一月八日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月八日  第二十六信
 晴れ。五十一度。緑郎のピアノの音頻り。
 今年の正月は去年とくらべて大変寒さがゆるんで居りますね。そちらいかがですか。お体の工合はずっと順調ですか。畳の上で体が休まるということを伺って、きわめて具体的にいろいろ理解いたしました。何でも、世界を珍しい暖流が一廻りしたそうで、大変あったかい。それで却って健康にわるく、世界に一種の悪質の風邪が流行している由、称して、ヒットラー風。
 私は、今年の正月は余り自動車にものれず、餅もたべられず、おとなしい正月をいたしました。盲腸の方も大体障害なく、きのう野上さん[自注1]のところへ行ったら※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁ヨクイニン(何とよむのか忘れてしまった、田舎にも生える数珠子玉ジュズコダマという草の支那産のものの由)という薬を教わって来ました。彌生子さんの盲腸もそれでなおした由。二月の『文芸』に横光の「厨房日記評」を二十枚ほどかき『文芸春秋』の文芸評を今準備中です。文芸懇話会賞の室生犀星は「雑沓」などは題材的に歯に合わず活字面を見ただけでうんざりの由です。横光、小林秀雄、犀星等、芸術上の高邁こうまいイストが、現実において一九三七年度には急速に自分達のポーズと反対のものに落下しつつあるところ。日本文学の上に一つの新しい歴史の生れたことを、感じ、興味津々です。一月中旬に白揚社から本が出るのだが、まだ題名がきまらず。何かいいのはないかと考え中です。生活的でうるおいがあって、音楽的色彩的であるようなの。
 いつぞやから、私の家について云っていたのを覚えていらっしゃるかしら。あなたが皆とかたまりすぎて夜更しばかりしないようにと注意して下すったし、そのことをも考え、一緒に住む人のことをも考え、なかなか決定いたしませんでしたが、この正月三日に、目白のもとの家[自注2](上り屋敷の家です。覚えていらっしゃるでしょう?)のそばで、小さい、だがしっかりした家を見つけ、そこを借り、Xと一緒に暮すことにいたしました。家賃三十四円也。上が六畳で下が六・四半・三・玄・湯殿というの。部屋が一つ不足です。だが家賃との相談故これで我まんします。一つ一つの部屋が廊下で区切られていて南向きです。二階は一日陽がさし、どちらかというと直射的だから勉強するために刺戟がありすぎます。陽よけの工夫がいるほどです。五尺四方というフロ場! 用心はよさそうで、省線に近いが静かです。Xか、Dさんから手紙が届きました? XとDさんとは結婚することになりましたが、Dさんの家庭の事情、経済事情がまだXと同棲するに至っていないので、Xは当分私と暮します。Xは詩を書いてゆくのですが、家から一銭も来なくなってしまった。十二月には私が下宿代を出しましたが、毎月そのようには行かないから一つは家を持つことを急いだのです。この二人は、勿論多幸ならんことを切望いたしますが、今のところX自身、愛情と一緒に一種の不調和を感じて居るらしい。このような直観的なものはゆだん出来ませんからね。Dさんは確かに人の注意をひくに足りる人ですが、あらゆる過去の経験で人に愛され、便利で信頼し得る友人をもち、いつも出来る人物と見なされ、自身それを知って、家の中では唯一人の男の子として生活して来た人にありがちな一つの特長をもっている。素直な人でしょうが、そういうものは強くある。よい意味でも、まだペダンティシズムをもっている。Xにはスーさんとは違うが、似た気質あり。すっかり納得ゆかないうちに一方では衝動的に行動する。人と人とのことはむずかしいものね。私はXと暮す以上は大いにXをふっくりしたものにしてやりたいと思って居ります。でも、私とXとは持っている感情の曲線が何という違いでしょう。Xは細いマッチの棒ぐらいのものをつぎつぎにもっている、そして詩も三四行のをかくの。こういう芸術の有機的つながりは実に微妙です。
 健康のためにも、仕事のためにも生活を統一する便利がえるから、家をもったら能率的且つ書生的に暮します。楽しみであり、一寸うるさいナと思うのはXのこと。でも決してわるいというのではないのです。
 一昨日の晩であったかKさんが始めて家へ来てしみじみ話して行った。人間が孤立的になる場合、その原因は人間としてのプラスの面からだけでは決してない。私はそのことを率直に話しました。そのように話したのは恐らく知りあってからはじめてです。稲ちゃん達はなかなか悪戦的日常(経済的に)ですがよくやって居り、静岡から妹夫婦が東京へ転任になって来ました。私の引越しは十二日頃です。番地がまだ不明。おしらせします。引越したらお目にかかりに行きます。お体を呉々もお大事に。変な気候をうまく調節してお暮し下さい。

[自注1]野上さん――野上彌生子。
[自注2]目白のもとの家――一九三一年初夏から三二年一月下旬まで百合子が生活した家。

 一月十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕

 一月十六日 午後四時 今柱時計が四つ打つ。
 今年になって二つめのこの手紙を、私が何処で書いているとお思いになりますか。きっと、前の手紙を見ていらっしゃるだろうけれども、これは私たちの新しい家の二階の六畳のテーブルの前。やかましくない程度に省線の音をききながら、そして、この紙の横にあなたからいただいた二通の手紙、十二月二十六日のと一月六日のとを重ねておき、くりかえしくりかえしよみながら。丁度くたびれているひとが煙草を腹の中まで吸ってつかれをやすめ心愉こころたのしくしているような工合に。――十三日にこっちへ引越し、Xさんが家の仕事に馴れないし、いろいろ揃える仕事、本を片づける仕事その他できのうまでゴタゴタ。やっとさっき風呂に入り、さっぱりと髪を洗い、十三日の朝引越しさわぎの間であわただしく立ちよみして来た二つの手紙をよみなおし、この家ではじめて書くものとしてこの手紙を書いているわけです。十三日は、十一日までアンドレ・ジイドについての感想的評論をかいていてつかれ、(ジイドがURSSへ旅行したその旅行記に対して『プラウダ』や『文学新聞』が批判している。だが作家の内的矛盾の過程はその内部へ入って作家の独特な足つきに従って追求してゆかなければ、文学愛好者には納得ゆかぬのですから)十三日の引越しはどうかと、あぶながっていたところ、スエ子がなかなかのプロムプタア役で到ママ引越しはスみました。十三日の晩は良ちゃん、てっちゃん、池田さん、詩の金さん、戸台さん[自注3]、栄さん、手つだいやら様子見やらに来て、十一人位で夕飯をたべました。
 上落合の家にいたときは、大体独りっきりで、栄さんが近所に住んでいたから暮せたようなものの、ひどかった。その点今度はいいでしょう。但物価は最近五割近く高騰したものもあり、その方は閉口です。民間のサラリーマンの月給も上げてほしいという声たかく、偉い人々例えば(陸相)など民間も協力せよと云っていて下さるが、文筆家の稿料はどなたも上げよと仰云らぬ。いろいろ活きた浮世は面白の眺望です。お鍋を一つ買ったら、その商人曰く、これだけは昨日のねだんでお売り申上げますと。
 ところで、この二つのお手紙は、いろいろの意味で私には大変うれしゅうございました。いつもながらありがとう。記念の心を送ってやりたいと思っていて下さるということ。どうかよく考えて、素敵な言葉でも下さい。そう書かれていることが既に私にとっては、香馥郁ふくいくたる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。手紙を毎週待ったことは、私の申上げたことは覚えていたのです。もしか毎週書いていて下さるのに届かず、しかもそうと知らずにいるのなどつまらないから、それで一週間おきにと云ったのでした。しかし、ほしいという面から云えば毎日をもいとわず。今年は、お気の向くとおりに下さい。自分だけの心持を押し立てて云えば、あなたの手紙を血の中にまで吸収するのは誰よりもここにいる一人だと思っているのだから、云わば一行だって、ほかにこぼすのはいやな位、その位の貪婪どんらんさがあるのだが、そこは市民の礼譲で、どうぞほかへも、と云っている次第なのです。この正月は『文芸』へ横光の「厨房日記」の評を二十三枚、ジイドのを二十四枚かき。どれも最近の文集に入ります。きのうの晩も題を考え、なかなかうまいのがなくこまります。「昼夜」というのにしてスエ子の装幀にしようと思うのです。活きて動いた絵をかいて。これはもう原稿をわたす必要あり。木星社の本は二十五日です。私はその後書きを、心を傾けたおくりものとして一月の二十三日に書きます。よいものを書きます。そして、間に合えば、私の本やもう一つの本の印[自注4]は、あなたの書いて下さった私の名をそのまま印にしたのをつかいたいと思って居ります。これは大変好いでしょう? 思いつき以上でしょう。ねえ。この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。本のことAさんにつたえましょう。やっぱり林町からこっちにうつってよかったと思います。時間を十分活用出来るという点からだけでも。あっちでは、今太郎が風邪、母さんも風邪。丁度私が引越した日からて居ます。食堂でストウブをあったかくして、廊下や何かはさむい。そういうのが非衛生なのでしょう。
 きょう思いがけなく山崎の伯父さん(島田の母上のお兄さん)が見えました。この八月頃から東京暮しで高橋というひとのボロの会社(ほんもののボロです)につとめて居られる由。娘さんの一人が阪神につとめていたのが小林一三に見出されて今は映画女優の由。そのお姉さん(虹ヶ浜へ行ったひと)が岩本さんの奥さんの由。いろいろお話を伺いました。山崎さんは下の娘さんと松原(小田急の沿線)に住居です。この頃、私の最近の学習語は本が入らず役に立てたいにも立てられません。又ごく近々ゆっくり書きます。この二つのお手紙に対してのこった返事を。私の鉢のは南天の葉よ、紅葉ではないの。お正月の南天。ではどうぞお大事に。
  〔欄外に〕
 ○父がああいう生活力の豊富さからかもし出していた家風というようなものは、父なしには保ちません。その点大変微妙である。私がその継承者で発展者であるわけですが、日本の家というものは主人が主人ですから。私も小さい家で、私たちの家のここでの主人とならねばならぬ訳。

[自注3]戸台さん――戸台俊一。戸台俊一は日本プロレタリア文化連盟の出版部・書記局などに活動して、一九三二年の春からのち、三三年、三四年と日本プロレタリア文化連盟「コップ」が解散するまで実にしつこい弾圧と検挙を集中的にうけた。三三年ごろは、二ヵ月も三ヵ月も留置場生活をしたあげくに、やっと釈放されて五日目に往来を歩いていたら警視庁の特高が「なんだ、君は外にいたのか」とそのままつれて行ってぶちこまれたというようなことさえあった。未決生活も経験している。「コップ」の最後の時期のもっとも忠実な同志である。
[自注4]本の印――顕治の手紙にあるあて名の百合子という字をそのまま木版にして検印用の印をつくった。

 一月十八日(消印) 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 此度左記へ転居致しましたから御通知申上げます。
  一九三七年一月
    東京市豊島区目白三丁目三五七〇
                   中條百合子

 一月二十八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月二十八日。第二十八信。薄晴れ。火鉢のない正午四十二度。
 一月の二十三日に是非お目にかかりたいと思っていたところ、その日は土曜日で時間が間に合わず残念をいたしました。二十五日のときは、大変いろいろもっと伺いたいことがあったのに、話している心持が中断されたままであったので、今日でもまだ何だか、いつものこれ迄のようにいい心持でない。きっと貴方の方もそうでいらっしゃるでしょう。とにかくお風呂に入れるようにおなりになったことはうれしい。さぞ久しぶりのときはいい心持だったでしょう。湯上りに、水でかたくしぼった手拭てぬぐいで、きつく体を拭くこと。風邪よけに。
 ところで。私の本年に入ってからの手紙は一月八日に林町から第二十六信を出し、十五日頃この家に引越した印刷のハガキをさしあげ、十六日には、あなたの一月六日のお手紙と十二月二十六日のお手紙に答える手紙を目白の家から出して居ります。そのうち、どの分が届いているのでしょう。八日のは御覧になったでしょう? 十六日のは? この手紙がつく頃はもちろんおよみになっていると思います。
 ◎差入れのこと。忙しくて手がまわりかねていることはありません。申したように、その手紙をかいた時、何かいそいで書くものとかち合っていそがしい気がしたのできっとそう書いたのでしょう。どうか御心配はなさらないで。それに、私は貴方への手紙をそのときのいろんな心持を率直に書いているから、そんなこともかいたのでしょう。貴方は、又こんなことを云っていると、笑っていらっしゃればいいのよ。
 ◎夜具の白いキャラコえりは寿江が伺って来たので、歳末にタオル二本と一緒に中川から入れさせるようにしておいたのでしたが、まだ届かなかった由。とりまぎれたのでしょう。調べて居ります。
 ◎本は、『リカアド』などと一緒に御注文のは、私が上林へいたときあっちへ下すった手紙の分です。小説に気をとられて、失礼。早速お送りします。戸台さんにきのうたのみ、四、五日で来ましょう。
 そろそろ本をおよみになるのだから、この次のたよりには、すっかり本の整理をして、お送りしましょう、書いてよこして下すった分、入れた分と、私はどっちかというと事務的にゆかず、すみませんが、然し、私がそちらに必要なものについて抱いている気持など、云うまでもないことなのだし、よろこびをもってしていることも云えば滑稽こっけいな位のことなのだし、マア折々御辛抱下さい。ああ、私は、ユリは間抜けだね、と云われることも時と場合では本当に大歓迎なのだから。非常に快適な雨の粒のようなのだから。
 ◎玉子のこと、サンドウィッチのこと、申しておきました。すみません、すみませんと云っていました。
 それから、一番もっと伺いたくて中途半端になっていたXのこと。貴方のお手紙で、きっといろいろ私によく分るだろうと楽しみにして居りますが、お話しの要点は、私にも分りました。Xの生活を助けてやるのはよいが、一つ家にいて、そこへDさんが良人としての資格で来ることについてあなたのお感じになる心持。
 簡単にいきさつを辿ると、XとDさんとの間にそういう感情のいきさつのあったことも、まして、結婚の意志があることも、私には全く告げられず、只歳末に近づいて、Xへの送金が農村の大不況のため途絶した、困った、どうしたらいいでしょうと云うことでした。一方、林町の家は改築する[自注5]のでいずれ私はどこかへ移る必要がある、では、私と一緒に暮して見るか? それに越したことはない。そういう話で、その話がきまっても、まだ彼女は私に自身の事情については黙って居りました。殆んど家がきまってからRさんが稲ちゃんに困ったと云って話し、稲ちゃんがXに、私に話すべきであると教え、Xはやっと話した。それで私はその時少し腹を立てたのでした、当然。
 ところが、Dさんの方は、家庭がああいう事情でおっかさん達はこのことをよろこんでいない。CちゃんがよくなってRさんと暮せるまで、Xは一緒に暮せない。皆弱くて、働けないのだから。
 DさんとXの心持については、私達周囲のものの腹の底は、あまり周囲から刺戟せず、時の自然な力で発展するものならさせ、さもないものならそれもよしという気持です。そういう印象を与えるのです、二人という人々が。性格や何かの点。
 Dさんは頻繁ひんぱんにここへ来ることはない。普通の友人として一週一度ぐらい来て、かえった、少くともこれまでは。Zさんの心持を、この間、それとは別に一寸訊いたのですが、あのひとはXに対して、別にどう思っていず、適当な結婚をしたらよいと思う、又対手のひとが、自分とのことに拘泥したりする必要のない程自分たちの結合は時間的に短かかったし、内容がない、という事です。
 こういうことは私とすれば何だか変なところがある。そんなものであるのか、あってよいのだろうか。そういう気がする。だが、あのひとはそれでよいらしい。私が改めてそういうことについてキッチリしようとするのがむしろ分らなかった。二十五日に、貴方のおっしゃったのは深い友情の言葉でした。
 私としては、のひとが、貴方の友情のねうちを深くかみしめることが出来るか出来ないかが問題でなく、対手はどうであろうと、貴方のお気持を私たちの家庭生活の裡では貫徹しなければいやです。
 あなたが快くなく思いになるような風に私たちの家があってはならないし、又そんな家のある意味もない。私の心持お分りになるでしょう。
 今丁度別に手つだいをさがしかけていたところであったから、それが見つかったら、Xは別に住むように考えましょう。何か少しでも収入のある仕事を見つけて。そして、別に一つ部屋をもたそう。ちょいちょいしたことで手伝って貰うとしても。それから、私たちのところにいるうちは、Dさんは従前どおり普通の友人として来て、かえって貰いましょう。そういうやりかたはどうかしら。二十五日に、私はどちらかと云うと、何だか苦しい心持で帰ったの。途々みちみちいろいろ考えて。こんなに、貴方の心持を重く見て、自分の心持の中に入れて暮して居るのに、そういうことで貴方を不快にさせたのは実に実に残念であるから。そして、貴方が、自分の家が、変にもつれの間に入っているようにお思いになったらさぞいやだろうと。そういうことを考える必要の起ったのは何しろ、五年の間に初めてでしたからね。参ってしまった。
 私が自分たちの家をもつのは、林町の生活に対して図式的に考えているからではなく、実際の必要です。一つの家に、二人の主人が居ては主婦が困るのだから。Xのことは別としても、私たちの家はここに持ちつづけます。私は、貴方の心持を考えたら、あの夜でもXに部屋借りさせようかと思ったが、それも激しすぎるから、と、新しいプランを話しただけにしておきました。けれども、貴方のお心持によっては、すぐそのように計らってもようございます。私が生活費をもってやる覚悟なら今すぐにでも出来ることなのだから。どうか御返事を下さい。私の生活なんか、そこで貴方がいやだと思っていらっしゃると思うと全く光彩を失ってしまうのだから。
 子供らしい人々は、貴方に対して書く手紙のなかで甘えているのね。そして、あなたへの親密さの一層の表現として、私がどうしたというようなことを誇張的に表現するのね。そう書くことで、あなたへの親愛を更に内容づけるように感じて。大人の年をして、子供っぽい感情のふるまいをすることは、はたの迷惑ですね。ともかく、この手紙は話さねばならない事柄の性質上、大して愉快でないのはくちおしいことです。でも、大体のこと分っていただけるでしょうか。この手紙の任務は其なのですが。只今ネルのお腰を速達で出します。呉々もお大切に、寒中だから。

[自注5]林町の家は改築する――林町の家の改築は実現しなかった。

 一月三十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 一月三十一日。第二十九信
 二十八日に第二十八信を書き、引つづきこれをかきます。先便の主な内容であったことが変って来たので。XとDさんとのことは、初めから、私共はたで何だか合点ゆかぬものあり、又、あっちの家庭関係では、どうしても折合ず、困難であったが、Dさんが昨日Xに自分が軽率であったこと、阿母さんのXがどうしても嫌な心持は彼にも反映すること、一緒に生活しようとする計画は絶望であること、XはXとしての生活を立てるようにとなど話した由。
 Dさんの家庭とXは久しい以前から知っていて、その私の知らなかった時代にXは、善意からであろうが、智恵ちゃんや阿母さんとして忘られぬ深刻な打撃を与えていて(療病に関し)とても妥協の見込みないわけなのだそうです。
 僅か一二ヵ月の間に自分達のみならず周囲にも浅からぬ波を立て。軽率であったという言葉以上のようなものです。
 私の心持では、斯様のこと、分るようで分りかねるところがある。どんな気持で人生を見て、自分の一生を見ているのか。生活をよくして行こうとする意志とか努力とか知っていて、云っている人でも、何だか釘のない組立てもののような工合で。実に変な気がします。私としては其那ことで貴方のところへまで或心持を波及させられ、腹立たしい気がします。
 然し、おかしいことには、私のそういう腹立たしさの深さなどは又一向通じて居らぬのだから。親切な心をもっている人間をも、その親切に限界をつくらせ、親身にさせる度合いをうすくする人というものがある。
 とにかく、そういう工合で、彼の人達の交渉の内容はすっかり変った次第です。従って貴方が不快にお思いになる点は自然消滅してしまった。勿論、このこと全体が、浅はかな、衝動的な、愉快ではないことですが。
 Xが、何かちゃんとした職業をもつようにすることは同じです。人間として拵え上げる上にももっと人間を知り、その中にいるのが必要です。
 親がないとか、体がよわいとか、そういうことを特殊な条件として、時代的関係もあって、不運から却って依存的に生きて来たという人間は、女になど多いのですね。Xはもっと一人前の女、人間になる必要がある。今度のことについては五分五分ですが。
 もう私たちの間に、こういうことについてこういう種類の手紙を書くことは終りです。
    ――○――
 二月の『文芸』や『文芸春秋』に書いた評論「迷いの末は」(横光の「厨房日記」の評)「ジイドとプラウダの批評」等、私として云うべきことを納得ゆくように云うことが出来て近来での成功でした。随筆集の題は「昼夜随筆」です。
 竹村から別に小説集が出て、これは「乳房」を表題にします。「昼夜随筆」の方は寿江子が表紙を描きました。雨の日、女が子供をおぶって傘をさし乍らもう一本手に黒い毛襦子のコウモリをもって待っているところ。スケッチです。「乳房」の方は竹村の主人が装幀して名の字をかくだけです。
 文学の領域にもこの頃は人情ごのみでね。横光氏曰ク「義理人情の前に無になる覚悟が必要云々」と。こういう作家は「人情としては実に忍び難いが云々」と云って人情を轢殺れきさつして過ぎる人生の現実に芸術のインスピレーションを感ぜぬものと見える。小林秀雄、保田与重郎、等の日本ロマンチストたち。私はこの次からもっと心持のよい、いいもの私たちの便りらしい手紙を書くことが出来るのを非常に楽しみにして居ります。今のこのXらのやりかた、人間のそういう面について腹の立っている心持も直って。では又。風が出て来ました。

 二月六日朝 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月五日 立春の後といってもびっくりするような暖かさ。夜。
 けさ、まだ本当は、はっきり起きたわけでもなく二階から下りて来たらXが
「お手紙が来て居ますよ」と云うので、茶の間に行ったら、ウラウラと朝日のさし込むテーブルの上にお盆があって、その上に手紙がちゃんとのせてあった。「うれしい」と云って、あけて、よんで、一つアアと安心して、顔を洗おうとして台所へ行ったけれど、眼がしぱつくので、ホーサンどこ? と大声を出したら、「そこの棚にあります」見るとアルのでそれを洗眼コップに入れて目を洗ったら、ピリッとする。ああ、こんなに充血していたのかともう片方洗ったら、何だかピリッとする工合が変なので目からはなした途端プーンとアルコールが匂った。「アラ! Xさーんアルコールで目を洗っちゃった」それから、ホーサンで洗い、水で洗い、まっかな目を鏡にうつして眺めていたら、Xがわきから「聞いたことないねェ」というので大笑いしてしまった。誰だって聞いたことなんかあるでしょうか! アルコールで目を洗ったなんて。
 でも、気が抜けていて笑い話にすんだから御笑い下さい。(一封の手紙ユリをして動顛どうてんせしむることかくのごとし)きのう手紙を書いて一月六日づけの手紙を眺めて、いつ次のが来るのかしらと思ってそのことを書いた、それをやめて、これに改めました。家の生活のやりかたについて二重に考えて下すって、本当にありがとう。
 私の手紙ですこし様子はお分りになったでしょう。自分でいやに腹を立てているところがあったので、あなたもいやと仰云った点、全身的に感じたのでした。でも、又次の手紙に書いた通りだし、今夜栄さんの話で、或はXに職業が見つかるし、そしたら私はずっとよくなるでしょう。生活の感情の微妙さ。目前の便利でまぎらすことの出来ない人間間の心持というものは何と活々と力のつよいものでしょう。それが逆に作用した場合には、目前の障害をゆる人間感情の結合と隔ママとがなり立つのであるから、面白い。
 私は一つ家に住むものがどんな対人関係をもっても、どんな生き方をしてもよいという風には思えず、ずいまで見えるし触れてゆくので、Xなど今まで心づきもせず、思いもしなかった自分を発見している有様です。
 ともかく、私はただしょげもしないし、御安心下さい。おくりものの第一、ありがとう。私は私で、あなたがどんなに僅かでもいい心持で本をお買いになるだろうと随分楽しみにしていたのでした。では頂きます。そして極めて高雅な図案でイニシアルを組合わせ、あの文句をらせましょう。私は万年筆は余りつかわず特に仕事には。だからよく考えて或はペン軸にするかもしれません。よく考えましょう。毎日つかいたい。気を入れて書くものを其で書きたい。ね、そうでしょう?
 私達の生涯を托するところのペンなのだから。只順に行っても其は三月の五日以後になります。或は全然、そういう都合にはゆかなくなるかもしれない。然し、もしそうであるなら、そうで、又私は、それをよいおくりものとして、記憶し得るわけです。そういうことが今日実現し得ないということで語られている作物の価値の意味に於て。
『リカアド』、繁治さん宛のお手紙も見せて貰いました。きょう小泉信三の正統派三人の研究を先に入れ、近日中に『リカアド』が見つかるでしょう。繁さんのところにもないのですから。戸台さんにたのんで居ります。プーシュキンもきょう入れ。
 夜具衿とタオル二本。暮に中川へやってあった、訊いたら、「あちらで廃業になって居りませんから」とケロリとしている。別の方法をとりますから少しお待ち下さい。食慾がお出になったのは何よりです。私の方も、いろいろ家の落付く前のゴタゴタで気がつかれているが御安心下さい。然し、真面目に私は、生活の形態というものについて考えます。もっと下らぬ労力をはぶいた、しかも「お姉様」的でない生活はないものかと。あなたは御自分の家として、どのような形をお考えですか。どういうのがいいとお思いになる? 私は勉強、休養、を主眼にした極めて便利な家に、一人でやってゆけるような形で住むのがどうも一等らしく思えます。日本の家では、出かける前に雨戸をしめる、そのことだけでも大変です。一つ大きな勉強部屋、あと、八畳(客間、食堂)に四畳半位、台所(ごく能率的にする)湯殿。そして入口のドア一つピシとしめれば全部よろしいという工合なの。そして、手伝いの人に時間制で来て貰うというようなの。何か一つ大いに考える必要があります。この頃私は前よりも一層勉強が主の生活の心持なのだもの。日本建の家は家を守るための人手を余り要求しすぎます。生活も、その時代のいろいろの必要からかわるものですね。
 きょう、咲枝が太郎を初めてこの家につれて来ました。この間大雪の折、『婦人公論』から写真をとりに来て、私は太郎と雪の中に傘をさして立ってとって貰いました。そして、けさついたお手紙の私への宛名を切って、そのとおりの字を写真にとって印にこしらえます。これは国男夫婦が印屋へやって私の誕生日のお祝いにくれます。たのしみです。それで検印するの。
 山崎の伯父様のいかめし型は適評です。柔道の先生のことは勿論よく承知して居ります。いろいろ考えちがいをすることはありませんです。きのう、こちらの家へはじめての本の小包着。きょうもう一つ(衣類の方)着。
 早く散歩に出られるようにおなりになるといい。久しいことですものね、もう。本当に日当でポカポカさせてあげたい。今年は一月の二十七日が満月でした。ここからも月がよく見えます。窓から私を訪ねて来ました。一月八日と十六日に書いた分が届いたのでしたね。これは第五信です。では お大事に

 二月八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕

 二月八日。きのうの夜小雨の中を神田へ本を買いに行ったらこのエハガキが目についたのでお送りいたします。栄さんがきょう上林へのこした荷物をとりに行きました。
 これは何処の景色か分らない。中野夫妻はスキーに那須へ行ったそうです。ハイカラーね。上林の上の方もきっとこんな眺めでしょう。あの辺はもっと起伏が多いが。もう一枚同時にかきます。

 二月八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(男の人がスキーをしている写真の絵はがき)〕

 このエハガキを見ると、日光にキラキラ光る雪の匂いと頬ぺたに来るさわやかな冷気が感じられるようですね。私は風より雨がすき。雨より雪がすき。雨が降ったりすると傘をさして出かけたくなります。スキーをして見たい、もし私の丸い短い体ののっかれるのがあるならば。但これは夢物語。モンペをはいて、赤い毛糸のエリ巻をして。スースーと、誰のところへ。

 二月十日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(中西利雄筆「優駿出場」の絵はがき)〕

 二月十日。これは古いエハガキ。今からもう足かけ三年前の帝展に出ていた水彩です。その時の招待日に父と見に行って、父がこの絵は動いている一寸いい。と立ちどまった絵。このすりは色がよくないが、陳列されていた薄暗い隅では騎手の体の線まで活々と見えて私も一寸面白く思いました。偶然手に入ったからお目にかけます。あなたのところでは、夕方エハガキの色など特別あざやかに見えるでしょう?

 二月十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十七日午後一時ごろ。
 南のガラス戸をすっかりあけていると、ベッドの上まで一杯の日光。ものを書くには落付かぬ位です。(私は、春の日光には耐えられないから、眼の弱いせい。床の間をつぶして北に窓をあけようかと思って居ります。)あなたのところにも、体のどこかにこういう日光が当っているのかしら。畳の上だけかしら。日当りのあるところにお移れになったというのは何とうれしいでしょう。何だか私もほっとして楽な気持です。幸福な心持が微かにする位です。
 十五日には、ゆっくりお目にかかれてよかった。実によかった。話す言葉や何かのほかに、いろいろうれしかった。何しろ私ははりつめた心でいたのですもの。
 お話で、私の生活の雰囲気について一層何かお感じになった理由も察せられました。フランス語の件。私はものを書くのが仕事で、責任をもって書く習慣をもっていても、あなたへものを書くときには、くつろいでいるのかしら。例えば、私が林町のうちでフランス語の稽古などはじめているのではなくて、Xがよそで稽古をDさんにして貰っていて、私はその教科書を買ってやり、その本がテーブルの上にあったもんで、あんな格言なども引き出したということが、はっきりあなたにはのみこめないようにしか、書かなかったのかしら。可笑しいような、腹の立つような気がしました。そして、実は、貴方の方に読みちがえというようなことは絶対にないもののように、ひた向きに考えこんでいる自分も一寸おかしかった。だって貴方だって――南天を御存知ないみたいなところがあるんだもの。
 林町の家の建直し(建築)は目下材料高騰で一寸見合わせですが数ヵ月うちには着手されます。正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。
 木星社の印税は第一回分は三月五日によこすことになって居ります。それで、ではやっぱり万年筆を買いましょう。あなたの顔を見たらそれを買おうと仰云る思いつきの心持がよく分りました。そして、ダイヤモンド社でやらせましょう。装幀は小堀鞆音の息子で、ツルゲーネフ全集をやった人。古九谷のような赭地あかじに緑のこんな形の飾、縦書き手書きで「文芸評論集」。その周りに2重に雲形の線その中に文学評論集と墨でかいて右肩に著者の名。刷ることは千部刷りました。
 もう一つのおくりものフリードリッヒ『二巻選集』[自注6]も私は少し得意です。もうとうに買って大切にしてもっているのだから。古典に対する私の理解力については御懸念は決して決していりません。私はここで又ここらしい激しい波浪の間に在るのです。船は小さいと云っても、近代科学の設備を怠っては居りません。私は小さい造作がいかに科学的かということが、今日の価値であると信じているのですから。
 ジイドは、その作家的矛盾を自分から合理化すべきではなくて、ジイドが真に誠実であらんと欲するなら自分の観念的な誠実ぶりのポーズをきびしく自己批判すべきであり、その点で与えられる批判を摂取すべきであることを書いたのです。無電で小松清とジイドが喋ったとき批判はあっても愛する心にかわりはないと云った由。まだこの作家には本当のところが会得されていない。人間は自己満足や陶酔やのために自分の愛を云々するのではない、新しい、より高い価値を現実のうちにもたらすことこそ愛の実証だのに。
 ところで、このいんはお気に入るでしょう。
 一月二十六日のお手紙で、あなたが万年筆のおくりものについて書いて下すったその手紙の宛名の字です。検印用です。残念なことに竹村書房から出る小説集には間に合いませんでしたが「昼夜随筆」の方には間に合うでしょう。木星社のにも二日違いで間に合いませんでした。私は大変うまく字が出ていてうれしい。ツゲの木です。数を多くすのには一番よい由。
百合子[#「百合子」は罫囲み、手紙の中では上記の印]
 第三のおくりもの。名のこと[自注7]。私は昨夜もいろいろ考えたけれど、まだはっきり心がきまりません。単なるジャーナリズムの習慣でしょうか? 果して。もしそうだとすれば、何故私はこうして考え、よくよく考えずには返事出来ないものが内的の必然としてあるのでしょう。それに、お話を伺ったとき、私はこのことと私の生活の土台云々のことが、ああいう下らぬ混雑につれて結びついて出ている、思いつかれている、そのことでは、率直に云って大変くやしかった。そして、何だか腹立たしかった。私の生活の土台! 勿論それは常によく手入れされ、見廻られ、より堅固にされるための種々の配慮が必要であることは自明なのですけれども、そのためのいろいろの忠言というものを、私は実に評価して、一箇の私事ならずとしてきいて居ります。けれども、もし、私の生活の土台が二元的な危険をもっているならば、どうして今日まで私の人及び芸術家としての努力を統一的に高めて来ることが出来たでしょう。(この二三年間の作品が皆よんで頂けないことが本当におしい。)私は、あなたのお心持を細かく立ち入って感じて、そういうことの思いつかれたことも分らなくはないのです。決して。いえ、非常によく分る。それだけ、それが、私としてくやしいまざりものをもっているらしいことが私の直感としてどかないのです。今私の感じているままを細かく書くと非常に面白いが、又長くなりそうで心配。簡単に云うと、私たちの生活は、貴方と私とが互に深く豊富な自主的生存の自覚、情熱に対する自主的な責任をもっているからこそ、特別な事情の中でも発育し、ゆたかに美しく花咲いているのだと思います。私があなたの妻であるからというだけで、私は貴方に対してこのような私の心を傾けているのではないのです。私が私で、そして貴方をしかく愛するからこそ外部的な力で破られぬ結びつきをもち得ている。そして、そのことが、現代の日本の法律の上で、特に我々の場合、別々では不便を来しているから、習慣に従って姓名を貴方の方のと一つにしている。そうでしょう? その方が本当というのは、特に私たちの場合、何だか私の感情の、これまで生き貫いて来た、これから生き貫こうとしている感情の全面の張りにぴったりしない。私は、可笑しい表現だけれども、中條百合子で、その核心に宮本ユリをもっていて、携えていて、その微妙、活溌な有機的関係によって相互的に各面が豊饒ほうじょうになりつつあること、強靱きょうじんになりつつあることの自覚を高めているのです。私たちの生活の波瀾を凌がせ、揺がせず、前進させている私の内部の力は、こういう力で、大局的に貴方の生活と自分の生活との充実を歴史の上に照らし出して見通して、建設して行くところから湧くのです。貴方は御自分の姓名を愛し、誇りをもっていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ云えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自立力をもち、確固としていてこそはじめて、比類なき妻であり得ると信じています、良人にしても。私たちは、少くともそういう一対として生きているのではないでしょうか。同じ一人の良人一人の妻という結合にしろ私は新しいその質でエポックをつくる、一つの新しい充実した美をこの世の歴史に加えようとして暮して居ります。こういう私の心持は勿論分って下さるでしょう? 私としては、特に、私として自分が意企しなかったキッカケから、そういうことが貴方に思いつかれたことが、何だか遺憾です。だからこのことは、私たちのおくりものとは別にしましょう。別箇の問題としましょう。ね。
 隆治さんにきょう、これと同時に手紙を出します。それから買物に出かけて、御注文の品を小包に出します。
 島田へは私も思っていたから行きますが、いつ頃になるかしら。三月のうちに行きたいと思います。三月のうちに仕事と仕事との間を見計らって。一週間か十日ぐらい。
 いろいろ書いて一杯になってしまったけれど、十三日には窪川、壺井夫妻、徳さんの細君、雅子、林町の連中太郎まで来て十三人。六畳にギューギュー。皆がきれいな花をくれ、稲ちゃんのシクラメンがここの机の上にあります。木星社の本の表紙の見本刷を額にして飾った。皆よろこんで居りました。日本画風なところがあるが安手ではありません。桜草はいかがですか。日があたればきっと長く咲きつづけるでしょう。私はこの手紙を、あなたの膝の前にいる近さで書いている、襟元のところや顔を眺めつつ。では又、御機嫌よく。おお何とあなたの目は近いところにあるのでしょう。では又。

[自注6]フリードリッヒ『二巻選集』――フリードリッヒ・エンゲルス二巻選集。
[自注7]名のこと――百合子は当時作品を中條百合子の署名で発表していた。

 二月十九日夜 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき(1)[#「(1)」は縦中横](2)[#「(2)」は縦中横])〕

 エハガキが切れているのでこんなので御免なさい。
 きょう午後に小説集『乳房』が出来て来ました。くすんだ藤色の表紙に黒い題字。早速速達で御覧にいれます。「この一冊に集められている作品の中には『一太と母』のように随分古く書かれたものもあり本年の一月に発表した『雑沓』のようなのもある。旅行記は小説ではないわけであるが私の作家としての生涯にこのような旅行記を書いた時代の生活は忘られないものであるし、今日では、五六年前に書かれた旅行記も却って或味いをもって読まれるので収録することにした。私たち一部の作家がこの数年間に経験した生活の道は実に曲折に富でいた。一つの作品から一つの作品への〔以下はがき(2)[#「(2)」は縦中横]〕間には、語りつくされぬ人間生活の汗が流された。そして、直接その汗について物語ることは困難である。私は益※(二の字点、1-2-22)誰にでも読まれ得る小説として『雑沓』の続篇をかきつづけ、そのことによって私たちの芸術の到達点をも示し、自身の芸術を高め得るような仕事をしてゆきたいと願っている、一九三七年一月二十三日。」序です。今夜はこの家へはじめて佐藤俊子さん[自注8]が来て夕飯をたべ、手紙に押してあげた印を見て字の感じを大層ほめていました。あれは暖い字ですもの、本当に。とりあえず床に入る前。

[自注8]佐藤俊子さん――前年の秋、十八年ぶりにアメリカからかえってきた佐藤(田村)俊子。

 二月二十八日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十八日 日曜日 晴
 きょうは何だか久しぶりで心持のよい晴天。きのうの晩は座談会で銀座へ出かけたら、かえりはひどい雨で、上落合の神近さんの家の先で、送ってくれた自動車が泥濘ぬかるみにはまりこんでしまって荒ナワを車輪にからみつけても、砂利をおいても動かず。どうどうと降る雨の中でポツネンと待っていて、運転手が空車をつれて来て、それでうちへかえりました。その夜の雨の中でルームランプの明るい車の中にぽっつりといて、もうあなたはきっと眠っていらっしゃると、その刻限(十時すぎ)について考え何だか妙な気がしました。
 きょうは昨夜の雨で晴れた空気の工合が一層心持よいのだが、あなたのところではどうかしら。それに私は今日うれしいのは、一日お客をことわって、『昼夜随筆』のためにかいている感想を書いてしまおうとしているからもあるのです。駅のすぐそばにいろんなものを売っている市場があるのを覚えていらっしゃるでしょうか。あすこへ行って、内側が紅で外が黄色っぽいバラを買って来て、三輪ばかりテーブルの上にさしています。
 二月九日に書いて下すったお手紙の後の分をこの数日の間大変待っていました。島田へでもおかきになりましたか? 隆治さんのことは伺ったら、隆治さん自身は希望していないのだそうです。ひとの話で、いいようなことをきいて寧ろ達治さんの心持から一寸そんなことにもふれたらしい様子です。隆治さんはやはりお家の仕事の手助けをしていらっしゃるのだそうです。そちらへもお手紙がありました? お父上が、二月十七日頃工合をわるくなすったということ。一時はお驚きになったそうですが、よい塩梅に恢復なすったそうです。しかし、元通りということは出来ず、どっちかというと病症は前進している傾の御様子です。あなたが御心痛になるといけないとお母様は御心配ですが、私としてはあなたのお心持は十分わかっているつもりですから、御病状のこともこれからずっとあるとおりにお知らせいたします。その方をあなたもよいとお思いでしょう。意識など少し混濁していらっしゃる御様子です。三月の十五日迄に私はやむを得ぬ仕事を一応かたづけ、それから島田へ御見舞に行くつもりです。それより早くは仕事の都合上絶対に無理なので、さいわい御様子も落付いているし、それまで私は大車輪に働いて出かけます。どの位あちらにいるか、それは御様子を見なければ申せず、私はお母様のお邪魔にさえならなければ、少し長くあちらにいようかとも考えて居ります。私は島田で、お客でなくなりたいから。こちらの家の留守番を見つけ、予定を別に立てずあちらへ行って見て、きめようと思います。ただ、あなたも御存知のとおりお店だから生活の様子がああいう調子の中で、私が落付いてまとまった仕事をすることはどっちかと云えば困難でしょう。そういう無理で、空気をこわしたくもないから、その点では半月ぐらいの期間を考えても居ります。
 いずれにせよ、私は出来るだけのことをいたしますからどうか御安心下さい。あなたがおやりになるだろうと思うことは皆やりましょう。そういう心付で、私は決して、あなたが残念であったとお思いになるようなことはしません。どうか深く私を信じて安心しておまかせ下さい。この手紙は十日も経って御覧になるのですね、その前に私はお目にかかるわけですが。――
 ずっと運動にはお出られになりますか? 入浴は? 今年は冬が大体暖く、春がもう来たようです。寿江子が鵠沼から来ると大抵私の方にいる。今も居ります。段々私の生活ぶりもわかって来て、ちょいちょいしたことでは手助けをするつもりで居ります。実際にどの位出来るかということは、おのずから別ですが。二月、三月(四月も)と『文芸春秋』に時評をかき、杉山平助氏から近頃の正論をはく批評家というようなことをきわめつけられ、ホーホーと我ながら批評家ということばに笑います。六芸社の本は序も簡単にしかしよくかけた方だし、好評です、全体としてそうなのは勿論当然であるが。ああいうものが売れる、それは実に興味ある現実です。私の楽天性の根拠いかに堅くリアルであるかと、努力を鼓舞されます。この前の手紙で書いたおくりもの第三についての私の心持はおわかりになっていただけたかしら。議論めかしくて可笑しいやですが、書くとやっぱりあのようにしか書きようがない。そして、私は心でひとりで思っているの、貴方は、御自分が本当に安心して大らかな心持でいらっしゃれるのは、ああいう風なところが私にあって初めて可能なのだがナ、と。己惚うぬぼれではありません、決して決して。現実は錯綜して、困難で、もし私が自主的に生活に責任をもってゆけないのであったら、あなたは迚も心付きを云って下さるにいとまないどころか、実際には常に万事手おくれであることになるのだから。でも、私は大体に、まだまだ貴方に勘でお心遣いをうけるようなアンポンがあるのね、そのことでは本当にすまないし、一方から云うと勘が本質的には的を外れないということが有難くうれしくもあります。
 これは大変微妙な心持。このような歓びというのは。私は評論を、作家、人間としての洞察から現実に即して自由にかいて、或ことを云い得ている。小説でも、今どうやら一歩前進の過程にあるらしく、努力のコツとでもいうか、そういうものが会得されかかった感じです。現実を、その全体が立体的に活きて働くように書いてゆく、描写してゆく、何とそれはむずかしいでしょう。私は評論をかく上で体得したものを、小説で更に高く形象的に身につけようと意気ごんでいる次第です。私は、生れつきが小さい持味でまとめて、その人らしさだけで立ちゆくタイプではない、もっと違った何かがあって、それを全面的に発展させるためには自分の人一倍の努力がいる。より大きい美のためには。私たちはそういうたちですね。ああ、こういう話をしはじめると限りがなくなってこまる。保田与重郎は『コギト』を出し(雑誌)日本ロマン派の理論家であるが、この頃は王朝時代の精神、万葉の精神ということを今日の文学に日本的なものとして提唱し、そのことでは林、小林、河上、佐藤春夫、室生犀星等同じです。現代には抽象的な情熱が入用なのだそうです。三木さんは青年の本質は抽象的な情熱をもちうるところにある云々と。そのような哀れな空虚な青年時代しかこれらの人々は持たなかったのでしょうか。二十五日に文芸春秋社の十五年記念の祭があり、稲ちゃん、俊子さん等と行きましたら、小林秀雄というひとがお婆さんのような顔つきで、私に妙なお土砂をかけました。フウー。では又。これから仕事をします。どうかよくおやすみになるように。

 三月一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(五色温泉の山の写真の絵はがき)〕

 三月一日、小雨。白揚社へ最後の原稿をもって行って、神田で寿江子と支那飯をたべるために歩いていてこれを見つけました。これは奥羽の五色温泉の山の上の高原の雪景です。私は九つ位のとき父と祖母と一緒に五色に一夏くらしました。温泉宿は一軒で、そこの窓からは山の中腹で草を食べている牛も見え、この原はサイ河原と云ったと思います。
 夏も大変うつくしい景色です。夜はこれも寿江子と帝劇で二都物語を観ました。当時のフランスの人民がよく描かれていませんね。

 三月四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月四日 快晴、些か風。第八信
 きょうは水曜日です。私はいつも水曜日木曜日などという日は特別な感情で朝テーブルの上を見る。けさ、眼鏡をまだかけないで下へ降りてテーブルを一寸見たら、心待ちにしている例の封緘がなくてハトロン封筒が一枚あり。何だろうと思って手にとって見て、ハア、とうれしく、それでも実に実に珍しくて丁寧に鋏で封を切ってそのまま一通りよんで、又よんで、食事の間じゅうくりかえして出したりしまったりしました。可笑しいのね、何と可笑しいのだろう、一通の手紙でも見る毎に何かいいものが出て来そうな、何かよみ落しているような、もっと何かあるような気がして、まるで宝の魔法箱でも眺めるように飽きないのだから。この分量だけ手紙を下さるのにあなたがとって下すったいろいろの手数はよく分るので一層うれしゅうございます。
 二月十七日に六信をかき、二十日すぎに七信をかきました。もうそろそろ二つとも届く頃でしょう。
 このお手紙に書かれているすべてのことは皆よくわかりました。或はもう分っていたこと(お目にかかって)もあり。(差入島田の要点等)
 いまうちには信州の方の知人へ稲ちゃんが世話をたのんで呉れ、よい人が見つかりそうですから御安心下さい。ヤスのような人物だったらどんなにいいでしょう、あの半分位でも。
 いずれにせよ、私は私たちの生活全面を非常に愛しているのです。そして辛いなどと、きりはなして考え、又感じたことは殆ど一度もない、これこそ、私は私たちの無上の幸福だと思って居ります。私が身に引き添えて思うことは、私たちの文学の上にでも、しなければならないことに比べて、生活術が未熟だったり、人間としての鍛練が足りなかったりすることを自覚したとき、ああもっともっと豊富になりたい、とそれさえも私の場合では希望の光の裡で欲求されるのです。私は御承知の通り滅入らないたちの女です。私の方にあらわれる生活上のいろいろのこと=次善的な方法で家をもたなければならぬこと=それさえ私は私たちの生活として決して半端とかあり得べからざるとかいう俗的規準で感じていず、全的なもの、全く充実したもの、私たちの現実の中でもち得る唯一のものとして生きているのです。どうぞ御安心下さい。私にもし例外的に己惚れが許されるとしたら、この点だけです。貴方という存在は、朝夕まわりに姿を立ち動かしていないでも十分私をたっぷりと場所に坐らせ、豊かにさせていらっしゃるのだから。私たちはその点では本当の自信に満ちています。ただ、私はね、些かアンポンであるし、その自信を現実の歴史的な価値に具体化してゆくために、えっさえっさであるというわけです。それもなかなかよろしいのですよ。疲れすぎない程度に腰を据えて仕事を押してゆく心持は。
『文学評論』が(六芸社の方)いろんな本屋の店頭に積まれている。となりの方に小説集も落付いた藤色の表紙で並んでいる。何というよい眺めでしょう。評論感想集の方の名は「昼夜随筆」というのにしました。わるくはないでしょう。「わが視野」というのはよい題です。この次のにつけます。
 私の感想評論はこの頃少し内容がましになって、この次の分には「わが視野」とつけてもよいらしい。この頃のは評論に力点があるの。
 私の誕生日は謄本には二月十一日でしょう? 十三日なのです。何を間違えたのか。ずっと間違いっぱなしです。私はこの頃益※(二の字点、1-2-22)夜仕事をするのがいやなので、なるたけ午後一日じゅうの仕事をするようにします。夜ちゃんと寝て、朝起きる、そういうのでないと私にはつづかないから。
 中野さんが三四日前、銭湯の洗場で滑って左腕の肱の内側をガラス戸へ突込んで深く切り、小さい動脈を切ってしまって、手術をうけ目下臥床中です。あのひとは今年の正月はスキーに行って右肩を雪につき込んでくじいてしまったし、怪我がつづきます、もう然し心配はいらないのです。
 島田の方ではお父様ずっと平調でいらっしゃるらしく何よりです。前の手紙でお話ししたように私はもしかくり合わせたら三月二十日頃から出かけます。四月十日頃までの仕事沢山ありそれを全然しないことは出来ず、その点をも考えて。おくりものは、やはり万年筆にします。ペン軸でもし非常に恒久的なのがあればよいが。今つかっているのはもう十四五年になるが、それでこわれたりしてはいやだから。私はこわれないの、折れないのが欲しいから。古典も、大抵揃って居りますが、書簡の部分を、うごかして、それきりどうかなってしまっているから補充しましょう。
『学鐙』、『アナウンスメント』等現在のはお送りしあとは丸善に注文しました。貴方の方から御注文であった本の目録は別封でお送りいたしましょう。これはこれとして。今年の春は、本が三冊も出て、傍らものも沢山かき、賑やかな時です。しかし、執筆のレベルは一つよりは一つへと高まらなければ意味ない。昔よりずっとずっと勉強です。又自らちがった形で。
 私は今年の記念にそしてあなたが三十歳におなりになったお祝いに、私たちの蔵書印をつくるつもりです。もう自分から本を売るようなことはしないから。お体をお大切に。皮膚がゆるんでカゼを引き易いからお大事に。

 三月五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(梅の花の写真の絵はがき)〕

 三月五日 金、春の北風。
 きのうは半紙のお手紙をいただきうれしく早速返事をさしあげました。昨夜は国際ペンクラブの大会でアルゼンチンへ行った藤村の歓迎会へよばれ、芝公園の三縁亭という珍しいところへゆきました。
 上野の精養軒のようなガラリとした、もっとオフィシャルな感じの店で、会にも文芸コンワ会の代表、国際文化振興会の代表等出席。藤村の挨拶は世界の大きい波に一寸でもふれて来ただけ、作家らしいものをよい意味でもっていました。きょうは下の四畳半へ勉強部屋をうつし、夕方太郎が汽車ポッポ見物に来。

 三月七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

   注文書のリスト[#「注文書のリスト」は罫囲み]上に*をつけたのはもう送った分です。
(一)[#「(一)」は縦中横] 一九三五・六・一  咲枝宛
 改造日本文学全集中「独歩」「漱石」「藤村」
 春陽堂明治大正文学全集『長塚節集』
 アンドレ・ジイド*『一粒の麦もし死なずば』
          『ドストエフスキー論』
 『日本経済統計図表』
 『近世日本農村経済史論』
*『憲政篇』*『正史篇』『軍事篇』
 章萃社『日本社会経済史』
   *『日本経済年報』第二十輯
    『日本歴史地図』
(二)[#「(二)」は縦中横] 一九三五・七・二七  咲枝宛
 改造社文学全集中*「漱石」「独歩」「藤村」「長塚節」
 改造名作選集中「藤村」「漱石」
 『開化期文学集』*『戦争文学集』
 新潮社全集「ディケンズ」「スタンダール」「ドライザア」*「トーマス・マン」
 英書 The Works of W. Shakespeare, gatherd into one Volume
 中央公論『シェークスピア研究』の栞
(三)[#「(三)」は縦中横] 一九三五・一〇・二六  咲枝宛
 図書月報・全集内容見本、普通目録 丸善の洋書目録中政治経済芸術哲学ノ分類目録
*?[#「*?」は縦中横]『日本歴史地図』『東洋歴史地図』『兵法全集』
(四)[#「(四)」は縦中横] 一九三五・十一・二  咲枝宛
 佐々木惣一『憲法』*上杉『憲法読本』 アモン『正統派経済学』 小泉信三*『アダム・スミス、マルサス、リカアドオ』 クーノー『ヘーゲル伝』 安倍『近世哲学史』
(五)[#「(五)」は縦中横] 一九三六・三・一四  寿江宛
*『日本経済年報』第二十一、二十三輯
(六)[#「(六)」は縦中横] 一九三六・五・二六
*ブランデス『ゲーテ』
(七)[#「(七)」は縦中横] 一九三六・一〇・三日  上林の百合子へ
 『リカアドウ』 林権助『わが七十年を語る』*『猟人日記』*小宮『漱石襍記』 木村『旅順攻囲軍』 ツルゲエネフの*『散文詩』
(八)[#「(八)」は縦中横] 一九三六・一〇・二一  百合子へ
*『療養新道』*『栄養食と治病食』*『内科読本』*『国民保健読本』
(九)[#「(九)」は縦中横] 一九三六・十一・二  百合子へ
 プーシュキン*ツルゲーネフ*フローベル*ゲエテ全集目録
(十)[#「(十)」は縦中横] 一九三六・十二・二六  百合子へ
 プーシュキン全集目録
    ――○――
 以上の中、林の『わが七十年を語る』『リカアドウ』は目下本屋にたのんであります。『ヘーゲル伝』は近日お送りいたします。ブランデスの『ゲーテ』はよんでおかえしになったのではなく、数が多すぎたので一旦送りかえした本の中に入って来たのではなかったでしょうか。もしおよみになるのだったら又入れましょう。
    ――○――
 三月二日づけのお手紙をありがとう。一通りよんだときいろいろの感情を経験し、それからずっとその感情を感じつめて、結局私が貴方に向っていうことは心からのありがとうであるとはっきりしました。ありがとう。
 あなたが私の生活について考えて下さるだけ考えてくれている人はない、本質的に。ディテールについては又別にかきましょう、特に父について。それはそれとして、又おのずからお話しもあり。それから私は随筆的存在ではないし、本もそうではないし、そういう生きかたをし得るものでもないでしょう? 元来。一人の女としての愛情から云ってさえも――
 今『都』へ「文学における復古的提唱に対して」書いています、四回。
   附録 一枚
「わが視野」の内容の概略を一筆。
 社会時評、文芸時評、作家研究、随筆で、社会時評はいろいろ。文芸時評は「迷いの末は」25[#「25」は縦中横]枚、横光厨房日記の批評、「ジイドとそのソヴェト旅行記」「文学における今日の日本的なるもの」24[#「24」は縦中横]枚、「パアル・バックの作風その他」10[#「10」は縦中横]枚、「子供のために書く母たち」15[#「15」は縦中横]枚、「『大人の文学』論について」(林房雄、小林秀雄らの提唱に関して)10[#「10」は縦中横]枚、「十月の作品評」12[#「12」は縦中横]枚、「自然描写における社会性について」15[#「15」は縦中横]枚、「『或女』についてのノート」15[#「15」は縦中横]枚、「今日の文化における諸問題」23[#「23」は縦中横]枚、「一九三四年度における文学の動向」30[#「30」は縦中横]枚、
   作家研究
(一)[#「(一)」は縦中横]マクシム・ゴーリキイの人及び芸術(四十枚)
(二)[#「(二)」は縦中横]同 その発展の特殊性にふれて(四十枚)
(三)[#「(三)」は縦中横]同 によって描かれた婦人(二十三枚)
(四)[#「(四)」は縦中横]ツルゲーネフの生きかた(四十枚)
(五)[#「(五)」は縦中横]バルザックから何を学ぶか(七十枚)
(六)[#「(六)」は縦中横]藤村、鴎外、漱石(九枚)
   随筆
最も長いので二十枚位(わが父)を入れて五六篇ぐらい。 (終)

 三月十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 三、十七日。十五日にはいろいろ御相談が出来て私は大変うれしく、いい心持になりました。貴方から私は多くのことについて教わるけれども、しかられる自分というものは考えて居りませんから、そういうものとして互を見てはいないから。とにかく本当にゆったりした心持になれました。きょうは「今日の文学の鳥瞰図」を唯研に送り、栄さんと風の吹く街へ出て、島田へのおみやげを買いました。父様へは夜具。母様、野原の小母さん、向いの家の人には裾よけ。達ちゃん隆ちゃん富ちゃんにはバンド。克子さんにはきれいな腰紐とカッポー着。あとは子供らのための小さいお菓子入りのいろんな袋。今夜はそちらもお寒いでしょう。きょうお母さんからお手紙で、待って下すって居ます。『リカアドウ』を入れました。『日本経済年報』も。

 三月十九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(佐伯祐三遺作「レ・ジュ・ド・ノエル」の絵はがき)〕

 三月十九日  明日立つ予定のところ、仕事、旅費、そのほかの都合で、二十三日頃になります。これを出してもきっとあっちから出す電報と、おつかつに御覧になるのでしょうね。さむいことさむいこと、父上のお布団はいいのを西川で買いました。稲ちゃんと。

 三月二十三日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 三月二十三日。今夜立つところ汽車に寝台がなくて、くたびれているので明日の午後三時に立ちます。いよいよお立ちです。窪川さん夫妻はうずらの玉子を、壺井さんたちは体によいというお茶を、M子はのりのつくだにとおたふく豆を。それぞれお見舞にくださいました。お父さんはこういうお見舞を考えていらっしゃらないでしょうから、さぞおよろこびであろうとうれしゅうございます。私は今二十枚ばかりの評論を終り、もう一つ夜終ります。

 三月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(厳島紅葉公園と広島駅の絵はがき二枚)〕

 二十四日の午後三時のふじで東京をたち、ひろしま午前五時四十分、島田九時前でした。ひろしまから柳井線に入ったら、海と対岸の景色が珍しくて、目が大きくなったようでした。お家へ入って行ったら、中の間にお父さんが起きかえっていらっしゃるので、びっくりしたり、大安心したりでした。思ったよりずっとよくなっていらっしゃいます。ひる間、どっちかというとよくお眠りになるので、夜は御退屈のようです。気分も平静でいらっしゃるし、食事もあがれます。お母さんは相変らず御活動です。井戸がすっかりポンプになり、お店もさっぱりきれいです。

 晴、島田の茶の間。
 きょうは晴天、おだやかな日です。お父様は障子のそばへ床をうつし、今は座椅子によって上半身起き上っていらっしゃいます。上御機嫌。お母さんは、稲ちゃんがくれたウズラの玉子をわっていらっしゃる。隆ちゃんは丁度仕事からかえったところ。前の麦畑の麦は一尺ばかりのびて居ます。
 家じゅうがいろいろと手入れをされていて、大変明るい感じです。うれしいと思う。達ちゃんはまだかえらず。野原から多賀子さん[自注9]が手つだいに来て居ります。

[自注9]多賀子さん――顕治の従妹。

 三月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(浅野泉邸の絵はがき)〕

 三月二十六日  今丁度正午の時報。ラジオは株式をやっています。
 きのうは野原の御父上も見え、お向いの御夫婦も見え、兼重さん(山田の)も見え、なかなか賑やかでした。今は野口さんのお父さんが見えています。私のために大変キレイな座布団をこしらえて下すってあり、テーブルも出来ている、何でもあなたが野原でつかっていらっしゃったのというの。そのザブトンは大きいのに達ちゃんか誰かもっと大きいのがよかろうと云ったと大笑いです。毛布も布団もお気に入り、かけていらっしゃいます。いずれゆっくり手紙をさしあげます。

 三月二十七日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 三月二十七日 晴天の午後三時前。
 二階の部屋。父上は今おやすみ中。さっき隆治さんが一寸かえって来て御昼を土間で食べて、又仕事に出て行ったところ。すこし風はあるがいい天気の日です。裏に面した窓をあけ放して、山や農家の様子を眺めながら、私はさっきからあなたのこちらにおよこしになってある手紙を整理して、さて、いろいろとうちのことを申しあげようと思って。――
 お父さんの御容態は電報やハガキで一寸申上げたように大変平静です。食慾もおありになり、朝二膳ひる三膳夕三膳ぐらい、おかゆと御飯とをあがります。おさしみや野菜をあがる。カステラ、ういろう等もあがります。いい舌をしていらっしゃり、通じも一日置き自然についていて、この四五日は用便も御自分でおわかりになるようになり、皆々大よろこびです。皆夜中の間のコタツのまわりに集り、お父さんのまわりを囲むと、いかにもうれしそうな御機嫌で、ニコニコなりづめです。御飯を私がサジでたべさせてあげ、臥たり起きたりのお手伝いもしてあげますが、お母さんのお上手なのにはかなわない。何かやっていらっしゃるのを此方でよくよく観ていると、やはり急所があるのです。そこをエイヤッと私も真似をするの。「おゴー[自注10]や、一寸来て」お父さんはおゴー様なしでは立ちゆかぬ有様で、又お母さんが、明るく、てきぱきと、優しくしてあげていらっしゃる様子というものは実に見ものです。美しいというべき眺めです。達ちゃんにしろ隆ちゃんにしろ、病人として片づけず、生活の中心において実によくやっている。何とも云えない親しさ、むつましさ。私は、林町のうちの睦しかった、その性質とここの人たちの睦しさの性質とを考え比べて見て、斯ういう一家の仲間に加われる自分を仕合わせな者だと深く感じます。そのことは、深く、深く感じます。あなたは、本当に立派な御両親や弟たちをもっていらっしゃる。心からおよろこびを申します。こういう心持の暮しというものは、人工的にこしらえようと云ったって出来ぬことです。全体の気分がね。私は、お父さんの扱われていらっしゃる様子を見て、親切とはかくの如きものと感服している次第です。単なる丁寧ではありません。いろいろ私は感動いたします。
 家の財政のことは、お母さんから詳しく伺いました。丁度二月の七日に講の整理がついて、お祝をなすった由。十日ばかり経ってお父上がおたおれになったのですが、やはりよっぽどの御安心でしたのです。こちらの家は、今はすっかりこちらの所有になったわけで、二階などすっかり畳がえが出来、雨樋も壁もさっぱり白く手入れされ、家の中は、一つの清潔で静かな活気に充ちています。お店の方も、明るくなって居る。野原の方はこちらのように手堅く行かず、あすこは全部売却して、Tさんのいる、広島の方へ行こうと云っていられる由です。二千百円ぐらいの整理をし、あと千四五百をあまして、出かけようとして居られる由ですが、その価では買手が見つからぬ由です。きのうもゆっくりお母さんとお話し、野原は、あなたも思い出をもって愛していらっしゃるが、将来、若い二人が仕事をしてゆくには、どうしても、今の場所の方がよいから、ここは年の地代 \60 でやはり持っていて、向い側に九十坪ほどの横長い地面が \1200 ほどで手に入るから、達ちゃんの結婚のための必要もあり、出来るだけ早くそこを手に入れておいて、貸家にしてもよいということに大体御相談がまとまりました。この家を達ちゃんのものにしても土地がないので、この辺では結婚の話にもなり難い、まア土地も一寸あるというところで嫁に来させても、となる由。それで私は、私たちで、その半分でも出来るだけ早く都合して、そっちを解決して、出来ることならお父さんに達ちゃんのお目出度めでたを見せてあげたいと思います。私たちのお目出度はあんまり本質的すぎて、世間のお祝儀は高とびした形だったから。ああやって、お父さんがニコニコ楽しそうにしていらっしゃるとほんとうに、そういうよろこびもさせてあげたいと思うし、お母さんのそばにいる、若い女のひとの手も実に入用なのがわかります。これはいい案でしょう? あなたもきっと賛成でいらっしゃるでしょう。講の方が片づいている以上、それがよいと思います。
 隆ちゃんは、目下の考えでは運転の方でやってゆきたい由で、兵隊まで(一年予)うちを手つだい、あとはよそにつとめて、という気らしいが、お母さんは、達ちゃん一人では無理だから、月給制にしてずっと協力してやらせたいという御意見です。そして、ここのお店も会社組織を改めて、達ちゃんの名儀になさる由。お母さんは今まで女の社長でいらしったのよ、御存知? うちには、なかなかアマゾンが出ますね。きのう、お母さんと二人で大笑いしてしまった。だって女の社長なら、婦人雑誌に出さなけりゃならないでしょう? これは冗談だが。――野原の方の土地家屋は講をつくるときに、信吉さんが父上の御承知ない間に、自分の名儀にしてしまっていらっしゃる由です。その他お二人としてはいろいろのことで、この際、あちらはあちらとして生活の責任をもってゆくようになることを御希望です。あなたは御存知ないかもしれなかったが。――お父さんの昔仲間の野田さんはこの頃の激しい時期に株にひっかかって、皆々心配して居ります。
 お母さんは、近いうちに、私を宮島見物につれて行って下さるそうです。こちらへ来る迄、私は父上のことも心配だったし忙しくて忙しくてひどかったし、着いて、お父さんのお笑いなさる顔を見て安心したら、何だかポーとなって、久しぶりで、まるでのんきな休まる気分です。お母さんの娘になって、少し遠慮しながら甘ったれて、冗談を云って笑って、真面目な相談もして、そして夜は十時すぎにもう寝て、それでも朝九時頃まで眠ります。どうも、眠くて眠くて。それは眠いの。あなたに、これだけ書いて、家の中の空気おわかりになるでしょう? 林町がああ腰をぬいて暮して居るし、私はキリキリまいをしているし、ここでは、お母さんを中心に活々いきいきと軸がまわっていて、又別な楽しさ、安らかさです。
 今度来て本当によかった。
 お医者も特別に誰というお好みはありません。しかし、お父さんは昼間お眠りになりすぎます。これは、やはり全体の御衰弱ですから、余り油断はならないと思います。あなたの方はずっとおよろしい方ですか? 食慾も出て居りますか。どうか、どうか、お大切に。ここにいると何だか遠いようです。私はこちらですっかり疲れをなおします。では又

[自注10]おゴー――顕治の故郷の地方では、おくさん、おかみさんをおごうはんとよぶ。

 三月二十九日(消印) 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 厳島より(安芸の宮島廻廊より千畳閣を望む絵はがき)〕

 ここは大変に明るい美しいところでびっくりしました。清盛という人物が只ものでなかったのがよくわかります。よい天気。お母さんと、砂と松の間をふらりふらりと歩いて、よい散歩です。あなたもここは御存じでしょう?

 三月三十一日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 三月三十一日  ひる少し前 曇天。
 下でお父さんが「おゴー、おゴー」と呼んでいらっしゃる。私は「ハイ、ハイ」と降りかけ「おゴーさまは今御用ですよ」御小水? 合点をなさる。用意してあげると「手をかせ」、私の手につかまって体を横になさるが、今度は勘ちがえ。それから起き上らせてあげて、背中のうしろにつめをかって、ラジオをかけてあげる。今甲子園のゲームです。あたりが静かなので「投げました投げました!」いう声が、窓の軒の下からきこえて来る。蛙が円い声で鳴いている。今日は勘定日でお母様はきのうからその準備で御多用。達、隆二人は、虹ヶ浜とかへお嫁の荷をつんで出かけました。きょうはそっちもいそがしい由。
 一昨日は今度病気をなすってからはじめて腰湯をつかわせ申しました。丁度二人が午後あいたので、家じゅう総がかりですっかり洗ってあげ、さぞさっぱりなさいましたでしょう。言葉が自分ではよくおっしゃれないが、話はよくおわかりです。この間お母さんと宮島へ行った留守など、店の番をするからそこの襖をあけておけと、来る人にちょいちょい応待なすった由。段々元に近く快復なさる。夜、御飯がすむと、こたつのまわりに皆あつまって賑やかです。外へ出て見て、外が暗くてしんとしているのにびっくりする位家の中は生々としています。お母さんを見て、家の中心になる女のひとの気質というものがどんなに大切かということを感歎します。お母さんは家宝ですね。私は女の先輩として、なかなか敬服措くあたわざるところがある。理解力にしろ、生活の地力であすこ迄高めていらっしゃるのですから、実にフレキシブルです。そして労苦の中からよろこぶことを学び、その感情をなみなみと持っていらっしゃる。本当に傑作です。お父さんは、今、わきから見ていると、もう全くおゴウさまに依っていらっしゃる。一種の美しさがある。勿論今でも時々かんしゃくは起しなさるらしいが。ずっと床についていらしても大きい骨格で、広い厚い肩で、その肩を私が自分の胸いっぱいに受けて抱えてあげたりしていると、何だか錯雑した二重うつしのような優しい感動を覚えます。骨格は、あなたはお父さん似でいらっしゃるのね。
 明日あたり、多賀子さんと野原へゆきます。この次来るときにはどうなっているか分らないから。海岸へも行って見ましょう。
 海岸といえば、ゆうべ虹ヶ浜の話が出て、何とか家のくり合わせがつき、お父さんの御様子が順調だったら、夏は虹ヶ浜のあなたのいらした家でもかりておつれしたら等話しました。これはまだ全く未定です。お父さんはおゴーさまなしでは日が越せないし、お后さまは家がなかなか手ばなせないし。
 隆ちゃんに私たちとして『早稲田商業講義録』を一年分申しこんであげました \15、広島の簿記学校へという話も出たが、そこはボキ専門で、それほどのかたよった勉強は必要ないので、マアボツボツやって行ったらいいでしょう。隆ちゃんもこの頃は段々遠慮が減って、すこしは喋るようになりました。なかなかいい子です。達ちゃんは、かえって来た当座は、自分が二年兵で初年兵を命令にしたがえていたその癖で弟と一緒が却ってうるさいようだったのだそうです。それでも、お母さんの舵とりよろしく、今日では互に扶けあうが、やはり兄弟は面白いものね。兄さんの方が全責任を負う(雇人対手のように)気にならず、隆がこう云ったからなど云い、ごたつくこともある由。でもいいのですよ、結局は。
 あなたは何日頃こっち宛の手紙を下すったかしら。お目にかかったのは三月の十五日でしたが。――
 私は二階の、裏山の見える方の窓の下に机をおき、本をよんだりこうして手紙をかいたり。きのうあたりから一日に三四時間ここで暮します。私は四日にお父さんのために臥ていて外が見えるように、茶の間の障子を作りなおしたのが出来て来るから、それを見たら五日頃かえることになりましょう。私は令名サクサクな東京の奥さんなのですが、仕事をエイヤッとするにはやはり東京がよろしい。そして、もしお父さんの工合がよかったら夏、虹ヶ浜でお暮しになるようにしてもよいと考えて居ります。御機嫌はいいことと思って別に伺いませんでした。きのうあたりから又寒い。猫の仔が五匹います。では又

 四月二日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月二日。晴 島田からの第三信
 待ちかねるようであったお手紙がやっと来ました。あなたは三月十八日に書いていて下すったのね。それが着いたのは今朝です。
 このお手紙に一つ一つ答えて参りましょう。お父さんの御容態についてはこれまでの手紙で書いた通りです。今後の御発病の原因は、危険なことであったが、岩本氏(東京の)が結婚してはじめて見え、お酒が出て、お父さん、こっそりそれをおやりになったのですって。夕方、若い連中がかえって来て、それとは知らずお風呂へ入れ申したから、ショックの起るすべての条件は完備してしまったわけでした。この位でお止りになったのはふしぎな位。
 御様子は段々私が来てから一週間であるが、その間にも気付かぬ位ずつ語彙ごいも殖えて来られ、長い文句を仰云るようになりました。しかし、うとうとしていらっしゃるときのイビキは病的ですから決して安心ではない。実に平安に、ソッとして保たなければならないでしょう。私が来たことは大変大変御満足で、お母さんが「もう思いのこすことはありますまい、顕治に会うたも一つことじゃから、のうお父さん」と仰云ると、首をうなずけて、「ない」と仰云る。そんな状態。お言葉は子供の片言です。障子を直したことはこの前の手紙で書きました。この位いるとほんとに家のものになれて私もうれしい。
 今も、あなたの手紙をふところに入れて、お母さんと背戸の鶏小屋のところ(十羽いる。七つ八つ九つと卵を生みます)に日向ぼっこしていろいろ台所を直すことや、とりこわした物置を又建てることやあれやこれやを話しました。あなたは蔵つづきの物置を御存じでしょう? あれをこの間とりこわした由。古くなってこけかかったから。今度はその古材木で九尺に三間ほどのものを建てようというのです。
 負債のことは、講の片がついて、只今はもう何もタンポに入っているものなし。この決算のことについては三年かかっているそうです。飛田の山崎氏が保証人であったのが、山崎氏もああいう事情で東京へ出てしまわれたので、却って簡単に運ぶようになり、お父さんの旧友で、兼重という七十余の老人が親方の肩入れで、二月七日に万事落着し、五十円ほどのお祝いの宴まですんだのだそうです。お父さんの年金もこちらに戻っています。他にこまかいものが少々あるがそれは五百円ばかりで片がつき、十分ポチポチやってゆく自信がおありの由です。だから、第一の手紙に申しあげたように、私達は達ちゃんの嫁とり条件を少しましにする方向へお手伝いしようとお母さんにお約束したわけでした。
 三年前島田へ来たときは、ほんの五六日でした。お母さんをつれてあなたに会わせ申すのが眼目でしたから。その時野原へは夜一寸おじぎに行ったきり。だからきのうは昼からすっかり屋敷の中を見せていただき、私ははじめて真に荒廃したという家の有様に接し、いろいろ深く感じました。あなたは今の野原の家の建ったのを御存じないのですって? 離れのあったところに便所が出来、そこからつづいて八畳六畳の両椽の座敷があり、鶏舎との間に昔からのザクロや大名竹を植えた小庭があり、元の表の間との間の中庭には岩を入れ、池をつくり、そこに金魚がおよぎ、桜が小さい実をつけている。あなたが勉強なすったという二階(台所の先の方から上る)は人が住まぬままになって居り、となりの室のハタ台や糸をかけたままのワクに積年の塵があった。それから鍵の手につづいている風呂の方、又昔油をしぼった小舎の辺、更に奥へ二棟立ち並んでいる大鶏舎。いずれも、春の明るい陽をうけつつ雑草の間に建っている。今あの家には叔父上夫妻、冨美子(十二)で、私はこの小柄な美しくて堅い小娘とあっちこっち廻って歩きながら一種の桜の園を感じました。あなたが、お母さんへのお手紙で、うちのことを知らすのはユリのためになることでもあるし云々と云っていらっしゃる、そのことを思い出しつつあなたの少年時代をも深くその感情に入って感じつつ歩きました。あなたは林町の生活を御存じないから割によいことを多くお考えだけれど、それにしても、こういう時代の推移の姿を見ることは又私には刻みつけられるものがありました。そういう荒廃の中で、中庭の苔は美しく日光をすかして見える。そこに坐って叔父さんは「駅」の父さんが楽しむということを知らないなど仰云っている。母さんがこの頃は金の話ほかせんようになったなど。私は「そうではありませんよ。お母さんは生活の事情によって、ゆとりが出来ればなかなか趣のわかる方ですよ」など喋る。あなたのことも。写真を見たりして。然し、野原は断然整理しなければ駄目です。こちらは島田のように単純にゆかず、(負債について島田の母上も御存じなし、私も何だか伺えない)マアボチボチ片づけていらっしゃるほかないでしょう。Tさんはあなたの御心付をありがとうということです。そして自分でもこの頃は段々考えて着実にやる方針らしい。やはり子供の時からの環境で、体を労して稼ぐことは思い得ないのですね。何か「まとまった金」ということが念頭についてしまっている。けれども、これとても、もうこの道でゆくしかないでしょう。
 ジイドは、あなたの御覧のように私も見て居ます。この二月の評論では、ジイドが自分の抽象的な誠実性の故に誤られて現実を見る力を失っている。そういう作家の矛盾の点をとりあげていたのです。作家が、自分の存在の客観的な意義を理解しない、理解する力をもたぬことは実に恐しい誤りを引起すものです。ジイドにしろ。だから、あなたが私の客観的理解力、進退等についていろいろ注意して下さることの価値は十分わかるつもりです。断乎とした忠言者のないこと。そしてその忠言には常に正当な私の仕事に対する努力の評価がふくまれ、更によりよいものを求めてなされるものである、そういうものが乏しいことは、たしかに私の可哀想と云えば云えることです。谷川などはまだまだいい方よ。私たちの作家としての存在そのものが、現在にあっては抗議的存在です。作家として粘ること自体がいかがわしい文学の潮流に対してのプロテストであり、今日もし私たちが阿諛あゆ的な賞讃など得られるとしたら、それこそ! それこそ! 謂わば、もしめられたら、それこそ目玉をくりむいて、賞めた人と賞められた点とを見きわめなければならない。そういう状態です。今日賞讃の性質は、従前のいつの時期より恐ろしい毒素をふくんで居るのです。私は賞められないことには、既に馴れています。賞められたくなんかないが、私たちが褒められないことの意義と、その健全性を、ヨシヨシと云って欲しい。実に、実に。抽象的に云ってはおわかりにならないかもしれないが。でもわかるでしょう?
 今日作家としてまともであるには、単なる自分の才能の自負とか閲歴とか、何の足しにもならず。却って才能云々はその人の道をいつしかあらぬ方へ導く百パーセントの危険をもっている。私の人生派的傾向が、思わぬ力で今日の波瀾の間に私を落付かせているのです。この頃の室生、小林、林、河上、佐藤春夫、その他を作家というのであれば、私や稲公は作家の埒からつとにはずれているようなものです。或意味で、今日は文壇が自ママしつつあるばかりでなく従来の概念での文学が揺れている。逆な力で優位性の問題が出ていますからね。
 私はここで活々として暮して、台所を手つだったり、風呂燃きしたり、全くわが家と暮しています。私はこっちへ来て、非常にこれまでの話と種類の違った稼ぎのいろいろの話をきいて、どうも思わぬ収穫を得つつあるらしい。この次の分はこちらで拝見出来るかしら。お大切に。花を入れました。

 四月五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(徳山・幸町通りの写真の絵はがき)〕

 四月五日。ひどい風ですが、野原の叔母さん、冨美ちゃん、多賀子、こちらはお母さんと私という同勢で徳山公園のお花見にゆき、かたがた二番町の岩本さんと井村さんのお宅により、私はお母さんの後からよろしくと申して来ました。徳山中学校の屋根が見えました。徳山銀座で私がころびました。徳山駅は目下改造中で大ゴタゴタです。きょうは日がいいと見えてお嫁さん二組に会いました。

 四月五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月五日曇天、島田からの第四信。
 こちらへ来てから十日経ち、家にもおちつき、いろいろこれまでの手紙で書いてあげ落したことを思い浮べます。今父上は眠っていらっしゃる。この頃はお母さん午後ほんの一寸体を横になさいます。夜、ゆうべ三度もお起きになりました。夜の世話が母さんには一番健康的にもこたえるのですが、どうもおゴーさんでなくてはお父さんのお気がすまない。あなたはきっと、こんなに気の折れて「おゴーここへ」と炬燵こたつに自分のそばにおきたがっていらっしゃるお父さんを想像お出来にならないかもしれませんね。おや、下でガタガタいっている。きっとお父さんの御用便ですよ。(中止)何て重いお父さん! しんが非常に御丈夫なのね。一日おき二日おきに自然便がおありになります。木の腰かけ便器ができていて、そこへ、かけ声をかけて動かし申すのですが、女三人ではほんとにやっと、やっと。
 この間、宮島へ行ったとき夕方からあすこの岩惣いわそうという家の、川の中にある離れに休んでお母さんといろいろ話しました。そして、達ちゃんの結婚式のとき、ハイこれは顕治の嫁でございますというのもおかしいから、こんどかえり間際にでも、一寸ものを持って組合[自注11]と近所にお母さんがつれて挨拶をして下さることになりました。三十一日に急にタオルを三本一箱づめにしたものを東京へ注文したところ(十七軒分)。私は「ここのもの」になりました。これはいろいろ面白いの。きのう徳山にいられる甥(銀行員)が娘さんのお嫁のことで見え、私が初めて紹介された。前かけをかけていたら、お母さんそれをおとらせになって、髪をかきつけてきた私を一寸しらべるようにみて、そしてお引合せになるの。私がお母さんのわきでお茶をいれたり何かする。それを、お父さんまで至極満足そうにして眺めていらっしゃる。こういうときの私の心持、おわかりになるでしょう? もし貴方がわきにいらしたらどんな顔をなさるだろうと、あなたの独特な一種の表情を思い浮べ、微笑も禁じ得ず。但しこれはひとりになってのとき。
 私はこっちの地方と東北の田舎とを比べ、事毎におどろきます経済的な点で。みんな女のひとなど都会風のなり。一寸出かけるにもよいなりをして、私なんか質素です。そういうこともおどろきます。中学生は在郷軍人の服と同じ色の服、キショウだけちがう。女学生は大抵東京と同じセイラアです。野原にゆくとき虹ヶ浜にまわりました。春陽駘蕩しゅんようたいとうたりという景色で、あの家[自注12]には人が住んでいました。下松くだまつには日本石油、その他工場が近頃の景気で活動して居り、江の浦のドックにはウラジオからも船が入ります。そこの職工さんたちの住居払底で、虹ヶ浜の小さい家はこの頃よくふさがっているのだそうです。島田の高山(呉服屋の隣り)は石油とギャソリン専売権をもって居り、うちは多くそこの仕事をする模様です。今度ガソリン一ガロンにつき五銭価上り、一カン二十五銭高。うちの車は一日に一カン位入用の由です。運賃を今のままでは引合わないという話がでています。うちの車庫は、店のとなりの方。もと製材のあったところを車庫にして、となりを木炭倉にしてある。きのうその辺をみていたら、店の前で近所の女の人たちがお母さんと私をつかまえ、かどぐち社交がはじまって、くすぐったかった。ここは全く小さい町気質ですね。言葉にしろ。河村さんの娘が高森の写真屋にかたづいたのでその写真やに六日に来て貰って、ここの一族、野原の皆が写真をとります。そしたらお目にかけましょうね。
 汽車の音は賑やかなものと思っていたら、この辺は小駅であるから一種寂しい心持を与える。汽笛が山々にこだまする。ギギー・ゴトン貨車の音など特に。少年のあなたはその響をどんな心持でおききになったろうと思います。きりなしだからこれでおやめ。
〔原稿用紙に書いてある手紙の欄外に〕
 ここに暮していると小説的な風に感情が押される。
 こっちの風景は明媚めいびであるけれども、景色そのものが自身で飽和している。そこから或るつまらなさ。北方の荒涼として情熱的なところがない。それでいてこの辺は乾いている。

[自注11]組合――隣組のような町内の組合。
[自注12]あの家――顕治が学生時代夏をすごした家。

 四月十日夕 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月十日 午後 暖い晴天。島田からの一番終りの手紙(第五)
 私は五日頃かえるように云っていたからもうこちらへは手紙を下さらないのかもしれない。店で、お母さんがあなたに上げるとおっしゃる肌襦袢を縫っていると、「ユービン」と云って河村さんへ自転車にのった若者が何か入れてゆくのが見えました。河村さんに郵便が来てこっちに来ないのは大変不思議に思えた。そして、又縫っていたら河村さんの細君がキビの餅をもって来てくれ、達・隆はそれを頬ばって仕事に出てゆきました。
 この河村さんの娘が結婚している写真屋さんに来て貰って、二三日後一家全員で写真をとり、大さわぎでした。あなたにお目にかけるために。七日に、背戸せどを見晴すガラス戸が出来上り、大満足です。二尺三寸の一枚ガラスをはめたから雨の日も外が床の中から見えます。きのうは、金物屋のおくさんが字を書いて呉れということでした。夜は、おかあさんが、私をつれ、三越から届けさせたタオル三枚入りの小箱をもって、近所にあいさつにまわりました。「よいお日和ひよりでございます。あの、これが顕治の嫁でござります、どうかよろしく。日頃御厄介になっちょりますから今度見舞いに参りましたについて、一寸お物申したいと云って居りますから」云々。そうすると、私が「どうぞよろしく」とおじぎするの、お母さん大安心の御様子でお店の敷居をまたぎつつ「サア、こうしておけばもうおおっぴらにお歩きさんし」
 おじぎをするとき私は大変お嫁のような気が致しました。
 きょうはよもぎつみに島田川のせまい川辺へ行きました。橋(フミ切りのところ)で達ちゃん達がそのときはトラックを洗っていました。その道で荒神さんの高いところにものぼりました。その石の段のところに野生のわすれな草が咲いて居た。勿忘草わすれなぐさなど通俗めいているけれどもああいうところであなたは子供の時お遊びになったのでしょう? 何だかそれこれ思ったら子供らしい愛らしさがあって、その花をつまみました。今押してあるから出来たら又お目にかけましょう。島田川の白菫しろすみれも。皆、実に自然主義文学以前の、日本的ロマンティシズムの素材で面白くて仕方がない。藤村の詩など考え合わせると、日本のその時代の文学の地方性=フランス・ロマンティシズムの都会性に対する=が感じられます。私は十二日の朝ここを立ちます。来るのはよいがかえすのはいやだとしきりにお母さんがおっしゃり私もその心持です。いろいろ、お味噌だの、かきもちだの草餅だの外郎ういろうだの小さいすりこぎだの頂いてかえるの。私を可愛がってくれた祖母が田舎から私にくれたものを思い出して、私は大層うれしがって居る次第です。
 お父さんは腎臓に障害が起って居ります。やはり順々にそういう新陳代謝には故障が起るのですね。この手紙がここでかく手紙のおしまい。私が、こんな島田川の手紙をかくなんて、なかなかいいわね。では又。お目にかかる方が早いのだから、そのとき他のことはいろいろと。
〔欄外に〕この桜は室積の桜。潮風に匂う桜は大変ここら辺のより豊かに美しいと思いました。

 四月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕

 四月十一日。昨夕七時頃野原から電話で、叔父上急に右が痺れて口が利けなくおなりになった由。達治さん多賀子私うちのトラックにのってゆきました。既に昏睡こんすいです。瞳孔反応なし。今朝十時富雄さん帰り。三時(午後)克子大阪より。私は明日の出発をのばして御様子を見、かつお世話をいたします。血圧二百二十。この前の発病は百八十であったとのことです。第一信

 四月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕

 野原伯父上今度の原因は、日頃やはりお酒を相当あがっていたところへ、昨日は好天気だったので、ひなたで植木いじりをしていらっしゃり、夕方大変いい心持で、風呂に入ろうなどいって居られたところでした由です。「おせん、右へ来たぞよ。おれは奥でよこになるから駅へ電話かけえ」とおっしゃったきりになった。あなたのお手紙のことを改めて申上げたら、もうこれから絶対やめるといっていらしたというのに。

 四月十三日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月十三日 島田。晴天、暖し。
 野原伯父上の御急逝には実におどろき入りました。さぞびっくりなさり御残念でしたろう。前後の御様子をかきます。
 この前の手紙で書いたように、私が着いた日、光井からお出かけになり、いろいろの話をし、愉快そうに夕刻までいておかえりになりました。それから三四日して、私が午後から伺い、おそいお昼をメバルで御馳走になり、お母さんのお云いつけで、お墓詣りをすると云ったら伯父さんも一緒に出られました。村会議員の選挙などの話があってひとが来たりし、夕方私がおいとまする迄、やはり面白そうにお話しでした。「自分はいろいろ悲観するようなときは百合子さんの笑い顔を思い出して元気を出す」そんなことを云っていらしった。家の整理についてのお話も出ました。土地六百坪一括しては買い手がつきにくいから区画して手ばなしたいとか、鶏舎はよそへほぐして売るとか。
 そのときも、私が着いた日も、伯父さんは私の前ではお酒召上らないが、やっぱり上っているらしい様子なので、よくよくそのことを申上げたら、タバコはやめにくいが酒はなくても平気と云っていらしった。あなたのお手紙にあったことを私は自分の出発の時刻をお知らせするハガキにわざわざ改めて書いて上げました。
 九日の夜、私は十二日ののぼりの寝台券を買った。十日の午後七時頃、夕飯をたべようとしていたら、野原から電話。伯父さん口が利けんようになったから、多賀子をかえしてくれ云々。氷と氷枕を買って戻れ。
 達治さんが丁度いて、私は心配だから一寸様子を見て来て注意することがあればして上げたいと、トラックで三人でかけました。冨美子をたった一人の対手で伯母さんはあわてていらっしゃる。中庭を隔てた日頃のお寝間に行って見ると、一目で昏睡であることが分りました。やがて医者が来て、瀉血しゃけつを五勺ほどし、尿をとり、血圧を低めるための注射をしました。そして小一時間の後かえったら、激しいケイレンと逆吐しゃっくりが起りました。その時からずっとお顔の様子がわるくなった。私は富雄を呼ぶこと克子を呼ぶこと等一時頃までいろいろお世話しましたが、どうも御容態が思わしくないので、次の日の朝、貴方に電報した次第です。十日の日は暖かった。伯父さんは上機嫌でひなたで竹の鉢植をこしらえるためにお働きになった。そして、夕方珍らしく飯がうまいと、五杯もあがり、あと、よそから来た餅を二つあがった由。そして、そろそろ湯に入ろうかというとき、急に右がしびれ出し、こっちへ電話をかけるよう指図をして自分で床へお入りになった。冨美子が枕元についていたら「おや、目が見えんようになった」と仰云った由。それ限りでした。
 翌十一日は母上がお見舞にゆかれ、私が家でお父さんのもりをしていた。午後三時すぎ母上おかえり。やはり時間の問題と思うとのことでした。医者も今明日が危期という。お父さんは丁度九日位に血尿があって、それが鎮静していらっしゃるが、これらのことで興奮なさり、食欲不振でした。カンシャクも起った。それやこれやを話して、私は本をよみながら裏で風呂をいていたら、様子がわるいからすぐ来てくれという電話です。母上、今おかえりになったばかり。すぐ達・隆がトラックでゆきましたら隆がとってかえして来て、もうおなくなりになったとの報知です。呆然としました。それから母上、私、隆と野原へ出かけました。出かけようとしたら、父上、母さんを呼び止め、「俺がゆかれんから二人分してやってくれ」とおっしゃったそうです。隆治さんは初めて近親の死に会って非常にショックをうけました。激しく泣いた、私は、涙が胸の内側に流れるようで。(もっと複雑な感じ。時代的にも人生的にも様々の思いの輻湊ふくそうした)
 富雄さんは十一日の朝、克子は御臨終の直前にかえりました。講中の人々が来ている。あわただしい人の出入り。母上と私とは二時すぎまでお通夜をしてかえりました。私は私たちにとって一方ならない御縁の方であるからずっとお通夜したいと思ったけれども、お母さんが私の盲腸がわるいのでお許し出ませんでした。十一日に隆に託してお見舞を十円。御香典には貴方のお名前で二十円。
 私が来ていたうちに全く急にこういうことになったことを、皆と単なる偶然ではないように話し合っていました。百合子はん会うたのは顕ちゃんに会ったもホンついじゃから、因縁いんねんじゃのう、しきりに伯母さんも云っていられます。伯父上としては御苦痛なく、あの家でおしまいになり、あの家から葬儀の出たことはマアよろしかった、お母さんのそういうお言葉には私も同感です。
 御年五十四歳、母上より一つお若いのです。
 十二日のお葬式には最後のお寺詣りまでずっとお伴しました。今十三日はお骨上げです。うちからは達ちゃんが行って居ります。野原の家、屋敷は只今は兼重萬次郎という人の手に入っていることになっています。しかしこの人はお母さんのよく御承知の人物で、自身の権利として二千円ばかりのものを回収すれば、あとは若し余分が出れば遺族に上げると申して居り、それは信用し得るそうです。
 富雄さんは広島へ帰るのをいそいでいるが、伯母さんや冨美子はこっちの整理つき次第広島にうつるでしょう。克子は大阪の、こっちのお母さんの従弟とかの家にここ三四年行って働いて居り、又そこにかえりそこから結婚の心配もして貰う方針です。多賀子は未定ですがここに手つだってやはり身の振方をつけていただく方がよいかと考えます。お母さんもそのお考えで、冨美子は出来るから師範に入れるプランであった。それはその方がよい。富雄の生活は確実性がないから。未だ申しませんが、伯父さんの御厚情を考えて、私たちは冨美子の学資を何とか助けてやりたいと思って居ります。たとえ少々でも。貴方も御賛成でしょう。十四日にあっちの若い人々が来ます。又いろいろ話しましょう。そして、私は十五日に立ちたいと思って居ります。
 父上はずっと平静でいらっしゃるから御安心下さい。尿も血がなくなり量も殖えましたから。

 四月十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月十三日  島田。
 さっき書いた手紙を出して貰い、寝台券をとって貰いました。十五日に立つことに決定しました。
 昨夕は御葬式がすんでから(こっちの家でそれは負担なさいました)克子、多賀子、達治、私、座敷でいろいろ話した。玄関から台所の方はずっと襖をとり払って大広間とされて居り、近所の人々が酒もりをしている。その声が中庭越しにきこえる。裏へは急造りのカマドが二つ出来ていて、湯殿の前のところへ台を出し、附近の子供が二十人近く石ころ、レンガ、薪をこしかけにして御飯をよばれている。おっかさんたちが手伝いに来ているからでしょう。
 話しているところへ伯母さんも来られ、私がつくという話がわかったら、伯父さん一方ならないおよろこびで、島田の二階の方はさむいが、炭とりがないから一つこれをかしてやろう。花も好きだが、あっちにはないからこれを、と、わざわざ炭とりと花瓶とを運んで下さったのだそうです。私はそうとは知らなかったが、この炭とりには重宝して、本当に伯父さんがおっしゃった通り、そこから炭をついで一寸した書きものをしたりいたしました。花瓶も、お母さんがただ野原からくりゃりましたとおっしゃったが、私を歓迎のためとは知りませんでした。どこまでも伯父さまのやりかたですね。
 それからあっちへ遊びに行ったとき、私はあなたがおっしゃったことをもつたえ実際的の話を伺いたいと思ったが、簡単におっしゃり、楽観的におっしゃるぎりで、それ以上つっこめませんでした。こっちのお母さんのお話で、講以外に負債がおありになり、あの土地を処分するしかないことは分って居りましたが。
 野原は今の交通関係では昔とちがって全くの閑地ですね。あすこは隠居地です。
 お葬式は御承知のとおりこっちの真宗(西本願寺なむあみだぶつ)の式で万事やられました。様々の習慣がちがうから、私はお母さんのあとについて、白いカツギをかぶって、白と緑の造花をもってお墓へおともしました。達ちゃんと富ちゃんが組んでいろいろのことをしました。隆ちゃんが真先に道あけあんどうというものをもち、母上、私、女の子たち、僧侶、富ちゃん、お棺、達ちゃん、それから伴の人という行列で、豌豆えんどうが花咲き、夏みかんがみのり、れんげの花の咲いている暑いような陽の道をお墓へとねってゆきました。そこで式があり御焼香があり、それから火葬場へおゆきになり、私たちはかえったわけでした。
 又うちで読経、焼香、御膳がでて、親族のものだけお寺二つへまいりました。町の中のと、山の高いところのと。その山のお寺には白と紅の芍薬しゃくやくが花盛りで、裏を降りてくると松林の匂いがしました。海はすっかりかすんでいた。そこで紫のスミレを二つつみました。今にお目にかけましょう。伯父さんのような方にふさわしい晴れて花のあちこちに咲いた日でした。

 四月二十日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(はがき)〕

 四月二十日夜。きょうの午後慶応大学病院へ行って、盲腸の手術のことについて、以前から私の体を診て貰っている医者に相談したところ、切開することは中止するようにとのことで、手術はおやめです。目下盲腸は癒着ゆちゃくしているからつれたり何か無理がゆくと工合わるい程度であるのに、余り丈夫でないのに切るのはというわけです。御心配なさっているといけないから、とりあえず。

 四月二十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月二十一日、荒っぽい風の日、こういう風は大きらい。
 むしむしとして、埃いっぱいで。落付かぬ天気ですね。きのう夜ハガキを書いた通り、私の盲腸は手術しないことになりました。自分では弱い体という風に考えずにいるのに、もし万一という条件がつくとは何だか可笑しいようです。盲腸もこう癒着して居れば、急に腹膜をおこすこともそうないだろうということだから、マアいいにしておきます。今、ベラ・ドンナという鎮痛のための薬を少しのんで居ります。あなたの盲腸はずっと納って居りますか? 私はどうしても貴方の生きていらっしゃるうちは生きていたいから、荒療治はおやめです。島田で苦しいのを我慢しながら、お父さんの診察に来る裏の何とかいう髭を眺めていたら、心細くなって、一そ切って置こうと思ったのでしたが。
 そういえば、お目にかかったとき、厚着していらっしゃるように見えたのですが、ちがうかしら。今年、もしお体の事情がすこしましであったら、そろそろ皮膚の抵抗力をつよめるようにしましょうね。
 島田が、私の故郷のような感じになって、ときどきチサの和えものだの、新鮮な魚だのを思い出します。島田川の岸の景色も心にのこっている。お父さんは、私がのませると薬をあがり、ほかの人だと、ぶってこぼしてしまったりなさる。安着の電報に添えてチチウエ、オクスリヲヨクメシアガレとうったら、この頃お母さんや達ちゃんたち、閉口するとそれを護符のようにもち出す由。あなたからも、この薬をのむことと、お小便をとるための袋をおつけになることの必要をよく云ってあげて下さい。今日、この袋はお送りするのですが、おむつではどうしても不潔で細菌が犯し、膀胱ぼうこうカタルを猶悪化させますから。きのう慶応でいろいろ訊いて来たことの一つです。すっかり腰が立たなくおなりになったことが膀胱の活動をも鈍らせるのだそうです 麻痺によって。お父さんは、そういうものを五月蠅うるさがりになるのです。
 お父さんは何という直情径行の、そして一面弱い方でしょう! 何と弱い方でしょう! 貴方が少年時代から恐らく感じていらしったろうと思う種々の感情の明暗が、今度三週間暮してかなり推察されました。達ちゃんと隆ちゃんとでは情感の動きかたのタイプが違います。達ちゃんは常識の平面を横に動く。隆ちゃんの天性はたての方です。生活が体をつかって、かえれば食べて眠くなる生活だから素朴な表現をもっているが。隆ちゃんはどこか貴方に似て来ている。
 島田は確に昔より楽になって来て居ります。そのためには実に尽大な努力が払われ、やや小康を得て、すこしは家の気分にくつろぎが出ている。父上も寧ろ今は仕合わせな病人でいらっしゃいます。この半面には、この調子を保って行こうと欲する、極めて自然な要求が心のどこかにあって、それは、結果としては万事事なかれ風なものになっている。人間の心持というのは何と微妙でしょう。休息が今肉体的にも入用なのであるから、或意味で神経を鎮める上にも、自然の作用なのではあろうけれども。――私のしてあげる一寸したことでも実によろこんで下さる。すまないように悦んで下さる。よろこぶのを待ちかねていたようによろこんで下さる。そして、そんなによろこばれながら、そのよろこびは、全く日常性の範囲にだけガン強に限られていることを強く強く感じるのは何という悲しいよろこびでしょう。私はこれまでこんな感情は知らなかった。理屈に合わぬことは合理的なものの考えかたというところから話してやって来た、自分の親などにはずっとそうしてやって来た。
 いろいろの点から、実にためになりました。本当に行ってよかった。これまでの私の生活の中にはなかったものが見られたし、接触出来たし。
 一つ傑作のエピソードを。
 或日、タバコ屋の方で人の声がする。前掛をかけた丸いユリが出てゆく。「バット一つ下さい」それが爺さんで、ユリの顔を見てはにかんだようにする。「ハイ、どうもありがとう、二銭のおつり」爺さんやっこらと腰をかけ、バットをぬいたがマッチをもっていない。「マッチがいりますね」わきの棚を見ると、マッチが沢山ボール箱に入っている。「ハイマッチ」「いくらです」見ると一銭とある。ユリ何心なく「一銭だが、マアいいその位のもんだからつけときましょう」「ハア、それはどうもありがとう」爺さん満足してかえる。ユリ、のこのこ中の間の方へ来かかりながら、オヤ、アラ、と気がついて、あああのマッチは売りものだったんだ、一銭だってとらなければいけなかったんだ、と気がついたときは、もうおそい。バット一ヶは利益八厘でしょう、一銭のマッチをつけては二厘損したわけになる。ユリ、ひとりで襖のかげで口をあいて笑ったが、お父さんにも母さんにも云う勇気なし。以上、傑作お嫁の商売往来、秘密の巻一巻の終り。
 一巻の終りと云えば、島田へ野天のシネマが来て、二人と多賀子と野原から来ていた冨美子をつれて宮本武蔵を見にゆきました。島田では『大阪朝日』をとっています。そこに学芸欄というものは殆どないの。武蔵や連載小説が、関心の中心です。地方文化ということについて非常に考えた、又私はあっちで作家ではなく嫁のみであるという在りようについても。やはり文化のことを考えました。実にいろいろ面白い。活きた圧力です。では又。どうか風邪をお大切に。あっちから廻送されるお手紙が大変に待ちどおしく思われます。

 四月二十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(クロード・モネの絵はがき)〕

 二日ばかり前の細かい雨の降った日、新緑の濡れている色が美しくてうちに居られなくなりずっと歩いて土管の沢山ころがっているところの方を散歩しました。カラタチの花が高いところに白く咲いていた。小さい家が樹のかげにあった。入れたあわせは鶴さんとお揃いです。ネマキは母上から。襦袢は島田で私がそうやっているのもよく似合うと云われつつ縫ったもの。

 四月二十九日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

〔欄外に〕今日は休日で隣家に子供と遊ぶ父親の声がする。
 島田のをぬかして第何信になるかしら。教えて下さいまし。
『文芸』に山本有三論のようなものを書くために、この間うちから殆ど全作品をよんでいて、昨夜それが終り、今日から書こうかと思っていたがどうもつまらない。有三の正義感というものの根源を明らかにすることが私の眼目なのだが、その根源がまことに云わば日常的で。――
 四月十七日にあなたが島田宛に下すったお手紙うれしく、あなたがよろこんで下さることがうれしく、くりかえしくりかえし拝見しました。私に与えられたヨシヨシについても。ありがとう。私は島田からは多分第五信ぐらいしか書いていないと思います。殆どもう皆御覧になったわけね。その後お母さんのところからは頻りにお手紙下さいます。大阪からかえって来ている克子さんがお嫁の話があるのでこちらにいて島田の方をお手伝いしている由。富雄さんは広島へ戻って居り、土地の処分は、比較的有利に行きそうな由。
 お父さんも、野原のことでは突然であったし、大分ショックをおうけになりましたが、それが鎮り、この頃は熱もおありにならないそうで、これは何よりです。熱がつづくと疲労するから。その点で私はひそかに心を痛めていたのだったから。送ってあげたゴムの袋は大していやがらずにつけていらっしゃいますって。あなたもよくお使いになるようおすすめ下さい。お母さんが大きな洗濯物のために川にゆき、まして梅雨にでもなれば本当にお困りなのです。でもよかったわ、お気にかなって。
 貴方は、蔵の前の漬物小舎をこわした話、前の手紙で書いたこと覚えていらっしゃるでしょう。あれが新しく建ったそうです。台所口から庭へ出たところにイチハツの花があるのを覚えていらっしゃるかしら。その花が白く咲いたそうです。その花や、大きな茂みになっている赤いバラの花が、今年は広々としたガラス障子越しに見えるわけですが、その障子にガラスをはめた人は、ほかならぬあの縁側のところから、往年泥棒と間違えられて貴方におっかけられた人です。何という罪のない可笑しさでしょう。何と思ってあすこのガラス入れたかしらと思って。その夕方(何年か前の)中気になったお婆さんがあったでしょう? そのお嫁さんが今病気全快して店にいて、帰りに柳井まで一緒に話しながら来ました。
 顕さん顕さんと云って皆が私に話します。(タオルもってお辞儀して後は)そして、私は東京のおゴーさんよ。いつか達ちゃんがお父さんに私をさして「あれだれで」ときいたら、お父さん何とも云えない笑顔で、「ユリちゃん」と仰云った。でも私をお呼びになるときは「東京の、ちょっと来て」です。「お父さん、面倒だからお后のかわりにおユーとおっしゃいましよ」そう云っても今度はまだよ。いつかおユーとおっしゃるかしら。
 寿江子が今度はすっかり留守番をしてくれました。昨夜鵠沼へかえりました。一ヵ月以上ここにいたわけ。それから二日ばかり前に伊那からお久さん[自注13]という女中さんが来ました。いろんな友達が心配してくれて。三十日一杯でこれまでいたのがかえります。おひささんに縁があること。眼鏡をかけ、うたをうたうのがすきな十九の娘です。女学校を出ている。稲子さんの心配です。
 私の盲腸は切らないことに決定したので、野上さんが盲腸の余後にのんだ※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁ヨクイニン湯という漢方の薬をのみはじめました。ききそうです。のみにくいもの。さし当りの仕事としてその有三をかき、『改造』へ四五十枚の小説をかきます。今月は、それでも白揚社の本が出たので何とかやりくれましたから御心配ないように。本当に今度は六芸社の本にしろ思いがけない役に立ちました。待望の書として六芸社のはレビューされています。
『冬を越す蕾』と今度のとの間には大きい成長が認められている。そのことも当然ではあるが、私としてはやっぱり少しは安心してもいただきたいと思って。
 林町の連中には、私がかえってからまだ会いません。あっちが国府津へ行って居たので。太郎にお母さんが下さった大きなコマをもって近々出かけます。栄さんは「大根ダイコパア」という子供を主題した独得の小説をかきました。これは面白い。稲ちゃんは地方新聞に長篇をかいています。これもよい修業です。M子は毎日よく働いて月給四十円になりました。うちで御飯をたべている。
 この頃、二階の北の小窓から見るとけやきの若葉が美しくて、美しくて。新緑の美しさは花以上です。お体は大丈夫なのでしょう? 近いうち、活々とした初夏の模様の手拭とすがすがしいシャボンをさしあげます。それらのものはここで新緑をうつしている皮膚の上にも。
 仕事をすましたらお目にかかりに行きます。

[自注13]お久さん――埋橋久子。信州の人、目白の家で三年間位百合子とともに暮した。

 五月六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(外国風景の絵はがき)〕

 五月六日。何というひどい風が吹いたことでしょう。きのう「山本有三氏の境地」三十九枚ばかり終り。本気で書いた。お体はいかがですか。私はこの二日ばかり前から一日二ヶのリンゴを励行しはじめました。一日に二つリンゴをたべて二年経つと体が変る。それほどよい。私はそれをやる決心をしたのです。努力して継続するつもりです。貴方もおやりになってはどうかしら。

 五月十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月十六日 日曜日  第十四信
 きのうの朝九時頃目がさめて下へ来て長火鉢の前のテーブルへ来ている手紙を見て行ったら、ハトロン封筒があり。おとといのお話で少くとももう二三日は先と思っていたのでうれしく、何だか案外早かったように感じられたが、落付いて見れば、書かれたのは七日なのですものね。
 あの日、お目にかかって外へ出たら雨になっていました。そこで私は傘と一緒に持っていた黒いフクサ包から別の下駄を出して、草履をしまって、玉子のことや何か云いつけて、珍しく戸塚へゆきました。二階の大掃除をやって古雑誌が出た、面白いものが出ている。長椅子の上にのっかっていろいろ話し、御飯を食べ、それからフラフラ散歩して新宿へ出たら、丁度時間があったので「裸の町」という文芸映画を2/3見て、高野へよってかえりました。日本の映画も追々心理的なものを捕えて表現しようとしているところへ迄来ている。だが、まだまだ不十分。女の内的なものの表現が弱いのでこの作は大分弱くなっている。チャンバラでないものを作ろうとする努力に対してはこういう試みも支持されている訳です。文芸映画の陥る危険は散文的なものと映画的なものとの区分の不鮮明さですね。
 タカノの店がすっかりひろがって派手になりレビュー的セットになってから私ははじめて――だから去年以来はじめて。美しい果物は万惣をも思い出させ野菜サラダの味なども思い出させました。
 一昨日は、島田からかえって一仕事マア終ったしお目にもかかったし、いね公曰く「きょうはやっとホッとしたでしょう」きのうは何とあつかったでしょう。土曜日で昼迄働いた若い女の人たち数人遊びに来ているところに手塚さん市川いちごをもって来てくれ、暫く皆と話し、運動ズボンを買うとか云って新宿へ出てゆきました。戸塚の二人は別々に勉強部屋をもっていることをお話ししましたかしら。妹さん夫婦が転任になって来たので近くに一軒もってその二階に鶴さんがいます。御飯はこっちの家。細君の方は二階に大体ひとり仕事するようになった。でも出入りで、やっぱり昼間はザワザワしているが。――
 きょうは又斯うして霧雨で、しずかで、私にはいい日曜だが、体には全くよくない。どうか呉々お大切に。実はなどと、汗をとっていらしたところを歩いて来たりして。――夜はよくおやすみになりますか。おかゆは十日分。パン一日おきは本月中云いつけておきました。本も注文してお送りいたします。私の方は※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁ヨクイニン湯という漢方の煎薬をのんで、徹夜廃止で、早いときは十一時頃床に入って大いに自重して居ります。何となし少しずつましになって来る感じです。この前の手紙に申しあげたように今来ているお久さんという十九歳の信州の娘は淡白快活で常識もあり大変気が合い、私はお安さん以来の落付きです。そして兄の感化もあるのか、さっぱりして、安より明るい。私はこの好条件を十分活用して仕事をよくし、体を直すつもりです。どうか御安心下さい。
 島田の家の事情が却って私たちについて物わかりよくしているとお手紙にあることは全く同感です。それは本当です。私は島田の家に深い情愛を感じて居ります。あすこには林町になど全くなかった生活の空気がある。
 あなたが少年の時代から御自分の周囲に感じていらしったものと、私の周囲にあるものとは、社会での場処がちがうとおり質がちがっている。あなたの経験していらっしゃるものの中には(家族的に)皆察しのつく、そしてその条件ではやむを得ないと理解され得る質のものです。
 私はあなたが周囲に対してもっていらっしゃる思いやり深さやさしさを殆ど驚く程ですが、あなたにはそれが可能な根拠がある。
 虹ヶ浜へおつれしようという話も、かえる頃には不可能らしいとわかりました。お后さまは家をお離れになれないし、お父さんにはお后さまは不可欠である。そして店も。やはり活動の圏外にいることはおいやなのです。動かし申すだけ疲れるだろうというようなことで。――夏は葭戸でもこしらえ、新しいきれいな蚊帖かやでもあげようと思います。そして秋またゆきましょう。これは親愛な笑話ですがよくよく覚えていらして下さい。私が島田へゆくときあなたのお手紙で、ユリも暫く滞在したいと云っている云々とおかきになった、お母さん方の時間の標準で暫くと云いゆっくりと云うのは最少限一ヵ月なのよ。一ヵ月以上なのよ。私は笑い出したが何だか困ってしまった。わるくて。早くかえらなければならないと云うのが。長くいるように云って下さるの、うれしい。でも島田で仕事することは不可能です。だから秋に又ユリもゆっくりということは何卒保留しておいて下さい。ほんとうにわるいから。がっかりさせ申すのは。――野原にはよっぽど前、長いお見舞をかきました。仏壇の話も添えて。
 あなたがこの手紙で本旨だけと書いて下すっていること、私の妙てこ理屈についてあなたが書いて下さるのは大変にいい。楽しみにして待って居ります。私はあれを書いたときの心持で今日は居ないから。しかし、ああいう妙な押し出しをしたことの根底には、私のバカなむきがあったのですよ、分っていらっしゃるでしょう?
 あのとき貴方は、ユリが作家としての生活、その名の中では幾分安易な気分もあるだろう二つに足をかけている生活云々と仰云った、その言葉を、云われていない言葉の内容にまで入らず、そこに出ている角度でだけ、しかも全身的にうけて、私はあの当時の不快な条件もあったから、まるで一匹の山あらしのように苦しくなってしまったのでした。ああ、貴方が私にこういうことを云い得るのだろうか。今日良心をもって生きていようとする作家の努力を作家だから安易であるという風に概括出来るのだろうか。偸安とうあん的でない作家が、そして私のような愛情で生きている女が二つのもの(態度)に足をかけて、ふりわけで生活してゆかれるなどと思うということはあり得るのだろうか。等々
 今になると、私にも自分の心持の観かたの主観的だったところは分って居ります。貴方が仰云ろうとしたことも分るわ。貴方にそれを云わした感情の本質も。私たちは、或ことを話し合うに一番適した場合=心持に=を選ぶことが出来ない、又表現を細かく行届かせて話すひまのないということのために、何という思いをしたことでしょうね。けれどもあのことは私にいろいろ教訓を与えました。
 文学の仕事の上で、実質的な評価と他のものとの関係は丁度シーソーです。そういう時代である。私はそういうものに対して乱さず生活を押してゆくのだが、貴方に向うと私はどうもナムアミダブツ宗のようね。時々お数珠におデコを撫でて貰っていい気持になりたがるところがあった、アナ恐ろし。私の理屈がおくれていると仰云ることはよく分る、だが、私のような女でさえ、一番苦しいこと、一番我慢ならないと思う(主観的に)ことでムクレると、ああいう墨を吐くところ、(リクツのようなのは外の形だけよ)私は自分の日本婦人的事情を感じます。正体云々とお笑いになったが、私のみの正体でない。大変そのことを感じます。お手紙を楽しみにして待ちます。では又

 五月二十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(ゴッホの絵の絵はがき)〕

 五月二十四日、雨が降りますね、きょう、やっと合シャツやセルをお送りいたしました。おそくなって御免なさい。『改造』の小説42[#「42」は縦中横]マイは「猫車」という題。もう一ヵ月ばかり前のやはり雨の日、ぬれた青葉の美しさにひかれて歩きに出て雑司ヶ谷の土管などつんである辺を歩き木の下の小さい家を眺めたりしたことを書いたエハガキ御覧になりましたか。こういう大さのは手紙並なのを知らなかったから或は駄目だったかしらと思います。キレイな絵だったのに。――

 五月二十九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕

 五月二十九日 小雨  第十五信
 きのう、二十五枚ほど「マリア・バシュキルツェフの日記」について書き終って、それを届けて、国男寿江と落合って、市ヶ谷へ行って夜具をとって来ました。ひどくなりましたね。あなたの御病気との悪戦苦闘を何だか感じるようでした。この次は、ああいう厚ぼったいのでない方が却っていいのではないかしら、綿が切れないで。いずれ又それは御相談いたしますが。
 そちらはきっと当分いろいろ落付かないでしょうね。中川にははり出しが出て居りました。それでも何だかどんなところかしらという気がして居ります。今の予定では十日頃まで大変いそがしいからそれがすんで、そちらもお落付になった頃――二十日頃お目にかかりに出るつもりです。この間は、おそくなって差いれが出来ませんでしたから明後日ごろさし入れだけにでもゆくつもりです。もし都合がついたらお目にもかかりますが。――
 お体はいかがですか。今年の梅雨は早い。私は徹夜廃止の励行で大分よいらしい様子です。※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡仁ヨクイニンもききます。二日ばかり前お母様からお手紙で、お父上の御様子がましになったお話しです。何よりです。食事もお進みになる由。野原の家は整理までずっと住んでいらっしゃることになり、おせむさんの弟さんが同居なさる由。お葬式のときお目にかかっているだろうけれどもよく分りません。
 今日、私は少しポケンなの。くたびれていて。今月は仕事がつまっていて、きのうまでに百四〇枚ばかり、一つも口述なしで書いた。このうち相当勉強したものが百二十枚ばかり。マリアの日記は千五百頁あるのを二日でざっと目をとおし。――
 それでも、これだけ仕事の出来るのは、私の毎日が珍しく順よく運ばれていることのしるし故、その点本当に安心していただけてうれしい。(そして、テツヤしないのですよ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 おひささんという娘はいい子です。自然ですなおで日常に必要なだけ頭もよい。徹夜しないでやるのがうれしくて。うれしくて。その代り、今月は戸塚へ二度、壺井さんへ一度、林町へ一寸一度、座談会一、映画(3)[#「(3)」は縦中横]、音楽(1)[#「(1)」は縦中横]という位です。音楽のいいのがききたくて。私はどうもラジオや蓄音器の電化音が耳につらい。どういうのでしょう。下手でもなまを欲する。ゆうべは本当になまがききたかった。ゆうべは珍しく非常に物語のあるしかも痛切な私たちの夢を見ました。その夢をそのまま書いたら、ひとはこしらえた物語というでしょう。本質が、その筋を貫いている。非常に美しい行為と涙とがあるのです。私の体を貫いたために、あなたは死んだようで死んでいないという風な。面白い。ああ、本当にそれが夢だということを、きいたら人は信じられないでしょう。私は滅多に夢を見ず、たまにこういう夢を見る。面白いわね。こまかい部分をきかせて上げたいと思います。では又。

 六月二十日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所[自注14]の宮本顕治宛 目白より(封書)〕

 六月十三日 日曜日 曇。第十六信
 きょうは母の三年祭の日です。一九三四年の六月十三日は大変にカッと陽のてりつける暑い日で、父が迎えに来て杉並から胸に氷嚢を当てて順天堂に行ったら、十五分ばかりで母は亡くなった。あの日の暑さや光線や父の顔や、まざまざとして居ります。お祭りはきのうにくり上げてやりました。
 ところで、あなたのお体はいかが? お暮しはどんな工合ですか。この手紙はまだ出しません。でもどうも書きたい。又連作にしてお目にかけましょう。
 私はこの一月頃から半年ばかりの間に随分沢山評論風な仕事をしました。その結果、自分の仕事というものについて一層いろいろの理解がふかまって来た感じです。つまり、私は評論風な仕事における自分の特質というもののプラスとマイナスの点がはっきり分り、現在の自分として、どの位までのことが出来るかということも分ったのだと申せます。そして、まことに面白いことには、この間の手紙でも一寸申したように、自分の評論が先へ先へと押してすすめてゆく線を、今は作家としての半面がついて行っている(両方一足ずつチャンポンに前進する)ことが分った。こういう云いかたは私らしすぎるが――お分りになるでしょう? 書いて行くということについても、何か一つ目がひらけたようなところがある。普通、芸術家たちは書くと云い、私もこの永い年月書いて来ているのだが、書くということは存在させることであるというのを、感覚としてまで感じているのはこの頃です。それが文字によって存在させられなければ、どんな作家の善意も努力も生活内容も存在として実在しないという事実は何とおそろしいことでしょう。書かれてはじめて、それが存在し、自分やひとに働きかけて来るものとなる。在らしめること。そのためには碎心さいしんしなければならないこと。何と面白いでしょう。この感じは評論のような仕事で、私が最近経験した一定の段階までの成長で、却って小説とのちがいとして自覚されて来たものです。私はこの点がわかって、何だか作家として底がもう一つ深くなったようなよろこばしさです。評論のようなものでは私は疑問をつらまえて最後まで手を放さずその矛盾や疑問の発生点をつきつめてゆくたちです。そしてそれは、研究というか、語るというか、とにかく小説の在らしめてゆく感じとはちがうものであり、小説が何とそのようなものであるかを痛感させるのです。
 評論風な勉強は、自然の結果私自身に向っても小説の水準の引上げを課すのも面白い。私は当分小説にかかりきって、在らしめる術を行います。これから私は事情のゆるす限り自然発生的にあれこれの仕事に手をかけず、一年の或期間小説をかき、その汽罐車のように評論をかくという風にやってゆきたい。カマだけ一つで先へ行きすぎてしまうと一大事ですからね。大きい重い荷物をひっぱってゆかなければならないのだから。(こんな色の紙は珍しいでしょう? たまには目に変っていいかと思って。)寿江子は線路のむこう側に新築されたアパートに部屋をかりて鵠沼を引上げました。夏で家賃が上るから。うちで夕飯をたべさせます。
 太郎はナカナカなものになりました。遊びに来て玄関をガラリとあけると「アッコおばチャン」とアーッコに独得のアクセントをつけて呼ぶ。アーッコは大きいの意味です。いろいろしゃべります。寿江子は糖尿の消耗から或はすこし呼吸器を犯されているかもしれませんがまだ不明(但、寿江へのお手紙にこれを書いて下さらないように)今月のうちに調べると云っている。私は徹夜しないしどうか御安心下さい。今日は日曜でラジオその他が寧ろやかましい。
 十五日 夕方。
 六月五日づけのお手紙がけさつきました。このお手紙で見ると、私が五月下旬に書いた手紙はまだ見ていらっしゃらないのですね。お久さんが呉々も御親切にとよろこんで居ります。お久さんは三度たべます。私は二度だが。島田の方へは今日お母さんのお気に入りのハブ茶と中村屋の柔かい甘納豆とをお送りいたします。ハブ茶は野原の方へも。中村屋のザクスカはこの頃ちっとも食べず。寿江子はきのうアパートへ荷物をもって来て、さっき見に行って来たところ。東と南が開いていて落付きます六畳で19[#「19」は縦中横]円。夕飯をすましたら銀座の三越へカーテンを買ってやりにゆく。目下小説についてコネ中。可笑しいことにはこの三日ばかり前から一匹の猫がどこからか家へ来るようになりました。おとなしい灰色と白。夜は皆猫を大して好かないから閉めます。すると、朝私が茶の間に坐ると出て来て決してよそにゆかない。この猫は随分間抜けです。猫なんて好かない人にこんなになつくものでないのに、可笑しい奴! 今これを書いている足のところに丸まっています。そしてニャーゴォなんかと鳴けず、変な声でギューギュー鳴いている。
 M子は近所のアパートへ四、半の部屋をかりて暮すことになりました。四十円の月給とりです。自分でとる金で自分の生活をやって見ることが必要だから。
 十六日の午後 曇。よそでピアノの音。仕事をこねている。大体まとまる。そして、気持がのって来る。
 二十日の夕方 六時。
 今日は日曜日で、うちはワルプルギスの夜ですよ。寿江、M子、その他の連中が集って来ている。いよいよ仕事にとりかかる。昨日はそちらへ徳三さんの細君が初めてゆくので案内がてら様子を知るためにゆきました。この手紙いつ頃御覧になれるのかしら。
 暑くなりましたからお体を猶々御大事に。単衣ひとえをお送りいたします 手拭シャボンと。では又。

[自注14]巣鴨拘置所――一九三七年六月十一日、顕治は市ヶ谷刑務所未決から新築落成した巣鴨拘置所へ移転した。

 六月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 六月三十日 雨  第十七信
 私たちは同じ区内に住んでいるのに、お手紙はやはり半月かかってくる。何と不思議のようなことでしょう。十六日づけのお手紙ありがとう。蒲団の綿が切れていた原因についてはまことに何とも申しようなし[自注15]。私は心からあなたの膝小僧を撫でてさしあげます。
 十九日には徳さんの細君についてそちらへゆきました。そして一寸差し入れをしておいたが、あとはそちらでもうおやれになっているでしょうか。合シャツは去年のよ。昔のはもう使って居りません。ギューギューというのは洗ってちぢんだのかしら。中野さんはあの字典を『中央公論』に書いた小説のお金で入れてくれたのです。鶴さんは大変まじめによい仕事をして居ります。あのひとは私が徹夜がいけないとかいろいろいうと、常識を笑っていたが、この頃私のいうことも本当と身にこたえて来ているらしい。熱は出して居ります。稲ちゃんずっと書いています。すらりとしてあの人らしいもの。とにかく私は、この夫婦を実に大切に思います。私にになるような気付を云ってくれるひとは外にない。六芸社の本[自注16]などについて批評を書いた鶴さんの文章は、友愛の珠玉です。
 私は二十日頃から仕事をはじめ、小説だけにかかってずっとやっている。毎日いくらかずつ書いて。沢山の時間を考えて。本質的に勉強しながら、自分を発育させつつ学びつつ書いて居ります。徹夜はしてはいないけれども、小説を熱中して書いていると、そこの世界が二六時中私によびかけて招くから、気が立って、頭が燃えて、床の中でやはり長く眠らない。しかしそれはお察しのように愉しいし、その時間は有益なのです。あなたに喋りかけて、そうでしょうといったり、ひとりあなたのこわいろをつかったり、いろいろ芸当があるのです。そして、猫と遊ぶ。この猫は前便に書いた猫、ひどい好人物的猫で、猫を好かないものの家にいついてしまいました。仕方がないから戸に切穴をつくった。仕事をしていると別の椅子の上で丸まって他愛なく眠っている。夜中になると黒い真丸い、美しい表情になって、私が下へおりるとついて二階にあがって来る。犬の子のように先へハシゴをかけ登って。ところが私は何としてもニャーを寝るところへは入れられない。いやなの。下へおろすに、一寸遊ばしてホーラ、ニャーと足袋を片方下へ投げると、この猫はいそいでおっかけて降りる。その間に私はかけてスイッチをねじって障子をしめてしまう。このような余興。
 島田がおよろしいのは何よりです。この時候のわるいことは、だが、何ということでしょう。
 六月に『文芸』へ「山本有三氏の境地」という作家論をかきました。勉強して書いたの。
 それから今、ウィーンのワインガルトナーというオーケストラのコンダクタァが夫人と来ています。二十八日にききに行った。いろいろ芸というものについて、こういう出来上った大家の持ちものを観察したわけですが。ベートーヴェンの第六シムフォニイ、田園交響楽というの、あれはやっぱりその理解の点でききものでした。貴方も覚えていらっしゃるでしょう? あの曲。静かな小川のほとりの部分もよく、特に楽しい農夫のつどいの部分(雷雨になる前の)、あすこはヨーロッパの村の祭、そこの音楽、雰囲気、ビール、踊、その気分が絵画的なまでにつかまれていて、私はききながらドイツの十七八世紀の風俗画を見るようでした。日本の楽人はこういう生活感情がないから、いわゆるベートーヴェン式に把握して、ロマンティックな自然感だけを描き出します。面白かったのは、その細君のカルメン・ワインガルトナー夫人の指揮です。ヨーロッパにも女のコンダクターは一人か二人です。いかにも細君風なの。バトンをもって立ったところが。ドメスティックなの。そして手法は非常に年長で大家である先生・良人に従っているので、何だか生粋でもないし、その人は感覚もないし、刻み目、つっこみが浅く、いい人であることと、いい芸術家であることとは必しも一致しないという実例でした。暖い感じの人なのだけれど。なかなか暗示の多いところです。一つもピリッとしたところがない。女であるだけ私は残念でした。主観的にはまじめなのです。もちろん。こういうことも私は、前便で書いた、芸術は在らしめること、客観的に在らしめなければ、どんなよい意図もないに等しい、というあのことを感じ直させました。カルメンさんはあんな偉い人の細君だから、一つ背中をぶってハッとさせて、帯をしめなおさせてくれるような人はいないかもしれないから気の毒です。私は云ってやりたいが、素人だと思って、やっぱりきかないにきまっている(これは冗談)。
 私はこの頃、あなたにかぶれて、或は刺戟されて、時間というものを実に内容豊富につかいたくてたまらない。仕事というものがわかってきた。時間がすぎてゆくその感覚なしに、のんべんだらりとしていられると、SUでもジリジリしてきます。私はよく仕事して、休むとき音楽がやれたら本当にうれしいのだけれど。私には文学・音楽・絵の順ですね。今仕事五十枚。半分。十日までにもうそれぐらい。チェホフは仕事にぴったりする気持を、紙と平らになるという表現でいっている。落付き工合を現わしてはいるが。私どもはもっと角度をもっているな。ただ平らではない。心の角度があって、いわば彫り出し、築き、現わしてゆくので、彫刻的な精神労作だから。平面をかいてゆくのではないから。ペシコフは単純に、夜灯の下でやるこの苦しいそして楽しい仕事といっている。何とそれぞれその人でしょう。私は何というでしょう。昼間の平均した光の裡で、刻々に人生を再現してゆく、そのむずかしさ、楽しさ。私は本当にまぶしくなく、さわがしくない昼間、誰にも邪魔される心配がなくて、せかずに書いてゆく心持は名状しがたい。時々改正通りが一筋ひろくそっちへつづいている様子など思いながら。
 あなたもお忙しいでしょうが、どうか時々は私を夢で訪ねて下さい。シャガールの絵ではないが、いきなり天井をぬいて、こぼれていらしってもびっくりはしませんから。林町の連中にはよろしく申します。アヤメとツバメの手拭はうちにもつかっています。あのシャボンの匂いはさっぱりしていると思いますが、どうだったかしら。

[自注15]何とも申しようなし――拘置所の監房がせまいので、足がつかえ、顕治は膝をのばして寝たことはなかった。
[自注16]六芸社の本――宮本顕治『文芸評論』。

 七月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十一日 日曜日 曇、小雨  第十七信
 さて、きょうは私たち、この小さい仕事部屋で久しぶりに二人っきりです。おととい仕事をすまして、きのうはくたびれていたが三越へ行って野原へあげるものを見て来て、きょうはのびのびとして貴方とさし向い。
 一昨夜の晩は豪雨がありました。割合におそくなってから。林町から自動車でかえって来たら、豪雨沛然はいぜんたる夜のなかに、連って光っているあなたのところの電燈が眺められました。きのうは可笑しい日でね。くたびれてポケンとしていたものだから健坊とタア坊のお土産に買ったマリと、あなたのために涼しい下ばきを買ったのをタクシーの中に忘れてしまって、いねちゃんのところの玄関でター坊に歓迎の声をあげられて、ア、忘れたと又戸外へ出たがもとより後かたなし。でもマアどこかの子供とあの男がよその知らぬ人の計らざる御中元を貰ったのだからいいと思いなおしました。まして、その自動車はボロでしたから。
 健造とター坊は 私が仕事にくいついていて二十日ばかり現れなかったら、この頃来ないね、と云い、二銭ずつ二人でためて私のところへ来ると云ったのだって。私はそれに心を動かされて、先ずマリを買って出かけたのに。――そのうめ合せにきのうは其から二人の子供をうちへつれて来て御飯をたべさせて、おひささんに送らせようとしたら、たよりなさそうにしているんで又私が送って行ってやって。健造たちはさしみがすきなので御馳走してやったら、その一切を特別なお志をもって猫にやりました。この猫何ていう名なのかい? 名はないよ、オイオイニャーと呼んだり、わるさをするとネコ! と叱るよ、と云ったらフームという。名をつけてやっておくれ、そしたらその名を呼ぶからと云ったら、健造考えていて、きまりわるそうにしていてミミと縁側に書いた。何かの話に出て来る猫の名でしょう。ター坊に、兄ちゃんが猫にミミって名をつけたから、家へかえってお話し、と云ったらター坊、あたしが話してやる健ちゃんきまりがわるいから、だって。六つと九つの兄妹。大変に面白く、そして林町の太郎のようにスポイルされていないから、いかにも「小さい人々」で心持よい。子供たちの母さんは『婦人之友』への小説できのうは大忙し。私のは『文芸春秋』。新聞の方も母さんはつづけていて、前月は先方が金を渋ったのでねじこんだが、今日は一ヵ月先どりしたから、とキューキュー云っている。まあこんな工合ですね。
 あしたお目にかかるのだけれどもお体はどうでしょうか。この間の暑さ! 六十年ぶりの由。私は腕の汗が机にきしむので手拭を当てて仕事しました。苦しくおありになりませんでしたか? 氷の柱をあげたいと思った。それからフーフーあつい番茶を。夏ぶとんは不用のように仰云ったけれども、心持のものですし色彩のものだから二日ばかりのうちにタオルのを入れます。しぼりの浴衣はいいでしょう? きょう袷せ類が着きました。
 先月から今日までにかけての私の仕事は、いくつかの新聞に短いもの三つ、映画批評三つ、中国における二人のアメリカ婦人=スメドレイとバックのこと、社会時評のようなもの一つ、小説。すべてで枚数にすると百五十枚以上。これから二十日すぎまでに短い小説を一つに文芸時評一文化時評二つだけはいや応なしです。なまけて居ないでしょう? それに小説について、私は、「雑沓」、「猫車」から今度のにかけて、少し発見したところがあります。いつぞやあなたが作品の実質で漱石や鴎外ならざる時代を語ることについて書いて下さったことがあった、ああいうことも原論としてはわかっているのだけれども、書いてゆくそのことで新しい世界をひらいてゆくこととは、考えて分っていることとやって見てわかっていることとの間に在る微妙なちがいのようなところがあって、そのやって見てわかるところが漸々ようよう身について来たようなところがあるのです。本当に今年は沢山小説を書こう。作品の中に作者の肌と体温と現実の社会的血行がうずいているような作品こそ書きたい。書いてゆくに際して、そこまで出し切れる迄修練したいと思う。私の持っている作家的水準は決して単純に低いとは云えないものであるが、私が自分に求めているだけの闊達かったつさ、強靭きょうじんさ、雄大さはまだわがものとしていません、まだその手前での上手うまさであり、しっかりさである。
 昔の小説家が主観的なりきみで、そういうママ性の範囲での闊達さに到達した、そういうのではない内容での闊達さ、美、簡素な力、そういうものが本当に欲しい。そしてそれは作者の生きかたからだけ求められるものですからね。こんどの小説を書いて行くうちに何だか私は自分のリアリズムの扱いかたが高め得る方向を見出したようでうれしい。どうかこの方向がのびるように!
 一生懸命に努力し、自分に与えられる賞讚や批判の中からむだなく養分を吸って育ってゆく、その生活感は何とよいでしょう。自分の努力、自分の熱心、そういうものが、とりも直さず真心からの愛と一致し、その具体的な表現であるとさえ感じて(その経験と摂取において、自分の目に入れこになっている眼を感じて)、信じて生活してゆけることは、何と貴重なよろこびでしょう。私を努力させる力、私を生かしている力、それは何という根づよい強健なものでしょう。抽象的に書いて何だか妙だが、おわかりになるわね勿論。私が絶えず探し求めていて、自分を一層ひろげたり強めたり本ものに近づけたりする小さいキッカケでもピンと来たときどんなに私はあなたと共に其をうれしく思うでしょう。ありがたいとさえ思う。つまりこれらすべてのことは、私が比較的健康の工合もよくて、心が情愛に満ちていて、仕事にはり切っていて、その仕事を一つ一つあなたに、全く、実に、ほかならぬあなたに見て貰いたく思っているということなのです。こう書くと何だか暑い盛りに一層あつっぽい息をかけるようですみませんが、でもこれはあなたの不幸にして幸福な良人としての義務だから、生かしているものの義務だから、あしからず。
 本のこと、差し入れのこと、皆お目にかかって申します。鶴さんたちの生活はいろいろむずかしさをもっている、しかしもし鶴さんが、どんな形になろうと、二人の生活を完成させて見せるというところに腹が据わればほんとにいいのだけれど。長くなりすぎるからこの手紙はこれで。

 七月十三日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月十三日
 様子がわからないということは、本当に苦しいときがある。きのうお目にかかる前の日私は割合自分の仕事を一区切りした気分その他でのんきらしい手紙を書いたりして。
 きのうは、あの位立っていらっしゃるのが骨折りではなかったでしょうか、あとから熱が出ませんでしたか。あすこは明るいので顔色のわるいのが目立ったかもしれないのに、いきなりびっくりして、わるかったと思います。でも、余り、これまでより冴えなく見えたものだから。
 ところで、先ず弁当のことはかえりによって調べたところ、私が六月十九日に行ってとりあえず五日とたのんでおいたのを二十五日から五日間入れてしかも一本しかカユでなく四本普通になっていたのでした。四本分は責任を負って何とかするとのことです。何しろあの時分はひどかったそうで、あやまっていました。さぞいろいろ不自由なさったでしょう。そういうことがやっぱりさわって来ているのですね。きのうは二十日までおカユその他を入れました。
 毛布カバーつき、座布団カ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーをお送りします。お金を四十円送ります。野原のことはこまかく様子をききますが、私として、あなたの体が工合わるいときそういうことまで心を労させるのがいかにも本意ないから、私に何でも云って貰うようにしようと思う。もとより貴方が必要以上に心配をなさるとは思っていないけれども、それでも、という気が私に起るのもお分りになるでしょう?
 私たちの条件で可能の最大をつくしてあなたの体を恢復させましょう。その目的のために、私は至急処分するものはしますから、どうか体のために必要なことはちっとも節約せずにおやり下さい。
 当分私たちの全力をあつめて丈夫になりましょう。肉体の性質が或点強靭であるし、精神は十分の支える力をもっているのだから、気候が定り、もう少し暑いなら暑いでカラリとすればきっとましにおなりになります。
 医学的な健康体に私たちはどうせなれないが、平衡を保つことは可能です。それを目ざすことは絶対に不可能ではないのだから。気をそろえてやりましょう。私の知識、私のマメさ、私のもつその他すべての資質が、そのために最小限にしか活用されないのは何と残念でしょう。自分の体の内が苦しいように苦しいのに、それを直接には最小限にしか表現しないで、仕事をしてゆく心持というものを、きのうきょう味っています。これは或る意味で新しい経験ですが、私は決して悄気しょげはしないから御安心下さい。只まだ非常に生々しくてそれに馴れない。
 さて、野原には黒檀こくたんの五十円の仏壇を送りました。本当は金ピカなのだろうが、記念の品を納める心持にふさわしいような、但シ格に従ったよい品です。冨美ちゃんには浴衣ゆかたと思ったがやめてお金にします。島田を手伝っている多賀ちゃんに浴衣。父上にはいろいろの食料のカンづめと果物のカンづめ。
 私はこの手紙が着かないうちにお目にかかりにゆくでしょう。あんな苦しそうに立っていないでよい方法はないでしょうか。いろいろのことが、もっともっと体の細かいことが気になるから。きょう稲ちゃんと一緒にあなたの夏のかけ布団を注文にゆきました。きっとこれはたけがたっぷりだろうと思います。どうか呉々お大事に。元気に。よくお眠りになって下さい。本を、どんなのをお買いになったか、つい訊かないでこまったと思います。どんなのを送ってよいか分らないから。重複しやしないかと思って。では又近々に

 七月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十日 火曜日 晴天  第十九信
 けさは、お手紙がもう着いているだろうと楽しんで下に降りて来たら、来ていない。武田長兵衛から新薬の試用が来ている。御職掌がら先生がたには御頭痛も多いことでございましょうから云々。私は頭なんか痛みゃしない(!)
 今茶の間の机で珍しくこれを書いて居ります。この部屋は六畳で、となりの三畳の境をあけておくと北南風が通って案外に涼しいのです。
 きのう今日は暑いが乾燥して居ますが、御気分はいかが? 御気分は元気でしょうがおなかの虫はいかがな工合ですか。掛布団を送り、只今筒袖のねまきになさる麻の着物とちゃんと袂のついた御新調とを送りました。
 島田のお母さんからお手紙で腎ウ炎をなすったのですって。二週間おやすみになったって。生れてはじめて医者にかかって病気のつらさが分ったと仰云っていらっしゃいます。今私が盲腸のために飲んでいる漢薬の医者へハガキをかいて、腎ウ炎の余後のためによい薬を送って貰うことにしました。それをすぐお送りしましょう。
 達治さんが召集されるかもしれないと御心配です。無理ないと思います。隆ちゃんはもう六ヵ月で入営ですからね。もし達ちゃんがいなくなれば、うちは運転手をやとわねばなりますまい。経済的にそれではキャンセルしかないのですが。一般的な困難がきわめて具体的に一つのわれわれの家庭に反映して来ているわけです。万一そういうことになれば、私たちとして何か些かでも考えることはありますからよいけれども、ねえ。
 林町では国男が盲腸手術後の脱腸(ヘルニア)になって又手術すると云っています。二三日うちにやるらしい。寿江はこの頃近所のアパートに大体落付いて、昼飯や夕飯をよく一緒にたべます。
 Sさんという元からの看護婦が池袋の堀の内にいて殆ど毎日来てくれ、寿江のインシュリンの注射をしてくれる。この頃寿江子は英語の勉強をはじめ、性格にしっかりしたつよいところもあるのに結局はどっちつかずで、人生の評価の土台がない。二十三の女の子というのはこういうのかしらと昨夜も感じました。この位いい素質をもっているのに推進力としての情熱が足りない。体が弱いことに帰しているけれども、それは間違いです。もし体が丈夫でなければよい生き方が出来ないのなら、私たちなんか、年々歳々どこから生活に対するこのような愛や信を獲て来るのでしょう。今岩波文庫のスティブンソンの「若い人々のために」というのを一寸よんでいて、この人が、あんな体で海洋の孤島に生活してしかもどんな人生の見かたをしていたか分って、大変面白い。
 勿論歴史的な違いはあるにしろ。いつか去年あたり私が手紙で書いた情熱と感情センチメントのちがいをやっぱりこの人も知っている、さすがであるとニヤリとしました。そして曰く「信は厳粛な経験をつんだ、しかし微笑んでいる大人である。油断なき信は、私達の人生と境遇の横暴とに関する経験の上に築かれる。信は必ず失敗を見込み、名誉ある敗北を一種の勝利と見做みなす云々」スティブンソンの「宝島」やなんかを私たちは面白がらないのだが、そういうものを書かせた――自分の条件を最大に活かして――彼の生きる気持には面白いところがあります。精神の活々とした感受性、習慣や反覆でこわばらない心をこの人は持ちのいい心と云っている。これは柔軟な含蓄ある表現ですね。この表現の中には愉しいものがあるわ。
 きょうは、今月に入ってはじめての丸一日の休日です。あしたあたりから短い小説を一つ書き文芸時評をかき、一寸休んで九月初旬八月下旬までに又たっぷり小説のつづきを書きます、『新潮』。貴方の仰云るように生活をきちんとして、時間を内容ある仕事でぴっちりとはりつめたいと思う。この頃やっとそのこつがわかり、自分もそれに少し馴らされて来たし、仕事と生活との統一の水準が高まりました。覚えていらっしゃるかしら? いつかバルザックが貧乏のためにあれだけの仕事をしたということを、あなたが私へ比喩的に書いて下さったのを。歴史は幾変転して読者の要求が高まるに正比例して、バルザックのような相互的解決が或種の作家にとって外部的に不可能であるところに歴史の妙味があります。
 野原の方のことについて御返事がありましたか? 私の方へはまだであるが、あの地所は広いので、分割して売ると、整理して猶住宅と土地だけは残り得る計算だということは、この間のお母さんのお手紙にもありました。地所が大きいからそういう都合にゆくのでしょう。但し、活動の中心から地理的に遠いため活動的な買手がなかなかつかないらしい。それで整理が永びいているのです。講のほかに近隣からのユーヅーもあるらしい。くわしくわかったら又改めて書きます。
 私はハンドバッグの中にきのう貰った面会許可をもって居ります。四五日うちにお目にかかります。その前に一寸お体のことを調べたいから――私の知識ではあやしいものだけれど。――
 太陽燈あてていらっしゃいますか? 慶応などでも軽い熱のひとはかけている由、時間を加減して。私の手のひらの下にはあなたのおなかの気持のわるいところの感じがはっきりつたわって居ます。そして、私は念を入れてそれらのところを撫でる。何という目の前にある感じでしょう。お大事に。呉々お大事に。

 七月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十五日  第二十信
 七月十日づけのお手紙を一昨日いただきました。あのお手紙は最も真面目な心持と新鮮な誠意とでよまれ、それに対しての返事は具体的にいろいろあります。けれどもこの手紙はそれとは別に野原の家のことについてお母さんに伺ったお返事が今ついたので詳しく申上げます。
 お母様の書かれている順に。
 二十五年前、「商売の失敗野原の信吉さんのことで」三千円の頼母子たのもし。年百二十円の掛金、元は去る七月十一日に全部すむ。抵当として野原の家屋敷、島田の家が入っていた。
 其後十三四年前に又二号抵当で一万五千円の頼母子。一万五千円の中には野原の借金も相当あったが、「いつの間にか野原の不動産及び家屋敷が全部信吉の名儀に書きかえられていました」、父上がお怒りになったところ、立会人二人が入って、年百十五円の頼母子を二十五年間にかけてすまして呉れよと書きものを入れました。もし返掛しないときは全部不動産は兄へかえすこと。
 二三年は野原でもかけたが、その後はかけず、島田で九回まで年六百円をかけ、その後父上の御病気などの事情から頼母子側で抵当を処分して整理することになったが、兼重萬次郎が心配人に入り、三千円の一時返掛で話がきまり、その負担額を、野原は五百坪もあるから一千六百円島田一千四百円ということになり、この三千円は兼重さんが出した。三号抵当に入っていたのでこれは百八十円、世話人その他の費用百五十円。島田の分は合計千八百円以上の負担となった。これは兼重へ追々かえすことにして頼母子は片づいた。
 野原の頼母子の負担は一千六百円ですが、ほかに自分としての借金が利子とも三千円位あって、これも兼重にかりている。土地は時価四千五百円位。買手がつけば一千五百円ぐらい浮いて、本家の家屋敷ぐらいは保てる。兼重も熱心に買手をさがしているというわけです。
 Tさんの私たちへの情愛の示しかたについてなど、私は自分の心持は別に申しませんが、この間島田へ行ったときは、お母さんもやっぱりここまで詳しくはお話し下さいませんでした。
 お母さんは、事情をあなたが御存じないことを知っているTさんとして、貴方に向っていろいろ事実を歪めることについて御立腹です。そのお気持には私も自然な同感があるわけです。
 島田は頼母子からは自由になっているが、兼重という爺さんにはまだ相当の責任があるわけなのですね。この点も春にはぼんやりしていた。恩給はすっかりお手元に戻っているのですが。
 あなたが全体の事情に対して正当な判断をなさることはわかっているから、私はこの手紙はこれでおやめにします。
 猶おばさんからのお手紙で黒檀の仏壇は、かねておじさんが欲しいと云っていらしたものだそうで、大変およろこびでよかったと思って居ります。冨美ちゃんからお礼の手紙つきましたか? お体を呉々もお大事に。だるいのに体をお動かしになるのは大変だと深く察します。私も三日ばかり工合わるくしましたから猶々。

 七月二十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十六日  第二十一信
 きょうあれからかえって、すっかり安心をして、喉がかわいてかわいて。たくさん番茶をのんでトマトとパンをたべて眠りました。私はいつも永い仕事を一つ終ると本当にのうのうして眠るのに、今度はお目にかかったとき、沢山の気にかかることがあったので、珍しくよく眠らず、疲れがぬけなかったので病気したりして。
 昼ねからめて、体を洗って、新しい仕事を考えながら二階で風にふかれていたら、不図思いついて狭い濡縁ぬれえんの左の端れまで出てみたら、そこから四つばかりの屋根を越してあなたも御存じのもとの私の家の二階の裏が見えました。間に自動車の入る横通りが一つあって、それから先なのに、屋根と梢とでその道路の距離は見えず。眺めていて、あの二階にさした月の光の色をまざまざと思いおこし、ここに今自分たちの生活があること、そうやって昔の家の見えること、それらを非常に可愛らしく思いました。あの屋根とここの濡縁との間にある距離はその位だけれども、私たちの生活は何とあれから動き進み、豊富にされてきているでしょう。そのためどれほどの人間らしい誠実さと智慧と堅忍とがそそがれているでしょう。世間では、私たちをある意味でもっとも幸福な夫婦と折紙をつけています。私はもちろんそれをいやに思ってはききませんが、そういう人々の何パーセントが、何故に私たちが幸福な夫婦であり得ているかという、もっとも大切な点について考えをめぐらしているだろうか、とよく思います。
 七月十日づけのお手紙を私は三度や四度でなく読んで、こういう手紙を貰える妻の幸福そしてこわさというものをしみじみと感じました。貴方は何と私を甘やかさないでしょう。(こわいのはむかしからだけれど)あの手紙の中には小さい感情でいえば、普通の意味で、私に苦しい言葉もあった。たとえば、ユリのジェスチュアは云々。――ジェスチュア※(感嘆符疑問符、1-8-78) そう思う。ああと思う。ジェスチュア。だが幾度もとり出してよみ直して、しまって、こねているうちに結局私にのこるものは、生活態度について、貴方が私の可能性を認めた上で求めていらっしゃる水準のより高いところへの健全な激励だけです。
 あの手紙にたいする答えは、きょうお話したこともその一部分です。私の生活の経済的な面をこまかく書いたことはなかったけれども、一昨日、林町へ行って書類をしらべるまで、私はいろいろのことを知らなかったのです。去年の春かえってから、ことしの正月こっちへ越すまでは入院の費用やその他で、自分の分などの話も出さなかったし、こっちへ移ってからは大体四十円程、私のつかえる分としてもって来て、私はそれをあなたの分として、至って素朴な形でやっていたわけです。日常生活は稿料でやってきています。〔中略〕
 目の前に電燈の色が暑いので、昼光色をつけました。水色のような電球。これだと虫が来ないというが来ている。
 稲ちゃんは二十五日に子供たちをつれて、無理をして保田へゆきました。健造曰く「母チャン、どうしたって二十五日おくらしたら駄目だから。日記に、二十五日ホダへゆきましたってもう書いちゃったんだから」だって。
 栄さんは、妹さんが、あやうくインチキ結婚に引かかりそうになったので、そのこわしに出かけ、かえって来ました。もしかしたら又もう一度ゆくかもしれず、そうしたら壺井さんも行って一ヵ月あっちで暮す由。あのひとこのひと皆行ってしまって、私はお喋り相手がないわ。
 七月八月は映画も音楽もロクなのなし。仕事をして暮す。但し、この家は縁側がなくて、いきなり硝子戸なので、風は通るが落付かず。でも私は、あなたにたいしてこういうことは云えません。
 夏、腸をこわすと実にへばりますね。私はまだしっかりしない。あなたの方もなかなか照りつけるでしょうね。木蔭がないから。お体についても、私は緊めつけられるような、息の出ないような苦しい心痛からはもう自由になりました。しかし腸なんか敏感だから、そのためにも私は一層よい女房にならなければならない。愛情なんて、実に必要を見出してゆく直覚、努力、探求のようなものですね。人にたいしても人生にたいしても、決して空なものではないし。主観的なものでもない。愛しているという自分の感情をなめまわしているなんて、何て結局はエゴイストでしょう。(これは小説の中に考えていることとくっついているが)「海流」はチョロチョロ川がすこし幅をつけて来て、いろいろの錯綜もあらわれて来て、やや調子もでて来ました。面白いそうです。「雑沓」より進歩して来ているところもある。技術ではなく、現実に向う態度で、私はこの長篇を努力して書き終るとやっと小説における自身の今日の到達点を具体化できると信じ、本気です。
 きょうは何となく愉しい。私もこれで案外しおらしいのだから、どうぞ呉々もそのおつもりで。これから仕事。では又。もう九時だからねていらっしゃる刻限ですね。どの窓だろう。お大事に。

 七月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月三十一日 午後 90゜[#「90゜」は縦中横]近いあつさ。第二十二信
 二十七日づけのおはがきを二十八日に拝見しました。この二三日じゅうにとりにゆきましょう。何だか今年の暑気は体にこたえること! その後いかがですか。私はもうおなかの工合も直って汗をふきふき仕事しているから御安心下さい。
 富雄さんのところから返事が来ましたから、又その内容をおつたえいたします。この間、あなたが両方が同じような気持だから云々と仰云って。まったくその通りで何だか苦しいわ。何故自分で自分の実際を私たちに語る正直さ信頼をもち得ないかと思って。島田がどうやらやれるようになったのは只管ひたすら野原のおかげであるのに云々。達ちゃんや隆ちゃんの献身をも青年同志の思いやりで見るべきだのに。
 さて、
(一)[#「(一)」は縦中横] 大正十年頃光井の土地六百坪及び家、信吉名儀となる。
(二)[#「(二)」は縦中横] 大正十二年一万五千円の頼母子。返掛六百円の中、島田四百九十円、光井百十円。光井はあと返掛せず。
(三)[#「(三)」は縦中横] 本年初め頼母子を整理し二千八百円の中(母さんのお手紙には三千円とあったようですね)野原千六百四十円。島田千百六十円。頼母子は消滅して、千六百四十円は光井の負債となる。他※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)舎其他を担保にして千七百十五円の負債。合計二千七百十五円也。
(四)[#「(四)」は縦中横] 整理方針、土地家屋の売却。価格約三千円。母屋をとりのこすためには約千円位調達の必要あり。
(五)[#「(五)」は縦中横] 信吉の主人格である周防村の大地主山口彦一に、千百円の負債あり。信吉と富雄の名。
(六)[#「(六)」は縦中横] 光井の家は本年一杯で整理。母屋をとりとめられなければ一家離散の由。
 あなたがいろいろ親切にたずねて下さるのをよろこんで居ります。島田に対してののろいには苦笑しますが。――
 私の手紙は又別に書きます。混同してしまいたくないから。
 お弁当を外からちっとも入れられないと何だか不自由がましたのではないかと心配しがちですが、この間のお話で何だか大変安心しました。案外の便利もあるものですね。
 どうかお大事に。リンゴの液が腸のため体のためによいのを読むので、どうかして汁だけめしあがれないものかしら。んでカスを出すというのも不便であるし。何かよい工夫はないでしょうか。では又。いろいろのお喋りを後ほど。

 八月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 第二十三信 けさは珍しく汗をかかないで目をさましたと思ったら、午後はやはりむして来た。今年は例年になく夕立がありません。私はおお暑いと息苦しく感じる毎に、そこの建物の上へ大きい大きい如露をもって行ってサーサァと思いきり水を注ぎかけてあげたい感じです。
 工合はいかがですか。寝ていらして背中がむれるでしょう。ベッドの上で体を右へまわしておいて、体とベッドの間へ団扇うちわで風を入れて又ねると、ほんのそのときぎりですが案外涼しいものです。右へかえったら又左へかえってという風に折々やると。
 私はこの間、二三日少々ぐったりとしたが、おなかの方はもう大丈夫ですし、仕事もしておりますから御安心下さい。私は暑いと云っても、自分の日常的条件でどうこういう気分は全く持っていないのだから。
 稲ちゃんは前便で書いたとおり保田。栄さんは妹さんが変な男にたかられてこまっているのでそのおっぱらいに小豆島。もし繁治さんが行けるようなら、二人で八月一杯滞在の由です。中野も国。戸台さんも保田。俊子さんは軽井沢。雅子さんは体の工合がわるくて八月一杯休みをとりました。何とか工夫がついたら暑いアパートにかがまっているより、田舎で暮したらよいと思って、保田の方をきき合わせちゅうです。
 島田や野原へお手紙お出しになりましたか。申すまでもないことですが、何か一寸した思いちがいからでも双方がめるという状態らしいから、どうぞそのおつもりで(経済的な問題に関して)。この間、富雄さんからの手紙の内容をおつたえしたとき、私としての手紙を別に書きましょうと云ったのは、この頃いろいろと又身にそえて分ってきたことがあって、私は心からあなたにお礼を云いたいことがあるの。あなたが、一つ一つと私たちの本質的な生長のために必要でないボートを私にやかせることが、どういうことかという真価が次第に明瞭にわかってきて――自分の生活感情に新しく加って来る推進力の新しい発見の面から分って来て、私はそのことについて心のもっとも深いまじめなところから、改まってあなたにお礼を云いたい心持なのです。私はどのボートがない方がいいかを洞察し得るものは、私をその上に泛べている広い、たっぷりして活々した愛情なのであるから、その意味でも私は何だか鞠躬如きっきゅうじょとした気持になる。この頃私は自分たちの中にあるそういう貴重なものに思い及ぶ時、感動から涙をおとすことがある。自分たちの生きてきた五年の歳月というものの内容を考えて。――普通のもののけじめで五年が一区切りになるばかりでなく、今年は私の生涯にとってなかなか一通りでない意味をもつ内的な問題が発展させられた年でした。
 あなたには私がこんな妙な切口上のようでお礼を云ったりするの、おかしいかもしれないが、笑いながら、ユリのばかと笑いながら、やっぱりそれでもあなたにも分る我々のよろこびというものはあると思うの。抽象的に云っているがお判りになるでしょう。いろんな、文学的なおしゃべりや何かとは一寸別にして、この手紙を出したい心持があるのです。
 私は自分の誠実さによってだけ遅々としてものを理解し、本当に会得してゆくたちの人間だから、あなたは良人としてある場合は少なからぬ忍耐をも必要とされます。あなたの忍耐の結果が必ずしも無でないところに私としてのよろこびもある。暑い最中に暑くるしいお礼をのべておかしいが、お互に暑さに堪えている折からのおくりものとしてはなかなかに新鮮なものなのですから、どうぞおうけとり下さい。

 八月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき)〕

 この頃ハガキが新しくなりました。見本をかねてお医者様の名前をお知らせ申します。慶応大学病院外科元木モテギ蔵之助氏です。この方は日本での権威です。では又手紙は別に。

 八月十五日午後 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 八月十五日 日  第二十四信
 きのうは、腰をかけていらっしゃれたからすこしは疲れがましでしたか? 本当におやせになったけれどもやせたことだけに別に拘泥せず、熱が高くないことの方を寧ろプラスとして見るべきなのでしょうね。あなたの御努力も、そういうところに目立たぬながらやはり決定的な価値であらわれているのだと思いました。後姿はいかにも相変らずのあなたです。ちらりと見送り、おお何と珍しいと浴衣の肩をふって歩いていらっしゃる瞬間の印象を全心にうけた。だって何年ぶりでしょう※(疑問符感嘆符、1-8-77) あなたの全身を動作の中で眺めたというのは。――
 お話の本は、私は普通の図書目録だと勘ちがいしていて、それなら何かいろいろの目録でよいという風に考えていた。今日東京堂へ行って揃えてお送りします。
 けさ、七月二十七日に書いて下さった手紙がテーブルの上にのっていた。きのうはいろいろくたびれて、夜は珍しく九時頃から床に横になり月を眺めながら、ひるまのいろいろのことを思ううちにうとうとと眠り、十二時頃目を一寸さまし、又暫く目をさましていてもう月は屋根のむこうに沈んだが、ベッドの中ですこし片側へよって、又いつか眠るまであなたとお喋りをした。時々撫でてあげながら。――
 あなたのガクガク的調子をユリが悄気なかったかと思って下さること、ありがとう。悄気ることはなかろうという御想像は全く当っています。私はあなたに対しては私に向ってされるすべてからいつも最善の、そして、最愛の正当な理解をくみとるのをつとめてもいるし、お互の誠意の当然の結果として必ずそうあるのです。だからあなたの一つの笑顔さえ私にどんな意味をもつかお判りでしょう? ここが私たちの生活の実に基調です。
 私がよく勉強している時ほど所産に対してハムブルだということ。私はあなたにハムブルでなく思わせたことがあったかと、きまりわるい気がした。私たちの仕事の目標が、日常の現象的に対人的な比較の上に立てられて居らず、新しい文学的価値をもたらすために、自分の生涯の生活的芸術的全努力がどの程度までの寄与をし得るものかと考えて日々を送っているのだから、本質的に傲慢ではあり得ない。傲慢であることと、確信に充ち、自分たちの努力の方向の正当性を信じている生活態度とはおのずから別ですもの。根本的に私はゴーマン人間ではないわ。癇癪かんしゃくは起すが。そして軽蔑すべきものに対して軽蔑をかくし社交性を発揮することも出来ないけれども。どうか私が自分たちの希望している何分の一かでも価値のある成果をもつことが出来るよう、時々お目玉も大変にいいわ。
 郵船のものや何かきのうお話した通りです。『ダイヤモンド』の何頁かをフームと眺めていらしたでしょう、可笑しい。お手紙のうち乾布と冷水をやっている、のあと、僕の石盤にも云々まで二行半真黒けよ。あなたのお手紙としては初めてです。それから、窓をあけて眠るのは、雨天や靄の濃い時はよくないそうです。シャボンはこれからずっとお送りします。匂いというものは神経を休めるから。神経の疲れたとき水でシャボンで手を丁寧に洗うのは大変よくききます。御存じかも知れないけれども。
 お久さん、お久さん元気かねと来ているよと云ったら、おや、ありがとうございます大元気だとおっしゃって下さいましって。暑いので簡単な服を着て、鉢巻をして、なかなかユーモラスでやっています。あんまり足の裏を真黒にしているので熊の仔という名があります。信州の中農なので生活に対する気分が、気質的にはよいが、どこまでもしっかりしたということは望めず。雅子さんは一ヵ月体が悪いので休暇を貰って今保田にいます。稲子さん、戸台さんと皆あっちです。ユカタあと一二枚ほしいとこのお手紙にはあるけれども、きのうはもういいと云っていらしたわね。
 きのう、本はおよみにならないのでしょうとおききしたのは、近頃の流行的作品なるものを少しずつ読んで頂きたいと思っていたからですが、勿論いそがず。
 作品の評価の主観性の要求とはなかなか微妙な錯綜と混乱とを導き出しています。作品に社会性を求める必然は健全ですが、平凡な市民の日常的限界が作品の限界となりやすくそこに又経験主義的な危険がかくされている。婦人作家の昨今の暮しぶりもいろいろに分化して来ているし。では又。お体のことは決してくよくよはしません。でも、非常に本気なの癒そうとして。暑さをお大事に。

 八月十五日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(はがき二枚)〕

 さっき手紙を書いてから東京堂へ出かけて、かねて御注文の図書総目録というのを調べました。あれは栗田書店から出ているので昭和八年版新しいのなしです。昭和八年以前の本を知るのにだけ役立つわけですが、どうしましょう。『出版年鑑』の十二年版はもう御覧になったのでしたろうか六月出版ですが。もし昭和八年以前の分でよかったら総目録をお送りいたしますが。(第一)

 本郷の南江堂へ行って学問的な本をしらべて、腸と太陽燈療法についての本をお送りしましょう。普通の本やではだめです。かえりにもとの砲兵工廠の横を通ったら、今あすこは後楽園スタジアム九月開場予定として工事をやって居ります。中村光夫の『二葉亭四迷論』を古本で買いました。御覧になる気はないかしら。『胃腸病の新療法』日野お送りしますが大したことなし。終(第二)

 八月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(ダマスカスの細工物「ランプ」の絵はがき)〕

 八月十七日、きのうの午後太郎と一緒に本郷の南江堂へ行って、本を買いお送りしました。私は何というあんぽん! ほんとに何という。外ならぬあなたが体のために本をよむことも注意していらっしゃるということの意味が、やっと今になってはっきり判ったなどというのは。本当に御免なさい。私はこれから本をよまぬあなたのために、毎日一枚ずつ小さいお喋りをのせたハガキをかくことにしました。仕事をはじめる前の挨拶として。

 八月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(トルコの細工物「大ざら」の絵はがき)〕

 八月十八日、朝。
 御機嫌よう。工合はいかがですか。きのうは九三度二分ありました。濡椽の外の柱にさち子さんが蒔いた朝顔の花がこの頃咲き出し今も咲いている。きょうは、小さい小説の仕事にかかります。元フランスの首相であったブルムが「結婚の幸福」について論文があり、それは男も女も多夫、多婦的傾向をもっているのだから、或年齢までそれでやって後結婚すると幸福だと云い幸福を平凡と休安に規定しているところは彼の進歩性を語っているではありませんか。

 八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕

 八月二十日、永井荷風の「※(「さんずい+墨」、第3水準1-87-25)東綺譚」ではないがラジオはほんとうにきらいだ。この頃はあっちでもこっちでも。家々が開け放しだからなおたまりません。空が皺くちゃになるような感じですね。お気分はいかがですか。私は体の工合がつかれて余りひどいから明日あたりから暫く国府津へ仕事をもって行こうと思います。疲れがたたまっていてよろしからずです。きょうは又少々暑くなりましたね。

 八月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 神奈川県国府津前羽村字前川中條内より(封書)〕

 八月二十二日、晴、第二十五信、九十二度、きのうは、朝のうちそちらへ出かけてやっと夜着をとって来て、それから小さい例の茶色のスーツケースに本や着換えをつめて、四時に東京を立ちました。寿江子が横浜まで送りに来て、あとは私一人。この頃国府津は小田原にすっかり交通要点をとられてしまって、この頃は準急もとまらない。但し、街路はすっかりコンクリートになって、家の前の私たちがのぼった古松の生えた赤土の崖などはどこにもなくなってしまった。そのことは多分去年の夏、あなたに其那スポーツは体の弱っているときにするべきでない、と云われたドライブで家の前を通ったときの印象で書いてさし上げたと思います。庭は芝生になっている。母が没した後父と来たとき植えさせた合歓木ねむのきが風に吹き折られもせず一丈ほどに成長している。
 私はこの間のハガキに書いたようにラジオのやかましさを聞いて机に向っていると、炎天の空がくしゃくしゃ皺になって感じるような神経の工合になったので、本当に本当に思い切ってこっちへ来ることにしました。相変らず仕事をもってではあるが、ラジオがガーガー云わず、来客がなく風が吹くのだけはましです。きのうはいい月夜で、窓からあまり海上が美しいので、ふらりと波打ぎわまで出てみたら、面白い発見をしました。虹ヶ浜であなたは知っていらっしゃるかしら。月の海というものは、高い遠いところから見ると銀波洋々であるが、波打際までゆくと月のさしている一筋のところだけ海上がかがやいて、あとは微妙に暗く、しかもどこか明るく海面がもり上ったように見えるものですね。大変珍しかった。箱根の山の方も、風に吹かれた砂丘の方も見えず。丸い白い浴衣に団扇をもった私一人が月の照る浜にいるだけ。犬もいない。
 家の方は、S(略称「バラさん」という)父、寿江、私とお馴染なじみの看護婦のお母さんが来ていてくれるので私は本当に安心していられる。
 こんどはまわりがすこし心配しはじめてそういう順立てもしてくれたのです。
 お工合はどうですかしら。この間の本はすこしは役に立つでしょうか。どうしても腸の疾患だけを特に一冊にとりまとめたのはありません。あの本は南江堂で買ったがその前日丸善(神田)へ行ったら医書のところに『人間は皮膚を変える』というヤセンスキーの小説、黒田辰男訳が立ててあって、笑いを押えることが出来なかった。何たる皮肉でしょう! この作者の現実と人間の進歩の関係を見ることに於ての誤りは皮膚だけかえるところにあると批評されているが、皮膚を代えるのは生理的現象であるとして丸善の小僧氏は医学書の間に入れてある。実に善哉善哉である。近来の傑作です。こちらで私は全く神経の休養とその間にゆっくり仕事をすることを眼目にしているので林町からも誰も来させない。台所の方にずっと留守番をしているおミヤさんという六十四のお婆さんひとり。父が私がここで勉強するためにテーブルを一つ買ってくれた(一九三五年の初冬)。それを今日三年ぶりであけようとしたら(引出し)狂ってしまっていてあかない。広間のテーブルが夏なので室の中にタテに置いてある。あの大ソファは炉に背を向けてTの字に。そのテーブルのところでこれを書き、又仕事もするつもりです。私は大変意気地がなくてわるいが、全くこの間うち少し病気のようになりました。例えば、ああこの風に一緒にふかれたい。そういう感情と、ああこれをたべさせて上げたい、ああこの風に吹かせてあげたい、そう思うのとでは感情のニュアンスが実に実にちがう。ああこの風に一緒に、だと私の目の中にもう一つ目ありのくちで、風よ我らを共に吹けでどこへでもスースー行って平気だが、吹かせて上げたいとなると、もう何だか涼しくても切ない、美味くても切ないでね。だから病気のようになる。そして、おお畜生、自分が病気の方が楽だと思ってうなる。
 でも、私は又もう一つ勇気を起して、この切ない心持もちゃんと持って身につけて、平静な明るさをとり戻しますから、どうか御安心下さい。ここに月末までいて、すこし神経を休めたらいいでしょう。よく働いたも働いたし。この次手紙を下さるときどうかユリのこの心持におまじないをして下さい。ユリよよく眠れ。よくうまがって食べろ。楽しめ、笑え。そして俺のこともよく心配しろ、と。
 ほほう、私は大分アンポンの本性を露出していますね。でも、私自分ひとりで、私が元気でいればそれは貴方もよろこんで下さると納得させて居切れないのです。ホレ、しっかりして、とおしりの一つもぶって下さい。
 この間うち一日一枚のエハガキをはじめたのだが、御覧になっていますか? 甚だ心もとなし。ではこれから仕事(『報知』月報)の準備にとりかかります、お大切に、お大切に。

 八月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕

 八月二十四日 国府津  第二十六信。こういう書簡箋が出て来たので。
 きのうは、実に実に珍しい大雷雨でしたが東京はどうでしたろう。ああ降る! 降る! と白雨煙るのを眺め、そこの屋根に沛然と雨の注ぐ気持を考えたけれど、降ったでしょうか。天と海上との間に火の柱が立った。はじめての見もので壮大、かつ恐しかった。こういうときの雷は地軸をゆるがすという形容そっくりです。裂ける如し。
 時評を書いています。あと二回で終る。今度は、むくみも引いたしよく眠るし成績はようございます。
 あなたはいかがでしょう。よくおよりますか。私はいろいろの意味でこういうところに十日以上暮している辛棒はないから、これからは余りへばらないうち三四日本をもって来ようというプランです。
 この海岸は御承知の通り海水浴場がないからその点ではさっぱりして居ります。遊びに泳いでいる者一人もなしです。私は豆腐ばかりたべている、それから胡瓜きゅうりと。二十九日に緑郎がパリへ立ちます。音楽の勉強のために。福沢の孫で法律をやっている青年と一緒。緑郎は何か得て来るでしょう。どうかお大切に。国府津へ原稿を出しに出かけるのでいそいで一筆。

 八月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕

 八月二十六日  第二十七信
 今朝十六日づけのお手紙が来ました。東京からお久さんの付箋ふせんがついて。
 二十二日にこちらで書いた私の手紙はきっと今月の終り或は私がお会いしてから後についたりするのでしょうが、このお手紙に、ユリもどっかへ行って休めとあるので私は大変気が楽になった。去年の夏は体がしゃんとしていなかったのに馬力を出したからいけなかったし又、疲れを休める適当な方法を知らなかったのでドライブしたりしてしまいました。
 今年は疲れかたのタイプも休むタイプも会得したから、ドライブなどしないし、ここでも日中は日かげでいてつよい光線に直接当らぬようにこまかく注意して居ります。きのう寿江子が太郎をつれて来て、私の顔色がましになったと云っている。二十三、二十四、二十五と、毎朝十一時に国府津へ行って原稿を送り出し、五回の時評が終って、きょうは休み。
 作家が客観的に全面的に押し出されていないと作品においても萎靡いびするというのは真実です。今日のような社会の雰囲気の中では、この点が実に実に決定的な意義をもっています。どこかに一寸もたれ込むものをもっている人々は、暫く風をいなす気でそこにもたれて遂にえらいことになる有様です。私は幸、乱作ではない多産の時期に入って来たらしい様子です。本当に仰云る通り完成をしきった段階というものはないのだし、自分なら自分というものに現れている過渡性が、どういう歴史性を語っているかということが客観的に把握され、その意味を客観的に評価出来るところまで力をつくして生きて居れば、自身の所謂未完成をおそれる理由はないのです。
 現在の私は仕事の軽重をよく見きわめて整理して、基本的勉強を怠らず、体を気をつけて、仕事と休養のバランスをつけることです。私たちの生活が段々深められ成熟して、二人をおく条件に阻害されることが益※(二の字点、1-2-22)減って来るということは何という歓びでしょう。私たちはこうして自分たちの不動な幸福をつかんで行く。そしてつかんだものは決して手離すことなく豊饒になってゆく。ユリのそのキャパシティーを鼓舞して下さい。
 おみそ汁が買えることは知らなかったからああそれはよかったと、口の中にいい味がした。沢山は発酵するがすこしずつはきっといいのではないでしょうか。私がこしらえた辛い辛いおみそ汁!
 Tさんたちのことは、私もいろいろ心配して居ります。いつも互のなすり合い以上のところに原因があることを云っているのですが。――こんど又書きましょう。しかし本当に合点させることは容易ではないでしょう。
 私は昨今仕事の参考に必要になっていた『日本文学全史』(東京堂)久松潜一の『日本文学評論史』(上下)等を買いました。何しろ「もののあわれ」「ますらおぶり」が一部のアプ・トゥ・デイトですからね。久松氏の仕事は箇人でだけ問題を見ている範囲ではあるが、私の欠けている知識は与えます。それから、カールの書簡集の部分などぬけたままになっているから、其を補充します。当分のうちに役立てるのが一番有効というのは切実にわかります。それから、いつか、父の記念出版に私の書いたものについてあなたの仰云ったこと覚えていらっしゃるかしら。私があれだけでも書いたというのは云々と私が云ったら、もし書けないのなら云々とあなたの仰云ったこと。思い出して下さい。そういう場合も予想されないことはない。私は自分たちの生活と文学的業績に対しては飽くまで純潔であることを望んでいるのだから。大変抽象的だがお分りになるでしょう。とにかくあらわれた形はどうあろうと我々の生活の成長のためにこそ活用されるべきなのは云わずとものことなのだから。
 私の盲腸何とうるさい奴でしょう。此奴こいつのために、私の休養の形は安静、床に休むことになって来る。おなかの右下四分の一にだけ邪魔ものがいる。きのうきょう、これがバッコしているのです。今月のうちに科学と文学のこと(科学ペン)婦人作家の今日(文芸復興)この間ハガキに一寸書いたブルムの結婚観の批判(婦公)をかき来月から又すこし沢山小説をかきます。ではどうかお大事に。

 八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(絵はがき二枚 小田原海岸(一)[#「(一)」は縦中横]と小田原駅(二)[#「(二)」は縦中横])〕

(一)[#「(一)」は縦中横]八月二十八日午後二時すぎ。
 国府津へこの頃通用するようになった全国速達で原稿を出しに来たついでにバスで小田原まで来ました。この駅の右手にコウズのあの茶屋が大きい店を出している、そこで今御飯をたべようとしている、赤く塗った椅子その他、箱根気分のところです。国府津からバス20[#「20」は縦中横]銭。出征送るのでとても大混雑です。

 八月二十八日(二)[#「(二)」は縦中横] 小田原の御幸ヶ浜に遠い親類のやっている宿屋があって子供のうちよくそこへ来ました。ある正月、チリメンの長い袂のきものを着てこの浜の波打ぎわの砂丘に腰かけていたらいきなり砂がくずれて波の中におっこちて本当に本当に死んだと思ったことがあった。大体ここも海は荒くて入れません。この食堂の隅に老夫婦居り父母を思い出します。

[#次の手紙は「遺書」として書かれ投函されなかった。底本では第十九巻の巻末に収録]
 一九三七年八月二十九日

 一九三七年八月二十九日 日曜日 晴
   顕治様  国府津。

 きょうは、爽やかな風がヴェランダの方から吹いて来ている。セミの声が松の木でする。海の方から子供らが水遊びをしているさわぎの声が活々と賑やかにきこえる。――平凡な午後です。
 私は今日書こうと思っていた仕事がすこし先へくりのばされたので、長テーブルの前で風に吹かれつつ、この空気を貴方に吸わして上げたいと沁々思いながら、裏から切って来たダリアの花を眺めているうち、ああ、きょう、あの手紙を書こうと思い立って、これを書きはじめました。この手紙は謂わばすこし風がわりの手紙です。何故ならこうして書いている私自身が、いつこれを貴方が御覧になるかということについては全く知らないのだから。
 それにもかかわらず、私はこの手紙は必ずいつか平凡な体も心もごく平穏な一日に貴方に書いて置こうと思っていたものです。このことを思い出したのはもう随分久しいことになる。私が市ヶ谷にいた頃からです。
 健康の力が、私の希望するほどつよくないということ、しかし、私たちは斯くの如く夾雑物のない心で歴史の正当な進展とそこに結びつけられている自分たちの生活を愛し、互の名状しがたい愛と共感とを愛している以上、或場合、私の生きようとする意志、生きる意味を貫徹しようとする意志と肉体の力との釣合が破れることが起るかもしれない。それでも、私はやはり人及び芸術家として、自分の希望する生きかたをもって貫こうと思っている。芸術家に余生のなきことは他の、歴史に最も積極的参加をする人々の生涯に所謂余生のないのと、全く等しい筈であると思う。私たちに余生なからんことをと寧ろ希いたい位のものです。
 私はこういう点では最も動ぜず、正当な理解をもつ幸福にある。それでね、私はいつどのように、どこで自分の生涯が終るかということは分らないが、最後の挨拶とよろこびを貴方につたえないでしまうということはどうも残念なの。私は、こうして互に生きていること、而して生きたことをこのように有難く思い、よろこび、生れた甲斐あったと思っているのにその歓喜の響をつたえないでしまうのは残念だわ。このようによろこぶ我々の悦びを、何とか表現せずにしまうということは。
 よしんば永い病気で生涯が終るとしても私があなたに会えたことに対する、この限りない満足とよろこびとは変らないであろうし、ボーとなってしまってポヤッと生きなくなってしまうのなんかいやですもの、ねえ。
 ああ、でもこの心持を字であらわすことは大変困難です。体でしかあらわせない。私たちを貫く知慧のよろこび。意志の共力の限りない柔軟さ。横溢して新鮮な燃える感覚。愛の動作は何と単純でしかも無限に雄弁でしょう。互の忘我の中に何と多くの語りつくせぬものが語られるでしょう。
 私と貴方との境の分らなくなったこのよろこびと輝きの中で、私の限りない挨拶をうけて下さい。
 貴方について私は何の心配もしない。貴方は私のように不揃いな出来ではなくて、美しい強固さと優しさと知に充ちている。私はその中にすっぽりと自分を溶かしこむこと、帰一させてしまえるのがどんなにうれしく、楽しい想像だか分からないのです。もう自分というものがあなたと別になくて、間違う心配もなくて、離れている苦しさもなくて、一つの親愛な黒子ほくろとなってくっついているという考えは、私を狡猾なうれしさで、クスクス笑わせるのです。
 そして、もう一つ白状しましょうか、私の最大の秘密を。それはね、この頃私の中につよくなりまさりつつある一つの希望。それは、私がさきに、あなたの中にとび込んで黒子になってしまいたいという動かしがたい願望です。だから、あなたがこの手紙を御覧になるときはその点でもユリ、運のいい奴! と私をゆすぶって下すっていいのです。ホラね、と私はほくほくしてくびをちぢめて益※(二の字点、1-2-22)きつく貴方につかまるでしょう。
 涙をおとしたり、笑ったりしてこれを書いて、海上を見渡すと実によく晴れて、珍しく水平線迄が澄みきっている。
 いかにも私たちの挨拶の日にふさわしい。ではこの早く書かれた手紙を終ります
 わが最愛の良人に。
ユリ
 九月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(封書)〕

 九月一日 夜十一時半  第二十八信
 林町のテーブルで珍しくこれを書いて居ます。急にバラバラ雨の音がしている。明朝緑郎がフランスへ立ち、咲枝が送りがてら神戸の友達のところへゆく。倉知の俊夫(咲の兄)が召集されて出かけ、従弟の倉知ただしが又呼ばれて出かけ、春江の良人河合(咲の義兄)があぶないと云う工合で、この頃の空気がつよく反映しています。
 さて、昨日は疲れていらしたところを却っていけなかったかもしれませんでしたね。口がお乾きになる様子でしたね。しかし、秋になって気候も落付いたら追々きっと調和が保てて来るでしょう。理想的に行かないにしろバランスがとれるようになるであろうと確信して居ります。
 きのうはもう時間がなかったので、けさ予審判事にお会いして、体に関する条のことお話しておきました。それに関する部分だけのこととしての私の理解に立って。
 本とりそろえて最近にお送りします。私は明夕又国府津へ行って六日頃まで居るつもりです。菊池、越智氏のことは島田のお母さんに伺って一番手近い機会にすっかりすましてしまいましょう。
 きのうは本当につかれた様子をしていらしたし、いかにもおなかの気持がさっぱりしない風でした。其でもあなたの心持がやっぱり相変らず平らかで、笑顔も暖く励ます光をもっていることは本当に本当にうれしい。私たちはいろいろのことから健康を失ってはいるが、私たちに健康を失わせた人生の経験は、私たちに不健康の中でも、互の笑いに輝きあらしめる力を与えているというのは何と微妙であり意味ふかいことでしょう。病気であるのに猶且つ健康な人々の心のはげましになり、生きかたのよい刺戟になり得る。私も及ばずながら病気したってそういう風に病気をし、それを克服してゆこうと思います。
 では又ね、ゆっくりいろいろ書きます。どうかおなかのブツブツが早くましになれ!

 九月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 国府津より(御幸ヶ浜海水浴場の絵はがき)〕

 九月四日、四五日いなかった間に国府津はすっかり秋めいて来ました。御気分はいかがですか。おなかのいやな心持はずっと同じですか。私は盲腸がつきものになってから、そのおなかの感じがややわかります、眉のところへ反射して来るようなあの感じ。お大事に熱は下りましたか? 涼風が立ってしのぎよくなったらとたのしみです。ジョルジュ・サンドの「愛の妖精」というのをよんだ。一種のお伽話とぎばなしですね。

 九月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月十一日  第三十信
 非常に荒い天候ですね。きのうの雨のひどさ、きょうの風のきつさ。南風だから落付かぬ。お気分はどうでしょう。本当に早くカラリとして秋になればよいと思います。そしたらさっぱりとなさるでしょう、そう思う。本年の残暑のきびしさには鬼もカクランを起した位です。
 さて私は八日の朝、国、咲、私と三人で国府津からかえりました。出征する若い兵士とのりあわせ、東京まで来て、一寸林町へより、南江堂へ来ている本をとり目白へかえりました。家の方はSさんのお母さんが来ていてくれたので全く安全。どうしても栄さんの顔が見たく電報を出して夜来て貰ったが、ほかにも忽ち数人のお客です。あなたに手紙をかきかけたのがそれで中絶。次の日は、いろいろな人に入れてやるものを荷造りしたり、夕飯を戸塚の夫婦栄さん夫婦とたべて夜いろいろ物語。
 きのうは雅子さんが真黒に日にやけ、体のしまった形で保田からかえって来ました。勤め一ヵ月休み月給もらっていて、又つとめるのです。今度は仕事ぶりを整理してすこし疲れを減らしたいと云っていますが、うまくゆけばよいが。――
 島田のお母さんから先日伺った菊池、越智氏のことについて御返事が来ました。お母さんのお話では、あなたの思いちがいでいらっしゃるようですよ。当時あなたがひとママ迷惑をかけるのを大層いやがっていらしたので、ずっとお家で出していらしったとのことです。何かの覚えちがいしていらっしゃるのかしら。そのような金は一銭もないと仰云っているのですけれど。――何か其那でもあったのではなかったでしょうか。
 それから島田と野原の負債の表をつくるようにとのことで、私こまってしまっているのです。それはね、お母様が手紙はあなたへおつたえしたら置いておいてくれるなとおっしゃったので、又材料がなくなっている。そう度々きいて上げることも出来ず。どうかあしからず。
 野原の方も、このお手紙によると買手が二三人ついたそうです。そして主屋おもやとその敷地ぐらいは十分のこる勘定になるそうです。そう例の爺さんがお母上に申した由です。大変結構です。あなたもいろいろ配慮してお上げになった甲斐があるというものです。
 お父様、すこし心臓が弱くおなりになったらしい。私は十月一杯はどうしても動けないがそのうちに又折を見て、今度は短い期間お見舞に行こうかと思って居ります。お目にかかれば本当に本当によろこんで下さる。相すまない程うれしがって下さる。もうすこし近かったらねえ。でも十月以後にはどうしても一遍ゆくつもりです。そして行ったら野原と島田が負債のことで感情的になっているようなことのないように、よく大局的に話して来ようと思います。一人一人の生活態度に対して抱く批判と、家と家との心持とは一つものではないのだから。
 私は一つ感想をかいて、それから又小説。国府津には、出征した従弟のことや何かで四日東京へ戻って前後七日と五日いたわけですが、それでも今度は『報知』の月評、『科学ペン』、『自由』とみんなで五十五枚ばかり仕事したからよかった。八月は体が苦しくて能率低下と思ったが、それでも八九十枚の仕事はしていました。しかし、私は様々沢山仕事をしている人の仕事の質をも考え、自分の仕事はどうかして質量ともに高めたいと切望します。同一水準で沢山かける、これでは悲しい、我々の年や業績の歴史から云って。やはりのろくても前進しなければ。よく眺めていると、作家でも、日常性というものを健全に把握せずそこへ足を漬けている人はすこし作品が調子にのってつづけて出ると忽ち下らない日常の描写になってしまうのは、実に教訓です。そして、その人々に日常性に浸ることと無条件肯定の誤りを誤ったところで、それはインテリ性という風にだけ感じるところ、何と微妙でしょう。いつかのお手紙に作家の理性をも科学的に育てることその他実に真理であって、しかもそれを自身の心臓で会得することの必要を知っている作家、又知ろうとする作家、実にすくない。今日は複雑な理由によって作家センチメンタル時代です。芸術家としての勇気とか献身とかいうことさえ実質不明瞭の感傷でうたわれて居ります。センチメンタルでないとピッタリ来ないと云った風です。こまったものなり。読者のみがセンチメンタルでないところが今日の文学的特徴です。
 壺井さんもしかしたら又失業しそうです。鶴さん相変らず。この間の晩皆が呉々よろしくとのことでした。稲ちゃんいそがしくて保田からハガキも上げなかったがわるかったとしきりに云って居ました。
 ああ何と風がひどいでしょう。書いている紙の上に天井の塵がおっこちる。では又書きます。医術の本でも何だか苦笑し腹の立つような非科学的な類別をする者がありますね、南江堂の本の終りの部分[自注17]。呉々もお大切に。酸っぱい果物がよくないことは知りませんでした。

[自注17]南江堂の本の終りの部分――南江堂出版の結核に関する医書に、思想問題をおこす人間は多く結核患者だという独断が書かれてあった。

 九月十七日午後 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月十七日  第三十一信
 きのうは本当にいろいろと、ほんの一寸した小さな事柄まで珍しく嬉しく、そのうれしい波がきょうまでも響いて体の中に流れているようです。久しぶりであなたの身ごなしに特徴である闊達な線の動きも美しく見えてつよく印象にのこります。一昨日は非常に苦しい心持であの壁の外からひきかえしたので、どうしても真直家へ引かえす気がせず、戸塚へまわって、防空演習の暗い灯の下で白飯をたべてかえった。昨日は朝七時半から出かけていて、一昨日の気持のつづきで、すこし気の晴れる方向へ事が進んだので、どうしても一寸よって見たく雨のひどい裡を行った。でも本当にびしょぬれになった甲斐があってうれしかった。かえりに又長い長い高壁に沿って、ザッザッと傘に当る雨の音をききながら歩いていて深く一憂一喜という心の動きかたを感じました。勿論其は当然であるけれども。しんでは安心して居ると云うか、何かともかく不動の土台がある。しかしその土台に、殆ど高く鳴り響く波動を打って苦しい心配やその心配をめぐっての様々の考えやが動く。土台はそれでもわれることはないのでじっとしたまま益※(二の字点、1-2-22)激しくつよくその波動にこたえてゆく。この感情は人間に日常的な時間の観念を失わせ、日常の社交性を失わせるようなものです。
 けさは、きのうのつかれが出て、九時に一度目をさましてから、又ベッドに戻って心愉しさの中で可笑しい夢を見て、その夢の中ではあなたの肩と横顔と目差しばっかりを見ました。あなたの紺絣を着た肩のまわりには、あなたを歓迎している人たちが沢山居て私はこっちから近よれない、あなたはこっちをちょいちょい御覧になる。そしてそこは田舎でね、馬蹄型の山路も遠くに見えた。可笑しい夢!
 夜着は、きのう注文しておきましたから、二十日にはお届けします。
 夏の間じゅう下の四畳半を勉強部屋にしていたのだが、飽き果てたので、二三日前から二日がかりで、又二階へテーブルをもち上げました。この二階は六畳きりで二間南があけっぱなし。東の方へ机を向けないと形がつかず、そうすると右手の書いている方から光線が入って紙にかげをつける。南へ向ってはのぼせ過ぎますから。――
 私は勉強部屋だけはすこしゆとりがあってその部屋の中をいろいろ考えながら動きまわることの出来るところが欲しい。本気になって来ると私はひとと話もしたくないし顔も見たくなくなるから。
 島田へは年内に是非ゆきます。十一月に入ってゆけるようになるだろうと思います。フタの浮いたお風呂を思うとクスクス可笑しい。全くあれは奇妙なものね。あの風呂は長湯出来ない。心持から。あなたの烏の行水も子供のときからああいうお風呂だからではないでしょうか。
 高校のまかないのことその他は訊き合せて見ましょう。この二三日持って歩いて大仏次郎の「由井正雪」をよみました。前、中、と。これはこの作者の傑作の一つです。最近「雪崩」を出したが、こういう現代の性格を扱うと破綻だらけでポーズが見えて、大衆小説というものが本質にいかに非芸術性を含んでいるかということの悲劇的典型に見える。しかし、由井などは筆もこまかく心理もそれなりにふれていて、筋の説明ぬきの飛躍、あまりの好都合等を許せばなかなか面白い。一面、世間師であり、それを自覚し、しかもそこでしか生きる点がないと思っている由井の心持など、少しは歩み入って描いていて、これと「雪崩」を比べると、大家にならんとする前の作者の脂ののりかたと、大家になって年経た後の気のゆるみ、金のたまり工合、いろいろ教訓になります。大仏という人は由井の扱いかたで一直線にゆくと或は純文学に入ってしまったかも知れない。彼の賢さがそこを引しめたから今日大家であるが、同時に引しめたところで芸術的発展の線の切先を下向せしめた。自分と世間がわかりすぎる、これが大仏の弱さです、芸術家としての。彼は遂に「上品で優雅な氏」で終るか。そして、日本文学史の上に私は実に面白く思うが、山本有三にしろ大仏にしろ、昭和五年から七年までの間に彼等の最優秀作の一つを出していることです。その理由を何処に見るでしょうか。私は面白くて仕方がない。自分がこの期間に文学の上で猛烈に自分を外面的に破壊したことを思い合わせ。文学における科学性の問題の史的展望についてこの頃この方面での勉強のテーマをもっている。では又。どうかこの次もきのうのようなあなたにお目にかかれるように。お大事に、お大事に。

 九月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「アンナ・カレーニナ」の舞台写真の絵はがき)〕

 九月二十一日、夜具をおいれしました。これは本月の新協のアンナ・カレーニナ。右端が原さんのドリイ。膝をついているのが細川ちか子のアンナです。カレーニンを滝沢がやっている。性格をちっともあの冷たい粘液質においてつかんでいない。演出は良吉。壺さん夫妻、いね、私、かえりには泉子さんを待ち合せて初日のお祝に新宿のむぎとろをたべました。御気分はいかが? きょうはむしあつかった。二十五日から夜更けの円タク流しがなくなるので不便です。

 九月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 九月二十四日  第三十二信
 こういう紙に書くと、目方が重くて不便なので、普通の紙を買うまで待とうと思って居ました。ところが、今午後三時、二階の壁に向け、南を左にしてはすかいの西日をカーテンで遮るようにした部屋の机のところに、全く快適な柔かい光線がさしている。ゆうべから、夜中にもおきて書きたかった手紙を、もう迚ものばして居られない。光線も、あたりの静かさも私の心にある熱もすべてが紙に私を吸いよせる。(何だか霊感的な手紙でもあるような勿体もったいぶりかた!)
 さて、御気分はいかが? 私の目にはこの間の御様子があざやかであるから、何だかあれからずっとあの調子でいらっしゃるように思えます。この手紙を御覧になってすこししたらまたお目にかかるわけです。私は十月の五六日までこれから死物狂いなの。小説です。文芸。『文芸』では長篇をずっと年四回ぐらいずつのせることにしました。私は云っているの、のせ切って御覧なさい、文芸は一つの功績をのこすから、そのように私もがんばってよいものにするからと。大体見とおしがついてうれしい。但金には殆どならない。今日長篇をのせ切るのは、結局文芸専門のものでしょう。仕事がまとまればよいとして考えて居ります。
 この間お目にかかったとき、実は私一つ大変な秘密を抱いてひとりでホクついていたのです。自分から嬉しい一種の感動でつい口へ出しそうになったが、やっと辛抱してあなたのお誕生日の祝いまでそっとしておきました。せん、お互に話していた名のことね。十月から本名に全部統一します。そのことを親しい連中にも話した。長篇が終って本にするときとも考えていたが、この長い大仕掛な仕事が終るまでと何故のばすのか、自分の心持に必然がなくなった。それでつまり十一月号の書いたものすべてから宮本百合子です。あなた又ユリバカとお笑いになるでしょう。でもこれは全く私の生活の感情のきわめて自然な流れかたなのだから、私は自分でもうれしく、特に私がこの半年の間に、いろいろの心持を歩んで、ここへ来ていることそのことがうれしい。だから今度はあなたからお断りをくっても、私はでもどうぞという工合なの。ですからどうぞ。私は結局はこれまでの年々に何かの形であなたのお誕生を記念して来た、その中で外見は一番形式的のようで、実質的なおくりものの出来たのは今年であると思います。そして、そのような可能を与えて下すったお礼を心から申します。仕事から云っても私はこういう成長に価していることの確信があります。私たちは字を書いたり、短い時間に喋ったり、そんな形で互の心持をつたえなければならないのだけれども、こう云っている私の心持のあなたへの全くの近さ、ふれ工合。それを字でかくことはお話のほかにむずかしい。おお、私はここに、こんな工合にしてものを云っているのに。
 私がこんなに歓びの感情を披瀝ひれきするのは、あなたに唐突でしょうか。そうではない。でも、私のこの心持がわかるであろうか。このよろこびの中には何とも云えず新鮮で初々しいものがある。又新しい青い青い月の光がそこにさして来ている。私は書きながら涙をこぼすのよ。人生というものは、其を深く深く愛せば愛すほど、何と次次へと貴重なおくりものを私たちに与えるのでしょう。この私たちの獲ものが食べられるもので、あなたのおなかへ入って、すっかり体の滋養になったらさぞさぞいいだろうのに。ではこの手紙はこれでおやめ。私のおくることの出来るあらゆる挨拶であなたを包みつつ。

 九月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「二筋の川のある村」の絵はがき)〕

 九月二十五日、文房堂で買った二科のエハガキ。この画は本当にこういうところがあったのでしょうか。夢でしょうか。そう思わせるところにこの画家のこの絵での狙いどころがあたったわけと云うべきか。昔このひとは遙かに精悍でありました。これは芝居のや〓〓をもったかきわりの如し。もう一つの東郷湖という風景も同じように或趣味に堕している弱さがある。

 九月二十五日の夜。 〔向井潤吉筆「伐採の人々」の絵はがき〕
 この絵を眺めていると、コムポジションを一寸工夫するともっと生活の雰囲気とスケールのある絵になると感じられますね。もっとも前景の一かたまりの人間と、その奥の木を引っぱる一列の人間との間隔が、雰囲気的にアイマイにしか把握されていない、だからクシャとしている。実物は果していかがや。まだ見て居りません。十月最後に見られれば見ます。御体をお大事に。

 九月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「梅雨時の東郷湖」の絵はがき)〕

 九月二十八日夜。
 はじめの頃の単行本を、製本しなおしてお送りいたします。すっかり古くなってこわれてしまっているから。鎌倉へゆくと頼朝公御六歳のしゃりこうべというのがある。「一つの芽生」などというのを見ると、自分の御六歳のしゃりこうべのようで、フーフー。でもその小猿のしゃりこうべのようなものもお目にかけます。何卒なにとぞ幸に御笑殺下さい。

 九月二十八日夜十二時。 〔宮本三郎筆「牛を牽く女」の絵はがき〕
 大変おそく書いて、しかられそうであるけれど、今、きょうの分だけ仕事を終って比較的満足に行って、一寸あなたとお喋りがしたい心持。お茶を一緒にのみたいとき。原稿紙の上に、こまかい例の私の字でごしゃごしゃと(一)[#「(一)」は縦中横](二)[#「(二)」は縦中横]という下に書きこんであって、そこから様々の情景と人々の生活が歴史の中に浮上って来る。何とたのしいでしょう。私は『あらくれ』や、『新女苑』や『婦公』に、新しい署名のものを送って、たっぷりして仕事している。

 十月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国枝金三筆「松林」の絵はがき)〕

 十月一日の夜。仕事が熱をもって進んでいる。雨だれの音。鶴さんが工合をわるくして心配しましたが、もうややよろしいらしい。あなたはいかがでしょうか。雨つづきで気分がさっぱりなさらないでしょう。
 この仕事を五日のひるまでに終って、六日はお目にかかりにゆくのを御褒美のようにたのしみにして、せっせとやっている。ミシェルというフランス人がモンパルノという小説をかき、今大家であるモジリアニが一枚たった六フランでパン代に売った絵が一年後一万一千フランで売られたことなどかいていて、いろいろ考えさせます。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(広島駅の絵はがき)〕

 十月九日朝五時四十分。広島でののりかえ。このあたりでは構内のランプもすっかりくらくなっています。兵隊さんがこの食堂にも沢山。雨はやんでいます。七日の夜は仕事を片づけるために眠れなかったので、八日の三時に立ったときはフラフラ。十時頃までウトウトしていて、寝台が出来たので五時間ばかりよく眠りました。馴れたのでこの前より近いように思います。島田でびっくりなさいましょう。

 十月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕

 よく晴れたお天気。今お父さんはお休み中。多賀ちゃんがおひるの支度をしている。お母さんはどこへかお姿が見えない。私は店で新聞をよんでバットを一つ売って、今上ってきてこれを書いているところ。
 きのう八時四十何分かについて、改札のところを見たら多賀ちゃんがでていました。小さいトランクと中村屋のおまんじゅうを入れた風呂敷包みとをもって出たら、きょうは防空演習だからといって、いきなり自動車にのせられてしまった。達ちゃん、消防の服装(ポンプの小屋へ)で出ていたそうです。ちっともわからなかった。
 お父さんは大よろこびでいらっしゃいます。思ったよりいい顔の色をしていらっしゃるし、舌が実にきれいでびっくりするようです。夏は何しろひどい暑気だったので心臓が苦しくおなりになったそうですが、今は御飯も大きいお茶碗に二つ(おかゆ)をあがります。間食はなさらず。春のときからみると、お体は軽くおなりになったし、気分も自発的なところが大分減っていらっしゃいます。それでも昨夜私が何か云ってふざけたら皆笑い出して、お父さんも、一緒に大笑いしていらしった。気分はやはり非常におだやかです。お母さんが、顕治の知っている頃のお父さんじゃったらどんな我儘わがまま云うてじゃろと思っているだろうとおっしゃっています。おとなしい、いろいろ気になさらない。すこし、お母さんや内輪のものにはカンシャクをお起しになる位のことです。御気分が平らなのは何よりです。きょうこれから野原へお墓参りに行って来ます。野原の家の方は四百五十円ばかり不足しているかぎりで家と土地とが十分のこる由です。かり手がついて来るから家は小学の先生にでもかして、おばさんや冨美ちゃんたちは富雄さんの方へ引うつって世帯を一つにしようという計画とみえます。富雄さんのこれまでいた店が駄目になって(つぶれた)日米証券へ入っている様子です。
 こちらもずっと平穏にやっていらっしゃいます。大していいということはない。やはり不景気だそうです。でも手堅くやっていらっしゃるから。――隆治さんは今年は二十歳なのですね。この六月かにケンサがあるのね。私は間違って一月に入営かと思って居りました。春のとき何だかそんな風に間違って覚えて来てしまったのです。六月にケンサならまだ間があります。
 あなたが中学の一年生だったとき、よくつれ立って通った中村さんという人が戦死されました由。河村さん[自注18]のところでは夜業つづき。島田から四十二人一時に出て、総体では七八十人の由です。野原からかえったらこのつづきをまたかきます。おお眠い。けさは十時まで眠ったのにあたりが静かで、気がのんびりするものだから、眠い眠い。つかれがでてきてしまったのです。きっと。

 きょうは十一日。小春日和。
 きのう野原からは夜八時半頃かえりました。皆よろこんでいて、くれぐれあなたによろしくとのことでした。今あの家には小母さんと冨美ちゃんと河村さん(小母さんの弟さん)とその姪という方とです。河村さんは下松くだまつの方につとめ口が出来て、あっちに家が見つかり次第ゆく由。下松は借家払底で、一畳一円で家がないそうです。河村さん、あなたのお体について心配していました。くれぐれもお大事にと。
 野原の小母さんは家がのこるので本当におよろこびです。私たちもよかったと思います。小母さん曰く、いつか二人でかえって来てくれてもとめるところがあってうれしい、と。ハモの御馳走になったりしてお墓詣りをして、かえりに切符をかって来たら、お母さん、もし都合がついたら琴平さん[自注19]へ詣でて来たいというお話です。来年の秋でもゆっくりおともしましょうと話していたのですが、もし達ちゃんが召集されでもしたらというお気持もあるので、急にお思い立ちになったのでしょう。今時間表をしらべているところです。
 お母さんも永年のお疲れで、この間腎盂炎をおやりになってから、すっかり御全快ではなく、台所の仕事などでも過労をなさるといけない御様子です。今は多賀ちゃんが手つだっているから大丈夫ですが、きのうも野原へ行って、すっかり多賀ちゃんに手伝って貰うようよくたのんでおきました。
 春からみると何か全体がしずかになっている。お母さんは余りこれまで御丈夫でなかったし、御無理だったから、すこしこの際おいたわりになる方がよいのです。そちらもこんなにいい天気でしょうか。どうかお元気に。若い連中も元気にやって居りますから何よりです。では又。

[自注18]河村さん――島田の宮本の家の向いの一家で、病父がその人のリヤカーにのせてもらって相撲や芝居見物に行ったこともある。
[自注19]琴平さん――讚岐の琴平神宮。

 十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕

 十月十二日。こういう景色が山の頂上から見晴せるわけだったのですが、雨で濛々もうもう。平野の上にもくり、もくりと山が立っている、この地方の眺めは或特色があります。屋根をわらでふいている、その葺きかたが柔かくて特別な線をもっている。人気はよくない。善通寺というところも通りました。松山へは時間がなくてゆけず。いつか又別に参りましょう。道後にもゆきたい。ぜひ行って見たい。小母さんのお伴で琴平も見たわけです。

 十月十五日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月十五日 夜 小雨。
 今夜は愉しい夜の仕事。――十四日の夜八時二十一分かの上りで島田を立って十時四十分頃広島。そこで一時間余待って、夜中の〇時二分の特急ふじで十五日、きょうの午後三時二十五分東京着。寿江子と栄さんが迎に来てくれていて、その足で裁判所へまわり、島田の半紙へ書いてもって来た許可願に印を捺して貰いました。あしたお会いするために。そして目白へかえって来て、お土産の松茸まつたけだのくりだのを皆にわけていたら、留守番をしていてくれた雅子さんがお手紙を出して来た。
 栄さんがかえってから、二階へあがって来て、一週間ぶりに机に向い、くりかえし、くりかえし、又うち返して読んだ。本当に手紙は食べもののようです。味う。味う。
 それは九月一杯はこういうリフレッシュメントがなかったから、むさぼる如き心持です。でも決して工合のわるいときを押してまで書いて下さらないでもよい――(然し、出来るだけ手紙は書こうと云っていらっしゃることの上に立って、一寸分別臭く云って見ます。)
 島田で書いた手紙のように、お父さんは私の云うこともおわかりになりますし、別れの御挨拶をするといかにもお心のこりの風でこちらが困るような感情もおあらわしになるが、やはり公平に見て春よりはお弱りです。それでも実にきれいな舌をしていらっしゃる。あれでもっていらっしゃるのでしょう。行ってようございました。お母さんも琴平へ強行的小旅行をなさっても次の日腰が痛い位のことでお元気ではあるが、私は呉々お金よりも体、ということを念頭にお置きになるようおすすめしました。あなたもこの次お書きになるときには呉々もそのことを仰云って上げて下さい。
 例えば私が島田へ往復二等にする。そのことが体のために必要であるということを実感としておわかりになったのは、今度の四国ゆきの御経験からです。それまではゼイタクと思っていらしったことを、御自分で云って笑っていらしった。体を大切になさることが島田の家のために重大であることをよくおっしゃってあげて下さい。こちらから又腎盂炎のための薬、暖い下着、夜具などお送りいたしますから。
 私が野原へもゆき、十三日には野原からも島田へ来られ、先頃じゅうのもしゃもしゃも一応調和状態になって居りますから御心配なく。多賀ちゃんも島田で手つだってくれるつもりで居りますし。私も今度は盲腸も痛めずかえりましたから御安心下さい。この頃割合にましな方です。あなた野原の克子と冨美子ととりちがえていらっしゃるのではないかしら。一人前の手紙をかくって。克子は一番の姉娘です。この間あげた手紙の主は冨美子よ、今小学の六年生の。いつぞや私が間違えた高校時代の賄のことはよく申上げてきました。お母さんはもうすっかりお忘れだから鶴さんの返事をまちましょう。経堂辺に住んで出版屋につとめていられるらしい風です。緑郎、寿江子、友達たちへのおことづけは皆申します。稲ちゃんのところでは鶴さん又盲腸らしい由。十七日には御飯一緒にたべようとたのしんでいたのに。――
 このお手紙にもある大きい平安の気持。私には非常によくわかります。日常の便宜性に関しないというその性質も。我々の生きてゆく道について考えるとき、その心持は私の心にも実に充満して来る。互を流れ交している水が噴水のように粒々となって、ひろびろとして或微妙な輝きをもって照っている水の面へ落ちてくる。その複雑な、優しさとつよさと無限の的確さをもった粒々の音。心の耳を傾けて聴けば聴くほど美しさの底深さが迫って来るような音とひろがりの感覚。この裡には何という歓喜と苦痛とその苦痛さえも熱愛する情熱がこもっていることでしょう。私は、この名状しがたい感覚を、自分の芸術家としての成育の上にどこまで摂取出来るだろうかと思うことが※(二の字点、1-2-22)しばしばです。何故ならこの緊張したその極点にあって鳴り出すような人生の美感はあまり強くて、それを芸術家魂で支えるには、よほど素晴らしい芸術的稟質が必要であるから。おわかりになるでしょう?
 ユリがこのような人間的豊饒さへの過程と作家的成熟とを、一定の土台の上に立って極めてリアリスティックに、十分の歴史性をもって客観的に完成させようと努力していることは。そして決して其はたやすいことではないのだから。容易に完成するには余り私たちの生活に豊富なものがありすぎる。それにおしつぶされないように。おお、それは迚も猛烈な作家的自己鍛練です。感動を感動としてその中に主観的に没入することは一定の情熱の量をもったすべての過去の芸術家が生きふるして来た道です。謂わば息絶えなんばかりの心持を、新しい客観的な価値として、芸術的にこの現実の中に再現してゆくこと、其は実に実に大仕事です。
 本当に、昔の芸術家の感動はその人だけの幅で流れた。今日は世界の振幅をもっている! この幅、つよさ、錯綜、それが一人一人の中に鳴り響いている、その姿を描くこと。やっとそろそろ鳴り出した私の交響楽はどこまでその響かすべき音響を奏し切るでしょうね。
 十月一杯に五十枚ほど今日の文学について書くことがあり、それを終って又小説にとりかかります。長い小説というものはまことに書くべきものです。その中で作家は成長し得る。
 お体について、私は最も苦痛な心配というような気持をここの峠ではのり越えたような気分です。これから無理さえなかったらやや平穏ではないでしょうか。あの暑気であったもの、たまったものではなかったのです。冬は却ってましです。風邪さえひかないようになされば。
 私は今あなたからの手紙を、この紙に半ば重ねるようにして左手に並べておいて、読んでは書き、書いては読んでいるのですが、字というものは何と肉体的でしょう。ここに簡単に百合子と書かれている。三字のよびかけに無量の含蓄がある。或人によって或場合書かれるわが良人へという宛名は、良人へという一般的な代名詞にしかすぎず、而も他のあるものにとってはこのたった五つの字が存在の全幅にかかわっている。生存の根に響く内容をもっている。人間の心のちがいの面白さ。
 今夜はもうこれでおやめ。今頃は何の夢? 夢なし?

 十月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十五日  第三十三信ぐらいでしょう?
 今年は実に雨の多い秋でした。きょうは珍らしくいい天気、きのうは日曜日で私たちとしては本当に珍しい一日をすごしました。戸塚の母と子供ら二人、栄さん私、井汲さん母子という顔ぶれでピクニックしたのです。私はもう五年も前にそういう遊びに出たきりだったので、珍しく、頬っぺたは大気の中ですこし日にやけてピチピチしたような気分で、夏以来の気分のしこりがとけたよう。
 行った先は池袋から東上線というので朝霞あさかいも掘りです。曇っていたので、どうするか分らなかったが、大きいお握りや島田から頂いて来た玉子のでたのをもって池袋へ出かけたら、戸塚の子供二人が母さんをひっぱってピンつくやって来た。
 朝霞はいかにも平凡であるが武蔵野の起伏をもった地形で、薯掘りはおどろくなかれ、そこにある寺が世話やきなのです。バスに一区のって山門の石のしるしが見えるところへ来ると、左手の広い畑の面に一ヵ所こちゃこちゃ色とりどりの人間のかたまりがある。薯掘りなのです。山門を入ってゆくと、そこのちん、そこの松の木の下に棧敷をはってフタバ幼稚園、何々小学校、特殊飲料組合とびっしり。本堂の右手に紙を下げて薯掘案内所。一坪十六銭。うねが一本の三分の二位。私たちはそういう休処へはわりこめないから、石段を下りて名ばかりの滝のあるところに丸髷の百姓小母さんの出している茶屋の床几を二つくっつけてそこで休んでお握りをたべ、実に呑気のんきで、間抜けピクニックなところに云いがたい味があって、神経の大保養になりました。やがて又山門の外へ出て、畑道をゆき、薯掘りにかかったが、井汲さん親子一生懸命掘るわ掘るわ。健造も面白くて二坪買ったのでは掘りたりなく、じゃあもう一坪買っておいでと云ったら、ありがてえなアと云ったのには爆笑してしまった。
 広い畑の眺めの上にごちゃごちゃした狭くるしい人のかたまりを見ると、いかにも東京から来て買った畑をせせくっているようで、可笑しいが、ごそごその中に入って、はだしになって健造のもて扱っている薯を掘ってやったりしていると、やっぱり薯掘りは掘るべきものなりというようなところでした。
 団体には景気のいい世話役がついているのがあったりして、庶民の秋の行楽の一つの姿がある。かえりは薯をわけ、それぞれにかついだり背負ったりして、ブラブラ十何丁かある駅まで歩いて来た。
 そしたら余り駅がひどい人なので、すこしすくのを待つ間、広告でもう一つの名所としてある日本第二の大梵鐘だいぼんしょうというのを見物に、自動車へ満載で行った。ところが、そこは寺でも何でもないトタン屋根の大作事場で、その梵鐘の発願人根津嘉一郎。大仏もこしらえかけてある。職人が働いていて、その仏師の仮住居らしい竹垣の小家の前にはコスモスが咲いている。根津はこの梵鐘を精神凶作地の人々におくるための由。大仏もつくり、名所にして金が落ちるようにする由。根津とこの土地とはどういう関係があるのかは不明でした。
 家へかえったのは六時。稲ちゃんのところで夕飯の御ちそうになり。ぶらりと時々山や野原を歩くことの必要をしみじみ感じました。少くとも稲や私には実に必要です。くたびれは大したことなかったけれども、眠ったら夢を見ました。シンプソン夫人の旦那様が三越で女の振袖を買っているところでした。
 二十七日に渡す原稿を終ってお目にかかりにゆきます。M子、体がもたないので社を一週に二三度出ることにして、原稿だけ送るようにしました。月給は、きょう貰って来るのだが、二十円ならいい方。食えない。うちで食わす。食わすことに異議はないが、私の心持にはそれ以外の重みがかかってこまるから、何とかしたいと考え中です。
 掛布団の工合はいかがでしょう。島田へは、もし達ちゃんが召集されると、それからでは間に合わないから、真綿でこしらえたチョッキと毛糸の靴下二つ送りました。お母さんが召すために長襦袢の布。あなたの腹巻のための毛糸、そして明日あたりお母さんに、あなたがこの冬かけていらした夜着をつくり直してお送りします。お母さんは達ちゃんに軟かい夜具をきさせて御自分は私が称して石ブトンというのをつかっていらっしゃる。この冬はお体もすこし疲れが出ていらっしゃるからすこしは軽い思いをなさる必要があります。夜中に二三回お父さんの御用でお起きになるし。隆ちゃんがとなりに寝てあげています。
 名画エハガキはつきましょうか。輸入禁止になるので特別にお目にかけたくてお送りしたのですが。では又お目にかかって。きょうはまだ眠たい、大体この頃眠たくて。あなたもよくおよれますか

 十月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十九日  第三十四信
 きょうは暖い天気です。天気が暖いばかりでなく暖い。体の内に何とも云えない暖かさと安らかさとがある。こういう気持、何と久しぶりでしょう。
 きのうはあれからかえって、お昼をたべて、それからお客に会って、眠りました。朝あの時間にゆくためには、前晩おそいといつも眠い。(前の日に『婦人公論』へ刻々の課題という女のきょうの生きかたについて書いたので)目がさめたら五時。五時半から中央公論の故瀧田樗蔭十三回忌あり。私も発起人の一人。ゆこうかゆくまいか。紋付着て帯しめて苦しい。それでも決心して出かけました。徳富蘇峰、桑木厳翼、如是閑その他という顔ぶれ、作家では秋声、白鳥、春夫、※(「弓+享」、第3水準1-84-22)、久米など。女の方では瀧田さん時代の人俊子、千代、私、時雨など。いかにも東京会館向なり。蘇峰、如是閑、しきりに瀧田の思い出のなかに私の名を引き合いに出し、何だかてれてしまった。何も瀧田の人物鑑定眼を裏づけるに私だけをとり立てて云うには当らないのですからね。好意からとわかっているだけてれくさかった。
 かえりに俊子さんのところに一寸よって喋って、十二時になると円タクの流しがなくなりガレージから反対の方角に行くときは猛烈な価になるのであわててかえって来ました。
 ところで、うちのおひさ君、きのう日向に自分のふとんを干しました。ポンポコになっているのをかついで二階から降りてゆくから、おひささん、そのふとんで今夜早くグースーねるの考えるとうれしいだろう? と云ったら、ええ、うれしくて黙って居たいようだ、と云った。何という感情表現でしょう。実にその気持端的にわかる。私は非常に感服しました。
 きょうはこれから勉強して、来るべき文学について何か書く。これは一口に云えぬ題です。文学に近頃場所をとりはじめているルポルタージュというもののリアリティーが来るべき時代の目でどう見られるか、又ルポルタージュの真価とリアリスムの問題もあり、そのことをすこしつきつめて見て見たいと思います。ルポルタージュというのは若干の地方色と抽象名詞の羅列ではない筈のものですから。直さんなどこの理解に於て房雄君と全く同じである。
 九月一日の『ダイヤモンド』明日お送りします 松山さんの絵の本も。松山さんは満州旅行をしてスケッチをいくつか描き須山計一さんと展覧会をしました。私は月賦でチチハル辺の醤油屋の店をかいた30[#「30」は縦中横]円の六号をとり、今机の右手の壁にかけてあります。松山さんまだ下手です。それでも好意のもてる絵で、眺めて感じる親しい未熟さ(技術上の)が何だか却って私を自分の仕事に努力させるような面白さがあります。画面に雰囲気を出すということは何とむずかしいのでしょうね。それにこの画家はそういう点では角度がまだ鋭くない。性格的にも。松山さんは人物をもっと勉強して私を描きたいのだって。私もいやではないが、私の生きている歓びと苦しさのい交った光輝というような核心的なものが、現在の腕ではつかまるまい。単純にしっかりさなどと抽出されたらまったく降参ですから。ただしっかりものの女なんて※(感嘆符二つ、1-8-75) 松山さんの絵が上達するのをたのしみにして待って居りましょう。
 島田と野原の方のこと、二三日のうちにとりはからいます。本当にいい折でしょう。島田にしろ達ちゃんが召集をうければやはり人手を以前よりおやといにならなければならないのだし。
 野原と島田とは同額にします。50[#「50」は縦中横]ぐらい減らしたって同じこと故。まあ私たちとして一生に一度のことでしょうからね。それから、これは女房じみたお願いですが、どうか島田へ手紙をおかき下さい。今度のことは私たちが度々出来ないことだから今しておくのだということをはっきり御納得ゆかせておいて下さい。私はいろいろな気持からこの間うち島田へ出来るだけ骨を折っている。作家は雑作なく大した金をとるそうな、というお考えが何となく出来ていて、実はこの間行ったときも感じて苦しかった。私は説明したり、ありがたがって貰ったりはしたくないから笑っているだけですが。どうかお願。私のこの心持もあなたには勿論おわかりなのだから。よろしくお願いいたします。こういう形で出て来ると、同じ〔後欠〕

 十一月一日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月一日  第三十五信。
 この間お目にかかったときから何か心にのこっているものがあっていろいろ考え、あなたのお体のことについてですが、床に入る前この手紙を書く気になりました。
 この間のときも、あなたはどっちかというと私の心持を安めよう、不安を与えまい、大局的に悠々ゆうゆうとしてするべき勉強をしているようにと心にかけて御自分の健康のこともお話しでした。私もそのお気持はよくわかるしいろいろだが、不図考えて、私はいつもあなたの体の悪いときを過ぎてからだけそのことをきいているということについて非常にびっくりしました。例えば夏に腸出血をしたということを初めておききしたのは十月十五日頃でした。その前から永らく便にのうが混っていたことを伺ったのは先日がはじめてであったと思います。そしてそういう病状は既に年のはじまり頃からあったのでしょう。
 細かい変化、熱の上下、そういうことは勿論大局的に眺め見とおしてゆかなければならないが、そういう、何か本質的な変りについて、私がそのときどきに知らなかったということは、決して今日の私をも安心せしめません。あなたとしてそれらを持って動じぬことで自然な恢復力を蓄積していらっしゃることは当然のことであるけれども、私が其を刻々に知らされないことは、考えて見れば、あまり特別です。あなたからしか謂わばあなたの体のリアリティーは知ることが出来ない。私が根もとの安心というか持久的なものはたっぷりもっているということがよくわかっていただけているなら、私は常に具体的にあなたの体の事情について知っていて、私としてするべき様々のことをしたい。この間もお話ししたように、互の間にある安らかさというものの能動的な具体性はあるのですもの。例えどんな小さいことでも。どんな一寸したことでも。私は古風なロマン主義者でも巫女みこでもないから、最も大切なものをアブラハムの祭壇にただのせて主観を満足させてはいられない。
 どうかこれから出血でもあったり、何か変ったことがあったらきっと電報を下さい。きっと。私が右往左往的心痛をするだろうという風な御心配は本当に無用です。私は逆から云えばあなたに安心されている証左としてもそのようにして頂く権利があると思うの。よほど前、咲枝に下すったお手紙で、ユリの体についても何についても最も悪い場合のことでも事実を知らすようにと仰云っていたでしょう? あの心持。分って下さるでしょう? いたわられ、知らされない。それは有難く、うれしい。でもくちおしいというようなことがないとどうして云えましょう。私はこれまで割合多岐な現実を見て、それを正当に理解し耐え、処する道を見出そうとする努力には次第につよめられて来ている。私たちの生活の貴重な収穫として。ですから、私がはっとばかりにとりのぼせてはしまわないことが確かなら、どうぞもっとそのときそのときあることを教えて下さい。これはあなたとして何もさしさわりはおありにならないことです。そうして下すったからと云って、あなたの何ものもよわりはしない。大変面倒くさいことでしょうか? 或はそういう様々の手続きが却ってあなたの体にさわる風な事情でしょうか。もしそうならば、ですがさもなければどうかこの希望をかなえる約束をして下さい。却って私は安堵することが出来るだろうと思います。私はあんまり我ままな女房ではないでしょう? だからその承認として、こういう指きりをして下さい。もしお願いがわがままだったらそれでもかまわない、やっぱり私は私の心にあるこれほどの愛情が当然に必要とする具体性としてこのゲンマンの指を出します。ではこのこと、きっと。

 十一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「土」の舞台写真の絵はがき)〕

 十一月十日。八日の雨の中を、うちのおひささん同道「土」長塚節を見ました。演出岡倉士郎。小説「土」にはない節自身を出しているが、高志の進歩的性格は漠然としている。おつぎ山本安英。勘次薄田。平造本庄。これは勘次が平造のキビの穂を苅って見つかったところ。
 大体面白く見られました。満員。壽夫さんに逢いました。呉々よろしくとのことでした。

 十一月十一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十一日の夜。 第三十六信
(きょうはじめて勉強部屋へ火鉢を入れました。今鉄びんの湯が煮えたっていい音を立てている、但しこの湯はのめず。咲枝がさびさせてしまったのを持って来たのだから。オいものシッポでも煮てアクを抜カネバナラヌ)
 十一月二日のお手紙がけさつきました。この頃は先のうち、一週に一度ずつ日曜日か月曜ときめて待っていた心持はなくなって居るけれども、やはり朝第一に、ホーサンで眼を洗うより先に、テーブルの手紙束をひっくるかえすのを見ると、結局絶えず待っているということになる。慢性なり。
 秋晴れのような明るさと澄んだ力のある手紙をいただいて大変大変うれしい。ありがとう。古い頃書いたものをそういう風に読んでいただいて、何と云っていいかしら。頬っぺたの両方へ、小さい灯がついたような感じです。それにつけても、『冬を越す蕾』、『乳房』、『昼夜随筆』そしてこの頃書いているものを読んでほしいと思う。あなたに読んでいただくことが出来ない、そういう事情が、私を自分の仕事に向っておろそかならざる心持にしているというのは何と面白い関係でしょう。体はこの頃よく気をつけているし、すこしゆとりをつけているので大分ましになりました。残暑頃と秋の初めはへばっていたが。長い小説は、第一が「雑沓」80[#「80」は縦中横]枚、「海流」97[#「97」は縦中横]枚、「道づれ」65[#「65」は縦中横]で、私のプランの第一の部分の三分の二ばかり来ました。この正月『文芸』にのこりの部分をすっかりのせてしまいたいと思ったが、三笠から出ている『発達史日本講座』の現代に今日の文学50[#「50」は縦中横]枚を十月一杯までにかくべきだったのをのばしているので次の部分は二月頃にするか三月にするかします。
 第一、第二、第三部になる予定です。 1931 頃から '36 位に及ぶ。私は昔云っていたようにこの小説では、外面的な事件を主とせず、社会の各層の典型的な諸事情と性格と歴史の波との関係を描き出してゆきたいのです。恐らく一遍書き終って随分手を入れなければなりますまい。しかも、室生犀星、佐藤春夫、中村武羅夫というような人々は、私の小説を見ると持病のゼン息が起ったり、はきそうになったりするのですって。お互様に辛いことです。
 小説は長いもののつづきのほかに、「築地河岸」25[#「25」は縦中横]と「鏡の中の月」18[#「18」は縦中横]とをかいた。今年はそれでも、すこしは小説を書いた方です。段々かけてくる。来年はもっと小説に重点をおきたいのですが、短いいろいろの評論風なものも、自分の趣向からばかりでなくやはり書く方がいいと思い(金のことに非ず)閉口です。十月には多分もう書いて上げたと思いますが、『新女苑』(祭日ならざる日々)12[#「12」は縦中横]、『婦公』20[#「20」は縦中横]、別に15[#「15」は縦中横]あとこまかい文芸的感想30[#「30」は縦中横]ばかり。本月はその三笠の一仕事を片づけたらあと短い小説20[#「20」は縦中横]〜30[#「30」は縦中横]をかいて、あとはすっかり長い方のつづき。
「伸子」をかいた頃を考えると夢のよう。三月に一度ぐらいの割で60[#「60」は縦中横]枚だの九十枚だのとポツリポツリ書いていた。
 日本ペンクラブというのが十年から出来ていることを御存じでしょうか。会長藤村、教授翻訳家出版関係者、作家詩人という面々です。大変行儀がよくてキュークツであるところです。私がそこの会員にされました。夏頃そこと外務省とで女の作家の作品をドイツ語にするので送るのだそうで林、野上、宇野、私で、私は「心の河」。これはあなたのよく云っていらっしゃる『白い蚊帖』に収めるためにまとめた短篇の中の一つです。自分でこまかいことは記憶しない。そんなに古いもの。
 あなたのお体のこと。慣れた強さの生じることもよくわかります。強靱であることもわかる。でも、この前、私が速達であげた手紙の約束は守って下さるでしょう? 私がくよつく故ではありません。それも分って下さるわね。お母さん方を御安心させ申すために私がいく分心をつかっていることもわかって下さっている。
 野原島田へお送りするについてのお願い、あれももうお読み下すったかしら。
 いろいろの私たちの生活の悲喜をひっくるめて、とにかく私はいい仕事がしたい。とにかく私たちの仕事であって、他の何人のでもないという血と熱との通っている仕事をしたい。小説でも。評論でも。私たちが素質的にもっているものの価値というものあるとすれば、其は要するにこういう望みを忘れることが出来ないで、そのために努力しつづけてゆく気力が即その価値であるとでも云えるかもしれない。私の芸術家としての困難は、人間的生活経験の内容が複雑豊富でそれをこなす技量がカツカツであるという点です。生活内容に応じては技量があまっていた時代、今はその逆の時代。それに私は何だか持ちものが、これまでの所謂小説家とちがっているのだが、それが芸術的完成にまで到達していない、美しく素晴らしく脱皮し切っていない、そういう実に興味深い未知数が現在あるのです。稲子はいつもよい批評家であり鼓舞者で、私は注意ぶかくその言葉を考えながら、謂わば自分の発掘をしているようなところです。その点からでもこの長篇は重大な意味をもっているわけです。太郎のことはこの次、別に太郎篇をあげます。緑郎はついたということが分っただけ。あさってあたりお目にかかりに行きますが。この手紙では沢山書きのこしてしまった。本当に度々手紙を頂けるなら、実に、うれしい。

 十一月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十六日 晴  第三十六信
 きょうは、おなかのわるい日の手紙。どうかして、おなかの工合がわるくて、今日お目にかかりに行こうとしていたのに、それが出来ず。その代りにこの短いお喋りをいたします。
『文芸首都』にこの頃の文学の一つのあらわれとしてルポルタージュのことについてかき、国文学の専門の雑誌に二十枚ばかりの鴎外、漱石、荷風の文学にあらわれている婦人観をかき、短い小説をかく前の気分できのうは珍しく文展見物をしました。戸塚の夫妻、もう一人田舎のひとと私。月曜日は鑑賞日というので一円。それを知らず私が細君と田舎のひとの分を出すつもりで行ったのであと30[#「30」は縦中横]銭しかのこらず。大笑い。
 文展ではいろいろ駄作悪作の中にやはり面白いものあり。栖鳳、木谷千種、清方など、文学に連関しての問題を我々に与え大いに愉快でした。栖鳳本年は何匹も家鴨あひるの子が遊んでいるところを描き、(二双屏風)金の箔が地一杯にとばしてある。久米正雄、七十歳の栖鳳が老境で若さを愛す心持流露していると、うまい批評をしたが、金箔のことについては効果上あるがよいかないがよいかと書いていた。私達三人の結論は、この画に金箔は重要な画面の一つの支え重厚な一要素となっているのであって家鴨だけであったら決して効果は出ないし、弱くなるし破綻を生じることを観破しました。栖鳳の画の価を考え、それをつりあげたからくりなど考えると虫がすかぬが、この老爺相当のものである。自身の芸術の弱い部分を賢くプラスに転化させる大なる才覚と胆力とを有している。これはやはり相当なものです。久米の芸術境が批評にあらわれ、栖鳳フフンと思ったであろう。いずれエハガキをお目にかけましょう。きのうは何しろ30[#「30」は縦中横]銭だったので。
 清方はいわしという題の小さいものであるが、一葉の小説の情景です。溝板カタカタと踏みならして云々。長屋の水口でおかみさんが魚屋と云ってもぼてふりから鰯を買っているところ、水口の描写、「のり」に丸囲みの手書き文字。「り」は小さく頭の部分が「の」の下隙間に入ると書いた札の下っている隣家の様子、なかなかリアリスティックなのですが、中心になるおかみさんがこの家のおかみとして※(「藹」の「言」に代えて「月」」、第3水準1-91-26)ろうたけていすぎるのです。「一言に云えば背がすらりとしていすぎるんだよ」稲公の言。それ者あがりとしても生活が滲みついていず、「築地」の絵(知っていらっしゃったかしら。中年のいかにも粋な女が黒ちりめんの羽織で一寸しなをして立っているところ)が浮いていて、甘く且つ通俗になっている。清方の通俗性、插画性は、或マンネリスムの美の内容にある。随筆などにもこれは出ている。いつも情景を鏡花、一葉、荷風、万太郎で。これもお目にかけましょう。
 荷風の「※(「さんずい+墨」、第3水準1-87-25)東綺譚」は本年中の傑作と云われています。それについてハイと云えるところと云えぬところとある。すこし彼の作品をよみ、いろいろ感想もあるが、私はふと里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)と比較して見て面白く思いました。※(「弓+享」、第3水準1-84-22)も花柳小説を昔ながらの花柳で描く恐らく最後の作者であろうが、荷風を比べると、その蕩児とうじぶりがちがう。※(「弓+享」、第3水準1-84-22)が花柳の中に「まごころ」を云々するところが※(「弓+享」、第3水準1-84-22)の持味であったのだが、この発生は何処からでしょう? こういう一つらなりの日本文学の消長を何かしら語るものがあると思う。水上瀧太郎が云っているとおり、「まごころ」も身勝手しごくであるが、粋の要求も身勝手なものですね。
 洋画では、特にこれこそというものはなし。中村研一などやはりうまいことはうまい。高間惣一が「日の出に鶴」なんぞかいているし、文部大臣賞を去年貰った男が、いかにも人をくった模倣の露出したコンポジションと不快な色感で通州というのをデカく描いている。私たちのすきであった絵ハガキをお目にかけましょう。
 かえりには、『日日』へよって、細君が随筆をかいた稿料をとって、三人で不二家で食事をして、私は現代ドイツ音楽の夕へまわりました。今日の作曲家たちのものです。私たちぐらいからの年頃の。何だか大して面白くなかった。演奏の技術が弱く貧しいためもあるが。――断片的でした。音楽の中の生活感情がつよく一貫していない。
 そう云えば、此間、国際文化振興会主催で、輸出する映画日本の小学校、活花いけばな、日本画家の一日、日本の陶磁器などを見ました。この前の手紙に書いたかしら? 小室翠雲が竹の席画をしてそれをうつし面白く、又陶磁器は特に秀逸でした。これまでよりずっとましになっていた、文化映画として。小学校の方も、板垣鷹穂氏らの都市生活研究会とかがこしらえたのより遙にヴィヴィッドであるし、生活が出ていてよかった。下で今げんのしょうこを煮て居ります。陽がさしている。体がすこしだるくて。
 御気分はこの頃ましですか。もう冬の日ざしですね。今年は秋がなかったようです。苅った稲をしごけないのに雨がつづいたから、豊年であったのに不収穫であるよし。

 十一月十九日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十九日  第三十七信
 きょうは何とくたびれたでしょう。風に真正面から顔を吹かせながら歩いた。真直原っぱのはずれから家へ帰る気がしないで、あなたにあげる文展のエハガキを買いに、神田の文房堂へまわりました。思うようなのがなかった。日本画がないし。吸取紙を買っていたら、これまでの白い厚いのはなくなって同じようでも和製で吸収がわるいから薄い方がいいと教えてくれた店の男が、私を女学校のときから知っていると話しはじめました。まあ、とびっくりして感心した。私はここの原稿紙で小説をかき出したのですもの。二十五字詰で、そういうのが例外であることも知らず、「貧しき人々の群」はそれをつかった。思い出すことが、沢山あったがそのことまでは話さず。かえって新しい花をテーブルの上に飾って、ベッドに入って、まるでまるで眠った。
 寿江子が来て、又一緒に一寸出て、燈火の消えている街々の風景を見学して来て、エハガキの小さいところへ字をかく気がせず、こうやって手紙をかきます。本当は、私は今頃小説をかいていなければいけないのに。字を間違えたりばかりするから、あした早くおきてはじめましょう。あしたの夜は眠れなくてもかまわない。
 ひどい、永い病気とたたかったのち、次第次第に治癒力が出て来て、生活力がたかまって来る今のあなたのお気持は、本当にどんなでしょう。さしのぼる明るさや響や波動が内部に感じられるようでしょう? 私はそこをあっちこっちに歩く、眼をあなたの上につけて。それらの感じは、全く私の感覚の中に目醒めるようです。私はこの夏本当に苦しかった。今になってみれば苦しかったわけであると思います。どうか、どうか益※(二の字点、1-2-22)自重して、その大事な生活力を蓄えて下さい。小説をかいていて、熱中して書いていて、いよいよおしまいが迫って来たというときの、あの何とも云えない内からせき立てられるような感じ、それをぐっともって重く※(二の字点、1-2-22)いよいよ慎重にと進んでゆくあの気持。快復期の微妙な感動と歓喜は非常に似ているようです。そこがさむくさえないならば、雪の美しささえ似合ふさわしいというような生活感情の時期なのでしょうけれど。もしかしたらあなたは、私たちの生涯の生理的な危期をどうやらのり越えて下すったのかもしれない。私のよろこびがお分りになるでしょうか。分るでしょうか。ああ。
 私は何だか何日も何日も眠りとおしたいように気の安まり、ほぐれた感じです。一寸あなたの袂の先でもつかまえて眠って眠って、眠りぬきたい。この手紙はこれでおしまい。

 十一月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(山下大五郎筆「中庭の窓」の絵はがき)〕

 十一月二十一日の朝七時すぎ。
 きのう午後二時頃からかかって小説を今かき終ったところ。二十五枚。「二人いるとき」という題。大変なリリシズムでしょう、お察し下さい。内容はリアリスティックですから御安心下さい。この絵は実物はもっともっと新鮮です。一枚五銭でこの物価の時代、色彩の活きたエハガキは無理なことです。これからねるところ。

 十一月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月二十二日 曇  第三十八信
 若い女のひとのための読書案内をするために、最近出たフランスの或女仕立屋の書いたものをよんでいます。そして、その間の一寸したお喋りを。
 この本を買うためにさっき外へ出かけ、途中で例のあなたの時計を修繕にやりました。懐中時計。もう動かなくなっているので。そしたら油がきれてゴミが入ってしまっている由。「きかいは割合よろしゅうございます」「買ったらいくら位です?」「今でしたら十円出ましょう」その位のもの? そしてこれかしら、いつかお母さんが洋服と時計を買った(『改造』の当選)といっていらしったの。とにかく又動くようになるのは大変うれしい。留金ばっかり金の可笑しい時計!
 一昨日からきのうの朝にかけて、ひどく馬力をかけたので疲れが出ている。昨夜は重治さん来て夕飯をたべて、いろんな仕事の話をして愉快。
 この夏からこの間までの私の切なかった心持など話しました。丁度、もろい崖から落ちかかっている人が、手の先の力に全身をかけながらじりじりと、もっと堅いしっかりした地質のところへまで体をひき上げて来ようとしている、もろい土のくずれてゆくのと、手の力の持久力と、その全くのろい而も全力的な努力が必要とする時間と、それらのかね合いがどうなるだろう。実に見ていてたまらない。しかも見ているしかないという事情。日夜背中のどこかに力が入っていて、心にゆとりがなくて、実にひどかった。今は何か本当に体をのばしてつっぷしてほーっとするような気持がしています。あなたの今の体のお工合と、そのたっぷりした心持とを感じながら、ああえらかった、と顔の汗を手のひらでぶるんとするような心持。そして、私は今はまあ一寸、こういう心持をも喋って、気をほぐしてよろこばしさと新鮮な感覚とに身をまかせたい心持。
 いつかの冬、あなたは春のようだね、春のようだね、と云っていらしたことがあった。覚えていらっしゃるかしら、歩きながら。
 今年の冬、私たちは冬をそういうような底流れの感情ですごすのではないでしょうか。今年私たちのまる五年目の生活は随分はりつめたものでしたね。肉体の強靱さと精神の均衡というものは何と微妙でしょう。一本橋をわたるとき、落ちやしまいか、落ちたらこわい、という恐怖が足をすべらせる。そしてそれと反対のもの。私は、扇をひらいてめて上げたいと思う。もとより当然のことではあるけれども。あなたをとり戻したという感じ。そのはっきりしたあなたの姿が打って来る感じ、その感動がどんなだか本当に、本当におわかりになるだろうか。
 夜なかに霜がおりて、朝とけ、夜月がさして木の葉がおちているように、そういう絶間ない営みで生活力をたかめて行きましょう。すっかり新しいしっかりした地べたのところまで出切りましょう。うれしさから涙をこぼしながら笑って、或責任と義務の自覚による意力からだけ自分がやっぱり生きて行かなければならないものかと思うことは、殆ど堪え難かったと、今話すことの出来るのは何と笑える、そして又涙の出る心持でしょう。これを云ってしまえば私のくつろぎも底をついた形ですね。では又。呉々も大切に。決して今までの周密さを御自分の体に対してゆるめないで下さい。

 十一月二十五日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月二十四日  第三十九信、
 きのう、夕飯後十枚ばかり「若い婦人のための書棚」をかいて、終ってお風呂に入ったばかりのところへ「光子さんがいらっしゃいました」「どの」「岩松さん」絵かきの光子が来た。雨が降っていて十時半頃で、さては神戸から出奔して来たかと思ったら(夫婦ゲンカをやっていたから)そうではなくて、一水会という石井柏亭や安井曾太郎のやっている会へ絵をもって来たのでした。夜、二時頃までいろいろ絵や文学や女の生活の話をして、けさおそくおきてかえった。月末までいるというので、私は自分の大好きな動坂の家のスケッチと、本郷の或高台、一方は長いコンクリート塀になっていて、ずっと遠く小石川を見晴す風変りな道のスケッチ、をして貰うことにしました。私の勉強している部屋にこういう可愛らしい都会の隅々の絵があったらどんなにうれしいでしょう。大変たのしみです。其にしても光子は、自分の絵の道具をもって来ないとはけしからぬ。かりにも十日ばかり東京に来て、しかも刺戟を与える人々の顔を期待して来ていながら。まだただのおかみさんと画家とが分裂している。渾然こんぜん一つになっていない。心で一生懸命で手がまだ怠けている。こういう状態を多くの女の芸術家が経ているし、男も70[#「70」は縦中横]%まではこれで一生を終るのね。
 若い女のための本をいろいろ考えていて、私に体がもう一つあったら、本当にいい味と力と鼓舞のこもった女のための本を極めて綜合的な内容で書きたいとさえ思いました。すべてが切りはなされていて婦人問題、医学の問題、法律の問題、ばらばらである。それが一人の女の日常生活のすべての部分にとけこんでいる。一人一人の女が、自分から世の中に働きかける可能をもっている。そういうことを感情から分らせてゆく本が一つもないというのは何たることでしょう。世の中に本は溢れているが、こういうクサビのような本はかかれていない。
 笠間さんの随筆は面白うございましたか、第一のを数行一寸見たが、何だか目があらい。
 シャルル・フィリップの「ビュビュ・ド・モンパルナス」(これはお手紙で下らなさがわかった)をふとよみかえして、ここに描かれているパリの下級勤人の生活や娼婦の生活に対する作者の心持と、荷風や武麟や丹羽のかく市井風俗との気稟のちがいを感じます。どうして後者の作家らは目先の物象しか見ないでしょう。浅はかにそれにひっぱられて喋くっているのでしょう。精神というものが低い。戯作者気質が「当世書生気質」で終っていない。そこが日本の文学の美の内容をひきずりおろしている。或壮麗な恍惚にまでたかまる悲劇。歓喜に迄貫通する悲劇というものの味いを生活の中に持して行くだけの精神力のはりつめかたをもたない。
 私は音楽も絵にも文学にも実にこの強靭きわまりない高揚と、それと同量の深いブリリアントな忘我を愛するのだけれども。私の仕事が文字を突破してそこまで横溢することが出来たらどんなにうれしいでしょう。輝きわたる人間の真情のままが躍動したら。
 今夜は今に寿江子がここへよって、七時から新響の定期演奏をききます。
(二十五日になってからの分)
 昨夜はベルリオーズという人の(クラシック)夢幻交響楽というのがなかなか面白かった。題の如きもので、情熱的第一楽章。円舞曲(舞踏会)第二楽章。野原での風景。絞首場への行進曲。悪魔の祭日の行進曲。大体テーマは(文学的に)分るでしょう? このひとは楽器のつかいかたが面白く、太鼓のつかいかた(雷)として実に芸術的につかいヴェートウベンのパストーラルの嵐の太鼓のように説明的でない。又或場面、楽しき野原が次第にそこでのシニスタースの光景を予想させながら最後には遠雷と鳥の声とでやや「枯枝に烏とまりけり」の灰色と黒を印象づけるところ。そして、この全体の曲に、一つずつモーティブとなり得る要素が沢山あってなかなか刺戟された。私が音楽家であったらきっと今日こんなにしていられないでしょうと思う。メイエルホリドの音楽をつくったりして、二十一二歳で第一シンフォニーをつくったシュスタコヴィッチの音楽は、現物をきいたとき深い疑問を感じた。又写真にあらわれている相貌からも疑問を感じていた。音楽がフランスの後をついているほか何があるのかと疑問だったところ、この間新しいオペラのコンペティションのようなことが行われ、「ティーヒドン」(デルジンスキー作曲)、この男の「マクベスオペラ夫人」(明るいバレー小川)が並んで上演され、明るい小川、マクベス夫人は絶対的に否定された。これは題を見ても文学をやるものには内容がわかります。世界的名声にあやまられたものとしてシュスタコヴィッチもエイゼンシュタインもメイエルホリドもある。(日本にもあります)私は音楽について直感的に抱いていた評価がやはり正しいのが証明されてうれしい。絵についても音楽についても私はこういう直感の科学性を豊富にしてゆきたいと思います。私の絵や音楽の批評は大抵はいつも当っているのだが、素人だから日本的レベルというものを自分では知らずにとび越しているので玄人クロートは所謂エティケットを知らぬ奴と思う。文学において文壇をことわっているのに、絵や音楽やのツーに追随する必要もない。
『二葉亭全集』は買いますから、そしたら御覧になるでしょう? 中村光夫、『二葉亭四迷論』あり。では又。私たちは月の美さを好きですね。この間の月夜は灯のない街と共に小説「二人いるとき」の中にかいた。お大事に。ずっとあの調子でしょう? 猶々油断なさらないで下さい、お願いいたします。

 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕

 十一月二十五日、これがこの間の手紙で話した栖凰の絵の右の方です。左の方もつづけて御覧下さい。私たちの批評の当っていることをお認めになりましょう。きょう、やっとお手紙が届いたが、十二日の分は来ず、いきなり十八日の分です。十二日のを待って待っていて来なかったわけです、どうしたことであったろう。
 見ぬ魚の大さ。※[#丸A、261-9]

 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(竹内栖凰筆「若き家鴨」の絵はがき)〕

 十一月二十五日。この間お目にかかったときよく伺った野原島田のことは私によくよくわかって居ります。あなたのお気持の中から。島田へはこのお歳暮にさしあげましょう。私はお父さんを笑顔にして上げたいから。野原は冨美子が女学校へ入ったら。来年三月。丁度フミちゃんの教育費に十分なわけです。大変によいと思う。皆安心出来て。月謝の心配は女の子は辛いだろうから。※[#丸B、261-14]

 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鏑木清方筆「鰯」の絵はがき)〕

 十一月二十五日、これが例の清方の鰯です。画面の奥までちゃんと描いているのだが、やはり插絵風になってしまっている。芸術家が単に情緒に止った場合この如き技術をもっていてもやはり低俗にならざるを得ないことは実に教訓ですね。日本画にも或る意味でのバーバリスムが入って来ていて(藤田嗣治の田舎芸者のモホー)其様なのも見かけたがまだ外側のものです。※[#丸C、262-5]

 十一月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(中野和高筆「ひととき」の絵はがき)〕

 十一月二十五日 この絵は父親のイギリス風なおじいちゃんぶりが林権助伯を思い出させ、又何となく林町の父をも思い出させます。したしみのある面白い絵です。軽井沢辺と見えますね、遠景の工合。何年ぶりかで今年は絵を見て、芸術家の感興ということをいろいろに考えました。感興の色合、深さ、リアリティー。清方だって身にそった感興でこれをつくっているのですからね。※[#丸E、262-10] これは※[#丸E、262-11]までで終りです。

 十一月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(菊池契月筆「麦※[#「てへん+臣」、262-12]」の絵はがき)〕

 十一月二十九日夕方。
 そこにも豆腐やの音が夕方はきこえるでしょう。きょうは、本当に久しぶりで苅られ、分けられている髪を見て何と珍らしかったでしょう。
 まだ四時すぎだのにもうすっかり夕方になっている。この娘の顔は原画は非常に清潔な美しさを持っているのですがよく見えませんね。どうか猶々お大切に。今の肉のつき工合はもう一遍ひきしまらなければ本ものではありません、本当にお大事に。

 十二月一日(消印) 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(新作帯地陳列会より「頴川陶象綴錦」の絵はがき)〕

 光子さんが動坂の絵をかくので一緒に来ました。あのまま木小屋があるしポストがあるし。おいなりさんの赤い旗が昔より大変にぎやかにひるがえっていて通りの広さと云ったら。
 この絵はがきの帯はなかなかいいでしょう? しめたいと思う、但し空想の中で。あなたに買っていただいて。エイセンは父の好きな陶工(クラシック)の一人です。国男さんから手袋をお送りいたしました。光子さんの子供は五つ、太郎より兄さんです。

 十二月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(安井曾太郎筆「承徳の喇嘛廟」の絵はがき)〕

 十二月四日。安井曾太郎の画集の面白いのを文房堂で見つけましたからお送りいたします。画集中にこの絵の水彩のようなのがある。こっちにまで発展して来ている跡もくらべるとなかなか面白い。きょうは光子さんが油の方をしあげて、二人でその額ぶちを買いにゆきました。可愛い絵です。いずれ写真をお送りいたしますが、思いがけず今年の暮はいいものが出来ました。

 十二月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月五日 日 晴れて風がある。 第四十一信
 十一月二十五日づけのお手紙をけさいただきました。お体はずっと調子を保っておりますか。きょうあたりから吹く風がいかにも師走風になりました。綿入れ類ももう届いておりましょう。このお手紙に三つよく読めない字がある。「『科学知識』は時折達治に送っている」のあとにすぐつづいて「のものは矢張りやめにした。」その上の三字がよめない。珍しいことだがよめない。何でしょう。この次お目にかかって伺います。大したことではないらしい。
 あなたが、本をよめなかった間に得たものの価値について云ってらっしゃることは、大づかみではあるが私にも推しはかることが出来ないとは思いません。
 私の仕事について考え希望して下さること、全く私自身が考え努力していることと等しく、それ故一層はげましとなるのですが、私は箇々の作家のおかれている箇人的な事情、歴史的諸事情がその錯綜推進の間でどのように作家を大成せしめるかということについて、実に興味というには複雑すぎるほどの感興を抱いている。わが身についても。内からの力と外からの力。その波はどのように将来の二十年ぐらいの間に一ヶの作家を押すでしょう。この考えは、一人の作家として自力で可能な範囲での努力は益※(二の字点、1-2-22)おしみなくやって見る必要があるという結論を導き出すのです。
 本年は私の文筆的生涯のうちで、決して尠い仕事をした年ではありませんでした。所謂拙速的仕事もしなければならないこともあったが、私の拙速は決して投げたものではなく、最上に最速にという工合であったから、一年経って顧ると、自分が一番能力を発揮して一つの仕事をまとめ得る時間、用意それぞれが評論ではこんな風、小説ではこんな風と、技術的に理解を深められました。
 専門家としてはこういう自分の性能を知ることも必要であり、そのためにはやはり一杯にフルにやって見る必要がある。のろのろしかやれないもの、或程度のスピードを出してよいもの、ひとりでに出るもの、だがスピードの出た頭の活躍がどんな傾向を人間として作家としての私の中に蓄積してゆくか。こういう点をもやっぱり研究して見る必要がある。
 私は永年極めて自然発生的に内部の熱気に押されてばかり仕事をして来たから、この頃いろいろこんなこまかいことも意識にのぼって来て、建築的に仕事を考えるようになったのを面白く思います。
 一水会と言う絵の会に、昨日光子さんと寿江と三人で行って、有島生馬の絵を見てアマチュア芸術家の陥るところは恐るべきものであると感じました。絵を、ネクタイを結ぶように描いている。楽でアットホームであるというのではない、だらんと、只手になれていて、感動と洞察と追求が全く現実に対して発動していない。金のある人間が、ヴェランダで煙草をふかしてのびているようです。里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)、生馬、武郎と考えて、武郎の生死について感じました。岩松の絵、どうも見た目のエフェクトを狙うことが巧みすぎる。正直にあしまでちゃんと描かない。光子さんの絵は造船所の旋盤工場だというので、実はあの人のよい意志とは云え、或堅い定式かと心配していたが、絵を見て感心しました。二十号だが、ちゃんと色彩の感覚、働いている人間への共感、皆もって明るく水気をもって描かれている。大変うれしかった。百円の絵です。買い手を欲しがっている。但し、彼女の芸術の過程を愛するものでなければ、この絵はサロン用ではないからなかなかむずかしい。柏亭先生に世話をたのんだらと云ったら、洋画家のパトロンとの関係の個人主義、極秘主義というものはひどいものらしく、自分が口をきいて売れるところをひとに紹介などはすまいとのことです。この世界は知らなかった。絵というもののかげの世界のおくれ工合、険悪工合にはびっくりしました。
 きょうから、『発達史日本講座』の現代文学をかきはじめます。この頃、小説にくっささりたい。それに夏からのこの約束で、フーフー。五十枚ばかりだから、ユリよがんばれ、です。これさえすますとこの種の予約はまぬがれます。
 キャベジの葉のようなのというのは葉牡丹でしょう。それは、市民的正月の恒例である葉っぱです。外側の葉の枯れるのをはがすと内へ内へとキャベジのように新しくなって行って、しまいには大変柄の長い玉になります。私たちは今年の暮は、何となし愉しい。そうではありませんか。とにかくいつなまけたということはなく生きたし、あなたは快復に向っていて下さるし、今年のために私達は何かしようとしていたところ優しい絵も二つ出来たし。年を送るという感情がこのような安心を伴って、感じられることは何年にもなかったことです。而もほのぼのと日ののぼる感じをもって。では又、かぜをひかないで下さい。

 十二月十一日午後 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十一日  第四十二信
 けさ、あなたの十二月二日づけお手紙がつきました。ありがとう。いろいろな心持というものも、こうして字にかいておけばこそ一層はっきりとした存在となって確実に実現するのは、実に妙ですね。私はこのごろ、仕事にふれてこの事実を深く感じている、もし文学として書かれていなかったら、この人生の人間性、情の力や美の錯綜はどうして今日だけの蓄積として人間の歴史につたえられるでしょう。そして、私たちはまだ実に実に少ししか書いていない。そう思うと勿体ない。歴史に新しく加えるべきものは本当に多いのに。
 この頃は急に空気が乾きはじめて、皆喉がカラカラして、鼻の奥がかわいて苦しいが、ずっと大丈夫でいらっしゃるでしょうか。私は夜中、急に喉がいりつくようで目をさますことがある。
 昨夜は『中公』の随筆を十枚かいて(くちなし)、これから例の私の荷物である今日の文学のつづきをかきます。今、能動精神の文学の声がおこったところです。フランスのそういう時代のもっているものと、こっちのとを比べてなかなか意味深い。この仕事は十三四日に終らねばなりません。
 全く今年は沢山仕事をした。最も活動したものの一人です。しかし、今年の仕事ぶりは忘れることが出来なかろうと思う。歯をくいしばってやったところがあって。
 このごろは心にくつろぎが出来て、瑞々みずみずして、何しろ私のこれまでの一生に只一度もつけたことのない題をつける位ですから。来年はいろいろ仕事を整理して、評論風なものでは一つまとまって七八十枚のものを、あとは小説という風にやりたい。そして、いかにもそれがやれそうな気持です。芸術というものは一面刻薄であって、こっちが一生懸命でも心のゆとりなさなどは何か一つのマイナスとなって作品に出る、なかなかくやしいようなものです。オペラの唱い手曰ク、最も悲しいうたを最も悲しくうたえるときは、自分が一番丈夫で幸福な時だ、と。これは勿論そのままではないし、そうだとしたら、今日芸術の仕事を何人がやり得るかと言いたいところですが、それでも、今の心の状態の方が私としてよい。来年は質の更によい仕事をします。今年の暮、私はいそがしい仕事が終ったら出かけて行って、一組のおとその道具を買うつもりです。或暮に、私はショールを巻きつけておとその道具を買いに出かけ、いろいろ見て或ものは手に迄とってまさに買おうとしたが、どうしても心に買わせぬものがあって遂に買わず、複雑不思議な思いに深く沈んでかえったことがあった。
 今年は、それを買います。そして、それを買うことが実にたのしみで、うれしい。新しいおとその道具からあなたに注ぎ、私につぎ、そして親しい大事な友達に注ぐ。
 漱石の金剛草の話、私もその本はやはり面白く同様の印象でよみました。漱石の文学論、十七世紀英文学史、いずれも大事な只一つの鍵をおとしているだけ、そのことが今日明瞭に分るだけ、しっかりとしたもので面白い。英文学史なんか、ああ漱石が只もう二箇の「何故ホワイ?」を発してこの分析を深め得たら、と痛感した。狭いところにいて読んで。文学論にしろ、堅固周密な円形城壁のようだが、真中がスポンとぬけていて。すべての分析がそれぞれの線の上でだけ延ばされているから、簇生そうせいしていて相互関係の動きと根本に統一がない。あなたのおっしゃるとおりの原因なことは明かです。
 あなたの時計は直って来て、この机の上にあります。金時計というのは、私は全く見なかった。賄のこと、まことに残念ですがまだ分りません。きょう島田からお手紙で、お金がつき、大変よろこんで下さり、よかったと思います。達治さん達も一層本気で働く気分を励まされていると仰云っています。よかったわね。光井の方へは、この暮は、冨美ちゃんへの本(『小公子』やその他)と何かお送りして、お金は来年三月です。
 あなたの腹巻きも、栄さんと新工夫したのをもうじきあめてお送り下さる由。今度のはきっとなさりよいでしょう。
 本月六日に、曾禰達蔵博士が八十六歳で急逝されました。私はお祖父さんに死なれたようで、その夜お挨拶に行ってお姿を見たら大変涙がこぼれました。この方の生涯のこまかいことは知らないが、長州萩の人の由。漢詩などをやる(文学のことでしょう)のが好きであったが、家が貧しくて給費生となるには当時(明治以前)工学でなければ駄目だった。それで工学をやるようになった、と述懐された由、長男は理学博士で物理です。お前は其故好きな勉強をしろといわれた由。
 事務所は十一月中に第二段の縮少をして、一月からは名儀も国男一人のものとなり、老人は隠退されることになっていました。国男もこれからは全く独力です。今の情況ですから建築は一般に困難です。
 明日ごろ、可笑しい虎の絵の手拭を送ります。色のついた虎、虎年ですから。壁の比較的よい装飾になりますから、お正月には古いのとかえておつかい下さい。タオルねまき、初めは幅がひろくすぎるかもしれませんが、こんどは洗ってもちぢまりません。普通に召せるでしょう。
 では猶々お大事に。この手紙は下旬につくのでしょうね。私はもう四五日のうちにお目にかかりにゆきますが、二十日すぎてから着くかと思うと何か一寸した言葉があげたい。一寸、胸のところに吊っておくような。
 many many good wishes という云いかたは、謂わば暖い掌で背中や肩を親しくたたくような表情ですね。では又。

 十二月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月二十五日夕方。第四十四信
 十二月十五日づけのお手紙ありがとう。それについてはかくとして、とにかくこの手紙がそちらに届くのは正月に入ってからでしょうね。そうすると正月の第一のたよりになるわけですね。新春の挨拶というものには早いけれども、でも今年は、この間のうちの手紙で私が書いていたとおり私たちに歳暮も早く、したがって新年も早く来たような心持です。だから、時間をとび越して、この手紙の中でいろいろと新しい一年に対して予想する感情でいうことは自然です。
 一九三八年という年は、どのような内容で過されるでしょう。時節柄、「天気晴朗なれど」であろうと思われる。私は自分の仕事についてこの間書いたように本年よく勉強したことと、あなたの命がとりとまったらしいこととで、はっきり一つの成熟の感じがしてこの年こそゆっくりと心の満足するような書きぶりでやりたいという希望に満ちていたのです。勿論、それがそうゆけばこれにこしたことはない。でも、そうゆかなかったとして、作家としての生き方の本然性が失われるのではないから、それなら又私らしくいろいろと勤勉に収穫をもってやってゆこうとも考えて居ります。そういう点ではやはり日々是好日たらしめ得るわけです。
 どっちにしろ、あなたが健康の平衡を保っていて下さることは何よりうれしい。何よりの安心。精神上の苦痛というものも様々で、私は世俗的な意味で苦労性ではないのだけれど、苦しいということは、私の場合では自分の体より寧ろそちらの体についての場合につよく感じられます。あなたの着実な健康増進のための努力には、私は全幅の信頼をもっているから、出た結果はどうであろうとも、あなたに対しての私の苦情というものはないわけです。どうか今年は熱を出したくないものですね。
 おかゆの境地を脱したら実に実にしめたものです。こんなにやいやいいう体面上、私も気をつけ最上の健康を気をつけますから御安心下さい。私の盲腸も妙な奴で、曲者です、ただものでない。可笑しいわね。まア、適当にあつかって居ります。
 ところで、どてらお気に入りました? 今、もう押し迫って縫って貰えないので出来ているのを買って背中へだけポンポコ真綿を足したのです。エリは大変柔和でしょう? 顎や頬にやさしく当るでしょう? きっとあなたはもっともっとふくらんだのを欲しくお思いだろうと察しているのですが、どうか辛抱して下さい。あれでも普通よりは厚い分なのですから。
 もう一枚の綿入羽織は一月中旬にしかお送り出来ません。これもあしからず。
 二十二日ごろ、光井の方へ 500 お送りしておきました。あなたの方のお小遣いもあれで当分間に合うし。いい正月と云うにはばかりなしですね。
 きのうは、午後五時までかかってやっと夏以来の宿題であった「今日の文学の展望」96[#「96」は縦中横]枚かき終り、夢中で終って雨の中を林町へゆきました。太郎の誕生日は十日であったが曾禰博士[自注20]の御不幸でいそがしかったのできのうにしたのです。河合の息子(咲枝の姉の子)たち、その身内の男の子四五人男の子ばかりで来ていて二階をすっかり装飾し、どったんばったんの大さわぎ。寿江がプロムプターであるが、この前からの風邪の耳がまだなおらず、繃帯ほうたいに日本服姿でふらふらしていました。丁度私の行ったのは六時半ごろで、程なく昼の部は終り。子供ら引上げ。忽ち太郎孤影悄然となったので、歓楽きわまって哀愁生じて、泣いてしまった。実にこの子供の心もちわかるでしょう? 一人っ子なんてこれだから可哀そうです。
 それから夜の部がはじまって、こっちは大人の世界。御飯一緒にたべて、寿江へ買ってやった小幡博士の音響学の本の扉に字をかいてやったりして、珍しく昨夜は林町に泊った。おひささん一人故泊ることがちっともないのです。仕事の荷が降りたところなのでフースー眠って、目をさまして、すぐには起きもせず、私にいただいてある黒子ほくろのごくそばで遊んで、懐しがって、優しい感情と切ない感情と、てっぺんではどうしてこう一つなのだろうと感じ、凝っとしていた。
 それから起きて、食堂で太郎がトランクへちょこんと腰かけてお箸で食べているとなりでシャケで御飯たべて、「アラ百合ちゃん奈良漬がすきだったわね、一寸きってさし上げて」「アノー、もうみんなになって居るんですが」「ほんと※(疑問符感嘆符、1-8-77)」というような会話があって、締切をサイソクの速達が来ているという電話でかえって来ました。
 隙間風がスースーと顔をなでる家ながら、我が家はよろしい。まして、ちゃんと一つの封緘ふうかんがひかえていて見れば。
 二葉亭の手紙や日記類の方への興味は全くそのとおりお送りする順として考えて居りました。安井氏の画に対して利口すぎるとの評がある。尤もです。奥行きなさは、愚かさではなくて、その利口さのために生じている。この頃の絵も妙に引込む力をもっていない。画面一杯にせり出して並んで、とても目をひき、うまいがどこまでも心を引っぱりこむというところはない。ああいう本で梅原龍三郎のがあります。又見ておきましょう。絵というものは頭のためにいい(私たちのような仕事との関係で)。音楽は聴き込んでいって、こっちの心がこっちの心の内部でひらける燃えもする工合ですが、絵はやっぱりその芸術の特質で、眼の前がパーッと絵に向って開いて行って、こっちから入りこんで行って、散歩をして、フムと思ったりハンと思ったり出来て、やはり楽しいものです。スケッチが出来たら、下手でもさぞいい保養だろうと思います。寿江子は上手うまい。それでも絵は気まぐれにしかやる気がしない由。
 あなたがお礼を出したく思っていらっしゃる人々には皆よろしくつたえますから御心配なく。親しい人達と賑やかに越年しましょう。百枚近い文学のこの三四年間に亙る鳥瞰図的な推移図のかけたのは、不満もあるが、よかった。生活の中で幸福を発見する能力や仕事のそれが増してゆく諸事情というものは何と複雑でしょう。
 この間、国男宛に下すったお手紙、あっちがお歳暮に来たとき呉れました。わざわざありがとう。国男は、自分が書かないのにすまないと云っていた。皆に対してあなたの配って下さるお心持をありがたく感じました。緑郎はこの間初めて手紙をよこして、パリのエトワールの近くの或一寸した作家の未亡人の家に暮すようになり、フランス語がまだよくこなせないから御飯のたびに大汗の由です。あのひとなりにいろいろ学んで来るでしょう。ただしは負傷しました。但生命に別状はない。島田の方では多賀ちゃんのたよりで、お店へ米俵をつみ上げて、トラックも休みなしの由、収入のある方らしい御様子で、父上も炬燵こたつのある中の間でこの頃は御機嫌よろしいとのことです。結構だが忙しくてお母さん又腎臓をぶりかえしになるといけないと思って居ります。ではこの、今年と明年とに亙る手紙はおしまい。あさって(二十七日)お目にかかりにゆきます。寒くなって来たこと。年内に雪が降るかしら。かぜをお引きにならないように。どうぞ。

[自注20]曾禰博士――曾禰達蔵博士。百合子の父中條精一郎と協力して建築事務所を長年経営された。

底本:「宮本百合子全集 第十九巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年2月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本で「不明」とされている文字には、「〓」をあてました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:花田泰治郎
2004年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。