あらすじ
雨上がりの薄暗い森の中に、一人の小男が石段を這い上がってきます。その姿は、まるで溝鼠が這い上がってきたかのよう。漁夫たちが担いだ巨大な魚は、血を流し、森の静けさを打ち破ります。小男は魚をじっと見つめ、「無慙や、そのざまよ。」と呟きます。漁夫たちは、魚を狙った河童ではないかと恐れるのですが、小男は石段の上へ消えてしまいます。やがて、小男は神社の境内へ現れ、傷ついた体を抱えて神職に助けを求めます。
 雨を含んだ風がさっと吹いて、いその香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲のかさなった空合そらあいでは、季節で蒸暑かりそうな処を、身にみるほどに薄寒い。……
 木の葉をこぼれるしずくも冷い。……糠雨ぬかあめがまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹立こだちは暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆かにになりそうに見えるまで、濡々と森のこずえくぐって、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りにおおわれたのに、雲の影が映って暗い。
 縦横たてよこに道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜みずたまりの田と、荒れたはたけだから――農屋漁宿のうおくぎょしゅく、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四辺あたりびょうとして、底冷いもやに包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔おうまが時になろうとする。
 町屋の屋根に隠れつつ、たつみひらけて海がある。その反対の、山裾やますそくぼに当る、石段の左の端に、べたりと附着くッついて、溝鼠どぶねずみ這上はいあがったように、ぼろをはだに、笠もかぶらず、一本杖いっぽんづえの細いのに、しがみつくようにすがった。杖のさきが、肩をいて、頭の上へ突出ている、うしろむきのその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。小児こどもだか、侏儒いっすんぼうしだか、小男だか。ただ船虫の影のひろがったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。……
 しょぼけ返って、うごめくたびに、啾々しゅうしゅうと陰気にかすかな音がする。腐れた肺が呼吸いきに鳴るのか――ぐしょ濡れですそから雫が垂れるから、骨を絞るひびきであろう――傘の古骨が風にきしむように、啾々と不気味に聞こえる。
「しいッ、」
「やあ、」
 しッ、しッ、しッ。
 曳声えいごえを揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒まるたんぼう差荷さしにないに、漁夫りょうしの、半裸体の、がッしりした壮佼わかものが二人、真中まんなかに一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄かぎなわで、尾はほとんど地摺じずれである。しかも、もりで撃った生々しい裂傷さききずの、肉のはぜて、真向まっこうあごひれの下から、たらたらと流るる鮮血なまちが、雨路あまみちに滴って、草に赤い。
 私は話の中のこのうおを写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大鮪おおまぐろか、さめふかでないと、ちょっとその巨大おおきさとすさまじさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟鱇あんこうがある、それだと、ただその腹の膨れたのをるに過ぎぬ。実は石投魚いしなぎである。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、たくましい人間ほどはあろう。荒海の巌礁がんしょうみ、うろこ鋭く、面顰つらしかんで、はたが硬い。と見るとしゃちに似て、彼が城の天守に金銀をよろった諸侯なるに対して、これは赤合羽あかがっぱまとった下郎が、蒼黒あおぐろい魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
 かばかりの大石投魚おおいしなぎの、さて価値ねうちといえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちとふさいだほどである。が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のおかずに――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄やけに煙を吐くふねから、手鈎てかぎ崖肋腹がけあばら引摺上ひきずりあげた中から、そのまま跣足はだしで、磯の巌道いわみちを踏んで来たのであった。
 まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝たんぼ添いのすねを左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚おおうおゆすって、
「しいッ、」
「やあ、」
 しっ、しっ、しっ。
 この血だらけの魚の現世うつしよさまに似ず、梅雨の日暮の森にかかって、青瑪瑙あおめのうを畳んで高い、石段下を、横に、漁夫りょうしと魚で一列になった。
 すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風をいとってか、窪地でたちまち氾濫あふれるらしい水場のせいか、一条ひとすじやや広いあぜを隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞木しゅもく打着ぶつかった真中まんなかに立っている。
 御柱みはしらを低くのぞいて、映画か、芝居のまねきの旗の、手拭てぬぐいの汚れたように、渋茶と、あいと、あわれあわび小松魚こがつおほどの元気もなく、さおによれよれに見えるのも、もの寂しい。
 前へ立った漁夫りょうしの肩が、石段を一歩出て、うしろのが脚を上げ、真中まんなかの大魚のあごが、端をじっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、生々なまなまと出て、横面よこづらひれの血で縫おうとした。
 その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、
無慙むざんや、そのざまよ。」
 と云った、まなこがピカピカと光って、
「われも世をのろえや。」
 と、首を振ると、耳までかぶさった毛が、ぶるぶると動いて……なまぐさい。
 しばらくすると、薄墨をもう一刷ひとはけした、水田みずたの際を、おっかな吃驚びっくり、といった形で、漁夫りょうしらが屈腰かがみごしに引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。どじょうが居たらおさえたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しでげた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あかふんどしにも恥じよかし。
でっかいさかなア石地蔵様に化けてはいねえか。」
 と、石投魚はそのまま石投魚で野倒のたれているのを、見定めながらそう云った。
 一人は石段をそっと見上げて、
あにも居ねえぞ。」
「おお、居ねえ、居めえよ、おめえ。一つおどかしておいて消えたずら。いつまでもあらわれていそうな奴じゃあねえだ。」
「いまも言うた事だがや、このうおねらったにしては、ちっこい奴だな。」
「それよ、海からおれたちをつけて来たものではなさそうだ。出たとこ勝負に石段の上に立ちおったで。」
おらは、さかなはらわたから抜出した怨霊おんりょうではねえかと思う。」
 とつかみかけた大魚えらから、わが声に驚いたように手を退けて言った。
「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐いたちなら、つらが白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々えぼえぼが立って、はあ、くちばしとがって、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵にいた河童かっぱそっくりだ。」
 と、なぜか急にいきおいづいた。
 絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。
「畜生。今ごろは風説うわさにも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよかった。――漁場へげりゃ、それ、なかまへ饒舌しゃべる。加勢と来るだ。」
「それだ。」
「村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ引返ひっかえして、しめた事よ。おめえらと、おらとで、河童におどされたでは、うつむけにも仰向あおむけにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。」
「そうだ、そうだ。いい事をした。――畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア打挫ぶっくじいて、欠片かけらにバタをつけて一口だい。」
 丸太棒を抜いて取り、引きそばめて、石段を睨上ねめあげたのは言うまでもない。
「コワイ」
 と、虫の声で、青蚯蚓あおみみずのような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青いくちばしばかりを出して、ふもと瞰下みおろしながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。
 その杉を、右の方へ、山道ががくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱はえみだれ、どくだみの香深く、あざみすさまじく咲き、野茨のばらの花の白いのも、時ならぬ黄昏たそがれ仄明ほのあかるさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。こずえに響く波の音、吹当つる浜風は、むぐらを渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿たに深く、峰はるかならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶崖がけの端へ出て、ここを魚見岬うおみさきとも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。
 小男の頭は、この絶崖際の草のさきへ、あの、きのこの笠のようになって、ヌイと出た。
 麓では、二人の漁夫りょうしが、横に寝た大魚おおうおをそのまま棄てて、一人は麦藁帽むぎわらぼうを取忘れ、一人の向顱巻むこうはちまき南瓜とうなすかぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、うねに暗く沈んだのである。――仔細しさいは、魚が重くて上らない。魔ものがおさえるかと、丸太でくうを切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようも知れぬ。えらが動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹をなぐりつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神ひめがみ――明神は女体にまします――夕餉ゆうげの料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特なことばが一致して、裸体の白い娘でない、御供ごくを残してかえったのである。
 あおざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼のたような、自然の丘をめぐらした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ薄明うすあかるい。
 右斜めに、鉾形かまぼこがたの杉の大樹の、森々しんしんと虚空に茂った中にやしろがある。――こっちから、もう謹慎の意を表するさまに、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、草摺くさずりたたれたような襤褸ぼろの袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。
 まず聞け。――青苔あおごけむ風は、坂に草を吹靡ふきなびくより、おのずからしずかではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常盤木ときわぎの落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。

 のみならず。――すぐこのきざはしのもとへ、灯ともしのおきな一人、立出たちいづるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる夜嵐よあらしの、やがて、さっと吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。

 啾々しゅうしゅうと近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠のたもとを敷いて、きざはしの下に両膝もろひざをついた。
 目ばかり光って、碧額へきがく金字こんじを仰いだと思うと、拍手かしわでのかわりに――片手は利かない――せた胸を三度打った。
「願いまっしゅ。……お晩でしゅ。」
 と、きゃきゃととおる、しかし、あわれな声して、地にこうべりつけた。
「願いまっしゅ、お願い。お願い――」
 正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりとあらわれると、ひらりと舞下まいさがり、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽にともれたように灯影が映る時、八十年やそとしにも近かろう、しわびたおきなの、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々なえなえとした禰宜ねぎいでたちで、蚊脛かずねを絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋ひうちぶくろを腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉烏帽子もみえぼしを頂いた、耳、ぼんのくぼのはずれに、燈心はそのなな筋の抜毛かと思う白髪しらがのぞかせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬宝珠ぎぼしゅを背に控えたが。
 かがむが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。――
和郎わろはの。」
「三里離れた処でしゅ。――国境くにざかいの、水溜りのものでございまっしゅ。」
「ほ、ほ、印旛沼いんばぬま、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」
「赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。」
「河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段をのぼらしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。」
神職様かんぬしさま、おおせでっしゅ。――自動車にかれたほど、身体からだ怪我けがはあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶烏とびからすに負けんでしゅ。お鳥居より式台へかからずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。」
「ほ、ほう、しんびょう。」
 ほくほくとうなずいた。
「きものも、灰塚の森の中で、古案山子ふるかがしいだでしゅ。」
「しんびょう、しんびょう……奇特なや、せがれ。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。」
「それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。」
「この老ぼれには何もかなわぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。」
「薬でないでしゅ。――敵打かたきうちがしたいのでっしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」
「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩けんかの仕返しがしたいのでっしゅ。」
「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」
「この左の手を折られたでしゅ。」
 とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、しずくの垂るのが、蓴菜じゅんさいに似た血のかたまりの、いまも流るるようである。
 とがったくちばしは、疣立いぼだって、なおあおい。
「いたましげなや――何としてなあ。対手あいてはどこの何ものじゃの。」
「畜生!人間。」
しずかに――」
 ごぼりといて、
御前おんまえじゃ。」
 しゅッと、河童は身を縮めた。
「日の今日、午頃ひるごろ、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌かまどいわへ。――神職様かんぬしさま小鮒こぶなどじょうに腹がくちい、貝も小蟹こがにも欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端いそばたを、八よう蓮華れんげに気取り、背後うしろ屏風巌びょうぶいわを、舟後光ふなごこうに真似て、円座して……翁様おきなさま、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹でこぼこ凸凹凸凹と、かさなって敷くいわを削り廻しに、漁師が、天然の生簀いけす生船いけぶねがまえにして、さかなを貯えて置くでしゅが、たいかれいも、梅雨じけで見えんでしゅ。……すくい残りのちゃっこい鰯子いわしこが、チ、チ、チ、(笑う。)……青いひれの行列で、巌竃いわかまどの中を、きらきらきらきら、日南ひなたぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手唾てつばきして、……漁師が網をつぐのうでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞馴ききなれぬ、すずしい澄んだ女子おなごの声が、男に交って、崖上の岨道そばみちから、巌角いわかどを、踏んず、すがりつ、桂井かつらいとかいてあるでしゅ、印半纏しるしばんてん。」
「おお、そか、この町の旅籠はたごじゃよ。」
「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷まるまげの年増と、その亭主らしい、長面ながづらの夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪べっぴんの娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……すずしい、甘い、情のある、その声がたまらんでしゅ。」
「はて、異な声の。」
「おららが真似るようではないでしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。」
 と、余念なさそうにうなずいた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白髪しらがも浮世離れして、おきなさびた風情である。
「翁様、娘は中肉にむっちりと、はだつきがう言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。つまをくるりと。」
あぶなやの。おぬしの前でや。」
「そのはぎの白さ、常夏とこなつの花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏のすそをからげたでしゅ。巌根いわねづたいに、あわび、鰒、栄螺さざえ、栄螺。……小鰯こいわしの色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……おむらと云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡いあぶらも、白粉おしろいも、娘の匂いそのままで、はだざわりのただあらい、岩に脱いだ白足袋のなかに潜って、じっと覗いていたでしゅが。一波上るわ、足許あしもとへ。あれともすそを、脛がよれる、裳が揚る、あかい帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。」
「ちと聞苦しゅう覚えるぞ。」
「口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様――処ででしゅ、この吸盤すいつき用意の水掻みずかきで、お尻をそっでようものと……」
「ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。」
「違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で怨恨うらみはないでしゅ。……蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、」
「その口でか、その口じゃの。」
「ヒ、ヒ、ヒ、空ざまに、波の上の女郎花おみなえし桔梗ききょうの帯を見ますと、や、背負守しょいまもりの扉を透いて、道中、道すがら参詣さんけいした、中山の法華経寺か、かねて御守護の雑司ぞうしか、真紅まっか柘榴ざくろが輝いて燃えて、鬼子母神きしもじん御影みえいが見えたでしゅで、蛸遁たこにげで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った。
 沖がやがて曇ったでしゅ。あら、気味の悪い、浪がかかったかしら。……別嬪べっぴんの娘の畜生め、などとぬかすでしゅ。……白足袋をつまんで。――
 磯浜へ上って来て、いわの根松の日蔭にあつまり、ビイル、煎餅せんべい飲食のみくいするのは、うらやましくも何ともないでしゅ。娘の白いあごの少しばかり動くのを、甘味うまそうに、屏風巌びょうぶいわ附着くッついて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取ってるでしゅ。見つけられまい、と背後うしろをすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨路そばみちへ飛ぼうとする処を、
 ――まて、まて、まて――
 と娘の声でしゅ。見惚みとれてさらあらわれたか、罷了しまいと、慌てて足許あしもとの穴へ隠れたでしゅわ。
 間の悪さは、馬蛤貝まてがいのちょうど隠家かくれが。――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、じっのぞく。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、そのうららかさは、月宮殿の池ほどござり、まつげが柳の小波さざなみに、岸を縫って、なびくでしゅが。――ただ一雫ひとしずくの露となって、さかさに落ちて吸わりょうと、蕩然とろりとすると、痛い、いたい、痛い、疼いッ。肩のつけもとを棒切ぼうぎれで、砂越しに突挫つきくじいた。」
「その怪我じゃ。」
「神職様。――塩で釣出せぬ馬蛤まてのかわりに、太い洋杖ステッキでかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、這奴しゃつ、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて不埒ふらちを働く。」
「ほ、ほ、そか、そか。――かわいやせがれ、忰がうらみは番頭じゃ。」
「違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎飛はねとんで、田打蟹たうちがにが、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂のあわかぶって転がってげる時、口惜くやしさに、奴の穿いた、おごった長靴、丹精に磨いた自慢の向脛むこうずねへ、このつばをかッと吐掛けたれば、この一呪詛ひとのろいによって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。――うらみの的は、神職様――娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。」
「一通りは聞いた、ほ、そか、そか。……無理も道理も、おいの一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。」
「御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前のかたきながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、」
 とたちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものか、知らず、駄々子だだっこがものねだりするさまであった。
「忰、忰……まだ早い……泣くな。」
 と翁は、白く笑った。
「大慈大悲は仏菩薩ぶつぼさつにこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、任侠にんきょうの御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖にすがったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ――えいとな。……
 や、や、や、横扉から、はや、お縁へ。……これは、また、お軽々しい。」
 廻廊の縁の角あたり、雲低き柳のとばりに立って、おぼろに神々しい姿の、翁の声に、つと打向うちむかいたまえるは、細面ほそおもてただ白玉の鼻筋通り、水晶を刻んで、威のあるまなじり。額髪、眉のかかりは、紫の薄い袖頭巾そでずきんにほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。――紅地金襴べにじきんらんのさげ帯して、紫の袖長く、衣紋えもんに優しく引合わせたまえる、手かさねの両の袖口に、塗骨の扇つつましく持添えて、床板の朽目の青芒あおすすきに、もすそくれないうすく燃えつつ、すらすらとつぼみなす白い素足で渡って。――神か、あらずや、人か、巫女みこか。
「――その話の人たちを見ようと思う、翁、里人の深切に、すきな柳を欄干さきへ植えてたもったは嬉しいが、町の桂井館は葉のしげりで隠れて見えぬ。――広前の、そちらへ、参ろう。」
 はらりと、やや蓮葉はすは白脛しらはぎのこぼるるさえ、道きよめの雪の影を散らして、はだを守護する位が備わり、包ましやかなおおもてより、一層世のちりに遠ざかって、好色の河童のたわけた目にも、女の肉とは映るまい。
 姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばかり、艶々つやつやと映った時、山鴉やまがらす嘴太はしぶとが――二羽、小刻みに縁を走って、片足ずつ駒下駄こまげたを、くちばしでコトンと壇の上に揃えたが、鴉がなったくつかも知れない、同時に真黒まっくろな羽が消えたのであるから。
 足が浮いて、ちらちらと高く上ったのは――白い蝶が、トタンにその塗下駄の底をくぐって舞上ったので。――見ると、姫はその蝶に軽く乗ったように宙を下り立った。
「お床几しょうぎ、お床几。」
 と翁が呼ぶと、栗鼠りすよ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根の、黒檀こくたんのごとくに光沢つやあって、木目は、蘭を浮彫にしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。
 袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひとしく、我を忘れて叫んだ。
「ああ、見えましゅ……あの向う丘の、二階の角のに、三人が、うせおるでしゅ。」
 姫の紫の褄下つましたに、山懐やまふところの夏草は、ふちのごとく暗く沈み、野茨のばら乱れて白きのみ。沖の船のともしびが二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館――桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。
 が、鬼神の瞳に引寄せられて、やしろの境内なる足許に、切立きったての石段は、はやくそのふなばたに昇る梯子はしごかとばかり、遠近おちこち法規おきてが乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、びんふっさりした束髪と、薄手な年増の円髷まるまげと、男の貸広袖かしどてらを着た棒縞ぼうじまさえ、もやを分けて、はっきりと描かれた。
「あの、三人は?」
「はあ、されば、その事。」
 と、翁が手庇てびさしして傾いた。
 社の神木のこずえとざした、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、
「お爺さん――お取次。……ぽう、ぽっぽ。」
 木菟みみずくの女性である。
「皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、姉分あねぶんのものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。」
「や、や、千里眼。」
 翁が仰ぐと、
「あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ。」
 と空でいった。河童の一肩、そびえつつ、
「芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。」
「三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。」
 翁ははじめて、気だるげに、横にかぶりを振って、
「芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。」
「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」
 と河童は水掻みずかきのある片手で、鼻の下を、べろべろとこすっていった。
「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命いのちろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹はめかち、女どもは片耳ぐか、鼻を削るか、あしなえびっこどころかの――軽うて、気絶ひきつけ……やがて、息を吹返さすかの。」
「えい、神職様かんぬしさま馬蛤まての穴にかくれた小さなものをしいたげました。うってがえしに、あの、ごろうじ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大魚おおうおを、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、はッかけ、おおきさいの目の出次第が、本望でしゅ。」
「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。せがれ、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。」
 と云った。神に使うる翁の、この譬喩たとえことばを聞かれよ。筆者は、大石投魚をあらわすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。
 お天守の杉から、再び女の声で……
「そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ――あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかりさそいをかけますとね、ぽう、ぽっぽ――お社ぢかまで参りましょう。石段下へ引寄せておいて、石投魚の亡者を飛上らせるだけでも用はたりましょうと存じますのよ。ぽう、ぽっぽ――あれ、ね、娘は髪のもつれをなでつけております、えりの白うございますこと。次のの姿見へ、年増が代って坐りました。――感心、娘が、こん度は円髷まるまげ、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷のびんを撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。ひどいめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相ですけど。……もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って洋杖ステッキなんかもって――あれでしょう。三郎さんを突いたのは――帰途かえりは杖にしてすがろうと思って、ぽう、ぽっぽ。……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」
 真暗まっくらな杉にこもって、長い耳の左右に動くのを、黒髪でさばいた、女顔の木菟みみずくの、あかくちばしで笑うのが、見えるようですさまじい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧道トンネルのぞかすさまに、はるかにその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台があらわれた。
 向う歯の金歯が光って、印半纏しるしばんてんの番頭が、沓脱くつぬぎそばにたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。ひねり廻してふさいだ顔色がんしょくは、愍然ふびんや、河童のぬめりで腐って、ポカンと穴があいたらしい。まだ宵だというに、番頭のそうした処は、旅館の閑散をも表示する……背後うしろに雑木山を控えた、鍵の手なりの総二階に、あかりのいたのは、三人の客が、出掛けに障子を閉めた、その角座敷ばかりである。
 下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で歩行板あゆみいたと渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃驚びっくりして、長靴をつかんだなりで、金歯を剥出むきだしに、世辞笑いで、お叩頭じぎをした。
 女中が二人出て送る。その玄関のともしびを背に、芝草と、植込の小松の中の敷石を、三人が道なりに少しうねってつたわって、石造いしづくりの門にかかげた、石ぼやの門燈に、影を黒く、段を降りて砂道へ出た。が、すぐ町から小半町引込ひっこんだ坂で、一方は畑になり、一方は宿のかこいの石垣が長く続くばかりで、人通りもなく、そうして仄暗ほのくらい。
 ト、町へたらたら下りの坂道を、つかつかと……わずかに白い門燈を離れたと思うと、どう並んだか、三人の右の片手三本が、ひょいと空へ、揃って、踊り構えの、さす手に上った。同時である。おなじように腰を捻った。下駄が浮くと、引く手が合って、おなじく三本の手が左へ、さっと流れたのがはじまりで、一列なのが、廻って、くるくるとともえ附着くッついて、開いて、くるりと輪に踊る。花やかな娘の笑声が、夜の底に響いて、また、くるりと廻って、手が流れて、つまかえる。足腰が、水馬みずすましねるように、ツイツイツイと刎ねるように坂くだりにく。……いや、それがまた早い。娘の帯の、銀の露の秋草に、円髷の帯の、浅葱あさぎに染めた色絵の蛍が、飛交とびかって、茄子畑なすばたけへ綺麗にうつり、すいと消え、ぱっと咲いた。

「酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二三杯。」と河童が舌打して言った。
「よい、よい、遠くなり、近くなり、あの破鐘われがねを持扱う雑作に及ばぬ。お山の草叢くさむらから、黄腹、赤背の山鱗やまうろこどもを、綯交なえまぜに、三筋の処を走らせ、あの踊りの足許へ、茄子畑から、にょっにょっと、蹴出す白脛しらはぎからましょう。」この時の白髪は動いた。

じじい。」
「はあ。」と烏帽子がふさる。

 姫は床几しょうぎに端然と、
「男が、口のなかで拍子を取るが……」
 翁は耳を傾け、皺手しわでを当てて聞いた。
「拍子ではござりませぬ、ぶつぶつと唄のようで。」
「さすが、商売人くろうと。――あれに笛は吹くまいよ、何と唄うえ。」
「分りましたわ。」と、森で受けた。

「……諏訪すわ――の海――水底みなそこ、照らす、小玉石――手には取れども袖はぬらさじ……おーもーしーろーお神楽かぐららしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、ふもとの霞――峰の白雪。」
「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気のはやい。」
 紫の袖が解けると、扇子おうぎが、柳の膝に、ちょうと当った。
 びくりとして、三つ、ひらめく舌を縮めた。風のごとく駆下りた、ほとんど魚の死骸しがいひれのあたりから、ずるずると石段を這返はいかえして、揃って、姫を空に仰いだ、一所ひとところの鎌首は、如意にょいに似て、ずるずると尾が長い。

 二階のその角座敷では、三人、顔を見合わせて、ただあきれ果ててぞいたりける風情がある。
 これは、さもありそうな事で、一座の立女形たておやまたるべき娘さえ、十五十六ではない、二十はたちを三つ四つも越しているのに。――円髷は四十ぢかで、笛吹きのごときは五十にとどく、というのが、手を揃え、足を挙げ、腰を振って、大道で踊ったのであるから。――もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした草臥くたびれたなりで、真中まんなかに三方から取巻いた食卓ちゃぶだいの上には、茶道具の左右に、真新しい、擂粉木すりこぎ、および杓子しゃくしとなんいう、世の宝貝たからものの中に、最も興がった剽軽ひょうきんものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが可訝おかしいくらい。ついでにおんな二人の顔が杓子と擂粉木にならないのが不思議なほど、変な外出そとでの夜であった。
「どうしたっていうんでしょう。」
 と、娘が擂粉木の沈黙を破って、
「誰か、見ていやしなかったかしら、可厭いやだ、私。」
 とおとがいを削ったようにいうと、年増は杓子で俯向うつむいて、寂しそうに、それでも、目もとには、まだわらいくまが残って消えずに、
「誰が見るものかね。踊よりか、町で買った、擂粉木とこのしゃもじをさ、お前さんと私とで、持って歩行あるいた方がよっぽどおかしい。」
「だって、おばさん――どこかの山の神様のお祭に踊る時には、まじめな道具だって、おじさんが言うんじゃないの。……御幣ごへいとおんなじ事だって。……だから私――まじめに町の中を持ったんだけれど、考えると――変だわね。」
「いや、まじめだよ。この擂粉木と杓子しゃもじの恩を忘れてどうする。おかめひょっとこのように滑稽おどけもの扱いにするのは不届き千万さ。」
 さて、笛吹――は、これも町で買った楊弓ようきゅう仕立の竹に、雀が針がねをつたわって、くちばしの鈴を、チン、カラカラカラカラカラ、チン、カラカラと飛ぶ玩弄品おもちゃを、膝について、鼻の下の伸びた顔でいる。……いや、愚に返った事は――もし踊があれなりに続いて、下り坂を発奮はずむと、町の真中まんなかへ舞出して、漁師町の棟を飛んで、海へころげて落ちたろう。
 馬鹿気ただけで、狂人きちがいではないから、生命いのちに別条はなく鎮静した。――ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫みこの鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、飛騨ひだ、三河、信濃しなのの国々の谷谷谷深く相交叉こうさする、山また山の僻村へきそんから招いた、山民一行の祭に参じた。桜、菖蒲あやめ、山の雉子きじの花踊。赤鬼、青鬼、白鬼の、面も三尺に余るのが、斧鉞おのまさかりの曲舞する。きよめ砂置いた広庭の壇場には、ぬさをひきゆい、注連しめかけわたし、きたります神の道は、(千道ちみち百綱ももづな、道七つ。)とも言えば、(あやを織り、にしきを敷きて招じる。)と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、わざを凝らして、千道百綱をにじのように。かざりの鳥には、雉子、山鶏やまどり、秋草、もみじを切出したのを、三重みえ七重ななえに――たなびかせた、その真中まんなかに、丸太たきぎうずたかく烈々とべ、大釜おおがまに湯を沸かせ、湯玉のあられにたばしる中を、前後あとさきに行違い、右左に飛廻って、松明たいまつの火に、鬼も、人も、神巫みこも、禰宜ねぎも、美女も、裸も、虎の皮も、くれないはかまも、燃えたり、消えたり、その、ひゅうら、ひゅ、ひゅうら、ひゅ、諏訪の海、水底みなそこ照らす小玉石、を唄いながら、黒雲に飛行ひぎょうする、その目覚しさは……なぞと、町を歩行あるきながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装いでたちしたのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子おおしゃくし、べたりと味噌を塗った太擂粉木ふとすりこぎで、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言うひまあらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、よそおいを凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る……と話す頃は、円髷が腹筋はらすじを横によるやら、娘が拝むようにのめって俯向うつむいて笑うやら。ちょっとまた踊がいた形になると、興に乗じて、あの番頭を噴出ふきださせなくっては……女中をからかおう。……で、あろう事か、荒物屋で、古新聞で包んでよこそう、というものを、そのままで結構よ。第一色気ざかりが露出むきだしに受取ったから、荒物屋のかみさんが、おかしがって笑うより、禁厭まじないにでもするのか、と気味の悪そうな顔をしたのを、また嬉しがって、寂寥せきりょうたる夜店のあたりを一廻り。横町を田畝たんぼへ抜けて――はじめから志した――山の森の明神の、あの石段の下へ着いたまでは、馬にも、いのししにも乗ったいきおいだった。
 そこに……何を見たと思う。――通合わせた自動車に、消えて乗って、わずかに三分。……
 宿へ遁返にげかえった時は、顔も白澄むほど、女二人、杓子と擂粉木を出来得る限り、掻合かきあわせた袖の下へ。――あら、まあ、笛吹は分別で、チン、カラカラカラ、チン。わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目をらさせたほどなのであった。
「いわば、お儀式用の宝ものといっていいね、時ならない食卓ちゃぶだいに乗ったって、何も気味の悪いことはないよ。」
「気味の悪いことはないったって、一体変ね、帰るみちでも言ったけれど、行がけに先刻さっき、宿を出ると、いきなり踊出したのは誰なんでしょう。」
「そりゃ私だろう。掛引のない処。お前にも話した事があるほどだし、その時の祭の踊を実地に見たのは、私だから。」
「ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。……話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする。」
「あら、おばさん、私のようよ、いきなりひとりでに、すっと手の上ったのは。」
「まさか、巻込まれたのなら知らないこと――お婿さんをとるのに、間違ったら、高島田におうという娘の癖に。」
「おじさん、ひどい、間違ったら高島田じゃありません、やむを得ず洋髪ハイカラなのよ。」
「おとなしくふっくりしてる癖に、時々ああいう口を利くんですからね。――吃驚びっくりさせられる事があるんです。――いつかも修善寺の温泉宿ゆやどで、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れたながれの瀬があるでしょう。巌組いわぐみにこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れがあおって、こう、さっとせく、落口の巌角いわかどね越すのは苦艱くげんらしい……しばらく見ていると、だんだんにみんな上った、一つ残ったのが、ああもう少し、もう一息という処で滝壺へ返って落ちるんです。そこよ、しっかりッてこのひと――口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、じったと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、跣足はだしで、跣足でまたいで――お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりかかわらひさしから、藤棚越しに下座敷をのぞいた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……このひと。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をいきなりつかむと、滝の上へ泳がせたじゃありませんか。」
「説明に及ばず。私も一所に見ていたよ。吃驚びっくりした。時々放れ業をやる。それだから、縁遠いんだね。たとえばさ、真のおじきにした処で、いやしくも男の前だ。あれでは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙へ上げたんだ。――」
「知らない、おじさん。」
「もっとも、一所に道を歩行あるいていて、左とか右とか、私と説が違って、さて自分が勝つと――銀座の人込の中で、どうです、それ見たか、と白い……」
多謝サンキュウ。」
たくましい。」
「取消し。」
「腕を、拳固がまえの握拳にぎりこぶしで、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突出つきだした事があるんだからね。」
「まだ、踊ってるようだわね、話がさ。」
「私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ。」
「いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人同時いっときだ。」
可厭いやねえ、気味の悪い。」
「ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。……ここから門のすぐ向うの茄子畠なすばたけを見ていたら、影法師のような小さなおばあさんが、杖にすがってどこからか出て来て、畑の真中まんなかへぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬すきくわじゃなかったんですもの。あの、持ってたもの撞木しゅもくじゃありません? 悚然ぞっとする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。」
「大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、れ生れ茄子なすのまじないだよ。」
「でも、畑のまた下道には、古い穀倉こくぐらがあるし、狐か、狸か。」
「そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段がすべるだの、お前さんたち、蛇が可恐こわいのといって、失礼した。――今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った――毎朝拍手かしわでは打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、千木ちぎのお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨さみだれ徒然つれづれに、踊を見よう。――さあ、その気で、あらためて、ここで真面目まじめに踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。」
 笛吹は、こまかい薩摩さつま紺絣こんがすり単衣ひとえに、かりものの扱帯しごきをしめていたのが、博多はかたを取って、きちんと貝の口にしめ直し、横縁の障子を開いて、御社おやしろに。――一座退しさって、女二人も、慎み深く、手をつかえて、ぬかずいた。

 栗鼠りす仰向あおむけにひっくりかえった。
 あの、チン、カラ、カラカラカラカラ、笛吹の手の雀は雀、杓子は、しゃ、しゃ、杓子と、す、す、す、擂粉木を、さしたり、引いたり、廻り踊る。ま、ま、真顔を見さいな。笑わずにいられるか。
 泡を吐き、舌をみ、ぶつぶつ小じれにれていた、赤沼の三郎が、うっかりしたように、思わず、にやりとした。
 姫は、赤地錦の帯脇に、おなじ袋の緒をしめて、守刀まもりがたなと見参らせたは、あらず、一管の玉の笛を、すっとぬいて、丹花の唇、斜めに氷柱つららを含んで、涼しく、気高く、歌口を――
 木菟みみずくが、ぽう、と鳴く。
 社の格子がさっと開くと、白兎が一羽、太鼓を、抱くようにして、腹をゆすって笑いながら、撥音ばちおとを低く、かすめて打った。
 河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。
 見返りたまい、
「三人を堪忍してやりゃ。」
「あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――やぶの穴から狐ものぞいて――あはは、石投魚いしなげも、ぬさりと立った。」
 わっと、けたたましく絶叫して、石段のふもとを、右往左往に、人数は五六十、飛んだろう。
 赤沼の三郎は、手をついた――もうこうまいる、姫神様。……
愛想あいそのなさよ。撫子なでしこも、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ。」
 取らしょうと、笛の御手みてに持添えて、濃い紫の女扇を、袖すれにこそたまわりけれ。
 片手なぞ、今は何するものぞ。
「おんたまものの光は身に添い、案山子かかしのつづれもにしき直垂ひたたれ。」
 翁がかたわらに、手を挙げた。
「石段に及ばぬ、飛んでござれ。」
「はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼溟そうめいやかたを造る、跋難佗ばつなんだ竜王、娑伽羅しゃがら竜王、摩那斯まなし竜王。竜神、竜女も、色には迷うためし候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱きょうじゃくの微輩。馬蛤まての穴へ落ちたりとも、空をけるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、劫火ごうか、敵火、爆火、手一つでも消しますでしゅ、ごめん。」
 とばかり、ひょうと飛んだ。
ひょう、ひょう。
 翁が、ふたふたと手をたたいて、笑い、笑い、
「漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手負ておいが、白いすねで落ちると愍然ふびんじゃ。見送ってやれの――からす、鴉。」
    かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
    かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
 雲は低く灰汁あくみなぎらして、蒼穹あおぞらの奥、黒く流るる処、げに直顕ちょっけんせる飛行機の、一万里の荒海、八千里の曠野あらの五月闇さつきやみを、一閃いっせんし、かすめ去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。
ひょう、ひょう。
    かあ、かあ。
 北をさすを、北から吹く、逆らう風はものともせねど、海洋のなみのみだれに、雨一しきり、どっと降れば、上下うえしたとびかわり、翔交かけまじって、
かあ、かあ。
    ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
    ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
    ひょう、
ひょう。
    …………
…………
昭和六(一九三一)年九月

底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
   1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
初出:「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房
   1931(昭和6)年9月
※初出時の題名は「貝の穴に河童が居る」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年7月19日公開
2012年5月29日修正
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