見世物はそれ位にして、今から考えると馬鹿々々しいようなのは、郵便ということが初めて出来た時は、官憲の仕事ではあり、官吏の権威の重々しかった時の事ですから、配達夫が一葉の端書を持って「何の某とはその方どもの事か――」といったような体裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が残ってあった頃で、この時分までは木戸を閉さなかったのが、戦争の前後は世の中が物騒なので、町々の木戸を閉したのでしたが、木戸番は番太郎といって木戸傍の小屋で、荒物や糊など売っていたのが、御維新後番兵というものが出来て、番太郎が出世して番兵となって、木の棒を持って町々を巡廻し出して、やたらに威張り散し、大いに迷惑がられたものでしたが、これは暫時で廃されてしまった。その番兵の前からポリスというものがあって、これが邏卒となり、巡邏となり、巡査となったので、初めはポリスって原語で呼んでいた訳ですな。こういうように巡査が出来る前は世の中は乱妨で新徴組だとか、龍虎隊だとかいうのが乱妨をして、市中を荒らしたので、難儀の趣を訴えて、昼夜の見廻りが出来、その大取締が庄内の酒井左右衛門尉で、今の警視総監という処なのです。このポリスが出来るまでは、江戸中は無警察のようでした。今商家などに大戸の前の軒下に、格子の嵌めてある家の残っているのは、この時に格子を用心のために作ったので、それまでは軒下の格子などはなかったものだ。
世の中がこんなに動乱を極めている明治元年の頃は、寄席などに行くものがない。ぺいぺい役者や、落語家やこの種の芸人が食うに困り、また士族などが商売を初める者が多く、皆々まず大道商人となって、馬喰町四丁内にギッシリと露店の道具屋が出ました。今考えると立派なものが夜店にあったものです。その大道商人の盛んに出たことは、こういうことで当時の夜店の様が察しられる。夕方に商人が出る時分に「おはよ/\」の蝋燭屋の歌公というのが、薩摩蝋燭を大道商人に売り歩いて、一廉の儲があった位だということでした。「おはよ/\」とは、歌公が「おはよ/\の蝋燭で御座いかな」と節を附けて歌い、変な身ぶりで踊りながら売歩いたので、「おはよ/\の歌公」ッて馬喰町辺では有名な男で、「おはよ/\の――で御座いかな」という言葉が流行った位だ。
売声で今一つ明治前に名高かったのは、十軒店の治郎公というのが、稲荷鮨を夜売り歩いた。この治郎公は爺でしたが、声が馬鹿に好い、粋な喉でしたので大流行を極めた。この男の売声というのは、初めに「十軒店の治郎公」とまず名乗りを上げて、次にそれは/\猥褻な歌を、何ともいえぬ好い喉で歌うのですが、歌は猥褻な露骨なもので、例を出すことも出来ないほどです。鮨売の粋な売声では、例の江の鮨売などは、生粋の江戸前でしたろう。この系統を引いてるものですが、治郎公のは声が好いというだけです。この治郎公の息子か何かが、この間まで本石町の人形屋光月の傍に鮨屋を出していましたっけ。市区改正後はどうなりましたか。
この時分、町を歩いて見てやたらに眼に付いて、商売家になければならぬように思われたのは、三泣車というのです。小僧が泣き、車力が泣き、車が泣くというので、三泣車といったので、車輪は極く小くして、轅を両腋の辺に持って、押して行く車で、今でも田舎の呉服屋などで見受ける押車です。この車が大いに流行ったもので、三泣車がないと商家の体面にかかわるという位なのでした。それから明治三、四年までは、夏氷などいうものは滅多に飲まれない、町では「ひやっこい/\」といって、水を売ったものです。水道の水は生温いというので、掘井戸の水を売ったので、荷の前には、白玉と三盆白砂糖とを出してある。今の氷屋のような荷です。それはズット昔からある水売りで、売子は白地の浴衣、水玉の藍模様かなんかで、十字の襷掛け、荷の軒には風鈴が吊ってあって、チリン/\の間に「ひやっこい/\」という威勢の好いのです。砂糖のが文久一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附があって、人の立止るを許さない。ちょっとでも止ると「通れ」と怒鳴った頃で、その見附のズット手前に、治郎公(鮨やの治郎公ではない)という水売が名高かった。これは「ひやっこい/\」の水売で、処々にあった水茶屋というのは別なもの、今の待合です。また貸席を兼ねたものです。当時水茶屋で名高かったのは、薬研堀の初鷹、仲通りの寒菊、両国では森本、馬喰町四丁目の松本、まだ沢山ありましたが、多くは廃業しましたね。
この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、生馬の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――薬種屋の虎屋の横町の俗称――今の有名な泥鰌屋の横町辺が中心です。西両国、今の公園地の前の大川縁に、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、長左衛門という寄席がありましたっけ。有名な羽衣せんべいも、加賀屋横町にあったので、この辺はゴッタ返しのてんやわんやの騒でした。東両国では、あわ雪、西で五色茶漬は名代でした。朝は青物の朝市がある。午からは各種の露店が出る、銀流し、矢場、賭博がある、大道講釈やまめ蔵が出る――という有様で、その上狭い処に溢れかかった小便桶が並んであるなど、乱暴なものだ。また並び床といって、三十軒も床屋があって、鬢盥を控えてやっているのは、江戸絵にある通りです。この辺の、のでん賭博というのは、数人寄って賽を転がしている鼻ッ張が、田舎者を釣りよせては巻き上げるのですが、賭博場の景物には、皆春画を並べてある。田舎者が春画を見てては釣られるのです。この辺では屋台店がまた盛んで、卯之花鮨とか、おでんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。踵をちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。それから露店のイカサマ道具屋の罪の深いやり方のには、こういうのがある。これはちょっと淋しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、小さい菰座を拡げて、珊瑚珠、銀簪、銀煙管なんかを、一つ二つずつ置いて、羊羹色した紋付を羽織って、ちょっと容体ぶったのがチョコンと坐っている。女や田舎ものらが通りかかると、先に男がいくばくかに値をつけて、わざと立去ってしまうと、後で紋付のが「時が時ならこんな珠を二円や三円で売るのじゃないにアア/\」とか何とか述懐して、溜呼吸をついている。女客は立止って珠を見て、幾分かで買うと、イカサマ師はそのまま一つ処にはいない、という風に、維新の際の武家高家の零落流行に連れて、零落者と見せかけてのイカモノ師が多かったなどは、他の時代には見られぬ詐偽商人です。また「アラボシ」といって、新らしいものばかりの露店がある。これは性が悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際素通りの聞放しをさせない、袂を握って客が値をつけるまで離さない。買うつもりで価を聞いたのだろうから、いくばくか値を附けろ、といったような剣幕で、二円も三円もとの云価を二十銭三十銭にも附けられないという処を見込んだ悪商人が多く「アラボシ」にあった。今夜店の植木屋などの、法外な事をいうのは、これらアラボシ商人の余風なのでしょう。一体がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切っていた。江戸ッ子でないものは人でないような扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙せられた、本来江戸児とは比較にもならない頓馬な地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心が、江戸ッ子の考えに瞑々の中にあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。
散髪になり立てなども面白かった。若い者は珍らしい一方で、散髪になりたくても、老人などの思惑を兼ねて、散髪の鬘を髷の上に冠ったのなどがありますし、当時の床屋の表には、切った髷を幾つも吊してあったのは奇観だった。
また一時七夕の飾物の笹が大流行で、その笹に大きいものを結び付けることが流行り、吹流しだとか、一間もあろうかと思う張子の筆や、畳一畳敷ほどの西瓜の作ものなどを附け、竹では撓まって保てなくなると、屋の棟に飾ったなどの、法外に大きなのがあった。また凧の大きなのが流行り、十三枚十五枚などがある。揚げるのは浅草とか、夜鷹の出た大根河岸などでした。秩父屋というのが凧の大問屋で、後に観音の市十七、八の両日は、大凧を屋の棟に飾った。この秩父屋が初めて形物の凧を作って、西洋に輸出したのです。この店は馬喰町四丁目でしたが、後には小伝馬町へ引移して、飾提灯即ち盆提灯や鬼灯提燈を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋の、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸りから考えた凧が流行らなくなると、鯨屋になって、今でも鯨屋をしています。
それから東京市の街燈を請負って、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒の松本でした。燈はランプで、底の方の拡がった葉鉄の四角なのでした。また今パールとか何とかいって、白粉下のような美顔水というような化粧の水が沢山ありますが、昔では例の式亭三馬が作った「江戸の水」があるばかりなのが、明治になって早くこの種のものを売出したのが「小町水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社の紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居に、ドロドロの火薬係をやった人でして、その化粧水をポマドンヌールと命けていた。どういう意味か珍な名のものだ。とにかく売れたものでしたね。この翁屋の主人は、紅葉さんなんかと友人で、文墨の交がある位で、ちょっと変った面白い人で、第三回の博覧会の時でしたかに、会場内の厠の下掃除を引受けて、御手前の防臭剤かなんかを撒かしていましたが、終には防臭剤を博覧会へ出かけちゃ、自分で撒いていたので可笑しかった。その人も故人になったそうですが、若くって惜しいことでしたね。
(明治四十二年八月『趣味』第四巻第八号)