あらすじ
三浦半島の海岸にある大崩壊と呼ばれる断崖絶壁は、古くから魔所として恐れられてきました。そこを通る旅人の小次郎法師は、茶店で奇妙な男に出会います。男は団子を泥で作ったと茶化す法師に、崖にある「子産石」を指し示し、その石こそが、自分にとって大切なものであると語ります。やがて、男の正体と、その石にまつわる奇怪な出来事が明らかになっていきます。
向うの小沢にじゃが立って、
八幡はちまん長者の、おと娘、
よくも立ったり、巧んだり。
手には二本のたまを持ち、
足には黄金こがねの靴を穿き、
ああよべ、こうよべと云いながら、
山くれ野くれ行ったれば…………

       一

 三浦の大崩壊おおくずれを、魔所だと云う。
 葉山一帯の海岸を屏風びょうぶくぎった、桜山のすそが、見もれぬけもののごとく、わだつみへ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子ずしから森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分ころ人死ひとじにのあるのは、この辺ではここが多い。
 一夏はげしい暑さに、雲の峰も焼いたあられのように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になってこぼれそうな日盛ひざかりに、これからいて出て人間になろうと思われる裸体はだかの男女が、入交いりまじりに波に浮んでいると、かっとただ金銀銅鉄、真白まっしろに溶けたおおぞらの、どこに亀裂ひびが入ったか、破鐘われがねのようなる声して、
「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。
 この呪詛のろいのために、浮べるやからはぶくりと沈んで、四辺あたり白泡しらあわとなったと聞く。
 また十七ばかり少年の、肋膜炎ろくまくえんを病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可恐おそろし身体からだを気にして、自分で病理学まで研究して、0,[#「,」は天地左右中央]などと調合する、朝夕ちょうせき検温気で度をはかる、三度の食事も度量衡はかりで食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩脛やせずね高端折たかはしょり跣足はだしでちょびちょび横歩行あるきで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、
「ああ、退屈だ。」
 とつぶやくと、頭上のがけ胴中どうなかから、異声を放って、
「親孝行でもしろ――」とわめいた。
 ために、その少年はいたく煩い附いたと云う。
 そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大崩壊おおくずれのぼるのを、土地の者が見着けると、百姓はくわ杖支つえつき、船頭はみよしに立って、下りろ、危い、と声を懸ける。
 実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬研やげん俯向うつむけに伏せたようで、またぐとあぶみの無いばかり。馬の背に立ついわお、狭く鋭く、くびすから、爪先つまさきから、ずかり中窪なかくぼに削った断崖がけの、見下ろすふもとの白浪に、揺落ゆりおとさるるおもいがある。
 さて一方は長者園のなぎさへは、浦の波が、しずかひらいて、せわしくしかも長閑のどかに、とりたたく音がするのに、ただ切立きったてのいわ一枚、一方は太平洋の大濤おおなみが、牛のゆるがごとき声して、ゆるやかにしかもすさまじく、うう、おお、とうなって、三崎街道の外浜に大うねりを打つのである。
 右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜若かきつばた咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆のかもめが舞い、沖を黒煙くろけむりの竜がはしる。
 これだけでもめくるめくばかりなるに、足許あしもとは、岩のそのつるぎの刃を渡るよう。取縋とりすがる松の枝の、海を分けて、種々いろいろの波の調べのかかるのも、人が縋れば根が揺れて、攀上よじのぼったあえぎもまぬに、汗をつめとうする風が絶えぬ。
 さればとて、これがためにその景勝をきずつけてはならぬ。大崩壊おおくずれいわおはだは、春は紫に、夏は緑、秋くれないに、冬は黄に、藤を編み、つたまとい、鼓子花ひるがおも咲き、竜胆りんどうも咲き、尾花がなびけば月もす。いで、紺青こんじょうの波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠がのみを施した、青銅の獅子ししおもかげあり。その美しき花の衣は、彼が威霊をたたえたる牡丹花ぼたんかかざりに似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄金こがね、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、き大自在の爪かと見ゆる。

       二

 修業中の小次郎法師が、諸国一見の途次みちすがら、相州三崎まわりをして、秋谷あきやの海岸を通った時の事である。
 くだん大崩壊おおくずれの海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途ゆくてに見渡す、街道ばたの――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、すだれに透かして描いたような、ちょっとした葭簀張よしずばりの茶店に休むと、うばが口の長い鉄葉ブリキ湯沸ゆわかしから、渋茶をいで、人皇にんのう何代の御時おんときかの箱根細工の木地盆に、装溢もりこぼれるばかりなのを差出した。
 床几しょうぎ在処ありかも狭いから、今注いだので、引傾ひっかたむいた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸になびいたが、それさえさっと涼しい風で、冷い霧のかかるような、法衣ころもの袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。
 さわやかな心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿のつなぎめを、押遣おしやって、
「千両、」とがぶりと呑み、
「ああ、うまい、これは結構。」と莞爾にっこりして、
「おいしいついでに、何と、それもうまそうだね、二ツ三ツ取って下さい。」
「はいはい、この団子でござりますか。これは貴方あなた、田舎出来で、沢山たんと甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も餡子あんこも、小米と小豆の一本でござります。」
 と小さな丸髷まげを、ほくほくもの、折敷おしきの上へ小綺麗に取ってくれる。
 扇子おうぎだけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツつまもうとした時であった。
「ヒイ、ヒイヒイ!」と唐突だしぬけに奇声を放った、濁声だみごえひぐらし一匹。
 法師が入った口とは対向さしむかい、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって前刻さっきから――胸をはだけた、手織じまの汚れた単衣ひとえに、ゆるんだ帯、煮染めたような手拭てぬぐいをわがねた首から、うなじへかけて、耳をおおうまで髪の伸びた、色の黒い、巌乗がんじょう造りの、身の丈抜群なる和郎わろ一人。目の光の晃々きらきらえたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしていたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをそのていは、いずれ界隈かいわい怠惰なまけものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚をきっして、和郎の顔と、折敷の団子を見くらべた。
串戯じょうだんではない、おばあさん、お前は見懸けに寄らぬ剽軽ひょうきんものだね。」
「何でござりますえ。」
「いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴土ねばつちこしらえたのじゃないのかい。」
「滅相なことをおっしゃりまし。」
 と年寄としよりは真顔になり、見上げじわ沢山たんと寄せて、
「何を貴方、勿体もない。わしもはい法然様ほうねんさま拝みますものでござります。吝嗇坊しわんぼうの柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。」
 真正直まっしょうじきに言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。
「何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は冗戯じょうだんだが、旅をすれば色々の事がある。駿州すんしゅうの阿部川もちは、そっくりしょうのものに木でこしらえたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、」
 と其方そなたを見た、和郎はきょとんと仰向あおむいて、烏もらぬに何じゃやら、しきりに空を仰いでござる。
唐突だしぬけに笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。」
「ええ、ええ、いいえ、お前様、」
 とこざっぱりした前かけのひざたたき、近寄って声をひそめ、
「これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、」
 と云って、独りでうばうなずいた。問わせたまわば、その仔細しさいの儀は承知の趣。

       三

 小次郎法師は、掛茶屋かけじゃやひさしから、そら蝙蝠こうもりを吹出しそうに仰向あおむいた、和郎わろつらななめに見って、
「そう、気違いかい。私はまたおうしででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。」
「お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。」
 うばは、罪とむくいを、且つ悟り且つあきらめたようなものいい。
「何か憑物つきものでもしたというのか、暮し向きの屈託とでもいう事か。」
 と言い懸けて、渋茶にまた舌打しながら、円い茶の子を口のはたへ持ってくと、さあらぬかたを見ていながら天眼通でもある事か、逸疾いちはやくぎろりと見附けて、
「やあ、石をかじりゃあがる。」
 小次郎再び化転けてんして、
「あんな事を云うよ、お婆さん。」
「悪い餓鬼じゃ。嘉吉かきちや、ぬしあ、もうあっちへかっしゃいよ。」
 その本体はかえって差措さしおき、砂地にった、朦朧もうろうとした影に向って、たしなめるように言った。
 潮は光るが、空は折から薄曇りである。
 法師もこれあるがために暗いような、和郎の影法師を伏目に見て、
「一ツ分けてやりましょうかね。団子が欲しいのかも知れん、それだと思いが可恐おそろしい。ほんとうに石にでもなると大変。」
食気くいけ狂人きちがいではござりませんに、御無用になさりまし。
 石じゃ、と申しましたのは、これでもいくらか、不断の事を、覚えていると見えまして、わしがいつでもお客様に差上げますのを知っておりまして、今のように云うたのでござりましょ。
 また埴土ねばつちの団子じゃ、とおっしゃってはなりません。このお前様。」
 と、法師の脱いで立てかけた、檜笠ひのきがさを両手に据えて、荷物の上へ直すついでに、目で教えたる葭簀よしずの外。
 さっくと削った荒造あらづくりの仁王尊が、引組ひっくさまいわ続き、海を踏んで突立つッたつ間に、さかさに生えかかった竹藪たけやぶ一叢ひとむら隔てて、同じいわおの六枚屏風びょうぶ、月にはあお俤立おもかげだとう――ちらほらと松も見えて、いろいろの浪をおどした、よろいの袖をしぶき[#「さんずい+散」、125-12]かざす。
「あれを貴下あなた、お通りがかりに、御覧ごろうじはなさりませんか。」
 と背向うしろむきになって小腰をかがめ、うばは七輪の炭をがさがさと火箸ひばしで直すと、薬缶やかんの尻が合点で、ちゃんと据わる。
「どの道貴下には御用はござりますまいなれど、大崩壊おおくずれ突端とっぱしにらみ合いに、出張っておりますあのいわを、」
 と立直って指をさしたが、片手は据え腰を、えいさ、と抱きつつ、
「あれ、あれでござります。」
 波が寄せて、あたかも風鈴が砕けた形に、ばらばらとその巌端いわばなうちかかる。
「あの、岩一枚、子産石こうみいしと申しまして、小さなのは細螺きしゃご碁石ごいしぐらい、頃あいの御供餅おそなえほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、平扁味ひらたみのあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。
 その平扁味な処が、恰好かっこうよく乗りますから、二つかさねて、お持仏なり、神棚へなり、お祭りになりますと、子の無い方が、いや、もう、年子にお出来なさりますと、申しますので。
 随分お望みなさる方が多うございますが、当節では、人がせせこましくなりました。お前様、蓆戸むしろどおさえにも持って参れば、二人がかりで、沢庵石にになって帰りますのさえござりますに因って、今が今と申して、早急には見当りませぬ。
 随分と御遠方、わざわざ拾いにござらして、力を落す方がござりますので、こうやって近間に店を出しておりますから、朝晩汐時しおどきを見ては拾っておきまして、お客様には、お土産かたがた、毎度婆々ばば御愛嬌ごあいきょうに進ぜるものでござりますから、つい人様が御存じで、葉山あたりから遊びにござります、書生さんなぞは、
(婆さん、子は要らんが、女親を一つ寄越よこせ。)
 なんて、おからかいなされまする。
 それを見い見い知っていて、この嘉吉の狂人きちがいが、いかな事、わしがあげましたものを召食めしあがろうとするのを見て、石じゃ、と云うのでござりますよ。」

       四

「それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。」
 と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石のかたのぞきたれば、面白や浪の、云うことも上の空。
 トお茶しましょうと出しかけた、塗盆ぬりぼんを膝に伏せて、ふと黙って、うばは寂しそうに傾いたが、
「何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。じじい殿と二人きりで、雨のさみしさ、行燈あんどうの薄寒さに、心細う、果敢はかないにつけまして、小児衆こどもしゅうを欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。
 長い月日の事でござりますから、里の人達は私等わしらが事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。」
 とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔にひそみも見えず、温順に莞爾にっこりして、
御新造様ごしんぞさまがおありなさりますれば、御坊様ごぼうさまにも一かさね、子産石を進ぜましょうに……」
「とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方勧化かんげでもしようけれど、あいにく三界に家なしです。
 しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたはさみしかろうね。」
「はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お追従ついしょうのようでござりますが、仏様は御方便、難有ありがたいことでござります。こうやって愛想気あいそっけもない婆々ばばとこでも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかやにぎやかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。
 ああ、もしもし、」
 と街道へ、
「休まっしゃりまし。」と呼びかけた。
 車輪のごときおおきさの、紅白段々だんだらの夏の蝶、河床かわどこは草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の脚絆きゃはん草鞋穿わらじばき、かすりの単衣ひとえのまくり手に、その看板の洋傘こうもりを、手拭てぬぐい持つ手に差翳さしかざした、三十みそぢばかりの女房で。
 あんぺら帽子を阿弥陀あみだかぶり、しま襯衣しゃつ大膚脱おおはだぬぎ、赤い団扇うちわを帯にさして、手甲てっこう甲掛こうがけ厳重に、荷をかついで続くは亭主。
 店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、束髪たばねがみびんそよいで、さきを急ぐか、そのまま通る。
 前帯をしゃんとした細腰を、ひさしにぶらさがるようにして、ほころびた脇の下から、狂人きちがいの嘉吉は、きょろりと一目。
 ふらふらと葭簀よしずを離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと跣足はだし砂路すなみち
 ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、附着くッついたが、女房のその洋傘こうもりからのしかかって見越みこし入道。
「イヒヒ、イヒヒヒ、」
「これ、悪戯いたずらをするでないよ。」
 と姥が爪立つまだってたしなめたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。
 あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、
「傘や洋傘こうもりの繕い!――洋傘こうもりがさ張替はりかえ繕い直し……」
 蝉の鳴くを貫いて、誰も通らぬ四辺あたりに響いた。
 すかさず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を真中まんなかへ振込むと、流眄しりめに一にらみ、直ぐ、急足いそぎあしになるあとから、和郎は、のそのそ――おおきな影を引いて続く。
御覧ごろうじまし、あの通り困ったものでござります。」
 法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白段々だんだら洋傘こうもりは、小さくまりのようになって、人のかしら入交いれまぜに、空へ突きながらくかと見えて、一条道ひとすじみちのそこまでは一軒の苫屋とまやもない、彼方かなた大崩壊の腰を、点々ぽつぽつ

       五

「あれ、あの大崩壊おおくずれの崖の前途むこうへ、皆が見えなくなりました。
 ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。唯今ただいま狂人きちがいが、酒に酔って打倒ぶったおれておりましたのは……はい、あれは嘉吉と申しまして、私等わしら秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。
 その飲んだくれます事、怠ける工合ぐあい、まともな人間から見ますれば、ほんに正気の沙汰さたではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れたやつではござりません。いつでも村の御祭礼おまつりのように、遊ぶが病気やまいでござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる酒問屋さかどいやへ、奉公をしたでござります。
 つい夏の取着とッつきに、御主人のいいつけで、清酒すみざけをの、お前様、沢山たんとでもござりませぬ。三樽みたるばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが上乗うわのりで、この葉山の小売みせへ卸しに来たでござります。
 葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、のっけてくらっせえ、明いてる船じゃ、と渡場わたしばでも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、いその松の根方から、おおいおおい、と板東声ばんどうごえで呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。
 どれもどれも、ろくでなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口はすべる、なぎはよし、大話しをし草臥くたぶれ、嘉吉めは胴のの横木を枕に、踏反返ふんぞりかえって、ぐうぐう高鼾たかいびきになったげにござります。
 路になだはござりませぬが、樽の香が芬々ぷんぷんして、たこも浮きそうな凪のさ。せめて船にでも酔いたい、と一人が串戯じょうだんに言い出しますと、何と一樽けまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えばい、面白い、るべいじゃ。
 煙管きせるの吸口ででも結構に樽へ穴を開けるてあいが、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱のあきはなしか、といびつなり切溜きりだめを、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきでめながら、まわしのみのあおっきり。
 天下晴れて、財布のひもを外すやら、胴巻を解くやらして、賭博なぐさみをはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。」
叱言こごとを云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船のかしらだね。」
 と真顔で法師の言うのを聞いて、うばは、いかさまな、その年少としわかで、出家でもしそうな人、とさもあわれんだ趣で、
「まあ、お人のい。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、きまり処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。」
「どうしたかね。」
「五人であいさいの目に並んでおります、真中まんなかへ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。」
 と莞爾にっこりして顔を見る。
 いささかもその意を得ないで、
「なぜだろうかね。」
「この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと海月くらげ泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。
 その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ御代みよなれや、と勿体ない、祝言の小謡こうたいを、聞噛ききかじりにうたう下から、勝負!とそれ、おあし取遣とりやり。板子の下が地獄なら、上も修羅道しゅらどうでござります。」
「船頭も同類かい、何の事じゃ、」
 と法師はあらたになみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。
「それはお前様、あのてあいと申しますものは、……まあ、海へ出て岸をば※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして御覧ごろうじまし。いわの窪みはどこもかしこも、賭博ばくちつぼに、あわびふたかにの穴でない処は、皆意銭あないちのあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、便船びんせんしょう、便船しょう、と船をなぎさへ引寄せては、巌端いわばなから、松の下から、飜然々々ひらりひらりと乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。」

       六

「魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳れても、磯近いそぢかへさきが廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様……体裁ていたらく
 山へあがったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の三番叟さんばそう、とうとうたらりたらりには肝をつぶして、(やい、此奴等こいつら、)とはずみに引傾ひっかたがります船底へ、仁王立にふみごたえて、わめいたそうにござります。
 騒ぐな。
 騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二と一両、貴様にかしのない顔はないけれど、主人のものじゃ。引負ひきおいをさせてまで、勘定を合わしょうなんど因業いんごうな事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても仔細しさいはない。
 なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。
 銭さえ払えばいとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭をにぎったこぶし向顱巻むかうはちまきの上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。
 嘉吉が、そこで、はい、を握って、ぎっちらこ。幽霊船のに取られたような顔つきで、漕出こぎだしたげでござりますが、酒のにおいに我慢が出来ず……
 御繁昌ごはんじょう旦那だんなから、一杯おみきを遣わされ、と咽喉のどをごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、とぎにかかる、と幾干いくらか差引くか、と念を推したげで、のう、ここらはたしかでござりました。
 幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。
 お手渡てわたしで下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか柄杓びしゃくを突出いて、どうどうと受けました。あの大面おおづらが、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その馬柄杓ばびしゃくのようなもので、片手で、ぐいぐいとあおったげな。
 酒は一樽打抜ぶちぬいたで、ちっとも惜気おしげはござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。
 帰命頂礼きみょうちょうらいさいころ明神の兀天窓はげあたま、光る光る、と追従ついしょう云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、櫓拍子ろびょうしが乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽がすわらぬ。
 ええ、気に入らずば代ってげさ、と滅多押しに、それでも、大崩壊おおくずれの鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。
 さあ、内海うちうみの青畳、座敷へ入ったもおんなじじゃ、と心が緩むと、嘉吉が、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手におあしを握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか柄杓びしゃくを持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。
 はて、河童かっぱ野郎、身投みなげするより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。
 取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持ってく、一樽のお代をみなにしました。処で、自棄やけじゃ、賽の目がとおに見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。
 船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。両膚脱りょうはだぬぎの胸毛や、大胡坐おおあぐらの脛の毛へ、夕風がさっとかかって、悚然ぞっとして、みんなが少し正気づくと、一ツ星も見えまする。大巌おおいわの崖が薄黒く、目の前へ蔽被おっかぶさって、物凄ものすごうもなりましたので、ふんどしめ直すやら、膝小僧ひざっこぞうを合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉をぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性たがわず気落きおちがして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。」

       七

仰向様あおのけざまに、火のような息を吹いて、身体からだから染出しみだします、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。
 やっこは、っても、叩いても、おきることではござりませぬがの。
 かかりあいのがれぬ、と小力こぢからのある男が、力を貸して、船頭まじりに、このてあいとてたしかではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二たるは、になって小売みせへ届けました。
 嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、死骸しがいではない、酔ったもの、めた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭はにげを打って、帆を掛けて、海のもやへと隠れました。
 どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の親許おやもとへ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、てこでも動かぬにこうじ果てて、すっぱすっぱ煙草たばこを吹かすやら、お前様、くしゃみをするやら、向脛むかはぎたかる蚊をかかと揉殺もみころすやら、泥に酔った大鮫おおざめのような嘉吉を、浪打際に押取巻おっとりまいて、小田原評定ひょうじょう。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車をきまして、藤沢から一日みち、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……」
 茜色あかねいろ顱巻はちまきを、白髪天窓しらがあたまにちょきり結び。結び目の押立おったって、威勢のいのが、弁慶がにの、濡色あかきはさみに似たのに、またその左の腕片々かたかた、へし曲って脇腹へ、ぱツとけ、ぐいと握る、指とてのひらは動くけれども、ひじ附着くッついてちっとも伸びず。あかがねで鋳たような。……その仔細しさいを尋ぬれば、心がらとは言いながら、さんぬる年、一ぜん飯屋でぐでんになり、冥途めいどの宵を照らしますじゃ、とろくでもない秀句を吐いて、井桁いげたの中に横木瓜もっこう、田舎の暗夜やみには通りものの提灯ちょうちんを借りたので、蠣殻道かきがらみちを照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、つちが崩れそうなひょろひょろ歩行あるき。い心持に眠気がさすと、邪魔なあかりひじにかけて、腕を鍵形かぎなりに両手を組み、ハテ怪しやな、おのれ人魂ひとだまか、金精かねだまか、正体をあらわせろ! とトロンコの据眼すえまなこで、提灯を下目ににらむ、とぐたりとなった、並木の下。地虫のようないびきを立てつつ、大崩壊に差懸さしかかると、海が変って、太平洋をあおる風に、提灯のろうが倒れて、めらめらと燃えついた。沖の漁火いさりびを袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだはええ、と鬼と組んだ横倒れ、転廻ころがりまわって揉消もみけして、生命いのちに別条はなかった。が、その時の大火傷おおやけど、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ不具かたわもの――渾名あだなを、てんぼうがに宰八さいはちと云う、秋谷在の名物親仁おやじ
「……わしじじい殿でござります。」
 とうばは云って、微笑ほほえんだ。
 小次郎法師は、寿ことぶくごとく、一揖いちゆうして、
「成程、じょう殿だね。」と祝儀する。
「いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、おかげさまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、進退かけひきいやじゃ、とのう、葉山を越して、日影から、田越逗子たごえずしの方へ、遠くまで、てんぼうの肩に背負籠しょいかごして、栄螺さざえや、とこぶし、もろあじの開き、うるめいわしの目刺など持ちましては、飲代のみしろにいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の鶴谷つるや喜十郎様、」
 と丁寧に名のりを上げて、
「これがわしども、おしゅ筋に当りましての。そのおやしきの御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
 一月に一度ぐらいは、種々いろいろ入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは洋燈ランプの心まで、一車ひとくるまずつ調えさっしゃります。
 横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、界隈かいわいは間に合わせのにわか仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても目量めかたのある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、」
 と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
 しばらく往来もなかったのである。

       八

「……おう、宰八か。おじい、在所へ帰るだら、これさ一個ひとつ産神様うぶすなさまへ届けてくんな。ちょうどはい、その荷車はさいわいだ、と言わっしゃる。
 見ると、お前様、嘉吉めが、今申したそのていでござりましょ。
 おんなじ産神様氏子うじこ夥間なかまじゃ。承知なれど、わしはこれ、手がこの通り、思うように荷が着けられぬ。御身おみたちあんばいよう直さっしゃい、荷の上へせべい、とじじいどのが云いますとの。
 あにい、そのまま上へ積まっしゃい、と早や二人して、嘉吉めが天窓あたまと足を、引立てるではござりませぬか。
 爺どのが、待たっしゃい、鶴谷様のお使いで、綿をいかいこと買うて来たが、醤油樽や石油缶の下積になっては悪かんべいと、上荷に積んであるもんだ。喜十郎旦那がとこで、ふっくりと入れさっしゃる綿の初穂へ、その酒浸しの怪物ばけものさ、おっころばしては相成んねえ、柔々やわやわ積方も直さっしゃい、と利かぬ手のこぶしを握って、一力味ひとりきみ力みましけ。
 七面倒な、こうすべい、と荒稼ぎの気短徒きみじかてあいじゃ。お前様、うわかがりの縄の先を、嘉吉が胴中どうなかゆわへ附けて、車の輪に障らぬまでに、横づけに縛りました。
 賃銭の外じゃ、落しても大事ない。さらば急いで帰らっしゃれ。しゃんしゃんと手をたたいて、賭博ばくちに勝ったものも、負けたものも、飲んだ酒と差引いて、誰も損はござりませぬ。い機嫌のそそり節、尻までまくったすねの向く方へ、ぞろぞろと散ったげにござります。
 爺どのは、どっこいしょ、と横木に肩を入れ直いて、てんぼうの片手押しは、胸が力でござります。人通りが少いで、露にひろがりました浜昼顔の、ちらちらと咲いた上を、ぐいとひき出して、それから、がたがた。
 大崩おおくずれまで葉山からは、だらだらの爪先上つまさきあがり。後はなぞえに下り道。車がはずんで、ごろごろと、わしがこの茶店の前まで参った時じゃ、と……申します。
 やい、枕をくれ、枕をくれ、と嘉吉めがわめくげな。
 何ぬかすぞい、この野郎、贅沢ぜいたくべいこくなてえ、狐店きつねみせの白ッ首と間違えてけつかるそうな、とぶつぶつ口叱言くちこごとを申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐんいたと思わっしゃりまし。」
「何か、夢でも見たろうかね。」
「夢どころではござりますか、お前様、直ぐにしめ殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、天窓あたまを上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、がば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。
 胴中の縄がゆるんで、天窓がつちへ擦れ擦れに、さかさまになっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての苦悩くるしみ
 酒がのぼって、めずにいたりゃ本望だんべい、わしら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引[#「引」は小書き]と火を吹きそうにわめいた、とのう。
 この中ではござりませぬ、」
 と姥は葭簀よしずの外を見て、
ひさしの蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、うるし見たような高いまげからはずさっせえまして、真白まっしろなのを顔に当てて、団扇うちわ衣服きものを掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、すその薄あおい、悚然ぞっとするほど美しらしいお人が一方。
 すらすら道端へ出さっせての、
(…………)
 爺どのを呼留めて、これは罪人か――と問わしつけえよ。
 食物くいもの代物しろものも、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へくわえさしった。
 その時は、爺どのの方へせなかを向けて、顔をこうはすっかいに、」
 と法師から打背うちそむく、とおもかげのその薄月の、婦人おんなの風情を思遣おもいやればか、葦簀よしずをはずれた日のかげりに、姥のうなじが白かった。
 荷物の方へ、するすると膝を寄せて、
「そこで?」
「はい、両手を下げて、白いその両方のてのひらを合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目のやぼねあたりで、上へささげて持たっせえた。おもみがかかったか、姿を絞って、肩がほっそりしましたげなよ。」

       九

「介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。
 その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。打棄うっちゃっておかっせえ。面倒臭い、と顱巻はちまきしめた頭をって云うたれば、どこまでく、と聞かしっけえ。
 途中さまざまのひまざえで、じじいどのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、俺等わしら産神うぶすなへ届け物だ、とずッきり饒舌しゃべると、
(受取りましょう、ここでいから。)
(お前様は?)
(ああ、明神様の侍女こしもとよ。)と言わっしゃった。
 月に浪がかかりますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの葦簀よしずの蔭が、格子じまのように御袖へ映って、雪のはだまで透通って、四辺あたりには影もない。中空を見ますれば、白鷺しらさぎの飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。
 爺どのは悚然ぞっとして、はい、はい、と柔順すなおになって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。貴女あなたもたげた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。
 足をばたばたの、手によいよい、やぼねはずしそうにもがきますわの。
(ああ、お前はもういから。)邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ……
 何の、心外がらずともの、いけずな親仁おやじでござりますがの、ほほ、ほほ。」
「いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと邪慳じゃけんに取扱ったようで、対手あいてがその酔漢よいどれいたわるというだけに、黙ってはおられません。何だか寝覚ねざめが悪いようだね。」
「ええ、串戯じょうだんにも、氏神様うじがみさま知己ちかづきじゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の同一おなじ孫児まごこを、継子ままこ扱いにしましたようで、貴女あなたへも聞えが悪うござりますので。
 綿の上積うわづみ[#ルビの「うわづみ」は底本では「うわずみ」]一件から荷にやっこを縛ったは、じいどのが自分したことではない事を、言訳がましく饒舌しゃべりますと、(可いから、お前はあっちへ、)と、こうじゃとの。
かあねえだ。もの、理合りあいを言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お知己ちかづきなら聞かっしゃい。老耆おいぼれてんぼうじじいに、若いものの酔漢よいどれ介抱やっかいあに、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い思召おぼしめしで、何でこれ、私等わしら婆様の中に、小児こども一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら断念あきらめべいが、提灯ちょうちん火傷やけどをするのを、何で、黙って見てござった。わしてんぼうでせえなくば、おなじ車にゆわえるちゅうて、こう、けんどんに、さかしまにゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えらわしが非道なようで、寝覚が悪い、)と顱巻はちまき掉立ふりたてますと、のう。
(早く、お帰り、)と、継穂がないわの。
(いんにゃ、理を言わねえじゃ、)とまだ早や一概にねようとしましたら……
(おいでよ、)と、お前様ね。
 団扇うちわで顔を隠さしったなり。背後うしろへ雪のような手をのばして、荷車ごとじいどのを、推遣おしやるようにさっせえた。お手の指が白々と、こうやぼねの上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、じじいどののせなかへ、荷車が、乗被のっかぶさるではござりませぬか。」
「おおおお、」
 と、法師は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって固唾かたずを呑む。
吃驚びっくり亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分のいた荷車に、がらがら背後うしろから押出されて、わい、というたぎり、一呼吸ひといきに村の取着とッつき、あれから、この街道がなべづるなりに曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。
 もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、むこうへ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、そのはやいこと。一なだれにすべったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。
 見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。」

       十

「利かぬ気の親仁おやじじゃ、お前様、月夜の遠見に、まとったものの形は、葦簀張よしずばりの柱の根をおさえて置きます、お前様の背後うしろの、その※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)いしころか、わしが立掛けて置いて帰ります、この床几しょうぎの影ばかり。
 大崩壊おおくずれまで見通しになって、貴女あなたの姿は、蜘蛛巣くものすほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附着くッついて、薄墨引いた草の上を、跫音あしおとを盗んで引返ひっかえしましたげな。
 嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、じじいどの了簡りょうけんでござります。
 荷車はの、明神様石段の前をけば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦道あぜみちが在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気もおだやかなり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同一おなじじゃで、誰も手のはござりませぬで。
 爺どのは、うようにして、身体からだを隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天窓あたまと、顱巻はちまき茜色あかねいろが月夜に消えるか。ぬしゃそこで早や、貴女あなたの術で、きながらはさみあかい月影のかにになった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、けやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
 笑うてやらっしゃりませ。いけ年をつかまつって、貴女が、ね、とおっしゃったをせばいことでござります。」
 法師はかくと聞いて眉をひそめ、
「笑い事ではない。何かお爺様じいさんに異状でもありましたか。」
「お目こぼしでござります、」
 と姥は謹んだ、顔色かおつきして、
「爺どのはおかげと何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。」
「じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。」
「それも心がらでござります。はじめはお前様、貴女あなたが御親切に、勿体ない……お手ずからかおりの高い、水晶をみますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手おけから、」……
 と姥は見返る。捧げた心か、葦簀よしずに挟んで、常夏とこなつの花のあるがもとに、日影涼しい手桶が一個ひとつ、輪の上に、――大方その時以来であろう――注連しめを張ったが、まだ新しい。
「水もんで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人のとこへ帰れずば、これをしろに言訳して、と結構な御宝を。……
 それがお前様、真緑まみどりの、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
 爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目をそっと出して、見た時じゃったと申します。
 こう、貴女がお持ちなさりました指のさきへ、ほんのりとあおく映って、白いお手の透いた処は、おおきな蛍をおつまみなさりましたようじゃげな。
 貴女のお身体からだ附属ついていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉がさいころを振るてのひらの中へ、消えましたとの。
 それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯向うつむいて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、おぐしの黒い、前の方へ、軽くかんざしをおさしなされて、お草履か、雪駄せったかの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女浪めなみのように歩行あるかっしゃる。
 これでまた爺どのは悚然ぞっとしたげな。のう、いかな事でも、明神様の知己ちかづきじゃ言わしったは串戯じょうだんで、大方は、葉山あたりの誰方どなたのか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
 今かっしゃるのは反対あべこべに秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
 嘉吉のやつがの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠はつかむ、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩行あるかっしゃるで、機織場はたおりばねえやがとこへ、夜さり、畦道あぜみちを通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、はては増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背後うしろから抱きつきおる。
 爺どのは冷汗いたげな。や、それでも召もののすそに、草鞋わらじひっかかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまにかっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、」
しからん事を――またしたもんです。」
 と小次郎法師は苦り切る。

       十一

 うばは分別あり顔に、
「一目見たら、その御容子ようすだけでなりと、分りそうなものでござります。
 貴女あなたが神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩をこうむったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。
 根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、一夜酒ひとよざけが沸いたようなやっこ殿じゃ。すすきも、あしも、女郎花おみなえしも、見境みさかいはござりませぬ。
 髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋のあねえに、やぶの前で、牡丹餅ぼたもち半分分けてもろうた了簡りょうけんじゃで、のう、食物たべものも下されば、おなさけも下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。
 弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お鬱陶うっとしい。
 通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、ひでりに枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、」
 姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった――
きその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、馬車うまくるまこそ通いませぬけれども、わしなどは夜さり店をしまいますると、お菓子、水菓子、商物あきないものだけを風呂敷包、ト背負しょいいまして、片手に薬缶やかんを提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。
 貴女はそこへ。……お裾がなびいた。
 これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。
 きっと振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が飜然ひらりかえって、ななめに浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。
 きゃっ!と云うとはね返って、道ならものの小半町、膝とかかとで、抜いた腰を引摺ひきずるように、その癖、怪飛けしとんでげて来る。
 爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ!で転倒てんどうして、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を頭突ずつきに来るように、ドンと嘉吉が打附ぶつかったので、両方へ間を置いて、この街道の真中まんなかへ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。
 二人とも尻餅じゃ。
(ど、どうした野郎、)と小腹も立つ、爺どのが恐怖紛おっかなまぎれに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、としたがんの見据えて、わしが爺の宰八の顔をじろり。
(ば、ば、ば、)
(ええ!)
怪物ばけもの!)と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十足とあしばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。
 爺どのは二度吃驚びっくりちかけた膝がまたがっくりと地面じべたへ崩れて、ほっと太い呼吸いきさついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて――寂然しんとして、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫がを立てると、露がこぼれますような、い声で、そして物凄ものすごう、
(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ。
 天神さんの細道じゃ、
       細道じゃ。
 少し通して下さんせ、下さんせ。)
 とあわれに寂しく、貴女の声で聞えました。
 その声が遠くなります、山の上を、薄綿で包みますように、雲が白くかかりますと、音が先へ、あ――とたよりない雨が、海の方へ降って来て、お声は山のうらかけて、遠くなってきますげな。
 前刻さっき見たの毛の雲じゃ、一雨来ようと思うた癖に、こりゃ心ない、荷が濡れよう、と爺どのは駆けて戻って、がッたり車を曳出ひきだしながら、村はずれの小店からまず声をかけて、嘉吉めを見せにやります。
 何か、その唄のお声が、のう、十年五十年も昔聞いたようにもあれば、こう云う耳にも、響くと云います。
 遠慮すると見えまして、余りくわしい事は申しませぬが、嘉吉はそれから、あの通り気が変になりました。
 さあ、界隈かいわいは評判で、小児こどもどもが誰云うとなく、いつの間やら、その唄を……」

       十二

(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ。
 秋谷やしきの細道じゃ、
       細道じゃ。
 少し通して下さんせ、
       下さんせ。
 誰方どなたが見えても通しません、
       通しません。)
「あの、こう唄うのではござりませんか。
 当節は、もう学校で、かあかあからすが鳴く事の、池のこいを食う事の、と間違いのないお前様、ちゃんと理の詰んだ歌を教えさっしゃるに、それを皆が唄わいで、今申した――
(ここはどこの細道じゃ、
 秋谷邸の細道じゃ。)
 とあわれな、寂しい、細い声で、口々に、小児こども同士、顔さえ見れば唄い連れるでござりますが、近頃は久しい間、打絶えて聞いたこともござりませぬ――この唄を爺どのがその晩聞かしった、という話以来このかた、――誰云うとなく流行はやりますので。
 それも、のう元唄は、
(天神様の細道じゃ、
 少し通して下さんせ、
 御用のない人通しません、)
 確か、こうでござりましょう。それを、
(秋谷邸の細道じゃ、
 誰方が見えても通しません、
        通しません。)
 とひとりでに唄います、の。まだそればかりではござりません。小児こどもたちが日の暮方、そこらを遊びますのに、いやな真似を、まあ、どうでござりましょう。
 てんでんが芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、153-3]の葉をぎりまして、目の玉二つ、口一つ、穴を三つ開けたのを、ぬっぺりと、こう顔へかぶったものでござります。おおきいのから小さいのから、その蒼白あおじろい筋のある、細ら長い、狐とも狸とも、姑獲鳥うぶめ、とも異体の知れぬ、中にも虫喰のござります葉の汚点しみは、かったいか、痘痕あばたの幽霊。つらを並べて、ひょろひょろと蔭日向かげひなたやぶの前だの、谷戸口やとぐちだの、山の根なんぞを練りながら今の唄を唄いますのが、三人と、五人ずつ、一組や二組ではござりませんで。
 悪戯いたずらこうじて、この節では、唐黍とうもろこしの毛の尻尾しっぽを下げたり、あけびを口にくわえたり、茄子提灯なすびぢょうちん闇路やみじ辿たどって、日が暮れるまでうろつきますわの。
 気になるのは小石を合せて、手ん手に四ツ竹を鳴らすように、カイカイカチカチと拍子を取って、唄が段々身に染みますに、みんなうち散際ちりぎわには、一人がカチカチ石を鳴らして、
(今打つ鐘は、)
 と申しますと、
(四ツの鐘じゃ、)
 と一人がカチカチ、五ツ、六ツ、九ツ、八ツと数えまして……
(今打つ鐘は、
 七ツの鐘じゃ。)
 と云うのを合図に、
(そりゃ魔がすぞ!)
 とどっはやして、消えるように、残らず居なくなるのでござりますが。
 何ともいやな心持で、うそ寂しい、ちょうど盆のお精霊様しょうりょうさまが絶えずそこらを歩行あるかっしゃりますようで、気の滅入めいりますことと云うては、穴倉へ引入れられそうでござります。
 活溌な唱歌を唄え。あれは何だ、と学校でも先生様が叱らしゃりますそうなが、それでめますほどならばの、学校へく生徒に、蜻蛉とんぼう釣るものもりませねば、木登りをする小僧もないはず――一向に留みませぬよ。
 内は内で親たちが、厳しく叱言こごとも申します。気の強いのは、おのれ、凸助でこすけ……いや、鼻ぴっしゃり、芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、154-12]の葉の凹吉ぼこきちめ、細道で引捉ひッつかまえて、張撲はりなぐってこらそう、と通りものを待構えて、こう透かして見ますがの、背の高いのから順よく並んで、同一おなじような芋※[#「くさかんむり/更」、154-13]の葉をかぶっているけに、ものの縞柄しまがらも気のせいか、逢魔おうまが時にぼうとして、庄屋様の白壁に映して見ても、どれが孫やら、せがれやら、小女童こめろやら分りませぬ。
 おなじように、憑物つきものがして、魔に使われているようで、手もつけられず、親たちがうろうろしますの。村方一同寄るとさわると、立膝に腕組するやら、平胡坐ひらあぐら頬杖ほおづえつくやら、変じゃ、希有けうじゃ、何でもただ事であるまい、と薄気味を悪がります。
 中でも、ほッと溜息ためいきついて、気に掛けさっしゃったのが、鶴谷喜十郎様。」
 と丁寧に、また名告なのって、うば四辺あたりを見たのである。

       十三

 さて十年の馴染なじみのように、擦寄って声をひそめ、
童唄わらべうたを聞かっしゃりまし――(秋谷やしきの細道じゃ、誰方が見えても通しません)――と、の、それ、」
 小次郎法師のうなずくのを、合点させたり、とじっと見て、うばはやがて打頷うちうなずき、
「……でござりましょう。まず、この秋谷で、邸と申しますれば――そりゃ土蔵、白壁造しらかべづくりかわら屋根は、御方一軒ではござりませぬが、太閤様たいこうさまは秀吉公、黄門様は水戸様でのう、邸は鶴谷に帰したもの。
 ところで、一軒は御本宅、こりゃ村の草分でござりますが、もう一軒――喜十郎様が隠居所にお建てなされた、御別荘がござりましての。
 お金は十分、通い廊下に藤の花をさかしょうと、西洋窓に鸚鵡おうむを飼おうと、見本はき近い処にござりまして、思召おぼしめし通りじゃけれど、昔気質かたぎの堅い御仁ごじん、我等式百姓に、別荘づくりは相応ふさわしからぬ、とついこのさきの立石たていし在に、昔からの大庄屋が土台ごと売物に出しました、瓦ばかりも小千両、大黒柱が二抱え。平家ながら天井が、高い処に照々きらきらして間数まかず十ばかりもござりますのを、牛車うしぐるまに積んで来て、背後うしろおおきな森をひかえて、黒塗くろぬりの門も立木の奥深う、巨寺おおでらのようにお建てなされて、東京の御修業さきから、御子息の喜太郎様が帰らっしゃりましたのに世を譲って、御夫婦一まず御隠居が済みましけ。
 去年の夏でござりますがの、喜太郎様が東京で御贔屓ひいきにならしった、さる御大家の嬢様じゃが、夏休みに、ぶらぶらやまいの保養がしたい、と言わっしゃる。
 海辺はにぎやかでも、馬車が通ってほこりが立つ。閑静な処をお望み、間数は多しあつらえ向き、隠居所を三間ばかり、腰元も二人ぐらい附くはずと、御子息から相談をたっしゃると、隠居と言えば世を避けたも同様、また本宅へ居直るも億劫おっこうなり、年寄としよりと一所では若い御婦人の気がつまろう。若いものは若い同士、本家の方へお連れ申して、土用正月、歌留多うたがるたでも取って遊ぶがい、嫁もさぞ喜ぼう、と難有ありがたいは、親でのう。
 そこで、そのお嬢様に御本家の部屋を、幾つか分けて、貸すことになりましけ。ある晩、腕車くるまでお乗込み、天上ぬけにうつくしい、と評判ばかりで、私等わしらついぞお姿も見ませなんだが、下男下女どもにも口留めして、かくさしったも道理じゃよ。
 その嬢様は落っこちそうなお腹じゃげな。」
「むむ、はらんでいたかい。そりゃしからん、その息子というのが馴染なじみではないのかね。」
「御推量でございます、そこじゃ、お前様。見えて半月ともちませぬに、えらい騒動が起ったのは、喜太郎様の嫁御がまた臨月じゃ。
 御本家に飼殺しの親爺おやじ仁右衛門、渾名あだな苦虫にがむし、むずかしい顔をして、御隠居殿へ出向いて、まじりまじり、煙草たばこひねって言うことには、(ハイ、これ、昔から言うことだ。二人一斉いっときに産をしては、後か、さきか、いずれ一人、相孕あいばらみ怪我けががござるで、分別のうてはなりませぬ、)との。
 喜十郎様、凶年にもない腕組をさっせえて、(善悪よしあしはともかく、内の嫁が可愛いにつけ、余所よその娘の臨月を、出てけとは無慈悲で言われぬ。ただしひさしを貸したものに、母屋おもやを明渡して嫁を隠居所へ引取る段は、先祖の位牌いはいへ申訳がない。私等わしらが本宅へ立帰って、その嬢様にはこの隠居所を貸すとしよう)――御夫婦、黒門を出さしったのが、また世に立たっしゃる前表かの。
 鶴谷は再度、御隠居の代になりました。」
「息子さんは不埒ふらちが分って勘当かい。」
「聞かっせえまし、喜太郎様は亡くなりましたよ。前後あとさきへ黒門から葬礼おとむらいが五つ出ました。」
「五つ!」
「ええ、ええ、お前様。」
「誰と誰と、ね?」
「はじめがその出養生でようじょうの嬢様じゃ。これが産後でおいとしゅうならしった。大騒ぎのすぐあと、七日目に嫁御がお産じゃ。
 汐時しおどきが二つはずれて、朝六つから夜の四つ時まで、苦しみ通しの難産でのう。
 村中は火事場の騒ぎ、御本宅はしんとして、御経の声やら、しわぶきやら……」

       十四

「占者がを立てて、こりゃ死霊しりょうたたりがある。この鬼に負けてはならぬぞ。この方から逆寄さかよせして、別宅のその産屋うぶやへ、守刀まもりがたな真先まっさきに露払いで乗込めさ、と古袴ふるばかま股立ももだちを取って、突立上つッたちあがりますのにいきおいづいて、お産婦をしとねのまま、四隅と両方、六人の手でそっいて、釣台へ。
 お先立ちがその易者殿、御幣ごへいを、ト襟へさしたものでござります。筮竹ぜいちくの長袋をまえ半じゃ、小刀のように挟んで、馬乗提灯うまのりぢょうちんの古びたのに算木をあらわしましたので、黒雲のおっかぶさった、蒸暑いあぜてらし、大手をって参ります。
 嫁入道具に附いて来た、藍貝柄あおがいえ長刀なぎなたを、柄払つかばらいして、仁右衛門親仁が担ぎました。真中まんなかへ、お産婦の釣台を。そのわきへ、喜太郎様が、帽子シャッポかぶりで、あおくなって附添った、背後うしろへ持明院の坊様がの衣じゃ。あとから下男下女どもがぞろぞろときました。取揚婆とりあげばあ[#「婆」は底本では「姿」]さんはさきへ早や駆抜けて、黒門のお部屋へ産所の用意。
 途中、何とも希有けうな通りものでござりまして、あの蛍がまたむらむらと、蠅がなぶるように御病人の寝姿にたかりますと、おなじ煩うても、美しい人の心かして、夢中で、こう小児こどものように、手で取っちゃ見さしっけ。
 上へ手を上げさっしゃるのも、御容体を聞くにつけ、空をつかんでもだえさっしゃるようで、目も当てられぬ。
 それでも祟りに負けるなと、言うて、一生懸命、仰向あおむかしった枕をこぼれて、さまでせも見えぬ白い頬へかかる髪の先を、しっかり白歯でましったが、お馴染なじみじゃ、わしやぶの下でまちつけて、御新造様ごしんぞさましっかりなさりまし、と釣台にすがったれば、アイと、細い声で云うて莞爾にっこりと笑わしった。橋を渡って向うへ通る、やみの晩の、はんの木の下あたり、蛍の数の宙へいかいことちらちらして、常夏とこなつの花のおもかげつのが、貴方あなたの顔のあたりじゃ、と目をつぶって、おめでたを祈りましたに……」
 声も寂しゅう、
「お寺の鐘が聞えました。」
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、」
「お可哀相に、初産ういざんで、その晩、のう。
 いやな事でござります。黒門へ着かしって、産所へ据えよう、としますとの、それ、出養生の嬢様の、お産の床と同一おんなじじゃ。(ああ、青い顱巻はちまきをした方が、寝てでござんす、ちっとわきへ)と……まあ、難産の嫁御がそう言わしっけ。
 其奴そいつに、負けるな、押潰おッつぶせ、と構わずしとねを据えましたが、夜露を受けたが悪かったか、もうお医者でも間に合わず。
(あなたも。……口惜くやしい、)と恍惚うっとりして、枕にひしとくいつかしって、うむと云うが最期で、の、身二ツになりはならしったが、産声も聞えず、両方ともそれなりけり。
 余りの事に、取逆上とりのぼせさしったものと見えまして、喜太郎様はその明方、裏の井戸へ身を投げてしまわしった。
 井戸がえもしたなれど、不気味じゃで、誰も、はい、その水を飲みたがりませぬ処から、井桁いげたも早や、青芒あおすすきにかくれましたよ。
 七日に一度、十日に一度、仁右衛門親仁や、わしがとこの宰八――わかいものははじめから恐ろしがってよっつきませぬで――年役に出かけては、雨戸を明けたり、引窓を繰ったり、日も入れ、風も通したなれど、この間のその、のう、嘉吉が気が違いました一件の時から、いい年をしたものまで、黒門を向うの奥へ、木下闇このしたやみのぞきますと、足がすくんで、一寸も前へ出はいたしませぬ。
 かんざしの蒼い光ったたまも、大方蛍であろう、などと、ひそひそ風説うわさをします処へ、芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、160-11]の葉に目口のある、小さいのがふらふら歩行あるいて、そのお前様、
(秋谷邸の細道じゃ、
 誰方が見えても……)[#底本では4字下げ]
 でござりましょう。人足ひとあしが絶えるとなれば、草が生えるばっかりじゃ。ハテ黒門の別宅は是非に及ばぬ。秋谷邸の本家だけは、人足が絶やしとうないものを、どうした時節か知らぬけれど、鶴谷の寿命が来たのか、と喜十郎様は、かさねがさねおつむりが真白まっしろで。おふくろ様もいお方、おいとしい事でござります。
 おお、おお、つい長話になりまして、そちこち刻限、ああ、可厭いやな芋※[#「くさかんむり/更」、160-11]の葉が、唄うて歩行あるく時分になりました。」
 と姥は四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわした。浪の色が蒼くなった。
 寂然しんとして、はては目をつむって聞入った旅僧は、夢ならぬ顔を上げて、葭簀よしずから街道の前後あとさきながめたが、日脚を仰ぐまでもない。
「身に染む話に聞惚ききとれて、人通りがもう影法師じゃ。世の中には種々いろいろな事がある。お婆さん、おかげ沢山たんと学問をした、難有ありがとう、どれ……」

       十五

「そして、御坊様は、これからどこまでかっしゃりますよ。」
 包を引寄せる旅僧に連れて、うばも腰を上げて尋ねると、
「鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山であかりこう。
 おお[#「 おお」は底本では「おお」]、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらとが見える。」
「よう御存じでござりますの。」
「まだ俗のうちに知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。
 修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、」
 と打微笑うちほほえみ、
「鎌倉まできましょうよ。」
「それはそれは、御不都合な、つい話に実がりまして、まあ、とんだ御足おみあしを留めましてござります。」
「いや、どういたして、かたじけない。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。
 何、嘘ではありません。
 見なさる通り、行脚あんぎゃとは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々蜻蛉とんぼ道連みちづれには墨染の法衣ころもの袖の、発心の涙が乾いて、おのずから果敢はかない浮世の露も忘れる。
 いつとなく、仏の御名みなを唱えるのにも遠ざかって、前刻さっきも、お前ね。
 実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、日向ひなたの麦ばたけ差懸さしかかると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす友染ゆうぜん襷懸たすきがけ、手拭てぬぐいかぶって畑に出ている。
 歩行あるきながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と徒口むだぐち半分、檜笠ひのきがさの下からおとがいを出して尋ねるとね。
 はい、浪打際に子産石こうみいしと云うのがござんす。これこれでここの名所、と土地ところ自慢も、優しく教えて、石段から真直まっすぐに、畑中はたなかを切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
 いかに石が名所でも、男ばかりでが出来るか。何と、あねや、と麦にかくれる島田をのぞいて、天狗てんぐわらいにえて来ました、面目もない不了簡ふりょうけん
 嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に悚気ぞっとしたよ。
 黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
 途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目をねむったら、なお歴然ありあり、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
 聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うてもい、私は夜通しでも構わんが。
 あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちをのぞいては、素通すどおりをしたのがあります。
 近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履穿きで裾をからげた、杖を突張つッぱった、白髪しらがの婆さんの、お前さんとは知己ちかづきと見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほくってしまった。
 私も聞惚ききとれていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
 大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」
 と扇を膝に、両手で横にきながら、丁寧に会釈する。
 うばはあらためて右瞻左瞻とみこうみたが、
「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難有ありがたや、」
 と浅からず渇仰かつごうして、
「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回向えこうをしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎布施ときふせをお目当で……」
 とずっきり云った。
「こりゃ仰有おっしゃりそうな処、御自分の越度おちどをお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前途さきをお急ぎなさります飾りの無いお前様。
 道中、おぐしの伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
 もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」

       十六

 鶴谷が下男、苦虫の仁右衛門にえもん親仁おやじ。角のある人魂ひとだまめかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
「なあよ、宰八、」
「やあ、」
 と続いた、てんぼう蟹は、夥間なかまの穴の上を冷飯草履ひやめしぞうり、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌黄もえぎの、これも大包おおづつみ。夜具を入れたのを引背負ひっしょったは、民が塗炭とたんくるしんだ、戦国時代の駆落かけおちめく。
「何か、お前が出会でっくわした――黒門に逗留とうりゅうしてござらしゃるわけえ人が、手鞠てまりを拾ったちゅうはどこらだっけえ。」
きだ、そうれ、おめえく先に、猫柳がこんもりあんべい。」
「おお、」
「その根際ねきだあ。帽子のふちも、ぐったり、と草臥くたぶれた形での、そこに、」
 と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、ながれが白い。
 この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村をうのである。
「ここだよ。ちょうど、」
 と宰八はちょっと立留まる。前途ゆくてに黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足許あしもと朦朧もうろうと、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
 宰八の背後あとから、もう一人。ステッキを突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
見馴みなれねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、そべりかかって、腕を曲げての、足をおめえ、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白鷺しらさぎ鶏冠とさかのように、川面かわづらへほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、よもぎでなしよ。」
石竹せきちくだっぺい。」
撫子なでしこの一種です、常夏とこなつの花と言うんだ。」
 と訓導は姿勢を正して、ステッキを一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
「ええ!驚かなくてもよろしい。今のは蛙だ。」
「その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれをながめるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さあおく光っとる星い向いて、相談つような形だね。
 草鞋わらじがけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、とわしもう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出殻だしがらで、茶漬え掻食かっくうばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらくってよ。
 むっくりと起返った、と思うとの。……(爺様じいさん、あれあれ、)」
 その時、宰八川面へ乗出して、母衣ほろさかさに水に映した。
「(手毬てまりが、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。)

 見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾をいて、その常夏を束にした、真丸まんまるいのが浮いて来るだ。
銭金ぜにかねはさてかっせえ、だが、足を濡らすは、厭なこんだ。)と云う間もえ。
 突然いきなりざぶりと、わけえ人は衣服きものすそつかんだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
 押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるようなはええ水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻をつかまえそうな慌て方で、ざぶざぶ真中まんなかおっかける、人のあおりで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
(えら!気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝をおっぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。)と叱言こごとを言いながら、岸へ来たのを拾おう、とわし、えいやっとしゃがんだが。
 こんな川でも、動揺どよみにゃ浪を打つわ、濡れずば栄螺さざえも取れねえ道理よ。わしが手をのばすとの、また水に持ってかれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。」
 と夜具風呂敷の黄母衣越きほろごしに、茜色あかねいろのその顱巻はちまき捻向ねじむけて、
いやな事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。」

       十七

 訓導は苦笑いして、
い加減な事を云う、狂気きちがいの嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知己ちかづきのように話をするが、水潜みずくぐりをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」
「お前様もね、当前あたりまえだあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、きた猫なら秋谷中わし知己ちかづきだ。何もいやな事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あかはだよ。げっそり骨の出た死骸しがいでねえかね。」
 訓導は打棄うっちゃるように、
「何だい、死骸か。」
「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金壺眼かなつぼまなこふさがねえ。その人がまりを取ると、三毛のぶちが、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色のきたねえ泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺々すれすれでの――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れのきものを絞るとって、帽子を脱いで仰向あおむけにして、その中さ、入れさしった、そばで見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五しきの――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」
「なあよ、宰八、」
あんだえ。」
 仁右衛門は沈んだ声で、
「その手毬はどうしたよ。」
「今でもその学生が持ってるかね。」
 背後うしろから、訓導がまた聞き挟む。
忽然こつねんとして消えせただ。夢に拾った金子かねのようだね。へ、へ、へ、」
 とおかしな笑い方。
「ふん、」
 と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩行あるき出す。
「嘘をけ、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼんだまのように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」
「違えます、違えますとも!」
 仁右衛門の後を打ちながら、
「その人が、
爺様じいさん、この里では、今時分手毬をつくか。)
あんでね?)
小児こどもたちが、優しい声、なつかしい節で唄うている。
ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ……)
 一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
 とんでもねえ、あれはお前様、芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、169-14]の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を饒舌しゃべって、恥くは知慧ちえでねえと、
あに前様めえさま、学校で体操するだ。おたま杓子じゃくしで球をすくって、ひるてんのとびっこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、わし一ツ威張ったよ。」
「何だ、みっともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えばい。」
「かね……わしまた西洋の雀躍すずめおどりか、と思ったけ、まあ、え。」
「ちっともかあない、」
 と訓導はつばをする。
「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
 のっけから見当はつかねえ、けんど、ぬしたもとから滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」
 と黄母衣きほろを一つ揺上ゆすりあげて、
「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、塩梅あんばいよ、引込ひっこんだのは手棒てんぼうの方、」
 へへ、とまた独りで可笑おかしがり、
「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森にかかったお月様の真中まんなかへ、たっかくこう透かして見っけ。
 しゃぼんだまではねえよ。真円まんまるな手毬の、影も、草に映ったでね。」
「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」
 と勢込いきおいこむ、つき反らしたステッキさきが、ストンと蟹の穴へはさまったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
「まあ、聞かっせえ。
 玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾らわしひねくっても、どこのものだか当りは着かねえ。
(霞のような小川の波に、常夏とこなつの影がさして、遠くに……(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を歩行あるいたが、またこんな嬉しい里は見ない、)
 と、ずぶぬれきものを垂れるしずくさえ、身体からだから玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」

       十八

「――(この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に起臥おきふしして旅をするのもそのためだ。)
 と、話さっしゃるでの。村をめられたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで放擲ほかしては、何かわし、気が済まねえ。
 そこで、草原へしゃがみ込んで、まことにはなさりますめえけんど、と嘉吉にあおたま授けさしった……」
 しばらく黙って、
「の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘をけ、と天窓あたまからけなさっしゃりそうなわけえ方が、
(おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。)と、あのまたあおい星をながめて云うだ。けちりんも疑わねえ。
(なら、まだ話します事がござります、)とついでに黒門の空邸あきやしきの話をするとの。
(川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。)
 と乗出しけよ。……(流れは見さっしゃる通りだ)……」

 今もおなじような風情である。――うっすりとひさしを包む小家こいえの、紫のけぶりの中もめぐれば、低く裏山の根にかかった、一刷ひとはけ灰色のもやの間も通る。青田の高低たかひくふもと凸凹でいりに従うて、やわらかにのんどりした、この一巻ひとまきの布は、朝霞には白地の手拭てぬぐい、夕焼にはあかねの襟、たすきになり帯になり、はてすすきもすそになって、今もある通り、村はずれの谷戸口やとぐちを、明神の下あたりから次第に子産石こうみいしの浜に消えて、どこへそそぐということもない。口につけると塩気があるから、海潮うしおがさすのであろう。その川裾かわすそのたよりなく草に隠れるにつけて、明神の手水洗みたらしにかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。
 霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。
 あの、薄煙うすけぶり、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠方おちかたの松のこずえも、近間なる柳の根も、いずれもこの水のよどんだ処で。はた一つ前途ゆくてを仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高いいしずえ朦朧もうろうと上に浮かしたのは、森の下闇したやみで、靄が余所よそよりも判然はっきりと濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の一構ひとかまえ
 三人は、彼処かしこをさして辿たどるのである。
 ここに渠等かれらが伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅のあたりでは、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。
 ここへは、ながれをさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。
 橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、細流せせらぎの水静かなれば、ひとえに風情を添えたよう。青い山から靄の麓へけ渡したようにも見え、低い堤防どての、茅屋かややから茅屋の軒へ、階子はしごよこたえたようにも見え、とある大家の、物好ものずきに、長く渡した廻廊かともながめられる。
 ともしびもやや、ちらちらと青田に透く。川下の其方そなたは、藁屋わらや続きに、海が映って空もあかるい。――水上みなかみの奥になるほど、樹の枝に、茅葺かやぶきの屋根がかかって、蓑虫みのむしねぐらしたような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓のあかりさず、水を離れた夕炊ゆうかしぎの煙ばかり、細く沖ですくいを呼ぶ白旗のように、風のまにまに打靡うちなびく。海の方は、暮が遅くてあかりはやく、山の裾は、暮が早くて、ともしびが遅いそうな。
 まだそれも、鳴子引けば遠近おちこち便たよりがあろう。家と家とがあいを隔て、岸をいても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ孤家ひとつやの、四方へおおきなる蜘蛛くものごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影をうねらせる。
 月は、その上にかかっているのに。……
 先達せんだつの仁右衛門は、早やその樹立こだちの、余波なごりの夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川ぞいの道は、本宅から約八丁というのである。
 宰八が言続いいついで、
「……(外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落すはずはねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って打棄うっちゃった奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、)とわし、話をしただがね。」

       十九

「それからそのわけえ方は、(どうだろう、その黒門の空家というのを、一室ひとま借りるわけには行くまいか、自炊をって、しばらく旅の草臥くたびれを休めたい、)と相談ったが。
 ねえ、先生様。
 お前様めえさま、今の住居すまいは、隣の嚊々かかあ小児がきい産んで、ぎゃあぎゃあうるせえ、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足をましっけな。」
 と横ざまにあびせかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、ステッキを小脇に引抱ひんだき、
「学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないからめたんだ。」
「朝寝さっしゃるせいだっぺい。」
 仁右衛門が重い口で。
 訓導は教うるごとく、
「第一水が悪い。あの、また真蒼まっさおな、草の汁のようなものが飲めるものかい。」
「そうかね――はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、いやがります空屋敷じゃ。そこが望み、と仰有おっしゃるに、お住居すまい下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、かなったり、本家の旦那だんなもさぞ喜びましょうが、尋常体なみていうちでねえ。あの黒門をくぐらっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、うがすか、と念を入れると、
(いやその位の覚悟はいつでもしている。)
 と落着いたもんだてえば。
 はてな、この度胸だら盗賊どろぼうでも大将株だ、とわし、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、」
「おおよ。」
前刻さっき、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて衣服きものをどうするだ、とわし頼まれがいもなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と我鳴がなっった時よ。
(着物は一枚ありますから……)
 と見得でねえわ、見得でねえね。きまりの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつをにらんで、はあ、そこへわし押惚おっぽれただ。
 殊勝な、優しい、最愛いとしい人だ。これなら世話をしても仔細しさいあんめえ。第一、あの色白な仁体じんていじゃ…………仁右衛門よ。」
あにい、」
「暗くなったの、」
「彼これ、酉刻むつじゃ。」
「は、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、黒門前は真暗まっくらだんべい。」
「大丈夫、月がすよ。」
 と訓導は空を見て、
「お前、その手毬の行方はどうしたんだい。」
「そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最愛いとしらしい容子ようすじゃ……ばけ、」
 とまた言い掛けたが、青芒あおすすきが川のへりに、雑木一叢ひとむら、畑の前を背かがみ通る真中まんなかあたり、野末のもやを一呼吸いきに吸込んだかと、宰八唐突だしぬけに、
「はッくしょ!」
 胴震いで、立縮たちすくみ、
「風がねえで、えらひどい蜘蛛の巣だ。仁右衛門、おめえ、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。」
「巣、巣どころか、おらあ樹の枝からいかかった、土蜘蛛を引掴ひッつかんだ。」
「ひゃあ、」
「七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。」
 と握占にぎりしめたてのひらを、自分で捻開こじあけるようにして開いたが、恐る恐るすかして見ると、
「何ぢゃ、蟹か。」
 水へ、ザブン。
 背後うしろ水車みずぐるまのごとくステッキを振廻していた訓導が、
長蛇ちょうだを逸すか、」
 と元気づいて、高らかに、
「たちまち見る大蛇の路に当ってよこたわるを、剣を抜いてらんと欲すれば老松ろうしょうの影!」
「ええ、しずかにしてくらっせえ、……もう近えだ。」
 と仁右衛門は真面目まじめに留める。
「おい、手毬はどうして消えたんだな、じれったい。」
「それだがね、はええ話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔をめればとって、天窓あたまからしおとは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝入きもいりで、坊様をめたでの、……御本家からこうやって夜具を背負しょって、わしが出向くのは二度目だがな。」

       二十

「その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒はあがらぬか。晩の物だけ重詰じゅうづめにして、夜さりまた掻餅かきもちでも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持ってけ。
 言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを引背負ひっしょって出向いたがよ。
 へい、お客様前刻せんこくは。……本宅でもよろしく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。一餉ひとかたけほんのお弁当がわり。お茶と、それからふせらっしゃるものばかり。どうぞハイゆっくり休まっしゃりましと、口上言うたが、着物はすんでに浴衣に着換えて、燭台しょくだいわきへ……こりゃな、仁右衛門やわしが時々見廻りにく時、みんな閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。……せんに案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取りあえともして置いたもんだね。そのお前様めえさま蝋燭火ろうそくびわきに、首いかしげて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。
(どうかさっせえましたか。)と尋ねるとの。
 ここだ!」
 と唐突だしぬけきっと云う。
「ええ何か、」と訓導は一足ひとあし退く。
 宰八は委細構わず。
「手毬の消えたちゅうがよ。(ここにたしかに置いたのが見えなくなった、)と若え方が言わっしゃるけ。
 そうら、始まったぞ、とわし一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ――どんな風に、くなったか、はあ、聞いたらばの。
 三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ打附ぶつかったものがあった……おおきな石でも落ちたようで、吃驚びっくりして天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お巡査まわり様が階子はしごさして、天井裏へ瓦斯がすけて這込はいこまっしゃる拍子に、洋刀サアベルこじりあがってさかさまになったが抜けたで、下に居た饂飩うどん屋の大面おおづらをちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。
 どんと倒落さかおとしに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、(これは、と思うと縁へ出て)……と客人の若え方が言わっしゃったで、わしは思わずわき退いたが。
 庭へ下りて、草茫々ぼうぼうの中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、忽然こつねんと消えちゅうは、……ここの事だね。」
「消えたか、落したか分るもんか。」
「はあ、分らねえから、変でがしょ、」
「何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。」
「でも、お前様めえさま、その猫がね、」
「それも猫だか、いたちだか、それとも鼠だが[#「だが」はママ]、知れたもんじゃない。森の中だもの、うさぎだって居るかも知れんさ。」
「そのお前様、知れねえについてでがさ。」
「だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。」
「はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。」
 無言なり。
前方さきへ行って目をまわしっけ、」
「馬鹿、」
 と憤然むっとした調子でつぶやく。
 きかぬ気の宰八、くれないはさみ押立おったて、
「お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。」
当前あたりまえです、学校の用を欠いて、そんな他愛たわいもない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。」
「へ、お前様なんざ、畳がねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。」
「何を、」
わしなんざ臆病おくびょうでも、その位の事にゃれたでの、船へ乗った気でおっこらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……」
「宰八よ、」
 と陰気な声する。
「おお、」
「ぬしゃまた何も向うづらになって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので押伏おっぷせられそうな心持だ。」
 と溜息ためいきをして云った。浮世をとざしたような黒門のいしずえを、もやがさそうて、向うから押し拡がった、下闇したやみの草に踏みかかり、しげりの中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、
「わっ、」
 と叫んだ。

       二十一

「はじめの夜は、ただその手毬てまりせましただけで、別に変った事件ことも無かったでございますか。」
 と、小次郎法師の旅僧たびそう法衣ころもの袖を掻合かきあわせる。
 障子を開けて縁の端近はしぢかに差向いに坐ったのは、わかい人、すなわち黒門の客である。
 障子も普通なみよりは幅が広く、見上げるような天井に、血の足痕あしあともさて着いてはおらぬが、雨垂あまだれつたわったら墨汁インキが降りそうな古びよう。巨寺おおでらの壁に見るような、雨漏あまもりあと画像えすがたは、すす色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、浸附しみついて、どうやら饅頭まんじゅうの形した笠をかぶっているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は鴨居かもいの上になって、空から畳を瞰下みおろすような、おもうに漏る雨の余りわびしさに、笠欲ししと念じた、壁の心があらわれたものであろう――抜群にこの魍魎もうりょう偉大おおきいから、それがこの広座敷の主人あるじのようで、月影がぱらぱらとうろこのごとくを落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、硝子がらす障子に嵌込はめこんだ、歌留多かるたの絵かと疑わるる。
「ええ、」
 と黒門の年若な逗留とうりゅう客は、火のない煙草たばこ盆の、はるかに上の方で、燧灯マッチって、しずかいつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほどの内は薄暗い。――差置かれたのは行燈あんどうである。
「まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……」
「ああ、てんぼうの……でございますな。」
「そうです。あの親仁おやじにもわないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。」
 この古館ふるやかたのまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。黄昏たそがれにただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、あがって来ます、ぜんが出る。床を取る、寝る、と段取のきまりました旅籠屋はたごやでも、旅は住心すみごころの落着かない、全く仮の宿です……のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で畔道あぜみちの一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた――八幡不知やわたしらず
 第一要害がまるでわかりません。真中まんなかへ立ってあっちこっちみまわしただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。
 大袈裟おおげさに言えば、それこそ、さあ、と云う時、遁路にげみちの無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、貴僧あなた、黒門まではい天気だったものを、急に大粒な雨!と吃驚びっくりしますように、屋根へかかりますのが、このおっかぶさった、けやきの葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、」
 と肩を落して、仰ぎざまに、ひさしはずれの空をのぞいた。
「やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。」
「しますると……」
 旅僧は先祖が富士を見たさまに、首あげて天井の高きを仰ぎ、
「この、時々ぱらぱらと来ますのは、の葉でございますかな。」
「御覧なさい、星が降りそうですから、」
「成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへこたえますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。」
「お冷えなさるようなら、貴僧あなた、閉めましょう。」
「いいえ、蚊をきずにして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がおよろしい。」
 と顔を見て、
「しかし、いかにもその時はおさみしかったでございましょう。」
「実際、貴僧あなた遥々はるばると国を隔てた事を思い染みました。このはてに故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。」
「失礼ながら、御生国ごしょうごくは、」
豊前ぶぜん小倉こくらで、……葉越はごしと言います。」
 葉越は姓で、かれが名は明である。
「ああ、御遠方じゃ、」
 とあらためて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海をながめる思いがした。旅のやつれが何となく、袖を圧して、その単衣ひとえ縞柄しまがらにもあらわれていたのであった。
「そして貴僧あなたは、」
「これは申後もうしおくれました、わたくしは信州松本の在、至って山家ものでございます。」
「それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。」
 と、明は優しく、人つこい。

       二十二

「不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ
承りまするだけで、それがしかし何よりわたくしには結構でございます。」
 と僧は慇懃いんぎんである。
 明は少し俯向うつむいた。せたあぎとに襟狭く、
「そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、貴僧あなたの前では申すのもお恥かしい。」
「決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に憑物つきものの――ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、わかい仏たちの回向えこうも頼む。ついては貴下あなたのお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、じっと辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。
 と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで蒼白あおじろく見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お身体からだも弱そうゆえに、老寄としより夫婦で一層のこと気にかかる。
 昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は気怯きおくれがして、それさえ不沙汰ぶさたがちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもそのことづけでございました。が何か、最初の内、貴方あなた御逗留ごとうりゅうというのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話対手あいて夜伽よとぎはまだおだやかな内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、係羂かけわなに鼠の天麩羅てんぷらを仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで?――
 婆さんが話しました。」
「私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分にぎやかでした。
 まあ、いりかわりたちかわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。」
「と申す事でございますな。ええ、時にその入りかわり立ち交りにつけて、何か怪しい、」
 と言いかけてと見返った、次のと隔てのふすまは、二枚だけ山のように、行燈あんどうの左右に峰を分けて、隣国となりぐにまでは灯が届かぬ。
 心も置かれ、後髪も引かれたさまに、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、
「その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、おびやかす。――何かその……畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。」
 じって聞くと、また俯向うつむいて、
「ですから、お話しもきまりが悪い、取留めのない事だと申すんです。」
「ははあ、」
 と胸を引いて、僧はくつろいださまに打笑い、
「あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものがい加減な百物語。その実、嘘説うそなのでございますので?」
「いいえ、それは事実です。畳はあがりますとも。貴僧あなた、今にも動くかも分りません。」
「ええ!や、それは、」
 と思わず、膝をすべらした手で、はたはたとおさえると、爪も立ちそうにない上床じょうどこの固い事。
「これが、動くでございますか。」
「ですから、取留めのない事ではありませんか。」
 としずかに云うと、黙って、ややあってまたたきして、
「さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。」
「騒がないで、じっとしていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別にさかさに立って、裏返しになるというんじゃないのですから、」
「いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。」
「そうですとも。そうなった日には、足の裏をにかわ附着くッつけておかねばなりません。
 何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人がかないで、畳のこの合せ目が、」
 と手をいて、ずっとてのひらすべらしながら、
「はじめに、長い三角だの、小さな四角に、ふちを開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、そのはやい事は、稲妻のように見えます。
 そうするともう、わっと言って、飛ぶやらねるやら、やあ!と踏張ふんばって両方の握拳にぎりこぶしで押えつける者もあれば、いきなり三宝火箸ひばしでも火吹竹でも宙で振廻す人もある――まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出してげてきます。」

       二十三

「どたん、ばたん、えらい騒ぎ。その立騒ぐのに連れて、むくむくむくむく、と畳を、貴僧あなた、四隅から持上げますが、二隅ずつ、どん、どん、順に十畳敷を一時いっときに十ウ、下から握拳を突出すようです。それ毛だらけだ、わあ女の腕だなんて言いますが、何、その畳の隅が裏返るように目まぐるしくかえるんです。
 もうそうなると、気のあがった各自てんでが、自分の手足で、茶碗を蹴飛けとばす、徳利とっくりを踏倒す、海嘯つなみだ、とわめきましょう。
 その立廻りで、何かの拍子にゃ怪我もします、踏切ったくらいでも、ものがものですから、片足切られたほどに思って、それがために寝ついたのもあるんだそうで。漁師だとか言いましたっけ。一人、わざわざ山越えで浜の方から来たんだって、怪物ばけものに負けない禁厭まじないだ、と※(「魚+覃」、第3水準1-94-50)えいの針を顱鉄はちがねがわりに、手拭てぬぐいに畳込んで、うしろ顱巻はちまきなんぞして、非常ないきおいだったんですが、猪口ちょこかけの踏抜きで、いたみひどい、おたたりだ、と人におぶさって帰りました。
 その立廻りですもの。あかりが危いからわき退いて、私はそのたびに洋燈ランプおさえ圧えしたんですがね。
 坐ってる人が、ほんとに転覆ひっくりかえるほど、根太ねだから揺れるのでない証拠には、私が気を着けています洋燈ランプは、躍りはためくその畳の上でも、じっとして、ちっとも動きはせんのです。
 しかしまた洋燈ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻った事がありました。やがて貴僧あなた風車かざぐるまのように舞う、その癖、場所は変らないので、あれあれと云う内に火が真丸まんまるになる、と見ている内、白くなって、それに蒼味あおみがさして、ぼうとして、じっすわる、そのいやな光ったら。
 映る手なんざ、水へ突込つッこんでるように、うねったこの筋までが蒼白く透通って、各自てんでの顔は、みんなその熟した真桑瓜まくわうりに目鼻がついたように黄色くなったのを、見合せて、呼吸いきを詰める、とふわふわと浮いて出て、その晩の座がしらという、一番強がった男の膝へ、ふッと乗ったことがあるんですね。
 わッと云うから、騒いじゃ怪我をしますよ、と私が暗い中で声を掛けたのに、猫化ねこばけやっつけろ、と誰だか一人、庭へ飛出してげながらわめいた者がある。畜生、と怒鳴って、貴僧、危いの何のじゃない!
 ぱっ[#「火+發」、189-13]あかるくなってもととおり洋燈が見えると、その膝に乗られた男が――こりゃ何です、い加減な年配でした――かつて水兵をした事があるとか云って、かねて用意をしたものらしい、ドギドギする小刀ナイフを、火屋ほやの中から縦に突刺してるじゃありませんか。」
「大変で、はあ、はあ、」
「ト思うと一呼吸いきに、油壺をかけて突壊つきこわしたもんだから、流れるような石油で、どうも、後二日ばかり弱りました。
 その時は幸に、当人、手にきずをつけただけ、いきおいで壊したから、火はそれなり、ばったり消えて、何の事もありませんでしたが、もしやの時と、みんなが心掛けておきました、蝋燭ろうそくけて、跡始末にかかると、さあ、可訝おかしいのは、今の、怪我で取落した小刀ナイフが影も見えないではありませんか。
 驚きました。これにゃ、みんな貴僧あなた茶釜ちゃがまの中へ紛れ込んでたたるとか俗に言う、あの蜥蜴とかげ尻尾しっぽの切れたのが、行方知れずになったより余程よっぽど厭な紛失もの。襟へ入っていはしないか、むずむずするの、ふんどしへささっちゃおらんか、ひやりとするの、たもとか、すそか、と立つ、坐る、帯を解きます。
 前にも一度、大掃除の検査に、階子はしごをさして天井へ上った、警官おまわりさんの洋剣サアベルが、何かの拍子にさかさまになって、鍔元つばもとが緩んでいたか、すっと抜出ぬけだしたために、下に居たものが一人、切られた事がある座敷だそうで。
 外のものとは違う。切物きれものは危い、よく探さっしゃい、針を使ってさえ始める時としまう時には、ちゃんと数を合わせるものだ。それでもよく紛失するが、畳の目にこぼれた針は、奈落へ落ちて地獄の山の草に生える。で、餓鬼が突刺される。その供養のために、毎年六月の一日は、氷室ひむろ朔日ついたちと云って、わかい娘が娘同士、自分で小鍋立こなべだてのままごとをして、客にも呼ばれ、呼びもしたものだに、あのギラギラした小刀ナイフが、縁の下か、天井か、承塵なげしの途中か、在所ありどころが知れぬ、とあっては済まぬ。これだけは夜一夜よっぴてさがせ、と中に居た、酒のみの年寄が苦り切ったので、総立ちになりました。
 これは、私だって気味が悪かったんです。」
 僧はただ目でこたえ、目でうなずく。

       二十四

洋燈ランプの火でさえ、大概度胆どぎもを抜かれたのが、頼みに思った豪傑は負傷するし、今の話でまた変な気になる時分が、夜も深々と更けたでしょう。
 どんな事で、どこからほうり投げまいものでもない。何か、対手あいての方も斟酌しんしゃくをするか、それとも誰も殺すほどの罪もないか、命に別条はまず無かろうが、怪我は今までにも随分ある。
 さあ、捜す、となると、五人の天窓あたま燭台しょくだいが一ツです。ろうの継ぎ足しはあるにして、一時いっときに燃すと翌方あけがたまでの便たよりがないので、手分けをするわけにはきません。
 もうそうなりますとね、一人じゃ先へ立つのもいやがりますから、そこで私が案内する、と背後あとからぞろぞろ。その晩は、鶴谷の檀那寺だんなでら納所なっしょだ、という悟った禅坊さんが一人。変化へんげ出でよ、一喝いっかつで、という宵の内の意気組で居たんです。ちっとお差合いですね、」
「いえ、宗旨違いでございます、」
 と吃驚びっくりしたように莞爾にっこりする。
「坊さんまじりその人数にんずで。これが向うの曲角から、突当りのはばかりへ、廻縁まわりえんになっています。ぐるりとその両側、雨戸を開けて、沓脱くつぬぎのまわり、縁の下をのぞいて、念のため引返して、また便所はばかりの中まで探したが、光るものは火屋ほやかけらも落ちてはいません。
 じゃあ次のを……」
 と振返って、そのおおきなるふすまを指した。
「とみんなが云うから、私は留めました。
 ここを借りて、一室ひとまだけでも広過ぎるから、来てからまだ一度も次ののぞいて見ない。こういう時開けては不可いけません。廊下から、かわやまでは、宵から通った人もある。転倒てんどうしている最中、どんな拍子で我知らず持って立って、落して来ないとも限らんから、念のため捜したものの、誰も開けない次のへ行ってるようでは、何かがかくしたんだろうから、よし有ったにした処で、先方さきにもしその気があれば、怪我もさせよう、傷もつけよう。さて無い、となると、やっぱり気が済まんのは同一おんなじ道理。押入ものぞけ、棚も見ろ、天井も捜せ、根太板をはがせ、となっては、何十人でかかった処で、とてもこの構えうち隅々までくまなく見尽される訳のものではない。人足の通った、ありそうな処だけで切上げたがいでしょう――
 それもそうか、いよいよ魔隠しに隠したものなら、山だか川だか、知れたものではない。
 まあ、人間わざかなわん事に、断念あきらめは着きましたが、危険けんのんな事には変わりはないので。いつ切尖きっさきが降って来ようも知れません。ちっとでもたてになるものをと、みんな同一おなじ心です。言合わせたように順々に……さきへ御免をこうむりますつもりで、私が釣っておいた蚊帳へ、総勢六人で、小さくなってかがみました。
 変におしおきでも待ってるようでなお不気味でした。そうか、と云って、よる夜中よなか、外へ遁出にげだすことは思いも寄らず、で、がたがた震える、突伏つッぷす、一人で寝てしまったのがあります、これが一番可いのです。坊様ぼうさんは口のうちで、しきりにぶつぶつと念じています。
 その舌のもつれたような、便たよりのない声を、蚊のうなる中に聞きながら、私がうとうとしかけました時でした。そっと一人がゆすぶり起して、
(聞えますか、)
 と言います。
(ココだ、ココだ、と云う声が、)と、耳へ口をつけてささやくんです。それから、それへ段々、また耳移しに。
失物うせものはココにある、というお知らせだろう、)
(どうか、)と言う、ひそひそ相談ばなし
 耳を澄ますと、蚊帳越の障子のようでもあり、廊下の雨戸のようでもあり、次の間と隔ての襖際ふすまぎわ……また柱の根かとも思われて、カタカタ、カタカタと響く――あの茶立虫ちゃたてむしとも聞えれば、壁の中で蝙蝠こうもりが鳴くようでもあるし、縁の下で、ひきがえるが、コトコトと云うとも考えられる。それが貴僧あなた、気の持ちようで、ココ、ココ、ココヨとも、ココト、とも云うようなんです。
 自分のだけに、手を繃帯ほうたいした水兵の方が、一番に蚊帳を出ました。
 返す気で、在所ありかをおっしゃるからは仔細しさいはない、と坊さんがまた這出はいだして、畳に擦附けるように、耳を澄ます。と水兵の方は、真中まんなかで耳を傾けて、腕組をして立ってなすったっけ。見当がついたと見えて、目で知らせ合って、上下うえしたうなずいて、その、貴僧あなた背後うしろになってます、」
「え!」
 と肩越にふち差覗さしのぞくがごとく、座をずらして見返りながら、
「成程。」
「北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、切尖きっさきを立掛けてあったろうではありませんか。」

       二十五

「それッきり、危うございますから、刃物は一切いっせつ厳禁にしたんです。
 遊びに来て下さるもし、夜伽よとぎとおっしゃるも難有ありがたし、ついでに狐狸こりたぐいなら、退治しようも至極ごもっともだけれども、刀、小刀ナイフ、出刃庖丁、刃物と言わず、やり、鉄砲、――およそそういうものは断りました。
 私も長い旅行です。随分どんな処でも歩行あるき廻ります考えで。いざ、と言や、投出して手をくまでも、短刀を一口ひとふり持っています――母の記念かたみで、峠を越えます日の暮なんぞ、随分それがために気丈夫なんですが、つつしみのために桐油とうゆに包んで、風呂敷の結び目へ、しっかり封をつけておくのですが、」
「やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。」
「いいえ、これには別条ありません。盗人ぬすっとでも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、怪物ばけもの退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴僧あなた騒動さわぎ起居たちいに、一番気がかりなのは洋燈ランプですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって行燈あんどうに取替えました。」
「で、行燈は何事も、」
「これだってあがります。」
「あの上りますか。宙へ?」
 時に、明の、行燈のその皿あたりへ、仕切って、うつむけに伏せた手が白かった。
「すう、とこう、畳を離れて、」
「ははあ、」
 とばかり、僧は明の手のかげで、ともしびが暗くなりはしないか、とあやぶんだ目色めつきである。
「それも手をかけて、おさえたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。さわらないで、じっ柔順おとなしくしてさえいれば、元の通りに据直すわりなおって、が明けます。一度なんざ行燈が天井へ附着くッつきました。」
「天……井へ、」
「下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌てて起上って、蚊帳越にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように鴨居かもいを越して天井裏へするりと入ると、裏へちゃんと乗っかりました。もううずたかい、鼠の塚か、と思うすすのかたまりも見えれば、はるかに屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。
 可訝おかしいな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板がどこか外れたはずだが、とふと気がつくと、桟がゆるんでさえおりますまい。
 板を抜けたものか知らん、余り変だ、と貴僧あなた
 ここで心が定まりますと、何の事もない。行燈あんどうは蚊帳の外の、宵から置いた処にちゃんとあって、薄ぼんやり紙が白けたのは、もう雨戸の外が明方であったんです。」
「その晩は、お一人で、」
「一人です、しかも一昨晩。」
「一昨晩?」
 と、思わずまたぎょっとする。
「で、何でございますか、その夜伽連よとぎれんは、もうそれ以来懲りて来なくなったんでございますかな。」
「お待ち下さい、トあの、西瓜すいかで騒いだ夜は、たしかその後でしたっけ。
 何、こりゃつまらない事ですけれども、弱ったには弱りましたよ。……
 確か三人づれで、若いしゅが見えました。やっぱり酒を御持参で。大分お支度があったと見えて、するめの足をかじりながら、冷酒ひやざけを茶碗であおるようなんじゃありません。
 竹の皮包みから、この陽気じゃうおの宵越しは出来ん、と云って、焼蒲鉾やきかまぼこなんか出して。
 うもうございましたよ、私もお相伴しましたっけ、」
 と悠々と迫らぬ調子で、
「宵には何事もありませんでした。塩梅あんばい酔心地よいごこちで、四方山よもやまの話をしながら、いなご一ツ飛んじゃ来ない。そう言や一体蚊もらんが、大方その怪物ばけもの餌食えじきにするだろう。それにしちゃけち食物くいものだ――何々、海の中でも親方となるとかえって小さい物をえさにする。くじらを見ろ、しこいわしだ、なぞと大口を利いて元気でしたが、やがて酒はおつもりになる、夜が更けたんです。
 ここでお茶と云う処だけれど、茶じゃ理に落ちて魔物がけ込む。酔醒よいざめにいいもの、と縁側から転がし出したのは西瓜です。聞くと、途中で畑盗人どろぼうをして来たんだそうで――それじゃかえって、憑込もうではありませんか。」

       二十六

「手並を見ろ、狐でも狸でも、この通りだ、と刃物の禁断は承知ですから、小刀ナイフを持っちゃおりません、拳固で、貴僧あなた
 小相撲こずもうぐらい恰幅かっぷくのある、節くれだった若い衆でしたが……」
 場所がまた悪かった。――
「前夜、ココココ、と云って小刀ナイフを出してくれたと同一おなじ処、敷居から掛けて柱へその西瓜すいかめて置いて、大上段おおじょうだんです。
 ポカリった。途端に何とも、すさまじい、石油缶が二三十つかったような音が台所の方で聞えたんです。
 唐突だしぬけですから、宵に手ぐすねを引いた連中も、はあ、と引呼吸ひきいきに魂を引攫ひきさらわれた拍子に――飛びました。その貴僧あなた、西瓜が、ストンと若い衆の胸へ刎上はねあがったでしょう。
 仰向あおむけひっくりかえると、また騒動。
 それ、肩を越した、ええ、足へ乗っかる。わああ!裾へまつわる、火の玉じゃ。座頭の天窓あたまよ、入道首よ、いや女の生首だって、い加減な事ばかり。夕顔の花なら知らず、西瓜が何、女の首に見えるもんです。
 追掛おっかけるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟木むなぎが外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突伏つッぷしたが、それなりしんとして、しずかになって、風の音もしなくなりました。
 ト屋根に生えた草の、葉と葉が入交いりまじって見え透くばかりに、月が一ツ出ています。――今の西瓜が光るのでした。
 森は押被おっかぶさっておりますし、行燈あんどうはもとよりその立廻りで打倒ぶったおれた。何か私どもは深い狭い谷底に居窘いすくまって、千仞せんじんの崖の上に月が落ちたのをながめるようです。そう言えば、けやきの枝にいかかって、こう、月の上へ蛇のようにたれかかったのが、つたの葉か、と思うと、屋根一面に瓜畑になって、鳴子縄が引いてあるような気もします。
 したたかな、天狗てんぐめ、とのぼせあがって、宵に蚊いぶしにった、杉ッ葉の燃残りを取って、一人、その月へ投げつけたものがありました。
 もろいの、何の、ぼろぼろと朽木のようにその満月が崩れると、葉末の露と一つになって、棟の勾配こうばいすべり落ちて、消えたはいが、ぽたりぽたりしずくがし出した。えりと言わず、肩と言わず、降りかかって来ましたが、手を当てる、とべとりとして粘る。いでみると、いや、貴僧あなた、悪甘い匂と言ったら。
 夜深しに汗ばんで、蒸々むしむしして、咽喉のどの乾いた処へ、その匂い。血腥ちなまぐさいよりたまりかねて、縁側を開けて、私が一番に庭へ出ると、みんな跣足はだしで飛下りた。
 驚いたのは、もう夜が明けていたことです。山のいただきの方はあおくなって、ふもともやが白んでいました。
 不思議な処へ、思いがけない景色を見て、和蘭陀オランダへ流された、と云うのがあるし、堪らない、まず行燈あんどうをつけ直せ、と怒鳴ったのが居る。
 屋根のその辺だ、と思う、西瓜のあとには、烏が居て、コトコトとはしを鳴らし、短夜みじかよの明けた広縁には、ぞろぞろおびただしい、かば色の黒いのと、松虫鈴虫のようなのが、うようよして、ざっと障子へ駆上かけあがって消えましたが、西瓜のたねったんですって。
 連中は、ふらふら[#「ふらふら」は底本では「ふろふら」]と二日酔いのような工合ぐあいで、ぼんやり黒門を出て、川べりに帰りました。
 橋の処で、くいにかかって、ぶかぶか浮いた真蒼まっさおな西瓜を見て、それから夢中で、げたそうです。
 昼過ぎに、宰八が来て、その話。
 私はその時分までぐっすり寝ました。
 この時おかしかったのは、爺さんが、目覚しに茶を一つ入れてやるべいって、小まめに世話をして、い色に煮花が出来ましたが、あいにく西瓜も盗んで来ない。何かないか、と考えて、有る――台所に糖味噌が、こりゃ私に、と云って一々運ぶも面倒だから、と手の着いたのじゃあるが、おけごと持って来て、時々爺さんが何かを突込つッこんでおいてくれるんでした。
 一人だから食べ切れないで、きつき過ぎる、と云って、世話もなし、茄子なすへたごとしょうのもので漬けてありました。つかり加減だろう、とそれに気が着いて、台所へ出ましたっけ。
(お客様あ、)
(何だい。)
昨夜ゆうべすさまじい音がしたと言わしっけね、何にもおっこちたものはねえね。)
 って言いながら、やがて小鉢へ、丸ごと五つばかり出して来ました。
 薄お納戸のい色で。」

       二十七

「青葉の影のす処、白瀬戸の小鉢も結構な青磁の菓子器にったようで、志の美しさ。
 はしを取ると、そのかさなった茄子なすが、あの、薄皮の腹のあたりで、グッ、グッ。
 一ツ音を出すと、また一つグッ、もう一つのもググ、ググと声を立てるんですものね。
 変な顔をして、宰八が、
(お客様、聞えるかね。)
(ああ鳴くとも。)
(ちんじちょうようだ、此奴こいつ、)
 と爺様じいさん鉈豆なたまめのような指のさきで、ちょいと押すと、そのされたのがグググ、手をかえるとまたほかのがググ。
 心あって鳴くようで、何だか上になった、あのへたの取手まで、小さなつのらしく押立おったったんです。
 また飛出さない内に、と思って、私は一ツかじったですよ。」
召食めしあがったか。」
 と、僧は怪訝顔けげんがおで、
「それは、おえらい。」
「何聞く方の耳が鳴るんでしょうから、何事もありません、茄子なすびの鳴くわけは無いのですから。
 それでも爺さんは苦切にがりきって、わかい時にゃ、随分悪物食あくものぐいをしたものだで、葬い料で酒ェ買って、犬の死骸しがいなら今でも食うが、茄子なすの鳴くのは厭だ、と言います。
 もっとも変なことは変ですが、同じ気味の悪い中でも、対手あいてが茄子だけに、こりゃおかしくってかったですよ。」
茄子なすびならば、でございますが、ものは茄子なすでも、対手あいては別にございましょう。」
 明は俯向うつむいて莞爾にっこりした、別に意味のないわらいだった。
「で、そりゃ昼間の事でございますな。」
「昨日の午後ひるすぎでした。」
「昼間からは容易でない。」
 と半ばつぶやくがごとくに云って、
「では、昨夜あたりはさぞ……」
 と聞く方が眉をひそめる。
「ええ、ひどうございました、どうせ、夜が寝られはしないんですから、」
「それでおやつれなさるのじゃ、貴下あなた、お顔の色がとんだ悪い!……
 茶店の婆さんが申したも、その事でございます。
 唯今ただいまお話を伺いました。そんなこんなで村の者もかなくなり、爺様も夜は恐がって参りませんから、貴下の御容子ごようすが分らないに因って、家つきの仏を回向えこうかたがた、お見舞申してはくれまいか、と云うに就いて、推参したのでございますが、いや、何とも驚きました。
 いずれ御厄介に相成らねばなりませんが、わたくしもどうか唯今のその茄子の鳴くぐらいな処で、御容赦が願いたい。
 どこと云って三界さんがい宿なし、一泊御報謝に預る気で参ったわけで。なかなか家つきの幽霊、たたり物怪もののけを済度しようなどという道徳思いも寄らず。実は入道さえ持ちません。手前勝手、申訳のないお詫びに剃ったような坊主。念仏さえろくに真心からは唱えられんでございまして、御祈祷ごきとうそうなどと思われましては、第一、貴下の前へもお恥かしゅうございますが、いかがでございましょう。お宿を願いましても差支えはないでございましょうか。いくらか覚悟はして参りましたが、のあたりお話を伺いましては、ちと二の足でございますが。」
「一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮がりますものですか。私もおつれがあって、どんなに嬉しいか知れません。」
「そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように難有ありがとうございましても、別にその……ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、――その何とも異様な、あの、その、」
「それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
 そこなんです、貴僧あなたさからいさえしませんければ、畳も行燈あんどうも何事もないのですもの。戸障子に不意に火が附いてそこいらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。
 座敷だっていくらもあります、貴僧、」
 とふと心づいたように、
「御一所でおうるさければ、隣のお座敷へいらっしゃい。何か正体を見届けようなぞと云っては不可いけませんが、鶴谷が許したお客僧が、何も御遠慮には及びません。
 ただすらりと開かないで、何かがおさえてでもいるようでしたら、お見合せなさいまし。さからうと悪いんですから。」

       二十八

「なかなか、逆らいますどころではございません、座敷好みなんぞしていものでございますか。
 あのふすまを振向いてじっろ、とおっしゃったって、容易にゃそちらも向けません次第で、御覧の通り、早や固くなっております。
 お話につけて申しますが、実は手前もこの黒門をくぐりました時は、草につかえて、しばらく足が出ませんでございました。
 それと申すが、まず庭口と思う処で、キリキリトーンと、余程その大轆轤おおろくろの、刎釣瓶はねつるべ汲上くみあげますような音がいたす。
 もっともいわくづきのやしきながら、貴下あなたお一方はまずともかくもいらっしゃる。人が住めば水も要ろうで、何も釣瓶の音が不思議と云うでは、道理上、こりゃ無いのでありまするが、婆さんに聞きました心積こころづもり、学生の方が自炊をしておいでと云えば、土瓶か徳利とっくりに汲んで事は足りる、と何となく思ってでもおりましたせいか、そのどうも水を汲む音が、れた女中衆おなごしゅでありそうに思われました。
 ト台所の方を、どうやら嫋娜すらりとした、脊の高い御婦人が、黄昏たそがれに忙しい裾捌すそさばきで通られたような、ものの気勢けはいもございます。
 何となくにぎやかな様子が、七輪に、晩のおかずでもふつふつ煮えていようという、豆腐屋さ――ん、と町方ならば呼ぶ声のしそうな様子で。
 さては婆さんに試されたか、と一旦いったんは存じましたが、こう笠を傾けて遠くから覗込のぞきこみました、勝手口の戸からかけて、棟へ、高く烏瓜からすうりの一杯にからんだ工合ぐあいが、何様、何ヶ月も閉切しめきりらしい。
 ござったかな、と思いながら、くすぐったいような御門内の草を、そっんで入りますと、春さきはさぞ綺麗きれいでございましょう。一面に紫雲英げんげが生えた、その葉の中へ伝わって、断々きれぎれながら、一条ひとすじあおずんだ明るい色のものが、ったように浮いたように落ちています。上へさした森の枝を、月が漏る影に相違は無さそうなが、何となく婦人の黒髪、その、丈長く、足許あしもとに光るようで。
 変にまたぎ心地が悪うございますから、けて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔があらわれたようでございましたっけ、く見ると、うさぎなんで。
 ところでその蛇のような光る影も、むきかわって、またわたくし出途でさきへ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。
 これが反対あべこべだと、もと潜門くぐりもんへ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。
 式台前で、私はまず挨拶あいさつをいたしたでございます。
 ぬしもおわさばきこし召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに得脱成仏とくだつじょうぶつ回向えこういたそう。何を力に、退散の呪詛じゅそを申そう。御姿おんすがたを見せたまわばひとえに礼拝をつかまつる。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、御住居おすまいむしろ一枚を貸したまわれ……」
 ――旅僧はその時、南無仏なむぶつと唱えながら、ささなみのごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで一揖いちゆうしたのであった。――
「それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐにきましたから、しきり前刻さっきの、あの、えへん!えへん!せきばらいをしながら――ひどくなっておりますな――芝生を伝わって、おびただしい白粉おしろいの花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。
 あの白粉の花は見事です。ちらちらべに色のが交って、咲いていますが、それにさえ、貴方あなた法衣ころもの袖のさわるのは、と身体からだをすぼめて来ましたが、今も移香うつりががして、はばかり多い。
 もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた慄然ぞっとしたほどでございますから。
 何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。
 しかし貴下あなたは、唯今うけたまわりましたような可怖おそろし只中ただなかに、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。」
「私くらい臆病おくびょうなものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」
「さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目的めあてで参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召おぼしめしで。」
「どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。」
「それでは、外に、」
「ええ、望み――と申しますと、まだがあります。実は願事があって、ここにこうして、参籠さんろう、通夜をしておりますようなものです。」

       二十九

「それが貴僧あなた前刻さっきお話をしかけました、あの手毬てまりの事なんです。」
「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」
 と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝ひとひざ進めたのである。
「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行あるきますのも、せんずる処、ある意味の手毬唄を……」
「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」
「夢とも、うつつとも、幻とも……目に見えるようで、口にはえぬ――そして、優しい、なつかしい、あわれな、情のある、愛のこもった、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然ぞっとする、胸を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)かきむしるような、あの、恍惚うっとりとなるような、まあ例えて言えば、かんばしい清らかな乳を含みながら、生れないさきに腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬あこがれて、それを聞きたいと思いますんです。」
 この数分時のことばうちに、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫のの葉のささやきまで、稲妻のごとく胸のうちに繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、さっ金字こんじ紺泥こんでいに瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
「して、その唄は、貴下あなたお聞きになったことがございましょうか。」
小児こどもの時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
 年を取るに従うて、まるで貴僧あなた、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
 東京のある学校を卒業ますのをまちかねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
 第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
 ト夢のように心着いたのは、同一おなじ町に三人あった、同一おなじ年ごろの娘です。
(産んだその子が男のなら、
 京へぼせて狂言させて、
 寺へ上ぼせて手習てならいさせて、
 寺の和尚が、
 道楽和尚で、
 高い縁から突落されて、
 こうがい落し
 小枕こまくら落し、)
 と、よく私を遊ばせながら、母もわかかった、その娘たちと、毬も突き、追羽子おいはごもした事をうつつのように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜半よなかには、むっくりと起きて、嬉しさに雀躍こおどりをしたんですが、貴僧あなた、そのうちの一人は、まだ母の存命の内に、ひな祭の夜なくなりました。それは私も知っている――
 一人は行方が知れない、と言います……
 やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まずし、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、小流こながれがあって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその古樹ふるきがちらほら残って、真盛まっさかりの、朧月夜おぼろづきよの事でした。
 今貴僧あなたがここへいらっしゃる玄関前で、紫雲英げんげの草をくぐる兎を見たとおっしゃいました、」
「いや、肝心のお話のうちへ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。」
背後うしろが直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。
 が、似た事のありますものです――その時は小狗こいぬでした。鈴がついておりましたっけ。白垢むく真白まっしろなのが、ころころと仰向あおむけに手をじゃれながら足許あしもとを転がってきます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。
 まさか奥様おくさんに、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと――
夜中やちゅう何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目にはかかれません。)
 と云っていやな顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」

       三十

「叔母がつくづく意見をしました。(はじめから彼家あすこくと聞いたらるのじゃなかった――黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ幼馴染おさななじみだと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、)とこうです。
 母親の友達を尋ねるに、色気の嫌疑はおかしい、と聞いて見ると、なあに、女のはませています、それにあか手絡てがらで、美しい髪なぞ結って、かたちづくっているからい姉さんだ、と幼心おさなごころに思ったのが、二つ違い、一つ上、亡くなったのが二つ上で、その奥さんは一ツ上のだそうで、行方の知れないのは、分らないそうでした。
 事が面倒になりましてね、その夫人の親里から、叔母の家へ使つかいが来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体がございますから以来は、と苦り切って帰りました。
 勿論病気でも何でもなかったそうです。
 一月ばかりって、細かに、いろいろと手毬唄、子守唄、わらべ唄なんぞ、百幾つというもの、綺麗に美しく、細々こまごまとかいた、文が来ました。
 しまいへ、べにで、
――嫁入りの果敢はかなさを唄いしが唄の中にも沢山におわしまし候――
 と、だけ記してありました。……
 唯今ただいまも大切にして持ってはいますが、勿論、その中に、私の望みの、母の声のはありません。
 さあ、もう一人……行方の知れない方ですが……
 またこれが貴僧あなた、家を越したとか、遠国へ行ったとかいうのなら、いくらか手懸りもあるし、何の不思議もないのですが、俗に申します、神がくしに逢ったんで、叔母はじめ固くそう信じております。
 名は菖蒲あやめと言いました。
 一体その娘の家は、母娘おやこ二人、どっちの乳母か、ばあさんが一人、と母子おやこだけのしもた屋で、しかし立派な住居すまいでした。その母親おふくろというのは、私は小児こども心に、ただ歯を染めていたのと、鼻筋の通った、こう面長な、そして帯の結目むすびめを長く、下襲したがさねか、蹴出けだしか、つまをぞろりと着崩して、日の暮方には、時々薄暗いかどに立って、町から見えます、山の方をながめては悄然しょんぼりたたずんでいたのだけかすかに覚えているんですが、人のめかけだとも云うし、本妻だとも云う、どこかの藩候の落胤おとしだねだとも云って、ちっとも素性が分りません。
 娘は、別にかわったこともありませんが、容色きりょうは三人のうちで一番かった――そう思うと、今でも目前めさきに見えますが。
 その娘です、余所よそへは遊びに来ましたけれど、誰も友達を、自分の内へ連れて行った事はありませんでした。
 寄合って、遊事あそびごとを。これからおもしろくなろうという時、不意におっかさんがお呼びだ、とその媼さんが出て来て引張ひっぱって帰ることが度々で、急に居なくなる、跡の寂しさと云ったらありません。――せんの内は、自分でもいやいや引立ひったてられるようにして帰り帰りしたものですが、一ツは人のとこへ自分は来て、我がうちへ誰も呼ばない、という遠慮か、妙な時ふと立っちゃ、ひとりで帰ってしまうことがいくらもあったんです。
 ですから何だかその娘ばかりは、思うように遊べない、勝手に誘われない、自由にはならない処から、遠いが花の香とか云います。余計に私なんざなつかしくって、(あやちゃんお遊びな)が言えないから、合図の石をかちかち叩いては、その家の前を通ったもんでした。
 それが一晩あるばん、真夜中に、十畳の座敷を閉め切ったままで、どこかへ姿をかくしたそうで。
 うし年の事だから、と私が唄を聞きたさに、尋ねた時分……今から何年前だろう、と叔母が指を折りましたっけ……多年しばらくになりますが。」

       三十一

「故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、きものを清め、身を清め……」
 つばをのんで聞いた客僧が、
「成程、」
 と腕組みして、
「精進潔斎。」
「そんな大した、」
 と言消したが、また打頷うちうなず
「どうせ娘の子のする事です。そうまでもきますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその洗髪あらいがみ櫛巻くしまきに結んで、こうがいなしに、べにばかり薄くつけるのだそうです。
 それから、十畳敷を閉込しめこんで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへおんなの魂を据える、鏡です。
 丑童子うしどうじまだら御神おんかみ、と、一心に念じて、傍目わきめらないで、みつめていると、その丑の年丑の月丑の日の……丑時うしどきになると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。
 娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その丑待うしまちひとりでして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。……それっきりになっているんですもの。
 手のつけようがありますまい。
 いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓をゆすぶって、しるしの松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。
 その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、ふもとに玉散る石をんで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、おののくばかりで声が出ない。
 うわの空で居たせいか、一日、山みち怪我けがをして、足をくじいて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、かごを出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいとつえで飛んで、いや不恰好ぶかっこうな蛙です――両側は家続きで、ちょうど大崩壊おおくずれの、あの街道を見るように、なぞえに前途ゆくてへ高くなる――突当りが撞木形しゅもくがたになって、そこがまた通街とおりなんです。私が貴僧あなた、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲りそうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト立停たちどまった美人があります。
 扮装みなりなぞは気がつかず、洋傘かさは持っていたようでしたっけ、それをしていたか、畳んだのをいていたか、判然はっきりしないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。
 トむこうでも莞爾にっこりしました……
 そこへ笠を深くかぶった、草鞋穿わらじばきの、猟人体かりゅうどてい大漢おおおとこが、鉄砲てっぽう銃先つつさき浅葱あさぎの小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりといたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。
 山を上に見て、正的まともに町と町がくっついた三辻みつつじの、その附根つけねの処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その葦簀よしず張出はりだしまで、わずか二間ばかりのあいを通ったんですから、のさりとくのも、ほんのしばらく。
 熊のせなかが、たたずんだ婦人おんなのあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって歩行あるき出しました。あとへぞろぞろ大勢小児こどもが……国では珍らしいけものだからでしょう。
 右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、急足いそぎあしに出よう、とすると、れないびっこですから、腕へ台についた杖を忘れて、つまずいて、のめったので、生爪なまづめをはがしたのです。
 しばらく立てませんでした。
 かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。
 その後、旅行をして諸国を歩行あるくのに、越前のの芽峠のふもとで見かけた、炭を背負しょった女だの、碓氷うすいを越す時汽車の窓からちらりと見ました、隧道トンネルを出て、と隧道を入る間の茶店に、うしろ向きのむすめだの、みやこでは矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが……その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。
 内へ帰って、
(美しき君の姿は、
 熊に取られた。
 町の角で、町の角で――
 跛ひきひき追えど及ばぬ。)
 もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、真日中まびなかにそんなものをて、そんなことを云う貴下あなたは、身体からだが弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出禁制きんぜい
 以前は、その形で、正真正銘の熊の、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……」

       三十二

「日がってから、叔母が私の枕許まくらもとで、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
(妹の声は私も聞きたい。)
 と、手函てばこ金子かねを授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。
 国を出て、足かけ五年!
 津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、そのさきか、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また小児こどもたちも、手毬が下手になったので、しまいまで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。

 とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、おさなともだちばかり、矢もたてたまらず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。高峰たかねへかかる雲を見ては、つたをたよりにすがりたし、うみを渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌穴いわあなの底も極めたければ、滝の裏ものぞきたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の庚申塚こうしんづかに一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。
 トこの間――名も嬉しい常夏とこなつの咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。
 宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、月明つきあかりの村雨の中を山路へかかって、
(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ。
 天神様の細道じゃ、
       細道じゃ。)
 と童謡を口吟くちずさんで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」
 僧は魅入られたごとくに見えたが、溜息ためいきほっき、
「まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」
「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……いいえ、……そのものであるらしい。この手毬をもてあそぶのは、たしかにその婦人おんなであろう。その婦人は何となく、この空邸あきやしきに姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。
 爺さんに強請ねだって、ここを一借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その婦人おんなの心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。
 あるいはこれを、小川のすその秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩燦爛さんらんとしてほとばしる。この色が、紫に、緑に、紺青こんじょうに、藍碧らんぺきに波を射て、太平洋へ月夜のにじを敷いたのであろうも計られません、」
 とまた恍惚うっとりとなったが、うなじを垂れて、
「そのたたり、その罪です。このすべての怪異は。――自分のよくのために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。
 祟らば祟れ!飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。
 心のまよいか知れませんが。のあたり見ます、怪しさも、すごさも、もしや、それが望みの唄を、何人なんぴとかが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです――行燈あんどうが宙へ浮きましょう。
(美しき君の姿は、
 萌黄もえぎの蚊帳を、
 蚊帳のまわりを、姿はなしに、
 通る行燈あんどおもかげや。)……
 勿論、こんなのではありません。または、
(美しき君のいおりは、[#底本では冒頭に「(」なし]
 前の畑に影さして、
 棟の草も露に濡れつつ、
 月のかつら茅屋かややにかかる。)……
 ちっとも似てはおらんのです。屋根で鵝鳥がちょうが鳴く時は、波にさらわれるのであろうと思い、板戸に馬の影がさせば、修羅道にちるか、と驚きながらも、
(屋根で鵝鳥の鳴き叫ぶ、
 板戸にこまの影がさす。)
 と、うつつにも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心はうなずきません。
 いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、たたりならばよし罪はいとわん、」
 と激しく言いつつ、心づいて、悄然しょうぜんとして僧を見た。
「ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うとなさけない。
 ああ、お話が八岐やちまたになって、手毬は……そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの白粉おしろいの花の蔭から、芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、221-3]の葉を顔に当てた小児こどもが三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくようにそばへ寄ると、縁側から覗込のぞきこんで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、
(それをおくれ。)と言います。
(お前たちのか。)
 と聞くと、かぶりるから、
(じゃ、小父おじさんのだ。)と言うと、男が毬を、という調子に、
(わはは)と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。」――

       三十三

「何、わしがうわさしていさっせえた処だって……はあ、お前様めえさま二人でかね。」
 どッこいしょ、と立ったまま、広縁が高いから、背負しょって来た風呂敷包は、腰ぎりにちょうど乗る。
「だら、いけんども、」
 と結目むすびめ解下ときおろして、
「天井裏でうわさべいされちゃたまんねえだ。」
 と声をひそめたが、宰八は直ぐ高調子、
「いんね、わし一人じゃござりましねえ。喜十郎様がとこの仁右衛門の苦虫にがむしと、学校の先生ちゅが、同士にはい、門前もんまえまで来っけえがの。
 あの、樹の下の、暗え中へ頭突込つッこんだと思わっせえまし、お前様、苦虫の親仁おやじ年効としがいもねえ、新造子しんぞっこが抱着かれたように、キャアと云うだ。」
「どうしたんです。」
「何かまた、」
 と、僧も夜具包の上から伸上って顔を出した。
 宰八紅顱巻あかはちまきをかなぐって、
「こりゃ、はい、御坊様御免なせえまし。御本家からもよろしくでござりやす。いずれ喜十郎様お目にかかりますだが、まずゆっくりと休まっしゃりましとよ。
 わしこういうぞんざいもんだで、お辞儀の仕様もねえ。婆様がよッくハイ御挨拶しろと云うてね、お前様うまがらしっけえ、団子をことづけて寄越よこしやした。茶受ちゃうけにさっしゃりやし。あとで私が蚊いぶしを才覚しながら、ぶつぶつ渋茶を煮立てますべい。
 それよりか、お前様、腹アすかっしゃったろうと思うで、御本家からまた重詰めにして寄越さしった、そいつをぶら下げながら苦虫が、右のお前様、キャアでけつかる。
 門外の草原を、まるで川の瀬さ渡るように、三人がふらふらよちよち、モノ小半時かかったが、芸もねえ、えら遅くなって済まんしねえ。」
「何とも御苦労、」
 と僧は慇懃いんぎんつむりをさげる。
「その人たちは、どうしたのかね。」
 と明が尋ねた。
「はい、それさ、そのキャアだから、お前様、どうした仁右衛門と、云うと、苦虫が、つらさ渋くして、(ああ、いやなものを見た。おらが鼻のさきを、ひいらひいら、あの生白なまちらけた芋の葉の長面ながづらが、ニタニタ笑えながら横に飛んだ。精霊棚の瓢箪ひょうたんが、ひとりでにぽたりと落ちても、御先祖のいましめとは思わねえで、酒もめねえおらだけんど、それにゃつるが枯れたちゅう道理がある。風もねえに芋の葉が宙を歩行あるくわけはねえ。ああ、厭だ、総毛立つ、内へ帰って夜具をかぶって、ずッしり汗でも取らねえでは、煩いそうに頭も重い。)
 とすくむだね。
 いつも小児こどもが駆出したろう、とそう言うと、なお悪い。あの声を聞くとたまらねえ。あれ、あれ、石を鳴らすのが、谷戸やとに響く。時刻も七ツじゃ、とあおくなって、風呂敷包打置ぶちおいて、ひょろひょろ帰るだ。
 先生様、ではお前様、その重箱を提げてくれさっせえ、とわしが頼むとね。
(厭だ、)と云っけい。
(はてね、なぜでがす。)
 ここさ、お客様のめえだけんど、気にかけて下せえますなよ。
(軍歌でもやるならまだの事、子守や手毬唄なんかひねくる様なやつの、弁当持って堪るものか。)
 とくでねえか。
 奴は朋友ともだちに聞いた、と云うだが、いずれ怪物ばけもの退治に来た連中からだんべい。
 お客様何でがすか、お前様、子守唄こさえさっしゃるかね。袋戸棚の障子へ、書いたものっとかっしゃるのは、もの、それかね。」
 明は恥じたる色があった。
「こしらえるのじゃない、聞いたのを書き留めて置くんです。数があって忘れるから、」
「はあ、わしはまた、こんな恐怖おっかねとこに落着いていさっしゃるお前様だ。
 怨敵おんてき退散の貼御符はりごふうかと思ったが。
 何か、ハイ、わけはわかンねえがね、悪く言ったのがグッとしゃくさわったで、
(ならうがす、客人のものは持ってもれえますめえ、が、お前様、学校の先生様だ。し、私あハイ、何も教えちゃもらわねえだで、師匠じゃねえ、同士に歩行あるくだら朋達ともだちだっぺい。蟹の宰八が手ンぼうの助力さっせえ。)
 とめつけたさ。
 帽子の下で目を据えたよ。
(貴様のような友達は持たん、失敬な。)と云って引返したわ。何かかこつけ、根は臆病でげただよ。見さっせえ、韋駄天いだてんのように木の下を駆出し、川べりの遠くへ行く仁右衛門親仁を、
(おおい、おおい、)
 と茶番の定九郎さだくろうめやあがる。」

       三十四

 その夜に限って何事もなく、静かに。……寝ようという時、初夜過ぎた。
 宰八が手燭てしょくに送られて、広縁を折曲って、はるかに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、故郷ふるさとには蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つおもいがある。
「ここかい。」
「それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立ってるのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お前様めえさま帰りがけに取違えてはなんねえだよ。
 二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。」
「もう分りましたよ。」
かあねえ、わし、ここに待っとるで、あかりをたよりに出て来さっせえ。
 私も、この障子のいかいこと続いたのに、めらめら破れのある工合ぐあいが、ハイ一ツ一ツ白髑髏しゃれかうべのようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、いれかわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」
 僧は戸を開けながら、と、声をかけて、
「御免下さい。」
 と、ぴたりと閉めた。
「あ、あ、気味の悪い。誰に挨拶あいさつさっせるだ。南無阿弥陀仏なむあみだぶ、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ[#「考えたぞ」は底本では「考えだぞ」]。そこさ一面の障子の破れのぞいたら何が見えべい――南無阿弥陀仏なんまいだ、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋燭ろうそくがひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立処たちどころに六道の辻に迷うだて。南無阿弥陀仏なんまいだ、御坊様、まだかね。」
「ちょいと、」
「ひゃあ、」
 僧は半ば開いて、中に鼠の法衣ころもで立ちつつ、
「ちょいとあかりを見せておくれ。」
「ええ、お前様、さきへ戸を開けておいてから何か言わっしゃればい。板戸が音声おんじょうを発したか、と吃驚びっくりしただ、はあ、何だね。」
「入口の、この出窓の下に、手水ちょうず鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」
「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」
 と手燭ばかりを、ずいと出して、
「鉢前にゃ、が明けたら見さっせえまし、大した唐銅からかねの手水鉢の、この邸さいて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……」
 ええ、そよら、そよらと風だ。
 そ、その鉢にゃ水があればいがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶ののこりけて進ぜる。」
「あります、あります。」
 ざっと音をさして、
「冷い美しい水が、満々なみなみとありますよ。」
「嘘をくもんでェねえ。なにうつくしい水があんべい。井戸の水は真蒼まっさおで、小川の水は白濁りだ。」
「じゃああかりで見るせいだろうか、」
「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」
「いいえ、縁切ふちきりこぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真白まっしろ手拭てぬぐいが、」
 と言いかけてしばらく黙った。
今年より卯月うづき八日は吉日よ
    尾長おなが蛆虫うじむし成敗ぞする
「ここにさかさまにはってあるのは、これは誰方どなたがお書きなすった、」
「……南無阿弥陀仏なまいだ、南無阿弥陀仏……」
「ああ、いおてだ。」
 と大和尚のように落着いて、おおきく言ったが、やがてちとあわただしげに小さな坊さまになって急いで出た。
「ええ、はやく出さっせえ、わしもう押堪おっこらえて、座敷から庭へ出て用たすべい。」
「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」
 と掛手拭をめた癖に、薄汚れた畳んだのを自分のたもとから出している。
南無阿弥陀仏なんまいだぶ、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いてっただとよ、きそこだ、今ソンな事あどうでもえ。頭から、慄然ぞっとするだに、」
「そうかい、ああ私も今、手をこうとすると、真新しい切立きりたての掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」
「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その跫音あしおとを忍びたそうに、腰を浮かせて、同一おなじ処を蹌踉蹌踉うろうろする。

       三十五

「そうふらふらさしちゃあかりが消えます。貸しなさい、私がその手燭てしょくを持とうで。」
「頼んます、はい、どうぞお前様めえさま持たっせえて、ついでにその法衣ころも着さっせえ姿から、光明赫燿かくやくと願えてえだ。」
 僧は燭を取って一足出たが、
「お爺さん、」
 と呼んだのが、驚破すわや事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を引込ひっこめ、不具かたわの方と同一おなじ処で、てのひらをあけながら、据腰すえごしで顔を見上げる、と皺面しわづらばかりが燭の影に真赤まっかになった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言うさまは、鬼がささやくに異ならず。
「ええ、」
「どこか呻吟うめくような声がするよ。」
「芸もねえ、おどかしてどうさっせる。」
「聞きなさい、それ……」
「う、う、う、」
 といやな声。
「爺さん、お前が呻吟くのかい。」
「いんね、」
 と変な顔色で、鼻をしかめ、
「ふん、難産の呻吟声うめきごえだ。はあ、御新姐ごしんぞうならしっけえ、姑獲鳥うぶめになって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」
「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」
「ひええ、今、お前様がらっしたばかりでねえかね、」
「されば、」
 と斜めに聞澄まして、
「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」
「はあ、」
 と宰八も、聞定めて、ほっと息して、
「まず構外かめえそとだ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいとおさえてまた蹈張ふんばり、
「野郎、へえってみやがれ、野郎、活仏いきぼとけさまが附いてござるだ。」
「仏ではなお打棄うっちゃってはかれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰かくるしんでいるようだよ。」
「これ、静かにさっせえ、だ、術だてね。ものその術で、背負引しょびき出して、お前様天窓あたまから塩よ。わしは手足い引捩ひんもいで、月夜蟹でがねえ、とろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」
「あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。」
「へ、はやいもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」
 と云う時……判然はっきり聞えたが、しわがれた声であった。
「助けてくれ……」
「…………」
「…………」
「宰八よう、」――
 と、むぐらがくれに虫の声。
 てんぼうがにふるえ上って、
「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」
「何、虫が呼ぶ?」
「ええ、仁右衛門にえむの声だ。南無阿弥陀仏なんまいだ、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門前もんまえから遁帰にげかえった親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿智慧さるぢえだね、打棄うっちゃっておかっせえまし。」
 と雨戸を離れて、肩を一つゆすってこうとする。広縁のはずれと覚しき彼方かなたへ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った燈籠とうろうのような白紙しらかみがふらりと出て、真四角まっしかくに、ともしび歩行あるき出した。
「はッあ、」
 と退すさって、僧にせな摺寄すりよせながら、
「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、南無なんまいだ、なんまいだ。」
 僧も爪立つまだって、浮腰うきごしに透かして見たが、
行燈あんどうだよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここはくかい。」
「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」
「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、なさけ抵抗てむかやいばはないはず、」
 くるるをかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞っておおい果さず、あかりさっと夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、くまある暗きむぐらの中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、つに這廻はいまわるは、そもいかなるものぞ。

       三十六

 声を聞いたより形を見れば、なお確実たしかに、飛石を這ってうめいていたのは、苦虫の仁右衛門であった。
 月明つきあかりに、まさしくそれと認めが着くと、同一おなじうたがいうちにもいくらか与易くみしやすく思った処へ、明が行燈あんどうを提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでにぎ着ければ、露に濡れる分はいとわぬ親仁。
 さやさやとむぐらを分けて、おじいどうした、と摺寄すりよると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を引張ひっぱって、と拝むがごとく指出した。左のかいなを、ぐい、とつかんで、けものにしては毛が少ねえ、おおおお正真しょうじん正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて引立ひったてると、飛石から離れるのが泥田どろだを踏むような足取りで、せいせい呼吸いきを切って、しがみつくので、咽喉のどがしまる、とつぶやきながら、宰八もはやらちを明けたさに、委細構わずずるずる引摺ひきずって縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう?まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、竹槍たけやりを握っていたのである。
 これは、と驚くと、仔細しさいござります。水を一口、と云う舌もこわばり、唇は土気色。手首も冷たく只戦ひたわななきに戦くので、ともかく座敷へ連れよう……何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。
 ひっそいだ切尖きっさきするどいのが、法衣ころもの袖をかすったから、背後うしろに立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。
 さあおぶされ、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧のすそくわえたていに、膝でって縁側へ這上はいあがった。
 あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。
 背後うしろで雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら風向かざむきさそうなので、宰八があざけると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、歩行あるくあとがつく、と這いながら云ったので――イヤその音のおびただしさ。がらりと閉め棄てに、明のせな飛縋とびすがった。――真先まっさきへ行燈が、坊さまの裾[#「裾」は底本では「据」]あたり宙を歩行あるいて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の這身はいみ、竹槍がしりえおさえて、暗がりを蟹が通る。……広縁をこのていは、さてさて尋常事ただごとではない。
 やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわし、あまたたび口籠くちごもりながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八此方こなたにはなおの事、四十年来の知己ちかづきが、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。
 御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これはひと分別ある処と、三日二夜ふたよる、口も利かずにまじまじと勘考した。はてたくんだり!てっきりこいつ大詐欺おおかたりに極まった。汝等うぬらはかって、見事に妖物邸ばけものやしきにしおおせる。棄て置けば狐狸こり棲処すみか、さもないまでも乞食の宿、焚火たきびの火沙汰ざたも不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、股倉またぐら掻込かいこむ算段、図星図星。しゃ!明神様の託宣おつげ――と眼玉まなこだまにらんで見れば、どうやら近頃から逗留とうりゅうした渡りものの書生坊しょせっぽう、悪く優しげな顔色つらつきも、絵草子で見た自来也じらいやだぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方せた旅僧めも、その同類、茶店のばばも怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪をかける。待て待て狂人きちがいの真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた――巫山戯ふざけ奴等やつら、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵にげたは真田幸村さなだゆきむら、やがてもり返して盗賊どろぼうの巣を乗取のっと了簡りょうけん
 いつものように黄昏たそがれの軒をうろつく、嘉吉引捉ひっとらえ、しかと親元へ預け置いたは、屋根から天蚕糸てぐすはりをかけて、行燈を釣らせぬ分別。
 かねて謀計はかりごと喋合しめしあわせた、同じく晩方げる、と見せた、学校の訓導と、その筋の諜者ちょうじゃを勤むる、狐店きつねみせの親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
 二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を打殺ぶちころすに仔細はない、と竹槍をひっそばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを辿たどり辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の周囲まわりをぐるりと見ると。……

       三十七

 烏が一羽歴然ありありと屋根に見えた。ああ、あの下あたりで、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。
 この姿は、むぐらを分けて忍び寄ったはじめから、目前めさき朦朧もうろうと映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根をくぐるようでもあるし、浮き上って葉尖はさきを渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の身体からだと、竹槍との組合せで、月明つきあかりには、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。
 ト見ると、肩のあたりの、すらすらとやさしいのが、いかに月に描き直されたればとて、くわを担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。
 その細腰を此方こなたへ、背をななめにしたすそが、はぎのあたりへかわらを敷いて、細くしなやかに掻込かいこんで、蹴出けだしたような褄先つまさきが、中空なれば遮るものなく、便たよりなさそうに、しかしかろく、軒の蜘蛛くもの大きなのに、はらりと乗って、水車みずぐるまに霧がかかった風情に見える。背筋のなびく、頸許えりもとのほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影はおぼろながら、濃い黒髪は緑をつかねて、森の影が雲かと落ちて、そのおもかげをうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いださまで、二の腕の腹を此方こなたへ、雪のごとく白く見せて、しずかびんの毛をでていた。
 白魚しらおの指のさきの、ちらちらと髪をくぐって動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。
 驚破すわけだものか、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根住居ずまいしてござる。おのれ、見ろ、と一足退すさって竹槍を引扱ひきしごき、鳥を差いた覚えのこつで、スーッ!突出つきだした得物のさきが、右の袖下をくぐるや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。
 つちが急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。他愛たわいなく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と白粉おしろいの花の上。
 と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南無三宝なむさんぼう仰向あおむけに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真中まんなかあたり、鳩尾みぞおちを、土足でんでいようでないか。
 仁右衛門ぶるぶるとなり、据眼すえまなこじっと見た、白い咽喉のんどをのけざまに、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇をる歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初産ういざんに世を去った御新姐ごしんぞである。
 親仁は天窓あたまから氷を浴びた。
 恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足をけると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
 うむ、とうめかれて、ハッと開くと、もとの足で踏みかける。顛倒てんどうして慌てるほど、身体からだのおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々だらだらと血を吐くのが、咽喉のどかかり、胸を染め、乳の下をさっと流れて、仁右衛門のあしのうら生暖なまあたたこう垂れかかる。
 あッと腰を抜いて、手をくと、その黒髪を掻掴かいつかんだ。
 御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏躪ふみにじられる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞爾にっこりする、……その唇から血が流れる。
 足はにかわで附けたよう。
 同一おなじ処でうごめく処へ、宰八の声が聞えたので、救助たすけを呼ぶさえ呻吟うめいたのであった。
 かくて、手を取って引立ひったてられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘々ねばねばする、手はこの通り血だらけじゃ、とおののいたが、行燈に透かすと夜露にれて白けていた。

折れ何とも、六十の親仁が天窓あたまを下げる。宰八、夜深よふかじゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間にりたくない、生命いのちばかりはお助けじゃ。」
 と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
 そこで、表門へ廻った二人は、とみんな連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐饂飩きつねうどんの亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散にげた、と言う。

 何を見て驚いたか、渠等かれらかぶりって語らない。一人ははかま穿いた官女の、目の黒い、耳のがったすさまじき女房の、薄雲うすぐもりの月に袖を重ねて、木戸口にたたずんだ姿を見たし、一人は朱のつらした大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程ってほのかれ聞える。――

       三十八

二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二隅ふたすみと、障子と、ふすまと、両方の鴨居かもいの中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅麻こうあさすそ長くいて、縁側のかたに枕を並べた。
 ある日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
 いずれそれも、怪しき事件ことの一つであろう。……あわれ、このわかき人の、聞くがごとくんば連日の疲労つかれもさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得てうつつなく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越にみまもらるるは床の間を背後うしろにした仄白々ほのしろじろとある行燈あんどう
 楽書らくがきの文字もないが、今にも畳を離れそうで、すそが伸びるか、ともしびが出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
 そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
貴下あなた寝冷ねびえをしては不可いけません。」
 寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩尾みぞおちへ踏落しているのを、せた胸にさわらないように、っと引掛ひっかけたが何にも知らず、まずかった。――仁右衛門が見た御新姐ごしんぞのように、この手が触って血を吐きながら、莞爾にっこりとしたらどうしょう。
 そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目をふさぐ、と塞ぐ後から、まぶたがぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心がえて寝られぬのである。
 掻巻かいまき引被ひっかぶれば、ふすまの袖から襟かけて、おおき洞穴ほらあなのように覚えて、足をいて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
 すぽりと脱いで、坊主天窓あたまをぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
 そこできっとなって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
衆怨悉退散しゅうおんしったいさん、」
 と仰向あおむけのままじゅすと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕許まくらもとへ来たのがある。
 が、雨垂あまだれとも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないでうつつ[#ルビの「うつつ」は底本では「うつ」]でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度はたしかに頬にかかった。
 やっと冷たいのが知れて、てのひらでると、ひやりとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐るともしびの影にすかしたが、さいわいに、血の点滴したたりではない。
 さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝ってしずくするばかり、はらはらと降りそそぐ。
 耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
 浮世にあらぬ仮の宿にも、これほどわびしいものはない。けれども、雨漏あまもりにも旅馴たびなれた僧は、押黙って小止おやみを待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎上はねあがって繁吹しぶきが立ちそう。
 屋根で、鵝鳥がちょうが鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻頭はなづらにじんだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻遣かいやりながら、立膝で、じりりと寄って、肩までまくれた寝衣ねまきの袖を引伸ばしながら、
「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」
 と呼んだが答えぬ。
 目敏めざとそうな人物が、と驚いて手をかざすと、すすきの穂をゆすぶるように、すやすやと呼吸いきがある。
「ああ、よく寝られた。」
 とじっと顔を見ると、明の、まなじりの切れた睫毛まつげの濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同一おなじ雨垂れに濡れたか、あらず。……
 来方こしかたは我にもあり、ただ御身おんみは髪黒く、顔白きに、我はかしらあおく、つらの黄なるのみ。同一おなじ世の孤児みなしごよ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
 四辺あたりを見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身体からだばかりで、明の床には、をあさるのみらぬ。
 南無三宝、魔物のつばじゃ。

       三十九

 例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へられた、小僧の時より辛いので、たまりかねて、蚊帳の裾を引被ひっかついで出たが、さてどこを居所いどころとも定まらぬ一夜の宿。
 消えなんとする旅籠屋はたごや行燈かんばんを、時雨の軒に便る心で。
 僧は燈火ともしび[#「燈火」は底本では「灯燈」]もと膝行いざり寄った。
 寝衣ねまきを見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕をこうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
 その腕を長く、つき反らしてさすりながら、
衆怨悉退散しゅうおんしったいさん。」
 とまた念じて、じっと心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、しんとして静まり返る。
 また余りのしずかさに、自分の身体からだが消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押瞑おしつぶった目を夢から覚めたように恍惚うっとりと、しかもつぶらに開けて、真直まっすぐな燈心を視透みすかした時であった。
 飜然ひらりと映って、行燈あんどうへ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどのおおき蜘蛛くも、と咄嗟とっさに首をすくめたが、あらず、あらず、柱に触って、やがて油壺あぶらつぼの前へこぼれたのは、の葉であった、青楓あおかえでの。
 僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それはかれにも分りはせぬ。
 ト続いて、さっと影がさして、横繁吹よこしぶきに乗ったようにさらりと落ちる。
 我にもあらず、またもやそれを拾った時、せんのを、
「一枚、」
 と思わずかぞえた。
「二枚、」
 とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどのけやきの葉で、ひらひらとともしびかすめて来た、影がおおきい。
「三枚、」
 と口のうちつぶやくと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙にさわった。
「四枚、五枚、六枚、七枚、」
 と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
 空を仰ぐと、天井は底がなく、暗夜やみ深山みやまにある心地。
 おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通魔とおりまが、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通証券とおりてがたであろうも知れぬ。膝を払ってと立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶるとかれは身震いした。
「えへん!」
 と揉潰もみつぶされたようなかすれたせきして、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめにった半紙である。
 これはここへ来てからの、心覚えの童謡わらわうたを、明が書留めて朝夕ちょうせきに且つ吟じ且つながむるものだ、と宵に聞いた。
 立ったままに寄って見ると、真先まっさきに目に着いたのが濃い墨で、
落葉一枚、
 僧は更に悚然ぞっとした。
落葉一枚、
二枚、三枚、
とおとかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
      君の年――
 振返ると、まだそこに、掃掛けてしたように、あおきが黒く散々ちりぢりである。
懐かしや、花の常夏とこなつ
霞川に影が流れた。
そのおもかげや、俤や――
 紙を通して障子の彼方かなたに、ほの白いその俤が……どうやらいて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、はるかに、星の座も、竜宮のともしび同一おなじ遠さ、と思うあたり黄金こがねの鈴を振るごとく、ただ一声こえ、コロリン、と琴が響いた。
 はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
コロリン!
 と字が動いたよう。続けて――
琴の音が…………
 と記してあった。

       四十

 客僧は思案して、心を落着け、衣紋えもんを直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙動ふるまいは、木曾街道の盗賊ものどりめく。
 不浄よけの金襴きんらんきれにくるんだ、たけ三寸ばかり、黒塗くろぬりの小さな御厨子みずしを捧げ出して、袈裟けさを机に折り、その上へ。
 元来もとこの座敷は、京ごのみで、一間の床の間にかたわらに、高い袋戸棚が附いて、かたえは直ぐに縁側の、戸棚の横が満月なりに庭に望んだ丸窓で、嵌込はめこみの戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが故郷ふるさとの家の、書院の構えにそっくりで、なつかしいばかりでない。これもここでのぞみの達せらるるきざしか、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、卓子テエブルまがいの机に使って、旅硯たびすずりも据えてある。椅子がわりに脚榻きゃたつを置いて。……
 周囲まわりが広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。
 そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、深切しんせつな宰八じじいは、夜のものと一所に、机を背負しょって来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、ほこりは据えず差置いた。心にかなって逗留とうりゅうもしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。
 その机を、今ここへ。
 御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと四辺あたりた時、蚊帳の中で、三声みこえばかり、いたく明がうなされた。が……此方こなたの胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、さいわいにまたしずかになった。
 障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。しきりに気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔てのふすまの合せ目である。
「わが仏守らせたまえ。」
 と祈念なし、机を取って、押戴おしいただいて、きっと見て、其方そなたへ、と座を立とうとする。
 途端であった。
「しばらく。」
 ずしん、の底へ響く声がした。
 明が呼んだか、と思う蚊帳のうちで、またはげしくうなされるので、呼吸いきを詰めて、
「…………」
 色を変える。
 襖の陰で、

「客僧しばらく――唯今ただいまそれへ参るものがござる。往来をふさぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、御身おみに向うて、害を加うる仔細しさいはない。」
 ト見ると襖から承塵なげしへかけた、あまじみの魍魎もうりょうと、肩を並べて、そのかしら鴨居かもいを越した偉大の人物。眉太く、眼円まなこつぶらに、鼻隆うして口のけたなるが、頬肉ほおじしゆたかに、あっぱれの人品なり。びらの帷子かたびらに引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同一おなじ色の無地のはかま、折目高に穿いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆきみじかな右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、ゆるぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気にされた僧は、ひしと茶斑ちゃまだらの大牛に引敷ひっしかれたる心地がした。
 はっと机に、突俯つッぷそうとする胸を支えて、
「誰だ。」
 と言った。
「六十余州、罷通まかりとおるものじゃ。」
「何と申す、何人なんぴと……」
「到る処の悪左衛門、」
 と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に罷在まかりある、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪…………」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪……魔、人間をのろうものか。」
「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉よがらすうらも輝き、瀬のあゆうろこも光る。くまなき月を見るにさえ、捨小舟すておぶねの中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋かややの屋根ではないか。
 しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、そこなわるるは自業自得じゃ。」

       四十一

真日中まひなかに天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会いであえばわきへ外れ、遣過やりすごして背後うしろを参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れおおせぬ、見て驚くは其奴そやつの罪じゃ。
 いかに客僧、まだ拙者それがしを疑わるるか。」
 と莞爾かんじとして、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰下みおろしつつ、
「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷在まかりあるをあやしまるるか。うむ、疑いに※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはられたな。※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいたその瞳も、直ちに瞬く。
 およそ天下に、を一目も寝ぬはあっても、またたきをせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥間なかま一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御身おみ等が顔容かおかたち、衣服の一切すべて睫毛まつげまでも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にもけるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
 すべて一たびただ一にんの瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消えするものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることをあやしむまい。」
 と悠然として打頷うちうなずき、
「そこでじゃ、客僧。
 たといその者の、自から招くわざわいとは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるはあやしまず、行燈あんどうの火の不意に消ゆるにわめき、天に星の飛ぶをいぶからず、地にうりの躍るに絶叫する者どもが、われら一類がわざおびやかされて、その者、心を破り、気をきずつけ、身をそこなえば、おのずから引いて、我等修業のさまたげとなり、従うて罪のさわりとなって、実はおおいに迷惑いたす。」
 と、やや歎息をするようだったが、あらためて、また言った。
「時に、この邸には、当月はじめつかたから、別に逗留とうりゅうの客がある。同一おなじ境涯にある御仁ごじんじゃ。われら附添って眷属けんぞくども一同守護をいたすに、元来、人足ひとあしの絶えた空屋を求めて便たよった処を、唯今ただいま眠りおる少年の、身にも命にも替うるねがいあって、身命を賭物かけものにして、推して草叢くさむら足痕あしあとを留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から追払おっぱらうが、弱ったのはこの少年じゃ。
 顔容かおかたちに似ぬその志の堅固さよ。ただおとぎめいた事のみ語って、自からそのおろかさを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと手酷てひどこころみをやった。
 あるいは大磐石を胸に落し、我その上に蹈跨ふみまたがって咽喉のどめ、五体に七筋の蛇をまとわし、きばある蜥蜴とかげませてまでのろうたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、折れ果てた。
 よって最後の試み、としてたった今、少年これに人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、御身おみじゃよ。」
 と、じろじろと見るのである。
 覚悟しながらおののいて、
「ここは、ここは、ここは、冥土めいどか。」
 と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑をたたえ、くつくつ忍笑しのびわらいして、
「いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いましうなされた時、客僧、何と、胸が痛かったろう。」
 ズキリとこたえて、
「おお、」
「すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。」
「…………」
「別でない。それそれその戸袋にった朱泥しゅでい水差みずさし、それにんだは井戸の水じゃが、久しい埋井うもれいじゃに因って、水の色が真蒼まっさおじゃ、まるで透通る草の汁よ。
 客僧等が茶を参った、じじいが汲んで来た、あれは川水。その白濁しろにごりがまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、さきに猫の死骸の流れたのを見たために、飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。
 今も言う通りだ。殺さぬまでに現責うつつぜめに苦しめ呪うがゆえ、生命いのちを縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に扱帯しごきおびした、つらいぬの、召使に持たせて、われら秘蔵の濃緑こみどりの酒を、瑠璃色るりいろ瑪瑙めのうつぼから、回生剤きつけとして、その水にしたたらして置くがならいじゃ。」

       四十二

「少年はあじおうて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。
 我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。(ただ一口試みられよ、さわやかな涼しいかんばしい酒の味がする、)と云うに因って、客僧、御身おんみはなおさら猶予ためらう、手が出ぬわ。」
 とまた微笑ほほえみ、
「毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は苦悶くもんし、煩乱はんらんし、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。」
 客僧は色真蒼まっさおである。
「驚いて少年が介抱する。が、もうかなわぬ、臨終という時、
(われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、くこの恐しき魔所をのがれられよ。)
 と遺言する。これぞ、われらのあつらえじゃ。
 蚊帳の中で、少年のうなされたは、この夢を見た時よ、なあ。
 これならば立退たちのくであろう、と思うと、ああ、らちあかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。
 葛籠つづらに秘め置く、守刀まもりがたなをキラリと引抜くまで、ふすまの蔭から見定めて、
(ああ、しばらく、)
 と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。
 これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや余所よそ立退くじゃが。
 その以前、直々じきじきに貴面を得て、客僧にもおし談じたい儀があるとわるる。
 客は女性にょしょうでござるに因って、一応拙者それがしから申入れる。ためにこれへ罷出まかりいでた。
 秋谷悪左衛門取次を致す、」
 と高らかに云って、穏和おだやかに、
「お逢い下さりょうか、いかが、」
 と云った。
 僧は思わず、
「は、」と答える。
 声も終らず、小山のごとく膝をゆらげ、向け直したと見ると、
「ござらっしゃい!」
 破鐘われがねのごときその大音、どっと響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の形体ぎょうたい、片隅の暗がりへ吸込すいこまれたようにすッと退いた、がはるかに小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもそのきぬの色も、はかまの色も、顔の色も、かしらの毛の総髪そうがみも、鮮麗あざやかになお目に映る。
「御免遊ばせ。」
 向うから襖一枚、さっあおく色が変ると、雨浸あまじみの鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。
 ト見ると、房々とあるつややかな黒髪を、耳許みみもと白くくしけずって、櫛巻くしまきにすなおに結んだ、顔を俯向うつむけに、撫肩なでがたの、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣紋えもん白く、空色の長襦袢ながじゅばんに、朱鷺色ときいろの無地のうすものかさねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅葱あさぎが透き、はだの雪もかすかに透く。
 黒髪かけて、襟かけて、月のしずくがかかったような、すそさばけず、しっとりと爪尖つまさかろく、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、はてなき夜の暗さを引いたが、歩行あるくともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞ぼんぼりが二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかがいぬの顔、と思いをめぐらす暇もない。
 僧は前にたたずんだのを差覗さしのぞくように一目見て、
「わッ、」
 とばかりに平伏ひれふした。にこそそのかんばせは、爛々たるしろがねまなこならび、まなじりに紫のくま暗く、頬骨のこけたおとがい蒼味がかり、浅葱にくぼんだ唇裂けて、鉄漿かね着けた口、柘榴ざくろの舌、耳の根には針のごとききばんでいたのである。

       四十三

「おお、自分の顔を隠したさ。貴僧あなたおどす心ではない、戸外そとへ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。」
 と、横へ取ったは白鬼はっきの面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、そのかんばせ差俯向さしうつむけ、しとやかに手をいた。
「は、は、はじめまして、」
 と、しどろになって会釈すると、おもてを上げたさみしい頬に、唇あこ莞爾にっこりして、
前刻さっきはばかりへいらっしゃいます、廊下でお目にかかりましたよ。」
 客僧も、今はなかなかに胴すわりぬ。
貴女あなたはどなたでございます。」
 と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
 美女たおやめつまを深う居直って、蚊帳をすかして打傾く。
 萌黄もえぎが迫って、そのきぬの色を薄く包んだ。
「この方の、おっかさんのお知己ちかづき、明さんとも、お友達……」
 と口を結んだがうれいを帯びた。
 此方こなたは、じりじりと膝を向けて、
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、貴僧あなたにお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」
 とまた蚊帳越に打視うちながめ、
「お最愛いとしい、沢山たんとやつれ遊ばした。罪もむくいもない方が、こんなに艱難辛苦かんなんしんくして、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、おっかさんの恋しさゆえ。
 その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私をなつかしがって、迷って恋におなりなすった。
 その唄はおさない時、この方の母さんから、口移しにおそわって、私は今も、覚えている。
 こうまで、おこがれなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせもおしとうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖にからんで手にすがり、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
 どうして貴僧あなた摺抜すりぬけられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱緊だきしめます。
 と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬおきて
 私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身体からだが、それではほかに願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄身すてみの私、ただ最惜いとおしさ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるにまかせましても、覚悟の上なら私一人、自分の身はいといはしませぬ。
 厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同一おなじような身の上になりますもの……
 それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」
 とさも懸想けそうしたらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
「あれあれ御覧なさいまし。こう言ううちにも、明さんのおっかさんが、花のこずえと見紛うばかり、雲間を漏れる高楼たかどのの、にじ欄干てすりを乗出して、叱りもにらみも遊ばさず、の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血汐ちしおは葉に染めても、秋のの字も、明さんの名にはばかって声には出ませぬ。
 一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最愛いとおしさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身体からだひとの妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
 実のうみの母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、を呑ませたく添寝もしたい――我が最惜いとしむ心さえ、天上では恋となる、その忌憚はばかりで、御遠慮遊ばす。
 まして私は他人の事。
 余計な御苦労かけるのが御不便ごふびんさ。決して私は明さんに、在所ありかを知らせず隠れていたのに、つい膝許ひざもとおさないものが、粗相で手毬てまりを流したのが悪縁となりました。
 彼方かなたも私も身を苦しめ、心をいためておりましたが、お生命いのちあやういまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
 あんまりお心が可傷いじらしい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!
 それは今、私がこの邸を退きますと、もう隅々まで家中があかるくなる。明さんも思い直して、またここを出て旅行たび立ちをなさいます。
 早や今でも沙汰さたをする、この邸の不思議な事が、界隈かいわいへ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」

       四十四

やまいの後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余所よそ婦人おんなが、気軽な腰元の勧めるまま、徒然つれづれの慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、みんな私が手伝いの人と一所に、憂晴うさはらしにしたいたずら遊戯あそび、聞けば、怪我人も沢山たんと出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、みんなの手当をよくするように。)……
 と白銀黄金しろがねこがね沢山たんと授ける。
 さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風説うわさたちますため、病人は心が引立ひったち、気の狂ったのも安心して治りますが、のがれられぬ因縁で、その令室おくがたの夫というが、旅行たびさきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
 その変化沙汰へんげざたのある間、そこにこもった、という旅の少年。……
 この明さんと、御自分の令室おくがたが、てっきり不義にきわまった、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじめましょう。
 貴僧あなた
 その美しい令室おくがたが、人にじ、世に恥じて、一室処ひとまどころ閉切とじきって、自分を暗夜やみに封じ籠めます。
 そして、日がつに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮名うきなが立って濡衣ぬれぎぬ着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、はては恋しく、憧憬あこがれる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、そのおもい同一おなじ事。
 一歳ひととせか、二歳ふたとせか、三歳みとせの後か、明さんは、またも国々をめぐり、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家なつかし、と思いましょう。
 そうなる時には、令室おくがたの、恋の染まった霊魂たましいが、五しきかがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈をく息は、冷たき煙とたちのぼって、中空の月も隠れましょう。二人のなさけの火がかさなり、白き炎の花となって、ふすま障子しょうじも燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、ともしびでもないあかりに、やがて顔を合わせましょう。
 邸は世界のやみだのに。……この十畳は暗いのに。……
 明さんの迷った目には、すすも香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名香めいこうかおりなびく、と心時めき、この世の一切すべて一室ひとまに縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令室おくがたを一目見ると、唄の女神と思いあがめて、ひざまずき、伏拝む。
 長く冷たき黒髪は、玉の緒をる琴の糸の肩にかかって響くよう、たがいの口へ出ぬ声は、はだに波立つ血汐ちしおとなって、聞こえぬ耳に調しらべを通わす、かすかに触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、わななもすそと、震えるひざは、漂う雲に乗る心地。
 ああこれこそ、我が母君……とすがり寄れば、乳房に重く、胸にかろく、手に柔かくかいなたゆく、女は我を忘れて、抱く――
 我児わがこ危い、目盲めしいたか。罪に落つる谷底の孤家ひとつやの灯とも辿たどれよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、いなずまとなって壁にひらめき、分れよ、退けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、なさけの露は樹にそそぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁のあさひの影には瑠璃るり紺青こんじょうくれないしずくともなるものを。
 罪の世の御二人には、ただ可恐おそろしく、すさまじさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
 そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、を思うさえ恋となる、天上ののりを越えて、おきてを破って、母君が、雲の上の高楼たかどのの、玉の欄干らんかんにさしかわす、かつらの枝を引寄せて、それにすがって御殿の外へ。
 空にうかんだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲がさかさまに百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界のそらへ落ちている。あの、その上を、ただ一条ひとすじ、霞のような御裳おすそでも、たわわに揺れる一枝ひとえだの桂をたよりになさるあぶなさ。
 おともだちの※(「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26)じょうろうたちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽のとどめて、はらはらとたちかかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、こうがいがキラキラと、星に映って見えましょう。
 座敷でやみから不意にそれを。明さんは、手を取合ったはあだおんな、と気が着くと、ふすまも壁も、大紅蓮だいぐれん跪居ついいる畳は針のむしろ。袖にはくちなわ、膝には蜥蜴とかげあたり見る地獄のさまに、五体はたちまち氷となって、慄然ぞっとして身を退きましょう。が、もうその時は婦人おんなの一念、大鉄槌てっついで砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
 胸のおもいは火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦絵にしきえを、炎にかざして見るような、おもてかっと、胡粉ごふんに注いだ臙脂えんじ目許めもとに、くれないの涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐怖おそれと、恥羞はじに震う身は、人膚ひとはだあたたかさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、なつかしさが劣らずなって、振切りもせず、また猶予ためらう。
 思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推量おしはかって、多勢の上※(「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26)たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんがのぞみの唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」
 と、神々しいまでおもて正しく。……
 僧は合掌して聞くのであった。
 そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美人たおやめの手、一たび我に触れなば、立処たちどころにその唄を聞き得るであろうと思った。

       四十五

 美人たおやめあらためて、
貴僧あなた、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
 日頃のおくるしみに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」
 と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻のかおりがはっとして、肩に萌黄もえぎの姿つめたく、薄紅うすくれないが布目を透いて、
あきちゃん……」
 と崩るるごとく、片頬かたほを横にけんとしたが、きっ立退たちのいて、袖を合せた。
 僧を見る目に涙が宿って、
「それではおいとまいたしましょう。おさない事を、貴僧あなたにはお恥かしいが、明さんに一式のお愛相あいそに、手毬をついて見せましょう、あの……」
 と掛けた声の下。雪洞ぼんぼり真中まんなかを、蝶々のようにと抜けて、切禿きりかむろうさぎの顔した、わらわが、袖にせて捧げて来た。手毬を取って、美女たおやめは、たなそこの白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなるつぼみ掻撫かいなでながら、たもとのさきを白歯しらはで含むと、ふりが、はらりとたすきにかかる。
 ※(「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1-91-26)ろうたけたえみ恍惚うっとりして、
「まあ、私ばかりきまりが悪い、皆さんも来ておつきでないか。」
 蚊帳をはらはら取巻いたは、桔梗ききょう刈萱かるかやうつくしや、はぎ女郎花おみなえし、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
(向うの小沢おざわじゃが立って、
 八幡はちまん長者のおとむすめ
 よくも立ったり、たくんだり、
 手には二本の珠を持ち、
 足には黄金こがねのくつを穿き……)
 壁もふすまも、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちたの葉も、ぱらぱらと、行燈あんどうめぐって操るくれない。中をかがって雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自然おのずからはたはたと躍上おどりあがった。
(京へのぼせて狂言させて、
 寺へのぼせて[#「のぼせて」は底本では「のぼせた」]手習てならいさせて、
 寺の和尚が道楽和尚で、
 高い縁から突落されて、)
 とと投げ上げて、トンと落して、高くついた。
 待てよ。古郷ふるさと涅槃会ねはんえには、はだに抱き、たもとに捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突競つきくらを戯れる習慣ならいがある。わかい男ははばかって、鐘撞かねつき堂からのぞきつつその遊戯あそび見愡みとれたが……巨刹おおでら黄昏たそがれに、大勢の娘の姿が、はるかに壁にかかった、極彩色の涅槃ねはんの絵と、同一状おなじさまに、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背後うしろ位牌堂いはいどうの暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶うつくしいのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几帳窓きちょうまどの前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人数ひとかずに紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――
 と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、このさまを、今ながめている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……
 身動みじろぎに、この美女たおやめびんおくれ毛、さらさらと頬にかかると、その影やらん薄曇りに、ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
こうがい落し小枕こまくら落し……)
 とあやに取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
 みだれし風采とりなり恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、わらわの、拾って抱くのも顧みず、よろよろとたちかかった、蚊帳に姿を引寄せられ、つまのこぼれた立姿。
 屋の棟じっと打仰いで、
「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸がゆらぐ。おお、最惜いとおしの御子おこに、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙動ふるまいに、心騒ぎのせらるるか。客僧方あなたがたには見えまいが、の底にむものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、ことばといっては交わされない。
 美しき夢見るお方、」
 あれ、かしこに母君ましますぞや。愛惜あいじゃくの一念のみは、魔界のちりにも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れるしずくは、母君の御情おんなさけの露を取次ぎ参らする、したたりぞ、とたもとを傾け、差寄せて、差俯さしうつむき、はらはらと落涙して、
「まあ、稚児おさなごの昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」
 さらば、さらば、御僧おんそう。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
 ト玄関から、庭前にわさきかけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
 目をこすり、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはり、目をぬぐいいる客僧に立別れて、やがて静々しずしず――いぬの顔した腰元が、ばたばたとさきへ立ち、炎燃ゆ、とのちらめく袖口で音なく開けた――雨戸にちりばむ星の首途かどいで。十四日の月の有明に、片頬を見せた風采とりなりは、薄雲の下に朝顔のつぼみの解けた風情して、うしろ髪、打揺うちゆらぎ、一たび蚊帳を振返る。
「やあ、」
 と、蚊帳を払って、明が飜然ひらりと飛んですがった。――
 袂を支える旅僧と、押揉おしもむ二人の目のさきへ、この時ずか、とあらわれた偉人の姿、もやの中なる林のごとく、黄なる帷子かたびら、幕をおおうて、ひさしへかけて仁王立におうだち、大音に、
「通るぞう。」
 と一喝した。
「はっ、」
 と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――んで来て、――縁の端近はしぢかに置いた手桶ておけが、ひょい、と倒斛斗さかとんぼひっくりかえると、ざぶりと水をこぼしながら、アノ手でつかつかと歩行あるき出した。
 その後を水が走って、早や東雲しののめの雲白く、煙のようなにわたずみ、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、へさきさっと乗上げて、白粉おしろいの花越しに、すらすらといで通る。大魔の袖や帆となりけん、美女たおやめは船の几帳きちょうにかくれて、
(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ、
 天神様の細道じゃ、
       細道じゃ、
 少し通して下さんせ……)
 最切いとせめてなつかしく聞ゆ、とすれば、樹立こだちしげりどっと風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
明治四十一(一九〇八)年一月

底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※「それとも鼠だが」の「だが」は、底本の親本でもママですが、岩波文庫版では「だか」となっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2003年8月28日作成
2006年5月20日修正
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