日本語と云うものが、地球上、余り狭小な部分にのみ通用する国語であると云うことは、文筆に携る者にとって、功利的に考えれば、第一、損な立場であると思います。
 使用上、所謂、敬語、階級的な感情、観念を現す差別の多いこと、女の言葉、男の言葉に著しい違いのある点、文字が見た眼には、字画がグロテスクで、実は精緻な直感に欠けていることなども不満としてあげられます。
 けれども、ペンをとり、物を書こうとする時、此、われ等の言葉ほど、親密に内奥の感じを表現し得るものが他にありましょうか。
 不満な諸点にかかわらず、その直接性に於て此よりよいと云うものは感じられない。テキスト・ブック、としてでなく、ローマ字で、小説も書く気には、到底なれません。落付いて考えて見ると或る国民を代表する程の文学者は、知的、感情的両方面に、自ら最もよく、その国語を使った者ではありますまいか。
 国語の性質、普及の範囲などと云うことは、純粋に芸術に没頭した場合、決して、第一浮んで来る問題ではないと思います。
〔一九二二年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「国学院雑誌」
   1922(大正11)年4月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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