「ここまで来い。」
彼は楽々と逃げながら、鬼になつて来る彼女を振りかへつた。彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて来た。彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。
その顔は可也長い間、彼の心に残つてゐた。が、年月の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。
それから二十年ばかりたつた後、彼は雪国の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。窓の外が暗くなるのにつれ、沾めつた靴や外套のひが急に身にしみる時分だつた。
「暫くでしたね。」
彼は巻煙草を銜へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顔へ目を注いだ。近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の両親や兄弟のことを話してゐた。彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。と同時にいつの間にか十二歳の少年の心になつてゐた。
彼等は今は結婚して或郊外に家を持つてゐる。が、彼はその時以来、妙に真剣な彼女の顔を一度も目のあたりに見たことはなかつた。
(大正一五・一二・一)