一

 初冬はつふゆ夜更よふけである。
 片山津かたやまづ(加賀)の温泉宿、半月館弓野屋ゆんのやの二階――だけれど、広い階子段はしごだんが途中で一段大きくうねってS形に昇るので三階ぐらいに高い――取着とッつきドアを開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝衣ねまきで薄ぼんやりとあらわれた。
 この、半ば西洋づくりのかまえは、日本間が二室ふたまで、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる柴山潟しばやまがたを見晴しの露台のあつらえゆえ、硝子戸がらすどと二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、渺々びょうびょうたる水面から、おのずから沁徹しみとおる。……
 いまと寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、
「おお、寒い。」
 えりから寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早くかわやへと思う急心せきごころに、向う見ずにドアを押した。
 押して出ると、不意にすごい音で刎返はねかえした。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。
 一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いたさまに床に寂しい。木目の節の、点々ぼつぼつ黒いのも鼠の足跡かと思われる。
 まことに、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき二十日はつか余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし昨日きのうにもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室ここ貴方あなたと、離室はなれの茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客がぜんの上の猪口ちょくをちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったらかろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、ことばいて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、とにべもなく引退ひきさがった。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気あっけに取られた。
 ……思えば、それも便宜たよりない。……
 さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下をのぞくとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間すきまとてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入はいっては、そッと爪尖つまさきめるので、変にスリッパがすべりそうで、足許あしもと覚束おぼつかない。
 かれは壁につかまった。
 てのひらがその壁の面に触れると、遠くで湯のしずくの音がした。
 聞きすますと、潟の水の、みぎわ蘆間あしまをひたひたと音訪おとずれる気勢けはいもする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車がこだまするように、ゴーと響くのは海鳴うみなりである。
 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切おりきった。
 どこにも座敷がない、あっても泊客とまりきゃくのないことを知った長廊下の、底冷そこびえのする板敷を、影の※(「彳+尚」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようように、我ながら朦朧もうろうとして辿たどると……
「ああ、この音だった。」
 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
 機械口がゆるんだままで、水が点滴したたっているらしい。
 その袖壁の折角おれかどから、何心なく中を覗くと、
「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたとあと退さがった。
 雪のような女が居て、姿見に真蒼まっさおな顔が映った。
 温泉いでゆの宿の真夜中である。

       二

 客は、なまじ自分のほかに、離室はなれに老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白鷺しらさぎに擦違ったように吃驚びっくりした。
 が、雪のようなのは、白いくびだ。……背後うしろむきで、姿見に向ったのに相違ない。の消えたその洗面所のまわりが暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、うたがいの幽霊を消しながら、やっぱり悚然ぞっとして立淀たちよどんだ。
 洗面所の壁のその柱へ、袖の陰がうっすりと、立縞たてじまの縞目が映ると、片頬かたほで白くさし覗いて、
「お手水ちょうず……」
 と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び悚然ぞっとして息を引く。……
「どうぞ、こちらへ。」
 と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。小褄こづまを取った手に、黒繻子くろじゅすの襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱あさぎが長くからまった、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、嬌娜しなやかである。
「いや知っています。」
 これで安心して、と寄りざまに、ななめに向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿もえん判然はっきりして、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐なつかしいまで、ほんのり人肌が、くうに来てまつわった。
 階段をった薄い霧も、この女の気を分けたかすかな湯の煙であったろうと、踏んだのはおしい気がする。
「何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい中年増ちゅうどしまだ。」
 手を洗って、ガタン、トンと、土間穿どまばきの庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッといたので、客はもう一度ハッとした。
 と小がくれて、その中年増がそこに立つ。
「これははばかり……」
「いいえ。」
 と、もう縞の小袖をしゃんと端折はしょって、昼夜帯を引掛ひっかけに結んだが、あか扱帯しごきのどこかが漆の葉のように、くれないにちらめくばかり。ものしずかな、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一重瞼ひとえまぶたの、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容子ようすのいい女で、色はただ雪をあざむく。
「しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。」
 と、懐中ふところ突込つっこんで来た、手巾ハンケチで手をくのを見て、
「あれ、貴方あなた……お手拭てぬぐいをと思いましたけれど、唯今ただいまお湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……」
「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」
「でも、貴方。」
「いや、結構、是非願います。」
 と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、引手繰ひったくるようにぐいと取った。
「まあ。」
「ばけもののする事だと思って下さい。丑満時うしみつどきで、刻限が刻限だから。」
 ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、なかば調戯からかうように、手どころか、するするとおもてを拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の膚馴はだなれて、やわらかになめらかである。
「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」
 と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、
「気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、唐突だしぬけだろう。」
 そのまま洗面所へ肩を入れて、
「思いも寄らない――それに、余り美しい綺麗きれいな人なんだから。」
 声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。
「ほんとうにきもつぶれたね。今思ってもぞッとする……別嬪べっぴんなのと、不意討で……」
「お巧言じょうずばっかり。」
 と、少し身を寄せたが、さしうつむく。
串戯じょうだんじゃありません。……(お手水……)の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。」
 大袈裟おおげさに聞えたが。……
「何とも申訳がありません。――時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に動橋いぶりばしへ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとはみんな年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」
 いまは櫛巻くしまき艶々つやつやしく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
女中おんな部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変化おばけでございますわね――ほんとうに。」
 とびんに手を触ったまままた俯向うつむく。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出会でっくわすのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」
 言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
「いまだに、胸がどきどきするね。」
 と、どうした料簡りょうけんだか、ありあわせた籐椅子とういすに、ぐったりとなってひじをもたせる。
「あなた、お寒くはございませんの。」
「今度は赫々かっかとほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」
「まあ……」

       三

「お澄さん……私は見事に強請ねだったね。――強請ったより強請ゆすりだよ。いや、この時刻だから強盗の所業わざです。しかし難有ありがたい。」
 と、枕だけねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、しからず恐悦している。
 客は、手をいてくれないでは、腰が抜けて二階へはあがれないと、串戯じょうだんを真顔で強いると、ちょっと微笑ほほえみながら、それでもしんから気の毒そうに、いやとも言わず、肩を並べて、階子段はしごだんを――あがるとうねりしなの寂しい白いに、顔がまた白く、つまが青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾度いくたびもあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの銚子ちょうしが、給仕はげたし、一人ではつまらないから、寝しなにあおろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり寐込ねこんだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。――お澄が念のため時間をいた時、懐中時計は二時半に少しがあった。
「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽くやわらかにすり抜けて、ひらきの口から引返す。……客に接しては、草履を穿かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵にはぜを釣落した苦き経験のある男が、今度はすずきを水際でにがした。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝子戸がらすどごしうみのぞいた。
 つらなわたる山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中にへりめぐらす、うみは、一面のおおいなる銀盤である。その白銀しろがねを磨いた布目ばかりの浪もない。目の下のみぎわなる枯蘆かれあしに、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊瑚珠さんごじゅのように見えて、その中から、瑪瑙めのうさんに似て、長く水面をはるかに渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干をめぐらした月の色と、露の光をうけるためのうてなのような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこにとざした雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なきともしびのもれるのであろう。
 鐘のも聞えない。
 潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船かかりか、※(「(厂+虎)+鳥」、第4水準2-94-36)かいつぶり[#「辟/鳥」、436-12]か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子ほくろに似ていた。
 冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、あり冬籠ふゆごもりに貯えたようなくだんのその一銚子ひとちょうし。――誰に習っていつ覚えた遣繰やりくりだか、小皿の小鳥に紙をおおうて、あおって散らないように杉箸すぎばしをおもしに置いたのを取出して、自棄やけに茶碗で呷った処へ――あの、跫音あしおとは――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「山家やまがですわね。」と胡桃くるみの砂糖煮。台十能だいじゅうに火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口のわきに、水屋のような三畳があって、瓶掛びんかけ、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――「旦那様の前ですけど、この二室ふたまが取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
「まあお一杯ひとつ。……お銚子が冷めますから、ここでおかんを。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの小酒こざかもり。北の海なる海鳴うみなりの鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅あたかの関は、このあたりから海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能美郡のみごおり片山津の、直侍なおざむらいとは、こんなものかと、客は広袖どてらの襟をでて、胡坐あぐらで納まったものであった。
「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷となりへ行ってしまわれるんだと思うと、なさけない気がするね。」
「いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」
「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」
「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」
「ああ、銃猟に――しぎかい、かもかい。」
「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもにばんをお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一百いっそく二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽があがりません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分おつきになります。」
「どこから来るんだね、遠方ッて。」
「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさるうちに、れました船頭が参りますと、小船二そうでお出かけなさるんでございますわ。」
「それは……対手あいては大紳士だ。」と客は歎息しておびえたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」
「貸座敷――女郎屋じょろやの亭主かい。おともはざっと幇間たいこもちだな。」
「あ、当りました、旦那。」
 と言ったが、軽く膝で手をって、
「ほんに、辻占つじうらがよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」
「お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この静寂しずかな霜の湖を船で乱して、こだま白山はくさんへドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽にちりばめようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」
 お澄は白い指をしごきつつ、うっかり聞いて顔を見た。
「――お澄さん、私は折入ってねえさんにお願いが一つある。」
 客は膝をきめて居直ったのである。

       四

 かれ稲田いなだ雪次郎と言う――宿帳の上をあらためて名を言った。画家である。いくたびも生死しょうしの境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。
 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命いのちの親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘もせがれも、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲をくらって、一時いっときに、一百いっそく二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切やりきれない。――深更よふけに無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭うちめさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、めて見ると言ったって、水のながれは留められるものではない。が、女の力だ。あなたのなさけだ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちにめさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈てはずを違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川かけはしがわで以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸たまひびきと一所に姿が横に消えると、さっと血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然ぞっとして震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請ねだったような料簡りょうけんではありません。真人間が、真面目まじめに、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児みなしごだが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌いはいを、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、おおき革鞄かばんの中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
 と言った。おもて白蝋はくろうのように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛まつげのまたたくとともに、とこに置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
 この、ものしずかなお澄が、あわただしく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段はしごだんを踏立てて、かかる夜陰をはばからぬ、音が静寂間しじま湧上わきあがった。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いたくだんの幇間とうなずかれる。白い呼吸いきもほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は。」
 ドアを開けた出会頭であいがしらに、爺やがそばに、供が続いて突立つったった忘八くつわの紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾きばやくびからさきへ突込つっこむ目に、何と、ねやの枕に小ざかもり、媚薬びやく髣髴ほうふつとさせた道具が並んで、生白なまじろけた雪次郎が、しまの広袖どてらで、微酔ほろよいで、夜具にもたれていたろうではないか。
 しょうの肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉うつせみの立つようなお澄は、呼吸いきも黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟らっこえり大外套おおがいとうの厚い煙に包まれた。
「いつもの上段のでございますことよ。」
 と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、ドア隣へ導くと、紳士の開閉あけたての乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。

       五

旦那だんなは――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中ごこうちゅうぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
 階子段はしごだん足踏あしぶみして、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜よなかの鷭だよ、トンとつけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏くいなだ、水鶏だ、トントントトン。」と下りてく。
 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞ひっそりした。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
 とはりから天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片こっぱでもない。――俺が汝等うぬらの手でつら溝泥どぶどろを塗られたのは夢じゃないぞ。このかッと開けた大きな目を見ろい。――よくもうぬ、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳はぶちぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡おうむがえしで、夜具にもたれて、両の肩をそびやかした。そして身構えた。
 が、そのまま何もなくバッタリんだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打むちうつ音が響く。チンチンチンチンと、かすかに鉄瓶の湯がたぎるような音がまじる。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐ちしおが噴くようで、すさまじい。
 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五たび廻った。――と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子がらすめた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚のぞかれた――と思う。……そのまま忍寄って、そっとその幕をひきなぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌めこみになっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈あらわに白く捻上ねじあげられて、半身の光沢つやのある真綿をただ、ふっくりとかかとまで畳に裂いて、二条ふたすじ引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結目むすびめを、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛のりかかって、忘八くつわの紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸ひばしで、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠ごうりゃくに、ひッつる肌に青い筋のうねるのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸いきさえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ阿魔あまだ。」
 と、その鉄火箸かなひばしを、今は突刺しそうに逆に取った。
 この時、階段の下から跫音あしおとが来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
 さまでの苦痛をこらえたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目がやすりのようについた。横顔でつっぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、びんのおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条ひとすじを、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
 かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間ほうかんが帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
 ドアから雪次郎がそっと覗くと、中段の処で、ひじを硬直に、帯の下の腰をおさえて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢けはいがしたか、ふいに真青まっさおな顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
 隣室には、しばらくいやしげに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
首途かどでに、くそ忌々いまいましい事があるんだ。どうだかなあ。さらけめて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」

       六

貴方あなた、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻さっきお勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖のおもてがほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧をいて動いた。船である。
 睡眠ねむりは覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿いのちながかれ、鷭よ。
 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨がこわばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄がしずかにそう言うと、からからとつりを手繰って、露台の硝子戸がらすどに、青い幕を深くおおうた。
 ねやの障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうとなって手をいた。
「私は懺悔ざんげをする、皆嘘だ。――画工えかきは画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄やけまぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌いはいに面目のあるような男じゃない。――その大革鞄おおかばんかりものです。※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかいの盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭をいたのは事実です。女郎屋じょろやの亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪をわせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船をがせて、湖の鷭を狙撃ねらいうちに撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等やつらの口うつしに言うらしい、その三頭もしゃくに障った。なにしろ、私の突刎つっぱねられたように口惜くやしかった。嫉妬ねたみだ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思ってこらえてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野のあざみです。路傍みちばたちりなんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品ひとしな。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親ふたおやがあるんだよ。」
「私にもございますわ。」
 とりんと言った。
 こぶしを握って、きっと見て、
「お澄さん、剃刀かみそりを持っているか。」
「はい。」
「いや、――食切くいきってくれ、その皓歯しらはで。……潔くあなたに上げます。」
 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児おさなごが乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛いたみは鋭かった。
 かれは大夜具を頭から引被ひっかぶった。
「看病をいたしますよ。」
 お澄は、胸白く、下じめのほかに血がにじむ。……繻子しゅすの帯がするすると鳴った。
大正十二(一九二三)年一月

底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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