去る十一月一日発行の『文学新聞』に評論家の佐藤静夫氏が三鷹事件の被告宮原直行さんの令兄にインタービューしたときのルポルタージュがのせられていた。商業新聞のやりかたにいためられてはじめは会うのも話をするのもいやがっていた令兄子之吉氏は、やがて『文学新聞』というもののたちがわかって、ぼつぼつ話しはじめたと書かれている。その話の中に次の言葉があった。八月八日に「はじめて面会を許されて弟に会いましたが、そのとき立ち会った木村検事にわたしが、公正な立場でやっていただきたいというと『宮原係の検事としてききずてならない』と酒を飲んだように顔面を紅潮させて、両脇腹に手をあてがって『でっちあげるのはわけはないのだ』といいはなちました。そのあとで、しかし今は昔通りにはゆかないけれど、と云っていました」
 わたしの目は、いくたびもいくたびもこの木村検事という人物の云った黒い言葉の上にひきもどされた。そして、だんだん深くこの黒いとげが全心にささりこんだ。「でっちあげるのはわけはないのだ」と被告の家族に向って云いはなすことの出来る検事が、きょうの日本に存在し得ているということは、わたしたち人民の生活のおかれているどういう状態を、世界に向って示していることだろう。
 ことしの夏は、殺気のみちたいやな夏であった。国鉄の整理については、政府も、ふりあげたわが刀の影におびえたように非常事態宣言の用意があるとか、「共産党は八月か九月に暴力革命をやるもくろみだ」とか、政府への反抗に先手をうつつもりで、かなり拙劣に人々の気分を不安にする空気をつくった。下山事件はその典型であった。下山事件につづいておこった三鷹の無人電車暴走、そしてそのことが思いがけない犠牲者を出した事件については、こんにちでもまだわたしたちに、信じるべき事実、というものが示されていない。したがって、ことの真実に立って社会的発言をする責任を感じているすべての良心的な人々は、三鷹事件に関してはむしろ慎重に、推移を見まもっているというところであろうと思う。
 わたしにしても、この事件は、本当はどういうことなのかしら、と思いつづけている。日本の民主革命の過程において、そのひとこまを占めたこの事件のふくんでいる意味は、小さくもなければ、単純でもない。政府のこしらえている特別考査委員会というものは、その委員会での討論ぶりを見てもわかるように、特別な考慮のための委員会の本質をもっているから、政党としての共産党は、その応答ぶりにおいて、必ずしもいつもわたしたちの希望するだけ率直ではあり得ない。はためには、いつもどこか肩を上げたものの云いかたをしているように見えないこともない。そのことは、正直でつましい市民感情の一部には好意的な印象を与えない。――特別考査委員会というものは、この一つの効果だけでも、反民主的な政府の方針に少なからず用立っているわけである。
 一人の市民として、作家として、わたしにもいろいろ心もちがある。けれども、『文学新聞』にのった宮原子之吉氏の話は、わたしを、決定的な力で、一つの抵抗のくいにつないだ。
「でっちあげるのはわけはない」このひとことに、血のかたまる野獣性がある。日本の十数万人の旧治安維持法の被害者はもちろん、涜職、詐欺、窃盗、日本の法律によってとりしらべられたすべての人々で、刑事や検事からこの言葉をきかされなかった者はおそらく一人もないだろう。法学博士で大臣だった三土忠造でさえ、一九二九年か三〇年ごろ涜職事件で検挙投獄され、公判廷で奮闘して無罪を証明したあとで『幽囚記』という本をかいた。その中で政治的な事件の本質と、検事のとりしらべの強権にふれている。
 三鷹事件が、多くの良識ある人にとって不明瞭な性質のものとしてうけとられているからと云って、検事が「でっちあげ」ていいというものだろうか。わたしたち一人一人が、どんなかのゆきがかりで、何かの不明瞭ないざこざに巻きこまれたとき、「でっちあげるのはわけはない」と検事に云われて、納得していられるだろうか。「でっちあげるのはわけはない」という非人道的な発言が人民の運命に関して権力の使用人たちによって云われている事実を、人民としてわたしたちは許しておくべきではないと思う。人々が誠意をもって、少数者の利益のためにでっちあげられる戦争に反対を声明し、日本の人々をこめる世界の人民の平和を護ろうとするならば、こんにちの日本の現実において、もっとも発端的な人権に加えられているでっちあげを徹底的に排除しなければうそであると思う。
 三鷹事件の公判に対するわたしの関心は、はっきりした一つの焦点に集注された。この事件が起訴されるまでの全過程を通じて、検察団はどのように行為したか。そして、これからどのように行動して法律をつかうかという点が十分監視されなければならないということである。どういう結果であれ、人々は真実の事実を知りたいと思っているのだ。事実を。――

 十一月四日、十八日、二十一日、二十五日、二十八日と三鷹事件の公判がすすんで来た。昨二十九日の新聞によると、公判は、被告十名の共同正犯と二名の偽証罪を、検事団の証拠とするところによって検討する段階に入った。ところで、前後五回の公判廷にはどのような光景があり、被告はどのように、弁護人はどのように陳述して来ているだろうか。
 第一日の十一月四日、法廷にはニュース映画のカメラ、ラジオの録音の機具まで運びこまれ、まぶしいフラッシュの閃きの間に赤坊の泣声がまじり、十二名の被告が入廷するという光景であったことが、各紙に報ぜられた。その前日ごろわたしたちは、裁判所の一部にバリケードがこしらえられた写真を新聞の上で見た。そして検事団の、公判に対する確信が語られている記事もよんだ。
 ところがその公判第一日は、すでに知られているとおり注目すべき結果に終った。公判廷は「ついに起訴状朗読にはいたらず午後五時三十分閉廷した」竹内被告をのぞく十一名の全被告が意見開陳にあたって、強力に、公訴取消しを要求した。その理由は、この事件の取調べは、検事側の威嚇と独断と術策によってすすめられたもので、人権は蹂躙された。したがって被告としては各自にとって事実無根の公訴をみとめることができないというのが、共通の趣旨であった。二十九歳の元検査掛の被告竹内景助が、他の十一名の被告たちと同じ発言をしないで、直接取調べにあたった検事たちが、きょうの公判廷に姿を見せていないことをいぶかりくりかえして、係検事たちの出廷を求めた事実は翌日の各紙上にもつたえられた。三鷹事件に連座した十二名の被告たちのうち十一名は共産党員であり、竹内被告は党員でない。それだけでなく、彼の立場は十二名の被告たちのうちで最も複雑であった。
 竹内景助が「逮捕されたのが八月一日。最初は犯行そのものを否認しつづけ、同月二十日に至り平山検事に単独犯行を自供した。それが九月十三日になって、神崎検事に対してこんどは自分一人ではないと共同正犯を主張した。そして相川検事にもこれを述べ、さらに十一月二日には自由法曹団の弁護人をことわり十一月四日の第一回公判となり」(一一・一八、読売新聞)十二名の被告のなかで、彼ひとりが、自由法曹団外の鍛冶、栗林、丁野の三弁護人を選任して出廷したのであった。偽証罪として起訴された石川、金の二人の被告を加えた十一名と、自由法曹団の弁護人たちが、七十歳の布施辰治を先頭として、はげしく検事の取調べの不当を非難した第一日の公判廷で、竹内被告の弁護人鍛冶だけが「個々の被告の人権を尊重し、被告個人の特殊性を無視して一色に塗りつぶしてはならぬ」と要望(五日、読売)したには、以上のいきさつがあった。学生服や開襟シャツに重ねた仕事着姿の被告たちにまじって、ただ一人きちんとネクタイをつけ上着のボタンをかけた背広服姿の竹内被告が、腹の下に両手をくみ合わせ、やや頭を左に傾けた下眼づかいに正座している当日の彼の写真は、全身の抑制された内向的な表情によっても、同じベンチに並んでいる他の被告たちの動的で、いくらか亢奮した反応が陽性にあらわれている様子とは、おのずからちがって自分を意識していることを示している。
 第一日の公判廷は、十一名の被告が一人一人たってその一人一人が、取調べの過程で検事が云ったことを具体的にあげてその非合法的なやりかたの不当をはげしく訴え、全法廷が公訴取消を要求する声々でいっぱいになって「遂に起訴状朗読には至らず」閉廷したのであったが「法廷両側に貼られた『傍聴人心得』の必要をみとめないほど、この日の法廷は野次も旗も労働歌もない、ただ熱心にメモをとるばかりの傍聴席風景だった。」(一一・八、東京新聞)
 被告たちが、いっせいに公訴の不当を訴えた根拠というのは、どういうものだったろう。
 公判第一日の速記録によって被告たちの陳述をあとづけてみる。
 午前の人定尋問の時、立って「この公判は重大であるから公判の検事ならびに裁判長以下裁判官の名前をわからして頂きたい」と発言して、布施弁護士によってその要求を具体化した被告飯田七三(三二)、もと三鷹電車区検査係、同分会執行委員長は、午後の法廷でさらに発言を求めて次の様に述べた。「最初申しあげた通りこの事件がいわゆる普通の刑事事件と違うということをもっとも端的にあらわす言葉として、わたしを調べられたところの天野検事はこういうことをいわれている。これはちょうど私の起訴が決定する八月八日の日であります。」「私をいままで調べられたあなたが、長年の検事としてその体験から私の起訴の決定をする会議にでてどうか一つ公正なるあなたの意見を述べて頂きたい。そのために是非闘ってもらいたいということを申しあげた。私はその時に涙とともに申しました。胸が一杯でした。その時天野検事がいわれるのには、私も吉田政府の官吏だ。だからその官吏の枠をでることはできない。こういわれたのであります。」「私はこの三鷹事件に何の関係もありません。しかるにかかわらず起訴された。そして百余日にわたる牢獄生活、これを通じまして天野検事がその時にもらされました一ツの嘆声が実はこの三鷹事件の本質であったということを感じてきたのであります。」「それでは吉田政府の枠とは何だ、私は労働者であり、日本共産党員であります。われわれに対する枠は、いわゆる吉田民自党内閣のわれわれに対する政策は、反共国民運動によって労働組合を弾圧し、共産党に対する弾圧をする。これは新聞でもはっきりしている。そういう反共国民運動の枠、その枠であるということを私は感じてきたわけであります。で、取調べの過程においてもお前からは聞こうとは思わない。しかしもう傍証でかたまっておってお前は何をいおうと駄目なんだ。もう容疑ではなくて確定している。やらないといったってもう共同正犯だ。共同正犯は、無期又は死刑だ。それでは一体私のどこがそれに該当するのかということをききましたとき、それはいえない、お前の胸にきいてみろという。私は何も関係していない。」「そして百余日のあいだそんなやりもしないのにそんな共同正犯なんて、そんな馬鹿なことがあるものかという気持と、私は自分の潔白を申しでて来たにもかかわらず、髪の毛をつかんでそしてあの武蔵野市の警察の玄関をひきずり歩かされ、そして警察の権力によって牢獄につながれている。これではいくら自分が潔白を主張してもこの検事によってこのまま首をくくられるのではないかというような不安をもつわけです。」「この二ツの気持の内面闘争、これは実に深刻なものです。」「結論的に私が申しあげたいのはわれわれを被告としたあの検事諸君こそまさに公務員法違反であり、職権乱用の非国民である。私はそう思う。なお弁護人諸君に一言申しあげたい。僕は弁護人諸君はただ単に弁護人だけにとどまらず、本当に日本の民主主義をまもり、憲法を擁護する人民のえらばれた検察官としてあの被告たちの真相をてってい的に究明してそして自分の前に謝罪せしめるように、どうかわれわれに御協力願いたい。」
 被告外山勝将(二五)、もと運転手、同分会執行委員「被告に対してもあらゆる方法をもっておどかし、例えば町のゴロツキの如くお前は検察庁に喧嘩をうるつもりか。それなら俺たちはお前を法律で必ず殺してみせると暴言をはいておどかし、最後には、もしお前たちが事実をいうならば七年の刑が三分の一になって、又社会にでて活躍する時がくると誘惑」したと陳述した。八月十五日の深夜に、事実無根の自白をおこなった被告横谷武男(二七)、もと技工、同分会闘争委員が、どのようにして数名の検事たちから彼の親思いの気持と共産党員として党組織を信頼している感情を逆用されて、理性の混乱につきおとされたかということは、公判廷でとられた彼の陳述をふくむ録音が翌日放送されて、多大な感銘を与えたことによっても明瞭である。十二名の被告のうち、最年少者である清水豊(二〇)、元整備係、同分会執行委員は、午前の人定尋問のとき、まず次のように発言した。「即刻この公訴をとり消して頂きたい。その点について申しあげたい。私は私を育ててくれた両親、かずかずの恩師、諸先生たちに正直であれと教えられてきた。そして私もそのように生きてきた。真実を愛し、正義を愛して生きてきました。ところが八月一日無実の罪によって逮捕され、八月二十八日起訴されたのであります。すなわち、真実を愛し正義を愛し、それの味方でありそうして保証者であり、これを助長しなければならない検察当局が真実を愛し正義を愛するものを起訴する。このような不当なものをわれわれは断じて容認できないのであります。」ついで午後の法廷で、わかわかしい学生服の彼は一時間にわたって検事の取調べに苦しめられた状態をのべた。「われわれは決して空虚な根拠をもって公判取消を要求するわけではない。」と、八月一日から十五日まで泉川検事と渡辺警部によって主として組合の「細胞会議について特に追求されたのであります。」そして逮捕の理由を追求する被告に対して「捜査官は容疑の点というものはタネだ。タネをあかすことはできない。」渡辺警部はしきりに若い清水の意気をくじくための刺戟を与えた。共産党の「あの悪らつなやり方をみよ。都庁の事件をみろ。あれはお前の仲間がやったんだ。お前の仲間が殺しておきながら警察が殺したんだといって共産党は宣伝している。」「親は社会の為だとか、或いは世の中のためだとかいって、云々することをよろこぶものではない。親というものは三度のめしをくわしてもらえば、それでよろこんでいる。そうしてせがれの顔をみられればそれでいいのだ。そういう暴言をはいた。」そして「十五日には横谷君がおかしな心理状態においこまれて事実無根の自白を強要されてそれ以来われわれの自白に対する強要は一段と過酷と熾烈の度をましてきた。」「横谷君の事実無根の自供を私の前にならべた。」「私は二十二日の晩に考えた。起訴される前の晩であった。自供すれば、また横谷君の事実無根のあれを認めれば、情状酌量される。もし私が真実を真実として闘えば破れるのか。」「泉川検事のいうことを本当にうけた。俺はもうだめだということを考えた。しかし死を決して真実を守ろうと思った。」二十三日に清水被告は「どうだね、考えたか」という泉川検事に向って答えた。「私は考えた。しかしいくら考えても嘘は云えない。たとえ仲間の者が何と云おうと私は最後まで真実を守って死ぬのだ。」「もし仲間の人たちに清水もやったということをいわれてそこで殺されるならば、仕様がない。」「もし清水がやったという人があるとしたらば、それはやっぱり恐怖にとりつかれたんでしょう。いかに他の人が何と云っても私は嘘はいえない。もし自供した人々が情状酌量されて、真実を主張して闘った者が極刑を課せられるならば止むを得ない。しかし人間はそこまで悪くはできていないだろう。何時かは清水はやっていないといってくれるだろう。私は泉川検事に最後に血涙をしぼって云った。」「二十三日の日に私は、血涙をしぼって否認した。」この間泉川検事は、君は九分九厘不利だという言葉を執ようにくりかえした。治安維持法時代から特高として働いてきたツゲ事務官(柘植)は、尾崎秀実の例をひいて「彼は遂に刑場の露と消えた。彼は真実に生きていた。最後まで真実を主張して自分の真理に生きた。そうして彼は牢獄において手記を残して行った。お前は小説に書かれるか。そこまで私は云われました。」清水被告は、彼の詳しい、情熱のこもった陳述を次のようにむすんでいる。「三鷹電車区の中には、たとえかけだしの党員でも年が若くてもマルクス・レーニン主義を充分知らなくても、構内に入っている電車を暴走させて人の命を奪って、これで日本の流血革命だなどといって手を叩いてよろこぶような若者はいない。三鷹電車区の細胞にはそんな馬鹿は一人もいない。また、そこまで私は馬鹿にわをかけた者ではない。私は革命がそのような過激な手段によって達せられるものではないと考えている。」
「われわれマルクス・レーニン主義の党は、働く大衆をもっとも愛し、その幸福をもっともよろこぶことができ、その不幸をもっとも悲しむことができる。働く大衆の一人を失うことをわれわれは最大の悲しみとするのである。だからすべての人の先頭に立って闘うことができる。その一員たるわれわれになぜこのような無謀なことができようか。」「このような検察当局の行為は、かつてナチスのヒットラーがやったことと何ら変らない。これに対してわれわれは死をとして徹底的に闘う。否、日本の民主主義を愛する人はみんな徹底的に闘うだろう。民主主義の潮流に逆行する現在のファッショ的存在は、全世界の民主主義を愛する人により徹底的に糺弾され断罪されるときがくるだろうということを私はいいたい。日本の検察当局が事実正義を愛する者の味方であるならば、この陰謀の一つであるこの公訴を即刻とり消すべきである。」と。
 偽証罪で公訴されている石川政信(二七)元鉄道技術研究所員と金忠権(三一)元『三多摩民報』記者らはこう陳述している。「私は一ツ云いたいことがあります。それは、検事の理解に一致しないすべての証言は、偽証であって、偽瞞であるとこのような独断的、専断的言辞に対して私は心からの憤まんをもっています。」(被告石川)つづいて金被告ものべた。「偽証罪に対する起訴取消を行っていただきたい。」「検事がこのようにすべてのものをいう者に対して全部が起訴ということにしてこういう風にひっぱられるなら、日本の全人民は一言もしゃべることができない。」「検事は何といっているか、君があまりはっきりするから悪い。もう少しぼやかしたらどうかということは、一体正直なことをいえというのか、それとも嘘をいえというのか、これをはっきりして頂きたい。」
 この点に連関して、午後の法廷で林弁護人の行った弁論の中に、特別注目をひく箇所があった。「さる十月二十七日に石川検事が東京地検の三階の会議室で、検察事務官に対する刑事訴訟法の講義において次の如き三鷹事件に対する検事の方針がのべられている」とその内容を明かにした点である。「これは、裁判は証拠中心主義のものであって、公判において証人尋問を申請し、尋問することは重要なことである。この際A証人がのべた内容と、検事側の主張するB証人の陳述内容とが異るとき、この何れかは偽証罪となる。検事側の主張するB証人の内容が正しいのであれば、証人A、すなわち被告側に有利な証言を法廷において述べた者は、これを偽証罪の現行犯として直ちに逮捕することができる。また現在こうしなければ非常に危険である。第二として法廷における証人尋問に対して公判期日において証人尋問することはできないが、これは刑訴第二九九条によりあらかじめ証人の住所、氏名を相手方に知り得る機会を与えなければならない。しかし、証人尋問は重要なことであるので、この度の三鷹事件の公判に際して、証人を多数申請することと思うが、大事な証人になると、まずもって法廷内に証人を入れておき、公判の途中で証人申請の手続をなし、証人は現在この法廷にいるといって直ちに証人尋問をはじめる、こうすれば証人尋問を有利にすすめることができるというようなことを仄聞している。かりにこれが事実とすれば、われわれは相当証拠があるのでありますが、これが事実なりとすればこの公判は起訴後の公判においてすらわれわれは検事の偽証罪、現行逮捕という脅迫のもとにこの公判をつづけねばならない。われわれはかかる検事の脅迫のもとには絶対公判をすすめることはできない。」ニッポン・タイムスは十一月五日の紙上に、当局が一二〇人から一三〇人の証人を用意していることを報道した。林弁護人の弁論とそのこととを合わせて考えるとき果して人々は何かの疑問にうたれないだろうか。
 飯田被告は第二回公判(十一月十八日)の法廷で「特に残念だと思うのは証人関係です」と言及している。「本当のことをいうと偽証だといってやられる。真実を語ることができる者は、最大の勇者であるという言葉をきいたが、実際、あの雰囲気の中で、三〇回近くもよばれれば検事のいうようになって、偽証罪をまぬがれたくなる。真実をいった者は偽証罪になっている。」「これは単に私が罪になる、ならないの問題でなく、日本の民主主義を擁護しようとする民主的な人々、全人民の問題だ。」
 同じ日の法廷で被告外山も「残念ながらとうとう最後までがんばれなかった一人」として次のことをのべた。「お前がたよりにしている石川は偽証罪で逮捕してやる。本調査を妨害すれば、誰でも逮捕するだろうといった。この時私は顔色が変った。そうなったらどうしよう。白を白だといって偽証罪で逮捕されるなら、俺の白は誰が証言するだろう。そう考えると気持が弱くなってきた、」と。
 被告たちは、このような精神的苦悩のうちにあつい夏じゅうを獄中に過した。林弁護人は弁論中、彼らは「あくまで重要犯人であるとして被告人相互の連絡を防止するという意味で、窓には板をはり、わずかの硝子戸しかすきまがなく、ほとんど日のめをみることができない。また、一切の書物は刑務所備えつけのものすらよむ自由を与えなかったのである。さらに、われわれがゆく前には運動すらも、監獄法によって所定されている運動すらも、人手がないというので絶対に許されておらない、しかも外部からの面会、差入れは絶対に禁止されていた。」(林弁護人陳述、速記録による)このことは、おそらく被告たちが六法全書さえ読むことができなかったかもしれないことを意味する。被告たちが、新刑事訴訟法について知らず、認定でやってやるという検事の言葉におびえたわけもわかる。
 第一回の公判廷において、被告とともに公訴とりさげを主張し、あるいは、法の公正と人権擁護のために立ったのは、自由法曹団の弁護人ばかりではなかった。弁護士界の長老である正木、長野、和光、吉田などをこめる十一名の弁護士がこの公判に参加している。これらの弁護士団は、「本件の如き憲法や新刑訴の趣旨を蹂りんしているのではないかと被告がすでに思っているような事件においては」「法令が適正に運用されているかどうかを注意し、いやしくも非道、不正を発見したときにはこれが是正につとめなければならない。これは個人の被告人がいかなることをしたかということを離れて、公の公共的な立場において国家のために監視しなければならない。これがわれわれ弁護士の使命である。」「弁護士の本質は自由であり、権力や物質にとらわれてはならない。あに権力のみにかぎらない。世評などに対しても必ず左右されてはならない。」(長野弁護人)「司法権の最も大切な、重大な問題としては検事の不法取調べという問題がおこっている。こういうことを果して看過していいかどうかということについては、吾々は深く憂うるのである」(吉田三市郎弁護人、速記録による)。稲本錠之助弁護人は、フランス大革命当時の哲学者ジョセフ・ジューベールの言葉をひいて弁論した。「一体この事件がランプの光の前で検討されたものならばまだしも、今朝来被告人等の言うことをきいておりますと、ランプの光にも行かない。螢の光ぐらい。私は必ずしも真黒だ、まっくらやみの中だということは申しませんが、何にいたせ、明るい光の下において検討された事件でないということを、今朝来、被告人等の片言隻語の中から受取ったのであります」(速記録による)そして大岡越前守が「あの封建時代、みずから捕え、みずから取調べるというもっての外の裁判制度の時代ですら、今日三尺の児童も大岡裁き、大岡裁判といえば存ぜないものがないくらいの名をのこされた」(速記録による)その誠意、見識をもって本件をあつかってほしいと要望している。正木昊弁護人は同日「私は共産党には反対であるが、それよりも白いものを黒いとすることにはいっそう反対である。白いものを権力をもって黒いとすることは人道に反することである。(中略)権力を用いて白を黒にするなどということは全世界の人類を侮べつするものである。私はヒューマニストとしてこれと闘わなければならないと思い、よろこんで三鷹の弁護に立つものであります」という談話を発表した。
 それにしても、この日、「被告の事情というものはほんとうにしらべにあたった検事さんが一番知っておりますが、そのときの表情や態度によってわかると思いますから、できればしらべにあたられた検事さんが一人でもよけいに出廷されることを望んでおります」(速記録による)といった竹内被告の立場はどういう複雑ないきさつをはらんでいるものだったのだろうか。三人の法廷検事のうち、取調べに参加していたのは天野検事一人である。検事一体ということがあって、取調べにあたっての主任検事であった田中検事ほか泉川、平山、富田、木村、屋代、磯山の諸検事は公判廷から姿を消している。
 八月一日に検挙された竹内被告が、三鷹の電車暴走を単独行為として自供したのは八月二十日のことであった。八月二十六日、府中刑務所で、今野、岡村弁護人(当時竹内にも自由法曹団弁護人がついていた)が竹内被告に面会したとき、竹内被告との間に左のような問答が交わされた。
「わたしは先日、拘留開示の前におあいしたとき、ぜんぜんこの事件には関係ないといいましたが、それはウソで、じつは私が電車を走らせたのです」それに対して、今野弁護人が質問した。「それでは先日、なぜウソをいったのですか。」答「私は飯田さんたちがすぐ釈放され、私もかくしとおしておけると信じてましたから、がんばろうと思ってウソをいったのです。ところがこの事件はまったく私一人でやったことで、誰とも相談していないのに、田中検事さんや平山検事さんは八月十五日ごろからと思いますが」横谷、外山そのほか四人も五人もが、謀議に参加したと本人がのべていると「何日も何日も、くりかえしくりかえし夜おそくまでせめたてましたので、私は、絶対にそれらの人たちと一緒にやった事実はなく、田中検事さんの取調べは、強引で、謀議一方におしつけようとするので、このような取調べを横谷たちがうけてたえられなくなって」「私がかくしとおすことによって、罪のない人たちが無実の罪におとしいれられては大変だ、この際正直にいってしまわなければと決心し、たしか本月二十日の夜九時ごろから平山検事に、くわしく話しました。なお、平山検事さんらは『いくら否認しても、新刑事訴訟法では認定で罰することができる。この事件には外山、田代、伊藤、清水も――あとから飯田も共同謀議に参加している』といいました。これはまったく事実でないことですが、しかし」「証拠がなくても認定できるといわれると」「何もやっていない横谷やほかの人たちまで無実の罪をきせられるようなことがあっては、なんとしても申しわけなく、それを考えるといても立ってもいられなくなったのです。」そういって竹内被告は、七月十五日事件当夜のてんまつを詳しく語った。「まったく単純な労働者の怒りを見せて、当局を反省させてやろうという気持と、電車を動けなくすれば全国的なストに入り、当局もかならずまけるにちがいないと信じてやったのですが、あんな悲惨な結果がわかっていたら、もちろんするはずはなかったのです」「私は運転手を五、六年した経験で、あの電車は当時の状況からみて、『一たん停止』の辺で脱線すると信じ、本線その他に危害がおこるとは考えていませんでした。」この面会で、竹内被告は一人の労働者として、また妻の心を思いやり、五人の子供たちの将来を考えると良人、父親として切ないこころのうちを告げた。(岡村弁護人の筆記による)
 しかし、竹内被告は、神崎、相川両検事の働きかけによって九月にはいってから動揺しはじめ、加速度的にその動揺がつよまって、他の被告たちとの共同正犯を主張する態度にかわって行った。そして十月二十四日、五日と月末の二度に八王子地検の相川判事によって他被告との関係について「宣誓の上供述して」それを調書にとられた。第一回公判をひかえた十一月二日に竹内被告は、思想を異にする弁護人を希望しないという理由で自由法曹団の人々をことわった。十一月四日の公判廷に鍛冶、丁野、栗林の三弁護士を選任して出廷した竹内被告は、三ヵ月ぶりに職場仲間の顔を見、その一人一人が立って、口々に検事の不当な取調べぶりを詳述して公訴取下げを要求するのをきいたとき、自身のうけた取調べにつき、自身のおかれた立場につき、何かの感想をもたずにはいられなかったろう。
 読売新聞は十一月十五日、ほとんど三面全部をつかって、「無人電車暴走の全貌」「自供、あやまてりわが労働運動、人間竹内の上申書」「横谷にそそのかされ二人で運転台へ」といういわゆる上申書の内容を公表した。
「私は実は十一月四日の第一回公判廷において、自分がどの線でゆくのが真実なのか、非常に悩みました。自分が無罪なのか。単独か、共同かという三つのどれもが記憶において錯綜していたからです。」
 読者に奇異の感を与えるそのような冒頭の文句ではじまる、長文の上申書の終りは、かつての転向上申書の書式を思わせ、共産党への罵倒と「いかなる罰も天命であって人智のなすべからざるところと。そして後、新たなる魂をもって邦家のために生き抜こうと決心しています。未だに過去の労働運動(特に国鉄)をもって喋々するものがあるならば、それらは徒に事を構えて能事終れりとなす階級であって、かようなことはいわゆる革命家に任せておけばよいと考える。今や己の愚を悔るのみです」と結ばれている。そして竹内被告が書いたその上申書の冒頭に語られている錯交した本人の心理に似合わず鮮明、詳細な、現場見取図というものが、番号入りでのっているのである。
 十一月十八日の第二回公判をひかえて、竹内被告の上申書は読売新聞独特の特色を発揮して出来るだけセンセーショナルに扱われたのであったが、翌十六日の朝の毎日新聞には「謎包む二つの手記」「変転する竹内被告の心境」というまた別の記事があらわれた。竹内被告は十一月十五日午後、栗林弁護士と府中刑務所で面会したとき、「私がさきに上申書で述べたことは調書にもとられているが、これがどのくらい本当なのか自分は分らなくなった。」と第一の手記と異る第二の手記を提出した。
「(前略)以上にのべたことはすでに検事調書にも相川判事の調書にもとられています。そして、それがどのくらい本当なのか、自分は多分に検事の尋問に調子を合わせて色々しゃべって来たのでわからなくなりました。(中略)一ヵ月あまりせめられて、」「自分一人で志願囚となるよりは」「皆で背負ってゆくのも同じだと妄想し出し、十月十三日、二日ほど拒んだのですが、紙と鉛筆とをわたされ私一人の自白と同じような気持からスラスラ書いてしまったのです。翌日、自分一人ならまだしも仲間まで関係づけたことが悔いられ、さんざんたのんで撤回方を願ったが」「私の生命といわんよりは魂を救うために上申書は取消して下さいといったが駄目でした。」「八月二十日、私一人犯行説でも、私は自分の想像の供述に対し、検事の言により度々調子を合わせて述べているのです。」(一一・一六、毎日新聞)被告竹内は「新聞で見て大体検挙の想像で考えていた」ことや当直で見ていた当日の配車状態などから、供述しているのだった。「私は自分で自ら墓穴を掘りつつあるような気がします」「今でも検事に述べたことについては覆せる気持はありますが、何しろ相川判事に調書をとられたのが一番なやみの種です」(同日、同紙)
 相ついで発表され、しかも正反対の内容をもつ竹内被告の二つの手記のよびおこした波瀾によって、十一月十八日の第二回公判廷には、ひとしおの緊張がみなぎった。
 去る四日の公判第一日に、満廷の公訴取消しの要求に対して、一言も発せずじまいだった検事団は、この日の公判廷では、へき頭、勝田主任検事が立って、公訴の適法であることを強調し「もしこの発言にかかわらず前回の如きことが行われる場合は、これに関し異議をのべ、必要な発言を行うことを附加するものである」(十九日、毎日)といった。この日の午前の法廷では、前回に引つづき公訴を取消す要求が、行われたのであるが、検事連は、自席に立ちあがり、十五回にわたって鈴木特別弁護人の発言を妨害した。執拗に裁判長にくり下る勝田検事に裁判長「発言にたいする異議はいいけれども、発言しているものに対して妨害してはいけない。」(公判速記)弁護士団の長老長野国助弁護人も「とくに検察団にのぞみたい」と「審理中に検察団はあたかも妨害になるような発言をされている」のは「裁判所を信任されていないことである」云々とたしなめた。
 ニッポン・タイムスは、これらの状況を「茶番になった第二回公判」として、「法廷は小型の議会になった」と書いている。
 午後、川口検事によって起訴状が読上げられた。その起訴状の内容がどういうものであるかということは、公判速記がありのままに記録している。
 裁判長「(前略)偽証の方で、このほか数名とあるが、それがわかっておりますならばその内容をいって下さい。」天野検事が、横谷、外山、清水、宮原、伊藤、田代の名をあげる。「以上です。」
 裁判長「喜屋武ほか十数名とあるが、どうですか」天野検事、竹内被告をのぞく十一名のほかに五名の名をあげ「以上であろうと思います。」
 布施弁護人が、各被告の起訴の日づけが、まちまちである点、その他曖昧に書かれている個処について質問をはじめた。「これは事件の内容全貌についての見通しがあって起訴が行われたのでしょうか。そのことをまずききたい。起訴の第一次の段階で事件の全貌がいかにつかまれていたか、はっきりしていたかについて、また発車が人意か共犯か否かについても起訴状は明かでない。」
 栗林弁護人も竹内被告の起訴状について共謀、謀議などの言葉の意味についてたずねる。
 裁判長「今わかりませんか。共謀の日時、場所は。」
 勝田検事「七月十日から十五日ごろまで。三鷹電車区構内の整備第二詰所としようとしている古電車や、労働組合の事務所又はその附近、それから高相方などにおいて、よりより数回にわたって謀議が行われておりました。」(被告席失笑)
 裁判長「飯田被告と他人と共謀の上とあるが、起訴当時ははっきりしていなかったかどうか。」
 勝田検事「八月一日に第一次に起訴した七名を検挙しておりましたので、この共犯関係は分っておりました。」
 裁判長「八月八日の起訴の時には、大体分っていたというのですね。」
 勝田検事「検挙しておりましたから共犯だと思って起訴しました。」
 林弁護人は共謀の事実、場所、人物について説明を求めた。それに対する勝田検事の答につづけて、
 裁判長「今の点、もう少し具体的になりませんか。」
 勝田検事「かような計画は、全体の雰囲気からでてきたものであります。被告人が一堂に会してやったんじゃありません。(被告席身体をゆすって笑い出す)(以下略)」
 裁判長「いつ、どこで、だれとだれとが会ったということは分っていないようだ。数日にわたって数人が数ヵ所で謀議をやったんだというのが検事のいうことです。」
 吉田弁護人「(前略)七月十五日の会合には被告全部と組合員がいたとあるが、いかなる組合に所属するだれとだれか。」
 勝田検事「さようなことは、いずれも述べる必要はない。」
 吉田弁護人(白髪の頭をふり、机をどんと叩き)「必要があるからこそ聞いている。」
 第二回公判は、このような起訴状の朗読と被告飯田、外山、清水の起訴事実否認で閉廷された。
 第三回公判は十一月二十一日、裁判長の法廷を静粛に保つことについての発言があり、前回にひきつづいてまず横谷被告の起訴事実否認が行われた。彼の陳述約一時間ののち、きちんとした背広姿の竹内被告が証言台に立った。ニュースカメラのライトが一斉に彼の上に集中された。彼は落着いていて、はっきりした、やや早めな口調で「起訴状によりますと、共同謀議でやったとなっていますが、私一人の単独犯であります。(中略)民同、共産党の煽動によるものではなく、吉田内閣や三田村氏の陰謀によるものでもありません。たとえ命はあっても獄中で老いさらばえて、あの時真実をいっておけばよかったと思うでしょうから、ここに真実を申しのべました。」竹内の陳述は僅か五分ですんだ。傍聴席にいた竹内被告の妻政さんは、ハンカチーフを顔にあててうずくまり、これにニュースカメラが焦点をあわせると、その前に坐っていた伊藤被告の妻が子供を抱いた身体をつき出してかばい、(日本経済新聞)毎日新聞のカメラは証言台に立って陳述する竹内被告の後のところでハンカチーフを眼にあてて泣いている横谷被告の姿をキャッチした。
 裁判長「起訴状には横谷と二人でやったとあるが、どうか。」
 竹内被告「それはまちがいです。全く私の単独でやったことです。」
 裁判長「自分一人で電車を動かしたのか。」
 竹内被告「ハイ。」
 十五日に共同正犯を主張した竹内被告の自供手記を大々的にあつかった読売新聞は、この日の公判状況をきわめて簡単に扱い、かつ、竹内被告の陳述のはじめにいわれた言葉で他の大多数の新聞は記録している一つの項目――民同や共産党の煽動によるものでなく、吉田内閣や三田村氏の陰謀によるものでもありませんという供述をオミットした記事をのせていることは注目される。同日放送されたラジオニュースは、竹内被告の言葉から共産党の煽動によるものでもなくというところを削除していた。
 公判第一日からきわめて受動的な立場にあった検事団は、第四回公判(十一月二十五日)のこの日一つの計画的な態度をもって出廷した。川口検事が立って、(一)検察側はだんじて拷問、人権蹂躙を行っていない。(二)虚構誇大、事実をまげて検事裁判官、裁判所を誹謗し、演説会で宣伝する。これは侮辱、名誉毀損、恐喝、恐迫等の犯罪を構成する。適当な機会に断固たる処置をとりたい。(三)数十名の弁護人ならびに三分の二の傍聴人により法廷を制圧している等の諸点をあげて示威した。
 裁判長「法廷を制圧しているとはどんな意味か。」
 川口検事「多数を占めているとの意味です。」
 裁判長「制圧しているとは不穏当であるからとり消されたい。」
 川口検事「不穏当と認められるならば取り消します。」
 ところが、午後の法廷がひらかれると、この日も思いがけない事態が発生した。被告につづいて各主任弁護人の陳述に入ったとき、竹内被告の主任弁護人は誰かという問題が起ってきた。竹内被告が裁判長の問いに答えていったことばは次のようであった。「私が一人で犯行をやったと平山検事に述べたが、神崎検事になってから共同だろうとせめたてられ、共同と主張してしまった。その上神崎検事からは、自由法曹団を相手にまわしていくらでも闘ってくれる弁護人がいるといわれ、前に頼んだ今野、小沢両弁護人さんたちに会わせる顔がなくて解任届を出した。今でも今野、小沢両弁護人に頼みたい。」と。
 これから数十回継続されてゆく立証段階で、よび出される百二、三十人の証人と、林弁護人の弁論中にあらわにされた検事団の偽証罪をかざした証人操作法とは、どのようにからみ合い、どのような情景を法廷にくりひろげてゆくだろうか。世論が公正に監視をつづけなければならないかなめは、これからほぐされて来る。
 ドレフュス事件をいうとき、ゾラがそれにかかわって闘ったことを侮蔑的に見る人はない。アナトール・フランスの思想の発展のモメントが、この事件に連関していることを、近代フランス文学は少くともきまりわるがってはいない。そのドレフュス事件にしても、現に新聞があることやないことをかきたて一般の反感を挑撥していた当時は、セザンヌが、そんなことに首をつっこんでいるゾラ、と罵ったように、フランスでのごみっぽい野暮な事件の一つであったのだ。
〔一九五〇年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「人間」
   1950(昭和25)年新年号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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