新聞に、憲法改正草案が発表されたとき、一番奇妙に感じたことは、「主権在民」と特別カッコの別見出しがつけられていたのに、天皇という項があって、その唯一人の者が九つの大権を与えられていることであった。
 短い小説一つにしろ、それが小説であるからには、テーマが一貫している、ということが第一条件である。どんな通俗作家でも、小説の主人公が、突然中途からすりかえられているような分裂した作品は、通用しないことを知っている。
 憲法は一国の政治の基準をなす重大なものだのに、草案の起草者たちは、常識からも明白なこの誤り・失敗について、どうして平気なのだろうか。本当に奇怪なことだと思った。
 草案第十三条に「すべて国民は法の下に平等であって、人種・信条・性別・社会的身分・又は門地により政治的・経済的・又は社会的関係に於て差別を受けない。云々」とある。
 なるほど、これはもっともなことだとして読んだ私どもは、翻って、第一、天皇というところに、その特権の身分が世襲であり、人間としての資質如何を条件ともせずに、天皇たる世襲者が、憲法改正から法律・政令・条約の公布以下、政治上の実権の重要な点を押えていることを発見して、おどろきを深めた。
 婦人に参政権が与えられ、民主日本の成長のために、と、表面にぎやかに啓蒙がされているけれども、婦人の二千九十一万余票を加えて代議士を選出し、成立した議会を、天皇という身分の人が、その意志で解散させることが出来るのだとしたら、何と選挙そのものが一場の苦々しい猿芝居であるだろう。天皇は衆議院を解散させる大権も与えられているのである。
「すべて国民は」と、堂々発言した人権、或は民権の主張は、どういう論理の間違いからか「人」の規定のなかに入れられていない筈の世襲の特権・門地・特権地位者を、引出して来て、肝心の主権をそっくり人民の手の中から其方へ握らせているのである。
 主権在民ということは、最少限に考えて、人民自身が、行政、司法、立法の全権を有すという意味であろうし、議会の権能も、当然人民の内から選ばれた代表――議員によって掌握されなければならないものだろう。
 この草案の発表された三月七日の新聞紙上には、いっせいに「マ元帥、全面的に承認」という記事が、あわせてのせられていた。「交戦権抛棄の特点指摘」という小見出しもついていたから、世界平和の確立のために、ともかくその点だけでも評価されたのであろうと思った。訓練ある民主精神が、この奇妙な改正草案の矛盾の甚しさを見出さない筈はないのであるから。
 共産党以外の各政党が、これ迄発表した草案は、主権在民という外見をとりつくろうことさえ出来かねる保守的なものなのであった。
 細かく目をとめてゆくと「国民は総て勤労の権利を有すること」とあっても、生活安定のための勤労報酬のこと、休養の権利、失業の保険、養老の保険、現在のような生産手段の独専所有にたいする制限のないことも手落ちであるし、男女平等という、婦人の心につよく訴える規定のなかに、社会的平等の地盤となる同一労働に対する同一賃金の必要や、まだ日本に決められていない婦人の公民権のことなどが明確にあらわされていないのも、不十分であると思われた。
 あれこれの点があるにしても、これは草案であって、決定ではないのだから、と思っているうちに、総選挙が迫って来た。
 選挙運動がはじまって、乱立した各党が一票を我党へ、の活動を開始しはじめるや否や、この憲法草案が、どれほど日本の民主化のために害悪を及ぼすものであるかが誰の目にも明らかになって来ている。
 今日、共産党以外の政党は、悉く、天皇制護持という点を売りものとして、民心にこびようとしている。ラジオ放送、演説でくりかえすばかりでなく、茨城県の或るところでは、元校長の某氏が立候補して、立会演説があった。国民学校である会場へゆくと、各教室からワラワラと馳け出して来た児童らが、両手をメガフォンにして「ゴジ!」「ゴージイ!」と叫んだ実例がある。
 ところが、この「ゴジ」が如何に真心なき政略であるかという実例も、公然とあらわにされて来ている。やはり立会演説の公開の席上で、社会主義即時断行と天皇制護持と、決して両立し得ない二つのことを並べて綱領としている一政党の立候補者、執行委員の某氏は、聴衆の面前で、個人としての見解は必ずしも自分の属す政党の意見とは一致していないが、党代表として語る党の立場は、云々と護持論を発表し、大衆に今更その政党のヌエじみた性質を痛感させた実例がある。
 この実例の意義は深刻だと思う。某氏の理性の判断は、ゴジが民主を阻害することを知りぬいている。それだのに何故、その判断と反する政党に隷属して、一応にしろ言論の自由のある今日、心ならずも、と汗を拭きつつその党のゴジ論をやるのだろうか。答えは明瞭である。目先の分別では、今日彼の属するゴジ政党は、その社会主義との盛り合わせで、多数党の一つとなれそうに見えている。代議士になり、政権をとるためには、多数が好都合だから、本当は、民主日本の進路を妨げる反動勢力と知りつつ、それに属し、ゴジ論を流布して、当選を当てこんでいる次第であろう。
 憲法というものは、明治の日本でも、自由民権の論とその運動とをつぶして、つい先頃までの、人権なきおそろしい日本の政治の発端をなした。明治の開化期では、ほんとに婦人も男子と等しい学力をもって勉強したのに、憲法発布の後は、政談演説さえ婦人はきいてはいけないこととなって、今日に及んだ。
 歴史のより前進した今日の段階の日本で、その民主化には全く国運が賭されている。失われた数百万の人民の生命がその人柱となっているのである。ゴジ政党が、所謂政治的な政略上、私たちのおくれた感情を足場として、自党の政権欲の満足のため、不具な憲法改正草案によって反動性を正当化されながら、再びこの私たちを虐げようとするならば、いかにお人好しの私たちでも、それが天皇制の功徳であると、跪きかねるであろうと思う。
 総選挙が迫ったこの頃、連合国司令部に、その結果によっては議会の再解散する意嚮があること、対日理事会として、当選議員の資格審査も行われるだろうと云われているのは、肯ける。国際的な注目は、今度の総選挙の日本の民主化に対する危険性を見ぬいていた。その深い危険の温床は、ほかならぬ憲法改正草案の欺瞞性に在るのである。
 天皇に、拒否権の無いことを明示していないのは、臨機応変的解釈の危険がある。ところが、この頃自由党は、却って天皇に拒否権を与えようと大いに努力している。その自由党の鳩山一郎氏は、日本を救う人民戦線は拒絶して、反共戦線というものを宣言した。四月六日の『読売報知』には、ヒトラー、ムッソリニ礼讚の自著『世界の顔』についての、外人記者との対談で、「武士道は日本精神の精髄で、ナチス精神との間には多分の近似性がある」と、心ある全国民を戦慄させる断言をしている。ヨーロッパ、アメリカの政治家たちは、「反共戦線」の培養がどんな流血と犠牲と破壊とをよびおこすものであるかということについては、第二次世界大戦で、タンノウするまで学びつくしているのである。ジュール・ロマンの『ヨーロッパの七つの謎』一冊よめば、それはわかりすぎるほどよくわかる。
 自由党その他反動政党が、幣原内閣と連結して、天皇に拒否権を与えたとき、それがどう発動するかは天日のように明かである。議会は、そして全日本は、再び黒雲に閉されるのである。供出に対する強権発動によって、地方では首を吊る者が出ている。米がなければ身ぐるみ剥ぐといわれ、それが行われている。「勅令」によってこのことが行われているのである。
 主権在民の憲法が、偽りなく主権を人民の上に保証するものでなくては日本は立ちゆかないのである。

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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