僕は僕の下宿の路次の
僕の薄暗い穴から出た。
そして直ぐ左隣ひだりどなりの家の
硝子戸をそつと押してはいつた。
階下のらう左側ひだりがはしつから
門番コンシエルジユのおかみかほぼく微笑ほヽえんだ、
僕の顔も微笑ほヽえんだ。
僕はぐ狭い中庭へ出た。
四方を高い建物でしきられて、
井戸の底へ落ち込んだやうな処だ。
正面に入口の石段があつて、
此中庭から此家の六層の階段が始まる。
僕は之を昇らうとする度に
何時も、入口の石段で
ちよいと軽く気を入れながら、
立ち止りもせずに
ぐん/\と昇つて行く。
階段を一つまがごと
狭い中庭へ向いて附いた硝子窓が
だん/\明るさを増して、
僕に地上からせり出しつつあると云ふ意識を
確かにさせる。
其れは悪るくない感じだ。
そして、第五の階段にさしかかると
僕の脚が少し重く、
僕の動悸が少し高く、
僕の呼吸が少しはやくなる。
すると、僕に潜在して居る日本的にほんてき突喊性とツくわんせい
のつそりと眼を覚して、
殆ど一呼吸ひといきで、
足早にあとのふたつの階段を昇らせる。
今日も僕は同じ経過を取つた。
とびらの上から
海老茶色のすヾさくさがつて居る。
何時見ても
長い紐鶏頭ひもけいとうの花をつるしたやうだ。
僕はふと呼吸いき気持きもちよく吐きながら、
静かにさくにぎつて二度引いた。

とびらが内からいた。
「ボン・ジュウル、」
「ボン・ジュウル、」
いて居るんぢやないの」、
「いいや、モデルが来ないから」、
二人は手をにぎつた。
友は何時いつものやうに、
薄地うすぢの紺の仕事服しごとふくの上へ、
めて落ちついたの色の大幅おほはヾの襦子を
印度の袈裟のやうに、
希臘のきぬのやうに、
左の肩から右の脇へ巻いて居る。
そして又何時ものやうに、
愛着的な、優雅な、
細心な、
そして凛々りりしい表情と態度とが
おゝ我が友よ、僕をして
ナルシスの愛と美を想はせる。

三方をふさいだ、
天井の高い、
そして広々ひろ/″\とした画室アトリエ
大岩窟の観がある。
そして大きな画架、
青い天鷺絨張りのモデル台、
たく置暖炉おきストオブ花瓶はながめ
肱掛椅子フオオトイユ、いろ/\の椅子、
紙片、画布トワル、其等の物が雑然と人り乱れ、
麝香撫子と、絵具と、
酒と、テレピンとが
匂ひのがくジユエするなかに、
壁から、隅々すみ/″\から、
友のいた
きぬを脱がうとする女、
川に浴する女
仰臥の女、匍ふ女、
赤い髪の女、
太いかひなの女、
手紙を書く女、
編物をする女、
そして画架に書きさした赤い肌衣コルサアジユの女、
其等の裸体、半裸体の女等と、
マントンの海岸、
ブルタアニユの「愛の森、」
ゲルンゼエ島の牧場、村道、岩のむれ
グレエの森、石橋、
其等の風景と、
赤い菊、赤い芍薬、
アネモネの花、薔薇、
林檎と蜜柑、
梨、
其等の静物とが
見とれる如く、あまえる如く、
さそる如く、
熱い吐息といきを彼れに投げ掛ける如く、
彼れの一挙一動に目を放さぬ如く、
我が美くしいナルシスの画家を取巻いて居る。
そして一方いつぽう
南向みなみむきの窓の硝子越しに、
四月の巴里が水色に霞んで、
低く、低く、海のやうに望まれる。
正面に近く脂色やにいろをしたのがオペラだ、
左に遠く、ちいさく、日を受けて
うすもも色をしたのがノオトル・ダムだ。
僕はモンマルトルの中腹の、
六階の画室アトリエに居ることを忘れて、
ふと巴里のそらの上を飛んで居る気がした。

友は壁のあなたのくりやから
珈琲カツフエを煮て持つて来た。
そして稿本マヌスクリイを手にしながら
「聞いてくれたまへ」と会釈ゑしやくして、
日本文に新しく訳した「エディプ王」を読み上げた。
水晶質の明るい声が
老優ムネ・シュリイの調子でたかまり、ふるへる。

底本:「科学と文芸」交響社
   1915(大正4)年10月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本の署名には、「よさの・ひろし」とあります。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。