俺かい。俺はむかしお万のこぼした油をアめて了つた太郎どんの犬さ。其俺の身の上ばなしが聞きたいと。四つ足の俺に咄して聞かせるやうな履歴があるもんか。だが、人間の小説家さまが俺の来歴を聞くやうでは先生余程窮したと見えるね。よし/\一番大気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)を吐かうかな。
 俺はここから十町離れた乞丐こじき横町の裏屋の路次の奥の塵溜ごみためわきで生れたのだ。俺の母犬おふくろは俺を生むと間もなく暗黒やみの晩に道路わうらいで寝惚けた巡行巡査に足を踏まれたので、喫驚びつくりしてワンと吠えたら狂犬だと云つて殺されて了つたさうだ。自分の過失そさうを棚へ上げて狂犬呼ばゝりは怪しからぬはなしだ。加之しかも大切な生命いのちを軽卒にるとは飛んでもない万物の霊だ。人間の威張臭る此娑婆しやばでは泣く子と地頭で仕方が無いが、天国に生れたなら一つ対手あひて取つて訴訟を提起おこしてやる覚悟だ。
 生れて二タ月目位だな。悪戯な頑童わんぱくどのに頸へ縄をくゝし附けられて病院の原に引摺られ、散三さんざいぢめられた上に古井戸の中へ投込まれやうとした処を今の旦那に救けられたのだ。
 乳も碌に飲まない中に母犬おふくろには別れ、宿なしの親なしで随分苦労もしたが、今の旦那には勿躰ないほどお世話になつて、とんと応挙の描いた狗児ちんころのやうだと仰しやつて大変可愛がられたもんだ。坊様も嬢様も無類の犬煩悩で入らつしやるから、爰の邸へ引取られてからは俺も飛んだ幸福者しあはせもので、今年で八年、つひに一度ひもじい目どころか、りやう四升しゝようの鬼の牙のやうなお米を頂戴してゐた。憚りながら未だ南京米を口に入れた事の無いおあにいさんだ。
 俺の血統かい。俺は尋常たゞ地犬ぢいぬサ。まじりツけない純粋の日本犬につぽんいぬだ。耳の垂れた尻尾を下げたの碧い毛唐の犬がやつて来てから、地犬々々と俺の同類を白痴ばかにするが、憚りながら神州の倭魂やまとだましひを伝へた純粋のお犬様だ。西洋臭い顔をした雑種犬あひのこいぬとは、ヘン、たねが違います。
 元来いつたい俺の解らないのは無暗やたらに西洋犬を珍重する奴サ。一つ気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)ついでに話して聞かせやう。犬の先祖は狼だといふが、之は間違で、「ドール」といふ山犬の一種だ。今でも英領印度の西境のミドナボールからシヤマルの間に棲んでゐる。世界の文明が悉く印度から来たやうに犬も矢張印度を母国として四方に蕃殖したのだ。尤も埃及エヂプトでは猫と同じやうに犬を尊んで川の神と祀つて、恰度ナイルの氾濫時分にシリヤス星が見えるので、此星を犬星ドツグスターなづけて犬を星の精だといつたものださうな。アツシリヤでも早くから犬を珍重して今の「マスチツフ」だの「グレイハウンド」だのといふ奴がたさうだが、んな事はておき、我々は印度の「ドール」から進化したのだといふが学者の一致した説である。狼や「ジヤカル」から発達したといふのは嘘だよ。我々同類をゆるものだよ。
 処で、此「ドール」といふ奴はひどく人間を嫌つて決して影を見せないさうだが、敏捷活溌で頗る猟が上手である。豹のやうな木に登るものや象のやうな図抜けて大きな身幹づうたいのものゝ外は何でも捕る。虎でさへが「ドール」に会つては辟易しりごみする。無論一疋と一疋とでは虎には及ばないが、「ドール」君は常に大隊を率ゐて一斉襲撃するから大抵な猛虎は忽ち殺されて了ふ。中々慓悍へうかん決死の大将軍である。ちつと味噌を上げるやうだが、先づ猛獣狩の功者と云つたら「ドール」先生だらう。天晴武勇の振舞は我々犬族の先祖たるに耻ぢずと云ふべしだ。
 さて犬族一統の中で、此「ドール」君の※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを最も能く伝へてゐるは我々日本犬だよ。耳から尻尾の具合、面貌かほつきまでが頗るておる。殊に勇武絶倫、猛獣を物ともせざる勇敢の気象が丸出しである。恐らく「ドール」君正統の嫡流だと信じますナ。独り日本犬ばかりでない、日本犬に似てゐる者は悉く勁勇きやうゆう無双ぶさうである。西蔵犬チベツトいぬ、「エスキモー」いぬ西比利亜犬シベリヤいぬ、我々の兄弟分はれも力が強く勇気があつてしたゝかな豪傑である。れも未開の国で野法図のはふづに育つたおかげに歴史に功蹟を遺すだけに進歩しなかつたが其性質のすぐれて怜悧で勇気のあるのは学者に認められておる。「エスキモー」犬が雪中橇車そりを牽いて数日の道を行つても少しも疲労しない事や、西比利亜犬が旅人りよじんを護衛して狼や其他の猛獣を追散らす勇気は実に素晴らしいもんだ。西比利亜では犬を「エンヌ」といふさうで語音ごいんや似通つておる。或は日本犬と同種族であるまいかといふ説があるさうだが、如何さまもありさうな事だわい
 それから我々は何しろ二千五百年の歴史ある国に生まれたのだからエスキモーや西比利亜の徒輩てあひと違つて立派な来歴がある。桓武天皇九代の皇胤と列べ立てゝは緞帳どんちやうの台詞染みて笑止をかしくないが、御歴代の天皇様から御鐘愛を蒙むつて恐れ多くも九重こゝのへ咫尺しせきし奉つたためしは君達も忠君無二の日本人だから御存じだらう。勿論翁丸おきなまるのやうな悪戯をして君の勅勘ちよくかんを蒙むつた者もあるが、我々は先づ君の御寵愛をかたじけなふした方だ。歴史で一番評判なだい愛犬家いぬずきは北条高時どのだ。高時殿は大不忠者のやうに歴史で散三さん/″\に悪く云はれておるがお気の毒だよ。藤原氏以来朝敵の数が殖えてるが、畢竟政権与奪の争ひをして不利益の位置に立つたものが朝敵呼ばゝりをされたので、此神州に生れて誰か天子様に抵抗はむかふ不届者があるもんか。元来いつたい政治をるに天子様をさしはさんで為やうといふは日本人の不心得で、昔日むかしから時の政府に反対するものを直ぐ朝敵にして了うが、今でも忠君を自分達の専売にしたやうな気になつて無暗と反対者を不忠呼ばはりする者があるが悪い癖だ。うぬが勝手に尊皇愛国を狭く解釈して濫りに不敬呼ばはりするは恐れ多くも皇室の稜威みいつを減ずるはゞかりある次第だ。誠に飛んでもない咄で、一番気の毒な目にあつて大悪党の帳本と誤解されたのは北条氏だよ。高時殿はどうせ家を滅ぼす奴だから難有ありがたい人物ではなからうけれど、一族二百人枕を並べて自殺した最期は心あるものの涙をそゝぐ種だ。楠殿が高時のさけこんさかなしゆを用ゆるを聞いて驕奢おごりの甚だしいのを慨嘆したといふは、失敬ながら田舎侍の野暮な過言いひすぎ。天下の執権ともある者が酒九献肴九種ぐらゐ気張つたツて驕奢の沙汰でもあるまいと、俺は思ふナ。這般こんな事をいふと例の大忠臣党が直ぐ犬畜生の言草だなんぞと云ひさうだが、人間様の仰しやる事が兎角御都合主義だから無慾な犬畜生の言草いひぐさが却て道理にかなつてる。……ホイ、話が迂闊うつかり横道へれた。這般な議論は※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)どうでも可いが、処で此高時殿が大の闘犬好きで其お庇で我々は大分進歩した。闘鶏、闘犬、闘牛の類をすべて野蛮だといつて悪くいふ者もあるが、人間様に角觝すまふがある間は這般な事を云はれまいと思ふよ。尤も禽獣の角闘かくとうは血を流すからといふが、血を流すのは俺達の勝手で、勝負といふ味は人間様の相撲も俺達の仲間の角闘も変つた事は無い。相撲が筋肉の発育を奨励する間接の原因となると同様に闘犬は俺達の身躰を非常に強壮にし且つ勇猛な気象を養ふやうにした。それから高時殿と一対の愛犬家いぬずきは五代将軍綱吉公だナ。犬公方いぬくばう下々した/″\仇口あだくちに呼ばれた位だから無法に我々同類に御憐愍ごれんみんを給はつたものだ。公の生類せいるゐ御憐愍を悪くいふ奴があるが、畢竟つまり今の欧羅巴ヨウロツパやかましくいふ動物保護で人道の大義にかなつてるものだ。手段はと極端過ぎたかも知れんが目的は中々立派なものだ。我々はく御恩を荷つた身分だから今でも忝く思つてる。綱吉公は我々の為にはヱス基督キリスト。此頃のやうな恐水病が恐ろしいからツて濫りに不幸な浪人犬らうにんいぬを撲殺し、歴気れつきとした御主人様でさへが、能く職分を守つて吠える者は直ぐ狂犬だとひて殺して了う時勢では公の恩沢は今更のやうに渇仰するよ。げんに俺の母親おふくろなどはむじつとがで殺された。之が綱吉公の御代なら直ぐかたきを取つて貰へたのだ。
 我々日本犬は高時殿以降屡々角闘を奨励され、早くから田猟でんれふにも用ひられたから他の野蛮国の産とは違つて、躰格も立派なら性質も怜悧で、殊に勇気があつて力すぐれ、喧嘩と狩猟かりに極めて名人である。人種の気象は風土と相伴ふさうだが、我々犬族も多分うらしいのは日本人と日本犬と何から何までが能く似ておる。唯だ日本人の躰格は世界中或る黒奴くろんぼを除きて最も下等であるが、日本犬の躰格は世界各国の犬と比較して中等以上どころか寧ろ上等に位しておる。我々犬の方が遥に人間様の君達よりは優等躰格なんだ。余り白痴ばかにして貰うまいよ。
 然るに君、黒船以来毛唐の種が段々内地雑居を初めてから、人間様のなかでも眼色めいろの変つた奴が幅を利かしたが、俺達犬社会では毛唐だねらされてイヤモウ散三な目に遇つた。尤も毛唐種には勝れて立派な上等な奴がある。俺も頗る感服しておる。「マスチツフ」の躰格の立派なのや、「ブルドツク」の剛情で馬鹿力のあるのや、「アルパイン、スパニヱル」の大慈悲心に富んでるのは大和魂の俺達も殆んどを折つておる。だが、解らない事が一つある。人間様の中では雑種児あひのこが小さくなつてるが、犬の中では雑種あひのこまでが西洋振りやがつて威張散らす。俺が朋輩の家禽にはとり牛馬うしうま夥伴なかまでは、日本産でも純粋種は大切だいじにして雑種はいやしんでおるさうだ。それ当然あたりまへの筈だのに、犬だけは雑種までが毛唐臭い顔付をしてけつかるは怪しからん咄だ。君達人間様が平生愛国者振るくせに我々大和犬族やまとけんぞくの優等なるを忘れて外国種の下等な性質を遺伝うけついだ雑種犬を珍重するとは何事だ。欧羅巴かぶれも爰に到つて殆んど沙汰の限りだ。言語道断である。
 純粋外国だねだつてきつと俺達より勝れてるわけでは無い。「テリヤー」や「ターンスピツト」や「プードル」のやうな奴は何所が好いんだか俺達には解らぬ。マルタいぬは一名を獅子犬と呼ばれてゐるが名ばかり立派でからもう弱虫なけちな奴だ。墨西哥犬メキシコいぬは君達の掌面てのひらに載るやうな可愛らしい奴だが、俺達は何でも大きいのが好きだから小さい方で世界第一なんぞは余り下らんナ。夫から日本にも来てゐるが、矮狗ちん位な大きさで頭の毛が長く幾すぢとなく前額ひたひに垂れて目をかくしてゐる「スカイ、テリヤー」といふ奴、彼奴あいつはどうも汚臭ぢゞむさくて、人間なら貧乏書生染みて不可いかんな。「ハウンド」族でも英吉利イギリスの「グレイハウンド」や露西亜ロシヤ「ハウンド」は躰格も立派で中々見栄がするが、伊太利イタリヤ「ハウンド」と来たら翫弄犬おもちやいぬと言はれるだけに脊の高さが一尺、重さが唯ツた一貫目――「ハウンド」でござるが凄まじいお笑草だ。犬も国にれるもんで、伊太利のやうな美術国だから那様あんな細つこい繊麗きやしやな翫弄犬を生じたのだらう。且つ俺のやうな四つ足の分際ではちつと生意気な言分だが、伊太利も豈夫まさかにウヰダやロンブロゾが舌を吐いて論ずるほど疲弊してもおるまいが、細つこい瘠せ身代でゐながら些と海軍力のあるのを鼻に掛けて東洋の猟場にチヨツかいを出し中原ちうげん大豚おほぶた分配わけまへを取らうと小癪な所為まねをする所は、矢張伊太利「ハウンド」の気ばかり強くて随分足も達者だが忽ち疲れてベタ/\に閉口して了う具合と似てゐるやうだよ。俺達はれとかはつて今まで自分の力量に気が附かず、雑種犬にまで白痴にされて段々田舎へ引込んで、支那チヤンの犬にさへ尻尾を下げて恐れ入つたもんだ。之からはう負けるものか。鎌倉以来の負けじ魂を奮つて「マスチツフ」でも「ブルドツク」でもさア来い。対手あひてになつて見せる。
 なに、大層威張ると?……威張るとも、我々大和犬族は敢て毛唐種に譲らない力量勇気があるから。元来君達からして甚だ不心得だ。といふは自分達は失敬ながら世界を知らないで蚊のすねのやうな痩腕を叩いて日本主義の国粋主義のと慷慨かうがい振る癖に、純粋日本種の加之しかも神州の産たるを辱かしめざる勇猛活溌なる我々を地犬々々と軽蔑しおる。怪しからぬ撞着だうちやくな咄だ。
 何だい、素晴らしい大気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)だと。そりやあ大気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)も吐かうさ。平生君達の我々日本犬に対する待遇が頗る不満足だからね。しかし近頃それがしの宮殿下が我々の夥伴なかまを召されて浅からぬ御寵愛を忝ふするは我々の世の中に出る機運が熟したんだね。君達も平凡へぼ小説や平凡議論を書く暇があるなら日本人冥加に「猟之友」にでも日本犬にほんいぬ主義をちつと皷吹し給へ。そこへ行くと感心なは俺の旦那だ。暫らく洋行して世界で有名な犬を能く御承知で、「ポインター」や「セツター」は勿論日本人の余り知らない「シトリーパー」や「ラーチヤー」種の猟犬をお飼ひになつたが、ういふ犬社会に通じた方が矢張日本種は中々好いと仰しやつて俺をかしらに都合三疋御扶持ごふちを給はつてゐる。君達は碌に犬を知りもしない癖に我々を地犬々々と軽蔑するが、憚りながら旦那のお邸では是でも日本犬様だよ。
 俺の旦那は此位えらい方だから家内うちゞうの方が揃つて悉皆みんな豪いや。別して感心なのは嬢様だ。齢は十九の厄年で名は妙子たえこと仰しやる。君達に見せたいほどな好い御容貌ごきりやうだ。なに、う知つてゐる? 中々油断のならない狼連だ。旦那や夫人おくさまが御心配なさるのも無理は無い。併し嬢様は滅法お怜悧りこうだから、君達のやうな間抜に喰はれる筈はないワ。第一、何処へかお出掛けになる時はいつでも俺がお伴を仰付あふせつかるから、君達が指でもさせば直ぐワン喰付くらひつく。麺包パンの一きれや二片呉れたからつて容赦は無いよ。人間様の方は賄賂が効くさうだが、俺達の方ぢやアとても駄目だよ。握飯で騙されるやうな半間はんまな犬が此節このせつがら有るものか。
 嬢様のお美くしいのは番町名代のもので学校でも一番だ。街路わうらいの人が、若い者は勿論爺さん媼さんまでが顧盻ふりかへつて見る。随行おともの俺までが鼻が高いんだ。殊に旦那と一緒に暫らく欧羅巴にらしつたから、毛唐の言葉も達者で黄鳥うぐひすのやうな声でベラ/\お咄しなさる。其上に音楽なりものがお上手で、ピアノとかは専門家しやうばいにんに負けないお伎倆うでまへださうだ。毎朝御飯前と午後ひるすぎ、学校からお帰りになるときつ練習おさらひなさるが、俺達のやうな解らないものが聞いてさへ面白いから、何時でも其時刻を計つて西洋間の窓の下に恍惚うつとりと聞惚れてゐる。庭の木立を洩れる音を塀越しに聞いて茫然ぼんやり佇立たちどまる人も大分あるさうだ。
 愈々来年は御卒業になつて二十歳はたちの花盛りだから、何れ何処へか御縁附きになるのだが、何がさて御容貌は番町随一、恐らく東京随一だらうといふ評判で、諸芸に達しおられて無類の御発明ごはつめいだから、昔しなら女御更衣といふ御身分だ。それだから表立つて親御へ申込まれる華族、豪商、権門の方を始め、何かにかこつけて邸へ出入りする当世風の若紳士、隙があれば喰はふといふ君達狼連まで、有るは/\、自称候補者の面々が無慮一万人ばかりだね。
 夫人おくさまは御心配になつて眼の廻るほどな忙がしい目をなすつて申込人の身分財産性質等の内幕を一々詮議遊ばす。其掛りの書生を三人新たにお抱へになつた位だ。だが、旦那は西洋で育つた方だけに飛んだ気がさばけて在らつしやる。結婚は一生の大事だから身分身代の詮議は二の次である。当人さへ承知なら位置も身分も無い君達のやうな貧乏書生にでも呉れてやると仰しやる……
 これさ、爾う喜んでは困る。君達では迚も御当人の嬢様がお気に入らんからね、ア糠喜びも大抵にして断念あきらめなさい。
 西洋でいふ自由結婚ナ。旦那は口では仰しやらないが此自由結婚をお許しになるのだ。邸へ出入りする若紳士が旦那への用は附けたりで、御用が済むと直ぐ嬢様の御機嫌を伺ふ。近ごろういふ小説が出ましたと云つて新刊書を持つて来る。斯ういふ女の雑誌が出ましたと毎号郵便で送る。斯ういふ琴の新物しんものが出来ましたと歌や譜を持込む。斯ういふ化粧品をしんきに輸入しましたと態々わざ/\買つて来る。今度は何処そこに音楽会がありますと上等の切符を持つて来る。中には金子かねのある奴は此頃は斯ういふ品が流行はやりますと貴重な贅沢品を高い銭を出して買つて来るのもある。つと馬鹿な奴はカーボンやプラチナ板に撮した自分の写真をうやうやしく送つて来る奴もある。イヤハヤお咄しにならんが、旦那は這般こん連中てあひ寛大おほめに見て在らツしやるんだ。
 一番繁く出入して当人たしか聟君むこぎみ登第とうだいえいを得るつもり己惚うぬぼれてゐるのが、大学の学士で某省の高等官とかを勤める華尾はなを高楠たかくすおなじく留学生候補の学士ださうで今は或る私立学校の哲学と歴史の講師をしてゐる御園みその草四郎くさしらう、自称青年政事家で某新聞のパリ/\[「パリ/\」に傍点]記者とかいふ大洞おほゞら福弥ふくや、批評も小説も新躰詩も何でも巧者じやうずで某新聞に文芸欄を担任する荒尾あらを角也かくなり耶蘇教やそけうの坊さんだとかいふアーメン臭い神野かみの霜兵衛しもべゑ、京都の公卿伯爵の公達きんだち鍋小路なべこうぢ行平ゆきひら――斯ういふ人達だよ、めい/\自惚うぬぼれて嬢様へは勿論、旦那や夫人おくさまの御機嫌を伺つて十分及第する気でゐるのが笑止をかしいよ。嬢様は御発明で在らツしやるから、這般なワイ/\がお気に召す筈が無いサ。
 旦那も仰しやつた。自由結婚は好いには違ひないが、日本のやうな国では社会の習慣が許さんから謹慎な人は婦人と交際するのを遠慮する。又武士道徳の名残で気骨のある男子は婦人にしたしまんのを主義とする。斯ういふ国柄では婦人に近づくのはごく優柔な意気地無し、でなくば世間を憚らない突飛な無分別者である。畢竟つまり自由結婚をさせたくても婦人をんなの交際する範囲には立派な理想の男子が入つて来ないから困ると、常/\仰せられた。
 其通りだよ。嬢様の撰択おみたてに預からうといふ野心満々たる面々は何れも愚劣極まつた鼻持ならぬ連中だ。君達も及ばぬ恋の滝登りに首尾よく及第しやうといふ僥倖党げうかうたうだから断念あきらめめ話して聞かせやう。
 一番高慢ちきで忌味なのは法学士華尾高楠だ。講義筆記をメカに暗誦してやつと卒業証書を握つたのを鬼の首でも取つたやうに喜んで、得意が鼻頭はなのさき揺下ぶらさがつてる。何ぞといふと赤門の学士会のと同類の力を頼りにして威張たがる。田舎漢ゐなかものに限ツて国自慢をすると同じやうなもんだ。俺達の方では大学の学士を雑種犬あひのこいぬと名づけてる。西洋臭い高慢な顔をしておるが、実は神経が鈍くて力が弱くて体質が下等で毛並が揃はないでキヤン/\吠えるよりほか能が無いからだ。近頃君達の仲間で法科大学の落第生問題がやかましいさうだ。今のやうなメカに暗誦させる流義では云はゞ鸚鵡石あうむせきを覚えるやうなもんで何の役にも立たない。試験法の不完全は解り切つておるが、落第生の多いのはこのせゐぢやアあるまい。俺には解らないが、旦那のお咄では大学の学士で一番信用の出来ないのは法学士と文学士ださうだ。天下の学問の府と云はれる処の卒業生でありながら一番学問に不忠実なのが法学士ださうだ。華尾高楠先生なんかも法律万能を鼻に掛けて法律智識の有無を人物の標準と心得ておるが、高が五六十頁か其辺そこらの筆記物の二十冊や三十冊や呑込んだ処で大人物とは恐入つたもんだ。斯ういふ先生方だから外国語さへ碌に出来ず、肝心専門の法律学さへ大抵はお忘れ遊ばしたやうだ。此頃は何をしてゐるかといふと役所で局長様の鼻毛を数へ奉つた帰途かへりみちは俺の邸へ来て夫人おくさまから嬢様の御機嫌伺ひだ。此奴こいつまだ卑怯な事は、俺の旦那が薩長の大頭おほあたまと御懇意なのを承知して、首尾よく嬢様を掌中てのうちに丸め込んで旦那のお引立に預からうといふ野心があるのだ。一度門閥の味をめた奴は電信でないと世の中が渡れないと見えて、学校のおかげで不相当の位置を作つたものは再び女房のお庇にすがつて位置を高めやうとする。華尾先生もこのお仲間で身分のある家から女房をもらつて其縁に頼つて敢果はかない出世をしやうといふのが生涯の大望だ。斯ういふ奴は女房かゝあ大明神と崇め奉つて奴隷となるを甘んじてゐるのだから、邸の嬢様のやうな温和しい美しいのでは勿躰ない、剛情で我儘で浮気で嫉妬やきもちで其上に少々抜けてる醜面すべたを当てがつて懲らしてやるが好いのさ。嬢様は御発明だからチヤンと見抜いて在らツしやる。何時ぞやも俺が傍で聞いてゐたら、奴め得意になつて同僚の評判から局長の噂、来年は海外視察に行く運動も首尾よく成効できさうだと自慢たら/\。所が嬢様は抜からぬ顔をして、先あ爾んな事は好い加減にして少と学問でもなさい、今の中役所を辞してめて博士論文でも書いて見たら如何どうです、と斯う仰しやつた。先生頗るギヤフンと参つた。なに、博士ぐらゐなら何時でもなれます、拙者は海外を実地踏査して行政上の意見を当路者たうろしやに呈出しやうと思つたですが、嬢様のお思召ぼしめしなら明日にも官を辞して博士論文を書きませうと。先生之からは鉄面てつめんノコ/\やつて来ても、博士論文は如何ですと聞かれると、ハイ大に研究する考で目下材料を集め中ですとコソ/\と帰る。イヤハヤ豪い学士君だよ。
 此咄を洩聞いて雀躍こをどりしたは御園草四郎君だ。此男も大学出身の学士で今は大学院で研究してゐる。当人の咄では官費留学生の候補者ださうだ。生涯を学問に貢献しやうといふ先生が嬢様のお気に入らうと頭髪あたま仏蘭西フランス風とかに刈つて香水をなすりつけコスメチツクで髯を堅め金縁目鏡に金指環でおつウ容子振つたさまは堪らない。当世の学者気質かたぎで真理よりは金と女が大切だと見えて美くしい嬢様と嫁入支度に持参金を一度に握らうといふ下心なんだ。処でくも学士は二人切ふたりぎりだから他の候補者を下目しために見て暗に華尾君と競争してゐた。で、ひそかに自分の己惚了簡で学問好きの嬢様は華尾のやうな俗吏がお気に召す筈が無いとめてゐた処へ華尾が博士論文の催促で責められると聞いたから、先生大恐悦で大願成就した気になつて、或る日嬢様に向つて私も愈/\来春らいはるは博士論文を呈出しますと仕たり顔に云ふと、オヤ貴君あなたも御用学者になるの、博士と云ふと大層らしいが三年経つと三歳みつゝといふ比喩たとへもありますから独乙ドイツでは犬も博士の肩書がありますと嬢様は手厳しく仰しやつた。(オイ君、独乙では犬も博士になつてるとサ、余り馬鹿にして貰ふまいぜ)。同じ事なら外国文で書いて欧羅巴の学者社会と議論を闘はせたら如何です、たかが日本の博士になつたゞけでは折角図書館から書抜いたお骨折が無駄になりませう、オヽ笑止、博士論文よりは恋の千話文ちわぶみわたしのやうな拗者すねものコロリと云はせるやうに出来たら余程お手柄やと散三さん/″\に冷かされて有繋さすがの大哲学者も頭を抱へて閉口したやうだよ。それから一ト月余になるが羅甸ラテン語と希臘ギリシヤ語とをならべた難かしい手紙が来たゞけで顔を見せないから、嬢様やつと安心して先ず是で十九の厄を免れてノウ/\した。
 自惚れると妙な理窟がつくもんで、新聞記者の大洞福弥君、二学士の落第を聞いて鼻をうごめかした有繋さすがに妙子様頗る見識がある。学士の虚名を見破つた処は素晴らしいもんだ。何にしても権力推移の時代でそろ/\我々の天下となる。目腐れ高等官が何だ。大学の腐れ学士が何だ。と先生意気揚々として早速凱旋将軍のやうな気でゐた。で、いつもの調子で現今政海の模様を滔々と説いて今にも内閣が代れば自分達が大臣になるやうな洞喝ほらを盛んに吹立てた。なにしろ大洞福弥の洞喝と来たら名代のものだから毎週ウヰークリー「タイムス」と「評論之評論レヴユー、オブ、レヴユー」とで世界を呑込むといふ悪口があるが、左に右く外国雑誌を読むといふ人はだ感心だよ。大洞と来たら外国語が碌に出来ぬさうだ。渠奴きやつの長処は妙に記憶が好いので日本の新聞雑誌を読んで外国通を極込きめこむのだ。元来いつたい日本人は西洋の事情に暗い。俺が毛唐の犬を知つてるほどに中々行かんさうだ。だから新聞の外国種が余程怪しいもんだ。畢竟ひつきやう大洞のやうな先生が虚誕うそ共喰ともぐひをしてゐるので人名地名の発音の間違どころか飛んでもない見当違ひを一向御頓着なく見て来たやうな虚誕を書く。昔しは講釈師が見て来たやうな虚誕を云ふといつたもんだが、今では新聞記者が其株を奪つてゐる。大洞が名を売出したのは人物評ださうだが、渠奴の人物評ぐらゐ虚誕で固め上げたものは無いさうだ。第一、有りもしない無名の豪傑を作つて自分の書いたものを其無名の豪傑が書いたやうに思はせて、加之しかも此無名の豪傑はさつの元老であらうのちやうの先輩であらうの或は在野の領袖りやうしうなにがしであらうの甚しきは前将軍であらうのと、飛んでもない臆測説を自分で書て世間を欺騙ごまかした腕前は中々凄いもんだといふ咄だ。借金も少しだと困るが身分不相当に沢山になると却つて借金のお蔭で生命がつなげるやうなもんで、虚誕もちつとだと躓くが此位甲羅かふらると世渡りが出来ると見える。処でおらの旦那がお世辞半分に新聞記者の天職をさかんなりと褒めて娘も新聞記者につもりだと戯謔面からかひづら煽動おだてたから、先生グツト乗気になつて早やむこ君に成済なりすましたやうな気で毎日入浸いりびたつてゐる。そこは厚皮あつかはだから「政治的婦人」だの「政治家の妻」だのという論文を自分の新聞に載せて、嬢様のところへ送つて来る。之には嬢様も閉口なすつたやうだ。対手あひて名代なだい千枚張せんまいばりだから大抵な三十さんちでは中々貧乏揺ぎもしない困り物だ。斯ういふ奴にはまかり間違へば江戸の仇を長崎で討たれるやうな目に遇ふから何でも寄らず触らずが無事で好いと、嬢様も夫人おくさまも気味を悪るがつて、大洞先生が大気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)を始めると何時でも音楽や小説の咄に紛らしてお了ひなさる。先生少しも御承知ないから、※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)どうも此頃の小説は千篇一律で詰りませんナ、女郎文学でござる、心中文学で厶ると欺騙して引退るだけだ。
 小説家の文学者先生、荒尾角也この咄を聞くと大喜びで、何がて文学大好きの嬢様なれば文壇にたづさはる自分は必定御覚え目出たかるべしと早合点した。先生自作の小説を特に別仕立に装釘して恭やしく嬢様の御批評を仰ぎ奉ると出掛けた。すると恰も何かの雑誌に此小説の悪評が載つたのを嬢様はお人が悪いから素知らぬ顔して見せた。批評家ツてものは口が悪いの貴方あなたの作を浅薄だの軽浮けいふだのと失敬だワ。わたしは貴方の小説が一番好きよ、肩が張らなくツて読心よみごゝろが好いツと。嬢様は荒尾君の大傑作を※(「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18)どてらと間違へてらツしやると見える。それでも荒尾先生、御感ぎよかんを忝ふしたと心得て感涙にむせんで、今度は又堪らないものを作つた。何でも恋愛咄で暗に自分と嬢様の関係に擬したものださうだ。加之しかも其著作した理由いはれ因縁を仄めかして持つて来たから嬢様も呆れてお了ひなすつた。夫人おくさまも余り途方もないのに呆れ返つて馬鹿に附ける薬は無いと陰で仰しやつたとも当人知らずに其後是非とも御批評を願ひますと色好い返事を催促するつもりで手紙をよこした。ナア君、君等の方にもういふ白痴ばかがあるか此奴こいつは小説家でも屑の方だらう。嬢様も好い加減に思切らせないと這般かういふ奴が瘋癲きちがひになるのだと思召して、其次来た時に断然きつぱりと、世間が煩さう厶いますから当分お尋ねはお断り申します、其中お互に身がさだまりましたら改めて御交際を願ひませうと。荒尾先生、青菜に塩ですご/\と帰つたが、俺も其後姿を見送つた時は可哀相になつたよ。ソラ何とかいふ雑誌に見えた「失恋の歌」――あの新躰詩は此時作つたのださうだ。それでも何処までもお目出度いか解らないのは其新躰詩を矢張送つて来たよ。万一の御憐愍ごれんみんを願ふ意なんだらう。小説家といふものは斯うも未練なもんか。俺の方では一度取損とりそくなつたは二度と顧盻ふりむかんもんだ。イヤハヤ犬にだもかずといふべしだ。
 一番みじめで気の毒なは耶蘇の牧師の神野霜兵衛さんだ。此人は衣装なりつくらず外見みえも飾らずごく朴実律義で、存魂ぞつこん嬢様に思込んでゐたがちつとも媚諛こびへつらふ容子を見せなかつた。それだから嬢様も此の人ばかりには真面目に交際つきあつて少しもお調戯からかひなさらなかつたが、困つた事には好人物といふだけで、学問才幹共に時代遅れだ。十五世紀十六世紀頃なら相当な人物であつたかも知れないが、えつきす光線や無線電信の行はれる二十世紀には到底向かない男だ。併し有繋さすがに牧師さんだ。自分の恋が成就しないのを知つても更に人を怨まないで、只一図に嬢様の幸福を祈つてゐる。夫人おくさまも嬢様もこの人だけには安心して交際つて在らツしやるが、素振にも出さない心根を察して見ると気の毒になる。或る雑誌にをり/\述懐めいた随筆が出るが、いつぞや嬢様は読んで涙をこぼしてらしツたつけ。何でも才つたなく学浅くしてかたちさへ醜くき男が万づに勝れて賢き美はしき乙女にこがれてとても協はざる恋路にやつるゝ憐れさをかこつたものださうな。いつでも嬢様を尋ねるときはおもてに喜びの色輝やきて晴/\としてゐるが、その皮一重下にかくるゝ苦痛は如何ばかりぞと思ふと実に同情する。嬢様も此人の真摯まじめな偽りのない真情まごころには余程動かされて同情の涙をおそゝぎなすつたらしいが、実に御道理ごもつともだ。俺も外の奴には恐い顔をして随分啖付くらひつきさうな素振をして嚇かしたが、此正直な神野霜兵衛さんには何時でも尻尾しつぽを掉つて愛想をしたから、一度は麺包パンのお土産を頂戴したことがあつた。霜兵衛さんだけは感心なえらひとだ。自分の真情は既に嬢様に献げたから、自分は生涯妻を娶らず、永く独身ひとりみで清く送つて嬢様の安寧幸福を神に祈ると云つておるさうだ。ういふ心懸の人は珍らしい、俺は愛の何のといふ理窟は知らないが、人間様の男女の関係を見ると俺たち犬の同類と更に違はないのだ。唯だ法律といふ難かしい定規があつてよんどころなく親子兄弟姉妹あひかんせずにゐるが、アに犬や猫と五十歩百歩だ。何とかいふ人の発句ほつくとかに「羨まし思切る時猫の恋」といふのがあるさうだ。それ見ろ、猫や犬の方がまだ健気けなげな処がある。此牧師さんも内心はだ怪しいが、外見みかけだけは立派だ。無暗に豪傑振つて女を軽蔑したがるくせに高が売女ばいぢよの一びん一笑に喜憂して鼻の下を伸ばす先生方は、何方どつちかといふと却て女の翫弄物ぐわんろうぶつ。女に翫弄おもちやにされて女を翫弄にした気でゐるのが俺達には余程浅ましく見える。如何どうだい大将――女殺しを鼻のさき揺下ぶらさげる先生、一本参つたらう。
 伯爵鍋小路行平は正にういふ浅ましい連中の一人だ。御堂関白の孫大納言公時きんときから二十一世のえいさきの権中納言時鐘ときかねの子が即ち今の伯爵鍋小路黒澄くろすみ卿である。行平君はその嫡男ださうで、幼名を阿古屋丸あこやまると申上げたさうだ。之はいつぞや行平君が自慢らしく家系を嬢様に物語られたのを傍で聞いてゐたのだ。行平君は二十二三かナ。猶だ勉強盛りなのを中途で学校をやめて、(いゝや落第したのださうだ)、平凡へぼ文学者の煽動おだてに乗せられて自分は文学のパトロンとなるなどと高言しおらるゝさうだ。何しろ学問は打棄うつちやつて西鶴が※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)どうしたの其碩きせき※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)麼したの紅葉はえらいのさゞなみは感心だのと頻りに肩を入れられるさうナ。それも真面目なら貴族の道楽として芸妓げいしやを買うよりしだらうが、矢張浮気で妄想の恋愛小説を書いて見たいが山だから誠に困つたもんだ。処で二度か三度、今話した小説家の荒尾角也と一緒に嬢様を尋ねたら、一と目見てお誂へ通り恋風こひかぜジワ/\と身に染込んだ。元来いつたい荒尾が鍋小路どのをれて来たのは自分の理想の女神を見せびらかすつもりであつたのが、行平どの忽ち恍惚うつとりとして天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝と歌ひたくなつた。で、恋なればこそごとなき身を屈して平生ひごろの恩顧を思ふての美くしき姫を麿に周旋とりもちせいと荒尾先生に仰せられた。荒尾先生ほとほと閉口した。有繋さすが渠女あれは約束の妻とも云ひかねて当座のがれの安請合をしたが其後間もなく御当人が第一に失恋を歌ふやうになつてからはプイと何所どこへか隠れて了つた。行平どのは根が公卿育ちの芋の煮えたも御存じなきノホヽンだから今度は御自身毎日車に召して深草の百夜もゝよ通ひも物かはと中々な御熱心であつた。何しろ身分は伯爵の公達きんだちである。色白の上品なノツペリとした御容貌ごきりやうに加へて香水やらコスメチツクやら白粉おしろいやら有る程のおつくりをして、お扮装なりは羽二重づくめに金の時計、金の鎖、金の指環、まだ其上に腕車くるまやら自転車やらお馬やらお馬車やら折々はわざと手軽に甲斐々々しい洋服出立のお歩行ひろひで何から何まで一生懸命に憂身うきみやつされた。人間様の恋路の笑止をかしいのは鍋小路どので初めて承知して毎日顔を見る度に俺は腹筋はらすぢれたわい。尤も尊い御身分の方だから、お平の長芋ながいもなどゝ悪口が出さうだが、くお美くしい、お奇麗な若殿様だ。それに学問こそお出来にならぬさうだが、小説類は何でも読んでらツしやる。小説に関する御議論も中々あるらしいやうだ。荒尾君の作などはいつでも骨灰こつぱい軽蔑けなされる、お邸の書斎には沙翁シエークスピーアを初めヂツケンスやサツカレイの全集が飾つてあるさうな。たしか独乙文どいつぶんはお読めなさらぬ筈だがゲーテやシルレルの全集もあるさうな。イプセンもハウプトマンも流行のニーチヱもあるさうな。何か知らぬがだ/\金ピカ/\の本が大きな西洋書棚に一杯あるさうで、大抵な者は見たばかりでけむに巻かれるさうだ。其上に自転車と写真とは大の御自慢で自転車競争会や写真品評会の賛成員となつて居らるゝ。左に右く文明紳士として耻しからぬお方だ。併し色が生白なまつちらけて眉毛がチヨロけて眼尻が垂れ、ちつと失礼の云分だがやまと文庫の挿絵の槃特はんどくに何処かてゐた。第一いやな眼付をして生緩なまぬるくちかれるとぞうつと身震が出る。矢張佐渡の惚薬ほれぐすり効能きゝめで幅を利かせる方だから之で邸の嬢様を落さうと云ふは飛んでもない心得違ひだ。併し町人と違つて其処が大名育ちだからあなが金子かねで張らうといふさもしい考は無いやうだが、イヤモウ一生懸命に精々せつせと進物を運び込む。俺が覚えてるだけでも真珠を七箇なゝつめた領留針ブルーチ、無線七宝しちほう宝玉匣たまばこ、仏蘭西製の象牙骨の扇子、何とかといふ名高い絵工ゑかきの書いた十二ヶ月美人とかのでふれも其辺そこら勧工場くわんこうばで買へない高料たかい品を月に一遍位はきつと持つて来た。其間には香水だとか石鹸しやぼんだとか白粉だとか舶来の上等品は能く持つて来たよ。余り貰ひ過ぎるので夫人おくさまも嬢様も心配なすつたが、呉れるものを断るわけにも行かず、断はつたとて持つて呉れば無下に返すわけにも行かず、仕方がなしに美術会で名高い美術家の彫刻した銀製の紙莨たばこ入れを買つて御返礼に差上げた。すると鍋小路の若殿まるで結納の品でも貰つたやうに有頂天になつて其紙莨入れを片時へんじも離さず到る処に番町随一の美人から貰つたと吹聴して廻つたさうだ。偶然ふつと此咄が嬢様のお耳に入つたから、嬢様は吃驚びつくり遊ばして飛んでもない事をしたと後悔をなすつた。何でも之は出来ない相談をして足留あしどめ工風くふうをするにかずとお考へ遊ばして、無暗に呉れるが道楽の若殿だから一つ無心をしてやらうと思召し、今更に長良ながらの橋の鉋屑かんなくづ井手ゐでかはづの干したのも珍らしくないからと、行平殿のござつた時、モウシ若様、わたし従来これまで見た事の無いのは業平なりひら朝臣あそんの歌枕、松風まつかぜ村雨むらさめ汐汲桶しほくみをけ、ヘマムシ入道の袈裟法衣けさころも小豆あづき大納言の小倉をぐらの色紙、河童の抜いた尻子珠、狸が秘蔵の腹鼓、どれか一つ見せて下さいと嬢様が甘たれると、行平殿は頭を撫でつゝ麿が家には矢大臣左大臣どのの歌集の外には何も無いが一つ同族を聞き合して見やうと、此事がかなはないと恋路の綱が切れるやうに心配して帰つた。それからはパツタリ来なくなつて了つたが、何か詫状のやうな手紙をよこしたさうな。若様だけに可憐しほらしい愛度気あどけない処があるよ。
 我こそと己惚うぬぼれの鼻をうごめかして煩さく嬢様のもとへやつて来たのはういふ連中だ。どれも之も及第しさうもない若殿原だ。旦那の仰しやる通り日本のやうなだ男女七歳にして席を同ふせざる封建道徳の遺習が牢乎らうことして抜くべからざる国で、若い女の許へ臆面もなくノコ/\サイ/\やつて来るはどうせ軽薄な小才子か、女の御用を勤めて嬉しがる腰抜の無気力漢いくぢなしだ。たま/\律儀真方まつぱうの人なら神野霜兵衛さんのやうな世間に技倆はたらきの無い好人物おこゝろよし真摯まじめな思慮のある人間が誰が女の許へ来るもんかナ。邸の嬢様は立派な御発明な方だから男に呑まれるやうな事は無い。斯様こんな若殿原に茶にされてたまるもんかい。第一、俺がいてゐる。俺が中々承知が出来ねエや。
 嬢様は毎日俺の頭を撫でゝ、「太郎やわたしは一生おまいと離れないよ、お前の好きな処へお前をれてお嫁に行くから、お前の好きな人が来たら妾のたもとくはへて其人のそばへ伴れて行くのだよ、」と仰しやる。憚りながら嬢様の聟君むこぎみを択ぶ権は俺にあるんだ。
 えツ、何だと――※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)どんな聟君をお世話するかと。……はツはツはツ、余程心配になつて来たナ。大丈夫安心しろ、君達のやうなノラクラ者を御世話する気遣きづかひは無いからナ。到底君達は嬢様のやうな立派な申分の無い淑女の配偶たる権利が無いんだからいつそ諦めて人物相応に其辺そこらの下宿屋か牛肉屋の女でも捜し給へ。なに、失敬極まると。うまく仰しやる、内々心当りがあるくせに空惚そらとぼけてゐる。はツはツ、大分勃然むきになつて顔を赤くするナ。そんなら俺が気に入つて嬢様に周旋とりもたうといふ資格を話して聞かせやうか。
 何でも無いサ。日本犬にほんいぬを大切にしろ。第一、俺を大切にしろ。之からちつとロース肉の一片づつも時々持つて来い。人を射んと欲する者は先づ馬を射よといふ事がある。人間様のくせに君達余程知恵が無いよ。
 それから俺は小説家が嫌ひだ。小説家といふ奴はうぬけちな眼玉に写る世間を見て生悟なまざとりした厄介者だ。売卜者うらなひしや身の上を知らずといふが、人の運命ばかり世話を焼いて自分の鼻のツイ鼻のさきの事が解らんのは天下に売卜者と小説家だらう。売卜者は此頃では大道に幕を張つて手紙証文の代筆を兼業してゐるが、小説家も追々とうなるんだらう。何とかいふ豪い大小説家が自作の末に代作の広告をしてゐたさうだが、そろ/\其変遷の兆が見えるらしいやうだノ。
 それから俺は学者が嫌ひだ。無学者は頭から何にも知らないと云つてるから無邪気で罪が軽いやうだ。学者は何でも知つたやうに天地間の事を呑込んでゐるから。学問の進歩が極点に達した時なら知らず、何も彼も多くは疑問として存してほんの理窟の言現いひあらはし方を少しづゝ違へた位で総て研究に属してゐる今日では学者と無学者とは相去る事幾何いくばくも無い。然るに学者は世界の知識を独り背負しよつて立つたやうな気になつて、とんと巡査が人民に説諭すると同じ口吻くちぶりを以て無学者に臨んでゐる。此位暴慢無礼な沙汰はない。殊に科学者はておき哲学者といふ奴は多くは先哲の蓄音器である。少し毛色が違つたかと思つて能く/\聞くと妄想組織が脳に生じたのを白状してゐるざまだ。今の学者は例へば競売せりうり屋だ。君達も知つてるだらうが近頃縁日夜店に出てゐる大道競売屋、あれだよ。口上くちさき欺騙ごまかしてやすく仕入れたいかさまものをドシ/\売附けて了うのだ。手軽に考へたいかさま学説をむりに社会へ押売にするのは、えら大伎倆だいぎりやうで。ここが学者の学者たる価値しんしやうかも知れんが、俺は何だか虫が好かんのだ。
 政治家かい。之は俺の一番の禁物だ。今の社会は隅から隅まで腐敗してゐるが、云ふうち何が一番腐敗してゐるだらうと云つたら政治家と宗教家だ。此二つは殆んどお咄しにならん。イヤハヤ殆んど言語道断だ、四つ足の俺達より凡そ二三段下つてるよ。嬢様の聟君どころか、う既に社会に落第して居るのだが、いやがられやうが棄てられやうが一向いつかうかまはず平気の平左でつらの皮を厚くして居るのが恐ろしい。政治家と宗教家の評判は口を酸ツぱくするだけが馬鹿気切つておる。
 教育家かい。之が亦驚いたもんだよ。※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)どうだい、四ツ目屋の事件は?
 之が何れも教育界の学者様だから、あとは万事推して知るべきである。ベツベツ…………
 実業家、官吏、軍人、新聞記者、何れも落第者だ。役者、芸人、美術家、どうも虫が好かんよ。俺のひそかに望んで待つてゐるのは猟師だよ。どうか素晴らしい猟師を見立てゝ嬢様にお世話申して、新婚旅行のお伴供ともをして中央亜細亜から亜弗利加あたりへ猛獣狩りに行きたいのだ。動物界の王と威張つておる獅子や虎や象や犀や鷲や蛇を対手あひてに戦つて日本犬にほんいぬの鍛へ上げた伎倆うでまへを見せたいのだ。なアに俺達日本犬の手際を知らんで威張くさる獅子や鷲がどれほどの力があるもんか。惜しい事をしたナ、向ふ河岸かしのクルーゲルの伯父さん、う少ししつかりして貰ひたかつた。だがよ、此方こつちの勧進元のセシル、ローヅも豪かつたナ。斯ういふキビ/\した腕節うでつぷしの野郎に一寸ちよいと口を掛けて見たいのだ…………
 えツ、何だ? 俺達は※(「「公」から二画目を取る」、第4水準2-1-10)麼しても落第かと?。うるさいナ、念には及ばんよ。君達のやうなヒヨロヒヨロした、たかはらわたの無い江戸ツ子を理想とするやうなんな芥子粒けしつぶのやうな根性の無気力漢いくぢなしと俺の美くしい御発明ごはつめいな男勝りの嬢様とは提灯に釣鐘だ。及ばぬ恋の無駄ながふ※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)もやすよりは、妄想をデツチ上げた恋愛小説でも作つて、破鍋われなべにトヂ蓋の下宿屋の炊婦おさんでもねらつたらからう。はツはツ、顔を赤くするナ。怒る。怒る勿。其様そんけちな根性だからとても恋はかなはねヱ。之からちつ肝玉きもつたまを練る修行に時々吠えてやるかナ。なに、けつげうに吠ゆだと――此奴こいつ生意気をかす、俺を桀のだとは失敬極まる――、此奴こやつめ、ワンワン/\/\

底本:「日本の名随筆76 犬」作品社
   1989(平成元)年2月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月20日第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「」と「麼」の混在は、底本通りです。
入力:渡邉つよし
校正:染川隆俊
2005年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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