伊香保いかほの事を書けと云ふ命令である。が、遺憾ゐかんながら伊香保へは、高等学校時代に友だちと二人ふたりで、赤城山あかぎさん妙義山めうぎさんへ登つたついでに、ちよいと一晩泊つた事があるだけなんだから、麗々れいれいしく書いて御眼おめにかける程の事は何もない。第一どんな町で、どんな湯があつたか、それさへもう忘れてしまつた。ただおぼろげに覚えてゐるのは、山にはびこる若葉の中を電車でむやみにのぼつて行つた事だけである。それから何とか云ふ宿屋へとまつたら、隣座敷に立派な紳士が泊り合せてゐて、その人が又非常に湯が好きだつたものだから、あくる日は朝から六度も一しよに風呂へ行つた。さうしたら腹の底からへとへとにくたびれて、廊下を歩くのさへ大儀になつた。けれどもくたびれた儘で、安閑あんかんと宿屋へ尻を据ゑてもゐられないから、その日の暮方くれがたその紳士と三人で、高崎の停車場までくだつて来たが、さて停車場へ来てみると、我々の財布には上野までの汽車賃さへ残つてゐない。そこではなはだ恐縮しながら、その紳士に事情を話して、たしか一円二十銭ばかり借用した。以上の如く伊香保と云つても、溪山けいざんの風光は更に覚えてゐないが、この紳士の記憶だけは温泉の話が出る度に必ず心に浮んで来る。何でも湯の中で話した所によると、この人は一にん乗りの小さな自働車を製造したいとか云ふ事だつた。今日の新聞で見ると、乗合自働車はもう出来たさうであるが、一にん乗りの小さな自働車が出来たと云ふ噂はどこにもない。今ごろあの紳士はどうしてゐるかしら。
(大正八年八月)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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