黎明[#「黎明」はゴシック体](一八六〇―一九〇〇)

 一八六八年、フランス資本主義に後援されていた徳川幕府の最後の抵抗がやぶれた。そして翌一八六九年、日本全土にしかれていた封建的統一はそのままとして、その上に維新政権が樹立された。
 福沢諭吉の「窮理図解」(一八六八)「世界国尽」(一八六九)「学問のすゝめ」(一八七一)などが、新しい日本の文化をめざます鐘としてひびきはじめた。
 徳川の三百年を通じて文化・文学の上で婦人の発言は全くしめ出されていた状態だった。江戸文学は数人の女流俳人、歌人を有し、歴史文学の荒木田麗女の「池の藻屑」「月の行方」などが、源氏物語を模した文体でかかれた歴史物語としてつたえられているだけである。いわゆる維新の女傑たちの文学的表現は、「尊王」の短歌の範囲であった。これらの姉たちは、尊王攘夷というスローガンの実体が、王政復古といいながら実は天皇を絶対権力者とする半封建的資本主義社会体制への移行であることを知っていなかった。
「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という人権のめざめにたって動き出した明治初期の積極的な婦人たちは、キリスト教教育による封建社会への批判と習慣の改良をその中心とした。そして文学よりはまず「実学」を必要とした当時の気運にしたがって婦人の活動は新生活運動の形をとった。夫人同伴会、婦人束髪会、婦人編物会、矯風会をはじめとして、日本各地に生れた各種各様の婦人会は、男女同権の思想を基礎にして、ピューリタン的な「家庭の純潔」をめざした。婦人の自主的なこれらの動きは、一八七二年の人身売買禁止法、男子に等しい義務教育令の制定や、福沢諭吉の一夫一婦論、廃娼論とならんで、森有礼が『明六雑誌』に「妻妾論」を書いて当時のいわゆる「権妻」の風習に反対したことにも通じている。しかし婦人の半奴隷的な境遇はつづいて、全人民による選挙と国会開設を求める自由民権運動に参加した十九歳の岸田俊子(のち自由党首領中島信行・長城の夫人。号湘煙・中島飛行機製作所長中島知久平の母)や、小学校の代用教員であった影山英子(のち福田英子『妾の半生涯』改造文庫)などがその政談演説の中で主張したのは、「天賦人権自由平等の説」と「女子古来の陋習を破る」べきことであった。
 当時の婦人民権運動家の活動は、一般の女の生活の底にまでふれてゆく条件を欠いていた。岸田俊子が『女学雑誌』などに書いた感想小品の文体をみてもあきらかである。ふりがなをつけても意味のよくのみこめないような漢文調で書かれた感想の間に、英詩が原文のまま引用されているという風で、一種の婦人政客であった彼女には、婦人大衆の日々の現実におり入ってその自覚に訴えかけてゆくような真実の社会性はめざめていなかった。
 一八八八年、田辺龍子(三宅花圃)が発表した「藪の鶯」が、婦人によって生まれたやや文学らしい文学の第一歩をしめした。明治初期には「実利実学」の気風と、徳川時代から小説を軟文学としてかろしめてきた伝統とがからみあっていて、岸田俊子なども台所や茶の間に手帖をおいても書いてゆけるものという理由で、文学の仕事は女にふさわしいといった。「淑徳才藻のほまれたかい」女子が「学びの窓の筆ずさみ」に小説を書くというように考えられ、いわれていた時代であった。
「藪の鶯」は、坪内逍遙の「当世書生気質」(一八八五)の影響と模倣によって書かれた。「藪の鶯」は当時二十一歳であった彼女の生活環境である上流官吏の家庭・社交の雰囲気を、まざまざと反映している。洋服で夜会にゆく上流の令嬢は、明治二十三年の国会開会をひかえて自由民権運動が抑圧され、五七〇名が「宮城三里外」に追放され、保安条令によって集会一切が禁止されるという当時の支配階級の反動政策について、何も理解していなかった。女同士の話よりも「紳士がたの話から啓発されるところが多かった」龍子は、それらの紳士がたが語る支配階級の社会観、女性観をそのまま「藪の鶯」の中に反映させている。男子を扶けて、家庭を治めそのかたわら女子にふさわしい専門の業をもしてゆくことがのぞましいという、半ば独立し、半ば屈従の範囲での女子の向上が、「藪の鶯」のかしこい女主人公の語る理想である。龍子の時代の若い上流子女はもはや民権時代の婦人が抱いた「天賦人権」の観念への道は封じられていた。その時代については「たいそう女の気風がわるくなった時代」として、軽蔑をもって見るように教育されはじめたのであった。
「藪の鶯」が封建的な尾をひいている「当世書生気質」の影響のもとに書かれて、その前年に発表され、近代小説の本質に迫った二葉亭四迷の「浮雲」とは、全く無縁の作品の世界をもっていることは注目すべきである。また、花圃とおない年であった北村透谷が激しい青年の心に当時の社会矛盾を苦しんで、「当世書生気質」の半封建的な人生態度の卑屈さと無思想性に強く反撥しながら、人間の精神の高貴さを求めていた思想の動きに対しても、花圃の環境が全く無感覚に生きられていたということにも関心をひかれる。はじめて婦人によって書かれた小説という意味で、文学史に記録されている「藪の鶯」は、文学の本質において決して近代精神の先頭にたって闘うものではなかった。筆のすさびとして当時の教育ある婦人の妥協的常識の水準をしめしたものである。
「藪の鶯」の本質はそのようなものであったが、この一作が世間の注目をひいたことは、他のいくたりかの文才のある婦人たちに文学活動の可能を与えることとなった。木村曙「婦女の鑑」が読売新聞に連載され、清水紫琴「こわれ指輪」、北田薄氷、田沢稲舟、大塚楠緒子、小金井喜美子(鴎外妹)の翻訳、レルモントフの「浴泉記」、ヒンデルマン「名誉夫人」、若松賤子のすぐれた翻訳「小公子」などがもたれた。
 これらの婦人文学者たちの教養は、花圃の内面世界よりも数歩前進してヨーロッパ文学の影響のもとにあったであろう。しかし、生活の現実において、彼女たちの文学は女としての日常のおもしの下にひしがれた。この人びとの文学への志は根気強い、いちずなものがあったにしろ、当時の社会環境の中で女の文学の仕事は、やはり余技の範囲にとどめられた。このことは、少くない作品をかいた大塚楠緒子の死後、作品集がのこされていないことにも語られている。田沢稲舟が山田美妙との恋愛事件に対して世間から蒙った非難に耐えなくて、自殺したことにもあらわれている。
 生活のために職業として小説の創作に入った最初の婦人作家は、樋口一葉であった。一葉の苦しかった生活のいきさつは、ひろく知られている。「にごりえ」「たけくらべ」などは、古典として、今日に生命をつたえている。これらの独特な趣をもって完成されている抒情作品は、明治文学が自然主義の移入によって大きい変化をおこす直前、すでに過去のものになろうとしていた紅葉・露伴の硯友社文学のある面と、透谷・藤村などの『文学界』のロマンティシズムとが、一葉という一人の才能豊かな婦人作家の上にこって玉をむすばせたともいうべきものであった。
 一葉は、一方に封建的なしきたり、人情をひきずりながら、急速に資本主義化してゆく当時の日本の社会層で、下づみにおかれている人々の男女関係、親子関係、稚な心の葛藤などを、紅葉・露伴の文脈をうけついだ雅俗折衷の文章で描き出した。曲線的な彼女の文体はままならぬ浮世に苦しみ反逆しながら、それをくちおしさとしうらみとして燃やす女のこころと生活の焔によって照らされ、それまでの婦人作家の誰も描き出すことのできなかった文学の世界をつくった。一葉の世界は旧く、しかしあたらしく、また旧さにたちかえって、そこに終結した。このことは彼女の全作品を通じてみられる興味ふかい歴史的要素である。彼女と半井桃水との、恋であって恋でなかったようないきさつに処した一葉の態度にも、この特徴はあらわれている。一葉の文学に独特なニュアンスとなって響いている旧いものは、とりもなおさず当時の庶民生活のあらゆるすみずみに生きて流れていた人民の真実であった。彼女の作中の人物たちは、心と身をうちかけてそのしがらみの中にもがいた。その意味で一葉の作品は、雅俗折衷の文体そのものによって旧い情感を支えながら、こんにちに生きのびる実感を保っているのである。

 短い翼[#「短い翼」はゴシック体](一九〇〇―一九一六)

『明星』が発刊されたのは、一九〇〇年のことであった。黒田清輝、岡田三郎助、青木繁、石井柏亭など日本の洋画の先駆をなした画家たちが、与謝野鉄幹を中心として「新詩社」を結成した。二年前に『文学界』が廃刊された。鉄幹は透谷、藤村などのロマンティック時代を、芸術至上主義の気よわなロマンティシズムであるとして、『明星』を彼のいわゆる「荒男神」のロマンティシズムに方向づけた。鉄幹のこのロマンティシズムの本質は、「支配する者のロマンティシズム」として認められている樗牛のロマンティシズムと同質のものであった。日本のロマンティシズムのこのような変貌のかげには、一八九四―一八九五の日清戦争で、日本が台湾・朝鮮の植民地所有者となり、賠償金三億円を得て産業革命が躍進させられたという社会事情がひそんでいる。
 一八九七年に鉄幹の詩集『天地玄黄』が、アジアにおける侵略者としての、日本の最初の勝利のうたい手としてあらわれた。堺の菓子屋の娘として、『文学界』をよみ、やがて『明星』にひかれて、『みだれ髪』をあらわした(一九〇一)与謝野晶子は、女として人間として彼女のうちに燃えはじめたロマンティシズムの性格が、鉄幹の「荒男神」ロマンティシズムと、どのようにちがうかということは自覚するよしもなかった。二十三歳であった晶子は、『明星』にひかれ、やがて鉄幹を愛するようになり、その妻となったのであったが、その時代に生れた『みだれ髪』一巻は、前期のロマンティストたちが歩み出すことのできなかった率直大胆な境地で、心と肉体の恋愛を解放した。『みだれ髪』は当時の日本に衝撃を与えて、恋愛における人間の心とともに肉体の美を主張したのであった。
「当世書生気質」には遊廓が描かれていた。「藪の鶯」の中では、いわゆる男女交際と、互いにえらびあった男女の結婚が限界となっていた。一葉の生活と作品の世界で「恋」は切なく、おそろしいものであった。紅葉は作家が自身の恋愛問題を作品として扱うことを「人前に恥をさらす」と考えた。藤村の「お小夜」「つげの小櫛」の境地は、『みだれ髪』にうたわれた女の、身をうちかける積極性と、何とちがった抒情の世界であるだろう。『みだれ髪』は現代文学の中に、はじめて女性が自身の肉体への肯定をもってたちあらわれた姿であった。
 晶子のこのような生命の焔、詩の命が、みじかい数年の後に次第に色あせてゆき、官能の自然発生的なきらめきを、その作歌の中で成長させ高めてゆくことが出来なかったのは遺憾である。一九四二年にその長い生涯をとじるまで、晶子は文学活動においても母としても実に多産であった。『みだれ髪』から『春泥集』(一九一一)に移ってゆく過程には
あはれなる胸よ十とせの中十日おもひ出づるに高く鳴るかな
いつしかとえせ幸ひになづさひてあらむ心とわれ思はねど
人妻は七年六とせいとなまみ一字もつけずわが思ふこと
など深い暗示をもつ歌も生れた。
 つぎつぎにうまれる多くの子供らを育て、年毎に気むずかしくなる良人鉄幹との生活を、母として妻として破綻なくいとなんでゆくためには、経済的な面でも晶子の全力がふりしぼられた。短歌の他に随筆も書くようになって行った。随筆で、晶子は不如意な主婦・母親としての日常を率直に語って、生活的であった。晶子が書く政治的な論文は、当時の婦人には珍しい社会的・政治的発言としてよまれた。しかし、彼女の短歌の世界は、現実のそういう面に接近させられなかった。与謝野晶子の歌として、世人が期待するになれた象徴と自然鑑賞のうちに止まりとおしたことは注目されなければならない。様々の理由がそこにあったろう。晶子が、自身の創作上の方法論をもたなかったこと、それも、彼女の発展を困難にしたことはたしかである。
 一九〇四年、晶子が「旅順港包囲軍の中に在る弟を歎きて」つくった新体詩「君死にたまうこと勿れ」は、「ああ弟よ、君を泣く」という第一句からはじまって深い歎きのうちに「君死に給うこと勿れ」と結んでいる。「親はやいばをにぎらせて、人を殺せと教えしや、人を殺して死ねよとて、二十四までも育てしや。」「君死に給うことなかれ。すめらみことは戦に、おおみずからは出でまさね。かたみに人の血を流し、獣のみちに死ねよとは。」「十月もそわでわかれたる少女心をおもいみよ。」

 この詩は『明星』に発表された当時、愛国詩人大町桂月一派から激しい攻撃をうけた。その後、この詩は晶子の作品集からけずられて、四十数年を経た。「すめらみことは」いでまさぬ太平洋戦争の敗北によって、日本の権力が武装解除されたとき(一九四五年)この「君死にたまうこと勿れ」は、新しい感動をもって紹介されよみがえらされた。この作品は、当時の晶子が、侵略戦争の本質については深くふれず、「旧家を誇るあるじにて、親の名をつぐ君なれば、君死に給うことなかれ」という親のなげきの面から、また、「のれんのかげに伏して泣く、あえかに若き新妻」の「この世ひとりの君ならで、ああまた誰にたのむべき、君死にたまうことなかれ」と「家」の感情にたって訴えている。天皇は戦争を命令し、人民は獣の道に死ぬことを名誉としなければならなかった一九三一年からのちの十四年間、かつて「君死にたまうこと勿れ」を歌ったこの女詩人はどのような抗議の歌を歌ったろう。晶子は彼女を歓迎する各地の門人、知友の別荘などにあそんで装飾的な三十一文字をつらねていた。
 自然主義のさかんであった時代に花袋門下として生まれでた婦人作家水野仙子が、その着実な資質によって努力をつづけながら、人道主義文学の擡頭した時期に「神楽坂の半襟」「道」「酔いたる商人」などを書いたことは、意味ふかく観察される。『ホトトギス』の写生文から出発した野上彌生子も、やはりあとの時代に「二人の小さいヴァガボンド」などによって、婦人作家の文学にヒューマニスティックな新しい面をひらいた。
 自然主義の「露骨なる描写」の方法は、小市民としての作家が経済政治面からしめ出されつづけてきた日本の社会的環境では、フランスでのように、社会小説として、その露骨さへ発展させてゆくことができなかった。藤村の「破戒」から「家」への移りは、この現実を語っている。「家」はそこをしめつけている封建的な、家長的な圧力に耐えかねて、「家」を否定した当時の若い世代が、個人の内部へ向けるしかなかった自己剔抉となって「私小説」の源としての役割をおびた。
 婦人作家の境遇は、まだまだ男に隷属を強いられる女としての抗議にみちていた。したがって彼女たちにとっては初期の自然主義作家の肉慾描写をまねようとするよりも、むしろ、そのように醜いものとして描写されている肉慾の対象とされていなければならない女性の受動的立場と、それを肯定している習俗への人間的抗議が、より強く感じられたのは自然であった。小寺菊子は自然主義的な手法で婦人科医とその患者との間におこる肉感的ないきさつを描いたりもしたが、この作家でも、「肉塊」としての女は描けなかった。この現象は、案外に深く文学そのものの人間性につながる意味をもっているものではなかろうか。婦人の芸術的能力が客観性をもたず弱いから、男の作家の描くような女が描けず男がかけないという解釈だけでは、不充分なものがある。資本主義の社会体制は婦人を人間的にあらせることが不可能な条件の上に保たれている。資本主義社会内に対して、新しい歴史の力が闘いをいどみはじめた第一歩である自然主義の時代、特に日本のように、近代化がおくれて女の抑圧されている社会で、少くともものを書く婦人が、封建的な小市民道徳に抗議する男自身、女に対してもっている封建性への抗議をとびこさなかったのは一必然であった。
 一九一〇年八月におこった幸徳秋水たちのいわゆる「大逆事件」が、高まる労働運動を封殺して絶対主義権力を守るために利用された大仕掛な捏造事件であったことは、今日すべての人の前に明らかである。
 しかしこの事件の真相をつきとめることさえも許されなかった当時の情勢の中で、「大逆事件」は、片山潜、堺利彦、西川光二郎、山口孤剣によって大衆化した社会主義運動を地下に追いやったばかりでなく、フランスから帰って間もなかった永井荷風の作家的生涯を戯作者の低さに追放し、『白樺』を中心として起った日本の人道主義文学運動を、社会的推進力にかけた超階級的な世界天才主義に枠づける動因となった。そして一方では、自然主義文学運動の日本的な変種としての「私小説」が志賀直哉によって現代文学の主流とされるまでに完成されてゆくことにもなった。
 平塚らいてう、尾竹紅吉などによっておこされた青鞜社の運動がその本質はブルジョア婦人解放に限界されていたにもかかわらず、当時の進歩的な評論家生田長江、馬場孤蝶、阿部次郎、高村光太郎、中沢臨川、内田魯庵などによって支持され、社会的に大きい波紋を描いたのも、政治・労働運動に民衆の発展する意志を表現することを得なくなった進歩的インテリゲンチャの一動向であった。
 雑誌『青鞜』は、「元始、女性は太陽であった」その女性の天才を「心霊上の自由」によって発揮させるというらいてうの理想によって発刊された。『青鞜』には、小金井喜美子、長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子から、まだ少女であった神近市子、山川菊栄、岡本かの子その他を網羅して瀬沼夏葉はチェホフの「桜の園」の翻訳を掲載した。野上彌生子が「ソーニャ・コヴァレフスカヤ」の伝記を翻訳してのせたのもこの雑誌であった。
「新しい女」というよび方がうまれた。たばこをのむこと、酒を飲むこと、吉原へ行ってみることなどさえも婦人解放の表現であるとされた時代であった。イプセン、エレン・ケイの婦人解放思想がうけ入れられたが、やがて奥村博史と結婚したらいてうの生活が家庭の平和をもとめて『青鞜』の仕事から分離したことと、その後をひきついだ伊藤野枝がアナーキスト大杉栄とむすばれて、神近市子との間に大きい生活破綻をおこしたことなどから、『青鞜』は歴史の波間に没した。
 同時代にあらわれた『白樺』のヒューマニストたちが、『青鞜』のグループと終始或る隔りをもちつづけたことは、注目される。学習院の上流青年を中心とした『白樺』の人々のこの時代の作品には彼らの女性交渉の二つの面がみいだされる。彼らは一方では同じ階級の令嬢たちに、自分たちの思想を理解し、献身してそれを支持するヒューマニズムのめざめを期待すると同時に、他の面では、封建的な吉原での遊興を拒まず、売笑婦にふれ、召使と若様の性的交渉をもった。白樺の人々のヒューマニズムの半面につよく存在している上流男子の男尊と、われ知らずの専制の習慣は、彼らの日常になれた女のしつけやものいいを野蛮にけちらして、彼女たちが生れて育って来たそれぞれの地方のなまりがひびく声々で、婦人解放を叫び行動する『青鞜』の女性たちに、へきえきしたであろうことは今日ユーモアをもって想像するにかたくない。
「元始、女性は太陽であった」といったらいてうの落日のはやさや、晶子の情熱のおきの姿に身をもってあらがうように、田村俊子の作品がうちだされた。露英という号をもって露伴に師事していた田村俊子は、やがて露伴の文学的垣をやぶって一九〇九年大阪毎日新聞の懸賞に「あきらめ」という長篇で当選した。三年のちに発表された短篇「魔」「誓言」「女作者」「木乃伊の口紅」「炮烙の刑」などは『青鞜』によった人々が、それぞれ断片的な表現で主張していた女の自我を、愛欲の面で奔放に描き出した作品であった。次第に生活の力も創作の力も失ってきた夫、田村松魚との生活のもつれのなかで、「あきらめ」がかかれた。はじめは松魚のはげましやおどしによって書いた俊子は、この仕事ののち、「自分の力を自力でみつけて動き出した。」一作毎に俊子の文学的な地位と経済の独立が確立した。そして彼女は自分を支配するものは自分自身以外にはないという自覚にたつと同時に、その生活と文学との官能の場面でも男の支配から脱しようとする女の自我を描き出した。
 田村俊子の色彩の濃い、熱度の高い男女の世界は、女の自我をテーマとして貫いている点では、当時流行のダヌンチオの小説にも似た強烈さがあった。けれどもその一面には、彼女が浅草の札差の家に生い立ったという特別な雰囲気から、江戸末期の人情本めいた情痴と頽廃とがつきまとった。自分が愛したい者を愛することは「私の意志」であり、それは決して悪いことをしているのではない。愛のさめた良人が強制する良人の権利に屈従して謝るよりは、愛する男を愛し通して「炮烙の刑」をうけようというはげしい女の情熱をもえたたせた。
『みだれ髪』の境地からすすんで、愛における女の自我の主張にすすんだことは、俊子の文学の近代的な要素とみることができる。しかしこまかに彼女の作品の世界に入ってみたとき、彼女が男を愛するといっている感情の内容や、それは私の意志だといっている言葉の実体が、意外にもおぼつかない、一人のみこみであったことが見出される。私の意志によって男を愛してゆくにしても、そのような男を選ぶ俊子の選択のよりどころはどこにおかれたのだろう。俊子は作中の女主人公に云わせている。「自分の紅総のように乱れる時々の感情をその上にも綾してくれるなつかしい男の心」にこそひかれると。「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることはできませんよ。あれも男の技術ですもの」と。
 このような角度で男女が結ばれてゆくなかに、どんな新しいヒューマニティとモラルがあるというのだろう。経済能力が女にあるというだけで、男と女の立場が逆さになっただけのことだとは思われなかったのだろうか。田村俊子は、そういう省察によって、自分の文学をわずらわされることがなかったようにみえる。それがどのように濃厚な雰囲気をもっていようとも、社会生活から遮断された愛欲の世界の単調さが、生活と文学とを消耗させないではおかなかった。彼女の自我は、自我を鞭撻してマンネリズムとなった境地から追いたて、新しい道に前進させてゆくだけの骨格をもっていなかった。俊子の文学は近松秋江の「舞鶴心中」幹彦の祇園ものにまじって情話「小さん金五郎」などを書くようになった。当時ジャーナリズムには赤木桁平が「遊蕩文学」となづけて排撃した情痴の文学が流行していた。俊子の人及び作家としての精神の中には情痴の女作者として腐りきるにはたえないものがあった。彼女は一九一八年頃愛人を追ってアメリカへ去った。
 俊子が、その未熟であった社会感覚から、あやまって女の自我の発揮であると強調した男に対する積極性は、ほとんど全く同じくりかえしで、のちに三宅やす子の上にあらわれた。三宅恒方博士の死後彼女にとってせまくるしかった家庭生活から解放されたやす子は、花圃を長老とする三宅家の監視を反撥して「未亡人論」を書いた。良人に死なれた婦人にむけられてきた封建的な偏見に対して、率直に闘いを宣言した。この一冊によってやす子は啓蒙的な婦人評論家、作家として成功した。四十歳をいくらもすぎないで生涯を終ったやす子が、晩年にある青年を愛して批評がおこったとき、「偉い男がおしゃくを可愛がるように、女が男を可愛がるのが何故悪いだろう」という意味をいった。
 俊子とやす子と、二人の言葉は、あまり女に自由のない日本の社会の悲劇を語っている。同時に、資本主義社会の矛盾の中で「恋愛の自由」が畸型的なものにならざるをえない悲劇をも語っている。
 一葉以来、晶子、らいてう、俊子と、これらの婦人たちは、なんと勇敢にとび立とうとしてきただろう。そして、なんと打ち勝ちがたい力で、その翼をおられてきただろう。
 夏目漱石は、婦人に対して辛辣な文学者であった。「吾輩は猫である」の中に女の度しがたい非条理性が戯画的にとりあげられて以来、「明暗」にいたるまで、彼のリアリスティックな作品に登場する現実的な女性は、男にとって不可解な「我」を内心にひそめて、何かというと小細工をもてあそぶ存在としてみられている。ところが、漱石は「虞美人草」「琴のそら音」などのロマンティックな作品では、その時代の現実には見出せなかっただろうと思われるように自意識の強い、教養があることさえ、そのひとをいやみにしているような若い女性を仮想している。もしそれらの女主人公を現実のひとがわが身の上に模したとすれば、それは、らいてうでもあろうかと思われる人物である。
 漱石はイギリス文学――特にジョージ・メレディスなどの影響によって、男と女の葛藤の核心に自意識を発見しながら、もう一歩をすすめて日本の家庭生活において自我がどうして不自然なしこりとなり、非条理な発現をするようになってきているかという分析にまですすまなかった。漱石の生活と文学には、森鴎外の場合とちがった率直さで、封建的なものと、近代的なものとがからまりあってあらわれている。彼はイギリスの文学の中に婦人作家のジョージ・エリオットが評価されていることを認めることはできた。けれども田村俊子などが活動しはじめたについて意見を求められたときの彼の答えは、時代的でありまた性格的であった。漱石は、教育や職業上の技能がだんだん男女ひとしいものになってくるから、女らしいとか女らしくないとかいうことで小説の価値が決定されるものではないという正当な見解を語っている。しかし、それにつづけて次のようにも語っている。「作者と作品とをわけて、どうもこういうはなはだしいことを書くような女は嫁にすることは困るということはまた別で、作品の上にはいいえられないが作者の上にはいっても差支えはない」と。
 このようにして漱石が矛盾に足をとられ、過去の勇敢な婦人作家たちが自然発生的な自身の生活と文学の限界で解決することのできなかった婦人の社会的悪環境の問題として、有島武郎は「或る女」の女主人公葉子をとらえるまで前進した。しかし「或る女」において女主人公葉子は自分を有閑階級の腐敗に寄生する苦悩から救い出す社会的モメントを最後までとらえることができなかった。葉子とともに、作者有島武郎も自分自身生活と文学とを発展的に良心的インテリゲンチャとして成長させるための飛躍をなし得なかった。
 中條(宮本)百合子は、一九一六年「貧しき人々の群」によって困難な婦人作家としての出発をした。少女の年齢にいたこの作者のおさなさはその作品に散見しているけれども、東北の寒村とそこに営まれている貧しい小作農民の生活についての観察、その村の地主の孫として経験された生活への省察などは、素朴ななりにリアルな生活感につらぬかれていた。婦人作家の作品といえば男女のいきさつのものがたりに限られていたような当時、自然へのみずみずしい感応とある程度の社会性をもった取材との組合わされた「貧しき人々の群」は人道主義的なテーマとともに一つの新しい出現を意味した。野上彌生子・中條百合子などの生活感情と文学とは硯友社文学の影響から全くときはなされたものであった。

 渦潮[#「渦潮」はゴシック体](一九一八―一九三二年)

 一九一四年八月にはじめられた第一次ヨーロッパ大戦は一九一七年十一月に終った。この大戦の結果、世界にはじめてプロレタリアートの政権が樹立された。帝制ロシアはソヴェト同盟となった。ドイツ、オーストリー、ハンガリーなどの専制君主制は崩壊した。この世界史的な激動は日本にもデモクラシーの声をよびさまし、労働運動と無産階級の文化・文学運動をめざますこととなった。
 一九二三年九月の関東大震災は、この天災を大衆運動の抑圧のために利用した権力によって、社会主義者、朝鮮労働者の虐殺がおこなわれ『青鞜』に活躍した伊藤野枝は、大杉栄とともに憲兵に殺された。けれども、『種蒔く人』(一九二一年)によって芽ばえた無産階級の芸術運動は、その後、一歩一歩とおしすすめられてゆく社会主義理論の展開によって、経済・政治・文化の創造における労働者階級の任務と、その勝利の道があきらかにされ、アナーキズムとコムミュニズムとの区別もはっきりして、一九二八年には雑誌『戦旗』が発刊された。そして蔵原惟人のプロレタリア・リアリズムへの道が、プロレタリア芸術の創作方法の基本的な方向をしめすものとなった。
『戦旗』には徳永直「太陽のない街」小林多喜二「一九二八年三月十五日」中野重治「鉄の話」そのほか、プロレタリア文学の代表的作品がのりはじめた。「キャラメル工場から」という作品で、窪川(佐多)稲子がプロレタリア婦人作家として誕生したのもこのころであった。赤いマントをきて、キャラメル工場へ通う十三歳の少女をかこむ都会の下層小市民の不安定な生活と、幼年労働の現実が、リアリスティックで柔軟な筆致で追究されているこの作品は、当時のプロレタリア文学に一つの新しい、しんみりとした局面をひらいた。つづいて、稲子は、「お目見得」「レストラン・洛陽」などにおいて勤労する少女、女性の生活を描いた。労働者階級の意識のたかまりと組織の成立とともにプロレタリア文学運動が進出するにつれて、彼女の創作は「四・一六の朝」「幹部女工の涙」(一九三〇)「別れ」(一九三一)「何を為すべきか」(一九三一)「進路」(一九三三)「押し流さる」(一九三四)と成長して行った。
 日本プロレタリア作家同盟には、窪川稲子のほか松田解子・平林英子、詩人の北山雅子(佐藤さち子)・一田アキ・木村好子・翻訳家松井圭子、一九二七年に「伸子」を完結し、その後ソヴェト同盟へ赴いて一九三一年からプロレタリア文学運動に参加するようになった中條百合子。ロシア文学専攻の湯浅芳子。まだ作品をもってあらわれていなかったが、『戦旗』のかげの力として大きい貢献をしていた壺井栄などがあった。『戦旗』がそうであったように『ナップ』の周囲にも、日本全国の労働者階級の文化・文学的欲求が反映されていて通信・投書などにあらわれる婦人の執筆者は、生産の各部門と、各地方にわたった。一九三一年に、『婦人戦旗』が発展して『働く婦人』が日本プロレタリア文化連盟から発刊された。この編集は、連盟に加っていたプロレタリア演劇・美術・音楽・映画・教育・エスペラント・医療各団体からの編集員によって行われたのであった。『種蒔く人』の執筆者であった山川菊栄・神近市子などは、それぞれの政治的立場から、プロレタリア運動には参加しなかった。一九二七年『文芸戦線』に「施療室にて」を発表した平林たい子は、「投げすてよ!」などとともにアナーキスティックに混乱した経済生活と男女関係の中で苦しみながらそこからのぬけ道を求めている一人の無産女性を力づよく描いて注目された。彼女はアナーキズムとボルシェビズムとの理論闘争の時を通じてアナーキズムの陣営にのこり、その後、プロレタリア文学運動に沿って歩みながら、常に、『ナップ』とは対比的な立場に自身をおいて、「独特」さを示そうとしている婦人作家として経て来た。
 一九二二年に生まれた日本共産党は非合法の組織であったが、ともかく、労働者階級の経済・政治・文化・文学運動が互につながりをもって展開されるようになったことは、自由民権時代このかた窒息させられていた日本の、社会的な文学への要望を、より進んだ認識で成長させる可能を与えた。たとえば窪川稲子が、次々に現代文学にこれまでに発見することのできなかったすぐれた階級的作品をもたらすようになったのは、彼女の才能の単なる偶然の開花であっただろうか。また、中條百合子が、プロレタリア文化・文学活動の波にもまれながら、「新しきシベリアを横切る」そのほかソヴェト同盟の社会主義社会の生活と文学のありようを精力的に紹介して、「冬を越す蕾」などの評論をかくようになって行ったというのは何故だったろうか。
 日本プロレタリア作家同盟がその組織のうちに婦人委員会をもったということは、現代文学史にとって重大な意味をふくんでいる。プロレタリア文学運動は、資本主義社会で生産の場面でも、文化の面でも常に抑圧と搾取をうけているものとしての婦人大衆の現実をはっきりつかみ、そこから婦人が解放されてゆくことを、全人民解放の課題の半ばをしめる実際の問題として理解したのであった。半植民的な労働賃銀で生存を保ってゆかなければならない日本の労働大衆のたたかいにとって、常によりやすい労働力・産業予備軍として婦人労働大衆が存在していることは、重大な問題である。八時間労働制、同一職業に男女同額の賃銀を、という労働運動の要求は、文化の面で、女も男と同じ程度の教育をうけたいという熱望につながった。職場と家庭とで二重に追いつかわれなければならない女の立場を改善してゆかなければ、女は人間以下の生きかたをつづけるだけである。この実感は、菊池寛の、封建的な女性観に色どられた大衆小説を意味ないものに感じさせるようになって行った。どんな経済的基礎で生きているのかわからない男女が、男であり女であるという面でだけのもつれに人間的全力を傾けている田村俊子の作品の世界も、いまは遠く思われた。『青鞜』時代は、若い世代の婦人たちにとって、かつてはそのような虹も立ったことがあったという昔話の一つのようにうけとられた。
 プロレタリアートの経済・政治運動が、労働大衆としての男女に共通した理論に立っていると同じに、プロレタリア文学の理論は、婦人作家と男の作家を一つに貫く階級的な文学観であった。小林多喜二が「不在地主」「オルグ」「工場細胞」「地区の人々」「安子」「党生活者」(「転換時代」として一九三三年四・五月『中央公論』に発表された)と歩み進んだ道は、歩はばのちがい、体質と角度の相違こそあれ、何かの意味で窪川稲子その他すべての婦人作家の文学的前進とつながるものであった。
 しかし、日本の社会的現実には、女にとって苦しい二重性があり、自覚した労働者の家庭の中、組合のなかにさえ、男の習慣となっている封建性はつよくのこっている。日本の繊維労働に使役されている婦人労働者たちは、ほとんど少女たちであり、農村の婦人の一生は、牛一匹よりもはかなく評価されてさえもいる。プロレタリア文学に、婦人の創造力が発揮され、そのような婦人の声が階級としての成長にかえってゆくためには、婦人独特の条件に即した何かの方法が必要であった。プロレタリア作家同盟の婦人委員会は、このような必然から生まれた。植民地大衆の生活と文学のために植民地委員会を、婦人とともに搾取されている青少年大衆のために青少年委員会を。過去の文学にはいろいろの流派――ロマンティシズム、自然主義、人道主義、耽美派などが現われた。けれどもプロレタリア文学運動は、これらの半ば封建的な要素をふくんでいる日本のブルジョア文学の流派の一つではない。同じように封建的な影をもちながらも、資本主義社会の中から生まれでて、日本の封建性と資本主義の克服、階級としてのプロレタリアートの勝利をめざす世界観にたった文学の確立をめざしたのであった。
 横光利一、川端康成などによって組織された「新感覚派」は、過去の文学にあきたらないけれども、プロレタリア文学はうけ入れない人々のグループであった。作品は表現派や未来派の手法によって試みられたが、このグループはほどなく消滅した。中村武羅夫の「誰だ? 花園を荒す者は!」というプロレタリア文学排撃の論文は、文学史の上に有名である。武者小路実篤その他、人道主義作家として出発した人々が、彼らの人道主義の具体的発展であるプロレタリア文学運動に対して反撥をしめしつづけてきていることは注目される。いわゆる「純文学」が、ますます文学としての本質を弱体化されて出版企業に従属させられながら、プロレタリア文学運動に対しては文学の「文学性」「芸術性」を固執して闘いつづけている矛盾は、中村武羅夫の場合とくにあきらかであった。芸術性をいう彼自身は大衆小説の作家であった。
 一九二九年に『女人芸術』に「放浪記」を発表して文学的登場をした林芙美子と、一九二〇年に短篇「脂粉の顔」をもって登場した藤村(宇野)千代の文学的足どりには独特なものがある。これら二人の婦人作家は、その出発のはじめ、それぞれに彼女たちが無産の女であり、生きるためにかよわい力で貧にまみれながら日々を過しているその境遇から生れる文学であることを訴えた。この訴えは、当時の社会的感情にうけ入れられやすかった。同時に彼女たちは、ただよう雲をみているような風情によって、また、どんなに貧しくてもその中で男のためにはいそいそと小鍋立もする、いじらしい女の文学としてのよそおいを強調した。そして、その貧しさという一般性と、そこにからめられたなにかはかなくとりとめない女の詩情のアッピールによって、貧しく出発した林芙美子は、「女の日記」を通って今日「晩菊」の境地に到達した。宇野千代は、一九三三年の「色ざんげ」を文学的頂点として、やがて「スタイル社」の社長となっていった。
 この二人の婦人作家たちは、プロレタリア文学運動に近づかない自分たち女というものをアッピールすることによって、平林たい子とまたちがった文学行路を辿った。彼女たちがしめした道行は、田村俊子の生活と文学にみられなかった、より高度な資本主義への姿である。
 一九二八年に発刊された長谷川時雨の『女人芸術』は、窪川、中條、松田、平林、などの作家から林芙美子、真杉静枝その他、当時の社会雰囲気に刺戟されてなにかの形で生活意欲の表現をのぞんでいた婦人のきわめて広範なエネルギーを吸収した。『青鞜』の時のように岡田八千代、山川菊栄、松村みね子などという人々も寄稿した『女人芸術』は勤労婦人の層にもよまれて、中本たか子、戸田豊子など労働婦人の生活と組合の活動にふれた婦人たちの文章もあらわれた。
『女人芸術』がその急進性によって、プロレタリア文学運動に参加している婦人作家の作品や組合婦人の声を反映してゆくために、長谷川時雨の希望する以上に『女人芸術』の革命的な熱情がたかまって行った。一九三二年の春、プロレタリア文学運動にきびしい弾圧が加えられたのち、『女人芸術』は廃刊されて、『輝ク』というリーフレットとなった。そののち、侵略戦争がすすむにつれて『輝ク』は、陸海軍に協力して「輝ク部隊」というものに編成された。
 一九四一年時雨の死去ののち「輝ク部隊」も自然消滅した。

 十二年間[#「十二年間」はゴシック体](一九三三―一九四五)

 一九三三年の一月ドイツではヒットラーが政権を得、二月日本政府代表は国際連盟から脱退した。小林多喜二がこの年二月二十日築地署で拷問によって殺された。一九三一年九月にはじまった日本帝国主義の満州侵略は、三二年一月に拡大されて上海事変となり、侵略を拡大しようとするファシストと軍部の若手将校によって五・一五事件がおこされ、犬養首相その他が暗殺された。六月には共産党の指導者として獄中にあった佐野、鍋山が侵略戦争とその命令者である天皇の絶対権を支持する声明を発表した。
 彼らの恥ずべき卑劣さのために、プロレタリアートの政党や文化・文学運動に直接結ばれていない人々まで、その良心から語る戦争批判、日本の絶対主義的支配に対する批判、戦争という事実が示す階級社会の富と正義・文化の偏在などに対するヒューマニスティックな検討の自由さえも、ねこそぎ抑圧されることになった。日本は憲兵と思想警察の日本となった。
 一九三二年の春以後は、機関誌『プロレタリア文学』の発刊も困難となった。プロレタリア文学運動が、国際的な成果をくみとりながら十年のあいだ前進させてきた現代文学の発展段階を、多くの人々がそれぞれの政治的文学的云い方で否定し、抹殺し、その流れから身をかわそうとする動きが支配的になった。
 現実から目をそらした「文芸復興」の声が現実にもたらすことのできたのは、随筆流行にすぎなかった。内田百間の「百鬼園随筆」につれて、森田たまが「もめん随筆」をもってあらわれた。
 一九三四年に日本プロレタリア作家同盟が解散された。その秋の陸軍特別大演習には菊池寛その他の文学者が陪観させられた。そして林房雄、亀井勝一郎らと当時の思想検事関係者の間に「文芸懇話会」が生れた。
 しかしフランスとスペインには、ファシズムに抗して人民戦線が生まれ、この年の八月十七日から九日一日までの間、モスクワでは「五十二の民族、五十二の言語、五十二の文学」を一堂にあつめた第一回全ソヴェト同盟作家大会がひらかれた。フランスからはロマン・ロラン、アンドレ・ジイド、アンリ・バルビュス、アンドレ・マルロオなどの他に世界革命的作家同盟のフランス支部の責任者であるポール・クーチュリエの五人が招待された。この大会は知識人と労働者が真に団結してファシズムと闘い、文化の自由を守らなければならないことを世界にしらした。これが動機となって一九三五年六月三日パリで「文化擁護のための国際作家大会」がもたれた。ファシズムに反対するすべての作家が結集した。当時日本ではかろうじて進歩的な世界文化の動きを紹介していた新村猛は『世界文化』十月号にこの意味深い大会の報告を伝えた。小松清もこの文化擁護の大会の議事録を翻訳して、日本にもファシズム反対のなにかの行動を可能にしようとした。
 プロレタリア文学運動が破壊されたことは、プロレタリア作家たちが組織を失い、分散させられ、その困難の中で稲子の「くれない」、中野重治「村の家」、宮本百合子「乳房」などが生まれたというばかりではなかった。小林秀雄の評論活動をはじめとして、プロレタリア文学運動に反撥することで、それぞれの派の存在を支えていた「純文学」の分野にも、はげしい混乱と沈滞をおこした。三木清によってシェストフの「不安の文学」が語られ、やがて「不安の文学」にあきたらない小松清、舟橋聖一などの人々がフランスの反ファシズム運動を変形させた「行動主義の文学」を提唱しはじめた。
 だが、一方では和辻哲郎が学識を傾けて日本の特殊性を主張するために「風土」を書き、保田与重郎、亀井勝一郎らが日本浪漫派によって神話時代、奈良朝、藤原時代の日本古代文化と民族の精華とを誇示し、横光利一は小林秀雄とともに純粋小説論をとなえはじめていた。この純粋小説論は、限界をしめしている私小説から社会的な文学への展開といわれたが、本質は作品の世界に再現される社会的現実に対して、作家の人間的・社会的主体性をぬきさった創作の方法であった。作家の自我は敗走した。この理論は、時をへだててあらわれた私小説否定としての風俗文学の本質、中間小説の本質につながるものとなった。
 窪川稲子の作品も次第に身辺的な男女問題をテーマとするようになった。この時期に岡本かの子が「鶴は病みき」によって出発し、一九三九年急逝するまで、「母子叙情」「老妓抄」「河明り」その他、多くの作品をおくり出すようになった。
 内閣に情報局がおかれ、日独防共協定にイタリーが加えられ、国民精神総動員運動がおこされたころ、新しく生まれた婦人作家に川上喜久子がある。彼女の「滅亡の門」は、当時の文学の実体の萎縮に反比例して、作家たちが主観的にとなえていた「芸術的意欲の逞しさ」を反映している創作態度であった。
 これより少し前に短篇によって登場した小山いと子は、この頃「熱風」や「オイル・シェール」というような作品を生むようになっていた。小山いと子は従来の婦人作家としては社会現象に対して強い興味と追求心をもった作家で、この二つの作品にしろ、みもしらない外国を背景として日本技師のダム工事にからむ事件や、人造石油製造の技術の発展とそれにからむ人事などをあつかっている。小山いと子のその積極性も戦争協力の「生産文学」の範囲から自由になることはできなかった。
 一九三八年から九年にかけて満州と中国に侵略した日本の軍事力は、ますますあれ狂って張鼓峰事件をおこし、ノモンハン事件を挑発した。文学者数十名が「武漢作戦」に従軍し、林芙美子は当時有名だった「北岸部隊」をかいた。国内では国家総動員法が全面的に発動され、国外ではヒットラーのナチス軍がポーランドに侵入しヨーロッパを火と死のうちにつきこんだ。
 このような年に婦人作家の活動が現代文学史のいつの時期よりも盛であったと記録されるのは、どういう理由からであったろう。窪川稲子「素足の娘」、真杉静枝の「小魚の心」「ひなどり」(短篇集)、大谷藤子「須崎屋」、中里恒子「乗合馬車」、壺井栄「暦」、そのほか矢田津世子「神楽坂」、美川きよ、森三千代、円地文子など当時の婦人作家はその人々の文学的閲歴にとって無視することのできない活動をした。一九三九年度の芥川賞、新潮賞などが婦人作家に与えられた。ジャーナリズムはこの年を「婦人作家の擡頭」という風によんだ。
 この現象は、しかしながら、決して婦人作家に未来の発展を約束する意味での擡頭ではなかった。なぜならばこの年の活動を通して一定のポスター・バリューをもつことを証明した婦人作家たちは、たちまち軍情報局に動員されて、侵略軍のおもむいている、すべての地域に挙国一致精神のデモンストレーターとして利用されなければならないはめに立ったのであった。
 婦人作家たちの上にもたらされたこの無慙なさかおとしの事情は、ひきつづき一九四一年十二月太平洋戦争にひき入れられたのちの五年間を通じる波瀾と社会変動を通じて、少くない数の婦人作家を生活的に文学的に消耗させてしまうこととなった。
 一九三九年代に、婦人作家の活動が目立ったということにはいくつかの重りあった理由があった。第一は用心ぶかくプロレタリア文学運動の荒い波をよけて、いわゆる「純文学」にたてこもってきた婦人作家の大部分が、この時期に、それぞれ一定の文学的完成をしめすようになったということである。第二の理由として考えられるのは、当時の国民精神総動員の圧力によって作者の人間的・社会的良心をぬきにした題材主義の長篇がはびこっていたのに対して辛うじて婦人作家の文学が文学のかおりを保っていると思われたことである。生産文学、農民文学、戦線を背景としてかかれた小説のどれもが、主題は軍の統制配給品であった。婦人作家の作品は男の作家よりも社会的関心がうすいために、かえって作品の中に文学の純粋さを保っているという角度から注目をされたのであった。
 川端康成が次のように語ったことは暗い予告の意味をもった。「女そのものが装いなしには存在しないように女の作家は自分の筆で装った女を私たちにみせるのだ。女流作家の芸術とは、そういう装いになり、それを装いであるが故に嘘だとするのは、私たちの短見なのだ。」そしてそのような装いをもって一種の「絵の中の女」となっている婦人作家の女たちが、「そのためにかえっていとおしくなるのを深く感じた。そしてそのことはそれでいいことなのだろう。」と。婦人作家のそのように装われた文学がジャーナリズムの上に一定の宣伝効果をもっているということ、しかも社会的現実に対する批判の能力は男の作家よりも弱いという事実について認識を与えられた軍情報部は、たちまち、そのような婦人の文筆を利用した。すべての婦人雑誌が婦人の戦争協力のために動員されていた当時、男に対してさえも男が書いたものとはちがったアッピールをもっている婦人作家を、報道活動に総動員せずにはおかなかった。
 窪川稲子が一九四六年六月に発表した「女作者」のなかで、その頃彼女までが報道員として戦争協力にまきこまれていったいきさつを、えぐり出して語っている。「兵隊や兵隊を送った家族の女の感情にもひきずられてその女の感情で」中国へも南方へも行ったのであったが、一九四五年八月十五日がくるまで日本の人民を虚偽の大本営発表であざむきつづけた軍部としては、彼女たちの「泣いて語る話が手ごろに必要だったのである」と。

 明日へ[#「明日へ」はゴシック体](一九四五―一九五〇)

 一九三九年から一九四五年までの世界第二次大戦は、世界二十億の人民に次のことを教えた。民族の独立と人民の生活の安定のために、帝国主義、国際ファシズムと闘い戦争をこの地球から絶滅するのは、人民の偉大な事業であると。なぜなら、どの戦争でも殺されなければならないのは常に人民であり、その殺戮はますます大規模になっているのだからと。中国は中華人民共和国となりアジアとヨーロッパに民主勢力が拡大した。戦争でもっとも大きい犠牲を払った四十三ヵ国の婦人たちは、国際民主婦人連盟を組織し、世界の進歩的な労働者は、世界労働組合連盟に結集した。中国・朝鮮の婦女連盟、英国の主婦連盟、日本の民主婦人協議会などは、それぞれの地域の具体的な条件にたって平和と人民生活の擁護のために奮闘しはじめた。青年の国際組織もつくられた。こんにちすでに十数億の人民が平和と原子兵器禁止のために結集している。
 一九四六年から四七年の春頃までの第一期(ポツダム宣言の実行ということがもっとも正直にうけとられて、日本民主化の課題が政治・経済・文化の各面にわたって世界の良心によって監視されていた時期)日本の文学が新しい成長をもってやけ跡から芽ばえるために、民主主義文学運動の中心として「新日本文学会」が組織され、雑誌『新日本文学』が発刊されるようになった。同時に『人民短歌』のグループと民主的詩人の活動も開始された。世界の人民的な民主主義の本質にしたがって、日本の民主主義文学運動もその主力を労働者階級の文学におき、世界と日本のプロレタリア文学運動の成果を批判し継承しながら、多様でひろい人民層の民主的意欲を表現する新鮮な文学をもとうとする方向に発足した。
 一九四六年の一月、久しぶりで再発足したいくつかの商業雑誌がこぞって永井荷風の「浮沈」「踊子」「問わずがたり」などをのせ、ひきつづいて正宗白鳥、宇野浩二、志賀直哉などの作品をあらそって載せた現象は、日本の悲劇の一面をあらわした。商業雑誌は、戦争協力をした作家をさける必要を感じた。編輯企画の行われた前年の八九月は、まだ治安維持法が撤廃されていなかった。したがって、もとのプロレタリア作家の作品を求めることには不安があった。これら二つの条件をさけて、しかも戦後にひろがった雑多な読者層、文学作品とよみものとの区別を忘れ、或はそれをしらずに戦争の年々を育って来た読者層を満足させるために安全なプランといえば、「おかめ笹」「腕くらべ」などの作風によって親しみやすく思われている永井荷風に着目することとなった。
 一方『近代文学』『黄蜂』などは、『新日本文学』とはちがった角度から、新しい文学の誕生のために努力した。『新日本文学』は小沢清「町工場」つづいて熱田五郎「さむい窓」、林米子「矢車草」など、職場に働いている労働者作家の作品を発表しはじめるとともに、徳永直「妻よねむれ」、宮本百合子「播州平野」などをのせはじめた。
 永井荷風によって出発したジャーナリズムは、インフレーションの高波をくぐって生存を争うけわしさから、織田作之助、舟橋聖一、田村泰次郎、井上友一郎、その他のいわゆる肉体派の文学を繁栄させはじめた。池田みち子が婦人の肉体派の作家として登場した。丹羽文雄、石川達三などは風俗小説をとなえて、戦後の混乱した現実を写してゆく文学を主張した。けれども肉体の解放によって封建性に反逆し、人間性を強調するというたてまえの肉体文学が、要するに両性の性に、人間性を還元した文学にとどまり、風俗小説がその傍観的な立場をすてて進むべき方向を見出せないままに現象反映の文学に止まっていることについて、批判がおこってきているのは当然であった。
 太宰治の虚無にやぶれた文学も、戦後の特権階級の没落と、その感傷とに共感する小市民生活の気分にむかえられた。
 一九四五年の冬から活溌におこった労働組合の活動と労働者階級の文化活動は、支離滅裂に流れてゆく商業的な文学の空気を貫いて文学サークルを生み出し、全逓従業員の文学作品集『檻の中』、国鉄の詩人たちの詩集、自立劇団の誕生につれて続々あらわれた堀田清美、山田時子、鈴木政男、寺島アキ子その他の人々の新しい戯曲などがあらわれた。新日本文学会は勤労者文学選集二冊、新日本詩集三冊、新しい小説集三冊を刊行することができた。
 一九四八年十二月に東條をはじめとする戦争首謀者たちの処刑が行われ、その犠牲において児玉誉士夫のようなファシズム文化の運動に関係ある日本のファシスト戦犯が大量に無罪釈放されて民間にまぎれこんだ。このことは、日本民主化のために重大な害悪となっている。
 一九四九年の三月、保守陣営が絶対多数をしめてからの日本は、基本的人権に関するあらゆる面で人民の側からポツダム宣言の忠実な履行を、あらためて要求しなければならない状態になった。
 戦争挑発に反対して平和を守ろうとする闘いと民族の独立、日本が軍事基地化されることに反対する男女の声は、文化・学問の自由を守る要求とともに科学者文学者のひろい層の発言となった。文学者の平和を守るための動きは、労働者階級の平和擁護の運動と結合してすすめられるようになりつつある。作品としては肉体派の文学を書いている作家たちも、平和と全面講和の要求にはその名をつらねている。
 文学の分野に出場して来た婦人の層は一九四六年以来、非常に立体的に広範囲になってきた。平林たい子の「盲中国兵」「終戦日誌」「一人行く」「こういう女」などは、作者のアナーキスティックな資質は変らないが、戦時中彼女がこうむった抑圧の記録として、また中国捕虜のおそるべき運命の報告書として、強い感銘を与えるものであった。その後この作家が「地底の歌」という新聞小説の連載によってやくざの世界の描き手となったことは注目される。作者は日本の暴力、やくざの世界が市民生活の民主化を妨げ(例えば「暴力の街」)、労働者の生命をおびやかすものとして(読売の争議その他の争議へのなぐりこみ)権力に利用されていることについて具体的な知識をもっている筈である。「地底の歌」はやくざの世界の封建性を批判しようとしながら、作者は彼等の世界にある人情に妥協して、反民主勢力としての日本のやくざの反社会性をえぐり出していない。自他ともに「逞しい生活力」を作家的特質として認めているこの婦人作家の今後の動きは注視される。
 佐多稲子は「私の東京地図」をもって新しい出発に踏みだした。この連作で作者は戦災によってすっかり面がわりした東京の下街のあすこここを回想的に描き出しながら、そこを背景として、一人の勤労する少女が働く若い女となり、やがて妻、母として階級にめざめて行ったみちゆきを描いた。「私の東京地図」と「女作者」「虚偽」「泡沫の記録」などをよみあわせたとき、二十年前に「キャラメル工場から」を書き、プロレタリア文学の歴史に一定の業績をのこしているこの作家が、複雑な良心の波にゆすられながら、民主主義の婦人作家として自身に課している努力を理解することができる。
 過去十二年の間わずか三年九ヵ月ばかりしか作品発表の自由をもたなかった宮本百合子は、一九四五年十一月頃から「歌声よ、おこれ」などの民主主義文学についての文学評論のほか、「播州平野」「風知草」などにこの作家にとって独特であった解放のよろこびと戦争への抗議を描き出した。「伸子」の続篇として、一九二七年以後の二十年間の社会思想史の素描ともなる「二つの庭」、「道標」第一部、第二部がかかれ、目下第三部が執筆されている。この長篇は日本の中産階級の崩壊の過程と、その旧い歴史の中から芽ばえのびてくる次代の精神としての女主人公の階級的人間成長を辿りながら、一九二七―三〇年ごろのソヴェト同盟の社会主義の達成とするどく対比されるヨーロッパ諸国のファシズムへの移行などをも描こうとしている。そのような歴史の事情が女主人公の精神と肉体を通してどのように階級的人間を形成してゆくかを描こうとされている。
「暦」によって、働いて生きる人々の清潔で勤勉な人生の語りてとしてあらわれた壺井栄が「暦」の続篇としての性格をもっている「渋谷道玄坂」をかき、その系列として「妻の座」を生んだことには、軽く通りすぎてしまうことのできない意味がみとめられる。
「妻の座」は、題材の困難さも著しい。作者自身としては題材のむずかしさ、苦しさに力の限りとっくんでゆく努力に自覚をあつめているうちに、この作家がこれまでかいて来た平明で、まとまりよくおさめられた作に見られなかった苦渋をにじませた。常識と分別、ひとがらのかしこさがくつがえされて、むき出された人間関係のえぐさは、「妻の座」の場合、作品の世界の中で関係しあっている人物たちが、我知らずその精神、生活態度のうちにもち運んで来ている小市民的な先入観、世俗性のもつれであった。「妻の座」は、この作家について論じるとき無視することのできない特殊な一作となった。
 かつて『女人芸術』が、全女性行進曲というものの歌詞を募集したとき、伊豆の大島の小学校の教師をしていた一人の若い女性が、当選した。それが松田解子であった。秋田の鉱山に生い立った彼女は、プロレタリア文学運動の時代、婦人作家として一定の成長をとげた技量を、現在の多面な民主的政治的活動のうちに結実させようとしている小説「尾」(新日本文学)そのほか多くのルポルタージュ、民主主義文学についての感想などがかかれはじめている。
 一九四六年四月に網野菊の「憑きもの」が発表された。この作品は第一作品集『秋』から『光子』『妻たち』『汽車の中で』『若い日』その他二十余年の間つみ重ねられてきたこの作家の、日本的な苦悩をさかのぼって照し出す感動的な一篇であった。このつましい、まじめな婦人作家は、永年にわたって彼女の一貫した題材となっていた不幸な母、不遇な妻、思うにまかせない娘としての女の境遇のきびしい壁が、日本の民主化とともにうち破られて「女もあわれでなくなる時がきた」とこの「憑きもの」の中に語っている。旧い日本から解放されようとするよろこびを、この作品のように素直に透明にうちだした作品は少かった。網野菊の正直なよろこびは、その後うつりかわってこんにちに及んでいる日本の民主化のごまかしとすりかえの甚だしさに対して、どんな内心の憤りを表現しようとしているだろうか。
 老いるに早い日本の文学者たちが、六十歳にも近づけば、谷崎潤一郎の「細雪」のようにきょうの一般の現実には失われた世界の常識にぬくもって、美文に支えられているとき、野上彌生子が、「迷路」にとりくんでいることは注目される。「青鞜」の時代、ソーニャ・コヴァレフスカヤの伝記をのせたが、青鞜の人々の行動の圏外にあった野上彌生子。プロレタリア文学運動の時代、「若い息子」「真知子」をかき、労働者階級の歴史的役割については認識しながら、当時の運動については批判をもっている者の立場をふみ出さなかった野上彌生子は、一九四六年後、「狐」「神さま」等の作品を経て、「迷路」に着手した。かつて、「黒い行列」としてかきはじめられ、情勢圧迫によって中絶したこの長篇は、現在第三部まで進んだ。二・二六事件をさしはさんで、ファシズムと戦争に洗われる上流生活の様相と、その中におのずから発展を探る若い世代の歴史的道ゆきを辿ろうとされている。
 野上彌生子の理性的な創作方法とはちがって、はるかに素朴な生活力ながら、やはり調べた題材による作品を送り出して来た小山いと子が、最近の「執行猶予」で、経済違反の弁護によって成り上ってゆく検事出身の弁護士とその家庭、現代風にもつれる男女の心理などを扱っている。小山いと子が、中間小説や風俗小説の刺戟的な方法に学んでグロテスクな誇張におちいらないで、むしろ常識の善良さで、この戦後的題材の小説をまとめていることは興味がある。然し、その常識的善良さは、更に鋭く客観的な観察に発展させられる必要がある。
 ヒロシマで原爆の被害を蒙った大田洋子の「屍の街」は戦争の残酷さを刻印するルポルタージュである。芝木好子、大原富枝そのほか幾人かのひとがそれぞれ婦人作家としての短くない経験にたって、明日に伸びようとしているのであるが、婦人の生活と文学の道とは、今日も決して踏みやすくはされていない。女が小説をかくというそのことに対する非難の目は和らげられたにしても、既成の多くの婦人作家が属している中間的な社会層の経済的変動と、それにともなう社会意識の変化は、著しい。それらがまだ日常の雰囲気的なものであるにせよ、彼女たちには過去の文学の観念と創作の方法が、そのままで現在を再現し、明日のいのちにつながるにしては、何かの力を欠いて来ていることが自覚されてもいるだろう。
 このことは、「白き煖炉の前」にて中里恒子に著しい。中里恒子は、彼女の特殊な生活環境によって、日本の上流家庭の妻となり、母となっている外国婦人の生活をしばしば題材として来ている。戦争中これらの外国婦人たちが日本で経験したことは、彼女たちの多くを日本人嫌悪におとし入れた。人間性ヒュマニティは、一つと信じて生きて来た異人種の男女を、悲しい民族の血の覚醒に導いた。中里恒子の題材は、そのような日本の悲劇の追究をとおして、世界的な意味をもつヒューマニティーの課題である。民族の血の力に追いこまれた人々にふたたび高い人間的脱出を示す可能をひそめる題材である。けれども、中里恒子の文学はそういう環境の女性のしつけのよさと良識、ややありきたりの教養の判断にとどまっていて、作家として偶然めぐり合っている苦しい可能性を生かしきっていない。題材に匹敵する創作の方法が、この作家のところにないのは残念である。
 人民的立場に生きる婦人として、生活の実体そのものから、はっきり民主的な地盤に立って生れ出て来ている作家は、既成の人々の生活と文学との上に見られるギャップが、素朴なりに埋められている点に注目しなければならない。多面的な日常生活の困難ととりくみながら、家庭の主婦であり、小さい子供の母である早船ちよが、「峠」「二十枠」「糸の流れ」「季節の声」「公僕」など、次々に力作を発表しはじめている。早船ちよは、「峠」の抒情的作風からはやい歩調で成長してきて、取材の範囲をひろめながら日本の繊維産業とそこに使役されている婦人の労働についてはっきり労働階級の立場から書きはじめている。彼女の筆致はまだ粗く、人間像の内面へまで深く迫った形象化に不足する場合もある。しかし現実生活に根をおろして、階級的作家としての成長がつづけられるならば、この作家の力量はやがて少くない成果をもたらすであろう。
 一九三九年ごろの軍需インフレーション時代、出版インフレといわれた豊田正子『綴方教室』小川正子『小島の春』などとともに、野沢富美子という一人の少女が『煉瓦女工』という短篇集をもって注目をひいた。
「煉瓦女工」は、荒々しく切なく、そしてあてどのない日本の下層生活を、その荒々しさのままの筆力で描き出して、一種の感銘を与えた。その後、何ものにも保護されることのない無産の若い女性が、資本主義社会の中でその身にかぶらなければならないあらゆる混乱をきりぬけて、彼女も小池富美子となり一九四八年末『女子共産党員の手記』という短篇集を送り出した。「女の罰」「肝臓の話」「女子共産党員の手記」「墓標」。それらの作品には、彼女の生活環境と彼女自身のうちにある根深い封建的なものが、反抗と解放への激情と絡みあって、生のまま烈しく噴出している。暗く、重く、うごめく姿があるけれども、そこには、「人間は断じて自滅すべきものではない」という彼女の人民的なつよい生活力が燃えさかっている。「渇いている時に水などほしくないといったような嘘まで、わたしにはとても書けそうもないのです。」「煉瓦女工」の書かれたときも、小池富美子のモティーヴはそこにあった。「女だから特別にひまがなかったり、金がなく食べるものもたべられなかった苦しみをあんまり繰返したくないためには、」「私達はどんな思いをしても一切の生活の嘘とたたかい、勝利しよう。」そして、妻となり子供の母となって東北に生活している彼女は、もっといいものを沢山書いてゆきたいと骨折っている。
 小池富美子が、「煉瓦女工」から、戦争の時代を通って今日に歩いて来た道は多くのことを考えさせる。彼女は泥まびれになってころがり(「女の罰」)時には泣きながらも、萎縮しなかった率直な生活意欲を保ちつづけた。封建的な要素の多い人情にからまりながら次第にそれらが、日本の社会の歴史的なものであるという本質をつかみ始めて来ている。彼女よりもひと昔まえの一九二〇年代の後半にアナーキズムの渾沌の裡から生れ出た平林たい子が、「施療室にて」から今日までに移って来た足どり。「放浪記」の林芙美子がルンペン・プロレタリアート少女の境地から「晩菊」に到った歩みかた。はげしい歴史の波の一つの面は、平林たい子、林芙美子という婦人作家たちをそのような存在として押しあげた。歴史の波のもう一つの面は、社会の底までうちよせて小池富美子を成長の道におき、印刷工場のベンチの間から、「矢車草」「芽生え」の林米子のために新しい生活と文学の道を照し出した。
「雨靴」石井ふじ子、「乳房」小林ひさえ、「蕗のとう」「あらし」山代巴、「遺族」「別離の賦」「娘の恋」竹本員子、「流れ」宮原栄、「死なない蛸」「朝鮮ヤキ」譲原昌子。その社会的基盤のひろさ、多様さにふさわしく、これらの婦人たちは人民の文学としての発言の可能を示しはじめている。けれども、人民生活と文学との苛烈さは、「朝鮮ヤキ」のすぐれた作品を最後として譲原昌子を結核にたおした。新しく書きはじめている婦人たちの文学は、早船ちよをやや例外として、まだその大多数が、小規模の作品に着手しはじめたという段階である。題材と創作方法の点でも、人民生活としてのひろがりをふくみつつ自身の生活によって確められている地点から語りはじめているのが特徴である。
 小説というものが、人間、女――人民の女としてこの人生に抱いている意志と情感を語るものとなって来ていることは、この四五年の日本の社会の、すべての矛盾、欺瞞をしのぐ人民の収穫として評価されなければならない。
「海辺の歌」の松田美紀。一九四九年度に作品を示した戸田房子「波のなか」、畔柳二美「夫婦とは」、『四国文学』に「海軍病院の窓」をかいた正木喜代子。広津桃子「窓」、関村つる子「別離」。環境的な重荷をもって出発してる由起しげ子(「本の話」「警視総監の笑い」「厄介な女」その他)、波瀾のうちに、どのような発展をすすめて行くだろう。
 幸田露伴という文人の、博学であったが封建性を脱げなかった常識的達人の鋳型を、やわらかい女の体と精神にしっかりと鋳りつけられた幸田文の文筆は、あまり特異である。文学にまで及んだ家長制について深く考えさせるものがある。
 関村つる子、由起しげ子などの人々は、もう久しくつづけて来た文学の勉強の結果を、こんにち発表しはじめている。それほど久しい間婦人の、人間としての社会的発想は、抑えられつづけて来たのだ。抑えられているなかで、自分の文学の境地をまもりつづけて来た婦人たちの作品は、しかしながら、あまり現代の歴史のいきづきから遠くはなれて、それとしての完成を目ざして来たという印象を与える。由起しげ子のヒューマニズムは、自分で自分のヒューマニティーを劬りつづけて来た生活習慣から、早く強壮に巣立つ必要にせまられている。彼女の、「良識」と評せられる感受性は、現実の中でよごれずにはすまないこと、しかしそれはけがれではないということを会得することが待たれる。関村つる子の真率さは、どのようにそのまゆをくいやぶるだろうか。きょうの文学史が二重うつしとなっていて、われわれの成長も二重の可能に立たされているわけがここにある。
 由起しげ子、関村つる子、そのほか多くの婦人の作品のモティーヴは、ヨーロッパ文学の中では、ジョルジュ・サンドが婦人の人間性について訴えはじめてこのかた、第一次大戦までの資本主義社会の自由のなかで、婦人の文学によってかき出されて来たものであるともいえよう。けれども、われわれのところでは、一九五〇年のきょう、やっとこの人々の人間の声がきかれるようになった。モティーヴは、いくら世界史のうしろの頁からはじめられていても、それを展開してゆく生活と文学の可能は、前進している。はっきり民主的な立場に身をおいて書き出している婦人作家たちはもとより、由起しげ子の作品にしても、一九三九年代に女らしさのよそおいに自分たちの文学を装った日本の婦人作家の悲しい身ぶりからは解放されている。広津桃子にしても、関村つる子にしても、人間としての女の自然な発声に立っている。
 ささやかなように見えるこの前進は、重大な歴史の一歩である。なぜならば、婦人作家が、もう日本に独特な女心の人形ぶりをすることをやめたという事実は、それらの婦人作家にとっても、前進の道は人間の道、二十億の多数なる人民の道の上にしかないことを確証することであるから。このような行手の眺めは「わたしたちも歌える」に見られる小さな婦人たちの発言のうちにも閃いている。
 きょうのジャーナリズムの上にあらわれて文学とよばれているものの大部分がどのようであろうとも、歴史とともに文学は変りつつある。
 ヒューマニティーと歴史との関係は、益々鋭く一人一人の作家の生きかたとその文学の上にあらわになって来た。婦人作家が人間としての自立性を高めて来るにつれて、――女の文学から、人間の文学に高まるにつれ――理性によって選ばれ、方向づけられたヒューマニティーの意欲ある展開が婦人の文学の上にも花咲くことは当然期待されることである。
 作家について語る場合、その人々の文学作品を見るばかりでなく社会的なすべての発言、すべての行動が統一的に見られ互に関係しあうものとして見られるようになりつつある。そして、更にいくつかの変転を経た日、「日本の社会における婦人と文学」との苦しい関係を語りつづけて来た婦人文学の特殊性は、人間の歴史の勝利の歌声のうちにとけてゆくのである。
〔一九五一年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「婦人と文学」附録、筑摩書房
   1951(昭和26)年4月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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