一、ペンネンネンネンネン・ネネムの独立

 〔冒頭原稿数枚焼失〕のでした。実際、東のそらは、お「キレ」さまの出る前に、琥珀こはく色のビールで一杯いっぱいになるのでした。ところが、そのまま夏になりましたが、ばけものたちはみんなさわぎはじめました。
 そのわけ〔十七字不明〕ばけもの麦も一向みのらず、大〔六字不明〕が咲いただけで一つぶも実になりませんでした。秋になっても全くその通〔七字不明〕くりの木さえ、ただ青いいがばかり、〔八字不明〕飢饉ききんになってしまいました。
 その年は暮れましたが、次の春になりますと飢饉はもうとてもひどくなってしまいました。
 ネネムのお父さん、森の中の青ばけものは、ある日頭をかかえていつまでもいつまでも考えていましたが、急に起きあがって、
「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」といながら、よろよろ家を出て行きましたが、それなりもういつまで待っても帰って来ませんでした。たしかにばけもの世界の天国に、行ってしまったのでした。
 ネネムのお母さんは、毎日目を光らせて、ため息ばかりいていましたが、ある日ネネムとマミミとに、
「わたしは野原に行って何かさがして来るからね。」と云って、よろよろ家を出て行きましたが、やはりそれきりいつまで待っても帰って参りませんでした。たしかにお母さんもその天国に呼ばれて行ってしまったのでした。
 ネネムは小さなマミミとただ二人、寒さとえとにガタガタふるえてりました。
 するとある日戸口から、
「いや、今日は。私はこの地方の飢饉をたすけに来たものですがね、さあ何でもべなさい。」と云いながら、一人の目のするどいせいの高い男が、大きなかごの中に、ワップルや葡萄ぶどうパンや、そのほかうまいものを沢山たくさん入れて入って来たのでした。
 二人はまるで籠を引ったくるようにして、ムシャムシャムシャムシャ、沢山喰べてから、やっと、
「おじさんありがとう。ほんとうにありがとうよ。」なんて云ったのでした。
 男は大へん目を光らせて、二人のたべるところをじっと見て居りましたがその時やっと口を開きました。
「お前たちはいい子供だね。しかしいい子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒いっしょにおいで。いいとこへ連れてってやろう。もっとも男の子は強いし、それにどうもひざやかかとの骨が固まってしまっているようだから仕方ないが、おい、女の子。おじさんとこへ来ないか。一日いっぱい葡萄パンを喰べさしてやるよ。」
 ネネムもマミミも何とも返事をしませんでしたが男はふいっとマミミをお菓子かしの籠の中へ入れて、
「おお、ホイホイ、おお、ホイホイ。」と云いながらにわかにあわてだして風のように家を出て行きました。
 何のことだかわけがわからずきょろきょろしていたマミミ〔一字不明〕、戸口を出てからはじめてわっと泣き出しネネムは、
「どろぼう、どろぼう。」と泣きながらさけんで追いかけましたがもう男は森をけてずうっと向うの黄色な野原を走って行くのがちらっと見えるだけでした。マミミの声が小さな白い三角の光になってネネムの胸にしみむばかりでした。
 ネネムは泣いてどなって森の中をうろうろうろうろはせ歩きましたがとうとうつかれてばたっとたおれてしまいました。
 それから何日ったかわかりません。
 ネネムはふっと目をあきました。見るとすぐ頭の上のばけもの栗の木がふっふっと湯気をいていました。
 その幹に鉄のはしごが両方から二つかかって二人の男が登って何かしきりにつなをたぐるようなあみを投げるようなかたちをやって居りました。
 ネネムは起きあがって見ますとお「キレ」さまはすっかりふだんの様になっておまけにテカテカして何でも今朝あたり顔をきれいにったらしいのです。
 それにかれ草がほかほかしてばけものわらびなどもふらふらと生え出しています。ネネムは飛んで行ってそれをむしゃむしゃたべました。するとネネムの頭の上でいやに平べったい声がしました。
「おい。子供。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。もうじき夏になるよ。すこしおれに手伝わないか。」
 見るとそれは実に立派なばけもの紳士しんしでした。貝殻かいがらでこしらえた外套がいとうを着て水煙草みずたばこを片手に持って立っているのでした。
「おじさん。もう飢饉は過ぎたの。手伝いって何を手伝うの。」
昆布こんぶ取りさ。」
「ここで昆布がとれるの。」
「取れるとも。見ろ。折角やってるじゃないか。」
 なるほどさっきの二人は一生けん命網をなげたりそれをったりしているようでしたが網も糸も一向見えませんでした。
「あれでも昆布がとれるの。」
「あれでも昆布がとれるのかって。いやな子供だな。おい、縁起えんぎでもないぞ。取れもしないところにどうして工場なんか建てるんだ。取れるともさ。現におれはじめ沢山のものがそれでくらしを立てているんじゃないか。」
 ネネムはかすれた声でやっと
「そうですか。おじさん。」と云いました。
「それにこの森はすっかりおれの森なんだからさっきのように勝手にわらびなんぞ取ることはうに差し止めてあるんだぞ。」
 ネネムは大変いやな気がしました。紳士は又云いました。
「お前もおれの仕事に手伝え。一日一ドルずつ手間をやるぜ。そうでもしなかったらお前は飯を食えまいぜ。」
 ネネムは泣き出しそうになりましたがやっとこらえて云いました。
「おじさん。そんならぼく手伝うよ。けれどもどうして昆布を取るの。」
「ふん。そいつは勿論もちろん教えてやる。いいか、そら。」紳士はポケットから小さくたたんだ洋傘こうもりがさの骨のようなものを出しました。
「いいか。こいつを延ばすと子供の使うはしごになるんだ。いいか。そら。」
 紳士はだんだんそれを引き延ばしました。間もなく長さ十メートルばかりの細い細い絹糸でこさえたようなはしごが出来あがりました。
「いいかい。こいつをね。あの栗の木にけるんだよ。ああ云う工合ぐあいにね。」紳士はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かわらず見えない網や糸をまっさおな空に投げたり引いたりしています。
 紳士ははしごを栗のにかけました。
「いいかい。今度はおまえがこいつをのぼって行くんだよ。そら、登ってごらん。」
 ネネムは仕方なくはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々がまるで針金のように細くて手や、足にい込んでちぎれてしまいそうでした。
「もっと登るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはすっかり頂上まで登りました。栗の木の頂上というものはどうも実に寒いのでした。それに気がついて見ると自分の手からまるで蜘蛛くもの糸でこしらえたようなあやしい網がぐらぐらゆれながらずうっと青空の方へひろがっているのです。そのぐらぐらはだんだんはげしくなってネネムは危なく下に落ちそうにさえなりました。
「そら、網があったろう。そいつを空へ投げるんだよ。手がぐらぐら云うだろう。そいつはね、風の中のふかさめがつきあたってるんだ。おや、お前はふるえてるね。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」
 ネネムは何とも云えずいやな心持がしました。けれども仕方なく力一杯いっぱいにそれをたぐり寄せてそれからあらんかぎり上の方に投げつけました。すると目がぐるぐるっとして、ご機嫌きげんのいいおキレさままでがまるで黒い土のたまのように見えそれからシュウとはしごのてっぺんから下へ落ちました。もう死んだとネネムは思いましたがその次にもう耳が抜けたとネネムは思いました。というわけはネネムはきちんと地面の上に立っていて紳士がネネムの耳をつかんでぶりぶり云いながら立っていました。
「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。おれが今お前の耳をつかんで止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がパチンとはじけていたろう。おれはお前の大恩人ということになっている。これから失礼をしてはならん。ところでさあ、登れ。登るんだよ。夕方になったらたべものも送ってやろう。夜になったら綿のはいったチョッキもやろう。さあ、登れ。」
「夕方になったら下へ降りて来るんでしょう。」
「いいや。そんなことがあるもんか。とにかく昆布がとれなくちゃだめだ。どれ一寸ちょっと網を見せろ。」
 紳士はネネムの手にくっついた網をたぐり寄せて中をあらためました。網のずうっとはじの方に一寸四方ばかりの茶色なヌラヌラしたものがついていました。紳士はそれを取って
「ふん、たったこれだけか。」と云いながらそれでも少し笑ったようでした。そしてネネムは又はしごを上って行きました。
 やっと頂上へ着いて又力一杯空に網を投げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ網を引き寄せて見ましたが中にはなんにもはいっていませんでした。
「それ、しっかり投げろ。なまけるな。」下では紳士が叫んでいます。ネネムはそこで又投げました。やっぱりなんにもありません。又投げました。やっぱり昆布ははいりません。
 つかれてヘトヘトになったネネムはもう何でも構わないから下りて行こうとしました。するとおどろいたことにははしごがありませんでした。
 そしてもう夕方になったと見えてばけものぞらは緑色になり変なばけものパンが下の方からふらふらのぼって来てネネムの前にとまりました。紳士はどこへ行ったかかげもかたちもありません。
 向うの木の上の二人もしょんぼりと頭を垂れてパンを食べながら考えているようすでした。その木にも鉄のはしごがもう見えませんでした。
 ネネムも仕方なくばけものパンをじりはじめました。
 その時紳士が来て、
「さあ、たべてしまったらみんな早く網を投げろ。昆布を一きんとらないうちは綿のはいったチョッキをやらんぞ。」とどなりました。
 ネネムは叫びました。
「おじさん。僕もうだめだよ。おろしておれ。」
 紳士が下でどなりました。
「何だと。パンだけ食ってしまってあとはおろしてお呉れだと。あんまり勝手なことを云うな。」
「だってもううごけないんだもの。」
「そうか。それじゃ動けるまでやすむさ。」と紳士が云いました。ネネムは栗の木のてっぺんにこしをかけてつくづくとやすみました。
 その時栗の木が湯気をホッホッとき出しましたのでネネムは少し暖まって楽になったように思いました。そこで又元気を出して網を空に投げました。空では丁度星が青く光りはじめたところでした。
 ところが今度の網がどうも実に重いのです。ネネムはよろこんでたぐり寄せて見ますとたしかに大きな大きな昆布が一枚ひらりとはいって居りました。
 ネネムはよろこんで
「おじさん。さあ投げるよ。とれたよ。」
と云いながらそれを下へ落しました。
「うまい、うまい。よし。さあ綿のチョッキをやるぜ。」
 チョッキがふらふらのぼって来ました。ネネムは急いでそれを着て云いました。
「おじさん。一ドル呉れるの。」
 紳士が下の浅黄色のもやの中で云いました。
「うん。一ドルやる。しかしパンが一日一ドルだからな。一日十斤以上こんぶを取ったらあとは一斤十セントで買ってやろう。そのよけいの分がおまえのもうけさ。ためて置いていつでもはらってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ。」
 ネネムは実にがっかりしました。向うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居ないようでした。きっとあんまり仕事がつらくて消滅しょうめつしてしまったのでしょう。さてネネムは決心しました。それからよるもひるも栗の木の湯気とばけものパンと見えない網と紳士と昆布と、これだけを相手にして実に十年というものこの仕事をつづけました。これらの対手あいての中でもパンと昆布とがまず大将でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次の五年でそれを払いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降りてたまった三百ドルをふところにしてばけもの世界のまちの方へ歩き出しました。

   二、ペンネンネンネンネン・ネネムの立身

 ペンネンネンネンネン・ネネムは十年のあいだ木の上に直立し続けたためにしきりに痛むひざでながら、森を出て参りました。森の出口に小さな雑貨商がありましたので、ネネムは店にはいって、まっ黒な上着とズボンを一つ買いました。それから急いでそれを着ながら考えました。
「何か学問をして書記になりたいもんだな。もう投げるようなたぐるようなことは考えただけでも命が縮まる。よしきっと書記になるぞ。」
 ペンネンネンネンネン・ネネムはおあしを払って店を出る時ちらっと向うの姿見にうつった自分の姿を見ました。
 着物が夜のようにまっ黒、縮れた赤毛が頭からかたにふさふさ垂れまっ青なはかがやきそれが自分だかと疑った位立派でした。
 ネネムはうれしくて口笛くちぶえを吹いてただ一息に三十ノットばかり走りました。
「ハンムンムンムンムン・ムムネの市まで、もうどれ位ありましょうか。」とペンネンネンネンネン・ネネムが、向うからふらふらやって来た黄色な影法師のばけ物にたずねました。
「そうだね。一寸ここまでおいで。」その黄色な幽霊ゆうれいは、ネネムの四角なそでのはじをつまんで、一本のばけものりんごの木の下まで連れて行って、自分の片足をりんごの木の根にそろえて置いて云いました。
「あなたも片足をここまで出しなさい。」
 ネネムは急いでその通りしますとその黄色な幽霊は、かがんで片っ方の目をつぶって、足さきがりんごの木の根とよくそろっているか検査したあとで云いました。
「いいか。ハンムンムンムンムン・ムムネ市の入口までは、丁度この足さきから六ノット六チェーンあるよ。それでは途中とちゅう気をつけておいで。」そしてくるっとまわって向うへ行ってしまいました。
 ネネムはそのうしろから、ていねいにお辞儀をして、
「ああありがとうございます。六ノット六チェーンならば、私が一時間一ノット一チェーンずつあるきますと六時間で参れます。一時間三ノット三チェーンずつあるきますと二時間で参れます。すっかり見当がつきまして、こんなうれしいことはありません。」と云いながら、もう一つ頭を下げました。赤毛はじゃらんと下にがりましたけれども、実は黄色の幽霊はもうずうっと向うのばけもの世界のかげろうの立つ畑の中にでもはいったらしく、影もかたちもありませんでした。
 そこでネネムは又あるき出しました。すると又向うから無暗むやみにぎらぎら光るねずみ色の男が、赤いゴムぐつをはいてやって参りました。そしてネネムをじろじろ見ていましたが、突然とつぜんそばに走って来て、ネネムの右の手首をしっかりつかんで云いました。
「おい。お前は森の中の昆布こんぶ採りがいやになってこっちへ出て来た様子だが、一体これから何が目的だ。」
 ネネムはこれはきっと探偵たんていにちがいないと思いましたので、かたくなって答えました。
「はい。私は書記が目的であります。」
 するとその男は左手で短いひげをひねって一寸考えてから云いました。
「ははあ、書記が目的か。して見ると何だな。お前は森の中であんまりばけものパンばかり喰ったな。」
 ネネムはすっかり図星ずぼしをさされて、面くらって左手で頭をきました。
「はい実は少少たべすぎたかと存じます。」
「そうだろう。きっとそうにちがいない。よろしい。お前の身分や考えはよく諒解りょうかいした。行きなさい。わしはムムネ市の刑事だ。」
 ネネムはそこでやっと安心してていねいにおじぎをして又町の方へ行きました。
 丁度一時間と六分かかって、三ノット三チェーンを歩いたとき、ネネムは一人の百姓のおかみさんばけものと会いました。その人は遠くからいかにも不思議そうな顔をして来ましたが、とうとう泣き出してかけ寄りました。
「まあ、クエクや。よく帰っておいでだね。まあ、お前はわたしを忘れてしまったのかい。ああなさけない。」
 ネネムは少し面くらいましたが、ははあ、これはきっと人ちがいだと気がつきましたので急いで云いました。
「いいえ、おかみさん。私はクエクという人ではありません。私はペンネンネンネンネン・ネネムというのです。」
 するとそのだいだい色の女のばけものはやっと気がついたと見えてにわかに泣き顔をやめて云いました。
「これはどうもとんだ失礼をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」
「いいえ。どういたしまして。私は今度はじめてムムネの市に出るところです。」
「まあ、そうでしたか。うちのせがれも丁度あなたと同じ年ころでした。まあ、おくしのちぢれ工合ぐあいから、お耳のキラキラする工合、何から何までそっくりです。それにまあ、なめくじばけもののようなやわらかなおあしに、かたいはがねのわらじをはいて、なにが御志願でいらしゃるのやら。おお、うちのせがれもこんなわらじでどこを今ごろ、ポオ、ポオ、ポオ、ポオ。」とそのおかみさんばけものは泣き出しました。ネネムは困って、
「ね、おかみさん。あなたのむすこさんは、もうきっとどこかの書記になってるんでしょう。きっとじきおむかいをよこすにちがいありません。そんなにお泣きなさらなくてもいいでしょう。私は急ぎますからこれで失礼いたします。」と云いながらクラリオネットのようなすすり泣きの声をあとに、急いでそこを立ち去りました。
 さてそれから十五分でネネムはムムネの市までもう三チェーンの所まで来ました。ネネムはそこでかみをすっかり直して、それからみちばたの水銀の流れで顔を洗い、市にはいって行く支度したくをしました。
 それからなるべく心を落ちつけてだんだん市に近づきますと、さすがはばけもの世界の首府のけはいは、早くもネネムに感じました。
 ノンノンノンノンノンといううなりは地の〔以下原稿数枚分焼失〕

「今授業中だよ。やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりましたので、学校の建物はぐらぐらしました。
 ネネムはそこで思い切って、なるべく足音を立てないように二階にあがってその教室にはいりました。教室の広いことはまるで野原です。さまざまの形、とうがらしや、うすや、はさみや、赤や白や、実にさまざまの学生のばけものがぎっしりです。向うには大きながけのくらいある黒板がつるしてあって、せの高さ百尺あまりのさっきの先生のばけものが、講義をやって居りました。
「それでその、もしも塩素が赤い色のものならば、これは最も明らかな不合理である。黄色でなくてはならん。して見ると黄色という事はずいぶん大切なもんだ。黄という字はこう書くのだ。」
 先生は黒板を向いて、両手や鼻や口やひじやカラアや髪の毛やなにかで一ぺんに三百ばかり黄という字を書きました。生徒はみんな大急ぎで筆記帳に黄という字を一杯いっぱい書きましたがとても先生のようにうまくは出来ません。
 ネネムはそっと一番うしろの席にすわって、となりの赤と白のまだらのばけもの学生に低くたずねました。
「ね、この先生は何て云うんですか。」
「お前知らなかったのかい。フゥフィーボー博士さ。化学の。」とその赤いばけものは馬鹿ばかにしたように目を光らせて答えました。
「あっ、そうでしたか。この先生ですか。名高い人なんですね。」とネネムはそっとつぶやきながら自分もふところから鉛筆えんぴつと手帳を出して筆記をはじめました。
 その時教室にパッと電燈でんとうがつきました。もう夕方だったのです。博士が向うで叫んでいます。
「しからば何がゆえに夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」
 博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は俄かに手を大きくひろげて
「げにも、かの天にありて濛々もうもうたる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」と云いながらテーブルの上に飛びあがってうでを組み堅く口を結んできっとあたりを見まわしました。
 学生どもはみんな興奮して
「ブラボオ。フゥフィーボー先生。ブラボオ。」とさけんでそれからバタバタ、ノートを閉じました。ネネムもすっかりまれて、
「ブラボオ。」と叫んで堅く堅く決心したように口を結びました。この時先生はやっとほんのすこうし笑って一段声を低くして云いました。
「みなさん。これからすぐ卒業試験にかかります。一人ずつ私の前をお通りなさい。」と云いました。
 学生どもは、そこで一人ずつ順々に、先生の前を通りながらノートを開いて見せました。
 先生はそれを一寸見てそれから一言か二言質問をして、それから白墨はくぼくでせなかに「及」とか「落」とか「同情及」とか「退校」とか書くのでした。
 書かれる間学生はいかにもくすぐったそうに首をちぢめているのでした。書かれた学生は、いかにも気がかりらしく、そっと肩をすぼめて廊下ろうかまで出て、友達に読んでもらって、よろこんだり泣いたりするのでした。ぐんぐんぐんぐん、試験がすんで、いよいよネネム一人になりました。ネネムがノートを出した時、フゥフィーボー博士は大きなあくびをやりましたので、ノートはスポリと先生に吸い込まれてしまいました。先生はそれを別段気にかけるでもないらしく、コクッとんでしまって云いました。
「よろしい。ノートは大へんによく出来ている。そんなら問題を答えなさい。煙突えんとつから出るけむりには何種類あるか。」
「四種類あります。もしその種類を申しますならば、黒、白、青、無色です。」
「うん。無色のけむりに気がついた所は、実にどうもえらい。そんなら形はどうであるか。」
「風のない時はたての棒、風の強い時は横の棒、その他はみみずなどの形。あまり煙の少ない時はコルクきのようにもなります。」
「よろしい。お前は今日の試験では一等だ。何か望みがあるなら云いなさい。」
「書記になりたいのです。」
「そうか。よろしい。わしの名刺めいしに向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」
 ネネムは名刺をれるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。
 ネネムはよろこんで叮寧ていねいにおじぎをして先生のところから一足退きますと先生が低く、
「もうわらのオムレツが出来あがったころだな。」とつぶやいてテーブルの上にあったかわのカバンに白墨のかけらや講義の原稿げんこうやらを、みんな一緒いっしょに投げ込んで、小脇こわきにかかえ、さっき顔を出した窓からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮ゆうぐれの中の物干台にフゥフィーボー博士が無事に到着とうちゃくして家の中に入って行くのをたしかに見ました。
 そこでネネムは教室を出てはしご段を降りますと、そこには学生が実に沢山泣いていました。全く三千六百五十三回、すなわうるう年も入れて十年という間、日曜も夏休みもなしに落第ばかりしていては、これが泣かないでいられましょうか。けれどもネネムは全くそれとはちがいます。
 元気よく大学校の門を出て、自分の胸の番地を指さして通りかかったくらげのようなばけものに、どう行ったらいいかをたずねました。
 するとそのばけものは、ひどく叮寧におじぎをして、
「ええ。それは世界裁判長のおやしきでございます。ここから二チェーンほどおいでになりますと、大きな粘土ねんどでかためた家がございます。すぐおわかりでございましょう。どうか私もよろしくお引き立てをねがいます。」と云ってまた叮寧におじぎをしました。
 ネネムはそこで一時間一ノット一チェーンの速さで、そちらへ進んで参りました。たちまち道の右側に、その粘土作りの大きな家がしゃんと立って、世界裁判長官邸かんていと看板がかかって居りました。
「ご免なさい。ご免なさい。」とネネムは赤い髪をきながら云いました。
 すると家の中からペタペタペタペタ沢山の沢山のばけものどもが出て参りました。
 みんなまっ黒な長い服を着て、恭々うやうやしく礼をいたしました。
「私は大学校のフゥフィーボー先生のご紹介しょうかいで参りましたが世界裁判長に一寸お目にかかれましょうか。」
 するとみんなは口をそろえて云いました。
「それはあなたでございます。あなたがその裁判長でございます。」
「なるほど、そうですか。するとあなた方は何ですか。」
「私どもはあなたの部下です。判事や検事やなんかです。」
「そうですか。それでは私はここの主人ですね。」
「さようでございます。」
 こんなような訳でペンネンネンネンネン・ネネムは一ぺんに世界裁判長になって、みんなに囲まれて裁判長室の海綿でこしらえた椅子いすにどっかりと座りました。
 すると一人の判事が恭々しく申しました。
「今晩開廷の運びになっている件が二つございますが、いかがでございましょうおつかれでいらっしゃいましょうか。」
「いいや、よろしい。やります。しかし裁判の方針はどうですか。」
「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向うの世界になるべく顔を出さぬように致したいのでございます。」
「わかりました。それではすぐやります。」
 ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらをかぶって黒い長い服を着て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席についています。
 ネネムは正面の一番高い処に座りました。向うのすみの小さな戸口から、ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高いするどい灰色のやつで、片手にほうきを持って居りました。一人の検事が声高く書類を読み上げました。
「ザシキワラシ。二十二さい。アツレキ三十一年二月七日、表、日本岩手県上閉伊かみへい青笹あおざさあざ瀬戸二十一番戸伊藤万太の宅、八畳座敷中に故なくしてほしいままに出現して万太の長男千太、八歳を気絶せしめたる件。」
「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長が云いました。
「姓名年齢ねんれい、その通りに相違そういないか。」
「相違ありません。」
「その方はアツレキ三十一年二月七日、伊藤万太方の八畳座敷に故なくして擅に出現したることは、しかとその通りに相違ないか。」
「全く相違ありません。」
「出現後は何を致した。」
「ザシキをザワッザワッといて居りました。」
「何のために掃いたのだ。」
「風を入れる為です。」
「よろしい。その点は実に公益である。本官において大いに同情をていする。しかしながらすでにみだりに人の居ない座敷の中に出現して、ほうきの音を発した為に、その音におどろいて一寸のぞいて見た子供が気絶をしたとなれば、これは明らかな出現罪である。って今日より七日間当ムムネ市の街路の掃除を命ずる。今後はばけもの世界長の許可なくして、妄りに向う側に出現することはならん。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
「実に名断だね。どうも実に今度の長官は偉い。」と判事たちはたがいにささやき合いました。
 ザシキワラシはおじぎをしてよろこんで引っ込みました。
 次に来たのはとび色と白との粘土で顔をすっかり隈取くまどって、口が耳までけて、胸や足ははだかで、こしに厚いみののようなものを巻いたばけものでした。一人の判事が書類を読みあげました。
「ウウウウエイ。三十五歳。アツレキ三十一年七月一日夜、表、アフリカ、コンゴオの林中の空地に於て故なくしてほしいままに出現、舞踏ぶとう中の土地人を恐怖きょうふ散乱せしめたる件。」
「よろしい、わかった。」とネネムは云いました。
「姓名年齢その通りに相違ないか。」
「へい。その通りです。」
「その方はアツレキ三十一年七月一日夜、アフリカ、コンゴオの林中空地に於て、故なくして擅に出現、折柄おりから月明によって歌舞、歓をなせる所の一群を恐怖散乱せしめたことは、しかとその通りにちがいないか。」
「全くその通りです。」
「よろしい。何の目的で出現したのだ。すでに法律上故なく擅となってあるが、その方の意中を今一応たずねよう。」
「へい。その実は、あまり面白おもしろかったもんですから。へい。どうも相済みません。あまり面白かったんで。ケロ、ケロ、ケロ、ケロロ、ケロ、ケロ。」
ひかえろ。」
「へい。全くどうも相済みません。おそれ入りました。」
「うん。お前は、もっとも明らかな出現罪である。依って明日より二十二日間、ムッセン街道の見まわりを命ずる。今後ばけものの世界長の許可なくして、みだりに向側に出現いたしてはならんぞ。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」そのばけものも引っ込みました。
「実に名断だ。いい判決だね。」とみんなささやき合いました。その時向うの窓がガタリと開いて
「どうだ、いい裁判長だろう。みんな感心したかい。」と云う声がしました。それはさっきの灰色の一メートルある顔、フゥフィーボー先生でした。
「ブラボオ。フゥフィーボー博士。ブラボオ。」と判事も検事もみんな怒鳴どなりました。その時はもう博士の顔は消えて窓はガタンとしまりました。
 そこでネネムは自分のへやに帰って白いちぢれ毛のかつらをりました。それからました。
 あとはあしたのことです。

   三、ペンネンネンネンネン・ネネムの巡視じゅんし

 ばけもの世界裁判長になったペンネンネンネンネン・ネネムは、次の朝六時に起きて、すぐ部下の検事を一人呼びました。
「今日は何時に公判の運びになっているか。」
「本日もやはり晩の七時から二件だけございます。」
「そうか。よろしい。それでは今朝は八時から世界長に挨拶あいさつに出よう。それからすぐ巡視だ。みんなその支度したくをしろ。」
「かしこまりました。」
 そこでペンネンネンネンネン・ネネムは、燕麦オートを一と、豆汁まめじるを二リットルで軽く朝飯をすまして、それから三十人の部下をつれて世界長の官邸に行きました。
 ばけもの世界長は、もう大広間の正面に座って待っています。世界長は身のたけ百九十尺もある中世代の瑪瑙木めのうぼくでした。
 ペンネンネンネンネン・ネネムは、恭々しく進んで片膝かたひざを床につけて頭を下げました。
「ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長はおまえであるか。」
「さようでございます。永久に忠勤をちかたてまつります。」
「うん。しっかりやってれ。ゆうべの裁判のことはもう聞いた。それに今朝はこれから巡視に出るそうだな。」
「はい。恐れ入ります。」
「よろしい。どうかしっかりやって呉れ。」
「かしこまりました。」
 そこでペンネンネンネンネン・ネネムは又うやうやしく世界長に礼をして、後戻あともどりして退きました。三十人の部下はもう世界長の首尾がいいので大喜びです。
 ペンネンネンネンネン・ネネムも大機嫌だいきげんでそれから町を巡視しはじめました。
 ばけもの世界のハンムンムンムンムン・ムムネ市のさかんなことは、今日とて少しも変りません。億百万のばけものどもは、通り過ぎ通りかかり、行きあい行き過ぎ、発生し消滅しょうめつし、聨合れんごう融合ゆうごうし、再現し進行し、それはそれは、実にどうも見事なもんです。ネネムもいまさらながら、つくづくと感服いたしました。
 その時向うから、トッテントッテントッテンテンと、チャリネルという楽器をたたいて、小さな赤い旗をたてた車が、ほんの少しずつこっちへやって来ました。見物のばけものがまるで赤山のようにそのまわりについて参ります。
 ペンネンネンネンネン・ネネムは、行きあいながらふと見ますと、その赤い旗には、白くフクジロと染め抜いてあって、その横にせいの高さ三尺ばかりの、顔がまるでじじいのようにしわくちゃなことに鼻が一尺ばかりもあるこわい子供のようなものが、小さな半ずぼんをはいて立ち、車を引っ張っている黒いかたいばけものから、「フクジロ印」という商標のマッチを、五つばかり受け取っていました。ネネムは何をするのかと思ってもっと見ていますと、そのいやなものはマッチを持ってよちよち歩き出しました。
 赤山のようなばけものの見物は、わいわいそれについて行きます。一人の若いばけものが、うしろから押されてちょっとそのいやなものにさわりましたら、そのフクジロといういやなものはくるりと振り向いて、いきなりピシャリとその若ばけもののほっぺたをなぐりつけました。
 それからいやなものは向うの荒物あらもの屋に行きました。その荒物屋というのは、ばけもの歯みがきや、ばけもの楊子ようじや、手拭てぬぐいやずぼん、前掛まえかけなどまで、すべてばけもの用具一式を売っているのでした。
 フクジロがよちよちはいって行きますと、荒物屋のおかみさんは、こわがってげようとしました。おかみさんだって顔がまるでばくのようで、立派なばけものでしたが、小さくてしわくちゃなフクジロを見ては、もうすっかりおびえあがってしまったのでした。
「おかみさん。フクジロ・マッチ買ってお呉れ。」
 おかみさんはやっと気を落ちつけて云いました。
「いくらですか。ひとつ。」
「十円。」
 おかみさんは泣きそうになりました。
「さあ買ってお呉れ。買わなかったらおどりをやるぜ。」
「買います、買います。踊の方はいりません。そら、十円。」おかみさんは青くなってブルブルしながら銭函ぜにばこからお金を集めて十円出しました。
「ありがとう。ヘン。」と云いながらそのいやなものは店を出ました。
 そして今度は、となりのばけもの酒屋にはいりました。見物はわいわいついて行きます。酒屋のはげ頭のおじいさんばけものも、やっぱりぶるぶるしながら十円出しました。
 そのとなりはタン屋という店でしたが、ここでも主人が黄色な顔を緑色にしてふるえながら、十円でマッチ一つ買いました。
「これはいかん。実にけしからん。こう云ういやなものが町の中を勝手に歩くということはおれの恥辱ちじょくだ。いいからひっくくってしまえ。」とペンネンネンネンネン・ネネムは部下の検事に命令しました。一人の検事がすぐ進んで行ってタン屋の店から出て来るばかりのそのいやなものをくるくる十重とえばかりにひっくくってしまいました。ペンネンネンネンネン・ネネムがみんなをし分けて前に出て云いました。
「こら。その方は自分の顔やかたちのいやなことをいいことにして、一つ一銭のマッチを十円ずつに家ごと押しつけてあるく。悪いやつだ。監獄かんごくに連れて行くからそう思え。」
 するとそのいやなものは泣き出しました。
「巡査さん。それはひどいよ。ぼくはいくらお金をもらったって自分で一銭もとりはしないんだ。みんな親方がしまってしまうんだよ。許してお呉れ。許してお呉れ。」
 ネネムが云いました。
「そうか。するとお前は毎日ただ引っぱりまわされてかせがせられるけだな。」
「そうだよ、そうだよ。僕を太夫たいふさんだなんて云いながら、ひどい目にばかりあわすんだよ。ご飯さえろくに呉れないんだよ。早く親方をつかまえてお呉れ。早く、早く。」今度はそのいやなものがにわかに元気を出しました。
 そこで
「あの車のとこに居るものを引っくくれ。」とネネムが云いました。丁度出て来た巡査が三人ばかり飛んで行って、車にポカンと腰掛けて居た黒い硬いばけものを、くるくるくるっとしばってしまいました。ネネムはいやなものと一緒いっしょにそっちへ行きました。
「こら。きさまはこんなかたわなあわれなものをだしにして、一銭のマッチを十円ずつに売っている。さあ監獄へ連れて行くぞ。」
 親方が泣き出しそうになって口早に云いました。
「お役人さん。そいつぁあんまり無理ですぜ。わしぁ一日一杯いっぱいあるいてますがやっとうだけしか貰わないんです。あとはみんな親方がとってしまうんです。」
「ふん、そうか。その親方はどこに居るんだ。」
「あすこに居ます。」
「どれだ。」
「あのまがり角でそらを向いてあくびをしている人です。」
「よし。あいつをしばれ。」まがり角の男は、しばられてびっくりして、口をパクパクやりました。ネネムは二人を連れてそっちへ歩いて行って云いました。
「こらきさまは悪いやつだ。何も文句をうことはない。監獄にはいれ。」
「これはひどい。一体どうしたのです。ははあ、フクジロもタンイチもしばられたな。その事ならなあに私はただこうやって監督かんとくに云いつかって車を見ているだけでございます。私は日給三十銭の外に一銭だって貰やしません。」
「ふん。どうも実にいやな事件だ。よし、お前の監督はどこに居るか、云え。」
「向うの電信柱の下で立ったまま居睡いねむりをしているあの人です。」
「そうか。よろしい。向うの電信ばしらの下のやつをしばれ。」巡査や検事がすぐ飛んで行こうとしました。その時ネネムは、ふともっと向うを見ますと、大抵たいてい五間きぐらいに、あくびをしたりうでぐみをしたり、ぼんやり立っているものがまだまだたくさん続いています。そこでネネムが云いました。
一寸ちょっと待て。まだ向うにも監督が沢山居るようだ。よろしい。順ぐりにみんなしばって来い。一番おしまいのやつを逃がすなよ。さあ行け。」
 十人ばかりの検事と十人ばかりの巡査がふうとけむりのように向うへ走って行きました。見る見る監督どもが、みんなペタペタしばられて十五分もたたないうちに三十人というばけものが一列にずうっとつづいてひっぱられて来ました。
「一番おしまいのやつはこいつか。」とネネムが緑色の大へんハイカラなばけものをゆびさしました。
「そうです。」みんなは声をそろえて云います。
「よろしい。こら。その方は、あんなあわれなかたわを使って一銭のマッチを十円に売っているとは一体どう云うわけだ。それに三十二人も人を使って、あくまで自分の悪いことをかくそうとは実にけしからん。さあどうだ。」
 ところが緑色のハイカラなばけものは口をとがらして、一向恐れ入りません。
「これはけしからん。私はそんなことをした覚えはない。私は百二十年前にこの方に九円だけ貸しがあるので今はもう五千何円になっている。わしはこの方のあとをつけて歩いて毎日、にっプで三十円ずつとる商売なんだ。」と云いながら自分の前のまっ赤なハイカラなばけものを指さしました。
 するとその赤色のハイカラが云いました。
「その通りだ。私はこの人に毎日三十円ずつはらう。払っても払っても元金はえるばかりだ。それはとにかく私は又この前のお方に百四十年前に非常な貸しがあるのでそれをもとでに毎日この人について歩いて実は五十円ずつとっているのだ。マッチの罪とかなんとか一向私はしらない。」と云いながら自分の前の青い色のハイカラなばけものを指さしました。すると青いのが云いました。
「その通りだ。わしは毎日五十円ずつ払う。そしてわしはこの前のお方に二百年前かなりの貸しがあるのでそれをもとでに毎日ついて歩いて百円ずつとるだけなのだ。」
 指されたその前の黄色なハイカラが云いました。
「そうだ。その通りだ。そしてわしはこの前のお方に昔すてきなかしがあるので、毎日ついて歩いて三百円ずつとるのだ。」
「ふうん。大分わかって来たぞ。あとはもう貸した年と今とる金だかだけを云え。」とネネムが申しました。
「二百五十年五百円」「三百年、千円」「三百一年、千七円」「三百二年、千八円」「三百三年、千九円」「三百四年、千十円。」
 ネネムはすばやく勘定しました。
「もうわかった。第三十番。電信柱の下の立ちねむり。おまえは千三十円とっているだろう。」
「全くさようでございます。ご明察恐れ入ります。」
 その時さっきの角のところに立って、あくびをしていた監督が云いました。
「どうです。そうでしょう。私は毎日千三十円三十銭だけとって、千三十円だけこの人に納めるのです。」
 ネネムが云いました。
「そうか。すると一体たれがフクジロを使って歩かせているのだ。」
「私にはわかりません。私にはわかりません。」とみんなが一度に云いました。そこでネネムも一寸こまりましたがしばらくたってから申しました。
「よし。そんならフクジロのマッチを売っていることを知っているものは手をあげ。」
 硬い黒いタンイチはじめ順ぐりに十人だけ手をあげました。
「よろしい。すると十人目の貴さまが一番悪い。監獄にはいれ。」
「いいえ。どういたしまして。私はただフクジロのマッチを売っていることを遠くから見ているだけでございます。それを十円に売るなんて、めっそうな、私は一向に存じません。」
「どうもこれはずいぶん不愉快ふゆかいな事件だね。よろしい。そんならフクジロがマッチを十円で売るということを知っているものは手をあげ。」
 硬い黒いタンイチからただ三人でした。
「するとお前だ。監獄にはいれ。」とネネムが云いました。
「それはさっきも申しあげました。私はただ命令で見ていただけです。」
「するとお前は十円に売ることは知っている、けれどもただ云いつかっているだけだというのだな、それから次のお前は云いつけてはいる。けれども十円に売れなんて云ったおぼえもなし又十円に売っているとも思わない、ただまあ、フクジロがよちよち家を出たりはいったりして、それでよくこんなにもうかるもんだと思っていたと、こうだろう。」
「全くご名察の通り。」と二人が一緒に云いました。
「よろしい。もうわかった。お前がたに云いわたす。これは順ぐりに悪いことがたまって来ているのだ。百年も二百年もの前に貸した金の利息を、そんなハイカラななりをして、毎日ついてあるいてとるということは、けしからん。ことにそれが三十人も続いているというのは実にいけないことだ。おまえたちはあくびをしたりいねむりをしたりしながら毎日をくらして食事の時間だけすぐ近くの料理屋にはいる、それから急いで出て来て前の者がまだあまり遠くへ行っていないのを見てやっと安心するなんという実にどうも不届きだ。それからおれがもうけるんじゃないと云うので、悪いことをぐんぐんやるのもあまりよくない。だからみんな悪い。みんなを罪にしなければならない。けれどもそれではあんまりかあいそうだから、どうだ、みんな一ぺんに今の仕事をやめてしまえ。そこでフクジロはおれがどこかの玩具おもちゃの工場の小さなへやで、ただ一人仕事をして、時々お菓子かしでもたべられるようにしてやろう。あとのものはみんな頑丈がんじょうそうだから自分で勝手に仕事をさがせ。もしどうしても自分でさがせなかったらおれの所に相談に来い。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」みんなはフクジロをのこして赤山のような人をわけてちりぢりにげてしまいました。そこでネネムは一人の検事をつけてフクジロを張子はりことらをこさえる工場へ送りました。
 見物人はよろこんで、
「えらい裁判長だ。えらい裁判長だ。」とときの声をあげました。そこでネネムはまた巡視じゅんしをはじめました。
 それから少し行きますと通りの右側に大きなどろでかためた家があって世界警察長官邸かんていと看板が出て居りました。
「一寸はいって見よう。」と云いながらネネムは玄関げんかんに立ちました。その家中がにわかにザワザワしてそれから警察長がさきに立って案内しました。一通り中の設備を見てからネネムは警察長と向い合って一つのテーブルに座りました。警察長は新聞のくらいある名刺めいしを出してひろげてネネムに恭々うやうやしくよこしました。見ると、
 ケンケンケンケンケンケン・クエク警察長
と書いてあります。ネネムは
「はてな、クエクと、どうも聞いたような名だ。一寸突然ですがあなたはこの近在の農家のご出身ですか。」と云いました。
 すると警察長はびっくりしたらしく、
「全くご明察の通りです。」と答えました。
「それではあなたは無断で家から逃げておいでになりましたね。お母さんが大へん泣いておいでですよ。」とネネムが云いました。
「いや、全く。実は昨晩も電報を打ちましたようなわけで、実はその、逃げたというわけでもありません。丁度一昨昨日の朝、一寸した用事で家から大学校の小使室まで参りましたのですが、ついそのフゥフィーボー博士の講義につり込まれまして昨日まで三日というもの、いたり落第したり、考えたりいたしました。昨晩やっと及第きゅうだいいたしましてこちらに赴任ふにんいたしました。」
「ハッハッハ。そうですか。それは結構でした。もう電報をおかけでしたか。」
「はい。」
 そこでネネムも全く感服してそれから警察長の家を出てそれから又グルグルグルグル巡視をして、おひるごろ、ばけもの世界裁判長の官邸に帰りました。おひるのごちそうはわらのオムレツでした。

   四、ペンネンネンネンネン・ネネムの安心

 ばけもの世界裁判長、ペンネンネンネンネン・ネネムの評判は、今はもう非常なものになりました。この世界が、はじめ一ぴきのみじんこから、だんだんえだがついたり、足が出来たりして発達しはじめて以来、こんな名判官は実にはじめてだとみんなが申しました。
 シャァロンというばけものの高利貸でさえ、ああ実にペンネンネンネンネン・ネネムさまは名判官だ、ダニーさまの再来だ、いやダニーさまの発達だとほめた位です。
 ばけもの世界長からは、毎日一つずつ位をつけて来ましたし、勲章くんしょうおくってよこしましたので、今はその位を読みあげるだけに二時間かかり、勲章はネネムのへやかべ一杯になりました。それですから、何かの儀式ぎしきでネネムが式辞を読んだりするときは、その位を読むのがつらいので、それをあらかじめ三十に分けて置いて、三十人の部下に一ぺんにがやがやと読み上げてもらうようにしていましたが、それでさえやはり四分はかかりました。勲章だってその通りです。どうしてネネムの胸につけ切れるもんではありませんでしたから、ネネムの大礼服の上着は、胸のところから長さ十メートルばかりの切れがずうと続いて、それに勲章をぞろっとつけて、その帯のようなものを、三十人の部下の人たちがぞろぞろ持って行くのでした。さてネネムは、この様な大へんな名誉めいよを得て、そのほかに、みなさんももうご存知でしょうが、フゥフィーボー博士のほかに、たれも決して喰べてならない藁のオムレツまで、ネネムは喰べることを許されていました。それですから、誰が考えてもこんな幸福なことがないはずだったのですが、実はネネムは一向面白くありませんでした。それというのは、あのネネムが八つの飢饉ききんの年、お菓子のかごに入れられて、「おおホイホイ、おおホイホイ。」と云いながらさらって行かれたネネムの妹のマミミのことが、一寸も頭から離れなかったためです。
 そこでネネムは、ある日、テーブルの上のリンをチチンと鳴らして、部下の検事を一人、呼びました。
「一寸君にたずねたいことがあるのだが。」
「何でございますか。」
ひざやかかとの骨の、まだかたまらない小さな女の子をつかう商売は、一体どんな商売だろう。」
 検事はしばらく考えてから答えました。
「それはばけもの奇術きじゅつでございましょう。ばけもの奇術師が、よく十二三位までの女の子を、変身術だと申して、ええこんどは犬の形、ええ今度はうさぎの形などと、ばけものをしんこ細工のように延ばしたり円めたり、耳をけたり又とったりいたすのをよく見受けます。」
「そうか。そして、そんなやつらは一体世界中に何人位あるのかな。」
「左様。一昨年の調べでは、奇術を職業にしますものは、五十九人となってりますが、只今ただいまは大分減ったかと存ぜられます。」
「そうか。どうもそんなしんこ細工のようなことをするというのは、この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。一寸視察に出よう。事によると禁止をしなければなるまい。」
 そこでネネムは、部下の検事をしたがえて、今日もまちへ出ました。そして検事の案内で、まっすぐに奇術大一座のある処に参りました。奇術は今や丁度まっ最中です。
 ネネムは、検事と一緒いっしょに中へはいりました。楽隊がさかんにやっています。ギラギラするはがねの小手だけつけた青と白との二人のばけものが、電気決闘けっとうというものをやっているのでした。けんがカチャンカチャンと云うたびに、青い火花が、まるでほうきのように剣から出て、二人の顔を物凄ものすごく照らし、見物のものはみんなはらはらしていました。
「仲々勇壮ゆうそうだね。」とネネムは云いました。
 そのうちにとうとう、一人はバアと音がしてかたから胸からこしへかけてすっぽりとられて、からだがまっ二つに分れ、バランチャンとゆかたおれてしまいました。
 斬った方は肩をいからせて、三べん刀を高くふりまわし、紫色むらさきいろはげしい火花をげて、楽屋へはいって行きました。
 すると倒れた方のまっ二つになったからだがバタッと又一つになって、見る見る傷口がすっかりくっつき、ゲラゲラゲラッと笑って起きあがりました。そして頭をほんのすこし下げてお辞儀をして、
「まだ傷口がよくくっつきませんから、粗末そまつなおじぎでごめんなさい。」と云いながら、又ゲラゲラゲラッと笑って、これも楽屋へはいって行きました。
 ボロン、ボロン、ボロロン、とどらが鳴りました。一つの白いきれをけた卓子テーブルと、椅子いすとが持ち出されました。眼のまわりをまっ黒にった若いばけものが、わざと少し口をとがらして、テーブルにすわりました。白い前掛をつけたばけものの給仕が、さしわたし四尺ばかりあるまっ白のさらを、恭々しく持って来て卓子の上に置きました。
「フォーク!」と椅子にかけた若ばけものがテーブルをたたきつけてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながら、その給仕は二尺ばかりあるホークを持って参りました。
「ナイフ!」と又若ばけものはテーブルを叩いてどなりました。
「へい。これはとんだ無調法を致しました。ただ今、すぐ持って参ります。」と云いながらその給仕は、幕のうしろにはいって行って、長さ二尺ばかりあるナイフを持って参りました。ところがそのナイフをテーブルの上に置きますと、すぐ刃がくにゃんとまがってしまいました。
「だめだ、こんなもの。」とその椅子にかけたばけものは、ナイフを床に投げつけました。
 ナイフはひらひらと床に落ちて、パッと赤い火に燃えあがって消えてしまいました。
「へい。これは無調法致しました。ただ今のはナイフの広告でございました。本物のいいのを持って参ります。」と云いながら給仕は引っんで行きました。
 するとどうもネネムも検事もだれもかれもみんなおどろいてしまったことは、いつの間にか、どうして出て来たのか、すてきに大きな青いばけものがテーブルに置かれた皿の上に、あぐらをかいて、椅子に座った若ばけものを見おろしてすまし込んでいるのでした。青いばけものは、しずかにみんなの方を向きました。眼のまわりがまっ赤です。にわかに見物がどっとさけびました。
「テン・テンテンテン・テジマア! うまいぞ。」
「ほう、素敵すてきだぞ。テジマア!」
 テジマアと呼ばれた皿の上の大きなばけものは、顔をしずかに又廻して、椅子に座ったわかばけものの方を向きました。そして二人はまるで二匹の獅子ししのように、じっとにらみ合いました。見物はもうみんな総立ちです。
「テジマア! 負けるな。しっかりやれ。」
「しっかりやれ。テジマア! 負けると食われるぞ。」こんなような大さわぎのあとで、こんどはひっそりとなりました。そのうちに椅子に座った若ばけものはが痛くなったらしく、とうとうまばたきを一つやりました。皿の上のテジマアはじりじりと顔をそっちへ寄せて行きます。若ばけものは又五つばかりつづけてまばたきをして、とうとうたまらなくなったと見えて、両手で眼をおおいました。皿の上のテジマアは落ちついてにゅうと顔を差し出しました。若ばけものは、がたりと椅子から落ちました。テジマアはすっくりと皿の上に立ちあがって、それからひらりと皿をはね下りて、自分が椅子にどっかり座りそれから床の上に倒れている若ばけものを、雑作もなく皿の上につまみ上げました。
 その時給仕が、たしかにかねでできたらしいナイフを持って来て、テーブルの上に置きました。テジマアは一寸ちょっとうなずいて、ポッケットから財布さいふを出し、半紙判の紙幣しへいを一枚引っぱり出して給仕にそれをにぎらせました。
「今度の旦那だんなは気前が実にいいなあ。」とつぶやきながら、ばけもの給仕は幕の中にはいって行きました。そこでテジマアは、ナイフをとり上げて皿の上のばけものを、もにゃもにゃもにゃっと切って、ホークにして、むにゃむにゃむにゃっとってしまいました。
 その時「バア」と声がして、その食われた筈の若ばけものが、床の下からおどりだしました。
「君よくたっしゃで居てれたね。」と云いながら、テジマアはそのわかばけものの手を取って、五六ぺんぶらぶらりました。
「テジマア、テジマア!」
「うまいぞ、テジマア!」みんなはどっとはやしました。
 舞台ぶたいの上の二人は、手を握ったまま、ふいっとおじぎをして、それから、
「バラコック、バララゲ、ボラン、ボラン、ボラン」と変な歌を高く歌いながら、幕の中に引っ込んで行きました。
 ボロン、ボロン、ボロロンと、どらが又鳴りました。
 舞台が月光のようにさっと青くなりました。それからだんだんのんびりしたいかにも春らしい桃色に変りました。
 まっ黒な着物を着たばけものが右左から十人ばかり大きなシャベルを持ったりきらきらするフォークをかついだりして出て来て
「おキレのつのはカンカンカン
 ばけもの麦はベランべランベラン
 ひばり、チッチクチッチクチー
 フォークのひかりはサンサンサン。」
とばけもの世界の農業の歌を歌いながら畑を耕したり種子をいたりするようなまねをはじめました。たちまち床からベランベランベランと大きな緑色のばけもの麦の木が生え出して見る間に立派な茶色のを出し小さな白い花をつけました。舞台は燃えるように赤く光りました。
「おキレの角はケンケンケン
 ばけもの麦はザランザララ
 とんびトーロロトーロロトー、
 かまのひかりは シンシンシン。」
とみんなは足踏あしぶみをして歌いました。たちまち穂は立派な実になって頭をずうっと垂れました。黒いきもののばけものどもはいつの間にか大きな鎌を持っていてそれをサクサクりはじめました。歌いながらおどりながら刈りました。見る見る麦のたばは山のように舞台のまん中に積みあげられました。
「おキレの角はクンクンクン
 ばけもの麦はザック、ザック、ザ、
 からすカーララ、カーララ、カー、
 唐箕とうみのうなりはフウララフウ。」
 みんなはいつの間にか棒を持っていました。そして麦束はポンポン叩かれたと思うと、もうみんなつぶが落ちていました。麦稈むぎからは青いほのおをあげてめらめらと燃え、あとには黄色な麦粒の小山が残りました。みんなはいつの間にかそれを摺臼すりうすにかけていました。大きな唐箕がもうえつけられてフウフウフウと廻っていました。
 舞台が俄かにすきとおるような黄金きん色になりました。立派なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺や黄やいろいろの色硝子いろガラスでこしらえた羽虫が波になったり渦巻うずまきになったりきらきらきらきら飛びめぐりました。
 うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色なかみの火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石を一杯いっぱいにつけてまるで青や黄色のほのおのように踊って飛び出しました。見物はもうみんなきちがいくじらのような声で
「ケテン! ケテン!」とどなりました。
 女の子は笑ってうなずいてみんなに挨拶あいさつを返しながら舞台の前の方へ出て来ました。
 黒いばけものはみんなで麦の粒をつかみました。
 女の子も五六つぶそれをつまんでみんなの方に投げました。それが落ちて来たときはみんなまっ白な真珠しんじゅに変っていました。
「さあ、投げ。」と云いながら十人の黒いばけものがみな真似まねをして投げました。バラバラバラバラ真珠の雨は見物の頭に落ちて来ました。
 女の子は笑って何かかすかにまじないのような歌をやりながらみんなを指図しています。
 ペンネンネンネンネン・ネネムはその女の子の顔をじっと見ました。たしかにたしかにそれこそは妹のペンネンネンネンネン・マミミだったのです。ネネムはとうとうこらえ兼ねて高く叫びました。
「マミミ。マミミ。おれだよ。ネネムだよ。」
 女の子はぎょっとしたようにネネムの方を見ました。それから何か叫んだようでしたが声がかすれてこっちまで届きませんでした。ネネムは又叫びました。
「おれだ。ネネムだ。」
 マミミはまるで頭から足から火がついたようにはねあがって舞台から飛び下りようとしましたら、黒い助手のばけものどもが麦をなげるのをやめてばらばら走って来てしっかりとおさえました。
「マミミ。おれだ。ネネムだよ。」ネネムは舞台へはねあがりました。
 幕のうしろからさっきのテジマアが黄色なゆるいガウンのようなものを着ていかにも落ち着いて出て参りました。
「さわがしいな。どうしたんだ。はてな。このお方はどうして舞台へおあがりになったのかな。」
 ネネムはその顔をじっと見ました。それこそはあの飢饉ききんの年マミミをさらった黒い男でした。
だまれ。忘れたか。おれはあの飢饉の年の森の中の子供だぞ。そしておれは今は世界裁判長だぞ。」
「それは大へんよろしい。それだからわしもあの時男の子は強いし大丈夫だいじょうぶだと云ったのだ。女の子の方は見ろ。この位立派になっている。もうスタアと云うものになってるぞ。お前も裁判長ならよく裁判して礼をよこせ。」
「しかしお前は何故なぜしんこ細工を興業するか。」
「いや。いやいややや。それは実に野蛮やばんの遺風だな。この世界がまだなめくじでできていたころの遺風だ。」
「するとお前のところじゃしんこ細工の興業はやらんな。」
勿論もちろんさ。おれのとこのはみんな美学にかなっている。」
「いや。お前はえらい。それではマミミを返して呉れ。」
「いいとも。連れて行きなさい。けれども本人が望みならまた寄越よこして呉れ。」
「うん。」
 どうです。とうとうこんな変なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。
 とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心しました。

   五、ペンネンネンネンネン・ネネムの出現

 ペンネンネンネンネン・ネネムは独立もしましたし、立身もしましたし、巡視じゅんしもしましたし、すっかり安心もしましたから、だんだんからだもふとり声も大へん重くなりました。
 大抵の裁判はネネムが出て行って、どしりと椅子いすにすわって物を云おうと一寸くちびるをうごかしますと、もうちゃんときまってしまうのでした。
 さて、ある日曜日、ペンネンネンネンネン・ネネムは三十人の部下をつれて、銀色のほうをひるがえしながら丘へ行きました。
 クラレという百合ゆりのような花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ネネムは草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。
 部下の判事や検事たちが、その両側からぐるっとになってならびました。
「どうだい。いい天気じゃないか。
 ここへ来て見るとわれわれの世界もずいぶんしずかだね。」ネネムが云いました。
 みんなの影法師かげぼうしが草にまっ黒に落ちました。
「ちかごろは噴火ふんかもありませんし、地震じしんもありませんし、どうも空は青い一方ですな。」
 判事たちの中で一番位の高いまっ赤な、ばけものが云いました。
「そうだね全くそうだ。しかし昨日サンムトリが大分鳴ったそうじゃないか。」
「ええ新報に出て居りました。サンムトリというのはあれですか。」
 二番目にえらい判事が向うの青く光る三角な山を指しました。
「うん。そうさ。ぼくの計算によると、どうしても近いうちにき出さないといかんのだがな。何せ、サンムトリの底の瓦斯ガスの圧力が九十億気圧以上になってるんだ。それにサンムトリの一番弱い所は、八十億気圧にしかえないはずなんだ。それに噴火をやらんというのはおかしいじゃないか。僕の計算にまちがいがあるとはどうもそう思えんね。」
「ええ。」
 上席判事やみんなが一緒いっしょにうなずきました。その時向うのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それからよこの方へ少しまがったように見えましたが、たちまち山が水瓜すいかを割ったようにまっ二つに開き、黄色や褐色かっしょくけむりがぷうっと高く高く噴きあげました。
 それから黄金きん色の熔岩ようがんがきらきらきらと流れ出して見る間にずっと扇形おうぎがたにひろがりました。見ていたものは
「ああやったやった。」
とそっちに手を延して高く叫びました。
「やったやった。とうとう噴いた。」
とペンネンネンネンネン・ネネムはけだかい紺青こんじょう色にかがやいてしずかに云いました。
 その時はじめて地面がぐらぐらぐら、波のようにゆれ
「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるばかりの音がやって来ました。それから風がどうっといて行って忽ちサンムトリの煙は向うの方へ曲り空はますます青くクラレの花はさんさんとかがやきました。上席判事が云いました。
「裁判長はどうも実に偉い。今や地殻ちかくまでが裁判長の神聖な裁断に服するのだ。」
 二番目の判事が云いました。
「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪ちょうかいである。私はニイチャの哲学がおそらくは裁判長から暗示を受けているものであることを主張する。」
 みんなが一度にさけびました。
「ブラボオ、ネネム裁判長。ブラボオ、ネネム裁判長。」
 ネネムはしずかに笑って居りました。その得意な顔はまるで青空よりもかがやき、上等の瑠璃るりよりもえました。そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響えいきょうを受けて火柱高く第二の爆発ばくはつをやりました。
「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
 それから風がどうっと吹いて行って、火山弾や熱い灰やすべてあぶないものがこの立派なネネムの方に落ちて来ないように山の向うの方へ追いはらったのでした。ネネムはこの時は正によろこびの絶頂でした。とうとう立ちあがって高く歌いました。
「おれは昔は森の中の昆布こんぶ取り、
 その昆布あみが空にひろがったとき
 風の中のふかやさめがつきあたり
 おれの手がぐらぐらとゆれたのだ。

 おれはフウフィーヴオ博士の弟子でし
 博士はおれの出した筆記帳を
 あくびと一しょにスポリとみこんだ。
 それから博士は窓から飛んで出た。

 おれはむかし奇術師のテジマアに
 おれの妹をさらわれていた。
 その奇術師のテジマアのところで
 おれの妹はスタアになっていた。

 いまではおれは勲章くんしょうが百ダアス
 わらのオムレツももうたべあきた。
 おれの裁断には地殻も服する
 サンムトリさえ西瓜すいかのように割れたのだ。」

 さあ三十人の部下の判事と検事はすっかりつり込まれて一緒に立ち上がって、
「ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
 ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
 と叫びながら踊りはじめました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
 クラレの花がきらきら光り、クラレのくきがパチンパチンと折れ、みんなの影法師はまるで戦のように乱れて動きました。向うではサンムトリが第三回の爆発をやっています。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」
 黄金きん熔岩ようがん、まっ黒なけむり。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
 ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長
 そのオキレの金角とならび
 まひるクラレの花の丘に立ち
 遠い青びかりのサンムトリに命令する。

 青びかりの三角のサンムトリが
 たちまち火柱を空にささげる。
 風が来てクラレの花がひかり
 ペンネンネンネンネン・ネネムは高く笑う。
  ブラボオ。ペンネンネンネンネン・ネネム
  ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。」
 その時サンムトリが丁度第四回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノンノン。」
 ネネムをはじめばけものの検事も判事もみんな夢中むちゅうになって歌ってはねておどりました。
「フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
 風が青ぞらをえて行けば
 そのなごりが地面に下って
 クラレの花がさんさんと光り
 おれたちのほうはひるがえる。
 さっきかけて行った風が
 いまサンムトリに届いたのだ。
 そのまっ黒なけむりの柱が
 向うの方にたおれて行く。
 フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
  ブラボオ、ペンネンネンネンネン・ネネム
  ブラボオ、ペンペンペンペンペン・ペネム。

 おれたちの叫び声は地面をゆすり
 その波は一分に二十五ノット
 サンムトリの熱い岩漿がんしょうにとどいて
 とうとうも一度爆発をやった。
 フィーガロ、フィガロト、フィガロット。
 フィーガロ、フィガロト、フィガロット。」
 ネネムは踊ってあばれてどなって笑ってはせまわりました。
 その時どうしたはずみか、足が少し悪い方へそれました。
 悪い方というのはクラレの花の咲いたばけもの世界の野原の一寸ちょっとうしろのあたり、うしろと云うよりは少し前の方でそれは人間の世界なのでした。
「あっ。裁判長がしくじった。」
たれかがけたたましく叫んでいるようでしたが、ネネムはもう頭がカアンと鳴ったまままっ黒なガツガツした岩の上に立っていました。
 すぐ前には本当にゆめのような細い細いみちが灰色のこけの中をふらふらと通っているのでした。そらがまっ白でずうっと高く、うしろの方はけわしい坂で、それも間もなくいちめんのまっ白な雲の中に消えていました。
 どこにたった今歌っていたあのばけもの世界のクラレの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入るとうげの頂だったのです。
 ネネムのすぐ前に三本の竿さおが立ってその上に細長いひものようなぼろ切れが沢山たくさん結び付けられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。
 ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。
 それこそはたびたび聞いた西蔵チベット魔除まよけのはたなのでした。ネネムはげ出しました。まっ黒なけわしい岩のみねの上をどこまでもどこまでも逃げました。
 ところがすぐ向うから二人の巡礼じゅんれいが細い声で歌を歌いながらやって参ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界にもどろうとしたのです。
 巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文じゅもんをとなえ出しました。
 ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。
 ガーン。
 それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで
「裁判長。裁判長。しっかりなさい、裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。
 三十人の部下たちがまわりに集まって実に心配そうにしています。
「ああ僕はどうしたんだろう。」
只今ただいま空から落ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」
 上席判事がたずねました。
「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現してしまった。
 僕は今日は自分を裁判しなければならない。
 ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除そうじをしよう。ああ、何もかにもおしまいだ。」
 ネネムは思わず泣きました。三十人の部下も一緒に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面に波をたて、それが向うのサンムトリに届いたころサンムトリが赤い火柱をあげて第五回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ。」
 風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました。〔以下原稿なし〕

底本:「ポラーノの広場」新潮文庫、新潮社
   1995(平成7)年2月1日発行
   1997(平成9)年5月25日3刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第九巻 童話」筑摩書房
   1979(昭和54)年7月15日初版第1刷発行
※〔〕内は、底本の注記です。
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2010年2月1日作成
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