一 安藤昌益と其著書自然眞營道

 今から二百年前、安藤昌益なる人があつて、萬物悉く相對的に成立する事實を根本の理由とし、苟くも絶對性を帶びたる獨尊不易の教法及び政法は皆之を否定し、依て此等の法に由る現在の世の中即ち法世を、自然の道に由る世の中即ち自然世に向はしむるため、其中間道程として民族的農本組織を建設し、此組織を萬國に普及せしむることに由つて、全人類社會の改造を達成せしめようとしたのである。當時の學者が三教以外に何事をも考へ得なかつた間に在つて、かかる斬新なる思索を徹底せしめ、大膽なる抱負を實現しようとしたことは、啻に視聽を聳動する種類のことであるのみならず、實際重大なる問題を惹起する性質のものであるから、極めて謹愼なる態度を取り、輕率なる行動を避けたるがため、廣く世人の耳目に觸るることなく、其結果が遂にこの破格的人物の存在を忘るることに至らしめたのである。
 安藤昌益の名が文獻に見はれたのは、寶暦四年刊行の新増書籍目録卷二に、其著書である孔子一世辨記二册と自然眞營道三册とが掲載せられてゐるのが最初であり、又最後であつたらうと思はれる。此目録には安藤良中としてあるが別人ではない。私は此二書を未だ見たことがないので、漠然とその内容を想像することは出來るが、はつきりしたことは知ることが出來ない。既に出板になつたものとすれば誰か讀んだ人もあつたらうに、其後徳川時代を過ぎ明治に入る迄も、安藤の名が人の口に上らない所を以て見ると、彼の著述は當時何等の反響を起さずして、いつしか忘れられてしまつたものと思はれる。もし其樣な運命に陷つたものとすれば、あの時世大方讀む人が文章の不味いのと分り難いとに呆れて、思想の卓越したる所を理解する迄に注意して見なかつた爲と取らざるを得ない。
 明治三十二年の頃であつた。私は自然眞營道と題する原稿本を手に入れた。此本は元來百卷九十二册あるべきところ、生死之卷といふ二册が缺けて居た。九十二册の内初めの二十三册は破邪之卷、第二十四册は法世之卷、第二十五册は眞道哲論、第二十七册以下は皆顯正之卷となつてゐた。生死之卷もこの顯正之卷の内である。毎卷に確龍堂良中著と記し、寶暦五年に書いた自序の末に鶴間良龍と推讀される書印があつた。其頃は寶暦書目を參考することに氣付かなかつたので、多分鶴間が本名であると思ひ心當りを尋ねて見たが分らう筈がなく、其間に左傾派の人にも洩傳はり、幾分宣傳用に使はれたかとも思はれる。是程の見識を持つてゐた人の本名が知れないのは殘念と思つて、最後の手段として原稿本の澁紙表紙に使用された反故紙を一々剥がしながら調べて見ると、幸ひにも其中から手紙の殘闕が二三發見せられ、其内容から本名が安藤昌益であると推定されたのである。
 自然眞營道の原稿本は大正十二年の春東京帝國大學に買上げられ、其年の大震災に燒けてしまつた。かういふ事にならうとは夢思はなかつたので、私も又私から借りて見た二三の友人も、誰あつて抄寫して置かなかつた。彌※(二の字点、1-2-22)なくなつて見ると、複本を拵へて置けば善かつたと悔んだが始まらない。然るに翌年幸ひにも又安藤昌益の著した統道眞傳と云ふ書物を得ることが出來た。其本は原稿ではなく門人が寫したと思はるるもので、五册あるが完本ではない。此本を獲て幾分損失を恢復した樣な氣がしたものの、此書は門人に示す爲めの抄録のごとく思はれ、概要を瞰ふことは出來るが、内容の上にも修辭の上にも著しい差異があつて、同一人の著述としては甚だ見劣りがするのである。自然眞營道に在つては安藤は畢生の精力を傾注した思索の結果を、百年の後を期して書殘すのであるとの用意のもとに筆を採つたものであるから、何等憚る所なく、最も大膽なる敍述をなし得たるため、一體に不文なる安藤も或は同情に驅られ、或は義憤に激せられて忽ち雄辯となり、古來聖人と尊ばれ英雄と崇められたる人物を拉し來つて叱責罵倒の標的となし、氣焔萬丈、全く當るべからざる勢を示し、極端なる場合には敢然決死の態度を以て痛烈肺肝を貫くの言を爲すのであつた。
 止むことを得ずして何時でも決死の態度をとつたらうと思はるる彼れ安藤は實は純粹なる平和主義の人であつた。平和を唱へながら直ぐと腕力に訴へる樣な族とは全然其選を異にしてゐたのである。彼の常に云ふ語に、我道には爭ひなし吾は兵を語らず吾は戰はず、と云ふのがある。後に説明するが此語此考は實に彼の思索の中樞を成してゐる所から派生し來るので、決して卑怯な心から出たのではない。又此考が形を變じて前陳べた所の百年の後を期して書殘すのであると云ふ語に成つたことは尤も味ふべき所である。私は自然眞營道の中に數ヶ所で此語に出遇つた。一面には略本三册を公刊しながら、他方には全本百卷は容易に公にしないと云つたことで、安藤がかうした考になつた理由は推測するに難からずである。先以て彼は公にすべきものと公にすべからざるものとの區別を知つて居たと云ふが一つの理由である。是が又平和主義と關聯してゐるのは明白である。もしかの猛烈なる完本をそのまま出板したとすれば、而して世人に讀まれ、多少とも影響するところがあつたとすれば、其結果は知るべきで、直に彼と當時の爲政者との爭ひとなることは、何も之を實行に訴へなくとも、考へて見ただけでも明白な事柄である。然るに安藤は徹頭徹尾爭ひを嫌つてゐる。爭ひを止めようと云ふのが彼の主張であるのである。それ故に彼は先づ遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)的なる略本を公刊して世人を啓發することに勉め、機熟するを見て全本を示さうとしたに違ひがない。彼は人騷がせをして迄も功名を急ぎ、結局主義主張を棒に振ると云ふ如き愚策に出でなかつたのだと考へるのが當つてゐると思ふ。
 私が今遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)的と云つたのは未だ見ぬ本の内容を評したもので推測から出てゐる、當つてゐるか居ないかは後に再び論ずることにして、今は全本自然眞營道に就き安藤の主義主張が那邊に在るかを檢覈して見よう。

      二 安藤昌益の思索の徑路

 安藤昌益が社會の改造を思立つに至つた譯は、世間に不合理なる事が廣く行はるるを見て、如何なる原因があつてかかる譯の分らぬ社會が成立してゐるのかと深く尋ねて見たことが始めである。彼が世間の不合理に憤慨しただけで起つたら、彼は單に涙の人であつたので、普通一般の革命家とか又は其雷同者とかの列に墮したに相違ない。しかし彼は情の人であつたと同時に又智の人であつた。それ故熟慮熟考を重ね彌※(二の字点、1-2-22)十二分に理由を突き止めたと思ふ迄は輕率に蹶起しようとはしなかつたのである。ここに彼の思索の徑路を辿つて少し精しく述べて見よう。
 冷靜に世間を觀察すれば、僞善にして蟲の良い輩ら、不公平にして横暴を振舞ふ族ら等、もし神佛が在ましたら早くどうかして貰ひ度いものが頗る多いことが明白になつて來る。萬一其の連中が上に立つて其模範を示される樣なことがあつては全く恐入るべきことであると云はざるを得ない。ところがさうした場合が昔から繰返されがちであるのが世相だと云ふことに氣付いて見たら、正義の士は默しては居られない筈である。安藤は此見地からして、歴史上に現れたる英雄豪傑を引摺出し、秀吉家康を其殿りとして筆誅することに勉めた。丁度誂草と云ふ書物の著者が企てたと同じ樣に廣い範圍に亙つてゐるが、些の戲謔を交へず眞摯一點張で通してゐる。彼がこの種類の問題を主にして起つに至つたとすれば、彼は山縣大貳とか維新の志士とか、或は少し變つて宗教の祖師とかいつた風の人になつたであらう。ところが彼にはそんな問題より尚大事であると考へた事があつた。其事は昔から當然の事と思つて、誰も疑ひを挾まないで過來つたものであるのに、彼は又其事を怪しからぬ事と解し、しかも亦天下此以上重大なる問題なしと考へたところに彼の獨創的の閃きを發揮するのである。
 正保の昔し佐倉の義民木内宗吾が刑死した事や、寶暦の當時八幡の暴主金森頼錦が封を失つた事や、又夫等の事件ほど人口に膾炙するに[#「膾炙するに」は底本では「※(「口+會」、第3水準1-15-25)炙するに」]至らないとは云ひ、所在聞くところのかの百姓一揆と稱するものは、皆治者と被治者の爭ひで實に苦々しい話である。しかし其原因を探つて見れば孰れも苛斂誅求に堪へなかつた農民の不平から起つた事で、根本の理由は生活を劫かされたと云ふ所に歸するから、實に強いので、其ため往々治者が被治者に負ける樣な珍妙な事になるのである。しかしかう云ふ事件を個々の事件として眺めただけでは何時迄も苦々しい事件といふ以外に何等の意味を發見することが出來ないのである。ところが安藤は此種類の事件を日本に起つた個々の事件として見ることの外に、之を一括して人類生存の意義に關する極めて重大なる問題に變形せしめたのである。
 諺は中心からの喚びで、何等囚はれざる宣言である。其一つに米は命の親と云ふのがある。人はパンのみで生きるのではないと横鎗を入れることも出來る。しかしさう云ふ人も論より證據、矢張パンを必要とするとあつては、生命を支ふる一番大切なるものは食物であることは異論のあるべき筈がないので、其他のものは二次的三次的に考へらるべきものであると云はなければならない。此事實は三歳の童子も知つてゐる。いや生れたばかりの赤坊も自然に知つてゐるほど、それほど人間にとつては大切な事である。もしこの大切なる事實を忘れる樣な不埒ものがあつたら、命を失うたからとて不平も云へない筈である。此大切なる事實に直面して安藤は同胞の反省を促し覺醒を求むること痛切なるものがある。
 安藤曰く、かの農民を見よ。農民は自ら直に耕して食ひ、以つて獨立の生活を營むもので、端的に此大切なる事實を實現しつつあるのではないか。さうした生活の模範を示すところの直耕の農民は、道理の上から須く一番貴まれなければならない筈であるのに、常に下にしかれて貧乏に苦しんでゐる。之に反し自ら耕さずして他人の耕したものを贅澤にも貪る如くに食つて生活する徒食者は、獨立しては立行けぬもので、實に憐むべきものである。しかるにも係らずさうした不耕貪食の徒は常に農民の上に位し、安逸な樂みをなしてゐる。實に不公平な不都合なことで、全く面白くない世相である。かう安藤は觀察したものである。ところが世界孰れの國に在つてもこの面白くないことが行はれてゐるといふことに氣付いて見ると所謂教だの政だのいふものは一體何所を目標としてゐるのかと憤慨して見たくなるのである。此見地に立つて安藤は治國平天下の代表者聖人孔子を罵り、救世の代表者世尊釋迦をも呵り付けるのである。もし彼が此特色ある問題を提げて起つたとすれば彼は歐米の主義者の先驅者となつたであらう。
 然るに彼の透徹性は茲に止ることを許さず、彼をして百尺竿頭一歩を進ましめ、何故に治國救世を標榜する政や教が揃ひも揃つて、しかく無能であつて、世間の惡黨をも退治することも出來ず、又古今東西に亙つて行はるる不公平をも匡正することが出來ないのであるかと問はしめたのである。彼は自ら此窮極的なる問題を提出し、其解決を求めんがため博く深く考察を運らし、是を法世に囚れたる人に聞くを欲せず、人皇時代を通拔け、神代を突破し、遂に原始時代に突貫したものである。其間彼が歴史に對する面白い觀察もあるが略することとする。偖て原始時代に遡つて見れば其所にはあらゆる事物の搖籃が見出され、而して其搖籃の中に育ちつつある事物の起原が夫れ自身の詐らざる告白を爲すことに由つて、彼はやつと彼の提出した大問題の解決方法を考付いたのであつた。夫れから後は一瀉千里、完全に此大問題を解決することが出來たと思つた。彼が搖籃の中に見出したと云ふものは腕力であつた。同時に智力もあつた。其腕力それから智力、それから金力、それから夫等の力によつて組立てられた階級、分業、政治、法律、宗教、學問、あるとあらゆる制度文物が悉く間違つてゐると思うた事柄の原因をなしてゐると云ふことが、彼にとつては疑ふことの出來ない事實となつた。彼が茲に氣付いた時に靜に法世を棄てようとの決心を定めた。最早彼は法世に生息し法世を有難く思うてゐる人達を罵倒したり相手にしたりする遑がない。寧ろ法世其物を棄てなければならないのである。然らば先其教を棄てよう、其政を棄てよう、其文字言語をも棄てよう、よろしい思想其物迄も棄ててしまへ。是が彼の喚びである。かくして彼は遂に思想の虚無主義に立つことを餘儀なくせられたのである。
 破邪之卷二十餘卷は如上の意氣考察を以て書綴られたもので、實に極端なる懷疑の眼を以て思想、言語、文學、政治、宗教其他一切の人爲的施設と及び此等の事に携はつた偉人物を批評したものである。批評し去り批評し盡し何等採るべきところなしと見て、安藤は遂に法世其者を棄てようと決心し、棄て得る限りの總ての物を棄て去つた所で、尚且つ棄てようとしてもどうしても棄てられない物が殘つた。そは何ものである。曰く自然
 自然は最後の事實である。所謂論より證據の最も優れたる標本で、思慮分別を離れてその儘に存在する。その一切を許容し包容し成立せしめて、更に是非曲直美醜善惡を問はない所に實に測るべからざる偉大さがしのばれる。此自然を人々の思慮分別に由て如何に觀るかと云ふ事が、軈て科學者を生じ哲學者を生じ宗教家を生ずる。安藤は既に法世の思想を棄てると力み、虚無主義に立つたこと故、彼は自然其儘を直觀しようと勉めた。其主觀的思索を藉らず、虚心坦懷に自然に聞かうとした所は實によく科學者の態度に近かかつた。然らば彼は科學者であつたかと云へば、勿論その傾向はあつたが、今日の科學者と比べられる樣な精確なる知識を持つてゐた譯ではない。是を當時の彼に望むのは無理な注文と云はなければなるまい。しかし彼は幸ひにも自然を根本的に理解するに當つて必要缺くべからざる見方に打當てた。即ち彼は自然を處理する骨を悟つたのである。其骨は主觀的とはいへ全く根本的の原則であつたがため、直にそれを自然の癖ととつた、即ち自然の作用であり性質であると思うたのである。此見方を會得すると同時に、今まで彼を惱ましつつあつた思想の盤根錯節は直に消滅してしまつたのであるから、彼は確に自然の妙用を知つたと思うたのである。然らばそは何ものである。曰く互性活眞。
 互性活眞を平易に云へば一切の事物は相對して成立すると云ふ事である。此四字に由て現はさるる宇宙の眞理は、今迄誰も氣付かなかつたと安藤は主張する。彼は更に其眞理を生れながらにして知つて居たとも主張する。これは大きにさうでないと思ふ。先づ第一に生れながらに知つてゐたと云ふのは、人から聞いたり、本で見たりしたのではないと云ふ意味で、赤坊の時から分つてゐたと云ふ意味ではなからう。大方苦心慘憺の結果で相當永くかかつて其所に辿付いたものであるのであらう。尤も最後の瞬間は頓悟でも感悟でもよろしい。次に又誰も知つて居なかつたと云ふ事も、安藤がしかく思つただけで、彼が寡聞のためさう思つたのであらうとして置く。彼は常に吾は無學である吾に師なし吾生れながらにして知る、と云つてゐるが、蓋し正直な告白であらうと思ふからである。しかし眞理とか原則とか云ふものは安藤の食物と同じことで一人の私有すべきものでない。凡そ事相を直觀することにより、或は論理を徹底せしむることにより、誰でも到達することの出來る筈のものである。唯其物を知識の形に代へ、言葉の着物を着せることに巧拙があるために、種々の姿となり或は別物の如く思はるることもあるのである。既に佛教に在ては種々な形で相對性の原理を活用し、時には之を亂用して思想の迷宮を作り、人を煙に捲いてゐるのみか、自らも其迷宮に拘束せられて脱出し兼ねてゐる。哲學では知識の相對性として認められ是又種々な哲學者の基礎觀念に取入れられてゐる。又近頃物理學者は總ゆる現象の根本形式なる運動の相對性を的確に把へ得て、其論法を透徹し、哲學者や宗教家などの夢にも思はない處に向つて飛躍を試みつつあるのである。
 今物理學のことを一寸例にした序でに、直接互性活眞には關係は無いとは云ふものの、ずつと後に引合にすることがあり、又先以て思想を徹底させ其實現を爲さしむることに由て危險が伴つて來る場合があるのを説明するに都合がよいのであるから、餘談ではあるが横道に這入る。物理學と云へばこれ以上正確な知識は望まれないもので、精神科學も將來その前に屈服する時期が來るであらうし、救世の實も始めて此學問に因て擧げらるる事と思はせらるるのであるが、普通の頭には這入り難いので左程には採られてゐない樣だ。しかし其知識を正確ならしむるために幾多の學者を犧牲にした事などは、軍事界や宗教界などに比らべて數が少ない樣であるから云はずもがな、之を實際に應用するに及んでは驚くべき效果を奏して、汽船、汽車、電車、自働車を走らせ飛行機をも飛ばせて、實に人世の便利此上もない。同時に又人には怪我をさせるし轢殺しもする墜落もさせる、物騷な次第である。是は是れ文明の利器ではあるが、甚だ危險極まるものと云はざるを得ない。その上かういふ世の中になつて來ると、かの精神界の仕事が聊か見劣りがする。依て倫理道徳は日に衰頽に赴くかのごとくに見えて來る。茲に於て物質的文明は駄目と來る。かうなると一方から精神的文化靈的文明の喚びが擧がるのも不思議はない。事實かう云ふことがあるから不思議はないといふのである。而して物理學的即ち物質的思想を徹底せしむることに因て危險を伴ふ事實が明白であるから、其所が惡いのであると云ふなら、それをも認めることとする。偖て問題を茲まで運んで來ると私は義務として其解決を試みなければならない。そこで假りに百歩を精神論者に讓り、彼等の危險視する汽船、汽車、電車、自働車、飛行機を操縱することは一切止めることにする。而して物理學の理論だけを講釋することを聽して貰ふのを妥協の條件として提出する。而して其理由はかうである。物理學は正確なる知識である。自然の道理を如實に言語に移したばかりの純潔正眞の知識である。それでなかつたら、何であれだけ便利な機械を作つて人間の幸福を増進することが出來たであらう。幸福を願はない人ならいざしらず、苟も共存共榮人類の發展を望むことであるなら、どうか物理學に信頼して貰ひたい。夫を危險が伴ふと見て棄てることになると、取りも直さず正確なる知識を失ふことになる。正確なる知識を持つことを許されずして、何時實現出來るか分らない理想のみを説く所の精神科學にばかり頼ることになると、頭がどうかなつて、其所に迷ひが出で來り、思想の漢土化天竺化を見る如きことがないとも限らない。夫は甚だ迷惑なことだ。とつくりとかうした所を考へて見て、寧ろ各自此物理學を研究して見たらば如何であらう。どうしても危險でならないと思つたら致方がないことで、其時精神的科學に鞍替しても何等差支のないことと思はれる。しかし人まで勸める態度が惡いとあれば、それは止めることにして、唯自分等同志にのみ物理學を研究することを聽して貰ひたい。とかういふのである。
 右の樣な具合にして折衝を試みたら、大抵妥協が成立するでなからうかと思はれる。いやそれよりか唯物理學の理論のみを發表し、假令如何なる便利の機械の考案が出來てゐても、その實現を見合はすことにしたら始めから問題を起す樣な氣遣がないことは明白である。此處である。思想の衝突でも起つた場合、又衝突を避けようとした場合、お互どうした態度をとつたら、人に迷惑をかけないで濟むかと云ふことが思付くであらう。ところが安藤昌益はチヤンと衝突を避けようとする考へで、始から問題の起る樣な氣遣のない態度を取つたと思はれる。それは次節に入つて説明する。
 安藤が事物の相對性を互性活眞と看破する事により、前人未知の祕を發き無上の道理を獲得したるものと思つたのである。孔子も釋迦も此道理を辨へずして政教を布いたと取り、聽すべからざる暴擧にして直に其無效を主張する。之に反し自分の説くところは自然の妙道より發するもので些の迷妄を交へず、純潔正眞にして全く信頼するに足るものであるが故に、必ず將來世間に行はるること疑ひなしと宣言する。彼はこの主張宣言を自然眞營道の序跋に簡單明瞭に摘載し了つて、遂に自ら眞人であり救世主であると喚んでゐる。

      三 安藤昌益の人物

 安藤昌益は狂人でなかつたか。彼は世人の貴しとする所を貴むことを知らず、増長して自ら眞人救世主と稱するに至つては眞に正氣の沙汰とは取れない。就中尤も人を驚すに足るものは、彼が家康當時神君と崇められた家康に向つた時である。其心術の陋を見るや彼は忽ち惡罵の權化に變じ、峻嚴酷烈其度を超え、叱責罵辱其頂に達し、讀む者をして足顫ひ手汗するを禁ぜざらしむるものがあつた。而して其事を記したる所に誰人の優しき心で爲したことであらう、四重五重の張紙があつて、丁寧に家康の名前を覆ひ隱してゐた程である。かかる場面を見せられては彼は所謂曉[#文意から「曉」は「堯」の誤り?]に吠ゆる犬で、慢心の結果眞に狂するに至つたのではなからうかとの疑が出て來たこともあつた。しかし此の如きは全く彼が義憤に焔えた時の有樣で、一面温和な柔順な、そして常識に富み諧謔の餘裕さへも持つてゐたことを確め得たので私は初めて安藤の狂者ならざるを信ずるに至つたのである。今其證據を擧げて見ようと思ふ。
 先づ第一に彼が常識を備へてゐるといふ證據はかの猛烈なる自然眞營道を公表するのを控へたと云ふことが何より雄辯に物語るのである。このことは隨處に話して來たので再説の必要がないと思ふが、之に關聯してゐる問題で取殘されたものがある。そは寶暦書目に載つてゐる自然眞營道の内容は遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)的であつたらうと云ふことである。遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)的とは内容の性質を指すのではなく效果の上に就て云つたので、例へば少し前に述べて見たところの物理學の理論ばかりを説いたと云つた樣な譯で、主として互性活眞の道理を説明し、人心を刺激する如き具體的の議論を試みなかつたのではないかと云ふのである。即ち始から問題の起る氣遣ひがない樣な態度を取つたらうと云ふことである。もし此推測にして當つてゐるなら、彼が常識を備へてゐたといふ證據は更に裏書された譯であることは言ふ迄もない。
 彼の常識に附帶して彼の愛國心を思ひ出さざるを得ない。是も亦常識を助けて全本の公表を見合せさする一因となつたのではなからうかとの想像は當らずと雖も遠からずであらうと思つてゐる。私は劈頭第一に民族的農本組織と云ふ言葉を使つて置いたが、この民族である。彼が我民族を建てようとの意志熱情は到る處に表はれて實にいたましい程である。彼は神を信ぜず佛を信ぜず又聖人を信ぜず、全く傍若無人の言を弄して憚らざるにも係らず、事苟も我國の利害に關すと見れば、蹶然起つて神國を喚び、此神國をどうする積りであるかと詰責するのである。かくして聖徳太子は異國の佛を信じ儒を尚ぶと云ふ譯で甚だ香ばしからぬ名稱を奉られ、最澄空海の如きは態※(二の字点、1-2-22)渡唐したあげく、佛教の糟粕を嘗むるだけの事以外に何んにもないとあつて、鸚鵡扱ひにされてゐる。是皆我神國の貴きを知らずして、妄りに外國の思想文物にかぶれた罪に問はれたのである。何事によらず我を忘れ彼れに從ふ浮薄ものの反省を促すこと痛切なるものがある。かかる極端なる愛國的態度は彼が思想の根元より發露し來る精華であつて、決して單純なる感情に基いてゐるのではない。猶更阿諛苟同の念など微塵も雜つてゐる譯のものではない。是は彼の如く徹底的に自覺することに由つて初めて到達し得る境遇であることは、彼と共に互性活眞の悟りを開く者にあつて首肯せらるるのである。
 第二に諧謔の餘裕を持つてゐた證據として、法世之卷全體を提擧する。安藤は破邪之卷最初の數册に於て、專ら文字、言語、思想等の取るに足らざるを述べ、夫より具體的施設に入り宗教、學問、政治等を調べ、第二十三卷家康の批評を終るまでは正に眞摯其物の如く、時には熱狂して横溢暴戻を極むるも、終に眞摯の延長としか取れないのである。ところが第二十三卷を終り第二十四卷法世之卷に入るに及んで、急に恰好をくづし忽ちどつと吹出したものである。彼は法世の不合理、矛盾、滑稽なるに呆れはて、自ら其批判の任に當るを潔しとせずと云つた格で、今後は鳥獸蟲魚介、あるとあらゆる生物を呼出し、彼に代り法世の批評を試みしめたものである。革命の曉を告ぐる鷄を先鋒として、入交り立交り、説來り説去るところ、悉く其動物の形態を盡し、其性情を穿ち、直に之を世上の人に移して、愚弄嘲笑の具に供し、一上一下應接に遑なく、其着想の奇と其用語の妙と相俟つて、讀む者をして抱腹絶倒、快哉を叫ばしむるに足るもの再三ならずあつた。此餘裕此諧謔はどうしても狂人の技量とは取れない。のみならず此卷に現れた動物に關する知識の豐富正確なるを以て安藤は本草に通じたる醫者であつたのではなからうかと推定したのである。
 最後に、温和柔順なる人であつたらうとの證據を擧げる。彼は爭を好まなかつたといふのは彼の知的思索の結果と見らるる恐れがあるから、ここには彼の愛好した人物は孰れも温順な人であつたと云ふことを示して、情的にもさうした傾向のあつたのであらうとのことを立證する。何れの卷であつたか記憶はないが、救世主自らが尤も完全と思つてゐる歴史的人物を拔擢して見せると云ふのであるから、正襟して見てゐると、理想的完全人一名と、半人前の人一名と、都合二名を指名するとのことであつた。偖て指名された完全人は誰であつたか。曰く曾參。半人前の人は。曰く陶淵明。
 此人選の仕方を見れば安藤の衷心がよく分る。最早彼を疑ふ必要はあるまい。假令尚狂人であつたとしても、此程度の狂人なら全く安心して交際の出來るものと云はなければならない。されば寧ろ彼を狂人と見ることを止め、變つてはゐるが親しむべき人間であると取るのが至當であらう。
 以上は私が自然眞營道を讀んだ時の記憶を辿り、主として安藤の確信と決意の生じ來つた徑路を示し、兼ねて又彼が危險視すべき人物でなかつた證據を述べたのである。これだけのことを以て見ても彼は容易ならぬ人であつたと云へよう。もしその性行事蹟の詳かなるを知ることが出來たら、一層の興味を呼起すに足ることがあるかも分らない。しかし私はそれ等のことを調べる暇がなかつたので、從つて語るべき多くのものを持たないのを遺憾とする。唯ここに私の知り得た雜多のことを一つ書の如くに列記して、讀者諸君の參考に供することとする。興味を覺え餘暇を持ち自ら穿鑿して見ようと欲する諸君の手懸に利用せらるることあらば幸福の次第である。
 安藤昌益は確龍堂良中と號し、出羽國久保田即ち今の秋田市の人である。
 彼の高弟に南部八戸※(「危」の「卩」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)の醫者神山仙庵といふ人がある。子孫今尚ほ八戸町に現存してはゐるが、火災のため記録類を燒盡して何等傳ふるものがない。
 此外の門人では島盛伊兵衞、北田忠之丞、中村右助皆八戸住である。高橋大和守は南部の人、關立竹、上田祐專、福田六郎、中居伊勢守、澤本徳兵衞、中邑忠平、村井彦兵衞等も亦南部の人であらうと思はれる。
 京都三條柳馬場上に住せる明石龍映、富小路に住せる有來靜香、大阪西横堀の志津貞中、道修町の森映確、江戸本町二丁目の村井中香、奧州須賀川の渡邊湛香、蝦夷松前の葛原堅衞等も亦門人である。香子、定幸、道右衞門等の門人は姓氏が判明しない。
 照井竹泉なる人より安藤に寄せた手紙の文面より推察すれば、此人は先輩であつたらしい。
 自然眞營道の原稿を持傳へた人は北千住町の橋本律藏である。
 以下私は安藤の説の重要なる部分を少しく精細に吟味して見よう。

      四 自然の正しき見方

 自然眞營道なり統道眞傳なりを讀んで見て最初に氣付くことは、自然と云ふ文字の連發である。行列をしてゐると云ふべきか、經緯をなしてゐると云ふべきか、到るところに出て來る。凡そ古今東西の書物で自然と云ふ語をかくも多く用ひてゐるのは斷じて無いと思はれる。此事だけを以て見ても、自然と云ふ事が安藤にとつては如何に大事のものであつたかと云ふことは認めざるを得ない。申す迄もないことだが、自然は安藤ばかりにではなく誰人にも大事なのである。眞に大事ではあるが其あまりに大事であることが祟つて、常人にはその大事である事が往々忘れられる傾きがある。例へば親兄弟や、水や、空氣や、大地や、太陽や、それ其自然其物の有難いことを忘れる樣なことはないとは限らぬであらう。其位のことは能く知つてゐると云ふ人もあらう。如何にも事實としては野蠻人も知つてゐる。しかし文化が開けて來ると忘れる人が出來るやうになり、さては着物とか金とかばかりを有難がり、進んでは思想を有難がり、さうしたものを多く所有する族を尊んだり羨しがつたりして、其結果が親に孝行を盡すことを舊弊と取つたり、米を供給してくれる農民を賤しいものと取つたりする樣なこととなる。是はどうした事ぢや。自然を忘れたからである。有難い自然を忘れ勝になる人に自然の正體を見屆けようなどと努力することは、直接パンなり地位なりを得る助けにもならないことであるから、出來ないことであつて、是はどうしても眞の學者とか聖人とか救世主とでも云ふ人に求むることにしなければならないのであらう。
 然らば聖人格の人は自然の正體を何と見たか。曰く天、大極、無極。曰く眞如生滅。曰く實體。曰く神。まだいくらもある。孰れも考へるには考へたものであらうが、どうも考過ぎて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどい樣に思はるるものが多い。殊に神と云ふ觀念は内存的の場合はまだしもの事、外存的になつて自然を創造したものとすると、貴族的であつたり、不合理、不人情であつたり、甚しきに至つては欺瞞的であるのであるから驚かざるを得ない。是は基督教の神或は又其以上の手腕を有する阿彌陀如來を見ればよく分ることである。勿論説くものよりすれば方便とも取られ、聽くものよりすれば鰯の頭も信心柄と取られ、相對づくで信仰する分には何等差支のないことではあるが、もし實際に當つて其信仰で裏書した神の國の、佛の國のと云ふ不渡手形を振※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すことになると、馬鹿げた大事件を生ずる恐れもあることは歴史を見れば直ぐ分ることであり、小さな事件は近年我國でもいくらも起つたことであるから頷かれるであらう。偖て宗教家なり哲學者なりが自然の正體を捉へようとして旨く往かなかつたとすれば、一つ安藤の考を聞いて見よう。安藤は思想の虚無主義に立脚してゐるのであるから、何等思想の遊戲に耽るのではなし、直に自然は自然なりと取る。甚だ手取り早いやうではあるが、其所まで達するには度胸も要るし、思想を以て思想を遣る手數も並大抵でないと思はなければならない。
 統道眞傳卷首に聖人自然の眞道をアヤマる論と題し、劈頭先づ彼の自然觀を述べた句がある。――夫れ自然は始も無く終りも無し。ヒトハタラき他を俟つに非ず、自ら推して至るに非ず。常に自り感くに小進して温暖發生の氣行あり。大進して熱烈盛育の氣行あり。小退して涼燥實收の氣行あり。大退して冷寒枯藏の氣行あり。小大の進退して休するトキは進まず退かず。小大の進退に就て妄りに離別せず。小大の進退を革め妄りに雜へず。是れ五行自り然る常の氣行あり。――此語で分る如く安藤は自然は自然なりで、日月位し、四時行はれ、萬物生育する自然の現象其儘を自然と見てゐるので、其現象は皆自然が獨りで働いて起すのであつて、決して他に神佛のごとき者を俟つて起るのでないと主張するのである。そこで彼は又歩を進めて自然を曲解する聖人の論を打破するに着手する。
 然るに伏羲コレを大極の圖と爲し、中に何も無き所に於て衆理を具ふと爲し、空理を以て極意と爲すこと甚だ失れり。圓相は氣滿の象積氣の貌なり。之を以て轉定の異前と爲し、是が動陽儀を天體と爲し、靜陰儀を地體と爲し、天地を二と爲し、上尊下卑の位を附す。是れ己れ衆の上に立たんが爲め、私法を以て轉下に道を失る根源なり矣。是より上下私欲を爭ひ、亂世の始本と爲す。而して今の世に至るも止むこと無し。拙い哉、自然を失る哉。自然は無始無終にして五行一眞感神の靈活にして、進退に通横逆の運囘を盡して、轉定人物と爲す。故に轉定は自然の進退退進にして無始無終、無上無下、無尊無賤、無二にして進退一體なり。故に轉定先後ある者に非ざるなり。唯自然なり。然るに己れを利せんが爲めに之を失り之を盜み、轉定に先後を附し、先を以て大極と爲し、後を以て天地と爲し、二つの位と爲す。是れ失の始め大亂の本と爲るなり。――伏羲を以て此説を爲したりとするは、所謂安藤の無學の致すところで、かかる誤謬の例は外にも多く見出さるるのである。しかし大體に於て聖人が自然現象に好きな解釋やら意味を加へて自分に都合の好い樣に勝手に價値觀を拵上げるところを指摘したものとしては有效と認める。
 以上序での事に安藤の文章を引用して見たものの、拙い上に脱字あり誤字あり當字あり、彼一流の用語あり、中々分り難いのである。例へば異然とは以前のこと轉定とは天地のことで、かうした新語を使用されるので私も暫くの間は能く分り兼ねたものであつた。彼の根本的思索の記述に至つては其性質上からも甚だ解し難く、其應用を見るに及んで漸く其意味のあるところを察することを得たのである。
 自然の作用として見らるるものに互性活眞の外に進退の考へがある。是は因果法に代るもので、通横逆の三つの形ちに現れることは前に引用したところにも見えてゐる。是は善因善果惡因惡果の如き殆ど自明の理とは事かはり甚だ了解し難いものである。のみならず彼の五行論と出入して複雜を極め、到底通俗の解述を許さない。故に之を評論することは容易の仕事でない。然るに幸にも救生の考へには更に用のなきことになつてゐるから旁※(二の字点、1-2-22)割愛することとする。互性活眞は進退に比べて簡單ではあるが、安藤の敍述は極めて不充分であるから、彼の考へに基づき私が補足することとする。

      五 互性活眞

 近世哲學の父と呼ばれるデーカルトは我考ふ故に我ありと云つた。よく人に知られた語である。此語の意味は何者を疑ふことが出來ても、疑つてゐる自分自身の存在を疑ふ譯には往かないし、その又自分自身の存在を知らせるものは自分の心であるから、其心は即ち最後の確かなる存在であり、其心によつて自分の存在が初めて分つて來ると云ふのである。一應尤に聞える。そこで彼は是を以て彼の哲學の出發點としたものである。其哲學の是非は今問題とするところではないが、此語を鵜呑にすると忽ち唯心病に罹る恐れがあり、また流石のデーカルトも其當時彼が目的としたことにばかり注目して、此語を成立せしむるに必要なる心理的條件などを考へる暇がなかつたではないかと思はるるから、一つ吟味して見ることとする。
 凡そかかる抽象的なる思索を爲すことの出來るのは、一歳や二歳の赤坊に望むべからざることで、必ずや相當成熟したる心の持主でなければならない。さうした人は必ず我と彼との區別を知り、又其相對的なることにも氣付いてゐる筈である。そこで尋ねるが、一體我考ふと云つた我は彼を知らないのであらうか。どうして彼あるを知らないで我あることを主張し得るのであらう。一切の彼を空じ終つたとすれば相對性に由て我も同時に消滅して無くなる筈であらねばならない。即ち彼の附纏はない我と云ふもののあらう道理が無いのである。故に事實問題として扱ふことになると我と云ふ途端に既に彼もあることを認めてゐると云はざるを得ない。是は明白なることである。更に又純理問題として考へて見ても、我考ふと云ふときの我と、我有りと云ふときの我とは、觀るものと觀らるるものとの別がなければならないから、結局は矢張彼我の對峙となるのである。かく考へて見れば事實上にも理論上にも、心だけが眞に存在するもので、それからあらゆる事物が生じて來るなどとは云はれないことで、心即ち我あると同時に、物即ち彼あると見るが、本當のことであらう。ここ迄考へて來ると、あの語を思ひ付いた時のデーカルトの頭には、相對的の我なる概念は單に孤立的の我なる語となつて浮んで居たのではなかつたらうかと思はれるのである。若しさうでなかつたならば、彼はあんな唯心的に誤解され易いことを云はなかつたであらうと思ふ。しかし私は今云ふとするのは唯心論にどの位の聲援を與へたかを論評するのではなく、かの語の裏面には事實的にも純理的にも彼我相對と云ふことが潛んでゐることを指摘したかつたのである。
 私は既に事實問題としては我あれば彼がなければならないと云うて置いたが、一體彼我の關係の意識せらるるのは何歳位から始まるかと考へて見れば、人に由て遲速はあるが、可なり幼稚の頃からと思はれる。即ち呼んだり聞いたり、遣つたり取つたりすることが出來る樣になれば、最早彼我の區別はついたのである。此頃彼とする者には親があり犬があり猫があり鷄があり馬がある。しかし尤も早く知られるのは親である。而して後になつて又總ての彼の中で尤も大事なる者は親であることが分つて來る。是は自分が親から生れたと知るからである。偖てこの知る事である。今私は自分が親から生れたと知ると云つたが、反對に自分から親が生れたと知つたら、どうであらう。自分から親が生れたと知ることは同一法には抵觸しないが現在の因果法には抵觸する。別個の因果法を具へたる者でなければ成し得ない藝當である。安藤も普通人と同じく自分は親から生れた者ととつた。之を事實ととつたのである。此事實は人間の基礎經驗の中で最も重大なるものであることは何人も認めなければならない。而して之を實際に當て重大視することが遂に孝の教となるのであるから、常識ある人は皆孝を以て萬善の基とする。孔子然り昌益然りである。昌益が曾參を以て人間第一人者と云つたのは外にも重大なる理由はあつたが、矢張此孝に重きを置いたことは云ふ迄もない。孝は事實に基づいたものと知つたら、かの安藤の愛國心も畢竟するに又事實に基づいた自我の觀念の擴張に外ならないことにも想達することが出來よう。そこで世間無我などを唱道したいと思ふ人があつたら、其人は先づ以つて無我を唱ふるにも食物が要ることを考へ、其食物を食ふものは何者だと反省して見るがよい。忽ち無我など云ふことは文字だけの空想に過ぎないことを發見するであらう。之に類する空想は甚だ多い。信仰的、理想的、靈的、神祕的、詩的、藝術的などいふ形容詞のついたことには動ともすると空想が跋扈する恐れがあるのは誰でも氣付くことであらう。しかるにかかる空想に對する憧憬が生ずると、事實を輕視することになつて、其結果種々な不都合を起すことになるのであるから注意を要するのである。
 偖て話は前へ戻る。安藤は自分が親から生れたことを事實ととつたと云ふことは、取りも直さず自分と親との間に成立する彼我相對の關係を事實と認めたのである。ところがかうした彼我相對の事實は客觀的に到る處に見出される。親子がそれである。夫婦がそれである。兄弟がそれである。君臣がそれである。而して孰れも彼我關係が成立してゐるのであるから、二つの中どちらか一つを失つたら、他の一つは全く意味を爲さない事になる。此意味に於て彼我相對の事實は何にも五倫に限つたことではないので、自然に於ける事物は有形無形を問はず、悉く皆かかる對峙をなしてゐるのである。即ち苦樂、和爭、善惡、正邪、信疑、空有、因果等あるとあらゆる事物は皆單獨には考へられないもので、必ず相手があつて成立するものであることが明白となつて來る。もし相對のことが明白でないものがあるならば、之を自他に兩斷する法をとれば相對の事實が現れて來ることは論理を知つてゐる者は直ぐと氣付くことであらう。しかし安藤は是を知識の上に持行くことをせず、總てを事實と取るのである。即ち自然の事物を悉く相對的と見、相對性を有する者に非らざれば成立することを得ずと考へたのである。この相對性のことを互性の二字で表し、成立の状態を活眞の二字で現はし、茲に於て自然の事物は互性活眞なりと云ふのである。進んでは又これが自然の作用であると云ふ意味で自然眞營道とも稱するのである。
 相對が實際に於て成立する以上、決して偶然のものではないので、其兩極を爲してゐる事物は本來不離不即であると云ふ考は自然と起來るのである。此考を統道眞傳の智を論じたる末に述べて曰く、眞道は自然の進退にして一眞道なり。則ち轉定にして一體、日月にして一神、五穀にして一穀、男女にして一人、牝牡にして一疋、雌雄にして一番、善惡にして一物、邪正にして一事、是非にして一理、表裡にして一般、生死にして一道、苦樂にして一心、喜怒にして一情、一切審かに皆二別を見るは即ち一眞營の進退なり。此進退は一眞營なり。安藤はかうした樣な意味のことを到る處に繰返してゐる。
 自然眞營道には事物の相對性を自明の理として、殆ど何等説明する所がない。縱に因果的に對峙するもの、横に共存的、反對的、排他的に對するもの、兩斷法によつて生ずるもの等更に選ぶところなく無差別平等に之を互性活眞と稱するのである。又かの不離不即の機制の如きも自然の眞營と稱する以外に何等説明を試みない。實に荒削りの考方である。しかし同じく相對とは云ひ互性活眞には慥に特色がある。どこまでも事物を離れずして、事物其物なりと取つて行く所に、素朴乍らに甚だ力強いものがある。何となれば之を事物に即して見るが故に、事物を離れて存在する絶對を作出す如き見方を自然に防止することが出來るからである。かの哲學は之を知識の上に即して考ふるが故に、動もすれば事物を離るる恐れがあり、相對に對して絶對を誘導成立せしむることは自然の勢ひである。佛教の如きに至つては更に思想の操縱を恣にし、二重三重に相對を振※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して遂に迷妄に陷つたものである。之を思へば安藤の考方は素朴なるがため却て迷妄に陷るを避け得たもので、彼にとつては實に幸ひであつた。
 互性活眞は安藤の到達し得たる思索の極致である。究竟的立場である。法世を壞るも是れ、自然世を造るも是れ、一切事物の生滅は皆この互性活眞に待つものである。是即ち自然の大法であるからである。安藤は之を以て、直に救世の利劔となし、法世を自然世に化成するに當つて殺活自在の妙用を發揮せしむるのである。

      六 救世觀

 凡そ一切の事物は皆互性活眞である。價値も之に洩るるものではない。互性であるから自然の上ではどちらにも重きを置く譯のものではない。雙方相持でなければならない。もし偏重偏輕にして互性の實を擧ぐること出來ないとなれば最早成立を許さない。善惡、美醜、正邪、曲直皆互性なるを以て偏重偏輕を許さざるものとなる。是に於て古今東西の教法は悉く意味を爲さざるものとして、十把一紮げに廢棄せらるるのみか、人を罪に陷るるための惡法なりと迄攻撃せらるるのである。統道眞傳佛失を糺す卷の中に曰く、是れ惡を去れば善もなし。善を去れば惡もなし。左の手は善右の手は惡、右の手を切れば則ち左の手のみにて用を達し難し、大腸に糞ありて惡なり、胸には神ありて善なり。大腸を去り胸のみ之あるべけんや。夜は暗くして惡、晝は明かにして善。夜を去つて晝のみあるべけんや。故に物は善惡にして一物、事は善惡にして一事、轉定にして一體、日月にして一神、男女にして一人なり。自然の妙を知らざる故に勸善懲惡と云ひ、或は衆善奉行諸惡莫作と云ふは甚だ私の失りなり。――諸の聖人釋迦は世を迷はし罪の穴に落し入るること大なる失りなり。と、かく論じ去るのである。此論法は直に又法律にも應用することの出來る性質のものであるから、そこで一切の政法も亦無效なりと申渡さるるのである。かくして法世の教法政法皆悉く互性活眞の蹂躙に委せられ、法律の權威も道徳の尊嚴も遂に三文の價値なしとせらるるに至るのである。
 社會から在來の政教を全く取去つたとすれば、後は修羅の巷となるであらうと思ふのは普通の人の考へる所であらうが、之は理論的には必ずしもさうとは取れない。殊に安藤は政教に代ふるに自然の道を以つてし、法世に代ふるに之に優る社會組織を以てしようと考へて居たこと故、政教を蹴飛したのは當然のことで何も惡いこととは思つてゐない。此間に處する彼の信念の篤き意氣の盛なる實に驚歎すべきものがある。しかし是は自惚れから出た暴擧と取れないこともない。何となれば彼は自然を互性とのみ取り、因果と取ることを知らない。全く知らないではないが見方が徹底しない、是は甚しい片手落と云はなければならない。自然を横斷的靜的に觀ずれば彼の云ふところに道理はあるが、之を縱續的動的に觀ずれば一切の事物は因果の形式に現れ來り、皆必然性を帶びて何等誤りのないものとなるのである。而して歴史の意義は此見方よりして生じ來ることを忘れてはならない。私は今此以上に穿ぐる事は止めるが、安藤は重大なることを見落してゐたことを指摘して置くのである。そこで先づ教法の支柱を失ひ土崩瓦壞に至らんとする社會に、安藤は如何なる應急手當を施すかを見よう。
 安藤は忽ち又互性活眞を振翳すのである。法世を屠つた利劔を以て又之を活かさうとするのである。彼曰く、爭ふ者は必ず斃れる。斃れて何の益があらう。故に我道には爭ひなし我は兵を語らず我戰はず。なるほど互性のものであつて見れば相持でなければならないのであるから爭ふべきものではない。若し爭へば爭ふものの一方が斃れるか、雙方が共斃となるか、又いつまでも爭を繼續するかに極まる。共斃の場合は論外として、一方だけが斃れ、片方が殘つた場合は、互性の見方からすると意味を成さないこととなる。又いつまでも喧嘩する位なら寧ろ早く和睦して互性の實を擧げた方が道にも協ひ幸福でもあるのである。ずつと前に安藤の平和主義は彼の思索の中樞をなしてゐる所から派生し來るのであると云つて置いたが、即ちかうした見方を云つたのである。この見方にも突込んで吟味せなければならない所もあるがお預けとする。却て宇内平和策とか無戰論とかを主張する人、殊に又具體的主義主張を以て爭はんとする人に此見方を勸めて見たい。就ては餘談でもあり適例でもないが、安藤の主張には多少關係があるからお話して見たいことがある。私は前に神の國は不渡手形だと云つた。それで思出したのだが、讀者諸君にも記憶新しいと思ふ。先年大學の新進氣鋭の學者が西洋の左傾派の人の言説を紹介した節、學生が共鳴して一騷ぎを起し當事者と爭つたことがある。其學生の申分は神の國も無政府の如きものであるから、無政府主義もよいではないかと云ふことであつた。其理由となつた神の國は不渡手形であると氣付いたら學生は起たなかつたのであらうし、又一切事物を互性と見たらば、人騷がせをする樣な事は先以て初から起らなかつたのであらう。かれ安藤の如きは無政府虚無主義などを振※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して喧嘩をするのは子供のする事で、何も大人が子供の眞似をして、打つたのはたいたのと云ふ苦々しい經驗をする必要はないと見てゐる。是は實行に訴へる迄もなく考へただけで直ぐ分る。故に彼は百年を期する。又常に互性活眞の劔を懷にしながら唯之を撫するのみで、決して人に切付けない。そこに武士の情がしのばれてゆかしいところがあるではないか。敵味方ともに見傚つて貰ひ度いものである。
 男女の關係の亂るることが爭鬪の端をなすのは周知のことである。是は大切なことであるから特別の扱ひを要する。安藤は性の樂は無上にして念佛の心も起らずと云つたり、倫理を裏返しにしても解釋の付かないことを認めたりして、甚だ同情を表するものであるが、もし彼を立川派の亞流と見たり、現代無法主義の先驅者と見たりしては全く彼を冒涜することとなるのである。そこで彼は嚴肅なる一夫一婦制の主張者であることを聞いたら失望する族もあるかも知れないが、致方がないから説明する。偖て茲にm男n女ありとすれば各男各女と結付く可能性あるが故に、m男n女の混合物を想像することは、之を實驗に訴へなくとも容易である、就中一男數女或は數男一女の集團も出來る。しかし尤も坐りよき釣合を保つものは一男一女の結晶である。而して其結合の強固なる理由は爭ひの起ること少いからであらねばならない。この爭ひを少くすると云ふ理由の基に一夫一婦制を主張するのである。若しこの制に戻るものありと見れば安藤は王公と雖も許さず、彼一流の痛罵を浴せる、這般の消息を語る言葉に一夫數婦は野馬の業なりといふがある。一婦數男を聞いたら蜂蟻の行ひに如かずとして笑つたであらう。
 右の定理の系として、獨身はいけないこととなる。男女は互性活眞の理に協ふ樣に一男一女の配偶をとらなければならないから、獨身は片輪である。所謂一男一女にして初めて完全なる社會人となるのである。此意味に於て男女ヒトを人と訓讀せしむるのである。
 安藤は互性活眞の利劔を以て世相を切捲り、其矛盾不合理を摘發し、法世をして完膚なきに至らしめ、かかる不都合なる法世を現出せしめたる重なる原因は、思想の指導者たる聖人及び宗教家にありとするのである。彼等は自然を覺らず正智を得ざるに氣付かず、妄迷的なる亢偏智を以て自然を曲解し、種々なる價値觀を立て講説、文章、藝術、暴力等あるとあらゆる方法を以て其誤りたる理想を實現せんと努めたる結果、人々皆高きを思ひ、貴きを思ひ、利を思ひ樂を思ひ、之を求めんとして遂に罪惡を作るに至つたのである。人々は慾を煽られ罪惡を犯すに至つたとすれば、之を煽つた者は尚更深い罪惡を犯した者と見ざるを得ない。此見方を爲すことに由り安藤は聖人格の人を糞に比し、其言を聞く者を青蠅と云ふのである。又或所では自分は糞と呼ばるるも意とせず、却て聖人と呼ばるるを恥づと云ふのである。其理由は糞でも聖人より有益である。
 此見方は頗る峻酷である。安藤は亢偏智を弄する者と取り免さなかつたであらうが。知らずして善意を以て爲す者と見たら免さなければなるまい。しかし知つてゐるが故に人欲を煽り己の爲めにするものありとすれば是は免すべからざるものである。聖人を擔※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る徒にも往々此の如き者を見出すに至つては實に法世の爲めに悲まざるを得ないところである。かうした不都合も食ふ爲めの職業であつたり商賣であつたりする上に、又其所に種々祕密な關係があつたりするので、爲政者も大目で見て置かねばならない樣な所がありとすれば、法世は文化の進歩につて却て欺瞞の陳列場の如き觀を呈し、一方には奢侈逸樂を助長し、一方には怨嗟失望を誘致し、人心を惡化せしむることあるも、終に如何ともすること能はざるに至るのではないかと考へられる。此傾向は慥にあるものと認めざるを得ない。色目鏡を外づせば歴然として目前に現れる、隱匿辯護の餘地はないのである。是は實に法世の缺陷であり病氣であるのである。これあるがために罪惡を犯すもの盡きざるも亦明白なる事實である。而て其缺陷其罪惡の根本的救治は之を律法に求むるも得べからず、之を教法に求むるも亦得べからざることは、既往と現在とに徴して是亦餘りに明白なる事實である。かかる明白なる事實は事實なるが故に之を如何ともすべからざるものと見ることも出來る。是は頗る透徹したる見方である。しかし法世の見方はここまでは徹底し得ない。どうしても相も變らぬ教法を以て糊塗することに勉むるの外ないのである。然らば即ちその根本的救治策は到底成立の見込立たざる性質のものであらうか。これは是れ眞に世を憂ふるものの夙夜忘るべからざる問題でなければならない。しかしかかる問題を單に提起するさへ容易のことではない。まして成案を作るに至つては彌※(二の字点、1-2-22)以て至難のことと云はざるを得ない。法世を捨て自然世に向はせしめようとする安藤は責任上此問題に對する具體案を示さざるを得なくなつた。勿論聖人も考付かなかつた新しい試みであるから、少しは驚く樣なことがあるかもしれない。其代り所謂百年を期するので、決してクーデターに出づる樣な政略的卑劣のことはしない。全く相談的に出るのである。其上安藤は口不調法でいけないから私が彼の考へたことの意味を代演する。
 武士は封建制度の作り出した最高の産物である。國土に培ふ櫻と共に日本の名物となつてゐる。武士の尊き所以は武士道にあることは云ふまでもない。其武士道は如何にして出來たか。諺に衣食足つて禮節を知ると云ふことがある。彼等は皆祿を貰ひ、末代生活の保證を得て居たものである。之を與るものの義務慈愛の態度と、之を受くるものの責任敬愛の觀念とが融合して、微妙の勢力となり、彼等の意志を精練し行動を莊嚴ならしめた結果が即ち其武士道である。根柢に於ては上下相愛共存共榮の心に外ならないのである。かかる結構なる制度があるならば、四民悉く武士になつたらどうであらう。それでは明日から食物に差支へるから困る。いやそこである。食物は何よりも大事と氣付いたら、武士は武士のまま歸農する。而して其中から必要に應じて工商を營むものを作ることとする。しかし誰一人徒食の遊民たることを許さない。皆勞作して食ふこととする。苟くも武士たるものは末代生活の保證を得てゐるのであるから愛國奉公の志篤からざるを得ず。依て所得を政府に納め、其代り生活に必要なる支給を受くる事を條件とするのである。政府に於ては其意を領し、尤も公平なる配給法を工夫し、暴富奢侈等罪惡の原因となるべきものを發生せしめざることに注意する事は云ふ迄もない。而て歳計の餘裕を以て公共施設を整頓せしめ、國民全體の幸福を増進せしむることに盡力し、以て共存共榮の實を擧ぐるのである。偖て其政府はどうする。是は大和民族の意志に尋ねる。かくして出來上るところの新日本は武士道以上の精華を發揮して譽れを萬國に輝し、人類をして皆我日本に傚ふことに至らしむるであらう。
 以上の案は云ふ迄もなく罪惡を未然に防ぐ目的を以て提出するのである。安藤は戰を好まない男であるから、武士を農列に引摺落さうとするのであるが、私は武士側が覺醒して任意歸農する如く説いたといつた違のあるばかりで、成立するところの民族的農本組織は孰れからするも漸近的に同一點に歸着するものと見て差支ないのである。故に私の述べた所は安藤の説を曲解したものでなく、彼の精神を呑込み易い樣に現はしたものである。私の述べた案が贊成を得ないこととなれば安藤の案は尚更いけないこととなる。
 自然の何物たるかを知らざるものは仁義の桎梏を免かれ、欺瞞の陷穽を避くるに明もなく力もなく、滔々として罪惡を犯すに至るのである。之を見るに忍びず、知らしむべからず、由らしむべしと考へたものが即ち農本共産主義である。此考は眞道哲論の中に簡單に書いてあつたばかりで、外には何處にも詳説した所がない。故に私も大體を記すことに止めよう。昔し楚の許行が君民並耕の説を爲したのは頗る共産主義に近かつたものらしく思はれる。今又ソビエット・ロシヤで勞農共産を大仕懸に達成しようとしてゐるが、成否の程が見物である。學者の議論に至つては、紛々擾々、未だ歸着するところがないと見るべきである。此間に在て安藤の提案は其量に於ては甚だ貧弱なる感をなすも、其質に於ては尤も優越したる功ありと云ふべきであらう。何となれば歐米の主義は單に經濟問題に立脚し、反對に立つところの同胞を仇敵視し、忽ち喧嘩を始むるを通性となしてゐるが、安藤の主張は事物の根本原則に立脚し、萬事を理解して決して爭ひを爲さない特性を有してゐるからである。この立脚地の相違に動機の純濁を發見するのであるから、玉石を混淆すべきでない。
 救世の道程としての農本共産あるを見た所で、後は唯自然世の何物たるかを見ることが殘つてゐるばかりである。しかるに安藤が其説明を試るであらうと思はれる顯正之卷の中、何所にも其記事が見當らない。私が見ることを得なかつた生死之卷に地獄極樂の存在を主張してゐるなど想ふことは子から親が生れると考へる位覺束ない話であり、他の部分は悉く自然現象の彼一流の説明を以て充たされてあるのを以て見れば、彼の考が那邊にあつたかと云ふことが推測出來ると思ふ。即ち自然性とは先づ罪惡の發生を最小ならしむる目的を以て準備的に布くところの農本制度の樹立に始まり、自然の現象の正確なる知識を獲得し、其知識により改良しつつ落着くところに落着くのを云ふのである。是は安藤にも具體案があらう筈がないので、書くことを見合したのであらう。
 私は安藤は醫者であつたらうと云ふことを推測して置いたが、彼は醫學以外の知識も可なり廣く持つてゐたのである。顯正之卷六十餘册は彼の學殖を現はすものであつて有らゆる方面に亙り、量に於ては不足を云へない。しかし遺憾ながら取るべき所が甚だ少ない。或は歴史上の捏造説を看破したり、動物と其食物との形體の類似を推考したりして、頗る人を驚かすに足る奇論も吐くが、至る處に五行論を振※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すのは甚だ惜まざるを得ない。しかし是は科學的知識の缺乏に歸すべきもので、當時に在つては致方のない事であつたらう。そこで私は此以上奇説や罵倒を聽くことを止め、彼の尤も重きを置いた救世觀を説明し終つたところで、一寸その概評を試みる。
 先づその救世觀を一瞥すれば、法世とは個人的に人慾を助長する制度文物の世の中。自然世とは衆人的に人慾を滿足せしむる制度文物の世の中。共産は個人慾病の下劑。科學は個人慾病衆人慾病共通の良劑。而して食物は必要缺くべからざるものなるが故に衆人農業を基ゐとして食物の充實に勉むること、とかうなるのである。其歸農充食に重きを置くに鑑み、彼の救世は救生であると云へよう。
 凡そ絶對性を帶びたる獨尊不易などいふ考へ方の大概間違つてゐることは、歐洲の思想界に在つても餘程前から知られて來た。それ故また急激の思想を調停するに都合のよい宛然哲學など云ふ折衷説も出來てゐる。世界大戰以來は實際の例證が多く提擧せられ、普通人も往々知ることになつたので、何等深き思慮のない者が雷同することが起ると危險甚しきものがある。實に二十世紀は容易ならぬ時となつた。この時に當つて二千年から前の釋迦や基督の稱へた救世の樣なことを持出すのは時代錯誤の話であると思ふ人もあらう。強ちさうでもない。救世と云ふ語は陳腐ではあるが、其實は今日の改造である。兎に角有難いことの樣に聞える。釋迦や基督の救世は心や靈の上に在つたが、安藤は之を肉體に及ぼし何から何まで救ふと云ふのであるから面白い。儒教も略同一の見方をしてゐるが安藤ほど根本的ではない。孰れの國家に在つても救世的の施設を要することは明白なることで、是は國民に對してどうしても爲さざるを得ないところである。そこで世界に於ける今日の政治が宗教などの力を借りて應急の救世を講じて見ても萬一旨く行かないとすれば、救ひを求むる者に不平の起ることは必死の勢ひであらねばならぬ。而して求むるものと與ふるものとの間に甚しき間隙を生ずれば、鬱積したる不平は致命的に放たるる恐れがある。是は尤も憂ふべきことである。安藤は今日あるを見越して立説した譯ではないが、彼はかかる衝突の起らない樣なる社會を建設しようとしたのである。彼の農本組織は第一の目的は罪惡の防止にあるも、其樹立の結果として與ふるものと受くるものとの對峙は同時に消滅に歸することは慧眼なる讀者の見逃さぬところであらう。即ち不平の鬱積することのない樣に工夫せられてゐた安全策であつたのである。よし又此案が始めから無かつたとしても、彼の妥協的態度を維持し、決して爭を爲さないと云ふことは、尚且つ彼の存在をして大に意義あらしむるものと云はざるを得ない。何となれば與ふるものと受るものとに於て此妥協的態度を學ぶことありとすれば、忌々しき爭鬪の起るごときことがなくなるのであるから、單にこれだけにても彼の目的は幾分達せられたものと見るを得るからである。實にこの普遍的妥協の精神は彼の衝天の意氣と兩々相待つて彼をして大を成さしむるに足るものである。彼の救世策其ものに至つては珍らしく徹底的であるとは云ひ、根本思想に重大なる缺陷を有し、論議すべきところも甚だ多い。一々批評するのは大事であるから單に之を指摘するに止めて置いた。想ふに本當に正確なる救世策はまだ中々出來る迄に世の中は進んで居ない。これはずつと前に引合に出した物理學の見方に立脚した救世案が出る時にならなければ望むことは出來ない。しかし何時でも默つては居れないから、臨機の救世策とか改造策とか出來るのは止むことを得ない。聖人連中は皆此考を以て起つに至つたものである。安藤昌益も亦其一人である。而して起つ人も來る人も安心を説き、修身を説き、救靈を説き、その説の確かなる證據は地獄の入口で分らせると云ふのであるが、獨り安藤は微塵も此教を説かない。唯だ足食救生を喚ぶのみである。歸農を勸むるのみである。直耕を尚ぶのみである。勿論證據は現世に在ると云ふのである。茲に於て與ふるものと求むるものとの別なく、平心坦懷、己れを省み人を察し、皆この足食を以て第一義と成さねばならないことに想達することあらば、安藤の尚耕説はたしかに爭ふべからざる威力と、辭むべからざる恩意とを以て、誠意誠心に考按せられたるものであることを認めざるを得ない。苟くも生命あるもの宜しく猛省すべきであらう。

底本:「狩野亨吉遺文集」岩波書店
   1958(昭和33)年11月1日第1刷
底本の親本:「岩波講座 世界思潮」第三册
   1928(昭和3)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2001年5月14日公開
2005年12月2日修正
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