指がなくて三味線を弾く男
 
 浅草に現はれる乞食は、みなそれぞれに風格を具へてゐるので愉快である。乞食といふ称呼をもってする事は、この諸君に対してはソグハないやうな気がするくらいだ。いかにこれらの諸君が人生の芸術家であるか、また、浅草を彩るカビの華であるかといふことについて語らう。
 浅草といふ舞台には、かかる登場者が順次に現はれ、消えてゆく。

 指がなくて三味線を弾く男――。彼はロハベンチに腰を掛けてゐる。左の手の指が四本ない。残った拇指で、煙管の半分に折れた吸口の方を挟み、その吸口の膨れた部分、凹んだ部分を巧みに利用していとをおさへる。バチの代りにマッチの棒で弾く。
 離れて聴いてゐると、普通に弾いてゐるのとちっとも変りがない。一ぱいの人だかり、みんな感心して煙管の動きを目で追ひ、熱心に聴いてゐる。中には彼と同じベンチに彼に寄り添ふやうに腰かけてゐるものもある。「立山」を一つ弾いてから、
「今度は春雨でもやってみよう、しめっぽいものより陽気な方がいいからね」
 誰にともなくいふ。さも楽しんでゐるかのやうな話し振りだ。金を彼の膝の脇へ置く者があると、
「ヤ、どうもありがたう」
といかにも晴ればれと、まるで友達にでも挨拶するやうだ。しかもけっして反感を抱かせない快朗な声である。彼はけっして乞はない。泣言を言はない。彼の指のない理由についても、彼自身からしゃべることはけっしてない。誰かが執拗に尋ねたならば、彼はかく簡単に答へる。
「これですかい、工場でやられてね。どうもしやうがない、しばらく寝てゐたが、もう働らくこともできない不具になったんだなといろいろ考へてる内に、ちょっとした拍子からこんなことをはじめてね、イヤどうも情けない仕儀でさア」
と、またもや弾きながら小声でうたってゐる。彼を中心とした一団はまことにわだかまりがない。彼を卑しめることなく、煙管の折れとマッチの軸によって生じる音色に聴き惚れる。そして、金を置く者があると、
「ヤ、ありがたう」
と、まるで友達にでも挨拶するやうに、彼は礼をいふ。

    風琴と老人

 時代遅れの風琴を鳴らす老人――。痩せた五十ぐらいの、ボロマントを着てゐる。彼はいつも区役所通りの下総屋の前の電柱の根ッこにあぐらをかいてゐた。そして古風琴の蛇腹を伸ばしたり、縮めたりしながら、唄をうたふのであるが、そのうたひ方が頗る人を食ったものだ。
「オレは河原の枯れすすき、コリャ」
などと掛声を入れてうたってゐる。彼は帽子を二つ持ってゐる。一つは鳥打、これは冠ってゐる。一つはベチャベチャな学帽。これは膝の前に置いてある。これは銭受である。この中へ銭を投げ込む者があると、彼はうたひながら軽く頭を下げて謝意を表す。
 但し投げ込まれた物が白い色をしてゐると、彼はわざわざ風琴の手をやめて、冠ってゐる鳥打を脱いで、下の学帽に頭が届くまで最敬礼をする。彼はまたなかなかしゃれ者である。顔に綺麗に剃刀を当ててゐる時が多い。
「山路越へて、ひとりゆけど……」
 賛美歌をうたってゐる時もある。かと思ふとまた、
「猪牙でエエエエ、セッセ」
などと「深川」をやる。
 寒い風が吹き募って、人があまり通らない時でも、彼はひとりで風を見ながら、風琴を鳴らしてうたひ続けてゐる。彼は淋しさうだ。しかしまたいかにも嬉しさうに唄ってゐるやうでもある。
 人を小バカにしてゐるところもあるが、私にはナンダカ彼こそほんとうの淋しみを知り、ほんとうの喜びを知ってゐる男のやうに思へた。が、彼はやがて浅草に姿を見せなくなった。どこをどうしてゐるのか。
 私には、ときどき思ひ出せて仕方のない、風琴と老人なのである。

    慈善心を食ふ

 観音さまの周りの雑沓の中を、文字もんじ通り蓬頭垢面、ボロを引き摺った男が、何か分らぬことを口の中でモヅモヅ呟きながら、ノロノロと歩き廻ってゐる。
 彼はしゃべってゐる。動いてゐる。と、群集の中から一人が急いで彼の手に白銅を一つ乗せてやる。すると、後から後から、あはて者が蟇口を開いて、小銭を彼に与へる。彼の掌の上ではいつの間にか銭がたまってゐる。
 さて皆さん、落ついて考へて下さい。かの見苦しい男は、けっして乞ふてはゐないのです。ただひとり言を言って歩いてゐるだけの話です。
 それを見て、おせっかいな人が、もしくは慌て者が、得々として慈善心をほころばせて財布を開ける。と、皆々これに倣ふ、といふ筋書です。これは素敵な台本です。
 この男は、「慈善心を食ふ」ことを知ってゐる利巧な奴です。恐ろしい名優です。

 明るい仲見世の人の急流の中を、八十八ヵ所廻りの判をペタペタ押した白衣を着て、子供を連れて歩く跛の女乞食、永年の間、吾妻橋の上に坐って、赤ン坊を泣かしてゐた乞食であるが、近来は衣裳を替へて、仲見世の眩ゆい電光の中に進出してきた。
 鈴を鳴らして御詠歌をうたひながら、仲見世の舗道を急流に洗はれる[#「洗はれる」は底本では「流はれる」]杭のやうに、ゆっくり往来する。
 綺麗な芸妓がよけて通る。
 若紳士が銀貨を与へる。
 かくして三、四回この舗石の上を往復すると、明日の白い米と、刺身と寝酒の代がとれる。彼女の亭主は四年前死んだが、乞食の親分だった。田舎から乞食が上ってくると、下谷山伏町の彼の家に「顔出し」にきたものだ。
 亭主が死んでも彼女は姐御あねごです。

    哲学者の乞食

 背の低い男。片足にゴムの長靴を穿き、片足は板草履である。どッちか片足、具合が悪いのだ。どこか面ざしが五九郎に似てゐる。場所はどこでもいい。池の淵、ベンチ、家の角、藤棚、どこでも彼の演壇である。何かしゃべりながらたちまち人垣を築いてしまふ。
「宇宙が丸いものか四角いものか知ってる者はまだ誰もありはしない。だから人間は嘘をついても大丈夫だ。博士だとか教授だとかいふ者はみんな嘘をついておまんまにありついてゐるのだね。ニュートンだのアインシュタインだのッて、引力だとか相対性原理だのッて、小むづかしい名前をくッつけて理窟をこねると、それでオカマをおこしちゃふんだからね。何もアインシュタインを頼まなくッたッて、そんな事は朝飯前から分り切ってらアね。家賃がたまるとたちまち悶着が起きる。追立だとか執行だとかね、これ即ち相対性だからサ、絶対なら何も何年家賃を溜めたってどこからも苦情がくるわけはないんだからね」
「ハハハハハ」
 彼を取り巻く聴衆の輪が笑ひに揺れてゐる。
「何を言ってやがるんだ」
と呟きながら、覗き込む輪の中に加はる者がある。彼は、足の前に落ちてゐるバットの吸ひさしを拾って、モゾモゾ懐の中をさぐってゐたが、
「誰かマッチを貸してくれませんかね」
 一人の男がマッチを出してやると、それに続いて、お内儀風の女が、
「お前さん、煙草が好きなんだネ、これを上げようよ」
と、敷島の箱を一つくれる。
「どうもありがたう」
とそれは懐に入れ、先のバットの吸ひさしを吸ひながら、また饒舌り出す。
「日本にだってカーネギーが一人ぐらい出てきたっていいんだ。実はワシがなるつもりだったんだが(聴衆笑ふ)。イヤ、ほんとだ、ワシがある発明をしたんだね、するとワシには金がなくてそれをやる訳にゆかない。だから一緒にやる人間が出てきた。ところがどうだね、大当たり大成功だね。ワシにはちっとばかり金をくれたきりで、その男はもう毎日自動車で、ツラッター、ツラッター(身振をする)と走らしてる。発明した当人はコンナ始末でサ。ウン、けどもワシは腹が大きいから、そんなこと屁とも思はないよ。自動車飛ばすのが嬉しい奴には、飛ばさしておくさ」
「フフフフフ」
 輪は一せいに失笑するのだ。が、彼は頗る真面目な顔つきだ。
「ほんとだよ、乞食だッて三菱だッて変りゃアないんだよ。寝て、起きて、飯を食って、女を抱いて、酒を飲んで、何をするッたッて、それ以上のことができるわけのもんぢゃないからねエ」
「乞食にゃア女ア抱けねえだろ」
 若い男がからかひの槍を入れる。
「冗談いっちゃアいけないよ。そんなことはナンでもない話だ。ただワシはソンナことをしたいとは思はないだけの話だが、みんな乞食だって嬶もあれば、妾を持ってる者もあるよ。この浅草にだって、杖をひッぱたきながら浪花節を語って、何万両貯めてる親分もゐるんだからネ。君らは何んでも社会的事象の表面ばかりしか見ないから駄目なんだよ、ウン……乞食ッたってこれは立派な職業だよ」
「ハハハハハハハ」
「そんなに喜んぢゃいけない、笑ひ事じゃアない。みんなつまらない事なら喜んでるから困るねえ。小説だの講談だのでも、樋口苦安ひぐちくあんだの、三日目落吉みっかめおときちなンて、飴に黒砂糖なすったやうな、ベトベトねつッこいのを嬉しがってるんだからねぇ。世の中の行進は、科学的に小細工を積み重ねてゆくんだから、みんな科学者にならなければ駄目だ。でなければ引ッ込んで瞑想家になるか、浅草の乞食になるかだよ」
「よせやい」
 一人の女が十銭白銅を与へると、あっさりお辞儀をして、また話しつづける。彼の出鱈目講演は縷々として尽きない。金を与へた女が、連れの女と話しながら、ゆく。
「あの乞食はきっといい家の者だったに違ひないわ。でなきゃアあんな高尚な言葉を使へる訳はないものね」
 天晴れ洞察振りを、また連れの女が肯きながら、ゆく。
 人はけっして彼を気違ひだとは言はない。「哲学者の乞食」と尊?称してゐる。

 また、足が妙な風にひッついてゐる醜さを、くるりと尻までまくって見せて、親の因果が報いたのだと、見物を意見してゐる乞食。みるみる、拡げた風呂敷の上に、面白いやうに銭が投げ込まれてゆく。
 かれらはけっして自ら乞ふてはゐないのである。しかも、十分にその目的を達し得てゐるから愉快である。

底本:「日本の名随筆85 貧」作品社
   1989(平成元)年11月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第3刷発行
底本の親本:「添田唖蝉坊・知道著作集2 浅草底流記」刀水書房
   1982(昭和57)年8月25日第1刷発行
※疑問箇所の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※拗促音を小書きする扱いは、底本通りです。
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2001年9月20日公開
2006年5月19日修正
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