八月十五日に戦争が終って、はじめて日本じゅうの家々に明るく電燈がついた。久しぶりにうす暗いかさをとりはずし、隅々までくっきりと照らしだされた炉ばたに坐って一家のものがあらためて互の顔を眺めあった刹那、湧きあがった思いと新たな涙こそ忘れがたいと思う。冴え冴えとした夜の明りは、何ヵ月も薄くらがりにかくしていた家の様子をはっきりと目に見させ、それとともに、この灯の下に、団欒から永久にかけてしまった、いとしい者のあることをも、今さら身に刻みこむ鮮やかさで思い知らされたのであった。灯のついたはじめての夜、家々の思い出と涙とは新たであった。
 戦争で良人を失った女のひとの数は日本だけでどのくらいにのぼるだろう。今こそ数はわからないが、先頃の人口調査の結果では、男女の人口比率で、日本では婦人が男子よりも三百万人多かった。ヨーロッパの国々とちがって、これまでの日本は大体男女人口比率が平均していたのに、この戦争のあとでは、三百万人も婦人が多くなった。つまりそれだけ男が殺された。三百万人という婦人の中には、もとより年よりも子供も入っていよう。しかし、どんなに多い割合で良人を失った妻、父や兄弟を失った娘、息子らを失った母、そして、愛人を死なした若いひとたちがこめられていることだろう。
 第二次ヨーロッパ大戦で、大きい深刻な犠牲を蒙ったのは、日本の婦人ばかりではなかったし戦争に敗北した国々の婦人たちばかりでもなかった。ドイツ・イタリー・日本。これらの国の女性は、ほんとうに有無をいわさず、愛情の懐から男たちを奪われ、野蛮と不条理で押しすすめた戦争のうちに愛する者たちを死なした。ファシズム・ナチズムの不条理と非人間らしさと戦って、それに勝利し、人間は最後には理性ある生きものであることを証明した民主主義国――アメリカ・イギリス・ソヴェト同盟・中国その他の国々でも、そこで行ったのは戦争であった。大規模で最も科学的な殺戮であった。正しさのためにも婦人は自分と愛する者たちの運命とを、歴史の仮借ない歯車の間においたのであった。
 ヨーロッパの婦人たちが、民主平和のヨーロッパ再建のための連合国憲章にもとづいて、婦人たちの大統一戦線をこしらえはじめたこころもちは、同感される。第一次欧州大戦のあと、ヨーロッパ諸国の心ある人々が男も女も、平和の永続のために、どんなに苦心し、話し合い調和点を見出そうと努力しつづけて来ていたかということは知らないものはない。第一次大戦の惨禍は生きているものに、平和を警告しつづける記念物として、ヴェルダンの廃市に一望果ない戦死者墓地となってのこっていた。パリの華麗なシャン・ゼ・リゼのつき当りの凱旋門の中に、夜毎兵士に守られて燃えつづけていた戦死者記念常夜燈に、平和は求め叫ばれつづけていた。
 二十五年めに、ナチス・ドイツの乱暴な侵略で第二の大戦がはじまったとき、民主国の男女は怒りに燃え、この世界にもう決して戦争がおこらなくするために立った。そして、愛する人類の平和のために、愛する人を捧げ、自身の幸福と平安とを断念したのであった。
 そのようにして、愛するものを失った女性が、涙と血をとおして、平和のための婦人の民主団体をこしらえた心は、私たち日本の女性にもひしひしとうなずける。ヨーロッパ諸国で、この戦争のあとでは婦人が建設のすべての面に進出し、しかもそれらの婦人たちがこれからの社会をどうみているかといえば、ほとんどすべてが政党でいえば、「真中から左」を立ち場としているということにも、真実のよりどころがある。平和は、帝国主義の戦争に賛成しないものによって、はじめてうそとかけひきなしに確保されるのであるから。『太平』という雑誌の十月号は「欧洲の女性は前進する」という題で、ドロシー・D・クルックルという婦人がこの事情を説明して書いている記事をのせている。

 このたびの戦争によって世界には未亡人が満ちあふれた。ナチス・ドイツは、女性の歎きと訴え、人民全般の悲傷の思いをふみにじって、戦争中、婦人が喪服をつけることを禁止した。ドイツの人々が、日に日に増大する黒衣の女性をみて、ナチス政権がしかけた戦争が、そのようにドイツ民族を殺しつつあることを知るのをおそれたのであった。日本でも、戦争中戦傷者の発表が奇妙な形で行われた。だんだん小きざみに、部分的に、私たちには総数が一目でのみこめない形で発表された。ナチス・ドイツでは婦人に黒衣を着せなかった。日本ではそういう禁止は出さなかったが、果して生きているやら、死んだものやらはっきりしなくて、実に多くの妻たちが黒服も着かねるような状態におかれたのであった。日本のつつましい女性は、ほとんど全部が海の彼方の生活は知らず、地名もなじみない彼方に遠く、手紙さえ書けず、はかなく愛するものを死なした。
 すこし深めて、第二次世界戦争のいきさつを眺めてみると、私たちを非常におどろかせる事実がある。それは、今回のナチズム・ファシズム対民主精神の大戦争では、戦争による未亡人というものが、決して直接、職場で戦死した良人たちの妻ばかりではないということである。
 二十五年の年月は第一次大戦と第二次大戦の闘争の方法をすっかり変化させた。戦線は飛行機の快速力とともに拡がった。すべての交戦国にとって銃後というものは存在しなくなった。戦災という言葉は戦争によってひきおこされた輪の外での災難を意味してつかわれているようだけれども、そして、なにか附随的な現象であり、それは、のがれたものとのがれられなかったものとは本人たちの運、不運にかかわることのようにうけとられているが、それは間違っている。戦災は、現代戦争の方法がああいうものである以上、戦争の輪の中において考えられるべきことである。より遠い前線というちがいしかなかった。世界はそれを明瞭に知っている。日本じゅうでは、戦災で良人や子供を喪った女性が決して少くないのである。これらの孤独になった妻たちは、一人として個人の身勝手からおこった事故で未亡人になった婦人たちではない。戦争による未亡人である。
 更に、もう一歩こまやかに進み出て私たち女性の生活をながめ入ったとき、そこに発見される現代史特有の悲痛な事実がある。それは、戦場で死んだのでもなく、爆撃で死んだのでもないが戦争の直接のおかげで殺された人々の妻たちが世界じゅうにいる、ということである。
 戦争中という言葉が、今日いわれる場合、私たちは一言の説明を加えないでも、それが苦しかった時代、無茶な抑圧のあった時代、人権がふみにじられていた時期として、心が通じ合う。一冊の雑誌、一冊の本、風呂屋、理髪店での世間話さえ、それが戦争についての批評めいたものだと密告され、捕縛され、投獄された。私たちは、今もなお悪夢のような印象で一つのポスターを思い出す。省線各駅、町会の告知板に、徳川時代の、十手をもった捕りかたが手に手にふりかざした御用提燈が赤い色で描かれたポスターがはられた。赤い御用提燈に毒々しくスパイ御用心と書かれていた。当時の権力者たちは、自分らでまきおこした大惨禍を、国民が反省し、考察し、批判して是非を論じることを極端におそれた。そういうものを一括して、スパイと思わせた。道理に立つ足場が弱かったから、それだけ人間の理性の明るさを恐怖した。ある婦人雑誌などはその一頁ごとに、洋鬼を殺せ、とおそろしい文字を刷った雑誌を、おとなしい家庭的な日本の妻たちの手もとにおくったのであった。
 条理に立つ判断を人民の精神の中から追いはらい、追いはらえないものならば、出来るだけそれを封じこめて、目かくしをされた家畜のように戦争に狩りたててゆくために、日本の法律は、全く恥というものを知らない行動をした。日本の治安維持法が昭和三年に制定されて、昨二十年の秋廃止されるまでの十七年間に、ものを考え、日本の未来について憂慮する人々を約十万人も投獄した。幾人もの人が獄中、獄外で殺された。治安維持法が廃止された去年の秋、その法律の犠牲になった人々は、民衆の解放のための英雄として、新しく見なおされた。先頃上映されていた「命ある限り」という映画は通俗化されながらも、これまでひたかくされていたこれらの事情をいくらかは人々に会得させたのであった。その犠牲者の妻たちを、私たちはなんと呼んだらいいのだろう。古い言葉をそのままにあてはめれば、彼女たちは、やはり今日の幾十万人の未亡人中の一人一人なのである。
 ヨーロッパ諸国で、この事情は、もっと複雑な内容をもって歴史の前面にあらわれて来ている。私たち日本の女性も、その名と作品とはいくらか知っている文学者トーマス・マンが、ドイツからアメリカへ亡命したのはなぜであったろうか。アインシュタインがアメリカへゆき、ジョリオ・キューリー夫妻がパリーのキューリー研究所をすててスイスへ逃れたのはなんの理由によるだろう。ナチスは、ドイツ人だけが人類の中で繁栄すべき民族だと主張して、見識のせまい、偏見にみちた保守勢力に迎合した。そして、民族的偏見に火をつけて、自分らの政権を維持する便法にした。ナチスの他民族排撃の野蛮さは人類史の最大の汚辱といえる。ナチスは、ユダヤ人を追放し、財産を没収し、集団的に虐殺した。ニュールンベルグの国際裁判の公判廷で、ゲーリングは自分らの惨虐をふたたびフィルムの上に展開されて、文字どおり嘔吐したと伝えられている。その命令を下した人物さえ、それを見直すにたえないほどの惨虐が行われたのであった。何十万人かがその餌食とされた。生きのこった妻たちは、今日新しいヨーロッパの目ざめとともに、何を思い何を欲し、そして何を打ち立てようと希っている未亡人たちであろうか。
 ナチスは、ユダヤ人をいためつけたばかりでなく、そういう行為は人道にもとることを発言するすべてのドイツ人を投獄し、あるものは殺した。それらの人間らしかったドイツの人々の妻たちは未亡人の喪服の中でいたずらに数珠をつまぐっているだけだろうか。諸国を侵略したナチス軍が、占領地の愛国者たちをどう扱ったかということについては、世界がなまなましい無尽蔵の実証をもっている。ウクライナ一地方での状況を、ガルバートフの「降伏なき民」という小説によって私たちは想像することが出来た。これらの諸国の妻、母でもある生きのこった妻たちは、自分たちの生涯から奪われた愛についてどう考えているだろう。
 そして、横浜で行われている日本の国際裁判の進行は、私たち正直な日本のすべての女性を悲しませている。日本の自分たちの身の上に蒙った生活破壊のおそろしい被害は、中国の婦人たちの上にどんな荒々しさでふりかかっていたかということを知らされた。フィリッピンその他の諸民族が受けた惨虐は、日本にこれほどどっさりの未亡人をこしらえた、その軍事権力の仕業であることを知ったのである。
 これらの事実をしみじみととりあげた上で、未亡人という三つの文字を考えるとき、現代の歴史の中で、未亡人の問題は、これまでとまるでちがった重大で深刻な創造的な意味をもって浮び上って来る。今日の、未亡人の問題は国際的である。しかも、民主精神が、世界にあまねきものとなって来た現世紀の発展の過程で、その犠牲として生じた世界の未亡人たち、孤独にされて生きてのこった母なる妻たちは、よるべない境遇以上の生存の意義をもって、明日に向って発言しようとしているのである。

 昔、三宅やす子という文筆家があった。理学博士の夫人であったが、良人の死後、自分が未亡人という名で扱われることに抗議して未亡人論を書いた。封建のしきたりによって、社会的に活動しようとする婦人まで、良人の死後は「未だ亡くならない人」という観念で見ることの不自然さをついたのであった。
 今日、二十代の女性で良人を喪った人は決してすくなくないと思う。結婚後一週間で良人が出征し殺された人々さえ少くないと思う。その人々の真情に痛みあふれている良人への愛慕や、その愛の故に、自分の毎日は内容があり生き甲斐もあるものとしていかなければならないと思って努力している若い心と肉体とは、未亡人というよび名をきいたときどんなに異様に感じ、気味わるく思うことだろう。こんなに本気に、こんなに美しく、悲しみから濾過された平静と希望とをもって生きようとしているのに、「未亡人」――。人生建設を全く予想していないような暗い、じめじめした「未亡人」という名で呼ばれるとは――と。現実は誠実であり虚飾がない。今日の現実はあまり大勢あふれている未亡人たちを、もう昔の未亡人型に押しはめておききれなくなっている。それらの若い、孤独な妻たちは、季節季節の色どりを健気けなげに身をつけて、さまざまの職業につき、経済上の自立とともに未来のひろやかな展望をもとうとしている。未亡人という表現が重く苦しく再登場して来る場合は、大抵、その妻たちの生活問題が切迫したときである。したがって母となっている孤独な妻たちの困難が主軸となって、一つの社会問題となるのである。今日の日本では、未亡人の問題がいわれるとき、すべての人の表情に困惑の色が深められる。なぜならこの深刻な課題は、解決がたやすくないどころか、国家の責任で解決されようとは全くしていないのであるから、手にあまる大課題として、いつも第一段からもち出されて来る。今日の常識は、架空の心がまえや美辞を千万遍くりかえしたところで、孤独な母、妻の生活の安定は得られないことを知っている。生活安定の基礎である経済事情を眺めたとき、日本じゅうの律気な生活者の誰にとって、現在が安定しているといえるだろう。経済破壊は全面的で、根本的である。ごく皮相にとりあえずそれらの母なる妻たちに授産場を、と思う人は多いが、その材料、その建物、そしてミシンはどこから来るというのだろう。食糧事情は、封建の「家」のふところからさえ、急に過剰人口となったそれらの母子を追いはらおうと欲する。こういう実際だのに、政府が「婦人は家庭へかえれ」と馘首の先頭に婦人をおいていることの不条理は、あらゆる人の心魂に徹している。道徳的頽廃の根源も、生活不安定にある。
 困難な条件が循環して果しないのに失望した一団の婦人たちが現れた。それほど国家が無力ならば、自分たち未亡人といわれる境遇に生きる者が、共通の苦痛と共通の必要にたってかたまり、社会に生活の道を拓いて行こうときめた健気な人々がある。
 これらの婦人たちは、最後にたよりになるのは天地の間に自分しかない、という悲愴な決意をした人々である。あらゆる歴史の波瀾の間で人間が最後のよりどころはただ一人、自分があるだけだと観じた場合は実に多かった。それは気力をふるい立たせ、計画ある行動に立たせて窮地を打開させる力となって来た。
 けれども、今日私たちが、自分一人が頼り、という雄々しい決心のその現実の内容をこまかくしらべたとき、生を守る智慧はどんなに深く大きくあらねばならないかということにおどろかれる。
 つまり、私一人、というものの、社会における四方八方への繋りの問題である。体が丈夫で気丈で、人と人との調和もよく百人中の一人として、いい職業につけた人があったとする。その人は、自力、自分の実力ということをふたたびうれしく認めるであろう。しかし、真面目な婦人であるならば、その満足の期間は短くて、新しい社会的な立場はとりもなおさず、より厳粛な社会的覚醒への扉であったことを知ると思う。
 民法が改正されようとしている。婦人にとって重大なかかわりをもつ結婚、離婚、親権、財産権などの条項が変更される。親、戸主の権威が不幸の原因とさえなっていた結婚というものは、当事者である男女の互の意志によってとりきめられ、互の協力によって維持されるべきものとなろうとしている。憲法で、男女同等の基本的人権が認められるようになった。それに準じて変更される民法の結婚の規定は、これまでの民法の矛盾をとりのぞいた。結婚しようとする当事者たちの意志できめられるというのは、さわやかにはればれした人生の門出を予約するように感じられる。
 民法の上にさっそうたる朝風が吹きわたるとして、さて、私たちの毎日の実際で、当事者同士の意志は、そんな単純明朗であり得るだろうか。結婚は愛するものたちの「自由意志」に立つとして、その基本になるどっさりの社会条件は、誰の意志によって実現しているだろうか。住居のこと、収入と物価、夫婦二人のほかに家庭的な扶助の責任の問題。共稼ぎの必要、その必要には余り不備な今日の社会施設。もし健康に自信のない妻であるならば、共稼ぎと主婦の労苦を二重に負って病気したとき、その不安は誰が分担してくれるであろう。
 すべての人民は働く権利がある、ということが男女差別の扱いなく行われ、すべての働いて生きる者は必要な社会保険によって最低保障は与えられるということが実現しなければ、結婚という一つの場合だけでさえ当事者の「自由な意志」というものは、皮肉な、揶揄めいた表現に終るのである。
 夫婦の間の財産処理について、また子供らの後見者として妻、母の権限がひろくなろうとしている。孤独な母、妻である多くの婦人は、これによっていくらか家族の間における立場を改善されるであろう。しかし、財産とは、今日、何であるだろう。金とは? そして、土地とは? 民法が婦人の財産権を認めたとき、日本では、戦争によって財産の安定は極端にゆるがされている。金の力を信頼しているおろかな婦人は一人もいない。一部の人々が今日濫費しているのは、金の力を信じないからこそである。使えるうちに使っているからである。そして、ますます悪循環と偏在とを招いている。
 世界の婦人たちが、世界の未亡人の問題を、単にそれら不幸な女性だけに直接な境遇の問題として扱っていない根拠がここにある。未亡人たちの身の上に集注してあらわれている被害、社会的矛盾、困難こそは、全くすべての働く女性、主婦、学生の日常の基本に一貫した受難であり、未来において絶対に克服されなければならない人間的な損傷と社会的矛盾である。その意味で、民主国では、この社会的な課題は、男女をこめて、明日のより条理そなわった社会建設に志す人々にとって、提出されている総括的な課題の一部分として扱われているのである。なぜなら、健康人の社会生活が安定であって、はじめて、病人の生活も保証される。順調な家庭生活の社会的基盤さえも失われている社会で、どうして不幸が根絶されるだろう。
 民主的進展の速いヨーロッパ諸国で、この大戦後、婦人の政治的・社会的発言が強くなった必然は、ここにこそある。未亡人という文字は単調だが、それを実質づける多種多様な立場の孤立した母、妻たちが、現代の歴史のあらゆる角度から、人間らしい生活の再建の可能を確保しようと歩み出し発言していることは、日本の私たちとして、真剣にくみとるべき態度だと思う。現代の世界の未亡人の歴史的な意味は、これら老若幾千万の女性たちが、自身のはかりしれない涙と不幸との理由をしっかり人類の進歩の中に理解した、というところにある。第一次欧州大戦の後のように、婦人として平和を希望する、というような弱々しい心情から歩み出して、平和と生活の安定を確立させるためには、男子とともにすべての必要な行動に入って行く、と実行にうつった点にこそ、新しい意味がある。
 今日の辛酸にやつれている母たる妻たちは、こういうものごとの考えかたはあまり遠大で、理想倒れだと思うかもしれない。それよりも、目前の一枚の冬着を、とはげしく求める感情もあるであろう。しかし、私たちは、よくよく思いひそめなければならないと思う。この二月の総選挙のとき、ある種の婦人たちは、参政権よりは、やすいいもの方がありがたい、と言葉に出していった。目の前の欲しさを強調した。そのために、すべての保守的な政党の立候補者たちは、食糧だけは引きうけると公約した。婦人立候補者たちは、あれほどくりかえして女のことは女にこそわかり思いやれるのだから、婦人の辛苦を解決するためには婦人代議士を、と演説した。そして、婦人たちの投票を集め、金もちと地主の集った政党を多数党にした。世界でおどろくほど一時にどっさり婦人代議士を選び出した。
 彼女たちは、長い長い会期の間に、何を婦人のために解決しただろうか。女の苦労が集注している孤独な母たり妻たるひとの心からなる一票に、どんな現実をもって答えたであろうか。
 深い原因からひきおこされた不幸は、それが大きければ大きいだけ、その深い根源に立ち入ってとりのぞかれなければならない。今日の世界は、社会の歴史を前進させ、不幸のより少い社会をつくるための悲痛にして名誉ある前衛大部隊として、諸民族の良人を失った妻たち、母たる妻たちの幾千万の発言を期待しているのである。
〔一九四六年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人公論」
   1946(昭和21)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。