日本の現代文学は、もっともっと、われわれの生きている現実の歴史の深さ、鋭さ、はげしさにふさわしい文学精神と方法との上に立て直されなければならない。この欲求は、こんにちのヒューマニティーの欲求として、公然と語られるものとなって来ている。
 しかし、この、現代文学は変らなければならないし、遠からず大いに変らずにはいないだろうという予感は、それが公然たる一般の感想となって来るにつれて、それぞれの文学者(小説家、詩人、戯曲家、評論家をこめて)による予感のうけいれかたが、それぞれにちがって表現されはじめた。
 その一つの例として、最近発足した「雲の会」がある。岸田国士、福田恆存、三島由紀夫、木下順二そのほか相当の数の文学者たちの集団である。小説や評論の現在の状態に感じられている一種のゆきづまりを、「もっと広く、窓を外に開こうとする要求がみられているし」「芝居が文学の広い領域から栄養を摂らなければならんということは、やはり芸術文学のほかの領域でも同じことが云える時代だと思う」(岸田国士、展望、十一月号座談会)という共通の見解の上に結ばれているのが「雲の会」である。
 この基本的な線には、参加しているそれぞれの人たちの文学的見解から生れたこまかな内容が加わっていて、三島由紀夫は次のような動機を語っている。
「小説には詩のような韻律的拘束がないし、またはっきりしたオルソドックスの小説の拘束がないためにそれを破ろうという情熱がないそれでそれを拘束する手枷足枷みたいなものそれを探していると、はからずも芝居にぶつかったのです。つまり芝居は、どうにも仕方のない形式上の拘束というものをもっている。それを衝いて行けば、何か自分の情熱を形式で拘束して掻き立ててゆくのに非常に便利なものだと思ったし、それから、そういうものを足掛り、手掛りにし、中心にして、まだ形をなさない日本の小説に形を与えてゆく――大体そういう気持なのです」(同上)
 福田恆存も、芝居が「便利なもの」であるという見解では三島由紀夫とほとんど一致している。「小説の場合には、ウッカリ我々がゴマカされているものが演劇の場合にはゴマカシがきかない。そういう点が『便利なもの』である。」「現代では文学や小説が段々平面的になった」それの「立体化ということは、ある意味においては、全人性の獲得ということとも通ずるのではないか」(同上、傍点筆者)「雲の会」という名も、おそらくは、ギリシァ喜劇「雲」への連想に由来しているのだろう。
 こんにちの日本の社会では、現代人の発想として、さまざまの具体的な試みが活溌に実行されてこそ結構な時期である。まして、すべての新劇団が、一九五〇年は五・六月ごろから著しく財政困難に陥って、熱心で技量のある俳優たちが無給で奮闘している現在、芝居に新しい息吹きが加えられることになれば、それはいいことだと思う。ジャーナリズムのるつうさと「非常に職業化して来ている日本の小説壇」(小林秀雄)の気風に虚無感を誘い出されて、小説が「拘束」をもっていないということに苦しみはじめた若い能才の作家・批評家たちが、「ゴマカシの利かない」演劇へ新しい芸術意欲をかけて行こうとすることも、そう感じている人々にとっては無意味でなかろう。(もっとも小説や評論が、そんなにゴマカシのきくものであり、そのように様式からの拘束がないと、もてないものであるという感覚そのものが一つの異常であるが)
 その結果いかんにかかわらず、「雲の会」のような脱出の角度と形態は、その会にあつまった人々に種々の試練を与えて成長させるか、或いは空中分解をさせてしまうかするであろうほかに、直接その会に関係をもっていない一般の人たちに、多くの問題を示唆する。そして、たとえ「雲の会」そのものが地上にふかく舞い下りて、地の塩とならないにしても、その刺戟から更に新鮮な機運がわき出て、一九三三年ごろエリカ・マンがナチス政権のもとで組織していた「ペッパーミル」(胡椒小舎)に似た演劇団が生れるかもしれない、そういうところへまで思いをはせれば、「雲の会」もそれとしての限界のうちに、おのずから一つのフェノメノンであり得るかもしれない。
 だが、芸術の本質からいまの文学のゆがみを照し出そうとするその企ての第一着である「キティ颱風」は、自他ともにあれでは駄目なものと考えられ、「芝居というものはあんなものでは困ると思う」(小林秀雄)と座談会で語られて、その言葉は笑声とともにうけがわれている。作者自身によって「キティ颱風」には「日本人の、たとえば社会性のなさとか、その他色々な弱点が皆出ている訳です。」と云われている。「つまり芝居に成りたたないような日本人の生活や心理の弱点を、皆まとめて芝居にこしらえちゃったものなのです。従って、あれは一度っきりのもので、あとはあの手ではゆかないし、あれではほんとうの芝居というものではないと思うのです。」
 これを客観的に云いあらわしてみると、「キティ颱風」はいまの文学のゆがみに解決の方向を示した作品ではなく、社会と文学にあるゆがみそのものを反映したにとどまる、という自己批判としてよみとられる。

 伊藤整は、「芸術の本来の性質から、」「日本の実作家のペンと紙との間に入りこんで、そこでの結びつきなる創作行為そのものを変える」何かの歯車の発見について、不断の関心を示している作家の一人である。「イデエ・近代の論理、人間の組み合わせかたとしての秩序の認識のないところでは、皮膚感覚と暴力のみが実在する。その二つのものの合成である現在の日本文学は、日本そのものの、反映なのだ」、カミュの「ペスト」、オオウェルの「一九八四年」、ゲオルギゥの「二十五時」などが、日本の中堅作家と同年代の外国作家の手になるものであることを見れば「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」(「歯車の空転」)伊藤整のこの感想は共感される。彼に「いまの文学のゆがみ」は明らかに意識されている。「芸術の本来の性質からいまの文学のゆがみを照し出そうとする企て」をもつ作家の一人である。いまの文学のゆがみそのものを、その一文の中でアクロバット風に表現しているにすぎないことを痛ましいと思う。一人の作家伊藤整がいたましいというような高飛車な感想ではなく、日本よ! こういうもの云いのある一九五〇年の日本よ。小説を書くかかないにかかわりなくそこに生きているわたしたちみんなよ! と痛ましいのである。

 近代的な小説の成立という問題を、わかりやすく、しかし情熱をもって、わたしどもの生きているきょうのこころに引きつけて吟味しようとする意欲は、抑えがたい。こんにち、「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」にしろ、「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから、近代風なイデエの操作と実作とは歯車が合わないのだ」(同上)という、現状解明の場にとどまりかねる思いがある。「巨大な冷酷な秩序のヒダにはさまれてもがく虫のような存在として自己を意識し」て、そこに伊藤整の人間及び文学者としての存在感が定着しきれるものならば、どうして彼自身、きわめて具体的なファイティング・スピリットをもって「チャタレー夫人の恋人」の告発状の中には、検察当局がその作品をちゃんとよんでいない節があることを公表するだろう。ヒダにはさまれてもがくどの虫も、権力によって発せられた告発状そのものが、訴訟法に反してつくられているという事実をもって、法廷にたたかう決意を示したためしはない。
 戦争に反対し、戦争の挑発に抗議する現代人の要求は、ほとんどすべての文学者の心底にある。しかし、平和愛好の公然たる意志表示、何かの行動にあたって、政治的になることは、意識してさけられつづけている。「チャタレー夫人の恋人」の起訴問題は、一面ではそのようなこんにちの日本の文学者の社会行動に関連してきわめて意味ふかい他の一面を語っている。
「チャタレー夫人の恋人」の問題に関して、一部には、つまりは、翻訳家たちに共通な経済問題の擁護である、という解釈がある。こういう経済主義的な考えかたに、わたくしはくみすることができない。また、「皮膚感覚」によって創作している日本の作者にとってひとごとでないからだという、シニズムにも賛成しない。「チャタレー夫人の恋人」の問題で、日本の文学者が総立ちになったとすれば、それは、人類の理性の防衛であり、権力の暴威に対する人間、文学者としての抗議である。そこに文学者として文学者でない一般社会人にアッピールしうる大義名分がある。その大義名分によって、文学者たちも市民として、事実にもとづかない根拠によって圧迫して来る法律とたたかう必然が人々に共感される。文学者と世界平和運動というスケールでは、そのことに関する公然たる意志表示や行為を政治的であるとしてさけがちな日本の文学者も、この作品の翻訳に関して侵略して来た告発、思想と言論に対する権力の圧迫には、面をそむけずにたたかって、捏造を拒否しつつある。
 伊藤整が、七月一日の朝日新聞に「『チャタレー夫人の恋人』の訳者として」書いた一文は、はなはだ暗示にとんでいる。彼は云っている。「文学者や思想家が、既存の社会通念に無批判に服従することでのみ仕事をすべきだとする考えは、人類に進歩があるべきであるならば、有害な考えである。既存の社会通念を批評し訂正するという思想家や芸術家の働きが、現在の文化を形成して来たのである」と。
 この毅然とした数行には、この作家が断定しにくい問題に対したときに示す機智・燕がえしの修辞法は一つもない。真正面から、歴史の現実は、かくある、という事実を憚らず語っている。これは文学の言葉である。同時に政治の言葉でもある。なぜなら、政治は文学現象にタッチしないではいないし、国家権力の表現として出て来た告発問題に抗議して闘うことは、文学者として、最も直接に政治闘争をしているということ以外ではない。どういう形を通して来ても政治とは、権力に関する諸課題なのだから。
 自身の無智を意識しないほど無智な今日の権力に対して、憤りをもって頭を高くもたげている伊藤整が、朝日に発表した文章の冒頭の数行にこめられている真実を、わたしは、この作者が近代的な小説の成立にふれてかいている「歯車の空転」に補足したいと思う。「既存の社会通念」の内容は複雑広汎であるけれども、既存の社会通念の一つとして、「既存の文学というものについての通念」があり、また他の一つとして「政治というものについての既存の通念」もあることは否定できない。そして、そのような既存の社会通念とたたかって、人類の生活と文化とを進歩させて来たのが芸術家、思想家たるものの才能に天賦の義務であるならば、こんにち、わたしたちは確信をもって「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから」近代の理性或は理念の操作は日本文学の現実の創作とくいちがうものだという「既存の通念」に疑いをさしはさんでよいのだと思う。
「歯車の空転」のなかで、伊藤整は「この時代に生きる作家の運命というものを」「作家はその不調和を外界と人間の衝動の中にあとづけることによって、美という仮りの調和体を作ることしか出来ない」ものとして受取っている。ジェームス・ジョイスやD・H・ローレンスから多くのものを摂取して来た一人の日本の文学者として、以上の言葉は、その人の真実を告げている。しかし、これらの表現は「この時代に生きる作家の運命」のすべての面にふれているだろうか。
 文学のために――人類の理性の発展のために、国家権力の圧迫とたたかわなければならなくなった文学者伊藤整のこんにちの現実。そして、その伊藤整の現実を、おのれの生活と文学にもつながる問題としてひろい線の上にうけとることのできるようになった日本の文学者たちの社会に対する生存感。よしや、それらの文学者のうちに、盲目と無力の要素が少なからず存在しているにしろ、やはりそこには、一九三三年には見られなかった日本の一九五〇年代のリアリティーがある。
 権力は常に保守の要素をもつ。文学の本質は、人間性のうちにある抑えがたい展開と発見への欲求に立っている。文学・思想の問題をはさんで行われる権力と人間性の係争では、権力がつねに勝利において敗北して来た。だからこそ、伊藤整が信念をもって述べているとおり、人類の進歩がなりたって来たのだった。
 これらの人間として当然な理性の主張は、「外界と人間の衝動の中にあとづけることによって」可能だったのだろうか。告発文の違法や非真実性は、人間の衝動の中にあとづけられたのではなかったろうと思う。
 思えば不思議なことである。現代文学は、衝動という言葉に、理性のやみがたい抵抗と、その行為までを、包括しようとしているのだろうか。
 伊藤整が、「美という仮りの調和体をつくることしかできない」日本の文学者の運命をいうとき、その文脈の底には、「日本の文学は日本そのものの反映なのだ」「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたず感覚によるのだ」という、きょうではもう半過去になりつつある事実に執しすぎているために、感傷をさけがたい知性の響きがある。「美という仮りの調和体」というとき、この文学者は、仮りでない美が人類のうちにあることを知覚しているのだ。こんにちの世界文学の状況において、「仮りの調和体」とことなった強壮な、人類に根ざした美は、外国作家の文学の中にしかあり得ないとするならば、それは、日本という島の国が面している明日の運命について、あまりに単純な見かただと思う。日本のいまのままの現代文学は、歴史の将来のある期間に、とび散ってしまうことになるかもしれない。そして、ふたたび日本の民族が自身の文学を生み出すとき、それは、もはや「感覚による」基本的方法ではあり得ないだろうから。
 このような文学の変革は、きょうの日本の昼夜をとおして、あの現象、この現象のうちに見えつつ、かくれつつ、既にあらわれている。プロレタリア文学運動があったこと、民主主義に立つ文学運動があること、それだけを平面的に文学陣営別にわけてその間でのままごとを許さない大きい底からの力で、歴史の舞台は、わたしたちみんなをのせたまま、文学的営みの各種各様をのせたまま、ゆるやかに、しかも急速に旋回しつつ、移っている。
 きょうに予感されるこの推移と変革の過程では、一九四五年八月からのち、日本の文学評論の上に活溌に云われはじめた「後進日本」の知性を制約している社会条件の解剖さえも、「既存の通念」の一つと化しはじめている。なぜなら、わたしたちは、「おくれた日本」について、身にしみてわからせられて来たし、したがって、もう「おくれた日本」の、感覚にたより主情に流れる生活と文学の基本的方法によって、美という仮りの調和体を構成してゆくことにはあきたりなくなっているのだ。日本を反映しつつも、日本の可能を展望する文学が欲望される。この欲望ははげしく感覚されるもので、人間に理性を肯定するかぎり、生の欲望とよべるものである。そして、何とおもしろいことだろう。内容の範囲をひろげてつかわれているらしい伊藤整の衝動という用語をもって表現すれば、歴史に内包するこのような新しい文学への潜在的な衝動こそ、かえって多くの人間的欲求をもつ文学者の頭脳に反射作用し、逆に日本の知性への不信を表明させもしているのだろうと思われる。

「歯車の空転」の中に、「現代の社会人としての生活意識を確立して創作に立ちもどるべきだとするオオソドックスな考えかた」として、わたしが、社会主義リアリズムの創作方法にふれてのべた考えがとりあげられている。これは、もうすこし正確に表現された方がいいと思う。わたしは、先ず「生活意識を確立して」それから、「創作に立ちもどるべきだ」という段階をもった考えかたをしていない。こういう風にイデオロギーを先にたてて、あとから創作をつけてゆく考えかたは、プロレタリア文学運動時代の考えかたである。こんにち、わたしは、本当に豊富な、リアルな文学を求めて現実に生き、そして創作しようとすれば、いやでも社会的な存在としての自分に、そして人との関係にぶつからずにはいられないと思っている。したがって、本来で生きれば、ひろい意味で社会的意識の鋭くされることは必然である。それを表現したいと思えば、生きつつある現実に絡みあって創作の方法も変化してゆかないわけには行くまいと信じているのである。
 オオソドックスというならば、人間は理性のあるもので、発展的な人間性をもっているという事実。そして、そのような人間は不可抗的に社会生活関係のうちに生まれ、生きる、という事実。その事実に附随しておこって来る歴史的諸事実が、そもそもオオソドックスなものなのだと考えると思う。
 文学における社会性、あるいは政治と文学の関係についてわたしたちは、まだ初歩的な経験しかしていない。その結果、今のところきわめて素朴にしか語ることができない次第だけれども、それでも、この五年間には、すべての文学者が、それぞれに、何かを体得して来た。社会主義リアリズムとよばれる創作方法が、プロレタリア文学運動者たちの珍重するソヴェトわたりの手品の鞠のように傍観されていた時代も、すぎた。
 文学における社会性の課題、政治と文学との関係を文学の立場からもっと明らかにしなければならないという必要は、日本の文学に新鮮な血行を与えるために一般的な必要となって来ている。
 民主的な立場に立つ文学者は、裾をかかげて水中にふみ入った者であるから、中流に佇んで雲のうつりを見上げていても意味がない。率直に、まだよくわからないいろいろの文学課題と、自身としてもまだ結論に達していない諸実験について話し出して、そういう風に文学を愛するこころにおいて互をうちひらく信頼――共通な発展の基礎を見出すことに、馴れてゆかなければならない時期だと思う。

 とくに政治と文学の関係について、民主的な立場をもつ文学者は、過去五年の間に、もっともっとまめな報告者でなければならなかった。けれども、それは必要なだけされなかった。「中野重治議会演説集」一巻がある。しかし、政治と文学との問題が、一般文学の分野で考えられる場合、「中野重治議会演説集」そのものだけでは問題の解答にならなかった。「楽しき雑談」の中野重治、「五勺の酒」の中野重治、そして議会演説集第一巻をもつ中野重治と、そこに立体的に統一された何かの新しい文学者としての存在が確立されつつあるか、その確立のよりどころはどの点におかれているかというような角度から問題はきりこまれて来るのである。
 民主的な作家が、この五年の間、活溌な報告者として自身の活動を展開できなかった一つの理由は、わたしたちが多くの点で、政治と文学との関係に処するに未熟だったからである。わたしたちの政治的な能力が低くて、あいまいであったために、民主主義革命そのものの規定についての、立ちおくれた認識にひきずられた。この弱点は、出発の最初に、民主的文学が包括するプロレタリア文学の伝統の評価をぐらつかせたし、その後には、民主的文学運動のうちに占める労働者階級の文学の位置づけを不分明にした。このことは、やがて、リアクションとして、一部に極端な文化文学上の経済主義をおこすことになり、政治と文学との関係は、一九二〇年代の初期、プロレタリア文学運動の発芽時代に一部の実践家(平沢計七そのほか)によって云われたような、機械論にまで逆行して行った。
 これらの過程に、民主的な文学者が、心に苦汁をかみしめながら、日本文学の問題として、文学全野にこの問題を語りかけなかったのは何故だったろう。わたしは、自分について調べてみたい。それは、やっぱり民主的文学者としてのわたしの政治的生きかたの未熟さから来ている。自分の属している政治の組織と、文学の大衆的な組織は、おのずから別個な二つのものである。文学者たる自分が、文学の領域においてはっきり語ってよい限度と、政治団体の内部の条件からうける刺戟によって、湧き立つ精神の処理の方法を学ぶまでに、わたしとして長い訓練が必要だった。
 わたしは、共産主義者である前に進歩的な要素をもつ人間であり、女であるのだから、そして、文学者であるのだから、そのおおねをゆすぶって迫る政治の面での問題を、技術としてきりはなし政治の面での規約にしたがった理論的な方法で処理する躾が身につくまでに、複雑な五年間が必要だった。
 一九五〇年にはいってきょうまでの十ヵ月に、わたしとしては、フェア・プレイとそれ自身の成長発展のために、前衛組織の規約は、どのように尊重されなければならないかという厳粛な事実を学んだ。これは革命の信義の課題でもある。その半面、文学の分野ではどのように語るべきことをまっすぐに語り、検討しあう責任があるかという事実も学んだ――民主主義文学について枠内で語るのではなく、民主主義文学者としての責任において、日本の文学の諸問題についてふれてゆくことが――。
 政治と文学の課題を選ぶことは、わたしにとって或は冒険であるかもしれない。しかしわたしのみならず、多くの人々が、この年々に、一番多くの血を費したのは、この問題とのとりくみであった。この問題は、きょうの文学者にとっては直接であるにしろ間接であるにしろいかに生きるか、にかかわりをもって来ている。菅季通の自殺は、太宰治の死、田中英光の死にまさって、こんにちのすべての良心に、人間としていかに生きるかの表現としての政治と文学の関係、そのなりゆきを注視させている。
 こんにちプロレタリア文学史をよむひとは、一つの不便にめぐりあっている。それは一九三三年にはいると、プロレタリア作家同盟に属しながらも出版されて今日にのこっている発言、著書などは、ある一部の人々のものに限られていて、それらの人々とは別個の見解をもっていたプロレタリア作家たちの討論は、文献の表から消えていることである。
 このことが一九四六年からのち、一時プロレタリア文学に対する過小評価の論を流行させる原因の一つとなり、その文献的欠陥となっている。当時、日本の前衛組織は非合法におかれ、小さい規模であった。一つの運動に、他の一つの運動の必要が重なって来てしまうほど、人的にもその組織は苦しく働かざるを得なかった。
 プロレタリア作家同盟及び当時の文化活動には、多分にそのような事情にある前衛的性格がおりこまれていたために、大衆的な文学団体である同盟の主要なメンバーは、その作家が当時のプロレタリア文学運動に忠実であろうと思えば思うほど、他の人々のように商業ジャーナリズムを場面としての、個々的な発言を抑えられた。組織の内のことは、組織の内で解決するべきものだ、ということが、組織の運営についての論議と、文学問題一般についての発言とのけじめなく、プロレタリア作家たる立場として、求められたのだった。
 現在、この状態は、一変している。政党が存在している。労働組合もある。多くの文化団体が、それぞれの専門分野において存在している。民主的な文学者として文学の諸問題を語ることはわたしの属す文学団体そのものの内部を語ることでさえもあり得ない。
 この了解に立って、わたしは語り得なければならない。
〔一九五一年一月〕
[#未完]

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「文学」
   1951(昭和26)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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