題は「婦人の創造力」という、何となし難かしそうな題目ですけれども、話の内容はそうぎごちないものでなく、昔から女の人で小説を書いた人があります、そういう人の文学が日本の社会の歴史の中でどんな風に扱われて来たか、また婦人はどんな風に小説を書いて来たか、今日私どもはどんな小説を書きたいと思っているか、或は将来女の人がどんな小説を書けるような世の中になって行くだろうかという風なことを、お話してみたいと存じます。
 女の人が文学の仕事をしたというとき、いちばん先に考えられるのは「源氏物語」です。「源氏物語」は立派な小説であり、紫式部がなかなか立派な小説家であったことは、作品を読めば分ります。けれども、その後の日本でこの作品がどんな風に扱われて来たかと考えて見ると、大変興味があります。昔から国文学者は「源氏物語」の立派さをいろいろな角度から研究して、ちょうどヨーロッパでシェークスピア字引があるように、「源氏物語」の中に使われている言葉について、家の造作について、着物の色合について、一つの字引のようなものさえできているような研究がございます。けれども、日本の国家が文化政策の中で「源氏物語」をどんなに評価して来たかと考えると、意味深い面白さがあります。
 先頃まで、日本というものは世界でいちばん偉い国だという風に支配者は吹聴しておりました。世界でいちばん偉い国が、自分の文化を世界に誇らねばならないとき、どういう文学を誇ったらいいのでしょう。偉い人たちが考えた結果「源氏物語」は、ともかくその内容も、様式も世界文学に類のないものだから、あれがいちばんいいと考えて、外務省の国際文化振興会ですか、ああいうところで「源氏物語」をいろいろな形で断片的にも紹介しました。この間ソヴェトの作家シーモノフ氏に会いましたとき、日本の文学について何を知っていらっしゃいますかと訊ねたら、「源氏物語」を知っているということです。それは、大変珍らしいものを知っていらっしゃる、どれだけ読みましたかというと、ほんの抜萃のようなもので、日本文学の代表として紹介されているものを読んでおられました。ソヴェトの作家でさえそうですから、他の外国では「源氏物語」という名だけは、或は有名になったでしょうけれども、その文学としての実体は、本当に理解されていなかったのでしょうと思います。今までの日本の対外文化政策で、「源氏物語」という作品をどういう風に紹介したかといえば、あの作品は日本の十一世紀頃に書かれたものであって、その作者である紫式部という女性は、藤原家出身の中宮が、政策のために自分の周囲に文学の才能ある婦人を召しかかえた、その宮女の一人であったという現実を率直に語りはしなかったでしょう。紫式部はこれだけの天才を持ちながら、歴史の中では藤原氏の一族中の末流の家に生れたことは分っているが、何子といったのか本当の名前は分っていません。紫式部というのは、女官としての宮廷の名です。女流文学の隆盛期と云われた王朝時代、一般の婦人の社会的な地位は、不安で低いものでした。その中から、こういう小説を書いた。そして紫式部が書いた小説にはなかなか立派な描写があるし、同時に彼女の生きた時代の女のはかない生き方、大変に風流のように、美くしそうではありますけれども、実際には、婦人の独立を守る経済基礎は全くなくて、男まかせの憐れなはかない女の状態を、女として、女のために苦しく気の毒に思っている。その作者の真面目な心も一貫して流れている物語です。
 日本の役人の文化政策は、「源氏物語」一つを例にとってもそういう社会的な背景、作品の社会的な意味をはっきり知らせて紹介しているのではありませんでした。ただ古典中の大変立派な文学で日本の誇りである、あなたがたの国に、女性によって書かれたこういう誇るべき文学があるか、という風に出されたのです。十一世紀以後の日本が封建的な社会制度をどういう風に変えて来たか、或は、どの程度までしか変える力がなかったか、その歴史の推移の中で今日紫式部の生涯はどう理解されているか、つまり日本の歴史の中で婦人の生活はどう推移して来ているかということなどには、触れずに紹介している。そうなると紫式部も「源氏物語」も、つまりは宙に浮いてしまいます。文学を、歴史やその作品の生まれた社会からきりはなして見ることは本当の文学の鑑賞の仕方、読み方でもないし、或は自分の好きか嫌いかを決める標準としても不十分です。
 もう一つ別の例を考えて見ましょう。イタリーをムッソリーニのファシズムの政権が支配してから、私ども日本へもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ダンテなどをイタリー文化の華としてたくさんの金をかけ、大規模な展覧会まで組織して紹介されました。ファシズムのイタリーが、どうしてレオナルド・ダ・ヴィンチやダンテなどばかりを担いだのでしょう。ナチス・ドイツが、なぜゲーテばかりをあのように担いだのでしょう。そして、軍閥封建の日本で、どうして「源氏物語」ばかり世界に押出し、紫式部以後の日本の社会で婦人がどんなに生きて来ているか、婦人たちがどんな文化上の仕事をして来ているかということを人間の生活の発展の歴史として紹介しようとしなかったのでしょう。誤った民族主義や民族の自負心というものは、自分の民族の歴史を公平に判断し、その中から親切に民族にとって値打のある様々のものを発見してそれを世界に紹介するという態度をもたせません。いつも、自分の方にはこういうものがある、どうだ、という誇示した形でそれを示します。自分の歴史に科学的な客観的な評価がもてないのです。なるほど、レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス時代の大天才の一人であり、その綜合的な独創性は冠絶したものです。ダンテにしても、「神曲」は空想とリアリズムの混った独特な作品ですけれども、これらの人々から後、イタリーの民衆は営々として数世紀を生活しつづけて来ております。そして、マルコニーのように人類に貢献した発明家や卓越した何人かの音楽家、作家にしてもボッカチオのように市民社会の擡頭期を代表する立派な作家もありました。イタリー人の歴史の中には、たくさん立派な人が出ております。しかし、ファシズムは、主観的な、独裁の立場から、そういう風に本当の民族の宝を歴史の段階に応じて掘り出して、それを今日に生かすという角度から自分達の民族の歴史を見る能力をもっていませんでした。世界に対して自分だけが号令をかけようとしたばかりか、自分の民族に対しても文化独裁の号令をかけました。それには、誰にも一通り異存のない、民族の誇りという単純な固定した標準を押しつけて来た。こういう点から考えてみると、日本の最近数年間に「源氏物語」が官製翻訳され、文化上の偉い婦人作家といえば紫式部にきまったもののように扱われていたということに、却って、日本の文化がどんなに創造力を失い、圧しつけられ、文化史としての新しい頁を空白ブランクにされていたかという、重大な文化上の問題があらわれているのです。
 ところで、近代になってからの婦人作家の立場、婦人の文学はどういうものであったか。樋口一葉をとって見ましょう。一葉は明治の初め、自然主義が起ろうとする頃、それに対抗して活溌な文芸批評などを行っていた森鴎外を先頭とし、若い島崎藤村その他によって紹介されたヨーロッパのロマンティシズムの影響をうけながら、一葉自身がもっていた日本風の昔気質のような気分――美しいけれども狭い、狭いけれどもやはり美しいという風な一つの境地をもった文学に完成しました。まだ深く封建的な眠りがのこっていて、しかし半分目覚めている気持がヨーロッパのロマンティシズムと大変うまく結合して、美しい「たけくらべ」という小説ができました。この作品をたとえば、昨夜の露が葉末についていて、太陽が輝き初めるとそれが非常に美しく光る、しかしそれは消えて行く露である、そういう風な美しさ、美しさとしては「たけくらべ」は完成しています。一葉も大変代表的な立派な作家という風に見られております。けれども、一葉の時代はまだ日本にジャーナリズムが僅かしか発達していませんでした。『新小説』だとか、春陽堂から出ている『文芸倶楽部』とか――後には大変通俗的になったけれども、露伴だとか一流の作家たちも当時は『文芸倶楽部』なんかに書いたわけです。その頃婦人作家が擡頭して大塚楠緒子とかいろいろな人がいて、やはり芸術的な力では一応の作家だったけれども、当時の社会ではまだ文化が低かったから、それでもって食べて行くことはできませんでした。今日古い雑誌を見ますと、当時の婦人作家を集めて『文芸倶楽部』が特輯号を出していますが、そのお礼には何を上げたかというと、かんざし一本とか、半襟一掛とか帯留一本とかいうお礼の仕方をしています。そんな風に婦人の文学的活動は生活を立てて行く社会的な問題でなく、趣味とか余技のように見られていました。一葉なんかも大変に面白いことは、一方に「たけくらべ」のような作品もありますけれども、日記を読むとなかなか気骨のある婦人でした。御承知の通り大変に困難な日常生活をして、駄菓子屋までやるような生活をしていましたから、歌のお師匠さんの所へ出入りしても半分事務のようなことを手伝って教えて貰っています。そこで貴族的な女の人たちと一緒に歌の会があるときには、一葉は何時も腹の立つような思いをしました。そういう女たちは我儘で得手勝手で、名誉心が強く、一葉の才気を憎らしがってお嬢さんらしい図々しさで押しつける。それに対して一葉は憤慨しています。向島のお茶の席のような所に歌の会があって、きれいな着物を着て行った。――その頃はいまと違ってそういう所へ行くには三枚重ねの縮緬の着物を着て振袖で車を並べて行ったもので、一葉も借着をして行く。やっと体裁を繕って、自分の生活や気持とは大変に離れた環境の中で風流らしい歌もんで、帰って来ると、自分の心を抑えることができないで憤慨する。日記の中で、そういう女の人達に混って食うに食えないような自分、着物さえも借着である、そして、お追従を云いながらあの人たちの中に入っていなければならないのか、馬鹿らしいことだ、口惜しいことだと憤慨しています。自分の働いて生きて行く女としての立場、それから自分のように努力もしないし、熱心に文学の仕事をするのでもないただの平凡な男が男であるばかりで役人になって――あの頃は役人万能の時代だったから、正四位とかけちくさい私どもにわかりもしないような位を貰って、立派な着物を着たり、金時計を持って――漱石の「猫」でも金時計を書いていますね、金時計が一つのシンボルになった時代があります。――けれど私は陋屋の中で小説を書いている。女はつまらない、男は愚か者でも世の中を渡って行くのに、と一葉は或る自己批評をして、こんな苦しい生活を止めてしまおうかと思ったことさえあった。そんなに憤慨して熱血迸るというところがある。それだのに小説をお読みになれば分るように、「たけくらべ」「にごりえ」のようなものに女の憤慨を漏していますけれども、一葉はその時代の婦人の文学というものの考え方、いろいろなものに支配されて自分の憤慨している気持、向島の歌会の風流の中で憤慨して苦しく思った気持、それをその儘あれだけ立派な文章の書ける筆で書かなかった。若し一葉がそういう気持を小説として書いたならば、あの時代としたら全く新しい小説、新しい明治の女の小説であった。しかし、一葉はやはり自分の持っている社会に対する理解から文学というものを一つの風情としています。一つのりんとした形として自分の文学の中に表現して、人にも訴え、人の心の中にもその欲望がある、人の生活の中にも条件がある、お互いの生活に共通しているもの、それを感じることができなかったわけです。
 その後、大正の頃になってからは、御承知の通り第一次のヨーロッパ戦争で日本にも資本主義が急に発達したから出版業も大きく拡がった。それは円本の流行を御覧になっても分ります。改造社という所は、あの頃もりもり大きくなり、講談社はあの頃から戦争犯罪人になるほど儲け初めた。だんだんいろいろな所で大きな出版をやるようになりました。そうして作家の生活も非常に変って来ました。その変り方を申しますと、いろいろ面白い点がありますけれども、婦人作家のことだけに限っていえば、つまりこういう風な出版は、結局に於ては自分が金を儲けるのが眼目です。どんなに立派なことをいっても金を儲けることが目的で、婦人作家を強大にするにしろ自分の利益と見合せてのことです。一番ひどい場合は、今から七、八年前になりますか、女の作家が非常にたくさんいろいろの仕事をした時代がありますが、ちょうど太平洋戦争の前の時期で、女の人は一所懸命にいい小説を書きたいという努力からいわゆる婦人作家といわれるものが登場して来ていろいろな雑誌にたくさんのものを書くようになった。数から申しますと明治の一葉の時代の一つの大変注目すべき時期と同じように婦人作家の数がえて大変にたくさん書くようになりました。ところが、そういうときに女の人の作品に対する男の作家の評価と申しますか、文学の中の婦人の文学をどう評価したかという問題になると、そこにはやはり一つの問題があって、婦人作家は作品の中に女らしいものを要求された。女らしいということは、女ですからどんなに男の中へ入っても女は女です。つまり防空演習のときに梯子に登っても、爆弾が落ちたとき何を被って逃げたとて女は女である。別にそんなに女々といわなくとも自然に女は女の可愛いところがある筈です。文学評価の中にへんに女っぽいことを持込む必要はないのです。女らしい女心、女の心ですから女心になりますけれども、同じことをいっても女の声は自然にソプラノになるのだから。女はまた女の持っている特殊な社会状態があるから男の知らない状態もたくさんあるわけです。それを正面から女らしさという問題で片づけるのでなくて、女がどんなに人間であるか、男と同じように、この世に幸福を求めて幸せになって一生の値打を発揮して安心して働いて生きて行きたいという、男と共通の人間らしい心を先ず認めて欲しい。別に意識的にソプラノを歌うのでなく、人間の声を出せば女は自然にソプラノとして出て来る。そのように文学は生活の声であり、心の声、思いの歌である。女が歌えばソプラノにもアルトにもなるけれども、それは女の芸当ではない、もっと真面目なものです。ですから、或る時代に婦人作家が大変に擡頭した場合にも、真面目な婦人作家は苦しみました。それは妙な女っぽさを要求されたからです。ざっくばらんにいえば、婦人で画を描く人、婦人で小説を書く人は、なんだか普通の女の人と服装なりから、見たところから違う、なんとなく一風変った風になってしまいます。それは生活が普通の女の人よりもう少し自由であり自分というものを主張しているのですから、服装にもすべてにも現れるということはありますけれども、或る意味ではそれを自分から誇張するような立場に入る。そのために、女の人の文学がそれほど数が殖えた時代でさえも、女の人が真面目な婦人の社会的な問題について闘う態度、喧嘩腰ではないにしろ、真面目にその人がそれを求めているということが強く強く主張されるように理解されるように心を打つ文学、そういう風なものが少く、縫取りしたもの、やはり女細工で色どりがきれいでしなやかな、あってもなくても日本の文学が前進しなかったもの、つまり飾りが殖えたもの、そういうものが多かった。そういう時代に、たとえば極く新しい人として、作家にならない時代の豊田正子さんとか、野沢富美子さんとかいう人が出ました。野沢さんも、豊田さんも才能のある人で、生活にしっかりくっついたいい素質を持っている人です。それをどういう風にジャーナリズムの関係では利用されたか、豊田さんは「綴方教室」で有名になったけれども、本当にあの人を立派な作家として育てて行くために何をしたでしょう。中央公論社は小説を出して儲けて社会的の一つの機会を与えただけで後はそのままです。野沢富美子さんの「煉瓦女工」はこの頃になって映画にもなっているけれども、第一公論社は野沢さんを食ったような所があります。そういう風にして、立派な才能、或はよくなる才能でも、商売と結びついた文学の中では非常に純粋に立派に伸ばすという真面目な気持をもって扱われにくい。商売の本性はそういうものです。
 それがもっと悲惨なことになったのは、婦人の文学ばかりではありませんけれども、戦争が始まって以後、最近の終戦までの間の文学です。この間の日本の文学の在り方はどうであったか。作家が腰抜けだったということもいえます。しかし日本の作家はヨーロッパの作家よりも日本の経済基礎が薄弱なため文学上の経済的条件が悪いからその日暮しです。家族を養って行くためには食わねばならぬ。食うためには、月給取ではないから書かねばならない。書くのは何か、天に向って書くわけではない。紙にペンで書き、その書いたものが印刷されねばなりません。印刷はどういう過程でされるかといえば、やはり商売の雑誌、ジャーナリズムの上に発表される。そのために出版業者は情報局の忌諱ききに触れるものを出したら睨まれて潰されるかも知れないからぐにゃぐにゃになって、できるだけ情報局のお気に入るようなものになって存在しようとする。そういうものに作品を載せねばならないとすれば、腹が立ちながらも、割りきれないものを感じながらも、或る程度追随して行かねばなりません。日本の最近の実に野蛮極まる文化の堕落で、男の作家は勿論のこと、女の作家でも非常に困難な状態になった。その人が悪いということでなく、そういう風な全体の仕組みのために作家は辛い状態におかれました。それと闘うことができないほど上からの圧迫があり、治安維持法は恐ろしいものだった。それに対して女の作家も十分な闘いをすることができませんでした。それでみんな大変苦しい状態を過して、そういう歴史を経て、今日私どもの日本ではやっと民主化という声が始まりました。明治以来、初めてめいめいが一人の人民として生きて行く権利があり、自分が感ずることを正直に述べてよい権利があり、書いてよい権利があり、社会を自分達のものとしてよくして行き、明るく愉快にして行く、それでよろしいのだという時代が始まって来ました。ですから、文学もここで改めて考え直さなければならない。日本の民主主義の文学、民主的な文学の伝統は明治以来決してなかったわけではありません。第一、明治の初めはフランスの影響を受けて自由民権の思想が盛んで、男も女も一人の人民として平等の権利を持って社会を建設して行くべきだという観念があって、その頃の女は男と同じ教育程度を持つようになっていた。けれども、明治二十二年に憲法発布になって、日本は封建をひっくりかえして新しい日本になった筈だけれども、憲法が発布されると同時に、元の封建の方が都合がいいと思ってだんだんそういう風になった。女の教育も女学校が三十二年かにできて、女は内助者としての学問があればいいということに文部省で決めました。ですから、女の教育程度は明治の初めにおいては高かった、文学をつくる素質も高かった。そうして自分の能力を発揮することもできました。けれどもその後は男がつくって行く世の中で、男の損にならない程度に利巧であって男の邪魔にならない程度に馬鹿であるという女を要求しました。ちょうど日本の政府が徳川時代からの農民をそのまま小作人にしておいて――徳川時代には百姓は生かすべからず殺すべからず、はっきり生きればいろいろ文句をいうし、殺してしまえば働かないからといった考え方だったのと同じです。女というものもそれに似たようなもので、あんまり馬鹿でも困るが利巧すぎても厄介だという風にしてやって来た。そのため婦人の民主的な文学というものは婦人自身の中には非常に僅かしか芽生えないで、そのあとは進歩的な男の人達が文化全体の問題として問題にしました。
 一葉の時代でも或る種類の――内田魯庵という風な評論家たちはやはり一葉なんかの文学に対していろいろ疑問を持っていたけれども、平塚雷鳥の出た明治四十年頃、青鞜社の時代という頃には女の人自身が自分達で自分達の才能を発揮するようにという希望で婦人の才能を押出そうとしました。ところが、その時代はまだ婦人のそういう風な才能を押出すということはその人が社会的に本当に独立していなければ成り立たない、親の脛をかじって気焔を上げても駄目だということが分っていませんでした。そのために平塚さんたちの青鞜社の運動も或る種類の僅かな人、たとえば野上彌生子さんのような人は後には青鞜社から離れたけれどもあの時代に出た人です。青鞜社の全体の方から申しますと、はっきりした社会的基礎をその人達が持っておりませんでしたから、雷鳥さんは年をとってしまって大本教の信者になった。社会の中にはっきり自分を密着させていなかったからです。
 今から十何年か前に、世界と一緒に日本の民主的な文学運動――その頃はその時代の或る歴史的な理解からプロレタリア文学といわれたけれども、しかし根本は今日私どもが求めていると同じように、人間は人間らしく生きよう、人間の声は十分出されていいもの、そうして美しいものをつくって行こう、ということを主張した文学運動――がおこりました。その方向は、やはり民主主義的な基礎に立っていますから、婦人も特に男より劣ったものとは考えない。却って婦人が今までたとえば小学校教員でも女の教員は月給が初めから安く、且つ永久に安い、たとえ五円でも安くなければ気が済まないという有様で、各官庁会社に勤めている婦人達もそうでした。あの人がいなければちょっと困るという位置の人でも地位は男より低い。古い古い女の人を見ると、うちの国宝だとか、生字引だとか、女でないものになったような扱いをする。そういうことから、苦しくて罷めてしまうという場合もある。それから家庭における女の人がやはりあまり利巧でも困るが馬鹿でも困るというひどい扱いを受けている。そういうことに対して女の人の十分な声、十分な立場、女が幸福であれば男も幸福であるというそういうことを主張していた佐多稲子さん、平林たい子さんのような人達、このような人達は女というものは男よりも決して劣ったものでなく、劣っているとすれば、今までの永い歴史の中に女のおかれていた社会的な地位、そういうものが女を苦しめ低くし、同時にそれが男をも苦しく低いものとした、だから男と女とは援け合って生活全体をよくして行かねばならないという立場に立っている人達、そういう時代に出た婦人作家達も、歴史的な素質を持っています。こういう人の小説は新しいはっきりした日本の歴史における社会的地位を持っています。
 戦争の間はみんなひどい目に遭いました。誰でもその時楽をした人はありません。それで、今日になって初めて自分達の口を抑えていたものがとれて、なにかというと私どもの手からペンを取上げて牢屋へぶち込んだそういう力はなくなった。今こそ私どもは日本全体が新しい民主的な日本になろうとする喜びの中に全身的に参加して行くという熱情を持っています。婦人参政権は文学という問題と違うけれども、政治は毎日の生活を処理して行くものであります、この頃のどさくさで金を儲けている人間もあるが、しかしわれわれはやはり困っています。そういうことについて現実の生活が教えている以上、一葉が文学と生活を一つものと理解することができなかった歴史に鑑みて、一葉が才能があったかなかったかの問題でなしに、今日私どもは一葉より才能が少いかも知れないが、しかし私ども全体はこのゼネレーションというものに誇りを持っています。今日の世界に生き、今日の日本に生きているという誇りと献身的な情熱を持っています。
 それは、あなた方が今日話を聴きにおいでになるそのお心持の中にはいろいろな好奇心もあったかも知れないし、久し振りだからこんな話も聴いていいという気持があったかも知れませんけれども、いちばん根本は何か、やはり話している人達と同じように生きている値打、生きている喜び、悩みをはっきり自分で知りたいという気持だと思います。自分の心にあるものを私どもは話す、受けて応えるこだまこだまの美しさ、そういうものを求めて来ていらっしゃると想像します。
 あなた方一人一人は英雄ではないでしょう。私どもが一葉より文学に於て才能が劣っているかも知れない。しかし歴史は新しい、皆さんの素質は新しい。あなた方はとくに英雄ではないでしょう。或は貧乏な人もありましょう。自分の手紙を書くのも億劫おっくうな人かも知れない。どんなにマルクスが偉くてもマルクスの生きていた時代ではありません。どんなに小さくても、私どもはその「資本論」を読んで自分たちの生活を改善して行くことができる、そういう条件下におかれている小さい一人一人です。けれども小さい一人一人の持っている新しさ、美しさ、真実さ、闘って行く力、自分の生活を築いて行く力、それがこれからの文学です。新日本文学、新日本文学会と皆新がついています。この頃新の字が何にでもよくついている。しかし、百万の新ができたとて驚かない。何故ならば本当に新しいものになろうとすれば皆新の字がつくべきです。あなた方自身も自分の新しい今日、明日の新しい日本を創り出すために熱心に生きていらっしゃる。お互いつくって行く文学は実際的な内容です。ですから文学が一つの画に描いた餅のように腹のたしにならないようなものにはならない。腹の空いたとき腹がなぜ空くかということがわかる、この腹の空いた嫌な気分を何処に持って行くかということがわかれば腹が空いたのも忘れて笑う。こういう生き方もまたわかる。そういうようなものが私どもの文学です。そういう意味では、男の作家も女の作家も表面上区別はありません。先程申上げたぐにゃぐにゃした女心など一つも必要としません。女は女として生れているから、お婆さんになっても女の可愛らしさ、女の美しさがる。男はお爺さんになっても男の雄々しさ立派さというものがある。そういう風な素直なあるがままの人間として、熱心に真面目に生きて行く人間としての文学、そういう情熱の溢れるものとしての文学、お互いがお互いの言葉として話せる文学、そういうものを求めているわけです。ただ文学は一つの技術が要りますから、いきなり誰でもここにいらっしゃる方みんなが小説を書くことはできません。しかし、文学というものは師匠がなくても済む、これは一つの面白い特徴だと思います。皆さんどんな人でも一生のうちに手紙を書かない人はないでしょう。十五、六歳に誰しも日記を書き始めたくなって書きます。一生続ける人もあるし、途中で止めてしまう人もあるけれど。してこの戦争では夫を或は子供を戦線に送った人々は皆手紙を書いています。あれは一つの文学的な歩みからいうと日本人というものがものを書くということについての大きな訓練だったと見ることができます。人間の心の話としての文学の端緒はそこにある。だから文学は師匠が要らない。ところが音楽になると、声を出すこと、譜を読むこと、指を大変早くピアノの上を滑らす技術、そういうものがたくさんの分量を占めていて、どうしても先生がなくてはならないから、金持に独占されます。しかし文学は先生なしに、手紙を書き、日記を書き、恋文を書くことの中に心の声が歌い出すから、私どもにとっては、文学は生活に織込まれた芸術です。この文学の勉強のためには学校なんかいくらあっても役に立ちません。大学を卒業したからといって小説が書けるものではない。小説や歌をつくることは生活と心を結びつけて表現して行くのであって、個人の持っている天性の力もあるけれども、社会が十分にそれを認めて、どんなへんないい方でも、そのいい方の中にはその人の生活があり、私どものその時の生活が反映されているものとしてすくい上げて行く力、それがあれば、いたわられて社会の中に私共は伸びることができるのです。今までのように何を言ってもいけない、何を書いてもいけない、お前たちは黙って死んで行け、さもなければ牢屋へ放り込むというのでは自分たちの声を発揮することはできません。これから新日本文学会なんかで計画しているいろいろな文学の集り、たとえばこういう集りもございますけれども、また小規模な書いたものを持ち合って研究する集りもできます。雑誌も作るし、いろいろな程度の高い文学的作品もできていいし、ごく初歩的な手刷りのもの、原稿紙を綴り合せてお互いに見て廻るという初歩的なものでもいいから表現して書いて現わす。電車の中でいろいろな出来事を見た場合、それを一つ日記に書くのでも、書くとなればもう一ぺん考えます。あの時あの女は「潰れますよ」と怒鳴っていた、そういえばひどいことだ、ひどいことといえば治安維持法がなくなってもまだまだ不合理はある、子供が電車の中で潰されて殺されたらその責任は親にあるなんてなんというひどいことだろうと考えます。しかし女なんて不思議なものだ、民法で妻は無能力者になっている、女は結婚すると無能力者になってしまう。一家を賄っているのに、自分で家を建てることも、借金もできない。しかし刑法では女は十分能力あるものとしている。そうして子供を電車で潰されたという女にとって不仕合せな事柄が過失殺人罪として罰せられる。これは輿論が喧しくて罰しきれませんでしたが、一方では無能力者であり、不幸になった時だけ能力者になっている。むごい話です。そういう風な一つの「潰れてしまいますよ」という声から私どもはそこまでだんだん考えて行くことができます。こうやって話している時にはいろいろな声を出して話す。声を出して考えるということは苦痛です。やはり私どもは声を出さないで考えることが楽だし、その方が深く入る。「助けて下さい」という声一つの経験、これを机の前に坐って考えて見ると、だんだんたぐって行って、深くなって、自分の子供の時はお母さんにおぶさって、こうだった、と子供の時の想い出さえも拡がります。ものを書くということは非常に面白いことだと思う。私どものいろいろな経験がただその時だけで過ぎてしまって、紙鉄砲みたいに或る一つの所を向うへ出てしまえばお終いであるなら、人生はあまりに詰らない。どんな苦労したとて甲斐がない。嬉しいことも甲斐がない。嬉しいこと腹の立つこと、すべてこれをもう一遍心の中へおき直して見ることは人生を二重に生きることになります。一生が五十年とすれば百年生きることだと立体的に考えることができます。またその時代にある女或は男が或る歴史的な条件の中でどういう風に生きて来たかという一つの時代まで生き切ることが出来ます。私どもの命はたった一遍です。しかもたった一遍しかない命を私どもはあれだけ怖い空襲などでやっと拾って来ているのです。しかもいまのように食えないとき随分骨を折って食べて生活しています。この命は値打が高い。決して一遍きり、スフみたいに使ったら棄てるなんて命じゃない、繰返し繰返し生きて行かなければなりません。そのためには私どもは立体的に生きるしかありません。立体的に生きるということは、そういう風にして自分の生きた喜び悲しみというものをもう一遍深く深く噛み直して二倍にも三倍にもして自分が一人の人間として生きて行くこと、それをまた社会に拡めることです。自分達お互いがよく生きようとする希望、お互いに信頼してはっきりと生きて行こうという希望、新しい文学の明るい面、ナンセンスではない明るさ、馬鹿笑いでない高笑い、愉快な足どり、一つの希望に結びつけて来る努力、その努力を尊重する気持、前進する気持です。ですから、女の人のこれから書くものに私どもは期待します。何故ならば、労働組合ができてたくさんの権利を持つようになります。そして自分たちの時間がいくらかできます。そうすれば職場にいる女の人たちは今までただ受入れるだけで吉屋さんの小説、女が低いものであるという上に立って書かれたものを有難く読んでいたのを、自分たちで何かしら日記にでも書くようになるでしょう。それはやはり労働時間の短縮とか生理休暇があるとか、労働条件がよくなることと結びつく。あなた方の配給がもう少しよくなったら家庭の主婦も随分時間が出るでしょう。いろいろ女の参政権などの問題のために会合があっても家庭の主婦は出られない、若い人か或る特別の人たちしか出られません。本気になって生きるということを考える主婦が演説なんか聴きに行くことができれば、真面目に苦労しているから、真面目に生活や政治をよくするということを考えて話を聴くことができます。ところが家庭の主婦はいま出て来られません。何故ならば配給とか、闇買いとか、生きるために大童になっているからです。もう少し食糧問題を解決し住宅問題を解決すれば、女も男も時間ができます。時間に余裕ができれば本を読むことも考えることもできます。そういう風にして日本が民主化するということは非常に大きいことです。それは私ども一人一人が自分たちの命を十分に値打のあるものとして生きて行く方法が立つという可能性ができるということなのです。どんな人でも自分たちがいいかげんになってすぎるということは望みません。私どもは生きること、それを自分たちのものとして行かねばならない。だから文学というものでも、ここにいらっしゃる以上は身に近いものとしてお考えになっていらっしゃる方でしょうけれども、或る人達が中心になって拵えるものを文学と思っている今までの考え方をやめて、やはり生活というものに手を入れて掬い上げたものが文学である、憤慨、笑い、いろいろな感情がある、それが文学だということを周囲の人達にもだんだん拡げていただけば、新しい日本のためにも生活そのものの向上となり、生活の向上ということから起る文学の向上、そういうことになると思います。
 時間がないので尻切れとんぼになりますけれども、私の話としてはそれだけにしますが、今日窪川鶴次郎さんが来て、小林多喜二の話を申上げる予定でしたが病気で来られなくなりました。二月という月は私どもにとって忘れられない月です。小林多喜二という小説家は二月二十日に築地の警察で殴り殺されてしまいました。それですから今日私どもはこういう催をしても小林多喜二を忘れていません。小林多喜二があれだけの作品を書きまして、お読みになっていらっしゃる方が多いと思いますけれども、殺されたその時に、日本のたくさんの文学者はどういう風に申したか、小林多喜二は若し政治活動しなければ――つまり共産党なんかに関係しなければ殺されることはなかったし、自分の才能を全うして最後まで小説を書いておられた、あれを殺したのは共産党だという風にいいました。小林多喜二という立派な世界に誇るべき文学的才能を持った男を殺したのは日本の共産党の間違った文化に対する態度だと。ところがそういうことをいったいろいろな批評家たちは今日も生きております。そうして恐ろしい戦争の時代を通過して、小林多喜二が生きて闘ったものはどれほど残酷なものであり、どういう意味において小林がそれと闘われたものであるか、「蟹工船」なんかのようにどういう風にして労働する人の生活が武力によって監視されているかということを書いてある、それを何と思って読んだでしょう。それから去年の十月に治安維持法が撤廃され、みなさんもラジオなどで、今までの警察力、日本の恐ろしい野蛮な警察力がどんなに私ども人民の中から優秀な人を殺したかということをお聴きになったでしょう。十何年前小林多喜二を殺したのは日本の共産党だ、小林多喜二は死ななくてもよかったといった人々は何と思って治安維持法の撤廃を聴き、拷問の話を聴いたでしょう。あの人達はあの時になって初めて小林多喜二を殺したのは天皇制による野蛮な警察だということがありありわかった。若し正直な人達であれば慙愧ざんきに堪えないでしょう。ああいう風にして立派な人を死なせたその力はわれわれを堕落させて碌な評論も書けない人間にしてしまったと反省するでしょう。しかし、そういう人達はそれを申しません。民主的な人間の生き方は、治安維持法が撤廃されたときいろいろな人が口やかましく申しました。横暴であってはならない、思想の立場が違ったからといって弾圧してはならない等々、しかし一寸人を怪我させても罪を与える警察があれほどの人間を殴り殺しても刑法上の罪に触れなかったのです。民主的な生き方とは、私どもが自分の正しいと信ずることのために自分がどこまでも曲ったものと闘って行くことが当然であり、自分が正しいと思う生活をつくって行くことであります。私どもが民主的に生きるならば、小林を殺した治安維持法のことをもう一遍考え直し、小林を殺した力と徹底的に闘うということ、そのためには民主的な社会、民主的な文化というもので日本の隅っこにまだたくさんいる反動的な力を打砕かなければ私どもの人生は決して自由なものになりません。私どもの自由のために私どもは闘わなければならない。それは民主的な生活を樹てる第一の条件です。それからそのためにはいろいろな困難とか自分に対する痛い目、そういうものも自分が勇気をもって突破して進んでこそ人間一人の値打が発揮されます。今日小林多喜二の話をするときには、弾圧を受けたから可哀そうだという面からでなく、その力を突破して行く勇気、人間の立派さ、そういうものを受継ぐべきであります。それで今日なお小林は生きている、死んでも死んでも死なない。結局は人間の値打、精神の値打、文学の値打だと思います。小林多喜二を記念するということはただデモをやって、歌を唱って旗でも振って歩く、そんなことだけではありません。私ども一人一人が民主的な人間であるという立場に立って、文学の仕事や日常のすべてのこともして行く、差当っては最近迫っている総選挙においてめいめいの持っている一票を民主的なように生かすことが私どもの民主的な一つの行動だと思います。
〔一九四六年二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:同上
  (新日本文学会主催の文芸講演会での講演速記から
   1946(昭和21)年2月25日)
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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