この芝居をみていて深く感じたことは演劇のとりしまりや自粛がどんなに芸術の生命を活かすものでなければならないか、ということであった。
云わでものことのようなことを沁々と思わずにいられないものがあった。従来の歌舞伎の番組には徳川末期的の世情を映したものもあり、現代の生活感情に遠いものがあったのは事実だけれど、十一月の新作ものの序幕や大詰では初めから演劇というものの独特な表現を思いあてたような空虚さがあった。
種々の条件が加わっても、やはりそこはそことして何か訴える演劇をもとうと試みる情熱がなかった。しかもそんな芝居でも、見物は満員である。俳優たちは、何となしそんな関係におかれている自分の舞台にうすら寒いものを感じているだろうとも思われた。
健全な演劇というものは、特定の観念をテーマとした台本を上演するということだけで決して解決しない。わかり切っているこんなことが、しかし、案外の困難にぶつかっているのではないかしら。
ラジオなどできく落語が、近頃は妙なものになって教訓落語だが、話の筋は結局ききてである働く人々の生活や文化の低さを莫迦らしく漫画化したようなものが多くていい心持はしない。実質的にはちっとも健全と云えないのである。
健全性というものへの理解は、あらゆる方面からの努力でこれから様々の辛苦を経て練られ高められて行かなければならないものだと思う。
〔一九四〇年十二月〕