あらすじ
美しくもどこか冷酷な女、滝の白糸は、見世物小屋の太夫として各地を巡業しています。彼女は、かつて人力車との競争で出会った男、金さんと再会し、彼の東京への夢を叶えるため、莫大な資金を援助することを決意します。金さんは、白糸の援助を喜びつつも、そのあまりにも唐突な好意に戸惑い、彼女との関係性に葛藤を抱きます。一方、白糸は金さんのことを深く愛しており、彼の人生を支えたいと願っています。二人は共に未来へ向かう決意を固め、金さんは東京への旅立ちの準備を始めます。しかし、その矢先に予期せぬ事件が起こり、白糸は窮地に立たされます。
       一

 越中高岡たかおかより倶利伽羅下くりからじた建場たてばなる石動いするぎまで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
 賃銭のやすきがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便たよりぬ。車夫はその不景気を馬車会社にうらみて、人と馬との軋轢あつれきようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干あいおかさざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
 七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いをそろえんとて、やっこはその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車くるまよりおはようござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
 甲走かんばしる声は鈴のよりも高く、静かなる朝のまちに響き渡れり。通りすがりの婀娜者あだものは歩みをとどめて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
 沢庵たくあんを洗い立てたるように色揚げしたる編片アンペラの古帽子の下より、やっこ猿眼さるまなこきらめかして、
「ものは可試ためしだ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代はいただきません」
 かく言ううちもかれの手なる鈴は絶えずさわぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
 奴は昂然こうぜんとして、
虚言うそと坊主のあたまは、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
 微笑ほおえみつつ女子おんなはかく言い捨てて乗り込みたり。
 その年紀としごろは二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚せいそたる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、まゆに力みありて、眼色めざしにいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
 これはたして何者なるか。髪は櫛巻くしまきにつかねて、素顔を自慢に※脂べに[#「月+因」、6-15]のみをしたり。服装いでたちは、将棊しょうぎこまを大形に散らしたる紺縮みの浴衣ゆかたに、唐繻子とうじゅす繻珍しゅちんの昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬ちりめん蹴出けだしを微露ほのめかし、素足に吾妻下駄あずまげた、絹張りの日傘ひがさ更紗さらさの小包みを持ち添えたり。
 挙止とりなりきゃんにして、人をおそれざる気色けしきは、世磨よずれ、場慣れて、一条縄ひとすじなわつなぐべからざる魂を表わせり。おもうにかれが雪のごときはだには、剳青淋漓さっせいりんりとして、悪竜あくりょうほのおを吐くにあらざれば、すくなくも、その左のかいなには、双枕ふたつまくら偕老かいろうの名や刻みたるべし。
 馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者さきより待合所の縁にりて、一ぺんの書をひもとける二十四、五の壮佼わかものあり。盲縞めくらじまの腹掛け、股引ももひきによごれたる白小倉の背広を着て、ゴムのほつれたる深靴ふかぐつ穿き、鍔広つばびろなる麦稈むぎわら帽子を阿弥陀あみだかぶりて、踏んまたぎたるひざの間に、茶褐色ちゃかっしょくなる渦毛うずげの犬の太くたくましきをれて、その頭をでつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴のを聞くとひとしく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
 渠の形躯かたちは貴公子のごとく華車きゃしゃに、態度は森厳しんげんにして、そのうちおのずから活溌かっぱつの気を含めり。いやしげに日に※(「犂」の「牛」に代えて「黒の旧字」、第4水準2-94-60)くろみたるおもて熟視よくみれば、清※明眉せいろめいび[#「目+盧」、7-12]相貌そうぼうひいでて尋常よのつねならず。とかくは馬蹄ばていちりまみれてべんぐるのはいにあらざるなり。
 御者は書巻を腹掛けの衣兜かくしに収め、革紐かわひもけたる竹根のむちりて、しずかに手綱をさばきつつ身構うるとき、一りょうの人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらをかすめて、またたひまに一点の黒影となりおわんぬ。
 美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車くるまよりおそいじゃないか」
 奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面をげ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車よりはええといったな」
 奴は愛嬌あいきょうよく頭をきて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
 御者は黙してうなずきぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高くいななきて一文字にだせり。不意をくらいたる乗り合いは、座にたまらずしてほとんどまろちなんとせり。奔馬ほんばちゅうけて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻あがきをゆるめ、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
 車夫は必死となりて、やわかおくれじとあせれども、馬車はさながら月を負いたる自家おのれの影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息せまりて、今やたおれぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野たてのの駅に来たりぬ。
 この街道かいどうの車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車におくれて、あえぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間なかまの一人は、手につばしておどり出で、
「おい、兄弟きょうでえしっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
 やにわに対曳さしびきの綱を梶棒かじぼうに投げくれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
合点がってんだい!」
 それと言うままき出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応あいこたえつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車くるまは無二無三に突進して、ついに一歩をきけり。
 車夫は諸声いっせい凱歌かちどきを揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますますせて、軽迅たまおどるがごとく二、三間を先んじたり。
 向者さきのほどは腕車を流眄しりめに見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人いちにんは、
「さあ、やられた!」と身をもだえて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤ちからこぶを握るものあり、地蹈※(「韋+鞴のつくり」、第3水準1-93-84)じだたらを踏むもあり、奴をしっしてしきりに喇叭らっぱを吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭をふるいて、激しく手綱をい繰れば、馬背の流汗滂沱ぼうだとしてきくすべく、轡頭くつわづらだしたる白泡しろあわ木綿きわたの一袋もありぬべし。
 かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫とんざし、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉をき、早瀬の浮き木をもてあそぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰ふぎょうし、左右になだれて、片時へんじも安き心はなく、今にもこの車顛覆くつがえるか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我けがのがれぬところと、老いたるは震いおののき、若きは凝瞳すえまなこになりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
 七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手をちて、車もうごくばかりに喝采かっさいせり。奴は凱歌かちどきの喇叭を吹き鳴らして、おくれたる人力車をさしまねきつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色けしきもなく、こころを注ぎて馬をいたわけさせたり。
 怪しき美人は満面にみを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道がおこりませんね。平気なものだ、女丈夫おとこまさりだ。わたしなんぞはからきし意気地いくじはない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
 そのことばわらざるに、車は凸凹路でこぼこみちを踏みて、がたくりんとつまずきぬ。老夫おやじは横様に薙仆なぎたおされて、半ば禿げたる法然頭ほうねんあたまはどっさりと美人の膝にまくらせり。
「あれ、あぶない!」
 と美人はその肩をしかといだきぬ。
 老夫はむくむく身をもたげて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁べっとうさんや、もし若いしゅさん、なんと顛覆ひっくりかえるようなことはなかろうの」
 御者は見も返らず、勢めたる一べんを加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
 老夫はまるくして狼狽うろたえぬ。
「いやさ、ころばぬさきつえだよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老としよりのことだ、ほうり出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々やわやわとやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
 あきれはてて老夫はつぶやけば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分のあしで歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
 老夫は腹だたしげに御者のかお偸視とうしせり。
 後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押あとおしを加えたれども、なおいまだおよばざるより、車夫らはますます発憤して、もだゆる折から松並み木の中ほどにて、前面むかいより空車からぐるまき来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳つなひきは血声ちごえを振り立て、
「後生だい、手をしてくんねえか。あの瓦多がた馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇ひとりは叫べり。
 血気事を好むてあいは、応と言うがままにその車を道ばたにてて、総勢五人の車夫はみに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵にい着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
 そのとき車夫はいっせいに吶喊とっかんして馬をおどろかせり。馬はおびえて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
 恐怖、叫喚、騒擾そうじょう、地震における惨状は馬車のうちあらわれたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
 一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻きんぽんせらるる汽船の、やがて千尋ちひろの底に汨没こつぼつせんずる危急に際して、蒸気機関はなおよう々たる穏波をると異ならざる精神をもって、その職をくすがごとく、従容しょうようとして手綱を操り、競争者におくれずすすまず、ひまだにあらば一躍して乗っ越さんと、にらみ合いつつ推し行くさまは、この道堪能かんのうの達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
 されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくもあわふためきて、あまたの神と仏とは心々にいのられき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ちまもりたり。
 かくて六箇むつの車輪はあたかも同一ひとつの軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡ふくおかというに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬にみずかい、客に茶を売るを例とすれども、今日きょうばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々におもいぬ。
 御者はこの店頭みせさきに馬をとどめてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手をり、声をげ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
 乗り合いは切歯はがみをしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙すなけぶりつつまれて、ついに眼界のほかに失われき。
 旅商人体たびあきゅうどていの男は最もいらだちて、
「なんと皆さん、業肚ごうはらじゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁べっとうさん、早くってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者おやじはまことにはやどうも。第一このせんさわりますのでな」
 と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫おやじなり。馬は群がるはえあぶとの中に優々と水飲み、奴は木蔭こかげ床几しょうぎに大の字なりにたおれて、むしゃむしゃと菓子をらえり。御者はかまちいこいて巻きたばこくゆらしつつ茶店のかかものがたりぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人がつぶやけば、田舎いなか女房と見えたるがその前面むかいにいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者はつごんしゃはますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手をはずみまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
 渠は直ちに帯佩おびさげの蟇口がまぐちを取り出して、中なる銭をさぐりつつ、
「ねえあなた、ここでああなまけられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
 やがて銅貨三銭をもってかいより始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人ひとびとの前に差し出して、渠はあまねく義捐ぎえんを募れり。
 あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
 美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人はことばひくうして挨拶あいさつせり。
「とんだおき合いで、どうもおきのどく様でございます」
 美人はかろく会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬ひしおぜの紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
 余所目よそめたる老夫はいたく驚きてかおそむけぬ、世話人は頭をきて、
「いや、これは剰銭おつりが足りない。私もあいにくこまかいのが……」
 と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
 世話人はあきれて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
 これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財きれはなれ婦女子おんなに似気なきより、いよいよ底気味悪くいぶかれり。
 世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
しめて金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
 渠は気軽に御者の肩をたたきて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
 御者は流眄ながしめに紙包みを見遣みやりて空嘯そらうそぶきぬ。
「酒手で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘をふところにせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的こころありげに御者のおもてながめたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
 車は徐々として進行せり。
いただく因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入ちんにゅうせんとせり。渠はかたこばみて、
「思し召しはありがとうございますが、規定きめの賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由わけがございません」
 世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
理由わけ糸瓜へちまもあるものかな。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものをもらって済まないと思ったら、一骨折って今の腕車くるまいてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
 世話人は冷笑あざわらいぬ。
「そんなりっぱな口を[#「口+世」、16-16]いたって、約束が違や世話はねえ」
 御者はきと振りかえりて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車よりはやいという約束だぜ」
 儼然げんぜんとして御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、このねえさんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大ばくだいな酒手もはずもうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻うごめかして世話人は御者のそびらを指もてきぬ。渠は一言いちごんを発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくになじれり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
 なお渠は緘黙かんもくせり。そのくちびるを鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄ばていたちまち高くぐれば、車輪はそのやぼねの見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上のなみられて、浮沈のき目にいぬ。
 縦騁しょうてい五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動いするぎはもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗おくれを取らざるを得ざるべきなり。あわれむべし過度の※(「(矛+攵)/馬」、第4水準2-92-92)ちぶに疲れ果てたる馬は、力なげにれたる首をならべて、てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
 何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
 乗り合いは顔を見合わせて、このなぞを解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬にまたがりたり。
 魂消たまげたるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとくおもてあつめ、あけらかんとおとがいを垂れて、おそらくはにもるべからざるこの不思議の為体ていたらくを奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動ふるまいとを載せてましぐらにせ去りぬ。車上の見物はようやくわれにかえりて響動どよめり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の老夫は頭をり悼りつぶやけり。
「いや洒落しゃれどころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 不審のまゆあつめたるさきの世話人は、腕をこまぬきつつ座中を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事ただごとじゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全くけ落ちですな。どうもあの女がさ、尋常ただねずみじゃあんめえとにらんでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用をかかえているからだだから、こうして安閑あんかんとしてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬でってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態ざまを見せられて、置き去りをうやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯ふざけ真似まねをする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
 やっこは途方に暮れて、さきより車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
きてるものの動かないという法があるものか」
臀部けつっぺたぱたけ引っ撲け」
 奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
 腹立つ者、無理言う者、呟く者、ののしる者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身にあつまれり。渠はさんざんにさいなまれてついに涙ぐみ、身のき所に窮して、辛くも車のあとすくみたりき。乗り合いはますますさわぎて、敵手あいてなき喧嘩けんかに狂いぬ。
 御者は真一文字に馬を飛ばして、雲をかすみと走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰にすがりつ。風は※々しゅうしゅう[#「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」、20-11]両腋りょうえきに起こりて毛髪ち、道はさながらかわのごとく、濁流脚下に奔注ほんちゅうして、身はこれ虚空をまろぶに似たり。
 渠は実に死すべしとおもいぬ。しだいに風み、馬とどまると覚えて、直ちに昏倒こんとうして正気しょうきを失いぬ。これ御者が静かに馬よりたすけ下ろして、茶店の座敷にき入れたりしときなり。渠はこの介抱をあるじおうなたのみて、その身は息をもかず再び羸馬るいばむちうちて、もと来しみちを急ぎけり。
 ほどなく美人はめて、こは石動の棒端ぼうばななるをさとりぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗にたずねて、金さんなるを知りぬ。その為人ひととなりを問えば、方正謹厳、その行ないをただせば学問好き。

       二

 金沢なる浅野川のかわらは、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛けつらねて、猿芝居さるしばい、娘軽業かるわざ山雀やまがらの芸当、剣の刃渡り、き人形、名所ののぞ機関からくり、電気手品、盲人相撲めくらずもう、評判の大蛇だいじゃ天狗てんぐ骸骨がいこつ、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるにいとまあらず。
 なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸みずげいなり。太夫たゆう滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称あいかないて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当えいとうたり。
 時まさに午後一時、撃柝げきたく一声、囃子はやしは鳴りをしずむるとき、口上はかれがいわゆる不弁舌なる弁をふるいて前口上をわれば、たちまち起こる緩絃かんげん朗笛のせつみて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結やっこもとゆい掛けて、脂粉こまやかに桃花のびをよそおい、朱鷺とき縮緬ちりめん単衣ひとえに、銀糸のなみ刺繍ぬいある水色※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもを着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々にわめきぬ。
「いよう、待ってました大明神だいみょうじん様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢あらし!」
「ここな命取り!」
 喝采やんやの声のうちに渠はしずかにおもてもたげて、情を含みて浅笑せり。口上は扇をげて一咳いちがいし、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調こてしらべとして御覧に入れまするは、露にちょうの狂いをかたどりまして、(花野のあけぼの)。ありゃ来た、よいよいよいさて」
 さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手ゆんでりて、右手めてには黄白こうはく二面の扇子を開き、やと声けて交互いれちがいに投げ上ぐれば、露を争う蝶一双ひとつ、縦横上下にいつ、逐われつ、しずくこぼさず翼もやすめず、太夫の手にもとどまらで、空にあや織る練磨れんまの手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声だみごえ高くよばわりつつ、外面おもての幕を引きげたるとき、演芸中の太夫はふとかたに眼をりたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
 口上は狼狽ろうばいして走り寄りぬ。見物はその為損しそんじをどっとはやしぬ。太夫は受けめたる扇を手にしたるまま、そのひとみをなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
 口上はいよいよ狼狽して、ん方を知らざりき。見物はあきれ果てて息をおさめ、満場ひとしくこうべめぐらして太夫の挙動ふるまいを打ちまもれり。
 白糸は群れいる客を推しけ、き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
 あわただしく木戸口に走り出で、うなじを延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼わかものあり。
 何事や起こりたると、見物は白糸のあとより、どろどろと乱れ出ずる喧擾ひしめきに、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてそのおもてを見るを得たり。渠は色白く瀟洒いなせなりき。
「おや、違ってた!」
 かく独語ひとりごちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。

       三

 はすでに十一時に近づきぬ。かわら凄涼せいりょうとして一箇ひとり人影じんえいを見ず、天高く、露気ろきひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
 熱鬧ねっとうきわめたりし露店はことごとく形をおさめて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いをるる燈火ともしびは、かすかに宵のほどの名残なごりとどめつ。かわは長く流れて、向山むこうやまの松風静かにわたところ、天神橋の欄干にもたれて、うとうとと交睫まどろ漢子おのこあり。
 かれは山にり、水に臨み、清風をにない、明月をいただき、了然たる一身、蕭然しょうぜんたる四境、自然の清福を占領して、いと心地ここちよげに見えたりき。
 折から磧の小屋よりあらわれたる婀娜者あだものあり。紺絞りの首抜きの浴衣ゆかたを着て、赤毛布ゲットを引きまとい、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄げた爪頭つまさき戞々かつかつこいし蹴遣けやりつつ、流れに沿いて逍遥さまよいたりしが、瑠璃るり色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
 川風はさっと渠のびんを吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
 しかと毛布ケットまといて、渠はあたりを※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色けしきなもんだ」
 渠は再び徐々として歩を移せり。
 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠はたごを取らずして、小屋を家とせるものすくなからず。白糸もなり。
 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄あずまげたの音は天地の寂黙せきもくを破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛おかしさに、なおしいて響かせつつ、橋のなかば近く来たれるとき、やにわに左手ゆんでげてその高髷たかまげつかみ、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
 暴々あらあらしく引きほどきて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
 かくて白糸は水をき、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾ちんきんとして露下月前に快眠せる漢子おのこは、数歩のうちにありて※(「鼻+句」、第4水準2-94-72)いびきを立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
 囃子方はやしかたに新という者あり。宵よりでていまだ小屋にかえらざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)のぞきたり。
 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌そうぼうはかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつまさること千の新なるべき異常の面魂つらだましいなりき。
 そのまゆは長くこまやかに、ねむれる眸子まなじり凛如りんじょとして、正しく結びたるくちびるは、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽しゅんそうなるを語れり。漆のごとき髪はややいて、広きひたいに垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えずそよげり。
 つくづくながめたりし白糸はたちまち色をして叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者ぎょしゃなり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
 渠は跫音あしおとを忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
 恍惚こうこつとしてひとみを凝らしたりしが、にわかにおのれがまといし毛布ケットを脱ぎてけたれども、馭者は夢にも知らで熟睡うまいねせり。
 白糸は欄干に腰をやすめて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」ひざのあたりをはたとてり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚めさまして、あくびまじりに、
「ああ、寝た。もう何時なんどきか知らん」
 思い寄らざりしわがかたわらになまめける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
 馭者は愕然がくぜんとして顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ケットありて、深夜の寒をまもれり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
 白糸は微笑えみを含みて、あきれたる馭者のおもてつつ、
「夜露に打たれるとからだの毒ですよ」
 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌ごきげんよう」
 いよいよあきれたる馭者は少しく身を退すさりて、仮初かりそめながら、狐狸変化こりへんげのものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ちながめたる渠の眼色めざしは、ひそめる眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑かたほえみて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者はこうべを傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
 馭者はいたく驚けり。月下の美人生面せいめんにしてわが名をる。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸こりの類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いいとこで!」
 そでおおいて白糸は嫣然えんぜん一笑せり。
 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けしこうべを正して言えり。
「抱いた記憶おぼえはないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走かけっくらをして、石動いするぎ手前からおまえさんに抱かれて、馬上うまの合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手よこでちて、馭者は大声たいせいを発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
 馭者は脣辺しんぺんに微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまでおもい出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上うまの合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵すうしょの鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日いつ、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓しこりょうかくとして、ただ山水と明月とあるのみ。※(「風にょう+繆のつくり」、第4水準2-92-40)りょうれいたる天風てんぷうはおもむろに馭者の毛布ケットひるがえせり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄ながしめ見遣みやりぬ。
「いや、それはともかくも、話説はなしをせんけりゃわからん」
 馭者は懐裡ふところさぐりて、油紙の蒲簀莨入かますたばこいれを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端をひらかんとせり。白糸は渠が吸い殻をはたくを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下ごんかに莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管がつまってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃いっきつを試みぬ。はたしてそのことばのごとく、煙管は不快こころわろやにの音のみして、けむりの通うこといとすじよりわずかなり。
「なるほどこれはつまってる」
「それで吸うにはよっぽど力がるのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷こよりひねりて、煙管を通し、溝泥どぶどろのごとき脂におもてしわめて、
「こら! 御覧な、無性ぶしょうだねえ。おまえさん寡夫やもめかい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶あいさつだ。でも、情婦いろの一人や半分はんぶんはありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝いっかつせり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯そらうそぶきぬ。
「おまえさんの壮年としで、独身ひとりみで、情婦がないなんて、ほんとに男子おとこ恥辱はじだよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
 馭者は傲然ごうぜんとして、
「そんなものはらんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除そうじができたから、一服いただこう」
 白糸はまず二服をきっして、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「またつまったときは、いつでも持ってお出でなさい」
 大口いて馭者は心快こころよげに笑えり。白糸は再び煙管をりて、のどかにけぶりを吹きつつ、
「今の顛末はなしというのを聞かしてくださいな」
 馭者はうなずきて、立てりしすがたを変えて、斜めに欄干にり、
「あのとき、あんな乱暴をって、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜くやしがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
 美人はまゆげて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟りくつなんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩けんかを仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便おんびんがいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
 白糸は身にむ夜風にわれとわが身をいだきて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
 渠は慰むることばなきがごとき面色おももちなりき。馭者は冷笑あざわらいて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
 美人は愁然として腕をこまぬきぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨ぶらついていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁べっとうの口でもあるだろうと思って、さがしに出て来た。今日きょうも朝から一日奔走かけあるいたので、すっかりくたびれてしまって、晩方一風呂ひとっぷろはいったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼すずみに出掛けて、ここで月をていたうちに、いい心地こころもちになってこんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者はかしらりぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
生得うまれからの馬丁でもないさ」
 美人は黙してうなずきぬ。
愚痴ぐちじゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづくながめて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細しさいがあって、幼少ちいさいころにうちは高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺おやじくなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止やめさ。それから高岡へかえってみると、その日からかせぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中のからだだろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父おやじは馬の家じゃなかったけれど、大の所好すきで、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児こどもの時分稽古けいこをして、少しは所得おぼえがあるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計くらしを立てているという、まことにずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡りょうけんでもない、目的も希望のぞみもあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々ぼうぼうたる天を仰ぎて、しばらく悵然ちょうぜんたりき。その面上おもてにはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情にえざる声音こわねにて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望のぞみというのは、私たちには聞いてもわかりはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸はかろく小ひざちて、
黄金かねの世の中ですか」
「地獄の沙汰さたさえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、おでなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このときおどるばかりにゆらめきぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろおののきたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性ましょうのものをめたりけり。さきに半円の酒銭さかてを投じて、他の一銭よりもしまざりしこの美人のたんは、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※(「目+登」、第3水準1-88-91)とうもくせし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出ほとばしらん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸こりか、変化へんげか、魔性か。おそらくは※脂えんし[#「月+因」、35-8]の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人のこころをそのおもてに読まんとしたりしが、あたわずしてついにうめき出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有けうなる面色おももちにて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚につばするがごとく独語ひとりごちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番ひとつ私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなにかんがえることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁ゆかりもないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければかえさんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩おんがえしができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父おじさんがあるのじゃなし、知りもしない人をつかまえて、やたらにお金をみついでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生ごしょうだから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何もるものじゃない。私はおまえさんの希望のぞみというのが※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かないさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩おんがえしさ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物ひとになれるとおもうから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 そのおん柔媚じゅうびなれども言々風霜をさしはさみて、りんたり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠はきんを正して、うやうやしく白糸の前にかしらを下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面にあふるるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいなことばつかわれると、私は気がつまるから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々りりしくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つこまったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地ここちしつつ耳を傾けたり。白糸は誠をおもてあらわして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩おんがえしには、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望のぞみはありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かないさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望のぞみを遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩おんがえしになるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
 かく言いつつ美人は微笑ほほえみぬ。
「いや、理屈りくつを言うわけではないがね、目的を達するのを報恩おんがえしといえば、乞食こじきも同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭をもらった報恩おんがえしになるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
 とみには返すことばもなくて、白糸はかしられたりしが、やがて馭者のおもてを見るがごとく見ざるがごとく※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)うかがいつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はややかたちを正せり。
「ちっとずかしいことさ」
「なんなりとも」
いてくださるか。いずれおまえさんの身にかなったことじゃあるけれども」
「一応いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
 白糸はびんおくれをき上げて、いくぶんの赧羞はずかしさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ちまもりつつ、固唾かたずみてその語るを待てり。白糸は始めに口籠くちごもりたりしが、直ちに心を定めたる気色けしきにて、
処女きむすめのようにずかしがることもない、いいばばあのくせにさ。私の所望のぞみというのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君おかみさんにしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯しょうがい親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
 涼しきと凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の※(「石+薄」、第3水準1-89-18)ほうはくは、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町かたはらまちで、村越欣弥むらこしきんやという者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
 白糸ははたとことばつまりぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっとこまったねえ」
「だって、うちのないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
 天下に家なきは何者ぞ。乞食こつじきの徒といえども、なおかつ雨露をしのぐべきかげに眠らずや。世上のならいをもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿たまのこしに乗るべきなり。しかるを渠は無宿やどなしと言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるにはかず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人はかわらの小屋を指させり。
 馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑えみを含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とはかわっている」
 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思いけざりき、すくなくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心をみておのれをあざけりぬ。
「あんまりかわりすぎてるわね」
「見世物の三味線しゃみせんでもいているのかい」
「これでも太夫元たゆうもとさ。太夫だけになお悪いかもしれない」
 馭者は軽侮けいぶの色をもあらわさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目きまりが悪いからさ」
 馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
 かく言いつつ珍しげに女のおもて※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)のぞきぬ。白糸はさっとあからむ顔をそむけつつ、
「ああもうたくさん、堪忍かにしておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
 白糸は渠のことばを手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情ふぜいにて、欣弥はうなずけり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥をきたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳いくつになるのだ」
「おまえさん何歳いくつになるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもうばばあだね」
何歳いくつさ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳はたちぐらいかとおもった」
「何かおごりましょうよ」
 白糸は帯の間より白縮緬ちりめん袱紗ふくさ包みを取り出だせり。ひらけば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけげておきますから、うち処置かたをつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
うちの処置といって、別に金円かねるようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
全額みんなもらったらおまえさんがこまるだろう」
「私はまた明日あすはいる口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
 欣弥は受け取りたる紙幣をかろいただきてふところにせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥いちべつして、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
 渠は愚弄ぐろうの態度を示して、両箇ふたりのかたわらに立ちまりぬ。白糸はわずかに顧眄みかえりて、つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人いちにん乗りに同乗あいのりができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
 おもしろ半分に※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつわるを、白糸は鼻のさきあしらいて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。ひとのことよりは、早くかえって、内君うちのでもよろこばしておやんな」
 さすがに車夫もこの姉御のくみしやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
 渠は直ちにきびすめぐらして、鼻唄はなうたまじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫くるまや!」とにわかに呼びめたり。
 車夫しゃふかしらを振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木ふしきまで行くか」
 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
 伏木はけだし上都じょうとの道、越後直江津えちごなおえつまで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐにとうと思う」
「これから※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と白糸はさすがにむねとどろかせり。
 欣弥は頷きたりしかしらをそのままれて、見るべき物もあらぬ橋の上にひとみを凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若いしゅさん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
 渠が紙入れをさぐるとき、欣弥はあわただしく、
車夫くるまや、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
 五銭の白銅をりて、まさに渡さんとせり。欣弥はそのなかに分け入りて、
「少し都合があるのだから、これからってくれ」
 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるをさとりて、潔く未練をてぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
 このとき両箇ふたりまなこは期せずして合えり。
「そうしておかあさんには?」
「道で寄って暇乞いとまごいをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯ふざけでないよ」
 欣弥はすでに車上にありて、
車夫くるまや、どうだろう。二人乗ったらこわれるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。ねえさんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
 欣弥は手招けば、白糸は微笑ほおえむ。その肩を車夫はとんとちて、
「とうとうおつな寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。

       四

 滝の白糸は越後の国新潟にいがたの産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間わざを離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入りかなわざるなきがゆえに、四方の金主きんすかれを争いて、ついにためしなき莫大ばくだいの給金を払うにいたれり。
 渠は親もあらず、同胞はらからもあらず、情夫つきものとてもあらざれば、一切いっさいの収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放かったつごうほうの気は、この余裕あるがためにますます膨張ぼうちょうして、十金じっきんれば二十金にじっきんを散ずべき勢いをもって、得るままにき散らせり。これ一つには、金銭を獲るのかたきを渠は知らざりしゆえなり。
 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越ほうえつして鉄拐てっかとなりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳いくとせをのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、はしを控えて渠が饋餉きしょうを待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
 従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨をひしぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄をじ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をばたもちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年みとせの長きにわたれり。
 あるいは富山とやまき、高岡に買われ、はた大聖寺だいしょうじ福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身をいとわず八方にかせまわりて、幸いにいずくもはずさざりければ、あるいは血をもそそがざるべからざる至重しちょうの責任も、その収入によりて難なく果たされき。
 されども見世物のたぐいは春夏の二季を黄金期とせり。秋はようやく寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国のせつ世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居ちっきょせざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采やんやは全く暑中にありて、冬季は坐食す。
 よし渠は糊口ここうに窮せざるも、月々十数円の工面くめんは尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなきそでを振りける? 魚は木にりて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。
 その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方ふさがりて、融通の道も絶えなむとせり。
 翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なるわざとをもって、希有けうの人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調ととのいき。
 白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円をあましてけり。これをもってせば欣弥母子おやこが半年の扶持に足るべしとて、渠はひそみたりし愁眉しゅうびを開けり。
 されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
 渠の希望のぞみはすでに手のとどくばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月をささうるを得ば足れり。無頓着むとんじゃくなる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとはさざりき。その約にそむかざらんことをおそるる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるにもっぱらなりき。
 かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を※(「門<癸」、第3水準1-93-53)わりたりしは、一時になんなんとするころなりき。白昼ひるまを欺くばかりなりし公園内の万燈まんどうは全く消えて、雨催あまもよいそらに月はあれども、四面※(「さんずい+翁」、第4水準2-79-5)おうぼつ[#「さんずい+孛」、49-15]としてけぶりくがごとく、淡墨うすずみを流せる森のかなたに、たちまち跫音あしおとの響きて、がやがやとののしる声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れのあとに残りて語合かたらう女あり。
「ちょいと、お隣の長松ちょうまつさんや、明日あしたはどこへ行きなさる?」
 年増としまいだけるさるの頭をでて、かくたずねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首ろくろくびの因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
 年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公ちょんこのほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
 渠はいだきし猿を放ちりぬ。
 折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被ほおかぶりせる男の顔は赤くあらわれぬ。黒き影法師も両三箇ふたつみつそのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視すかしみて、
「おや、出刃打ちの連中があすこにやすんでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後うしろに声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
 旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ちまりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、ねえさん」
「参りましょうかね」
 両箇ふたりの女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇だいじゃかごに入れてになう者と、馬にまたがりて行く曲馬芝居の座頭ざがしらとを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹らくえきとして森蔭もりかげに列を成せるそのさまは、げに百鬼夜行一幅の活図かっとなり。
 ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃しんすいとして月色ますますくらく、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、※(「谷+含」、第4水準2-88-88)こだまに響き、水に鳴りて、魂消たまぎ一声ひとこえ
「あれえ!」

       五

 水は沈濁して油のごときかすみいけみぎわに、生死も分かずたおれたる婦人あり。四ゆるめてつち領伏ひれふし、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようようまくらを返して、がっくりとかしられ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ちがりて、※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)よろめたいをかたわらなる露根松ねあがりまつからくもささえたり。
 その浴衣ゆかたは所々引き裂け、帯は半ばほどけてはぎあらわし、高島田は面影をとどめぬまでに打ちくずれたり。こはこれ、盗難にえりし滝の白糸が姿なり。
 渠はこの夜の演芸を※(「門<癸」、第3水準1-93-53)わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫まどろみたりき。一座の連中は早くも荷物を取まとめて、いざ引き払わんと、太夫たゆうの夢をびたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けとうつつに言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常へいぜいりければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
 ほど経て白糸は目覚めざましぬ。この空小屋あきごやのうちに仮寝うたたねせし渠のふところには、欣弥が半年の学資をおさめたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静しずかなるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿におもむかんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭よりおどり出ずる人数にんずあり。
 みなこれ屈竟くっきょう大男おおおのこ、いずれも手拭てぬぐいにおもてつつみたるが五人ばかり、手に手にぎ澄ましたる出刃庖丁でばぼうちょうひさげて、白糸を追っ取り巻きぬ。
 心剛こころたしかなる女なれども、渠はさすがに驚きてたたずめり。狼藉者ろうぜきもの一個ひとり濁声だみごえを潜めて、
「おう、ねえさん、懐中ふところのものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
 かく言いつつ他の一個ひとりはその庖丁を白糸の前にひらめかせば、四ちょうの出刃もいっせいにきらめきて、女のを脅かせり。
 白糸はすでにその身は釜中ふちゅうの魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きてはのがるることかたし。
 渠はその平生へいぜいにおいてかつ百金をしまざるなり。されども今夜ふところにせる百金は、尋常一様の千万金にあたいするものにして、渠が半身の精血ともっつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれをるの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達かったつの女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
 白糸は死守せんものと決心せり。渠のくちびるは黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これはられないよ」
れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
っつけろ、遣っつけろ!」
 その声を聞くとひとしく、白糸は背後うしろより組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸もひしぐるばかりの翼緊はがいじめにえり。たちまちあらくれたる四隻よつの手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とをかきさがせり。
「あれえ!」と叫びてすくいを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個ひとりの賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声はこた[#「應」の「心」に代えて「言」、53-13]えぬ。
 白糸は猿轡さるぐつわはまされて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身をもだえて、えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力はゆるみぬ。すかさず白糸は起きかえるところを、はたと※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)けたおされたり。賊はそのひまに逃げせて行くえを知らず。
 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついにかえらざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、ゆるがごとく、万感のむねくに任せて、無念かたなき松の下蔭したかげに立ち尽くして、夜のくるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念あきらめるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 渠はひしとわが身をいだきて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々ようようたる霞が池は、霜の置きたるように微黯ほのぐらき月影を宿せり。
 白糸の眼色めざしはその精神の全力をあつめたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水のおもたり。
「ええ、もうなんともかともえないいやな心地こころもちだ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛ばんこくの水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉よろよろみぎわに寄れば、足下あしもとに物ありてきらめきぬ。思わず渠の目はこれにとどまりぬ。出刃庖丁なり! 
 これ悪漢が持てりし兇器きょうきなるが、渠らは白糸を手籠てごめにせしとき、かれこれ悶着もんちゃくの間に取りおとせしを、忘れて捨て行きたるなり。
 白糸はたちまち慄然りつぜんとして寒さをおぼえたりしが、やがて拾い取りて月にかざしつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
 この証拠物件をたるがために、渠はその死を思いとどまりて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこのみぎわを離れて、渠は推したおされたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然ぼつぜんとして起これり。繊弱かよわ女子おんなの身なりしことの口惜くちおしさ!  男子おとこにてあらましかばなど、言いがいもなき意気地いくじなさをおもい出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
 渠は再び草の上に一物あるものを見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地あさぎじに白く七宝つなぎの洗いざらしたる浴衣ゆかた片袖かたそでにぞありける。
 またこれ賊の遺物なるを白糸はさとりぬ。けだし渠が狼藉ろうぜきふせぎし折に、引きちぎりたる賊のきぬの一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃をつつみて懐中ふところに推し入れたり。
 夜はますますけて、そらはいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下あしもとくさむらより池にね込むかわずは、つぶてを打つがごとく水を鳴らせり。
 行く行くうなじれて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらがつかまろうか。捕ったところで、うまく金子かねが戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことをあてにしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うにこまってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金がかなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情わけだとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺おやじだもの。のべつに小癪こしゃくさわることばっかりならべやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何よりつらい! といって才覚のしようもなし。……」
 陰々として鐘声のわたるを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
 白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身をもたせたるは、未央柳びおうりゅうの長くれたるひのき板塀いたべいのもとなりき。
 こはこれ、公園地内に六勝亭ろくしょうていと呼べる席貸せきがしにて、主翁あるじは富裕の隠居なれば、けっこう数寄すきを尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
 白糸がたたずみたるは、その裏口の枝折しおり門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸をさでありければ、渠がもたるるとともに戸はおのずから内にひらきて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
 渠はしばらく惘然ぼうぜんとして佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわせり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮ねしずまりたる気勢けはいなり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然のしげり」を出でて、「井戸囲い」のほとりにいたりぬ。
 このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目をぬすみて他の門内に侵入するは賊の挙動ふるまいなり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
 ここに思いいたりて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりしとうというなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これなにがしらがこの手段に用いたりし記念かたみなり。白糸は懐に手を差し入れつつ、かしらを傾けたり。
 良心は疾呼しっこして渠を責めぬ。悪意は踴躍ゆうやくして渠を励ませり。渠は疾呼の譴責けんせきいては慚悔ざんかいし、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸のたのむべからざるを知りて、ついにたがいにたたかいたりき。
「道ならないことだ。そんな真似まねをした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚はじも顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金はろう。盗ってそうして死のう死のう!」
 かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれをゆるさざりき。渠の心は激動して、渠の身は波にゆらるる小舟おぶねのごとく、安んじかねて行きつ、もどりつ、塀ぎわに低徊ていかいせり。ややありて渠は鉢前はちまえ近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事くせごとを行なわんとはせざりしなり。かれは再び沈吟せり。
 良心にわれて恐惶きょうこうせる盗人は、発覚を予防すべき用意にいとまあらざりき。渠が塀ぎわに徘徊はいかいせしとき、手水口ちょうずぐちひらきて、家内の一個ひとりは早くすでに白糸の姿を認めしに、渠はおそくも知らざりけり。
 鉢前の雨戸は不意に啓きて、人はおもてあらわせり。白糸あなやと飛び退すさひまもなく、
偸児どろぼう!」と男の声はさけびぬ。
 白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとくとどろけり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手めてひらめきて、縁に立てる男の胸をば、つかとおれと貫きたり。
 戸をひしめかして、男は打ちたおれぬ。あけに染みたるわが手を見つつ、重傷いたでうめく声を聞ける白糸は、戸口に立ちすくみて、わなわなとふるいぬ。
 渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞ふるまいをなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男はたおれたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
 白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後うしろに、
「あなた、どうなすった?」
 と聞こゆるは寝惚ねぼれたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣みやりぬ。
 灯影ひかげは縁を照らして、跫音あしおとは近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)うかがいぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿ねまきすがたのしどけなく、真鍮しんちゅう手燭てしょくかざして、覚めやらぬ眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらかんとおもてひそめつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸しがいに近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんなとこに寝て……どうなすっ。……」
 あかしを差し向けて、いまだその血に驚くいとまあらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁をき付けたり。
 内儀は賊の姿を見るより、ペったりとひざを折り敷き、その場に打ちして、がたがたとふるいぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君おかみさん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
 俯していらえなき内儀のうなじを、出刃にてぺたぺたとたたけり。内儀は魂魄たましいも身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとはらないんだ。百円あればいい」
 内儀はせつなき呼吸いきの下より、
金子かねはあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
 出刃庖丁は内儀のほおを見舞えり。渠はますます恐怖して立つあたわざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
 渠は立たんとすれども、その腰はがらざりき。されども渠はなお立たんとあせりぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとどあわてつ、もだえつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間ふたまを隔つる奥に伴いて、内儀は賊のもとむる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡さるぐつわめてておくれ」
 渠は内儀をいましめんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地ひとごこちあらざるまでに恐怖したりし主婦あるじは、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊はあらくれたる大のおのこにはあらで、軆度とりなり優しき女子おんなならんとは、渠は今その正体を見て、くみしやすしと思えば、
偸児どろぼう!」と呼びけて白糸に飛びかかりつ。
 自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁のを返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手をじ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手にみ着き、片手には庖丁振りげて、再び柄をもて渠の脾腹ひばらくらわしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴じだたらを踏みて、内儀はなおあららかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
 これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀ののんど目懸めがけてただ一突きと突きたりしに、ねらいをはずして肩頭かたさきりたり。
 内儀は白糸の懐に出刃をつつみし片袖をさぐてて、引っつかみたるままのがれんとするを、畳み懸けてそのかしらり着けたり。渠はますます狂いて再びわめかんとしたりしかば、白糸はあたるを幸いめったりにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐ちしおを見ざりき。一坪の畳は全くあけに染みて、あるいは散り、あるいはほとばしり、あるいはぽたぽたとしたたりたる、そのあとは八畳の一間にあまねく、行潦にわたずみのごとき唐紅からくれないの中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、こぶしを握り、歯をめてのけざまに顛覆うちかえりたるが、血塗ちまぶれの額越ひたいごしに、半ば閉じたるまなこにらむがごとくえて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
 白糸は生まれてより、いまだかかる最期さいご愴惻あさましきを見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業しわざなるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸はおもえり。渠の心は再び得堪えたうまじく激動して、その身のいまや殺されんとするをのがれんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしきおもいして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げつるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急こころせくまま手水口の縁に横たわるむくろのひややかなるあしつまずきて、ずでんどうと庭前にわさきまろちぬ。渠は男のよみがえりたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
 風やや起こりて庭の木末こずえを鳴らし、雨はぽっつりと白糸のおもてを打てり。

       六

 高岡石動いするぎ間の乗り合い馬車は今ぞ立野たてのより福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個ひとり煙草火たばこびりし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
 かれは話好きと覚しく、
「へへ、何か公務おつとめむきの御用で」
 その人はひげたくわえて、洋服を着けたるより、かれはかく言いしなるべし。官吏?は吸いめたる巻煙草を車の外に投げて、次いでいそがわしくつば吐きぬ。
「実は明日あすか、明後日あさってあたり開くはずの公判をこうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
 渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人たびあきゅうどは、卒然われがおくちばしれたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
 髭ある人はまなこを「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事くわしいことは存じませんで。じゃあの賊は逮捕つかまりましてすか」
 話を奪われたりし前の男も、思いあたる節やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説うわさがございましたっけ。有福かねもちの夫婦をり殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
 髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
 渠は話児はなしを釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末てんまつを聞かんとせり。乙者おつも劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本ぜっぽんはようやくやわらぎぬ。
「賊はじきにその晩られた」
「こわいものだ!」と甲者こうは身をらしてかしらりぬ。
「あの、それ、南京ナンキン出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
 乙者おつは直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶんりかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査がとがめるとこそこそげ出したから、こいつ胡散うさんだと引っとらえて見ると、着ている浴衣ゆかた片袖かたそでがない」
 談ここにいたりて、甲と乙とは、思わず同音にうめきぬ。乗り合いは弁者の顔を※(「(虍/助のへん)+見」、第4水準2-88-41)うかがいて、その後段を渇望せり。
 甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
 弁者はこの訛言かたごとをおかしがりて、
天網恢々てんもうかいかい疎にして漏らさずかい」
 甲者は聞くより手をげて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
 乗り合いの過半おおくはこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁あるじ桐田きりたという金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業しわざだか、いや、それは、実に残酷にられたというね。亭主は鳩尾みぞおちのところを突きとおされる、女房は頭部あたまに三箇所、肩に一箇所、左の乳の下をえぐられて、たおれていたその手に、男の片袖をつかんでいたのだ」
 車中声なく、人は固唾かたずみて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸しがいのかたわらに出刃庖丁でばぼうちょうが捨ててあった。の所に片仮名かたかなのテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちのつかっていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違ちがいないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
 旅商人はひざを進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
 弁者はたちまち手をげてこれをおさえぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田のかど通過とおりもしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者はまゆを動かして、弁者を凝視みつめたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨まきたばこを取り出だして、くちびるに湿しつつ、
「話はこれからだ」
 左側さそくの席の前端まえはしに並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせてたがいに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台ふしせんだいはかま穿きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装いでたちにはあらざるなり。されどもその相貌そうぼうとその髭とは、多くべからざる紳士の風采ふうさいを備えたり。
 弁者は仔細しさいらしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
 乙者はうなずき頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶うつくしいので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金をるときに、おおかたちぎられたのであろうが、自分は知らずにげたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女をおどすために持っていたのを、あわてて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟りくつには合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
 甲者は頬杖ほおづえ※(「てへん+主」、第3水準1-84-73)きたりしおもてはずして、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
 思いも寄らぬ弁者の好謔こうぎゃくは、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子かねを奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児どろぼうのほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡おおおか政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情わけがありそうです」
 乙者は首をひねりつつ腕をこまぬけり。例の「なるほど」は、はなしのますます佳境に入るを楽しめる気色けしきにて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどういたしました」
 傍聴者は声をおさめていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
 弁者はなおもことばを継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶひまがあったのだ。このあいだに出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕をふるって、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉てぐすねを引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
 甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色をせり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那だんな、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女になすろうという姦計たくみなんでございますか」
 弁者は渠の没分暁ぼつぶんぎょうを笑いて、
「何も姦計たくみだの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
 甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者をげいして、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手あいては女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだってかまやしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎をめ付けてやりまさあ」
 渠の鼻息はすこぶるあららかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
 と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑いむころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席をてり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃いんぎん一揖いちゆうして、
「おかげでおもしろうございました」
「どうも旦那だんなありがとう存じました」
 弁者は得々として、
「おまえさんがたもひまがあったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
 乗客は忙々いそがわしく下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りてたすけ下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車くるまでございます」
 渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員はたたずめり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてそのひとみを凝らせり。
 たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所れたる茶羅紗ちゃらしゃのチョッキに、水晶の小印こいん垂下ぶらさげたるニッケルめっき※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)くさりけて、柱にもたれたる役員の前にかしらを下げぬ。
「その後は御機嫌ごきげんよろしゅう。あいかわらずお達者で……」
 役員は狼狽ろうばいして身を正し、奪うがごとくその味噌漉みそこし帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきからているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手じょうずなりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
 老いたる役員はわが子の出世をるがごとくよろこべり。
 当時むかし盲縞めくらじまの腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。

       七

 公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁おうていらとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっとひらきて、躯高たけたかき裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事と一名の書記とはこれに続けり。
 満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音くつおとは四壁に響き、天井にこた[#「應」の「心」に代えて「言」、70-17]えて、一種の恐ろしき音をして、傍聴人の胸にとどろきぬ。
 威儀おごそかにかれらの着席せるとき、正面の戸は再びひらきて、高爽こうそうの気を帯び、明秀のかたちそなえたる法官はあらわれたり。渠はその麗しきひげひねりつつ、従容しょうようとして検事の席に着きたり。
 謹慎なる聴衆をれたる法廷は、室内の空気も熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服をまといたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。
 はじめ判事らが出廷せしとき、白糸はしずかにおもてげて渠らを見遣みやりつつ、おくせる気色けしきもあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色蒼白あおざめておののきぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年みとせの間夢寐むびも忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者ぎょしゃたりし日の垢塵こうじんを洗い去りて、いまやそのおもてはいと清らに、その眉はひときわひいでて、驚くばかりに見違えたれど、まがうべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会におどろきたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首をれたり。
 白糸はありうべからざるまでに意外のおもいをなしたりき。
 渠はこのときまで、一箇ひとりの頼もしき馬丁べっとうとしてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、濶達かったつ豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地いくじなきものとは想わざりしなり。
 渠はこの憤りと喜びと悲しみとにくじかれて、残柳の露にしたるごとく、哀れにしおれてぞ見えたる。
 欣弥のまなこひそかに始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年みとせの昔天神橋上月明げつめいのもとに、ひじりて壮語し、気を吐くことにじのごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
 恩人の顔は蒼白あおざめたり。そのほおけたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌かつはつはつ鉄拐てっかを表わせしに、今はその憔悴しょうすいを増すのみなりけり。
 渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐びょうじょくに横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでにえたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
 欣弥はこのていを見るより、すずろ憐愍あわれを催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠はこぶしを握りてまなこを閉じぬ。
 やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠のえんすすがんために、滔々とうとう数千言をつらねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽いんぺいせざらんように白糸をさとせり。渠はあくまで盗難にいし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
 検事代理はようやく閉じたりしまなこを開くとともに、悄然しょうぜんとしてうなじるる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、つつまず事実を申せ」
 友はわずかにおもてげて、額越ひたいごしに検事代理の色をうかがいぬ。渠は峻酷しゅんこくなる法官の威容をもて、
「そのほうは全く金子きんすられた覚えはないのか。虚偽いつわりを申すな。たとい虚偽をもって一時をのがるるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代なだいの芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽いつわりなどを申しては、その名に対しても実にずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数おおく贔屓ひいきもあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言ってめるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日きょう限り愛想あいそを尽かして、以来は道でおうともつばもしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯ひきょう千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
 かくさとしたりし欣弥の声音こわねは、ただにその平生をれる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸のうれわしかりしまなこはにわかに清く輝きて、
「そんなら事実ほんとうを申しましょうか」
 裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実はられました」
 ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? られたと申すか」
 裁判長はかろたくちて、きと白糸をたり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠てごめにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」

 これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
 検事代理村越欣弥は私情のまなこおおいてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩をかさねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求はなりとして、渠に死刑を宣告せり。
 一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、ながく恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居ぐうきょの二階に自殺してけり。
(明治二十七年十一月一日―三十日「読売新聞」)

底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「読売新聞」
   1894(明治27)年11月1日〜30日
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年10月23日公開
2005年12月24日修正
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