来る、
清く雄雄ををしく立つことが出来る、
また思ひ切り人と自然を愛することが出来る、
(征服の中枢は愛である、)
また疑惑と、苦痛と、死と、
嫉妬しつとと、卑劣と、嘲罵てうばと、
圧制と、曲学きよくがくと、因襲と、
暴富ぼうふと、人爵じんしやくとに打克うちがつことが出来る。
それだ、その純粋な一撃だ、
それがおまへの生涯の全部だ。
わたしはおまへのてのひら
獅子ししのやうに打つた
鋭い一撃の痛さのもと
かう白金はくきんの予感を覚えてうれしかつた。
そして同時に、おまへと共通の力が
母自身にもひそんでゐるのを感じて、
わたしはおまへの打つた
打たないまでもあつ[#「執/れんが」、U+24360、127-上-12]くなつた。
おまへはなにも意識して居なかつたであらう、
そしてぐに忘れてしまつたであらう。
けれど、おまへが大人になつて、
思想する時にも、働く時にも、
恋する時にも、戦ふ時にも、
これを取り出してお読み。
二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母のを打つたことを。

なほかはいいアウギユストよ、
おまへは母のたいに居て
欧羅巴ヨオロツパてあるいたんだよ。
母と一所いつしよにしたその旅の記憶を
おまへの成人するにつれて
おまへの叡智が思ひ出すであらう。
ミケル・アンゼロやロダンのしたことも、
ナポレオンやパスツウルのしたことも、
それだ、その純粋な一撃だ、
その猛猛たけ/″\しい恍惚くわうこつの一撃だ。[#「一撃だ。」は底本では「一撃だ、」]
(一九一四年十一月二十日)
さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。
(顔を洗うた親子八人はちにん、)
みんなが二つのちやぶ台を囲みませう、
みんなが洗ひ立ての白い胸布セル※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ツトを当てませう。
独り赤さんのアウギユストだけは
おとなしく母さんのひざの横にすわるのねえ。
お早う、
お早う、
それ、アウギユストもお辞儀をしますよ、お早う、
何時いつもの二斤にきん仏蘭西麺包フランスパン
今日けふはバタとジヤムもある、
三合の牛乳ちちもある、
珍しい青豌豆えんどうの御飯に、
参州さんしう味噌のしゞみ汁、
うづら豆、
それから新漬しんづけ蕪菁かぶもある。
みんな好きな物を勝手におあがり、
ゆつくりとおあがり、
たくさんにおあがり。
朝の御飯は贅沢ぜいたくに食べる、
ひるの御飯はえるやうに食べる、
よるの御飯はたのしみに食べる、
それはまつた他人よそのこと。
我家うちの様ないへの御飯はね、
三度が三度、
父さんや母さんは働くために食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へき、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。
ゆつくりおあがり、
たくさんにおあがり。
せめて日曜の朝だけは
父さんや母さんも人並に
ゆつくりみんなと食べませう。
お茶を飲んだら元気よく
日曜学校へおき、
みんなでおき。
さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。


いいえ、いいえ、現代の
生活と芸術に、
どうして肉ばかりでゐられよう、
単純な、盲目めくらな、
そしてヒステリツクな、
肉ばかりでゐられよう。
五感がしち感にえる、
いや、五十ごじつ感、百感にもえる。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手をつなぐ。
すべてが細かにつて、
すべてが千千ちぢりまじり、
突風とつぷうと火の中に
すべてが急にかくく。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的にあはされて、
神秘なをどりえず舞ふ
だい建築に変りく。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つてまぬ殿堂の
白と赤との大理石マルブル
人像柱クリアテイイドの一本に
諸手もろてを挙げて加はらう。
阿片あへんいぶる……
発動機モツウルぜる……
がくが裂ける……


わがでんとする城の鉄の門に
くこそるされたれ。
その字の色は真紅しんく
恐らくはきに突破せし人の
みづから指をめる血ならん。
「生くることの権利と、
のための一切の必要。」
われは戦慄せんりつ躊躇ためらひしが、
やがて微笑ほゝゑみてうなづきぬ。
さて、すべて身にけし物を脱ぎて
われをきたりし人人ひとびとに投げ与へ、
われは玲瓏れいろうたる身一つにてのがでぬ。
されど一歩して
ほつと呼吸いきをつきし時、
あはれ目にるは
万里一白いつぱくの雪の広野ひろの……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この刹那せつな
いな永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]に、
この繊弱かよわき身一つのほかに無かりき。
われは再び戦慄せんりつしたれども、
一途いちづに雪の上を進みぬ。
三日みつかのち
われは大いなる三つの岐路きろでたり。
ニイチエの過ぎたるみち
トルストイの過ぎたるみち
ドストイエフスキイの過ぎたるみち
われはいづれをもえらびかねて、
沈黙と逡巡しゆんじゆんの中に、
しばら此処こことゞまりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風四方よもに吹きすさぶ……


両手にていだかんとし、
手の先にてつかまんとする我等よ、
我等はあやまちつつあり。

手を揚げて、我等の
いだけるはくうくう
我等のつかみたるは非我ひが

だ我等を疲れしめて、
すべてすべり、
すべてのがれ去る。

いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は此内このうちにこそあれ。

我をもつて我をいだけよ。
我をもつて我をつかめ、
我にまさる真実は無し。


友よ、今ここに
我世わがよの心を言はん。
我は常にかで
みちなかばにあるごとし、
また常に重きを負ひて
あへぐ人のごとし、
またさびしきことは
年長としたけし石婦うまずめごとし。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろよりさいなむ苦痛なり。
われはづ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の大網おほあみにして、
黄金わうごんの時をとらへんとしながら、
る所は疑惑とくいのみ。
我が諸手もろては常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。


霧のめた、太洋たいやうの離れ島、
此島このしまの街はまだ寝てゐる。
どの茅屋わらやの戸の透間すきまからも
まだよるの明りが日本酒いろもらしてゐる。
たまたま赤んぼのく声はするけれど、
大人は皆たわいもない[#「たわいもない」は底本では「たはいもない」]夢にふけつてゐる。

突然、入港の号砲をとゞろかせて
わたし達は夜中よなか此処ここいた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう朝飯あさはんの済んだころだ、
わたし達はまだホテルが見附みつからない。
まだ兄弟のれにもはない。

ねんぢゆう[#「年ぢゆう」は底本では「年ぢう」]旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の此島このしまへ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な放浪者バガボンド[#ルビの「バガボンド」は底本では「バカホンド」]だとのゝしらう。

わたし達は彼等をさまさねばならない、
彼等をせいの力にあふれさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と露西亜ロシアバレエの調子で
彼等と一所いつしよに踊らねばならない、
此島このしまもわたし達の公園の一部である。


なにかためらふ、内気なる
わが繊弱かよわなるたましひよ、
幼児をさなごのごとわなゝきて
な言ひそ、死をば避けましと。

正しきにけ、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。

飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
せいに勝たんと叫べかし。


わがしばらく立ちて沈吟ちんぎんせしは
三筋みすぢあるわかみち中程なかほどなりき。
一つのみち崎嶇きくたる
石山いしやまいたゞきぢ登り、
一つのみちは暗き大野の
扁柏いとすぎの森の奥に迷ひ、
一つのみちは河に沿ひて
平沙へいしやの上をすべけり。

われは幾度いくたびか引返さんとしぬ、
かたの道には
人間にんげん三月さんぐわつの花開き、
紫のかすみ
金色こんじきの太陽、
甘き花の
柔かきそよ風、
われはだ幸ひの中にひしかば。

されど今はかん、
かの高き石山いしやま彼方かなた
あはれ其処そこにこそ
なほ我を生かすみちはあらめ。
わが願ふは最早もはや安息にあらず、
夢にあらず、思出おもひでにあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。


ああ森の巨人、
千年の大樹だいじゆよ、
わたしはそなたの前に
一人ひとりのつつましい自然崇拝教徒である。

そなたはダビデ王のやうに
勇ましいこぶしを上げて
地上のゆるしがたい
んの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。

そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしにわかる、
そなたの鬱蒼うつさうたる枝葉えだは
休む無しに汗を流し、
休む無しにわなゝくので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘ギリシヤ闘士の胴のやうな
そなたのたくましい幹が
全世界の苦痛の重さを
だひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。

ある時、風と戦つては
そなたのこづゑは波のやうに逆立さかだち、
荒海あらうみひゞきを立てて
勝利の歌を揚げ、
またある時、積む雪にされながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。

千年の大樹だいじゆよ、
蜉蝣ふいうの命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたにつて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたのかげを踏んで思ひ、
そなたの幹をでて歌つてゐる。

ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの根方ねがたに葬られて、
そなたの清らかな樹液セエヴ
隠れたあつ[#「執/れんが」、U+24360、137-下-2]い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。

なつかしい大樹だいじゆよ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしのたましひの上に
さわやかな広いかげを投げてゐる。


森の木蔭こかげは日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱かよわく低き下草したくさ
葉末はずゑの色のめぬ。

われは雑草、しかれども
なほわが欲をあふらまし、
もろ手をべて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。

死なじ、飽くまで生きんとて、
みづからたのむたましひは
かの大樹だいじゆにもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。


をどり
をどり
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
まるく輪をく子供のをどり

をどり
をどり
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな凛凛りゝしい身の構へ、
物におそれぬ男のをどり

をどり
をどり
身をば斜めに
たもとをかざし、
振ればさからふかぜも無い、
派手に優しい女のをどり

をどり
をどり
くはふり
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
まるく輪をく子供のをどり


「働くほかは無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
しきりにきこえる。
わたしはその声を目当めあてに近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草たばこの煙を吹きながら、
五六人の男が[#「男が」は底本では「男か」]
おなじやうなことを言つてゐる。

わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい一人ひとり
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
うわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
められたうれしさに
「お仲間よ」と言ひ返した。

けれども、目を挙げると、
その人達のかたまりの向うに、
よるの色を一層濃くして、
まつ黒黒くろぐろ
大勢の人間がすわつてゐる。
みんな黙つてうつ向き、
一秒のも休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。


三十女さんじふをんなの心は
陰影かげも、けぶりも、
音も無い火のかたまり
夕焼ゆふやけの空に
一輪真赤まつかな太陽、
だじつとてつして燃えてゐる。


わが愛欲は限り無し、
今日けふのためより明日あすのため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。


今夜の空は血を流し、
そしてにはかに気の触れた
あらしが長い笛を吹き、
海になびいたのやうに
えずゆらめく木の上を、
海月くらげのやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。


真昼のなかによるが来た。
空をく日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒くろぐろとしたてふのむれ。


新たにけた薔薇ばらながら
古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日きのふの声がまじつてる。
真実心しんじつしんを見せたまへ。


ほんにさびしい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身がらぬ。


あはれ、やうやく我心わがこゝろ
おそるることを知りめぬ、
たそがれ時の近づくに。
いなとはへど、我心わがこゝろ
あはれ、やうやくうら寒し。


山の動く日きたる、
かくへど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めざめて動くなる。


一人称にてのみ物書かばや、
我はさびしき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。


ひたひにも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて湯滝ゆだきに打たるる心もち……
ほつとつく溜息ためいきは火のごとつ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我をめ、やがてまたそしるらん。


われはづ、新しき薄手うすでの白磁の鉢を。
水もこれにたたふれば涙と流れ、
花もこれに投げるれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは粗忽そこつなる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更にもろく、かよわく……


青く、つ白く、
剃刀かみそりのこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりすき、
ハモニカを近所の下宿にて吹くはたて[#「憂たて」は底本では「憂れた」]けれども、
我が油じみし櫛笥くしげの底をかき探れば、
陸奥紙みちのくがみに包みし細身の剃刀かみそりこそづるなれ。


にがきか、からきか、煙草たばこの味。
煙草の味はひがたし。
うまきぞとはば、粗忽そこつ者、
みつ、砂糖のたぐひと思はん。
我は近頃ちかごろ煙草たばこみ習へど、
むことを人に秘めぬ。
蔭口かげぐちに、男に似るとはるるはよし、
だ恐る、かの粗忽そこつ者こそ世に多けれ。


むちを忘るな」と
ヅアラツストラはひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
け足して我ぞはまし、
「野にはなてよ」


わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに華奢きやしやを好みしとよ。
水晶の珠数じゆずにもき、珊瑚さんご珠数じゆずにもき、
この青玉せいぎよく珠数じゆず爪繰つまぐりしとよ。
我はこの青玉せいぎよく珠数じゆずを解きほぐして、
貧しさに与ふべき玩具おもちやなきまま、
一つ一つ我が子等こらの手にぞ置くなる。


わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
またなにけ足さん。
わが心はうをならねばえらを持たず、
だ一息にこそ歌ふなれ。


すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋はつあきさき篳篥ひちりきを吹くすいつちよよ、
その声に青き蚊帳かやは更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋はつあき蚊帳かや錫箔すゞはくごとく冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。


あぶらぜみの、じじ、じじとくは
アルボオス石鹸しやぼんの泡なり、
慳貪けんどんなる商人あきびと方形はうけいひら大口おほぐちなり、
手掴てづかみの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。


夏ののどしやぶりの雨……
わがいへ泥田どろたの底となるらん。
柱みな草のごとくにたわみ、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇のごとし。
寝汗の……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き蚊帳かやかへるのどごとくにふくれ、
肩なる髪は眼子菜ひるむしろのやうにそよぐ。
このなかに青白き我顔わがかほこそ
あくたに流れて寄れる月見草つきみさうしべなれ。


相共あひともにそのみづからの力を試さぬ人とかじ、
彼等の心にはすきあり、油断あり。
よしもなき事ども――
善悪とふ事どもを思へるよ。


過去はたとひ青き、き、たざる、
如何いかにありしとも、
今は甘きか、にほはしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ果実このみを摘むなかれ。


商人あきびとらの催せる饗宴きやうえんに、
我の一人ひとりまじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人あきびとらよ、晩餐ばんさんを振舞へるは君達なれど、
我の食らふはなほ我の舌のあぢはふなり。
さて、商人あきびとらよ、
おのおの、その最近の仕事にいて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。


かの歯車は断間たえまなく動けり、
静かなるまでいとせはしく動けり、
れにむなしき言葉無し、
れのなかに一切を刻むやらん。


すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、にほはしく、派手に、
胸の血のあやしくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうらさびしく、
冷たく、力なく、
かの茶人ちやじんあひだに受渡す言葉のごと
寒くいぢけて、質素ぢみ[#ルビの「ぢみ」は底本では「じみ」]なるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かのはかまのみけばけばしくて
さびしげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。


わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水にき流るるも是非なや。


なめさざる象皮ざうひごとく、
受精せざるたまごごとく、
たいでて早くもいし顔する駱駝らくだの子のごとく、
目を過ぐるもの、およそこの三種みくさでず。
彼等はこの国の一流の人人ひとびとなり。


白蟻しろあり仔虫しちうこそいたましけれ、
職虫しよくちうの勝手なる刺激にり、
兵虫へいちうとも、生殖虫とも、職虫しよくちうとも、
すなはち変へらるるなり。
職虫しよくちうの勝手なる、無残なる刺激は
陋劣ろうれつにも食物しよくもつをもてす。
さてまた、其等それら各種の虫の多きに過ぐれば
職虫しよくちうはやがて刺し殺して食らふとよ。
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今、あかつき
太陽の会釈に、
金色こんじきの笑ひ
天の隅隅すみずみに降り注ぐ。

れは目覚めざめたり、
光る鶴嘴つるはし
幅びろき胸、
うしろになび
空色の髪、
わが青年は
悠揚いうやうとして立ち上がる。

裸体なるれが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見てうらやめり。

青年の行手ゆくてには、
蒼茫さうばうたる
無辺の大地、
その上に、はるかに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
みちごとく横たはるは、
だ、れの歩み
孤独の影のみ。

今、あかつき
太陽のみ
光の手を伸べて
れを見送る。


おお大地震だいぢしんと猛火、
その急激な襲来にも
我我はへた。
一難また一難、
んでもよ、
それを踏み越えてく用意が
しかと何時いつでもある。

大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那せつなに永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在のたましひ

おおたましひである、
はがねの質を持つた種子たね
火の中からでも芽をふくものは。
おおたましひである、
天の日、太洋たいやうなみ
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。

我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、溌溂はつらつたる素朴と
未曾有みぞう[#ルビの「みぞう」は底本では「みそうう」]の喜びの
精神と様式とが前に現れる。

たれ昨日きのふとらはれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りのげた額縁にれるな。
手はえずいちから図を引け、
トタンと荒木あらきの柱とのあひだに、
汗と破格の歌とをもつ
かんかんとつちの音を響かせよ。

法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。

新しく生きる者に
日は常に元日ぐわんじつ
時は常に春。
百のわざはひなにぞ、
千のたゝかひで勝たう。
おお窓毎まどごとに裸の太陽、
軒毎のきごとに雪の解けるしづく。


今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
うつくしいパステルの
こな絵具に似た、
浅緑あさみどり淡黄うすき
すみれいろとの
きとほりつつ降り注ぐ
静かなるあかつきの光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅さんごこう熔岩※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)――
新しい世界の噴火……

わたしは此時このとき
新しい目をそらさうとして、
思はずも見た、
おお、彼処かしこにある、
巨大なダンテの半面像シルエツトが、
巍然ぎぜんとして、天のなかばに。

それはバルジエロの壁にかれた
青いかんむりに赤い上衣うはぎ
細面ほそおもて
凛凛りゝしい上目うはめづかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
そのやさしく気高けだかい顔を
いつぱいにあかくして微笑ほゝゑむ。

人人ひとびとよ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざあふげ、共に、
しゆに染まる今朝けさの富士を。


石垣の上に細路ほそみち
そして、また、上に石垣、
いその潮で
千年の「時」が磨減すりへらした
大きな円石まろいし
層層そうそうと積み重ねた石垣。

どの石垣のあひだからも
椿つばきの木がえてゐる。
※(「王+干」、第3水準1-87-83)らうかんのやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な支那しな貴女きぢよ
笑つた口のやうなあかい花。

石垣の崩れたところには
山の切崖きりぎし
煉瓦色れんがいろの肌を出し、
下には海に沈んだ円石まろいし
浅瀬の水をとほして
かめの甲のやうに並んでゐる。

沖の初島はつしまの方から
折折をりをりに風が吹く。
その度に、近い所で
さい浪頭なみがしらがさつと立ち、
石垣の椿つばきが身をゆすつて
落ちた花がぼたりと水に浮く。


正月元日ぐわんじつさとずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ木枯こがらしはをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い鼓弓こきふを鳴らせども、
軒端のきはの日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。

上には晴れた空の色、
濃いお納戸なんど支那繻子しなじゆすに、
光、光とふ文字を
銀糸ぎんしで置いたぬひそで
春がて来た上衣うはぎをば
枝に掛けたか、打香うちかをり、
ちらり、ほらりと梅が咲く。


薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。

珊瑚紅さんごこうから
黄金わうごんの光へ、
まばゆくも変りゆく
ほのほの舞。

あけぼの雲間くもまから
子供らしいまろ
真赤まつかに染めて笑ふ
地上の山山。

今、ほのほひと揺れし、
世界に降らす金粉きんぷん
不死鳥フエニクス羽羽はばたきだ。
太陽が現れる。


春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板はりものいた紅絹もみのきれ、
立つ陽炎かげろふも身をそそる。

春が来た。
亜鉛とたんの屋根に、ちよちよと、
妻にこがれてまんまろな
ふくらすゞめもよいかたち

春が来た。
遠い旅路の良人をつとから
使つかひに来たか、見に来たか、
わたしを泣かせにだ来たか。

春が来た。
朝のスウプにきりきざむ
ふきたうにも春が来た、
青いうれしい春が来た。


春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。

春よ春、
うすぎぬすらもはおらずに
二月の肌ををしむのか。

早くせ、
あの大川おほかはに紫を、
其処そこの並木にうすべにを。

春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風そよかぜとしてのきに置け。

その手には
屹度きつとみつ薔薇ばらの夢、
ちゝのやうなる雨の糸。

おもふさへ
しや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。

春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。


わが前に梅の花、
うすき緑をしたる白、
ルイ十四世じふしせの白、
上には瑠璃るり色の
支那絹しなぎぬの空、
目もはるに。

わが前に梅の花、
心は今、
白金はくきんの巣に
ふ小鳥、
ほれぼれと、一節ひとふし
高音たかねに歌はまほし。

わが前に梅の花、
心は更に、
空想の中なる、
羅馬ロオマ見下みおろす丘の上の、
大理石の柱廊ちゆうらう[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]
片手を掛けたり。


おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
紅梅の花、
薄暗うすくらい長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎりした障子の中の
冬のあかりに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな帛片きれ
のりと、はさみと、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工てざいくに造つた花とはうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の赤玉あかだまつゞつた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜとふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒げんかん北風きたかぜとにさらされて、
あの三月さんぐわつに先だち、
おそおそる笑つてゐる。


空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。

すこし離れて見るときは、
散歩のみち少女をとめらが
深深ふかぶかとさす日傘パラソルか。

かげに立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ鳳凰ほうわう
雲より垂れた錦尾にしきをか。

空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば翡翠ひすゐの露が散る。


牛込見附うしごめみつけの青い色、
わけて柳のさばきがみ
それが映つたほりの水。

柳のかげのしつとりと
黒くれたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い護謨輪ごむわせ去れば、
あとに我児わがこの靴のおと。

黄いろな電車をりすごし、
見上げた高い神楽坂かぐらざか
なにやらかろく、人ごみに
気おくれのする快さ。

我児わがこの手からすと離れ、
風船だまが飛んでゆく、
のきからのきあがりゆく。


柳の青むころながら、
二月の風は殺気さつきだち、
都の街の其処そこここに
砂の毒瓦斯どくがす、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。

よろよろとして、濠端ほりばた
山高帽をおさへたる
洋服づれの逃げ足の
操人形あやつりに似る可笑をかしさを、
外目よそめに笑ふひまも無く、

さと我顔わがかほに吹きつくる
痛き飛礫つぶてに目ふさげば、
かろ眩暈めまひに身はかしぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。

二月の風の憎きかな、
乱るるすそは手に取れど、
髪もたもと鍋鶴なべづる
灰色したる心地して、
砂のけぶり羽羽はばたきぬ。


にはかに人の胸を打つ
高いじめの弥生やよひかな、
支那しな鼓弓こきう弥生やよひかな。

かぼそい靴を爪立つまだてて
くるりとめぐ弥生やよひかな、
露西亜ロシアバレエの弥生やよひかな。

薔薇ばらに並んだチユウリツプ、
黄金きん[#ルビの「きん」は底本では「ん」]」と白との弥生やよひかな、
ルイ十四世じふしせい弥生やよひかな。


ああ、今やつと目のめた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇りやうあんの日は過ぎたのに、
永く見詰めて寝通ねとほした
暗い一間ひとまを脱け出して、
柳並木の河岸かしどほ
塗り替へられた水色の
きやしやな露椅子バンクに腰を掛け、
白い諸手もろて細杖ほそづゑ
銀の把手とつてに置きながら、
風をおそれて外套ぐわいたう
うすい焦茶の襟を立て、
やまひあがりの青ざめた
顔をうづめて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、うつくしい
うすくれなゐの微笑ほゝゑみ
太陽のにさつと照り、
おほひ切れざる喜びの
底ぢからある目差まなざし
きんの光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町こまち娘をりぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば口口くちぐち
細いかひなをさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中のしくなれば、
いざ此処ここにして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざたましひをすこやかに
はた清くして、晶液しやうえき
したゝる水に身を洗へ。
やがて、そなたの行先ゆくさき
すべての溝が毒にき、
すべての街が悪に燃え、
腐れたにほひ、あつ[#「執/れんが」、U+24360、165-上-4]気息いき
雨と洪水、かびと汗、
蠕虫うじ[#ルビの「うじ」は底本では「うぢ」]、バクテリヤ、泥と人、
其等それらの物のりまじり、
濁り、泡立ち、せ返る
夏の都を越えながら、
けがれず、病まず、かなしまず、
信と勇気の象形うらかた
細身の剣と百合ゆりを取り、
ああ太陽よ、悠揚いうやう
秋の野山に分けれよ、
其処そこにそなたの唇は
黄金きん果実このみに飽くであろ。


雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
みちを残して青むなり。

雑草こそは正しけれ、
如何いかなるくぼたひらかに
まろうづめて青むなり。

雑草こそはなさけあれ、
けもののひづめ、鳥のあし
すべてを載せて青むなり。

雑草こそはたふとけれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑ほゝゑみながら青むなり。


すくすく伸びた枝毎えだごと
まろくふくらむつぼみ
若い健気けなげな創造の
力に満ちた桃の花。

この世紀から改まる
女ごころのたとへにも
私は引かう、華やかに
このうつくしい桃の花。

ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人のも、
さつと真赤まつかはされる
愛とにほひの桃の花。

女の明日あす※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、166-下-6]
世をば平和にするごとく、
今日けふの世界を三月さんぐわつ
絶頂に置く桃の花。


ああ三月さんぐわつのそよかぜ、
みつと、と、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ。

そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして微触ほのかなれども、
いと長きその喜びは既にあふる。

また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロとの[#「パウロとの」は底本では「バウロとの」]
ぬか寄せて心ひつつ読みしふみなれ。

ああ三月さんぐわつのそよかぜ、
今、そなたの第一の微笑ほゝゑみに、
人も、花も、胡蝶こてふも、
わなわなと胸踊る、胸踊る。


花の中なる京をんな、
薄花うすはなざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。

女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中になにやら晴れがまし。

春の遊びをづる君、
知りたまへるや、この花の
分けていみじき一時ひとときを。

日は今西に移りき、
知りたまへるや、がくれて、
青味を帯びしひと時を。

日は今西に移りき、
静かにかすむ春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。


赤くぼかした八重ざくら、
そのかげゆけば、ほんのりと、
歌舞伎かぶき芝居に見るやうな
江戸のあかりが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめの、
おもはゆながら、いとにつれ、
なにひとさし舞ひたけれ。

さてまた小雨こさめふりつづき、
目を泣きらす八重ざくら、
その散りがたのいろめけば、
豊國とよくにの絵にあるやうな、
繻子じゆすの黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。


工場こうばの窓で今日けふ聞くは
慣れぬかせぎの涙雨なみだあめ
弥生やよひへど、うつくしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦れんがの塀や、煙突や、
トタンの屋根にれかかり、
すゝと煙をきながら、
石炭がらんでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして門田かどたのれんげ草。


賓客まらうど[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、
いざりたまへ、
いな、しばし待ちたまへ、
その入口いりくちしきゐに。

知りたまふや、賓客まらうどよ、
ここに我心わがこゝろ
幸運のにはかにきたれるごとく、
いみじくも惑へるなり。

なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱ひとかゝへのかずかずの薔薇ばら

如何いかにすべきぞ、
このうづたか
めでたき薔薇ばらを、
両手もろでに余る薔薇ばらを。

この花束のままに[#「花束のままに」は底本では「花束のまにまに」]
太きつぼにやけん、
とりどりに
さきかめにやわかたん。

づ、なにはあれ、
この薄黄うすきなる大輪たいりん
賓客まらうどよ、
君がてのひらに置かん。

花に足る喜びは、
うつくしきアントニオを載せて
羅馬ロオマ船出ふなでせし
クレオパトラも知らじ。

まして、風流ふうりう大守たいしゆ
十二の金印きんいんびて、
楊州やうしうくだたのしみは
言ふべくも無し。

いざりたまへ、
今日けふこそ我が仮のいへも、
賓客まらうどよ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
    ×
一つの薔薇ばらかめ
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの薔薇ばらかめ
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの薔薇ばらかめ
君と我との
あひだの卓に置かん。
さてまた二つの薔薇ばらかめ
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つのかめ
何処いづこにか置くべき。
化粧けはひにか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き藻風さうふうの君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
    ×
今日けふ、わがいへには
どのしつにも薔薇ばらあり。
我等は生きぬ、
香味かうみと、色と、
春と、愛と、
光との中に。

なつかしき博士はかせ夫人、
その花園はなぞの薔薇ばらを、
朝露あさつゆの中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どのしつにも薔薇ばらあり。

同じ都に住みつつ、
我はいまだその君を
まのあたり見ざれど、
にほはしき御心みこころの程は知りぬ、
何時いつも、何時いつも、
花を摘みてたまへば。
    ×
われは宵より
あかつきがたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
※病ねつびやう[#「執/れんが」、U+24360、172-下-7]の人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士はかせ夫人のたまへる
ほのほの色の薔薇ばらありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は其処そこに」と。
    ×
今朝けさ、わがいへ
どのしつ薔薇ばらも、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑ほゝゑめる唇なり、
皆、歌へる唇なり。
    ×
あはれ、なんたる、
若やかに、
好色好色すきずきしき
微風そよかぜならん。
青磁のかめかげ
宵より忍び居て、
このあかつき
大輪たいりん薔薇ばら
ほのかに落ちし
真赤まつかなる
一片ひとひらもとに、
あへなくもされて、
息をに代へぬ。
    ×
瓶毎かめごと
わがかしづまも
宝玉はうぎよくごと
めでたき薔薇ばら
あまつ日のごと
盛りの薔薇ばら
恋知らぬ天童てんどうごと
清らなる薔薇ばら
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及びがたしと。

此処ここ
われに親しきは、
肉身の深き底より
むにまれず
燃えあがる※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、174-上-12]
れにひとしきあか薔薇ばら
はた、逸早いちはや
うれひを知るや、
青ざめて、
月の光に似たる薔薇ばら
深き疑惑に沈み
烏羽玉うはたまの黒き薔薇ばら
    ×
薔薇ばらがこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角なかめから
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうなかたまり
月の光のやうな線、
ラフワエルの花神フロラの絵の肉色にくいろ
つつましやかな薔薇ばら
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に
尼達のやうには青ざめず、
清くあてやかな処女の
高い、温かいさびしさと、
みづからおさへかねた妙香めうかう
金色こんじきをした雰囲気アトモスフエエルとの中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
    ×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの五月ごぐわつ薔薇ばら
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
このきずだらけのテエブルの上へ、
薔薇ばらよ、そなたは
どんな貴女きぢよの飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れなせはしい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季はなどきは短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしとれを感じる。
でも、薔薇ばらよ、
私は窓掛を引いて、
そなたを陰影かげの中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
なほ、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。


おお、真赤まつかなる神秘の花、
天啓の花、牡丹ぼたん
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、牡丹ぼたん
愛の花、ねつ[#「執/れんが」、U+24360、176-上-8]の花、
幻想の花、ほのほの花、牡丹ぼたん
コンテツス・ド・ノワイユを、
ルノワアルを、梅蘭芳メイランフワンを、
梅原龍三郎りようざぶらうを連想する花、牡丹ぼたん

おお、そなたは、また、
宇宙の不思議にへる哲人の
大歓喜だいくわんぎを示す記号アンブレエム牡丹ぼたん
また詩人が常に建つる
※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、176-下-5]宝楼はうろう
柱頭ちゆうとう[#ルビの「ちゆうとう」は底本では「ちうとう」]を飾る火焔模様、牡丹ぼたん
また、青春の秘経ひきやうの奥に
愛と栄華を保証する
運命の黄金きん大印たいいん牡丹ぼたん

おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き接吻ベエゼの唇、牡丹ぼたん
我は狂ほしき眩暈めまひの中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
あつ[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]き、あつ[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]きヒユウマニズムの唇、牡丹ぼたん
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が真赤まつかなる心の花、牡丹ぼたん


初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
髪をきれいにき分けた
十六七の美少年。
さくら色した肉附にくづきに、
ようも似合うた詰襟つめえり
みどりの上衣うはぎ、しろづぼん。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
青いほのほき立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいとみ切り吹く笛も
つつみがたない火の調子。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
ほそいづぼんに、赤い靴、
つゑを振り振り駆けて来た。
そよろとにほ追風おひかぜに、
枳殻きこくの若芽、けしの花、
青梅あをうめの実も身をゆする。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつ
五行ばかりの新しい
恋の小唄こうたをくちずさみ、
女の呼吸いきのする窓へ、
物を思へど、蒼白あをじろ
百合ゆり陰翳かげをば投げに来た。


おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の皷動こどうに調子を合せて、
万物が一斉に
うんとりきみ返り、
いつぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色こんじきに光る夏、
真紅しんくに炎上する夏、
火の振撒ふりまく夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する焼酎せうちうの夏、
乱舞する獅子頭ししかしらの夏、
かうふ夏のあるために
万物は目をさまし、
天地てんち初生しよせいの元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と姑息こそくとから、
小さな怨嗟ゑんさから、
見苦みぐるしい自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂へきれき一音いちおん
それが振鈴しんれいだ、
見よ、今、
赫灼かくしやくたる夏の女王ぢよわうの登場。


ああ、五月ごぐわつ
そなたは、うつくしい
季節の処女をとめ
太陽の花嫁。

そなたのめに、
野は躑躅つゝじを、
水は杜若かきつばたを、
森はふぢさゝげる。

微風そよかぜも、蜜蜂みつばちも、
はた杜鵑ほとゝぎすも、
だそなたを
めて歌ふ。

五月ごぐわつよ、そなたの
桃色の微笑ほゝゑみ
木蔭こかげ薔薇ばら
花の上にもある。


五月ごぐわつい月、花の月、
芽の月、の月、いろの月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬しやくやくふぢ蘇枋すはう
リラ、チユウリツプ、罌粟けしの月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠まきかんむりに矢を背負ひ、
あふひをかざす京人きやうびと
馬競うまくらべする祭月まつりづき
巴里パリイの街の少女等をとめら
花の祭にうつくしい
あて女王ぢよわうを選ぶ月、
わたしのことをふならば
シベリアをき、独逸ドイツき、
君を慕うてはるばると
その巴里パリイまでいた月、
菖蒲あやめ太刀たちのぼりとで
去年うまれた四男よなん目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚しゆろの木が
馬来マレエの島をおもはせる
微風そよかぜの月、青い月、
プラチナいろの雲の月、
蜜蜂みつばちの月、てふの月、
ありとなり、金糸雀かなりや
卵をいだうみの月、
なにやら物にそゝられる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
をどりの、がくの、歌の月、
わたしを中に万物ばんぶつ
堅く抱きしめ、もつれ合ひ、
うめき、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海あをうみの、
森の、公園パルクの、噴水の、
庭の、屋前テラスの、離亭ちんの月、
やれ来た、五月ごぐわつ麦藁むぎわら
細い薄手うすで硝杯こつぷから
レモンすゐをば吸ふやうな
あまい眩暈めまひを投げに来た。


四月のすゑに街けば、
気ちがひじみた風が吹く。
砂と、汐気しほけと、泥のと、
温気うんきを混ぜた南風みなみかぜ

細柄ほそえの日傘わが手から
気球のやうに逃げよとし、
髪や、たもとや、すそまはり
羽ばたくやうに舞ひあがる。

人も、車も、牛、馬も
同じみち踏む都とて、
電車、自転車、監獄車、
自動車づれの狼藉らうぜき[#「狼藉さ」は底本では「狼籍さ」]

鼻息荒くえながら、
人を侮り、おびやかし、
浮足たせ、周章あわてさせ、
逃げ惑はせて、あはや今、

踏みにじらんと追ひ迫り、
さて、その刹那せつなひやゝかに、
からかふやうに、勝つたよに、
見返りもせず去つてく。

そして神田の四つつじに、
下駄を切らしてうつ向いた
わたしの顔を憎らしく
のぞいて遊ぶ南風みなみかぜ


おお、海が高まる、高まる。
若い、やさしい五月ごぐわつの胸、
群青色ぐんじやういろの海が高まる。
金岡かなをか金泥こんでいの厚さ、
光悦くわうえつの線の太さ、
寫樂しやらくの神経のきびきびしさ、
其等それらを一つにかして
音楽のやうに海が高まる。

さうして、その先に
美しい海の乳首ちゝくびと見える
まんまるい一点のあかい帆。
それを中心に
今、海は一段と緊張し、
高まる、高まる、高まる。
おお、若い命が高まる。
わたしと一所いつしよに海が高まる。


今年も五月ごぐわつ、チユウリツプ、
見る目まばゆくぱつと咲く、
猩猩緋しやう/″\ひに咲く、黄金きんに咲く、
べにと白とをまぜて咲く、
人に構はず派手に咲く。


今日けふも冷たく降る雨は
白く尽きざる涙にて、
世界をおほ梅雨空つゆぞら
重たき繻子しゆす掛布かけふ

空は空とて悲しきか、
かなしみ多き我胸わがむね
墨と銀との泣きかは
ゆふべの色に変る頃。


庭にしげれる雑草も
見る人によりあはれなり、
心にのぼ雑念ざふねん
一一いち/\見れば捨てがたし。
あはれなり、捨てがたし、
捨てがたし、あはれなり。


うすずみ色の梅雨空つゆぞらに、
屋根の上から、ふわふわと
たんぽぽの穂が[#「穂が」は底本では「穂か」]白く散る。

ねつ[#「執/れんが」、U+24360、184-下-2]と笑ひを失つた
老いた世界の肌皮はだかは
枯れてがれて落ちるのか。

たんぽぽの穂の散るままに、
ちらと滑稽おどけた骸骨がいこつ
前に踊つて消えてく。

なにか心の無かるべき。
ほつと気息いきをばつきながら
思ひあまりて散るならん、
梅雨つゆ[#ルビの「つゆ」は底本では「づゆ」]晴間はれまの屋根の草。


ひとむら立てる屋根の草、
んの草とも知らざりき。
梅雨つゆ晴間はれまに見上ぐれば、
綿よりもろく、白髪しらがより
細く、はかなく、折折をりをり
たんぽぽの穂がふわと散る。


ああ、さみだれよ、昨日きのふまで、
そなたを憎いと思つてた。
魔障ましやうの雲がはびこつて
地をほろぼそと降るやうに。

もし、さみだれが世に絶えて
だ乾く日のつづきなば、
都も、山も、花園も、
サハラのすなとなるであろ。

恋を命とする身には
涙の添ひてうらがなし。
空を恋路にたとへなば、
そのさみだれはため涙。

降れ、しとしとと、しとしとと、
赤をまじへた、温かい
黒の中から、さみだれよ、
網形あみがたに引け、銀の糸。

ああ、さみだれよ、そなたのみ、
わが名も骨も朽ちる日に、
うもれた墓を洗ひ出し、
涙の手もてぬぐふのは。


隅田川、
隅田川、
いつ見ても
土の色して
かき濁り、
もくしてながる。

今は我身わがみ
引きくらべ、
土より出たる
隅田川、
隅田川、
ひとしく悲し。

く人は
悪を離れず、
く水は
土を離れず。
隅田川、
隅田川。


あはれ、日の出、
山山やまやまへるごとく、
みな喜びに身をゆすりて、
黄金きんしゆまひをかはし、
海とふ海は皆、
にじよりもまばゆき
黄金きんと五彩の橋をうかべて、
「日よ、
此処ここより過ぎたまへ」とさし招き、
さて、日のあしに口づけんとす。

あはれ、日の出、
万象ばんしやう
一瞬にして、奇蹟のごと
すべて変れり。
大寺おほてらの屋根に
はとのむれは羽羽はばたき、
裏街に眠りし
運河のどすぐろき水にも
銀と珊瑚さんごのゆるき波を揚げて、
早くも動く船あり。
人、いづこにか
静かに怠りて在りべき。
あはれ、日の出、
神神かうがうしき日の出、
われもまた
かの喬木けうぼくごとく、
光明くわうみやう赫灼かくしやくのなかに、
高く二つの手をひらきて、
新しき日をいだかまし。


虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
たはれた風も肩先を
深くられて血を浴びる。

虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
はたは火焔のほりとなり、
入日いりひの海へ流れゆく。

虞美人草ぐびじんさうも、わが恋も、
ああ、散るままに散るままに、
散るままにこそまばゆけれ。


この草原くさはらに、だれであろ、
波斯ペルシヤの布の花模様、
真赤まつか刺繍ぬひを置いたのは。

いえ、いえ、これは太陽が
土をきよめて世に降らす
点、点、点、点、不思議の火。

いえ、いえ、これは「水無月みなづき」が
真夏の愛を地に送る
あつ[#「執/れんが」、U+24360、188-下-11]いくちづけ、燃ゆる星眸まみ

いえ、いえ、これは人同志
恋にこがれた心臓の
象形うらかたに咲く罌粟けしの花。

おお、罌粟けしの花、罌粟けしの花、
わたしのやうに一心いつしん
思ひつめたる罌粟けしの花。


河からさつと風が吹く。
風に吹かれて、さわさわと
大きくなびく原のあし

あしあひだを縫ふみち
何処どこかで人の話しごゑ、
そして近づく馬の※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)だく

小高こだかをかに突き当り
みちは左へ一廻ひとめぐり。
私はをかけ上がる。

下を通るは、馬の背に
男のやうな帽を
亜米利加アメリカ婦人の二人ふたりづれ。

緑を伸べた地平には、
遠い工場こうばの煙突が
赤い点をば一つ置く。


ああ夏が来た。この昼の
若葉をとほす日の色は
ほんに酒ならペパミント、
黄金きんと緑を振り注ぎ、
広く障子をけたれば、
子供のやうな微風そよかぜ
衣桁いかうに掛けた友染いうせん
長い襦袢じゆばんに戯れる。

ああ夏が来た。こんな日は
君もどんなに恋しかろ、
巴里パリイの広場、街並木、
珈琲店カツフエ[#「珈琲店の」は底本では「琲珈店の」]前庭テラスBoiボワ の池。
私も筆の手を止めて、
晴れた Seineセエヌ濃紫こむらさき
今その水が目にうかび、
じつと涙にれました。

ああ夏が来た、夏が来た。
二人ふたりの画家とつれだつて、
君と私が Amianアミアン
塔をたのも夏である。
二度とかれる国で無し、
私に帽をさし出した
お寺の前の乞食こじきらに
物をらずになぜ来たか。


庭いちめんにこころよく
すくすくしげる雑草よ、
弥生やよひの花に飽いた目は
ほれぼれとしてれに向く。
人の気づかぬ草ながら、
十三塔じふさんたふを高く立て
風の吹くたび舞ふもある。
女らしくも手を伸ばし、
れを追ふのか、いだくのか、
上目うはめづかひに泣くもある。
五月ごぐわつのすゑの外光ぐわいくわう
汗ののする全身を
香炉かうろとしつつくもある。
名をすら知らぬ草ながら、
葉のかた見れば限り無し、
さかづきのかた、とんぼがた
のこぎりのかたたてかた
ペンさきかた、針のかた
また葉の色も限り無し、
青梅あをうめの色、鶸茶色ひわちやいろ[#「鶸茶色、」は底本では「鶸茶色」]
緑青ろくしやうの色、空の色、
それに裏葉うらはの海の色。
青玉色せいぎよくいろきとほり、
地にへばりつくる葉には
緑を帯びた仏蘭西フランス
牡蠣かき薄身うすみを思ひ出し、
なまあたたかい曇天どんてん
細かな砂の灰が降り、
南の風に草原くさはら
のろい廻渦うねりを立てる日は、
坪ばかりの庭ながら
紅海沖こうかいおきが目にうかぶ。


洗濯物を入れたまま
大きなたらひが庭を流れ、
地がにはかに二三じやくも低くなつたやうに
姫向日葵ひめひまはり鬱金うこんの花のさきだけが見え、
ごむ手毬でまりがついと縁の下から出て、
潜水服をたお伽噺とぎばなしの怪物の顧眄みえをしながら
腐つたあかいダリアの花に取りすがる。
五六枚しめた雨戸の間間あひだあひだからのぞく家族の顔は
どれも栗毛くりげの馬の顔である。
雨はますます白いやいばのやうに横に降る。

わたしは颶風あらしにほぐれるすそを片手におさへて、
泡立つてく濁流を胸がすく程じつと眺める。
ひざぼしまで水につかつた郵便配達夫を
人の木が歩いて来たのだと見ると、
れた足のまゝ廊下でをどり狂ふ子供等は
真鯉まごひの子のやうにも思はれた。
ときどき不安と驚奇きやうきとの気分の中で、
今日けふの雨のやうに、
物の評価の顛倒ひつくりかへるのは面白い。


青いすいつちよよ、
青い蚊帳かやに来てく青いすいつちよよ、
青いすいつちよの心では
恋せぬ昔の私と思ふらん、
さびしいさびしい私と思ふらん。
思へば和泉いづみの国にて聞いたその声も
今聞く声も変り無し、
きさくな、づかぬ小娘の青いすいつちよよ。

[#1行アキは底本ではなし]青いすいつちよよ、
青いすいつちよは、なぜきさしてだまるぞ。
わたしのほかに聞き慣れぬ男の気息いきはぢらふか、
やつれの見えるわたしの
ほつれたるわたしの髪をじつと見て、
虫の心もむせんだか。

青いすいつちよよ、
なになげくな、驚くな、
わたしはすべて幸福しあはせだ、
いざ、今日けふ此頃このごろを語らはん、
来てとまれ、
わたしの左の白いかひなすほどに。


おおうつくしい勝浦、
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に、
海と街とを抱いてゐる。

此処ここへ来ると、
人間も、船も、鳥も、
青空に掛るまろい雲も、
すべてが平和な子供になる。

太洋たいやうで荒れる波も、
この浜の砂の上では、
柔かな鳴海なるみ絞りのたもと
かろく拡げて戯れる。

それは山に姿をりて
静かに抱く者があるからだ。
おおうつくしい勝浦、
此処ここに私は「愛」を見た。


の泉のとなるかなしさ、
静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。

の泉のとなるかなしさ、
微風そよかぜなげけば、花のぬれつつ身悶みもだえぬ。

の泉のとなるかなしさ、
黄金こがねのさしくし月姫つきひめうるみて彷徨さまよへり。

の泉のとなるかなしさ、
笛、笛、笛、笛、我等もかなしき笛を吹く。


草の上に
更に高く、
ひともと、
二尺ばかり伸びて出た草。

かよわい、薄い、
細長い四五へんの葉が
朝涼あさすゞの中に垂れてゑが
女らしい曲線。

優しい草よ、
はかなげな草よ、
全身に
青玉せいぎよくしつを持ちながら、
七月の初めに
もう秋を感じてゐる。

青いほのかな悲哀、
おお、草よ、
これがそなたのすべてか。


へびよ、そなたを見る時、
わたしは二元論者になる。
美と醜と
二つの分裂が
宇宙に並存へいぞんするのを見る。
蛇よ、そなたを思ふ時、
わたしの愛の一辺いつぺんわかる。
わたしの愛はまだ絶対のもので無い。
蛮人ばんじんと、偽善者と、
盗賊と、奸商かんしやうと、
平俗な詩人とをゆるすわたしも、
蛇よ、そなたばかりは
わたしの目のほかに置きたい。


木のかげになつた、青暗あおぐら
わたしの書斎のなかへ、
午後になると、
いろんな蜻蛉とんぼが止まりに来る。
天井の隅や
がくのふちで、
かさこそと
銀のひゞきはねざはり……
わたしは俯向うつむいて
物を書きながら、
心のなかで
かうつぶやく、
其処そこには恋に疲れた天使達、
此処ここには恋に疲れた女一人ひとり


夏、真赤まつかな裸をした夏、
おまへはなんふ強い力で
わたしをおさへつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春のあひだめた
命の力を強く強く使はされる。

夏、おまへは現実の中の
ねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-上-4]し切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを取入とりいれよう、
おまへにつてかう、
太陽の使つかひ真昼まひるの霊、
涙と影を踏みにじる力者りきしや

夏、おまへにつてわたしは今、
特別な昂奮かうふん
偉大な情※じやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-上-12]おそろしい直覚とをもつ
わたしの脈管みやくくわんに流れるのを感じる。
なんと神神かうがうしい感興、
おお、ねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-下-2]した砂を踏んでかう。


わたしは生きる、力一ちからいつぱい、
汗をき、ペンを手にして。
今、宇宙の生気せいき
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が一片いつぺんあの空からのぞいてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと一所いつしよに燃え上がる。


海が急にふくれ上がり、
ち上がり、
前脚まへあしを上げた
千匹せんびき大馬おほうまになつて
まつしぐらに押寄おしよせる。

一刹那いつせつな、背をしてゐた
岩とふ岩が
身構へをするすきも無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。

いそたちまち一面、
銀の溶液でおほはれる。
やがてれがすべり落ちる時、
真珠を飾つた雪白せつぱくの絹で
さつとでられぬ岩も無い。

一つの紫色むらさきいろをした岩の上には、
波の中の月桂樹げつけいじゆ――
緑の昆布こんぶが一つさゝげられる。
飛沫しぶきと爆音との彼方かなたに、
海はまた遠退とほのいてく。


手紙が山田温泉からいた。
どんなに涼しい朝、
山風やまかぜに吹かれながら、
紙のはしを左の手で
おさおさへして書かれたか。
この快闊くわいくわつな手紙、
涙にはれてずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。


涼しい風、そよ風、
折折をりをりあまえるやうに[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]
窓からはひる風。
風の中のうつくしい女怪シレエネ
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙をひるがへし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎わかあゆのやうに、
溌溂はつらつかへらせる風。


九月一日いちじつ、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達はたれも、たれも、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那せつなに来る、
明日あすに、明後日あさつてに来る。
私達は油断なくれに身構へる。
からへ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
しもたれかが
大平楽たいへいらく[#「大平楽たいへいらくな」はママ]気分になつて、
もう一年いちねんたつた今日こんにち
あのやうなカタストロフは無いとふなら、
それこそ迷信家をもつて呼ばう。
さうふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月一日いちじつ、地震の記念日。


今年も取出とりだして掛ける、
地震の夏の古いすだれ
あの時、皆が逃げ出したあとに
このすだれは掛かつてゐた。
れがおまへを気にしよう[#「気にしよう」は底本では「気にしやう」]
置きりにされ、
いへ一所いつしよに揺れ、
風下かざしもの火事のけぶりを浴びながら。

もし私のうちも焼けてゐたら、
すだれよ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目にうちはひつた私が
蘇生そせいの喜びに胸を躍らせ、
さらさらとすだれを巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。

すだれは古くよごれてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしいすだれよ、
共に災厄さいやくをのがれたすだれよ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうにく。
おまへも私も生きてゐる。


虫干むしぼしの日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴ヨオロツパの旅にて
わがたりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里パリイ流行モオド
リボンと、花と、
はね飾りとはせたれど、
思出おもひで古酒こしゆごとく甘し。
ほこりかびとほして
是等これらの帽の上に
セエヌの水のにほひ、
サン・クルウの森のしづく
ハイド・パアクの霧、
ミユンヘンの霜、維納ウインの雨、
アムステルダムの入日いりひの色、
さては、また、
バガテルの薔薇ばら
仏蘭西座フランスざの人いきれ、
なほ残れるや、残らぬや、
思出おもひで古酒こしゆごとく甘し。
アウギユスト・ロダンは
この帽のもとにて
我手わがてに口づけ、
ラパン・アジルにあつま
新しき詩人と画家のむれ
この帽をたる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手ののち
なほ一たびこの帽をもたげて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべてとせのまへ
思出おもひで古酒こしゆごとく甘し。


今夜、わたしの心に詩がある。
やなの上でねる
銀のうをのやうに。
桃色の薄雲の中をはし
まんまるい月のやうに。
風と露とにゆすれる
細い緑の若竹わかたけのやうに。

今夜、私の心に詩がある。
私はじつとその詩をおさへる。
さかなはいよいよねる。
月はいよいよはしる。
竹はいよいよゆすれる。
苦しい此時このとき
楽しい此時このとき


夕立の風
のきすだれを動かし、
部屋のうち暗くなりて
片時かたとき涼しければ、
我は物を書きさし、
空を見上げて、雨を聴きぬ。

書きさせる紙の上に
何時いつしかきたりしはち一つ。
よき姿のはちよ、
腰の細さ糸に似て、
身に塗れるきん
なにの花粉よりか成れる。

し、我が文字の上を
はちふに任せん。
わがにほひなき歌は
素枯すがれし花に等し、
せめて弥生やよひ名残なごりを求めて
はちふに任せん。


おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、
明るいしゆに、紫に、えた黄金きんに。
破れた障子をすつかりおけ、
思ひがけない幸福しあはせが来たやうに。

黒ずんだ緑に、灰がかつた青、
陰気な常盤木ときはぎばかりが立て込んで
春とふ日を知らなんだ庭へ、
永い冬から一足いつそく飛びに夏が来た。
それも遅れて七月に。

まあ、うれしい、
ダリヤよ、
わたしは思はず両手をおまへに差延べる。
このひらいてとがつた白い指を
なんと見る、ダリヤよ。

しかし、もう、わたしの目には
ダリヤもない、指もない、
だ光と、ねつ[#「執/れんが」、U+24360、205-上-3]と、にほひと、楽欲げうよくとに
眩暈めまひしてふるへた
わたしの心の花のざうがあるばかり。


どこかの屋根へ早くから
群れてあつまり、かあ、かあと
いたからすに目が覚めて、
すかして見れば蚊帳かやごしに
もう戸のそとしらんでる。

細い雨戸をけたれば、
れぼつたいやうな目遣めづかひの
鴨頭草つきくさの花咲きみだれ、
荒れた庭ともふばかり
しつとり青い露がおく。

日本の夏の朝らしい
このひと時の涼しさは、
人まで、身まで、骨までも
水晶質となるやうに、
しみじみ清くれとほる。

[#1行アキは底本ではなし]くりやへ行つて水道の
栓をねぢれば、たた、たたと
思ひ余つた胸のよに、
バケツへ落ちて盛り上がる
こゝろ丈夫な水音も、

わたしの立つた板敷へ
裏口の戸のあひだから
新聞くばりがばつさりと
投げこんでく物音も、
薄暗がりにここちよや。


せみく。
いぶるよに、じじと一つ、
わたしのいへきりの木に。

そのにつれて、そこ、かしこ、
せみせみせみせみ
いろんなせみき出した。

わたしのいへせみ
最初の口火、
いま山の手の番町ばんちやう
どの庭、どの木、どの屋根も
七月の真赤まつかな吐息の火にげる。

枝にも、葉にも、かはらにも、
のきにも、戸にも、すだれにも、
流れるやうなしゆした
光のなかでせみく。

無駄と知らずに、根気よく、
砂をつかんでずらすせみ

なべの油を煮たぎらし、
のろひごとする悪のせみ

重い苦患くげん身悶みもだえて、
鉄の鎖をゆするせみ

悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと
水晶の珠数じゆずを鳴らすせみ

思ひ出してはひとしきり
泣きじやくりする恋のせみ

せみせみせみせみ
あつ[#「執/れんが」、U+24360、207-下-1]い真夏の日もすがら、
せみ
んで、またき次ぐ。

さてだれが知ろ、
かず、叫ばず、ただひとり
かげにかくれて、かすかにも
羽ばたきをするめすせみ


朝露あさつゆのおくままに、天地あめつち
サフイイルと、青玉せいぎよく
真珠を盛つたギヤマンのしつ
朝の日の昇るまま、天地あめつち
黄金わうごんと、しろがねと
珊瑚さんごをまぜたモザイクの壁。
その中に歌ふトレモロ――秋の初風はつかぜ


初秋はつあきぬ、白麻しらあさ
明るき蚊帳かやしながら、
の更けゆけば水色の
麻のかろきを襟近く
打被うちかづくまで涼しかり。

上の我子わがこ二人ふたりづれ
大人おとなごとく遠くき、
夏の休みを陸奥みちのく
山辺やまべの友のいへに居て
今朝けさうれしくも帰りきぬ。

休みのはてにおのが子と
別るるひなの親達は
夏の尽くるや惜しからん、
都に住めるしあはせは
秋の立つにも身に知らる。

貧しけれども、わがいへ
今日けふ夕食ゆふげの楽しさよ、
黒川郡くろがはぐん山辺やまべにて
我子わがこれる百合ゆりの根を
我子わがこと共にあぢはへば。


世界はいと静かに
涼しきよるとばりねむり、
黄金こがねうを一つ
その差延べし手に光りぬ、
初秋はつあきの月。

紫水晶むらさきずゐしやうの海は
黒き大地だいぢに並び夢みて、
一つの波は彼方かなたより
柔かき節奏ふしどり
その上をきたる。

波は次第に高まる、
麦のうねの風にさかごとく。
さて長きいその上に
拡がり、拡がる、
しろがねのあみとして。

波は幾度いくたびもくり返し
しき光のうをを抱かんとす。
されどあみを知らで、
常に高く彼処かしこに光りぬ、
初秋はつあきの月。


誇りかな春に比べて、
優しい、優しい秋。
目に見えない刷毛はけ
秋は手にして、
日蔭ひかげの土、
風に吹かれる雲、
街の並木、
かやの葉、
かづらつる
雑草の花にも、
一つ一つ似合はしい
い色をえらんで、
まんべんなく、細細こまごまと、
みんなをゑどつてく。
御覧ごらんよ、
そのはたけに並んだ、
小鳥のあしよりも繊弱きやしや
蕎麦そばの茎にも、
夕焼の空のやうな
うつくしい臙脂紫ゑんじむらさき……
これが秋です。
優しい、優しい秋。


少し冷たく、にほはしく、
清く、はかなく、たよたよと、
コスモスの花、高く咲く。
秋の心を知る花か、
うすももいろに高く咲く。


初秋はつあきの日の砂の上に
ひろき葉一つ、はかなくも
薄黄うすきを帯びし灰色の
影をばきて落ちきたる。
あはれ傷つく鳥ならば
血にみつつも叫ばまし、
秋にへざる落葉おちばこそ
反古ほごにひとしきおとすなれ。


秋は薄手うすでさかづきか、
ちんからりんと杯洗はいせんに触れて沈むよな虫がく。
秋は妹の日傘パラソルか、
きやしやな翡翠ひすゐ把手とつて
明るい黄色きいろの日があたる。

さて、また、秋は廿二三にじふにさん今様いまやうづくり、
青みを帯びたお納戸なんど著丈きだけすらりと、
白茶地しらちやぢ金糸きんしの多い色紙形しきしがた唐織からおりの帯もまばゆく、
園遊会の片隅のいたやもみぢかげき、
少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。

それから後ろのわたしと顔を見合せて、
「まあ、いい所で」と走り寄り、
「どうしてそんなにおせだ」と、
十歳とをの時、別れた姉のやうな口振くちぶりは、
優しい、優しい秋だこと。


葡萄ぶだういろの秋の空をあふ[#ルビの「あふ」は底本では「おほ」]げば、
初めてかるみづみづしき空を見たる心地す。
われ今日けふまでなにをしてありけん、
くりやと書斎にりしことのさびしきを知らざりしかな。
わが心今更いまさらごとく解かれたるを感ず。

葡萄色ぶだういろの秋の空は露にうるほふ、
かる日にあはれ田舎へかまし。
そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋つりなべの湯気をぎ、
そこにて尻尾しりをふる百舌もず甲高かんだかなる叫びを聞き、
そこにて刈稲かりいねを積みて帰る牛と馬とを眺め、
そこにて鳥兜とりかぶと野菊のきくと赤きたでとを摘まばや。

葡萄ぶだういろの秋の空はまた田舎の朝によろし。
砂川すなかはの板橋の上に片われづきしろく残り、
川魚御料理かはうをおんれうり」のいへいまだ寝たれど、
百姓屋の軒毎のきごとに立つる朝食あさげの煙は
街道がいだうたけ高きけやきの並木に迷ひ、
もみする石臼いしうすの音、近所となりにごろごろとゆるぎむれば、
「とつちやん[#「とつちやん」は底本では「とつちんや」]」とちさすゑ娘に呼ばれて、門先かどさきの井戸のもと鎌磨かまと老爺おやぢもあり。
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂のごとく、
突きあたりて曲る、行手ゆくての見えざる広き坂を、
今結びし藁鞋わらぢひも切目きりめすがすがしく、
男も女も脚絆きやはんして足早あしばやのぼりゆく旅姿こそをかしからめ。

葡萄ぶだういろの秋の空の、されど又さびしきよ。
われを父母ちゝはゝありし故郷ふるさと幼心をさなごゝろに返し、
恋知らぬ素直なる処女をとめごとくにし、
なか六番町の庭の無花果いちじく[#「無花果の」は底本では「無果花の」]木のもと
手を組みてひ知らぬあはうれひに立たしめぬ、
おそらくは此朝このあさ無花果いちじくのしづくよ、すべて涙ならん。


けたたましく
私をんだ百舌もず何処どこか。
私は筆をいてもんを出た。
思はず五六ちやうを歩いて、
今丘の上に来た。

見渡す野のはてに
青く晴れた山、
日を薄桃色うすもゝいろに受けた山、
白い雲から抜け出して
更に天を望む山。

今朝けさの空はコバルトに
少し白を交ぜてれ、
その下の稲田いなだ
黄金きんふさうづまり、
何処どこにも広がる太陽の笑顔。

そよ風もよろこびをこらへかね、
その静かな足取あしどり
急に踊りのふりに換へて、
またしてもまろく大きく
すゝきの原をべる。

縦横たてよこみち
幾すぢの銀を野に引き、
あるものは森の彼方かなたに隠れ、
あるものは近き村の口から
荷馬車と共に出て来る。

ああ野は秋の最中もなか
いつぱいに空気を吸へば、
人を清くすこ[#ルビの「すこ」は底本では「すこや」]やかにする
黒土くろつち、草の
穀物の、水の

私はじつと
其等それらの中にひたる。
またやがてひたるとはう、
さはやかに美しい大自然の
悠久いうきうの中に。

さい私の感激を
人の言葉に代へてふ者は、
私のそばに立つて
あかい涙をけたやうな
ひとむらの犬蓼いぬたでの花。


十一月の海の上を通る
快い朝方あさがたの風がある。
それに乗つて海峡を越える
無数の桃色の帆、金色こんじきの帆、
皆、朝日をいつぱいに受けてゐる。

わたしはたつた一人ひとり
浜の草原くさはら蹲踞しやがんで、
翡翠色ひすゐいろの海峡に
あとから、あとからとうき出して来る
船の帆の花片はなびらに眺める。

わたしの周囲には、
草が狐色きつねいろ毛氈まうせんを拡げ、
中には、灌木かんぼく
銀の綿帽子をけたこずゑ
牡丹色ぼたんいろの茎が光る。

後ろの方では、
何処どこの街の工場こうばか、
遠い所でひとしきり、
甘えるやうな汽笛のおと
長い金属の線を空に引く。


秋の盛りのうつくしや、
※(「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43)※(「くさかんむり/婁」、第3水準1-91-21)はこべの葉さへ小さなる
黄金こがねいんをあまたび、
野葡萄のぶだうさへも瑠璃るりを掛く。[#「掛く。」は底本では「掛く」]

百舌もずひは[#ルビの「ひは」は底本では「ひよ」]も肥えまさり、
里のすゞめも鳥らしく
晴れたる空に群れて飛び、
はち巣毎すごとに子の歌ふ。

小豆色あづきいろする房垂れて
鶏頭けいとう高く咲く庭に、
ひとしきりす日の入りも
涙ぐむまで身にみぬ。


朝顔の花うらやまし、
秋もやうやく更けゆくに、
真垣まがきを越えて、たけ高き
こづゑにさへもぢゆくよ。

朝顔の花、人ならば
にほふ盛りの久しきを
世や憎みなん、それゆゑに
思はぬ恥も受けつべし。

朝顔の花、めでたくも
百千もゝちの色のさかづきに
夏より秋をぎながら、
飽くこと知らで日にぞふ。


みちひとすぢ、並木路、
赤い入日いりひはすし、
点、点、点、点、しゆまだら……
桜のもみぢ、かきもみぢ、
点描派ポアンチユリストの絵が燃える。

みちひとすぢ、さんらんと
彩色硝子さいしきガラスてらされた
らうを踏むよなゑひごこち、
そしてしんからしみじみと
涙ぐましい気にもなる。

みちひとすぢ、ひとり
わたしのためにあの空も
心中立しんぢゆうだて[#ルビの「しんぢゆうだて」は底本では「しんぢうだて」]に毒を飲み、
臨終いまはのきはにさし伸べる
赤い入日いりひの唇か。

みちひとすぢ、この先に
サツフオオの住むいへがあろ。
其処そこには雪が降つて居よ。
出てことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。

みちひとすぢ、秋のみち
物の盛りの尽きるみち
おおうつくしや、急ぐまい、
点、点、点、点、しばらくは
わたしの髪もしゆまだら……


狭い書斎の電灯よ、
ひもで縛られ、さかさまに
り下げられた電灯よ、
わたしと共に十二時を
越してますます目がえる
不眠症なる電灯よ。

わたしのよるの太陽よ、
たつた一つの電灯よ、
わたしの暗い心から
吐息と共に込み上げる
思想の水を導いて
机にてらす電灯よ。

そなたの顔も青白い、
わたしの顔も青白い。
地下室に似る沈黙に、
気は張り詰めて居ながらも、
ちらとわなゝく電灯よ、
わたしもまれに身をゆする。

よるは冷たく更けてゆく。
なにとも知らぬ不安さよ、
近づく朝をおそれるか、
さいの終りを予知するか、
女ごころと電灯と
じつとさびしく聴きれば、

死を隠したる片隅の
陰気なかげのくらがりに、
柱時計の意地わるが
人の仕事と命とに
差引さしひきつけて、こつ、こつと
算盤そろばんはじたまおと


つぼには、しぼみゆくままに、
取換とりかへない白茶色しらちやいろ薔薇ばらの花。
その横の廉物やすもの仏蘭西皿フランスざら
腐りゆく林檎りんご華櫚くわりん
其等それらの花と果実このみから
ほのかに、ほのかに立ち昇る
にほひの音楽、
わたしはれを聴くことが好きだ。
盛りの花のみをでた
青春の日と事変ことかはり、
わたしは今、
命の秋の
身も世もあらぬさびしさに、
深刻の愛と
頽唐たいたうの美と
其等それらに半死の心臓をあたためながら、
常に真珠の涙を待つてゐる。


昨日きのふ今日けふも曇つてゐる
銀灰色ぎんくわいしよくの空、冷たい空、
雲の彼方かなたでは
もうあられの用意が出来て居よう[#「居よう」は底本では「居やう」]
どの木も涙つぽく、
たより無げに、
黄なる葉をまばらにあまして、
小心せうしんに静まりかへつてゐる。
みんな敗残の人のやうだ。
小鳥までが臆病おくびやうに、
過敏になつて、
ちよいとしたふうにも、あたふたと、
うられた茂みへもぐり込む。
ああ十一月、
季節のだ、
冬の墓地の白い門が目にうかぶ。
公園の噴水よ、
せめてお前でも歌へばいいのに、
狐色きつねいろ落葉おちばの沈んだ池へ
さかさまに大理石の身を投げて、
お前が第一に感激を無くしてゐる。


十一月の灰色の
くもり玻璃がらすの空のもと、
うなりを立てて、あららかに、
ばさり、ばさりとむちを振る
あはれ木枯こがらしがままに、

緑青ろくしやうてふあかはね
琥珀こはくと銀の貝のから
黄なる文反古ふみほごびしくし
とばかり見えて、はらはらと
の葉はもろく飛びかひぬ。

あはれ、今はた、には
四月五月の花も無し、
若き緑の枝も無し、
も夢も無し、微風そよかぜ
さゝやくあまき声も無し。

かの楽しげに歌ひつる
小鳥のむれは何処いづこぞや。
鳥はけども、刺すごと
百舌もず鵯鳥ひよどり、しからずば
枝を踏み折る山鴉やまがらす

諸木もろきなにを思へるや、
銀杏いてふ木蓮もくれんほゝかへで
かの男木おとこぎも、その女木めぎ
せて骨だつ全身を
冬にさらしてをののきぬ。

やがて小暗をぐらよるん、
しぐるる雲はここ過ぎて
白き涙を落すべし、
月はさびしく青ざめて
森の廃墟はいきよてらさまし。

されど諸木もろきは死なじかし。
また若返る春のため
新しき芽とつぼみとを
老いざる枝に秘めながら、
されど諸木もろきは死なじかし。


ほろほろと……また、かさこそと……
おち……おち……もすがら……
ひさしをすべり……戸にすがり……
土にくづるるおと聞けば……
もろき廃物……薄きかす……
びし鍋銭なべせん……焼けし金箔はく……
渋色しぶいろ反古ほご……だんの灰……
さては女のさだ過ぎて
歎く雑歌ざふか断章フラグマン……
うらがなしくも行毎ぎやうごと
「死」の韻を押す断章フラグマン……


空は紫
そのもと真黒まくろなる
一列の冬の並木……
かなたには青物のはた海のごとく、
午前の日、霜に光れり。
われらが前を過ぎ去りし
農夫とその荷車とは
畑中はたなかみちはて
今、脂色やにいろの点となりぬ。
物をなひそ、君よ、
あぢはひたまへ、この刹那せつな
二人ふたりひたす神妙の
もくおもむき……


白がちのコバルトの
うす寒き師走しはす
書斎の隅なる
セエヴルの鉢より
幾つかのくわりんの身動みじろげり。

あはれ百合ゆりよりも甘し、
鈴蘭すゞらんよりも清し、
あはれ白き羽二重のごとかるし、
黄金きんの針のごとく痛し、
熟したるくわりんののかをり。

くわりんのに迫るは
つれなき風、からき夜寒よさむ
あざ笑ふ電灯のひかり、
いづこぞや、かの四月の太陽は、
かの七月の露は。

されど、今、くわりんのには
苦痛と自負と入りまじり、
むなしく腐らじとする
そのしんこらぢから
黄なる蛋白石オパアル[#「蛋白石の」は底本では「胥白石の」]肌を汗ばませぬ。

ああ、くわりんの
冬と風とにもほろぼされず、
心と、肉と、晶液しやうえきと、
内なるたふとき物皆をとして
永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]あひだにたなびきく。


雪がんだ、
太陽が笑顔を見せる。
庭につもつた雪は
硝子がらす越しに
ほんのりと薔薇ばら色をして、
綿のやうに温かい。

小作こづくりな女の、
年よりは若く見える、
まげを小さくつた、
ひん[#「好い」は底本では「如い」]祖母ばあさんは、
古風な糸車いとぐるまの前で
黙つてつむいでゐる。

太陽が部屋へはひつて、
祖母ばあさんの左の手に
そつと唇を触れる。
祖母ばあさんは何時いつにか
うつくしい薔薇ばら色の雪を
黙つてつむいでゐる。


ああ憎き冬よ、
わがいへのために、冬は
恐怖おそれなり、のろひなり、
闖入者ちんにふしやなり、
虐殺なり、なり。

街街まちまちの柳の葉をり落して、
びたる銅線のごとく枝のみをふるはしめ、
そのの菊を枝炭えだずみごと灰白はいじろませ、
家畜のひづめを霜の上にのめらしめて、
ああなほ飽くことを知らざるや、冬よ。

冬は更に人間を襲ひて、
づわがいへきたりぬ。
冬は風となりて戸を穿うがち、
えんよりせり出し、
霜となりて畳にひそめり。

冬はインフルエンザとなり、
喘息ぜんそくとなり、
気管支炎となり、
肺炎となりて、
親と子と八人はちにんを責めさいなむ。

わがいへは飢ゑと死にとなりし、
寒さと、ねつ[#「執/れんが」、U+24360、225-下-11]と、せきと、
ねつ[#「執/れんが」、U+24360、225-下-12]と、汗と、吸入きふにふの蒸気と、
呻吟しんぎんと、叫びと、悶絶もんぜつと、
たんと、薬と、涙とにてり。

かくて十日とをか……なほえず
ああ我心わがこゝろは狂はんとす、
短劔たんけんりて、
ただ一撃に刺さばや、
憎き、憎き冬よ、その背を。


冬枯ふゆがれ裾野すその
ひともと
しらかばの木は光る。
その葉は落ちつくして、
白き生身いきみ
女性によしやうごと
師走しはすの風にさらし、
なにを祈るや、独り
双手もろでを空に張る。

日は今、はるかに低き
うす紫の
遠山とほやまに沈み去り、
その余光よくわうの中に、
しらかばの木は
悲しき殉教者の血を、
その胸より、
たらたらと
落葉おちばの上に流す。


が明けた。
風も、大気も、
鉛色なまりいろの空も、
野も、水も
みな気息いきを殺してゐる。

だ見るのは
地上一尺の大雪……
それが畝畝うね/\の直線を
すつかり隠して、
いろんな三角のかたち
大川おほかはに沿うた
歪形いびつはたけに盛り上げ、
光を受けた部分は
板硝子いたがらすのやうに反射し、
かげになつた所は
粗悪な洋紙やうしきちらしたやうに
にぶつやを消してゐる。

そして所所ところどころ
幾つかの
不格好ぶかくかう胴像トルソ
どれも痛痛いたいたしく
手を失ひ、
あしを断たれて、
真白まつしろな胸に
黒い血をにじませながら立つてゐる。

それは枝を払はれたまま、
じつと、いきんで、
死なずに春を待つてゐる
太いくぬぎの幹である。
たとへば私達のやうな者である。


からすからす
雪の上のからす
近い処に一羽いちは
少し離れて十四五

からすからす
雪の上のからす
半紙の上に黒く
大人おとなが書いた字のやうだ。

からすからす
雪の上のからす
「かあ」と一羽いちはけば
さびしく「かあ」と皆がく。

からすからす
雪の上のからす
ゑさが無いのでじいつと
動きもせねば飛びもせぬ。
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退船たいせん銅鑼どらいま鳴り渡り、
見送みおくり人人ひとびと君を囲めり。
君はせはしげに人人ひとびとと手を握る。
われは泣かんとはづむ心のまりからくもおさへ、
人人ひとびとの中をけて小走こばしりに、
うしろの甲板でつきかくるれば、
波より射返いかへす白きひかり墓のごとし。

この二三分………四五分のさびしさ、
われ一人ひとりのけ者のごとし、
君と人人ひとびととのみ笑ひさざめく。
恐らく遠くく旅の身は君ならで、
このさびしき、さびしき我ならん。

退船たいせん銅鑼どら又ひびく。
残刻ざんこくに、されどまた痛快に、
わが一人ひとりとり残されし冷たき心をさいなむその銅鑼どら……

込み合へる人人ひとびとに促され、押され、慰められ、
我は力なきまりごとく、ふらふらと船をくだる。
乗り移りし小蒸汽こじようきより見上ぐれば、
今更に※田丸あつたまる[#「執/れんが」、U+24360、231-下-7]船梯子ふなばしごの高さよ。
ああ君と我とは早くも千里ばん里の差………

わが小蒸汽こじようきへかねしごとつひすゝり泣くに………
一声いつせい二声にせい………
千百せんびやくの悲鳴をほつと吐息に換へ、
「ああなつかしや」と心細きわがたましひの、
臨終いまはの念のごとくに打洩うちもらあつ[#「執/れんが」、U+24360、232-上-1]き涙の白金はくきん幾滴いくてき………

君が船は無言のままに港をづ。
船と船、人人ひとびとは叫びかはせど、
かなたに立てる君と此処ここすわれる我とは、
静かに、静かに、二つの石像のごとく別れゆく……
(一九一一年十一月十一日神戸にて)
わがの君海にうかびて去りしより、
わが見る夜毎よごとの夢、また、すべて海にうかぶ。
或夜あるよは黒きわたつみの上、
片手に乱るるすそをおさへて、素足のまま、
君が大船おほふね舳先へさきに立ち、
白き蝋燭らふそくの銀の光を高くさしかざせば、
したゝらふのしづく涙と共に散りて、
黄なる睡蓮すいれんの花となり、又しろきうろこうをとなりぬ。
かかる夢見しは覚めたるのち清清すがすがし。

[#1行アキは底本ではなし]されど、又、かなしきは或夜あるよの夢なりき。
君が大船おほふねの窓の火ややに消えゆき、
だ一つ残れる最後の薄き光に、
われそとより硝子がらすごしにさしのぞけば、
われならぬおもやつれせしわが影既にうちにありて、
あはれ君がひつぎの前にさめざめと泣き伏すなり。
「われをもうちたまへ」と叫べど、
そとは波風の音おどろしく、
うちはうらうへに鉛のごとく静かに重く冷たし。
泣けるわが影は
氷のごとく、かすみごとく、きとほる影の身なれば、
わが声を聴かぬにやあらん。

われは胸も裂くるばかり苛立いらだち、
扉のかたよりらんと、
たびいつたび甲板でつきの上をめぐれど、
皆堅くとざしてるべき口も無し。
もとの硝子がらす窓に寄りて足ずりする時、
第三のわが影、ともかたの渦巻くなみにまじり、
青白く長き手に抜手ぬきできつて泳ぎつつ、
「は、は、は、は、そは皆物好きなるわがの君のわれをめす戯れぞ」と笑ひき。
覚めてのち、我はその第三の我を憎みて、
ひと腹だちぬ。


良人をつとの留守の一人ひとり寝に、
わたしはなにて寝よう。
日本の女のすべて
じみな寝間著ねまきはみすぼらし、
非人ひにんの姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。

わたしは矢張やはりちりめんの
夜明よあけの色の茜染あかねぞめ
長襦袢ながじゆばんをば選びましよ。
重い狭霧さぎりがしつとりと
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これをるたび思はれる。

はすすそ長襦袢ながじゆばん
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
なんのあてなくあこがれて
若さにはやるたましひを
じつとおさへる心もち。

それに、わたしの好きなのは、
白蝋はくらふにてらされた
夢見ごころの長襦袢ながじゆばん
このにほはしい明りゆゑ、
君なきねやもみじろげば
息づむまでになまめかし。

児等こらが寝すがた、今一度、
見まはしながらをば消し、
寒い二月のとこのうへ、
こぼれるはぎすそに巻き、
つつましやかに足曲げて、
夜著よぎかづけば、可笑をかしくも
君を見初みそめたそのころ
娘ごころに帰りゆく。

旅の良人をつとも、今ごろは
巴里パリイの宿のまどろみに、
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか。


わたしはあまりに気が滅入めいる。
なんの自分を案じましよ、
君を恋しと思ひ過ぎ、
引き立ち過ぎて気が滅入めいる。

「初恋の日は帰らず」と、
わたしの恋の琴の
その弾き歌は用が無い。
昔にまさる燃える気息いき

昔にまさるため涙。
人目をつつむ苦しさに、
鳴りを沈めた琴のいと
じつとかなしく張り詰める。

巴里パリイ大路おほぢく君は
わたしのほかに在るとても、
わたしは君のほかに無い、
君のほかには世さへ無い。

君よ、わたしの遣瀬やるせなさ、
三月みつき待つに身が細り、
四月よつき今日けふは狂ひ
するかとばかり気が滅入めいる。

人並ならぬ恋すれば、
人並ならぬ物おもひ。
れもわたしの幸福しあはせ
思ひ返せど気が滅入めいる。

昨日きのふの恋は朝の恋、
またのどかなる昼の恋。
今日けふする恋は狂ほしい
真赤まつか入日いりひひとさかり。

とは思へども気が滅入めいる。
しもそのまま旅に居て
君帰らずばなんとせう。
わたしは矢張やはり気が滅入めいる。


久しき留守にりかかる
君が手なれの竹の椅子いす
とる針よりも、糸よりも、
女ごころのかぼそさよ。

ひざになびいたひとひらの
江戸紫に置くぬひは、
ひまなく恋に燃える血の
真赤な胸の罌粟けしの花。

花に添ひたる海の色、
ふかみどりなる罌粟けしの葉は、
君が越えたる浪形なみがた
流れて落ちるわが涙。

さはへ、女のたのしみは、
わが罌粟けしの「夢」にさへ
花をば揺する風に似て、
君が気息いきこそかよふなれ。


いざ、てんの日は我がために
きんの車をきしらせよ。
颶風あらしはねは東より
いざ、こころよく我を追へ。

黄泉よみの底まで、泣きながら、
頼む男を尋ねたる
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。

晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
あまがけりゆく、西へく、
巴里パリイの君へひにく。
(一九一二年五月作)
あはれならずや、そのひな
荒巌あらいはの上の巣にのこし、
恋しき兄鷹せうを尋ねんと、
颶風あらしの空にりながら、
ひなにためらへる
若き女鷹めだかしあらば。――
それはやつれて遠く
今日けふの門出の我が心。
いとしきらよ、ゆるせかし、
しばし待てかし、若き日を
なほ夢を見るこの母は
が父をこそ頼むなれ。


巴里パリイいた三日目に
大きい真赤まつか芍薬しやくやく
帽の飾りにけました。
こんな事して身のすゑ
どうなるやらと言ひながら。


土からにはかに
孵化ふくわして出たのやうに、
わたしは突然、
地下電車メトロから地上へひ上がる。
大きな凱旋門がいせんもんがまんなかに立つてゐる。
それをめぐつて
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、
乗合自動車との点とマツス
命ある物の
整然とした混乱と
自主独立の進行とを、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街から繰出し、
此処ここ縦横じゆうわう[#ルビの「じゆうわう」は底本では「じうわう」]に縫つて、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街へ繰込んでゐる。

おお、此処ここは偉大なエトワアルの広場……
わたしは思はずじつと立ちすくむ。

わたしは思つた、――
これで自分は此処ここへ二度来る。
この前来た時は
いろんな車にき殺されさうで、
こはくて、
広場を横断する勇気が無かつた。
そしてふくになつたみちを一つ一つ越えて、
モンソオ公園へみち
アヴニウ・ウツスの入口いりくち見附みつけるめに、
広場の円の端を
長い間ぐるぐるとるいてゐた。
どうした気持のせいでか、
アヴニウ・ウツスの入口いりくち見附みつそこなつたので、
凱旋門がいせんもんを中心に
二度も三度も広場の円の端を
馬鹿ばからしくるき廻つてゐるのであつた。

けれど今日けふは用意がある。
わたしは地図を研究して来てゐる。
今日けふわたしのくのは
バルザツクまち裁縫師タイユウルいへだ。
バルザツクまちへ出るには、
この広場を前へ
真直まつすぐに横断すればいいのである。

わたしはう思つたが、しかし、
真直まつすぐに広場を横断するには
縦横じゆうわう絶間たえま無くせちがふ
速度の速い、いろんな車がこはくてならぬ。
広場へ出るが最期
二三歩で
き倒されて傷をするか、
き殺されてしまふかするであらう……

この時、わたしに、突然、
なんとも言ひやうのない
叡智と威力とがうちからいて、
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。
そして日傘パラソルサツクとをげたわたしは
決然として、馬車、自動車、
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直まつすぐに横ぎり、
あわてず、走らず、
逡巡しゆんじゆんせずに進んだ。
それは仏蘭西フランスの男女のるくがごとくにるいたのであつた。
そして、わたしは、
わたしがうして悠悠いういうるけば、
速度のはやいいろんなおそろしい車が
かへつて、わたしの左右に
わたしを愛してとゞまるものであることを知つた。

わたしは新しい喜悦に胸ををどらせながら、
斜めにバルザツクまちはひつて行つた。
そして裁縫師タイユウルいへでは
午後二時の約束通り、
わたしの繻子しゆすのロオヴの仮縫かりぬひを終つて
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。


ルウヴルきゆう[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]の正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門がいせんもんもやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。


※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユのみや
大理石のかいくだり、
後庭こうていの六月の
花と、と、光のあひだを過ぎて
われ三人みたりの日本人は
広大なる森の中にりぬ。

二百にびやく年を経たる※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶな大樹だいじゆ
明るき緑の天幕てんとを空に張り、
そのもとに紫のこけひて、
物古ものふりし石の卓一つ
つた黄緑わうりよくの若葉と
薄赤きつるとにうづまれり。

二人ふたりの男は石の卓にひぢつきて
こけの上に横たはり、
われは上衣うはぎを脱ぎて
※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶなの根がたに蹲踞うづくまりぬ。
快き静けさよ、かなたのこずゑに小鳥の高音たかね……
近き涼風すゞかぜの中に立麝香草たちじやかうさうの香り……

わが心はみやうちに見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と豪奢がうしやとにひつつあり。
きさき達の寝室の清清すがすがしき白と金色こんじき……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな猩猩緋しやう/″\ひ……

されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの王后わうこうの栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
もろき人間のほかに立てる
※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶなの大樹と石の卓とばかり。

ああ、われはさびし、
わが追ひつつありしは
人間の短命のせいなりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠いう/\と人間の街に帰るよしもがな。


さあ、あなた、いそへ出ませう、
夜通やどほ[#ルビの「やどほ」はママ]し涙にれた
気高けだかい、清い目を
世界が今けました。
おお、夏のあかつき
このあかつきの大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。

海峡には、ほのぼのと
白い透綾すきやの霧が降つて居ます。
そして其処そこの、近い、
黒い暗礁の
まばらに出た岩の上に
さぎが五六
首をはねの下にれて、
あしを浅い水にけて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際みづぎはの砂の上を、そつと、
素足でるいてきませう。

まあ、神神かう/″\しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園で
若いイヴの髪を吹いたのもこの風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれてかないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうにたもとの揚がる快さには
日本の著物きもの幸福しあはせが思はれます。

御覧ごらんなさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉エメラルド女衣ロオブ
水晶と黄金きん笹縁さゝべり……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長いすそ
わたし達の素足ともつれ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
を置いて海の※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)ねうばちが鳴らされます。

あら、さぎが皆立つてきます、
にはかに紅鷺べにさぎのやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。


秋の歌はそよろと響く
白楊はくやう毛欅ぶなの森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。

めたるしゆか、
がれたる黄金きんか、
風無くての葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、きぬにとまるとも。

それもまたの葉のごとく、
かろやかに一つ白きてふ
舞ひてくだれば、とがりたる
赤むらさきの草ぞゆするる。

眠れ、眠れ、疲れたる
春夏はるなつ踊子をどりこよ、てふよ。
かぼそきみちきつつ、なほ我等は
しづかに語らめ、しづかに。

おお、此処ここに、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等がめならん、
君よ、今は語りたまふな。


たそがれのみち
森の中にひとすぢ、
のろはれたみち薄白うすじろみち
もやの奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆくみち

うち沈みて静かなみち
ひともと[#「ひともと」は底本では「もともと」]んの木であらう、
その枯れた裸のかひなを挙げ、
小暗をぐらきかなしみの中に、
心疲れたみちを見送る。

たそがれのみちの別れに、かばの木と
はんの森は気がれたらし、
あれ、谺響こだまが返すかすかな吐息……
かすかな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
またかすかなすゝり泣き……

蛋白石色オパアルいろ珠数珠じゆずだまの実の
頸飾くびかざりを草の上にとゞめ、
薄墨色の音せぬ古池をめぐりて、
もやの奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森のみち……
(一九一二年巴里にて)
水にかつえた白緑はくろく
ひろい麦生むぎふを、すとはす
かけつばめのあわてもの、
なに使つかひに急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。

続いて、さつと、またさつと、
なまあたたかい南風みなみかぜ
ロアルを越して吹くたびに、
白楊はくやうがさわさわと
待つてゐたよに身をゆする。

河底かはぞこにゐた家鴨あひるらは
岸へのぼつて、アカシヤの
かげにがやがやきわめき、
つばめは遠く去つたのか、
もう麦畑むぎばたに影も無い。

それは皆皆よい知らせ、
しばらくのに風はみ、
雨が降る、降る、ほそぼそと
きんの糸やら絹の糸[#「絹の糸」は底本では「絹糸の」]
真珠の糸の雨が降る。

うれしや、これが仏蘭西フランス
雨にわたしのはじめ。
軽い婦人服ロオブに、きやしやな靴、
ツウルの野辺のべ雛罌粟コクリコ
赤い小路こみちを君とき。

れよとままよ、れたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。

そして昔のカテドラル
あの下蔭したかげで休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
きんの糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
(ロアルは仏蘭西南部の[#「南部の」は底本では「南都の」]河なり)
ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影かげに隠れたうすものか、
泣いた夜明よあけの黒髪か。

いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋からのぞくわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……

あれ、じつと、紅玉リユビイの涙のにじむこと……
船にも岸にもがともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……


大輪たいりんに咲く仏蘭西フランス
芍薬しやくやくこそは真赤まつかなれ。
まくらにひと置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。


真赤まつかな土が照り返す
だらだらざか二側ふたかはに、
アカシヤののつづくみち

あれ、あの森の右のかた
飴色あめいろをした屋根と屋根、
あのあひだから群青ぐんじやう
ちらとなすつたセエヌ川……

[#1行アキは底本ではなし]涼しい風が吹いて来る、
マロニエのと水のと。

これが日本のはたけなら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟ひなげしと、
黄金きんに交ぜたるしゆの赤さ。

き捨てた荷車か、
眠い目をして、みちばたに
じつと立ちたる馬の影。

MAITREメエトル RODINロダン の別荘は。」
問ふ二人ふたりより、そばに立つ
KIMONOキモノ 姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人ゐなかびと

「メエトル・ロダンの別荘は
ただ真直まつすぐきなさい、
木のあひだから、その庭の
風見車かざみぐるまが見えませう。」

巴里パリイから来た三人さんにん
胸はにはかにときめいた。
アカシヤののつづくみち


空をかきはねの音……
今日けふも飛行機がいで来る。
巴里パリイの上をひとすぢに、
モンマルトルへいで来る。

ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人ひとりは女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……

[#1行アキは底本ではなし]何処どこくのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めもさびしかろ。

かき消えてく飛行機の
夏の日中ひなかはねの音……


あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日けふ巴里パリイをすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、高高たかだか
はねをひろげたよいかたち

オペラ眼鏡グラスを目にあてて、
空を踏まへた胆太きもぶと
若い乗手のりてを見上ぐれば、
少しひねつた機体から
きらと反射のきんが散る。

若い乗手のりてのいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時かたどきやまぬ新らしい
力となつて飛んでく、
前へ、未来へ、ましぐらに。



しきゐを内へまたぐとき、
墓窟カバウの口を踏むやうな
暗いおびえが身に迫る。

煙草たばこのけぶり、人いきれ、
酒類しゆるゐにほひ、あかり、
黒と桃色、黄と青と……

あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を
わたしを迎へてぜ裂ける。

鬼のむれかとおもはれる
人のかたまり、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭いしつ
    ×
淡い眩暈めまひのするままに
君がかひなを軽く取り、
めづらしくさしのぞ
知らぬ人等ひとらに会釈して、
扇でなかを隠し、
わたしは其処そこに掛けてゐた。

ボウドレエルに似た像が
荒い苦悶くもんを食ひしばり、
手を後ろに縛られて
すゝびた壁につるされた、
その足もとの横長い
粗木あらきづくりの腰掛に。

「この酒鋪キヤバレエの名物は、
四百しひやく年へた古家ふるいへ
きたないことと、剽軽へうきん[#「剽軽な」は底本では「飄軽な」]
また正直なあの老爺おやぢ
それにお客は漫画家と
若い詩人に限ること。」
こんな話を友はする。
    ×
ひろ股衣ヅボン大股おほまた
老爺おやぢは寄つて、三人さんにん
日本の客の手を取つた。
伸びるがままに乱れたる
髪も頬髭ほひげ灰白はひじろみ、
赤い上被タブリエ、青い服、
それもよごれて裂けたまま。
太い目元にしわの寄る
屈托くつたくのない笑顔して、
盛高もりだかと鼻先の
林檎色りんごいろしたうつくしさ。

老爺おやぢの手から、前の卓、
わたしのさいさかづき
がれた酒はムウドンの
丘の上から初秋はつあき
セエヌの水を見るやうな
濃い紫をたたへてる。
    ×
「聴け、我が子等こら」と客達を
しかるやうなる叫びごゑ。

老爺おやぢはやをら中央まんなか
麦稈むぎわら椅子いすに掛けながら、
マンドリンをばひざにして、

「皆さん、今夜は珍しい
日本の詩人をもてなして、
※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌをば歌ひましよ。」

老爺おやぢの声のまぬ
拍手の音が降りかかる[#「かかる」は底本では「かがる」]

赤い毛をした、痩形やせがたの、
モデル女も泳ぐよに
一人ひとりの画家のひざり、
口笛を吹く、手を挙げる。


驟雨オラアジユは過ぎく、
巴里パリイを越えて、
ブロオニユの森のあたりへ。

今、かなたに、
樺色かばいろと灰色の空の
板硝子いたがらすを裂くらいの音、
青玉せいぎよくいなづまたき

なほ見ゆ、遠山とほやまさきごとそばだつ
薄墨うすすみのオペラの屋根の上、
霧の奥に、
猩猩緋しやう/″\ひ黄金きん
光の女服ロオブを脱ぎ放ち、
裸となりて雨を浴ぶる
夏の女皇ぢよくわう
仄白ほのじろき八月の太陽。

なほれわたる街の並木の
アカシヤとブラタアヌは
汗と塵埃ほこりねつ[#「執/れんが」、U+24360、254-下-7]を洗はれて、
その喜びに手を振り、
かしらを返し踊るもあり。

カツフエのテラスに花咲く
万寿菊まんじゆぎく薔薇ばら
はすに吹く涼風すゞかぜの拍子に乗りて
そぞろがはしく
ワルツを舞はんとするもあり。

なほ、そのいみじき
灌奠ラバシヨン余沫よまつ
枝より、屋根より、
はらはらと降らせぬ、
水晶の粒を、
銀の粒を、真珠の粒を。

驟雨オラアジユは過ぎく、
さわやかに、こころよく。
それを見送るは
祭の列のごとく楽し。

わがあるしち階のいへも、
わが住む三階の窓より見ゆる
近き四方しはう家家いへいへも、
窓毎まどごとに光を受けし人の顔、
顔毎かほごとしゆまひ……


テアトル・フランセエズ[#「フランセエズ」は底本では「フランセエエ」]の二階目の、
あか天鵞絨びろうどを張りつめた
看棚ロオジユの中に二人ふたり
君と並べば、いそいそと
をどる心のおもしろや。
もう幕開まくあきの鈴が鳴る。

第一列のバルコンに、
肌のき照る薄ごろも、
白い孔雀くじやくを見るやうに
銀を散らしたいて、
駝鳥だてうはねのしろ扇、
胸にいちりん白い薔薇ばら
しろいづくめの三人さんにん
マネがくよな美人づれ、
望遠鏡めがねつゝ四方しはうから
みな其処そこへ向くめでたさよ。

また三階の右側に、
うす桃色のコルサアジユ、
きんぬひあるけた
華美はでな姿の小女こをんな
ほそい首筋、きやしやな腕、
指環ゆびわの星の光る手で
少し伏目に物を読み、
折折をりをりあとを振返る
人待顔ひとまちがほうつくしさ。

あらいや、前のバルコンへ、
厚いくちびる、白い目の
アラビヤらしい黒奴くろんぼ
襟もかひなも指さきも
きらきら光る、おなじよな
黒い女をれて来た。

どしん、どしんと三度程
舞台をたゝく音がして、
しづかにあが黄金きんの幕。
よごれた上衣うはぎ、古づぼん、
血にむやうな赤ちよつき、
コツペが書いた詩の中の
人を殺した老鍛冶らうかぢ
法官達の居ならんだ
前に引かれる痛ましさ、
足の運びもよろよろと……

おお、ムネ・シユリイ、見るからに
老優の芸の偉大さよ。


九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルトまち、日はせど
ホテルの朝のつめたさよ。

青き出窓の欄干らんかん
ひかぶされるつたの葉は
しゆくれなゐ黄金きんを染め
照れども朝のつめたさよ。

鏡の前に立ちながら
諸手もろでに締むるコルセツト、
ちひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。


ああ重苦しく、赤ぐろく、
高く、ひろく、奥深い穹窿きゆうりゆう[#ルビの「きゆうりゆう」は底本では「きうりゆう」]の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸ふつふつほとばし銀白ぎんぱくの蒸気と、
ぜる火と、える鉄と[#「鉄と」は底本では「鉄ど」]
人間の動悸どうき、汗の
および靴音とに、
絶えず窒息いきづまり、
絶えず戦慄せんりつする
伯林ベルリンおごそかなる大停車ぢやう
ああ此処ここなんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩ちくわんの代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに生血いきちを、
信仰の代りに実行を、
みづから探し求めて出入でいりする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする本寺カテドラルは。
此処ここに大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅すみずみまでをつなぎ合せ、
それにえず手繰たぐり寄せられて、
汽車は此処ここへ三分間ごとに東西南北よりちやくし、
また三分間ごとに東西南北へ此処ここを出てく。
此処ここに世界のあらゆる目覚めざめた人人ひとびとは、
髪の黒いのも、赤いのも、
目のあおいのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
もとより発車をしらせるべるも無ければ、
みんな自分でしらべて大切な自分の「とき」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も此処ここにある。
どんな鋭音ソプラノも、どんな騒音も此処ここにある、
どんな期待も、どんな昂奮かうふんも、どんな痙攣けいれんも、
どんな接吻せつぷんも、どんな告別アデイユ此処ここにある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草たばこ、香料、
麻、絹布けんふ、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も此処ここにある。
此処ここではなにもかも全身の気息いきのつまるやうな、
全身のすぢのはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、せはしい、白※はくねつ[#「執/れんが」、U+24360、259-下-1]の肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しのすきや猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからとつてだれが気の毒がらう。
此処ここでは皆の人がだ自分の行先ゆくさきばかりを考へる。
此処ここ出入でいりする人人ひとびと
男も女も皆選ばれて来た優者いうしやふうがあり、
ひたひがしつとりと汗ばんで、
光をにらみ返すやうな目附めつきをして、
口は歌ふ前のやうにきゆつとしまり、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹がるいてゐるやうである。
みんなの神経は苛苛いらいらとしてゐるけれど、
みんなの意志は悠揚いうやうとして、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの刹那せつなをもむなしくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、巨象マンモス[#ルビの「マンモス」は底本では「モンマス」]のやうな大機関車をきにして、
どの汽車よりも大きな地響ぢひゞきを立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車がはひつて来た。
おそろしい威厳を持つた機関車は
今、世界のすべての機関車を圧倒するやうにしてとまつた。
ああ、わたしもれに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしもれに乗つてくんだ。


秋の日が――
旅人の身につまされやすい
秋の日がゆふべとなり、
薄むらさきにけぶつた街の
高いいへいへとのあひだに、
今、太陽が
万年青おもとのやうに真紅しんく
しつとりとれて落ちてく。

反対ながはの屋根の上には、
港の船の帆ばしらが
どれも色硝子いろがらすの棒を立て並べ、
そのなかに港の波が
幻惑の彩色さいしき打混うちまぜて
ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。
よく見ると、その波のなかば
無数の帆ばしらのさきからひるがへる[#「翻へる」は底本では「翻へる。」]
細長い藍色あゐいろの旗である。

あなた、窓へ来て御覧なさい、
手紙を書くのはあとにしませう、
まあ、この和蘭陀おらんだの海の
うつくしい入日いりび
わたし達は、まだ幸ひに若くて、
かうして、アムステルダムのホテルの
五階の窓に顔を並べて、
この入日いりびを眺めてゐるのですね。
つて、
明日あすわたし達が此処ここを立つてしまつたら、
またの港が見られませうか。

あれ、ぐ窓の下の通りに、
猩猩緋しやう/″\ひ上衣うはぎを黒の上に
一隊の男のの行列、
なん可愛かはいい
小学の制服なんでせう。

ああ、東京の子供達は
どうしてゐるでせう。


黒く大いなる起重機
我が五階の前に立ちふさがり、
その下に数町すうちやう離れて
沖に掛かれる汽船の
黄菊きぎくの花を並ぶ。
税関の彼方かなた
桟橋に寄るなみのたぶたぶと
折折をりをりに鳴りて白し。
いづこの酒場の窓よりぞ、
ギタルに合はする船人ふなびとうた
秋の夜風よかぜまじり、
波止場に沿ふ散歩道は
落葉おちばしたる木立こだちの幹に
海の反射淡く残りぬ。
うら寒し、はるばるつる
アムステルダムの一夜いちや


知らざりしかな、昨日きのふまで、
わがかなしみをわが物と。
あまりに君にかかはりて。

君のむ日をまのあたり
巴里パリイの街に見るれの
あはれなにとてさびしきか。

君が心はをどれども、
わがあつ[#「執/れんが」、U+24360、262-下-10]かりし火はれて、
みづからを泣く時のきぬ。

わが聞くがくはしほたれぬ、
わが見る薔薇ばらはうすじろし、
わがる酒は酢に似たり。

ああ、わが心なく、
東の空にとどめこし
我子わがこの上に帰りゆく。


君はなにかを読みながら、
マロニエのみ出した
はすこみちを、花の
れて呼吸いきつくかたへ去り、
わたしは毛欅ぶなの大木の
しだれた枝に日を避けて、
五色ごしきの糸を巻いたよな
まるい花壇を左にし、
少しはなれた紫の
木立こだちと、青い水のよに
ひろがる芝を前にして、
絵具の箱をけた時、

おお、すゞめすゞめ
一つ寄り、
二つ寄り、
はら、はら、はらと、
とを二十にじふ、数知れず、
きやしやな黄色きいろ椅子いすの前、
わたしへ向いて寄るすゞめ

それ、お食べ、
それ、お食べ、
今日けふもわたしは用意して、
麺麭パンとお米を持つて来た。

それ、お食べ、
すゞめすゞめすゞめたち、
聖母の前のはとのよに、
素直なかはいいすゞめたち。
わたしは国に居た時に、
朝起きても筆、
が更けても筆、
祭も、日曜も、春秋はるあきも、
休む無しに筆とつて、
小鳥にをばるやうな
気安い時を持たなんだ。

おお、うつくしくまるい背と
ちさい頭とくちばしが
わたしへ向いて並ぶこと。
見ればいづれも子のやうな、
わたしの忘れぬ子のやうな……
わたしは小声こごゑで呼びませう、
それひかるさん、
かはいいななちやん、
しげるさん、麟坊りんばうさん、八峰やつを[#ルビの「やつを」は底本では「やつ」]さん……
あれ、まあ挙げた手におそれ、
逃げる一つのあのすゞめ
お前は里に居ために
親になじまぬ佐保さほちやんか。

わたしはなにつてゐた、
気がちがふので無いか知ら……
どうして気安いことがあろ、
ああ、気に掛る、気に掛る、
子供の事が又しても……

せはしい日本の日送りも
心ならずにる筆も、
身の衰へも、わが髪の
早く落ちるも皆子ゆゑ。

子供を忘れ、身を忘れ、
こんな旅寝たびねを、はるばると
思ひ立つたはなにゆゑか。
子をばはぐくむ大切な
母のわたしの時間から、
すゞめをばやる暇を
ぬすみに来たはなにゆゑか。

うつかりと君が言葉にほだされて………

いいえ、いいえ、
みんなわたしの心から………

あれ、すゞめが飛んでしまつた。

それはあなたのせゐでした[#「せゐでした」は底本では「せいでした」]
みんな、みんな、すゞめが飛んでしまひました。

あなた、わたしはうしても
先に日本へ帰ります。
もう、もう絵なんかきません。
すゞめすゞめ
モンソオ公園のすゞめ
そなたにをもりません。
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我手わがての花は人めず、
みづからのと、おのが色。
さはれ、盛りのみじかさよ、
ゆふべを待たでしをれゆく。

我手わがての花はれ知らん、
入日いりひのちに見るごと
うすくれなゐをに残し、
淡きをもて呼吸いき[#ルビの「いき」は底本では「い」]すれど。

我手わがての花はしをれゆく……
いとささやかにつつましき
わがたましひの花なれば
しをれゆくまますべなきか。


ふぢとつつじの咲きつづく
四月五月に知りめて、
わたしは絶えず此処ここへ来る。
森の木蔭こかげこまやかに
曲つて昇る赤いみち

わたしは此処ここで花の
恋の吐息のくを聞き、
広い青葉のかへるのに
若い男のさし伸べる
優しい腕の線を見た。

わたしは此処ここで鳥の
胸の拍子に合ふを知り、
花のしづくを美しい
てふ一所いつしよに浴びながら、
甘いの実を口にした。

今はあらはな冬である。
霜と、落葉おちばと、木枯こがらしと、
たゞれた傷を見るやうに
ひとすぢ残る赤いみち……
わたしは此処ここへ泣きに来る。


「砂をつかんで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか[#「ないか」は底本では「ないが」]其時そのときが、
さては無益むやくその労が。

しかも両手でつかめども、
指のひまから砂がる、
する、する、すると砂がる、
かろく、悲しく、砂がる。

寄せて、おさへて、積み上げて、
かゝへた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
ぐに崩れて砂になる。」

砂の塔をば建てる人
これに答へてつぶやくは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」


空のあらしよ、呼ぶなかれ、
山を傾け、野を砕き、
ところ定めずくことは
地に住むわれにがたし。

野の花のよ、呼ぶなかれ、
し花のとなるならば
われは刹那せつなを香らせて
やがて跡なく消えはてん。

の鳥よ、呼ぶなかれ、
れはもとよりはねありて
枝より枝に遊びつつ、
花より花に歌ふなり。

すべての物よ、呼ぶなかれ、
われは変らぬさゝやきを
乏しき声にくり返し
初恋の巣にとどまりぬ。


しや、しやを言ふ人の
まれにあるこそうれしけれ、
ものかずならで隅にある
わが歌のため、れのため。

いざ知りたまへ、わが歌は
泣くに代へたるうす笑ひ、
灰にせたる色硝子いろがらす
死に隣りたるをどりなり。

また知りたまへ、このれは
春と夏とにはで、
秋の光を早く吸ひ、
月のごとくに青ざめぬ。



真黒まつくろよるの海で
わたしは一人ひとり釣つてゐる。
空にはあらしえ、
四方しはうには渦が鳴る。

細い竿さをの割に
なり沢山たくさんに釣れた。
小さな船のなか七分しちぶ通り
光る、光る、銀白ぎんぱくさかなが。

けれど、はりを離すと、ぐ、
どのうをもみんなあがつてしまふ。
わたしの釣らうとするのは
こんなんぢやない、決して。

わたしは知つてゐる、わたしの船が
だんだんと沖へ流れてゆくことを、
そして海がだんだんと
深くけはしくなつてゆくことを。

そして、わたしのしいと思ふ
不思議な命のうを
どうやら、わたしの糸のとどかない
底の底を泳いでゐる。

わたしは夜明よあけまでに
是非とも其魚そのうをが釣りたい。
もう糸ではに合はぬ、
わたしは身ををどらしてつかまう。

あれ、見知らぬ船が通る……
わたしはおのゝく……
もしや、あの船がきに
底の人魚を釣つたのぢやないか。


ああ我等は貧し。
貧しきは
身にやまひある人のごとく、
隠れし罪ある人のごとく、
また遠く流浪るろうする人のごとく、
常におびえ、
常にやすからず、
常に心寒こゝろさむし。

また、貧しきは
常に身をひくくし、
常に力を売り、
常に他人と物の
駄獣だじうおよび器械となり、
常にひがみ、
常につぶやく。

常にくるしみ、
常に疲れ、
常に死に隣りし、
常にはぢと、恨みと、
常に不眠とうゑと、
常にさもしき欲と、
常にはげしき労働と、
常に涙とを繰返す。

ああ我等、
れを突破する日は何時いつぞ、
恐らくはせいのあなた、
死の時ならでは……
されど我等はく、
この灰色の一路いちろを。


こんな日がある。いやな日だ。
わたしはだ一つの物として
地上に置かれてあるばかり、
んの力もない、
んの自由もない、
んの思想もない。

なんだかつてみたく、
なんだか動いてみたいと感じながら、
鳥の居ないかごのやうに
わたしはまつた空虚からである。
あの希望はどうした、
あの思出おもひではどうした。

手持不沙汰ぶさたでゐるわたしを
人は呑気のんきらしくも見て取らう、
またいやうに解釈して
浮世ばなれがしたともふであろ、
口のるい、うはさの好きな人達は
衰へたとも伝へよう。

んとでも言へ……とは思つてみるが、
それではわたしの気が済まぬ。


をりをりに気がくと、
屋外そとにはあらし……
戸が寒相さむさうにわななき、
垣とのきがきしめく……
どこかでかすかに鳴る二点警鐘ふたつばん……

子供等を寝かせたのは
もう昨日きのふのことのやうである。
狭い書斎のもと
良人をつとは黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆をる。

きり……きり……きり……きり……
なにかしら、えた低い音が、
ふときこえて途切とぎれた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また途切とぎれた……

あらしの音にも紛れず、
ぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……

る直覚が私にひらめく……鋼鉄質のその音……
私は小さな声でつた、
「あなた、なにか音がしますのね」
良人をつとは黙つてうなづいた。
其時そのときまた、きり……きり……きり……きり……

「追つてらう、
今夜なんか這入はひ[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]られては、
こちらから謝らなければならない」
つて、良人をつとは、
笑ひながら立ち上がつた。

私は筆をめずにゐる。
私には今の、あらしの中で戸を切る、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、[#「やうに、」は底本では「やうに。」]
ぴつたりと合つて快い。

もう女中も寝たらしく、
良人をつとは次ので、
みづから燐寸まつちを擦つて、
そして手燭てしよく木太刀きだちとをげて、
廊下へ出て行つた。

も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門のくゞり戸がかすかにいた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
あらしの中の泥坊に気がいた。

私達の財嚢ぜにいれには、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人ひとりの知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……とふ音がまだ耳にある。


小猫、小猫、かはいい小猫、
すわればちさく、まんまろく、
歩けばほつそりと、
うつくしい、つ白な小猫、
生れて二月ふたつきたたぬ
孤蝶こてふ様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。

子供達が皆寝て、が更けた。
一人ひとりわたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへはさびしいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声でく。

こんな時、
さき主人あるじはお優しく
そつとおまへをひざに載せ
どんなにおでになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱くがない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。

がますます更けて、
午前二時の上野の鐘がかすかに鳴る。
そして、なににじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次ので鳴つてゐる。


今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時四十しじふ二分。
そして此時このときから十七じふしち分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。

宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人をつとと私はいつもの通り、
まつたく黙つて書斎に居た。
一人ひとりは書物に見入つて
折折をりをりそつと辞書を引き、
一人ひとり締切しめきりに遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜まいよの習はし……
飯田町いひだまちを発した大貨物列車が
崖上がけうへ中古ちゆうぶる借家しやくや
船のやうに揺盪ゆすつて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
だぼんやり
もう午前二時になつたと感じたほかは。

それからも無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
ぐ鼻の先のそとで、
突然、一つのくしやみが破裂した、
「泥坊のくしやみだ、」
刹那せつなにかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。

んだね」と良人をつとふり向いた時、
その不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口をおさへて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊がくしやみをしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人ふたりの緊張が笑ひにけた。
こんなに滑稽こつけいな偶然と見える必然が世界にある。


川原かはら[#ルビの「かはら」は底本では「かははら」]の底の底のあたひなき
砂の身なれば人らず、
風の吹く日はちりとなり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
しひしがれて世にありぬ。
まれ川原かはらのそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、月見草つきみさう
ひるがほ、野菊、白百合しろゆり
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。


ここのいへ名前人なまへにん
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかりつて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣のうちへ押しかけて、
かばひ手のない老人としより
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や家蔵いへくら寄越よこせ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
とほの昔に
近所からりにされて居たんだ。
その恩返おんかへしをしろ」とつた。
なんぼよいよいでも、
隣のおやぢには、性根しやうねがある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひがかりをこばんだ。
押問答が長引いて、
二人ふたりの声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
こぶしを振上げさうになつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰がゑいなあ、兄貴、」
おどしが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり刄物はものを突きけねえんだ、」
「文句なんからねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを口口くちぐちつて、
兄をのゝしる兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひがかりなんかしたんだと
兄の最初の発言を
とがめる兄弟とては一人ひとりも居なかつた。
おお、おそろしい此処ここいへ
名前人なまへにんと家族。


ああ、この国の
おそるべくつ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐるなかれ。
わざはひなるかな、
此処ここはひる者はことごと変性へんせいす。
たとへば悪貨の多き国にれば
大英国の金貨も
七日なぬかにてやすりに削り取られ
その正しき目方を減ずるごとく、
一たびこの門をまたげば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処ここに在りがたし。
見よ、此処ここは最も無智なる、
最も敗徳はいとく[#「敗徳」はママ]なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人やじん本位をもつ
人の価値を
最も粗悪に平均するところなり。
此処ここに在る者は
民衆を代表せずして
私党をて、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声ばせいとを交換す。
此処ここにして彼等の勝つは
もとより正義にも、聡明そうめいにも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
だ彼等たがひ
阿附あふし、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金わうごんとをにな
多数の駄獣だじう
みづから変性へんせいするにあり。
彼等を選挙したるはたれか、
彼等を寛容しつつあるはたれか。
この国の憲法は
彼等をふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎としごとに、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最もくさく醜き
彼等駄獣だじうむれ
寝藁ねわらごとく踏みにじらる……


米のれいなくもあがりければ、
わが貧しき十人じふにんの家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦をあはに、また小豆あづきに改むれど、
なほわが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らをなんしからん、
わかき母も心には米を好めば。

「部下の遺族をして
窮する者無からしめたまはんことを。
わが念頭に掛かるものれのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころむせばるる。


わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日にそんを受持ち、
集配をして身は疲れ、

暮れて帰れば、母と子と
さびしいぜんのさし向ひ、
しゞみの汁で、そそくさと
済ませば、なんの話も無い。
たのしみは湯へくこと。

湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来てくする、
大衆文学のうはさ
わたしはだ知つてゐる、
その円本ゑんほんを配る重さ。

湯が両方の足にむ。
あかと土とでにごされた
底でしばらくれをむ。
ああこの足が明日あすもまた
桑のあひだみちを踏む。

この月も二十日はつかになる。
すこしのらくも無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。

小説家がうらやましい、
菊池くわんも人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。


バビロン人の築きたる
雲間くもまの塔は笑ふべし、
それにまさりてのろはしき
巨大の塔は此処ここにあり。

千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きてび、
つるぎを植ゑしいたゞき
空わたる日をさへぎりぬ。

なにする壁ぞ、その内に
今日けふしきりて、人のため、
ひろびろしたる明日あすの日の
目路めぢるをば防ぎたり。

壁のもとには万年の
小暗をぐらかげかさなれば、
病むがごとくに青ざめて
人は力を失ひぬ。

曇りたる目の見難みがたさに
かた知らず泣くもあり、
羊のごとく押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。

ああ人皆よ、なにゆゑに
古代の壁をでざるや、
永久とはの苦痛に泣きながら
なほその壁を頼めるや。

をりをり強き人ありて
いかりて鉄のつちを振り、
つれなき壁の一隅ひとすみ
崩さんとして穿うがてども、

衆をあはせし[#「協せし」は底本では「恊せし」]凡夫ぼんぷ等は
れをとらへてち殺し、
穿うがちし壁をさかしらに
太き石もてつくろひぬ。

さはへ壁を築きしは
もとより世世よよ凡夫ぼんぶなり、
まれる天才の
至上の智慧に及ばんや。

時なり、今ぞ飛行機と
大重砲だいぢゆうはうの世はきたる。
見よ、真先まつさきに、日のかたへ、
「生きよ」と叫び飛ぶむれを。


遠い遠いところへ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争いくさをしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費にふひにと
国立銀行の小切手をれる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省くわんしやうが無い、
大臣ははたけへ出てゐる、
工場こうぢやうへ勤めてゐる、
牧場ぼくぢやうに働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者ぎよしやをしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒せうしやとした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気をはない、
そして男と同じ職をつてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論もちろん裁判所は民事も刑事も無い、
もつぱら賞勲の公平をつかさどつて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
しか長長ながながと無用な弁をふるひはしない、
大抵は黙つてゐる、
まれに口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、[#「だからだ、」は底本では「だからだ」]
同時に裁決する女が聡明そうめいだからだ。
またこの街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、をどりも、
勿論もちろん名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
まつたくへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
おほちがひの街だ。
遠い遠いところへ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。


大百貨店の売出うりだしは
どの女の心をも誘惑そそる、
祭よりもいはひよりも誘惑そそる。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
おほよ何処どこにあらう、
三越みつこし白木屋しろきや売出うりだしと聞いて、
胸ををどらさない女が、
にはかに誇大妄想家とならない女が。……
その刹那せつな、女は皆、
(たとへ半反はんたんのモスリンを買ふため、
躊躇ちうちよして、見切場みきりば
半日はんにちつひやす身分の女とても、)
その気分は貴女きぢよである、
人の中の孔雀くじやくである。
わたしはの華やかな気分を好く。
早く神を撥無はつむしたわたしも、
美の前には、つつましい
永久の信者である。

けれども、近頃ちかごろ
わたしに大きな不安と
深い恐怖とが感ぜられる。
わたしの興奮はぐに覚め、
わたしの狂※きやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、290-上-13]ぐに冷えてく。
一瞬ののちに、わたしは屹度きつと
馬鹿ばか亜弗利加アフリカ僭王せんわうよ」
かうつて、わたし自身をしかり、
さうして赤面し、
はげしく良心的にくるしむ。

大百貨店のしきゐまたぐ女に
掠奪者でない女があらうか。
掠奪者、この名はおそろしい、
しかし、この名に値する生活を
実行してぢぬ者は、
ああ、世界無数の女ではないか。
(その女の一人ひとりにわたしがゐる。)
女は父の、兄の、弟の、
良人をつとの、あらゆる男子の、
知識と情※じやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、290-下-14]と血と汗とを集めた
労働の結果である財力を奪つて
我物わがものごとくに振舞つてゐる。
一掛ひとかけやす半襟を買ふかねとても
女自身の正当な所有では無い。
女が呉服屋へ、化粧品屋へ、
貴金属商へ支払ふ
あの莫大ばくだいな額のかね
すべて男子から搾取するのである。

女よ、
(その女の一人ひとりにわたしがゐる、)
無智、無能、無反省なお前に
男子からそんなに法外な報酬を受ける
立派な理由が何処どこにあるか。
お前は娘として
その華麗な服装に匹敵する
どんなに気高けだかい愛を持ち、
どんなに聡明そうめいな思想を持つて、
世界の青年男子に尊敬されるか。
お前は妻として
どれだけ良人をつとの職業を理解し、
どれだけれを助成したか。
お前は良人をつと伴侶はんりよとして
対等になんの問題を語りるか。
お前は一日のかてを買ふしろをさへ
自分の勤労でむくいられた事があるか。
お前は母として
自分の子供になにを教へたか。
お前からでなくては与へられない程の
立派な精神的な何物なにものかを
少しでも自分の子供に吹き込んだか。
お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。

ああ、わたしはれを考へる、
さうして戦慄せんりつする。
憎むべく、のろふべく、あはれむべく、
づべき女よ、わたし自身よ、
女は掠奪者、その遊惰性いうだせい
依頼性とのために、
父、兄弟、良人をつとの力を盗み、
可愛かはいい我子わがこの肉をさへむのである。

わたしは三越みつこし白木屋しろきやの中の
華やかな光景を好く。
わたしは不安も恐怖も無しに
再び「美」の神を愛したいと願ふ。
しかし、それは勇気を要する。
わたしは男にる寄生状態から脱して、
わたしのたましひと両手を
わたし自身の血できよめたのちである。
わたしはづ働かう、
わたしは一切の女に裏切る、
わたしは掠奪者の名からのがれよう。

女よ、わたし自身よ、
お前は一村いつそん、一市、一国の文化に
直接なにの貢献があるか。
大百貨店の売出うりだしに
お前は特権ある者のごとく、
そのひくい、蒼白そうはくなからだを、
最上最貴の
有勲者いうくんしやとして飾らうとする。
ああ、男の法外な寛容、
ああ、女の法外な僭越せんえつ
(一九一八年作)
ああ、ああ、どうなつてくのでせう、
智慧も工夫も尽きました。
それがわづかなおあしでありながら、
融通のかないとふことが
こんなに大きく私達をくるしめます。
たゞしく受取る物が
本屋の不景気から受取れずに、
幾月いくつきも苦しい遣繰やりくり
恥を忘れた借りを重ねて、
ああ、たうとうきづまりました。

人は私達の表面うはべを見て、
くらしむきが下手へただとふでせう。
もちろん、下手へたに違ひありません、
でも、これ以上に働くことが
私達に出来るでせうか。
また働きに対する報酬の齟齬そご
これ以下に忍ばねばならないとふことが
おそろしいわざはひでないでせうか。
少なくとも、私達の大勢の家族が
避け得られることでせうか。

今日けふ勿論もちろん家賃を払ひませなんだ、
そのほかの払ひには
二月ふたつきまへ、三月みつきまへからの借りが
義理わるくたまつてゐるのです。
それを延ばす言葉も
今までは当てがあつてつたことが
むを得ずうそになつたのでした。
しかし、今日けふこそは、
うそになると知つてうそひました。
どうして、ほんたうの事がはれませう。

なにも知らない子供達は
今日けふの天長節を喜んでゐました。
中にもひかる
明日あすの自分の誕生日を
毎年まいとしのやうに、気持よく、
弟や妹達と祝ふつもりでゐます。
子供達のみづみづしい顔を
二つのちやぶ台の四方しはうに見ながら、
ああ、私達ふたおやは
冷たい夕飯ゆふはんを頂きました。

もう私達は顛覆てんぷくするでせう、
隠して来たぼろを出すでせう、
体裁をつてゐられないでせう、
ほんたうに親子拾何人がかつゑるでせう。
まつたくです、私達を
再び立て直す日が来ました。
耻と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、
私達を試みる
赤裸裸の、極寒ごくかんの、
氷のなかの日が来ました。
(一九一七年十二月作)
真珠の貝は常に泣く。
人こそ知らね、大海おほうみ
風吹かぬ日もなみ立てば、
なみに揺られて貝の身の
ところさだめず伏しまろび、
千尋ちひろの底に常に泣く。

まして、たまたま目に見えぬ
小さき砂の貝に
なみに揺らるるたびごとに
さとやさしき身を刺せば、
避くるよしなき苦しさに
貝はもだえて常に泣く。

忍びて泣けど、折折をりをり
涙は身よりにじみで、
貝にこもれる一点の
小さき砂をうるほせば、
清く切なきその涙
はかなき砂をおほひつつ、
日ごとにたまと変れども、
貝はまろびて常に泣く。

東に昇る「あけぼの」は
そのあたたか薔薇ばら色を、
よるく月は水色を、
にじは不思議の輝きを、
ともに空より投げかけて、
砂は真珠となりゆけど、
それとも知らず、貝の身は
なみに揺られて常に泣く。


島の沖なる群青ぐんじやう
とろりとしたる海の色、
ゆるいうねりがを置いて
大きなをさを振るたび
釣船一つ、まろまろと
たらひのやうに高くなり、
また傾きて低くなり、
空と水とに浮き遊ぶ。
君と住む身もれに似て
ひろびろとした愛なれば、
悲しきこともうれしきも
だ永き日の波ぞかし。


あはれ、快きは夏なり。
万年の酒男さかをとこ太陽は
一時ひとときにその酒倉さかぐらけて、
光と、ねつ[#「執/れんが」、U+24360、297-上-1]と、芳香はうかうと、
七色なないろとの、
巨大なるブタイユの前に
人を引く。

あはれ、快きは夏なり。
人皆ギリシヤのいにしへごと
うすききぬ[#ルビの「きぬ」は底本では「ぎぬ」]け、
はた生れながらの
裸となりて、
飽くまでも、湯のごとく、
光明くわうみやう歓喜くわんぎの酒を浴ぶ。

あはれ、快きは夏なり。
人皆太陽にへる時、
たちまち前に裂くるは
夕立のシトロン。
さてよるとなれば、
金属質の涼風すゞかぜ
水晶の月、夢をゆする。


ああ五月ごぐわつ、我等の世界は
太陽と、花と、麦の穂と、
瑠璃るりの空とをもて飾られ、
空気は酒室さかむろ呼吸いきごとく甘く、
光は孔雀くじやくはねごと緑金りよくこんなり。
ああ五月ごぐわつ、万物は一新す、
竹の子も地を破り、
どくだみの花もてふを呼び、
はちも卵を産む。
かかる時に、母の胎をでて
清く勇ましき初声うぶごゑを揚ぐる
抱寝だきねして、其児そのこ
初めて人間のマナを飲まする母、
はげしき※愛ねつあい[#「執/れんが」、U+24360、298-上-7]の中に手を
婚莚こんえんの若き二人ふたり
若葉に露の置くごとひたひに汗して、
桑を摘み、麻を織る里人さとびと
共になにたる景福けいふく人人ひとびとぞ。
たとひこの日、欧洲の戦場に立ちて、
鉄と火の前に、
大悪だいあく非道の犠牲とならん勇士も、
また無料宿泊所の壁にりて
明日あす朝飯あさはんしろを持たぬ無職者も、
ああ五月ごぐわつこの月にへることは
如何いかに力満ちたる実感のせいならまし。


とある一つの抽斗ひきだしを開きて、
旅の記念の絵葉書をまさぐれば、
その下より巴里パリイの新聞に包みたる
色褪いろあせし花束は現れぬ。
おお、ロダン先生の庭の薔薇ばらのいろいろ……
我等二人ふたりはその日を如何いかで忘れん、
白髪しらがまじれる金髪の老貴女きぢよ
ひろ梔花色くちなしいろ上衣うはぎはおりたる、
けだかくもやさしきロダン夫人は、
みづから庭にりて、
露おく中に摘みたまひ、
我をかきいだきつつれを取らせたまひき。

花束よ、たふとく、なつかしき花束よ、
その日の幸ひはなほ我等が心に新しきを、
わづかに三年の時は
無残にも、そなた
埃及エヂプトのミイラに巻ける
五千年ぜんの朽ちし布の
すさまじき茶褐色に等しからしむ。

われは良人をつとを呼びて、
かつその日の帰路きろ
夫人が我等を載せて送らせたまひし
ロダン先生の馬車の上にて、
一人ひとりの友と三人みたり
感激の中にぎ合ひしごとく、
ぬかを寄せてがんとすれば、
花は臨終いまはの人の歎くごとく、
つとほのかなるにほひを立てながら、
二人ふたりの手の上に
さながら焦げたる紙のごとく、
あはれ、悲し、
ほろほろと砕け散りぬ。

おお、われはかる時、
必ずひややかにありがたし、
我等が歓楽も今は
この花と共にむなしくやなるらん。
許したまへ、
涙をぬぐふを。

良人をつとひぬ、
「わが庭の薔薇ばらもと
この花の灰をけよ、
日本の土が
これりてきよまるは
印度いんどの古き仏のきば
教徒のもたらせるにまさらん。」


暑し、暑し、
曇りたる日の温気うんき
あぶら障子の中にあるごとし。
狭き書斎にべたる
十鉢とはちの朝顔の花は
早くも我に先立ちてねつ[#「執/れんが」、U+24360、300-下-4]を感じ、
友禅の小切こぎれ
れてたわめるごとく、
また、書きさして裂きてまろめし
ある時の恋の反古ほごごとく、
はかなく、いたましく、
みすぼらしく打萎うちしをれぬ。
暑し、暑し、
机のかげよりは
ちひさく憎き吸血魔
藪蚊やぶかこそ現れて、
ひざを、足を、刺し初む。
されど、アウギユストは元気にて
彼方かなたの縁に水鉄砲をいぢり、
けんはすやすやと
枕蚊帳まくらかやの中に眠れり。
このすきに、君よ、
筆をきて、
浴びたまはずや、水を。
たた、たたと落つる
水道の水は細けれど、
その水音みづおとに、昨日きのふ
ふと我はしのびき、
サン・クルウの森の噴水。


わたしの庭の「かくれみの」
常緑樹ときはぎながらいたましや、
時も時とて、茱萸ぐみ[#ルビの「ぐみ」は底本では「ぐ」]にさへ、
枳殻からたちにさへ花の咲く
夏の初めにいたましや、
みどりの枝のそこかしこ、
たまたまひと二葉ふたはづつ
日毎ひごとに目立つ濃い鬱金うこん
若い白髪しらがを見るやうに
染めて落ちるがいたましや。
わたしの庭の「かくれみの、」
見れば泣かれる「かくれみの。」


西洋蝋燭らふそくの大理石よりも白きを硝子がらすの鉢にもやし、
夜更よふくるまで黒檀こくたんの卓に物書けば幸福しあはせ多きかな。
あはれこの梔花色くちなしいろの明りこそ
咲く花のごとき命を包む想像の狭霧さぎりなれ。

これを思へば昼は詩人のりやうならず、
あまつ日は詩人の光ならず、
けだ阿弗利加アフリカ沙漠さばくにしたるしきねつ[#「執/れんが」、U+24360、302-上-7]気息いきのみ。

うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める白蝋はくらふの明り。
この明りの中に五感と頭脳とを越え、
全身をもてぎ、触れ、知る刹那せつな――
一切と個性とのいみじき調和、
理想の実現せらるる刹那せつなきたり、
ニイチエの「よるの歌」の中なる「すべての泉」のごとく、
わが歌は盛高もりだかになみなみとほとばしる。


とん、とん、とんと足拍子、
ほらを踏むよな足拍子、
ついうれしさに、秋の日の
長い廊下を走つたが、
何処どこをどうき、どう探し、
うしてつたか覚えねど、
わたしのたもとはひつてた
きちがひ茄子なすと笑ひたけ
わたしは夢を見てゐるか、
もう気ちがひになつたのか、
あれ、あれ、世界が火になつた。
何処どこかで人の笑ふ声。


九官鳥はいつの
だれが教へて覚えたか、
わたしの名をばはつきりと
優しい声で「花子さん。」

なにか御用」と問うたれば、
九官鳥の憎らしや、
聞かぬふりして、を置いて、
「ちりん、ちりん」と電鈴ベル真似まね

「もう知らない」ときかけて
わたしがへば、後ろから、
九官鳥のおどけ者、
「困る、困る」と高い声。


花子の庭の薔薇ばらの花、
花子の植ゑた薔薇ばらなれば
ほんによう似た花が咲く。
色は花子のの色に、
花は花子のくちびるに、
ほんによう似た薔薇ばらの花。

花子の庭の薔薇ばらの花、
花が可愛かはいと、太陽も
黄金きんの油を振撒ふりまけば、
花が可愛かはいと、そよ風も
人目に見えぬ波形なみがた
薄い透綾すきやせに来る。

そばで花子の歌ふ日は
薔薇ばらも香りの気息いきをして
花子のやうな声を出し、
そばで花子の踊る日は
薔薇ばらもそよろと身をゆす
花子のやうなふりをする。

そして花子の留守の日は
涙をためた目を伏せて、
じつとうつ向く薔薇ばらの花。
花の心のしをらしや、
それも花子に生き写し。
花子の庭の薔薇ばらの花。


雪がしとしと降つてきた。
玩具おもちやくまを抱きながら、
小さい花子は縁に出た。

山に生れたくまの子は
雪の降るのが好きであろ、
雪を見せよと縁に出た。

くまは冷たい雪よりも、
抱いた花子の温かい
優しい胸を喜んだ。

そして、花子の手の中で、
玩具おもちやくまはひと寝入り。
雪はますます降りつもる。


汗の流れる七月は
蜻蛉とんぼも夏の休暇おやすみか。
街の子供と同じよに
避暑地の浜の砂に来て
群れつつ薄いそでを振る。

さい花子が昼顔の
花を摘まうと手を出せば、
これをも白い花と見て
蜻蛉とんぼが一つ指先へ
ついと気軽に降りて来た。

思はぬ事のうれしさに
花子の胸はとゞろいた。
うつくしいはねのある
さい天使がじつとして
花子の指に止まつてる。


鴨頭草つきくさの花、手に載せて
見れば涼しい空色の
花のひとみがさしのぞく、
わたしの胸のさびしさを。

鴨頭草つきくさの花、空色の
花のひとみのうるむのは、
暗い心を見とほして、
わたしのために歎くのか。

鴨頭草つきくさの花、しばらくは
手にした花を捨てかねる。
土となるべき友ながら、
我もをしめば花も惜し。

鴨頭草つきくさの花、となれば、
ほんにそなたは星の花、
わたしの指を枝として
しづかに銀の火をともす。


われは在り、片隅に。
ある時は眠げにて、
ある時は病めるごとく、
ある時は苦笑を忍びながら、
ある時は鉄のかせ
わが足にあるごとく、
ある時は飢ゑて
みづからの指をめつつ、
ある時は涙のつぼのぞき、
ある時は青玉せいぎよく
古きけいを打ち、
ある時は臨終の
白鳥はくてうを見守り、
ある時は指を挙げて
空に歌を書きつつ………
さびし、いとさびし、
われはあり、片隅に。


上野の鐘が鳴る。
午前三時、
しんしんと更けわたる
十一月の初めの或夜あるよるに、
東京の街のひくい屋根を越えて、
上野の鐘が鳴る。
この声だ、
日本人の心の声は。
この声を聞くと
日本人の心は皆おちつく、
皆静かになる、
自力じりき麻痺まひして
他力たりきの信徒に変る。
上野の鐘が鳴る。
わたしは今、ちよいと
痙攣けいれん的な反抗が込み上げる。
けれど、わたしの内にある
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、
明方あけがたの霜の置く
木の箱のいへの中で、
わたしは鐘の声を聞きながら、
じつと滅入めいつて
筆の手を休める。
上野の鐘が鳴る。


かどに立つのは
うその苦学生、
うその廃兵、
うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
うその紳士、大臣、
うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
うその裁判、
うその結婚、
さうして、うその教育。
浮世小路こうぢしげけれど、
ついぞまことはぬ。
[#ここで段組み終わり]
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 今年かしこくも即位の大典を挙げさせたまふ拾一月の一日いちじつに、この集の校正を終りぬ。読み返しくに、はづかしきことのみ多き心の跡なれば、あきらかにやはらぎたるあら御光みひかりもとには、ひときはだしぐるしき心地ぞする。晶子





晶子詩篇全集 終

底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社
   1929(昭和4)年1月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※底本の総ルビをパララルビに変更しました。被ルビ文字の選定に当たっては、以下の方針で対処しました。
(1)「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」講談社(1980(昭55)年8月10日、1980(昭55)年12月10日)で採用されたものは付す。
(2)常用漢字表に記載されていない漢字、音訓等については原則として付す。
(3)読みにくいもの、読み誤りやすいものは付す。
底本では採用していない、表題へのルビ付けも避けませんでした。
※ルビ文字は原則として、底本に拠りました。底本のルビ付けに誤りが疑われる際は、以下の方針で対処しました。
(1)単純な脱字、欠字は修正して、注記しない。
(2)誤りは修正して注記する。
(3)旧仮名遣いの誤りは、修正して注記する。
(4)晶子の意図的な表記とするべきか誤りとするべきか判断の付かないものは、「ママ」と注記する。
(5)当該のルビが、総ルビのはずの底本で欠けていた場合にも、その旨は注記しない。
※疑わしい表記の一部は、「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」を参考にしてあらため、底本の形を、当該箇所に注記しました。
※各詩編表題の字下げは、4字分に統一しました。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※「暗殺酒舗」と「暗殺酒鋪」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号1-5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:kazuishi
ファイル作成:
2004年7月2日作成
2012年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。