一

 異性との間の友情の可能やその美しさなどについてより多くさまざまに思い描くのが常に女性であるということについて、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
 十五六歳のういういしい情感の上にそのさまざまな姿が描かれるばかりでなく、二十歳をかなり進んだひとたちも三十歳の人妻もあるいは四十歳を越して娘が少女期を脱しかけている年頃の女性たちも、率直な心底をうちわってその心持を披瀝すれば、案外にもその人たちが十七八歳か二十ごろ抱いていた異性の間に友情は成り立たないものかしらというぼんやりした期待、疑問を、そのまま持ち越している人たちがかなりあるのだろうと思う。
 そして、そういう現代の女性の比較的表現されていない気持は、後輩や娘たちが当事者として、異性との間に友情と恋愛の感情の区別をはっきり自覚しないでいろいろ混迷しているとおり、やはり事態に対して何となし判断の混乱におかれている場合がすくなくない。
 でも、どうしていつも女性の側が、ほとんどその年齢にかかわらず異性との間により広闊な友情を求める心理に在るのだろうか。男の雑誌に、異性との友情について書かれる記事は稀なのに、どうして女性のための雑誌は、時を置いてはこのテーマをくりかえす必然におかれているのだろうか。特に、日本の婦人雑誌では、女の幸福についての論議や異性の間の友情の可能についての文章が多い。この事実には、近代日本というものの深い歴史の影が現れていると思わざるを得ない。
 もし日本の習俗の中で男性というものが女性にとって、良人候補者、あるいは良人という狭い選択圏の中でばかりいきさつをもって来るものでなかったら、異性の間の友情について常に何かロマンティックな色どりを求めるいくらか病的な感傷性も、きっとずいぶん減っただろう。幼稚園時代から引つづいた男の子と女の子との共同生活の感情が、成長した若い男女の社会的な働く場面へまで延長されている社会なら、両性の共感の輪も内容もひろげられ、明るくされ、今日つかわれる異性の友情という表現そのものが、何か特定な雰囲気を暗示しているようなうざっこさは脱して、たのしい向上的な両性の友情感が一般の社会感情の一つとして行きわたるのだろうと思う。そういう社会的な土台があっての両性の友情感であれば、おのずから恋愛との区分も、感情そのものの質のちがいとして、本人たちもはっきり自覚することができるのだろう。
 日本で、さわやかな両性の友情の成り立ちが困難な原因は、もう一つあると思う。それは、日本の婦人ぐらい欧米の男にだまされやすい女性はないという、その現実の源泉と社会的な性質では全く同じもので、日本の女性たちの日常は、どちらかというと男から荒っぽく扱われ生活感情を圧しつけられて暮らしている。男のひとのいい分とすれば、その外見的な粗暴のかげに日本の亭主ほど女房を立てているものはないと説明される。だけれど、男の側から見かけだけは荒っぽく扱われている日本の女こそ、習俗の上で見かけの礼儀や丁寧さのこまやかな欧米の男にだまされやすいということは、外見だけの荒っぽさと称される境遇が、それだけ女の心を、外見のねんごろさにさえもろくしている深刻な機微を語っているのだと思う。外見だけのこととしていいくるめきれない女性歴代の情感の飢渇が、哀れな傷をそこに見せているのである。
 日本の女性が、両性の友情の間で紛糾を生じがちなのは、我知らずそこに、自分たち日常の現実にあらわれている関係のきまった男との間に在るいきさつとは異った気分、より圧迫の少い、女としてより負担と責任との軽い、それゆえより人間として自分を溌剌とさせると感じられる気分だけを主観的に求めて、友情というものの責任観を十分身につけていないところから生じていると思う。
 男性たちにしても、女が生きて来たと同じその歴史のうちで生長して来ているのだから、同じような感情のあいまいさや節度の不分明なところを弱点として持っているのは当然である。紛糾は女性が自分の感情の本質をはっきり知っていないことからひき起るばかりでなく、男性が両性感情でまだ未熟粗野であることからもおこって来ているのである。
 河合栄治郎氏が余程以前アメリカに留学しておられた時分、友人であった一人のロシア生れの女性が、非常によく両性の友人としての交際に訓練されていて、そのために氏は多くのことを学び、男と女との間に友情がまっとうされるためには守るべきいろいろの限界が在ることと、そして、それを守る節度によってますます友愛はそのものとして清潔に美しくあり得ることを知ったよろこびを語っておられたことがあった。
 友情というものはただ男と女とが組みになって遊んでいるというよりも深い本質に立つものである。感情の三分の二ほどは恋愛的なものだが、その責任を互にさけて、対外上にも友情の仮面を便宜としているという風な自堕落なものでもないと思う。
 少年少女時代から一緒に種々様々な行動をして育つ外国の両性たちの間に、細かい礼儀のおきてがあって、たとえば女の子は決して自分の寝室に男の友達を入れないという慣習などは、建物の構造が日本とはちがっているという条件からばかりでなく、やはり一方に自由闊達な両性の交際が行われている社会の習慣が、その半面にもっているけじめなのだと思う。
 日本の今日の実際にふれて周囲を見わたすと、大部分の人々の青春は、両性の友情などというものからは、思うよりも遙かに遠くおかれて過されているのだと思う。兄妹がいて、それぞれ学校生活をしていたり勤めたりしている人たちでも、なかなか互の友人たちを家庭の内で紹介しあって、淡白に愉快につき合ってゆくという習慣はできていない。家庭の雰囲気と若い男女たちの生活感情との間に見えないギャップがあって、相当の年ごろになった娘や息子は、友達の間では自分を親の家の空気の重さからはぬけた者として感じていたい心をもっている。男の子は自分たちだけ、女の子も自分たちだけ。その点では兄も妹も別々で、まともな心持の若いものはかえって兄と妹とのグループをごっちゃにして外で遊ぶというようなことはしないらしい。
 従って何か特別な社会環境にいる人でない限り、互の接触はたいへん稀れなことになり、友情という広汎な感情で訓練される間もなく、本質的には偶然なきっかけが特定な人への特定な感情へと導かれる場合が多くなってしまうのである。

          二

 日本の家庭の父や母たちは、永年にわたる家庭の友として異性の友人たちをもって、互の家庭の純潔をまっとうしながら友愛をみのらせて来たという経験には何と乏しく貧しいことだろう。その貧しさ乏しさは、若い世代の男の子女の子のつき合いについての判断についても良識を欠くことになってたとえば相当な年になった息子たちや娘たちは自分たちの交友を家の外でするという結果をも導き出していると思う。
 どんな若いひとたちにしろ、ただ友達の兄さん弟というだけのつき合いを一々母たちの詮索風な、また婿選び的鑑識の対象にされることは、うるさくて堪え難かろう。どんな息子にしろ、格別の感情を抱いてもいない妹の友達たち一人一人をやがての嫁選びのような目で自分にひきつけて眺められることには我慢しきれない神経をもっていると思う。家庭というもののうちにあるそういう煩わしい、幾分悲しく腹立たしい過敏な視線が、若い世代を外へとはじき出していることを、父母たちはどの程度に洞察しているだろうか。
 社会の歩みは日本の今日の若い世代を片脚だけ鎖の切れたプロメシゥスのような存在にしているから、両性の友情の条件も実に波瀾重畳の趣である。男と女とのつき合いはまだまだ特殊な目で見られているのだから、どうしても、一方には責任を負わないことをそのたのしさとして求めている両性の遊びがあり、まともな結婚の対象ということになると、それらの友達の間からではなく、もっと保守な面から選ばれるという奇妙な現象が近来増して来ているように思える。特に男の側からその態度がつよくなって来ていると見えるのは今日の世相のどういう反映というべきだろう。つまり友達としては向上心もあり、感受性も活溌で、幾らかはスポーティな、いってみれば手ごたえの鮮やかな女性を好む若い男たちが、いざ結婚のあいてを選ぶとなると案外そのようなタイプとは逆の、いわゆる家庭的と総称されて来ている娘たちの方を妻として安心に思う消極性によってしまう。
 この一事においてさえ、若い女性の人生への念願とはすでに喰いちがうのである。今日いくらかでも女の一生の意味を考える若い婦人たちは、いわばさっぱりと友達として女性につき合うことも知っている男性、女に向えばオイ! という声が喉に湧いて来るような習性をもっていない男の中から、できることなら良人も発見して、お嫁入りではない結婚と呼ぶにふさわしい生涯の歩み出しを願っている。女性として社会に求めている積極の面で働こうと欲していると思う。それだのに結婚の対象を選ぶときには男の心が保守となり、そのことでひいてはこれまでの友達としてのつき合いも女性の心の自然からいつとはなしにたたれることにもなる。
 友情といわれるごくひろい気持の上で経験されているこのような相剋は、女性がますます社会的な活動にひき出されて来ている今日、若い世代の生活感情にとってあるいは時代的な不幸としての性格をもつものではないかと思う。実生活の困難がますます加わって来るにつれて、男は妻をますます家政の守りとして求め、その求めてゆく心にいつしか日本の社会の古い古い陰翳が落ちて、新しい世代の賢さから生れる家政上手に信頼をつなごうとするより、そのことではむしろ旧套にたよった守勢をとる。
 両性の向上ということから、女性が社会に向って示す積極な態度を評価することさえも、今日の若い世代の男性にとってただある時期のこのみに過ぎないものとなっているとしたら、歴史を推しすすめる世代の意義をどこに見たらいいのだろう。
 あらゆる面から若いひとたちは、社会的な活動に入ってゆくことで、自分たちの社会観をひろく強くして行かなければならないと思う。どっさりの異性の知人というものが、あるいは同僚があるような公共的な生活が先ずあって、そういう土台からもっと私的なこまかい条件の加わって来る友情も生れる空気が求められるべきだと思う。異性の友情という、どことなし従来の婦人雑誌のトピック向きな空気の低迷した隅からぬけ出して、もっと心理が強健で、もっと持続性と自主性とをもった両性の友情がはぐくまれて行くことを、私たちは自分たちの生活の現実としての希望としているし、努力しているのだと思う。
〔一九四一年二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
   1941(昭和16)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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