物其のものはそれ自らに於てことごとく生命の一の象徴でなければならぬ。
 また実にその象徴である。
 いつかお目にかゝりたいと思つてからすでに久しいのである、芋銭氏はそんな事は夢にもごぞんじないであらう、それが事実となつた。
 牛久駅に下車した時はもう何処の家にも灯は入つてゐた。自分は恋人に逢ひにでも行くやうな気分で沐浴し、喫餐し、折柄の糠雨を宿で借りた傘で避けながら闇の夜道をいそいだ。をしへられた火の見の下まできた。そこから折れて街道に別れるのであつた。薄暗いところに鐘楼があつて、鳴らす人もないやうな鐘がふらりとぶらさがつてゐる。そろそろ芋銭情調がはじまる。遠くにあたつてこんもりした森はあるが梟の声も聴かれない。こゝは畑の原野である。桑の木の間には胡麻やかぼちやの花がしづかに咲いてゐる。街道ではよく道をたづねたが此所では逢ふ人もないので、多少さみしさと不安とが下駄の足音なんどに交つて迫る。それでも分岐点には道標が立つてゐたので、迷ひもせずにやつとさつき遠くでみた森の所まできた。人声は夜遊びに行くらしい村の若者のそれであつた。道をきいたら深切にをしへてくれた。そこから芋銭氏の村までは近かつた。村に入つての第一印象は竹藪とやぶれた竹垣であつた。そのとつつきの農家に立ちよつてたづねたらそこでも親しくをしへてくれた。自分のすがたが見えなくなつてからも、そこでは壁の内で深切に怒鳴つてゐた。庭にはシンボリツクな桐の木が一本、その傍には風呂桶。此の村、自分にはまるでラビリンスの趣があつた。どこかで死んでゐる蛇の匂ひ、蚕の糞尿の匂ひ、草の匂ひ、獣の匂ひ――時時、白い化物がひよつこり出てくるので、いくどか、傘を楯にしたり、槍にしたりした。こんなことなら明日にすればよかつたと後悔しはじめた頃は、もう芋銭氏の大きな声でもすればきかれる程の距離まですゝんでゐたのである。軒先に蚊遣火など焚いて、寝ころんで笑ひながら馬鹿話をでもあらう、してゐる家もあつたが、大勢、男や女がゐるその前へ立つのにはあまりに自分は気が小さ過ぎた。樫の木などが亭々と矗立してゐるかとみれば、芒などが足もとで揺れてゐる。虫が肩にまで飛び附いてきて鳴いてゐる。店頭の土間に南瓜や西瓜をたくさん並べて、その上には柄杓だの箒だのをぶらさげておく店のお爺さんがふらりと出てきた。そして持つてゐた団扇の柄でをしへてくれた。すこし歩くまにお化がのつそりでた。びつくりして立止まるとそのお化が「こんばんは」と言つた。綺麗な女ではなかつた。なるほど芋銭氏の村は、その作品そつくりだと思つた。気味が悪くなつたので駆けだした。からつと開けつぱなした家では、こゝにも大勢集まつて高話の最中であつた。
 ちよつと伺ひます。
 ………。
 小川さんのお宅はこの辺でせうか。
 む。お前はだれだい。
 あの画をかく小川さんです……。
 ああ、それか。今時分、なんだい。それや此の次の屋根の瓦の家だよ。
 さうですか、ありがたう。
 垣をへだて、桑畑をへだてての、田舎でなければ不可能な問答である。
 さて漸くのことで到着した。芋銭氏はすでにおやすみであつたが、それでも※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)の中から眼をこすりながらでて来られた。もう宵ではない。
 芋銭氏はかやの隅、自分は縁側の板敷。自分のしき物の下にはたくさん西瓜の種子がこぼれてゐた。
 ※(「巾+廚」、第4水準2-12-1)のうしろで桑を刻むやうな音がして、しばらくすると茶がでた。盆の皿には西京の八橋煎餅。
 対話は旅行にはじまつた。それから創作、古美術、名所、旧跡、文展、新画風、生活、自然と、案外論理的ロジカルに運ばれた。
 芋銭氏はたゞの漫画家ではない。それが自分等には歯痒ゆきところはあれど自然と人生の交渉に禅的ユニテイの味識を説き、ゴツホ、ゴウガンさてはキユビズムの名をみとめて而も文晁、宗達の存在をわすれざるところ、創作は生活であるといふに於ても氏は自分等の遥かに及ばぬ直接をもつてゐる。
 氏は鍬を取るであらう、よし鍬を採らぬにしろ、氏は到底、土より生れいでた人間である。その風貌を一見した時、自分はすぐにゴツホを聯想したのである。氏は日本のゴツホである。巴里に住まぬゴツホ、東京を嫌ふゴツホ、あのゴツホが血だらけのゴツホなら、此のゴツホは土だらけのゴツホである。然し情熱のないゴツホである。氏にはたくさんの子供をその妻女に生みださせる事は出来ても、剃刀を取つて友人の耳を切り落したり、ピストルをもつて自殺したりするゴツホは狂人であらう。それを反対にゴツホをして氏を言はしむれば何と評するであらうか。
 自然といふ言葉がいくたびか氏の唇からしめやかに洩れた。然しその自然は人間あつての自然の自然ではないやうであつた。自分の原始へ還るべき説にも氏は首肯してくれた。氏の自然と自分の原始とは似たやうであつて、それでゐて決しておなじ内容をもたぬ非常に差異のあるものかも知れぬ。
 自然あつての人間ではない。人間あつての自然である、これを概念的に考へては不合理である。余儀なくばさうであつてもよい。とにかく自然はどうして人間に存在するのか。それすら解ればそれでよいのである。
 折角、よい所まで行つてゐて、しかもそのものを握つてゐないとしたら不幸此上もあるまい。それが証左は、感興には開く心を思想に鎖すことになる。自分は、真の画家は感興家でなくつてよいと思ふ、然し思想者であらねばならぬ。感興は生命の淡い気まぐれな噴水であり、思想は生命のふかく湛へたる淵である。生命の前には現実も無く神秘もまた有り得ない。生命は神秘である。生命は現実である。生命の神秘は現実でありその現実は神秘である。生命に於ては現実と神秘と一であつて二では無い。絶対であつて相対ではないが、同時に二であり、相対である。生命は ALL である。また、生命は本質として不可見であり、個体として可見であるといふ。此の場合、本質といひ個体といふも、世に本質なき個体なく個体なき本質もまた無いのではあるまいか。可見の本質、それが生命ではあるまいか。さあれ、生命そのものに依らず、人間は人間としての理智(人間が生命を創造せんとする時、それは理智の摸倣であり虚偽の創造である)に於て多くの不可見なる個体を持つのではあるまいか。
 氏の尊敬すべき直接は自然へであつて、此の生命へでないとすればその芸術は第二義以下である。純粋な象徴ではない。氏は外に見る人であるか。内に聴く人であるか。創作となつて表現される前の芸術をその何れの世界に持つてをられるのであらうか。
 生命ほど古きものが他になく、そしてまた生命ほど新しいものが他にない。生命はいつも原始である。
 かつて人間はその古きものであり、今、此のあたらしきものである。
 自分等が稍ともすると新しきを求むる忙しさに古きを忘れんとして気のつく如く、氏も自然に馴れ、知らずして年齢に屈服し、古きになづんで新しきもののいらいらせるを嫌ふのではあるまいか。
 自分は新しきものに古い生命を見る。そしてたゞひたすらの生命の退き滞ることなき進行を肯定する。そこに生命としての人間のジユビレヱシヨンを感ずる。
 あなたはサンボリストですか。
 さう、何でせう。――どれにも通じてゐるかも知れません。
 わたしは此の村を見るまで、多少あなたをサンボリツクな画家として、その作品をいつも拝見してゐましたが……。
 へええ。
 いまは或は忠実な自然描写、と言つてもあの所謂自然主義者のそれとは区別してをりますが、其の基調として――では無いかとも思つてをります。
 へええ。
 何となく此の村の自然(形象とし雰囲気としての)がさう私に囁くやうなのです。
 へええ。
 沈黙がすこし続いた。互に、自らの本然世界にしばし帰つたのである。空はます/\陰険になつてきた。夜も闌けてきた。
 沼へでも出かけるといゝんですがね、あいにく今夜は月がない。
 沼つて、いつか虚子のかいた河童の宿の中のあれですか。
 ええ。
 またそのうちにゆつくりおたづねする時までお預けにしておきませう。
 ええ。
 お邪魔を詫びて立つと、お嬢さんが大きな定紋の附いた提灯にひをいれて渡してくれた。芋銭氏は「そこまで見てあげませう。道がわかりにくいから」つて、初めてではあるが長い間の知己ででもあるやうに、深切で、その物言ひぶりまで馴れなれしかつた。さつきのお嫗さんのおばけの所あたりまでくると雨がざあつとやつて来たので、傘を持たない氏は帰られた。
 現在の間口ばかりの画家の中に氏のやうな真摯な芸術家のあることを自分はよろこぶのである。氏に大きな代表的作品のないのは惜しいが、自分は氏をその理由で責めたくない。またどうしてそれが責められよう。そこに何かがある。それが氏の偉大であらう。自分は、よみ返すと随分不遜なことをかいたやうであるが、結局、自分は氏を単なる芸術家とみない。芸術の生活者としてうらやみ、且つ尊敬する。
 自分は、さらに形象の要素と内容の要素との結合に就て、及び形象の稍々複雑となり其の複雑なる内容と並行発展する時、作品の譬喩もしくは寓意となるの過程、ならびに形象の各部がことごとく心的内容を具備し、その裏面にある含蓄によらずして、既に表面にあらはれたる事件のみにても充分に芸術上の価値を存する作物の事、更に進んではフイツシエルの所謂至高象徴にまで及びたい。然しそれは氏にとつては意義なき論議であり、自分にとつても徒らなる自己告白の所為である。おもへば一切は闇の夜のこと、たゞそれだけのこと。
 それはさて来た道をあべこべにいそぐ途上、足の下に大きな生温かい蟾蜍を踏んだのは、そも何の暗示であつたであらうか。

底本:「ふるさと文学館 第九巻【茨城】」ぎょうせい
   1995(平成7)年3月15日初版発行
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2002年10月21日作成
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