目次

科学論

  序
  再版序
  一 科学の予備概念
  二 科学と実在
  三 科学の方法(その一)
  四 科学の方法(その二)
  五 科学と社会
  六 科学的世界
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 序


 科学というものが一纏めにして、一体どういうものであるかを、この書物は分析するのである。そこで、科学自身の脈絡を、なるべく生きたまま取り出して見たいと私は考えた。だがその点あまり成功したとは考えられない。もしこの小さな書物に特色というべきものがあるとすれば、それは、自然科学と社会科学の二つの科学に渡って、その同一と差別と更に又連関とに心を配ったという点だろう。
 体裁にややテキスト風の処もあるが、併しあくまで、科学そのものに就いての評論という観点を守ろうと心がけた。この錯雑紛糾を極めた生活と思想との世界に於て、私は「科学」の性能に、限りない期待を有つからである。
 今から丁度七年前、私は『科学方法論』(岩波書店)を書いた。今度の出版は、この旧著が立っていた立脚点を相当の程度に改変すると共に、出来るだけその規模を拡大したものに他ならない。だが旧著の内に展開されたシステムと見解の或るものには、依然として利用すべきものがあったと思う。この『科学方法論』が併せ読まれるならば、著者の幸いである。――なお今度の書物の思想内容は、すでに之まで出版した私の諸著述や論文の中に、分散して見出されるものが大部分なので、読者が次の拙著も参考にして呉れるならば、本望である。――『イデオロギーの論理学』(鉄塔書院)、『イデオロギー概論』(理想社出版部)、『現代哲学講話』(白揚社)、『技術の哲学』(時潮社)、『日本イデオロギー論』(白揚社)。
 結局に於て時間が不足であったため、論証を省いた処や杜撰な個処が少くない。他日訂正したいと考える。――なお参考書や文献は、機会々々に触れたと思うので、巻末には別に文献目録をつけなかった。そのため載せるべくして機会を得なかったものも多い。
一九三五・一〇
東京
戸坂潤
 再版序


 第二回の予約配本になるのを機会に、少なからぬ誤植を訂正して、再版の体裁にすることにした。出来る限りの訂正をした心算であるが、まだ遺漏があるかも知れないので、今後も読者の助力を乞う次第である。
 私のこの『科学論』に就いて、読者から批評や意見や質問を受け取ったのが数件に及んでいるが、どうも暇がなくて一々回答が出来ずにいるのは心苦しいことだ。書店の希望もあるので、この全書〔『唯物論全書』〕の「月報」でも利用して、順次に答えて行きたいと考えている。
一九三六・二
著者
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  一 科学の予備概念


 広い意味に於て科学というのは、単に分科の学又は特科の学としての所謂「科学」(=特殊科学)だけを指すのではなくて、一般に学問のことを指すのである。処が学問という観念乃至言葉も亦決して元来、今日普通考えられているように限定されていたものではなかった。それは歴史の教える処である。例えばフランシス・ベーコンの有名な学問の分類法によれば、詩(乃至詩学)も亦学問の一つの分枝に数えられている。今日の言葉で言えば、文学乃至文芸も亦一つの学問だというのである。
 併し今日所謂文学なるものが正常な意味に於ける学問だと考えられてはいない通り、「詩」も亦元来決して今日の意味での学問ではなかった。尤も文学という言葉を特に文芸(文学的芸術)から区別して、文献学・古典学・文学的言語学という意味に用いようという提案を採用するならば*、その意味での文学は立派に一つの学問であるのだが、併しそれにも拘らずなお文芸に、この文学という如何にも一つの学問であるかのような紛わしい呼び方が与えられていることは、単に日本や支那の文化的教養の特殊性によるばかりでなく(東洋にはギリシア的――近代的な自然科学と社会科学とが発達せず、その代りに文字による学・文献学が独占的な支配を有っていた)、一般にヨーロッパに於ても古く学問という概念が、広義に於ける芸術乃至技術(Ars―Art―Kunst)とどれ程未分な又は混淆した状態にあったかを示している。
* 文献学 Philologie は主に文筆の所産に関する歴史的研究とその研究方法とを意味する。広義の文筆労作(Literatur)が文献学の対象となる。――観念論哲学とこの文献学(乃至解釈学)との関係は今日特に注目に値いする。
 学問は最も広義な又は古典的な意味における芸術乃至技術の寧ろ一部分に他ならなかった。でこの点まで学問の歴史を溯って行けば、学問はもはや芸術からさえも原則的には区別出来ないものだったと云わざるを得なくなる。芸術は天才の乃至何等かの人間の造ったものだという側面に於て、一種の生産的能動(Poiesis―Poesie)にぞくし、その限りに於て技術にぞくすると考えられた(但しここでいう生産的能動も技術も、まだ、生活物質の物質的生産に於ける真の意味の生産技術ではないが)。学問も亦同じく、古来の一つの通念によれば、天才乃至何等かの人間の創造なのである。現に今日でも、学問は観念や事物の探究・発明・発見によって成り立つという側面が強調される*。だから、古典的な意味に於ける夫々の学問は、実は夫々「自由芸術」だったというわけである。
* 科学に於ける探究・発明・発見をテーマとした研究として、J. Picard, Essai sur la Logique de l'invention dans les Sciences と Essai sur les Conditions positives de l'invention dans les Sciences とを挙げることが出来る。
 それだけではない。支那哲学や印度六派哲学やギリシア=ローマ期の哲学、又中世のカトリック神学、に於て見られる学問なるものは、それ自身が道徳的知恵か宗教的信条かに他ならなかった。道を説き教えを垂れることは、知識や認識の問題ではなく、律法の博士達や「学者」のものでもない。教えや道としての学問は権威がなくてはならぬと考えられた。哲学(中世では一切の学問が哲学と呼ばれる――光学さえが)は神学の婢女だというスローガンは有名であるが、云うまでもなく之は、学問が宗教の一部分となるのでなければ社会的存在を許されない、ということだった。「権威」のないものは学問ではあり得ないというのだ。ヨーロッパ中世末期の哲学が、神学のこのカトリック的権威から独立しそうにし始めたので、そこで教会はこのスローガンを選ばなければならなかったのである。
 だが今日の学問は云うまでもなく、芸術一般からも道徳的教説や宗教的信条からも区別されている。そしてその故にこそ却って一つの独立な権威を有つものだ、ということになっている。この学問的権威の独立性は、強権によるものでもなければ決議によるものでもなく、又修辞的説得力に基くのでもない。社会秩序に順応したり君臨したりするのでもなく、又多数決や話術やによるのでもないということが、近世以来の現代的学問の、独立性と権威だと信じられている。無論、単に天才や何等かの人間の創造するものだということから、学問のこの学問らしい権威ある独立が結果する理由もあり得ない。――では近代的科学のこの「独立」はどこから来るのか。つまり、この近代科学の科学性はどこに存するのか。

 近代的学問の特色は、近世の自然科学がその内に於て占める極めて重大な位置によって、明らかにされている。云うまでもなく現代の諸科学は、何も自然科学自身や又は多少とも自然科学的な特徴を有った学問に限るのではない。まして、ブルジョア社会の文化相に適切に順応するように出来ているという意味でブルジョア的である処の、歴史学や社会諸科学になれば、自然科学的であるどころではなく却って一定の意味に於て反自然科学的でさえあるものが甚だ多い*。だが、こういう反自然科学的傾向を有った諸科学でも、今日では夫が特に自然科学に対立しているという特色を強調しなければならぬ程に、自然科学は近代的学問一般にとっての公然たる標尺となっているのである。だから歴史学や社会科学の内でも、みずから進んで出来る限り自然科学の特色を模倣し、之に接近しようと企てるものが少くない(H・T・バックルの歴史学、A・コントの社会学、ケトレの社会科学、オーストリア経済学派乃至数理経済学、H・T・テーヌの文芸史学、など)。反自然科学的な態度を標榜するブルジョア歴史学やブルジョア社会科学は、恰もこういうものを目標にし、之を打倒しようとすればこそ、その存在理由を有つのであった。
* ブルジョア科学という概念は多くのブルジョア学者自身が承認しない処のものである。例えばM・シェーラーの如き。だがこの概念の説明は一応 E. Untermann, Sciences and Revolution に委せてよい。マルクス・エンゲルスの著作の多くを通じてこの概念の意義の重大さは明らかである。
 自然科学が今日の科学全体に対して有つ代表権を、容認するにしても容認しないにしても、又はある制限と代用物とを条件としてしか容認しないにしても、とに角近代的学問に於ける自然科学の公然たる君臨は、一般的に承認された文化史上の根本想定だと見ていい。
 さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている*。
* H. Cohen, Logik der reinen Erkenntnis[#「Erkenntnis」は底本では「Erkentnis」]; P. Natorp, Die Grundlagen der exakten Wissenschaften; E. Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff. ―― W. Windelband, Pr※(ダイエレシス付きA小文字)ludien; H. Rickert, Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung 其の他参照。――なお之に因んで次の文献を挙げておく必要がある。
 M. Frischeisen-K※(ダイエレシス付きO小文字)hler, Wissenschaft und Wirklichkeit. ――P. Volkmann, Erkenntnistheoretische Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der Naturwissenschaften. ――J. Cohn, Voraussetzungen und Ziele des Erkennens. ――G. Heymans, Die Gesetze und Elemente des wissenschaftlichen Denkens.

 だが歴史的な根拠から見て一等重大な自然科学の特徴は、それが豊富で充分な実験に立脚し、終局に於てこの実験から一切の理論を導き出すことが出来る、ということでなくてはならぬだろう。尤も実験というものが何であるかは簡単には片づかない問題であるが、それは別の機会に明らかにするとして、少くとも之が人間の認識に於ける最も実践的な手段にぞくするものの一つであることには異論があるまい。その意味に於て、観察というものも実験のごく初歩の或いはごく低度のもので、従って実験の一つの契機だと見做していい。
 実験は併し、正確に云えば決して自然科学だけに固有なものではない、従って之を自然科学にしかない特色だと云い切ることは出来ない。社会科学に於ても、自然科学の場合とは多少規定は別であるにしても、矢張り一種の実験の特色を具えた科学的操作は不可能ではないし、又必要でもあると考えられている*。だがこうした社会科学的実験の観念は、実は、それだけ社会科学を自然科学に近づけようとする努力そのものから動機しているのであったから、従って、実験が自然科学に特徴的な特色であることが、これによって却って益々確実になるわけである。
* 社会科学、特に経済学に於て実験の可能と必要とを説いたものは E. Simiand である。拙著『現代哲学講話』の内「社会科学に於ける実験と統計」の項〔本全集第三巻所収〕参照。
 観察と実験とは併し、実は何も近世自然科学と共に始まったものではない。エジプトの医学や天文学や幾何学も、バビロンの星学も、観察と実験との所産以外の何物でもあり得なかった。タレスからアリストテレスに至るギリシア自然哲学の発展も亦、優れた観察と実験との結果を集成する過程であった。中世に於てもアラビアの自然科学(ギリシアの自然哲学とインドからの影響の下に立つ数の科学と)に於てばかりでなく、ヨーロッパの神学者でさえ、観察や実験と無関係に物を云っているのではない。ヴィテロは光学の考察に於て有名であるが、特に実験に注目したと云われるロージャー・ベーコンは十三世紀のフランチスカン派の僧侶だった。――だがそれにも拘らず、中世ヨーロッパの学問は対象を自然に求める代りに之を主として聖書(而も主にそのラテン訳)と註釈書とに求めた。「自然の光明」は「書かれた光明」に光芒を奪われていたのである。物質的生産技術のために自然を大規模に探究する必要を認め得なかった領主的・教権的・封建中世ヨーロッパに、実験という手段が学問の意識的な手段にまで上昇する理由はなかったのである。
 それが所謂ルネサンスとなれば(之は十三世紀から十六世紀まで――ダンテからシェークスピアまでも含むが)、歪曲された聖書解釈と教会の不正なトリック(例えば法皇領の偽証書)との暴露などを通じて、学問はプラトンへ、それから本来のアリストテレスへと、古典復古するわけであり、一般に学芸は神と僧侶領主階級との文化の代りに、自由な人間的文化へと復興するわけである。――処が古典ギリシアそのものにあっても、必ずしも実験(乃至観察)の重大性をハッキリと示すに足るだけの条件は具わっていなかった。観察や実験を少なからず用いるということは、それだけではまだ実験の本当の面目を明示し自覚したことにはならぬ。例えばアリストテレスの『物理学』(フュジカ)は、直接には何等の実験に基いたものでもなく、又直接な自然観察に立脚したものでさえもない。ディルタイなどが強調しているように、之は単に自然の解釈であって、自然の事実に立つ実験的な、従って又因果的な、説明ではない。だからこういうものは正当な意味では、近代自然科学から極めて遠いものと云わねばならぬ。彼の動物学的理論になれば観察や実験は大いに利用されているのだが、之は遺憾ながらアリストテレス的学問法の代表的な部分ではなかった。
 実験又従ってその一契機としての観察の、不可避的に重大な意義を知るようになったのは、何と云っても、だから近世であり、近世の自然科学的精神の台頭と一緒なのである。その意味で初めて実験が近代自然科学の特色をなす。研究手段としての実験に着眼し始めたのは十三世紀に遡る。ロージャー・ベーコンと共に Dietrich von Freiberg や、Petrus Maricourt の名をここに数えることが出来る*。フランシス・ベーコンの実験の提唱は最も有名であるが、併し彼は必ずしも自分で実験をしたのではない。実験の実行に於て誰よりも有力なのはガリレイであったから、自然科学の父はガリレイだと云われることに理由があるのだ。実験を提唱し又みずからそれを或る程度まで試みたものとしては、寧ろフランシス・ベーコンに先立つレオナルド・ダ・ヴィンチを挙げるべきだろう**。尤もアグリコラの技術辞典を私かに利用したかも知れない彼は、自分を勝れた築城家や兵学者として推薦しているように、彼は技術家であって必ずしも近代的な「純粋」な自然科学者ではなかった***。自然科学は技術乃至技術学に基いてしか発達しないのだが、自然科学の例の独立的な権威が、ここでも自然科学の一応の自律性という現象を出現するという事実が、今は大切だ。そこで結局、ガリレイの名とその実験乃至実験的精神とが、自然科学の特色に結びつけられることになるのである。
* H. Dingler, Das Experiment による。
** W. Frost, Bacon und die Naturphilosophie, S. 220ff. 参照。
*** I. B. Hart, The Great Engineers, p. 37ff. 参照。

 フランシス・ベーコンは実験の一つの意義を説明して、自然を拷問にかけることだと云っている。現代の唯物論にとっては、社会に於ける人間が自然に対する基本的な関係は、自然を搾取することだと考えられている。実験は正に自然からの飽くことのない搾取のために最も根本的な手段の一つだろう。この一見功利的に過ぎるように見える自然観と自然科学観とは併し、実は自然科学の他ならぬ科学性そのものを最もよく見抜いているものなのである。凡ゆる本当の科学にとっては、実在従って又自然は、一つの運動の過程なのである。自然の認識は、現に与えられた自然現象の認識・利用に止まることは許されないので、過去の現象の反省と将来の現象の予知とを俟たなければ、現に与えられた事象自身の認識・利用さえも不可能なのである。だから自然の自然科学的認識は、将来の事情を「予見するために見る」という有能(有効)さを持っていなくてはならない。実験はそのためにこそ必要だったのだ。もしそうでなければどこに一体実験の必要があるだろう。
 この点から見て、自然科学の科学性はその実証性にあると云うことが出来る。之を強調したのはオーギュスト・コントの実証主義であったが、処が彼及び其の後の各種の実証主義は、いずれも一種の現象主義と一種の経験主義(超経験的な経験主義さえ――E・フッセルルの如き)とに結びついているため、そのまま之をここへ持って来ることは出来ない。本当の予見は実証主義のものではなくて実は唯物論の特別な能力に俟たねばならないのだが、その唯物論の極めて「自然」的な立場を恰も自分の仮定として想定する自然科学は、その科学性をこの実証性の内に有っているわけなのである。で、自然科学の特徴は押しも押されもしない実証科学だという処にあったのである。
 この実証性――予見するために見る――は自然科学並びに之を公的標準にもつ今日の諸科学を、他の一切の文化形象から区別する。文芸や道徳や宗教(もし宗教も亦文化形態に数えられるならば)が、たとい現実のリアリスティックな材料に基き、又実際問題に一応の解決を与え、又既成の信仰(Positive Religion)をその内容とするにしても、夫は決して予見するために見るという意味で実証的(Positive)なのではない。実証的とは単に事実的ということではなくて、検証が可能だということである。処が検証ということは、一定の予見を検証すること以外に意味がないのである。――吾々の問題はそこで、こうした実証性を代表する処の自然科学と、他の諸科学(乃至学問)との関係であり、おのずから又科学と哲学との関係となる。
 元来が科学は、哲学から分離して来たものであり、元々その一部分であったことに就いて、今更改めて述べる必要はないだろう。例えば十九世紀の後半に至るまで自然科学という言葉と自然哲学という言葉とはあまり区別されていなかった。現代では自然哲学などというものの代りに自然科学があり、それで充分事が足りると考えられる傾きが支配的だが(併しそれでも最近の政治的反動時代に相応しく、ロマン主義的な神秘思想がナチス・ドイツあたりで復興されるに及んで、身心関係の問題などを縁として一種の自然哲学が復興しつつあるのだが)、凡ゆる社会階級を一様に通じては行なわれ得ない理由を有っている社会科学乃至歴史科学に就いては、今日でもなお依然として、或いは、最近の事情の下には愈々、之と密接な関係のあるものとして、各種の社会哲学や歴史哲学が尊重されているのである。
 処でこの種の自然、社会、歴史、の「哲学」は、単に哲学の夫々の一部門であるというだけではなく、実は之が哲学一般を、哲学そのものを、一切の「科学」から区別しようとするために必要なので、このように強調されているのである。つまり科学の外に何等かの哲学という学問(否学問でなくてさえいいのであるが)を安置することが、この試みの興味であるように見える。――この試みの最も露骨なものは、各種の「科学の批判」の仕方の内に現われている。科学(特に自然科学)は吾々が前に見た通り、実証的であった。論者も亦まずこの規定から出発する。科学(乃至特に自然科学)は実証的である。だが哲学は之に反して批判的である、というのである。
 一体実証的という欧米語は積極的・肯定的・プラス的ということを意味する。例のコントは、之と対比して、従来の哲学即ち彼の言葉に従えば形而上学を、消極的でマイナス的だという意味に於て、批判的だと考えた。特にカントの所謂「批判主義」はその適例だというのであった。コントに於ては自然科学はそのままで学問全般の標準であり、それに準じる限り哲学も科学も区別はないのであり、従ってつまり哲学なるものの存在理由は終局に於てなくなるのであるが、そういう実証主義と科学乃至自然科学の万能主義とに、まずアカデミシャンとしての身辺の不安を感じたものは、ドイツの哲学教授達であった。ヘーゲルの哲学体系の美事な完結と又その同じく美事な崩壊とは、哲学そのものの完成とその完全な没落とを意味するかのように受け取られた。この状態から「学としての哲学」を救い出すためには、かの消極的でマイナスなものと貶されたカントの批判主義を、そのまま肯定的なものに逆転すればよい、と考えついた。で批判こそは今や哲学の独立な積極的機能とならねばならぬ。――科学は実在を、之に反して哲学はもはや実在ではなくて価値とか通用性とかいう、二次的な或いは寧ろ高次の、関係か事態を、対象とすると主張する(H・リッケルト、E・ラスク等の範疇論*)。或いはもう少し科学の内容に食い入って、科学の方法・根本概念・前提(予想)を、批判し基礎づけ意味づけることが、哲学の仕事となる(マールブルク学派の範疇論)。
* この観点は、形而上学を科学から救い出そうとした医者であり哲学者であるH・ロッツェから発する(H. Lotze, Logik)。――なおE・フッセルルの「厳密学としての哲学」の観念は、コントの実証主義の先験化されたものである。
 科学と哲学とのこの種類の関係を想定するものは併しながら、決してドイツの新カント学派ばかりでない。フランスの哲学的伝統の最も有力な一つにぞくする「科学の哲学」者達の多くの者も亦、独特な仕方に於て科学の「批判」を哲学の主要任務に数えている。尤もH・ポアンカレやベルグソン(其の他心理学や生理学や社会学からの例は極めて多い)の例でも明らかであるが、「科学の哲学」者の中には元来が自然科学の世界に於ける専門家の資格を有つものが少なくないから(例えば物理学者のA・レーや化学者のE・メイエルソンなど)、この批判は、自然科学自身にとって、或る場合には大いに役に立つものなのである。事実彼等の哲学は、自然科学自身から出発し、又は自然科学そのものの立場に終始しているように見える。だがそれにも拘らず実は彼等は必ずしも自然科学の本来の立場に止まっているのではない。却っていつの間にか各種の任意の哲学的な世界観(大抵極めて観念論的な)への拡大を企てているのである。でここでも哲学的観点と科学的観点とが必ずしも一致しているとは限らないのである*。処でこの不一致はとりも直さず実証批判との間の例のギャップだったのだ。――更に又、実証的批判主義とも云うべきものはE・マッハ、アヴェナリウス、ペーツォルト等の経験批判論(経験的理性の批判)である。之が実は、実証的な自然科学と批判的な所謂哲学とを、バラバラに引き離すことによって、如何に自己撞着に陥っているものであるかに就いては、レーニンが巨細に分析し批判した処である(『唯物論と経験批判論』の全巻を通覧)。
* 「科学の哲学」に就いては他にE・ゴブロー、G・ミヨ、A・ラランド、L・ブランシュヴィク、L・ヴェーバー、E・ル・ロアや、E・ブトルー、F・ル・ダンテク、E・ピカール、P・デルベ等を挙げることが出来る。後四者を除いては R. Poirier, La Philosophie de la Science (1926) が便利である。なお D. Parodi, La Philosophie contemporaine en France(三宅訳あり)参照。
 「科学論」(Wissenschaftslehre)――但しフィヒテやB・ボルツァーノやの Wissenschaftslehre(知識学・其の他)のことではない――や「方法論」やその意味での「認識論」や「論理学」は、大抵実証に対立するこの種の批判としての哲学の、逃避場であり安息所である。併し注意すべきは、後に見るように、哲学は自然科学に対してよりも、歴史科学乃至社会科学に対しての方が、より円満な関係を維持し易いという点である。所謂精神科学文化科学なるものは処で、本来はこの歴史科学乃至社会科学に帰属すべき筈のものなのだが、併し事実上、或る種の精神科学はそのまま一つの哲学となって現われている(W・ディルタイの世界観学の如き)。精神科学としての哲学はこう主張する、自然科学は対象たる自然について因果的な説明を与えることを目的とする。之に反して精神科学としての哲学は対象を解釈し理解し、意味づけ性格づける。計量的な例の実証的予見の代りに、多少とも云わば神話的とも云うべき卜占・透視(Divination)がなければならぬ*、と。――だがこの考え方の根柢には、哲学の対象が、プロパーな意味に於ける実在=現実的存在ではなくて、第二次的な言わば高次の対象である処の表現である、という見地が横たわっていた。歴史的社会的存在はこの哲学の対象となる時、凡て表現という資格を有つのである。無論表現は之を説明することは出来ない、吾々は之を意味解釈し得るだけである。――処で実は、実証に対立する批判も亦、説明に対立する限りの解釈の一つの場合に他ならなかったのだから、今のこの立場も亦、前の批判主義の立場を一層拡大したものであり、自然科学乃至自然科学に準じる科学と、哲学との距離を、一層広めたものに他ならなかった。
* W. Dilthey, Gesammelte Werke, Bde. 5. 7. 8 参照。なお『哲学とは何か』(鉄塔書院)中のディルタイからの訳の部分を見よ。
 この距離を更に徹底的に又妄想的に拡大したものは、知識教え又はとを対立させる立場である。東洋的倫理や宗教的真理は、自然科学的乃至科学的な「知識」でないばかりでなく、之を絶対的に超越した成層圏的な世界だというのである*。尤もこの種類の哲理観は夫が多少とも文化的な外形を具える必要がある場合には、元来は科学的知識と決して矛盾しないということを強調するのを忘れないが、併しそういう譲歩は、単なるうわの空の儀礼にしか過ぎない。教えや道のためには、場合によっては科学的真理や思考の科学性などは、いつでも犠牲にされて構わないのである。この高遠な哲理は処が、不思議なことには、現代の腐敗しつつある市民社会の最も卑俗な「常識」や、「専門的」哲学者の思想に、甚だよく適合するのである。――こうした深遠にして同時に浅薄な哲理の内に、前に云った科学性=実証性を認めることは無論全く不可能なことで、之が吾々の今の問題の外に逸脱するのは遺憾である。
* 例えば西晋一郎著『東洋倫理』を見よ。又各種の既成乃至新興宗教や所謂真理運動の類を見よ。――極端な場合として、この教えや道は成層圏的な高みから地上にまで降りて来て、自然科学や社会科学に於ける因果の連鎖に、偶因論の神のような霊妙な干渉を試みる。この教えや道の端くれに触れれば、病人は忽ち治り無産者も一躍金が儲かるという類である。
 学問のこのような戯画的な分裂と自己崩壊とへ導かれないためには、科学と哲学との間の一種絶対的な対立の代りに、もっと内部的な交渉による連関に基いた両者の関係を求める必要があるだろう。そこで第一に、科学は特殊分科の学問であり、之に対して哲学はその成果の総合だという考え方が相当広く行なわれている。或いは同じことに帰着するのであるが、科学をそのまま、その立場の単なる面積拡大によって、哲学的な世界観へ持って行くことが出来るというのである(W・オストヴァルトのエネルゲティックやE・H・ヘッケルの進化論的反宗教理論など、及び十九世紀の俗流唯物論者達の場合――最も有名なK・ビュヒナーの“Kraft und Stoff”は力と物質との世界観を流布させた)。もし之で良いならば、結局ここでも、哲学は何等の独特な意義を持てないわけであって、単に便宜的に書物の名前か集合名詞としてでも使われるだけの、一片の言葉となって了うだろう。この立場の何よりの不幸は、哲学を科学から追放して了う結果、却って機械論という一種の最も乏しい哲学を採用せざるを得なくなることであり、そのために却って、自然科学乃至科学自身が、その研究方法と成果の統制方法とに於て、徒労を避けることが出来ないということである(各種の所謂実証主義の多くのものや「科学主義」其の他は、この機械論の特別な場合だった)。
 之は科学と哲学とを殆んど全く無条件に一致させることによって、両者を結局、科学の側に還元・解消して了う場合であるが、夫とは反対に、同じく両者を一致させることによって終局に於て両者を哲学に吸収して了う場合もある。ヘーゲルは当時の諸実証科学を目して、まだ悟性的な段階に足踏みしている立場のものと考えた。と云うのは、諸範疇の絶対的対立と固定化とになやむ形式的論理に終始するものだと見た。そこで彼は『哲学的諸科学のエンサイクロペディー』に於て、一切の科学を弁証法的な、乃至より正確に云えば思弁的な、体系の夫々の一部として吸収することに成功したように見えたのである。ただヘーゲルはその卓越した洞察にも拘らず、その思弁的な解釈哲学式の弁証法に信頼していたために、科学の弁証法的救済も、実証科学それ自身の下からの発達とは独立な、固定したプランに終って了ったのであった。実証科学は、それ自身の歴史的発達の途上に於てこそ、その機械的な悟性的な形式主義的立脚点の矛盾にも気付き、弁証法的な段階にまで意識的に洗練される必然性もあるのであったのに、ヘーゲルは全く非歴史的にも、之を天下り式の「体系」にまで化石化して了ったのであった。それ故ヘーゲル哲学、特にその自然哲学の前には、依然としてこの悟性的とけなされた自然科学が、その不器用な併し極めて有望な存在を続けていたばかりでなく、別に弁証法的段階にまで登ろうとする明らかな意識を持ち得たのではなかったにも拘らず、やがて急速にヘーゲルの「哲学」体系そのものを追い越して了ったのである。
 そこからヘーゲル哲学の歴史的な悲劇が起ったばかりでなく、哲学一般(実はブルジョア哲学だが)への絶望と嘲笑の声とさえが揚がったのである。哲学と科学との関係に就いての今まで述べたような近代の様々な解釈の空しい努力も亦、ここに始まるのだった。

 科学と哲学との関係を見るのに、之まで主に自然科学を焦点にして考えて来たのであるが、今度は社会科学を中心にしてこの問題をもう一度検べて見る必要がある。
 社会科学が、例えば現代のブルジョア社会学のように、極めて意識的に形式主義的立脚点を選ばない限り、社会そのものは、ごく常識的に考えて見ても、歴史の所産としてでなければ解決出来ない特徴を、あり余る程沢山に露骨に含んでいる。で、社会科学はその実質に於て歴史科学と別なものではあり得ない。社会科学を所謂社会学から区別出来るという程度に於ては、社会科学一般は歴史科学一般と区別されることも出来、又歴史科学と史学(乃至歴史学)との区別さえも不可能ではないだろうが、そういう細かいことは後の機会に譲ることとしよう。今は社会科学を実質的に歴史科学と同じものと想定しておいていい。
 この社会科学乃至歴史科学は、今日に至るまで、自然科学以上に哲学と密接な連関を有っている。普通ギリシア哲学の起源、即ちギリシアの自然哲学の起源は、ギリシア神話(エーゲ海やエジプトから来た)の批判としてであったと云われるが、併しホメロスの名で呼ばれる叙事詩神話は、云うまでもなく歴史の起源でもあったのである。ギリシアに於ける民族的史学はギリシア=ローマのポリュビオスに至って世界史の段階に昇るが、併し之が同時に歴史哲学の始めともなる。歴史哲学はヘブライ思想の系統を引いて(例えば聖アウグスティヌス)、やがて中世に於ける哲学一般(キリスト教哲学)の根柢をなすのだが、之へつながってその先駆となるものが、この史学乃至世界史であった。
 史学乃至歴史科学と、歴史哲学乃至哲学一般との関係は、だから極めて密接である理由がある。そしてこの点は今日でも依然として重大な意義を持っている。近代の科学的な歴史学はその経験的な事実の考証に基くという実証的な建前から、或るものは意識的に哲学的な夾雑物を斥けようとするのであるが(「本来あった通り」を記述する――L・ランケ、又バックルやテーヌの場合)、それとても夫々一個の哲学的な立脚点を想定せざるを得ない。そして大切なことには、夫々の哲学的な立場の相違によって、歴史記述の方法と従ってその成果とが、銘々全く異っていたり相反していたりせざるを得ないことであり(各種の精神史観・心理史観・「第三史観」・そして唯物史観)、そればかりでなく、時代と共に変るこの記述方法自身の変遷が極めて著しいのである(ホメロス風の詩的記述・「春秋」「通鑑」風の教育的記述・史料編纂的なもの・実証主義的なもの・「哲学的」なもの・等々*)。こういうことは自然科学の場合には、顕著な形では決して現われない事情なのである。歴史科学が哲学的世界観と如何に宿命的に結びついているかが之で判る。
* B・クローチェ『歴史叙述の理論と歴史』(羽仁五郎訳)参照。
 歴史科学から特に区別された狭い意味に於ける社会科学に就いて云えば、この点はより一層明瞭である。近代に至るまで、経済学(政治経済学)の発達にも拘らず、社会科学の正統的な代表者は、政治学だという通念が支配していたように見える。トライチュケが、政治学の他に社会科学(実は現代の「社会学」のことだが)なるものを必要としないことを力説したのは、この点から云って興味のあることだ*。処がこの政治学なるものは、敢えて政治哲学と云うまでもなく、古典哲学以来、哲学そのものの一分科であったのである。プラトンやアリストテレスは云わば純正哲学の応用や何かとして政治学を書いたのではない。アリストテレスの『倫理学』がそれ自身原理的に哲学の一ブランチであったと同じに、そのポリティカは、哲学の原則的な一ブランチだった。
* H. v. Treitschke, Die Gesellschaftswissenschaft, 1859.――これは社会学論の古典である。
 云うまでもなく今日のブルジョア講壇政治学は表面上殆んど何等(ブルジョア)哲学と関係がないので、それは主として十七世紀末のイギリスの政治学者達による政治・法律乃至国家の経験科学的な研究の結果であるが、併し十七世紀のイギリス政治学者の代表者であるジョン・ロックは、同時にイギリス経験論哲学の最も重大な代表者であったことを思い出さねばならぬ。――法律学や国家学も亦略々同様な対哲学関係を持っている*。社会科学全般に根本的な影響を与えた自然法は、それ自身哲学上の一つの主張に他ならなかった。之に続いて根本的な作用を全社会科学に及ぼした歴史学派の歴史主義も亦一つの哲学的立場に直接連絡している**。今日の市民的法理学や国家理論やが、哲学的意識を抜きにして意味を有たないことは、今更説明を必要としないだろう。
* この点に就いては Sir F. Pollock, History of the Science of Politic の参照が便利である。
** 歴史主義に就いては Troeltsch, Historismus.――K. Mannheim, Ideologie und Utopie.――H. Freyer, Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft(邦文解説あり)等参照。
 倫理学や道徳科学(Moral Science)が正当には社会科学の一部分(イデオロギー理論)にぞくさねばならぬということは、相当広く認められているだろう。だが之が同時に今日のアカデミーでは哲学の内に数えられていることも忘れてはならぬ。――倫理学や道徳科学や又道徳哲学そのものは今大した問題ではないが、之が近世に於て最も華々しい発達を遂げたイギリスの道徳理論家達にとっては、こうした科学乃至哲学が実は、政治学・国家学に直接連続していたものだった。そして何より大事なのは、之がブルジョア古典経済学の起源と最も緊密に結びついていたことである。A・スミスの古典経済学がフィジオクラットの経済理論の必然的発展であり、ブルジョアジーの個人的自由主義を社会的立脚点にしたことは今更云う迄もないが、一方に於て彼の富国論はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』と『政治学』とに端を発していると共に、他方に於てはスミス自身の倫理学(著書 The Theory of Moral Sentiments)乃至哲学と根本的な連絡を持っている*。スミスの思想と理論とがD・ヒュームの哲学に負う処の多いのはスミス自身が語る通りだ。
* スミスは分業の原理を論じて云っている、「如上幾多の利益を生ずる此分業なるものは……人性内部の一種の性癖より、頗る遅緩に且つ漸進的ながらも、然も必然的に発生し来れる結果に外ならず。……或物を他の物と取引し交換し交易するの性癖即ち是なり。……此性癖は一切の人類に共通にして、他の動物には全く之を見ざる所に属し、……例令ば吾人が毎日食事を為すを得るは、屠肉者、醸造者、又は麺麭製造者の恩恵に依るに非ず、此等の人士が各自其利益を思うが為に外ならず。吾人は此等人士の慈悲に訴えずして其自愛心(Self-love)に訴え、吾人自身の必要を告げずして此等人士の利益を告げ、以て此等の人士より其供給を受くるなり」云々(『国富論』――岩波文庫版、上巻、二四―二六頁)。
 即ちスミスによれば、社会に於ける労働生産力の根本条件をなす分業は、自愛心という人間性に、それ自身経済的な、或いは「経済人」的な、人間性に、基くというのである(丁度、道徳が同情という人間性に基くように)。スミスの古典経済学の理論体系上の基柢は、だからその人間性論にあると云わねばならぬ。処がこの人間性(Human Nature)の理論こそ、十七―十八世紀にかけてのホッブズ以来のイギリス道徳哲学・道徳学・倫理学(実はイギリス固有の代表的哲学)の共通な根本問題であった。例えばスミスの先輩D・ヒュームの A Treatise of (on) Human Nature の如き。

 最後に、一般の社会思想(ユートピア共産主義・無政府主義・所謂国家社会主義乃至ファシズム・科学的社会主義等)が、各種の社会科学と歴史的に又理論的に如何に密接な連関を持つかに就いて、説明を必要とはしないだろう。社会哲学・歴史哲学・国家哲学・法律哲学・経済哲学などは、とりも直さずこの間隙に成立するのである*。
* H・クーノー『マルクスの歴史社会並びに国家理論』上巻(改造文庫版)を見よ。又、リャーシチェンコ『経済学説史』(平館訳)は特色がないが詳細な参考書として役立つ。又例えば加田哲二『近世社会学成立史』なども部分的に参考となる。
 社会科学乃至歴史科学は、以上大まかに見たように、自然科学の場合とは異って、哲学と極めて密接な関係を有つと云っていい。処がそれにも拘らず、この密接な関係は、ブルジョア哲学の側からもブルジョア社会科学乃至歴史科学の側からも、一向分析的に組織的に明らかにされてはいないのである。この点、今日の自然科学とブルジョア哲学との関係と、あまり相違はないと云っていい。尤もどこまでが社会乃至歴史科学で、どこからが哲学(社会哲学・歴史哲学・経済哲学・其の他)だという風に、機械的な限界を設けることは、どんな場合でも無意味で有害なことだが、そういうことと、その際科学と哲学との関係が単に曖昧に止まっていて良いということとは別だ。
 社会科学乃至歴史科学に於ても、その方法論なるものが哲学として相当に発達している。処がこうしたブルジョア哲学的な方法論の何よりの一特色は、その形式的で抽象的な視界の狭隘さにあるのである。この点で典型的なものはC・メンガーの有名な書物『社会科学の方法』などだろう*。そこでこの狭隘さを脱出しようとする哲学的な企てが例えば各種の経済哲学や何かとなって現われる**。だがその経済哲学なるものに於ても、哲学と科学(経済学)との原則的なそして必然的な連関が、一向関節を与えられた形で現われないのである。そればかりではなく、根本的な疑問は、一体経済哲学なるものが経済学そのものに対して、どういう理論上の必要性を感じさせることが出来るか、ということだ。
* C. Menger, Untersuchungen ※(ダイエレシス付きU小文字)ber die Methode der Sozialwissenschaften und Politischen Oekonomie(小林勇複刻版)。――歴史学派に対する論争を含む。
** 日本の大学の経済学部教授の学位論文には、経済哲学のものが少なくない。近くは石川興二『精神科学的経済学の基礎問題』、高木友三郎『生の経済哲学』、杉村広蔵『経済哲学の基本問題』等。――但し主に経済学の方法論に経済哲学の名をつけたのは左右田喜一郎・杉村広蔵・大西猪之介の諸氏のもの。こうした「方法論」的なものを除けば、経済学と経済哲学との連関は極めてルーズなものに止まる。
 自然科学の場合、自然科学そのものと哲学としてのそれの方法論とを、形式的にそして又機械的に引き離して了ったと同様に(そういう態度は一般に方法論主義として批難されるのだが)、社会科学(乃至歴史科学)に於ても、科学そのものからその方法論を抽き離して、之を何々哲学と名づけるならば、社会乃至歴史科学と哲学との限界は、形式的に機械的に明瞭に与えられ得ることになる。だが自然科学の場合であろうと社会科学の場合であろうと、この仕方の一般的な誤りはすでに述べた通りだ。そこで社会科学ではこの方法論的なもの以外に、社会哲学とか経済哲学とかいうものが発生するのである。そして夫が、一般に社会科学又経済学自身と密接な交渉のあるものとして、一応認容されているというのが、ブルジョア社会科学の現状なのである。――処が自然科学の場合には之に反して、そういう種類に相当する自然哲学なるものは、寧ろ自然科学そのものによって排撃されるのを当然な建前としていたことを、思い出さねばならぬ。
 社会科学がこれ程哲学と宿命的な交渉があるということは、同一の社会科学そのものの間に立場の殆んど無限な対立が存するということと、同一の事情だったのである。つまり夫々の社会科学の立場が云わば異った哲学の数だけに、分裂しているのである。自然科学はその根本方向と過程とに於て単一唯一だという特質を有っている。学問上の見解の分裂と対立とはそれが研究途上にあるものとして避け難い当然な事情だが、それは、その分裂と対立とが一定の共通のコースを想定しているその限界内で起きる場合に限る。処が社会科学ではこのコースそのものに分裂と対立とがあるのだ。――自然科学は哲学と大体に於て外部的にしかつき合わされなかったから、この哲学(ブルジョア哲学なのだが)にどんな分裂と対立があろうとも、それとは一応無関係に、とに角自然科学自身はその唯一性と単一性との理想を保維出来た。処が社会科学は之に反して、大体から云って哲学(ブルジョア哲学)と内部的に交渉を持ち過ぎていたため、哲学の分裂・対立はすぐ様社会科学そのものの立場の分裂・対立となって現われざるを得ない、というわけである。
 無論、夫々の社会科学の立場の分裂・対立と言っても、実は全くの無政府状態なのではない。吾々はこの様々に異った立場をば適当に類別し系統づけ、それからある限度まで相互に近づけたり折衷したり、時には総合したりさえすることが出来るように見える。なぜならブルジョア社会科学各々の立場と雖も何等か合理的に説明出来るような存在理由なしには、対立したり分裂したりする筈がないからだ。だがそれにも拘らず、例えばブルジョア経済学の立場とマルクス主義経済学の立場とを、その本質に於て総合したり合致せしめたりすることは出来ない。が、それと同様に、同じブルジョア社会科学同志の間に於ても、立場のこの種の絶対的な対立は決して珍しくはないのである。ここには全く排他的な矛盾が横たわっている。――尤も簡単に言って了えば、真理には二つないので、現実の事実や事情に照して見れば、二つの理論の是非は原則的に決定出来る筈であるが、併し実際問題としては、正当な理論と雖も、相手の誤りを理論的に克服して之を相手に説得することが困難な場合が、極めて多いのである。
 そこで問題は、一般に社会科学(乃至歴史科学)が少くともその単一性と唯一性との理想を保維し得るためには、どういう哲学と内部的に結びつかねばならぬか、である。併しそのために必要なことは、この結びつくべき哲学そのものが又、唯一性と単一性との理想を保維し得る形の学問でなければならぬということだ。処が実際問題として、この唯一性と単一性とを有った哲学は、今日、唯物論の組織以外にはないのである。ブルジョア社会の観念界に順応した各種各用途のブルジョア観念論は、その独創性と深刻な思索との口実の下に、実は、学派的セクトに基く思いつきや、反理論的な迂路・徒労・無意味な反覆・などを敢えてしている場合が、殆んどその大部分をなしているといっても云い過ぎではない。で今社会科学が真理を有つためには、それと内部的に結合すべき又は現に結合している哲学は、ブルジョア観念論であることは出来ず、正に唯物論でなくてはならぬ、ということになる。実際上の関係から云ってそうなのである。
 この実際上の関係は併し、云うまでもなく理論上の根拠を有っている。そしてそこに問題の鍵が横たわっている。――一体なぜ現代唯物論だけがその学問上の単一性と唯一性とを保証されているのか。それはその体系の動力のメカニズムである範疇組織が有っている特質から来ることである。しばらく夫を見よう。

 哲学は一般に方法体系とに区別される。この区別には異論はないが、併し組織し体系づけるためでない方法はあり得ないし、方法なしに出来上った組織、体系もない。して見れば二つは同じ過程を指す二つの言葉である他はない。哲学の生命はこの方法乃至体系に存するのである。今この方法を普通に論理(方法機関――オルガノン)と云い、体系を範疇組織と云っていることを思い起こす必要がある。つまり論理即ち範疇組織が、哲学の方法であり体系であり、哲学の真髄なのである。かくて一般に哲学の相違は、その体系の相違に、その方法の相違に、その論理即ち範疇組織の相違に、原因する。
 範疇とは元来根本概念のことであり、従って一応は根本観念のことだから、その限りでは全く主観の任意か自由かによって左右され得るわけである。従って範疇組織も、一応任意な体系に組織される自由を有ってはいる。ここに一切の観念的哲学の殆んど無政府的な乱立を結果する原因が潜んでいる。如何なる哲学を採用するかは、その人が如何なる人となりであるかによるのだ、と代表的なドイツ式主観的観念論者、フィヒテなどは、断言している。
 だが他方範疇は実は事物そのものの性質を抽象・要約・普遍化したものであればこそ、その存在理由を有っているのだ。概念とは実はただの観念ではなくて、事物を把握するに適した限りの観念のことだった。そうすればこの根本概念の相互の間の必然性によって結びついて出来上った範疇組織も亦、決してそんなに勝手に主観的な必要だけで出来上ったものではあり得ない筈だ。従ってこの範疇組織がそれ程無政府的な乱立をするのは、その組織内にどこか範疇組織としての資格を欠いた点が介在するからであるに違いない。では一般に観念論哲学の範疇組織にはどういう欠陥があるのか。
 一体観念論の根本特色の一つは、それが存在の解釈だけを目的とする哲学体系=方法だということである*。与えられた与件そのものは変更することなく、ただ単に之を適宜に置きかえるということがその認識目的であって、そのための方法は、ただそうした意味の解釈にさえ役立てば良いのである。だから例えば自然の存在は人間の存在よりも先であり基礎的であるという実在的な認識の代りに、自然よりも人間の方が意義が深く価値が高いという意味上の認識が、置きかえられるのである。その結果人間が自然を産み出す(神が世界を創造した)かのような口吻の哲学体系も出来上るのである。宇宙の時間の流れの秩序はどうでもよくて、意味と意味とを直接に時間抜きにつらねるために、一切が瞬間(又は永遠)に還元される(瞬間は止まれ――メフィストとの賭けに負けたゲーテの「ファウスト」は叫んでいる、歴史の秩序を打ち切ったニーチェ――「瞬間は永遠である」、キールケゴールの書物 Der Augenblick 等々)。意味は存在ではないから宇宙的時間の上では零であり、瞬間なのだ。
* 拙著『現代哲学講話』及び『日本イデオロギー論』〔本全集第三巻および第二巻所収〕に於て、各種の解釈哲学の批評を与えた。
 だが、今認識の目的が意味の解釈ではなくて現実の事物の把握であり、之をマスターすることであるとすれば、こうした解釈の範疇組織は、それ自身独立孤立しては全く用をなさない。普通に感覚と呼ばれているが併し正当には知覚と呼ばれるべきものは、対象と主体との間の物質的な相互の変化作用の心理的結果のことだが、事物をマスターし之を実際的に現実的に認識することは、終局に於てこの知覚に由来せねばならず、又之に由来することをば理論的にも自覚しているものでなくてはならぬ。処でこうした認識は恰も、すでに述べた意味に於ける実験という特色を有っているのである。事物を変更することによって或る印象を受け取り、更に之をその事物過程の延長に於てテストし検証することが実験なのである。して見ると、現実の事物の実際的な認識のために必要な認識方法=範疇組織は、実験の内にその先端を有つような夫でなくてはならぬということになる。範疇組織がすぐ様実験の用具ではあり得ないが、実験という認識の根本特色を保維し生かすための概念組織が、唯一の正当な範疇組織でなくてはならぬ、というのである。
 認識のこの実験的な特色(それは特に自然科学の科学性をなすものに他ならなかった)を社会的に云い直せば、認識の技術的な特色だということになる。蓋し実験と技術とは実践の系列の二項目であって、人間が自然に対して能動的に直接働きかける社会部面は、技術の領域に他ならないからである。この意味から云って正当な意味に於ける範疇組織は、必ず技術的範疇組織でなくてはならぬのである*。唯物論による範疇は実は正に之なのである。
* 技術的範疇の意味に就いては拙著『技術の哲学』〔本巻所収〕を見よ。
 唯物論のこの技術的範疇の組織は、云わば実験的な特色を有っていたから、之を現実の実際性(アクチュアリティー)に照して検証し得る本来の機構を有っている。ここにこの範疇組織の実在的な地盤があるのである。この実在的な地盤に立ち帰る時、理論に於ける一時の対立や外見上救い難く見えた矛盾も、之を単一的に唯一性を以て整理出来るような、理想的方針が見出されるわけである。――唯物論哲学の学問性のもつ唯一性と単一性は、即ちその科学性=科学らしさは、この実験的な技術的な特質に、即ちその実際的な実践的な特色に、由来するのだった。処が解釈のための観念論的な範疇組織は、科学性にとって最も大切なこの特色を欠いていたのである。そこに立場相互間の放恣な無政府状態が出現しなければならぬ理由もあったのだ。
 さて、社会科学乃至歴史科学は、この唯物論になる技術的範疇組織と結合する時、初めてその唯一性と単一性とを、即ち又その科学性を、受け取ることが出来る。社会科学乃至歴史科学と哲学一般とのかの内部的結合の、唯一の正当なそして又必然的な形態は之だと云わざるを得ない。――マルクス主義は云われているようにフランス社会主義とイギリス古典経済学とドイツ古典哲学との三つの古典的源泉に基いている。之は同時に、マルクス主義が、社会主義と経済学と哲学との三契機の統一的な科学的理論であることをも示している。ここにすでに、哲学と経済学・政治学其の他の諸社会科学部門との、内部的で必然的な統一的連関が見て取れる筈であった。そしてこの科学的統一を貫くものが、唯物論の技術的範疇組織(唯物弁証法)なのである。
 唯物論という範疇組織によって、ブルジョア社会科学(乃至歴史科学)とブルジョア哲学との間のかのルーズな内部的因縁は、初めて組織的なものにまで整頓し直されるのだが、同時に之によって又、自然科学とブルジョア哲学との例の外部的な機械的対立や機械的合致が、是正される。一体なぜ自然科学と哲学とがそういう外面的な関係に置かれねばならなかったかと云えば、結局哲学に於ける範疇と云えば、自然科学の夫と全く別な世界のものだと仮定してかかっていたからなのである。だからこの考え方から行けば、逆に二つが別でない限りは、自然科学は=哲学とならざるを得ないということになる。――処が吾々の見た処によると、自然科学の特色をなしていた認識の実験性は、やがて哲学の方の範疇組織そのものの技術的特色となって現われるのであった。自然科学と哲学とは、だからこの根拠から云って、もはや外部的な対立に止まることは出来ないのであって、社会科学と哲学との連関にさして劣らず、二つは内部的な根本連関を有つこととなる。
 では一体自然科学はどこで哲学と区別されるのであるか、と問われるだろう。範疇組織に共通性がある以上、二つは結局同じものに帰着しはしないか。それならば併し、哲学は機械的に自然科学に解消されて了う他はない。だが一方に於て、哲学が一般に社会科学乃至歴史科学に対して極めて密接な関係を有っていたという事実を、ここで思い出さねばならぬ。で、もしこの哲学が自然科学に解消し得る位いなら、同じく社会乃至歴史科学にも解消して了わざるを得ない。従って社会・歴史の科学は自然の科学に解消せねばならぬということになる。これは想像も出来ないことだ。だから哲学は決して自然科学に解消しない、という結論となる。ではどういう連関と区別とがこの二つのものの間にあるのか。
 だが夫を解明することは割合簡単に出来る。歴史的社会の唯物論的把握の一つの重大特色は、云わば「社会の自然史(博物学)」を与え得るという処に存する。自然科学に於ける進化理論は「自然の自然史」(?)を与えた。マルクス主義的社会歴史理論は、之に準じて、社会の自然史を与えようというのである。併し進化論に準じて歴史的社会を検討するとは何か。夫は、歴史的社会を自然有機体や自然物からの類推によって解釈することではなく(そこから各種の社会有機体説や社会ダーウィン主義が発生する*)、人間の歴史的社会を、自然(無機界から有機界への発展を入れて)を基礎とした自然からの発達として記述することなのである。ヘルダーも忘れなかったように、人類社会の歴史は少くとも地球の存在から始まるのである**。自然と歴史的社会とでは無論別な法則が支配する。だがそれにも拘らず、この二つの世界は自然史的発達の過程を介して、同一なのだ。
* 『ダーウィン主義とマルクス主義』(松本訳)参照。
** von Herder, Ideen zur Geschichte der Menschheit――ヘルダーはカントやビュフォン等と同じく、少なくとも思想としては進化一般の見解に到着している。之に実証的な根拠を与えたのが、C・ダーウィンの理論だった。
 それ故社会科学に於て正当に使われ得る根本概念=範疇は、自然科学の夫と決して直接に同じでないにも拘らず、一定の約束(云わば飜訳の文法)を介して、相照応せざるを得ないものなのである。私はこの関係を二つの根本概念群の間の共軛関係(Konjugiertheit)と呼んでもいいと考える*。ブルジョア社会科学乃至歴史科学に於ける立場の無政府的乱立は、夫が自然科学の範疇に対するこの共軛関係を無視する処に原因するものだった。で、もしそうだとすれば、この異った而も発展段階の差を介して同一な共軛的な、社会科学と自然科学との、両者に渡る哲学なるものも亦、当然その範疇を、社会科学と自然科学とに対して共軛にしなければならぬ。唯物論に固有な技術的範疇は、社会科学の範疇と自然科学の範疇とに対して、共軛関係を持つことが出来ればこそ、初めて「技術的」でもあり得たのだった。生産技術の問題を離れて自然科学も社会科学も成り立ちはしないのである。――そして範疇のこの共軛関係なるものは他でもなく、自然と歴史社会とが、一つの史的発展の二つの異った段階であったという実在関係に、根拠を有っていた。
* 共軛性の説明については拙著『現代哲学講話』〔前出〕の初項を見よ。
 学問乃至科学一般はその理想から云って唯一で単一な統一物でなくてはならぬ。処が社会科学乃至歴史科学は、夫が唯物論的哲学組織に基かない限り、現にブルジョア社会科学の場合に見られるように、第一、自然科学との間に何等の原理的な必然的連関を見ることが出来ない。そればかりではなく、唯物論に立脚しない限り、社会科学乃至歴史科学の夫々の間に殆んど何等の理論的一致の可能性を保証し得ない。更に又夫だけではなく、自然科学も亦唯物論と絶縁する時、何等哲学に対して本質的に意義のある結合を有つことが出来ないし、又その必要さえも感じ得ない。専門の科学者が自然科学自身に基いて企てると号する自然科学観や世界観が、如何に任意で勝手なマチマチのものであるかを見れば、この点はよく判る。で、凡そ科学なるものを統一的に体系化し得るものは、ただ唯物論だけだという結論となる。技術的範疇の特色である範疇の共軛性が之を能くするのであった。
 哲学とは範疇体系(=方法・論理)の他の何物でもない。F・エンゲルスが『フォイエルバハ論』に於て、将来の哲学は形式論理と弁証法との他にないと云ったのは、この意味だろう。所謂科学は云わば特定の認識内容である、之に対して所謂哲学はそれの特定形式と、夫の一般形式への拡大とを意味する。方法や論理は、このような認識の形式を指すのでなければならぬ。ただこの形式は、内容自身からの所産であり、内容が分泌した膠質物であって、内容以外から来たものでもなく、ましてアプリオリに天下って来たものでもない。だから今の場合形式に相当するこの方法や論理、即ち哲学は、内容に相当する処のこの科学そのものからの抽出物として以外に、又それ以上に、その独自性を持つことは出来ない約束なのである。社会乃至歴史科学そのものに対する史的唯物観(唯物史観)の一般論や、自然科学そのものに対する自然弁証法は、この意味に於て初めて或る種の独立な抽出物の意義を有ち、その意味に於てであればこそ、その非独自性とその具体化とを科学そのものに向って要求する権利を有っている。初めから抽象的なものは、之を具体化すこと自身、元来抽象的であらざるを得ない。
 哲学を論理に限定して了うことは、哲学の豊富な歴史的な内容を切り棄てて了うものだと人々は考えるかも知れない。だがそれは、哲学を方法として日常使っていない人間の言葉であるばかりでなく、方法乃至論理なるものが実に世界観の歴史的で且つ理論的な要約として結晶したものだ、ということを知らぬ人間の言葉である。科学的内容がまだ直覚的な混沌の内に横たわっている場合が世界観の段階に相応する。之がみずから自分のための形式を分泌形成する時が、論理の醸成される時なのである。

 さて学問乃至科学の科学性乃至統一性に就いて述べたが、科学の概念規定をここに止めることは無論出来ない。と云うのは、科学が実在に就いての認識であり、そして科学の認識が一定の科学の方法によって初めて成り立つという関係を抜きにして、科学の統一性も科学性も、結局無根拠で無内容だからだ。で問題は、「科学と実在」との関係と、「科学の方法」のテーマとへ、移行する。
[#改段]

  二 科学と実在


 仮に、科学は知識の或る一定の集積乃至組織化だと考えておいていいだろう。まず、ではその知識とは何かということになる。この問題に就いての近代的な研究の始まりが、J・ロックによって代表されるイギリス経験論と、デカルト及びライプニツによって代表される大陸の合理主義との、対立の内に存することは、広く知られている通りである。尤も近世哲学の特色は色々に説明されているのであって、特にドイツ観念論をそのまま踏襲する今日の多数の哲学者達によると、後にフィヒテやヘーゲルに於て果を結んだ自我の問題こそが、近世哲学の発見した何よりのテーマだというのである。デカルトは普通そうした意味に於ける近世哲学の鼻祖とされている。だが、デカルトが自我の問題に行き当ったのも、実は初めから自我を問題にしたのではなくて、一般に知識というものの性質が何かという根本疑問から出発したのが事実であって、その結果偶々彼に於ては、自我の問題が必然的な帰結として導き出されたに他ならなかった。
 近世哲学は知識の検討、或いはその再検討から始まる。スコラ哲学に就いての知識に深く通じていたらしいデカルトは、却ってスコラ哲学的な知識に就いての疑問を提出した。夫が彼の哲学の出発点をなしている。だがスコラ哲学的知識の批判者としてならば、もっと大規模にそしてもっと判然とした形で現われているものに、すでにフランシス・ベーコンがあったということを、ここに思い出さねばならぬ。すでに述べたように、彼による実験的方法の提唱はその中世的な形相観にも拘らず、他ではないスコラ哲学の僧侶的知識に対して意識的に反抗するためのものであったのは云うまでもない。実験と自然観察とに結び付いている帰納の論理は、彼の知識獲得法乃至知識拡大法に他ならなかった。で、近世哲学が知識(乃至認識)の問題と共に始まったとすれば、近世哲学の発端は大陸の隠遁家デカルトよりも寧ろイギリスの偉大な俗物ベーコンにあったと云わねばならぬ。
 尤も知識・認識の問題は精密に云えば無論ベーコンに始まるのではない。云うまでもなくそれはルネサンスの初期にまで溯る。一代の碩学アルベルトゥス・マグヌス(大アルベルトゥス)や理想家のカンパネラやの名を忘れてはならぬ*。にも拘らず知識という思想界のこの新しい問題を、一身に背負って立つものは第一にベーコンであったのである。処でホッブズを経てこのベーコンに連なるものが、かのロックの経験論だった。――かくて近代哲学によって、知識の問題は、ロックの経験論と、(ロックに正面から取り組んだ)ライプニツが代表する合理主義との、二つの側面から取り上げられた。大陸のこの合理主義が、エリザベス時代のイギリスの新進ブルジョアジーの認識観念であった経験論を、大陸風に或いは宮廷風に変容したものに他ならなかったということは、この際注目に値いする。
* ルネサンス以来の知識問題研究の歴史に就いては、E. Cassirer, Das Erkenntnisproblem, Bd. I が貴重な研究である。但しここでは近世哲学の発端は、観念性の尊重という処におかれているから、吾々の見解をうらづけるに充分でない。
 処が一方に於て、ロックのこの経験論は、やがて経験なるものを単なる感覚乃至知覚に還元することによって、バークリの知覚唯存主義となり、露骨で戯画的な主観的観念論にまで「純化」されたが、やがて又之を社会的な観点に移すことによって、D・ヒュームのコンベンション主義となり、事物の客観的法則に対する懐疑論に到達したのである。他方に於て、デカルト・ライプニツの合理主義は、ドイツに於ける啓蒙哲学の組織となり、C・ヴォルフの合理哲学=形而上学の形をとって集成されることになった*。このヴォルフ的形而上学を踏み越えるために、ヒュームに感動し、ロックの本来の問題――経験――を大規模に取り上げたものが、I・カントであることは、広く知られている**。尤もこの際J・N・テーテンスの心理学がカントの経験の分析にとって重大な先駆の役割を果しているのだが。――かくて吾々は、知識の問題を、特にカントに沿って取り上げる歴史的理由を持つのである。之は必ずしもカント主義者の真似をするためではない***。
* 今日のドイツ哲学のターミノロジーの多くはヴォルフ学派の手によって整頓されたものである。のみならずドイツ講壇哲学の体系はこの時初めて設定されたと見ていい。――ドイツの啓蒙哲学はイギリス・フランスのものに較べて独特な形をとった。何よりも夫が組織的な哲学体系として現われたということは、全くドイツ的な現象と云わねばならぬ。
** 前にも云った通り、ベーコンでもそうだったように、経験と実験とは離すことの出来ない関係に立っている。カントは或る個所で、自分の哲学を実験哲学とも呼んでいる。彼が自分の哲学方法をコペルニクス的転回と云って誇っているのは好く知られているが、普通之は主観を中心として客観界を処理しようという観念論への転回を指すのだ、という風に理解されている。処が、併しよく考えて見ると、コペルニクスでは、云わば主観に相当する地球の方が、客観に相当する太陽の方を中心にする、という風に処理されるのであって、その逆ではなかった。で所謂コペルニクス的転回なるものは、実験や観察に基いて研究した結果、従来とは全く方向の逆な結論を得ることが出来る、という関係を意味するらしい。実際彼は、そこで自分の哲学に因んで実験家ガリレイの功績に言及しているのである。
*** 知識・認識の問題も、夫が近代的な形態でなくていいなら、古代はいくらでも重大な成果を示している。特にプラトンの対話篇 Theaitetos や Sophistes, Parmenides など。
 カントにとっては、知識の分析は感覚の問題から出発する。彼によれば感覚とは客観的に存在している処のが吾々の(Gem※(ダイエレシス付きU小文字)t)を触発し之に影響を与えた結果に他ならない。処でここにすでに注意されるべきは、少なくとも客観的になるものが存在するということが一つであり、之が心に一定の感覚という結果を与えるということが一つである。こうした想定は常識的には全く理解し易いことで、何等の疑問はないようであるが、処が之は、カントがここから出発して後に到着する先験的な観念論の立場から云っても、又一般にカント解釈家達のカント理解から云っても、甚だしく不都合な想定だということに一応なるのである。ショーペンハウアーなどは、カントを徹底すると称して、時間・空間や因果関係は専ら現象界にだけ行なわれる表象の形式だと考えた処から、本体である物そのものが吾々の表象に感覚という結果を惹き起こす原因だということは、因果関係を現象以前・現象以外に適用するもので、不当至極だと云って非難した。夫は今論外としよう。物と心との間に原因結果の関係があると考えていいか悪いかより先に、一体物というものが客観的に存在するということを許すことが、後々のカントの立場とどう折り合えるかが、興味のある問題なのである。
 カントは云っている、物があるということを吾々は承認せざるを得ない、だが物が如何にあるか、その物がであるかは、吾々が絶対に知り得ない処だ。物はある、だが物の本性、物そのもの、物自体については、全く知ることが出来ない。知り得るものは物そのものではなくて物が吾々に対して現われた現象、吾々に取ってそう見える限りの物、でしかない、というのである。
 結局物はそのものとしては知ることが出来ない。では、とカント批判者は云うのである、何故知り得ない物なるものを想定することが出来たか、又その必要がどこにあったか。物そのものが知り得ないということは、物そのものという観念がこの哲学体系にとって無用であり又有害であることを示すものに他ならない。物自体の観念はカント哲学の一貫した立場から清算消去されるべきものであり、それの代りに「対象X」でもいい、「ノウメナ」でもいい、又は「認識の限界」という限界概念(H・コーエンによる)でもいい、そうした何等か主観性・観念性を根拠とした概念を持って来るべきだ、というのである*。
* カント哲学に対する各種の批判の中心は、物自体の観念を如何に片づけるかということに集中すると云ってもいい。この問題については山ほどの文献を挙げることが出来るだろう。
 併し仮にそうだとしても、カント自身がこれ程露骨で明白な矛盾(?)をどうして犯す気になったのだろうか。『純粋理性批判』の物自体を想定した最初の部分を書いた時と、後の認識乃至知識の観念性・先験性の部分を書いた時との間には、而も精々三カ月程の経過しかないのだ。――そこでカントがこう云っていることを注意しなければならぬ、自分の哲学は先験的には観念論経験上では実在論だと。と云うのは、知識がどうやって発生し又どういう風に出来上るかという問題に就いては、実在論の立場に立ち、即ち又物の客観的実在を認めるのだが、その知識がどうして普遍的に必然的に通用する権利を有つかという問題に就いては、観念論の立場に立ち、即ち又物そのものの性質を知ることが出来ないと考えざるを得ないのだ、というのである。
 カントは単に、だから相容れない立場を二つ並べているのではない。二つの全く違った問題を別々に提出しているのである。そしてその一方をカントは単に指さしただけで解決しようと欲せず、他方の問題だけを彼は解いて見せるのである。知識の普遍的な通用性の方の問題に就いては極めて立ち入った回答を与えているにも拘らず、知識の成立の問題の方は之を故意に問題外に残したのである。つまり彼は、敢えて解こうとは思わない問題に、或る理由から最初一寸触れて見る必要を感じたまでで、夫が例の物自体の存在の認容と、それが原因となって感覚を結果するという見解だったのである。――で之は立場の矛盾ではなくて単に問題の相違なのだ、ただカントの不幸は、この二つの問題が全く独立に切り離して提出されうる、という風に考えて済むものだと思っていたことにあったのだ。

 カント哲学の固有な問題は、知識の一種の客観性(社会人の諸主観に普遍的に必然的に通用し得るという特権)に就いてである。これを説明し得るために彼は、知識が物そのものを、そのまま写したものではあり得ないということを、即ち物自体は認識出来ないということを、強調せざるを得ない。知識とはカントによれば、主観に与えられた処の(但し与えられるには物そのものが主観に作用したのだったが、与えられた以上そんなことはもう忘れて了っても差支えない)、例の感覚を材料として、之を、主観の側に先天的に(物そのものと無関係に)具わった規則(空間・時間・範疇・図式・原則など)によって、手落ちなく按配したものに他ならない。知識、乃至広義に於ける経験や認識、即ち又客観性を有った知識=真理は、物という客観にその権利根拠を基づけているのではなくて知識のこの構成の結束に手落ちがなかったという主観の客観性に、その権利根拠を有っているわけである。――だからここでは、知識とは主観が積極的に構成したものであって、決して主観が受動的に客観物を写し取ったものではない、ということになる。経験とか認識とか(之はカントでは実は科学的或いは自然科学的な段階に上った知識のことだ)という知識の諸段階は、皆そうして成立するというのである。
 だがカントはもう一方の問題を解決しようとはしていない、物自体が心を触発するという方の問題を。処で之を解けばどういうことになるか。夫は取りも直さず、模写説理論となるものなのである。もしカントが自分自身提出し又は一寸ばかり持ち出したこの二つの問題を、同時に解こうとすれば、知識に関する例の構成説とこの模写説との対立に、当然逢着しなければならなかった筈だった。そうすれば恐らく彼は、その単なる所謂構成説に、即ち模写説の単なる反対物としての構成説に、踏み止まることは出来なかっただろう。――だが一体所謂模写説と呼ばれるものの真理はどこにあるのか*。
* カントの物自体に就いての解釈の内、最も優れたものはエンゲルスとレーニンとによって与えられた処のものである。彼等によれば、物自体、物そのものとは、カントが考えたように、現象(吾々にとって現われた物)と絶対的に隔離されたものではあり得ない。物そのものが現象として現われるのである、「物自体は吾々にとっての物となる」のだ。物自体に対する不可知論は、この観念と現象の観念とを機械的に隔離する形而上学(ヘーゲルが使い始めた意味に於て)的な論理からの誤った帰結の一つに他ならぬ。エンゲルス『フォイエルバハ』、レーニン『唯物論と経験批判論』を見よ。――なお模写説に就いては、右の二著書の外に、マルクス「フォイエルバハ論綱」、エンゲルス『反デューリング論』其の他を見よ(何れも岩波文庫訳あり)。
 模写説は普通の「哲学概論」によると、素朴実在論に立脚する認識理論だということになっている。と云うのは、認識されている通りのものがそのまま客観の終局の姿だ、という想定を有っているというのである。之によると色盲にとっては赤と青との区別は客観的に存在しないのだし、焔の次に現われた井戸水は氷の次に現われた同じ井戸水よりも遙かに温度が低いということになる。之は云うまでもなくナンセンスである、だから模写説はナンセンスに帰する、という筋書きである*。
* 或いはもう少し真面目な批評はこうである。仮に認識が客観的な原物の模写であり、この原物と一致するコピーであるとしても、原物とこのコピーとの一致そのものの認識は再び又、この一致という関係自体に一致するコピーである。従ってコピーが果してコピーであるかないかは、どこまで行っても決まらないではないか、というのである。だが、コピーであるかないかは頭の内では決まらないかも知れないが、実践によって立派に決定される。――認識に於ける実践の役割に就いては後を見よ。
 併し世間の「素朴」な常識は、事実上決してそのようなナンセンスな模写理論を有っているのではない。健全な常識は、或る一定の物に就いての吾々の認識が、時と共に変り又豊富になって行くという事実を知っている。一遍々々の認識内容が、そのまま物そのものの終局の姿を反映しているなどと信じている者は、「素朴」な常識の所有者ではなくて、哲学概論家によって造り上げられた教室用のモデルとしての仮想敵か案山子だけだろう。吾々の意識は客観的存在そのものを、時の経つに従って部分々々に漸次に認識して行く。物は一遍に現象するのではなくて、次第に順を追うて反映されるのである*。夫が模写・反映ということの仕方に他ならない。
* フッセルルの現象学はその一種の主観主義にも拘らず、物とこの現象との関係を、意識現象に関する限り適切に解明している。例えば「物は abschatten する」。つまり物は一遍に意識の眼の前に現われるのではなくて、部分々々に、次々に、順次に現われるのであり、之を通じて初めて、物は全体的に現われる、というのだ(E. Husserl, Ideen zu einer reinen Ph※(ダイエレシス付きA小文字)nomenologie ……)。
 或いは云うかも知れない。知識・認識が客観的存在の反映模写であるということが、仮に誤りではないにしても、夫は何等知識の説明になるものではない。知識・認識がそういう意味で反映・模写であるということは、云わば同語反覆に他ならないではないか、と。全くその通りである。客観的存在を模写するということは、単に、知識を有つということそのこと、認識するということそのこと、以外の何物を意味するのでもないのである。云わば認識という言葉の意味は、実在を模写するということをおいて他にないのである。認識はどういう風にでも説明され得るだろう、それは主観による知的材料の構成の結果でもいいし又ただの所謂模写・反映の結果でもいい。だがいずれにしても、認識ということが模写ということなのだ。
 一体模写・反映ということは、知識や認識を物理的な鏡の機能に譬えた言葉だが、鏡のどこに譬えたかと云えば、鏡が(平らであって塵がなければ)物をそのままに(左前になることは別として)写すという、その真実さを有つ点に、譬えたのである。ここで真実や真理ということは最も率直に云って、ありの儘ということだ。知識が真実であり真理であるためには、少なくともまず第一に、事物をありの儘につかまなくてはならぬ。真実とか真理とかいう常語が(哲学者のムツかしい術語は別にするとして)之を要求しているのである。そこでこの「ありのまま」の真理を掴むということを、模写という譬喩を以て云い表わしたに他ならない。だからこそ、知識・認識と模写・反映とは、同義であり反覆なのである。

 ではなぜ意識は自分とは明らかに別なものであるこの物を、反映・模写出来るのか、と問うかも知れない。それが出来るか出来ないかが、抑々カントの天才的な疑問だったではないか。なぜ物はありのままに掴まれ得るのか。――それはこうである。まず、意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。意識が脳髄の所産であるなどは、意識の問題にとってどうでもいいではないかと哲学者達はいうなら、それならば少なくとも之を認めても差支えはない筈だろう。意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが或る一定の状態乃至作用だと考える他に現在道はない。之は生理学の真理を認める限り哲学者と雖も想定しなければならぬテーゼである。もし之を承認しないならば、意識の発生と成立とを哲学者はどこから説明するのか。もしその説明が与え得られないとすれば(霊魂の不滅説をでも科学的なテーゼとして持ち出さない限り)、吾々が今与えたような説明が現在可能な唯一の説明ではないか。哲学者はどこにこの説明を斥ける権利があるのか。それとも夫が到底説明し得ないということでも説明しようとするのであるか。だが不可能を説明し得るのは数学に於てしかあり得ない出来事だ(例えば五次以上の方程式の一般解決の不可能の如き)。
 さてこの物質は云うまでもなく自然にぞくしている。夫が自然の歴史的発達の一つの高度な所産である他はないということは、現在の天文学・地質学・進化論・生物学・等々が一致連関して結論している処である。で吾々は、ブルジョア観念論哲学者の苦々しい顔色にも拘らず、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から何等か発生したものだ、というごく当り前な哲学的結論に来るのである。
 こういう風な云い方をすると、今日の所謂哲学者達は、夫が如何にも素朴な又は幼稚な所説だというような顔をするかも知れない。科学は科学だ、自然科学の成果を以て哲学の根本問題を律することは、枝から幹を派生させるようなものだ、科学と哲学とはその立場が、アプリオリが、違っている。科学的知識の限界を明らかにするものこそ哲学ではなかったか、とそう批判主義者などは云うだろう。だが、こうした批判主義による科学と哲学との超越的な区別が、如何に学問の統一をアナーキーに陥れたかを吾々はすでに見た。アプリオリが違い立場が異ると云っても、世界が二つあるのだろうか。仮に自然界と意識界という二つの世界があるとしても、その二つの世界の結合こそが今の問題だった。仮に自然界と結合した意識界の外に、純粋な意識界とでもいう世界があるとしたら、前の意識界と後の意識界とは無関係なのだろうか。無関係なものがなぜ同じ意識界の名を持っているのだろうか。
 哲学者が意識の問題を、自然の問題から切り離して問題にしてもいいように考えるのには、併し一つの重大な理由があるのである。彼等が意識の問題と考えているものは、実は意識そのものの問題ではなくて、意識が有つ根本的な併し単に一つの性質である処の、意味の世界に就いての問題に他ならないのである。なる程意識は、意味を意識的に有ち得る唯一の存在(Bewusst-Sein)である。或いは意味を有つということに意識の存在性(意識されてあること)があると云ってもいい。そこで哲学者達は、意識の世界の心算で意味の世界を持って来る。之ならば確かに自然界と一応別で、又それとは秩序=世界を全く異にしているだろう。
 だが第一、意味そのものは何等の時間を有っていない、意味そのものはその点で超時間的で永遠なものだ。処が意識は現に時間を以て流れている。意識は流れないという考え方もあるが、それでは流れると考えられる方の意識とこの流れない方の意識とはどう関係するか、と問わねばならぬ。もしこの間に関係があるとすれば、哲学者は更に進んで、意味とこの流れる意識との連絡を与える義務も課せられることになるだろう。――でもし意味と意識とが別ならば、哲学者が意識と称するものは意識界ではなくて、単に超時間的な意味の連絡界のことに過ぎない。それならば確かに、宇宙の自然の時間的秩序とは無関係だろう。だがそうすれば、こういう意味をどんなに解釈しても、物とそれの意識による認識=知識との関係の理解とは、全く無関係な筈だ。そうするとこの所謂哲学者達――実は一切の発達した高級な観念論哲学者達――は、認識理論に一口たりとも容喙する権利がない、ということになって来る*。
* 現代の観念論の殆んど凡てのものは、実在の秩序の代りに、意味の秩序を与えようとする。世界を認識する代りに、世界が有っている意味を解釈しようとするのである。――この点の批判に就いては拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕参照。
 で単なる意味の世界の解釈でなく、実在する意識と実在する自然との関係になれば、「科学」が与える成果を無視して、如何なる「哲学」的な認識理論も成り立たない。処で、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から発生したのだったが、そこから物と心との、客観と主観との、存在と意識との、対立そのものが発生したのである。物と心、存在と意識、客観と主観は、単にいきなり二つ並んでいるのでもなければ、いたものでもなく、又単に論理的な仮定などとして想定される対立でもない。両者の関係それ自身が、自然的秩序に於て、宇宙時間の内に、発生した処の一関係なのだ。
 さてこうしてお互いの対立を発生せしめられた存在(物・客体的実在)と意識(心・主観)とであるから、意識ある自然が他の自然界から分裂するその分岐点にまで仮に時間的に溯ったとすれば、そこには両者の直接な実在的な同一が横たわっていた筈だったが、処が人間が生まれるのは、すでに存在と意識とが分裂対立して了った後なのだから、この直接な同一は、現実には実在的なものとしてはもはや存在し得ない。意識は云わば祖先以来の記憶(プラトンの想起説に於けるような)のようなものとして、観念的に、存在とのこの直接な同一性を再発見する他はない。実在的な直接的同一の代りに、存在と意識との間の非実在的な、云わば媒質(メジウム)のない、直接的同一が、ここに設定される。両者はここで、実在的には離れているが、それにも拘らず無媒質的に直接している。――処で鏡と原物との関係が丁度それであって、原物は鏡から物理的に離れているにも拘らず、否物理的に離れていることによって初めて、鏡に像となって反映され得るのである。――だから、意識が存在を模写反映し得るという事情は、それ自身自然の宇宙時間的発達に基く結果であって、単に事実上や理論上の仮定として想定されねばならないだけの関係ではないのである。

 だが、以上は知識=認識ということが取りも直さず模写・反映ということに他ならないという、認識乃至模写という観念、乃至は言葉の説明であって、まだ必ずしも、そのものの実際の機構の説明ではない。――さてそこで、カントによれば物そのものが主観を触発した結果が感覚だというのであった。ここに模写なるものの第一段階があるのである。つまり模写なるものの内容は、まず感覚として、或いは感覚から、始まるというのである。
 尤も感覚という心理学上の概念は今日では必ずしも明確なものではない。形態心理学などの主張によれば、感覚は心理的実在性を有った要素ではなくて、単に心理学者が仮構によって造り出した心理要素に過ぎない。直接に与えられた心理的要素は感覚ではなくて、知覚だというのである。事実カントなどは感覚をば与えられた無形式な直観素材だと考え、之を改めて時間空間という直観形式にあて嵌めて初めて、知覚という資格を持った知識になると考えているから、感覚という概念のこの訂正乃至抹殺はカント認識理論の根本(その認識構成主義理論の最初の一部分)をゆり動かすものだろう。
 だが吾々の場合にとっては、感覚でも知覚でも大した違いは出て来ない。それが、客観的存在としての物そのもの(実は「物」ではなくて他の何であっても大した違いは出て来ないが)が主観に与えた影響・結果であることを、示してさえいればいいのである。――その意味で、知識・認識即ち実在の模写が、第一に感覚乃至知覚として現われると云っていい。一切の知識はこの感覚乃至知覚から始まり、それから発達するのである。
 処がここですでに何より注意しなければならぬことは、どんな感覚・知覚であっても、具体的な事実としては決して単なる主観の感動によって成り立ち得るものではない、ということだ。知覚が物からの影響であり、所謂印象であると云っても、単に、静止している主観(それは完全に死んだ主観のことになるだろう)に物が作用するということではない。例えば触覚は主として身体の部分的移動によって発生する。吾々が少しも身体を動かさないとすれば、吾々は遂に何等の触覚も覚えずに死んで了うかも知れない。触覚の発達である嗅覚や味覚は、事実筋肉の能動的な運動を介して初めて生じるだろう。視覚も亦眼球の運動によって知覚を生じるのが具体的な事実である*。――それ故感覚乃至知覚そのものは、客観的な物自体からの印象であるにも拘らず、その印象を生ぜしめる反射能力としての積極的な能動性に基いているのが実際なのである。カントは感性を単に受容性の能力と考え、自発性を欠いたものだと極力主張しているが、そういう所謂感覚が心理的事実に遠いことは、すでに述べた。模写は事物のありのままの反映であるにも拘らず、意識する主体の自発的な能動性を有っているのである。
* 感覚乃至知覚の有っているこの能動性を観念的な云い現わしで云えば意志の形をもっていると云うことが出来る。コンディヤックの感覚論から、メヌ・ド・ビランの主意説が展開した。――かくて知覚乃至感覚の能動性の理解を一歩誤れば、唯物論の代りに典型的な観念論を結果する。一般に能動主義の危険はそこにあるのである。
 だからこそ又、反映・模写に於ける誤謬の可能性も潜在し得るわけで、それでなければ誤謬の存在は説明出来なくなるし、又誤謬を訂正することも、之を訂正する論理学や方法論も、全く無意味にならざるを得ない。ただの死んだ鏡には無論こうした能動性はない。だが認識する者は実は鏡ではなくて、社会的に生きている実践的な人間だったのである。
 実は感覚乃至知覚というものが、人間的活動・実践の最も端初的な形態だったのである。科学の科学性はその実証性=実験性にあったが、この実験乃至実証とは終局に於て知覚に訴えるということであった。そしてこの実験こそ人間的実践の、自然に対する働きかけの、尖端だった。模写の第一段階であった感覚乃至知覚そのものが実は単に受動的なものではなくて、認識・模写する社会的人間主体の主体による活動の、最初の段階に他ならなかった。
 でこう見て来ると、反映・模写は主体の積極的な能動的な実践的活動によって、初めてその実際内容を得るのだ、ということになる。無論この一切の主体的な――主観の――活動は、物そのものを有りのままに把握するための活動でこそあれ、任意の主観的な作為を弄することによって、物そのものの有りの儘の把握から独立し離れて行こうがためではない。模写という認識の直接さ、その真実さをより確保するためにこそ、この主観の実践的な能動性が、媒介者となって介入し、こういう手続き手段方法を用いて、間接的にこの直接さに至りつこうとするのである。この直接(Unmittelbar)さが、例えばカントに於ては物自体による心の触発となって現われ、そしてこの間接(手続き――Vermittelt)さが、その所謂構成説となって現われたものであった。カントの構成説が模写説の単なる排撃に終ったのは、彼が自分自身提出した唯物論的な設問を貫き得ずに、問題の解決を観念論的な方向に限定したカントの偏局の責任だったのである。封建的遺制が著しく強力だった当時のドイツの啓蒙的な理論家カントにとっては、之は止むを得ない必然的な偏局だったのである。

 認識即ち模写は一定の構成手続きによって初めて実際的に実行される。云うまでもなくこの構成が、認識する主体の何等かの勝手気儘に基くものであることは許されない。カントはそれ故、先天的で普遍的な人間理性に固有と考えられる構成の共通な一般的な規準を与えることによって、この構成手続きの客観性を保証出来ると考えた。処が例えばこの構成の規準の代表的なものである処の根本的な悟性概念、即ち所謂範疇なるものを、カントはどうやって導き出したかというと、夫は結局従来の形式論理学の判断の表に基くのである。そしてこの判断の表は、極端に云えばアリストテレスが文典から惹き出したのを整理したものに他ならない。だからカントの認識構成の規準は、云わば純論理的に――アプリオリに――導き出されたものであって、カントの実質的な仕事は単に、すでに導き出されてあったこの範疇に就いて、それの認識構成の規準の資格を詳しく検定したに過ぎないとさえ云ってもいいのである(範疇の先験的演繹)。
 だがよく考えて見ると、知識の客観性が、客観的存在そのものとは全く独立に、悟性とか理性とかいう何か主観にぞくするもの(範疇其の他はそうだ)の観念性によってだけ成り立つということは、非常に奇妙なことでなければならぬ。こういう知識の客観性と、客観的存在そのものの客観性とが、全く無関係だということは、変なことだと云わねばなるまい。――知識の客観性をまず第一に保証し得るものは、実はカントに於ては知識構成という主観の先験的な作用の完全な圏外にぞくしていた処の、例の「物が心を触発する」結果としての感覚であったのであり、つまり所謂意識によって物そのものが模写・反映されるということそのことであったのである。処がこの模写・反映の第一段階であった感覚乃至知覚は、他方に於て実は又主観の主体的な実践的な活動の第一段階でもあったのである。かくて知識の客観性を保証し確保し検閲し得るものは、主観の観念性どころではなく、却って正にこの人間の実践だったのであり、実験や実証というものが、この実践の云わば理論的な手続きの第一段階だったのである。
 それ故、知識の構成手続き、知識の客観性を保証し確保し又検閲するための知識構成の手続きは、要するに人間的実践に帰着する、ということにならざるを得ない。――処が人間の実践・実際活動は、云うまでもなく感覚や知覚や観察や実験や実証やの段階に止まるものではない。一般に社会に於ける社会人としての人間活動――生産活動・政治活動――こそ、この実践の意義に於ける内容でなければならぬ。人間社会の歴史は、人間のこの実践活動を通じて、展開される。実践という観念はこの意味に於て歴史的で社会的な内容を失うことが出来ない*。感覚や実験は、之が単に理論的活動乃至知識活動に限定された時に生じる一断面に他ならない。
* 実践に就いて最も誤られ易い点は、それが常に何か倫理的、道徳的なものだと考えられる点だ。フィヒテはそこから、典型的な観念論の代表者となったのである。だが実践こそ、吾々が今まで見て来た筋書き通り、感覚や知覚となって第一に現われるもので、唯物論の枢軸だったのである。
 そこで、今人間のこの実践活動が、歴史的、社会的なものだとすれば、同じくこの実践活動が知識構成の手続きであった以上、知識の客観性を保証・確保・検閲するためのこの知識構成過程も亦、要するに人間の実践活動に帰着するものであり、又後者の一部分として初めて成り立つことが出来るものだ、ということを結果するわけである。認識の客観性は、単に知識としての知識(実践から独立した孤城の主としての知識)の内には求めることが出来ず、人間の社会的な(又歴史的な)実践活動の一部分としての知識の内にしか求めることが出来ない。と共に、知識・模写は、何等かの仕方に於ける人間の社会的実践活動が介入して構成の労をとることなしには、事実上なり立たない、という結論になるのである。
 尤もどういう仕方に於て実践の要素が認識の過程に介入するかは、分析を必要とすることで、単に知識の理論的な行きづまり――夫は理論的矛盾となって現われるが――を実地や経験というものの責に転嫁して、理論的な解決を打ち切ることは、ファシスト的アクティヴィズムか、僧侶的な神秘主義のデマゴギーにぞくする。云うまでもなく理論はどこまでも理論であり、之に対して事実はどこまでも事実である。知識は知識であり、実践は実践なのだ。だがこの理論や知識のそれ自身の自律による一貫性が、実は経験的事実なり実践的な問題の解決なりの、線に沿うてしか起こり得ないということ、或いは起こらなくてはならぬということ、夫が今大切なのだ。実践は理論に向って、思い出したように時々干渉するのではない。例えば物理学の理論は既存の実験を根拠として成立しているのであって、単なる理論があって夫が行きづまった時偶々実験に訴えるのではない。実践は常に認識の裏や表につき添っている。如何なる認識もその意味に於て実践の理論的な所産に他ならない。

 で、それだけ云えば、意識による実在の所謂模写反映(即ち認識だが)なるものが、観念論哲学によって想像されるような受動的で静止したステロタイプのものではなくて、却ってそれ自身主体の実践的な能動による構成に他ならないということが、明らかだろうと思う。但し夫にも拘らず、認識は常に、ものをそのあるがままに捉えるという模写・反映の鏡の譬喩の元来の意味を、失うことは出来ないのだ*。
* なお詳しくは、拙稿「実践的唯物論の哲学的基礎――物質と模写とに関して」(『理想』三八号)〔本全集第三巻所収〕を参照。
 さて以上は、一般に知識乃至認識に就いて、その模写構成とを説明したのであったが、今や吾々はこの一般関係を科学にまで押し及ぼし得るし、又押し及ぼす必要があるのである。科学は知識乃至認識の或る特別な組み合わせの場合に他ならないだろうからである。と共に、この科学としての知識乃至認識に至って初めて見出される固有な、実在の模写と知識の構成とに就いて、分析することになるのである。処が模写の夫々の仕方と云えば、つまり知識の構成のことだったから、科学一般に固有な模写ということは、つまり科学一般に固有な知識構成は何かということに帰着する。科学論の問題は今や、模写の問題を取り扱う認識論の主題から、知識構成の理論へ移る。――
 処で科学とはどういう資格を有った知識のことであるか。だがよく考えて見ると、知識それ自身が一つの構成物であった。そして構成するには一定の構成目的とその目的に適した構成手段とがあったわけだが、知識はこういう目的と手段との間に成り立つものであった。処がこの構成目的は何かと云うと、前に云ったようにつまり実在の模写に他ならない。して見ると、知識なるものはすでに、どういう場合でも一つの組織物体系であり、そしてその体系が実在の構造や機構に照応すべく之を反映しているのだ、ということになる。だが、実在の任意の一部分を取っても夫も亦実在の名に値いするのだから、実在の構造や機構というものも、実在の任意の一部分の構造や機構のことであって差閊えはない。そうした云わば任意の断片的な実在部分に照応する反映が単に所謂知識(Wissen)と呼ばれるものだ。
 処が実在それ自身は決して任意なバラバラなものの寄せ集めではない。実在は任意の諸部分が平面的に結び付いて出来上っているものではない。実在はその各部分の間と部分の集団の各々の間とに、実在そのものにとって必然な一定の秩序と段階づけ・階層づけとを持っているのである。広義の物理現象は云うまでもなく無限の諸部分からなっている。力学的現象・熱現象・電磁気現象・化学現象等。夫々の現象も亦無限な諸部分からなっている。又更に、同じ科学現象でも機械的な運動量移行の現象もあれば、重力や一般の加速度現象もある。この広義の物理現象の外に、更に生命現象があり、その外に又社会の歴史的現象がある。だがこうして実在の諸現象・諸部分は、一定のコオーディネーションとサブオーディネーションとによって、一つの体統をなして、集団し類別し対立しているのである。――今夫々の実在部分に照応する所謂「知識」は、実はやがてこの夫々の実在部分が一つの客観的な体統をなすことに照応して、諸知識そのものの間にこの体統を諸知識体系として反映するようになる。諸知識は実在の体統に照応すべく体系づけられ組織的に組み合わされる。之は知識そのものの本性上の約束から云って、極めて当然なことだったのである。だが恰もこの知識の組織(Wissen-Schaft)が、「科学」(乃至学問)の名を持つものだったのである。――科学を単なる知識から区別する処の科学らしさ=科学性を、ヘーゲルなどはだからその体系の内に求めている*。
* フィヒテは之に反して、学問(科学)の特色を体系よりも寧ろ、知る(Wissen)ことに、知ることの確実さ(Gewiss)に求めた。即ち彼によれば科学の確実さは、実在との関係によって与えられるのではなくて、意識の主観的な心組みの確かさ如何によるわけである。――ではその体系がどうやって成り立つか、に就いては様々な意見がある。例えば科学体系がシムボルからなるというような意見が有力であるが(M. Schlick; P. Frank など)、之は恰も模写説に反対せんがためにそういうのである(P. Frank, Theorie de la connaissance et physique moderne, p.31―1934)。だからこそ吾々は科学が知識(それは模写だった)組織だということを強調する必要があったのである。
 で、科学は別に特別な知識ではなくて、結局は知識(Wissen)そのものにすぎない。ただ諸実在部分の実在上の集団化・凝結結晶に相応して、夫々一個の単位としての統一を受け取った限りの知識集団・知識組織が、科学の資格を持った知識となる*。だから科学は一方に於て、総括的な唯一の単数名詞であると共に同時に又複合名詞でもあるのであるし、他方に於ては、諸科学の体統に於ける夫々の任意のブランチが、夫々一個の独立な科学となることも出来る。諸科学の独立・対立による科学分類はその客観的根拠をここに持つのである(科学の分類に就いては後を見よ)。
* 科学が普通、「根本的で完全した知識」などと考えられるのも、この意味からである(例えば B. Bolzano, Wissenschaftslehre Vorrede の如き)。
 科学と単なる知識との区別が、科学の体系・組織にあるとして、この体系・組織は云うまでもなく体系づけられ組織づけられた結果に他ならないから、そこには当然、体系・組織づけの方法がひそんでいる。ヘーゲルは組織に対して方法を軽んじるが、体系と方法とは対立するものではなくて単なる裏表にすぎない。そこで、科学はその方法によって、単なる知識から区別される、ということになる。科学の方法が何であるかに就いては、今ここで述べているわけには行かない(第三章を見よ)。

 だが科学と単なる知識との間の、もう一つの大切な区別は、科学は単に個々人の主観に於て横たわる処の知識とは異って、社会に於て公共的に成り立つ処の、一つの客観的な存在だという処に存する。実は知識と雖も多くの場合、単に個人が主観的に持つ認識内容には限らないのであって、それが客観的な事物の反映・模写であった限り、社会に生存しまた生存した又生存するであろう他の多数の個人も亦、之を公有し得るのが当然だろう。知識も亦社会的に普及され歴史的に伝えられることが出来る。だが、之が著しく高度に公共化し又著しく判然と伝承され得る場合は、他でもない夫が科学の組織の一断片としての資格を得る時であって、科学とは、知識が社会的に普及され歴史的に伝承されるということ自身が、云わば組織化された場合を指すのである。知識の組織的な普及伝承の形式が科学なのである。この意味に於て、科学にして初めて、社会的歴史的な客観的存在となる*。
* ドイツ観念論では科学というこの客観的な文化財は、精神の内に数えられる。というのは、精神とは主観の心を超越して歴史的に社会的に生きる客観的形象のことだ。――客観的精神こそ精神の本領である。
 ここでは個々の社会人が歴史の動きにつれて得たり失ったりするだろう各種の断片的で無組織な知識が、社会的なスケールに於て整頓され淘汰され、一定共通の形態の内に吸収整理される。知識を所有する諸々の意識乃至観念は、一つの形態を与えられることによって初めて客観的に定着される。と云うのは、知識は一種の観念形態としてのイデオロギーにまで客観化せられるということである。この観念形態としてのイデオロギーにまで客観化せられた知識が、所謂「科学」乃至学問なのである*。
* イデオロギーは観念形態という意味の他に、社会意識とか政治意識とか思想傾向とかを意味するし、又単に社会に於ける観念的上部構造をも意味する。元来は社会的乃至歴史的原因によって発生した虚偽な意識の意味であった。この点に就いては新明正道『イデオロギーの系譜学』、拙稿『イデオロギー概論』〔本全集第二巻所収〕、其の他を見よ(なお後を参照)。
 元来科学は一定単位の実在の組織的反映であった。処がこの組織的反映の内容は結局知識の組織的構成のことだったが、科学に於けるこの構成組織は併し、科学そのものが一つの客観的な歴史的社会的存在であり、歴史的社会に於ける公共的伝承的な所産であったから、之は歴史的社会的条件によって制約された構成組織でなくてはならないわけだ。知識(模写)はすでに人間の実践活動(感覚・実験・其の他社会的実際活動)によって構成されたのであったが、今や科学のこの歴史的社会的条件に基く構成組織には、この人間の実践活動、特にその社会的実践活動の役割が又、著しく組織的となる。
 処で社会人の実践活動と云えば、彼が如何なる社会階級にぞくするかによって、意識上、一等根本的な区別を生じるのであるから、従って科学には所謂階級性が発生することとなるのである。科学の階級性は、場合によっては科学をして却って愈々その科学性を高めさせるが、反対の場合には科学からその科学性の重大な部分を奪って之を歪曲する作用を有っている。往々にして、反映すべき実在の原物からの印象の強さに較べて、遙かに強力な牽制力を科学構成に及ぼすものが、この階級性なのである。
 科学の階級性の議論に就いては詳しくは後に見るとして、今は科学が、その階級性によって、単に表面上の科学的諸結論だけを左右されるのではないということを、注意しなければならぬ。階級性が単に科学の外面又は外郭だけに影響するのならば、科学者の公正にして冷静な頭脳や、真理への愛は、容易にそのような階級性などの圧力をはね退けて了う筈だろう。処が階級性が巣食っている処は、意外にも科学そのものの内部に、而も最も深部に近い処に、あるのである。と云うのは、科学の階級性は、科学構成の枢軸とも云うべき科学の方法そのものの内に、すでに潜んでいるのである。
 科学のイデオロギー性は、一見単なる社会的規定に過ぎないように見えるだろう。なる程確かに夫は社会的規定の外へは出ない。だが科学の論理的規定そのものがこの社会的規定によって制約されているとしたら、もはや之は単なる社会的規定だと云っては済まされないだろう。ブルジョア経済学とマルクス主義経済学とは、単に同じ科学が階級的利害に応じて相反する結論を与えるだけなのではない。ブルジョア経済学と雖もマルクス主義経済学と一応同様に、全く「科学的」なのである。なぜならブルジョア経済学にはブルジョア経済学でそれ特有の立派な方法があって、それによって、そういう結論を必然的に導かざるを得なかったからなのだ。
 尤も、それでは自然科学にブルジョア自然科学とマルクス主義的自然科学の区別なるものがあるか、と問われるだろう。もし理想的な自然科学があるとすれば、夫は確かに唯一の自然科学でしかあり得ない。その階級対立などは科学的に、この純粋な科学の立場から云って、無意味だろう。併しそれは社会科学に於ても少しも変ったことではない。経済学と雖も理想的に純粋なものは、ただ一つしかあってはならない筈だ。処が自然科学は決してそれ程理想的でもなければ純粋でもないのが事実であるし、この事実がどこまでもついて回るとすればこの事実も亦原理上の問題にぞくする。のみならず実は、純粋な自然科学、と云うのは哲学的世界観などから完全に独立した意味での純粋な自然科学などというものは、決して自然科学の理想的な場合ではあり得ない。もし仮にそうしたものが自然科学の理想だとすれば、そうした理想的(?)な自然科学は今度は決して純粋さをもった本当の自然科学ではあり得ない。
 自然科学は、範疇を用意しないでは実験一つも実行出来ないということを忘れてはならぬ。エーテルとか波動とかいう範疇を想定しないでは、エーテルの存在しないことを証明すべき意味を有つ実験も、物質が波動であることを証明すべき意味を有つ実験も、ナンセンスだろう。実験はいつもそれの一定の意義を想定した上で初めて実験としての価値を有つ。処で夫々の実験が含むこの意義や価値を云い表わす材料が、範疇=根本概念なのだ。――で範疇をもたない自然科学は存在し得ないので、それは術語と表象を持たない物理学者が存在し得ないと同様に、当然なことだ。処がこの範疇なるものは、その大部分が哲学的世界観と直接連ったものなのである。例えば因果律とか時間空間とか法則とか等々。処がこうした観念程、現在でも哲学上の異論が百出しているものはないのだ。――で一例として自然科学に於ても、広義に於けるその方法に、少くともその範疇組織の選択活用に、階級性が介入する余地は多すぎる程多いということを忘れてはならないのである*。
* 自然科学の如何なる専門家も、その範疇を一般的に問題にすることによって哲学の問題に口を容れる時、全く素人だということは、常に忘れられてはならない点だ。科学に信用のあることと、科学者の科学解釈を信用しなければならぬということとは、殆んど全く別なことだ。――例えば今日のブルジョア諸国の物理学者達は因果律に就いて、機械論的・決定論的な範疇をしか持ち合わさない。因果的必然は、範疇として偶然と完全に機械的に対立させられる。ところでこの機械的因果律の観念を覆すような物理現象が現われると、忽ち無条件な偶然論などを提唱することになるのである。処が実は、偶然から切り離されて理解され得る必然などは、弁証法的にはナンセンスなのだ。
 にも拘らず、云うまでもなく科学の方法は、何等かの社会的歴史的主観によって(従って又おのずから多くの場合階級的に)決定し尽されるものではない。実はそれより先に、まず第一に、客観的存在=対象そのものが一定の方法を必然なものとして、科学に向って指定するのである。後に見るように、この点は忘れられてはならない点だ。が、この場合、この客観的存在が、それ自身歴史的社会的存在である場合は勿論のこと、たとい、夫が自然界であったにしても、自然は、人為化され社会化された限りの自然(技術によってマスターされた自然)と、及びその条件となっている歴史的社会一般の存在自身とに、直接連続していたから、矢張り科学は一般に、この技術的条件によって歴史的社会的に制約されることを原理的に免れない、ということになるのである。実際、社会の技術的水準に依存するのでなければ、如何なる自然科学も、又如何なる社会科学も、発達し得ない。――処で、この技術自身は社会階級などとは異って、何等かの主観にぞくするものではなくて、客観的な物質的な世界だが、併し大事なことは、やがてそれが階級主観に連絡していることであって、実際、技術がブルジョアジーのものであるかプロレタリアのものであるかは、一切の科学の発達進歩にとって、根本的な致命的な問題なのである*。
* 技術は普通、唯物論に於ては労働手段の体系と定義される。この定義は決して充分でないが、併し少なくとも之によって、技術が客観的、物質的なものであることを強調することは出来る。――之については後を見よ。
 科学に於ける例の知識構成の組織はかくて、論理的には科学の方法として、社会的にはイデオロギーの機構として、展開するのである。この対立する二つの契機を通って、その揚句、科学が齎すものは、科学の対象界乃至科学的世界である。尤も対象界と云うと、科学が模写すべき原の実在界そのものを指すことも出来るが、今は夫とは区別して、この実在界を方法とイデオロギーとの構成を通じて模写したそのを対象界と呼ぶ世間の習慣を、採用することとしよう。こうした像(形像)としての対象は、科学にとっての「世界」であるので、之はつまり科学的「世界像」(Weltbild)と呼ばれている処のものなのである。
 世界像の観念に就いては、例えば相当にマッハ主義的な色彩を有っているカント主義者M・プランクが一応の典型的見解を示している。彼によれば、実在そのものは直接には断片的にしか認識(知覚)出来ないのだが、科学は之を組織的に構成することによって、科学的な世界像を創り出す、というのである*。ただプランクの説明では、この世界像と原の実在との根本関係が、認識論的に又科学論的に、一向ハッキリしていないということが、注目に値いする。だが夫は彼が一種のカント主義者であるからばかりではなく、他に意味のある一つの理由があるのである。と云うのは、プランクの所謂科学的世界形像は、実は決して科学全般の成果としての総括的に統一的な科学的世界像のことではなくて、単に物理学なら物理学という一定領域に限定された一二の科学が齎す成果としての「世界の像」のことにすぎない。だからこの「世界」は実は実在そのものとしての世界ではなくて、それの故意に一部分的な映像であるに過ぎない。客観的な現実の世界そのものとこの所謂世界像との間には、だから之だけのギャップがあるのである。カント主義者プランクは、このギャップに特に気を配らざるを得ないので、世界そのものと世界像との、吾々にとっては最も根本的な関係を、説明する気にならないのである。
* M. Planck, Die Einheit des physikalischen Weltbildes (1909)――田辺元訳『物理学的世界像の統一』(岩波哲学叢書)。同じく Das Weltbild der neuen Physik (1930); Positivismus und reale Aussenwelt (1931) 等を見よ。又 Der Kausalbegriff in der Physik (1932).
 だがこのことは、所謂世界像と、所謂世界観との区別を云い表わしてもいる、ということは興味のあることだ。プランクのやや反唯物論的な認識論乃至科学論によれば、諸科学の、客観的根拠のある統一組織に就いての、積極的なプランに到着することは恐らく至難だろう。彼の所謂世界像は決して、だから世界観にまで、そうした哲学的統一の立場にまで、そのままでは高揚することが出来ないだろう*。――だが、云うまでもなくこの世界観こそは最も一般的な統一的な「科学的世界像」でなくてはならぬ。世界観は世界の直観である。之は単に世界観という言葉を解釈してそう云うのではない。世界実在に就いての直接的な無媒介な無構成な、模写という根本的な関係をば、世界観という言葉は云い表わしている、というのである。そうすれば、科学はその方法イデオロギーとの構成過程を通じての総結果として、この統一的な科学的世界像に、科学的な世界観に、世界直観に、即ち世界の統一的な模写・反映に到達する、ということになる。
* 世界像と世界観との相違に就いて、私は曾て述べたことがある(「自然科学に於ける世界観と方法」――『理想』四六号〔本全集第三巻所収〕)。岡邦雄氏も亦之に触れている(『新エンサイクロペディスト』の内)。なおこの区別及び一般に自然科学と世界観との関係に就いては S. Kisch, Naturwissenschaft und Weltanschauung (1931) を見よ。
 現実の世界(之は哲学的範疇によれば物質と呼ばれる)に対して、之の最も直接な第一次的反映として、世界直観が、所謂「世界観」が、照応する。だが之はまだ、科学的研究を意識的に進めた結果を集成整理して出来た世界観ではなく、そういう科学的反省以前の云わば常識的な世界直観である*。併しこの常識的に統一をもった世界意識は、云うまでもなく社会に於ける歴史的な所産物であって、本来イデオロギーとしての資格を具えている。ただそのイデオロギーがまだ極めて直覚的で無意識であるだけだ。この第一次の世界観のこのイデオロギー性は、諸々の科学的方法の発見に際して側面から有力な条件を提供する。例えばC・ダーウィン自身が自伝の内で云っているように、マルサスの人口論(之はブルジョアジーの前途に矛盾を発見した最初のブルジョア古典経済学だ)からその自然淘汰の観念を示唆された。又エルステッドの電磁気関係の研究はシェリングのロマン派的自然哲学に負う処があるらしい。
* 常識はパラドックシカルな性質を持った知識である。だからこの言葉を何か判ったようなものと仮定して使うことは、甚だしい混乱を惹き起こすだろう。――後に之を分析する。
 併し一定の歴史社会的主観に由来するイデオロギーが、科学の方法の最後の決定者であることは出来ないことは、すでに述べた。否、この第一次の常識としての世界観そのものすら、そのままでは科学の方法を終局的に決定することは出来ぬ。現実の客観的な実在世界が、実は一定の方法を科学に向って指定するのだった(ダーウィンの進化論はイデオロギーよりも寧ろ農業技術の発達に依存している)。処がこの際、夫々の科学は世界の夫々の部分をさし当りその研究対象にするのであったから、科学は、例の常識としての世界観の出来上った全体的な統一をば却って一旦破壊した上で、自分にとって必要な限りの現実界の部分に照応しているだけの世界観の部分を取り出し、之を科学的方法的に仕上げることになる。従ってこの際、イデオロギーも亦、全体を以て作用出来ずに、単に部分的にしかこの仕上げに参画出来ないわけである。こうやって仕上げられたものが、例の科学的世界であった。――処で諸科学の夫々が世界観の部分々々を採って之を夫々の世界像にまで仕上げた時、原物の実在世界の統一に照応すべく、夫々の科学の間、夫々の世界像の間に、再び統一が齎らされねばならぬ。こうやって齎らされたものが、科学的――もはや常識的なではない――世界なのである。
 処が、この科学的世界観と雖も、依然として一個の世界観であることを失わない。夫は前の常識的世界観の、云わば直系のものでなくてはならぬ。前のは単に科学的研究という過程を自覚しない時の夫であり、科学的世界観は之に反して、単に夫が科学的研究過程を自覚している場合の夫に過ぎない。区別はただそれだけだ。だからこの科学的世界観でも、それが常識として社会的に剥脱すれば、之も亦単なる常識的世界観へと資格を代えるのである。第一次の世界観もこの第二次の世界観も、世界観(世界の直覚的反映)という同一の系列の二つのステーションに他ならない。第一次の世界観の全体的統一は、諸科学の方法とイデオロギーとによる構成過程によって、部分々々に分解され、銘々に順次に高揚され、やがて凡てが出揃って又一つの全体的統一を持った世界観となる。丁度氷河が流れるような仕方に於てだ。こうなったものが第二次の世界観なのである。――科学(学問)は一般に、こういう手続きによって、実在世界(物質)に就いての知識を構成し、よって以てこの実在界を組織的に模写するのである。哲学に於ても、社会科学に於ても、自然科学に於ても、この関係は共通で変らない*。
* 世界観・イデオロギー・方法・科学的世界の関係は、独り科学に限らぬ。文学に於ても之と平行した関係が成立する。そこでは、世界観・イデオロギー・創作方法・作品という関係となる。吾々の理論の統一的な普遍的な観点のために、特にこの点を指摘しておく必要があるのである(前出「自然科学に於ける世界観と方法」参照)。
 だがこの場合、この関係の枢軸となっているものは、いつも実在と、夫の模写・反映と、なのである。方法に就いてもイデオロギーに就いても、科学的世界に就いても、この根本は変らない。特に科学的世界となれば、それが原物の実在世界と一定の意味に於て果して一致しているかどうかが、必ず最初の問題となる。科学の方法には作業仮説というものもあれば、暫定的方法(heuristische Methode)というものも許されよう。その意味に於て科学方法は各種のシムボルに基くという考えさえも発生する。又イデオロギーは、実在の認識をば社会的与件に従って、歴史的伝統に沿うて、又階級的利害に左右されて、撓めるだろう(撓めずに却って矯める場合もあるが)。だが少なくとも科学的世界の内容だけは、初めから実在の模写そのものであることを要求される。真理の問題が、ここでは一等露骨に、表面に現われて来る*。
* 模写説(実践的な唯物論の)は真理に関する一等優れたそして一等大衆性を有った理論だと私は推断する。真理の種類はとに角として(例えばライプニツによる数学的真理=永久的と歴史的真理=事実真理、自然科学的真理と社会科学的真理、など)、真理に就いての一般観念として、カントの構成主義、直覚明証説(デカルトやE・フッセルル)、社会的便宜主義(プラグマチズムやマッハ的思惟経済説やボグダーノフ主義)、M・ハイデッガーのアレテ説(真理とは匿されたものを露わにする―al※(アキュートアクセント付きE小文字)thes―こと)、ヘーゲルの観念に於ける具体的普遍性の見解、其の他其の他のものにも拘らず、そう推断出来ると思う。
 それ故、一言を以て云えば、科学と実在との関係は、論理の問題に帰着する。論理学も認識論も弁証法も、この論理の夫々のモメントを問題とするものに他ならないのだが、この論理の特に科学論(夫は「科学方法論」・「科学分類論」・其の他を含む)的な形態が、科学と実在との関係に他ならない。吾々は之までに、之を実在の模写(知識)と知識の構成とによって、説明したわけである。
 科学と実在との関係の問題、即ち知識構成の問題(模写の内容に就いての問題も之に帰着するのだったから)は、だから之を三つに分けて取り扱うことが出来る。第一に「科学の方法」、第二に「科学と社会」(イデオロギーの問題)、第三に科学的世界の問題。第三のものでは諸科学に於ける体系と諸根本概念の検討とを中心とするだろう。
 順次に夫を見て行く。
[#改段]

  三 科学の方法(その一)


 科学の方法という問題は、近代科学論(主としてブルジョア的科学理論)の最も代表的なテーマになっている。科学方法論科学論そのものの中心的な課題とされている。尤も科学論と云っても、一般的に言葉通りに、科学乃至学問に関する統一的研究と見透しであるに止まらず、実際には、単に知識一般の根本理論であることもあるし(フィヒテの「知識学」)、又従って一種の論理学原論である場合もある(ボルツァーノの「知識論」乃至『科学論』)。之に反して又、特に自然や社会・歴史・文化に関する単に経験的な諸科学に於ける二三の根本問題に就いての哲学的見解を意味する場合もあるのである(リッケルトの「科学論」)。処で実はただ、この第三の場合又はそれに相当するような科学論だけが、その中心を科学方法論に置いているのである。
 だが科学論という言葉がそうであったように、所謂科学方法論なるものも亦、必ずしも言葉通りに、一般に科学の方法に就いての理論であるには止まらない。夫は近代ブルジョア哲学上、すでに一定の歴史的な約束を持った言葉になっている。吾々は何もこの約束を守らねばならぬ義務はないのであって、却ってこの約束を破ることによってこそ初めて本当の科学方法論に到着し得る筈であり、その点、科学論(というこの書物の表題)自身に就いてと全く同じであるが、併し少くともこの約束を知らずには、科学の方法に就いて語ること(それが科学方法論だ)は不可能になっている。そういうような条件の下に、すでに吾々は置かれているのである。
 所謂科学方法論がどういう歴史的約束に束縛されたものかは次に見るとして、ここで予め注意しておかなくてはならぬのは、科学の方法を論議するらしく見えるものに、この所謂科学方法論(Methodenlehre―Methodik)を他にして、なお方法論(Methodologie)という言葉があることである。Methodenlehre でも Methodologie でも、言葉としての意味だけから云えば殆んど何等の区別はないわけであるが、併し実際には、二つは必ずしも同じ内容を云い表わす言葉ではない。大体の傾向乃至習慣に就いて云う限り、ブルジョア哲学の伝統では、科学方法論の方は主として経験的諸科学(数学も之に加えてよいが)に特有な学術研究方法に就いての理論を指すが、之に反して、方法論の方は、より一般的に又はより抽象的に、認識一般の方法を論じる場合を指すことが多い。前者が云わば認識論(ブルジョア哲学に於ては之は諸科学の科学的認識の根柢に関する理論として理解される場合が多いが)にぞくし、之に反して、後者は単に論理学(形式的な所謂学校論理学の延長拡大としての)にぞくする、と云っていい。
 尤もこの二つの言葉そのものだけに就いて云えば、どれが所謂認識論側のもので、どれがもっと抽象的一般的な所謂論理学の側のものかは、そう簡単には仕分け出来ない事情にあるので、実際言葉としては二つの間に何も根本的な区別はなかったのだ。ただ必要なのは、所謂方法論(メトドロギー)の方(但しそれを却ってメトーデンレーレと名づけたっていいのだ)が、従来の所謂形式論理学の一分科としての歴史的なニュアンスを持ってるのに反して、所謂科学方法論(メトーデンレーレ)の方(但しそれを却ってメトドロギーと名づけてもいいのだ)は、少なくとも従来の形式論理学を何等かの形で踏み越えようとする立場(「先験的」論理学・「内容的」論理学・「具体的」論理学・「近代」論理学・「認識論」・等々)に立つという、歴史的には新しい又進歩した段階のものだ、という区別である。
 例えばフランシス・ベーコンの所謂研究法(その帰納法)は、近世の自然科学の方法を論じようとしたものであるにも拘らず、結局従来の所謂論理学の単なる一部分にしか過ぎなくなっている(帰納論理学)。後に之とスコラ哲学以来の所謂演繹論理学とを結合して、特に社会科学(Moral Science 乃至 Social Science と呼ばれた)の方法を精細に論じたJ・S・ミルの労作も、必ずしもまだ「科学方法論」になり切ったものではなく、つまりは形式論理学に於ける「方法論」の大成に過ぎないという様な位置を与えられている*。なぜなら之は本質上、ベーコン的方法論をそのまま社会科学に持ち込んで単に之を比較的精細に考察したものに他ならないからである。蓋し近代自然科学(社会科学もそうだが)が最も著しい発達を遂げたのは十九世紀の後半以後であって、この科学的発達に相応した方法論、即ち所謂科学方法論に該当するものは、まだ出現する機会を持たなかったからである。
* J. S. Mill, A System of Logic, ratiocinative and inductive (1843)。之には「明証の原理と科学的研究の諸方法(methods of scientific investigation)」とを結びつけた見解を示すものだ、とサブタイトルに書かれてある(社会科学に関する部分は、伊藤訳『社会科学の方法論』がある)。
 自然科学の著しい発達によって、まず第一に促がされたのは、専門科学者自身による科学的研究法乃至科学一般に関する省察である。物理学乃至数学の領域からはH・ポアンカレ、物理学乃至生理学の領域からは、E・マッハ、V・ヘルムホルツ、デュ・ボア・レモン、心理学の領域からはW・ヴント、生物学の領域からはH・ドリーシュ、などを挙げることが出来るが、これ等の科学者達は、科学研究法乃至科学一般に対する省察から、夫々一般的な認識論や哲学を導き出した。従って彼等は夫々の科学論乃至科学方法論を持っていたのである。――だがそれにも拘らず、彼等の多くは(少くともヴントは例外だが)、例えば諸科学に就いて比較研究をすることなどに就いては、それ程熱心ではなかったのである*。なる程夫々の専門の科学領域に横たわる根本問題に関して、極めて立ち入った又卓越した分析批判が与えられている、夫は人の知る通りだ。だがそういうことと、夫々の科学をそのものとして一纏めにし、之を諸科学全般との関係に於て考察することとは別で、後者は、必ずしもこのその領域のエキスパートとしての彼等が尊重した問題ではなかったように見える。だからここからは、所謂「科学方法論」とか又夫を中心課題とした所謂「科学論」とかは、充分の展望を以て現われる必然性を必ずしも見出し得なかったことは、無理ではなかった。
* W・ヴントは近代に於ける実証的エンサイクロペディストの一人に数えられ得る人である。その『論理学』に於ける諸科学の比較研究――科学の分類――は一応尊重に値いする。
 この意味に於て注目すべきはK・ピアソンの『科学の文法』(K. Pearson, The Grammar of Science, Part I. II., 1911)である。マッハの認識理論の系統を引く彼は、ヴントなどとは異って、イギリス風に消化された思想と表現とによって、この科学概論を書いた。彼は統計学者で又物理学者である。

 で、科学論乃至科学方法論は、単に十九世紀後半以来の自然科学の急速な発達に俟つだけでは充分ではなかったので、更に諸自然科学の比較研究、特に歴史科学乃至社会科学と自然科学との比較研究、の関心に俟たねばならなかった。そしてすでに述べた通り、之は、自然科学の科学的イデー・科学性と哲学の夫との比較研究、或いは寧ろ、実証的な自然科学の席巻からして如何に哲学という教授職の糧を護るかという関心とさえ、関係があったのである。嘗てヘーゲル哲学体系の崩壊直後、哲学は到底理論体系としては成り立ち得ないと考えられたように、一頃、歴史学は果して科学であるかどうかということが、真面目に疑問にされたこともあったのである*。こうした、諸科学一般の比較研究、そして科学の分類なるものが、改めて近代的な興味の中心を占めるようになって来た。之によって諸科学は、そのものとして一纏めに、哲学者や哲学者上りの理論家にとって、独自の、往々にして諸科学の実際的な実証的研究から孤立さえし兼ねない、流行の一テーマとなって来た。近代的な所謂「科学論」乃至「科学方法論」(リッケルト・コーエン・ナトルプ・ディルタイ・其の他)はここに成立したのである。
* ヘーゲル学派の右翼が神学的形而上学へ赴き、左翼が神学批判と唯物論とへ赴いたに対して、中央派は哲学史の構成に向った。蓋しK・フィッシャーやツェラーやE・エルトマン等によれば、哲学は体系としては破産したのであって、ただ歴史としてのみ成り立つことが出来る。哲学体系をこの破産から救済しようというささやかな努力は、H・ロッツェの『形而上学』(実はヘルバルトに由来する)であった。哲学は形而上学として復興されるというのである。恰も今日の新ヘーゲリヤンのように。フォイエルバハの唯物論は云うまでもなく、之に反して、哲学を唯物論として「救済」したのであるが。
 現代のように諸自然科学・社会・歴史・文化・精神・諸科学が、夫々のコースに沿うて、一応独立に而も相互の紛糾した錯綜に於て、発達し又発達のテンポを速めつつある状勢にあっては、科学なるものを一般的に、そのものとして一纏めに、テーマとすることは、極めて困難だと云わねばならぬ。だがそれだけに又恰もその企てが要求されざるを得ないということも真理だ。そこでこの錯綜を整理整頓する仕方の何より手近かなのは、云うまでもなく之を分類することだ(Divide et impera――分割してから支配せよ)。――処が分類には分類の原理がなくてはならぬが、恰も科学の方法こそがこの科学分類の原理とならなければならぬというのが、今日の所謂「科学論」の立場に立つ人々の与える処の結論なのである。こうして今日の所謂「科学論」は所謂「科学方法論」をその中心課題とすることになった。

 併し広範な意味に於て科学論と呼ばれるべきものも、又科学方法論と呼ばれるべきものも、そうだったように、科学の分類という興味は、云うまでもなく古来から存する。之は何も近代になって初めて特別に重大性を認められたテーマではない。私はすでに拙著『科学方法論』(岩波書店――続哲学叢書の内〔本巻所収〕)に於て、科学分類の仕方そのものの分類を与えたから、今ここに夫を繰り返すことは避ける*。ここではただ、次のことだけを付加して注意を促しておきたい。と云うのは、科学分類というこの問題は、恐らく往々そう想像されるような、ペダンティックで教科書風に退屈な、或いは概論的に皮相な、興味からばかりテーマにされて来たものではない、ということである。科学の分類の必要を切実に感じ取った時代には、殆んど必ず、そこに何か新しい科学乃至学問のイデーが潜んでいる。或いは同じことだが社会に於ける科学の地位と役割とが新しく問題にされているのである。
* 私の書物では、この部分は主に R. Flint, Philosophy as Scientia Scientiarum, and a History of the classification of the Sciences (1904) によった。フリントのこの書物は恐らく科学分類史として最上のものだろう。なお科学分類の書物として著名なものは H. Spencer, The Classification of the Sciences (1864) であり、もう少し新しいものでは Th. G. Masaryk, Versuch einer Concreten Logik―Classification und Organisation der Wissenschaften や、ヴントの Logik を挙げることが出来る――なお田辺元『科学概論』、J. A. Thomson, Introduction to Science, ゴルンシュタイン『弁証法的自然科学概論』などは、必ずしも科学分類に止まらず、一般に有用だろう。――特に社会科学に関するものとしてはミルの『論理学の体系』(前掲)やC・メンガー『社会諸科学の方法』(前出)の付録など参照。
 普通科学乃至学問の分類はプラトンにまで溯る。彼の科学分類に就いては色々の異説があるのだが、少なくとも、例えば彼が、数学と哲学(ディアレクティケ)とを区別して、而も両者を常識=ドクサ(その内には自然や社会に関する感性的な知識が含まれる)から峻別したという限りのことは、一般に承認される点である。つまり感性による知識と超感性的なイデアに就いての知識との区別なのである。だがいつでも、科学の分類の興味は、実は分類そのものにあるのではない。そうした分類を必要とするような新しい学問意識がこの分類の本質的な動機なのである。プラトンではディアレクティケ(弁証法)なる哲学が、この新しい科学意識だった。吾々は尤も、プラトンに就いて語るのに、単に一人のプラトンだけを口にすることは出来ない、同時に少なくともソクラテスと、アリストテレスとの名を挙げなければならぬ。というのはつまり、当時のギリシア(主としてアテナイ)の道徳的文化に就いて語らねばならぬということだ。アテナイは当時経済的困難と政治的動揺とのさ中にあった。この動揺に観念的に反発しようとして現われたものが、プラトン一派の貴族的・道徳的・観念論的なイデアの認識理論だったのである。このイデアの学問という理念こそ、プラトンの学問分類の本質的な動機と意義とをなすものだった(プラトンは、哲人教育を施そうとするシラクサの政治学校で、まず数学――イデアの学の入口――を課そうとしたと云われる)。科学分類への興味の高揚は、社会の歴史的画期と、夫に基く科学意識の動揺・沸騰に相応しているのである。
 プラトン(又アリストテレス)が哲学的科学意識の高揚に従って、科学の分類を必要としたとすれば(尤も彼は、別に特にこういうテーマに就いて議論しているのではないが)、自然科学的な科学意識の高揚に応じて科学分類を企てたものは、ベルラムのベーコンであった。その『研究の発達』(Advancement of Learning)に於て彼は、まず人間的研究と神に関する研究とを区別し、その各々が人間の記憶と想像と理性という心理的能力に相応して分類されると主張する。かくて人間的研究は、歴史と詩と哲学とに分けられるのである。だが科学(乃至広く学問)をこのように人間の精神能力に従って分類するということは、ベーコンでは実は、特に人間の認識に於ける理性の役割を尊重することを意味している。之は近世初期のイギリス・ブルジョアジーの、スコラ哲学的科学意識に対立する実証的な自然科学的精神を、物語っていたのである*。
* ベーコンのこの有名な分類は、それが近世自然科学の意識的高揚に相応していたればこそ、十八世紀から十九世紀に至るまで、殆んどそのまま保存された。フランスのアンシクロペディスト達も亦之を、その『百科辞典』(1751)そのものの基本として採用した。ディドロは云っている、「吾々は、云わばまだ学芸というものの存しなかった時代に、学芸の広範な百科辞典のプランを描いた大法官ベーコンに、主として負う処がなくてはならぬ。」――アランベールはこの分類に手を加え、例えばベーコンが無視した数学の位置などを明らかにして、之を保存する役割を引きうけた。
 社会科学乃至歴史科学の意識の高揚と共に持ち出されたものは、サン・シモン乃至オーギュスト・コントの科学分類である。ここでは、プラトンやベーコンの主なる分類原理であった人間の主観的能力の代りに、事物それ自身の秩序による分類原理が持ち出される。事物そのものは、より簡単なものからより複雑なものへと向って、一つの体系をなしている。そこで之に関する科学も亦そうした秩序に相応しなければならない。数学、無機物の科学(力学・星学・物理学・化学)、生物学、社会学、の順序が之だというのである。処で之は云うまでもなく、フランス・ブルジョアジーのイデオローグの一人としてのコントがその社会学(ガリレイ的な方法に基く処の――実証的な――)を、新しく提唱するために必要な分類に他ならなかった*。尤もコントはその直接の先輩であるサン・シモンの社会科学のイデーを平俗化したものにすぎぬとも考えられる。サン・シモンの社会科学の真理は寧ろK・マルクスによって生かされたと見るべきだろう。だから、丁度ベーコンが自然科学の根本精神に立脚しながら、その自然科学の観念自身が充分に科学的でなかったように、コントの社会学の観念も亦、決して科学的な社会科学だとは云うことが出来ぬ(ブルジョア「社会学」と「社会科学」との区別は今日でも依然として重大な問題を投げかけている)。――だがそれにも拘らず、コントの科学分類が、事物そのものの秩序に相応し、従って又やがて事物の歴史的発展の各段階に相応し得る処のものだった、ということは、忘れてはならない特徴をなす。
* コントはフランス・ブルジョアジーの最も雄弁な代表者の一人であるが、併しブルジョアジーの進歩の向上線に沿って切線の上に乗っている人物ではない。彼は、すでにブルジョアジーと戦わねばならなくなっていた新興勢力の一つであるサンキュロット一派に対して、明らかに保守的・反動的な立場に立っていた。だがそういう意味に於てこそ、彼は正しく現代的なブルジョアジーの代表的なイデオローグの先駆者だろう。ブルジョア「社会学」が端をコントに発し、今日でもなおコントの名がそこに権威を持っている所以である。
 近代に於て最も組織的な諸科学の分類を与えたものは、実はヘーゲルの『哲学的諸科学のエンサイクロペディア』であった。丁度プラトンに於てそうであったように、ここではドイツの社会的現実の貧弱さが、哲学的な偉大さとなって現われる。このエンサイクロペディアはまず論理学から出発して諸自然科学を遍歴し、やがて精神諸科学(心理学と社会科学と文化科学)を経て、哲学と世界史とに終るのである。――ヘーゲル自身は必ずしも新鮮な圧力ある科学意識に動かされているのではない。彼のエンサイクロペディアは従来の人間認識のレジュメ以上のものでもなければ夫以下のものでもない。だがこの科学分類(この哲学的エンサイクロペディア)はやがて、マルクスの科学的な社会科学=科学的コンミュニズムなる圧倒的な理論的意識と結びつく。そこにヘーゲルの諸科学百科辞典的な体系の、歴史上の積極的な意義があったのである。ヘーゲル哲学体系を使用して、社会科学と自然科学との、又夫々の諸科学の間の、分類体統を与える道を開いたものは、F・エンゲルスであった。だがこれに就いては、後に見よう。
 で今迄見て来た通り、有名で又有力な科学分類の裏には必らず、云わば社会的に摩擦されて光を放っている処の、新鮮で強力な、新しい科学の意識があるのである。――処で、今日のブルジョア哲学に於ける所謂「科学方法論」の代表的なものも亦(それは何と云ってもリッケルト教授の名に結びついているのだが)、一つの科学分類から出発しているのである。尤もリッケルト教授達の思想や業績の持つ一般的な重要さは、強ち高く評価されるべきものではないだろう。世間には遙かに意味の大きな科学的哲学的動きが、沢山ある。だが「科学論」というテーマから云うと、リッケルト等の仕事の意義は充分注目されていいというのである。彼の科学分類と、それから結果する科学方法論とは、歴史科学乃至社会科学や自然科学が、今日のブルジョア観念論哲学の観点から照らされる時、もはや到底収拾すべからざる雑踏と混乱との中に見出される他はない、ということを告げるだろう。実は恰もここに、所謂「科学方法論」なるものの、画期的な歴史的意味があるのである*。
* リッケルトの科学方法論に関する解説と、やや不充分ではあったが一応の批判とは、拙著『科学方法論』〔前出〕で与えた。私は今、多少の反覆は止むを得ないがなるべく重複を避けたいと考える。
 H・リッケルトによれば(之はW・ヴィンデルバントの始めた考察に由来するのだが)、普通、科学(今は数学や哲学は論外とする)はその研究の対象が何であるかによって、分類されている。コントの分類でもすでにそうだったし、又何等かの主観的な原理を用いて分類しようとする場合にも、いつか知らず知らずに、対象そのものによる分類法を、混入したりつけ加えたりしているのが常だ。処がこの分類方法は現在一つの根本的な困難に行き当った、とリッケルトは考える*。と云うのは、普通の常識によると、実在は自然界と精神界とに分れるのであるが、この自然を対象とする所謂自然科学と、この精神界を研究すると称する所謂精神科学(例えば実験心理学)とは、単にその対象を異にするというだけで、科学としての性質から云ってどこも根本的に変った処はない。でそうすると一切の科学が同じような根本性質を持っているのかというと、決してそうではないので、例えば歴史学は自然科学などとは非常に違った科学的性質を有っている。だからこそ現に、歴史学は「科学」であるかないか、ということさえが問題になるのだ。それではこの自然なるものと歴史なるものとが、対象として全く別なものかというと、之又決してそうではないので、歴史も実はその材料から云うと自然以外の何ものでもない、と彼は考える。そうすればこの二つの科学の根本的な区別は、研究の対象如何による区別ではない、という結果になる。
* 代表的なものとしてW・ヴントの分類法を挙げることが出来る。彼は実在の区別に従って、自然の科学(自然科学)と精神科学(心理学)とを、大別する。
 対象としては自然と精神との区別がある。処が科学そのものはこの対象の区別とは無関係に、自然科学と歴史的科学とに区別されている。それに、精神は心理学によって「自然科学的」に研究されている、かと思うと同じ自然も場合によって専ら「歴史学的」に研究される。それ故、とリッケルトは結論する、科学はその対象によって分類されるべきものではなくて、却ってその研究方法によって分類されねばならない。同じ対象であっても、研究態度としての科学の方法が異るに従って、異った科学の対象となることが出来る。科学が、その研究する対象たる実在か何かの相違によって区別されるという考えは、だから単なる無批判な素朴な常識に過ぎないのであって、批判的な哲学(と云うのは先験的観念論)は、こうした独断をまず第一に切り捨てなければならぬ。科学は客観的な実在自身(それはそのものとしては不可知な筈だ)に基いて考察されるべきではなくて、却って、カントと共に、主観の観念性に基く何等かの原理に沿うて、考察されなければならぬ。之が真に哲学的な(というのは批判的な)「科学論」の根本だ、ということになる。
 かくて科学の分類というテーマは、リッケルトによって、完全に、科学の方法というテーマに変る。では科学のこの方法と、所謂対象との関係はどうか。
 普通、科学の対象は実在だと考えられているので、対象と云えば実在(Wirklichkeit)のことだと思われ易いが、併し批判主義哲学にとっては、一般に認識の対象(Gegenstand)は、認識にとっての対立物という意味に於て、初めて対象なのであって、認識が主観による何等かの工作であった以上、それに基くことによって初めて夫に対立出来た筈の対立物であるこの対象なるものは、之又主観による何等かの工作の結果である他はない。で科学の対象とは、科学そのものがみずから自分自身に与えた処の対立物のことであって、その意味で実は科学の所産以外の何物でもない。――実際は恐らくレヤールな客観的な存在であるかも知れない、だが科学の対象は、観念性にぞくし主観にぞくする認識の単なる普遍通用性の担い手か何かであるに過ぎない。
 だがこの実在という観念も、実は学問的な哲学的な観念であるよりも寧ろ常識的な観念なのである。吾々は之を秩序のある学的認識や何かの揚句に知るのではなくて、実在は吾々によって直観に於て直覚されるに過ぎない。尤も、少なくとも実在は吾々という認識の主観の目の前に与えられていなければならない。そこではそして、すでに「所与性の範疇」という論理的想定が、哲学の立場から見れば紛れもなく横たわっている。だがそれにも拘らず、この実在の与えられ方自身は、全く単に直観的にしか過ぎず、科学的認識以前のものである、という。
 処で直観なるものの内容は、いつも認識の材料・素材となる処のものである。この素材は、カントも云っているように多様であり、リッケルトによると異質的で区画のない連続である。そこで例えば認識のために与えられたこの材料からその異質性と連続性とを取り去って、等質的な断続的なものを拵え上げて見ると、それは一二三……というような数の世界(一種の数学の対象)となるだろう。今は併しそれはどうでもいいので、必要なのは、そういう風にしてこの海のものとも山のものともつかぬ与えられた認識材料を、適当に(どういうことに対して適当にであるかは別にする)加工して、この内容に一定の形式・形態を与えた上でなければ、夫が一定の認識の対象にはならない、という点である。この形式・形態の与え方、即ち素材加工の手続きが、やがて科学の方法というものだというのである。かくて一定の方法が一定の対象を産むのであった。
 この方法には併しながら、今の場合ただ二つの場合しかあり得ない。例の素材に固有な異質性と連続性との内、前者を捨て去るのが「自然科学」方法であり、之に反して後者を捨て去るのが「文化科学」方法であるという(両者とも捨て去れば全く形式的な科学である数学しか残らない)。即ち自然科学的方法による科学の対象は、等質的で連続的な形式を持っており、之に反して文化科学的方法による科学の対象は、異質的な不連続的な形式を有つという結果になる。そこでリッケルトは、便宜上、逆に、前者のような方法を採用する気になった方の諸科学を一般に「自然科学」、之に反して、後者のような方法を採用したいと思う方の諸科学を一般に「文化科学」、と定義する。本来の自然科学や実験心理学は、前者にぞくする代表的な科学で、歴史学は後者にぞくする代表的な科学だということになる(例えばよく使われる精神科学という言葉は、だから不用であり又は妨害となる。それに代るものが文化科学の観念なのである)。
 無論どちらの定義にもあて嵌らない中間領域にある科学は、沢山ある。だがそれは別にこの考え方の不当を証明するものではない。それよりもこの考え方の効用は、普通その性質がハッキリけん別出来にくいような諸科学を、この方法のクリテリウムにかけてハッキリさせることが出来るという点だ。例えば社会学乃至社会科学は、従来精神科学であるのか自然科学であるのか判然としなかったが、その方法が自然科学的である限り(即ち対象を一様に等質的に且つ個々の場合に就いてではないという意味に於て連続的に、取り扱う限り)、正に「自然科学」にぞくする。歴史科学は文化科学だ、然るに社会科学は之とは全く相反する自然科学である! というような結論を産むのが、この科学方法論の特色のある効用なのである。
 自然科学は自分の対象を等質的で連続的なものとして見出す。ということは、この対象が反覆し得るそして個体としての個性を持たないものだということである。反覆しつつ個性を没するものを、論理学的に云い表わせば一般性共通普遍性)である。之を自然科学の具体的方法に於て探して見ると、普遍的法則(個別的法則というものがあるとすれば夫から区別された普遍的法則)の発見と適用ということに他ならない。自然科学はだから法則発見的科学である。――文化科学は之に反して、その対象を異質的で不連続なものとして発見する。ということは、この対象が個体として個性を持っているということだ。ここでは普遍的法則の反覆は許されない。歴史に於ては旧いもののただの反覆はない。歴史上の事件は、他の事件と一続きに等質である故を以て認識目的に適うのではなくて、他の事件とは異った特異性を持てばこそ、認識目的に適したものとして選択される。で、文化科学は個性記述的な科学である、ということになる*。
* この点は全くヴィンデルバントに由来する(W. Windelband, Pr※(ダイエレシス付きA小文字)ludien の内を見よ)。
 自然科学の対象は、普遍的だということに於てしかその価値を持たない。処が文化的な価値(文化価値)は却って人間的で個性的な形態によってしか表現され得ない。そこでこの文化価値を標準として、著しく価値ある又は著しく反価値的な個性をもったものを選ぶのが、文化科学の方法だ、と云っていい。文化科学の方法は、価値への関係づけを行なう。処が自然科学の方法は没価値的だと考えられる。――こうしたものが、リッケルトによる科学の分類と、科学の方法との、概略である*。
* リッケルトの科学方法論の主なる著作。Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung. ―Naturwissenschaft und Kulturwissenschaft.―Die Probleme der Geschichtsphilosophie 等。
 リッケルトの科学方法論は、かくて自然科学と文化科学との根本的な区別対立とを明らかにした。之は云うまでもなく一応の功績に数えられることが出来よう。だが大切な点は、この二つの科学の間の連関関係が、之によっては少しも与えられていないということである。単に区別するということは、関係づけるということの云わば極めて無責任な初歩の段階にしか過ぎない。だからこの科学方法論に対しては、今云ったこの根本弱点に注目して、数限りない反対と批難とが浴びせかけられた。
 リッケルトによれば、自然科学は法則を求める科学であり、之に反して文化科学は個性ある事象を選択する処の科学であった。普遍的法則はだから自然科学に於てしか許されない根本概念となる。――だがよく考えて見ると、自然科学が仮に法則を発見することを方法とする科学だとしても(そして夫は嘘ではないが)、ただ法則を発見しただけでは何の役にも立たぬ。科学の認識目的は、却ってそれから先にあるのであって、実は個々の事象に一つ一つこの法則をあて嵌めるということこそが、この科学の最後の意味での方法でなければならぬ。個々の事象から独立した法則などというものは考えられない。処がこの個々の事象は、たといリッケルトの云うような文化価値への直接な関係づけが一応無意味であったにしても、そうだからと云って決して全く没個性的なものではない。が夫が一つ一つ異った性質を有てばこそ、個々の事象なのだ。仮に法則がこうした諸々個々の事象からの共通な一般的な関係を抽出して出来上ったものだとしても、逆にこの法則をこの諸々個々の事象に当て嵌める時には、もはや単なる反覆などではあるまい。そこでE・カッシーラーは、法則とこの個々の事象との関係を、関数とその変数がとる個々の数値との関係として理解しようとする。一定の曲線を表わす関数はこの曲線の個々の点に就いて、単に自らを反覆するのではない。この曲線のカーヴ・トレーシングから考えて見れば判るように、法則たる関数は、個々の事象に相当する曲線上の(恐らく連続した)諸点を、次々に描き出し、生産して行くのである。自然科学に於ける法則をば反覆する共通者であるかのように考えて片づけて了ったリッケルトは、発達した現代自然科学のこの法則の観念(関数概念)を知らないのだ、とそう批難するのである*。
* E. Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff.――従来の自然科学は何等かの実体を中心として方法が成り立っていた。現代はその代りに関数関係が用いられる。例えば因果法則も時間の変数を含んだ関数としての性質を持つ、という。
 カッシーラーの批難は、自然科学に就いてのリッケルトの認識不足を指摘する点では、多分或る意味に於て当っているだろう。そして実際、リッケルトは自然科学に就いて彼が発見したこの方法の規定を、ダイヴィング・ボードとして、その対立物の歴史学(文化科学)の方法を規定したのだったから、その限り、之は歴史学方法に就いての彼の認識の不充分さに対する、間接の批難にもならないではない。――だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう*。
* なおW・ディルタイの系統にぞくするM・フリッシュアイゼン・ケーラーによる批判があるが(M. Frischeisen-K※(ダイエレシス付きO小文字)hler, Wissenschaft und Wirklichkeit, S. 139 ff)、それについては拙著『科学方法論』〔前出〕に譲る。
 歴史学に於ても普遍的な法則が支配しなければならないと称して、リッケルトに対立したものは例えば歴史家のK・ランプレヒトである*。歴史は一般的な心理法則によって支配されるというのである。之は全く云わば唯心史観に立脚するものであるが、ブルジョア歴史学でもっと遙かに客観的な普遍的歴史法則を提唱しているものは、マイアーだろう**。もし普遍的な法則が歴史科学に於ても成立しなければならないとすれば、リッケルトの所謂文化科学の観念は、可なりの根本からくつがえらざるを得ないわけで、従って自然科学と文化科学との区別対立も撤廃されて、問題が再び元にもどって了うか、それともこの単なる区別対立を乗り越えて、両者か又は之に相当する何かの二つ(以上)の科学の間の、実質的連関が見出されねばならぬか、どちらかになるのである***。
* K. Lamprecht, Moderne Geschichtswissenschaft, 1905(和辻訳あり)、Einf※(ダイエレシス付きU小文字)hren in das historischen Denken, 1912 等。
** E. Meyer, Zur Theorie und Methodik der Geschichte を見よ。
*** リッケルトは歴史学に於ける法則の問題に因んで、個別的因果の概念を提出している。――尤も之によって、自然科学と文化科学という例の機械的な対立物は到底関連づけられはしないのであるが。――この問題に就いては、G. Simmel, Die Probleme der Geschichtsphilosophie を見よ。――なお歴史学の方法の変遷に就いては E. Bernheim, Einleitung in die Geschichtswissenschaft(Sammlung G※(ダイエレシス付きO小文字)schen)参照。
 リッケルトが与えようとして果さなかった文化科学乃至歴史学に就いて、一応は最も卓越した方法論を示したものは、却ってW・ディルタイである。ディルタイの歴史学乃至精神科学の理論は、特定の学問上の伝統を背景としている。と云うのは、その精神科学の方法は、文献学(Philologie)乃至解釈学(Hermeneutik)に他ならないのである。文献学(或いは古典学)は、世間で普通、言語学と訳されている言葉であり、実際、それがギリシアで始まった時には文法学であったのだが、併し十八世紀後半に及んで、F・A・ヴォルフの学派によって、初めて一応古典語の意味を受け取るようになった。之は古典語学と古典語の解釈法とを意味したのだが、後に之はやがて古典そのもの乃至古典的文書の解釈法となり、更に独り文書に限らず広く古典的造形芸術さえもの解釈法となり、更には独り過去の古典に限らず夫々の同時代の文書及び一般文化の解釈法にまで転化した(他方の系統としては近代的な比較言語学として発達するが)。
 こうなる時、この解釈法が解釈学という文化乃至精神の解釈のための方法論を意味して来ることは当然で、文献学を文化のこうした一般的な解釈学にまで高めたものは、シュライエルマッハーであった*。処でそこに恰も歴史学の方法という課題が結びつくのである。歴史学の方法論を文献学乃至解釈学の内に見出した最初の段階は恐らくW・v・フンボルトであろうが、之をハッキリと意識的に前面に押し出したものはドロイゼン(J. G. Droysen, Historik)である。ディルタイの歴史学乃至精神科学の方法論は、ここに基くのである**。
* W. Schleiermacher, Akademierenden ※(ダイエレシス付きU小文字)ber Hermeneutik.――なおシュライエルマッハーの後輩 A. Boeckh の Enzyklop※(ダイエレシス付きA小文字)die und Methodologie der philologischen Wissenschaften は注目すべき書物である。
** ディルタイについては全集第七巻、Der Bau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften を見よ。――なお文献学の現代に於ける意義に就いては、拙著『日本イデオロギー論』中の「文献学的哲学の批判」〔前出〕を見よ。
 さて、ディルタイによれば、精神科学乃至歴史学なるものは、人間生活理解することをその認識目的としている。人間生活の特色は併し、精神になくてはならぬ。と云うのは、精神は単に心理的な主観的な意識や心のことではないので、却って或る意味に於ける客観的な実体であり、自然と社会とに沿って文化として歴史的に展開する処のものを指す。夫は他でもないので、文化という人間的な意味を持った処の客観的対象なのだ、というのである。処で云う迄もなく、この云わば客観的な精神は、人間個人の主観的な精神自身と離れたものではあり得ない。人間の生活とは、人間が自分の精神を客観化して表現する処の生活のことだ。人間的は常に客観化されることによってしか具体的な形象を受け取らない。こうした表現の世界が、歴史というものの世界(精神)のもつ意味なのであると考える。
 そこでこの人間生活を理解するためには、すでに客観的に歴史的文化として表現されたこの人間生活を、今度は逆に再び主体化されなければならぬ。生は生みずからに帰ることによってしか理解出来ない。人間的生・歴史・文化の意味を、こうした表現の夫々の持つ意味を、人間的生活自身が理解するのである。――だが、理解するには、ただの印象的な直覚や単に一般的な理性や何かでは、何等その客観的な根拠を見出し得ない。そこで必要なのが解釈である。表現物のもっている意味を理解するとは、之を一定の手続きに従って解釈することだ。処が、この解釈の手続きとは他でもないので、之こそ例の解釈学(乃至文献学)だったのである。――かくて歴史学乃至精神科学の方法は、解釈学であり、即ち人間生活を人間生活自身から自己解釈することによって、理解するという、特有な方法なのである。
 だが解釈するとは一体どうすることであるか。ディルタイによれば、少くとも之は、説明することとは別であり、又之とはハッキリと対立する処の作用なのである。説明の何よりの特色となるものは、原因と結果との連鎖を与えることだ。つまりそうした因果的な時間的な統一を事物に向って与えることである。処が解釈はそうした因果関係を求めることを目的とはしない。その代りに解釈が齎すものは、諸事物の内部相互の間に横たわる構造連関なのである。因果関係のような機械的関係は、生きた精神、生きた歴史、の認識の方法とはなり得ない。歴史は説明されるべきではなくて解釈されるべきだ、というのである。
 因果関係は、云うまでもなく自然科学の認識目的の内容をなす。ディルタイによれば、今日の自然科学は自然を解釈理解するものではなくて、全く之を説明するものである(自然の解釈というものがあるとすれば、夫はアリストテレスの『物理学』のようなものだろう、とディルタイは云っている。ベーコンも亦新しい「自然の解釈」を哲学の根本テーマとした)。――かくてディルタイによれば、自然科学と精神科学とは、その方法に於て、完全に相異り相距たっている。だから例えば、自然科学では真理の一義的な厳密な決定を与えることが出来るに反して、精神科学では高々卜占的(divinatorisch)な予言や推定しか出来ないという。
 ディルタイの精神科学の方法論が、今日如何にブルジョア観念哲学の直接の支柱となりつつあるかに就いては、省こう。リッケルト的科学方法論が、一頃、ブルジョア的傾向を持った殆んど総ての科学に侵入したように、ディルタイ的解釈学は、今日の超科学的乃至反科学的形而上学の共通の合理的根拠となっている。――だが今それよりも重大なのは、ディルタイによっても、丁度リッケルトに於てそうだったように、自然科学と精神科学という二つの科学部門が、全く絶対的に対立した二人の他人として提出されているという点である。二つの科学はここでも亦、単に区別・対立させられるだけで、両者間の連関構造は少しも積極的に明らかにされてはいない。ディルタイの精神科学の方法論は、リッケルト等の文化科学の観念が云い表わそうとして云い表わせなかった処を、最もよく又適切に云い表わしているのだったが、それだけに、愈々これ等の科学と自然科学との連絡が、機械的に断ち切られて了っているのである。

 で以上見たように、リッケルトの所謂文化科学の観念を使っても、ディルタイの精神科学の観念を使っても(ヴントの心理学としての精神科学などは云うまでもない)、科学全般統一的な理論は成り立つことが出来ない。而もこの二つは、現代のブルジョア哲学に於ける科学方法論の殆んどただ二つの代表者だったのだ。
 こういう乱雑はどこから発生したか、それは、単に方法だけによって科学を規定して了おうとする処からであった。方法は単にそれだけとして見れば、既に見たように、主観の能動的な構成作用に他ならなかった。之を唯一の科学規定の(科学の分類の・又科学的世界の)標識とすることは、それだけ科学を主観側から、その意味で観念的に、限定して了うことを意味する。科学は元来実在を反映するものだった。その反映の手続きとして初めて主観による方法もその権利を有ったのであった。処が所謂「科学方法論」によれば、科学は専らこの主観的な方法の中に解消して了う。科学の分類も亦そうでしかなかった。
 尤もディルタイはリッケルト程に、徹底的な方法主義者ではないように見える。彼は科学の方法に就いて語るに先立って、「歴史的世界」に就いて語る。そしてこの世界から歴史学の精神科学的方法を導き出す。だからそのやり方はリッケルトの場合を逆に行くものだろう。だが、この肝心な「歴史的世界」が自然界や其の他の世界とは何等の連関に(「構造連関」に!)這入っていない。自然界が持っている宇宙的時間、そこに因果の必然的な連鎖が脈打つと考えられる自然の時間は、この歴史的世界の「構造連関」のどこに影を潜めて了ったのだろうか。自然の方は解釈されただけでは不充分であるのに、人間社会の歴史だけが、なぜ単に解釈されただけで、事が済むのだろうか。自然と歴史的社会とをこのように全く秩序界の異った地上と天国とのように分離することは、現代のこのブルジョア社会に対する認識という点から見て、並々ならぬ意味のあることだ。
 併し、「科学方法論」が示す右のようなチグハグは、案外卑近な所にそのメカニズムを持っているとも考えることが出来る。というのは、「科学方法論」の習慣は、いつも自然科学を歴史科学に対立させることにあったのである。つまり実は、自然歴史とが対立させられるのである。処がこの対立が元来チグハグなのである。一体ここで歴史というのは正確に云えば人間社会(動物社会という言葉もあるから夫から区別して)の歴史のことだ。そうすれば之に対立するものは、正確に云えば自然ではなくて自然の歴史でなくてはなるまい。して見ると対立しているものは、紛れないために正確に云い表わせば、自然と歴史とではなくて、自然社会(人間社会)とだということになる。そして歴史なるものは、実はこの両者を一貫する処のものなのであった。
 自然史(博物)と社会史(所謂「歴史」)との間には、ドイツ的歴史哲学者が考えるような絶対的な超えるべからざるブランクが横たわる程、二つは別なものではない。そのことは何よりも、ドイツ的「歴史哲学」自身の端緒をなすヘルダーに尋ねれば明らかだろう。彼は後の「歴史哲学」的哲学者とは異って、人間の歴史を地球の自然史から始めている。カントの(ラプラスの名を持つ)『天体の歴史』は自然が本来一つの歴史的過程であったことを推定している。この自然の歴史過程のごく後の方になると、進化理論が生物の進化と人類の生物からの進化とを証明している。そしてその後は人類学や先史学が説明する。それから初めてディルタイやリッケルトをわずらわす「歴史」が始まるのである(人類が死滅した後のことは、「歴史哲学」的形而上学にでも一任しよう)。
 だが自然科学に於て最も重きをなすものは、進化論などという不精密な生物学的知識ではなくて、こういうものの最も精密な基礎をなす処の物理学の如きものだ、して見ればそこには歴史なるものがどれだけの意義を持つか、と或る人達はいうだろう。実際リッケルト達は恐らくそう云った想定に基いて方法論を考察したのかも知れない。だが物理学的物質元素そのものが、実は歴史的所産だということを、今思い出さねばならぬ。今日宇宙に九十幾つかの元素が発見されることは、全く宇宙の歴史的発展過程に於ける今日の段階の、云わば偶然的な(偶然論者に云わせれば)安定状態にすぎない。今日の原子物理学は、要するに元素の歴史的研究の基礎を築くものだと云っても、云い過ぎではないだろう。
 無論自然の歴史と社会の歴史との間には、根本的な相違が存する。だがそれは二つの間に絶対的なギャップがあるということとは全く別だ。自然と社会とは一つの歴史によって貫かれている。自然が歴史的発達によって社会を生み、そこで初めて自然と社会とが平行したり交渉し合ったりすることになったというわけである。――で、科学の分類はこの客観的な関係から導かれねばならない。そうではなくて偶然眼の前に与えられた諸科学の総体を、アトランダムに分類したり、又は偶然時事的に問題化した某々科学に中心を置いたり、或いは相当勝手な認識主観から科学の方法を導いて之を分類の原理にしたりすることから、科学論乃至科学方法論の収拾すべからざる乱雑さが発生したのである。

 かくて吾々は、最後に科学を自然科学社会科学とに分類することになるのである。之は云うまでもなく単に夫々の方法の如何に着眼して与えられた分類ではない、そうした主観的な、従って結局に於ては勝手な、根拠の代りに、実在そのものの歴史的過程に於ける構造に基いて与えられる。吾々は科学の方法によって初めて科学を分類し得るのではない、却って、科学が、その事実上の歴史的発達に応じて夫々の実在単位を切り取ったその実在単位を、実在そのものの秩序に従って整理・統一・区画して、これから却って科学そのものの単位を導き出し(即ち夫が分類だ)、そうした上で、夫々の科学に共通な方法を取り上げ、この共通方法が夫々の科学に於て取る異った形態について考察しよう、とするのである。之が吾々の科学分類科学方法論との形式でなければならぬ。
 後に自然科学論と社会科学論に於て見るように、例えば数学は一応経験的な科学ではないにも拘らず、或る理由によって自然科学に従属させることが出来るし、又例えば心理学は(心理学程領域によって性質の異ったものはない、個人心理学と社会心理学・民族心理学、実験心理学と内省心理学)、一部分は自然科学に一部分は社会科学に帰属するだろう。歴史学や文化理論は云うまでもなく社会科学に含まれる。そして哲学はすでに述べたように、この両者に於て集約された一切の科学の、含蓄ある意味に於ての論理であった。
 さて吾々は、科学の方法を、自然科学と社会科学とに就いて、その共通な規定と、その上に於ける夫々の特異な規定とに於て、統一的に考察しよう。
[#改段]

  四 科学の方法(その二)


 科学の方法が、科学が反映する処の実在それ自身、そしてその意味における科学の対象そのもの、に基かなければならないということは、実は特別の議論を俟つまでもなく、云わば極めて当然な、健全な常識にぞくすることだとさえ云っていい。処がそれにも拘らず、所謂「科学方法論」や「科学論」、乃至それに準じる科学理論が、何故却って逆に、科学そのものをば、その方法によって規定しようとしたのであるか。之は依然として疑問でなくてはならぬ。
 この点に就いて充分の納得が行かない限り、リッケルトやディルタイの方法理論のかの弱点に就いての吾々の説明も、決して充分だとは云えない。実はこの「科学論」式の主観主義的な態度には、それが系統を引いている夫々の観念論的哲学の背景から来る必然性を他にして、現代に於ける諸科学がおくれている或る一つの事情が、その無理からぬ動機をなしている。
 と云うのは、現代ブルジョア社会に於ける、ブルジョア的社会諸科学(これは歴史学や文化諸科学を含むのだったが)が、同一の社会的乃至歴史的文化的な実在或いは対象をその対象とすべきであるにも拘らず、その現状から云って、蔽うべくもない理論の乱雑な無政府的な対立・撞着・矛盾に陥っているからである。そればかりでなく、ブルジョア社会科学とプロレタリア的社会科学との間の、到底相容れない建前の相違(部分的な合致に乏しくないにも拘らず)さえがあるからなのである。単に個々の理論に就いて異説が并立しているというだけではない(それならば科学が健全な発育をする時の必至の症状であって、又往々にしてその欠くことの出来ない条件でさえあるのだが)、夫々の科学そのものの根本的な建前が、相互に根本的に相容れないのである。夫だけでない、もっと悪いことには、この二つの科学が互いに全くバラバラに無関係でさえあるのである。そういう点で、現下の諸社会科学程甚だしいものを見ない。
 処で元来、それにも拘らず、夫々の諸社会科学が認識すべきであった実際乃至対象――歴史的社会――というもの自身は同一であるべき筈だったのだから、この科学の建前上の紛糾錯雑の原因は、客観にあるのではなくて主観になければならぬ。従って全くその方法の間の紛糾錯雑に帰せられる他はなかったわけである。特に歴史学乃至文化諸科学の科学理論をテーマとしたリッケルト達の「科学方法論」乃至「科学論」が、科学全般を専ら科学の方法自身によって規定しようと企てなければならなかった動機も亦、ここにあったのである。
 様々の科学論や科学方法論による解釈の如何に拘らず、自然科学がそのものとして一纏まりの一定の方法に基いているという事実には、何の動揺も来しはしない。無論自然科学に於ても、可なり根本的な立場の相違に帰着するように見える対立は、あらゆる時代に、随処に、見出される。光に関する波動説と粒子説、エーテル概念に就いての肯定的見解と否定的な意見、近くは量子力学による物理学的対象界の非直観性の主張と、之に対して依然としてその直観性(空間的定位)を救い得るという主張(M・プランクやアインシュタインが略々之にぞくする)との対立など、がその例である。処がこの種の対立は今まで常に、少なくとも同一平面或いは云わば同一立体内に成り立った二つの見解の間の相違に他ならぬものと仮定してかかって、さし閊えなかったのであり、従ってこの二つの対立した立場もやがては、総合・統一され得ねばならぬという約束の下に立っている。現に今までそういう約束に従って来たばかりでなく、今後も亦そういう約束の下に立つだろう。この点から云って、自然科学に於ける対立的な様々の立場も、自然科学そのものの云わば各流派の建前の相違までをも云い表わすものでは決してない*。この建前上の一致が、何より自然科学の科学としての信用を支えているのである。
* 自然科学に於ける諸領域間の対立、従って夫から導かれがちな自然科学意識そのものの対立、それから、アカデミックな伝統に基くやり口やテーマの選択やに於ける対立、こう云ったものは、まだ立場の相違にさえ数えられない、況して自然科学そのものに就いての各種の建前の相違などにはならぬ。
 処が社会科学に於ては、事情は全く之と違っている。少なくともブルジョア社会科学とプロレタリア社会科学との間に於て、又ブルジョア社会科学相互の間に於て、そうなのである。歴史学に就いて相互に相容れない建前があることを吾々はすでに見た(詩的・教訓的・史料的・其の他の歴史記述)。経済学に於ける古典正統学派(A・スミスやリカード)や歴史学派(シュモラー)、形式主義(C・メンガー)や主観主義(オーストリア学派)、等々の間の対立も亦有名である。其の他其の他。そしてこれ等ブルジョア社会科学と決定的に対立するマルクス主義的史的唯物論。――ここに見られる種類の対立は、夫々の科学が元来その認識目的を全く異にしていることから来る場合さえ、少なくない。科学の方法が、如何に科学そのものの建前を規定するかが、ここに見られる。夫々の領域について相互に異った立場を取る諸社会科学が、この場合は更に、その建前までも異にするようになるわけである。
 では社会科学に於て、建前の上から云って相異なるような方法のこの根柢的な相違は、どこに由来するのか。夫は社会科学という科学の、一つの特別な宿命に由来する。この科学そのものが社会の一上部構造・イデオロギーとして、社会の一内容であると同時に、恰もこの社会そのものがこの科学の対象でなくてはならなかったからだ。方法と対象、科学と実在、との間のこういう循環関係が、一方に於て、この科学の科学としての定着と発達とを歴史的におくらせたと共に、他方に於て、この科学が社会に於ける人間の現実生活の実践的要求の分裂対立に一々照応し得、又しなければならぬ、という結果を産んだのであり、その結果、この科学の建前・方法そのものに、巨細となく社会階級性をば持ち込んで来たのである。
 尤も科学に何等かの意味に於ける社会階級性が存するという根本関係は、自然科学に就いても別に例外をなすのではない。社会の技術的・経済的・政治的発展の位相に応じて(そして階級性はそういうものの集中的な表現だ)、自然科学の進歩の進度とコースと進歩の手順とが異って来る。例えばニュートンの物理学や之に直接結びついている微積分の方法などは、その最もいい例で、之は一方に於て当時のイングランドとヨーロッパ大陸との技術的水準を反映したものであると共に*、他方に於ては当時の啓蒙思想家や自由思想家・唯物論者の階級的な進歩性に照応するものだった**。――だがそうだからと云って、数学に於ける代数主義とか微分主義という方法上の対立が、真面目な意味で存するということにはならぬ。算術的方法は代数的方法に、そして代数は微積分法にまで進歩したのだ。三つは実は一つの方法の発展段階の相違にしか過ぎぬ(一切の数学は計算=算術に還元されるとも考えられる)。――処が社会科学では、夫々の方法が一つの永久な建前を、主義を、意味しているのが今までの事実なのである***。そしてこの主義としての方法なるものは全く、社会階級性として集中的に表現される処の、社会科学の例の社会に於ける根本的宿命から来るのである(科学の社会による制約一般に就いては後に見よう)。
* ニュートンの物理学と微積分の観念が当時の技術的条件と密接な関係があることに就いては『岐路に立つ自然科学』(唯物論研究会訳・大畑書店版)の中のヘッセン「ニュートンの『プリンシピア』の社会的及び経済的根柢」を見よ。――デカルト幾何学と資本主義、フランス十八世紀末の数学物理学とフランスの技術(主に戦争に関係する)的水準との関係、其の他の、「数学の階級性」に就いての例証は、小倉金之助氏が『思想』誌上で研究を発表している。
** ニュートンに関する研究が、十八世紀の啓蒙主義者・自由思想家・唯物論者の最も好んだテーマであったことは、すでに触れた。
*** 社会科学の方法の分類に関する文献は決して少なくない。否、殆んど凡ての社会科学の著書が、各種の社会科学的方法の比較と批判とから出発しなければならぬと云っていい。そしてその最も戯画的なまでに甚だしいのは、今日のブルジョア「社会学」だろう。「社会学」に於ける諸方法の区別に就いては、新しい段階では、L. v. Wiese, Soziologie(Sammlung G※(ダイエレシス付きO小文字)schen)と H. Freyer, Einleitung in die Soziologie とを挙げておこう。――なお早瀬利雄『現代社会学批判』参照。
 社会科学一般の諸方法の歴史的比較と批判とに就いては、J. Valdour, Les M※(アキュートアクセント付きE小文字)thodes en Science Sociale, 1927 が便利である。――なお各領域別に於ける社会科学の諸方法を叙述したものとしては、E. Seidler, Die sozialwissenschaftliche Erkenntnis (Ein Beitrag zur M※(アキュートアクセント付きE小文字)thodik der Gesellschaftslehre) 1930 がある。

 吾々は元来、自然科学と社会科学との両者に就いて、それに共通のそして夫々に於て相異った事情の下に用いられる処の、一般的方法の諸契機を分析しようとするのだが、それに先立って、社会科学だけに関する方法理論を予め見渡しておかねばならぬ*。――尤も社会科学的方法の建前上の分裂は、云うまでもなく夫々の科学の背後に控えている哲学そのものの方法(従って又世界観)の分裂に略々照応している。例えば所謂「社会学」(ブルジョア社会学)はコント的実証主義のものであるし、マルクス主義的社会科学は弁証法的唯物論のものである。カント主義的批判哲学からはR・シュタムラーの法律学やM・アードラーのカント的唯物史観やメンガーの経済学方法論が発生するし、ディルタイの解釈哲学は例えばE・カレルや我が国では高田保馬氏の社会科学方法論などに根本的に影響している**。等々。だが哲学の諸方法の対立に関する分析は、今の場合のテーマとしては広範に過ぎるし、問題を別な処へ持って行かなければならなくなるので、省略する他ない。
* P・アンドライは、諸科学、特に自然科学と社会科学とに共通な一般的方法があるとする立場を、方法論上の一元論と呼び、A・リールやJ・S・ミル、E・デュルケム、K・マルクスなどを之に数えている。之に対して、方法論上の二元論を採る例は、R・シュタムラーやG・ジンメルの場合だという(P. Andrei, Das Problem der Methode in der Soziologie, 1927)。――だが方法論上のこのような二元論が、今必要な科学論としては、不統一極まるものであることを、私は「三」に於て見た。
** E. Carell, Wirtschaftswissenschaft als Kulturwissenschaft, 1931 は主として「理解経済学」なるものの説明を与えている。この理解経済学は、純粋な理論経済学と全く無関係なものだというのである。――高田保馬氏は、理論的社会科学の性質、特に理論経済学の性質を、一種の「本質学」と見るのだが、処がこの本質は却ってかの「理解」なるものを離れては得られるものではないという。之はM・ヴェーバーの理想型(Idealtypus)にも準ずべき(尤も理想型は経験的な成立を有つ点で之とは異っているが)「本質的定型」なのだ、というのである(『経済学方法論』・改造社版『経済学全集』第五巻)。――だが一般に理解なるものの認識方法としての根本欠陥も、すでに私は述べた。
 社会科学の方法に於ける根本的な――建前から来る――対立は、ブルジョア社会科学一般による方法と、プロレタリア的社会科学(マルクス主義社会科学)による方法との、根柢的な対立となって、最も代表的に、そして露骨に、現われる*。尤もすでに先程述べた通り、ブルジョア社会科学の方法は、それ自身甚だ分裂したものだったから、ブルジョア社会科学一般の方法というものは、具体的には掴み難いのが事実であるが、併し他方に於て、マルクス主義的社会科学の方法は、殆んど一義的に一致したコースを踏んで発達して来ているので、之に対比して、之と根本的に対立する所以に従って之を一纏めにすることによって、間接にこのブルジョア社会科学の一般的な方法を浮き上らせることが出来るのである。
* プロレタリア社会科学と呼ばれる意味は、一般に「プロレタリア科学」という言葉に於てと同じく、単にプロレタリアという階級的主観が所有し又は所有し得べき、そしてその階級主観の利害から出発しその利益に奉仕する、社会科学というだけではない。社会科学なるものがプロレタリアの階級主観に立脚する大衆や専門家によって初めて、真の唯一の社会科学となり得るし、又現にそうなっているという、論理的な権利を云い現わす言葉なのである。――ブルジョア社会科学という言葉も亦之に準じて理解される。但しこの場合には、社会科学がブルジョアジーの代弁者によって歪曲されて、真の社会科学としての科学性を喪失するという、失権の宣言を云い表わすのだが。
 さて、このプロレタリア的・マルクス主義的・社会科学の、一義的な唯一の、即ちそうした意味で客観性を有った、即ち又科学性を具えた、方法が、史的唯物論(唯物史観)であることは、今日広く大衆的に知られている処だ。そして之は、弁証法的唯物論の、歴史的社会に関する限りの一部分に他ならなかった*。尤も、弁証法的唯物論も、史的唯物論も、夫々単に理論(科学一般)と社会科学との普遍的な方法であるばかりでなく、その背後に横たわり又はその前面に押し出される処の世界観のことでもあるし、又この科学一般(理論)乃至社会科学が有つ科学的世界の具体的な理論内容そのものをも意味する。云うまでもなく一般に科学の方法は、どういう場合でも、そうした科学の内容やそれと裏表をなす世界観とから、切り離されて孤立してはあり得ない筈だった。だが、方法が科学の内容――科学的世界――や世界観と結びついているこの統一連関の関係を、最もよく忠実に尊重しているものが、史的唯物論(乃至弁証法的唯物論)なる、社会科学乃至科学一般のこの方法なのである。と云うのは、ここではその方法と実在そのものとの本来の認識関係が(夫は模写とそれに基く構成とであった)、今云ったこの統一関係をば、嫌やでも強調せねばならないように仕向けるからである。弁証法と云い唯物論と云い(尤も両者は終局に於て一つのものに帰着する)、実在と認識との本来的な関係を強調するものの他のものではなかったからだ。
* マルクス主義的社会科学の方法をそれ自体として取り出したものは、何よりもマルクス『経済学批判』序説(河上・宮川訳)である。と云うのは、『資本論』を初めとして、マルクス・エンゲルス・レーニン・其の他の基本的意義のある著述や文章の一切が、いずれもこの方法を具体的に語っているのだから。――比較的方法論に重きをおいた史的唯物論の解説としてはA・コーン『プロレタリア経済学の方法論』(村田訳・叢文閣)や、アベズガウス・ドゥーコル『弁証法的経済学方法論』(岡本・稲葉・訳・白揚社)を挙げることが出来る。――なお相川春喜『歴史科学の方法論』はマルクス主義的歴史科学は「広義の」経済学と同じ対象をもつものだと主張している。マルクス主義的社会科学からブルジョア「社会学」を批判したものとしては、アクセリロート・オルトドクス女史『ブルジョア社会学の批判』(永田訳・南宋書院発行)や、A Lewis, An Introduction to Sociology(高畠訳『社会主義社会学』・改造社)などが、一応の参考になる。なお拙著『イデオロギー概論』〔前出〕参照。
 で、ブルジョア社会科学一般の方法は、この史的唯物論に対立する限りに於て、一纏めとなって共通性を持つのである。つまり唯物論と弁証法という普遍的な方法(或いは寧ろ一つの方法の二つの契機)の、この二つの契機か、又はどれか一つの契機かに、対立することが、ブルジョア社会科学の方法の共通な特色になるというわけである。だが、――こうなると之は二つの範疇組織範疇体系の間の対立になる。方法なるものの最後の意味が、論理にあり、その意味に於ける範疇組織にあるということを、吾々はすでに述べた。唯物論に対立する範疇組織は、まず事物の歴史的過程の実際的な分析の代りに、事物の有つ意味相互間の関係を意味解釈するための範疇組織である。之が今日広範に観念論と呼ばれるものの第一の規定で、之に帰着する社会科学的方法の最も代表的なものは、ディルタイ系統の解釈学的歴史学や「理解経済学」の夫などであった。第二に夫は、観念的主観主義の範疇組織である。限界効用説乃至オーストリア経済学(心理主義・感覚測定論・其の他を含めて*)や、所謂唯心史観(ランプレヒトや通俗の精神史主義)などの方法がその例である。
* オーストリア経済学の方法に対する批判はN・ブハーリンが与えている(N. Bucharin, Die politische Oekonomie des Rentners)。
 観念論は第三に、広義に於ける形式主義と原則的なつながりを持っている。形式主義的範疇組織の代表者がコント以来のブルジョア社会学であることは広く認められている処であり、その典型的なものが所謂「形式」社会学なのである。カント主義的社会科学(例・シュタムラー・フォルレンダー・アードラー・等)の方法も亦これにぞくする。だが社会的現実を倫理的な個人意志の連関関係にまで、抽象・還元・形式化す点に於て、之は倫理主義の形態を取る種類のものである*。又特殊の形式主義化を意識的に方法として採用するものは、数理経済学などだろう**。――処が形式主義としての観念論は、更に、一方に於て非歴史主義に、他方に於て機械主義に、帰着する。即ち第四に、この範疇組織は、実は云わば反弁証法主義に他ならなかった。古典的正統派経済学の方法は、非歴史的方法の特徴的な場合であった。併し例えば生産力と権力、階級と国家、などを同一平面に於て並置してその理論を出発させる処の、今日の各種の(専門的乃至デマゴギー的)ブルジョア社会理論が、凡て機械主義的範疇組織の最も複雑な狡猾な使用法を意味していることも亦、忘れられてはならない。
* 倫理主義は一面歴史理論に於ける目的論に関係している。だから形式主義からではなくて却って歴史学派の立場からさえも、倫理主義は可能なのである。――ユートピア的社会主義(プラトンに始まりプルードンに終り、そして今日でもファシストの或る者や「新しい村」などに生き残っている処の)は、必ずしも科学(?)とは云えないが、云うまでもなくこの倫理主義にぞくする(倫理主義に就いては、前掲コーン『プロレタリア経済学の方法論』参照)。
** L・ヴァルラス、V・パレート等の経済的諸項の均衡理論――それが数学的方程式によって云い表わされるとする。中山伊知郎『数理経済学方法論』(改造社版・『経済学全集』第五巻)、及びA・クルノー『富の理論の数学的原理に関する研究』(中山訳)を見よ。
 かくてブルジョア社会科学は全体として、その論理=範疇組織に於て、即ち最も根本的な意味に於けるその方法に於て、プロレタリア社会科学に対立する(矛盾し又は接触を回避する)ことをば、寧ろその唯一の認識目的とさえしている、と云ってもよい位いなのである。――二つの社会科学の方法が、その建前から云って全く異らざるを得ない所以である。
 史的唯物論に就いては、後に一纏めに述べよう。今はさし当り、社会科学に於ける右の対立に注目しておいた上で、さて、一般に科学――社会科学と自然科学・又哲学――に於ける方法の最も一般的な輪郭的な構造をまず明らかにしよう。と云うのは、科学的認識一般に於ける、実在反映=認識構成の、基本的な科学手続きの輪郭をまず初めに分析しよう。
 云うまでもなく科学は、一般に経験の組織されたものを云うのである。それは狭義に於ける「科学」――分科の学――に於いても、又総合的な「哲学」についてもそうだ(一切の哲学が経験の組織であることを明らかにしたものとして、ヘーゲルの『精神現象学』と『小論理学』の「予備概念」の項とを挙げることが出来る)。数学さえも或る意味に於ける経験の組織でなければならぬ。この点数学者自身の数理哲学的観点如何に拘らず、そう主張出来る理由が存する(後を見よ)。――ではこの経験とは何か。
 経験の概念に於ける困難は、一種の二元論を克服しなければならぬという課題に現われる。と云うのは、経験自身、夫が経験であるためには、即ち人間社会に共通であり得るような、或いは少なくとも夫々の人間の経験として是認され尊重されて通用し得るような、経験であるためには、実は単なる経験に止まることが出来ないのである。なぜなら、もし単なる経験に止まるなら、即ち個人々々の経験であってそれ以上の価値を生まないことをその本来の面目とするものならば、夫は全く経験主義的な而も(当然そうなるが)独我論的な意味に於ける経験でしかあり得ない。個人Aの経験は単にAにとってだけ信用されるのであって、仮に個人Bが之と同じ経験を有ったと号するにしても、経験Aと経験Bとが同じであるかないかは判定の由がない。否、凡そ一致する経験というものはどこにもあってはならない筈だろう。処が事実はそうではなくて、経験は人間社会に於て最も信頼されている処の認識の出発点なのである。単に銘々の個人が自分の固有な経験を独我的に信頼するだけではなく、社会が銘々の個人の固有な経験を信用しているのである。して見ると、経験は個人が経験したということ以外に、個人がやがて経験するだろう処の、そして更に社会の人間が多分経験しただろう又経験しているだろう又やがて経験するだろう処の、否、皆がその条件さえ与えられれば必ず経験する筈である処の、内容であらざるを得ない。で経験はそれ自身に、超経験的な、或いは先経験的な、即ちもはや経験論的ではない処の、或るものを含んでいる、ということになる*。
* カントはそこで経験の根柢に「アプリオリ」を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した。処がE・デュルケムの実証主義は、経験の内からこのアプリオリを導き出して見せる(拙稿「知識社会学の批判」――『イデオロギー概論』〔前出〕の中――参照)。だがアプリオリなるものは、元来二元論用の用語に他ならなかった。
 併しここで、経験の組織という点に注目しなければならぬ。組織にとって必要なものは、第一に経験の蓄積である。処が蓄積はそれまでの経験の保存に俟つ。経験が保存されるためには、記憶がそうであるように、夫の一定の整理が必要だ。だから一つの新しい経験は、いつも既得の経験の整理された地盤の上でしか受け取られず、又云わばその再整理のためにしか受け取られない。この整理を負担に感じる鈍重下根な意識は、だから新しい経験を恐れ又は排撃する。無論、そうした主体側の用意と活動意識がない時でも、印象は外部から強制的に与えられることもある。だがそれは、そうしたものとしては、単なる雑多な知覚乃至感覚の段階に足踏みする、宿命を持っているだろう。真の経験は、即ち云わば世界を経めぐりつつ生活を験めすというこの人間的過程は、勿論知覚乃至感覚から出発するのであるが、併し単なる知覚[#「知覚」は底本では「知角」]や感覚は、まだ経験という資格を有っていない。雑多な知覚や感覚が整理されてこそ初めて経験だったのだ。
 だから、科学が経験の組織だと云ったが、その経験自身が、すでに整頓された組織物でしかない。処でこの経験に於ける組織関係そのものは、夫までの経験による組織であると同時に、即ち経験の所産であり結果であると同時に、今後の経験の指導的条件をなさねばならぬものである。即ち経験の想定であり予想(Antizipation=Voraussetzung)なのである。ここに経験に於ける超経験的乃至先経験的と呼ばれるモメントが潜んでいる。実は夫は超経験的でも先経験的でもないのであって、全く経験の内部のものにすぎないが、併し大切なのは、この経験が、自分自身を云わば自発的に又自律的に構成して行く組織=メカニズムを持っているということだ。経験の他にアプリオリか何かがあるのではない。知覚乃至感覚が発生する実際上の条件そのものが、この経験組織だったのである(形態心理学に於ける知覚のゲシタルトの理論を見よ)。――で経験のこうしたそれ自身に於ける組織性を用いて、之を目的意識的に展開したものが、経験の所謂組織としての科学に他ならなかった。
 この目的意識は併しどういう方向に向って発動するか。それは経験の整頓から一定の諸法則を導くように発動する。法則(経験的法則)は経験の実地的な指導のために、常に必要欠くべからざる認識形態なのである。吾々は経験的法則を待たずには一歩も経験を進めることは事実上出来ない。何等かの意味に於て法則を不用なものと考えるのは、必ず経験の実地的な前進を認識目的としない時に限る。例えばだから、事物のただの解釈にとっては、法則などは殆んど全く用がない、夫は例の「構造連関」や「価値への関係づけ」で充分だったわけである*。
* 法則は公式乃至定式(Formula)として表示される。公式を有たず又公式を利用しないでいい科学は、本来一つも存在し得ない筈である。公式を未知の領域に向って使用する代りに、既知の公式を反覆証明することを、公式主義という。公式主義とはつまり、公式を使用しないことを意味すると云ってもいい。
 法則は併し、云うまでもなく一種の共通性・普遍性(一般性)・反覆可能性を有たざるを得ない。凡そ一般性を全く欠いた事物や事態はあり得ない。だがこのことは、法則がその特殊的な諸形態へ展開すること(ただの適用だけではない)と、自分自身がまたすでに一つの特殊的な形態であったものとして、より普遍的な形態へと移行することと、従ってそのためにこの法則そのものが他の特殊な形態へと変化することとを、除外するものではない。特に社会に於ける「歴史的」法則は、今のこの関係を顕著に示している。法則は常に普遍的なものだ。そうでなければ決して法則の名には値いしない。だがそれが生きた法則であるためには、いつも自身が特殊だという自分の影を背負っている。この影を飛び越えることは出来ない。ドイツのロマン派文士シャミッソーは、影のないシュレーミール氏を創造したが、「科学方法論」者や社会科学対自然科学の方法分裂政策家達は、自然科学に向って絶対普遍的な「法則」を創造して押しつけたのであった。
 尤も経験的法則と云えば、つまりは経験の組織体である科学の一認識内容に過ぎないのだが、併しこの法則が根本的な場合になればなる程、即ちこの法則が科学の前進に於て有つ経験指導の指導範囲が広ければ広い程、法則は原則に接近する*。原則は殆んど完全に科学そのものを指導するように見える。だから原則はそれ自身方法のことであるとも見做されている。因果律(因果法則)は実は因果原則乃至因果性と呼ばれる方が適切だろう。相対性原理や不確定性原理は、もはやただの経験的法則(Gesetz)ではなくて、こうして諸法則そのものを制定させる処の原則(Prinzip)なのである。
* H・ポアンカレなども Lois と Principe とを区別する。――なお仮説(臆説)という観念(それは経験の一般化的拡大――G※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)ralisation――と考えられる)は、恰も「経験的」なこの経験が、云わば超経験的なこの法則や原則を生み出すという過程を、多少経験論的に云い表わしたものである(H. Poincar※(アキュートアクセント付きE小文字), La Science et l'Hypoth※(グレーブアクセント付きE小文字)se 参照)。
 原則(原理)と雖も、経験的法則が役づきとなり幹部に昇格したものに他ならなかったから、決して単なる所謂アプリオリではあり得ない。その意味に於てニュートンの自然科学に形而上学的な・アプリオリな・原理(Prinzipien=Anfangsgr※(ダイエレシス付きU小文字)nde)を与えようと欲したカントは、全く失敗だったと云わねばならぬ。相対性理論と量子力学とは今の処殆んど調和的な連絡がついていないと見ていいだろうが、そこから、相対性原理に対する量子力学側からの懐疑と、又不確定性原理乃至因果否定論に対する相対性理論側からの不信とを、今日の物理学者達は告白している。この二つの原則が、従来の物理学を根本的に変革した程(相対的原則はガリレイ・ニュートン以来の古典力学を、そして不確定性原則は更にアインシュタインまでを含めた古典物理学を、革命的に変革した)、近代自然科学に於て指導的な方法の役割を有っているのだが、それにも拘らず之は全く、実験的経験とそれの整頓としての理論との経験的所産に他ならなかったのである。
 マルクス主義的史的唯物論の原則(生産力と生産関係との弁証法)も亦、云うまでもなく経験的原則であり、社会に於ける大衆乃至無産者が最も切実に受け取る経験的認識からの結論に他ならない。――処でこの原則に対する懐疑や或いは寧ろ決定的な攻撃や否定が、矢張り又何等か之に対立した科学的原則として現われるかと思うと、そうではなしに、夫はガリレイを前にした法皇の権威を以てしか現われないのが常だ。之は注目すべき興味のある事実である。――蓋しブルジョア社会科学の殆んど凡てのものは、甚だしいのになると何等の法則乃至公式を発見することが出来ず、或いは法則を原則にまで高めることが出来ない。だからその方法たるものも、原則とは何等関係のないもので、仮設の資格をさえ持つ理由を失った「主観的」な態度に帰せられ勝ちであったのだ。
 以上は一般に科学に於ける方法なるものの単なる輪郭に就いて、述べたのだが、併し方法はもっと実質的な諸内容を有っている。最後に、云わば方法の実体とでもいうべきものが残っているのである。自然科学と社会科学とに就いて、之をその共通性と特異性とに従って、述べねばならぬ*。
* 以上に就いては拙稿「社会科学に於ける実験と統計」(『現代哲学講話』〔前出〕の中)及び「社会科学に於ける方法」(『綜合科学』4号〔本全集第三巻所収〕)を参照。
 マルクスが『資本論』の第二版序文に於て、科学方法を研究方法(Forschungsweise)と叙述方法(Darstellungsweise)とに分けたことは、よく知られている。之は独り社会科学にだけ通用する区別ではない。研究方法は、すでに見た通り、個々の経験資料乃至認識材料から何等かの一般的な関係を導き出すという方向に向っているのであって、之は研究者達の云わば頭脳の内に於ける個人的乃至主体的な過程である。処で之を社会に向って或いは自分自身に向ってでもいい、客体化されなければ、この研究の成果は最後の具体的な形態と記録としての客観性とを有たない。そうしなければ社会的通用性を有たないのである。このために必要なのが叙述方法であって、之は研究方法とは逆に、すでに抽出された何等か一般的な関係から出発して、之を個々の事象にまで体系的に展開するという方向を取る。
 研究方法の方は云わば極めて専門技術的な様式を有った方法であるが、叙述方法の方は云わば広義に於ける文献的=文学的な様式を有つ。例えば実験は研究方法の一部となって機能するが、この実験の結果を報告することは、叙述方法にぞくする。叙述と云えばどのような場合でも広義に於て文学的なものであらざるを得ない。少くとも言葉や文字や補助文字としての記号などを用いなければ、叙述は出来ないからだ。――だがこの二つの方法は(私は之を後の便宜のために様式――研究様式と叙述様式――と呼ぶことにする)、交互的な連関を有っている。というのは如何なる叙述様式も予め研究様式があっての上でなければならないのは当然だが、それだけではなく逆に、発達した一切の研究様式はいつも夫々先行する叙述様式を想定せずには成立しないのである*。例えばどのような自然科学的実験的研究でも、それまでの自然科学の歴史的発達(それは書物や文献や教育によって保維される)を想定した上でしか形を有ち得ない、ということに他ならない。スペクトルによる実験が天体に於ける一定の元素の存在を証明するということは、気体元素の光波吸収の理論と合成光線の分光の理論とに俟つことは云うまでもないが、こうした理論が科学的な既知の知識として伝承され得ることは、全く科学の叙述様式が与える賜である。その意味に於て叙述様式は云わば文献的=文学的な方法だというのであって、特に哲学や社会科学に於けるこの様式の役割は、意外に大きいと云わねばならぬ*。二つの諸様式はだから交互に想定し合っているということを、予め注意しておかなくてはならぬ。
* 哲学に於ける叙述様式は、往々にしてその研究様式と混同されたり之に代用されたりし勝ちである。こうして哲学の或るものは全く文学的作品或いは寧ろ作文の性質を有ち易い。叙述様式がそのまま実在の体系だと考えたものは代表的なドイツ観念論者フィヒテであった(その『知識学』)。――それから自然科学は、その叙述様式の不整備のために、往々にしてその専門的研究から無意味な他愛のない人文的諸理論を導き出しがちだ。叙述様式は根本概念=範疇を表面に出して用いなければならないのだが、そのための普遍的な範疇組織のどれに、科学性があるかは、哲学の理論的な研究に負うわけで、そこに専門科学者の躓きがちな閾があるのである。
 数理経済学者と称する或る種の学者は、マルクス主義的経済学(正統派経済学もそうだが)の叙述様式が、文学的であって数学的でないという理由で、充分科学的でないと非難する。だが、こういう数学振りの一般的なナンセンスは別として、数学的な叙述が文学的叙述でないなどということは、嗤うべき迷信だろう。

 だがこの研究様式(叙述方法から区別された限りの研究方法)は、一応明らかなように見えて実は殆んど全くその実質を把握されていないものではないかと考えられる。例えば実験や計算も研究様式だろうし、演繹や帰納もそうだと考えられている。統計も事物の観念的分析もそうだというわけだが、処が夫々を比較して見るとどこにも相互の連絡のつきそうな手懸りはないのである。で、この点を少し整理する必要がある。
 そこで必要なのは研究様式研究手段(或いは操作)との区別である。計算や演算や実験は云うまでもなく明らかに一種の科学的な操作なのである。それ故人々はすぐ様之が研究の方法様式だと考えたがる。だがここには様式と操作=手段との混同がある。そしてこの混同には理由がある。例えば実験は確かに単なる研究手段=操作である、だが夫と同時に、それは一定の研究様式内に於てはその研究様式の一内容としても機能するからである*。併し研究手段操作は、夫が研究様式という統一体の具体的な一内容として定着される時初めて、研究様式、方法の資格を(恐らく部分的に)獲得するのである。そうでない限り、単なる研究手段は随時に各処に存在する断片的なオペレーションなのである。で今、研究手段=操作に就いて考えて見よう。
* 拙稿「社会科学に於ける実験と統計」(前出)に於ては、実験的方法や統計的方法なるものを考えたのであるが、之自身は実は、あくまで実験的手段や統計的手段に止まるべきもので、それ自身が方法となると考えた点は訂正しなければならぬ。――後を見よ。
 所謂形式論理学は従来、科学の研究方法=研究様式を与えるものだと考えられて来ている。だが之は実は必ずしも当ってはいなかった。第一それは研究のオルガノン(用具)即ち研究手段=操作を与えるものをしか意味していなかった。事実単にこのオルガノンだけで出来上る研究は、アリストテレス自身に於ても存在しなかったので、他の何等かの統一的な研究様式の下にこの用具を用いて初めて、科学的研究が出来たのだった。ベーコンの新しいオルガノンに就いても、実際はこの点に就いて異るものはないので、帰納を研究様式とするような科学があったとすれば、それは恐らく当時のガリレイの物理学の水準を遙かに下回っていたものに相違なかっただろう。で所謂演繹帰納も、実は研究様式ではなくて研究手段に他ならなかった。
 演繹と帰納とは併し、まだ形式的な研究手段に過ぎない。全く之は、形式論理学の内容に相応わしい内容をしか有たない。処が実質的な研究手段こそ、科学にとって実際に役立っている科学的操作なのである。この実質的研究手段には大略、四つのものがぞくする。第一は分析的操作、第二は解析的操作、第三は統計的操作、第四は実験的操作である。こうした夫々の科学手段・科学的操作が、どのような特色をもち、自然科学や社会科学(又哲学)に於てどのような特殊形態を与えられ、それから研究様式と、又序でに叙述様式と、どう関係するかを、見て行かねばならぬ。

 分析的操作。数学的解析の操作から区別された、概念に於ける、概念による、分析をいう。経験された現実(それは事実と呼ばれるが)に関する表象をば、表象又は概念を確定することによって分解し、更に之を再結合する処の操作を云う。分解したものを再結合するという意味に於ては、之は却って総合と呼ばれている。元来分析と総合とは同一操作の位相の相違にしか過ぎない(一切の判断は、分析判断と雖も、総合判断である――カント)。之は科学的操作としてばかりでなく、吾々が普通用いる常識的操作としても、最も日常的であり従って又最も基本的で一般的なもので、例えば一切の評論に用いられる多少とも理論的な操作も、之にぞくする。だから又自然科学であっても、之を援用しなければ一つの理論も否一つの実験さえも、不可能となる。例えばエーテルの存在するしないを理論づけ又実験するにも、一体エーテルなる概念が歴史的に何であるかを先ず分析してかからなければ、無駄に終る。エーテルが極微な抵抗のない可秤性を欠いた物質であるのか、それとも単に何等かの力の場としての空間のことでいいのか、を決定しないで、エーテルに関する理論も実験も意味がない。物質概念の分析が不充分だと、物質が消滅したしないで、形而上学的な不毛な議論をしなければならなくなる。又例えば重力という物理学的術語は、常識的な観念としての重さや抵抗力の観念から全く独立には、なぜ重力と呼ぶのかが遂に全く理解されなくなるだろうが、そのようにこの分析的操作は、専門的な範疇と日常的な観念との媒介点を明らかにし、科学の尤もらしさを保証するという点で、最も重大な理論的機能を有つのである。
 この点云うまでもなく社会科学に於ても変らないばかりでなく、ここではこの操作の機能に就いて愈々明白な観念が得られるだろう。A・スミスの『富国論』やリカードの Principles of Political Economy and Taxation などに於ける分析操作、又哲学ではアリストテレスの主なる著書(『メタフュジカ』・『フュジカ』・『ニコマコス倫理学』・等)の考えの進め方の操作、などがそのいい例である。
 だがこの分析的操作は一つの歴史を持っている。というのは、この概念分析という手続き・手段が、之まで往々にして単なる形式論理のものだった場合が多い。処が分析が現実的であり、操作として完備するためには、こうした形式論理的な分析(単なる区別・対比・固定化)では不充分なのであって、いやでももっと具体的な分析にまで行かざるを得ない。この時、分析は弁証法的な分析操作の性質を帯びざるを得なくなるのである(本来弁証法は単にこうした操作の名に限られるのではなく、実は科学的方法そのものの名であり、或いは寧ろ実在そのものの根本法則であるのだが、今は夫が操作となって、断片化されて現われる場合を指す)。――で分析的操作が終局に於て弁証法的でなければならぬことは、凡ゆる場合に於ける要請であって、物質の概念に就いてもエーテルの概念に就いても、之を正当に把握して使用するためには、それをこの弁証法的分析にかけることを必要とする。自然科学の理論的整備に必要なのが之で、自然弁証法の一つの契機をなすものが之だ。マルクスの『資本論』に於ける商品の分析は、社会科学に於けるその適切すぎる程適切な例であり、たといこれ程露骨な叙述様式を伴わなくても(操作=研究手段は研究様式と異り、まして叙述様式とは一応全く別だった)、実質に於てこの操作を用いたものは、極めて多い。マルクス主義的社会科学に於ける分析がいずれも之にぞくすることは云うまでもないし、そうでないものでも、いつか知らず知らずにこの段階の分析にまで押し進められている場合が少くない。哲学ではプラトンの『ソピステース』やヘーゲルの『エンチークロペディー』などがその典型である。
 だが操作・科学手段は一般に、研究様式にぞくする浮動した断片ではあるが、研究様式そのものではなかった。そして叙述様式でもない。ではこの二つの様式と、之とはどう関係するか。――もし今この分析的操作をそのまま科学の研究様式・研究手段として採用するならば、夫は概念分析だけによって事物関係を説明しようとすることであって、分析が形式論理的な場合には明らかにスコラ主義となり、分析が弁証法的である場合には詭弁(ソフィステライ)の類となるだろう。だから、この研究手段が研究方法・研究様式として役立つためには、少くともこの操作以外の諸手段(数学的解析とか実験とか)を同時に用いなければならぬ、ということが判る(この点、他の夫々の研究手段・操作に就いても変りはない)。――それから、分析的操作は叙述様式に於て最も有効に用いられる処の手続きであることに就いては、多く考察を必要としないだろう。

 解析的操作。之は一般の文字と一般の分析操作との代りに、記号と数学的操作(計算・演算・其の他一切)とを用いる処の、数学解析の手段を指す*。その外貌の相違にも拘らず、之は前の分析的操作の一変形に過ぎない。――自然科学、特に所謂精密科学に於て、この操作が重大なことは、説明するまでもない。或る場合には物理学の根本原則さえが、この操作の制約を受けて初めてその形態を与えられる(例えばマクスウェル電磁方程式のシムメトリ形式から、相対性理論の手続き上の成立動機が生じた如き)。又逆に一定の物理学的原則は或る特定形態の解析的操作だけを選定する必要を生む(例えば量子力学によるマトリックス、波動力学による波動方程式など)。所謂精密科学にはぞくさない生物学に於ても、Biometrie や関数生物学、メンデリズムに於けるコンビネーションなど、この手段に訴える。実験心理学に於ける適用も亦言を俟たない。
* ここに解析的と云ったのは、必ずしも数学的な Synthesis(代数や整数論や純粋幾何学など)と対立させる意味ではない。
 社会科学に於ける解析的操作は、数理経済学や経済学に於ける感覚測定論に最もよく現われる*(数理経済学に就いては前を見よ)。それからマルクスが『資本論』第二巻に用いた有名な公式W―G―W(商品―貨幣―商品)の処理法は、代数学的記号とその操作の模範的なものにぞくするだろう。――スピノザのユークリッド的手続きによる『倫理学』は、強いて云えば哲学に於ける今の一例となるかも知れない。蓋しこの『倫理学』は、例の分析的手段と解析的手段との、移行の中間に横たわるからである**。
* 経済学に関する感覚測定論に就いては、高垣虎次郎『経済理論の心理学的基礎』(改造社版『経済学全集』第五巻)参照。
** 次に見るように統計的手段の一部に数理統計なるものがある。之は云うまでもなく数学手段にぞくする。でここからも知れる通り、諸研究手段の相互の間にも、直接の交錯がなくもないのである。
 解析的手段は分析的手段の特別な形態だったが、それが特別な形態であるだけに、云うまでもなくその適用範囲は広くない。之を研究様式とするということは、数理経済学などの誇称を論外とすれば、だから初めから殆んど絶望で、そうした企ては多く極めて無内容に終っているから問題ではない。叙述様式としてさえ、この手段は著しく制限されている。だが強いてこの手段を叙述様式の下に用いようとすれば、大抵の場合夫が不可能ではないのである。従って叙述様式にこの手段を用いることが出来たということは、少しもその科学の科学性を高めるものでもなければ科学性を証拠だてるものでもない。まして、之だけによって(数学以外の)科学の叙述を与え得たと称するような場合がもしあるとすれば、夫は恐らくその科学の非科学性(抽象性・テーマの人工的局限・認識目的の喪失・等々として現われる)をさえ証明するだろう。

 統計的操作。前二者は併し、科学研究上に於ける消極的な操作でしかなかった。之に反して、積極的な手段を提供するのは統計的操作と次の実験的操作とである。と云うのは、この二つは科学研究に対して能動的に材料収集する機能を有つからである*。
* 統計と実験との対比に就いては、例えばマルク「統計学」(『科学研究法』――フランス学会編――の中)を参照。――なおこの『科学研究法』は人文関係の諸科学に就いての実証論的な立場からする代表的な省察が集められている。
 統計的操作とは、個々の事象が直接経験出来ず、単に集団的にしか観察出来ない場合か、或いは個々の事象が経験しようと欲すれば経験出来るにも拘らず、個々の事象の観察からは得られないような材料を必要とする場合に、用いられる材料収集の手段である。――材料は云うまでもなく人間の現実の経験から受け取られる。之が一切の科学の研究の端初であった。処が経験から材料を受け取ると云っても、決して簡単なことではない。材料の収集には経験の蓄積を必要とする。その経験の蓄積はどうやって行なわれるかというと、夫が第一に観察なのである。材料の収集の手段はだから第一に観察だと云っていい。今この観察が単に集団的な現象に就いてしか事実上不可能であるような場合(例えば気体運動論に於て全分子の運動の総体の如き)か、或いは個々現象の観察では必要な観察が行なわれない場合(例えば失業人口の推定の如き)、必要なのがこの統計的操作である。――かくて統計的操作は第一に大量観察だということが出来る。
 尤も同じく大量観察と云っても、右の例の二つの場合によってその意味を異にしている。例えば前の例での一定容積内の分子の諸運動は、初めから大量そのものとしてしか事実上与えられ得ない。之は言葉から云えば言葉通り大量観察ではあるのだが、併し所謂(社会科学などで用いられる意味での)「大量観察」とは性質を全く異にしている。真の大量観察は、事象の個々の場合々々を、或る相当の回数乃至個数に至るまで、同時的に或いは時間的に、一つずつ反覆するに及んで、その平均分布を求め、そして初めて得られる処の観察を云うのである。
 この後の意味に於ける大量観察の結果得られた材料を、普通「統計」と呼ぶのであるが、統計的操作は次に第二に、この統計材料を統計解析に掛ける。この統計材料が時間関係を含まない時(時系列をなさない時)は、統計解析は主に分布状態を与える。即ち大量的に多数な同一種の諸事象は、適当に区切られた区画にあてはめられ、夫々の区画に夫々の散布度が発見されて、一定の高低の段階を有った分布形態が現われるのである。もしこの材料が時系列をなすなら、即ちこの大量的に多数な事象の間に歴史的な時間に相応した系列的な連絡が想定される場合には、材料が示す事象の時間的変動は、この統計解析によって、いくつかの基本的変動形態に分解され、夫々の変動形態が独立に取り出される*。統計解析は更にこの独立に取り出された一定の変動形態を、より単純な相互に独立な最後の要素的変動形態の合成として分解したり(フリエの調和解析)、又二種以上の異った材料の夫々の変動形態の相互間に、各種の相関関係を見出すことも出来る**。――こうして統計的操作は、科学研究のための材料を収集し提供する処の一つの手段なのである。
* 例えば偶然変動・長期変動・季節的変動・周期的変動=狭義のコンユンクテゥール(景気変動)などに分解される。
** 統計解析に就いては小倉金之助「数理統計」(改造社版『統計学』上)を見よ。
 社会科学に於ける統計的操作の役割に就いては、改めて説明するまでもあるまい。この操作を用いないでは社会科学的方法は殆んど全くその材料を獲得することが出来ない。問題は自然科学に於て夫がどれだけの役割を有つかである。併し、自然科学に於ても統計的なるものは至る処に見出される。例えばメンデルによる雑種植物の変種に関する統計的操作であるとか、マクスウェルやボルツマンの古典的統計操作であるとか、ハイゼンベルクの不確定性原理によって、核外自由エレクトロンが各瞬間に於て空間上に占める定位を厳密に観察することが原則上不可能であることから、一定時一定場所に於けるエレクトロンの存在がプロバビリティーに他ならないということとか、それからエントロピーの増加率が統計的な蓋然性しか持たないとか、という現象が夫である。
 だが問題は、こうした統計的操作や、又こうした確率現象に対して必要な統計的取り扱いが、どれだけ自然科学的研究様式の内容として重大な役割を演じているか、ということだ。大量観察という統計的操作の第一規定も、右に挙げた例のような場合には、社会科学に於ける本来の大量観察とはその性質を異にしている(前を見よ)。それに、プロバビリティーが現われるのは、決して統計的操作の結果なのではなくて、却って単にプロバビリティー現象であるが故に統計的操作を用いる他はないというのに他ならない。
 で統計的操作は、云うまでもなく自然科学的方法にとって欠くべからざる一手段ではあるが、社会科学の場合に較べて、その研究様式の一部分として機能する程度が、原則的に低いということを認めざるを得ないようである。――一体社会科学に於ても、統計的操作は決してそのまま研究様式=研究方法の資格に登ることは出来ない。夫には単に研究材料の収集の機能しかなかった。だから普通、統計的研究法乃至統計的方法と呼ばれるものは、吾々が見て来た区別に従えば、統計的操作=研究手段と呼ばれるべきものを意味する場合が多い*。
* 例えば尊重すべき書物である小倉金之助『統計的研究法』、又蜷川虎三『統計学研究』は統計学を研究方法それ自身にぞくする一社会科学とする。即ち統計学は統計的研究方法をここに想定しているのである。有沢広巳『統計学』(改造社版『経済学全集』)によれば、統計学は社会科学の方法である。
 最後に、統計的研究手段は、次の実験的研究手段と共に、決して科学の叙述様式となるものではない。往々にして之が統計的叙述様式と考えられがちなのは、統計的手段を直ちに統計的方法と想定する処から発生する一つの誤解であって、統計なるもの自体が元来研究のための単なる材料に過ぎなかったにも拘らず、それのもつ数量的な表現に幻惑されて、之に方法としての不当な威厳を認めがちな事から来る結果なのである。統計的な数学があったからと云っても、その叙述様式が統計的だなどと考える事は、全く子供らしい事だ*。
* 統計の数字がもつ魅力は、統計の階級的根本制約に就いての批判を蔽いかくして了う。統計的研究方法なる概念のもつ一種の通俗的な信用は、この点に関係がなくはない。
 実験的操作。之も亦統計的操作と同じく、科学研究のための材料の収集の一手段であり、そして又統計的操作と同じく観察から始まる。だが観察が発達すれば観測となり、やがて又測定となり、そして最もプロパーな意味での所謂実験となるのである。実験は、云うまでもなく自然科学的研究方法=研究様式の最も著しい必要欠くことの出来ない一内容となるものであるが、吾々はすでに、実験なるものが科学一般の科学性を保証する機能あるものであることを述べた。蓋し一切の科学的認識は経験から始まるのであったが、経験(それが観察・観測・測定などへ発展するのである)一般がすでに実験という根本性質を持っているのであった。なぜなら経験は元来能動的な人間態度を意味したのであって、それによって人間は自己と環境とを確かめながら、過去の経験の蓄積を利用しつつ将来に向って生活を開拓して行くのだった。そういう風に経験を検証蓄積予見して行くことこそ、実験の一般的な性質だったのである。
 従って一切の科学も亦実験的な本質を持っている。だがそのことはすぐ様、一切の科学が同様な仕方に於て実験という研究手段=操作を用いている、ということにはならぬ。もしそうでなかったら、例えば実験心理学とか実験動物学とか等々という言葉ほど無意味なものはなくなって了うだろう。実験的でない科学はなかったのだからだ。思うにこの実験心理学その他は、実験という研究手段を用いる限りの心理学その他を意味する。――但しそういうことは又、すぐ様、それが実験的方法を用いるということにはならぬのだが。
 処で自然科学的方法に於ける実験的操作の役割が有つ重大さに就いては、もはや説明の余地はないだろう。問題は社会科学に於ける夫なのである。――普通社会科学に於ては実験という操作は全く不可能だと考えられている。だがこの見解には少くとも異論を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むことが出来るのである。現にF・シミアンなどは、実験的操作の意味を極めて広く理解している。単に事物や観念を分離・蒸溜・抽象化する機能を実験だと考え、自然科学ではこの操作が物質的であるのに、社会科学では夫が単に観念的であるという相違しかないのだ、と主張する*。
* F. Simiand, De l'Exp※(アキュートアクセント付きE小文字)rimentation en science ※(アキュートアクセント付きE小文字)conomique positive(Revue Philosophique, 1931)――なお拙著『技術の哲学』〔前出〕中の「技術と実験」の項参照。
 吾々は又吾々で、実験の概念を根柢的に広範に理解せねばならぬ理由があった。夫は人間的経験の本質だったからである。して見れば之を、単に自然科学に於てしか見当らないような実験的操作に於ける、実際に限る理由はない筈である。自然科学に於ける実験的操作の特色と普通考えられる条件は、操作から独立な客観界に就いて、その一定の必要な理想的状態を、人工的に比較的随時に、齎し得るということだ。処が併しこの条件は精密に又厳密に考えると、自然科学自身に於てさえ、殆んど全く不可能な内容のものだということを注意しなければならぬ。まず第一に操作から完全に独立な客観界に就いての物理学的実験は、例の不確定性原理によって、不可能だという事が原則的に証明された。操作の用具である光の量子は、実験の結果を示されるべき自由エレクトロンの速度と運動量とを予め変化せしめて了うので、示されるものはエレクトロンの元の空間的定位ではなくて、操作によって変化された状態でしかない。この点社会科学に於て、研究活動の作用そのものがその研究対象たる社会にぞくすという関係と、程度の差こそあれ、本質的に別なものではない。
 それから一定の必要な理想状態と云っても、夫はその言葉が示す通り理想状態であって、現実に到達し得る状態と夫との間にはいつも或る距離が残されている。不必要有害な外部的影響から絶対的には免れ得ない点では、政府の米穀統制政策の試みの場合と、海底に於ける重力測定のための実験の場合とでは、矢張り程度の差こそあれ、その条件の困難に本質的な変りはない。実験が人工的に比較的随時に行なわれ得るということは、実験を大学の実験室での実験に限って考えるからで、特定の天体観測(之も実験でないという理由はあるまい)、例えば水星のペリヘリオンなどは、決して人工的に随時に行なわれはしない。それは戦争や革命よりもまだ稀だろうからだ。――顕微鏡や試験管を用いなければ実験ではないというなら、そして疑問を確かめるために試みるという目的意識や、今後の先例にしようとする目的意識がなければ実験でないというなら、戦争には偵察攻撃という社会的実験のための戦術もあるのである。
 でこうしたわけで、実験を自然科学に於ける実験的操作に限定せねばならぬ積極的な理由はないのである。無論こう云っても、社会科学に於ける実験的操作が、自然科学に於ける夫と全く同じだというのではない。ただ実験的操作の概念を普通よりももっと拡張することが、研究手段乃至方法の統一的な理解の上から云って、必要だというのである。一切の社会的歴史的(過去の又現在の)出来事は、階級・政党・政府・インスティチュート・又個人・等々の主体の実践の結果だという資格から、一つの試みである。そして又それは後々の同一性質の出来事の先例となるのである。その限りこうした出来事は「実験」としての効果を持っているのである。蓋し実験とは、実践の最も要素的な形態に他ならず、やがて社会に於ける産業政治活動にまで発展する要素だったからだ。――かくて、社会科学的方法に於ても亦、或る意味に於ける実験的操作が行なわれると見得るのでなくてはならぬ。
 だが、自然科学に於ける実験的操作も、社会科学に於ける夫も、決してそのまま夫々の科学の実験的方法となるのではない。之等の手段は夫々の科学の統一的な研究様式によって定着されて初めて、この夫々の研究様式の一内容となり得るに過ぎない。

 科学に於ける研究手段が、自然科学と社会科学に於て如何に共通であり、又如何にその上での差別を含んでいるかを、吾々は見た。そして之は実は、夫々の科学の研究様式の共通性とその上での差別とに基く他はあり得ない。如何なる研究手段を如何なる組み合わせで採用するかは、全く科学の研究様式の欲する処なのだから。最も積極的な研究手段であった統計的操作と実験的操作とは、科学の研究資料・認識材料の収集の機能につきている。処がマルクスの『資本論』によれば(前出の個所)、科学の研究様式は、材料を単に瑣末に至るまで習得し収集するだけではなく、更にその色々の発展形態を分析し、そして更にこの諸形態間の内部に横たわる連絡を嗅ぎ出すこと、でなければならない。と云うのは、科学の研究方法は法則公式原則の導来となって現われなければならなかったということだ(前の法則の個処を見よ)。――研究手段の上に、研究様式が君臨する所以である。
 さて科学の研究様式の分析はこうだとして、以上述べた操作と研究様式との結果を、一定の科学的な形態の下に叙述するのが叙述様式叙述方法である。これについて云うべきことが沢山あるが、今は省略せざるを得ない。

 最後に注目すべきは(マルクスの方法がそうだったように)、その研究様式も叙述様式も、常に弁証法的論理によって貫かれる必要があることだ。一切の科学の方法の最後の意味は、論理にあった筈だが、論理は弁証法的であることによって初めてその生きた具体性と活動性とを有つことが出来るからである。――処でこの方法としての弁証法的論理は、科学と実在との関係に就いて述べた処に従って、実は実在乃至対象そのものの根本性質に照応するものでしかなかった。それであればこそ、この方法による科学が、その真理性を受け取り確保することが出来るのだった。――科学の一般的方法は(唯物)弁証法である。
 以上が実在の模写に於ける科学的認識構成の重な一半(科学の方法という)である。科学的認識構成の他の副次的な一半は(併し之とても理論的にも実際的にも右に劣らず重要なのだが)、科学の社会的歴史的根本制約・そのイデオロギー性質であった。
 実在対象)――方法――イデオロギー、この三者の云わば相乗積は、科学の世界、科学のもつ科学的世界、である。実はそこまで行って科学の方法も、その目的を果すのである。――で、吾々は科学的世界を取り上げる前に、「科学と社会」との関係を、見なければならない。
[#改段]

  五 科学と社会


 科学が実在を模写することは、之を具体的な実質的な反面から云えば、科学が認識を構成することだったが、この科学的認識構成の第一の内容は、科学の方法であった。そしてその第二の内容が科学の社会的規定社会に於ける科学の存在条件である。或いは之を科学の歴史的規定ともそのイデオロギー性とも呼んでいい理由がある。と云うのは科学は、社会に於ける歴史的一存在物である限りに於て、他ならぬ一つの乃至一定種類のイデオロギーに他ならないからだ。
 科学の方法は、その弁証法的な研究方法と叙述方法とに於て見られたように、それ自身論理にぞくする。処が之に反して、科学の社会的規定は、科学のこの論理的規定と対立していると、そう少なくとも普通は考えられているのである。だがよく考えて見ると、科学のこの社会的規定が科学的認識構成の条件であった以上、科学のこの社会的規定と雖もその論理的規定と独立であってはならない筈だ。科学のイデオロギー性とは実は、科学的認識の社会的条件が、如何に科学的認識の論理的構成に反映するかということを、物語る言葉でなくてはならぬ。――では、科学のこの社会的規定・イデオロギー性は、どういう姿で現われるか。
 人間の歴史的社会は、後に説明するように、史的唯物論に従えば、その現実的な根柢を生産力に持っている。生産力は労働力と労働手段と労働対象とからなっているが、一般にイデオロギーは、まず第一にこの生産力によって最も基柢的な限定を受ける*。人間の物質的生産活動がその人間の物の考え方を規定するということは、見易い道理であるが、それが特に一定社会の一定時代の人間大衆についてであれば、この点益々顕著になる。だが今、生産力が特にそれの持つ技術的な側面を通して、イデオロギー一般を規定するものだという点を、注目しなければならない。
* イデオロギーという言葉の意味に就いては、私は至る処で説明してきた(前を見よ)。それは第一に社会に於ける上部構造としての観念界を意味する。而も之は第二に、単に個人々々の観念・意識の世界だけに止まらず、却って社会に於ける一定の人間群の意識(社会意識)を指す。その結果第三に、個人の意識も亦この云わば社会自身が持つ一定形態の意識の内に包摂されることが出来る(之が意識形態としてのイデオロギーとなる)。第四にこのようなイデオロギーは社会階級の現実的な利害に対応する階級性をもつ。だがそれであるが故に却って第五に、対立した二つ以上のイデオロギーの内、一方は真理で他方は虚偽だということになって、一般にイデオロギーは真理意識、乃至虚偽意識を意味するようになる。――以上の諸規定を結合すると、政治意識としての、又は思想的傾向としての、イデオロギーの意味が判然となる(イデオロギーという言葉がド・トラシの観念学から出て、どういう変遷を経て今日の意味のものになったかに就いては、今は省こう)。
 技術的な規定(併しまだ所謂技術そのものではない)は生産力の最も重大な規定の一つである。尤も技術性が生産力の唯一の規定だというのではない、仮に技術性で以て生産力の規定の凡てを蔽うて了うならば、社会の現実的根柢は技術性(普通之をルーズに技術と呼んでいる)に帰着することになって了うだろう。そうするとそこから、各種の技術史観や技術家至上主義などの技術主義が結果することになる。この結果のナンセンスであることは、一方では、その場合用いられる技術(?)という概念が不確実で無統制であるという事実に於て、他方ではそうした概念を適用したこの結論が実際問題の解決に当って示す奇説や見当違いに於て、之を検証することが出来る*。生産力の規定は技術性にだけあるのではない、抑々この技術性が基かねばならぬと考えられる処の規定である生産性こそ、その第一の規定でなければならなかったろう。だから技術性は生産力の一規定に過ぎないと云わねばならぬ。処がこの一規定に過ぎない技術性が、イデオロギー(科学はその内に含まれる)の問題から云えば、一等大切なのである。
* シュペングラーの技術主義的な歴史的予言、西欧(アメリカも同じだが)の文明は技術的であるが故に今行きづまりと没落とに瀕している、技術を超越した東洋思想こそ歴史の新しい段階へ導くものだ、という。アメリカのテクノクラシー(日本では最初の一カ月は極度に問題にされ次の一カ月には全く忘れられた)は、生産技術家の社会管理を提唱する。――こうした歴史理論や社会政策論が、圧倒的に盛りあふれる今日の現実問題を、てんでマスター出来ないことは、今更説明を俟つまでもない。
 生産力の技術性は処で、生産力の例の三つの内容に即して見出される。第一は労働手段に就いてである。普通、「技術」とは労働手段の体系のことだと考えられている。労働手段と云えば道具・機械・又工場施設・交通施設其の他などを、指すのであるが、それの体系というものが、もし仮に結局矢張り、之等労働手段自身のことを意味するにすぎぬなら、機械が技術でないと同じに、労働手段の体系が技術だという概念の決め方は見当違いでなくてはならぬ。併し又、もしこの体系という言葉が、個々の労働手段の加算以上の何かのプラスを意味するのなら(無論そうなければいけないだろうが)、この何等かのプラスなるものが何かという疑問が残るのである。そして単に、技術が労働手段の体系だと云っただけではこの疑問を解くことは出来ない。この何等かのプラス、「体系」という言葉が云い現わすXは何等か技術的なもの(単なる道具や機械ではなくて之に体系的に結びついた処の)だとでも云う他はあるまい。だがこれでは、「労働手段の体系」というのは、技術を説明するものではなくて、却って逆に、「技術的なもの」によって初めて説明され得るような観念でしかない、ということになる。
 思うに、労働手段の体系は、所謂技術そのものではなくて、単に技術的なるもの、生産力にぞくする労働手段に於ける例の技術性、の表現でなければならないだろう。生産力の一定の技術性(技術自身ではなく)こそ、「労働手段の体系」が云い表わす現物なのである。では所謂技術・技術そのもの、とは何かというと、之は単に生産力や或いは又それの直接の結果であり形式である処の生産関係などの領域だけに止まらず、広く社会的規模に於て理解されている一つの常識概念であって、云わば社会の一般的な(独り労働手段に限らず又労働力に限らず又更に単に生産力に限らない処の)技術的水準を云い現わす言葉だろう。この社会の技術水準を決定する要因と標識との第一が、この労働手段体系であったのだと云っていいだろう。
 で生産力の技術的規定(技術性)が、労働手段に就いては、所謂「労働手段の体系」として見出される。次に労働力に就いては、之が労働技能となって現われるのである。技能とは人間的労働力がもつ一つの資格である。云うまでもなく之は、労働手段乃至その体系に対応して初めて成り立つものであり、従って第一次的に夫によって決定されるのだが、併し二次的には逆に労働手段のもつべき諸条件をば決定する標準となるものである。機械は、機械操作に於ける労働者の労働力技能を客観的に発達させ、又一定の客観的な技能水準を労働者に要求する。だが又逆に、例えばコンベーヤー・システムは、与えられた一定技能水準を条件とするのでなければ、構成出来ない。労働工率乃至生産工率(エフィシェンシー)という言葉は、恰もこの技術性の二つの規定を結びつけているだろう(尤も企業合理化に於ける所謂能率としてのエフィシェンシーは、資本制による利潤追求の機構が之に干渉しているのであるが)。――だが、技能は事実、社会に於ける技術水準の、主体的な個人的な反映に他ならない。だから夫は結局、労働手段体系の、主観的な人的な反映だったのである*。
* 技術の概念に関する議論に就いては、拙稿「インテリゲンチャと技術論」(『日本イデオロギー論』〔前出〕の内)及び岡邦雄『新エンサイクロペディスト』の内を見よ。――なお相川春喜『技術論』(唯物論全書――未完の部)がこの問題に触れるだろうと考える。
 労働対象(自然的物質)に就いての生産力の技術性も亦、一考には値いするだろう。例えば鉱山の発見は労働手段体系と労働技能との発達を促進するし、逆に後の二者は、そうした土地の生産性を技術的に高めることによって、云わば之を技術的な労働対象として見出すだろう。だがこの場合、労働対象を技術的たらしめるものは、云うまでもなく労働手段体系(それに付随して労働技能)であって、この労働手段体系が、云わば労働対象にその技術性を付与するのだと云ってもいいのである。で労働対象に於ける技術性は単に二義的な意義のものに止まるだろう。特に今の場合のように、問題が技術とイデオロギーとの関係にある時、いよいよそうなのである。

 さて右に述べたような生産力の技術性は、まず第一に自然科学に対して極めて特有な関係を有っている。と云うのは、生産力の技術性から直接発生するものは技術的知識(技能知能)であり*、之はやがて技術学的(農学的・工学的・工芸学的・又医学的)知識なのであるが、自然科学は恰もこの技術学的要求と条件とに従って、歴史的に発生し、促進され、その課題の統制を得る、というのが、根本的な事実だからである。今更云うまでもないことであるが、自然科学は何かそれ自身の学問のイデーとか理想とかを追うことによって、発生したり発達したりするのではない。そうした科学的理念や真理の愛こそが、却って自然科学的意識の発達(ルネサンス以来特に著しい処の)の結果であって、この意識を産んだものは技術学的条件と要求とによって社会的に展開の必然性を受け取った限りの自然科学だったのである。自然科学の発達の結果が、技術学のより以上の発達の条件となり、従って生産力の技術性を発達させ、従って又社会に於ける生産技術水準を高める原因になるということは、勿論だが、自然科学がそういう程度にまで発達し得たということ自身が(今直接関係のない他の因子を除いて考えれば)、技術学的な条件と要求とに基いてのことであり、従って又生産力自身の技術的な条件と要求とに基いてのことである**。つまりその意味に於ける社会の技術的水準に結局は原因しているのであった。
* 知能(インテリジェンス)はインテリゲンチャ問題に就いての根本的な看点を提供する。インテリゲンチャが何等かの社会階級問題乃至労働運動の問題となり得るためにも、まずこの看点が掴まれなくてはならぬ。そうでなければインテリゲンチャの特有な社会的役割は没却され、ただの中間階級の不安や動揺という一般社会現象に還元されて了うことになるからだ。
** 自然科学が生産力の技術的与件と要求とによってその歴史的本質(そして之が自然科学の一科学としての存在の本質を告げているのだが)を決定される例は、エジプト・ギリシア以来、古来無限である。なぜなら殆んど凡てがそういう場合に帰着するからだ。だが著しい例としては工業技術とニュートンの物理学乃至微積分学との関係(その説明については前を見よ)や農業技術とC・ダーウィンの進化理論との関係を挙げることが出来る。ダーウィンの進化理論はイングランドに於ける園芸技術・畜産技術の発達の結果であるとさえ云ってもいい。ペー・ヴァレスカルンは云っている、「ダーウィンにとってはイギリスは農業用動植物の変異および淘汰の研究に関する古典的な国であった。イギリス工業の発達と共に、資本主義は農業においても鞏固化された。粗笨な経営は漸次集約的形態に代えられた。改良された耕作方法、農業へ機械の採用を宣伝し、農業用家畜の合理的な飼養を宣伝するために一群の団体が創立された。特に家畜の飼養に関しては大きな事業がなされた。これらすべてが豊富な実際上の材料を提供した」(「ダーウィン主義とマルクス主義」――前出の中)。ダーウィンの淘汰理論はイギリスに於ける家鳩の無数の変種を材料としている。之は云うまでもなく畜産技術上の成果である。
 技術学与件が自然科学を本質的に規定した例としては、ガリレイによる望遠鏡の改良と天文学、顕微鏡の発明と細胞の発見など、又一般に精密機械の作製能力と高温・高圧・高電圧其の他の可能とによる実験の異常な発達、及び夫による理論の高度の展開。――今日の一見最も「純粋科学」的に見えて非技術的に見える物理学的諸根本理論(相対性原則・量子論・原子物理学・其の他)も、実験用具と実験装置との技術的高水準を与件として初めて、科学上の根拠を有つことが出来た。
 技術学要求が自然科学的研究を動機づけ促進させることの例は枚挙に遑ない。例えば殆んど一切の医学生物学的研究(バクテリオロギーの如き)は医学技術(技術学)の所産であると云っていい。軍需的技術学からの要求が冶金・応用化学・食糧科学・農芸化学其の他に関する物理学的化学的理論を急速に発達させつつあることは、今日誰知らぬ者もない(次を見よ)。
 生産力のもつ技術性が自然科学を直接に制約する点を今挙げたが、之に次ぐものは生産関係による自然科学の制約である。生産力の技術性(特にその労働手段の体系)の内に一部分は数えることの出来るだろう交通関係が、ここにまず第一の規定者となって現われる。ダーウィンのビーグル号による航海はすでに有名である。船舶・航空機・其の他の交通手段の発達による新しい科学上の探索は、従来到底近づき得なかった研究上の材料を提供する(極地・高層上空・奥地・其の他の探険跋渉などによって)。交通手段による交通関係は、自然科学にとっては夫自身実験としての意義さえ持っているのである。
 戦争は(之は今日では資本主義の諸矛盾の一時的な強力的な解決法として大規模に愛用されるのであるが、その点は今仮に抜きにして)、一方に於て自然科学(但し無論自然科学に限らず一般に人類文化がそうであるが)のための経済的・社会的・人的条件を根本的に破壊するにも拘らず、特に自然科学に就いては、他の方面に於ては却って之を促進する最も有力な要因の一つになっている。このことは、注目されねばならぬ。戦争準備は自然科学に技術学上の膨大な切迫した要求を課し、戦争の実行は自然科学の一種の実験としてさえ、稀に見る大規模な又特有な性質を有っている。無論こうした要求と与件とによる自然科学の発達は、科学の健全な一般的発達を根本的に犠牲にして初めて得られる「発達」なのだから、つまりはそれだけ自然科学の不具的発達(?)であり、現に之によって、社会の大衆の日常生活にとって切実な技術学上の要求は、殆んど完全に蹂躙されて了う。にも拘らず之によって、自然科学が局部的にヒステリカルにでも「発達」するという事実は認めなくてはならぬ*。
* こう云う点を考慮に入れて云うならば、フランスの技術学的基礎を置いたものは軍需技術学を獲得すべくイギリスの技術を移植した砲兵将校ナポレオンだと云うことが出来る。ここからフランスに於ける(否世界に於ける)数学・力学・物理学の目ざましい発達が起こった。――明治初年の日本に於ける西洋式数学者や物理学者の多くは、海軍軍人だったと云われている。
 だが今日社会の生産関係は、世界の六分の五の面積に於ては、云うまでもなく資本制組織であり、或いは之に集約された限りの前資本主義的諸生産様式のものである。資本制の経済機構(政治機構其の他は後に見る)がそこで、自然科学にどういう原理的な制約を与えているかを見ねばならぬ。――処が実は、すでに見た生産力の技術性も、それに基く技術学的与件や要求も(交通関係も戦争事情其の他も)、どれも現実的にはこの資本主義的生産機構か、それでなければ、之に対立する社会主義的生産機構かに包摂されて初めて、自然科学に対して一定の規定機能を振うのであった。従って生産力の技術性や技術学それ自身が(交通関係や戦争事情も之に従って)、この生産機構の対立に相応して、根本的な対立を有っていたのである。資本制下の技術(普通そう呼ばれているが正確には他の呼び方が必要だった)と社会主義機構下の夫とでは、その社会的存在事情が非常に異ったものとして見出される。夫だけではなく、技術の発達という観点から云って、根本的に相反した条件におかれていることさえが発見されるのである。
 資本制下に於ては特定の資本主義的要求と与件とに従って(例えば軍需工業の好況などによって)、技術が局部的に他部面を犠牲にして不具的な発達をなす所以を先に述べた。だが、そういう一種の例外にぞくする部面は抜きにして考えると、資本主義下の技術は、資本主義それ自身の発達と共に発達を来したものであるにも拘らず、資本主義自身の発達が自分自身の矛盾の尖鋭化を意味するようになって来ると、その発達が自然に又意識的に、抑制されざるを得なくなって来る。発明・発見の成果は故意に放擲されたり(例えば特許権を独占することによって特許使用を全社会に向って禁止する大産業資本を見よ)、技術そのものの制限さえが提案されたりする(例えば機械の代りに人力を用いて失業救済をしようとする)。技術という観念そのものが不吉なものに思われ始める(技術文明の罪禍!)。技術学的与件と要求とは、だからこの場合著しく制限されざるを得ない。
 それだけではない。利潤追求を終局の目的とする資本主義機構に於ては、技術の発達なるものは実は生産技術の発達のことではなくて、結局は利潤追求の技術を高度に合理化すことでしかない。技術学的研究のインスティチュートは、現に多くの場合利潤産出の物的機関としての工場の一部にぞくしている。生産力の技術学的促進と見えるものは、資本制下に於ては、利潤追求機構の促進のための生産技術的努力でしかない。例えば改良された蚕種は、蚕の生命の安全率を犠牲にすることを免れないが、之は養蚕家(主として農民)にとっては極度に不利で、之に反し製糸業資本家にとっては極度に有利な「改良」の意味なのである。なぜなら製糸業者は、少数の合格した繭に就いてだけ貫当りの相場で養蚕家へ支払えばよいからである。――資本主義社会に於ては、もはや今日、技術乃至技術学の意味に於ける「発達」は不可能になっていると云っていい。だから、こうした状態に於ける生産力の技術性や技術学的与件乃至要求やによって制約される筈だった自然科学は、つまりそれだけ直接に資本主義からマイナスの方向に向って規定されざるを得ないわけなのである。
 社会主義的生産機構下に於て、技術・技術学・自然科学(医学・社会衛生・其の他の実証科学をも含めて)が、之と如何に異った条件の下に置かれているかは、世界が斉しく認めざるを得ない処である。ソヴェート・ロシアに於ける産業と科学の溌剌たる発達の事実は、全くこの社会主義的生産関係を、唯一の原因としているものに他ならぬ*。
* この点に就いては、恐らく外国人の書いたものの方が、資本主義的信用を有つだろう。クラウサー『ソヴエト・ロシヤの科学』(時国訳)、同じく『ソヴェト・ロシアに於ける産業と教育』(辰巳訳)、J. J. Trillat, Organization et principe de l'Enseignementen U. R. S. S.(Les relations entre la Science et l'Industrie)1933 参照。――なおソヴェートの技術と技術学乃至科学との関係については、『ソヴェート科学の達成』(岡・大竹・監訳)が最もよく説明している。
 次に政治権力が自然科学に及ぼす制約であるが、例えば日本などに於ける自然科学(即ち国家にとって須要な学術)の保護奨励の制度施設は、他の資本主義国に較べて、大体名目上の程度に止まっているように見える。資本家の「純粋」自然科学に対する援助も、日本の気短かな資本の利益にとってあまりに回り道に見えるので、大して捗々しくない*。そして軍義的工作に吸収されて了う国家財政は、自然科学の自然科学としての発達に実質的な援助を与える程の余裕をもはや残さないようにさえ見える。――だがこの現象は決して日本にだけ特有な偶然な事情ではない。之は世界の一切の資本主義国が、多かれ少なかれ採用しなければならぬ共通のコースに他ならない。ただ日本の場合、それが極めて特徴的であるに過ぎないのである(ナチ・ドイツのユダヤ人排撃による多数の有能な自然科学者の追放などは、論外としてだが)。――処で一方、レーニン等によれば、ソヴェート権力は全国電化と結合して初めて現実的な意味を得るのだった。ここでは政権と自然科学とは別なものではないようにさえ見える。
* 岩崎による理化学研究所、塩見による塩見研究所などが、その少数の例に過ぎない。そして之とても、少なくとも前者は、欧州大戦当時に於ける軍国産業奨励をその設立の動機にしていることは注目すべきだ。
 次に、社会の観念層=イデオロギーと自然科学との関係となる。自然科学はそれ自身一つのイデオロギーであるから、社会に於けるイデオロギーの他の分野と極めて密接な関係を有つことは改めて説明する迄もない。社会に於ける一般文化・思想・の動向は直ちに何等かの形でここに反映する。ルネサンス期に於ける文芸復興とヒューマニズムは、自然の自由な囚われない探究となって、自然科学の精神を形成したことは今更云うまでもない。マルクス主義は唯物弁証法として、今日の自然科学研究に対して新しい動向を与えつつある*。哲学上のマッハ主義は今日でも多くの「ブルジョア自然科学者」の科学精神を支配している。この種の諸思想がどういう機構を通じて自然科学を制約しているかに就いては次に述べるが、少なくともこうした制約のあるという現象は、今之を見遁すことが出来ない。――社会科学上の理論が自然科学を制約した例としては、マルサスの人口理論(資本主義がそれ自身に自然的な矛盾を持つことを初めて見抜いた正統派経済理論)がダーウィンの自然淘汰理論に示唆を与えたことが、挙げられるのを常とする。
* ソヴェート・ロシアを除いて、マルクス主義による自然科学的研究は、初めはドイツに於て最近ではフランスに於て、相当盛大だと見ていい。例えば A la lumi※(グレーブアクセント付きE小文字)re du Marxisme (Sciences physico-mathematiques, sciences naturelles, sciences humaines)1935 其の他に見られる如き現象に注目。日本ではこの種の研究はまだ極めて乏しい。
 以上は社会機構によって自然科学が如何に制約されるかという、自然科学の被制約性を概観したのであったが、云うまでもなくこの点は、自然科学が社会に於ける一イデオロギーである限りに於て、社会と自然科学との間の根本的な関係を示すものであった。社会に於ける一イデオロギーとしての自然科学が、第一次的に云って(尤も自然科学に限らず一般に科学乃至イデオロギーがそうなのだが)、社会から制約を受けることを常にその根本条件とするのは、当然だ。
 だが、今ここで、科学、ここでは自然科学が、単に社会的な一存在物であるだけではなく、元来夫が実在の反映、ここでは自然の模写、であったという根本的な約束を思い出さねばならぬ理由がある。自然科学の社会的規定、即ち之を一イデオロギーとして見る限り自然科学の社会による被制約性は、偶々この自然の模写に於ける科学的認識構成の一条件にしか過ぎなかった。で今この点を考慮に入れれば、自然科学は(一般に科学がそうだが)その社会的被制約性にも拘らず、なお依然として社会からの干渉を抜きにして、自然と直接取り引きしている筈であって、この取り引きに専心することによって、自然科学はそれ自身の内部的な必然性からして、即ち外部社会からの強制と独立に、歴史的発達を遂げたのだ、という一側面が残っているわけである。前には、自然科学の発達が技術(この言葉の意味は前に注意した)乃至経済・政治・他領域のイデオロギー・によって制約されたものだと云ったが、ここでは自然科学が、夫自身の論理によって、歴史的発展を遂げるものと解釈されねばならぬ。ここに自然科学の所謂自律性なるものが存するのである。
 処がこの場合、自然科学は実は単に自律的であることだけに止まらない。更に、やがて夫は他領域のイデオロギーや政治的・経済的・技術的・な領域やに向って、却って制約者としての機能を振い得る立場に立つことになるのである。――現に自然科学は夫自身の伝統を追うて発達する。そしてこの科学の諸成果は、逆に社会科学や哲学や一般文化や、更に技術や経済や政治問題に向ってまで口を利くのが事実である。――例えば進化論が社会理論乃至哲学へ与えた影響、又一般に自然科学の実証的研究態度とその成果とが他の諸科学や文化全般に(文学にさえ――自然主義文学)加えた制約、自然科学の研究による技術学乃至技術の進歩、従って又経済的乃至政治的条件への影響、其の他の多くの著しい諸現象は、ここに成り立つわけであった。
 だが併し、それにも拘らずこの諸現象は、之を再び、自然科学が社会的一存在としてもつ性質から見て評価しようとすれば、決して社会と自然科学との関係の第一次的なものを云い表わしてはいなかったのである。夫は、社会と自然科学との間の、極めて顕著であるにも拘らず依然として第二次的にすぎぬ処の、導出された関係でしかないのである。自然科学が、一つの社会的存在としては、一個のイデオロギー・上部構造である所以が之であった。
 自然科学はその理論内容自身の論理の必然に従って、歴史的発達をする。それは決して嘘ではない。――では自然科学的理論のかかる論理的展開(夫は自然科学にとって内部的な規定と見做されている)と、社会から来る例の外部的諸規定とは、どう関係するか。恰もここに、自然科学(一般に科学がそうなのだが)のもつ社会性・イデオロギー性の、根本的な問題が横たわる。と云うのはイデオロギー性とは、科学の社会性とその論理性とを噛み合わせた処の概念だったからなのである*。
 それはこうだ。
* イデオロギーは決して単なる社会学的範疇ではない、同時に論理学的範疇なのである。この点に就いては拙著[#「拙著」は底本では「拙者」]『イデオロギーの論理学』〔本全集第二巻所収〕を一貫して説明を試みた。なお「諸科学のイデオロギー論」(拙著[#「拙著」は底本では「拙者」]『イデオロギー概論』〔同上〕の内)を見よ。
 一般に科学に於てそうであるが、自然科学に於ても亦、科学の論理性が一等露骨に表面に現われるのは、その範疇と範疇組織とに於てである。研究手段から研究方法・叙述方法を通じて、実験的操作や統計的操作の運用に際してさえ、この方法としての論理が貫いているのだったが(前に夫を見た)、その集中的な表現がこのカテゴリーに於て現われるのである。自然科学の各領域は夫々方法的・論理的・な意味を有った諸根本概念(範疇)を持っている。物質・空間・時間・運動・力・場・生命・機能・法則・因果性・其の他がそうだ。こうしたものが自然界の現実の事物を指さしていることは云う迄もないが、それにも拘らずそれ自身は夫々一つの根本概念以外の何物でもない。だからこの各々の概念が一つの概念としてもつ意味に就いては、常に歴史的な変遷が可能でなくてはならぬ。従って又一般の文化・哲学・他の諸科学・等々で用いられる根本概念との連関に於てしか、之は一定の意味を得ることが出来ない。こうした次第で、この根本概念(=範疇)こそが、実在性と社会性とを表わす二重性の所有者なのだ。このものが本来もつ論理的機能が、自然科学の(一般に科学の)論理性と社会性とを噛み合わせ又媒介する。
 因果必然性の例を取って見よう。同じ因果必然性という言葉でも、夫を用いる範疇組織が異るに従って、その内容が全く別になる。機械論的(即ち又形而上学的・形式論理的)範疇組織による夫は、偶然性乃至可能性の絶対的な排除を意味する。そうした機械的な決定論或いは宿命論のための用語となる。之に反して弁証法的論理による因果必然性とは、寧ろこうした偶然性乃至可能性を一貫することによってしか実現しない処の、必然性のことだった。この例でも判るように、範疇組織のこの対立、形式論理と弁証法、機械論と弁証法との対立は、之を哲学的に換算すれば、結局観念論と唯物論との、思想上のイデオロギー上の、対立に他ならない。形式論理や機械論は形而上学と呼ばれるが、夫は観念論の最も一般的な規定の一つであるし、弁証法は唯物論に帰着しなければならないのが哲学史の教える処だ(ヘーゲルからマルクスへ)。そして更に、思想上の、イデオロギー上の、この対立は、直ちにブルジョアとプロレタリアとの社会階級的対立に帰属させられていることを見るなら、科学の実在模写の論理や認識構成の方法に於ける論理が、如何に社会の階級対立に照応していたか、ということが判る筈だ。
 すでに生産関係の階級的対立に包摂されることによって、技術乃至技術学を初めとして一切の社会規定が階級的対立に準拠する所以を見た。こうしたものが自然科学を制約するのであったから、社会による自然科学の例の被制約性は、実はその階級性と呼ばれるべきものだったが、処がそれが今ここに、その論理的な対応物・等価物を見出したわけである。――自然科学の対実在関係に於ける、又その一見自律的な独自の歴史的発展に於ける、論理(真偽関係)は、社会関係(階級的対立)となって表わされる、という結論である。
 以上は問題をわざと自然科学に限定して来たのであるが、殆んど全く同じ関係は、社会科学に就ても見出される。尤も社会科学が有つイデオロギー性・社会性、即ちその階級性乃至党派性は、自然科学の夫に比して、比較にならぬ程顕著であり、又その意義も重大であるが、このことは何もこの階級性乃至党派性なるものが社会科学(又哲学)にだけ特別なものだということを意味するのではない*。仮にブルジョア社会科学というものがあっても、ブルジョア自然科学などというものはありようがない、とそう吐き出す様に云う自然科学者は甚だ多いが、そう云っては済せない理由を私は先に述べた。之に反して、ブルジョア社会科学などというものがどこにあるか、と嘯く社会科学者があるとしたら、彼は恐らく現下の事情に於ては沢山の証明の責を負わねばならなくなるだろう。確かにこれだけの差が、自然科学と社会科学との間に横たわっている。
* 党派性は本来階級性の特殊な場合を意味すべき筈である。だが実際には二つはやや場合の違った側面を云い表わす慣例になっている。階級性は主として科学乃至理論の社会的規定を指す。之は階級主観に基く何らかの主観的性質を云い表わすと一応考えられている。党派性は之に反して、科学乃至理論の、理論としての首尾一貫性、その非妥協性と潔癖と云ったような客観性論理的規定を示すものと一応考えられている。――処が吾々によれば、この社会的規定と論理的規定とは内部的に噛み合ったものだったのだから、こうした区別は、今云った限りでは単に一応のものでしかない。ただ大切な区別があるとしたら、夫は党派性の方が階級性に較べて遙かに多く政治的活動を示唆する言葉だという点だろう。
 社会科学は生産関係の内部に関して、重大な利害の関心を有つ処の科学である。この利害がこの科学の出発点を形成すると共に目標を与えるものだとさえいうことが出来る。だがこの事情は、普通ブルジョア社会科学者や平板な常識が想像するように、社会科学の科学としての客観性を否定することを意味するのではない。現実の経済機構が人間の利害関係の組織であることは一つの事実である。そしてこの利害関係を科学的に分析するのが社会科学の第一段階であるということも一つの事実だ。こうした利害関係なるものがいつも科学の客観性と相容れないものでなければならぬと決めてかかることは、一つの先入見でしかない。利害が客観的に分析されることによって、利害でなくなるということは、理解出来ないことだ。問題はただ、主観的な勝手な願望や希望によって利害の客観的な認識が妨害される時に限って起きるのである。利害の客観的な認識が、主観的な利害意識と一致する時、利害はそのまま理論的真偽関係に合致するのである。社会科学の真理はこういう事情を伴っているのだ。
 社会科学も亦、客観的な歴史的社会的存在の、客観性を持った反映なのだから、自然科学の場合と同じく、矢張り自分自身、独自な科学としての自律性を有っている。そこから社会科学の超イデオロギー性や客観的公正・中立性などが推定される。無論夫でいいのであって、公正でなく主観的で偏頗なものなどは、元来科学ではあり得ない。処がこの客観的で公正で中立で超イデオロギー的・超階級的であることが、実はそのまま階級的対立を意味しているのである。と云うのは、対立した二つの科学的理論が、夫々同じく客観的で公正で中道を行くもので階級主観の利害などに従って利害関係の認識を歪めたりはしてはいない、積りでいるのである。――社会科学のこの階級性の故に、今日一般にプロレタリア的社会科学は、云うまでもなくブルジョア政治権力によって検閲統制の外部的な(之こそ外部的な)露骨な干渉を受けねばならない*。このような露骨な制約は、自然科学に就いては決して見られない処だった。
* 尤も今日厳重な検閲や統制を加えられるものは、必ずしも所謂「プロレタリア的」社会科学には限らない。ブルジョア自由主義的な理論もその例にもれない。そのことはドイツや日本の今日の文化事情が物語っている。之は資本主義的政治権力が必ずしもブルジョア自身の直接な政治権力を意味するとは限らぬ、ということに平行した現象なのである。
 自然科学と社会科学とのこの社会的制約に於けるこの種の差異が、夫々の研究対象の差異(自然と歴史的社会との差)に由来することは判り切ったことだ。社会科学ではその研究対象とその研究活動とが同一存在に帰着する。そこで社会科学の研究は一つの循環をなし渦巻きをなして、存在の客観的現実を離れて浮き上がる可能性を有って来るのである。であればこそ、政治権力によって折角科学としての権威を付与されていながら、実質に於て何等科学の資格を有ち得ないような諸社会科学?(例えばファシズム的・日本主義的・ブルジョア観念論的等々の社会理論?)も、科学に類似した発生をなし得る理由があるのである。――社会科学は著しくイデオロギッシュになることが出来る。というのは、デマゴギッシュになることが出来る特権を有っているということだ。
 処で社会科学と自然科学との区別は之で一応いいとして、両者の連絡を与えるものは何か。夫は自然と社会との切り合った処、かの技術的なものの領域である。技術的領域は単にこの二つの科学の共通の研究対象を提供するだけではなく、両者の範疇組織の間の媒介をなす機能を持っている。というのはすでに前に述べたように、一切の範疇組織は、それが現実を現実的に処理し得るものであるためには、技術的範疇の性質を持たなければならなかったのだが、その地盤を提供するのが恰もこの技術的領域だったのである。
 だが何と云っても観念は自由である。社会に於ける或る勝手な主観的な、即ち観念的な利害乃至要求は、イデオロギーを或る程度まで自由に強要することが出来る。イデオロギーが又そういう強要によって或る程度まで動かされる自由を持っている。そこで勝手にこの技術的領域から離れ、自然科学に於ける範疇組織とは完全に独立して、超技術的・反技術的・非技術的な社会科学的範疇組織が、観念的に自由に成り立つことが出来るというのが事実である。この現象は社会そのものという統一体から見れば、一つの内部的な分裂だが、不幸な社会に於てはこの種の分裂は避けがたいし又あまり目立ちさえもしないのである。かくてこの種の社会科学(?)は自然科学と全く絶縁する。社会そのものは自然から絶縁し得ないにも拘らず、それらについての認識の方はバラバラになっていいということになる*(もし自然を絶縁したら社会の生産機構はその瞬間に停止するのであるが)。
* こうして自然科学から「自由」になった思想が、実は極めて不自由な思想だということは、興味のあることだ。アラビア人は解剖する自由を持たず、蒙古人は耕作する自由を持たない。無数な死屍と無限な土があるにも拘らず、科学的知識から自由な彼等の思想が、夫を禁止するのである。
 科学の社会的規定は一通りこうだとして、今特に科学の大衆性に就いて分析しておく必要がある。というのは、科学は社会に於けるイデオロギー・上部構造であったが、この社会的所産は、社会が所有する一種の財産(文化財とも呼ばれる)の性質を持っているのである。今この財産の所有関係から、科学を見よう。
 エジプトやインドに於ては、科学乃至学問(一般に文化が凡てそうなのだが)は僧侶階級のものであった。僧侶は云うまでもなく支配階級にぞくする。古代支那に於ける学問も亦、主として支配者――君子・士大夫――のものであった。ギリシアの科学乃至哲学は比較的大衆化された所有者を発見したが、併しそれにも拘らず、奴隷経済の上に立つ支配者自由民のものであったことは云うまでもない。ヨーロッパの中世には僧侶と貴族との科学しかなかった。このようにして、元来、科学(一般に文化も亦)は決して人類全般、社会全般のものではなくて、或る特定の而も支配的な社会階級乃至社会身分の、占有物だったのである。
 無論科学は時代の常識的平均を踏み越えようとする努力を含んだものであるから、どんな能力の人間にでも向くというものではない。科学が選ばれた少数の者によって創られ展開されるということは、恐らくいつの世でも当り前のことだ。だが問題はそういう個人の能力如何に関係しているのではなくて、そういう個人が一体どういう社会階級乃至社会身分にぞくするかということにあるのである。科学を所有し従って又之を利用(みずからのために又他に対する支配のために)する社会層が何か、ということだ。そして夫がいつも政治的な支配権を握った社会層だというのである。ローマ時代には学問奴隷があったように(或る奴隷はホメロスを暗誦させられ他の奴隷はヴェルギリウスに任命される、マルクスやレーニンを引用するように、この奴隷所有者は会話中時々このホメロスやヴェルギリウスに発言を命じる)、又中世貴族が宮廷詩人を召しかかえたように、科学に直接従事するものも一切の階級の内から見出されるのではあるが、併し科学の所有者・占有者はこの「科学者」自身ではなくて、彼等の主人達なのである。
 科学が支配者の占有物だというこの一見非文化的な社会現象は、資本主義の文化に這入っても少しもその本質を改めなかった。資本制によって支配壇上に登場したものは、少数の封建君主・貴族・僧侶達に代った多数の市民であったが、併しそれにも増して多数の無産者が、依然としてそして又愈々、被支配者の深い層を形成しなければならなかった。之が今日の科学の所謂ブルジョア的階級性に他ならない。――階級的社会支配が存在する限り、科学は支配者の占有物に止まる(少くとも夫が対立科学―― Oppositionswissenschaft でない限りは)。即ちその限り科学は大衆化されず大衆性を有つことが出来ない。
 だが科学の大衆化・大衆性と云ったが、之は必ずしも科学の通俗化のことでもなければ、まして又卑俗化のことでもない。元来通俗(popular)ということは、支配階級自身を標準として計った社会全般(people)の平均値のことであって、従ってブルジョア社会に於て通俗と呼ばれるものは、実はブルジョアジー自身の通俗性を物語るものに他ならぬ。処がこの支配者層は今も見たように、決して社会大衆ではなかった。――又卑俗ということが、この通俗ということを感情的に云い表わした一つの表現である限りは、この言葉も亦支配者的観点に立ってしか内容を持たないものである。云うまでもなく之は大衆性とは全く別な規定だ。
 大衆化とは併し、科学なら科学という事物を、与えられた多数者平均水準にまで近づける(恐らく低めることによって)ことではなくて、却って、与えられた多数者をこの科学にまで近づけるべく(恐らく高めることによって)組織することである。大衆化とは多衆組織化することだ。多数者を大衆にまで組織化すことによって、初めて科学がこの大衆みずからのものとして所有され利用されるということが、科学の大衆化・大衆性の唯一の意味なのである。だから例えばブルジョア科学を大衆化すると云ったような言葉は、元来無意味なので、ここから、唯一の大衆的科学は所謂「プロレタリア科学」の他にはあり得ない、という結論にまで来るのである*。
* 科学の大衆性に就いては拙著『イデオロギーの論理学』〔前出〕にその項目がある。――なお科学の大衆性に因んで、啓蒙という概念を参照して見なくてはならぬ。元来歴史上の用語としては、封建的要素がブルジョア的自由を呼吸することが啓蒙の意味であったが(啓蒙的自由思想家・啓蒙君主・等々)、今日では封建的要素乃至ブルジョア市民的要素がプロレタリア的自由を呼吸するということに、之が転用されていると見ていい。こうなれば科学の大衆化と啓蒙との間には、実質上殆んど何の相違もないことになる。啓蒙とは云うまでもなく、蒙を啓くというような、支配者による被支配者の教育を意味するのではない。恰も科学の大衆化が、無知な庶民に向って知識を与えるためのポピュラリゼーション(通俗化)などとは別であったように。
 科学の大衆性・啓蒙、それから之等と区別された科学の通俗化や卑俗化、の問題に触れたが、最後に、常識と科学との関係を明らかにしておかなくてはならない。――古来科学は常識に対立させられて来た。例えばギリシアに於ては、アテナイなどに於けるデモクラシーにも拘らず、否そのデモクラシーの行きづまり故に、哲学は貴族的にも常識から引き離されねばならぬと主張された(プラトン)。近世に於けるブルジョア・デモクラシーの台頭とその政治的役割の重大化と共に、政治的常識としての世論は社会に於て可なりの勢力を有つ観念的な力となったが、それにも拘らず科学の専門的知識は、依然として素人の常識と対立させられている。――つまりいずれにしても、常識は科学的(即ち専門分科の)知識に較べて、低い至らない不完全な知識だと仮定されているのである*。
* 常識に関する理論的研究は必ずしも多いとは考えられない。『常識の哲学』(例えばT・リードなど)は社会的意識としての所謂常識の問題を提起しない。この種のものは多く、常識を分析する代りに常識を原理として使用する哲学である(例えば H. F. Link なる人の Philosophie der gesunden Vernunft, 1850 という書物もあるが、矢張りそうだ)。――常識の多少の分析については、拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕の該当項参照。
 だがこうした規定は、必ずしも間違いではないまでも、常識の単に消極的な一面をしか見ない処から生じた偏見であることを免れない。もし本当にそうならば一つの(政治的な)常識である世論などは、専門的な政治学の面前では何等の意味を有ち得ない筈だ。ブルジョア政治家は国務の専門家としての官僚の前に色を失わねばならぬ。――して見ると、常識と呼ばれているものには常識独特の、自律性と権威とがなくてはならぬ筈だろう。之を認めたがらない者がいるとすれば、夫は封建貴族的な科学の占有を望んでいるアカデミシャンの執着からででもあろう。
 科学と常識とは単純に同一平面に於て対立するものではない。まして上下の体統関係に這入っているものでもない。両者は社会に於けるイデオロギーの切断面を異にしている。科学は研究を、之に反して常識はクリティシズムを、その切断面としている。一方は結論を他方は見識を、目指す。科学はアカデミー(支配者的な又は在野の又は対立科学的な)のものであり、之に反して常識はジャーナリズムのものだと云ってもいい*。
* ジャーナリズムの意義に就いて今茲に述べる余裕のないのは残念である。ジャーナリズムの観念程今日鈍重に機械的にしか理解されていないものは、又とない。甚だしいのになると、之をブルジョア的大出版事業や之に基く文筆稼業のことだと決めてかかる場合さえあるのである。だがジャーナリズムの歴史的な本質はクリティシズムと常識とへの関係の内に横たわる。その社会的現象形態のごく現象的に著しいものが今日のブルジョア社会に於けるそうした所謂「ジャーナリズム」であったに過ぎない(ジャーナリズムについては、拙著『イデオロギー概論』と『現代哲学講話』〔いずれも前出〕の内を見よ)。
 尤も或る一人の人間に就いて、彼が学者であるかジャーナリストであるか、学究家であるか批評家であるか、を決定することは困難であるばかりでなく又無意味でもあるように、常識と科学との実際的な連絡はこの区別によって払拭されるのではない。両者の連関の個々の項目に就いては今は省略しなければならないが、それにも拘らず、少くとも、常識を如何に常識として蓄積しても夫だけでは専門の科学的知識は高まらないと同じに、専門の科学的知識を科学的知識として如何に蓄積しても、夫だけでは常識は決して高まりはしない。専門家であればある程非常識になるということもなくはない。――で、常識は普通考えられているように、何か平均的な科学的知識などではないのである。即ち何かそれだけ不完全な至らない低度の知識のことではないのである。仮にもしそうだとすると、常識そのものの高低ということは不可能になるからだ。平均の平均とは無意味である。高い常識ということは矛盾でしかなくなるからだ。それより寧ろ常識は、与えられた諸知識の周到に統一的な、そして日常的社会生活に就いて最もアクチュアル(現実的=時事的、時局的)な、総合のことでなくてはなるまい。
 それ故こういうことになる。科学が社会に於て日常的となりアクチュアルとなるためには、科学は常識化されねばならない、と。そんなことは判り切ったことで、同語反覆にすぎぬではないか、という人がいるかも知れぬ。だがそうではない。ここで常識化というのは、必ずしも科学の例の大衆化のことでもなければ啓蒙のことでもない。まして例の通俗化のことでもない。そういう連関に於ける関係はその場合に論じたのであって、今はもっと別な場面に就いて述べているのである。――科学の常識化とは、クリティシズム(批評・評論)の立場から、即ち私が想定する限りの意味に於けるジャーナリズムの立場から(ジャーナリストの最後の意味が評論家にあるということは広く認められている)、つまり要するに常識の立場から(無条件に科学自身の立場から、ではない)、科学そのものを、科学の諸成果を、取り上げることを云うのである*。
* 評論はその対象が科学であろうが何であろうが、いつも文学的乃至モーラリスト的な資格を有っている。之が普通の研究論文などと異る点だ。そして又ここに、文学が他の文化領域相互間の媒介者として有つ普遍的な機能があるのである。――文学は小説や詩や戯曲のことばかりではない。科学時評なるものの意味さえも亦、ここに明らかである。
 この意味に於ける常識化によって初めて、科学は単なる科学自身の立場からは判らぬその社会的機能を明らかにされる(科学が社会的に存在し得るのは、云うまでもなくそれが一定の欠くべからざる社会的機能を営むからだ)。科学と他の諸文化との連関も亦、ここで初めて問題として正当に提出されるのである。文明批評の観点を離れて科学の批評は不可能だ*。こうした「常識化」の手続きを経ないで、直接無条件に科学そのものの切断面から社会や文化を議論しようとするから、科学専門家の哲学や世界観が往々にしてナンセンスに陥らざるを得なくなるのである。
* この『科学論』自身も亦、こういう観点に立って初めて意味を有つのである。
 科学の常識化、科学に対する評論、之は恰も近代哲学の最も好んで取り上げたテーマである。だからそういう哲学は多くクリティシズム(批判主義)を名乗ったのだった。但しこの種の(ブルジョア観念論的)科学批判が失敗しなければならぬ所以を、吾々はすでにこの書物の初めの部分に於て見た。だが今にして云えば、その場合の科学の批判に於ける、常識化のその常識自身が、単に「哲学的」なアカデミーのもので、まだ評論的な資格を有つに至っておらず、従って例えば、科学の大衆性などに就いて何等の見識をも有ち得なかったからだったのである。つまり科学の社会階級性を抜きにして科学を批評し得ると考えるような科学批判は、科学の「哲学的」批判ではなかったということである。

 さて、以上科学の社会的諸規定に就いて見て来たが、大事な点は、この社会的諸規定が、科学の論理的規定と噛み合わされた夫の等価物だった、ということである。社会的規定と論理的規定とは独立な二つの規定ではない。云わば対立した而も一個の規定だったのである。――だから科学のこの社会的諸規定は又、科学の方法(夫は科学の論理的規定を代表する)と独立なものではなかったわけで、科学の社会規定と科学の方法とは、之亦、科学の云わば対立した而も一個の規定だったのである。吾々は夫をすでに、科学に於ける認識構成という名で呼んでおいた。
 処で科学に於けるこの認識構成が、科学に於ける実在の模写の実質であることは最初に述べた。ここでも亦二つは、対立した而も一個の規定だったのである。そしてこの最後の規定が、科学の世界科学的世界である。そこには、実在科学の方法科学のイデオロギー性対象という、科学の体系が実現される。つまり実在の反映としての科学の全貌が、そこにあるのである。自然科学的世界としては自然弁証法自然唯物論と呼んでもいいかも知れぬ)、社会科学的世界としては史的唯物論唯物史観歴史弁証法と呼んでもいいだろう)。最後に之を見よう。
[#改段]

  六 科学的世界


 科学が実在を認識(=模写・反映)する最後の段階、その総結果、夫が科学の「世界」、科学的世界である。之は科学的諸世界像の統一のことであり、科学的世界観の客観的内容のことである。実在そのものが唯一無二の世界である通り、之も亦唯一無二のものでなければならぬことが、その理想である。客観的真理の内容が之だからである。――処が、存在が自然と歴史的社会とに区別されるように(そして区別の実在的根拠とその連関とをすでに述べた)、科学も亦自然科学と社会科学(之には歴史科学其の他が含まれる)とに、根本的に区別されねばならぬ。その所以も亦すでに述べた。そこで科学的世界も亦、自然科学の夫と社会科学の夫とに、一応根本的に区別されることが出来る。前者の特徴を云い表わすものが自然弁証法で、後者の特徴を云い表わすものが史的唯物論(唯物史観)である。
 自然弁証法と史的唯物論との連関は、他ならぬ唯物弁証法乃至弁証法的唯物論によって与えられる。正当な意味に於ける唯物論、或いは正当な意味に於ける弁証法が、両者の統一媒介を可能にする。そういう意味に於て、自然弁証法と史的唯物論とは、弁証法的唯物論の、夫々自然と社会とに就いての、二つの部門であると云っていい。――だがここにすでに問題が横たわっている。
 云うまでもなく吾々は、唯物弁証法一般なるものを考えることが出来る。吾々は之を使って物を考え又物を云わねばならぬと考える。之は明らかに、まず第一に思惟の法則としての唯物弁証法だ。処でこの思惟法則が自然に就いての自然科学と、社会に就いての社会科学とに、夫々適用される時、夫が自然弁証法と史的唯物論だ、という風にも考えられる。つまり唯物弁証法には三つあって、思惟の弁証法と、之が特殊化(具体化・適用・其の他)された自然の弁証法と、社会の弁証法とに区別される、ということになる。
 だがこの云い方には或る根本的な誤りを暗示するものが含まれている。云い方は実はどうでもいいのだが、その云い方から惹き起こされる色々の帰結に、重大な誤謬が混入して来るのである。元来思惟が思惟であるためには、ただの観念や表象や又空想であってはならないので、云うまでもなく認識でなくてはならぬ。と云うのは、実在の反映・模写でなければならなかった。そうすると、思惟一般の根本法則(夫が唯物弁証法一般だったわけだが)は、無論この実在の根本法則に照応すればこそ、初めて思惟の根本法則でもあり得たわけだ。従って、思惟一般は、最初からそれ自身としてまず横たわる処のものではなくて、却って実在の具象的な諸認識、人類の総経験、の歴史的所産として初めて抽出された、一結果に他ならない。之は一切の認識がそれに基く処の想定ではあるにしても、この想定自身が却ってこの一切の認識の所産だったのである。して見るとここから明らかなように、思惟一般の弁証法がまず第一にあって、夫が自然に関する又社会に関する思惟にまで適用されて初めて、自然弁証法と史的唯物論とが成立するかのような云い表わし方は、何と云っても誤りでなくてはならぬ。
 実はまず初めに自然弁証法と史的唯物論とが何等かの過程を通じて(ここにも亦同じ形の問題が伏在しているが)、成り立つべきであって、それからの抽象物として初めて、思惟一般の弁証法が成り立つ、という風に云わなくてはならぬ。そうしないと、認識=思惟が実在の反映であるという唯物論的な認識理論の根本が、正当な権利を主張出来なくなるからだ。つまり夫だけ弁証法に対して観念論的な見解を混入することになるからである*。
* 思惟一般の根本法則としての唯物弁証法一般をまず想定しておいて、之を自然に対する思惟(自然科学)や社会に対する思惟(社会科学)に適用しようと考えれば、それが可能であるためには、弁証法はこの二つの科学に於ける天下り式の方法である他はなくなる。科学に於けるこの天下り式方法を自然弁証法や史的唯物論だと見做すのが、デボーリン主義として批判された方法論主義である。――だがこのことは、自然弁証法や史的唯物論が持っている科学の実際的な方法としての意義を、少しでも軽んじるということではない。科学の方法によらずには何等の科学的世界も成り立たない。科学的世界に於ける方法の最も重要な役割を見落すことは全くのナンセンスであるが、従って、科学的世界を特徴づけるこの自然弁証法や史的唯物論が、科学的研究に於て持っている実際的な方法としての役割を忘れるならば、之又全くのナンセンスである。デボーリン自身は、方法論主義だといわれるにも拘らず、却って科学に於ける実践的研究方法の意義を強調し得なかった。夫が所謂客観主義に堕する所以である。彼は科学に於ける弁証法的方法を、単に、対象の発展過程をひたすら複製すべく観想する処の客観的方法だと云っている(N. Adoratzki, Lenin, Aus dem philosophischen Nachlass-Einleitung)。
 自然弁証法や史的唯物論なるもの自身が併し、すでに実は自然科学や社会科学に於ける思惟を一般的に云い表わしたものだった。夫はその限り丁度思惟の弁証法がそうだったように、夫々の個々の具象的な科学的諸認識から抽出された産物としての一般者だった。で思惟の弁証法(唯物弁証法一般)が自然弁証法や史的唯物論に先立つと考えてはならなかったように、後の両者は又夫々、自然科学的諸認識や社会科学的諸認識に先立つことは出来ない筈だ。自然弁証法や史的唯物論がまずあるのではなくて、そういう諸科学の一般的な思惟法則(だが之は実は又自然や社会そのものの法則でもあったのだが)を産む処の、個々の科学的諸認識が(個々の自然現象や個々の社会現象が)、まずあるのである。
 だが夫にも拘らず、自然や社会の個々の諸現象の経験から、一定の個々の科学的諸法則が抽出され、そして今度はこの個々の諸法則が却ってその後の経験を指導・統制・統一して行くのでなければ、科学的進歩はないが、丁度夫と同じに、こうした個々の経験及びこうした個々の諸法則から、科学的な一般的根本法則としての自然弁証法や史的唯物論が抽出導来された揚句は、却ってこの自然弁証法や史的唯物論が、その後の個々の経験と個々の科学的諸法則とを、指導・統制・統一して行くことが出来る筈であり、又そこまで行くことが諸科学の認識にとって絶対に必要なのである。――今日の科学は、たとえば自然科学などの例で明らかなように、まだ必ずしも専門家によって之を自覚される処にまで行っていない。之は却って寧ろ、自然科学の特殊現象で、夫が異常に急速に発達した(十九世紀後半を一期として二十世紀の今日までを二期として)結果だと見るべきだろう。が之によって自然弁証法という統一的な自然科学的世界のシステムが不可能であったり不用であったりすることにはならぬ*。自然科学は今に、みずから自然弁証法の不可欠な必要を、自覚せざるを得なくなるだろう。尤も実際には、之まででも又現在でも、自然科学者自身の自意識如何に拘らず、自然科学に於ては自然弁証法が必要にされているばかりでなく、現に不完全な形で以てさえ、敢えて用いられているのであるが。
* 自然弁証法は体系を持たない、と主張する人があるかも知れぬ。だがその意味は固定した図式を持たぬということであって、展開し連関する機構を持たぬということではあり得ない。そして後のものこそ、本当のシステムの意味だ。雪達磨は固定した図式は持たぬ、であればこそ転がる過程に於て自分自身を太らせて行くシステムを持っている。科学に於ける体系はいつもこの意味のものだ。だから体系方法とは、本質上同じだということを注目しなければならぬ。――後の参考のために。
 こうした根拠に基いて初めて、吾々は自然弁証法や史的唯物論を、一般的に語る権利を受け取る。丁度吾々が、唯物弁証法を一般的に(思惟一般の弁証法として)論議する事がいつも可能であるように。――だがこのことは、もう一遍断っておきたいが、唯物弁証法一般を「具体化」(適用・応用・特殊化)すことによって自然弁証法や史的唯物論を導き出して、それから之を論議しようということではない。正にその逆である。丁度、自然弁証法とか史的唯物論とかいう抽象物を具体化すことが、この意味に於ては無意味であって、実は自然科学や社会科学の諸認識内容を、自然弁証法や史的唯物論に迄体系的に発展させ、ただその意味でだけ之を具体化す事によって、却って、初めて自然弁証法や史的唯物論を抽出し得るように*。夫々の科学的認識を体系化し発展させることによって、そこから抽象し出されるという意味に於て、自然弁証法と史的唯物論とは、夫々自然科学的世界と社会科学的世界との、特徴(そういう抽象された代表部分)を云い表わす、というのである。
* 自然弁証法の「具体化」が自然弁証法という与えられたテーマ話題を具体的にするということであれば、それはそれでいいのであるが。
 では自然弁証法と史的唯物論との連関はどうなっているか。――云うまでもなくそれは自然と人間史的社会とを、自然史が貫いている、という実在の連関に帰結するのである。進化論(博物学的自然史)が自然弁証法の最も現象的に見易いそして又最も含蓄のある場合であるのだが、史的唯物論はマルクスの有名な説明によれば、人間社会に関するそうした自然史(博物学)とも云うことが出来る。無論両者に於ける根本的な区別は限りなくあるし、又実は極めて重要なのではあるが(そうしないと生存競争や自然淘汰で社会現象を説明されたりしては無産者は泣き面に蜂だ)、併し両者に於ける根本的な同一(対立を貫く同一)が今必要だ。弁証法的唯物論に立てば、このことは常に忘れることを許さない根本テーゼであった。
 処が、或る種の「マルクス主義者」達は、史的唯物論以外に弁証法的唯物論を認めようとしない。即ち自然弁証法(エンゲルスの言葉をそのまま使えば「自然の弁証法」)は之を認めないのである*。或いは一応認めるにしても、之を自然科学という人間社会の歴史的所産(イデオロギー)に於ける弁証法として認めるか、そうでなければ、自然に関する弁証法という人間的認識乃至主観的態度としてしか認めない**。自然そのものに弁証法があるとか、弁証法が自然そのものの根本法則であるとか、云うのは、弁証法を不可知なものにする神秘化であって、却って形而上学的な仮説でしかない、というのである。
* G. Luk※(アキュートアクセント付きA小文字)cs, Klassen und Bewusstsein や K. Korsch, Marxismus und Philosophie, 所謂三木哲学、などに見られる唯物史観主義が之である。ここから又、マルクスは深遠であったがエンゲルスは浅薄であるとか、マルクスとエンゲルスとでは見解が矛盾しているとか、という批判も発生する(因みに、マルクスが自然科学に就いて無関心であったという種類の見解が、如何に理由のないものであるかは、リャザーノフがエンゲルス『自然弁証法』の解題で証明している)。――エンゲルスは「自然の弁証法」の他に「弁証法と自然科学」「自然研究と弁証法」というような表現を用いている(前出リャザーノフの「解題」参照)。なおE・デューリングは『自然的弁証法』(nat※(ダイエレシス付きU小文字)rliche Dialektik)なる書物をエンゲルス以前に書いている。
** 弁証法を主観と客観との間に於てしか認めない田辺元博士や西田幾多郎博士の理論は、之にぞくするか又は之に帰着する。前者はその意味に於て、「自然の弁証法」は認めるが所謂「自然弁証法」は成り立たないと主張する。
 のみならずこの種類の意見が、自然科学者自身によっても、最も屡々懐かれるものだという点は、注目に値いする。自然弁証法であろうと無かろうと、自然弁証法を用いようと用いまいと、夫が自然科学の研究にとってどれだけの違いがあるのか。自然弁証法などというものは元来有害であるし、もし又仮に有害でないとしても、少なくとも無用の長物ではないか、と多くの自然科学者はいうのである。こうした自然科学者の常識的な見解は、云うまでもなく、例の自然弁証法否認論者の一つの支柱となっている。――併し私は今はここでこうした自然科学の専門家達の、職業的な蒙を啓こうとは思わない。それは事実決して容易な仕事ではないからだ。又私はここに弁証法的唯物論の定説を展開する余裕を有たないから、弁証法的唯物論の歪曲に基く処の、例の自然弁証法否定論者を説得しようとも思わない。私は寧ろ逆に、何故自然弁証法が成り立ってはならないと考えねばならぬか、の説明の責を彼等に負わせる権利を有つと思う。なぜなら、一体彼等は、統一的な自然科学的世界観をば何と名づける心算なのだろうか、と問いたいからである。今私が説明の責を負うべきものがあるとすれば、夫は自然弁証法と史的唯物論との連関に就いてである。
 自然弁証法は自然科学的世界を云い表わすものであったが、この科学的世界なるものは、元来実在を模写した最後の帰着点であった。だから自然弁証法は、自然そのものの科学的なコピーの畢極ひっきょく段階であった。従って自然弁証法はまず第一に自然そのものの根本的な一般的な規定を指示し云い表わさねばならぬ。それはまず第一に自然の最も根本的な普遍的な法則(之を広くその運動法則と云っていい)を意味する。自然の畢極段階に於けるコピー一般が自然弁証法だったから、自然そのものがこの弁証法を、その根本的な一般的な規定として、即ち法則として、持っていなければならぬというのである。その限り、之は決して歴史的社会にぞくするものではなくて、存在上それに先立つ処の自然そのものにぞくする。
 もし自然そのものにない処の弁証法が、自然科学的世界の根本特徴をなすというようなことがあるならば、自然科学は自然そのものとは全く別個な何ものかを特徴づける処の科学になって了う。自然科学はどういう権利を以て、自分自身が与え自分自身が特徴づけるものが、自然そのものではないということを証明し得るのだろうか。
 処がそれにも拘らず、自然弁証法によって特徴づけられるこの自然科学的世界は、科学的方法と科学の社会的諸規定(含蓄ある意味でのイデオロギー性)との、人間史的所産であった。して見れば自然弁証法は、単に自然そのものの根本的一般法則であるだけではなく、自然に関する認識の、自然科学の、根本原則でなくてはならぬ。即ちこの場合の自然弁証法は、一方に於ては自然科学の一般的な方法(従って又体系)を指し示すと共に、他方に於てかかる方法による体系としての自然科学が一つのイデオロギー(社会構造に於ける上層の存在)にぞくする所以をも、その内に含蓄しているわけである。でこの点から規定すれば、自然弁証法は、自然そのものの弁証法であるばかりでなく、自然科学の弁証法だと云わねばならぬ。――而もこの二つの規定(自然そのもののと自然科学のとの)が同じ自然弁証法自身だという点に、自然弁証法なるものが自然科学的世界(それは自然という現実の世界の最後のメーキァップに他ならぬ)を特徴づける所以が存する。
 自然科学の(一般に科学の)方法も、第一次的には自然現象そのものから、併し第二次的には自然科学の社会的規定・イデオロギー性によって、規定される、ということをすでに述べた。だから、この「自然科学の弁証法」としての自然弁証法は、その方法としての規定の一部分までも入れて、イデオロギーとして限定されている処のものに他ならない。之はその限り、歴史的社会的存在=社会にぞくする重大な側面を、常に保持している。――でそうすれば之は明らかに史的唯物論の内容にぞくする側面を手離すことが出来ない約束の下に置かれている、ということになる。ここに自然弁証法そのものの内に、史的唯物論の一部面と一致するものが存するという、第一の連関が横たわるのである。――自然科学は一つのイデオロギーであった。従ってその限りその弁証法は直ちに史的唯物論にぞくする。
 だがそれだけではない。元来自然と社会との自然史的連関づけの仕事は、他ならぬ労働の役割だったのである*。自然が発展して人間的社会にまで上昇するのは、つまり猿から人間を区別するものは、労働(生産の又生産手段生産の)なのである。そしてこの労働の諸手段の体系が技術的なるものであることはすでに述べた。であるから自然と社会との自然史的連関は、この技術的なるもの(便宜上「技術」と呼んでおく――但し夫が正確でないことに就いては前を見よ)を介して成り立つ。従って又、自然が社会の内にとり入れられるのは、正にこの技術によってなのである。自然は社会に存在する技術によって部分的に順次にマスターされる。だから自然と社会との云わば社会的な連関も亦、この技術を介して与えられる。――自然科学の弁証法としての自然弁証法に含まれる例の社会的規定性・イデオロギー性も亦実は、この技術と離れては考えられない。
* エンゲルス「猿の人間への進化における労働の役割」(エンゲルス『自然弁証法』上――岩波文庫――の内、或いは Marxismus und Naturwissenschaft―herg. von O. Janssen――の内)参照。――だが技術主義に陥らぬために断わっておかねばならないが、之は必ずしも「技術の役割」と一つではない。
 と云うのは、自然科学は技術学と本質上の同一性を有っている。云うまでもなく両者は技術を離れては成り立たなかった。処がこの技術的なるもの――労働手段の体系――は恰も社会科学の対象であり、従って史的唯物論の一内容に他ならない。だから自然科学の弁証法としての自然弁証法は、この技術的なるものを介して史的唯物論の一部分と合致する処の重大な一側面をもっている、というわけになるのである。――之が自然弁証法と史的唯物論との第二の連関である。
 処がこう云って来ると、自然そのもの自身が、一つの新しい規定をつけ加えられねばならぬことになるのである。なぜというに、史的唯物論と自然弁証法(自然科学の弁証法)との両者にぞくする共通領域であった技術なるものは、他でもないので、実は自然そのものをマスターし之を変革する処の技術の領域だったからだ。ここに技術によってマスターされた限りの自然なるものを考えなければならなくなる。之は云うまでもなく依然として自然そのものなのだが、夫にも拘らず、それが技術によってマスターされた限り、ただの自然ではなくて、社会の物質的基底であり又社会的存在にぞくする自然でなくてはならぬ(発電所や植林、道路・橋梁・堤防・築港など)。明らかに之は自然そのものと社会との共通領域である。
 そうすれば、例の自然そのものの弁証法も亦、この部分に於ては、史的唯物論の一部分と実質に於て別なものではない。史的唯物論の一部分が自然弁証法にぞくすると共に、自然そのものの弁証法の一部分が、又史的唯物論にぞくする、ということになる。之が第三の連関である。
 (処でこの第三の連関から結果することは、自然そのものの弁証法の一部分が――併し全体がではないことを忘れてはならぬ――このようにして史的唯物論の一部面と相蔽うことによって、自然科学乃至技術学の弁証法の一部分と、実質に於て別なものではなくなる、ということである。――之が自然そのものの弁証法と自然科学の弁証法との、連関である。)
 自然と社会とは自然史的な一貫した連関を持っていた。そこから自然弁証法と史的唯物論との連関が、一般的に、必然である筈だった。今その内容が、右に述べた通りだったのである*。
* 自然科学的世界としての自然弁証法に就いて、その反映としてのモメントに重点をおくか(realiter)、構成としてのモメントに重きをおくか(idealiter)によって、自然弁証法と史的唯物論との比重が異って来る。前の場合には自然弁証法は勿論史的唯物論の基礎である。だが、後の場合には、自然弁証法はその時局的にアクチュアルな内容に於ては、却って史的唯物論によってリードされることになる。マルクスによって史的唯物論の方がまず大成されたという関係は、この後の契機から説明されねばならぬ。――だが科学的認識の発達が、つねに、対象手近かな吾々にとっての姿から、対象のそれ自身に於ての姿にまで、溯及する本質をも持っているということを、忘れてはならぬ。
 さてまず初めに、自然弁証法に就いて簡単に述べよう*。
* 自然弁証法に関する典拠は、エンゲルス『自然弁証法』・『反デューリング論』、レーニン『唯物論と経験批判論』(何れも岩波文庫版訳)であるが、一般の唯物弁証法の教程の一部としてあるものは別にして、独立のテキストは、史的唯物論のものに較べれば殆んど無いに近いとさえ云っていい。ゴルンシュタイン『弁証法的自然科学概論』、岡・吉田・石原『自然弁証法』(『唯物論全書』の内)などが相当纏った参考書である。――なおマクシーモフ『レーニンと自然科学』(桝本訳)やデボーリン『弁証法と自然科学』(笹川訳)を参照。
 エンゲルスの自然弁証法は、その根本的な対立にも拘らず、ヘーゲルの自然哲学と決して無関係ではない。そしてヘーゲルの自然哲学はシェリングとカントとの夫に直接つながっている。だから自然弁証法の歴史的考察は、近代の自然哲学史を離れては完全ではない。――処がカントの自然哲学は、その天体理論(夫をカント自身は本来の自然哲学の内には数えないが)を別にして、ニュートン物理学(乃至力学)の形而上学的原則の確立を意味していた。と云うのは、ニュートンの力学的範疇の根柢に、如何にしてアプリオリな原則を求めることが出来るかということが、彼の自然哲学の問題であった。之は自然そのものの歴史的過程(含蓄ある意味での運動)を問題にするのではなくて、之とは全く独立な合理主義的思弁による根本概念の構成だったのである*。シェリングに至ってもこの点少しも変らない、シェリングに於ては、自然の分極性(Polarit※(ダイエレシス付きA小文字)t)とそれによる勢位(Potenz)の上昇とが、自然を一貫する運動であった(ここに一種の弁証法がある)。だがこの大部分が、極めてロマン派的な(フィヒテから来る)空想に基いたものに他ならなかったのは別として、ここでも亦、自然はそれ自身の歴史的過程に於て叙述されたのではない**。ヘーゲルでも亦そうであった。彼の自然哲学に於ける自然の弁証法的体系は、自然自身の運動に基いて展開される代りに、概念の自己運動の順序に従って段階づけられたに過ぎない。
* カント『自然哲学原理』(戸坂訳)を見よ。
** Schellings Werke, Bd. I. II.(M※(ダイエレシス付きU小文字)nchner Jubil※(ダイエレシス付きA小文字)umsausdruck)の内の諸論文。
 自然哲学に歴史的過程という弁証法の根本性質を見出したものは、併し実はカントの天体進化の理論であった。そして一方、有機界の歴史的進化の過程という観念に到着したのは、ビュフォン等であった。――だがいずれも之を「自然弁証法」という観念にまで高め得る程の、自然科学上の現実的与件を、当時まだ持っていなかったのである。自然の歴史的発展の思想の下に、自然弁証法の観念が、発生し得るためには、自然科学の目醒ましい発達が行なわれ始めた十九世紀後半まで待たねばならなかった(エンゲルスの自然弁証法に関する最初の覚え書き「弁証法と自然科学」は一八七三年に始まる)。
 私は今ここに、自然弁証法を体系的に叙述し得ようなどとは思わない。まだ充分に体系づけられていないものを、今ここに俄に体系づけることは可なりの冒険だろうからだ(この点史的唯物論と場合を異にする)。ただ特徴的な二三の点だけを拾いあげて、一応纏った見通しをつけて見ようとするに他ならぬ。そしてその出発点となるものが、かの自然自身の歴史的過程なのである。――だが自然とは一体何か。
 自然については古来、自然哲学者乃至哲学者の、様々な考察があるのだが、含蓄ある意味に於て、之を物質と呼ぶことが出来る。自然即ち客観的存在――主観から独立に存在する存在――が哲学的な意味に於ける物質であることは、唯物論の根本命題であった。処が自然のこの根本的な第一規定がすでに、弁証法的であったことを、まず注意せねばならぬ。プラトンの質料(=哲学的意義に於ける物質)は普通(又は場所・空間)と考えられている。それは確かに単なる有(「ある」)でないという意味では、無でなくてはならぬ。処が最近の哲学史家達の研究が示すように、この無はただの虚無ではなくて、寧ろ、有という定形を以てしては徹底限定し得ない程に、盛りあふれた豊富さそのものを意味するらしい。だから之は有でないことによって却って、有でないどころではなく、圧倒的な有なのである。かくて哲学的範疇としての物質は、存在(=有)は、所謂有と所謂無との矛盾に於て初めてなり立つ処の、その古典的な総合概念なのである*。
* 哲学的物質の概念の発展と特徴に就いては、拙稿「物質の哲学的概念について」(『唯物論研究』二六号)〔本全集第三巻所収〕を見よ。
 物質の哲学的範疇を、認識の歴史はやがてその物理学的範疇にまで、具体化し又は特殊化すが、この物理学的範疇としての物質を見る前に、物質の(自然の)次の根本規定を注目する必要がある。というのは物質は運動することをその根本特色としている。運動しない物質は、物質ではあり得ないからである。――処で一体、運動なるものが弁証法の代表的な場合であることは、ゼノン以来人の知る処だ。運動とは一定の場所に於ける、物質の存在と非存在、その有と無の絶対的矛盾を現実的に統一し止揚したものだからである。物質が有と無との弁証法的統一であったが、その際場所だとも考えられた物質が、それ自身場所に於ける有と無との統一としての運動となる。だが之は強いて、或る物体機械的空間的・運動に限って物を云ったわけで、運動はもっと広範な含蓄を有っている。と云うのは物質そのものが変化発展転化することが、物質に固有な運動の意味だからである。之は一定状態の有と無との弁証法として、ヘーゲルが「成」の範疇によって云い表わそうとしたものに相当する*。
* 但し吾々はここにヘーゲルの弁証法を援用してはいない。ヘーゲルの有→無→成の弁証法にはヘーゲル弁証法に固有な困難がひそんでいることを考えるからである。
 今物体の空間的運動については後にしよう。それより先に片づけなければならぬのは、この運動(変化・発展・転化)する物質の一層の規定である。物質は今や空間に於てあり、そして夫が時間に於て運動する。処が空間という範疇が又対立者の矛盾的統一なのである。空間は或る意味に於ては無いのである。吾々は空間を掴むことは出来ない。それは凡ゆる物体によって自由に占められることが出来る、durchdringen され得る。だがそれでは全くの無かと云えば、物のこそ空間なのだ。丁度光のように、それ自身は光っていないに拘らず、之が当ったものを光らせるのである。――時間も亦そうであって、普通時間は流れると考えられるが、それにも拘らず時間は止まっていて物をその上で流すのである。時間は永遠に対する対立物であるにも拘らず、時間そのものは永遠の静止だとも考えられねばならぬ。時間は無始無終の永久に閉じることのない線でなければならぬに拘らず、永遠の静止であるからには、閉じたものでなければならぬ、等々。――そしてこうした空間と時間とが又相互に対立物であり、永久に食い違ったものであるにも拘らず、却って空間的運動に於て現実的には統一されている。

 だが以上は、自然弁証法の云わば哲学的な部分に他ならなかった。自然に於ける哲学的諸範疇の弁証法性を指摘したに止る。この関係は自然に於ける自然科学的諸範疇に於て、より具体的に現われる*。但し範疇=根本概念が実在の反映物である所以は、ここに改めて説明を必要とはしないとして。
* 弁証法の規定は、質の量への転化とその逆、対立物の統一、否定の否定、対立物の相互浸透、等々として挙げられるのを常とする。今はこの一々の規定に沿うて範疇を吟味している余裕がない。自然科学的世界の統一に於ける弁証法にとって、最も重大と思われるのは対立物の統一であるから、今は夫だけを代表的なものとして採用する。
 物理学的範疇にまで具体化され特殊化せられた物質は、である。物は普通物体と考えられる。原子論によれば之は微粒子である。処がド・ブロイやシュレーディンガーによって確立された波動力学によれば、物質は一種の波動の特殊な組み合わせである物質波動と考えられる。すでに光に就いても粒子(光素)的規定(ニュートン)と波動的規定(ホイヘンス)とが対立していたが、最近まで電磁波及び一般輻射と共に、光は波動的規定を以て理解されるようになっていた。処が、一般にエネルギーが量子という一種の微粒性単位を有つことが発見されたことと連関して(プランク)、光粒子の存在も明らかとなって来た(アインシュタイン)。すると光と物質とはエネルギー一般と斉しく、同一の規定を以て規定されざるを得なくなる。でここから却って、光の波動的性質が、物質にも帰せられ得ることとなった。かくて物質は粒子であると共に波動であるという、歴史的に云って相互に矛盾して相容れなかった規定が、統一されざるを得なくなったのである*。之は一般的に云い表わせば、断続連続との弁証法統一を実証するものであって、数学に於ては断続から出発して連続(及び無限乃至超限)を導き出したのはカントルの集合論であったが、今日ではこの二つの規定の対立が、直観の連続に訴える直観主義(ブローエル)と公理体系のメカニズムに訴える形式主義(ヒルベルト)とになって現われている。直観主義の神秘説と形式主義の機械論の矛盾対立を止揚し得るものは、他ならぬ弁証法であるべきだが、今日の数理哲学はまだ之を実証するだけの段階に到着していない。
* この点に就いては Die Moderne Atomtheorie(Heisenberg-Schr※(ダイエレシス付きO小文字)dinger-Dirac)1934 参照。
 他方に於て物質は空間に解消されて消滅したと叫ばれた。相対性理論によれば物質や重力・電磁気其の他のポテンシャルは、いずれも宇宙空間の各種の曲撓・伸縮に帰せられる。だが実は、この空間(物理的乃至力学的空間)は単なる幾何学的空間とは異って、実はそれ自身物質的な内容を持っている。エーテルという物質概念は第一之に解消されたのであった。力のがこの空間の意味であった。そしてこの場こそ又物質の新しい概念だったのである。かくて物質は場の概念によって、空間と統一される。――又相対性理論による空間規定と時間規定との、内部的な連関――対立の統一――は、非常に有名である*。
* 空間概念の分析に就いては拙稿「空間論」(岩波講座『哲学』の中)〔本全集第三巻所収〕に多少詳しい。――最近の量子力学の発達は併し、自然科学に於ける空間的記述に関する懐疑を産むに至ったことを注意しておかなくてはならぬ。例えば N. Bohr, Atomtheorie und Naturbeschreibung (1931) を見よ。――だが之は思うに、物理学に於ける従来の空間概念が、今や変更されねばならぬということを意味するに過ぎない。
 物・物体は一つの個体である。そしてこの場合の畢極の個体は、広義に於けるアトム(エレクトロン・ニュートロン・ポジトロン・等々)である。アトムとはもはや之を分割し得ないものの謂であった、なる程之が個体(不可分――Individuum)の物理学的な意味だろう。だが生物は之とは別な意味に於て、個体の性質を持っている。生物の個体は物理的にはいくらでも分割出来る。細胞は更に原形質や核や染色体や細胞膜其の他に分割できる、等々。だがそれにも拘らず、之は生物学的に一個の不可分な個体、オルガニズムなのである。オルガニズムに於て不可分と考えられるものは、もはや単なる物質乃至物体ではなくて、高度に発達した物質の合成による生命なのだった。
 生命の概念に就いては、機械論生気論との対立が、或いは非全体説と全体説との対立が、有名であるが、この矛盾の克服は全く、生命現象に対する唯物弁証法の役割による以外に道を残さない。ここでも亦、神秘説と機械論とを止揚統一するものは自然弁証法なのである*。元来生命それ自身がディアレクティッシュなものなので、新陳代謝や疾病治療や、出生死亡等の現象が、常識的に之を告げている。
* この点に就いては拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』の内)〔本全集第三巻所収〕に多少詳しい。――なお之及び之以外の領域に於ける自然弁証法の諸問題に就いては、拙稿『イデオロギー概論』及び同じく『現代哲学講話』〔何れも前出〕の中の当該項を参照。
 併し物質の第一規定が運動であったことを、今思い起こさねばならぬ。と云うのは、物質は変化発展転化するのであった。之こそ物質そのものの弁証法、自然そのものの弁証法、の第一義的な場合でなければならなかった。宇宙は天体から地球、地球上の諸物質や諸生物(更には人間社会もそうだが)を含めて、時間的過程である。宇宙は、物質は、自然は、この歴史的運動をその根本法則としている。自然の歴史的運動こそ、自然弁証法の最も根本的で最も代表的な場合に他ならない。
 時間はここに特別な意味を有って来る。時間は哲学者によって様々に考えられている。心理的時間、人間史的(歴史学的)時間、神学的時間、そして物理学的時間。だがこの内根源的なものは最後の物理学的時間であって、他の時間観念も実はここから導かれるのである。この宇宙的時間こそ、一切の存在(自然ばかりでなく人間社会の歴史までも含めて)の秩序を与える処のものなのである。之が自然弁証法の云わば脊髄に相当する。――処で自然科学によって見出される自然の諸法則は、いずれもこの宇宙的時間に於て行なわれる。なぜなら、自然の根本法則とは、この自然の変化・発展・転化の運動に於ける自然弁証法のことだったから。
 だがこの宇宙的時間に於ける根本関係を云い表わすこの根本法則(夫が即ち自然弁証法の本格的な場面だったが)は、二つの問題を有っている。一つは因果性であり、一つは宇宙の進化理論なのだ。――因果性は歴史的存在の不可欠な内部構造であると云わねばならぬ。歴史的過程がただの並置の秩序から区別されるのは、それが正に過程であり変化であり、その意味に於て前後の間に一定の連続的な関係が横たわる、ということによってだ。宇宙的時間は連続している。この過程・変化・連続の上に立って、一切の現状維持も静止も切断も可能なのだが、そうしたものが可能であるのは、全く宇宙的時間が線を引く歴史の連関によることだ。でこの前後の連続的な(不連続も亦その上で初めて成り立つ)関係が、一般に因果性ということなのである。――因果性を機械論的に理解すれば、それは決定論乃至宿命論となる。夫によれば、一切の個々のものが、機械的必然性によって、絶対固定的に規定されつくされる、ということが、因果性=因果必然性だと考えられる。だがそういう形而上学的な因果必然性の観念は、ハイゼンベルクの量子力学の原理にぞくする不確定性原則によって、成り立たないことが証明されるに至った*。因果性は、唯物弁証法によって一般に明らかにされている必然性(それは偶然性乃至可能性を貫く本質的現実的なモメントのことだ)の、一つの物理的な場合に他ならなかった。だから、この点から云って、自然科学に於ける因果性の観念は必然的に、その唯物弁証法的理解へ到着せざるを得ないのである**。
* W. Heisenberg, Die Physikalischen Prinzipien der Quantenmechanik (1930) を見よ。
** この点から見ると、唯物論を罵ろうとする所謂偶然論者の見当違いが、よく判ると思う。――併し「われ誠に汝らに告ぐ、今日なんじは我と偕に天国に在るべし」。
 宇宙進化に就いては、天体の進化理論(カント・ラプラスの星雲説と其の後の宇宙説――之は現代に於ては各方面から長足の進歩をなし物理学的研究にとっての最も重大な源泉となっている――)と、生物の進化理論(それは地球自身の進化と平行して研究される、――生物学=古生物学=地質学)とがあることを、注意するに止めよう(之は重大であるが紙数がないので割愛せざるを得ない)。ただ地上に於ける動物の進化が、人間社会を形成する段階(エスピナは之を「動物社会」と呼んだ)に至る迄、自然そのものの弁証法の領域であることを忘れてはならぬ。そして、栽培植物や飼育動物は、技術的にマスターされた自然そのものの、自然弁証法の実証となるだろう。――自然弁証法(自然科学的世界)と史的唯物論(社会科学的世界)とが統一的に連関する環が、ここにあった。
 さて以上の自然科学的諸根本概念を貫いて、諸自然科学その歴史的な発達をもつ。今まで見た諸範疇の弁証法も、諸科学の歴史的発達に於て、初めて全体としての統一を持つのである。と共に、ここから諸自然科学の統一的連関を与えることも、大してムツかしいことではないだろう。自然弁証法は、自然科学的世界として、最後にこのことを要求するのである。だが之は、すでに触れた科学の分類の問題其の他に譲ることにする*。
* ただ問題なのは数学の自然科学的世界に於て占める、科学としての位置だろう。今日の数学(総合・数解析・幾何学を含めて)が意識的に経験や実在から独立な体系を持とうと企てることは、著しい特色だ。だがそれにも拘らず、数学者の主観的意図に関係なく、各種の数学が客観的には物理学に用いられているということは何を意味するか(計量的幾何学や解析による物理学的理論一般は云うまでもなく、其の他群論による量子力学、テンソル=カルキュラスによる相対性理論、マトリックスによる量子力学、等々)。――蓋し数学は計算測量という要素的な本質から理解されねばならぬ。そうすることが、数学全般の歴史的(弁証法的)理解の唯一の道なのである。前者は算術・代数・微積分となり、後者が各種の幾何学となる。ここに実在数学との、従って又自然科学と数学との、基本的な連関が横たわる。其の他の高級乃至抽象的な数学形態は、これからの歴史的派生物に他ならない。で、そうとすれば、数学は歴史的に云って自然科学の一種と見做されることも出来るだろう。或いは、少なくとも数学をアプリオリな純形式的な科学として、之を自然科学から絶対的に隔絶して了うことは、その理由を失うだろう。
 自然弁証法はこうだとして、さて次に社会科学的世界の特徴である史的唯物論へ移ろう*。
* 以下は大体、拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」(岩波講座『教育』の中)〔本全集第三巻、『現代唯物論講話』中の「社会科学論」〕の一部分に基いて之を訂正したものである。――史的唯物論の典拠は枚挙に遑ない。そして之に触れた教程も極めて多い。史的唯物論なる社会科学的世界は、今日すでに或る意味に於ける体系をなしつつ発展しているからである。
 便宜上、史的唯物論=唯物史観を、まず定説(体系)と方法とに分けて述べよう。第一に史的唯物論の定説に就いて。――
 史的唯物論の問題は、人間の存在という事実と共に始まる。人間はその時代々々の与えられた一定の物質的生活条件の下に、行為し生活している。処でこの人間生活の過程は、一口で言えば食うことと産むこととをその物質的根柢としている。言い直せば、人間の生活過程は生活資料の生産と新しい個体の生産とを、要するにそういう物質的生産を、その根柢としているのである。だが人間生活を他の動物生活から区別するものは、人間が個体を生産する能力を有っているという点にあるのではなくて、人間が生活資料を優れて生産し得るという処に、即ち労働によって之を生産するという処に、而も労働手段乃至要具の生産(労働による)を通じて之を生産するという処に、横たわる*。こういう人間的な労働による物質的生産は併し、個々の人間にとっては初めから与えられたものとしての、即ち彼の意志の自由からは独立な客体としての、様々な――自然的及び歴史的に規定されている――物質的生産条件の下で初めて、社会的に一定の具体的な形を取るのである。
* この労働手段の体系が、「技術的なるもの」であることはすでに述べた。――之は技術的なるものの領域である。
 人間的労働による物質的生産――それはすでに個人的な意味を脱して了った社会的なものだが――には併し、労働手段の外に、労働の対象物がなくてはならぬ筈である。労働手段と労働対象とが生産のための手段となる。この生産手段を用いるものは人間の労働力である。この労働力と労働手段と労働対象とを、抽象的にではなく、一定の与えられた社会の発展段階に於て具体内容を有ったものとして、考える時、それがこの生産力に外ならない(マルクスの所謂「抽象的人間労働」による「労働力」も、そういうものとして一定の社会条件の下に具体的内容となった処の、生産力にぞくする)。
 併し、労働手段も労働対象も、生産する個人にとっては、自然的及び歴史的な所与であり、労働手段のそれ以上の発達も労働対象のそれ以上の産出・発見も、この与えられた条件によって制約されている。そればかりではない、このような生産手段の発達は各々の部分に於ては個人の意識的工夫に依存すると考えられるが、その全体に於ては、各個人に対してすでに自分の意志では左右出来ない客観性を持っている。生産手段は個人一般という仮定物から見れば個人の自由によって発達することにもなるが、本当の個人である各個人にとっては、その意志の自由とは独立に発達する。この生産手段は超個人的に、社会的に、客観的に、歴史的発展をなすものとして、言い表わされねばならない。之によって決定される生産力は、単にその材料が物理学的(例えば機械・道具・工場)乃至生物学的(人間的労働力)物質を根柢としているからばかりでなく、又今言った客観的だという意味からも、物質的でなければならないわけである。生産力は一つの唯物論的概念でなくてはならない。
 この物質的な生産力の与件は、社会に於ける一定の生産様式を造り出し、この生産様式がそれに対応する一定の物質的生産諸関係をなり立たせる。この生産諸関係が、所謂経済関係と呼ばれる機構の本質であり、それが社会関係の基礎建築・下部構造をなす。ここに社会の物質的地盤が横たわる。――経済学はここに成立する。
 社会に於ける生産諸関係は、財産の所有関係を伴って来る。今この所有関係が社会に於て、個人相互が承認すべき公共的な一関係として、意識化されると、それが法律制度に他ならない。無論法文の外見からみれば、法律は必ずしも所有関係を規定しているものばかりとは限らないが、法律制度の本質から言えば、それは与えられた一定の所有関係を合法化すための体系でしかない(法律学の領域)。――法律制度が併し一寸見ると露骨には経済的な所有関係を示さない理由は、法律が直接にこの関係を言い表わす代りに、政治制度という関係を通過するからである。だがこの政治こそ、一定の与えられた生産関係・所有関係を、保持し強化するための、人間行為の実践形態の一つなのである。通常の意味での政治とは、人間乃至人間群が、それが住む一定の既成の社会秩序を維持するために、他の人間乃至人間群を、何かの物理的威力をたのんで、支配することである。処がこの社会秩序と考えられるものこそその実質に於て、社会に於ける所有関係に他ならない。生産という人間的実践が物的体系として定着されたものが所有関係であり、政治というより高度の複雑な人間的実践が同じく定着されたものが社会秩序である。そして生産が社会に於ける生産であるという処から、それが必然的に政治という形態を取らねばならないのである。法律とはこういう政治制度のための観念的な拠り処に他ならない。――政治学はここに成立する。
 法律制度乃至政治制度は、社会の物質的地盤・下部構造である経済関係としての物質的生産諸関係の必然的な結論である。併し、法律制度乃至政治制度は、であるからと言って決して経済関係それ自身ではない。それは経済関係という肉体によって規定されて、初めて一定の形態を取ることが出来る処の、被覆に相当するものである。それは社会の下部構造によって制約されるという意味で、上部構造と呼ばれて好い。
 法律や政治を社会の上部構造として、社会の下部構造から区別する処のものは、下部構造に相応する人間的実践――生産――乃至それが物的体系にまで定着されたもの――生産関係――が、特に優れて意識化されるという条件である。無論人間の実践は、それがどんな生産であろうが、どんな労働であろうが、意識なしには不可能だが、已にそれ自身意識的である処のこの実践が、更に、より高度の複雑した他種類の実践となる迄に、意識化すと、夫が政治的実践となり立法・司法の実践となるのである。で大事なことは、政治や法律が、単に意識であるというばかりではなく、或るものが特に意識されたものだということである。何かが意識されるとは、即ち意識化という過程が成り立つということは、まだ意識化されないものが意識化されること、即ちその意味で、意識的でないもの――物質的なもの――が意識的なものになるということである。物質的なものが意識の世界にまで転化するということである。――で法律や政治という上部構造は、かの物質的な下部構造に対して、意識観念の性質を有つわけである。
 だがこの意識は、単に無条件に理解された限りの意識ではなくして、社会の夫々一定の物質的下部構造によって制約された限りの、社会の夫々一定の意識でなくてはならなかった。それは夫々の意識形態――観念形態――であると言うべきである(こうした意識形態・観念形態としての社会の上部構造は一般にイデオロギーと呼ばれている。――ここに文化科学の一応の領域がある)。
 イデオロギーは併し、何も政治や法律に限らない、社会に存在する一切の意識・観念の形態は凡て、イデオロギーとして理解されることによって、初めて相互の連関を統一的に理解されることが出来る。吾々は政治制度や法律に対して、之から一応区別せねばならない処の他群のイデオロギーを持っている。道徳・宗教・科学乃至哲学・芸術等を。之等の所謂文化も亦、一つの上部構造として、終局に於て社会の下部構造から、物質的な生産諸関係から、決定されたものとして理解されねばならない。言って見れば文化は単に文化としてではなくして、文化形態として、理解されねばならない、それがイデオロギーである所以なのである。――実際、諸文化は直接に生産機構から決定されるだけでなく、多くは政治乃至法律を通じて、或いは一定の政治思想乃至一定の法律精神を媒介として、その形態を決定されるだろう。そして之は結局、生産関係によってその形態を決定されるということに他ならなかった。――以上が文化科学精神科学乃至哲学プロパーの領域である。
 法律乃至政治でもなく、又所謂文化でもない処の、社会に於ける人間の心理(狭義の意識)を考えるならば、夫も亦、一つのこのようなイデオロギーの群でなければならない。心理学――(民族心理学・群集心理学・個人心理学等)。

 さて、以上のようなものが、史的唯物論による、社会の階層的構造である。之は社会の言わば静力学的な構造に相当するだろう。之を一言で要約すれば、社会の物質的な下部構造の方が、社会の精神的な上部構造の方を、決定規定する、ということである。人間の意識が社会の存在を決定するのではなくて、社会の客観的存在が人間の意識を決定する。之は、唯物史観の定説に於ける、唯物論のモメントを言い表わす。
 社会は併し常に歴史的社会である、社会は常にその静止的組織を組織替えしつつ生活する処の、言わば一つの生命過程である。だからその静力学は言わばその動力学に相当するものにまで編入し直されなくてはならない。今迄無雑作に静力学的に述べて来た社会の構造は、実は決して単なる――静止的関係としての――所謂構造ではなくて、そういう静止的構造が組織替えされて行く処の、過程それ自身の構造でなければならなかった。社会の下部構造が社会の上部構造を決定すると言ったことは、決して後者が前者の上に位置するということだけではない、それならば無意味な同語反覆に過ぎないだろう。そうではなくて、社会全体が歴史的に運動するに当って、その運動がまず下部構造から起こり、之が上部構造の運動を呼び起こすと考えることによって、この運動全体が統一的に分析出来る、ということだったのである。――弁証法的唯物論の一部分としての史的唯物論の定説は、社会を単に物質的本質と見るばかりではなく、この物質的な社会を、歴史的発展を持つ弁証法的本質として、見ねばならない筈であった。史的唯物論の定説に於ける唯物論のモメントは今や、この弁証法のモメントに結合されねばならぬ。そして之から吾々は、唯物史観の定説(体系)の内に、唯物史観の方法を織り込んで行かざるを得なくなる。
 史的唯物論は、方法としては、一方に於て弁証法的方法であり、他方に於て唯物論的方法である。今この二つの規定を、史的唯物論に於ける根本観念である処の、決定規定の概念に当て嵌めて検討して見よう。
 弁証法的方法としての史的唯物論は、存在を、社会を、固定・静止したものと見ることを徹底的に排斥する。存在は凡て、弁証法的に・歴史的に、運動・変化して止まない。だからその限り、無条件に固定した・超歴史的に永遠な・本質はあり得ない、従って又そう言った本質の諸関係である処の、存在の永久の構造もあり得ない。弁証法とは凡そこのような機械的見解の正反対なのである(人々は仮に、マルクス主義的方法がこの点で、如何に現象学的方法――特にE・フッセルルの――と正反対であるかを見るのが便宜である)。社会の下部構造が社会の上部構造を決定規定するということは、だから、社会のこう言った意味の「本質的」構造とは全く別なことなのである。
 処が併し、運動や変化は或る意味で変化しないものを規定しなければ運動とも変化ともならない。もしそうでなければ事物を歴史的・弁証法的に見ることは、結局之を歴史主義的に・相対主義的に・見ることに終って了う他はない。今この不変なものは併し、かの無条件に永久な所謂――現象学的――本質とは異って、変化するものと絶縁する代りに、之との統一を、之との弁証法的統一を、失わない処の不変者である。即ちこの本質は変化するものを自分の現象諸形態として貫くものでなければならぬ。――唯物史観の弁証法的方法によれば、決定・規定の概念は、歴史的決定・歴史的規定の概念である。で、それは実は因果関係でなくてはならぬ(因果性に就いては前を見よ)。
 社会の下部構造は単に下部にあるもの・上部構造規定者・ではなくて、上部構造の歴史的原因でなければならず、従って上部構造はこれと同じ意味で、下部構造の歴史的結果でなければならぬ。社会のこういう動的な因果関係の断面が、社会の静止的な構造であった。――之がこの方法の弁証法のモメントに相当する。
 次にこの方法の唯物論のモメントに沿うて、規定・決定の概念を取り上げる。人々はよく言う、社会はなる程精神的な部分と共に物質的な部分も持っている、だが物質的な部分だけが精神的な部分を決定・規定すると見るのは片手落ちだ、同時に、精神的なものも亦物質的なものを決定・規定するのが事実ではないか、そうすれば、社会のこの二つの部分の決定・規定の関係は、交互関係(Wechselwirkung)又は、相関関係(Korrelation)でなければならぬ、と。成程それは事実である、歴史的社会の現象はその通りだ。だが社会科学の問題は、こういう現象を如何に統一的に分析するかである、即ちこの現象を如何にその本質から説明するかにある。で、そういう本質を見出すために吾々は、諸現象を区画している処の現象形態を見付けねばならぬ。即ち諸現象を形態的に規定・決定している処の本質を見出さなければならない。処でこうやって見出された限りの本質が、他でもない社会の物質的な下部構造――生産諸関係――だと言うのである。歴史的社会の存在を部分的に取り上げて好いならば、どこでも物質的なものと精神的なものとは交互決定の関係に置かれているだろう。併し之を全般的に・統一的に・形態的に、取り上げるためには、そういう認識は役立たない。個々の現象に就いては交互決定があろう、統一的な現象諸形態に就いては、もはや一方的な――唯物論的な――決定関係しかが畢極に於ては残されない。そうしないと、社会の歴史的過程を吾々は展開も出来なければ遡源も出来ないだろう、社会の歴史的認識も社会に於ける政治的実践も不可能となるのである。イデオロギーが終局に於て、社会の下部構造によって規定・決定されると言われる所以である。――之が唯物史観的方法の唯物論のモメントに相当する。

 さて之だけの準備をした上で吾々は、史的唯物論の核心に多少踏み込むことが出来る。
 史的唯物論によれば社会は歴史的な発展物である、社会は変化する。無論社会の変化は単純な突然変異ではないが、そうかと言って単なる漸次的推移でもない。量的に見て漸次的である推移が、一定量の蓄積によって、質的な変化を、即ち質的な対立を、即ち質的飛躍、を結果する。社会は弁証法的発展をなす、それは分裂を通しての統一によって新しい段階に向って進んで行く。夫は矛盾と矛盾に於ける統一との、矛盾的・弁証法的・統一によって運動する。社会の歴史は矛盾をその動力とする。
 だが歴史の動力としてのこの矛盾は、ヘーゲルの考えたように概念の内に横たわるのでもなく、又吾々の意識とか自覚とかの内に横たわるのでもない。夫は正に、社会に於ける歴史的原因であった処の物質的下部構造に、そしてさし当り、生産諸関係の内部に、潜んでいるのである。と言うのは、元来物質的生産諸関係は、物質的な生産力によって成り立った処の一定形態の関係であったが、一定の発展段階にあった処の生産力が、之に対応する一定の生産諸関係として客観化・具体化されると、生産力自身のその後の言わば自然的な成長にも拘らず、生産諸関係の方はそのまま定着されて了うのが自然である。かつて生産力に相応し得た処のそれのための形式としての一定の生産諸関係は、却って、生産力の発達を妨げる処の桎梏という形にまで転化して了う。物質的生産力とこの一定の生産諸関係とは矛盾する事となり、この一定の生産諸関係はその内部に、可能な新しい生産諸関係にまで成長せねばならぬ処の否定的契機を孕んで来なければならない。之が生産諸関係に内在する物質的矛盾なのである。社会と社会的諸存在との一切の歴史的諸発展は、要するに物質的な生産諸関係に内在するこの矛盾の、止揚と再分裂との弁証法的過程に外ならないのである。この過程の叙述がそして、史的唯物論という社会科学的世界の内容に他ならない。
 或いは問うかも知れない、ではその最後の物質的な生産力はどうやって成長するのか。夫は人間の知識や技術を俟つことなくしては発達し得よう筈がないではないか、そうすればそれは一面観念的なものでもなければならないではないか、なぜ特に物質的と考えられねばならないのか、と。この問いに対しては吾々は已に答えておいた、社会に於ける生産力である限り、単なる自然力のように全く観念的な側面を持たないわけにはいかないのは、自明なことである。だが問題の核心は、社会の歴史的発展の全体を、この生産力の客観的――物質的・自然的――成長と生産関係との矛盾から、説明するということに存する。社会は木や石ではない、ただ夫を物質的なモメントから出発して説明しなければ、まとまりがつかないように出来ていると言うのである。
 人間社会の歴史的発達は、云うまでもなく存在の自然史的発達が高度に発達したものである。だから[#「だから」は底本では「だがら」]、人間史は、この意味に於ける自然史(博物学)的基礎現に有ち、又社会の歴史そのものは、自然史をその時間上の先行条件とする。一般的にダーウィン主義と呼ばれて好い進化論は、この基礎とこの先史的時間点とに於て、史的唯物論と交錯する。だが史的唯物論のプロパーな問題は、人間社会生活の原始的な諸条件とその発展との研究から初めて始まる。そこでは人類学的・考古学的・人種学的・土俗学的・な諸条件――それは現在に於ける原始民族の研究に俟つ処が甚だ多い――が、唯物史観的根本方法によって貫かれねばならぬ*。
* 例えばF・エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』はこの研究の古典的な一例である。
 併し史的唯物論の何よりもの特色は、夫が生産関係を基準として、社会の発展を最も統一的に客観的に段階づけることが出来るということである。マルクスによれば、社会は主に、アジア的古代的(奴隷制度的)・封建的近世資本主義的(市民社会的)の四つの生産様式の発展段階に分けられる(尤も最初の二つを一つにして三段階に数えても好い)。――之が歴史科学の記述のための根本区画なのである。
 世界史のこのような段階づけが、マルクスに至って初めて意識的になったということは、原理上の意味がある。と言うのは、近世資本主義的生産関係に立たされるのでなければ、こういう区画に従う歴史記述の方法を意識することは出来なかっただろうからだ。元来史的唯物論は、(近世)資本主義的生産関係から生じた処の、一つの特有なイデオロギーでもあったのである。だが歴史記述のこの区画は、ただ客観的な思い付きによったものではなくて、寧ろ初めから、社会の一定のマルクス主義的分析の結果、必然的に与えられた処のものである。――唯物史観に於ける歴史記述は、社会の分析と、表裏をなして対応する。そして歴史記述が、歴史の過去の出発点から始められねばならぬに反して、社会分析は歴史の現在に於ける到着点から始められねばならない。史的唯物論による記述方法が発見されたのが、現在の近世資本主義制度の下に於てでなければならなかった所以である。
 元来、一切の事物がそうであるが、社会の組織的構造――論理的秩序――は、社会の歴史的秩序を反映する。現在に於ける社会が持つ構造上の諸モメントは――夫が分析によって分離され且つ総合されるのである――、悉く、社会が歴史的に経過して来た処の諸モメント――夫が歴史記述によって跡づけられるのである――が、最後の具体的展化に至るまでの歴史過程によって磨きをかけられた処の、痕跡に他ならない。それ故吾々は、理論的な歴史記述をするためには、現在に於ける――之が歴史の最も具体化されている時間点である――社会を分析すれば好いわけであり、又是非ともそうしなければならないわけである。で、人間社会の歴史記述は、或いは寧ろ歴史的分析は、現段階の社会の、即ち資本主義社会の、理論的分析を以て始められなければならない。
 さて、現在に至るまでの社会の、最後の・従って又最も発達した・段階であるこの(近世)資本主義社会は、膨大な商品集積の世界であるということを、他のものとは異る特色としている。そこでは総括的に云えば、一切の事物が商品として、或いは商品と結び付けられて、最後の社会的意味を受け取る。一切の社会的存在の社会的人的関係は、商品世界によって特徴づけられ、商品の構造の内に自分の構造を集約する。資本主義社会・ブルジョア社会は、自分の特有な特色として、商品世界を抽出するのである(商品でない処の事物がいくらでもあるということは、この社会の総括的特徴が商品社会だということを何も妨げはしない)。之は歴史がその過程を通じてブルジョア社会にまで具体化して来た、その結果、必然的にそれ自らに施す処の抽象自己分析である。吾々が今、社会の、即ちブルジョア社会の、分析を始めるためには、――そして分析とは常に抽象である――、だから、この商品という抽象物を、吾々の行なう分析(抽象)の手懸りとする他はないのである。吾々の分析は、かくて、社会の歴史が現在に於て示している自己抽象(商品の抽出及びそれに続く一切のもの)に従うことによって初めて、客観的な社会の現在段階に於ける具体的連関を認識に迄反映することが出来る。一般に吾々は、こうやって初めて、分析という抽象を用いることによって却って認識を具体化することが出来るのである。
 ブルジョア社会に於ける商品は、社会自身の構造を自分の構造として集約している。商品には一切のブルジョア社会関係が、その人的関係をも含めて、含蓄されている(商品の物神崇拝性)。夫はこうである。
 商品は何時の世でも、使用価値と交換価値とを持つが、ブルジョア社会の商品は、使用・消費故の交換を目的として生産されるのではなくて、単なる交換を目的として生産されるのを一般的な事情とするのだから、商品価値は専ら交換価値に帰着する。様々に質を異にした使用価値は、そのものとしては相互の比較を許さないが、交換価値になれば共通の尺度によって相互に比較されることが出来る。商品の価値は、与えられた発展段階に於ける生産関係に相応する処の平均的な人間の平均労働のどれだけが(何時間分が)その商品生産に必要であるかによって、決定される。価値の生産者は人間労働である。――この価値に基いて初めて商品交換は可能となる。そして一切の商品交換のための共通な手段として、特殊な物性と社会的機能とを具えた一定の商品として、貨幣が見出される。
 人間は何時の世でも労働力を持ち又之を働かせる。だが資本主義社会に於ては、社会の大多数の人員が、特徴的に、労働手段と労働対象との一切の所有権を、産れながらに失って了っているということがその特色である。処が彼等が生活するためには、即ちその労働力を働かせるためには、労働の手段と対象とを一時的たりとも自分の手許に置いて使わねばならぬ。だが彼等労働力のみの所有者――労働者――が労働手段と労働対象とを使うということは、資本主義社会では、労働手段と労働対象との少数の私有者に彼等自身が使われるということである。この雇傭関係は、彼等多数の無産者が、生活するために、小数のかの私有財産の所有者に向って、自分の労働力を売り渡し、その価格として労賃を受け取るという、交換過程である。之は生きた労働力を商品と見立てた処の商品交換であるから、その場合の雇傭関係は自由契約の形式を踏むのである。
 労働力を労働者から時価を以て購入した私有者は、自由に、この労働力を最も能率よく使用せしめることによって、労賃以上の売値に相当するだけの価値を有つ商品を生産せしめる。こうやって出来上った商品の価値はだから、使用した労働の価値よりも多いわけである(その多いだけの価値が余剰価値と名づけられる)。即ち、私有者は支払った労賃以上の価格で商品を売ることによって利潤を居ながらにして受け取るのである(無論この限りでの利潤は、その一部分が余剰価値のそれ以上の再生産の種として、すぐ様引き上げられねばならぬが)。この利潤は無論労働力の売渡し人には帰らない、彼等にはすでに労賃が、而も時価という正義ある価格で、合意の上、支払われてあった。――だがそれにも拘らず、余剰価値は、労働力所有者の労働によって生産されたものだという事実に、変りはない。処がそれが、労働する代りに労働力を購買・管理するだけの労を取ったに過ぎない労働手段・労働対象の私有者の手に、帰するのである。だからこの関係は Usurpation である。之は私有者の悪意や善意とは無関係に“squeeze out”なのである。
 この Usurpation の根本機構は、それ自身の内に自分を益々強めて行くという構造を含んでいる。余剰価値は、無限に余剰価値を再生産する。利潤は利潤を産むのである。かくて資本は私有財産所有者の手に蓄積する。資本は資本家の懐に、加速度を以て集中する。だから社会の富は資本家が独占する処となる。従ってその反面に於て、社会の富は、労働者の手から益々遠ざけられて行かざるを得ない(余剰価値説なくして、今日に於ける金と富との膨大な集中は理解出来ない)。ブルジョア社会に於ては、資本家はその個人的能力からは比較的独立にその富が益々安定して来、之に反して労働者の貧困は、その個人的な能力とは無関係に、益々恒常なものとなる。さてこうやって富と貧困との対立が恒常化すと、資本家と労働者とは、もはや単なる個人の資格の名ではなくて、二つの階級の名となる。ブルジョアジープロレタリアートとになるのである。
 ブルジョア社会は、本質から言って、ブルジョアジーとプロレタリアートとの階級対立に基く社会であり、生産の手続き上からは squeezing system により、経済的には貧困化により、政治的には抑制により、前者が後者を支配する処の社会である。そしてブルジョアジーのプロレタリアートに対するこの支配が、余剰価値の再生産の過程と共に、益々強化されて行く処の社会なのである。ブルジョア社会に於ける国家はブルジョアジーの階級的支配のための最高の機関となる*。
* この資本主義社会の現在に於ける諸矛盾とそれによる新しい社会制度への蝉脱とは、社会科学的世界の最も生彩のある内容であるが、史的唯物論のごく全般的な規定に止まらねばならぬ今の吾々は、之を省略することを余儀なくされる(之に就いては前述の一般的な部分及び前出拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」二九頁以下を見よ)。
 さて以上のようなものが、史的唯物論(社会科学的世界)の具体的内容の、ごく基本的な部面に限った抽象的な概観であった。夫が同時に、社会的諸科学の位置をも明らかにしたことを、読者は見落さなかったろう。――之と自然弁証法との連関に就いてはすでに述べたが、この二つの科学的世界を比較して目立つことは、史的唯物論が自然弁証法に較べて、著しく組織立った形にまで発達しているということである。だが一旦、ブルジョア社会科学の科学的世界に足を踏み込めば、その科学的世界の統一どころではなく、ありと凡ゆる立場と建前とのアナーキズムさえが支配していたことを、忘れてはならぬ。

 自然弁証法と史的唯物論との総体的な統一は、唯一の科学的な「世界」を与えるだろう。夫が弁証法的唯物論の世界観の具体的内容となるのである。

    *    *    *

 吾々はかくて、科学一般をば、実在―方法―科学的世界(対象界)の関係に沿って、考察した。そして科学の世界、科学の対象界こそは、実在反映の最高段階だった。――科学的真理がここで初めて前面に押し出される。
 以上が科学そのものの脈絡であり、又仮に科学論の見取図のシステムともなるだろう。
(終)

底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「唯物論全書 第一巻」三笠書房
   1935(昭和10)年10月18日
入力:矢野正人
校正:土屋隆
2008年5月24日作成
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