私は今後六囘に亙つて此の題目の下に、過去の支那に現はれた四人の大人物、即ち孔子・始皇帝・張騫・諸葛亮四人の事蹟を紹介せうとおもふ。今日は民衆萬能の時代で、最早偉人英雄の時代でない。今更偉人などを擔ぎ出すのは、時代錯誤かも知れぬ。併しカーライルもいへる如く、世界の歴史は畢竟偉人の歴史に過ぎぬ。過去の歴史から偉人の事業・功績を除き去れば、實に寂寥たるものである。殊に支那の如き國柄――支那人の理想的政治論に從へば、第一番の大人物が天子となり、その次の人物が大臣となりて人民を指導し、人民は無條件にその指導に從ふのが義務と認められてゐる――では、偉人の勢力が尤も大に、影響が尤も廣い。支那では一國一人を以て興り、一人を以て亡ぶといふ程で、一代の興亡は、その時代に偉人の有無に據つて決定するかの如く、それ程偉人の位置が重い。その時代の偉人の事蹟を調べると、その時代の歴史の大半を了解することが出來る。今日の支那の現状を見ては、愛想も盡きるが、過去の支那には、中々多くの偉人が出て居る。それ等の偉人の事蹟は、何かの點に於て吾人修養の手本にもなれば、同時に支那に於ける文化發展の記念碑とも認めることが出來ると思ふ。

         一 孔子(上)

 第一番に紹介すべきは孔子である。孔子の事蹟は餘りに廣く世間に知れ渡つて居つて、態※(二の字点、1-2-22)茲に紹介するに及ばぬかと思ふ。併し支那の偉人の中に、決して孔子を逸する事が出來ぬ。それで簡單に申述べたい。委細の事蹟は、清の崔述の『洙泗考信録』や、我が蟹江博士の『孔子研究』等に讓つて、二三の注意すべき事蹟を紹介いたさうと思ふ。
 孔子は元來殷の後で、宋の公族の裔である。孔子の出生より百數十年前に、孔子の祖先は或る事情に餘儀なくされて、宋を去り魯に移つた故、孔子の一家は魯の人となつたのである。孔子の祖先の中には、或は忠義の人、或は道徳高き人、學問ある人、勇力ある人など多く輩出して居る。その家から孔子の如き聖人の生れたのも、偶然であるまい。孔子の出生は、普通に『史記』に據つて、魯の襄公二十二年(西紀前五五一)となつて居るが、之は『公羊傳』や『穀梁傳』に據つて、襄公の二十一年の出生とする方が正しい。哀公の十六年(西紀前四七九)に、七十四歳で世を辭されたのである。
 孔子の生誕地は『史記』によると、魯の昌平郷陬邑である。大體に於て今の山東省の曲阜縣の文廟の所在地に當るといふ。『孔子家語』によると、孔子の父の叔梁※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)(或は陬梁※(「糸+乞」、第3水準1-89-89))は、孔子の三歳の時に歿して居る。兔に角孔子が早くその父を喪つて、母の手に養はれたことは疑ひない。世界の偉人の傳記を調べると、釋迦も降誕と同時にその母を喪ひ、マホメットは更に不幸で、母の胎内に在る頃にその父を喪ひ、七歳の時にその母にも別れ、伯父の家に養はれた。耶蘇も又早くその父と別れて居る。兩親や片親を喪つた子供は不幸に相違ないが、この不幸者の中から、存外世界の大偉人が現はれて居るといふことも、注意に價する事實と思ふ。
 孔子の少時は貧乏に追はれて、可なり生活に苦勞されて居る。この貧苦の間に在つてよく勉學された。一體支那の古代では、四十歳迄は修養の時代で、四十歳前後から仕官するが普通であつた。『禮記』の曲禮にも、四十曰強而仕とある。然るに孔子の四十歳前後は、生憎魯國の内亂時代で、魯の君昭公は三桓の爲に放逐せられて、他國に流浪すること七八年に及ぶ。孔子の仕官し得る時機でない。昭公が外國で薨じ、その弟の定公が三桓に擁立されて魯の君となると、間もなく孔子は魯の國に登庸さるることとなつた。孔子の五十歳前後のことと思はれる。
 孔子は魯に用ゐらるると、その内治・外交二方面に亙つて、相當に著しい成績を擧げた。外交に於ては絶えず魯を脅迫した、隣國の齊に對して、その不當な要求を斥け、獨立國としての魯の面目をよく保持した。
 魯の内治の弊竇は、公族の三桓が政權を握り、國君は虚位を擁して、所謂尾大振はずといふ點にあつた。孔子はこの歴代の弊竇を除去すべく、三桓の諒解を求めて、その權勢を抑制する計畫を實行したが、その計畫成るになんなんとして、一部の反對に遇ひ、九仭の功を一簣に缺くこととなつた。その内政上の蹉躓が原因となつて、孔子は定公の十三年(西紀前四九七)に、魯の政界から退いた。
 志を魯に絶つた孔子は、その生國を去り、天下を周遊すること十三四年に及んだが、矢張り志を得なかつた。そこで魯に歸つて茲に晩年を送つた。孔子の一生を通覽すると、大約左の三期に區別することが出來る。
 (一) 五十歳頃までは修養に努めて、政治家として世に立つべき機會を待つた時代。
 (二) 五十歳頃より六十八歳頃までは、政治家として世に立ち、若くば政治家として世に出づべく、天下を周遊した時代。
 (三) 六十八歳頃以後は政界に望を絶ち、その道を後世に傳へる準備をした時代。
 『論語』述而篇に甚矣吾衰也、久矣吾不復夢見周公也とあるのは、政治家として周公の禮政を復活せんとした、彼の素志の到底現實し難きを自覺せし時の失望の聲で、恐らくは彼が望を政界に絶つた當時に發したものと想はれる。

         二 孔子(中)

 さて孔子が志を政界に絶つて、身後の用意に着手したが、その用意とは、畢竟著述と弟子養成との二途に過ぎぬ。『史記』に據ると、今日傳ふる所の五經、即ち書經・詩經・易・禮・春秋は、皆孔子が筆削したことになる。之には多少の異説もあるが、兔に角一般にはしかく信ぜられてゐる。もし孔子が政界に志を得て、國務に鞅掌して居つたら、或は著述の餘暇に乏しく、從つて經書を十分に筆削し得なかつたかも知れぬ。この點から觀ると、孔子が政治家として不遇であつたことが、かへつて經書の爲に祝福すべきかと思ふ。
 弟子養成のことは、孔子は三十而立、四十不惑といふ程に、早く修養が出來て居るから、四十歳前後から已に若干の弟子はあつたであらう。併し專心に弟子の養成に努力したのは、その晩年のことと思はれる。
 孔子には七十二弟子とて高弟が七十二人ある。その七十二人の年齡の判明せるものは、『史記』に據ると二十三人程ある。その二十三人の年齡を調べて見ると、孔子より非常に若い者が多い。左表を參考されたい。
孔子より一歳乃至九歳若きもの    一人
孔子より十歳乃至十九歳若きもの   二人
孔子より二十歳乃至二十九歳若きもの 三人
孔子より三十歳乃至三十九歳若きもの 六人
孔子より四十歳乃至四十九歳若きもの 七人
孔子より五十歳乃至五十九歳若きもの 四人
 殊に孔門の弟子中で、尤も後世に名の聞えたる顏囘は、孔子より若きこと三十歳、子貢は三十一歳、子夏は四十四歳、子游は四十五歳、曾參は四十六歳、子張は四十八歳である。この事實は、孔子が比較的晩年に多くの弟子を養成した、一つの證據に供することが出來る。
 濟々たる孔門の諸弟子中、尤も傑出したのは、申す迄もなく顏囘字は子淵である。彼が孔門第一の人物として、他の諸弟子達と夐然隔絶して居つたことは、『論語』を一讀すれば容易に理會することが出來る。孔子も頗る顏囘を推賞して居る。孔門の諸弟子の中で、子貢は才學を以て世間に聞え、當時の一部の人達からは、その師の孔子以上とさへ評判された人である。その子貢に孔子が子貢自身と顏囘との優劣を尋ねられた時に、子貢は答へて、
賜(子貢)也何敢望囘。囘也聞一以知十。賜也聞一以知二。
といひ、之に對して孔子が、
如也。吾與女弗如也。
と評したことが、『論語』の公冶長篇に見えて居る。之に據つても顏囘が天資聰明の人で、孔子及び諸弟子から天才を以て遇せられたことがわかる。しかのみならず彼と孔子とは、名は師弟にして情は父子の如く、孔子も「囘也視予猶父也」(先進篇)と申されて居る。孔子が天下周游中に、さる地方で遭難されて、顏囘と離れ離れとなつた。孔子は顏囘が死んだのではないかと、一時非常に心配されたが、間もなく安全に一行に加はつた顏囘は、孔子の心配を謝して、「子在。囘何敢死」(先進篇)と申して居る。殆ど生死を共にする迄許し合つた間柄といはねばならぬ。孔子がこの顏囘に多大の望を屬し、自分の死後その主義を後世に傳へ、若くはその抱負を世間に行ふに就いて、この人を第一の後繼者と目指して居つたのは申す迄もない。所がこの顏囘が不幸にして短命で、孔子に先だつて世を辭した。
 顏囘の死んだ年代は分明でない。ただ孔子の晩年に當ることは疑を容れぬ。多分孔子の七十歳の頃かと想はれる。かねて顏囘に多大の望を掛けただけ、彼の辭世に對して、孔子は氣の毒な程落膽せられ、「噫天喪予。天喪予」(先進篇)とさへ嘆息されて居る。又孔子が顏囘の家に往弔した時、平素悲喜ともに節を踰えぬ孔子には似合はず、諸弟子の驚き怪む程激しく慟哭して、「非夫人之爲一レ慟而誰爲」(先進篇)とさへ極言されて居る。この後ち魯の君哀公や魯の大臣の季康子に、我が弟子のことを聞かれた時、孔子は何れにも、
顏囘者………不幸短命死矣。今也則亡(先進篇・雍也篇)
と對へてゐる。孔子がいつまでも顏囘を忘れ得なかつたことがわかる。孔子の生涯の中に、この顏囘の死んだ時ほど氣の毒に思はれる時はない。孔子の晩年は極めて不幸であつた。顏囘と前後してその實子の鯉(伯魚)を喪ひ、また愛弟子の一人なる子路も衞の國難に死んだ。しかし顏囘の死は孔子にとつて第一の不幸で、これが爲に孔子の身神に大なる痛手を受けたこと想像するに餘ある。かくて顏囘の死後三四年にして、我が孔子も世を辭された。孔子の墓は今の山東省の曲阜縣の北郊約十四五町ばかりの孔林の中に在る。孔林とは孔子を始め、その一族の墓地である。

         三 孔子(下)

 最後に孔子の人格について一言を申し添へたい。私は先年『斯文』といふ雜誌の孔子追遠號に、孔子の人格に關する私見を披瀝して置いたから、之を抄録して茲にその大要を紹介する。
 (第一) 孔子の一生は平凡である。その經歴も平凡で奇蹟がなく、その學説も平凡で豫言がない。他の精神界の偉人には、釋迦でも、キリストでも、マホメットでも、皆奇蹟や豫言が伴つて居る。彼等は或時期に、人界から神界に移つて居る。人界を超越して居れば居る程、彼等を直ちに人間修養の手本となし難い。獨り孔子のみは終始人界を離れず、人間を以て始まり、人間を以て終つた。孔子はその偉人たる點に於て、釋迦やキリストや、マホメットに一歩も讓らぬであらうが、その經歴やその學説は、やや平凡を免れぬ。平凡の偉人といふのが、孔子の特色であらう。支那經典の英譯者として、又オクスフォード大學に於ける支那學講座擔任の最初の教授として名高いレッグは、曾て孔子を評して、
公平の立場から觀て、孔子の性格にも學説にも、偉人の面影を見出し難い。
と申して居る。レッグの評は勿論間違つて居るが、その間違ひの裡にも、平凡の偉人たる孔子の面目が現はれて居ると思ふ。
 (第二) 上述の如く孔子は大體に於て平凡で、ただ不斷の努力によつて、偉人の位置に到達したのである。孔子の如く修養の效果の顯著なる人は、殆ど他に比類がなからう。この點が他の偉人とは立ち優つて、吾人の修養の手本として、尤も適當な人物と思ふ。
 『論語』を見ても明白なる如く、孔子は絶えず努力して、年一年と進歩した人で、その進歩の順序も極めて規則正しく、あたかも學生が小學より中學、中學より高等學校、高等學校より大學と、年を追うて進級して行く面影があつて、誰人にでも眞似出來る樣な階級を歴て、層一層と人格を高めて居る。長い修養の間に、少しの不思議も奇蹟もない。孔子はその晩年に、一生の修養に就いて、「吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所一レ欲不矩」(爲政篇)と申して居る。彼が老の將に至らんとするのも忘れて、晩年まで孜々として修養に努力せしことがわかる。世界の偉人の中で、孔子程修養に努力した人はあるまい。孔子は自ら「我非生而知之者」(述而篇)というて、自身の生れながらにして偉人たることを否定し、修養によつて成功した平凡の偉人たることを自白して居る。後世の儒者らが孔子を尊崇する餘り、孔子を生知安行の聖人として、強いて凡人と區別せんとするのは、不心得千萬と申さねばならぬ。殊に近年公羊學を唱ふる輩が、孔子に種々の奇蹟を附會し、之を豫言者扱せんとするは、實に孔子を誣ひ、孔子を賊するものと申さねばならぬ。
 (第三) 孔子の人格は頗る圓滿である。『論語』に子貢が孔子を評して、「温・良・恭・儉・讓」(學而篇)とあるが、尤もよく孔子の人格を描出して居ると思ふ。又『論語』に「子絶四。毋意。毋必。毋固。毋我」(子罕篇)とある通り、孔子は決して我見を固執せぬ。彼の言行は終始中庸で、極端や過激がない。從つて危險もなければ弊害も尠ない。
 此の如く孔子は圓滿なる人格を具へ、言行中庸を失せぬから、彼はその一生を通じて、殆ど他から迫害を受けたことがない。彼は一生不遇ではあつたが、その學説その言行は、當時の人から一般に尊敬されて、決して迫害を受けなかつた。桓※(「鬼+隹」、第4水準2-93-32)の難や、陳・蔡の厄など傳へられて居るが、之は例外の出來事で、又その實情も明白でない。ただにその當時許りでなく、後世になつても、孔子は殆ど非難されたことがない。儒教に反對する人々でも、孔子には反對せぬ。世界の偉人の中でも、孔子の如く非難反對の尠ない人は稀有と思ふ。我が徳川時代の中世以後に國學が勃興して、所謂日本主義が流行すると共に、あらゆる支那文化に反對することになつた。中にも本居宣長や平田篤胤らは、儒教を攻撃して餘力を遺さず、儒教の所謂聖人といふ聖人に、思ひ切つた罵倒を浴せて居る。併し流石に孔子だけは非難せぬ。或は非難出來なかつたかも知れぬ。兔に角支那嫌ひの國學者達も、孔子だけは何等非難を加へざるのみならず、却つて譽め切つて居る。本居は、
聖人と人はいへども、聖人の類ならめや、孔子はよき人。
と詠んで居る。惡口黨の旗頭の平田すら、孔子は心も行も我が師翁其儘だと推服して居る。
 (第四) 孔子は今より二千四百年前の古代に生存せしに拘らず、彼の日常生活の有樣は、不思議にも委細に今日に傳つて居る。『論語』を見ると、孔子その人をあたりに見る樣な心地がせられ、殊にその郷黨篇には、飮食より坐臥に至る迄、孔子の生活状態を描き出して殆ど遺憾がない。「食不語。寢不言」とか、「立不門。行不閾」とか、必ずしも大聖孔子の行爲として、殊に表出するに當らぬ程の平凡な記事が疊見して居る。かかる飾氣のない僞らざる、古代の偉人の日常生活状態の今日に傳はるのは、孔子に限つたことで、之も亦吾人修養の手本として、孔子が他の偉人に勝つて居る點と思ふ。
 要するに孔子は平凡なる偉人たる點、修養によつて向上した經路の尤も明かなる點、人格の圓滿なる點、日常生活の尤も詳細に、又尤も飾氣なく傳はれる點、殊にその終始人間離れをせぬ點、此等の諸點で、他の世界の偉人達と相違して居り、同時に吾人の修養の手本として、尤も適當なる所以と思ふ。吾々の如き平凡な人間でも、努力して修養さへすれば、別段奇蹟の如き筋道を辿らずとも、孔子の樣な位置にまで向上進歩することが出來るといふ、眞實の手本を示す點が、確に孔子に限つた特色である。

         四 諸葛亮(上)

 支那史上の偉人として、私は第一に孔子を擧げ、第二に始皇帝、第三に張騫を紹介したが、始皇帝の事蹟は、已に大正二年一月の『新日本』に載せてあり、又張騫の事蹟も、大正五年二月發行の『續史的研究』中に掲げてあるから(本全集第三卷所收)、茲には始皇帝と張騫との事蹟を掲載することを省略して、直に第四の諸葛亮、即ち諸葛孔明の事蹟を紹介する。
 一體支那人には表裏が多い。看板と實際とは大抵一致せぬ。彼國の梁啓超の如きも、支那通有の一缺點として、好僞を擧げて居る。古來有名な支那の政治家や軍人を見渡しても、心と口と、口と行とは、別々となつて居て、人の反感をそそる樣な人物が多い。この間に在つて、獨り諸葛亮のみは至誠一貫して、その行動に一點の不純をも認めぬ。誰人と雖ども諸葛亮には深厚なる同情を起し、又誰人でも諸葛亮からは至大なる教訓を受けることが出來る。從つて古來人物評をする學者の中に、殆ど一人も諸葛亮を非難した者がない。机上の書生論で、隨分吹毛求瘢的の評論を好む宋の儒者でも、諸葛亮だけは大抵は無條件で奬推する。張拭(南軒)や朱子の如き、皆彼を推して三代以後の第一人者とする。支那人嫌ひで有名な平田篤胤の如きも、諸葛亮に對しては、最上級の贊辭を惜まぬ。
此人生涯の行は、唐人ながら篤胤實に間然すること能はず。孔子の後たつた一人の人と思はる。……諸越人の言に、孔子以前無孔子。孔子以後無孔子といつたが、篤胤は孔子以後唯有孔明と思はるることで御座る(『西籍概論』卷三)。
 さて諸葛亮は字は孔明といふ。瑯邪陽都人といふから、今の山東省沂水縣附近に生れたのである。彼の兄の諸葛瑾は、後に呉に仕へて大臣となり、徳行の高き人で、呉主の孫權に信任せられたこと、殆ど劉備と孔明の如き有樣であつた。諸葛亮は東漢の靈帝の光和四年(西暦一八一)に生れた。早く父を喪ひ、從父の諸葛玄の保護を受けた。その從父が荊州牧劉表の許に世話になつたから、自然諸葛亮も亦荊州に住むこととなつた。やがて從父の死後、彼は襄陽附近の田舍に退隱した。丁度その頃劉備が曹操の爲に逐はれて、荊州の劉表の許に身を託したから、茲に兩人接近の機會が出來た。かの有名なる草廬三顧は、獻帝の建安十二年(西暦二〇七)即ち孔明の二十七歳の時の出來事である。この時孔明は早く已に天下三分の計畫を定めた。曹操は最早天下の十の七を手に入れ、兵士も多く物資も豐で、到底正面から之に抵抗し難い。孫權は東南の地に據り、父兄三代の基礎堅ければ、之を味方に利用して、巴蜀の方面に新に立脚地を求めねばならぬといふのである。
 所が時局が豫期以上に切迫して、その翌年に曹操が荊州に侵入すると同時に、劉表は病死した爲、荊州は一旦曹操の手に歸する。劉備は殆ど身を容るるに所なく、難を南に避けて、救を孫權に求めることとなつた。この時劉備の使者となつて、孫權を説服に出掛けたのが孔明である。孔明が首尾よく孫權を説服して、味方に引き入れた結果として、有名な赤壁の戰が起つた。この赤壁は今の湖北省の嘉魚縣附近で、夏口(漢口)の上流に當る。蘇東坡の赤壁賦の赤壁は夏口より下流で、今の湖北省の黄岡縣に當る。故に蘇東坡は西望夏口と記して居る。三國時代の赤壁なら、西望夏口でなく、東望夏口でなくてはならぬ。東坡が歴史地理に暗くして誤を傳へて以來、黄岡縣の赤壁が普通に古戰場として認めらるる樣になつた。さてこの赤壁の戰に曹操が失敗して、南支那併合の機を失すると共に、孫權は揚子江中流以下の南支那を占領し、劉備はやや後くれて、建安十九年(西暦二一四)に江を溯りて巴蜀をとり、かくて天下が三分して、魏・蜀・呉三國鼎立の姿となつた。
 劉備は蜀を占領して國を建てたが、その整理がつかぬ中に、西暦二百二十三年に世を辭し、十七歳の劉禪がその後を承けた。劉禪は年もわかし、質も凡庸であつたから、劉備の遺命を受け、後事を託された、孔明の苦勞は並々でない。丁度この時四十三歳になつた孔明は、丞相として一國の政治を統べ、又益州牧を兼ねて親しく地方行政に當り、又その以前から司隷校尉をも兼ねた。一口に申せば、彼一人で總理大臣、東京府知事、警視總監を兼務するので、その多忙なること設想以上である。殊に責任感の強い彼は、決して職務を忽にせぬ。罰二十以上皆親覽といふ有樣で、多忙以上の多忙を極めた。やがて蜀が南征北伐と軍を出す時には、孔明が必ず軍を統率したから、陸軍大臣に司令長官の職を兼ねた譯である。從つて孔明は文字通りに寢食の暇がなかつた。之に就いて當時心ある者は孔明の過勞を諫めた事もある。されど孔明がかく多忙を極めねばならぬ已むを得ざる事情があつた。即ち蜀には文武の人材が痛く缺乏して居つた。孔明一人は太陽の如く輝いて居るが、その以外の人物は誠に寥々である。軍事には關羽・張飛・趙雲があつたが、關羽や張飛は早く非命に斃れ、趙雲一人は生存したが、之も久しからずして世を辭し、その以後には名ある大將は殆ど存在せぬ。文官の方は一層淋しい。魏は流石に中原を領して、人物雲の如くにある。呉も早く東南に據つて、相當人物も集つた。獨り劉備は久しく流浪生活を營んだ爲、人物を招致する機會を失つた。最後に蜀に根據地が出來たが、邊鄙で人物に乏しい。孔明一人が特に傑出して居つたのと、その他に人物がなかつたのと、この二理由が、勢ひ孔明をして多忙過勞に陷らしめたのである。

         五 諸葛亮(中)

 蜀の内治が略整理がつくと、孔明は西暦二百二十七年に、始めて魏を伐つべく出征する。この時劉禪に上つたのが、かの前出師表で、所謂鬼神をも泣かしむると評さるる程の名文である。字句に何等の技巧はないが、全篇赤心の結晶である。爾來孔明は七年の間、その死に至る間際まで、餘事を擲つて再三再四出征を續けたが、蜀から魏へ出征するには、軍糧運搬に想像以上の困難があるのと、又孔明の計畫を實行するだけの大將が不足した等の原因で、十分の成功を見得ぬ間に、彼は出征の軍中で病死した。そは西暦二百三十四年で、彼の五十四歳の時であつた。今少しく彼に年を假さばとは、誰人にも起る同情である。
 一體魏を征伐することは、可なり困難な事業であつた。當時魏の口數は四百五十萬、蜀の口數は九十萬で、蜀の魏を伐つのは、兵力・資力五倍以上の敵を相手とする譯である。當時から痛く孔明の計畫に反對した人もあつた。孔明自身もよくその困難を承知して居つた。故に彼の後出師表に、
漢賊不兩立。王業不偏安。……然不賊。王業亦亡。惟坐待亡。孰與伐一レ之。……臣受命之日。寢不席。食不味。思惟北征。……臣鞠躬盡力。死而後已。至於成敗利鈍。非臣之明。所能逆覩也。
と述べて居る。然らば何が故にその困難を冒して北征を續けたか。それには強い理由がある。漢は東西を通じて、天下に君臨すること四百年に達し、その餘澤は深く人心に浸潤して居る。劉備は漢の疎屬として、世人の彼に漢の再興を期待するもの多く、劉備も亦漢の再興を標榜した。故に漢祚を簒奪した魏を征伐することは、劉備にとつて第一の義務で、又蜀の存在の第一義であらねばならぬ。若し北伐を中止したならば、蜀の存在が無意義となる。殊に孔明の立場からいふと、劉備が辭世の際に、懇々彼に漢業囘復を依囑し、この目的を遂行の爲には、劉禪を廢しても差支へないとまで極言して居る。孔明としては道理からいうても、私情からいうても、一日も北伐を忘るべきでない。魏を征伐することは、成敗利害を超越した大問題である。成敗を度外視して、一直線に道理に殉じ、義務を果したといふ所に、孔明の尊い人格が露はれて居る。曾子の所謂「自反而ナホクバ。雖千萬人吾往矣」とはこれである。
 孔明の生涯の中で、私の尤も感激に堪へぬのは、その草廬三顧の時でなく、呉に使して孫權を説服した時でなく、又南蠻を征伐して、孟獲を七擒七縱した時でなく、實に成敗を度外に北伐を實行して、義務に殉じた時に在る。若し眼前の小利小康からいへば、蜀の險阻を守つて、北伐などを企てぬ方が得策かも知れぬ。併し此の如きは所謂瓦全で、蜀の自殺に外ならぬ。かくては決して天下後世の同情を買ふ事が出來ぬ。後世まで蜀に同情者の多い所以は、利害を離れて名分に殉したからである。西晉の陳壽の『三國志』には、魏を正統としてあるが、東晉の習鑿齒以來、之に反對して蜀を正統に推す學者が多く、南宋以後支那の歴史は、蜀を正統に、魏を閏位に置くことに一定した。正統論は力の大小によるのでなく、理の當否に據るべきものである。Might 以上に重きを Right に置く正統論は、世道人心に大なる影響を及ぼして居る。わが『神皇正統記』もその影響を受けて現はれたものである。孔明の北伐はこの正統論の基礎を置いたもので、かかる重大なる影響を、千歳の後に及ぼしたことを、記憶せなければならぬ。

         六 諸葛亮(下)

 終にのぞんで孔明の人物について、二三の管見を加へたい。
 (※(ローマ数字1、1-13-21))至誠忠義
 支那は古來革命の國で、君位の分は定まつて居らぬ。『左傳』にも君臣無常位と見えて居る。今日の臣下も、明日の君上となり得る國柄である。從つて支那の君主は、赤心を臣下の腹中に置くことが六ケ敷い。絶えず臣下に對して、猜疑警戒の眼を見張らねばならぬ。從つて君臣の間、水魚の如しといふ場合は、殆ど絶無に近い。寛仁大度と評せられる漢の高祖すら、その功臣を殺戮して、身の安全を圖るといふ有樣である。所が獨り劉備と孔明との間は、水魚その儘であつた。こは劉備の至徳にもよるが、同時に孔明の誠忠にもよることと思ふ。
 それよりも一層感心に堪へぬのは、劉禪と孔明との關係である。劉備がその死に臨み、孔明に後事を託した時に、「嗣子可輔輔之。モシ其不可。君可自取」といひ、又劉禪に對しては、汝事丞相(孔明)如父と申渡して居る。劉禪時代に蜀の全權は、孔明一人の手に歸した。支那の國情では、かかる場合に權臣が臣節を完くすることが甚だ六ケ敷い。權臣自身は臣節を完くする積りでも、その周圍の者が許さぬ。北宋の太祖がその近衞の大將の石守信に對して、「麾下欲富貴。一旦有黄袍汝身。汝雖爲。其可得乎」と警戒したのは、支那の國情から觀て無理ならぬ警戒である。所謂主幼にして國疑ふ時代には、聖人と仰がれる周公すら、野心ありと流言を立てられたでないか。白樂天のいはゆる周公恐懼流言日とはそれである。然るに孔明に對しては、一度もかかる惡評が立たなかつた。かかる場合に處して、完全に臣節を盡し得た者は、支那では古今殆ど孔明一人と申してもよい位である。之が孔明の至誠忠義の人たる結果に外ならぬ。
 (※(ローマ数字2、1-13-22))公平無私
 『三國志』の著者陳壽は、孔明の政治振に就いて、次の如く評して居る。
諸葛亮之爲相國也。撫百姓儀軌。開誠心公道。盡忠益時者。雖讐必賞。犯法怠慢者。雖親必罰。……善無微而不一レ賞。惡無纖而不一レ貶。……刑政雖峻、而無怨者。以其用心平、而勸戒明也。
 この陳壽はもと蜀の人で、その父の時代から、種々の事情で、諸葛一家に對して、餘り好い感情をもたぬ筈の人であるから、寧ろ孔明を實際以上に貶しても、實際以上に褒めることのない人であるが、その陳壽の評にして右の如くである。
 孔明は必罰主義で隨分人を罰したが、決してそれ等の人々から怨を受けぬのみか、却つて心服されて居つた。それは彼に暖い涙があつたからである。彼は第一囘の北伐の時に、大將の馬謖バショクが彼の指揮に違背して敗軍した罪を正すべく、之を誅戮した。馬謖は孔明の尤も親愛した軍人で、馬謖自身も明公(孔明)視謖猶子、謖視明公父と申して居る。眞に父子同樣の間柄であつた。併し法の前には私情を容れぬ。孔明は馬謖の罪を正した後ち、泣いてその靈を祭り、又よくその遺族を保護した。
 孔明は又廖立といふ官吏を罪して、身分を平民に下げて、遠隔の地へ流謫した。又李平といふ兵糧方の總大將の不都合を責めて、この人をも流謫した。この二人は孔明の死を聞いて、何れも悲泣し、殊に李平の如きは、悲嘆の餘り、遂に病を發して死んだと傳へられて居る。此の如きは畢竟孔明の所置に一點の私心がなく、罰せられた者も得心して、罪に服したからである。
 『孟子』の盡心章上に、「以佚道使民。雖勞不怨。以生道人。雖死不殺者」と述べて居るが、その道理を事實の上で立證したものは孔明である。孔明によつて孟子の所説の眞理なることが證明される。政治の眞諦は古今同一である。今日わが國の政治家にも、この佚道と生道とを忘れぬ樣に心掛けて貰ひたいものと思ふ。
 (※(ローマ数字3、1-13-23))清廉寡欲
 『三國志』の諸葛亮傳に、
初亮自表後主(劉禪)曰。成都有桑八百株。薄田十五頃。子弟衣食。自有餘饒。……不別治生以長尺寸。若臣死之日。不使内有餘帛。外有贏財。以負陛下。及卒如其所一レ言。
と見えて居る。孔明は十餘年の間、蜀の全權を握つて居つた。發財蓄積意の儘である。たとひ彼自身進んで富を求めずとも、周圍から不知不識の裡に、富を齎らし易い。然も孔明の清廉右の如くである。孔明の如き清廉の人物は、廣く世界を見渡しても、餘り類多くなからうと思はれるが、殊に生命より財寶を大切にする程、利慾心の強い支那人の間に在つて、孔明の清廉は、一層の光輝を發揚する筈と思ふ。
(大正十二年四月二十一日乃至六月二十日大阪懷徳堂講演)

底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年12月12日公開
2004年2月20日修正
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