義弟が、生れたばかりの赤坊と若い妻と母とをおいて再び出征するので、二十日ばかり瀬戸内海に沿った村へかえっていた。そこは、海辺近くだから春はめばる、夏はすずきと魚にこと欠いた経験はなくて何十年来暮していたところ、今度行ってみると、母は魚買いに苦心している。自転車のうしろに魚籠びくをつけて門口から声をかけて通る魚売りは三日に一度も来なくて、往来にその自転車をちらりと見かけ走って出て声をかけると、魚売りはふりむきもせず、なアもありゃせんとスイスイ行ってしまう。魚が無いのは実際なので、その附近一帯が俄かに躍進都市になって来たため人口が十層倍にもなり、魚は私たちの家のある村の端れへなんか来ないうちに、いい値で忽ち売切れてしまうのである。網やガソリンが不足で品が足りないでいるということもある。
 海辺だから、魚の心配だけはないなどと云っていたのは昔話だと、母ともどもすこしあっけにとられて東京へ帰って来た。
 東京駅でスーツ・ケースをうけとってくれたひとが、先ず訊いたのは、あっちでは野菜はどうだった? ということであった。日本葱一本を等分にわけて、お宅には特別にこっちをあげましょうと白い根の方を貰って来たという話もその朝省線の中できいた。
 野菜不足は深刻な昨今の不便だが、そこにはいろいろの原因がたたまっているだろうと思う。関東の大水害で野菜が水の下になって腐ってしまった。これも原因の一つである。公定価格がきまった途端に品物は消滅してしまった。これも原因の一つを示している。
 あれこれの理由で野菜が消え去ったとなって、市民のそれに対する対策はどんな方法で行われているかというと、やはり実に個人的にやられている。或る隣組の常会で、その話が出て、お宅ではどうなすっていらっしゃいますかという問いが出た。一軒の家は、一日おきに田舎へとりに行っておりますからと答えた。もう一軒の主婦は、買いつけの八百屋にビールをのませたりするというような返答で、それきり話は進まなかったという事実がある。
 野菜なんかは、毎日目の前になくてはならないものだから、主婦たちの焦った気分は、一番手っとりばやり一番ききめがある方法を思いついて、早速ビール接待というような表現をとるのだろう。野菜はくさりやすくて足袋のような買いだめは出来ない。買いだめ出来ないということから益々お互いに気はずかしいような手段がとられて行ったのであると思える。
 商人の公正な商売道徳が新しく立てられなければならないことが云われて、それはそのとおりなのだけれど、それだけ一方的に、モラルの面から強調されても商人の身になれば云いたいことがあるのだろう。商人も今日の社会の新しい状態に入り切れずにいるし、買い手の方もそういうところがあって、例えば野菜ものにしろ共同購入を試みた隣組、或は隣組のそういう活動を鼓舞して組織した町会という実例を余り知らない。互いの関係から云えば、主婦たちが迅速に計画的にそういう方策を立てて行動してゆく実際の力によって商人の従来の商人気質も脱皮されて行く訳だろう。
 家庭購買組合も見たところ大きい規範で経営されてはいるけれど、各戸を実際にまわっている実務員が報酬を歩合い制でもらっているものだから、月の売上げの多額なところへ便宜を計るという致命的な弱点をもっている。少人数の家では少額ならざるを得ないという当然のことが、決して合理的に扱われていないのである。家庭購買で活躍していられる押川夫人など、こういう点にどんな感想を持っていられるだろう。
 私たちの今日の生活が過渡期の混乱におかれていることは、こういう小さい例にもまざまざと感じられると思う。
 商人は商人気質の鋭さ万能に、家を守る女性は、何はともあれ我家のやりくり専一に、それぞれ主観の利益に立った個々の生きかたを続けて来たところへ、今日は一方から謂わば純理的な方針が与えられ、しかもその純理的な算数の根本には、まだ従来の生産の形式がそのままでいるという複雑さである。企業合同の今日の性格の歴史的な入りくみかたを考えても、私たちの心をさわがせる胡瓜一本一本に、やはり同じような幾重もの時代の性格が絡んでいるのである。
 女性の経済についての知識が、一尾の魚を幾とおりに料理出来るか、という範囲よりも、広められ深められなければ、今日の多難さの裡で、つまりはこれ迄の女の一番卑屈な思いつきでばかり、現実の推移を追っかけていなくてはならないことになるだろうと思われる。
〔一九四一年十月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「女性生活」
   1941(昭和16)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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