上 一向専念の修業幾年
三尊四天王十二童子十六羅漢さては五百羅漢、までを胸中に蔵めて鉈小刀に彫り浮かべる腕前に、運慶も知らぬ人は讃歎すれども鳥仏師知る身の心耻かしく、其道に志す事深きにつけておのが業の足らざるを恨み、爰日本美術国に生れながら今の世に飛騨の工匠なしと云わせん事残念なり、珠運命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈ケを尽してせめては我が好の心に満足さすべく、且は石膏細工の鼻高き唐人めに下目で見られし鬱憤の幾分を晴らすべしと、可愛や一向専念の誓を嵯峨の釈迦に立し男、齢は何歳ぞ二十一の春是より風は嵐山の霞をなぐって腸断つ俳諧師が、蝶になれ/\と祈る落花のおもしろきをも眺むる事なくて、見ぬ天竺の何の花、彫りかけて永き日の入相の鐘にかなしむ程凝り固っては、白雨三条四条の塵埃を洗って小石の面はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水に、瓜浸して食いつゝ歯牙香と詩人の洒落る川原の夕涼み快きをも余所になし、徒らに垣をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀の切り屑蚊遣りに焼きて是も余徳とあり難かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入らず、硝子越しの雪見に昆布を蒲団にしての湯豆腐を粋がる徒党にも加わらねば、まして島原祇園の艶色には横眼遣い一トつせず、おのが手作りの弁天様に涎流して余念なく惚れ込み、琴三味線のあじな小歌は聞もせねど、夢の中には緊那羅神の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩の魂魄も乗り移らでやあるべき。かくて三年ばかり浮世を驀直に渡り行れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備っての稟賦、雪をまろめて達摩を作り大根を斬りて鷽の形を写しゝにさえ、屡人を驚かせしに、修業の功を積し上、憤発の勇を加えしなれば冴し腕は愈々冴え鋭き刀は愈鋭く、七歳の初発心二十四の暁に成道して師匠も是までなりと許すに珠運は忽ち思い立ち独身者の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠が跡訪わんと少し許の道具を肩にし、草鞋の紐の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。
下 苦労は知らず勉強の徳
汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、菅笠は街道の埃に赤うなって肌着に風呂場の虱を避け得ず、春の日永き畷に疲れては蝶うら/\と飛ぶに翼羨ましく、秋の夜は淋しき床に寝覚めて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き荒み熱砂顔にぶつかる時眼を閉ぎてあゆめば、邪見の喇叭気を注けろがら/\の馬車に胆ちゞみあがり、雨降り切りては新道のさくれ石足を噛むに生爪を剥し悩むを胴慾の車夫法外の価を貪り、尚も並木で五割酒銭は天下の法だとゆする、仇もなさけも一日限りの、人情は薄き掛け蒲団に襟首さむく、待遇は冷な平の内に蒟蒻黒し。珠運素より貧きには馴れても、加茂川の水柔らかなる所に生長て初て野越え山越えのつらきを覚えし草枕、露に湿りて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を遶るに無残や郭公待もせぬ耳に眠りを切って破れ戸の罅隙に、我は顔の明星光りきらめくうら悲しさ、或は柳散り桐落て無常身に染る野寺の鐘、つく/″\命は森林を縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに付ても志願を遂ぐる道遠しと意馬に鞭打ち励ましつ、漸く東海道の名刹古社に神像木仏梁欄間の彫りまで見巡りて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の楽は奈良じゃと急ぎ登り行く碓氷峠の冬最中、雪たけありて裾寒き浅間下ろしの烈しきにめげず臆せず、名に高き和田塩尻を藁沓の底に踏み蹂り、木曾路に入りて日照山桟橋寝覚後になし須原の宿に着にけり。
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第一 如是相
書けぬ所が美しさの第一義諦
名物に甘き物ありて、空腹に須原のとろゝ汁殊の外妙なるに飯幾杯か滑り込ませたる身体を此尽寝さするも毒とは思えど為る事なく、道中日記注け終いて、のつそつしながら煤びたる行燈の横手の楽落を読ば山梨県士族山本勘介大江山退治の際一泊と禿筆の跡、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御わざくれ、おかしき計りかあわれに覚えて初対面から膝をくずして語る炬燵に相宿の友もなき珠運、微なる埋火に脚をり、つくねんとして櫓の上に首投かけ、うつら/\となる所へ此方をさして来る足音、しとやかなるは踵に亀裂きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖越しのやさしき声に胸ときめき、為かけた欠伸を半分噛みて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙する/\と開き丁寧に辞義して、冬の日の木曾路嘸や御疲に御座りましょうが御覧下され是は当所の名誉花漬今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中、色もあせずに居りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳を信濃へ向けて人知らぬ寒さを知られし都の御方へ御土産にと心憎き愛嬌言葉商買の艶とてなまめかしく売物に香を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴れて渋らず、さりとて軽佻にもなきとりなし、持ち来りし包静にひらきて二箱三箱差し出す手つきしおらしさに、花は余所になりてうつゝなく覗き込む此方の眼を避けて背向くる顔、折から透間洩る風に燈火動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我折れ深山に是は何物。
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第二 如是体
粋の羯羅藍と実の阿羅藍
見て面白き世の中に聞て悲しき人の上あり。昔は此京にして此妓ありと評判は八坂の塔より高く其名は音羽の滝より響きし室香と云える芸子ありしが、さる程に地主権現の花の色盛者必衰の理をのがれず、梅岡何某と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契を込め、浅からぬ中となりしより他の恋をば贔負にする客もなく、線香の煙り絶々になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥にしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組何の怖い事なく三筋取っても一筋心に君さま大事と、時を憚り世を忍ぶ男を隠匿し半年あまり、苦労の中にも助る神の結び玉いし縁なれや嬉しき情の胤を宿して帯の祝い芽出度舒びし眉間に忽ち皺の浪立て騒がしき鳥羽伏見の戦争。さても方様の憎い程な気強さ、爰なり丈夫の志を遂ぐるはと一ト群の同志を率いて官軍に加わらんとし玉うを止むるにはあらねど生死争う修羅の巷に踏入りて、雲のあなたの吾妻里、空寒き奥州にまで帰る事は云わずに旅立玉う離別には、是を出世の御発途と義理で暁して雄々しき詞を、口に云わする心が真情か、狭き女の胸に余りて案じ過せば潤む眼の、涙が無理かと、粋ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する内日は消て愈となり、義経袴に男山八幡の守りくけ込んで愚なと笑片頬に叱られし昨日の声はまだ耳に残るに、今、今の御姿はもう一里先か、エヽせめては一日路程も見透したきを役立ぬ此眼の腹立しやと門辺に伸び上りての甲斐なき繰言それも尤なりき。一ト月過ぎ二タ月過ても此恨綿々ろう/\として、筑紫琴習う隣家の妓がうたう唱歌も我に引き較べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済して貰い度しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合、返答も力無や男松を離れし姫蔦の、斯も世の風に嬲らるゝ者かと俯きて、横眼に交張りの、袋戸に広重が絵見ながら、悔しいにつけゆかしさ忍ばれ、方様早う帰って下されと独言口を洩るれば、利足も払わず帰れとはよく云えた事と吠付れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹には大事の/\我子ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様の紀念、唐土には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜の物語りに聞しに此ありさまの口惜と腸を断つ苦しさ。天女も五衰ぞかし、玳瑁の櫛、真珠の根掛いつか無くなりては華鬘の美しかりける俤とどまらず、身だしなみ懶くて、光ると云われし色艶屈托に曇り、好みの衣裳数々彼に取られ是に易えては、着古しの平常衣一つ、何の焼かけの霊香薫ずべきか、泣き寄りの親身に一人の弟は、有っても無きに劣る賭博好き酒好き、落魄て相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆計り、あじきなく暮らす中月満て産声美しく玉のような女の子、辰と名付られしはあの花漬売りなりと、是も昔は伊勢参宮の御利益に粋という事覚えられしらしき宿屋の親爺が物語に珠運も木像ならず、涙掃って其後を問えば、御待なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋しゅうなりました。
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第三 如是性
上 母は嵐に香の迸る梅
山家の御馳走は何処も豆腐湯波干鮭計りなるが今宵はあなたが態々茶の間に御出掛にて開化の若い方には珍らしく此兀爺の話を冒頭から潰さずに御聞なさるが快ければ、夜長の折柄お辰の物語を御馳走に饒舌りましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し上て軽薄な京の人イヤ是は失礼、やさしい京の御方の涙を木曾に落さ落させよう者を惜しい事には前歯一本欠けた所から風が洩れて此春以来御文章を読も下手になったと、菩提所の和尚様に云われた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は空抜にしてと断りながら、青内寺煙草二三服馬士張りの煙管にてスパリ/\と長閑に吸い無遠慮に榾さし焼べて舞い立つ灰の雪袴に落ち来るをぽんと擲きつ、どうも私幼少から読本を好きました故か、斯いう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、人我の差別も分り憎くなると孫共に毎度笑われまするが御聞づらくも癖ならば癖ぞと御免なされ。さてもそののち室香はお辰を可愛しと思うより、情には鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる三味の撥、再び握っても色里の往来して白痴の大尽、生な通人めらが間の周旋、浮れ車座のまわりをよくする油さし商売は嫌なりと、此度は象牙を柊に易えて児供を相手の音曲指南、芸は素より鍛錬を積たり、品行は淫ならず、且は我子を育てんという気の張あればおのずから弟子にも親切あつく良い御師匠様と世に用いられて爰に生計の糸道も明き細いながら炊煙絶せず安らかに日は送れど、稽古する小娘が調子外れの金切声今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の屡なるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて稼ぐありさま余所の眼さえ是を見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは方様の其後何の便もなく、手紙出そうにも当所分らず、まさかに親子笈づるかけて順礼にも出られねば逢う事は夢に計り、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや流丸にでも中られて亡くなられたか、茶絶塩絶きっとして祈るを御存知ない筈も無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と一所にこぼるゝ涙流れて止らぬ月日をいつも/\憂いに明し恨に暮らして我齢の寄るは知ねども、早い者お辰はちょろ/\歩行、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、遂に三歳の秋より引き取って膝下に育れば、少しは紛れて貧家に温き太陽のあたる如く淋しき中にも貴き笑の唇に動きしが、さりとては此子の愛らしきを見様とも仕玉わざるか帰家れざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、父様御帰りになった時は斯して為る者ぞと教えし御辞誼の仕様能く覚えて、起居動作のしとやかさ、能く仕付たと誉らるゝ日を待て居るに、何処の竜宮へ行かれて乙姫の傍にでも居らるゝ事ぞと、少しは邪推の悋気萌すも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき情なるに、天道怪しくも是を恵まず。運は賽の眼の出所分らぬ者にてお辰の叔父ぶんなげの七と諢名取りし蕩楽者、男は好けれど根性図太く誰にも彼にも疎まれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね漂泊あるきの渡り大工、段々と美濃路を歴て信濃に来り、折しも須原の長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を付ろと棟梁の差図には従えど、墨縄の直なには傚わぬ横道、お吉様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな濡を仕掛け、鉋屑に墨さし思を云わせでもしたるか、とう/\そゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に暗んで男の性質も見分ぬ長者のえせ粋三国一の狼婿、取って安堵したと知らぬが仏様に其年なられし跡は、山林家蔵椽の下の糠味噌瓶まで譲り受けて村中寄り合いの席に肩ぎしつかせての正坐、片腹痛き世や。あわれ室香はむら雲迷い野分吹く頃、少しの風邪に冒されてより枕あがらず、秋の夜冷に虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り寝覚の床淋しく、自ら露霜のやがて消ぬべきを悟り、お辰素性のあらまし慄う筆のにじむ墨に覚束なく認めて守り袋に父が書き捨の短冊一トひらと共に蔵めやりて、明日をもしれぬ我がなき後頼りなき此子、如何なる境界に落るとも加茂の明神も御憐愍あれ、其人命あらば巡り合せ玉いて、芸子も女なりやさしき心入れ嬉しかりきと、方様の一言を草葉の蔭に聞せ玉えと、遙拝して閉じたる眼をひらけば、燈火僅に蛍の如く、弱き光りの下に何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう十計りも大きゅうして銀杏髷結わしてから死にたしと袖を噛みて忍び泣く時お辰魘われてアッと声立て、母様痛いよ/\坊の父様はまだ帰えらないかえ、源ちゃんが打つから痛いよ、父の無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ道理じゃと抱き寄すれば其儘すや/\と睡るいじらしさ、アヽ死なれぬ身の疾病、是ほどなさけなき者あろうか。
下 子は岩蔭に咽ぶ清水よ
格子戸がら/\とあけて閉る音は静なり。七蔵衣装立派に着飾りて顔付高慢くさく、無沙汰謝るにはあらで誇り気に今の身となりし本末を語り、女房に都見物致させかた/″\御近付に連て参ったと鷹風なる言葉の尾につきて、下ぐる頭低くしとやかに。妾めは吉と申す不束な田舎者、仕合せに御縁の端に続がりました上は何卒末長く御眼かけられて御不勝ながら真実の妹とも思しめされて下さりませと、演る口上に樸厚なる山家育ちのたのもしき所見えて室香嬉敷、重き頭をあげてよき程に挨拶すれば、女心の柔なる情ふかく。姉様の是ほどの御病気、殊更御幼少のもあるを他人任せにして置きまして祇園清水金銀閣見たりとて何の面白かるべき、妾は是より御傍さらず[#「ず」は底本では「す」]御看病致しましょと云えば七蔵顔膨らかし、腹の中には余計なと思い乍ら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ丈ケは旅宿に帰るべしといって其晩は夜食の膳の上、一酌の酔に浮れてそゞろあるき、鼻歌に酒の香を吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か川端あたりに止まりし事あさまし。室香はお吉に逢いてより三日目、我子を委ぬる処を得て気も休まり、爰ぞ天の恵み、臨終正念たがわず、安かなる大往生、南無阿弥陀仏は嬌喉に粋の果を送り三重、鳥部野一片の烟となって御法の風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩一員増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様随喜の涙を落されし。お吉其儘あるべきにあらねば雇い婆には銭やって暇取らせ、色々片付るとて持仏棚の奥に一つの包物あるを、不思議と開き見れば様々の貨幣合せて百円足らず、是はと驚きて能々見るに、我身万一の時お辰引き取って玉わる方へせめてもの心許りに細き暮らしの中より一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに置れべきかと、遂に五歳のお辰をつれて夫と共に須原に戻りけるが、因果は壺皿の縁のまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の食物となりて痩せる身代の行末を気遣い、女房うるさく異見すれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て穴熊毛綱の手品にかゝる我ならねば負くる計りの者にはあらずと駈出して三日帰らず、四日帰らず、或は松本善光寺又は飯田高遠あたりの賭場あるき、負れば尚も盗賊に追い銭の愚を尽し、勝てば飯盛に祝い酒のあぶく銭を費す、此癖止めて止まらぬ春駒の足掻早く、坂道を飛び下るより迅に、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、齢は僅に十の冬、お辰浮世の悲みを知りそめ叔父の帰宅らぬを困り途方に暮れ居たるに、近所の人々、彼奴め長久保のあやしき女の許に居続して妻の最期を余所に見る事憎しとてお辰をあわれみ助け葬式済したるが、七蔵此後愈身持放埒となり、村内の心ある者には爪はじきせらるゝをもかまわず遂に須原の長者の家敷も、空しく庭中の石燈籠に美しき苔を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅の梢吹く風の音ばかり、今の耳にも替らずして、直其傍なる荒屋に住いぬるが、さても下駄の歯と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一トつ満足なる者なき中にも盃のみ欠かけず、柴木へし折って箸にしながら象牙の骰子に誇るこそ愚なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽の雪の肌清らかに、石楠の花の顔気高く生れ付てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞ては山抜け雪流より恐ろしくおぞ毛ふるって思い止れば、二十を越して痛ましや生娘、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中の旅籠屋廻りて、元は穢多かも知れぬ客達にまで嬲られながらの花漬売、帰途は一日の苦労の塊り銅貨幾箇を酒に易えて、御淋しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌取りどり笑顔してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度も上田の娼妓になれと云い掛しよし。さりとては胴慾な男め、生餌食う鷹さえ暖め鳥は許す者を。
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第四 如是因
上 忘られぬのが根本の情
珠運は種々の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵覚えて屋の角に鳴る山風寒さ一段身に染み、胸痛きまでの悲しさ我事のように鼻詰らせながら亭主に礼云いておのが部屋に戻れば、忽気が注は床の間に二タ箱買ったる花漬、衣脱ぎかえて転りと横になり、夜着引きかぶればあり/\と浮ぶお辰の姿、首さし出して眼をひらけば花漬、閉ればおもかげ、是はどうじゃと呆れてまた候眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠越えて中津川迄行かんとするに、能く休までは叶わじと行燈吹き消し意を静むるに、又しても其美形、エヽ馬鹿なと活と見ひらき天井を睨む眼に、此度は花漬なけれど、闇はあやなしあやにくに梅の花の香は箱を洩れてする/\と枕に通えば、何となくときめく心を種として咲も咲たり、桃の媚桜の色、さては薄荷菊の花まで今真盛りなるに、蜜を吸わんと飛び来る蜂の羽音どこやらに聞ゆる如く、耳さえいらぬ事に迷っては愚なりと瞼堅く閉じ、掻巻頭を蔽うに、さりとては怪しからず麗しき幻の花輪の中に愛矯を湛えたるお辰、気高き計りか後光朦朧とさして白衣の観音、古人にも是程の彫なしと好な道に慌惚となる時、物の響は冴ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠の騒ぎ、憎し、寝られぬ。
下 思いやるより増長の愛
裏付股引に足を包みて頭巾深々とかつぎ、然も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼惣掛になし其上首筋胴の周囲、手拭にて動がぬ様縛り、鹿の皮の袴に脚半油断なく、足袋二枚はきて藁沓の爪先に唐辛子三四本足を焼ぬ為押し入れ、毛皮の手甲して若もの時の助けに足橇まで脊中に用意、充分してさえ此大吹雪、容易の事にあらず、吼立る天津風、山山鳴動して峰の雪、梢の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間に路を埋め、脛を埋め、鼻の孔まで粉雪吹込んで水に溺れしよりまだ/\苦し、ましてや准備おろかなる都の御客様なんぞ命惜くば御逗留なされと朴訥は仁に近き親切。なるほど話し聞てさえ恐ろしければ珠運別段急ぐ旅にもあらず。されば今日丈の厄介になりましょうと尻を炬燵に居て、退屈を輪に吹く煙草のけぶり、ぼんやりとして其辺見回せば端なく眼につく柘植のさし櫛。さては花漬売が心づかず落し行しかと手に取るとたん、早や其人床しく、昨夕の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯お辰可愛く、おれが仏なら、七蔵頓死さして行衛しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省よりは貞順善行の緑綬紅綬紫綬、あり丈の褒章頂かせ、小説家には其あわれおもしろく書かせ、祐信長春等を呼び生して美しさ充分に写させ、そして日本一大々尽の嫁にして、あの雑綴の木綿着を綾羅錦繍に易え、油気少きそゝけ髪に極上々正真伽羅栴檀の油付させ、握飯ほどな珊瑚珠に鉄火箸ほどな黄金脚すげてさゝしてやりたいものを神通なき身の是非もなし、家財売て退けて懐中にはまだ三百両余あれど是は我身を立る基、道中にも片足満足な草鞋は捨ぬくらい倹約して居るに、絹絞の半掛一トつたりとも空に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女に結縁の良き方便もがな、噫思い付たりと小行李とく/\小刀取出し小さき砥石に鋒尖鋭く礪ぎ上げ、頓て櫛の棟に何やら一日掛りに彫り付、紙に包んでお辰来らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様め、おかしき所業あてが外れて其晩吹雪尚やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜る如く、逢わざるに思は積りて愈なつかしく、我は薄暗き部屋の中、煤びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破れぬ畳の上に坐し、去歳の春すが漏したるか怪しき汚染は滝の糸を乱して画襖の李白の頭に濺げど、たて付よければ身の毛立程の寒さを透間に喞ちもせず、兎も角も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自悲を知るに、ふびんや少女の、あばら屋といえば天井も無かるべく、屋根裏は柴焼く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口の如き煤は高山の樹にかゝれる猿尾枷のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪引詰に結うて、腸見えたるぼろ畳の上に、香露凝る半に璧尚な細軟な身体を厭いもせず、なよやかにおとなしく坐りて居る事か、人情なしの七蔵め、多分小鼻怒らし大胡坐かきて炉の傍に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子の大どてら着て、充分酒にも暖りながら分を知らねばまだ足らず、炉の隅に転げて居る白鳥徳利の寐姿忌しそうに睨めたる眼をジロリと注ぎ、裁縫に急がしき手を止さして無理な吩附、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄う歟唇、それに用捨もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨露れし壁一重、たるみの出来たる筵屏風、あるに甲斐なく世を経れば貧には運も七分凍りて三分の未練を命に生るか、噫と計りに夢現分たず珠運は歎ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消ざる炬燵に足の先冷かりき。
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第五 如是作
上 我を忘れて而生其心
よしや脊に暖ならずとも旭日きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼も眩む許りの美しさ、物腥き西洋の塵も此処までは飛で来ず、清浄潔白実に頼母敷岐蘇路、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是も神代を其儘と詰らぬ者をも面白く感ずるは、昨宵の嵐去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運梅干渋茶に夢を拭い、朝飯[#「飯」は底本では「飲」]平常より甘く食いて泥を踏まぬ雪沓軽く、飄々と立出しが、折角吾志を彫りし櫛与えざるも残念、家は宿の爺に聞て街道の傍を僅折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果せる哉縦の木高く聳えて外囲い大きく如何にも須原の長者が昔の住居と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃の風吹き曲めたる荒屋あり。近付くまゝに中の様子を伺えば、寥然として人のありとも想われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付て聞けば竊々とやくような音、愈あやしく尚耳を澄せば啜り泣する女の声なり。さては邪見な七蔵め、何事したるかと彼此さがして大きなる節の抜けたる所より覗けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利夫人とさえ此珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷らしき縄からげ、後の柱のそげ多きに手荒く縛し付け、薄汚なき手拭無遠慮に丹花の唇を掩いし心無さ、元結空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪恨は長く垂れて顔にかゝり、衣引まくれ胸あらわに、膚は春の曙の雪今や消入らん計り、見るから忽ち肉動き肝躍って分別思案あらばこそ、雨戸蹴ひらき飛込で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥まで忙しく、手拭を棄て、縄を解き、懐中より櫛取り出して乱れ髪梳けと渡しながら冷え凍りたる肢体を痛ましく、思わず緊接抱き寄せて、嘸や柱に脊中がと片手に摩で擦するを、女あきれて兎角の詞はなく、ジッと此方の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一ト足離れ退くとたん、其辺の畳雪だらけにせし我沓にハッと気が注き、訳も分らず其まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝突かんとしてドッコイ、是は仕たり、蝙蝠傘手荷物忘れたかと跡もどりする時、お辰門口に来り袖を捉えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑なんぞの詰らぬ者に眼を注ぎ上り端に腰かければ、しとやかに下げたる頭よくも挙げ得ず。あなたは亀屋に御出なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救下されたは真にあり難けれど、到底遁れぬ不仕合と身をあきらめては断念なかった先程までの愚が却って口惜う御座りまする、訳も申さず斯う申しては定めて道理の分らぬ奴めと御軽侮も耻しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解て下さった方に御礼も能は致さず、無理な願を申すも真に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外の言葉に珠運驚き、是は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面御頼み、縛った奴を打てとでも云うのならば痩腕に豆計の力瘤も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩絶間なく感心しつめて天晴菩薩と信仰して居る御前様を、縛ることは赤旃檀に飴細工の刀で彫をするよりまだ難し、一昨日の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞て、失礼ながら愍然な事や、私が神か仏ならば、斯もしてあげたい彼もしてやり度と思いましたが、それも出来ねばせめては心計、一日肩を凝らして漸く其彫をしたも、若や御髪にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉しい事と態々持参して来て見れば他にならぬ今のありさま、出過たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼か、金輪奈落其様な義は御免蒙ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫に彫たり、厚は僅に一分に足らず、幅は漸く二分計り、長さも左のみならざる棟に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷の花の眼も及ばぬまで濃きを浮き彫にして香う計り、そも此人は如何なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳は通い、竊に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉濃からずして末秀で、眼に一点の濁りなきのみか、形状の外におのずから賎しからぬ様露れて、其親切なる言葉、そもや女子の嬉しからぬ事か。
中 仁はあつき心念口演
身を断念てはあきらめざりしを口惜とは云わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵は奥歯噛みしめて思い切る事ぞかし、到底遁れぬ不仕合と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合っても人情には外れた言葉が御前のその美しい唇から出るも、思えば苦しい仔細があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立しい三世相、何の因果を誰が作って、花に蜘蛛の巣お前に七蔵の縁じゃやらと、天燈様まで憎うてならぬ此珠運、相談の敵手にもなるまいが痒い脊中は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体を縛ってと云うのでない注文ならば天窓を破って工夫も仕様が一体まあどうした訳か、強て聞でも無れど此儘別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞た上でどうなりと有丈の力喜んで尽しましょうと云れてお辰は、叔父にさえあさましき難題云い掛らるゝ世の中に赤の他人で是ほどの仁、胸に堪えてぞっとする程嬉し悲しく、咽せ返りながら、吃と思いかえして、段々の御親切有り難は御座りまするが妾身の上話しは申し上ませぬ、否や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御察し下され、眼上と折り合ねば懲らしめられた計の事、諄々と黒暗の耻を申てあなたの様な情知りの御方に浅墓な心入と愛想つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意蔑にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤んで七生忘れませぬ、女子の世に生れし甲斐今日知りて此嬉しさ果敢なや終り初物、あなたは旅の御客、逢も別れも旭日があの木梢離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野馬籠あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶わず、斯云う中にも叔父様帰られては面倒、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身の為、御迷惑かけては済ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望ありながら、と跡の一句は口に洩れず、薄紅となって顔に露るゝ可愛さ、珠運の身になってどうふりすてらるべき。仮令叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘左様ならと指をえて退くはなんぼ上方産の胆玉なしでも仕憎い事、殊更最前も云うた通りぞっこん善女と感じて居る御前の憂目を余所にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後を考えて大方は分って居るから兎も角も私の云事に付たがよい、悪気でするではなし、私の詞を立て呉れても女のすたるでもあるまい、斯しましょ、是からあの正直律義は口つきにも聞ゆる亀屋の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒を明ましょう、親類でも無い他人づらが要らぬ差出た才覚と思わるゝか知らぬが、妹という者持ても見たらば斯も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼に見えた艱難の淵に沈むを見ては居られぬ、何私が善根為たがる慾じゃと笑うて気を大きく持がよい、さあ御出と取る手、振り払わば今川流、握り占なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類珍重嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時は嘘なりしなるべし。
下 弱に施すに能以無畏
コレ吉兵衛、御談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七様、昔は密男拐帯も仕てのけたが、穏当なって姪子を売るのではない養女だか妾だか知らぬが百両で縁を切で呉れろという人に遣る計の事、それをお辰が間夫でもあるか、小間癪れて先の知れぬ所へ行は否だと吼顔かいて逃でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間一寸縛って置たのだ、珠運とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障。七、七、静にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中での誉者、妙齢になっても白粉一トつ付ず、盆正月にもあらゝ木の下駄一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断能も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切を貴様に噛んで涙をお辰に飜すは、姑に凍飯[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話聞ては急に角を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上ましょうかと老人の機嫌を取る気になるぞ、それを先度も上田の女衒に渡そうとした人非人め、百両の金が何で要るか知らぬがあれ程の悌順女を金に易らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情が半分汲めたならそんな事云わずに有難涙に咽びそうな者。オイ、亀屋の旦那、おれとお吉と婚礼の媒妁役して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介になろうとは申ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処へ御出なされ、七が眼尻が上らぬうち温直になされた方が御為かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴に頼まれて口をきく計りじゃ、おれは当人じゃ無れば取計いかねると仰ゃるならば其男に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運立出、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮張りて一ト癖確にある悪物、膝すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生弱々しい顔をして能もお辰を拐帯した、若いには似ぬ感心な腕、併し若いの、闘鶏の前では地鶏はひるむわ、身の分限を知たなら尻尾をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売せたくなければ御相談。ふざけた囈語は置てくれ。コレ七、静に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体小癪な旅烏と振りあぐる拳。アレと走り出るお辰、吉兵衛も共に止ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧の無い男、無理に売ずとも相談のつきそうな者を。フ相談付ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉え立上る裙を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買するというは今日の理に外れた事、娼妓にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾しいわ、老耄、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞った、変改はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵り小兎攫む鷲の眼ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是までと口を噤むありさま珠運口惜く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐に逢いて露脆く、此方に向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添立出る二タ足三足め、又後ふり向きし其あわれさ、八幡命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚にも関わず、手続油断なく此悪人と善女の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
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第六 如是縁
上 種子一粒が雨露に養わる
自分妾狂しながら息子の傾城買を責る人心、あさましき中にも道理ありて、七の所業誰憎まぬ者なければ、酒呑で居ても彼奴娘の血を吮うて居るわと蔭言され、流石の奸物も此処面白からず、荒屋一トつ遺して米塩買懸りの云訳を家主亀屋に迷惑がらせ何処ともなく去りける。珠運も思い掛なく色々の始末に七日余り逗留して、馴染につけ亭主頼もしく、お辰可愛く、囲炉裏の傍に極楽国、迦陵頻伽の笑声睦じければ客あしらいされざるも却て気楽に、鯛は無とも玉味噌の豆腐汁、心協う同志安らかに団坐して食う甘さ、或は山茶も一時の出花に、長き夜の徒然を慰めて囲い栗の、皮剥てやる一顆のなさけ、嬉気に賞翫しながら彼も剥きたるを我に呉るゝおかしさ。実に山里も人情の暖さありてこそ住ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早幾日か過ぬ、奈良という事臆い起しては空しく遊び居るべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出んというに亭主呆れて、是は是は、婚礼も済ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉え。あなたならで誰とゝ云れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉え、私約束したる覚なし。イヤ怪しからぬ野暮を云るゝは都の御方にも似ぬ、今時の若者がそれではならぬ、さりとては百両投出て七蔵にグッとも云わせなかった捌き方と違っておぼこな事、それは誰しも耻かしければ其様にまぎらす者なれど、何も紛すにも及ばず[#「ず」は底本では「す」]、爺が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御待なされと何やら独呑込の様子、合点ならねば、是是御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様なぞとは一厘も思わず、忍びかねて難義を助たる計の事、旅の者に女房授けられては甚だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問音曲のたしなみ無とも縫針暗からず、女の道自然と弁えておとなしく、殿御を大事にする事請合のお辰を迷惑とは、両柱の御神以来図ない議論、それは表面、真を云えば御前の所行も曰くあってと察したは年の功、チョン髷を付て居ても粋じゃ、実はおれもお前のお辰に惚たも善く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様の上手なに感心して居るから、媼とも相談して支度出来次第婚礼さする積じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立て行きゃれ、おれも昔は脇差に好をして、媼も鏡を懐中してあるいた頃、一世一代の贅沢に義仲寺をかけて六条様参り一所にしたが、旅ほど嚊が可愛うておもしろい事はないぞ、いまだに其頃を夢に見て後での話しに、此間も嫗に真夜中頃入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓つるりとなでし。
中 実生二葉は土塊を抽く
我今まで恋と云う事為たる覚なし。勢州四日市にて見たる美人三日眼前にちらつきたるが其は額に黒痣ありてその位置に白毫を付なばと考えしなり。東京天王寺にて菊の花片手に墓参りせし艶女、一週間思い詰しが是も其指つきを吉祥菓持せ玉う鬼子母神に写してはと工夫せしなり。お辰を愛しは修業の足しにとにはあらざれど、之を妻に妾に情婦になどせんと思いしにはあらず、強いて云わば唯何となく愛し勢に乗りて百両は与しのみ、潔白の我心中を忖る事出来ぬ爺めが要ざる粋立馬鹿々々し、一生に一つ珠運が作意の新仏体を刻まんとする程の願望ある身の、何として今から妻など持べき、殊にお辰は叔父さえなくば大尽にも望まれて有福に世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと決定し、置手紙にお辰宛て少許の恩を伽に御身を娶らんなどする賎しき心は露持たぬ由を認め、跡は野となれ山路にかゝりてテク/\歩行。さても変物、此男木作りかと譏る者は肉団奴才、御釈迦様が女房捨て山籠せられしは、耆婆も匕を投た癩病、接吻の唇ポロリと落しに愛想尽してならんなど疑う儕輩なるべし、あゝら尊し、尊し、銀の猫捨た所が西行なりと喜んで誉むる輩是も却て雪のふる日の寒いのに気が付ぬ詮義ならん。人間元より変な者、目盲てから其昔拝んだ旭日の美しきを悟り、巴里に住んでから沢庵の味を知るよし。珠運は立鳥の跡ふりむかず、一里あるいた頃不図思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人と後見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと袂取る様子、慥にお辰と見れば又人も居らず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、遂には其顔見たくなりて寧帰ろうかと一ト足後へ、ドッコイと一二町進む内、むか/\と其声聞度て身体の向を思わずくるりと易る途端道傍の石地蔵を見て奈良よ/\誤ったりと一町たらずあるく向より来る夫婦連の、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と会話仕度なって心なく一間許り戻りしを、愚なりと悟って半町歩めば我しらず迷に三間もどり、十足あるけば四足戻りて、果は片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物栗の強飯売家の牀几に腰打掛てまず/\と案じ始めけるが、箒木は山の中にも胸の中にも、有無分明に定まらず、此処言文一致家に頼みたし。
下 若木三寸で螻蟻に害う
世の中に病ちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。髭先のはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ眼鏡ゆゝしく、父母干渉の弊害を説まくりて御異見の口に封蝋付玉いしを一日粗造のブランディに腸加答児起して閉口頓首の折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが片栗湯こしらえた、食て見る気はないかと厚き介抱有難く、へこたれたる腹にお母の愛情を呑で知り、是より三十銭の安西洋料理食う時もケーク丈はポッケットに入れて土産となす様になる者ぞ、ゆめ/\美妙なる天の配剤に不足云うべからずと或人仰せられしは尤なりけり。珠運馬籠に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日計り苦む所へ吉兵衛とお辰尋ね来り様々の骨折り、病のよき汐を見計らいて駕籠安泰に亀屋へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪医者の薬も瑠璃光薬師より尊き善女の手に持たせ玉える茶碗にて呑まさるれば何利ざるべき、追々快方に赴き、初めてお辰は我身の為にあらゆる神々に色々の禁物までして平癒せしめ玉えと祷りし事まで知りて涙湧く程嬉しく、一ト月あまりに衰こそしたれ、床を離れて其祝義済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間の中に入り何事をか長らく語らいけん、出る時女の耳の根紅かりし。其翌日男真面目に媒妁を頼めば吉兵衛笑って牛の鞦と老人の云う事どうじゃ/\と云さして、元より其支度大方は出来たり、善は急いで今宵にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁入すればおれも一トつの善い功徳をする事ぞとホク/\喜び、忽ち下女下男に、ソレ膳を出せ椀を出せ、アノ銚子を出せ、なんだ貴様は蝶の折り様を知らぬかと甥子まで叱り飛して騒ぐは田舎気質の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男来りてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉くお辰あわただしく其男に連立て一寸と出しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来るに吉兵衛焦躁て八方を駈廻り探索すれば同業の方に止り居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦爰に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻なる行はお辰に限りて無りし者をと蜘手に思い屈する時、先程の男来りて再渡す包物、開て見れば、一筆啓上仕候未だ御意を得ず候え共お辰様身の上につき御厚情相掛られし事承り及びあり難く奉存候さて今日貴殿御計にてお辰婚姻取結ばせられ候由驚入申候仔細之あり御辰様儀婚姻には私方故障御座候故従来の御礼旁罷り出て相止申べくとも存候え共如何にも場合切迫致し居り且はお辰様心底によりては私一存にも参り難候様の義に至り候ては迷惑に付甚だ唐突不敬なれども実はお辰様を賺し申し此婚姻相延申候よう決行致し候尚又近日参上仕り入り込たる御話し委細申上べく心得に候え共差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候間御受納下され度候不悉 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵家従田原栄作とありて末書に珠運様とやらにも此旨御鶴声相伝られたく候と筆を止めたるに加えて二百円何だ紙なり。
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第七 如是報
我は飛来ぬ他化自在天宮に
オヽお辰かと抱き付かれたる御方、見れば髯うるわしく面清く衣裳立派なる人。ハテ何処にてか会いたる様なと思いながら身を縮まして恐々振り仰ぐ顔に落来る其人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨は父様かと早く悟りてすがる少女の利発さ、是にも室香が名残の風情忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌よろしゅうと言葉後力なく送られし時、跡ふりむきて今一言交したかりしを邪見に唇囓切て女々しからぬ風誰為にか粧い、急がでもよき足わざと早めながら、後見られぬ眼を恨みし別離の様まで胸に浮びて切なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我誤り、もう是からは花も売せぬ、襤褸も着せぬ、荒き風を其身体にもあてさせぬ、定めしおれの所業をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰た心も恋には緩んで、夜深に一人月を詠めては人しらぬ露窄き袖にあまる陣頭の淋しさ、又は総軍の鹿島立に馬蹄の音高く朝霧を蹴って勇ましく進むにも刀の鐺引かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎くなりしも情合の薄いからではなし、軍事の烈しさ江戸に乗り込んで足溜りもせず、奥州まで直押に推す程の勢、自然と焔硝の煙に馴ては白粉の薫り思い出さず喇叭の響に夢を破れば吾妹子が寝くたれ髪の婀娜めくも眼前にちらつく暇なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励み、凱歌の鋭気には乗じ、明ても暮ても肘を擦り肝を焦がし、饑ては敵の肉に食い、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅の巷に阿修羅となって働けば、功名一トつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚えめでたく追々の出世、一方の指揮となれば其任愈重く、必死に勤めけるが仕合に弾丸をも受けず皆々凱陣の暁、其方器量学問見所あり、何某大使に従って外国に行き何々の制度能々取調べ帰朝せば重く挙用らるべしとの事、室香に約束は違えど大丈夫青雲の志此時伸べしと殊に血気の雀躍して喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留、アヽ今頃は如何して居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く頬摺して膝の上に乗せ取り、護謨人形空気鉄砲珍らしき手玩具数々の家苞に遣って、喜ぶ様子見たき者と足をつま立て三階四階の高楼より日本の方角徒らに眺しも度々なりしが、岩沼卿と呼せらるる尊き御身分の御方、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて御子なき家の跡目に坐れとのあり難き仰せ、再三辞みたれど許されねば辞兼て承知し、共々嬉しく帰朝して我は軽からぬ役を拝命する計か、終に姓を冒して人に尊まるゝに付てもそなたが母の室香が情何忘るべき、家来に吩附て段々糺せば、果敢なや我と楽は分けで、彼岸の人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の為なれど、一トつは色紙のあたった小袖着て、塗の剥た大小さした見所もなき我を思い込んで女の捨難き外見を捨て、譏を関わず危きを厭わず、世を忍ぶ身を隠匿呉れたる志、七生忘れられず、官軍に馳参ぜんと、決心した我すら曇り声に云い出せし時も、愛情の涙は瞼に溢れながら義理の詞正しく、予ての御本望妾めまで嬉う存じますと、無理な笑顔も道理なれ明日知らぬ命の男、それを尚も大事にして余りに御髪のと髯月代人手にさせず、後に廻りて元結も〆力なき悲しさを奥歯に噛んできり/\と見苦しからず結うて呉れたる計か、おのが頭にさしたる金簪まで引抜き温みを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして玉わりし大事の/\女房に満足させて、昔の憂きを楽に語りたさの為なりしに、情無も死なれては、花園に牡丹広々と麗しき眺望も、細口の花瓶に唯二三輪の菊古流しおらしく彼が生たるを賞め、賞られて二人の微笑四畳半に籠りし時程は、今つくねんと影法師相手に独見る事の面白からず、栄華を誰と共に、世も是迄と思い切って後妻を貰いもせず、さるにても其子何処ぞと種々尋ねたれど漸くそなたを里に取りたる事ある嫗より、信濃の方へ行かれたという噂なりしと聞出したる計り、其筋の人に頼んでも何故か分らず、我外に子なければ年老る丈け愈恋しく信州にのみ三人も家従をやって捜させたるに、辛くも田原が探し出して七蔵という悪者よりそなた貰い受けんとしたるに、如何いう訳か邪魔入て間もなくそなたは珠運とか云う詰らぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦帰京て二度目にまた丁度行き着たる田原が聞て狼狽し、吾書捨て室香に紀念と遺せし歌、多分そなたが知て居るならんと手紙の末に書し頓智に釣り出し、それから無理に訳も聞かせず此処まで連て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴の婿取り、初孫の顔でも見たら夢の中にそなたの母に逢っても云訳があると今からもう嬉くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳着かゆさすれば、先刻内々戸の透から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿布子着せて置た親の耻しさ、小間物屋も呼せたれば追付来であろう、櫛簪何なりと好なのを取れ、着物も越後屋に望次第云付さするから遠慮なくお霜を使え、あれはそなたの腰元だから先刻の様に丁寧に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会や音楽会へも少し都風が分って来たら連て行ましょ。書物は読るかえ、消息往来庭訓までは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々、学問も良い師匠を付てさせようと、慈愛は尽ぬ長物語り、扨こそ珠運が望み通り、此女菩薩果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
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第八 如是力
上 楞厳呪文の功も見えぬ愛慾
古風作者の書そうな話し、味噌越提げて買物あるきせしあのお辰が雲の上人岩沼子爵様の愛娘と聞て吉兵衛仰天し、扨こそ神も仏も御座る世じゃ、因果覿面地ならしのよい所に蘿蔔は太りて、身持のよい者に運の実がなる程理に叶た幸福と無上に有難がり嬉しがり、一も二もなく田原の云事承知して、おのが勧めて婚姻さし懸たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運の腹聞ずとも知れてると万端埒明け、貧女を令嬢といわるゝように取計いたる後、先日の百両突戻して、吾当世の道理は知ねど此様な気に入らぬ金受取る事大嫌なり、珠運様への百両は慥に返したれど其人に礼もせぬ子爵から此親爺が大枚の礼貰は煎豆をまばらの歯で喰えと云わるゝより有難迷惑、御返し申ますと率直に云えば、否それは悪い合点、一酷にそう云われずと子爵からの御志、是非御取置下され、珠運様には別に御礼を申ますが姿の見えぬは御立なされたか、ナニ奥の坐敷に。左様なら一寸と革嚢さげて行かゝれば亭主案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖開きて初対面の挨拶了りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃よりの礼厚く演て子爵より礼の餽り物数々、金子二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文丈ケ受取りて其他には手も付ず、先日の百両まで其処に投出し顔しかめて。御持帰り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為た事を利を取ろう為の商法と思われてか片腹痛し、些許の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫より段々馴染につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互に嬉敷心底打明け荷物の多きさえ厭う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然に引攫い人の恋を夢にして貘に食せよという様な情なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜する程恨めしくは存じたれど、只今承れば御親子の間柄、大切の娘御を私風情の賎き者に嫁入してはと御家従のあなたが御心配なすッて連て行れたも御道理、決して私めが僣上に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申ませぬから、金円品物は吃度御持帰り下され、併しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽の雪は消ゆる事もあれ此念は消じ、アヽ否なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果は取乱して男の述懐。爰ぞ肝要、御主人の仰せ受て来た所なり。よしや此恋諏訪の湖の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔あやしく作り上唇屡甞ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度花漬売にならるゝ瀬も無るべければ、詰りあなたの無理な御望と云者、あなたも否なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生若い者の感情、追付変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何れかの貴族の若公を納らるゝ御積り、是も人の親の心になって御考なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解で御座りましょう、箇様申せばあなたとお辰様の情交を割く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就覚束なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方の御為かと存じます、併しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等の餽物親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰ったとて此儘にはならず、どうか条理の立様御分別なされて、枉ても枉ても、御受納と舌小賢しく云迯に東京へ帰ったやら、其後音沙汰なし。さても浮世や、猛き虎も樹の上の猿には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付さし、恐惶謹言させて子爵には一目置た挨拶させ差詰聟殿と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下と雲上の等差口惜し、珠運を易く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札で唇にかすがい膏打ような処置、遺恨千万、さりながら正四位何の某とあって仏師彫刻師を聟には為たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々仏師は光孝天皇是忠の親王等の系に出て定朝初めて綱位を受け、中々賎まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂凝しを彫像と云う程尊む技を為す吾、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛の角立て何の益なし、残念や無念やと癇癪の牙は噛めども食付所なければ、尚一段の憤悶を増して、果は腑甲斐なき此身惜からずエヽ木曾川の逆巻水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相変る夜半もありし。
下 化城諭品の諫も聴ぬ執着
痩たりや/\、病気揚句を恋に責られ、悲に絞られて、此身細々と心引立ず、浮藻足をからむ泥沼の深水にはまり、又は露多き苔道をあゆむに山蛭ひいやりと襟に落るなど怪しき夢計見て覚際胸あしく、日の光さえ此頃は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様恨む珠運、旅路にかりそめの長居、最早三月近くなるにも心付ねば、まして奈良[#「良」は底本では「見」]へと日課十里の行脚どころか家内をあるく勇気さえなく、昼は転寝勝に時々怪しからぬ囈語しながら、人の顔見ては戯談一トつ云わず、にやりともせず、世は漸く春めきて青空を渡る風長閑に、樹々の梢雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷いつの間にか失せ、軒伝う雫絶間なく白い者班に消えて、南向の藁屋根は去年の顔を今年初めて露せば、霞む眼の老も、やれ懐かしかったと喜び、水は温み下草は萌えた、鷹はまだ出ぬか、雉子はどうだと、終に若鮎の噂にまで先走りて若い者は駒と共に元気付て来る中に、さりとてはあるまじき鬱ぎ様。此跡ががらりと早変りして、さても/\和御寮は踊る振が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気にでも成れまい者でもなしと亀屋の爺心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪田の中に踏込んだ様にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻り合かもしれぬ、目印の柳の下で平常魚は釣れぬ代り、思いよらぬ蛤の吸物から真珠を拾い出すと云う諺があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他にもある者を、と詞おかしく、兀頭の脳漿から天保度の浮気論主意書という所を引抽き、黴の生た駄洒落を熨斗に添て度々進呈すれど少しも取り容れず、随分面白く異見を饒舌っても、却って珠運が溜息の合の手の如くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目に理屈しんなり諄々と説諭すれば、不思議やさしも温順き人、何にじれてか大薩摩ばりばりと語気烈しく、要らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関わず置ば当世時花らぬ恋の病になるは必定、如何にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧、経帷子で吾家を出立するようにならぬ内追払おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎も角も、我口から事仕出した上は我分別で結局を付ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象ぞかし。年は老るべきもの流石古兵の斥候虚実の見所誤らず畢竟手に仕業なければこそ余計な心が働きて苦む者なるべしと考えつき、或日珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉え我昨夜の夢に、金襖立派なる御殿の中、眼もあやなる美しき衣裳着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其鬢付襟足のしおらしさ、後からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯は置ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより椽側に片手つきてそっと横顔拝めば、驚たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更憂を含む工合凄味あるに総毛立ながら尚能くそこら見廻せば、床に掛られたる一軸誰あろうおまえの姿絵故少し妬くなって一念の無明萌す途端、椽の下から顕れ出たる八百八狐付添て己[#「己」は底本では「已」]《おれ》の踵を覗うから、此奴たまらぬと迯出す後から諏訪法性の冑だか、粟八升も入る紙袋だかをスポリと被せられ、方角さらに分らねば頻と眼玉を溌々したらば、夜具の袖に首を突込んで居たりけりさ、今の世の勝頼さま、チト御驕りなされ、アハヽヽと笑い転げて其儘坐敷をすべり出しが、跡は却て弥寂しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事彼事寂然と柱にれながら思ううち、瞼自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を伸して裙捉えんとするを、果敢なや、幻の空に消えて遺るは恨許り、爰にせめては其面影現に止めんと思いたち、亀屋の亭主に心添られたるとは知らで自善事考え出せし様に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間欲しとならばお辰住居たる家尚能らん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々一ト月位住うには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄うより外に人を通わせぬよう致しますか、然し余り牢住居の様ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞丈けは節々上ましょう、ハテ要らぬとは悪い合点、気の尽た折は是非世間の面白可笑いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑し気に恋人の住し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良木なく百方索したれど見当らねば厚き檜の大きなる古板を与えぬ。
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第九 如是果
上 既に仏体を作りて未得安心
勇猛精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼と真心を凝し肝胆を砕きて三拝一鑿九拝一刀、刻み出せし木像あり難や三十二相円満の当体即仏、御利益疑なしと腥き和尚様語られしが、さりとは浅い詮索、優鈿大王とか饂飩大王とやらに頼まれての仕事、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片の飛込も構わず、恐れ惶みてこそ作りたれ、恭敬三昧の嬉き者ならぬは、御本尊様の前の朝暮の看経には草臥を喞たれながら、大黒の傍に下らぬ雑談には夜の更るをも厭い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸玉泡沫夢幻の世に楽を為では損と帳場の金を攫み出して御歯涅溝の水と流す息子なりしとかや。珠運は段々と平面板に彫浮べるお辰の像、元より誰に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯恋しさに余りての業、一刀削ては暫く茫然と眼を瞑げば花漬めせと矯音を洩す口元の愛らしき工合、オヽそれ/\と影を促えて再一ト刀、一ト鑿突いては跡ずさりして眺めながら、幾日の恩愛扶けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢臭き身体を嫌な様子なく柔しき手して介抱し呉たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思は徒に都の空に馳する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家を出し其折、留められたる袖思い切て振払いしならばかくまでの切なる苦とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾から吾を弁え難く、恍惚とする所へ著るゝお辰の姿、眉付媚かしく生々として睛、何の情を含みてか吾与えし櫛にジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処なりと幻像を写して再一鑿、漸く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸をも著せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣麗しく引纏せたる全身像惚た眼からは観音の化身かとも見れば誰に遠慮なく後光輪まで付て、天女の如く見事に出来上り、吾ながら満足して眷々とながめ暮せしが、其夜の夢に逢瀬平常より嬉しく、胸あり丈ケの口説濃に、恋知ざりし珠運を煩悩の深水へ導きし笑窪憎しと云えば、可愛がられて喜ぶは浅し、方様に口惜しい程憎まれてこそ誓文移り気ならぬ真実を命打込んで御見せ申たけれ。扨は迷惑、一生可愛がって居様と思う男に。アレ嘘、後先揃わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨んで打つ真似にちょいとあぐる、繊麗な手首緊りと捉て柔に握りながら。打るゝ程憎まれてこそ誓文命掛て移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡返し、流石は可笑しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と其儘離してひぞる真面目顔を、心配相に横から覗き込めば見られてすまし難く其眼を邪見に蓋せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞、後は協音の笑計り残る睦じき中に、娘々と子爵の声。目覚れば昨宵明放した窓を掠めて飛ぶ烏、憎や彼奴が鳴いたのかと腹立しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙劣りて身を掩う数々の花うるさく、何処の唐草の精霊かと嫌になったる心には悪口も浮み来るに、今は何を着すべしとも思い出せず工夫錬り練り刀を礪ぎぬ。
下 堅く妄想を捏して自覚妙諦
腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己が意匠の飾を捨て人の天真の美を露わさんと勤めたる甲斐ありて、なまじ着せたる花衣脱するだけ面白し。終に肩のあたり頸筋のあたり、梅も桜も此君の肉付の美しきを蔽いて誇るべき程の美しさあるべきやと截ち落し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是を隠す菊の花、香も無き癖に小癪なりきと刀急しく是も取って払い、可笑や珠運自ら為たる業をお辰の仇が為たる事の様に憎み今刻み出す裸体も想像の一塊なるを実在の様に思えば、愈々昨日は愚なり玉の上に泥絵具彩りしと何が何やら独り後悔慚愧して、聖書の中へ山水天狗楽書したる児童が日曜の朝字消護謨に気をあせる如く、周章狼狽一生懸命刀は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成て夢我夢中、きらめく刃は金剛石の燈下に転ぶ光きら/\截切る音は空駈る矢羽の風を剪る如く、一足退って配合を見糺す時は琴の糸断えて余韵のある如く、意糾々気昂々、抑も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験修錬、渦まき起って沸々と、今拳頭に迸り、倦も疲も忘れ果て、心は冴に冴渡る不乱不動の精進波羅密、骨をも休めず筋をも緩めず、湧くや額に玉の汗、去りも敢ざる不退転、耳に世界の音も無、腹に饑をも補わず自然と不惜身命の大勇猛には無礙無所畏、切屑払う熱き息、吹き掛け吹込む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄まじきまで凝り詰むれば、爰に仮相の花衣、幻翳空華解脱して深入無際成就一切、荘厳端麗あり難き実相美妙の風流仏仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退り、ドッカと坐して飛散りし花を捻りつ微笑せるを、寸善尺魔の三界は猶如火宅や。珠運さま珠運さまと呼声戸口にせわし。
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第十 如是本末究竟等
上 迷迷迷、迷は唯識所変ゆえ凡
下碑が是非御来臨なされというに盗まれべき者なき破屋の気楽さ、其儘亀屋へ行けば吉兵衛待兼顔に挨拶して奥の一間へ導き、扨珠運様、あなたの逗留も既に長い事、あれ程有し雪も大抵は消て仕舞ました、此頃の天気の快さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道勉強の為に諸国行脚なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無ろうが若い人の癖とてあのお辰に心を奪れ、然も取残された恨はなく、その木像まで刻むと云は恋に親切で世間に疎い唐土の天子様が反魂香焼れた様な白痴と悪口を叩くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢わぬ昔と諦らめて奈良へ修業に行て、天晴名人となられ、仮初ながら知合となった爺の耳へもあなたの良評判を聞せて貰い度い、然し何もあなたを追立る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗けば像も見事に出来た様子、此上長く此地に居れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付てお前可愛く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様昨夕聢と考えて見たが、何でも詰らぬ恋を商買道具の一刀に斬て捨、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事仕た覚はないが、是が罪になって地獄の鉄札にでも書れはせぬかと、今朝も仏様に朝茶上る時懺悔しましたから、爺が勧めて爺が廃せというは黐竿握らせて殺生を禁ずる様な者で真に云憎き意見なれど、此を我慢して謝罪がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物杓子定規の理屈で平押には行ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺参して御先祖様の墓に樒一束手向る易さより孫娘に友禅を買て着る苦しい方が却て仕易いから不思議だ、損徳を算盤ではじき出したら、珠運が一身二一添作の五も六もなく出立が徳と極るであろうが、人情の秤目に懸ては、魂の分銅次第、三五が十八にもなりて揚屋酒一猪口が弗箱より重く、色には目なし無二無三、身代の釣合滅茶苦茶にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷も矢張人情、そこであなたの合点の行様、年の功という眼鏡をかけてよく/\曲者の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切せましょう。先第一に何を可愛がって誰を慕うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考では恐らく女に溺れる男も男に眩[#「眩」は底本では「呟」]む女もなし、皆々手製の影法師に惚るらしい、普通の人の恋の初幕、梅花の匂ぷんとしたに振向ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行も凡夫も変はなけれど、白痴は其女の影を自分の睛の底に仕舞込で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞を執着の耳の奥で繰り返し玉い、尚因縁深ければ戯談のやりとり親切の受授男は一寸行にも新著百種の一冊も土産にやれば女は、夏の夕陽の憎や烈しくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇に風を送り氷水に手拭を絞り呉れるまでになってはあり難さ嬉しさ御馳走の瓜と共に甘い事胃の腑に染渡り、さあ堪らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う御容貌は百三十二相も揃い御声は鶯に美音錠飲ましたよりまだ清く、御心もじ広大無暗に拙者を可愛がって下さる結構尽め故堪忍ならずと、車を横に押し親父を勘当しても女房に持つ覚悟極めて目出度婚礼して見ると自分の妄像ほど真物は面白からず、領脚が坊主で、乳の下に焼芋の焦た様の痣あらわれ、然も紙屑屋とさもしき議論致されては意気な声も聞たくなく、印付の花合せ負ても平気なるには寛容なる御心却って迷惑、どうして此様な雌を配偶にしたかと後悔するが天下半分の大切、真実を云ば一尺の尺度が二尺の影となって映る通り、自分の心という燈から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨もあるもの、お辰めとても其如く、おまえの心から製えた影法師におまえが惚れて居る計り、お辰の像に後光まで付た所では、天晴女菩薩とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺も今日悟って憎くなった迷うな/\、爰にある新聞を読め、と初は手丁寧後は粗放の詞づかい、散々にこなされて。おのれ爺め、えせ物知の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨片腹痛しと睨みながら、其事の返辞はせず、昨日頼み置し胡粉出来て居るかと刷毛諸共に引ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突と立て畳ざわりあらく、馴し破屋に駈戻りぬるが、優然として長閑に立る風流仏見るより怒も収り、何はさておき色合程よく仮に塗上て、柱にもたれ安坐して暫く眺めたるこそ愚なれ。吉兵衛の詞気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵と題せる所をふと読下せば、深山の美玉都門に入てより三千のに顔色なからしめたる評判嘖々たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮して其一顰一笑を得んと欲せしが預て今業平と世評ある某侯爵は終に子爵の許諾を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称空しからざる好男子なるは人の知所なれば令嬢の艶福多い哉侯爵の艶福も亦多い哉艶福万歳羨望の到に勝ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙引裂捨て何処ともなく打付たり。
下 恋恋恋、恋は金剛不壊なるが聖
虚言という者誰吐そめて正直は馬鹿の如く、真実は間抜の様に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女の間変らじと一言交せば一生変るまじきは素よりなるを、小賢しき祈誓三昧、誠少き命毛に情は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中慨かわしと昔の人の云たるが、夫も牛王を血に汚し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野を茶にして罰を恐れず、金銀を命と大切にして、一金千両也右借用仕候段実正なりと本式の証文遣り置き、変心の暁は是が口を利て必ず取立らるべしと汚き小判を枷に約束を堅めけると、或書に見えしが、是も烏賊の墨で文字書き、亀の尿を印肉に仕懸るなど巧み出すより廃れて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名にして取り置、男は女の親を人質にして僕使うよし。亭主持なら理学士、文学士潰が利く、女房持たば音楽師、画工、産婆三割徳ぞ、ならば美人局、げうち、板の間ぎ等の業出来て然も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付華族の若様のゴールの指輪一日に五六位取る程の者望むような世界なれば、汝珠運能々用心して人に欺かれぬ様すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑しが、なる程、我正直に過て愚なりし、お辰を女菩薩と思いしは第一の過り、折疵を隠して刀には樋を彫るものあり、根性が腐って虚言美しく、田原が持て来た手紙にも、御なつかしさ少時も忘れず何れ近き中父様に申し上やがて朝夕御前様御傍に居らるゝよう神かけて祈り居りなどと我を嬉しがらせし事憎し憎しと、怨の眼尻鋭く、柱にもたれて身は力なく下たる頭少し上ながら睨むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像寛々として大空に月の澄る如く佇む気高さ、見るから我胸の疑惑耻しく、ホッと息吐き、アヽ誤てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去し日亀屋の奥坐敷に一生の大事と我も彼も浮たる言葉なく、互に飾らず疑わず固めし約束、仮令天飛ぶ雷が今落ればとて二人が中は引裂れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他し聟がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運貰いたれば、何の命何の身体あって侯爵に添うべきや、然も其時、身を我に投懸て、艶やかなる前髪惜気もなく我膝に押付、動気可愛らしく泣き俯しながら、拙き妾めを思い込まれて其程までになさけ厚き仰せ、冥加にあまりてありがたしとも嬉しとも此喜び申すべき詞知らぬ愚の口惜し、忘れもせざる何日ぞやの朝、見所もなき櫛に数々の花彫付て賜わりし折より、柔しき御心ゆかしく思い初、御小刀の跡匂う梅桜、花弁一片も欠せじと大事にして、昼は御恩賜頭に挿しかざせば我為の玉の冠、かりそめの立居にも意を注て落るを厭い、夜は針箱の底深く蔵めて枕近く置ながら幾度か又開て見て漸く睡る事、何の為とは妾も知らず、殊更其日叔父の非道、勿体なき悪口計り、是も妾め故思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一胸先に痛く、さし詰る癪押えて御顔打守しに、暢やかなる御気象、咎め立もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒あき、重々の御恩荷うて余る甲斐なき身、せめて肩揉め脚擦れとでも僕使玉わばまだしも、却て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水の温湯椽側に持て参り、楊枝の房少しむしりて塩一小皿と共に塗盆に載せ出す僅計の事をさえ、我夙起の癖故に汝までを夙起さして尚寒き朝風につれなく袖をなぶらする痛わしさと人を護う御言葉、真ぞ人間五十年君に任せて露惜からず、真実あり丈智慧ありたけ尽して御恩を報ぜんとするに付て慕わしさも一入まさり、心という者一つ新に添たる様に、今迄は関わざりし形容、いつか繕う気になって、髪の結様どうしたら誉らりょうかと鏡に対って小声に問い、或夜の湯上り、耻しながらソッと薄化粧して怖怖坐敷に出しが、笑片頬に見られし御眼元何やら存るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単に身嗜計にはあらず、勿体なけれど内内は可愛がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図立聞して魂魄ゆら/\と足定らず、其儘其処を逃出し人なき柴部屋に夢の如く入と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身の為を思われてながら吉兵衛様の無礼過た言葉恨めしく、水仕女なりともして一生御傍に居られさいすれば願望は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取られて疎まれなば取り返しのならぬ暁、辰は何になって何に終るべきと悲み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児の捉た小雀を放して遣った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下はそれより黙言で亀屋を御立なされしに、十日も苅り溜し草を一日に焼たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎しに、馬籠に御病気と聞く途端、アッと驚く傍に愚な心からは看病するを嬉く、御介抱申たる甲斐ありて今日の御床上、芽出度は芽出度れど又もや此儘御立かと先刻も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁続ぎ度ば其人様の髪一筋知れぬように抜て、おまえの髪と確り結び合せ※※[#「口+急」、224-9][#「口+急」、224-9]如律令と唱えて谷川に流し捨るがよいとの事、憎や老嫗の癖に我を嬲らるゝとは知ながら、貴君の御足を止度さ故に良事教られしよう覚て馬鹿気たる呪も、試て見ようかとも惑う程小さき胸の苦く、捨らるゝは此身の不束故か、此心の浅き故かと独り悔しゅう悩んで居りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙吾衣物を透せしは、そもや、嘘なるべきか、新聞こそ当にならぬ者なれ、其を真にして信ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位貴く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬ましや、我位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較られては敵手にあらず。扨こそ子爵が詞通り、思想も発達せぬ生若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻に迷い沈みけるが思いかねてや一声烈しく、今ぞ知たり移ろい易き女心、我を侯爵に見替て、汝一人の栄華を誇る、情なき仰せ、此辰が。
アッと驚き振仰向ば、折柄日は傾きかゝって夕栄の空のみ外に明るく屋の内静に、淋し気に立つ彫像計り。さりとては忌々し、一心乱れてあれかこれかの二途に別れ、お辰が声を耳に聞しか、吉兵衛の意見ひし/\と中りて残念や、妄想の影法師に馬鹿にされ、有もせぬ声まで聞し愚さ、箇程までに迷わせたるお辰め、汝も浮世の潮に漂う浮萍のような定なき女と知らで天上の菩薩と誤り、勿体なき光輪まで付たる事口惜し、何処の業平なり癩病なり、勝手に縁組、勝手に楽め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥に其声、是もまだ醒ぬ無明の夢かと眼を擦って見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄せば予て知る樅の木の蔭あたりに子供の集りて鞠つくか、風の持来る数え唄、
一寸百突て渡いた受取った/\一つでは乳首啣えて二つでは乳首離いて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸より初め五では糸をとりそめ六つでころ機織そめて――
と苦労知らぬ高調子、無心の口々長閑に、拍子取り連て、歌は人の作ながら声は天の籟美しく、慾は百ついて帰そうより他なく、恨はつき損ねた時罪も報も共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ羨しく、噫無心こそ尊けれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、果敢なくも嬉しいと云う事身に染初しより、やがて辛苦の結ぼれ解ぬ濡苧の縺の物思い、其色嫌よと、眼を瞑げば生憎にお辰の面影あり/\と、涙さしぐみて、分疏したき風情、何処に憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を反故となして怒り玉うかと喞たれて見れば無理ならねど、子爵の許に行てより手紙は僅に田原が一度持て来りし計り、此方から遣りし度々の消息、初は親子再会の祝、中頃は振残されし喞言、人には聞せ難きほど耻しい文段までも、筆とれば其人の耳に付て話しする様な心地して我しらず愚にも、独居の恨を数うる夜半の鐘はつらからで、朧気ながら逢瀬うれしき通路を堰く鶏めを夢の名残の本意なさに憎らしゅう存じ候など書てまだ足らず、再書濃々と、色好み深き都の若佼を幾人か迷わせ玉うらん御標致の美しさ、却って心配の種子にて我をも其等の浮たる人々と同じ様に思し出らんかと案じ候ては実に/\頼み薄く口惜ゅう覚えて、あわれ歳月の早く立かし、御おもかげの変りたる時にこそ浅墓ならぬ我恋のかわらぬ者なるを顕したけれと、無理なる願をも神前に歎き聞え候と、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を択み、封じ目油断なく、幾度か打かえし/\見て、印紙正しく張り付、漸く差し出したるに受取たと計の返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の空頼なる不実の仕方、それは他し婿がね取らせんとて父上の皆為されし事。又しても妄想が我を裏切して迷わする声憎しと、頭を上れば風流仏悟り済した顔、外には
清水の三本柳の一羽の雀が鷹に取られたチチャポン/\一寸百ついて渡いた渡いた
の他音もなし、愈々影法師の仕業に定まったるか、エヽ腹立し、我最早すっきりと思い断ちて煩悩愛執一切棄べしと、胸には決定しながら、尚一分の未練残りて可愛ければこそ睨みつむる彫像、此時雲収り、日は没りて東窓の部屋の中やゝ暗く、都ての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌浮出る如く、活々とした姿、朧月夜に真の人を見る様に、呼ばゞ答もなすべきありさま、我作りたる者なれど飽まで溺れ切たる珠運ゾッと総身の毛も立て呼吸をも忘れ居たりしが、猛然として思い飜せば、凝たる瞳キラリと動く機会に面色忽ち変り、エイ這顔の美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ呉てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其生白けたる素首見も穢わしと身動きあらく後向になれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ疎まれたる身の生甲斐なし、とてもの事方様の手に惜からぬ命捨たしと云は、正しく木像なり、あゝら怪しや、扨は一念の恋を凝して、作り出せしお辰の像に、我魂の入たるか、よしや我身の妄執の憑り移りたる者にもせよ、今は恩愛切て捨、迷わぬ初に立帰る珠運に妨なす妖怪、いでいで仏師が腕の冴、恋も未練も段々に切捨くれんと突立て、右の手高く振上し鉈には鉄をも砕くべきが気高く仁しき情溢るる計に湛ゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身、斬らば熱血も迸りなんを、どうまあ邪見に鬼々しく刃の酷くあてらるべき、恨も憎も火上の氷、思わず珠運は鉈取落して、恋の叶わず思の切れぬを流石男の男泣き、一声呑で身をもがき、其儘ドウと臥す途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より出しか地より湧しか、玉の腕は温く我頸筋にからまりて、雲の鬢の毛匂やかに頬を摩るをハット驚き、急しく見れば、有し昔に其儘の。お辰かと珠運も抱しめて額に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、問ば拙く語らば遅し。玄の又玄摩訶不思議。[#改ページ]
団円 諸法実相
帰依仏の御利益眼前にあり
恋に必ず、必ず、感応ありて、一念の誠御心に協い、珠運は自が帰依仏の来迎に辱なくも拯いとられて、お辰と共に手を携え肩を駢べ優々と雲の上に行し後には白薔薇香薫じて吉兵衛を初め一村の老幼芽出度とさゞめく声は天鼓を撃つ如く、七蔵がゆがみたる耳を貫けば是も我慢の角を落して黒山の鬼窟を出、発心勇ましく田原と共に左右の御前立となりぬ。
其後光輪美しく白雲に駕て所々に見ゆる者あり。或紳士の拝まれたるは天鷲絨の洋服裳長く着玉いて駄鳥の羽宝冠に鮮なりしに、某貴族の見られしは白襟を召て錦の御帯金色赫奕たりしとかや。夫に引変え破褞袍着て藁草履はき腰に利鎌さしたるを農夫は拝み、阿波縮の浴衣、綿八反の帯、洋銀の簪位の御姿を見しは小商人にて、風寒き北海道にては、鰊の鱗怪しく光るどんざ布子、浪さやぐ佐渡には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼にあらわれ玉いけるが業平侯爵も程経て踵小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶せられけるよし。是皆一切経にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身にして少しも相違なければ、拝みし者誰も彼も一代の守本尊となし、信仰篤き時は子孫繁昌家内和睦、御利益疑なく仮令少々御本尊様を恨めしき様に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素より持前の仏性を出し玉いて愛護の御誓願空しからず、若又過ってマホメット宗モルモン宗なぞの木偶土像などに近づく時は現当二世の御罰あらたかにして光輪を火輪となし一家をも魂魂をも焼滅し玉うとかや。あなかしこ穴賢。