新築地の「建設の明暗」はきっと誰にとっても終りまですらりと観られた芝居であったろうと思う。
 廃れてゆく南部鉄瓶工の名人肌の親方新耕堂久作が、古風な職人気質の愛着と意地とをこれまで自分の命をうちこんで来た鉄瓶作りに傾けて、鉄の配給統制で材料もなくなり日々の生活に窮しつつ猶組合の工場へ入って一人の労働者として働くことをがえんじがたい心持の失望と苦悩、そういう久作の昔気質の職人肌なものの考えかたは女房友代への態度にも発揮されて最後にその久作も情勢の圧力と妻の情愛、仲間たちのさしのばす手、情理をわきまえた理事長の説得などによって今は軍需品をつくっている工場へ入る覚悟がきまる迄、友代との間に、夫婦の苦しい心持の離反としてあらわれる。そこには頑固親父のために心ならずわかれている素一とゆり子との心持もからみあいつつすべての個人生活の懊悩も経済上の逼迫も、その組合の工場で稼ぐことで解決の方向におかれたことが物語られているのである。
 薄田研二の久作は、久作という人物の切ない気質をよく描き出して演じていた。無口で、激情的で、うつりゆく時世を犇々ひしひしと肌身にこたえさせつつギリギリのところまで鉄瓶を握りしめている心持が肯ける。久作という人物は、しかしあの舞台では本間教子の友代の、厚みと暖かさと活気にみちた自然な好技に、何とよく扶けられ、抱かれていることだろう。ごく曲線的な薄田の演技は、本間教子のどちらかというと直線的なしかも十分ふくらみのあるつよい芸と調和して生かされているので、友代が、あれだけの真情を流露させる力をもたなかったら、おそらくあの芝居全体が、ひどくこしらえもののようにあらわれ、久作の存在も独り角力に終ったろう。友代の方言がうまいというばかりでなく心もちのニュアンスをつたえる表現としてこなされていたのは心持よいことであった。
 そして、友代の成功であの芝居が真情的なものに貫かれていたとも云えそうなところに脚本としていろいろ興味ある問題がひそんでいるのではないだろうか。

 小説として書かれた「建設の明暗」では友代という女の活動性が謂わば時流にあった形での機械的なあらわれを示しているという批評が一般にされた。原作者の脚色であったそうだから、作者中本たか子氏も、脚色のときはその点に考慮されたところもあったろう。然しながら、舞台での友代の味はやはり何と云っても本間教子のもので、特に、第三幕第一場の、初めて友代が国婦の班長になって会議へ出た報告を、工場の女を集めてやっている集まりの場面の空気など、どうも中本氏が脚本としてそこを描いたときのあと、教子が演じている気持との間に、極めて微妙なずれがあるように感じられ、いろいろと考えさせられた。
 本間教子は、友代の素朴な熱心な活動的な天稟のままに気稟テムペラメントの側から全幕を演じ、この幕もそのようなものとして自然に演じているのだけれど、作者としては、友代のそういう自然発生の活動性、積極的な人柄を、周囲との関係でどう考えて見ているのだろうか。国防婦人会の班長になった友代が、その役目のなかで発揮してゆく能動性について、作者は何と腹の中で見ているのだろう。そういうことにも、大衆の婦人の生活の中にかくされている能動的なものはきっかけをつかんでゆくものだ、という歴史的な目が、情愛をもって注がれているのだろうか。それとも、女のなかにある能動的なものそのものの肯定としてだけの範囲で見られているのであろうか。

 友代の情熱、ユーモア、人間らしい親しみは、いずれも人柄として演じられて成功をおさめているというところも、以上のこととの関連で、芸術上の問題として興味がある。演じいかされているために、脚本にあるそういう本質の課題がつきつめられぬまま、観ている心に舞台の友代は或る共感を与えてゆくのであるから。
 場面場面は十分観衆をひきつけているらしいのに、いよいよ久作も工場へ入る度胸が据って目出度しの幕切れの拍手は、案外にまばらであった。これは明るい幕切れであり、或る意味でのハピイ・エンドなのだが、今日の観衆の生活感情のどういうものがそのハピイ・エンドに満腔の喝采をおくり得なかったか、それは俳優よりも寧ろ作者へむかって観衆が今日の現実から与えた意味ぶかいおくりものであったろうと思う。
 現代、明るさの真実な姿を芸術に描き出すことは決してやさしいことではなく、事件の目出度い大団円がとりも直さぬ明るさとして納得されにくい例は、別な場合であるが徳永直氏の「はたらく人々」の後半のまとめかたにも見られる。明日への課題として、芸術一般が当面しているむずかしく複雑な宿題と思われる。
〔一九四〇年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1940(昭和15)年1月15日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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