お喋りの間に笑い笑い云えば、私がこう丸まっちいのも不幸の一つね、と云えるようなものだが、真面目に人生の心持としてとりあげて見ると、私たちの生活を充たしているどころか寧ろその上に、その間に毎日が営まれていると云える程の不如意、願わしくない事情、困難を、それとして十分認め、或る場合それに拉がれることをも率直に認めつつ、しかも、それ等が私の不幸と固定したものとなって、生活感情にかたまりついていないというのは、面白いことだと思う。
私たちの生活の現実の裡には、今日の社会が複雑であるだけ極めて複雑ないろいろの関係が織りこまれているのだから、それらに対する私たちの生きよう、受けよう、働きかけようで、条件から引き出されて来る結果はいくつかに分れると思う。幸福、不幸という生活の概括のしかたは、今日では益々比喩的な言葉というか、チラリと生活の波に照る言葉で、固定してそれが生きてゆく心の土台となるようなものではなくなって来ていると思う。私たちは、日夜、営々として、人間として願わしくない事情を、より願わしい方向に向けて有形無形に推しすすめようとする直接の感じで生きていると思う。自分の生活に現れて来る不如意や困難の深くひろい原因と、社会のつながりとを理解し、それを細かく理解することからその中に在る可能を見つけ出して、その可能は一杯に育てたいという努力で生きており、その努力に甘えず、人類の進歩から的はずれなものとならないためには、一層広く透徹した人間生活への理解、堅忍と愛とが必要と思われている。
仮りに不幸とか幸福とか云う云いかたに従って現代を見れば、世界のありようとして、私たち誰もの生活に波瀾は避けがたく、もし現代の若い女性がスポーツの精神を理解すると云うならば、人生におけるフェア・プレイの美と、善戦とはいかなるものかという、それら交々の悲喜や勇気などこそ、多くのものを語っていると思う。
〔一九三九年七月〕