加賀耿二氏の「希望館」という小説が三月号の『中央公論』に載っている。
 僧侶によって経営される思想犯保護施設である希望館の内部生活の描写とその屈辱と汚穢に堪えきれなかった仙三という主人公が、大阪太陽新聞主催の見世物めいた座談会の席上で、希望館同宿人の中で最も卑屈狡猾な江沼という男を殺傷する場面で終っている。
 この作者は、題材的には、常に実際の生活の中に起った出来事を取り上げてゆく或る意味での積極性を持っている人である。先頃もオリンピック熱に煽られた工場内のスポーツが女工を悲惨な死に陥れた話が書かれていた。
 プロレタリア文学運動が、運動として退潮して後、民衆の生活を直接取り上げてゆく作家として加賀氏はプロレタリア文学の正当な要素の受け継ぎ手の一人であるかのように一部の読者に思われている。しかし、一人の作者がその題材でだけ刻下の現実の一面に触れているというばかりで、果して現実をプロレタリア作家としての立場で描き得ていると言い得るものであろうか。プロレタリア文学が運動としての形を失っているからと言って、プロレタリア文学の作品の実質が、最少抵抗線に沿った目安で評価されてよいものであろうか。「希望館」という一篇の小説は私にさまざまの疑問を与えた。
 作者は「希望館」という一つの保護施設を内部から描くことで、今や全国に網をひろげている所謂いわゆる保護施設なるものの正体を典型的に読者の前に示そうとしたのであろう。また仙三、江沼、山村等の人物を描くことで、一般に転向者と言われている人々の各タイプを描こうとしたのであったろう。これ等を目的としたのであったらば作者は十分成功を納めているとは言い難い。作者は、極めて客観的に描き出すことで読者の心を打つべき残酷な劇的な座談会の場面をも、表面的に神経的に描いている。更にそれぞれの人物の描き方、人間の観方に深い異議を喚び起された。杉山平助氏が新聞の月評でこの作品に触れ、余談ではあるがと傍註をして、もし一度時期が彼等に幸いしたのであったならば、このような人物でさえも一通りの役目に就いて、人々を支配する立場に置かれるのであろうかと、否定的な感想を洩らしておられる。「希望館」を読んだ人々の中で杉山氏と同じような感想を抱いた人が他に一人もなかったろうとは言えないと思う。そして、それを読者の側だけの責任という風には決して言えない作者の責任がある。この二三年来、プロレタリア文学と称する領域の中に目立った一つの傾向がある。それは左翼の活動をかつてした人間、今日は情勢に押されてその活動の自由を失っている人間の人間性というものを切り離して、運動の性質、その場面でのぞましいものと考えられている人間の統一体とは寧ろ対立的な関係にあるものとして、二元的に眺め、最後の軍配を弱く悲しく矛盾に富んだ人間性という方へ挙げる顕著な傾向である。
 この異常な傾向或は嗜好は左翼文学の退潮と共に起ったものであった。原因には単純でないものがある。一時、情勢の昂揚につれて個人として見れば種々な点に鍛錬の足りない人々が運動に吸収された。後の困難な諸事情は、そういう人々の、いずれかと言えば受動的な勇気を挫き、昂奮の後の感傷や過度な内省を誘い出した。由来一つの大衆的な運動というものが、真の精鋭のみの小団結ではなく、そのものの周囲に幅広く種々雑多の人間を引きつれて、塵埃ごみ残滓かすもそれぞれの時代の歴史性に従って残しつつ更に大きなプラスを持って積極的な進歩のための役割を果すものである。一人一人の人間として見れば誰しも長所と欠点とがある。そういう人間が集った一つの運動的な部隊としての価値が、ただ雑多な人間の寄せ集めの総和としてだけの価値を持つのでなく、別個のより高い価値を作り出すところにその運動の本質が備えている歴史的な新たな価値があった。従って、そういう運動に参加していた時に一人一人の人間的なプラス、マイナスは運動の方向、実践の中にい交ぜられていたのであり、ある場合には全体の方針の健全さの中に個人のマイナスなものが消されていた。そればかりでなく、そのような日常生活からの鍛錬はその人の中から或る期間の後にはマイナスなものを発展的に失くしてしまう力を持っていた。実践の価値というものが厳しく言われた意味は、この人間的完成の面に於ても明かであった。
 日本の特殊な社会的事情は、世界にあまり類のない大衆の政治的成熟の困難さを来している。左翼の運動は、その昂揚の形も退潮の形も日本独特なものがある。今委しくここに触れることは私の力にも及ばないことであるが、運動全体が非常に急速に高まり、非常に急速に退いたことは、上述の集団生活が人間性をより強固なものに陶冶する為に必要な条件と時間とを与えなかったように見える。強い中心的な磁力が失われたらば、それに吸いつけられていた夥しい人々が自身の生存からも中心力を失い、生活的に低い所へ落ちざるを得なかった。この場合、運動の歴史の若いことは各個人に複雑に作用して、中心力を失った人々はそれを持たなかった以前よりも一個の人間としてましに成っているものとして残されず、却って卑俗なもの、旧套なものの中に自分の重みで深く落ちこんだようなところさえ見られる。これらのことが心理的な陰の力となって、現今プロレタリア文学作品と称されるものの中に、階級の方向と人間性とを切り離して、しかも主観的に、対立的にじめじめと描く一つの傾向を導き出しているのである。さほど遠い過去でないある時期には、プロレタリア作家が人間らしく、正直になるということは取りも直さず、社会の全体性と切り離され、対立的に見られる一俗人としての弱さ、自己撞着などを、何故それが彼の中にあるかという真剣な、真に芸術らしい解剖にまでは肉迫することのない縷々綿々的な叙述で描かれることであるかのように思われたことがあった。読者としてそれを求めた感情があった。今日でも尚そのことが一般にわらうべきこと、作家にとっても読者にとっても害悪しかないことと理解され切っていないところがあり、例えば三月号の『文芸』には村山知義氏が「父たち母たち」という小説を書いている。かつて「白夜」を書いたこの作者は「思想関係の事件で起訴されたり投獄されたりの間の、自分の意志でどうともならなかった心の動きの秘密を知りたいという慾求」から「自分の血統に傾ける心」を持って「自分の一族」の経歴を溯っている。作者は、自身の蹉跌や敗北の責任を「自分の意志を作り上げこそしたと思われる古い昔の父たち母たちに押しつけなすりつけようという」思いを自身軽蔑しつつそれに引かされている自分をこの作品の中で認めている。
「父たち母たち」は作品としては皮相的に描かれていて、作者が自分の血の中に流れている望ましからざる血の源泉として描こうとしている祖父、父の姿は読者をその血のつながりの必然さに於ても納得せしめない程度のものである。けれども、この小さい一篇は、この作者が数篇の小説に於て所謂買われて来た面を破綻的に現していることで注目に価する。「希望館」とこの「父たち母たち」とでは作柄が違って見えるが、根本的な傾向として抽象的に人間性を取り上げている点では同じ性質の二作なのである。
 プロレタリア文学が辿って来た発展の歴史を省ると、この人間性の抽象的な尊重という傾向は、ソヴェトの文学運動の過程にもかつてあったことである。一九二九年から三一年頃までの間に、ソヴェトの文学では過去の単純に英雄化された人間の描写を発展させるべき方向として、人間を描けということが言われた。善玉悪玉でない生きた人間を描けということであったが、ソヴェトに於てもこのことは一部の作家に曲解された。リベディンスキーがこの課題に答えようとして書いた「英雄の誕生」は、この提言がどんな風に或る作家の個性的なものによって誤解されるかということが示された作品であった。リベディンスキーは、「英雄の誕生」の中で経験を積んだ政治家の日常活動と対立した性慾の問題を切り離して扱い、その誤った人間性の理解について多くの批判を受けた。
 ソヴェトではその後、社会主義の建設が進むにつれて、大衆の経済的、文化的実力にふさわしい社会主義的リアリズムが芸術の創作方法として取り入れられている。このことに就いても見落せない文学上の一つの理解の相違が、日本の文学の中に今日尚曖昧のままに残されている。インテリゲンツィアや小市民的な技術家が勤労者として精神的にも再教育されて来たソヴェトの社会的現実の上に立って、芸術の創作方法としての社会主義的リアリズムが称えられて来ているのであるが、日本では異った事情の上にその提唱が受け入れられた。そして、文学の面では或る意味で従来はそのものとしては否定されて来た小市民的な要素、言い古された形でのインテリゲンツィア性を文学作品の内容、表現に復帰させ得るきっかけのように、一部の紹介者によって説明された。これには内部的なまた外部的な諸事情がからみ合っているのであるが、主なものはプロレタリア文学運動の指導方針の中にあった政治と文学との関係を見る点が文化主義的なものの影響と、当時のプロレタリア作家に未だ不足していた実力、権力の側からの強圧に対する受動的な態度等が相互的に関係し合っていたと思う。当時一概にプロレタリア作家という名に呼ばれてはいても謂わば一人一人の主観の真の在りように照して見れば複雑な内容で力以上のものを、方針から要求されているという感情をひそめていた人々もあると言え、組織が弱くなるにつれそれらの無理が個人の色どりに従ってさまざまのアナーキスティックな批判や反撥として現れた。古い職人的な意味での芸術至上主義や、社会主義的リアリズムの理解を主観的な欲求に引き添えて曲解したりすることが生じたのであった。不幸にして日本では、以来これらの混乱し錯雑した文学上の理解の齟齬を、全面的に生活的に正して行く条件がプロレタリア文学運動として欠けたままでいるのである。従って一般の読者は文学作品と言えば、ブルジョア作家のものも、プロレタリア作家と云われる人々のものも等し並みに、自分の主観的な嗜好に従ってただ読み過す状態に置かれている。
 島木健作氏の「癩」「盲目」その他の作品が広く読まれた事情には、これまで述べて来た幾つかの客観的なまた主観的な条件の然らしめたものがあった。「癩」「盲目」等では、やはり人間の肉体的なるものが主となって特殊な事情の綾の中で描かれているものであった。それらの作品が発表された前後の社会的な事情、従来のプロレタリア文学が持っていた或る一様性に対立物としてそれらの作品が読者の感情を掴んだ。けれども「盲目」について見ても実際の生活の場面での問題、島木氏が悲壮な闘士のポーズとして描き出している心理の観照的態度、嗜虐性等は真の意味での健全な闘志の表現としては、少からずいかがわしいものであった。個人的な話の間に何時であったか私は「盲目」の終りの部分に就いて島木氏に、あれはどうも変だ、どうしてあの主人公は釈放を求めずにいるんでしょう、あれでいいんでしょうかという意味を言ったらば、島木氏は例の謹厳な面もちのまま、ああ、あすこのところはこしらえてあるという意味を答えた。そうだとすれば、そこに一層作者の主観の傾向が十分に窺える訳なのである。
 以上のことにつれて更に注意を引くことは一方に文学作品に於ける人間性の抽象的な主張が現れた前後から、プロレタリア文学に新しい素質の作家たちが登場しはじめたことである。加賀耿二氏は今から七・八年前「綿」という一作を持って文学の分野に現れた作家であるが、それ以前には組合の仕事、つまり当時の政治的な組織の活動をやっておられたように仄聞そくぶんしている。獄中生活で健康を害し執行停止され、現在は作家の活動をされている。島木氏が四国の方で農民組合の活動をしていたことは恐らく今日では周知の事実であろう。作家島木氏として現れたのは出獄後のことである。その他多くの人々がそれぞれの道の違いはあっても、同じような性質の職能の変化でもって今日作家として活動していると思う。
 去年の十二月二十二日にモスクワでニコライ・アレクセーヴィッチ・オストロフスキーがその三十二歳の生涯を終った。彼の作品「鋼鉄はいかに鍛えられたか」は邦訳された。遺憾なことにこの小説の翻訳はその内容の性質によって発売を禁ぜられた。出版当時には二三の人によって作品評を試みられていたのであった。この小説は作者オストロフスキーがロシアの国内戦当時自身経験し又見聞した歴史を描いたものであり、多分正宗白鳥氏であったかは、この作品の題材と筆致とを批評して、期待した程の感動を受けなかったと言っておられたと思う。しかしながらこの小説を読む機会があった他の多くの人々、特に若い層は、この小説から心に触れる印象を得た。オストロフスキーにあって私たちを打ったものは、その不撓不屈な意志で自分の生命を可能なあらゆる方法によって階級の発展のために役立てようとした現実の姿である。
 彼は一九〇四年労働者の家に生れ、少年時代から人に雇われて働いた。受けた教育は最低のものであった。電気工の助手として働いている中に一九一七年に逢い、一九二七年、二十三歳で健康を失い四肢の自由を失うまでオストロフスキーは発電所の火夫から鉄道建設の突撃隊、軍事委員、同盟の指導等精力を尽して、組織が彼を派遣した部署に於て活動した。四肢の自由を失って後病床に釘づけにされていながら、彼は後進者の教育の仕事を引受けて研究会の指導などをした。このような状態の時オストロフスキーは更に一つの打撃に堪えなければならなかった。それは両眼の失明である。オストロフスキーは自身によって書かれた、いかにも誇張のない短い伝記の中でこう言っている。「研究会もやめになった。最近は著作に身を捧げている。肉体的には殆どすべてを失い、残されたものは青年の消し難いエネルギーと、わが党、わが階級に役立つ何等かの仕事をしたいという情熱のみである」と。
 この情熱によって、これまで小説などをかつて書いたことがなかったオストロフスキーは、異常な努力によって文学の勉強を始めた。そして、長篇「鋼鉄はいかに鍛えられたか」を完成した。第二の長篇「嵐の子ら」が着手せられ始めた頃、彼は自分の病が現代の医学では如何ともし難いのを知って一日に十時間から十二時間も骨の折れる小説口述の仕事を続けた。その一部が書き上げられて印刷に付せられた昨年の冬、オストロフスキーの高潔な生涯は終ったのであった。
 一九一七年以来、ロシアは新しい社会の建設につれて過去の世界文学の歴史が持たなかった種類の文学作品とその作家とを世界に与えている。「赤色親衛隊」の作者、故フールマノフにしろ、ゴーリキイにしろ、前例のない作家の典型である。これらの人々は、ゴーリキイのように終始一貫作家としての活動で歴史の推進に参加し、それを反映すると同時に進む歴史の指導的な力に導かれて偉大な完成を遂げた芸術家、或はフールマノフのように銃声の間にも手ずれたノートを皮外套の下から取り出して、その印象を書きとどめずにはいられなかった程、初めから文学のすきな人々であった。これに反してオストロフスキーは、盲目になるまでは、生産の場面政治的の場面に活動して、特に文学が好きというのでもなかった。彼はかつて自分に手足があった時、その若々しい手足の働きで全うして来た自分の任務、その手足がなくなった後は、一対の輝かしい眼によって為し遂げて来たこと、その眼が奪われた後には、彼の強い頭脳と意志とによってなし得ること――「かつてあったことを文学的な言葉で若い時代へ伝えようとする」著作の仕事に従った。このような作家は歴史に今までなかった。オストロフスキーの文学に於ける地位は、その作品の芸術的な価値と共に全くここに重点を置いて、一個の新人間のタイプ、尊敬すべき生命の意味の理解者、実践者として観察され評価されるべきタイプなのである。
 大衆の自覚とわが声でものを言わんとする情熱が強くなればなるほど、大衆の持つ社会的・文化的地盤が現実生活の中で高められれば高められる程、大衆の創意性とその表現の形とは多様になって来るものである。それ故、われわれのところに於ても、かつて政治的な活動をした人、組合の仕事をした人々が或る時期にその活動力を文化的な面に向けて働くということは当然あってよいことである。大いにあってよいことなのであるけれども、それは決して条件なしではない。それらの人々が若し過去に於いて健全な活動分子であったのならば、運動が当面していた時期の種々な制約の中におのずからあったとはいえ、正当にそれを発展の歴史として摂取し、それを文学の中に生かし得る実践の価値を発揮することを、文学活動の面での責任条件とされている。直接に自身が経験したあれこれのことを芸術以前の形で記録されることを意味しているのではない。それらの人々が、大衆の中での活動で身につけて来ている階級の具体的な特徴についての把握、複雑な現実のもつれの間に歴史の帰趨を見抜く力、その積極的な押し進めのためにあり得る人間の力についての洞察によって、今日の現実を観察して描いてゆく。その点でブルジョア作家に期待し得るものとはおのずから種類を異にした芸術がこれらの人々から期待されるのである。
 ところが、今日の実際に於て、そういう種類の作家たちから一般の読者が与えられている作品は、どういう性質のものであろうか。粗大な概括をすることを深く警戒するものであるが、今日までのところ、現れている作品は多く手法の上で何かの問題を持っていることを第二として、人間というものの捕え方に於て、先刻触れた二元性に陥っている傾向が見られる。かつて他の面で活動をしていた人々が、人間の「胸の琴線にふれる」文学の仕事に転じて来た時、センチメンタルになり、人間の観方、文学的表現等では、非常に抵抗少く過去の文学的常套に伏するのは何故であろうか。こういう経歴の作家に通有な文学に於ける面白さが、やはりブルジョア文学の一部の作家がいう面白さと類似したもの或は卑俗さに於て何ら質的に異ったものではなくなって現れて来ているというのは何故であろう。
 村山知義氏は一人の能才者である。彼は画を描き戯曲を書き、新たな劇運動にとって欠くべからざる演出者の一人である。この二三年来は小説も書かれる。興味あることは、村山氏がゴーリキイの「どん底」を昨年新たな認識で上演し好評を博したことはわれわれの記憶に新しい。その同じ一人の芸術家が今月は『文芸』の誌上で、「父たち母たち」のような作品を示してくれる時、「どん底」を観、その目でこの小説を読みする一人の読者は、全く相似ない両面の心の形に対して、どう判断するであろう。芸術を愛する程の者ならば、村山氏に、芸術以前の形で分裂のままあらわれているこの矛盾をこそ、人間的なものとして讚歎しなければならない義務を負うているのであろうか。
 小説というものには、小説としての美が要求される。これは明らかなことである。しかし小説に於ける美というものは、戯曲や演出などに際してはその芸術家がより高いものへ向って統一している種々雑多の弱点、ごみくたそのもののイージイな展覧にだけ在るのではない。ロマンティック時代の小説のように、これもまた一種の善玉悪玉である奸智に長けた心、ヒステリックな神経的行動の誇張の中にないことも明らかである。
 以前プロレタリア作家の特等席ということが言われたことがあった。この言葉は左翼運動の他の場面に働く人々の困難、刻苦に比べて作家は同じ世界観の下にあるとはいえ、その日常の暮しは小市民的な安らかさと物質の世俗的な豊かさの可能に置かれ、小説を書いておればいいのだからという、差別的な理解の上に言われた言葉であった。日本の左翼の運動が当時若く未熟で、文化政策の面で正常な理解と指導とを持ち得なかった一種の文化主義が、この特等席の観念に現されている。このことが稍々やや正常に理解されかかった時期に遺憾にも組織が崩されたので、今日でも、かつて左翼的な活動をした人々の通念と日常感情の中には、古い文化主義の根が除去され切れず、残されたままにある。今日の社会の情勢の中で、多くは個人的な事情から文学の仕事をしてゆくにあたって、これらの人々は自分の作家としての活動に、過去の癖から妙な過小評価を持って対している。はっきりした言葉にならぬまでも、文学の仕事を他の政治的な仕事と比べて機械的に下位に置かれた仕事の感じを抱いていないとは決して言えないと思う。今日に於て、自分の最上の努力、最上の献身をもって従事すべき仕事としての自覚、誠実が不足している。さもなければ、文学的には努力のこめられていない安易な作品を、ただ題材が勤労大衆の生活面に触れているというだけの現象性で、とりまとめてどうして安んじていることが出来よう。
 加賀耿二氏の「希望館」の主人公仙三は、所謂良心的であるが故に神経質であり、神経質であるから良心的であるかのように描かれている。この神経質で受動的に敏感な男が最後の破局として突発的殺傷をすることは前に述べたが、私としてはこの作者が所謂良心的という人間を描く時に、多くこういうタイプの弱い人間をその面でだけ取り上げて来ていることに或る注目を引かれる。この作者にとって良心的なもののアナーキスティックな突発的行動は仙三が始めてではない。かつて小学校教師の生活を描いた「幼き合唱」という小説があり、作者は同じような破局で、血は流さぬながら物語りを終っている。
「希望館」で作者が支持的に描いているタイプは、仙三の潔癖に反対し「良心で現在何かが解決出来るかい?」「たとえお経を読まされてもだ、それに平然と堪えて居られるような、そんな強靭な意志こそ必要なんだ。くよくよしないでさ、神経衰弱にならないでさ、――そしてやがての時代まで、健康に生きのびる――その落ちつきこそ今大いに必要なんじゃないか」と言って「希望館」で坊主の代理をも勤め、屑屋をしながら夜はギリシャ哲学の本を読んでいるという山村という男である。山村は仙三が江沼を打殺して人に引かれていく姿を見ながら「馬鹿な奴だ。だからそんな良心なんか捨てちまえと言ったのに……」と泣けて泣けて仕様がなかった。これが「希望館」の最後の言葉である。
 読者は今日の現実の中で、抽象的な良心だけで、何ものも解決されないことは知っている。何時、どのような時代にでも、左翼の運動が昂揚している最中でも、良心だけで解決された何ものも在ったことはなかった。良心はそれが良心であるのならば、些細なことにでもそれにふさわしい行動を生んだ。良心という言葉そのものが一定の規準と行動との関係に於て成立つ言葉である。「希望館」の作者によって言われている強靭な意志というのは、何故にお経を読まされること、阿諛あゆを強いられる境遇に落ちつくことだけを内容とし現代の可能としているのであろう。強靭な意志というのは、日常の現実生活は全く受動的な条件で、最低のところまで引き下がって暮し、インテリゲンツィアの要求として夜は屑屋の車を片づけてギリシャ哲学の本を読んでいる、そのような実際生活上の分裂と薄弱さに対して鈍感になるということを意味するのであるならば、この言葉は作者によって新しい内容を附せられたことになる。山村が、屑屋は只のあり来りどおりの屑屋としてやっている。そのように、政治上の運動をやめて、小説をかいているこの作者は、小説書きとして小説を書いている。その職業の中でその職業に発展的な内容と方向とを附け加えようとする努力こそ、階級人の強靭な意志と称されるに足るものであると考える健全な読者は、この「希望館」の作者の今日に向っての態度に対して数々の疑問を抱くことを余儀なくされるのである。
 プロレタリア文学で、所謂特等席の誤った観念が正され始めたのは、作者の日常生活と芸術との統一性の重要さが、一般の注意に上ってからのことである。プロレタリア文学のみならず、古来の優れた芸術家は、仮令たといそれが今日から見れば極めて主観的なものであろうとも、自身の生活と芸術とは常に緊密に一致させることの必要を理解していたのであった。嘗て運動の他の面に活動して来た人々が今は文学の仕事をしている、そのことはよいとして、その人々が階級人としての自己のマイナスの面に拠って、今のうちはマア小説でも書いて、という態度でやっているならば、それは決してよろこばしい現象ではないのである。
 今日の若い勤労者とインテリゲンツィアとの日常の苦痛は、職業が彼らの人間の発展のために豊富化のために全く役に立たないものであるという自覚及び一方にそういう不満は持ちながら、生活事情の一般的悪化のために従前よりも一層その職業に縛りつけられていなければならないというところにある。この矛盾に対して手早い目前の解決が見えていないことから、若い三十代の少くない部分が気力を失って現状に対して受動的な態度をとっている。経済的にその日暮しであると共に精神的にもその日暮しに陥っている。他の一部の若い人々は全く山村のようにくよくよしずにさりとて現状にあらがわず、僅かに自分の時間でせめては本だけでも読んだりして雨宿りでもしているように、現在の状態が通り過ぎることを傍観的に待っている。そのようにして「やがての時代までも健康に生きのびる――その落ちつき」を持った人々に向って、私たちは果して皮肉に陥らずにその健在を祝し得るであろうか。
 読者は本年新年号の『改造』に載っていた河合栄治郎氏の「教育者に寄するの言」という論文を記憶しておられるであろうか。この論文で河合氏は進歩的な一人の教授としての立場から、現代若いインテリゲンツィアとしての学生の気質を詳細に観察して否定的な特徴の主なものとして五つの傾向を挙げている。その一つに、環境の影響に対する受動性と責任転嫁の傾向を挙げている。「希望館」を読み終って私の心に河合氏の論文中の数ヵ所が思い浮んだことは単なる偶然ではないと思う。山村は環境に対して受動的立場を取っている自身の態度を、客観的に批判することの出来ない人物である。社会的現実と個人との関係に於て、環境が人間を作るとだけ一面から観る態度を、若しそれがマルクス主義的な観方の応用であるというならば、誤りも甚しいものなのではなかろうか。環境は人間を作る。しかし人間はまた環境を自分から作ってゆくものである。生活の達人たちは皆この原理を体得した人々である。河合栄治郎氏が、氏としての熱誠を傾けたこの論文の中で、若き時代に健全な人間性を取り戻すためには、従来の意味での形而上学的の理想主義の人生観を彼等の中に確立させてやらねばならないと主張しておられる。「希望館」の山村がそれに対する闘いは全く放棄している非人間的な生活の現実から眼を離して夜は遠くギリシャの哲学の中にプラトーやソクラテスなどと遊んでいるその姿は、河合氏の形而上学的な人格完成の翹望の声を、間接ながら思い浮ばせた。河合氏は、人格は各人の精神的努力につほかなく、その成長を可能ならしめるためには社会制度をあるべきものたらしめることが必要であり、人格成長は必然に社会改革への情熱を伴うであろうと言っている。そして理想主義者は常に社会改革者であらねばならないと言いつつ、氏は特に高等教育が「学をそれ自体の為に愛するものの為のみ」に解放されるべきことを主張している。この間に氏の学者としての歴史性を示す微妙なギャップと飛躍とが秘されていることを感じるのは私一人ではあるまい。
 先頃「科学者の道」という映画が来て、あれを見た人はそれぞれ心に感動を受けた。科学者パストウルの生き方がわれわれを感動させるのは、彼が科学者として人類の幸福に情熱的に直接に結びついて行った、その姿である。現実の人間の苦痛と不幸に面して、パストウルは科学者としての要求から着実に次から次へと害悪を及ぼす細菌との具体的な、日常に即した闘争を行い、その途上での障害に対しては驚くべき不屈を示した。映画として観れば、細部に納得の行かぬ点、あまり好都合過ぎる点、カメラの効果の点で疑問がない訳ではなかったが、この作品が昨年度の傑作の一つとなり得たのはポール・ムニの演技がこの科学者の人間的諸感情、情熱をその仕事との綜合でまざまざと生かし得たからであった。伝統的な芸術の中でさえも優秀なものは自覚し得ない自身の制約に苦しめられつつ、人間性のあるべき姿を捕えようとする努力を惜しまない。社会の歴史と人間性とを更に客観的な新たな方向と価値で表現すべき階級の作家、特にその人々が実践に参加していたということで先入的な期待を読者に抱かせる習しをもっている作家が、現代の若い三十代の寧ろ否定的な要素を合理化するような客観的効果を持つ作品を書くこと、そのような作家の内部の組立てについては真面目な反省が求められてよいことなのであろうと信じる。
 インテリゲンツィアが階級をもたぬものであることや、可動的な本質から弱いものであるというような一応型にはまった、消極性の自認が近頃はやるけれども、本当に一人一人が、自分の毎日の生活の内部から現実に身をひたして感じつめて行けば、そこにインテリゲンツィアとしての独自的な要求が湧かない訳はないのである。労働者の要求とは又違ったインテリゲンツィア独特の面からの人間的要求、それを実現してゆく熱意、その門を通じて大衆の動きに参加してゆく可能がない筈はないのである。その道をつきつめて行った場合、はじめてインテリゲンツィアはインテリゲンツィアであるからこそもち得るという種類の、労働者とは違った、だが方向を一つにした不屈な強さをもち、質的に発展することが出来るのであると思う。何か目をそらし何か正面から自身の心とさえ取組もうとしない今日の多数のインテリゲンツィアを、先ず自身の日常の可能の自覚の前にぴったりと引据えること、その任務こそ、ヒューマニズムが生新溌剌とした新文芸思潮として負うている任務の最も重大な一つであろうと思う。
〔一九三七年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸春秋」
   1937(昭和12)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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