「凝視」という作品を私は様々の感想を動かされながら読んだ。体が悪くて働けない十九の娘の野沢富美子が、父と弟とに「豚、食いつぶし、くたばりぞこない、厄病神」などと罵られながら、荒々しい境遇に荒々しく抵抗して「煉瓦女工」が出てから一躍有名になり有名になったことに絡んで又そこに別な荒っぽい波の打って来た前後のことをありのまま書き連ねたものである。
ここには、野沢富美子が、急に自分をとりかこんで天才だの作家だの人気商売だからと半ば嚇すように云ったりする人間だの、急におとなしくなった家のものだのに向って感じる信頼の出来ないいやな心持が、極めて率直に語られている。富美子の生麦弁を「言葉の気魄」とかいたりすることへの皮肉な気分も書かれていて、それ等の反撥はいずれも同感をもって思いやられた。野生な自然な反撥があるのだが、同時に野沢富美子が、その反撥をバカな流行唄をジャンジャン歌うというような形でしか表現することを知らないことに、心からの気の毒さを感じる。深い時代的な意味も加わってこの気の毒さは感じられるのである。所謂お品をよくするのでなしに、彼女の生活力と文才とを健全に成長させ、境遇の意味をひろい視野から理解させてやることこそ周囲の人の責任であろうと思う。
〔一九四一年一月〕