作家にとって教養というものは、どんな関係にあるのだろうか。これまでのいろいろの時代に、作家と教養のことが云われたのであったが、それぞれにその時代の文学的趨勢とでも云うべきものを、何かの形で反映していることは、今日私たちを考えさせるところだと思う。
 徳川時代というものの中で眺める馬琴というような作家は、同時代の庶民的情調に立つ軟文学の気風に対して、教養派のくみであったろうが、馬琴の芸術家としての教養の実体はモラルとしての儒教に支那伝奇小説の翻案的架空性を加えたものが本道をなしていたと思える。その意味で作家馬琴の所謂教養はつまらなくもあるけれども、今日の私たちに興味を抱かせる点は、官学派のようなこの作家も時代の活きた脈動には自ずとつきうごかされるところがあって、当時の諸国往来の風俗・俚謡・伝説などにつよい関心を示しているところは面白い。伝統的な士道の末期的な教養は一面で馬琴の世界に勧善懲悪の善玉悪玉をつくり出しているとともに、他の半面では既に封建の石垣がくずれようとしている現実的な力に浸潤され、より現実の市民常識への拡大が行われているのである。
 明治の初期の文学では、江戸末期の戯作者風な作者と黎明期の啓蒙書・翻訳文学が対立したが、尾崎紅葉の硯友社時代には、仏文学の影響やロシア文学の影響をもちながら、作家気質の伝統は戯作者気質の筋をひいていた。坪内逍遙の「当世書生気質」は、日本の近代文学の第一歩の導きとなって彼の近代小説論「小説神髄」の創作的実験であったが、その作品の世界は書生という姿に於て踏襲されている昔ながらの遊蕩の世界であり、その遊蕩というものに対する作者の態度も、戯作者的現実追随の域を脱していなかった。
 こういう時代に、二葉亭四迷がロシア文学の教養から、人生における男女の自我の対立や個性と通俗のしきたりとの摩擦をとりあげたことは、まことに驚くべきことであったと思う。二葉亭の、当時の日本文学の通念より前進しすぎていた人生的教養は、逆に彼に文学は男子一生の事業に価するものかどうかという懐疑に陥れている。このことも、私たちに少なからず暗示するところがあると思う。
 硯友社の文学的傾向に対して、作家は昔の戯作者に非ずとして、人生的な教養の必要を強調したのは、当時の内田魯庵その他所謂いわゆる人生派の論客たちであった。
 自然主義文学の動きは、硯友社的美文で造り上げられた現実を文学から追放して、もっとむき出しの、教養以前或は七重の教養を八重に引剥いだその底の人間性と真正面から取組もうとした、一応の教養を否定する教養に立っておこったわけであった。
 ところが、日本の近代文学の血脈は、自然主義を生んだフランスの思想と文学の伝統とはまるきりちがっていて、フランスの有識人が代々を経て来た啓蒙時代、唯物論時代を経ていない。同じ自然主義の流れも、日本の生活の現実の土壤をうるおして結んだ実は、既成の教養を否定するに足る新たな文化力としての鋭き現実的な教養ではなかった。日本の市民一般のおかれていた教養の低い水準のままに作家の内的世界も肯定された形をとらざるを得なかったと見られる。
 夏目漱石の文学、森鴎外の文学及び、漱石系統の帝大などを出た新しい作家たちの作品が、知識人の間に広く反響をもったのは、一方に自然主義の傾向をもった文学の、桶を桶というに止ったような真実性への反撥であったと思えるのである。
 しかしながら、夏目漱石にしろ森鴎外にしろ、何と日本の明治時代そのものの文化的混淆を大きくその生涯に照りかえしていることだろう。漱石のイギリス文学の教養、支那文学の教養は、二つながら他の追随を許さぬ程度であったらしいが、彼の作品は、決してこの二つの教養の源泉からだけは生れていない。明治元年に生れた日本の男という、その時代が彼にたたきこんだ封建のぬけきらない、儒教の重しがのき切らない一生活人の脈搏が漱石の全作品を貫いて苦しく打っているのが感じられる。男対女の相剋を、漱石は「兄」などの中にあれほど執拗に追究していながら、問題は常に女という一般の性に向っての疑いとして出されていて、結婚の習慣のありよう、家庭という観念の内容については、不思議なほどふれられていない。男女の相剋を自我の相剋として見る面で漱石の西欧的教養は大きい創造のモメントをなしているのであるが、漱石が我ともなく昔ながらの常識に妥協している面では、そのような男女の相剋をもたらす日本的現実の条件の追究をとりあげ得ないでいる。日本における夫婦間の相剋は、少くとも漱石の作品の世界では、ストリンドベリーの文学の世界のそれとは、その発生の社会性に於てちがっている。そのちがいが現実に作用しているだけ深刻巨大なちがいとしては抉り出されていない。漱石の教養の歴史性の片影は、こういう点にも見られるのである。
 鴎外は漱石とまたちがい、この文学者のドイツ・ロマン派の教養や医者としての教養や、政府の大官としての処世上の教養やらは、漱石より一層彼の人間性率直さを被うた。彼が最後の時期まで博物館長として、上流的高官生活を送ったことは、彼に語らせればゲーテ的包括力であったかもしれないが、歴史の鏡には、やはり文学者としては伝記の研究に赴かざるを得なかった必然として映し出されるのである。
 漱石の系統に立って、教養を自分の芸術の砦としようと試みつつ、遂に時代の大きい動揺によってその砦を壊されつつ己はその崩れた石の下となったのが、芥川龍之介であったと思われる。
 この時期を一区画として、文学における教養の問題は、日本文学の中で未曾有の一飛躍を示した。従来は、教養というものに対する作家の態度が、二別二様に分れていたと考えられる。一方には、小説は学問や教養で書くのではない、という、創作における教養の役割を否定的に見た人々があり、その大づかみな分けかたの中には自然主義から発足した作家たちも、白樺のように人間性ヒューマニティにじかに立って自分の声をのままで育てようと努めていた人々も入ったと云える。他の一方には、漱石からはじまって芥川龍之介などのように、俗人的教養を否定する武器としての文学的教養を高く評価した一群の人々があった。これら二様の態度は、教養に対しては二つの端に立ちつつも、世俗的な常識に対して戦う態度は相通じたものをもっており、同時に、反撥し或は評価する自身の態度とともに、対象となる既定の文化・文学的教養そのものの歴史的な本質については深い省察を加えないところも、共通であった。
 芥川の死の前後、昭和初頭前後から、日本の文学は、その流れの中に、昔ながらの一つ流れから只わかれたというばかりの相違ではない相異を質的に主張したプロレタリア文学が強い潮騒いをもって動きはじめた。
 この文学運動が日本文学にもたらした消えざる功績は、文学作品の社会性についての見解と、文学を大衆にとって、買って読まされていたものから、自分たちの生活から生み得るものという理解に立ち到らせたこと、及び過去の所謂教養というものを身につけていないことが直接の恥辱ではなくて、自分たちの人生における現実の関係が自分たちに与えている判断を土台として新しい文化と教養とに成長し得るという見とおしを与えたことである。
 日本の文学の歴史のなかで、この重要な時期は時間的に極めて短かかった。そこには又、自然主義が日本とフランスではちがった花を咲かせたと同じような日本の独特な社会の事情があったわけであるが、とにかく、数年を経て再び作家と教養の課題が立ちあらわれた時には、この教養の実質が過去への屈伏を意味したとともに、その必要を云々する作家の人生的迫力も、到って甲斐甲斐しさを喪失したものであったことは、注目されるべきところであろうと思う。
 僅か数年ではあったとしても、過去の云うところの教養を身につけていない新鮮さを寧ろ文学の世代としてのよりどころとして発足しようとしていた若い作家たちにとって、退陣の形としてあらわれた過去の教養の尊重の流行は、多くの混迷をわきおこした。そして、現実の文壇処世としては、一般の教養的素地の未熟さを逆に反映してのこけおどしの教養ぶりも出現した。その意味では、この時期における教養尊重の風は、漱石時代より萎靡したものであったと云い得るのである。
 幾変転を経て、今日、私たち作家は自身の問題として、教養というものをどう見ているであろうか。これは興味のあることだと思う。文学的教養はこの二三年来実に急速に、容赦なく低下しつつあって、而も、その低下の現代の特質は、作家自身その低下をちっとも恐怖していないように見えるところにある。もし、現実の多岐な発現が、過去の文学的教養の枠を溢れているので、そんなものは今日の作家にとって無意味であるというならば、では、それに代る他の教養、真に現実を把握し、現実の変転の真の歴史的契機にふれ得るだけの科学的な教養、政治的な教養を身につけているであろうか。この問いに対して作家の答えはたやすくは与えられまいと思う。作品として表現し得るか得ないかという外的な条件の限度を、作家として本質的な現実把握力としてこの教養の限度と自分からきめて、そこで馴れ合っているということは見られないだろうか。
 歴史の或る時期に文化は本質に停頓しつつ、文学の購買力は高騰することがある。作家は、後者と自分の書く腕とを現象的に結びつけて、それを文学的な創作として自分にも云いきかせている危険はどこにもないと云えるだろうか。
 今日の私たちにとっては、最も厳粛な意味で、人間の教養とは如何なるものであろうかということが再び考えられなければならないと思う。そして、この場合教養と呼ばれるのは、今日ひととおり教養があるとか知性的だとか云われる文学作品の真の生活的・文学的価値を、再評価してゆく生活的・社会的洞察であり、文学的教養と云う意味は、或る作家の作品中の文句を会話の中に自由にとりいれて来ることではなくて、それらの文句の真の生命を嗅ぎわけてゆく生活力としての文学への敏感性であると思う。
 ホーマーの詩の百千の句を知っていることのよろこびより、自身の世代の真の歌を、何かの形でうたいうる名のない一人の作家であることのよろこびは、何と謙遜でしかも激しいであろうか。作家は、文化として一般の教養の低いことを怪しまない時代にめぐり合えば、そのことに対する本然な疑問から先ず彼の作家的成長の一歩が始まるとさえ云い得るのだと思う。
〔一九四〇年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸情報」第六巻
   1940(昭和15)年5月下旬号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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